2011年12月26日月曜日

ロンドンは向こう側,ここはル・アーヴル

『ル・アーヴル』
"LE HAVRE"


2011年フィンランド/ドイツ/フランス合作映画 
監督:アキ・カウリスマキ

主演:アンドレ・ウィルム,カティ・オウティネン,ジャン=ピエール・ダルーサン,ブロンダン・ミゲル
2011年カンヌ映画祭正式出品作(コンペティション)
フランス公開:2011年12月21日


 ル・アーヴルはノルマンディー地方にある欧州でも有数の陸揚げ量を誇る港町です。この町を舞台にした映画として当ブログでは2008年のお笑い大衆映画の『ディスコ』を紹介していますが,アキ・カウリスマキのこの映画は言うまでもなくお笑いではありまっせん。
 作家としての道を歩むことのできなかった老人マルセル・マルクス(アンドレ・ウィルム)は,港町ル・アーヴルの路上の靴磨きに身をやつしながらも,その安らかで清貧の生活を外国人妻アリエッティー(カティ・オウティネン),そして犬のライカと分かち合っています。しかし平静を装っていたアリエッティーには長い間マルセルに隠していた病気があり,ある日腹部に激痛を覚え倒れてしまいます。担ぎ込まれた病院で,医師ベッケル(なんとピエール・エテックスだ!)から不治の病いを宣告されますが,アリエッティーはそれをマルセルに隠し,精神力による闘病生活を始めるのです。
 港町ル・アーヴルに陸揚げされ,次の目的地への移動を待って積まれている無数のコンテナーのひとつの中に,密航者たちが潜んでいます。 そのアフリカから来たコンテナーの闇の中には数十人のアフリカ人密航者たちが極限の健康状態で息をひそめていますが,フランス警察はそれを見つけ,移民収容センターに連行します。しかしスキありと見るや,ひとりの少年が警察の網の目から抜けて逃走します。
 老靴磨きマルセルは昼食のサンドイッチを食べようと港の岸壁に腰掛けますが,海から声が聞こえます。腰まで水に浸かりながら港の運河づたいに逃げ道を探している少年が老人に尋ねます:
- ここはロンドンですか?
- ロンドンはこの海の反対側だ,ここはル・アーヴル。
 こうして老人と少年イドリサ(ブロンダン・ミゲル)は出会います。21世紀的今日のフランスに生きる人ならば,このアフリカの子がなぜ逃げているのかというのは説明を全く要さずに理解出来るでしょう。不法滞在者,密航者,サン・パピエ... 港町/海峡の町にはこういう通過者がゴマンといて,越境のチャンスを窺っています。映画は老人がアフリカ少年をかくまった時点で,一転して「レジスタンス映画」のような展開になります。マルセルの古くからの隣人仲間であるパン屋のおかみさん,バーの女主人,靴磨き仲間の中国人(と言いながら実はヴェトナム人。つまり偽証の身分証を持っている),アラブよろず屋の旦那,犬のライカ,これらが連帯しあってイドリサを保護します。それを追って迫るのは黒の帽子/黒のトレンチコートの警視モネ(ジャン=ピエール・ダルーサン)。このゲシュタポのような追求を手助けする「コラボ」のように陰険な密告者役で,なんとジャン=ピエール・レオー(!)が出ています。
 なぜイドリサはロンドンに行こうとしているのか? それはそこに母がいるからなのです。イドリサは文字通り母をたずねて三千里の旅をしているのです。
マルセルは漁船主の友人にイギリス渡航の手だてをつけさせますが,英仏海峡上で身柄をイギリス側の手配師に渡すという方法に三千ユーロの報酬が要求されます。こんな大金マルセルに出せるわけがない。バーの女主人とパン屋のおかみさんは「きれいな方法でお金集められるわよ,チャリティー・コンサートをすればいいのよ」と提案します。偽中国人チャンも「そうともリトル・ボブがやってくれるさ」と大賛成。
 お立ち会い,リトル・ボブ とは実在のアーチストで1970年代からル・アーヴルで「パブ・ロック」をやっているフランスでも有数の硬派のロックンローラーで,ル・アーヴルの名物男です。しかしリトル・ボブは恋人と破局したばかりで,悲しみに沈んでいます。「俺は彼女がいなければ歌えないんだ!」とリトル・ボブはバーのカウンターで焼け酒を飲んでいます。マルセルはリトル・ボブに彼女が帰ってきたら,イドリサのために歌ってくれるか,と頼みます。リトル・ボブが「ああ,ああ,何だってするよ」という返事をしたところで,振り返るとバーの戸口から恋人が登場します。ー ここのシーン,まるで60年代日活映画を見ているような美しさです。
 パワーを得たロックン・ローラー,リトル・ボブのカムバック・コンサートは大成功し,金は用意でき,あとはイドリサを船に乗せて出航させるのみ。ところが,イドリサが船倉に身を隠したところで,警察隊のサイレンが鳴り,警視モネが乗り込んできます....。

 この映画で奇跡は2度。イドリサの渡航成功と,妻アリエッティーの完治。これは映画を見る者がマルセルを真ん中にしたユートピアが出来上がっていくのを体験するファンタジーのような作品です。シンプルな人々のレジスタンスが成就するストーリーです。
 ル・アーヴルは第二次大戦末期にかのノルマンディー作戦で壊滅的な打撃を受け,戦後オーギュスト・ペレの設計で直線的で幾何学的な建築の町として復興し,2005年にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。この特徴的な町並みのために,ある種1940年代/50年代から時間が止まってしまった町のようにも見えます。アキ・カウリスマキはこれをまんまと利用して,おおむねレトロ(40年代/50年代) な雰囲気を醸し出す画面作りをしていますが,見ている者は,これが一体いつの時代のものなのか,時々タイムスリップさせられてしまいます。車だけをとりあげても,警視モネの車はルノー16(70年代),タクシーは50年代のプジョー,アリエッティーを病院に運ぶパン屋のおかみさんのバンには80年のヴィニェット(車税証)が貼ってあり,しかし警察機動隊の装備や車は21世紀のものなのです。登場する電話はダイヤル式ですし,誰も携帯電話など持っていないのです。もちろん不法滞在移民狩りは21世紀的現実です。しかしマルセルとその友人たちは,いろいろな時代を生きてきた「しわの数の多さ」を思わせる衣服/身なり/顔立ちなのです。この映画のマジックは,そういう時間/時代を超越した場面展開で形成される,いろいろな障壁を超越してしまった人間同士の連帯が,単純な人たちの単純なダイアローグでできてしまうということだ,と見ました。北欧エレキのような音楽も渋い。この暖かみはとても不思議です。

(↓『ル・アーヴル』予告編)



(↓『ル・アーヴル』の中のリトル・ボブのコンサート)


2011年12月24日土曜日

(Desperately...) ニコラ帝を探して

  
 12月21日、テレビARTEで放映されたウィリアム・カレル監督のドキュメンタリー映画『ルッキング・フォー・ニコラ・サルコジ』は、パリ駐在の外国プレスのジャーナリスト18人の証言で構成されたニコラ・サルコジのポートレイトです。
 国内の報道機関(ラジオ、テレビ、新聞、雑誌)の大手は2007年以来、サルコジとその近い友人たちがコントロールしていることは、当ブログのあちこちで書いています。エリゼ宮のチェック(検閲と言っていいでしょう)の手は国内プレスの隅々にまで及びます。ところが、その手は外国プレスにまでなかなか届かない。届いたところで、その口を封じるわけにはいかない。ということで、エリゼ宮は外国のプレスを嫌います。具体的には、大統領の内遊外遊の取材に外国プレスの同行を拒否したり、記者会見の記者席の席順で外国プレスを末席に置いたり、質問順に差をつけたりということです。外国プレスは一様にエリゼ宮のやり方に対して不満を抱いています。取材が思い通りにできないので、国内プレスを参照することになりますが、国内プレスが言わないことが(あるいは自粛していることが)たくさんあることを知っています。
 2007年5月に登場した新大統領に、18人の外国プレス記者の多くは、これが本当に自分なのかどうか半信半疑ではしゃぎ回っているやんちゃ坊主の姿を見ます。歴代大統領には見たこともない、ひとつところに留まることを知らない、あらゆるところに飛んで行き、あらゆる分野に言及し、あらゆる問題を解決しようとする過剰にエネルギッシュな大統領です。落ち着きがない。常に動き回っている。すべてをひとりで決める。首相と内閣は人形で,大臣の仕事を大臣にさせずに自分でやってしまう。何かあると大臣よりも先に現地に飛んでしまう。災害,惨事,事件....その現場に行き,生々しい(感情むき出しの)大統領声明を出してしまう。「二度とこの悲劇を繰り返してはならない」とその場で大統領が法を提案してしまう。自分の顔を誰よりも先に出さないと気がすまない。
 ベルギーの新聞ル・ソワールの記者は,当選時に早くも「フランスの大統領」ではなく「世界の大統領」としてのリーダーシップを振るおうとするサルコジの気分の高揚を見ます。「正義」と「民主主義」と「人権」を盾に,世界に対してものを言い,その権力を行使しようとする大統領です。
 ロシアのテレビNTVの記者は,当選前にはロシアがサルコジの親米姿勢を非常に警戒していて,当選後の露仏関係の悪化を懸念していたのですが,当選の夜コンコルド広場でミレイユ・マチューが歌うのを見て,(おおいに皮肉をこめて)「ソヴィエト時代から続いている露仏友好のシンボル的な大歌手ミレイユ・マチューがサルコジの隣で歌うのを見たら,今後の露仏関係も心配ないな,と思った」とコメントしています。
 プーチン,ブッシュ,フー・チンタオ,ブレアといった大役者たちの前に現われたこの新人スターは,大物としての自分の場所を早く確保したくて,国際舞台で目立とうとします。2007年7月,セネガルの首都ダカールでの演説でサルコジは「アフリカの悲劇,それはアフリカ人が人類史に十分に参入していないことである」と言います。サルコジはアフリカでアフリカ人を侮辱したのです。アフリカ・アンテルナショナルの記者はこの時点でサルコジは全アフリカを敵に回した,と断言します。「サルコジはアフリカを有益なものと考えずに,有害なものと決めつけた」と。
 そして私生活をあからさまにして,ゴシップ誌を賑わすことを政治利用するのです。セシリアとの別離,その一ヶ月後のカルラ・ブルーニとの恋仲,これをサルコジは「私は大統領であると同時に,ひとりの人間である」と言い訳します。J-F・ケネディになぞらえるのをむしろ自慢するように。ロシアNTVの記者は,プレス報道全体がサルコジの私生活の証人になってしまったことを「グロテスクでさえある」と評します。サルコジの失恋の悲劇と新しい恋人の出現はフランスの内憂外患よりも優先権のある報道材料になってしまったのですから。
 2008年1月,エリゼ宮の記者会見でサルコジはこう言います。"Carla et moi, c'est du sérieux." カルラと私は真剣な関係である。その場の記者全員およびその映像を見た全視聴者が,二人の婚約発表の立会人にされてしまったのです。これに先立つ(プライヴェートと言いながら報道陣連れの)二人のエジプト旅行の映像が映されます。カルラ・ブルーニの息子オーレリアン(ラファエル・エントヴェンとの子供)を肩車するサルコジと手をつないで歩くカルラ・ブルーニ。しかしサルコジの肩の上のオーレリアンは終始両目を手で覆い隠しています。これにイタリアのパノラマ誌の記者アルベルト・トスカーノはショックを受け,この二人はメディアを操作する術のすべてを知っている,と思うのです。
 米ニューヨーク・タイムズ,英エコノミスト誌,独ZDF,英BBC,スイスRTSR,英タイムズ,英インディペンデント紙,スペイン・エル・パイス紙,独シュピーゲル誌... ここに登場するジャーナリストたちは,一様にサルコジに対して手厳しい批評をします。それは「帝政」の出現を見てしまったからなのです。帝ひとりがすべてを決める国,帝の気分が国を動かしてしまう国,これはスペイン,イギリス,ベルギーといった君主のいる国のジャーナリストでも全く理解できないことなのです。
 帝であれば何でもできる,という最も端的な例が,当時23歳の大学生の息子,ジャン・サルコジをEPAD(ラ・デファンス地区開発公団)の総裁に推したことです。フランスの巨大企業の本社ビルが林立し,世界で最も重要なビジネス拠点のひとつであるラ・デファンスを開発管理する公の機関のトップに,法科の劣等生学生をあてがおうとしたのです。これには中国のCCTVのジャーナリストも「中国の本社から冗談ではないのか,という質問を受けた」 と笑います。
 経済危機の時代となり,親英/親米から大転換してドイツとの協調によるヨーロッパ主導に乗り換えたサルコジは,アンゲラ・メルケルと親密なカップル関係を築くようになります。対照的に異なる性格の二人の政治家が,少しずつ歩み寄ります。独シュピーゲルの記者がこういうエピソードを言います:「アンゲラ・メルケルの夫が,彼女にサルコジという人間はどういう性格なのか,ということを分かりやすく説明するためにクリスマスにフランス映画のDVDをプレゼントした。それはルイ・ド・フュネスの映画だった」。別証言でニューヨーク・タイムズの記者が「サルコジがいない時にメルケルがその物真似をしたんだ。これはルイ・ド・フュネスよ,と断ってね」。
 メルケルはタッチされたり接吻されたり抱擁されることが大嫌いなのだそうです。特にサルコジからそうされることが。(ニューヨーク・タイムズ記者の証言)
2010年7月のグルノーブルでの演説は,このドキュメンタリーに登場するジャーナリストたちの最も批難が集中するものでした。グルノーブル郊外で起きたカジノ強盗事件で,強盗犯のひとりが警官によって射殺されたことから,何夜にもおよぶ暴徒対機動隊の戦闘となったこと,次いでその2日後,ロワール・エ・シェール県サン・テニャンでロマの共同体に属する人間が,警官の検問を実力突破したという理由で警官に射殺され,その共同体の一団が報復で憲兵署などの公的機関の建物を襲撃し,その車を焼き払うという暴動事件があったこと,この二つの事件に猛烈に怒ったサルコジが,言わばあらゆる暴徒(そして不法滞在外国人)への宣戦布告のような激烈な演説をグルノーブルで行います。監視カメラの増設,公安従事公務員への暴力や殺人を冒した者への特別重刑,といった決定の他に,ロマへの特定制裁として,あらゆる違法野営キャンプの撤廃,ロマたちの出身国への大量強制送還が,この演説によって始まります。BBC記者は "Tête Brulée"という表現を用い,ZDF記者は"pitoyable"と呆れ,シュピーゲル記者は"ignoble"と憤怒し,ニューヨーク・タイムズ記者は "dégueulasse"と言い切ってしまいます(仏語わからない人たちは辞書引いてください)。フランスのジャーナリストたちはこういう表現でこの演説を報じたでしょうか。
 エル・パイス記者とル・ソワール記者は,この演説の狙いであるFN支持者層の取り込みを見てとった上に,UMP党とFN党の言説がほとんど変わらなくなっていることから,2012年の(ありえないわけではない)UMPとFNの共闘の可能性を予見します。

 2011年暮れ現在,社会党候補フランソワ・オランドと現大統領ニコラ・サルコジが2012年5月に決選投票となると想定した場合,各社世論調査を平均すると,オランド57% vs サルコジ43% の得票となるようです。(資料:Songages en France ) この傾向を覆せるとすれば,UMPとFN(現在マリーヌ・ルペンの第一次選挙得票率予想は16〜20%)しかないように私も見ています。
 実は数ヶ月前から向風三郎は「サルコジの5年間」(仮)のような原稿を準備していて,毎日このような資料ばかり見たり読んだりして,書くことの肥やしにしております。向風は政治ジャーナリストではないし,このドキュメンタリーに出て来るジャーナリストのような情報量も分析力もないわけですが,憤怒の心の声として "dégueulasse"と言い切るだけの材料はたくさん持っているのです。

(↓ "Looking for Nicolas Sarkozy" 全編 )


PS (12月26日)
上に貼付けたヴィデオのコンテンツが日本では見れないというご報告をいただきました。いろいろ他のプログラムの可能性を探しています。2-3日お待ちください。

2011年12月23日金曜日

子供たちよ,何度でも「トスタキ」を聞き直せ

Noir Désir "Soyons désinvoultes, N'ayons l'air de rien" 
ノワール・デジール『無造作でいよう,何ごともなかったふりをしよう』

 2010年11月30日,すなわち去年の今頃の寒い日,ノワール・デジールはオフィシャルに解散しました。バンドで最も重みのある男ドニ・バルト(ドラムス)が「Noir Désir, c'est terminé ノワール・デジールは終わった」と告げたのでした。このことは拙ブログのここに詳しく書いてあります。
 解散記念日なんて世の中にあるんか!とも思うのですよ。
 所属レコード会社Barclayはこの編集盤 を2011年11月28日に発売しました。1周忌盤のような趣きです。タイトルの "Soyons désinvoultes, N'ayons l'air de rien" は,彼らの代表曲「トスタキ Tostaky」の歌詞から取っています。構成はCD2枚とDVD1枚。
 CD1の18曲はいわゆるBest Of的なノワール・デジールの良く知られた曲ばかり。"Aux sombres héros de l'amer"  , "L'homme pressé" , "Un jour en France" , "Le vent nous portera" など、これからも私たちが聞き続けるであろうノワール・デジールの「クラシック」のオンパレードで、これはファンにはあまり有り難くない1枚でしょう。さらに残念なのは2008年11月に彼らのオフィシャルサイトで(無料ダウンロード)発表された曲"Gagnant/Perdant" (このことも拙ブログのここで触れています)もこのCDには収録されなかったことです。
 それにひきかえCD2の18曲はBサイド曲、カヴァー曲、デュエット曲などで構成されていて、あまり一般には知られていないものばかりです。ビートルズ(およびジョン・レノン)のカヴァー3曲("I want you", "Working Class Hero", "Helter Skelter")、クリムゾン("21st Century Schizoid Man")、ジャック・ブレル/レオ・フェレ/ジョルジュ・ブラッサンスの作品が1曲ずつ、ノワール・デジールとしての最後の録音曲であるアラン・バシュング作の"Aucun Express" (2010年録音、2011年4月発売のバシュング・トリビュートアルバム "TELS ALAIN BASHUNG" に収録)。デュエットでは、レ・テット・レッド、ブリジット・フォンテーヌ、そしてアラン・バシュング。ベルトラン・カンタとバシュングは共に突出したヴォイス/ヴォーカル・パフォーマーであったと思うのですが、いろいろな変遷の末に染み入るような声を獲得したバシュングに対して、声帯をめちゃくちゃにしながら突き進んできたノワール・デジール時代のカンタの声はまだこれからどうなるかわからない未成のパワーがありました(そう、ここでは過去形で語りましょう)。

