2019年2月26日火曜日

見えた見えたよ松原ごしに

マチアス・マルジウ『マルジウの「人魚姫」』
Mathias Malzieu "Une Sirère à Paris"

にも何度か書きましたが、この人は「今コクトー」ですから。音楽、文学、BD、映画、今のところこういう分野でマルチな才能を派手に披露していますが、フィールドはますます拡がるでしょう。この新小説もすでに映画制作が始まっていて、今回はアニメではなく実写で、監督マルジウ、主演がレダ・カテブ(ガスパール)、クレマンス・ポエジー(ルラ)、ヴィルジニー・ルドワイヤン(ミレナ)、ロシー・デ・パルマ(ロジー)なのだそう。そしてディオニゾスによる音楽アルバムも用意されています。
 さてマチアス・マルジウ(1974 - )の最新小説『パリの人魚(Une Sirère à Paris)』です。タイトルからモロですが、人魚の物語です。擬人メタファーではなく本物の人魚です。このブログでも紹介しているマルジウの小説『時計じかけの心臓』(2007年)や『空の果てのメタモルフォーズ』(2011年)と同様の7歳から77歳までの子供のためのファンタジーです。しかし"人魚”という題材は、あまりにもアンデルセン作『人魚姫』 (1837年)のイメージが世界の人々に浸透しているため、それと縁のない人魚像を創り出すのはほぼ困難でありましょう。すでに舞台裏の史実として『人魚姫』は作者アンデルセンの大失恋から生まれたものですが、マルジウの本作も主人公ガスパールの大失恋が根底にあります。悲しみのどん底まで投げ落とされ、生きる力を失い、二度と恋などできるわけがないと思っていた男が、人魚と出会って...、という簡単に予測可能なストーリーです。
 時は2016年6月、記録的な雨続きでパリのセーヌ川が大増水した時です。小説の描写ではパリは浸水し、多くの死者、行方不明者が出ていたということになっています。シテ島向い左岸のモンテベロ河岸に接岸している帆船ファストフードレストラン/ショーボートの「フラワーバーガー」(スペシャリテ:季節の花バーガー)のオーナーの息子で、ショータイムにはウクレレ持って歌うショーマンであるガスパール・スノウ(Gaspard Snow、カウボーイハットを被り無精髭を生やした小柄&やせっぽちの若者)は、洪水のセーヌの橋の下から聞こえてくる、これまで一度も聞いたことがない美しい歌声に引き寄せられ、傷ついて弱っている青い血を流す不思議な生き物を発見し、助け出します。タミール人が運転するトゥクトゥク(三輪タクシー。パリ市内も2000年代から観光用で結構走るようになった。このトゥクトゥクはこの小説中よく働いてくれる)を捕まえ、全速力でサン・ルイ病院(パリ10区。17世紀からある古い病院で、建物は中世を思わせ、幽霊も多そう。2016年マチアス・マルジウが前作『パジャマを着た吸血鬼』で描いた自らの血液病入院闘病の舞台となったところ)まで連れていくのですが、救急受付で(実際よくある話ですが)「保険証(carte vitale)はお持ちですか?」という第一関門から前に進まなくなる。その間に病院地下の駐車場に置いておかれた謎の生物は、息絶え絶えながらも美しい歌声を上げ、それに引き寄せられて病院勤務の外科医ヴィクトールが飛んでくるのだが....。
 結局病院では全く埒があかないと判断したガスパールは、傷ついた人魚をパリ5区ラ・ブッシュリー通り(かのシェイクスピア&カンパニー書店の裏)の自宅アパルトマンに保護し、浴槽の中に入れて手厚く看護(四角いフィッシュフライを食べさせる)するのです。
 さて古今の人魚伝説でよく言われるように、人魚の歌声に魅せられ引き寄せられた男はみな死ぬことになるのです。今回の最初の犠牲者が外科医ヴィクトールです。しかし21世紀の一応超近代的な病院ですから、この血が青くなって息絶えたヴィクトールの謎の死はさまざまに分析され、ヴィクトールを愛していた女医ミレナ(制作中の映画ではこの役をヴィルジニー・ルドワイヤンが演じるようです。楽しみ)は現場の地下駐車場に残っていたウロコや青い血痕などから、そこにいてヴィクトールと接触したのが人魚であったと知るに至り、愛するヴィクトールへの復讐の心半分、これ以上犠牲者を出してはいけないという人道的理由半分で、血眼になって人魚の行方を捜すようになります。
 一方のガスパールは同じように人魚を歌声を聴いたのだから、体に変調をきたし、命を失ってしまうはずだったのだが、それはそうはいかないのです。
 ここでガスパールの個人事情を説明しますと、上に書いたように、彼は7年越しの大恋愛に破れて、そのショックのために生きる気力も失っていました。それから家族関係ですが、かの帆船レストラン「フラワーバーガー」は祖母シルヴィア・スノウが創業したもので、傑物であったこの女性は不思議なフード(フラワーバーガー)と幽霊や怪物を仲間につけたショー・スペクタクルで、人々を「驚かせる」ことで幸せにできる血筋を後世に残そうとしました。この「驚かせる人」という職業を彼女は "Suprisiers(シュープリジエ)"と名付けた。
Suprisiers : ceux dont l'imagination est si puissante qu'elle peut changer le monde.... du moins le leur, ce qui constitue un excellent début.
シュープリジエとは : 世界を変えてしまえるほどの強烈な想像力の持ち主のこと... とは言っても少なくとも彼ら自身の世界を変えられるということだが、それでもそれは優れた出発点である。
このシュープリジエになるための未完の手引き書"Le livre secret des Suprisiers(シュープリジエ秘伝書)"を亡くなったシルヴィアは孫のガスパールに託します。なぜなら息子(つまりガスパールの父)のカミーユは少々頼りなく、経営不振を理由に帆船レストラン「フラワーバーガー」を売りに出して、シルヴィアの遺志を継ごうとしない。そうは言ってもカミーユも悪い人物ではなく、大失恋で前途が見えなくなっているガスパールに、空気を変えて新しい道に進ませるにはこうでもしなくては、という親心でもあるのです。しかしガスパールは「フラワーバーガー」売却には真っ向から反対し、なんとかシュープリジエの道を進みたいと思っている。そんな中に巻き起こったこの人魚事件、その最中に船の売買契約は固まりつつある...。
 救われた人魚の名はルーラと言い、何千年の時を生きてきたのですが、セーヌ大洪水で受けた傷は大きく、このまま(青い)血が流れ続ければあと2-3日ももたない、火急的速やかに大海に戻してやらないといけない。そしてそれを救おうとしたガスパールも、人魚の必殺の美声のために死ぬはずだったのに死なないのは.... 見え見えのシナリオですが、恋が芽生えるからなんですな。(だんだん書いていくのがアホらしくなってきました...)
 ま、荒唐無稽などちらかと言えば20世紀アニメあるいはハリウッド喜劇流の想像力で成り立っているファンタジー読み物です。現役音楽家のマルジウですから、音楽リファレンスも多く登場し、最初のセーヌ大洪水でエディット・ピアフの"Non je ne regrette rien"のレコードが針飛びで繰り返されるところは、こいつその日本語題の「水に流して」というのを知ってて書いてるな、と思ったものでした。ガスパールの飼っている猫の名がジョニー・キャッシュ、外科医ヴィクトールはイヴ・モンタンの物真似が得意、その他レオナード・コーエン、ニック・ケイヴ、セルジュ・ゲンズブールなどネタはたくさん。マルジウの第一回監督映画(アニメ)『ジャックと時計じかけの心臓』(2013年)と同じように、これも最初からミュージカル仕立てで構想されていたような、音楽が聞こえてきそうな小説ではありますが...。
 で、小説はガスパールが人魚ルーラに出会ってから彼女を海に返してやるまでの3日間という短い時間の間に起こる波乱万丈が描かれるわけですが、一方でガスパールとルーラが彼の「シュープリジエ」的想像力の高揚によって恋が結晶化していくというストーリーと、もう一方で女医ミレナが亡くなった恋人ヴィクトールの仇討ちのために科学的に人魚を追い詰めていくというストーリーが、双方クレッシェンド的に最高に盛り上がったところで、え?という異変があって終わるという、起承転結のあるわかりやすい話です。
 小説として書いた、というよりも、映画という最終的な完成品のための第一段階の脚本案のようなものです。この種のファンタジー連作の最初の『時計じかけの心臓』(2007年)以来のティム・バートン映画的な趣味は変わりません。こうやって"ティム・バートン的"と書いてしまうと、この人の想像力というのはどうも限界があるように思えてきます。その想像力は作中の祖母シルヴィア・スノウによると「世界を変えられるほどに強力」でないと「シュープリジエ」にはなれないのです。そこが課題でしょう。映画化作品はそこんところ、その想像力の見せどころという映画にしてほしいものですが、商業性が先行しないことを切に願います。
 さて小説の最後は美しいです。「鶴の恩返し」的なところもありますが、人魚ルーラがガスパールのアパルトマンなどに落としていったたくさんのウロコ片は雲母化して凝固し、これまで発見されていない宝石として超高価で買われていきました。その金で帆船「フラワーバーガー」号は売却を免れたばかりではなく、大改造され、川船から大海の航行もできる船となります。ガスパールは「フラワーバーガー」一座のクルーを引き連れて、この船で、いつか人魚ルーラと再会することを夢見て、大海原に向かって帆を上げるのです。カモン、セイル・アウェイ! この時マチアス・マルジウは帆に家紋の「丸に十の字」を掲げるに決まってるじゃないですか。