 しかし多くの人たちにとって、さらに興味深いのはDVDでしょう。ヴィデオクリップ全種が入ってますが、これは YouTubeなどでも見れるものですからさほど重要ではないでしょう。貴重なのはINA(国立視聴覚研究所)所蔵のテレビ画像で、私が勝手に「テレビと無縁のバンド」と思っていたことを覆して、テレビでもトンガっていたノワール・デジールを見ることができます。さらにドニ・バルトとジャン=ポール・ロワ(ベース)が提供したプライヴェート・フィルムによるライヴやスタジオ録音の映像も、内側からの視点として興味深いものがあります。収録順序はおおよそにおいてクロノロジカルで、1987年(つまり初ヒット"Aux sombres héros de l'amer"の2年前。テオ・ハコラのプロデュースでミニアルバムを作った頃)のテレビ番組映像に始まり、2002年12月のエヴリー(パリ郊外)でのライヴ映像まで収められています。ライヴは既発DVDに収められた映像もありますが、最終トラックとして収められた2001年7月、ブルターニュのヴィエイユ・シャリュ・フェスティヴァルでの「トスタキ」のような宝物の未DVD化ライヴ映像もあります。

 CD2枚とDVD合わせて、「トスタキ」という曲は5トラックで収録されています。その歌詞から取ったこのアルバムのタイトル、そして5種類でこの曲を収録している編集、私たちはこのことから、このバンドを1曲に絞ったらこの歌になるんだ、ということを再確認します。1993年に発表されたこの曲は、ノワール・デジールの「1曲」として永く記憶されるでしょう。"Tostaky"とは西語 "Todo està aquì”を約めた表現。意味は「すべてはここにあり」。
 コルテスの亡霊たちを吊るし上げ
コルテスの影に腐敗していく
どぎつい光のパトカー回転灯に身売りしたアメリカ
新しいビームのために
新しい太陽のために
新しい光線のために
新しい太陽のために

アクイ・パラ・ノソトロス(これが俺たちのためのものさ)(9回繰返し)
トスタキ

すべてのメッセージは
了解された
それはもはや彼らが選択の余地がないことを
理解したと伝えている
霊の命ずるままに
彼らは歩を進めるだろう
俺たちが話すことができる最後の時が
やってくるだろう
だから無造作でいよう
何ごともなかったふりをしよう
無造作でいよう
何ごともなかったふりをしよう
「トスタキ」は 最後の時の歌です。すべてはここにあり。これをバンドが最もはじけていた時期に作ってしまったのです。このCD2枚+DVD1枚を通して伝わってくるのは、この「トスタキ」があるから、もはやバンドの解散など惜しむ必要はないのだ、というメッセージです。最後の時を生きた過去のバンドにしてしまっていいのだ、と。そして私たちは気が向いた時に、無造作に、何ごともなかったかのように、「トスタキ」を何度も聞き直すことになるのです。

<<< トラックリスト >>>
CD 11. FIN DE CIECLE / 2. EN ROUTE POUR LA JOIE / 3. ICI PARIS 4. LHOMME PRESSE / 5. COMME ELLE VIENT / 6. A LENVERS A LENDROIT / 8. TOUJOURS ETRE AILLEURS / 9. AUX SOMBRES HEROS DE LAMER / 10. UN JOUR EN FRANCE / 11. MARLENE / 12. LE VENT NOUS PORTERA / 13. A TON ETOILE / 14. LOLITA NIE EN BLOC / 15. TOSTAKY / 16. LE FLEUVE / 17. LOST / 18. ONE TRIP ONE NOISE
CD 2 1. BACK TO YOU (B side HOMME PRESSE) / 2. LIDENTITE (w/TETES RAIDES) / 3. I WANT YOU(cover BEATLES) / 4. 21ST CENTURY SCHIZOID MAN (cover KING CRIMSON) / 5. B IS BABY BOUM BOUM (w/ BRIGITTE FONTAINE) / 6. LA BAS (Ost BERNIE) / 7. CES GENS-LA (cover JACQUES BREL) / 8. DES AMES (LEO FERRE) /  9. A TON ETOILE (remix YANN TIERSEN) / 10. VOLONTAIRE (w/ALAIN BASHUNG) / 11. SON STYLE (B side LOST) / 12. LES ECORCHES (remix SLOY) / 13. LE ROI (cover GEORGES BRASSENS) / 14. OUBLIE (remix) / 15. AUCUN EXPRESS (cover ALAIN BASHUNG) / 16. SONG FOR JLP(ghost track 666667 CLUB) / 17. WORKING CLASS HERO (cover JOHN LENNON) / 18. HELTER SKELTER (cover BEATLES)
DVD 1. OU VEUX TU QUJE REGARD (TV-INA) / 2. TOUJOURS ETRE AILLEURS (CLIP) / 3. LOLA (TV-INA) / 4. OLYMPIA 89 (private film) / 5. AUX SOMBRES HEROS DE LAMER (CLIP) / 6. EN ROUTE POUR LA JOIE (CLIP) / 7. PUB TV TOSTAKY 1992 / 8. JOHNNY COLERE (private film) / 9. TOATAKY (CLIP) / 10. LOLITA NIE EN BLOC(CLIP) / 11. MARLENE(CLIP) / 12. ALICE BASSE (private film) / 13. ICI PARIS (LIVE LA CIGALE 1993) / 14. LA RAGE (LIVE LA CIGALE 1993) / 15. TOSTAKY(LIVE LYON 1993) / 16. EN ROUTE POUR LA JOIE (LIVE LYON 1993) / 17. TOSTAKY (TV-INA) / 18. PUB TV 666667 CLUB 1997 / 19. PUB TV 666667 CLUB 1997 / 20. SEPTEMBRE EN ATTENDANT (private film) / 21. UN JOUR EN FRANCE(CLIP) / 22. A TON ETOILE (CLIP) / 23. PUB TV LHOMME PRESSE 1997 / 24. LHOMME PRESSE (CLIP) / 25. COMME ELLE VIENT (CLIP) / 26. FIN DE SIECLE (LIVE EUROCKEEENNES 1997) / 27. LAZY (LIVE EUROCKEENNES 1997) / 28. WORKING CLASS HERO (LIVE GISTI 1999) / 29. VOLONTAIRE (LIVE STUDIO w/ALAIN BASHUNG 2000) / 30. UN JOUR EN FRANCE (TV-LIVE BUENOS AIRES 1997) / 31. PUB TV DES VISAGES DES FIGURES 2001 / 32. LE VENT NOUS PORTERA (CLIP) / 33. A LENVERS A LENDROIT (CLIP) / 34. LOST (Studio, private film) / 35. PUB TV LOST 2002 / 36. LOST (CLIP_ / 37. A LENVERS A LENDROIT LES ECORCHES (TV LIVE, VICTOIRES DE LA MUSIQUE 2002) / 38. ONE TRIP ONE NOISE (LIVE EUROCKEENNES 2002) / 39. PYROMANE (LIVE EVRY 2002) / 40. LE GRAND INCENDIE (LIVE EVRY 2002) / 41. TOSTAKY (LIVE, VIEILLES CHARRUES 2001)


NOIR DESIR "Soyons désinvoltes, N'ayons l'air de rien"
2CD+DVD  Barclay/Universal France 2787700
フランスでのリリース: 2011年11月28日 

(↓ 「トスタキ」 2001年7月21日、ヴィエイユ・シャリュ・フェスティヴァル)

2011年12月10日土曜日

ゼブダが帰ってきたのを目の前で見た

 12月9日、パリ18区バルベス・グート・ドール地区にあるFGO バルバラ音楽センター(2008年にパリ市が開設した録音スタジオ、音楽工房、資料室、コンサート会場などのべ2500平米のスペースを使った総合音楽センター)で、8年ぶりに再結成したゼブダのコンサートを。この10月から始まったゼブダの全国ツアーは"PREMIER TOUR"と題され、2012年1月に発表される新アルバムは"SECOND TOUR"というタイトルになっています。そのまま訳すと「第一のツアー、第二のツアー」、「第一周、第二周」ということになりますが、これはフランス大統領選挙の「第一次投票、第二次投票」という意味にもかけています。2012年の大統領選挙は4月22日に第一次投票(premier tour)、その上位2者によって争われる決戦の第二次投票(second tour)は5月6日に行われます。ゼブダの再結成はもちろん大いにこれに関与してのことです。

 2007年大統領選挙の時マジッド・シェルフィはニコラ・サルコジ選出を妨げるために、ヴァーチャル空間「セカンドライフ」を使って、サルコジ当選後の世界のシミュレーションを作ったり、ジョゼ・ボヴェなどのゲストを招いての公開討論会を主催したりしました。しかし、それは大きな効果もなく、サルコジはセゴレーヌ・ロワイヤルに大差をつけて当選します。マジッドは後悔したと思います。あの選挙の時、当地の政治的アンガージュマンを明白にした3大ロックスターたるゼブダ、ノワール・デジール、マニュ・チャオは、「不在」だったのです。来る2012年の選挙には、ノワール・デジールは既に解散していますし、マニュ・チャオの姿も(まだ)見当たりません。しかし、ゼブダは10月から精力的に動き出したのです。ヴァーチャルではダメなんだ、という思いでしょう。もう一度シャツを汗でびしょびしょにして動き回って、人々に直接出会いに行かなければ、と。
 その間、ムース&ハキムのアモクラン兄弟は素晴らしい成長を遂げました。その仕事の濃さは当ブログの「オリジンヌ・コントロレ」、 そして「ライヴ - 栄光の20年」のところでも紹介しています。そしてこの兄弟の大躍進に、マジッドは何度もそのステージに駆け上がりたい衝動にかられ、実際に2010年には数回ゲストで出演しています。その時、なんだこれはゼブダではないか、と思った人たちも多かったでしょう。しかし、今夜私たちがわかったのは、"Mouss & Hakim featuring Magyd Cherfi""Zebda"と等価ではない、ということ。ゼブダはゼブダである。それはジョエル・ソーラン、レミ・サンチェス、マジッド、ムース、ハキムの5人と、このツアーでサポートしている2人のギタリストと1人のドラマー、全部で8人のバンドのことなのです。
 FGOバルバラ音楽センターのコンサートホールは大きなところではありません。キャパ500人ほどでしょうか。これだったら3夜連続コンサートもチケット発売まもなくソールドアウトになるのは当り前でしょう。しかし、この小さなスペースのおかげで、私たちは目の前で、彼らの汗の飛ぶ距離で、ゼブダの帰還を体験できたのでした。レパートリーは1月リリース予定の新アルバム『スゴンド・トゥール』の中の曲を前半に。「教会の周りの日曜日 (Le dimanche autour de l'église)」は、そのファーストシングルになる曲で、トゥールーズのサン・セルナン教会の周りの日曜市のような、フランスのどんな市町村にでもあるような日曜市の風景(多種の物産、多種の文化、多種の人々)を、政府の強要する「フランス国民資格」(L'Identité nationale、ナショナル・アイデンティティー)によって壊されてたまるか、という歌。サルコジ治世のフランスには「フランス国民資格(イダンティテ・ナシオナル)」担当省があり、その担当大臣にブリス・オルトフー、次いでエリック・ベッソンが就任しましたが、2010年末の内閣改変で同省は内務省に統合され、移民/移民統合/国籍/国民資格関係の担当も警察/公安のトップである内務大臣クロード・ゲオンが統括して現在に至っています。オルトフー、ベッソン、ゲオン、これらの大臣たちが(逆説的に)ゼブダを奮起させてくれたのです。もちろんその上に、最もゼブダを元気づけさせたのはサルコジであるということは言うまでもありまっせん。
 新曲披露にまぜて、往年のゼブダの定番レパートリー、"Ma rue", "Oualalaradime", "Le bruit et l'odeur", "Pas d'arrangement", "On est chez nous"などでパリのオーディエンスは大揺れになったり、垂直飛びになったり...。MCはマジット、ムスタファ、ハキムが取りますが、サルコジ・ジョーク多数、極右を茶化し、イスラム亡国論を笑い...。そしてこの3人がそれぞれに何度か繰り返すのは「ゼブダは帰ってきたぞ」と、自分たちがそこにいるのを自分たちで確認しているような言葉です。ゼブダであることの喜び、ゼブダでプレイすることの至福を自分たちで祝福しあっているような。
 ムースもハキムも舞台から飛び降りて、歌いながら会場をぐるぐる周り一番後方の階段席まで来てくれました。私も娘も汗びっしょりのムースに祝福のタッチ。ハキムは階段席からダイブして無数の腕上の遊泳をしながら舞台に戻っていきました。そして、最後は"Tomber la chemise"、再アンコールのオーラスは"Motivé"で締めました。この人たちが帰ってきたんだから、来年はきっと勝てる、と確信した瞬間でした。

(↓Youtubeに早速貼られた 12月9日パリFGOバルバラ音楽センターでのゼブダ『トンベ・ラ・シュミーズ』 )




2011年11月29日火曜日

ルプレスト最後の録音

Allain Leprest "Leprest Symphonique"
アラン・ルプレスト『ルプレスト・サンフォニック』

 プロデューサーのディディエ・パスカリ(TACET)の証言によると、このアルバムはルプレストの長年の夢だったそうです。シンフォニック・オーケストラと録音すること。レオ・フェレは自作交響曲でフル・オーケストラを指揮するという長年の夢を晩年果たしています。アンリ・サルヴァドールはジャズ・ビッグバンドとダイレクト録音する、という夢を果たせずに亡くなりました。ルプレストはその夢を6割がた達成したにもかかわらず、その完成に至らずに8月15日に自ら命を断ちました。
 「6割がた」と書きましたが,それはこのアルバムに収められた13曲のうち,ルプレストが歌入れをしたのが7曲のみであることを根拠に「算数的」に表現したわけです。ところが,レコード会社ロートル・ディトリビューションのリュック・ジェヌテーから聞いた話によると,ルプレスト自身はこのプロジェクトの序盤戦までしか関わっていないようなのです。長年の夢と言うよりは,子供の頃から憧れていたフル・オーケストラをバックに歌えたらいいな,というアランの童心からの願望を,ディディエ・パスカリと26年来の盟友であるロマン・ディディエが,今だったら実現できる,と具体的に動き始めたのが2010年秋。
 「今だったらできる」はおおいに経済的な問題なのです。2007年,アラン・ルプレストは脳腫瘍と肺ガンで死ぬはずだったのです。それも長いキャリアの割に人気も知名度も低いマージナルなシャンソン歌手として果てるはずだったのです。クロード・ヌーガロをして「最も電撃的な歌手」と言わしめ,学士院会員作家ジャン・ドルメッソンをして「20世紀のランボー」とまで称賛させたルプレストは,人知れずこの世を去るはずだった。否,このアーチストをこのまま無名のまま終わらせてはならない,この歌い手の声がもう出ないならわれわれがその歌を歌い継ぎ,世に遺していく,そう申し出るシャンソン仲間が次々に現われてきたのです。『シェ・ルプレスト(ルプレスト亭)』のプロジェクトはこうして始まり,イジュラン,ミッシェル・フュガン,ジャン・ギドニ,サンセヴリーノ,エンゾ・エンゾ,オリヴィア・ルイーズ,ラ・リュー・ケタヌー...,こういった人々に支えられてルプレストは「最後の酔いどれ詩人」として多くの音楽ファンたちに聞かれるようになったのです。
 『シェ・ルプレスト』はCDを2集出し,パリで大きな会場(バタクラン,アランブラ)でコンサートを開き,シャルル・クロ・ディスク大賞,SACEM(フランス著作権協会)ディスク大賞などを獲得し,元気づいたルプレストは2008年に『氷山が溶けてしまう時』という新曲アルバムまで発表するのです。2007年から2010年までルプレストは不死身の男に変身したのです。ガンは完治しておらず,ずっと小康状態のまま,ルプレストは酒も煙草もやめずに,人前に「名のある」アーチストとして登場するようになったのです。CDは売れ,コンサートには人が入り,ルプレストは50代半ばにしてやっと初めての経済的な安定を見るのです。
 ディディエ・パスカリとロマン・ディディエとアラン・ルプレストの3人は「今だったらできる」というこの『ルプレスト・サンフォニック』のプロジェクトを具体化します。それは,今の経済状態ならば,アルバムの後,シンフォニー・オーケストラを連れ立ってのコンサートツアーまで視野に入れられる,というものだったのです。ロマン・ディディエは長年のつきあいから,またアランの現状を知っているから,アランがオーケストラに合わせることはできないと見抜いていました。アランがオーケストラに合わせるのではなく,オーケストラがアランに合わせなければこのアルバムは実現不可能である,と。メトロノームは肺を煩っている詩人の鼓動、オーケストラはそれを忠実に追うこと。そこでプランは歌録りが先,オケ入れが後,ということになります。
 2011年7月,モントルイユのセケンザ・スタジオでルプレストの歌録りが行われます。予想するにロマン・ディディエのピアノ伴奏のみで進行されたでしょう。セレクトした十数曲のすべてがうまく行ったわけではありません。何度もの録り直しの末に7曲ぐらいはロマンが及第点を出していいものだったでしょうか。この作業を半ばにして(ディディエ・パスカリの跋文の表現を借りると),詩人は一杯飲みに出かけてしまうのです。近くのビストロにではなく,空の上に。
 その空に行く途中で,詩人は山に寄っています。7月中旬から敬愛する先達ジャン・フェラのゆかりの地,アルデッシュ山中の村アントレーグで開かれた「ジャン・フェラ・フェスティヴァル」にメイン・ゲストとして招かれ,元気にステージをつとめ(インターネット上で知る限りの見た人たちの証言によると,本当に元気いっぱいだったらしい),そのままこの村の滞在を延長してヴァカンスを過ごしていました。
 下界と空の間に山があります。 下界に戻れば,またこの「夢のアルバム」の録音が待っていたはずです。アランが夢見ていたオーケストラの音も下界に戻れば自分のものにできたはずなのです。しかし詩人は山にとどまって,8月15日に自ら命を絶ちました。
 山で何が起こったのかを,私はここで安易な憶測で書くわけにはいきません。
 今,このアルバムを手にして,CDプレイヤーで何度も聞き直すにつけ,私にとって最も衝撃的で同時に最も残念なのは,ルプレストはこの完成された音はもとより,このオーケストラの音を一度も聞いていない,ということなのです。