Mathias Malzieu "Une Sirène à Paris"
Albin Michel 刊 2019年2月7日 240ページ 18ユーロ


カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ディオニゾス「パリの人魚(Une Sirène à Paris)」(ヴォーカル:マチアス・マルジウ+バベット)


**** 2019年3月6日追記 ****

(↓)3月6日国営テレビFRANCE 5の番組「ラ・グランド・リブレーリー」に出演したマチアス・マルジウ。小説『パリの人魚』に登場する不思議な機械 "VOICE-O-PHONE"(スピード写真のように、瞬時にして自分の声のレコード盤ができるコイン式自動販売ボックス)や、四面ハーモニカ "コクリコフォン"などが実在することを証言。また聴く者に死をもたらしてしまう人魚の声のメロディーを実演したりしている。



 

2019年2月22日金曜日

モン・デュー、モン・デュー....

『幸運にして』
"Grâce à Dieu"

2018年制作フランス/ベルギー合作映画
監督:フランソワ・オゾン
主演:メルヴィル・プーポー、ドニ・メノシェ、スワン・アルロー
2019年ベルリン映画祭・銀熊賞
フランス公開:2019年2月20日

ず映画のタイトルとなっている "Grâce à Dieu"について。これはフランス語の慣用表現で、「さいわいなことに、幸運にして」という意味であるが、字句通りには「神のおかげで」と訳せる。これはカトリック教会リヨン司教区の最高責任者バルバラン枢機卿が、20-30年前の同教区内のプレナ司祭による百件を超えると言われるペドフィリア事件が告発によって世に公表された際に行った記者会見の中での表現である(実話。このシーンは映画の中で出てくる)。
Nous sommes confrontés à des faits anciens, et grâce à Dieu, tous ces faits sont prescrits.
私たちは古い過去の諸事件と向き合っているが、幸いにして(神のおかげで)これらのすべての事件は時効となっている。
映画では、この発言の直後にひとりのジャーナリストがこの枢機卿の「神のおかげで」という表現に噛みつき、「これが幸いなことなのですか?」と詰め寄る。言わば枢機卿の失言であったのだが、ここに「神 Dieu」が介在するため、ことは二重三重の重みを帯びてしまう。
 このフィクション映画は実際の事件に基づいていて、当事者たる聖職者たちの名前は実名で出され、列挙される事件はこれまで事実と認定されたものだけに限定されている。事件は裁判抗争中であり、結審するまで被告となっている聖職者たちの「推定無罪 présomption d'innocence」は尊重されなければならない。これは上映された映画でも最初と最後の字幕で強調されている。そしてこの「推定無罪」の尊重を主張する被告の弁護人は、この映画の公開延期を求める訴えを起こしていて、フランスの封切り日(2月20日)の前日まで予定通りの公開は危ぶまれていた。しかし直前の2月16日、ベルリン映画祭に出品されていたこの映画は同映画祭の審査員グランプリ・銀熊賞を受賞し、国際的映画人たちはこの映画公開のためにプレッシャーをかけた。2月19日午後、パリ地方裁判所は公開延期要求を退け、予定通り2月20日の公開を正式に許可した。
 1980-90年代、リヨン司教区の司祭ベルナール・プレナ(演ベルナール・ヴェルレー)がボーイスカウト活動などを通じて犯したペドフィリア(彼の場合幼い少年たちへの種々の性的行為)が、30年以上経った今日になって被害者たちが次々に告発し、ブレナ司祭のみならず、その上位聖職者で2002年からリヨン司教区の枢機卿となっているフィリップ・バルバラン(演フランソワ・マルトゥレ)をブレナの性犯罪を知りながら司祭の任を解かず犯罪隠蔽+助長していたとして「非告発 non-dénonciation」の責任を問う裁判抗争に発展した。映画はこの告発がどう始まり、フランスのカトリック教会を揺るがす大訴訟になっていったかを、史実に基づいて描いていく。
 最初の告発者アレクサンドル(演メルヴィル・プーポー)はリヨンのブルジョワ家庭の出で、敬虔なカトリック信者、エリート会社員、金持ち、カトリック系私立学校で5人の子供を教育し、理解ある良妻(夫が少年時に司祭に性的辱めを受けたことを知っている)を持つ。この映画の中の告発者たちの中で唯一、”事件”後もカトリックの神の教えを信じ、一家で教会のミサを欠かさず、子供たちすべてにカテキズムを義務付けている。その子供たちの宗教教育活動を通じて、アレクサンドルはとっくに教会から追放されていたものとばかり信じていたプレナがリヨンに戻ってきて司祭となっていることを知る。彼は怒りと同時に直感的に自分の子供たちがプレナの毒牙にかかってしまう恐怖も覚え、教会に自分が受けた性的辱めのことを含めてプレナを告発し、プレナの解任破門を要求する。訴えは教区の最高責任者バルバラン枢機卿とローマ法王庁にも及ぶのだが、バルバランはこのスキャンダルが外部に漏れることばかりを恐れ、穏便にことを収めようと手を尽くす。バルバラン使命の調停人(女性聖職者)を介して、アレクサンドルとプレナは40年ぶりに再会する。プレナは過去の過ちを性衝動という"病気”と言い訳し、何度もこの問題を教会上層部にも告白して自らも"治療”の努力をしてきたと言い、アレクサンドルに許しを乞う。
 一面的な告発映画ではないということが明らかなのは、このプレナの憐れさの描き方である。この時、キリスト教的意味での「許し」とはどこまでのことか、という問いもあらわれる。儀式的に調停役のマザーはアレクサンドルとプレナの手を結び一緒に祈りの言葉を唱えるのだが、憐れでさもしい男であるプレナの手に屈辱的にその手を合わせ悔し涙混じりに祈祷の言葉を漏らすアレクサンドルにとって、これは踏み絵に等しい。このシーンはこの映画で最も印象的なものだろう。
 しかし、再三の訴えにも関わらず、バルバランはプレナを解任しない。カトリック信者ゆえに、最初は教会に波風は立てまいと思っていたアレクサンドルも苦悶の果てに、ついに裁判に訴えることを決意する...。
 この告訴に端を発して、警察と検察の調査が始まり、別の被害者探しの過程で、フランソワ(演ドニ・メノシェ)のところに連絡がいく。穏やかなアレクサンドルとは対照的に激しやすい性格のフランソワは、その過去は犬に噛まれた傷のように忘れようとつとめていたのに、母親(演エレーヌ・ヴァンサン!)が保管しておいた当時の教会と両親の手紙(両親の告発と教会の返答)の交信記録を初めて目にするや、あの時のおぞましい記憶が蘇り、教会のあまりに誠意なき対応に激昂し、あらゆる手段を使ってプレナと教会を糾弾しようという考えに変わる。フランソワはメディアを味方につけ、他の被害者たちを次々に見つけ出し、被害者団体「解き放たれた言葉 La Parole Libérée」を組織して、このスキャンダルを大々的に喧伝する。この部分、かの『120BPM』(ロバン・カンピーヨ監督、2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)を思わせる糾弾運動の高揚がある。しかし、この運動に合流して大筋は同調している第一告発者のアレクサンドルは、その運動の苛烈さに少し身を引くところもある。
 そしてフランソワによって発見された被害者たちの中に、その性的辱めのトラウマによって精神的にも身体的にも変調(後天性てんかん症状)をきたし、父母の離婚、定職につけないという、様々に傷ついてしまったエマニュエル(演スワン・アルロー、素晴らしい!)という貧しい青年がいる。彼の医者への訴えでは、そのペニスはプレナの執拗な"いたずら"のために(勃起時に)曲がってしまっているが、医者はその因果関係を立証するのは難しいと言う。こういうディテールだけでなく、いろいろ傷ついたエマニュエルの半分人生を捨てたような痛々しさが、この事件の再浮上で一転する。同じ目にあった仲間たちがそこにいると知ったからだ。この男は再生できるかもしれない、という映画で描かれないストーリーが浮かび上がる。