 ディディエ・パスカリとロマン・ディディエはその死の衝撃と悲しみの只中にありながら,このやりかけのプロジェクトを最後まで遂行することに決めたのです。 フランスで最も評価の高い録音スタジオのひとつ,パリ20区のダヴート・スタジオでロマン・ディディエ編曲のオーケストラの演奏が録音され,用意されていた十数曲のうち,アランが歌録りをしなかった,あるいはNGだった曲には,ディディエ・パスカリが『シェ・ルプレスト』に集ったアーチストたちの中から6人にアランの代役をお願いしました。ジェアン,クリストフ,ケント,ダニエル・ラヴォワ,エンゾ・エンゾ,サンセヴリーノ。そしてアルバムの最終曲である「無用のワルツ(Une valse pour rien)」は,CDブックレットにクレジットされていないものの,ロマン・ディディエとアラン・ルプレストのデュエットになっています。初めからこうだったのか,それともロマン・ディディエの止みがたい意志でデュエットに変えたのか(私は明らかに後者であると思っています),ロマン・ディディエの最後の友情の証しのようなエンディングです。
  パスカリとディディエが最後までやり通した仕事をルプレストはどう思うでしょうか。パスカリはこのブックレットの跋文で,こう詩人に呼びかけます。
Tu verras, c'est beau...(わかるかい,見事な出来だよ...)
Je crois que tu seras content. (きみもきっと満足だろう)
C'est beau... 確かに!ここにはルプレストの最も美しい曲しかありません。私たちはヴェルレーヌと同じように秋の日のヴィオロンとルプレストを聞いてしまうわけですから,このエモーションに涙しない人がおりましょうか。1曲め「海に雨が降る(Il pleut sur la mer)」が始まった時から,私たちは詩人の声とオーケストラの海の音と雨の音を聞くのですから。しかし,歌ったルプレストはこの音を聞いていないのです。

<<< トラックリスト >>>
1. IL PLEUT SUR LA MER
2. DONNE-MOI DE MES NOUVELLES
3. LE TEMPS DE FINIR LA BOUTEILLE (chant : JEHAN)
4. LA GITANE
5. OU VONT LES CHEVAUX QUAND ILS DORMENT (chant : CHRISTOPHE)
6. C'EST PEUT-ETRE (chant : KENT)
7. MARTAINVILLE
8. D'OSAKA A TOKYO (chant : DANIEL LAVOIE)
9. NU
10. ARROSE LES FLEURS (chant : ENZO ENZO)
11. SDF (chant : SANSEVERINO)
12. GOODBYE GAGARINE
13. UNE VALSE POUR RIEN

ALLAIN LEPREST "LEPREST SYMPHONIQUE"
CD TACET/L'AUTRE DISTRIBUTION TCT111201-1
フランスでのリリース:2011年12月7日

(↓ "Nu" - Leprest Symphonique)

2011年11月19日土曜日

渡るべきたくさんの川がある

『キリマンジャロの雪』
"Les Neiges du Kilimandjaro"
2011年フランス映画 
ロベール・ゲディギアン監督  
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン 

フランス公開 : 2011年11月16日 

 Many rivers to cross...
 この映画で流れるのはジミー・クリフではなく、ジョー・コッカーのヴァージョンです。そしてその目の前にあるのは川ではなく地中海であり、場所はマルセイユで港湾労働者たちのいる地区です。男たちは皆(ムッスー・T&レイ・ジューヴェンのような)青色の作業着を着ています。その背後にある建物はCGT(労働者総同盟)の寄り合い所です。こんなスローガンが見えます:「La crise c'est eux, la solution c'est nous(経済危機は彼らのことであり、解決はわれわれにある)」。映画の時代背景は2011年的今日であり、経済危機とグローバリゼーションを理由に、人が簡単に職業を失う、私たちの生きる現在時です。
 映画の始まりは象徴的です。20人の解雇を決めた会社の、その20人を決めるのが組合(CGT)によるくじ引きです。不幸にしてそのくじに当たってしまった人が解雇されるのです。組合執行委員のミッシェル(ジャン=ピエール・ダルーサン)は、その抽選による解雇者の名前をひとりひとり読み上げていきます。その当たってしまった解雇者の中に、自分(ミッシェル)もいたのです。執行委員としてその中に名前を入れないこともできたはずなのに、ミッシェルはその特権を嫌って拒否し、いさぎよく解雇され失業します。
 50と数歳、筋金入りの組合活動家、定年前の失業、 結婚して30年、子供たちも孫たちも近くにいる。妻マリー=クレール(アリアーヌ・アルカリード)は若い日に看護婦になるための勉強を断念、主婦/子育てが終わってからは、パートとして家政婦、老人介護、広告チラシの配布などの仕事をして家計を助けています。失職したミッシェルは望みのない求職活動を形式的に続けながらも、孫たちの遊び相手になったり、息子の家の修繕をしたり、というゆったりとした時間を過ごしています。それが海と浜辺のある南の町マルセイユで進行するわけですから、この高年失業も危機的様相が見えません。ベランダでバーベキューを焼き、夕陽を浴びながらパスティス酒をすするミッシェルとマリー=クレールを人が見るとき、この夫婦はつましいながらも幸福に生きていると思うでしょう。
 労働者階級であっても30年も働いたあとには、こういう生活が待っているもの、というのが私たちの前世紀までの社会通念だったと思います。 ところが、今日そういう通念はないのです。ミッシェルとマリー=クレールの生活ですら「ブルジョワ」と見て妬む人たちが増えてしまったのです。
そんなある日曜日、岸壁にあるミッシェルの古巣であるCGT組合寄り合い所の建物と敷地を使って、家族/親戚/元仕事仲間たちなどを大勢集めて、ミッシェルとマリー=クレールの結婚30周年のパーティーが開かれます。よく冷えたロゼの瓶がボンボン開けられ、屋外のライドスピーカーからブロンディーの「ハート・オブ・グラス」が流れ、防波堤の上で何十人という老若男女が踊り狂っている ー なんて美しい! われわれ労働者階級のシンプルかつ効果甚大なパーティー歓喜を絵に描いたような図です。その宴のクライマックスに、巨大なピエス・モンテとプレゼントの「宝箱」が現れ、孫たちが声を合わせてなにやら謎めいた歌を歌います。よく聞くとそれは1966年のパスカル・ダネルの大ヒット曲『キリマンジャロの雪』 :
もはやこれ以上遠くに行くことはできない
もうすぐ夜になってしまうから
遠くかなたに見えるのは
キリマンジャロの雪
それは白いマントのようにおまえにふりかかる
それに包まれておまえは眠るだろう
   なんのことやらわからないマリー=クレールとミッシェルに息子のジルが「その宝箱を開けてみろよ」と言います。その中には家族友人たちが入れたお祝いの現金札がぎっしり詰められ、その底にはタンザニア/キリマンジャロ行きの旅行クーポンが入っていたのです。旅行どころか、二人でレストランで食事することでさえ稀だったマリー=クレールとミッシェルの夫婦に、息子と娘らが共同出資してのプレゼントでした。涙、涙...。
 しかし事件は数日後にやってきます。ミッシェルの自宅で親友ラウール(ジェラール・メイラン)の夫婦と4人で食後のトランプを楽しんでいたところに、拳銃で武装した覆面強盗の二人が乱入し、宝箱を奪い去ります。強盗たちは前もってこの夫婦が現金の詰まった宝箱を持っていることを知っていたのです。
 椅子に縛り付けられたままその夜を明かした4人の精神的ショックは計り知れず、この強盗を絶対に許せないと思うのです。特にラウールの妻ドニーズ(マリリーヌ・カント)は神経衰弱に陥り、立ち直れません。しかしミッシェルがふとしたきっかけで強盗の片割れの身元をつかみ、警察に通報して逮捕したところから事情が変化していきます。その若者クリストフ(グレゴワール・ルプランス=ランゲ)は、 映画の冒頭のCGTによるくじ引きの結果解雇された20人のひとりでした。身勝手な母親に放棄され、幼い二人の弟を養い、勉学の手伝いもして、3人でひとつ屋根で暮らしていましたが、解雇され、家賃も食費も払えない状態に陥り、経験ある町のワルと組んでの初犯でした。主犯はクリストフではなく、相方なのですが、クリストフの報酬は巻き上げた金の10%というなめられ方でした。
 マリー=クレールとミッシェルはそれぞれ別々の方法でこの事件を「理解」しようとします。ミッシェルはラウールに言います「やつも俺たちと同じような労働者なんだ」。するとラウールは「おまえはやつと同じように人を襲ったり金を奪ったりしたことがあるのか?」とミッシェルの態度の変化を理解できません。ミッシェルはクリストフへの告訴を取り下げますが、刑事事件では事情は変わらず、クリストフへの刑罰は裁判によって確定します。武装による強盗は最高で禁錮15年。マリー=クレールは援助の手を一切断ち切られたクリストフの二人の弟、ジュールとマルタンに接近し、お世話おばさんを買って出ます。
ミッシェルは取り戻されたキリマンジャロ行き旅行クーポンを、マリー=クレールに黙って旅行会社で払い戻してもらって現金化します。これをジュールとマルタンの養育費にしようじゃないか、とマリー=クレールに打ち明けると、マリー=クレールはクリストフが出獄するまで二人の少年を私たちの家に受け入れよう、という考えを明らかにします。
 息子たちの反対も消え、ラウール夫婦の全面的な理解も得られるハッピーエンドが待っています。キリマンジャロの雪は見なくても、マリー=クレールとミッシェルはまたひとつ大きな川を渡ったのです。

 私がこうやって書くと映画はチープな人情もののレヴェルにとどまってしまうかもしれません。しかしこのゲディギアンの映画は、労働者が労働者を妬み呪い、失業者が失業者同士で職のために敵対を余儀なくされ、貧者が貧者から奪うこともやむなし、という21世紀的現実を直視した作品です。2011年夏、私たちはイギリスの大暴動で、誰が味方で誰が敵なのか分からない状態で貧しい人々が貧しい人々を襲っている映像をたくさん見せつけられました。それはモニターの彼方の問題なのか。私たちの地下鉄で、交差点で、路上で、そうなっても当り前という「今」が見えませんか?
 この映画は古いサンディカリスト(組合活動家)の夢です。労働者たちが団結すれば世界は変えられるという古い古い世代の考え方です。この古い夢は今日ひとかけらの有効性を持っていないのでしょうか? ミッシェルな何十年もの長い間そういう夢を持ちながら、人に嘲笑されながらも、その夢を持ち続けながら生涯を閉じるでしょう。それはキリマンジャロの雪に包まれながら眠ることと同じなのです。
 若いクリストフのこの世への憎悪は映画の最後まで消えません。これは別の映画の主題となりましょうが、クリストフもまたいつかは川を渡るのだ、ということは考えられないわけではありません。団結とは何か? それはマリー=クレールの言うように「理解する」ことであり、ジミー・クリフの歌が言うように「川を渡る」ことでもあるわけです。陳腐であることを恐れずに、私は言えます、これは L'humanité (定冠詞つきのユマニテザ・ヒューマニティー。太字で書かれるべき人間性)に関わるものなのだ、と。

(↓『キリマンジャロの雪』予告編)

2011年11月10日木曜日

大地と風と火と

"Intouchables"
『アントゥーシャブル』

2011年フランス映画
監督:エリック・トレダノ+オリヴィエ・ナカッシュ 
主演:フランソワ・クリュゼ,オマール・スィ 

フランス公開:2011年11月2日 

   Do you remember the 21st night of September ? 
 この映画見終わった翌日、私のカーステはアース・ウィンド・アンド・ファイアのCDがひとりじめで、大ヴォリュームで「セプテンバー」かけてペリフェリック(パリ環状道路)やヴォワ・ジョルジュ・ポンピドゥー(セーヌ河岸自動車道)を走ってしまいましたね。私と同じようなことをした人、かなりいたと思いますよ。
 この大富豪の身体障害者フィリップ(フランソワ・クリュゼ)の秘書が、住み込み介護ヘルパーの募集面接で、応募者で刑務所上がりの郊外ブラックのドリス(オマール・スィ)に、「あなた何かリファレンスは持っているの?」と聞きます。するとドリスは「俺のリファレンスはアース・ウィンド・アンド・ファイアだ」と答えるんですね。話が合わない、同じ言葉の意味が同じでない二つの世界。触れ合わない二つの世界を、この映画では"Intouchables"(アントゥーシャブル)と複数形で表現しているのです。"intouchable"は英語の「アンタッチャブル」ではないのです。仏語ではインドの最下層カースト(触れてはならない階級)の意味でも使われます。
 この映画で二つの世界はまさに絵に描いたようなもので、大富豪はパリ市内で城館の中に住み、家令/執事/秘書/料理人/家事係を抱えて、エリゼ宮のような家具調度に囲まれ、宴の間ではクラシック管弦楽アンサンブルを呼んでプライベートコンサートができるという環境であるのに対して、郊外ブラックは今さらここで説明する必要のない「郊外=郊外」の環境にあります。これはカリカチュアであると同時に現実描写でもあります。なぜなら、21世紀になって世界の富豪たちはますます富豪になっていき、世界の郊外はドラマチックにその貧困の度合いを増して行っているからです。この加速している二極化は、起こりうる全面戦争の日が近づいてきていることを予感させもします。
 すなわち21世紀的には二つの世界は以前に増して出会うことが困難になっているのです。これがこの映画の通奏低音です。あ、この「通奏低音」というのはもともとはバロック音楽用語ですね。奇しくも大富豪フィリップの音楽「リファレンス」はヴィヴァルディなのです。そしてドリスの「リファレンス」はアース・ウィンド・アンド・ファイア。
 文学とバロック音楽と絵画(古典もコンテンポラリーも)をこよなく愛するフィリップは実は(全くそうは見えないのですが)スポーツ好きでスピード狂でもありました。 それがある日パラグライダーの事故で四肢が動かなくなってしまいます。この自由を奪われた大富豪は,引き蘢りを余儀なくされ,生への興味を失っていきます。
 映画はそこに現われた郊外ブラックの住み込み介護ヘルパーが,生気を失った大富豪を「生の世界」に回帰させてやる,というシンプルな寓話のストーリーです。こういうことだけで,レ・ザンロキュプティーブル誌などは,最初からこの映画にバッテンをつけてしまいます。それもわかります。
 ドリスは上流社会のコードを片っ端から破壊することでフィリップの興味を引いていきます。初級フランス語学習者にもわかるでしょうが,フィリップはドリスに対して vouvoiement (ヴーヴォワマン。"vous"あなたと呼びかける丁寧表現)で話し,ドリスはフィリップに対して tutoiement (チュトワマン。"tu"おまえと呼びかけるくだけた町言葉表現)を使うのです。このことで最初から立場は転倒しているのです。 しかしドリスの仕事のひとつには衛生手袋をはめて,フィリップの生物的自然も処理しなければならないのです。最初ドリスはそれを拒否します。彼にとって "intouchable”(触ることのできない)ものだからです。お互いの "intouchable"はラジカルに"touchable"(触ることのできる)に変わっていく,というシナリオ進行です。この映画で強調されるのはスキンシップです。車椅子の乗り降りを初めとして,多くの場面でドリスはフィリップを抱きかかえています。この黒人の大男が小さな初老の白人障害者を抱きかかえる図は象徴的です。触れ合うごとにフィリップはドリスの世界に入っていくのです。
 アース・ウィンド・アンド・ファイアはまさにリファレンスなのです。ドリスはフィリップが失いかけていた大地と風と火を取り戻してやるのです。館に引き蘢り,希望のないマッサージとリハビリにうんざりしているフィリップに,生のセンセーションを蘇らせることです。館の中庭にカヴァーをかぶったまま眠っているフィリップの元愛車マセラティ・クワトロポルテ ,これを発見した時からドリスとフィリップの世界は一変します。ドリスはこのマセラティでフィリップにあらゆる大地を再発見させるのです。そして山から(もちろんインストラクター同乗で)パラグライダーで飛翔し,風を肌で感じるのです。とても良くできたエピソードとして,ドリスがバイク屋に電動車イスのモーターを改造させて,セグウェイを追い越すこともできるスピードを出して疾走するシーンがあります。フィリップは初めて遊園地に連れてこられた子供のようにはしゃぐのです。
 そして第3の要素である「火」です。これはマリファナなのです。夜中に襲った激痛を鎮めるために,ドリスはフィリップを抱きしめ体を撫でてやり冷水で額を冷やし,という看護でフィリップが落ち着きを取り戻したところで,楽になるからこれを吸ってみろとジョイントを口にくわえさせるのです。
 お立ち会い,思い起こしましょう,太古において煙草も大麻も沈痛のための良薬だったのです。Do you remember ? 

 フィリップには密かに往復書簡を通じて恋い焦がれている女性がいます。これもタイトル"Intouchables"の布石なのですが,フィリップはいくら想いは募っても,この体では触れ合うことのできない相手だと思っています。 詩的表現で綴られるその手紙文面の秘書への書き取り指示を聞きながら,あまりにもどかしく思ってしまったドリスは,なんとかして出会いのチャンスを作ろうと工作します。もうひとつの"intouchable"も"touchable"にするという展開です。それだけでなく,ドリスの闖入はこの館全体にある種の革命をもたらして,鼻がツンと上がって品行ばかり気にしていた館で働く人々をヒューマンにしてしまうのです。室内アンサンブルでヴィヴァルディを聞くよりも,アース・ウィンド・アンド・ファイアで踊る方がファンキーだ,という当たり前のことを知るのです。

 二つのかけ離れた世界の蜜月時代は,ある日,郊外からの使者(血はつながっていなくても弟ということになっている)がフィリップの館にやってきた時に終わります。あれはドリスの弟なのか,母親はどうしているのか,フィリップは理解しようとしますが,ドリスは「複雑だから,あんたには理解出来ないよ」と言います。郊外は金持ちたちに簡単に理解できるほど単純じゃない。大体俺の名前だってドリスじゃないんだ。セネガルを出る時に俺は名前を変えられ,家族なのか家族でないのかわからない(たぶんに一夫多妻制を暗喩する拡大解釈の大々家族)関係が寄り集まって生きている。細部を理解せずにフィリップは,ドリスが郊外に戻る急務があることを悟ります。(実際,この部分は映画を観る者にもよくわからないと思いますよ)
 ドリスは館を去り,郊外に戻り,その日からフィリップの黒々としたアンニュイが始まります。フィリップは抵抗の印にヒゲを剃らせることをやめます。引き蘢り,意気消沈,体力減退,ヒゲぼうぼう...。このあとの再会とハッピーエンドに関しては,もうここでは書きませんが,ひとつだけ,ドリスの再会の開口一番が「なんだそのヒゲは?ヴィクトール・ユゴーじゃないか!」 - いつの間にこの郊外ブラックから「ヴィクトール・ユゴー」なるリファレンスが出るようになったのでしょう。そうです。ドリスはこのフィリップとの触れ合いの月日のせいで,知らず知らずに「教養」がついてしまったのです。

 エリック・トレダノとオリヴィエ・ナカッシュの4作目の長編映画です。私と娘は2作目の『われらが幸福の日々 Nos jours heureux』(2005年)以来の大ファンです。前作の『ごく身近に Tellement proche』(2009年)に関しては,このブログの2009年6月22日の記事 で詳しく紹介しているので参照してみてください。この2つの映画にもオマール・スィがとても良い脇役で出演しています。オマールは2005年から始まったTVカナル・プリュスの毎晩20時40分の小コント番組SAV DES EMISSIONS で人気の出たコメディアンですが,この映画の役どころのドリスと同じように正真正銘の郊外(イヴリーヌ県トラップ)出身者です。
 トレダノ/ナカッシュの映画に共通するテーマは,出会えることが不可能に思われる遠くかけ離れた世界が,実はちょっとしたきっかけさえあれば,ある程度の衝撃を越えて親密になれるのだ,ということを映像化してみせることです。寓話と言わば言え。私たちが和解しなければならないものはたくさんあります。

↓)『アントゥーシャブル』予告編


(↓)映画冒頭シーンより、アース・ウィンド&ファイア「セプテンバー」

2011年11月7日月曜日

警察は一体何をしているんだ

『ポリス』
"Polisse" 


2011年フランス映画

監督;マイウェン

主演:マリナ・フォイス,カリン・ヴィアール,ジョーイ・スタール,マイウェン... 

2011年カンヌ映画祭審査員賞


 ずマイウェン・ル・ベスコという女流監督について。1976年パリ郊外生れのこの女性は,母親がアルジェリア系フランス人の女優カトリーヌ・ベルコジャ,父親がヴェトナム系ブルターニュ人という血筋です。北アフリカ的でも北フランス的でもアジア的でもあるその顔立ちがその複雑な混じり具合をよく物語っています。それよりも複雑なのは母親カトリーヌとの関係です。幼くしてその希有の容貌を見てとった母は,この子が将来必ずや大スターになる,と直感したのです。3歳から舞台に立たせ,キャスティングに奔走し、少女スターに育てようとするのですが、思惑通りに行きません。ここで母親はこの子に才能がないことに落胆しマイウェンに冷たくなり、娘は娘で反抗し、彼女の十代は非常に複雑なものになります。その不安定な少女は15歳で花形映画監督リュック・ベッソンと恋に落ち、16歳で結婚し女児を出産します。97年にベッソンはミラ・ジョヴォヴィッチと関係を持ち、マイウェンはベッソンと別れ、そこから極度の神経衰弱に陥り、大食症で数ヶ月で25キロ体重を増やした上、アルコールとドラッグの依存症になります。  
 そのセラピーのように、彼女はものを書き、自伝的なシナリオやワンマンショーの台本で、彼女自身の過去に落とし前をつけようとします。その延長で彼女は映画を撮り始め、2004年に短編映画でデビュー、この『ポリス』はマイウェンの長編第3作目になります。  
 パリ警察の「未成年保護部隊 Brigade de Protection des Mineurs(略称BPM)」をめぐる劇映画であり、シナリオはマイウェン自身が1年間に渡ってBPMに取材して体験したことがベースになっています。BPMが扱う事件は未成年に関するすべてのことです。未成年が被害者となる事件(誘拐、親による児童虐待、ペドフィリア、女衒による強制売春...)もあれば未成年が犯罪者となる事件(窃盗、暴行、能動的売春...)もあります。映画はそのさまざまな事件のエピソードを赤裸々な映像で挿入しながら、BPM捜査班の苛烈な日常を映し出します。この映画が日本上映が難しいと簡単に予想できるのは、この捜査班のしゃべり言葉が(男性捜査官も女性捜査官も)字幕化不可能な野卑で露骨な語彙で構成されるからです。性器や性技をあらわすありとあらゆる表現が、次から次に飛び出します。特にフランスで美人女優とカテゴライズされるであろうマリナ・フォイスとカリン・ヴィアールからそのような表現が連発される時、この映画のディメンションは「生の現場」であると明白になります。観る者は一切のナイーヴさを捨ててこの現場と立ち会うことになります。  
 その現場に、「内務省からの注文で」という理由でフォト・ルポルタージュを依頼された 女性フォトグラファー、メリサ(マイウェン)が送り込まれ、数ヶ月間BPMと行動を共にして写真を撮っています。その現場のすごさに圧倒されながらも、メリサはこの十数人の男女の苛烈な仕事ぶりと、その熱情、苦悩、怒り、喜びに惹かれていきます。ところが「それはそんなきれいごとじゃねえ」と捜査官フレッド(ジョーイ・スタール)がメリッサの写真仕事に嫌悪を示します。フレッドはこのBPMで、最も粗野で最も感情的で最も熱血の男です。警察という社会にありながら上官に喰ってかかることを恐れません。アフリカ移民の母子が路上テント生活に耐えられず、BPMに保護を求めてきます。BPMは全力で二人を収容できる保護施設を探すのですが、子供の分しか見つからず、母はひとりで路上に戻っていきます。この親子の生き別れに激怒したフレッドは、上司の上司のところまで怒鳴り込みに行き、何とかしろと迫りますが、その願いは(サルコジの内務省の答弁のように)聞き入れられるわけがないのです。  
 泣き叫ぶ子供を抱きしめて、涙を流しながらなだめるフレッド。その一部始終を写真におさめていたメリサはそのフレッドの熱い思いと葛藤に心打たれ、フレッドのその憤怒の一夜につきあうのです。  
 映画はBPMのおのおのの捜査官が生身の人間として、おのおのの問題を抱えていることも大きく映し出します。仕事そのものが爆発ギリギリまでのストレスをかぶることを余儀なくされる上に、個人の問題がのしかかってくる。二人の女性捜査官として机をならべてペアで仕事してきたナディーヌ(カリン・ヴィアール)とイリス(マリナ・フォイス)の関係が、この映画の中の大きな軸のひとつなのですが、最初は若い親友同士のように自分の個人レベルのことまで打ち明けあっていた二人が、映画の進行と共に、ナディーヌは不幸から幸福へ、イリスは幸福から不幸へ、とプライヴェートストーリーが逆の展開を示します。映画終盤でナディーヌとイリスは大喧嘩になります。次年度の異動でイリスは上級職に昇進すると決まった時、個人の幸福を捨ててこの仕事をしてきた自分の大きな虚無感が襲ってきて、イリスは窓から飛び降り自殺をします。  
 ナディーヌとイリスの最後の一緒の仕事で、強姦されて妊娠した未成年が法的処理に従ってその胎児を中絶するシーンがあります。かなりショッキングな場面です。15センチほどの嬰児まで映されます。それは出産後殺されてしまうのですが、その法律の手続き上、その子の「名前」が必要だから、出産した少女に名前をつけてくれ、とナディーヌとイリスが頼みます。少女は悲しみのあまり、もうこのことは忘れたいから、放っておいてほしい、とその頼みに応じません。しかたなく、二人の捜査官は勝手にこの死にゆく嬰児に名前をつけるのですが、イリスはその子に「イリス」と名付けるのです。この時に、イリスのストレスは死にゆくレヴェルまで達していたのだ、とあとでわかる映画です。  
 出演している未成年者たち(被害者も犯罪者も)はすべて、かなり残酷な演技を要求されています。この残酷な少年少女像は、おそらくマイウェンに親しいものでしょう。親に愛されない、親から祝福されない子供たち、親や大人たちから痛めつけられる子供たち、これらの未成年者たちの前で、必死に闘っているBPMの男と女。ナイーヴな美談になりえない映画です。
(→)公式サイト

(↓)予告編

2011年10月31日月曜日

あとは E Volo あとは E Volo...

Frànçois & The Atlas Mountains "E VOLO LOVE"
フランソワ & ジ・アトラス・マウンテンズ『エ・ヴォロ・ラヴ』


 丘。顔と体に煤。腕には革バンドで巻いた羽毛の袖套。アンチークな卑金属のペンダント。MGMTのファーストアルバムや宮崎駿の『もののけ姫』を想わせる図ですが、そこにいるのはどこかの天体からひとりこの荒れ地に送られてきたような心細い顔をするフランソワ。このフランソワはあちらにあるこちらにもあるフランソワと違う,ということを示すために名前の3文字めの上に角をつけて[ à ]としています。宇宙人にも識別可能のような目印みたいに見えます。
 この若者の名はフランソワ・マリー。私は多くのフランス人たちと同じように,2009年のサードアルバム『PLAINE INONDABLE』(私はこれを『洪水に襲われやすい平原』と訳してます。拙ブログのここ→He's a rainbowレヴューしてます)でこの音楽に出会っています。特にその中の1曲 "Be water(Je suis de l'eau)"のクリップにこれまでに見たも聞いたこともない驚くべき才能を感じたのでした。超マイナー・レーベルから発表されていたフランソワの作品は一躍オーヴァーグラウンドで語られるようになり,2010年に英国の大手独立レーベルのドミノ(アークティック・モンキーズ,フランツ・フェルディナンド,ロバート・ワイアット...)がフランス人アーチストとしては初めてのケースとしてフランソワと契約して,この新アルバムを制作します。
 E VOLO LOVE これはパランドローム(回文)。左からも右からも同じ文字が並んでいます。スペイン語として解釈するなら「私は恋(ラヴ)を盗んだ」という意味になりましょうか。「エ・ヴォロ・ラヴ」こんなタイトル見つけたら,さぞうれしいでしょうが,そのナイーヴさも隠せません。そのナイーヴさは,恋を盗んだゆえにその罰として地球に落とされてしまった宇宙人のメランコリーのようなジャケットアートにも現われます。最初期のル・クレジオ小説みたいなところもありますね。そこはかとなく宇宙人ぽいメランコリー,これがこのアルバムのポイントでしょうか。
 フランソワのステージは2009年にパリ20区のマロキヌリーに続いて,2011年夏はわが川向こうのロック・フェスティヴァル,ROCK EN SEINEで見ました。 後者の野外大ステージはとても場違いでその繊細さが殺されてしまいましたが,もともとこの若者の真骨頂は密室スタジオワークにあると思っていたので,さもありなん,という印象でした。これはアルノー・フルーラン=ディディエも同じで,いくらCDで音の魔術師になれても,ステージではほとんど何も発揮出来ない,というのが私の見方でした。
 アルバムは ROCK EN SEINEの2ヶ月後に出ました。良いジャケ,良いタイトル,ということは上で既に述べました。 「音頭」のリズムだった"Be water"の延長のようなエキゾティックで浮遊感あふれる1曲め"LES PLUS BEAUX"が始まったとたん,フランソワの音のマジックはぐっと音数を増した,と思わせます。一回り大きくなったロム・オルケストル(l'homme orchestre)は、前作までメンバー不定だったジ・アトラス・マウンテンズを、アモーリー・ランジェ(ドゥヌンバ、カレバスなどのアフリカン・パーカッション)、ロバート・ハンター(ドラムス)、ジョー・ウィーン(エレクトリック・ギター)、ジェラード・ブラック(キーボード)で固めました。すなわち、ひとりオーケストラ的だった前作までとは違って、バンドの音が骨組みとなった上で、フランソワの宇宙人的なアイディアでの弦や金管やポリフォニー・コーラスやエレクトロニクスが大活躍する、というオーケストレーションです。巧みなアートです。
 それはこのアルバムで密室でのイマジネーションから抜け出て、旅する音楽に変わってしまいました。出会いのある音楽、とも言えましょう。アフリカ、トロピカルな島、北アメリカの砂漠、どことも名付けられるハイウェイ、ホテル/モーテル... その出会いに応じてトラヴェラーのように英語とフランス語をごっちゃにして使っているようです。
その英語はブリストルで6年間暮らしていたフランソワの英語で、そのフランス語は西海岸シャラント・マリティームでの少年時代にランボー、ボリス・ヴィアンを読み、ドミニク・アの歌を愛していたフランソワのフランス語です。あるインタヴューで彼のこよなく愛する作家/詩人のひとりにチェーザレ・パヴェーゼ がいることを知り、フランソワのメランコリアの源のひとつはイタリアにもあったのか、と天を仰ぎます。マンマ・ミーア!
 前に私は「アマンダ・リアーのような」と形容したフランソワの中性的な声質の官能性は、この英語とフランス語が混じる時のフランス語詞の部分に顕著で、倒錯キャバレー的ですらあります。セクシーだった頃のボウイーを想わせる、地球に堕ちてきた男なのです。
どこで目が覚めたのか?(英語)
この奇妙な場所は何なのか?(英語)
熱い空気が周りを包み (仏語)
僕は月日の経つのを忘れた (仏語)
僕の皿には何が乗っているのか?(英語)
また料理なのか?(英語)
世界は回転し、(仏語)
飛び上がって降りてみたら別の場所だった(仏語)
                                ("AZROU TUNE")

 敬愛する先達ドミニク・アのミューズだったフランソワーズ・ブルー(フランソワの"à"と同じように、あちらにもあるこちらにもあるフランソワーズとは違うという印に、彼女はその名を"Françoiz"と綴ります)とデュエットで歌われる越境願望の歌もあります。
僕らは橋を探している。越境手引き人を探している
魚釣り師たちは僕らにこう警告した
「この水流は急で底が深い、
巻き込まれたら二度と戻れなくなる、
だから岸にとどまっていなさい
もう日が落ちる」
そして夜も落ち、
僕らは彼らの収穫である魚を
ほんの少しだけもらって食べる
彼らは戦争のことや季節のことを良いもののように語る
それは僕らには地獄なのに
もういいことにしよう...
僕らは向こう側に行きたかったのだ...忘れよう
                           ("CHERCHANT DES PONTS")
象徴詩的なメランコリーです。それは少年の日の淡い恋の悲しみを忘れるためにプールで大はしゃぎする照れ隠しのメランコリーの歌で極まります。
明日プールに行こう
晴れるだろうし、悲しみも忘れさせてくれるだろう
プールに行く道は思い出せるから
明日会おう
彼らは10メートルの飛び込み台からジャンプするだろうが
僕はせいぜい3メートルだ
キッズたちははしゃぎ、悪ふざけをするだろう
きみは飛び込み台の影に坐り
筋肉質の男たちが飛び込むのを見るだろう
きみは僕ときみのことを思い
僕ときみを溺れさせてしまうだろう
          ("PISCINE")
この歌は、誰も聞いたことがないフランソワのファーストアルバムに入っていた曲の再録音だそうです。詞も曲もヴィデオ・クリップもトータルな「水と悲しみ」を私たちにつきつけます。私はこのような才能を持つフランソワを「トータルなアーチスト」であると断言できるのです。

<<< トラックリスト >>>
1. LES PLUS BEAUX
2. MUDDY HEART
3. EDGE OF TOWN
4. CITY KIDS
5. AZROU TUNE
6. BURIED TREASURES
7. CHERCHANT DES PONTS
8. SLOW LOVE
9. BAIL ETERNEL
10. PISCINE
11. DO YOU WANT TO DANCE

FRANCOIS & THE ATLAS MOUNTAINS "E VOLO LOVE"
CD DOMINO RECORD FRANCE  WIGCD280
フランスでのリリース:2011年10月

(↓ "PISCINE" オフィシャルヴィデオ・クリップ)