 映画はこの3人のパーソナルストーリーを軸に、それぞれが20-30年前に受けた傷と、その元の悪を追求していく戦いが、最初は個的なものだったのに徐々にコレクティヴ(集団的)になっていく闘争記録でもある。ここ数年、フランスだけでなく、世界のキリスト教の教会内における聖職者によるペドフィリー事件がおおきく問題にされている。カトリック聖職者になるための戒律として極端に抑圧され禁止される性欲のせい、と説明されることが多いが、この映画でプレナ司祭が自ら言ってるようにペドフィリアは「病気」であり、医学的疾患と解釈されるべきだろうし、その性衝動に起因される性的暴行は犯罪である。おそらく教会が成立した頃からこの問題はあったであろうし、それは教会という「聖域」の中でタブーとなっていた。歴史的に文献の中にはカトリック教会のみならず、世界の宗教の常軌を逸した裏事情が多く残されている。しかしその裏のさまざまなことが、神という権威の後ろ盾のもとに行われている場合がある。そこが重要なところで、この映画でも、再現シーン(行為は映されないが)としてボーイスカウトのたくさんの少年たちの中から指導者(聖職者)がひとりの少年を選び出して、キャンプテントの中に連れていくという場面が出てくる。後年の被害者たちの証言が同じように「あの時、最初は自分は"選ばれたのだ”とうれしく誇りに思った」と言うのである。年端のいかない子供たちで、日頃神の教えをリーダー(聖職者)から復唱させられている子供たちにあって、ある日ひとり "選ばれ”たら、それは神のメッセージが介在していると思ってしまわないか。そして、この再現シーンで、"選ばれなかった”子供たちは、嫉妬しているような顔になるのだ。被害者の証言はみな同じように、聖職者は「これは私ときみだけの秘密だ」と言ったというのである。
 フランスでカトリック教会の勢力/影響力は20世紀後半からだいぶ落ちていると言われている。その中でも古都リヨンは、まだまだ信者は多く、この映画でも告発を決意した被害者たちは「リヨン中を敵に回している」ような圧力を感じている。その圧力というのは、たとえ事実はどうであってもカトリック教会に醜聞を起こすべきではない、というものだ。神と教会は違うものなのだが、何世紀もの間、人はそう思っていないようなのだ。
 映画の終盤で、すでにキリスト教の信心を失っていたフランソワは、幼い頃に受けた洗礼を無効にして正式に離教の手続きを取ったと宣言し、被害者団体「解き放たれた言葉」は全員俺と同じように離教しようと訴えた。しかしこの裁判抗争がどんなに進行しても敬虔なカトリック信者であり続けるアレクサンドルはそれを承諾しない。さらにもっと終わりの頃に、アレクサンドルの子供のひとりが「パパはまだ神様を信じているの?」と問うシーンあり。モン・デュー、モン・デュー...。

(プレナ司祭とバルバラン枢機卿を被告とする裁判の判決は2019年3月7日に下される予定である)

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランソワ・オゾン『幸運にして(神のおかげで)』予告編


(↓)「空はいま 屋根の上に」ポール・ヴェルレーヌ(1881年)
Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là,
Simple et tranquille.
Cette paisible rumeur-là
Vient de la ville.

– Qu’as-tu fait, ô toi que voilà
Pleurant sans cesse,
Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà,
De ta jeunesse ?


 
 

2019年2月18日月曜日

太鼓よ轟け、ラッパよ響け

ステファン・エシェール&トラクトルケスタール『ウ〜!』
Stephan Eicher & Traktorkestar "Hüh!"

ステファン・エシェール(1960 - )はドイツ語圏スイスに生まれ、ロマの流れを汲む移動民族イエニシュ人であることを公言している。80年代からベルン/チューリッヒを基盤としたテクノ(シンセポップ)/ニューウエイヴ系のアーチストとしてスイスとドイツでそこそこその名を知られていたのだが、1985年にそれを強引にフランスに引っ張ってきたのが、"タンタン"とあだ名された(イジュラン、テレフォヌ、キャルト・ド・セジュール、レ・リタ・ミツコ、エチエンヌ・ダオを発掘した)名ディレクター、フィリップ・コンスタンタン(1944-1996)であった。当時仏ポリグラム(現ユニバーサル)社長アラン・レヴィの命を受けて、50年代フランスのレコード王エディー・バークレイ(1921-2005)設立の伝説的古参レーベル"バークレイ"(エディー引退後、83年からポリグラム管理下)を大胆に最先端のポップ・レーベルに変身させ、アラン・バシュング、ノワール・デジール、モリ・カンテ、キャルト・ド・セジュールなどを配するようになるのだが、そのコンスタンタンの初期"新バークレイ”の一番バッターがステファン・エシェールだった。軌道に乗るまで少々時間はかかったけれど、1989年『マイ・プレイス』(シングル "Déjeuner en paix")、1991年『エンゲルベルク』、1993年『カルカッソンヌ』と大傑作が続き、コンスタンタン・バークレイの看板スターになっている。で、1996年にコンスタンタンが52歳の若さでエイズで亡くなった時、エシェールはその年のアルバム『千の命(Mille vie)』をコンスタンタンに捧げ、オマージュ曲「世界の果て(Der Rand der Welt)」をセネガル人歌手イスマエル・ローと共に歌っている(↓)。