2011年10月15日土曜日

もうひとりのクランデスティーノ



AKLI D. "PARIS - HOLLYWOOD"
アクリ・デ. 『パリ - ハリウッド』


 (新ゼブダを待ちながら。)
 アクリ・デ.(Akli Dehlis)は旅する人です。ノマードと言っていいのでしょう。その旅の最初というのは、1980年の「ベルベルの春」(カビリアの言語であるタマジット語の公用語化などを求めるカビリア自由化運動)に対するアルジェリア政府の弾圧を逃れる亡命の旅でした。自由に旅する人たちというのは、いろいろなものと出会うことを糧として生きていますが、旅先で受け入れられなかったり、法律や人々の狭い心に道を閉ざされたりします。拒絶されるケースは年々増えています。マニュ・チャオがその自由な密航者(クランデスティーノ)の過酷な事情を歌ったのは1998年のことでした。アクリはその翌年1999年に『Anefas Trankil(彼を自由にしてやれ)』と題するデビューアルバムを発表しています。それから十年以上経った今日、事情はますます悪くなっています。フランスでは自由な旅人はもとより、自由を求めて地上の地獄から逃れる旅に出た人たちに、道は閉ざされてしまった感があります。
 アクリ・デ.は80年代にフランスに着いて3年間は不法滞在者(サン・パピエ = 「紙」のない者)でした。クランデスティーノだったわけです。警察の目を逃れながら、パリのボーブール(ポンピドゥー・センター前)で、ギター弾語りでカビリアの歌を歌っていました。ワールドミュージックなど影も形もなかったその当時、アルジェリアの歌などごく稀にしか聞けないフランスで、ボーブールでこんな歌手が歌っているというウワサ(これを「テレフォヌ・アラブ」と言う)を聞きつけて、アルジェリア系の人たちが家族連れで大勢集まってきます。アクリはレパートリーにジャメル・アラムやイディールの歌を加えて大人気を博します。そんなある日、ガールフレンドに連れられてニール・ヤングのコンサートに行き、大変なショックを受けます。アクリのフォーク・スピリットはここが原点なのかもしれません。次いでボブ・ディラン、フェラ・クティ、ボブ・マーリーなどに傾倒していき、アクリ独自のカビール・フォークが生まれていきます。つまりベルベルのアイデンティティーと、フォークの歌心と、抵抗のメッセージと、アフリカのリズムとグルーヴ。若い時は恐いもんなしですねえ。
 ストリートで歌い、メトロで歌い、バーに出演し、そんなホーボー・カビール・アーチストとして実力をつけ、1999年に(倉庫で録音したと言われる)ファーストアルバムを発表。2006年にはマニュ・チャオのプロデュースで(田舎の家でほとんどライヴで録音されたという)セカンドアルバム『マ・イエラ(できることなら)』。スペイン、アイルランド、米国西海岸(サン・フランシスコ)、サハラ砂漠... 旅するアクリはその多種多様な出会いの中で、「言語」を見つけていったのだと思います。ボブ・マーリーやフェラ・アニクラポ・クティの英語、マニュ・チャオの英語とスペイン語、そういう平易で明晰でパワフルでそのランゲージを知らぬ人にさえ心が伝わるだろう歌詞と声、それをフランス語で実現しているアーチストたちもいます。ゼブダ、アマドゥー&マリアム、ティケン・ジャー・ファコリ、そしてフランス語で歌う時のスアード・マッシもそうです。タマジット語(ベルベル語)とフランス語で歌われるアクリ・デ.の歌詞と声も、まさにそうなのです。
 ストリート出身ということで説明すれば、ラ・リュー・ケタヌーも同じことを言っていました。初対面の人たち(つまりストリートの通りすがりの観客)に、歌を気に入ってもらえるのは、分かりやすく憶えやすくキメの利いたリフレインがあること、この言葉選びこそ、ストリートで生き抜くための秘訣なのだ、と。マニュ・チャオやフランソワ・アジ=ラザロ(ピガール)も地下鉄から出発したという点で、同じ言葉選びをしていたはずです。

 アクリ・デ.の3枚目のアルバムが届きました。刺激的です。一言一言、そして一音一音が残ります。望郷("Wali")、クランデスティーノの嘆き("Yeliss n'tizi ouzou"。マニュ・チャオ"Je ne t'aime plus"への目配せあり)、平和こそが解決というメッセージ("La Seule Solution")、海を渡ってきた亡命者たちの道を閉ざすな("Tziri"。ゼブダのマジッド・シェルフィが共作詞とヴォーカルで参加)、暗殺されたカビール抵抗歌手マトゥーブ・ルーネスへのオマージュ("Luken-Lounes"。スティーヴ・ヒレッジのギター/編曲)、マグレブの癒しのブルース:グナワへの讃歌("Mister Gnawi")、シャンゼリゼで茶を飲もうとしたらノマドお断りと言われる("Thé à la menthe")、子供時代の故郷への郷愁("Arggu")、ブルキナ・ファソからスターを夢見てパリに出てきた少女がファーストフード店員で終わる歌("Paris - Hollywood")、流謫の身を月に吠える狼に喩える("Je gueulais à la lune")、90年代にアクリも関わったオルタナティヴ・バンド、ヤン&レ・ザベイユ(2001年にリーダーのヤンが病死)へのオマージュ("Yan et les Abeilles")、バルセロナのバーの歌姫への恋歌("Maria"。アンパロ・サンチェスの素晴らしいヴォーカル)、門戸を開放せよと迫る("Laissez-les passer")。1曲とて不可解な歌はありません。すべて明晰で、すべて膝を叩いて同意したくなり、すべて心を打ちます。こういうアルバムは、そうざらにあるものではないはずです。

シャンゼリゼ大通りにやってきて
カフェで一杯のミント・ティーを注文したら
それはできないと言われた
ここはノマードのやり方が通用しないんだ、と

セーヌに沿って歩みを進め
野外にテントを張っていたら
それはだめだと言われた
ここはノマードのやり方が通用しないんだ、と

(リフレイン)
俺は誰だ?
俺はアマジールだ
俺は誰だ?
俺はアフリカン・アマジールだ
アマジールというのは「自由人」という意味なんだぞ

俺は北アフリカの故郷にもどってきたら
死の脅迫を受けた
おまえはだめなんだ
ここでもノマードのやり方はもう通用しないんだ、と

(リフレイン)
                
             ("Thé à la menthe" 薄荷茶)


 編曲プロデュースにフィリップ・エイデル(ハレド、加藤登紀子その他ワールド・ミュージック全盛期の名プロデューサー。ベース、ブーズキ、チャランゴ、キーボード等も)。1曲("Luken-Lounes")だけ例外で、編曲プロデュースがスティーヴ・ヒレッジ(元ゴング。キャルト・ド・セジュール、ラシッド・タハのプロデューサー)。ゼブダのマジッド・シェルフィ、レ・ゾグル・ド・バルバックのフレドも参加。
 アマジーグ・カテブ、ムース&ハキムなどのCDの横に並べるべき、必須の1枚です。

<<< トラックリスト >>>
1. WALI
2. YELISS N'TIZI OUZOU
3. LA SEULE SOLUTION (feat. FREDO from LES OGRES DE BARBACK)
4. TIZIRI (feat. MAGYD CHERFI from ZEBDA)
5. LUKEN-LOUNESS (feat. STEVE HILLAGE)
6. MISTER GNAWI
7. THE A LA MENTHE
8. ARGGU
9. PARIS - HOLLYWOOD
10. JE GUEULAIS A LA LUNE
11. YAN & LES ABEILLES
12. MARIA (feat. AMPARO SANCHEZ)
13. LAISSEZ-LES PASSER

AKLI D. "PARIS - HOLLYWOOD"
CD RUE BLEUE/L'AUTRE DISTRIBUTION AD1912C
フランスでのリリース:2011年10月10日


(↓)ヴィデオクリップ "Thé à la menthe"

2011年10月12日水曜日

世界はエチオ



COMPILATION "ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE - NOISE & CHILL OUT"
『エチオピアン・グルーヴ・ワールドワイド / ノイズ & チルアウト』


  まずはオマージュ。私たちのほとんどがこの音楽を知る源となったブダ・ミュージックのEthiopiques(エチオピック)」シリーズの監修者フランシス・ファルセトさんが、世界民族音楽界最大の年次見本市であるWOMEX(The World Music Expo)(2011年は10月26日〜30日、コペンハーゲンで開催)から、栄誉ある「プロフェッショナル・エクセレンス・アワード」賞を授けられることになりました。拍手。
  思えば「エチオピック」シリーズの第一巻が出たのは1998年のことです。それまでいわゆる西欧社会でエチオピアのポップ・ミュージックを聞くことができたのは、1986年ベルギーのクラムド・ディスクからリリースされたLP、マハムード・アハメド『エレ・メラ・メラ』と、1994年にフランシス・ファルセト自身が選曲監修してアスター・アウェケなど10組のアーチストを紹介した編集盤『エチオピアン・グルーヴ』(仏ブルー・シルヴァー/デクリック盤)だけだったのです。私たちはなぜこの音楽をその前に知ることができなかったのか、それはエチオピアという国の特殊な事情だったのです。誇り高いエチオピアは、植民地だったことがないのです。とは言ってもファシスト政権のムッソリーニのイタリアが、1936年から1941年までこの国を占領したことはありました。しかし概ねは(ハイレ・セラシエ皇帝の失脚まで)3000年の歴史を持つアビシニア王国の歴史なのです。
  ワールド・ミュージックが人々の口にのぼってきた80年代後半から90年代にかけて、その世界音楽の都は旧大英帝国の文化を吸収していたロンドンであり、旧ナポレオン・フランス帝国の文化を吸収していたパリであり、魅惑的なルンバ・コンゴレーズの旧宗主国ベルギーの首都ブリュッセルであり、カボ・ヴェルデ/アンゴラの葡語圏アフリカとブラジルの音楽文化を受容したリスボンでした。ところが旧植民地宗主国のないエチオピアは、誰にも見向きもされなかったのです。アメリカや欧州の片隅で、エチオピア移民たちが小規模で楽しむことを除いて、エチオピア音楽は誰の耳にも入ることができなかったのです。なぜなら、状況はさらに悪く、ファルセトが何度も強調するように、ハイレ・セラシエ皇帝の治世末期(60年代末期〜70年代前半)がこのエチオピアン・ポップ・ミュージックの短い最盛期だとすると、その後に軍事独裁政権がやってきて、「エチオ・ポップの春」は脆くも崩れさることになるのです。それを世界の誰も見ていなかったし、知るよしもなかったのです。
  フランシス・ファルセトの仕事は今さらながら脱帽ものです。こんな音楽を世界が知らないのはおかしい、という義憤の心の成せる業です。1998年「エチオピック」のシリーズが世に出るや、事情は一変します。多くの人が「何だこれは!」と興奮した驚きを示したのです。われわれの知らないブラス・サウンドのグルーヴ、われわれの知らないコブシ・ヴォーカルのソウル、われわれの知らない断腸のブルースである「テゼタ」、これらは世界音楽の地図で目立つことなどなかったエチオピアを一挙にキューバ並みの重要度で語らせることになるのです。
  世界中で興奮した人たちがいたのです。この音楽の虜になり、その表現を自分たちなりに取り込もうとしたバンドが世界の各所に現れたのです。ファルセトの最初の驚きは、アメリカのジャズビッグ・バンド、ジ・アイザー・オーケストラ(The Either Orchestra)の冒険でした。このビッグバンドはその音楽への心酔のあまり、エチオピアに音楽に出会う旅を挙行してしまいます。その記録は「エチオピック第20巻」としてCD化され、未体験の音楽的出会いは、多くの米・西欧・日のプレスで絶賛されました。2005年のことです。このようにアメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストラリアなどで、多くの若いバンドがエチオピア音楽にアプローチする試みが発生し、ゲタチェウ・メクリヤ、ムラトゥー・アスタツケ、マハムード・アハメド等エチオピアン・ポップの黄金時代のアーチストたちが世界中から声がかかり、共演へのラヴコールを受けるようになりました。
  恐ろしいものです。たった10年ちょっとで、世界がこんなにエチオピアの音楽に夢中になるとは、誰が予想したでしょうか。このアルバムは世界からのエチオピアン・ポップ・ミュージックへのラヴコールをまとめたようなコンピレーションです。選曲者フランシス・ファルセトはこの種のアンソロジー・アルバムは6枚は軽く作れると、そのライナーで述べていますが、それを2枚組28曲に厳選した、まさに「世界はエチオ」と言いたい世界に愛されたエチオピア音楽現象を証明する編集盤です。クロノス・カルテットから清水靖晃まで。スイスのビッグバンド、インペリアル・タイガー・オーケストラや、28歳のクラシック・クラリネット奏者グザヴィエ・シャルルなど。まさにレンジの広い選曲で、コピーではなくこの音楽を愛して自分のアートの中に取り込もうとしている人たちの様々な試みが見えてきます。いつのまにか、この音楽は奇妙ではなく、その縦横無尽に炸裂する金管楽器群の音も、私たちの音楽風景の一コマに落ち着きつつあるのでしょうね。

<<< トラックリスト >>>
CD 1 NOISE
1. DUB COLOSSUS (UK-ETHIOPIA) "GURAGIGNA
2. ETENESH WASSIE & MATHIEU SOURISSEAU (ETHIOPIA-FRANCE) "GONDER C'EST BON"
3. RATTLEMOUTH (USA) "CHIK CHIKKA"
4. UKANDANZ (FRANCE-ETHIOPIA) "SEMA"
5. ALEXO (FRANCE-ETHIOPIA) "TECHAWETU!"
6. TEZETA BAND (USA) "AYNOTCHE TERABU"
7. DEREB THE AMBASSADOR (AUSTRALIA-ETHIOPIA) "ETU GELA"
8. MAN BITES DOG & DE AMSTERDAM KLEZMER BAND (HOLLAND-FRANCE-ETHIPIA)"BALAGUE"
9. IMPERIAL TIGER ORCHESTRA (SWITZERLAND) "EMNETE"
10. NUBIAN ARK (ETHIOPIA)"DIMINISHED HEAVEN"
11. DEBO BAND (USA-ETHIOPIA)"ADERETCH ARADA"
12. LE TIGRE DES PLANATES(FRANCE) "YEZEMED YEBAED"
13. ARAT KILO(FRANCE) "ADDIS POLIS"
14. JAZZMARIS (ETHIOPIA-GERMANY) "LANTCHI BIYE"
15. GETACHEW MEKURYA & THE EX (ETHIOPIA-HOLLAND) "ETHIOPIA AGERE"

CD2 CHILL OUT
1. XAVIER CHARLES (FRANCE) "MUZIQUWI SILT"
2. ETH (FRANCE-ETHIOPIA) "HEYWET ENDIET NEW"
3. TSEDENIA GEBREMARKOS (ETHIOPIA) "HEMEMEN BEEQEFU"
4. KRONOS QUARTET (USA) "AHA GEDAWO"
5. EITHER/ORCHESTRA & BAHTA GEBRE-HEIWET (USA-ETHIOPIA) "ANTCHIM ENDELELA"
6. DANIEL TECHANE (ETHIOPIA-AUSTRALIA) "GELLETE"
7. SNOW FLAKE (CANADA) "LES CATACOMBES + INTRO : SUMMER DRINKING"
8. CHARLES SUTTON & JEFF FULLER (USA) "OO-OOTA SYASKEFFAM"
9. ZERITU (ETHIOPIA) "ATHIDEBEGN"
10. SAMUEL YIRGA (ETHIOPIA) "FIRMA ENNA WEREKET"
11. YASUAKI SHIMIZU & SAXOPHONETTES (JAPAN) "TEW SEMAGN HAGERE"
12. ABEGAZ & JORG (ETHIOPIA-GERMANY) "AHUNEM"
13. AKALE WUBE (FRANCE) "METCHE NEW"

COMPILATION "ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE - NOISE & CHILL OUT"
2CD BUDA MUSIQUE 860215
フランスでのリリース:2011年11月


(↓)USAのテゼタ・バンド、Tezeta Band "Aynoteche Terabu"(CD1 - 6曲め)

2011年10月10日月曜日

ジュークボックスで指を鳴らす男



"INTEGRALE SERGE GAINSBOURG ET SES INTERPRETES 1957-1960"