ま、こんな感じで、エシェールはバークレイにとって歴史的なアーチストだったはずなんだが...。これまでステファン・エシェールとバークレイは二度もめている。コンスタンタン亡き後のバークレイに魅力を感じられなくなったエシェールは、1998年から2005年まで7年間仏ヴァージンと契約していて2枚のアルバム(これがまた2枚ともいいんだ! "LOUANGES"と"TAXI EUROPA")を発表している。目立ちたがりながらミュージシャンたちからは信望の厚い経営マンだった当時の仏ユニバーサル社長パスカル・ネーグルは(ベルトラン・カンタの事件によってノワール・デジールの未来が見込めなくなった頃)エシェールに三顧の礼を尽くしてバークレイ復帰を願い出た。2005年、仏ユニバーサル(ネーグル)とエシェールはバークレイ再契約の一連の書類に署名を交わすのだが、その条件には新アルバム3枚制作とエシェールの全音楽作品の仏ユニバーサルによる音源管理(フィジック+ディジタル)が含まれていた。
 契約の新アルバム3枚のうち2枚(2007年『エルドラード』、2012年『飛翔』) は出たのだが、3枚めの『ホームレス・ソングス』は録音が終わっているのに出る予定はない。2017年9月のウェブ版BFM-TVの記事によると、バークレイ(仏ユニバーサル)は2012年アルバム『飛翔』の制作費の一部、および次作『ホームレス・ソングス』の制作費とアドバンス報酬もエシェールに払っていない。『飛翔』のプロモーション費とコンサート企画費も払っていない。この状態に業を煮やしたエシェールは2017年にバークレイを相手取って訴訟を起こしている(現在も訴訟続行中で、上に挙げた記事によるとエシェールは百万ユーロ近い損害賠償金額を請求している)。その間に何があったか、と言うと、2016年にかのパスカル・ネーグルが仏ユニバーサル社長を解任されていて、事情はがらりと変わってしまった、ということのようだ。

だから(たとえ音楽業界事情通じゃなくても)ステファン・エシェールの近々の現役復帰は難しいというのが一般の見方だったのだ。だから(と同じ接続詞で続けるが)この新アルバムは、誰も待っていなかった突然の1枚である。まず、ジャケット写真は誰がどう見ても、アラン・バシュング(1947-2009)のアルバム『ファンテジー・ミリテール(軍隊幻想曲)』 (1998年)のパロディーであろう。沼に浮く水藻の中から顔を出すバシュングに対して、祝祭の紙吹雪(コンフェティー。このCDとLPのパッケージの中にしっかり紙吹雪が混じっている)に埋もれるエシェール。20世紀末、バークレイが世に出した歴史的名盤にしてプラチナ・ディスクともなった(おそらくバシュングの最高傑作アルバム)『ファンテジー・ミリテール』へのオマージュ30%、バークレイへの皮肉70%といったところだろう。
 アーチスト名義は「ステファン・エシェール&トラクトルケスタール」となっていて、このトラクトルケスタールは金管9本+ドラムス3台のタラフ風ブラスバンドで、全員ベルン(スイス)出身の27歳から33歳までの若者たちだそう。この子たちは「母ちゃんが"ロッカー”ステファン・エシェールのファンだった」という世代。この祝祭的バルカン・ブラスバンドのインスピレーションは、ゴラン・ブレゴヴィッチとの交流からもらったものだそう。この大所帯でブンチャ・ブンチャとブローする楽隊とは、2018年1月からスイスとフランスをはじめヨーロッパ各地をトレーラーで回ってツアーしている。ステファン・エシェールの新旧のレパートリーをタラフのスタイルでスウィングさせるサーカス一座の態と想像できる。だから興が乗り、投げ銭が止まなければ夜を徹して演奏し続けられそうな。なにしろ御大は60歳近いが、楽隊は若い衆ばかりなのだから。
 アルバムに収録された12曲のうち、8曲はエシェールの旧レパートリーの新ブラスバンド編曲。YouTubeにアマチュア投稿されている去年からのコンサートの動画を見ると、ライヴではもっと様々な旧レパートリーが演奏されているようだが、このアルバムはその精選8曲ということだろう。新曲は4曲:"Etrange"(4曲め、詞フィリップ・ジアン)、"Chenilles"(10曲め、インスト)、"Papillons"(11曲め、詞フィリップ・ジアン)、そして "Nocturne"(12曲め、詞マルティン・ズーター)。
 このブラスバンドに加えて、アルバムのブックレットにクレジットされているのが、(数えてないので適当に言ってしまうが)約1500人のコーラス隊(その名前をAからZまでの順で8ページにわたって全部記載している)で、たぶん8曲めの(エシェールのヒット曲のひとつ) "Pas d'ami comme toi"(←のYouTubeの59分45秒め)のリフレインで「ノン!ノン!ノン!」と叫んでる人たちであろう。

すごく良い雰囲気。レコード会社との揉め事などどこ吹く風。旧譜の若返り方がすがすがしい。大人数での再創造というのがいい。改めてこの人は良い曲を多く作ってきたのだと納得しよう。
それにしても、この新アルバム、上に述べたように現在エシェールと裁判抗争中の仏ユニバーサル社の傘下レーベル、ポリドールからリリースされた、というのはどうなってるんでしょうねぇ。よくわかりませんが。