『セルジュ・ゲンズブールとその演奏者たち全録音集 1957-1960』

 セルジュ・ゲンズブール(1928-1991)の歌手デビュー期の音源が,発表から50年を過ぎてパブリック・ドメインに落ちたために,所属レコード会社(Philips/Universal Music)でなくてもこの音源を使ってCD製品が作れるようになりました。既に数社がゲンズブール初期作品集を出していますが,このフレモオ&アソシエ社から11月に出る3CDセットは「Intégrale(アンテグラル)」をタイトルにしています。つまり完全録音集をうたっているわけですね。ミソはゲンズブールだけでなく「Ses Interprètes(その歌手/演奏家たち)」を含むという点で,ゲンズブールが曲を提供した歌手たちや楽団のトラックも入っているのです。3CD66トラック中,ゲンズブール自身の歌およびゲンズブールが録音に関与している曲は46トラックで,20トラックは他の歌手/演奏家/楽団の録音です。水増しと言うなかれ。これが示しているのは、ゲンズブールの作詞作曲家としての評価の高さはかなり早い時期からあったということです。この3CDセットで「リラの門の切符きり Le poinconneur des Lilas」が、8つのヴァージョンで収録され、そのうち5つが他のアーチストたち(ユーグ・オーグレイ、ジャン=クロード・パスカル、レ・フレール・ジャック...)による録音であることを知る時、それは大衆的なヒットとならなかったにしても、もうプロの間でなかばスタンダード化していたのだ、と了解できます。
 とかく私たちが思いがちなのは、この時期のゲンズブールというのは売れない下積み時代ということになりましょう。エリザベート・レヴィツキーと住まいを転々と変えながら、ボヘミアンのような生活をしていたとされていますが、レヴィツキー自伝から読み取れるのは絵はほとんど描かず、ピアノバーで日銭を稼ぐ男の姿です。初めてシャンソンを書いたのは20歳頃とされ,それがJulien Grix(ジュリアン・グリックス)という変名でSACEM(著作権協会)に登録されたのは1954年のことです。
 同じ1954年にゲンズブールがギタリスト兼ピアニストとして雇われた右岸のキャバレー「ミロール・ラルスイユ」の看板女性歌手ミッシェル・アルノーが、その運命を変えたのかもしれません。ゲンズブールが一方的に恋慕していたようですが、最初冷淡だったアルノーがこの若いギタリスト(そうです、まだ26歳だったんです)が作詞作曲をしていると聞き、急に興味を持ち始めます。そしてゲンズブールにたくさん曲を作って自分のレパートリーを作り,それを自分で歌うように進言します。自分で作詞することに自信のなかった彼は,1956年にセルジュ・バルトレミーという大蔵省役人と出会い,その詩編のいくつかを見て,1編だけ気に入って曲をつけたのが「ロンサール58 (Ronsard 58)」でした。バルトレミーの詩のもう1編に「急げよメトロ (Metro au trot)」というのがあり,それが「リラの門の切符きり」のインスピレーションの源となったと言われています。しかし他のバルトレミーの詩に面白みを感じないゲンズブールは,自分ひとりで作詞作曲することを選びます。
 曲が溜まり,ミッシェル・アルノーの後押しで,「ミロール・ラルスイユ」のオーナーはゲンズブールを前座新人歌手として舞台に立たせます。その初めての夜,ゲンズブールは「俺の可愛い女奴隷たち(Mes petites odalisques)」と「リラの門の切符きり」の2曲をガチガチの直立不動で歌ったことになっています。この3枚組CDのフレデリック・レジャンによるライナー・ノーツによると,その夜,キャバレーの中に駆け出しの歌手だったユーグ・オーフレイがいて,「リラの門の切符きり」の歌詞とコード進行を夢中で書き写し,次の夜,自分が出演したキャバレーで歌った,と記されています。
 その才能を確信したミッシェル・アルノーはゲンズブール曲を2曲("Douze belles dans la peau"と"La recette de l'amour fou")を1958年1月に録音し,その2曲の入った4曲入りシングル盤は1958年3月に発売されます。これがゲンズブール曲の初レコード化です。それと前後して「ミロール・ラルスイユ」にレコード会社フィリップスのスカウトマンが訪れ,1958年2月に同社ディレクターのジャック・カネティを前にオーディションが行われ,その結果ゲンズブールはフィリップスと契約します。9曲入りの10インチアルバム『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』は1958年の6月と7月に録音され,9月に発売されます。これがゲンズブール自身の初のレコードです。
 その発売を待たず,ミッシェル・アルノーの歌などによってゲンズブールの噂はシャンソン界に広まり,ジャン=クロード・パスカル,イヴ・モンタン,フィリップ・クレイなどがゲンズブールの歌を歌いたいと申し出ます(しかし,モンタンとクレイは実際には録音しません)。ジャック・カネティはレ・フレール・ジャックとゲンズブールを引き合わせ,レ・フレール・ジャックは「リラの門の切符きり」をシングルで録音し,58年9月に発売しています。
 この時期の重要な出会いは編曲者/楽団指揮者のアラン・ゴラゲールです。ボリズ・ヴィアンとの仲から,ヴィアンの編曲/伴奏をしていたゴラゲールのことは知っていましたが,このフィリップスとの契約で本格的なゲンズブール/ゴラゲールのコラボレーションが始まります。このCD3枚組には最初のアルバム『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』の編曲/伴奏に始まり,アラン・ゴラゲール楽団としてゲンズブール曲4曲を(主にダンスホール用に作られるインストルメンタル・レコードとして)ビッグバンド・ジャズ化した4曲シングル盤『Du Jazz à la une(一面トップのジャズ)』,そしてゲンズブールと共同で担当した映画音楽『山小屋の狼(Les loups dans la bergerie)』(1960年)と『唇によだれ(L'eau à la bouche)』(1960年),また珍品としてゴラゲール楽団のラテン風変名,ロス・ゴラゲロス(Los Goragueros)名義の録音によるゲンズブール曲「マンボ・ミャム・ミャム」なども収められています。
 ゲンズブール自身の録音では9曲入り10インチLP『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』(1958年),8曲入り10インチLP『NO.2』(1959年),LP未収録のシングル曲『La jambe de bois - Friedland (木の義足-フリードランド)』(1959年),そして4曲入りシングル盤『Romantique 60 (ロマンティック60)』(1960年)がフィリップス正規盤の録音として収録されています。その他にラジオ公開録音のテープとして,1957年12月に「ミロール・ラルスイユ」でライブ録音され,58年1月にラジオParis-Inter(現在の国営France Inter)で放送された「俺の可愛い女奴隷たち(Mes petites odalisques)」,同じく1958年5月にアリアンス・フランセーズで公開録音され,同年6月にラジオParis-Interで放送された「リラの門の切符きり」他2曲(この時のピアノ伴奏がセルジュの父親であるジョゼフ・ギンズブルグ)という貴重でレアな録音が収められています。
 またジャック・カネティが経営していた小ホール「トロワ・ボーデ」での1959年のゲンズブールのライヴ録音「リラの門の切符きり」(CD2の1曲め)を聞くと,1年間でずいぶんとこの歌への肉付けがしっかりしたもんだ,と感心します。すでにスタンダードの貫禄があります。そのシャンソンの肉付けやニュアンスや色彩の盛りつけということで言えば,CD2に5曲収められたジュリエット・グレコによる録音が格別です。グレコが歌うことによって,これほど膨らみが出るのか,と驚かずにはいられません。
 ですから,他人の録音が入っているということは,このCD3枚組には大変有効なのです。早くもゲンズブール世界の広がりがこの時期にあったことの証言なのですから。
フレデリック・レジャン筆のライナー・ノーツは詳細を極めていて,その周辺の録音についても詳しく言及しています。これをこのまま訳せば,ゲンズブール研究者には大変貴重な資料になるはずです。ぜひ日本で紹介されることを希望します。
 おしまいに,1959年録音の『NO.2』の第1曲め『フィンガースナップの男(Le claqueur de doigts)』(CD3の1曲め)は,この3枚組CDのジャケットにも使われている,ジューク・ボックスの前で指を鳴らす男です。1956年にリトル・ウィリー・ジョンが歌い,1958年にペギー・リーの歌で世界的なヒットとなった『フィーヴァー(Fever)』のパクリとよく言われたりもしました。この指を鳴らす男,当時30歳。人はゲンズブールを「遅く来た男」と思いがちですが,今日的感覚の30歳では「早くから才能が開花した男」と思っていいのではないでしょうか。半世紀の時間差で,30歳は同じ価値ではないのでしょう。

<<< トラックリスト >>>
CD1   Serge Gainsbourg(1957) “MES PETITES ODALISQUES” - . Serge Gaomsbpirg (1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU – “FRIEDLAND(LA JAMBE DE BOIS) - “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Serge Gainsbourg/Du Chant à la Une(1958) “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “CE MORTEL ENNUI” – “RONSARD 58” – “LA FAMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “L’ALCOOL” – “DU JAZZ DANS LE RAVIN” – “LE CHARLESTON DES DEMENAGEURS DE PIANO” – Michele Arnaud(1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Jean-Claude Pascal(1958)”DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Hugues Aufray(1958)”LE POINCONNEUR DES LILAS” – “MES PETITES ODALISQUES” – (BONUS) Hugues Aufray(1958) “LE POINCONNEUR DES LILAS” en concert
CD2   Serge Gainsbourg/Opus 109 aux Trois Baudets(1959)”LE POINCONNEUR DES LILAS” - Serge Gainsbourg(1959) “LA JAMBE DE BOIS(FRIEDLAND)” – Les Freres Jacques(1959) “LE POINCONNEUR DES LILAS” – Alain Goraguer/Du Jazz a la Une “CE MORTEL ENNUI” – “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA FEMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “DU JAZZ DANS LE RAVIN” – Michele Arnaud(1958)”LA FEMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “JEUNES FEMMES ET VIEUX MESSIEURS” – Simone Bartel(1959) “ DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – Juliette Greco/Greco Chante Gainsbourg(1959) “IL ETAIT UNE OIE” – “LES AMOURS PERDUES” – “L’AMOUR A LA PAPA” – “LA JAMBE DE BOIS(FRIEDLAND)” - “ LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Jean-Claude Pascal(1959) “LE POINCONNEUR DES LILAS” - Pia Colombo(1959)’DESENSE D’ENTRER” – Lucien Attard(1958) “LE CHARLESTON DES DEMENAGEURS DE PIANO” – Jacques Larsy et René Gary(1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – Trumpet Boy(1959)”LE CLAQUEUR DE DOIGTS” – Los Goragueros(vo: Humberto Canto)(1959)”MAMBO MIAM MIAM”
CD3   Serge Gainsbourg/NO.2(1959)”LE CLAQUEUR DES DOIGTS” – “LA NUIT D’OCTOBRE” – “ADIEU CREATURE” – “L’ANTHRACITE” – “MAMBO MIAM MIAM” – “INFIFFERENTE” – “JEUNE FEMME ET VIEUX MESSIEURS” – “L’AMOUR A LA PAPA” – Michele Arnaud(1958) “IL ETAIT UNE OIE” – “RONSARD 58” – Serge Gainsbourg avec Alain Goraguer Orch(1960)/Bande originale du film LES LOUPS DANS LA BERGERE “GENERIQUE” – “FUGUE” – “LES LOUPS DANS LA BERGERE” –“CHA CHA CHA DU LOUP” – “LES LOUPS DANS LA BERGERE(fin)” – Serge Gainsbourg Avec Alain Goraguer Orch(1960)/Bande originale du film L’EAU A LA BOUCHE “BLACK MARCH” – “ANGOISSE” – “JUDITH” – Serge Gainsbourg/Romantique 60(1960) “CHA CHA CHA DU LOUP” – “SOIT BELLE ET TAIS-TOI” – “JUDITH” – “LAISSEZ-MOI TRANQUILLE - (BONUS) Francis Lemarque + Serge Gainsbourg(b.vo)(1959) “ELLE N’AVAIT QUE DIX-SEPT ANS”

"INTEGRALE SERGE GAINSBOUR ET SES INTERPRETES 1957-1960"
3CD FREMEAUX & ASSOCIES FA5335
フランスでのリリース:2011年11月

(↓)ジュークボックスで指を鳴らす男



追記(2011年10月12日) :

この3CDは「初CD化13トラック」とCD上のスティッカーと,裏ジャケのパトリック・フレモオの短文解説でうたわれています。しかしこれはCDの解説ではどの曲なのかが,明記されていません(少々不親切ですね)。そこでフレモオ社に問い合わせたところ,これまでCD未発表だった13トラックの詳細が送られてきましたので,以下に列記します。

SERGE GAINSBOURG
Concert à l'Alliance Française (1958)
CD1 - 2. Présentation par Roger Bouillot 〜
Douze belles dans la peau
CD1 - 3. Friedland (La Jambe de bois)
CD1 - 4. Le poinçonneur des Lilas
CD1 - 5. La recette de l'amour fou

HUGUES AUFRAY (1958)
CD1 - 21. Le poinçonneur des Lilas en concert

ALAIN GORAGUER ET SON ORCHESTRE - Du Jazz à la Une !
CD2 - 5. Le poinçonneur des Lilas
CD2 - 6. La femme des uns sous le corps des autres

SIMONE BARTEL (1959)
CD2 - 10. Douze belles dans la peau

JEAN-CLAUDE PASCAL (1959)
CD2 - 16. Le poinçonneur des Lilas

LUCIEN ATTARD ET SON ENSEMBLE (1958)
CD2 - 18. Le charleston des déménageurs de piano

JACQUES LASRY,SON ENSEMBLE ET RENE GARY (1958)
CD 2 - 19. Douze belles dans la peau

TRUMPET BOY (1959)
CD2 - 20. Le claqueur de doigts

LOS GORAGUEROS (chant : Humberto Canto) (1959)
CD2 - 21. Mambo Miam Miam

2011年9月30日金曜日

サンセットは日没だが、日はまた昇るはず


Paul Auster "SUNSET PARK"
ポール・オースター『サンセット・パーク』


 の小説は2010年にアメリカで出版され、その仏語翻訳版が2011年9月にフランスで出た、ポール・オースターの最新作です。前作『インヴィジブル』についてはここで書いてませんが、前々作の『マン・イン・ザ・ダーク』については2009年1月の拙ブログで称賛しています。フランスではオースターの全作品が翻訳されていて、新作が出る度にベストセラーの上位にランクされる人気の高さで、フランスのブックフェアに常連のようにやってきます。毎回フランスでの新刊発表はメディア露出度も高く、この作家へのフランス人の関心の高さは、他のアメリカ人作家には見られない現象です。オースター自身もフランス留学経験があるだけでなく、フランス文化の造詣は並々ならぬ深さで、当地でのインタヴューはフランス語で応対しています。フランスとオースターの相思相愛関係は2000年代に入ってますます強まっているように見えます。それはおそらくフランス人にとって、最も良く「今のアメリカの空気」が見えてくる作家だからではないか、というのが私の見方です。9.11テロも、相次いだ戦争も、オバマ当選も、アメリカの大きな事件の数々をオースターはその小説の中で「空気」あるいは「状況」として深く取り込んでいて、その「現在」の中に私たちを引き込むのです。
 新作『サンセット・パーク』の年代設定は2008年から2009年にかけてです。サブプライム・ローン問題〜リーマン・ブラザース破綻の後です。われわれアメリカの外にいる人々にとって、この時に急に経済的な苦境にあるアメリカというのが現実となって見えてきます。貧しい人々の溢れる国アメリカ、職のない国アメリカ、それは今に始まったことではないにしても、私たちには2008年頃まで現実感がなかった。この小説は急激に未来の展望が難しくなった人々の現実が通奏低音になっています。最初の舞台はフロリダです。われわれフランスにいる者から見れば、「合衆国のコート・ダジュール」だったところです。ここでサブプライイム・ローンの返済不能で持ち家を手放した人々がゴマンといて、その借金返済の一部として補填するために、住宅に置いてあった家具調度、電化製品などをトラックで回収してまわる業者があります。28歳の若者マイルス・ヘラーはその雇われで、安い給料を得ながら、つましく暮らしています。テレビも携帯電話もインターネットもなく、楽しみと言えば写真を撮ることと文庫本を読むことぐらいで、彼は何事もなければ、そのまま質素に生きながらえると思っていました。
 それを一変させたのが、17歳のラティーナの少女、ピラールとの出会いです。二人はある日同じ公園で、偶然に同じ本(フィッツジェラルド『華麗なるギャツビー』の文庫本)を読んでいることに気付き、話し始めます。マイルスはこの少女が非常に聡明で、『ギャツビー』に関して独創的な解釈をしていることに驚かされます。高校生ピラールは大学進学を準備していて、マイルスはその援助を買って出ます。なぜならマイルスも一介の肉体労働者ではなく、さる事情でコロンビア大学を中退して家を出たという事情があり、中身は上級のインテリです。二人はこうしてマイルスの狭いアパートで同居生活を始めます。
 ピラールは両親を失った4人姉妹の末娘で、それまでは3人の姉と身を寄せ合って生活していました。貧乏ゆえに3人の姉は生活費のために職を選ばずに働いていますが、長姉アンジェラはおそらく売春まがいのことまでしながら夜の世界で生きています。アンジェラはマイルスとピラールの関係を良く思っていないばかりか、この関係を逆手に取ってマイルスに恐喝をしかけます。ピラールが未成年者であるために、誰かが警察に密告すれば、マイルスは未成年者誘拐の罪で監獄行きは免れません。マイルスはその脅しに屈しないために、ピラールに持ち金すべてを渡し、翌年の5月にピラールの誕生日が来て成人になった時に迎えに来る、という約束でフロリダを去ります。
 小説のもうひとつの出発点は崩壊してしまった家庭です。マイルスが7年前に出たニューヨークの家は、父モーリス・ヘラーの経営する大手出版社も電子書籍やインターネットの脅威の前に、これまで経験したことのない危機的な状態にあり、父の二度目の妻ウィラと父との関係も危機的です。マイルスはモーリスの最初の妻であるメアリー・リーとの息子ですが、女優であるメアリー・リーは育児に耐え切れず、女優の道を続けるためにモーリスと別れ、西海岸に移り住みます。二度目の妻ウィラには連れ子ボビーがいて、マイルスはその義理の兄であるボビーと一緒に育てられ、家族4人はうまく機能していたのですが、マイルスが17歳の時に二人は口論になり、人気のない道路を歩きながら二人の関係は険悪になり、マイルスが我慢がならなくなり、ボビーを腕で押してしまいます。ボビーはバランスを崩し、道に倒れ、そこに通りかかった自動車がボビーを轢き殺すという結果になります。月日が経っても、マイルスは後悔の念に苛まれ、この家で暮らすことはできないと、学業を放棄し、両親の援助を断ち切って旅に出ます。それがもう7年も続いてしまっているのです。
 とは言っても親は警察に捜索願を出すわけではない。モーリスはぎりぎりのところで息子を信頼している。息子も同じで遠くにありながら、親の安否を気遣っています。その両方に密かに通じながら、双方の状況を通報している二重スパイのような働きをしているのが、マイルスの古くからの親友のビングです。マイルスはビングを通じて親の状態を知り、モーリスもまたビングを通じて息子の状態を知るのですが、親も子もビングが両方に情報を送っているということを知りません。
 ジャズ・バンドのドラマーであり、タイプライターなどの古道具修繕業者でもあるビングは、ニューヨークのブルックリンに廃屋を見つけ、気の合った仲間と「スコッター」を始めます。管理者や市当局の監視の目がないことを幸いに建物を不法占拠することですが、電気も水道も使えるままの状態になっているこの無人の古い建物をビングは修繕し、4部屋を使用可能にします。
 ウィリアム・ワイラー映画『我等の生涯の最良の年』(この映画は小説の数人の登場人物によって論じられ、小説内の重要な共通話題となります)とをテーマにした博士論文を準備している女性アリス、不動産屋に勤めながら若い時の妊娠中絶のトラウマから逃れるために画家になろうとしている女性エレン、そしてビングがこのスコッターのスタート時からの住人です。オースターの小説構成の得意技ですが、個々の人物の物語は小説内小説と言える深さと複雑さがあり、味もありクセもある個性です。このブルックリン、サンセット・パークのスコッターに、フロリダを出て行かなければならなくなったマイルスが参入します。
 もう一度最初に述べたアメリカの今日的状況に話を戻しますと、彼らは「ニュー・プアー」です。ニューヨークでまともな家賃を払えるような収入のない人たちです。余裕があってドロップ・アウトしたのではありません。スコッターをしなければこの都市で暮らせない現実に生きている人たちです。いつの日か警察が立ち入って、強制退去させられる、という脅威におびえて生きています。このサンセット・パークで、4人は家賃ゼロの代わりに、食事や家屋管理を分担し、一人一人の負担を最小限にすることのために共同生活のルールを守っているのです。小説はこの不法占拠住宅が、コミューン的にどんどんユートピア化していく方向で描かれます。アリスもエレンもビングも、その個々の物語は紆余曲折ありながらどんどん良い方向に進んで行きます。
 そしてマイルスも7年ぶりに帰ってきたニューヨークで、父親との和解、義母との和解、加えて危機的であった父親と義母の関係も雪解けというチャンスが目の前までやってきます。その上、実母である女優のメアリー・リーもニューヨークでサミュエル・ベケット劇『しあわせの日々』の舞台に主演するために西海岸から出て来ています。一挙に三者との全面和解という展望が開けます。自分の7年の不在は無駄ではなかった、と。
 恋人の少女ピラールはクリスマス休暇に生まれて初めてフロリダからニューヨークにやってきて、マイルスとの変わらぬ愛を確認し、近い将来この町で大学教育を受け、マイルスと一緒になるという可能性を確信してフロリダに帰ります。
 小説はこのように夢のような最良のハッピーエンドに向かって、クレッシェンドの最高点まで達します。全編で317ページある小説は、その305ページまでこのハッピーエンド終結のピーク点を保ちます。読む者はここでジャック・ドミー映画『ロッシュフォールの恋人たち』の大団円、すなわちパズルのように複雑に入り組んでいて出会うことを拒絶されていた3組の恋人たちが最後に一挙に出会ってしまうエンディング、そういう終わり方を99%まで予想してしまいます。この305ページまでの幸せの予感は、この果てしない上昇感は並大抵のものではありません。
 ところが最終9ページには全く違う結末が待っているのです。