<<< トラックリスト >>>
1. Ce peu d'amour
2. Louanges
3. Envolées
4. Etrange
5. Cendrillon après minuit
6. La chanson bleue
7. Les filles du Limmatquai
8. Pas d'ami comme toi
9. Combien de temps
10. Chenilles
11. Papillons
12. Nocturne

STEPHAN EICHER & TRAKTORKESTAR "Hüh!"
CD/LP Polydor 6791316
フランスでのリリース:2019年2月15日

(↓)ステファン・エシェール&トラクトルケスタール "Combien de temps"、オフィシャル・クリップ


(↓)このアルバムに収められた新曲のひとつ "Etrange"(オーディオ)


(↓)記事タイトルの出典はヨハン・セバスチアン・バッハのカンタータ「太鼓よ轟け、ラッパよ響け」(BWV214)でした。


2019年2月13日水曜日

チェチェチェチェ チェインジズ

 『革命が私に残したたったこれだけのもの』
"Tout ce qu'il me reste de la révolution"

2017年制作フランス映画
監督:ジュディット・ダヴィス
主演:ジュディット・ダヴィス、マリック・ディジ、ミレイユ・ペリエ
フランス公開:2019年2月6日


Tell me why, tell me why, tell me why
Why can't we live together
Tell me why, tell me why
Why can't we live together
Everybody wants to live together
Why can't we be together
(Timmy Thomas "Why can't we live together" 1972)
20世紀のある日、われわれの前から社会主義の明るい未来というものは消え去ってしまったのだよ、同志たち。「私が8歳の時、東ベルリンにマクドナルドが開店してしまった」と主人公アンジェル(演ジュデット・ダヴィス)は言う。私は革命の夢を見るにはあまりにも遅く生まれてきたのだ、と。この若い建築士は、勤めていた小さな建築事務所を、「経済的理由」で解雇されてしまう。この小さな会社のトップふたり(男と女)が、見るからに「元左翼」転向組で、ミッテラン→ジョスパン→オランド時代にうまく立ち回ってここまで来たが、「リベラル経済に生き残るには」というディスクールを垂れるどうしようもない小人物。アンジェルは映画の冒頭からキレて、偽善エセ左翼に轟々たる呪いの言葉を放って飛び出すのだが、収入のあてを失ったなりゆきで、父シモン(演シモン・バクーシュ)のところに戻っていく。
この父親がまた(別れた)母親と共に元68年闘士であり、心優しき闘士としての志を変えなかったがゆえに老いた今は生活費を長女ヌーシュカ(アンジェルの姉)から出してもらうほど貧しくつましくひとりで生きている。しかし、一頃新宿ゴールデン街に見られたあの世代同様、闘争へのノスタルジーにどっぷり浸かっている人畜無害の好好爺である。
アンジェルはこの父のことが大好きなのである。「世界を変える」と一度決めたら、その理想に向かう意志を変えることがなかった男である。それにひきかえアンジェルが許せないのは、闘士として父と共に行動してきたのに、ある日「日和って」革命も家族も捨てて田舎に隠遁してしまった母ディアーヌ(演、お立ち会い、なんとミレイユ・ペリエなるぞ!) のことなのである。
姉ヌーシュカとの違いも面白いところで、世の不正義や不平等が許せずに八面六臂で憤激をふりまいている妹アンジェルに「いつになったら大人になるの?」と諭す。(↓)予告編にも出てくる場面の、この世の不条理に「なぜ? Pourquoi ?」を繰り返す妹に、「もうなぜ?という質問はできないのよ」と言う。決してシニカルに現実迎合したわけではない。おそらく様々な苦労の末に、(心情的には"左寄り”の)家庭を築き、ネオリベラリズムの中で傷つきながらも高級取りになっている気の良い夫と、世間づきあいもうまくやっている。良い意味で「現実的」に生きる姉であった、が...。
そして親友で彫刻家であるレオノール(演クレール・デュマ)も貧乏アーチストであるが、ちょっとした「ヒット商品」で、生まれたての赤ちゃんの足を石膏で型取り、その誕生時の瞬間を一生のメモリーにとどめるというコンセプトで発表したところ、注文がよく来るようになった。これをアンジェルはお手軽な商業主義として大いに嫌うのだが、「喰うためには」という観点をも拒否するアンジェルの一本気がこのコメディー映画の根幹である。