 ユートピアは実現しません。終わり方はそれが不可能というものではありません。無惨に破壊されても希望はつなげられるものでしょう。ここで傷ついた若者たちはまさに2008年的現実との戦いの負傷者であっても、討ち死にしたわけではありません。サンセット・パークは「日没公園」だが、日はまた昇るはず、と思いましょう。
 小説の中で父と子の和解は、二人とも大ファンである野球のエピソードがつなぎ役になっています。大リーグの名選手たちの名プレーとその生きざまをモーリスもマイルスも百科事典的に記憶しているのです。名選手のストーリーが、これも小説内小説として、名調子の講談のように何度も登場します。野球の話をし始めたら止まらなくなる父と子、この感じはアメリカ人や日本人には了解できても、フランス人にはわからないのではないかしらん。
 

Paul Auster "Sunset Park"
(Actes Sud刊。2011年9月。319ページ。22.80ユーロ)


↓「サンセット・パーク」を朗読するポール・オースター

2011年9月25日日曜日

勝てる戦いに負けることを「トラファルガー」と言う



Archimède "TRAFALGAR"
アルシメード『トラファルガー』


 ニコラとフレデリックのボワナール兄弟のバンド、アルシメードのセカンドアルバムです。ファーストアルバムは2009年6月に当ブログのここで紹介しているので参照してください。
 しかし、セカンドはファーストよりもずっと優れています。相変わらずのブリティッシュ・サウンドへのこだわりがあるもの、ファーストの「英語のように響くフランス語」を越えて、しっかりとフランス語で響くポップ・ロックを作り出しています。ビシビシ決まるポップなメロディーに、ビリビリ風刺のきいたフランス語詞が流麗に乗っています。ヴァレリー・ルウー(テレラマ誌)は、その詞のキマリ方をジャック・デュトロン(すなわち、ジャック・ランズマン詞)に、その風刺性をルノー(のプロテスト・ソング)にたとえました。大変なほめ方だと思いますが、この完成度の高さはフランス語を解さない人たちにも了解できるだろうと私は思います。一語一語がよく「鳴っている」感じ。英語コンプレックスをはね返せる鳴り方に聞こえます。
 シングルカットされた2曲め「Le bonheur(幸福)」は、「腕にローレックスをはめていないからと言って、きみはルーザーなんかじゃないんだ」と第一行が始まったとたん、それはサルコジとその宣伝マンだったジャック・セゲラ(「50歳でローレックスを持っていなかったら、おまえの人生は失敗だ」とほざいた)への小気味いいジャブ攻撃になります。5曲め「Les petites mains(小さな手)」は、大企業の王道主義や保守政党UMPの専制に爪を立てられるのは小さな手からでも可能と言っているように聞こえます。また6曲め「On aura tout essayé(全部試してみたところで)」は、失いつつある愛を救うには、効き目があると世に宣伝されていること(温泉、精神分析、セックストイ、風水、ヨガ、豪華旅行、エロい下着...)を全部試してみたところで、どうにもならないんだ、という真実を歌います。愛を救うのは愛しかないのだ、と。10曲め「Tout fusionne (みんな融合)」は、企業や役所やレコード会社などがどんどん併合/合併/一本化していっている現状を皮肉って、音楽ジャンルの融合、世界の料理の融合、銀行と保険会社の融合、航空会社の融合、ブルジョワとボヘミアンの融合...みんな融合できるんだったら、きみと僕も融合しないか、というオチの痛快な歌。
 8曲め「Les Premiers Lundis de Septembre(毎年9月の第一月曜日には)」で、私たちフランスに暮らすすべての人々のメランコリーが、美しいバラードで浮き彫りにされます。
9月の第一月曜日は
悲しみが僕たちを絞め殺しそうになっても
がまんするんだ、抵抗するんだ
と僕たちに教えるために毎年やってくるんだろうか
9月の第一月曜日は
歳月は過ぎても
何も変わらないんだ
と僕たちを絶望させるために毎年やってくるんだろうか

 フランスに住む人たちが共有する、この9月第一月曜日の悲しみは、私は娘が学校に行くようになってから初めてわかりました。9月第一月曜日は新学年の第一学期が始まる日です。この日を子供たちは最も忌み嫌います。長く楽しい夏のヴァカンスは終わり、この日から生活は「元通り」という現実を思い知らされるわけです。私はフランスで学校生活を送ったことがないし、日本での子供時代の夏休みしか知らなかったし、そんなに夏休みに遊んだ記憶もないし、学生の頃はバイトばかりしていたし、という事情で、こんな悲しみは知る由もなかったのですが、娘は私たちとは違い、毎年この9月最初のメランコリーを実体験して暗い顔になっているのです。私はそれが娘から伝染して、9月のメランコリーを肌で感じるようになったのですが、あらゆるメランコリーがそうであるように、それはある種甘美なものでもあるのです。
 このアルバムは2011年9月5日にリリースされました。つまり今年の9月第一月曜日です。この歌がこのアルバムで非常に重要な位置にあることを証明していましょう。私にとってのベストトラックです。
 トラファルガーの戦いは1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊と、ナポレオン皇帝のフランス帝国海軍とそれに追随するスペイン艦隊の連合軍との間に交わされた海戦で、艦船数でまさった仏西連合艦隊をイギリス艦隊が破ってしまいます。ロンドンにはその戦勝を記念してトラファルガー広場があり、ネルソン提督の碑が立てられています。フランスではそのショックが後をひいて、今でも勝てる戦いに負けることを「トラファルガー」と表現します。
 アルバムがどういう経緯でこのタイトルになったのかは定かではありません。英ロックに並々ならぬ敬意を抱くボワナール兄弟の、「イギリスさんにはかなわない」という自虐的表現なのかもしれません。
 ところがアルバム最終曲の「Bye Bye Bailleur(賃貸者よ、さらば)」を聞いてごらんなさいよ。これは言わばアルシメード版の(ビートルズ)"I am the walrus"で、分厚くサイケデリックなストリングスと弓弾きギター、コーラス、サンプル、ナンセンスな歌詞、クレッシェンドする塊のようなウォール・オブ・サウンド、ニコラのふてぶてしいヴォーカル。たとえイギリスにモデルがあるとしても、こういう歌はイギリスに何らの遜色もないと思うのですよ。
 最後にもうひとつ特筆すると、アルバムのいろんなところで、フレデリック・ボワナールの弓弾きギターがよく鳴っています。これもファーストアルバムにはなかったこと。

<<< トラックリスト >>>
1. L'intrus
2. Le Bonheur
3. Je prends
4. A mes dépens
5. Les Petites Mains
6. On aura tout essayé
7. Est-ce que c'est juste ?
8. Les premiers lundis de septembre
9. Nos vies d'avant
10. Tout fusionne
11. Bye Bye Bailleur

Archimède "Trafalgar"
CD JIVE/EPIC - SONY MUSIC FRANCE 88697898442
フランスでのリリース:2011年9月5日


オフィシャルサイト:www.archimedemusic.com

(↓)「Le Bonheur(幸福)」オフィシャル・クリップ

ARCHIMEDE - Le bonheur par Lesairsavif

2011年9月21日水曜日

しかし何はともあれ Mais malgré tout


 そのリフレインはこうなってます。
しかし何はともあれ
Mais malgré tout,
僕はいつもつとめるようにと自分にこう言い聞かせるんだ...
je me dis toujours d'essayer que...
太陽は歌い 鳥たちは輝き
Le soleil chante, les oiseaux brillent
草原は僕に微笑みかけ 人生は緑だ
L'herbe me sourit et la vie est verte

 何かがおかしいでしょう。「太陽は歌い 鳥たちは輝き」は「太陽は輝き 鳥たちは歌い」であるべきだし、「草原は僕に微笑みかけ 人生は緑だ」は「草原は緑で、人生は僕に微笑みかける」というのが筋でしょう。その前の「僕はいつもつとめるようにと自分にこう言い聞かせるんだ」は、「僕はいつも自分にこう言い聞かせようとつとめるんだ」となりましょう。
 イニアテュス・ジェローム・ルッソーの最新アルバム『ありがたき偶然(タマタマ)』(2009年)の3曲め「太陽は歌う Le Soleil Chante」に、またまた素晴らしいアニメーション・クリップができました。制作はデルフィーヌ・ビュリュス。紙製のマリオネットや背景セットを使ったシュールで童話的な作品です。上のリフレインの説明で述べたように、歌詞はキーとなる言葉の語順を逆にしています。しかし「それでいいのだ」というバカボンのパパ的な思想があります。「太陽は歌い 鳥たちは輝き」で何がおかしいのだ? 「人生は緑」で何がおかしいのだ? そうです、間違いとは言わせない魅力があり、こういう世界観があってもいいじゃないか、と思いましょう。デルフィーヌ・ビュリュスのアニメーションはそれをできるだけ忠実に動画化しています。過度に説明的にならずに。

太陽は歌う Le Soleil Chante

僕の「味」の中に
変な「口」が残っているような
「ちょっと気になる」目をした
「アーモンド型をした」娘の記憶

僕の「かきまわす」中に
残っている「頭の」ようなもの
どうしようもなく そいつは僕を「めちゃくちゃに」し
僕を「酔わせて」くすぐるんだ

僕は彼女を「試し」たいのに
何度「忘れ」てもだめなんだ
その「僕の心」のような微笑みは
「からかい」を蹂躙した

しかし何はともあれ
僕はいつも「つとめる」ようにと「自分にこう言い聞かせる」んだ...
「太陽」は歌い 「鳥たち」は輝き
「草原」は僕に微笑みかけ 「人生」は緑だ



 これをここまで訳すだけで、レイモン・クノーを無理矢理日本語にするような楽しい苦悩がありました。無駄な努力ですけど。気が向いたら、後半の3ストローフも訳してみましょう。それまでは、この珠玉のアニメーション・クリップを楽しんでください。

2011年9月16日金曜日

復讐するは我にあり、我これを報いん

Philippe Djian "Vengeances"
フィリップ・ジアン『復讐』


 フィリップ・ジアン(1949- )は日本では『ベティー・ブルー』(原題"37°2 le matin" 1985年発表。翌年ジャン=ジャック・ベネイクスによって映画化)の一作でしか知られておりません。残念なことです。フランスでもこの作家は「真ん中」にいる人ではなく,マージナルな小説家と見られがちです。セリーヌとビート・ジェネレーションの直系のような文体は,えてして多くの人たちは「アメリカかぶれ」を思ってしまうわけで,サリンジャーやフィリップ・ロスと同じような読まれ方が可能なフランスでは独自なポジションにいる人です。80-90年代にはスイスのポップ・ロック・アーチスト,ステファン・エシェールの作詞家としてヒット曲もずいぶん出しました。こういうポップな立ち回りが,どうもこの作家を軽めに見てしまう原因かもしれません。三十余年の作家歴で文学賞とは無縁ですが、根強いファン層があります。私もそのひとりです。
 最新作『復讐』は2011年6月に発表されました。 
 まず目につくのは、数頁に一度の割で、この人差し指シンボルの「☛」が文頭に現れます。全編で四十数回「☛」が出ます。読み進めていくうちにわかるのですが、これは話者が変わる時の記号です。話者は二人いて「私」と第三者の「筆者」で、前者は一人称で書かれ、後者はすべて三人称で綴られます。これは一種の遠近法で、自分の目からの近距離描写と、第三者からのやや距離を置いた客観的で冷静な描写が、交互に現れるわけです。二人の話者は常に同時のことを語るわけではなく、時間の前後があり、読む側のリズムは一定でなくなります。「☛」はそのシンボルが示すように「あっち向けホイ」なのです。話者が変わる度に、私たちは首を横に向けて次元のラジカルな移動を体験することになります。「私」のテンションやパッションや疑いがクレッシェンドする時に、この「☛」が出てきてす〜っと熱を冷ましてくれるような効果もあります。
 出だしはすばらしいです。朝、地下鉄の中で急性アルコール中毒で死にかけているボロボロの若い女、自分の吐き出した嘔吐物の中で倒れている娘、これを主人公(マルク)が助け起こし、自宅に連れて帰って介抱します。この出会いにはマルクが何か直感したからに他ならないのですが、小説はいとも簡単にこの出会いが必然的であったことを認めてしまいます。出だしはいいのに、そのあとのフォローが短絡的で、このことがこの小説の唯一の弱点のように私は読みましたが、そんなものをどうでもいいようなものにする勢いがこの小説にはあります。
 マルクは50歳代の造型芸術家で、そこそこその世界では売れていて、その創造性はともかくとして世界中のコンテンポラリー・アートの蒐集家たちからまずまずの注文が来ていて、金に困ることのない地位にいる男です。そういう世界にそこそこ売ることを可能にしているのは、そのマネージャー兼秘書的な、その渉外関係の一切を担当するパートナーである男、ミッシェルがいるからで、このパートナーシップは30年近く続いています。当然この二人は最も親密な友情関係にあります。それは彼らが若かった頃、ある党派に属し、その理想のために既成の法律を無視するような活動まで一緒にしていた頃から持続しているものです。その頃のもう一人の仲間がアンヌという女性です。マルクとアンヌはそのお互いの旺盛な肉欲をしゃぶりつくすほどの狂熱的な関係にありました。その後、アンヌとミッシェルはカップルになり、二人は結婚し、マルクの親友としてマルクのアーチスト活動を支援しながら、マルクの稼ぎで生計を立てるという信頼関係と依存関係がごっちゃになった一種の運命共同体を形成しています。
 マルクは最初の妻との間にアレックスという長男をもうけますが、その妻は去り、ミッシェルとアンヌに親しいエリザベートという女性が伴侶となっていました。マルク=ミッシェル=アンヌの共同体に近かったこの女性も安定せず、そのうちに18歳の息子アレックスが頭部に弾丸を撃ち込み自殺する、という事件が起こり、その責任の是非を問う問わぬの口論の末、エリザベートはマルクのもとを去り、二度と帰ってきません。
 小説はこのマルクが息子を自殺で失い、エリザベートが去った後、独りで暮らしているところから始まります。その独りのマルクが、地下鉄で見た名も知らぬ泥酔少女を家に引き込むところから物語は始まるのです。少女はその数時間後に目が覚め、マルクが知らない間に、その介抱されて寝かされたいた部屋をめちゃめちゃに壊して姿を消してしまいます。何も盗まれたものはないのに、部屋に飾ってあった息子アレックスの写真だけがなくなっています。
 ミッシェルとアンヌはこのエピソードを好みません。マルクがエリザベートを失った反動で、衝動的に若い娘を連れ込んだ、という短絡した理由で説明しようとします。出会う前からミッシェルとアンヌはこの少女に猜疑心を抱いています。それはこの少女が三人の共同体を脅かす何かを持っているのだ、という直感に他なりません。
 ところがマルクのこの少女を守らねばならないという直感は、何よりも強くなっていきます。息子を自殺で失った不可解さのカギをこの少女は持っているかもしれない、という自分勝手な思い込みです。しかしてこの少女グロリアは、再びマルクの前に現れるのです。そしてグロリアは死んだアレックスの恋人だったことが告白され、マルクを密かに追い回していたという事実も明らかにされます。マルクは極貧の状態にあるグロリアを、何の条件もつけないから、マルクの家に住んでくれ、と嘆願し、二人の奇妙な同居生活が始まります。親友ミッシェルとアンヌはこのことをマルクの狂気の沙汰としか見ることができず、エリザベートが戻ってくることこそがマルクの正常化と考える二人は、マルクとグロリアの同居の早期破綻を願います。ところがこの情緒の欠落したようなパンクな少女グロリアは、そこに居座り、マルクと少しずつ接点を増やしていきます。マルクは、アレックスの恋人だったおまえは、俺の義理の娘のようなものだから、とその関係を自分に言い聞かせながらも、この少女が抗しがたい美しさと性的魅力を持っていることを否定できません。
 ジアンの多くの小説のように、この小説も生身の人間の性が通奏低音です。片方に50歳代のマルク、ミッシェル、アンヌという性の老いが深刻な世代があります。その前に突然現れた、はちきれんばかりの瑞々しい性を体現するグロリアがいます。これが衝突した場合、どうなるのか。アンヌは難しい問題を抱えています。それはミッシェルが性的不能に陥り、アンヌと性的に交われなくなっていて、アンヌは昔のようにマルクが性的パートナーとなってくれたら、と願って、マルクへの誘惑を再開します。マルクはミッシェルとの長年の友情を裏切るわけにはいかない、とそれを拒否します。ところが、マルクはアンヌとそれはできないにも関わらず、その世界のパーティーの機会ごとに一夜の性的パートナーを簡単に見つけてしまうのです。アンヌにはそれが許せない。
 その上、その三人の親友関係を揺るがす大異変は、不能と思われていたミッシェルが、少女グロリアの前では欲望を取り戻してしまうのです。肉体の悪魔はこうして現れ、アンヌとミッシェルはそれぞれ別の理由で、この若い娘の挑発が許せなくなっていきます。ミッシェルはマルクを疑い、マルクがこの娘を家に引き入れた理由はまさに性のことであるに違いないと思い込みます。アンヌはアンヌでマルクが自分の誘惑に屈しないのはグロリアのせいだと思うようになります。こうして三人の関係は緊張化していきます。
 グロリアは欲望に抗しきれずに執拗につきまとってくるミッシェルを拒否し続け、ミッシェルの欲望は狂気の域まで達しているのがマルクには見えてきます。4人は一緒に旅行に出かけ、ある夜、そのテンションは頂点に達してしまいます。その数日後、海岸でグロリアは全身を打ちのめされ、その顔が原型をとどめぬほどに殴打された瀕死の状態で発見されます。病院に収容された彼女はずっと昏睡状態のままで、生死の境を行き来しています。
 このことを知った親友三人は一様に大ショックに打たれ、ミッシェルはひとりになりたいと山のホテルに引きこもってしまいます。しかしマルクには確信があります。グロリアを殺そうとしたのはミッシェルに違いない、と。復讐心に狩られたマルクは、ミッシェルを殺しにその山岳地帯に乗り込みます。
 この小説のクライマックスで、ジアンの筆致は混沌しまくります。ミッシェルのいるところへの近道とホテルに教えられた道順を進むとマルクは深い森の中に迷ってしまいます。その森の中で、さまざまな幻視/幻聴/幻覚のような体験がやってきます。大鹿と出会い、突き飛ばされて気絶し、猟師の銃弾で頭を吹き飛ばされた大鹿を庇い、死神の女と不可解な言葉で会話し、行き先の知れぬトンネルに迷い込み...。フリー・ジャズの集団ブローを聞いているような大混乱の数ページがあります。すばらしいパッセージです。
 その末にマルクはミッシェルを殺すことになるのですが、グロリアを襲った犯人は実はミッシェルではないのです....。

 老いつつある3人は、長年続いた運命共同体的な関係にすがって、その老いを隠そうとするのですが、それを隠すにはアルコールやコカイン(その他の薬物)がどうしても必要なのです。その無理矢理なバランスを、ひとりの美しくまぶしい少女の出現は、いとも簡単に壊してしまいます。ミッシェルを焦燥に狩らせ、アンヌを嫉妬とフラストレーションで狂わせたこの少女は、最後にマルクを復讐の念で破壊してしまうのです。このデストロイのインパクトは、映画にしたらもっとはっきりするのではないか、と想像したりします。


Phillpe Djian "Vengeances"
(ガリマール刊 2011年6月。196ページ。17.50ユーロ)

 
(↓)1001librairie.comで公開された「フィリップ・ジアン、自作最新小説『復讐』を語る」。

 

2011年9月12日月曜日

サルコジスム10年間の犠牲者たち



Gérard Davet & Fabrice Lhomme "SARKO M'A TUER"
ジェラール・ダヴェ & ファブリス・ロム 『サルコ・マ・チュエ(私を殺したのはサルコ)』


 仏語を少しかじった人ならば,この本の題が文法的に間違いということがわかりますね。正しい用法では "Sarko m'a tué"となります。この間違いは1991年に起こった「ギレーヌ・マレシャル殺人事件」に由来するもので,被害者のマレシャル夫人が撲殺され,死体が見つかった地下室の白い扉に血文字で "Omar m'a tuer"(ママ。オマール・マ・チュエ)と書かれていたのです。そこでマレシャル夫人に庭師として雇われていたモロッコ系移民労働者オマール・ラダッドが容疑者として捕えられ,この血文字以外に彼が殺人を冒したということを示す確固たる証拠がないまま,94年に殺人罪で18年の禁固懲役刑の判決を受けますが,96年に大統領恩赦で減刑出獄します。しかしこの事件の真犯人は見つかっておらず,謎に包まれたままなのです。一躍この犯人を名指す(文法間違い)血文字は有名になり,ロシュディ・ゼム監督によって映画化(Omar m'a tuer)もされました。
 『サルコ・マ・チュエ(私を殺ったのはサルコ)』はニコラ・サルコジ(現フランス共和国大統領)によって邪魔者と見なされ,要職を追われ,解雇され,口封じのための恫喝を受け,私生活をマスコミ上で暴露され,第一線から消されていった人々の証言集です。これらの人々を取材し,本としてまとめたのは,ル・モンド紙のジャーナリストの二人,ジェラール・ダヴェとファブリス・ロムです。
 証言しているのは27人。ダヴィッド・セナ(元ミッシェル・アリオ=マリー法相顧問、ベタンクール事件の情報をル・モンド紙に漏らした疑いで解任),オーレリー・フィリペッティ(モーゼル県選出の社会党国会議員、サルコジが救済の約束を公言した製鉄工場の地元の議員で約束不履行を厳しく糾弾したのが原因で私生活上の問題をメディアに暴露される),ジャン=ユーグ・マテリー(警察/憲兵制度の改革に批判的な論文を発表した上級憲兵),ジャン・シャルボノー(サルコジ地方訪問中にデモを鎮圧できなかった県警本部長),クリスチーヌ・ブータン(元住宅担当大臣,キリスト教民主党党首、自党のサルコジ支援の代償として大臣職を得るが数ヶ月後に解任),ピエール・ド・ブースケ・ド・フロリアン(ヴィルパン派警察高官),アラン・ジェネスタール(元パリ・マッチ誌編集長。セシリア・サルコジと恋人リシャール・アチアスの写真暴露記事),ジャック・エスペランデュー(元ジュルナル・デュ・ディマンシュ紙編集長,大統領選挙にセシリア・サルコジが投票しなかった記事),マルク・ロベール(検事),ヤニック・ブラン(元パリ警視総監),イザベル・プレヴォ=デプレ(元リリアンヌ・ベタンクール事件担当判事,ベタンクールのUMP党へのヤミ献金を調査していた),イヴ・ベルトラン(元国家警察総合情報局長),クレール・チボー(元リリアンヌ・ベタンクール家の会計係,ベタンクールからサルコジおよびUMP党へのヤミ献金の証言者),エリック・デルザン(元コルシカ県警本部長,コルシカで開催したサルコジの政治集会が独立運動派に邪魔された責任で解任),ジュリアン・ドレー(ソンヌ県選出社会党国会議員,SOSラシスム発起人のひとり),ジャン=ピエール・アヴラン(元ミディ・ピレネ県保安本部長,PP = ポリス・ド・プロクシミテ=住民密着型警察活動の有効性をトゥールーズで証明,PPを解体させたサルコジと対立),ジェラール・デュボワ(元パリ警視副総監。セシリアの浮気をマスコミに流したと疑われた),ヴァレリー・ドマン(元ガラ誌ジャーナリスト,セシリア・サルコジの告白本を出版しようとした),ダニエル・ブートン(元ソシエテ・ジェネナル銀行頭取),アブデラハマン・ダハマン(元大統領参事/外国人統合担当),ディディエ・ポルト(世相漫談家,国営放送フランス・アンテールから解雇される),ドミニク・ロッシ(元コルシカ保安部隊員,サルコジの親友である俳優クリスチアン・クラヴィエのコルシカに所有するヴィラを不法侵入された責任で解任),ジャック・デュピュイドーヴビ(サルコジの親友の富豪実業家ヴァンサン・ボロレに対抗する海運/港湾会社グループ社長),ルノー・ヴァン・ルインベック(元クリアストリーム事件担当判事),パトリック・ポワーヴル=ダルヴォール(元TF1の20時ニュースのスター・ジャーナリスト),パトリック・ドヴェジャン(オー・ド・セーヌ県知事,UMP党国会議員),ドミニク・ド・ヴィルパン(元首相,共和国連帯党党首,サルコジの積年のライバル)。
 ここまで名前ばかりを書いてますが,フランス事情に詳しくなければ,どこにでもあるような政敵崩しの記録ではないか,と思われるかもしれません。バッタバッタと斬りまくるこのやり方は,どこにでもあるわけではありません。むしろ独裁国家/全体主義国家の下でなければできないことに近いでしょう。
 この対立派つぶしは2002年5月,シラクが大統領に再選され,国会多数派として保守が返り咲き,ニコラ・サルコジが内務大臣になった頃から始まります。内務省とは警察/国家保安委員会の総元締であり,各種の諜報機関が集ったところです。ここを要塞化するためにサルコジは自分の強力な側近だけで固め,元からいる要職者をひとりひとり解任します(ここまではよくあることと言っていいでしょう)。社会党シンパや親シラク派がその対象ですが,大統領シラクはそれをストップできるのに,しだいにそのチェックの手は弱まっていきます。2004年11月にサルコジがUMP党大会で85%の票を集めて党首に就任すると,その2年半後の大統領選挙を待たずにサルコジ派は党内の対立派(すなわちシラク=ヴィルパン派)のパージを始めます。2007年に大統領になってからは、そのパージはあらゆる反サルコジ派に及びます。
 上にリストで挙げたように、その標的は政界だけでなく、法曹界、財界、マスコミ界、芸能界、一般市民に至るまで広い範囲にわたるのです。法曹界はこれほどまでに蹂躙されたことはこの国ではなかったはずです。法治国家にして三権分立の原則を尊守しているはずの国で、大統領府が簡単に検事や判事の首をすげ替えるのですから。司法の独立、裁判の中立性は非常に危ういものになっています。その端的な例が、息子ジャン・サルコジが起こしたスクーター事故で、息子のスクーターにぶつけられた自動車の持主が損害賠償の訴訟を立てたところ、判決は息子無罪、逆に訴訟を立てた被害者が「過剰請求」で有罪になったのです(2008年9月)。もはやこの国に公正な裁判などない、と思わせる事件でしたが、この国の法曹界は必死にこの不条理な大統領府に圧力に抵抗して闘っているのです。この本で証言している検事や判事はその必死に闘った末に、その良識ある法曹人たちへの見せしめとして消された人たちです。
 この「見せしめ」という効果を大統領府は盛んに使います。この人たちはメディアに大きく紹介されて、公衆の面前で大統領府からの徹底的な辱めを受け、消されていくのです。われわれに逆らう者はみんなこうなるのだ、というデモンストレーションです。
 マスコミに関してはサルコジは予め手を打っています。大きな新聞、週刊誌、民間ラジオ/テレビの多くはその経営者たち、もしくは親会社グループの首脳陣が親サルコジ派になっています。フィガロ・グループの親会社社長セルジュ・ダッソーについては拙ブログの別記事でジョゼフ・マセ=スキャロンの小説のところで詳しく書いているので参照してください。またパリ・マッチ誌やエル誌などの大手雑誌と民間ラジオ大手のウーロップ1などの親会社となっているラガルデール・グループの二代目総帥アルノー・ラガルデールもサルコジの親友ですし、ヨーロッパ最大の民放テレビ局TF1の親会社であるゼネコンとテレコムのブイーグ・グループの二代目総帥マルタン・ブイーグもしかりです。これらの民間マスコミはサルコジの不都合になる報道をできるだけ避ける自主検閲システムが出来ていて、前述のジョゼフ・マセ=スキャロンのようにその掟に従わないジャーナリストは容赦なく解雇されます。この本ではパリ・マッチ誌でまだ内務大臣夫人であった頃のセシリア・サルコジの恋の逃避行を写真入りでスッパ抜いたアラン・ジェネスタールと、セシリア・サルコジの告白本を刊行しようとしたヴァレリー・ドマン、そしてサルコジへの突っ込んだ質問が過ぎたTF1のスターニュースキャスターであったパトリック・ポワーヴル=ダルヴォールが紹介されています。
 同じマスコミでも国営放送では事情が違っていたのですが、これもサルコジが完全な大統領府コントロールの下に置くために、国営の2社、ラジオ・フランスとフランス・テレヴィジオンの社長を大統領府が指名できる法律を2008年に国会で通過させています。サルコジに指名された社長が国営放送を統括するわけですから、それはそのままサルコジが国営放送の番組ひとつひとつに注文をつけられる体制ができたことなのです。その象徴的な事件が国営ラジオのフランス・アンテールから世相漫談家のステファヌ・ギヨンとディディエ・ポルトの解雇劇なのですが、この本ではディディエ・ポルトが証言しています。
 サルコジは2002年から内務大臣としてその手腕を高く評価され、彼の超タカ派的で容赦ない厳罰主義的言説で、治安のスペシャリストのように保守支持者および一部の極右支持者からも信奉されていました。警察内でもサルコジがボスになったら何ものを恐れることなく思う存分仕事ができると思っていた勢力がありました。最新テクノロジーを導入することと警察の権力行使権を拡大することが約束されました。その代わりにサルコジは「数字を上げること」を警察に要求します。逮捕件数と調書発行件数を飛躍的に伸ばし、犯罪件数を減らすこと。この中には不法外国人居住者の強制送還件数の倍増も含まれています。警察官は数字を上げるために日夜努力することになります。数字を上げた者だけが昇進し、数字の上がらない者は左遷されます。一種の極端な「生産性向上」を目標とする私企業と同じようなありさまです。
 変わり果てた警察の中で、ミディ・ピレネ県保安本部長を解任されたジャン=ピエール・アヴランはこの本の証言の中でサルコジとの根本的な警察観の違いをこう述べます:
私とサルコジには警察に関して全く相容れない2つのヴィジョンがある。私は警察とは国民の安全に奉仕するものと見ている。それに対してサルコジはそれを権力に奉仕するものと見ているのだ

 サルコジは警察を大統領権力の行使のために100%利用できるものだと思っているわけです。大統領にとって不都合なことをもみ消したり、大統領の気に喰わない者を脅しに行ったりするのも全部警察がやってしまうのです。警察とは権力に奉仕するもの。この本でも大きく取り上げられているリリアンヌ・ベタンクール事件でも、大統領府は検察と警察の両方に圧力をかけて、証拠を消したり、証言者に証言撤回を迫ったりします。
 ジャーナリストを脅したり、逆にジャーナリストに政敵のスキャンダルを垂れ込んだり、というマスコミの全体主義的コントロールに非常に長けています。ジャーナリストも市民も消される恐怖から、おのずと大統領に批判的な発言や大統領に不利な発言は慎むようになります。これは「恐怖政治」と言ってもいいのではないでしょうか。
 4-5年前まで最も威勢のよかった社会党の政治家のひとり、ジュリアン・ドレーの転落劇も生々しい証言で語られます。ドレーはサルコジと同世代の政治デビューで、お互い歯に衣着せぬ弁舌で、それぞれの陣営で頭角を現していった経緯があり、政敵でありながら、お互いを認め合っている部分がありました。ヌイイというブルジョワ地区から出て、それまで成功する政治家の必須条件であった名門師範校(エコール・ノルマル、特にENA = Ecole Normale d'Administration)卒ではないというハンディキャップを押しのけて、超アクティヴな政治アニマルとして昇りつめていったサルコジに対して、アルジェリア生れ郊外育ちで元トロツキスト、常に若者たちの間にいてSOSラシスムを国民的な大衆運動に育て、2007年の大統領選挙戦にはセゴレーヌ・ロワイヤルの選挙参謀の中心人物だったドレー。この左翼に人望あつい人物を抱き込もうと、サルコジは大統領当選後、内密にドレーに内閣入りをプロポーズするのです。ドレーはまずこの入閣の噂だけで、社会党内のドレー支持者を失ってしまいます。ドレーはきっぱりとその噂を否定し、絶対にサルコジの誘いには乗らないと表明します。顔に泥を塗られたと思ったサルコジは、ドレー崩しを開始します。ドレーの個人銀行口座の金銭出納に異常がある(なぜこのような個人情報が大統領府の手に、と思われましょうが、合法だろうが非合法だろうが大統領府には何でもできるのです)、と噂を流します。多額の金(160万ユーロ)がSOSラシスムと社会党系学生団体からドレーの口座に流れ、ドレーはそれを越える2百万ユーロの出費をしている。噂はさらに、それはポーカーで擦ったとも、超高級腕時計を買ったとも、メディアで書き立てられ、ドレーの隠された私生活が暴き出されます。スキャンダルは法廷に持ち越され、これをすべて洗い流すのにドレーは3年間も苦渋の日々を強いられます。5年前までは次期社会党党首候補と言われ、次々期大統領候補とまでも言われていたドレーは、おそらくこれで二度とそのレベルまで再浮上することができない打撃を受けました。
 しかし何と言ってもこの本の最重要の2章は、リリアンヌ・ベタンクール事件にからむ、元担当判事のイザベル・プレヴォ=デプレ、そして元ベタンクール家の会計係のクレール・チボー、この二人の女性のどんな恫喝にも屈しない「ベタンクール → サルコジ」ヤミ献金に関する証言です。この部分だけでも日本語に翻訳されればいいのに、と願います。なぜなら、このような女性たちがいるから、押しつぶされそうになっているフランスの裁判制度や司法の独立も、絶対につぶされないぞ、という希望を私たちに残してくれるのです。
 時代の空気は5年前からとても悪いです。ジャーナリストたちの大半が権力からの圧力におびえていて、多くの市民たちが裁判の公正さも信じられなくなっています。だからこそ、こういう本が必要なのです。勇気あるジャーナリストと証言者たちに、感謝とシャポーです。

Gérard Davet & Fabrice Lhomme "SARKO M'A TUER"
(Stock刊 2011年9月1日。360頁。19ユーロ)


(↓L'Express誌編集長クリストフ・バルビエによる『サルコ・マ・チュエ』紹介ヴィデオ)