 この一本気はウルトラな革命主義でも教条主義でもない。「世界を変えよう」と言っていたあの意気は間違っていない、という確信であり、夢想的な建築家のヴィジョンでも(この壁を取り除けば、この通路がこの地点とあの地点をつなぐことができれば....)世界は変わるのではないか、という希望を捨てない、ということである。
 いつしかこの一本気に惹かれる人たちも出てきて、職業も人種も階層も年齢その他は違えども、どこかしら何かを変えたいと思っている数人が、アンジェルとレオノールを囲んでアソシアシオン(言わば「お話しあいサークル」)を形成する。誰もリーダーシップをとらない、強制のない自由な発言をお題目にするものだから、 今日はこの話題について語ろうということが決まるまでに、延々とああでもないこうでもない討論になる、という、いつか見たような(2016年「ニュイ・ドブー」、2018-19年「ジレ・ジョーヌ」...)場面が笑える。
 そのサークルに新加入した低学年学校教師のサイード(演マリック・ディジ)は、自己紹介代わりに、何を話していいと言われたので、唐突にアレン・ギンズバーグの「吠える Howl」を朗読してしまい、一同あっけにとられるというシーンがある。これがひとつのターニングポイントかな。あらゆる議論は往々にして一編の詩にかなわないのだが、往々にしてその一編の詩は誰にも理解されずとも圧倒的な効果があったりする。詩だもの。
アンジェルはナイーヴにも一本気であるから、これがなかなか合点がいかないのである。そしてこのサイードという子供たちに信望のある面白い先生が、アンジェルに恋慕の情を寄せているということも合点がいかないのである。このコメディー映画はここからロマンティック傾向を強めていくのだが、アンジェルは合点がいかないのである。
 さて、映画は父シモンと母ディアーヌの別離の真相に触れていくのだが、シモンが娘アンジェルに常々言ってきたような「裏切り」ではもちろんないのだ。アンジェルは一本気であるから、母に対して許せない感情をずっと持ち続けていた。過去に闘争の理論書を著したこともある母ディアーヌ(その本をアンジェルはずっと保管している)は、どうして変節したのか。これをサイードは「現実に目がさめただけ」と単純化するが、そうではないんじゃないの?
 父母の別離後も母とのコンタクトを保っている姉ヌーシュカの誘いで、ディアーヌの誕生日に、初めてその田舎家を訪れるアンジェル。村の露天市で、女性下着を売っている老いたディアーヌ。ミレイユ・ペリエは出てくれるだけでありがたい。やはり『ボーイ・ミーツ・ガール』 (1984年)や『愛さずにはいられない』(1989年)の面影を追ってしまうけれど、元闘士と言われたらそんな過去も自然と浮かび上がる女性。ありがたや。それはそれ。田舎でダウン・トゥー・アースな生活を静かにすごす老女と、アンジェルは打ち解けるのに時間がかかる。姉の気配り(機転の策略で)で、二人きりになり自然の中を歩き、森の陽だまりで横たわって日光浴すると、無言でもなにかが和解できたような...。
 ディアーヌの誕生日の夜は、姉ヌーシュカの夫と息子、親友レオノールを交えて、和気藹々の極上の時が続くのだが、ヌーシュカの夫で(いい奴ゆえに)無理して優秀営業マンをやっているステファヌ(演ナディール・ルグラン)が、商売っ気ゼロの彫刻家レオノールとの話の成り行き上、職業病が急激に露呈し、成績の上がらぬ弱小分子を一掃しろとバーンアウト逆上を起こしてしまう。これがこの映画のカタストロフ。みんないい人ばかりなのに、世界はなぜ残酷にもみなを分断してしまうのか。Everyboday wants to live together, why can't we be together。 母・娘二人・親友女性、みなこの世の不条理に力なく佇むのだが、それでも肩を寄せ合っていく。
 そしてこの映画のオチは、バーンアウト症候群を起こしたステファヌが、アンジェルの「お話し合いサークル」アソシアシオンの新会員になって、みんなの前でぼそぼそと話し始める、ということなのだ。私、これは素晴らしいと思うのだよ。リーダーやイデオロギーや具体的なヴィジョンを求めるのではなく、隣の人と話し合うことから始める。われわれの裏切られ続けてきた(起こらなかった)革命のあとに、まだ一緒に何かできることがある。詩的でロマンティックなインスピレーションだっていいじゃないか。隣の人が話し始めたら、うなずいて聞いてやるだけでもいいじゃないか。誰もそんなにおかしいことは言わないはず。町の広場が、もう一度そういう場所になる、そんなほんわかした想像ができそうな映画。いいじゃないですか。

カストール爺の採点:★★★★☆

蛇足
アンジェルとほのかに恋仲になっていくクールな学校教師サイードのアパルトマンの壁に、LES PRIMITIFS DU FUTUR (レ・プリミティフ・デュ・フュチュール)のポスターが2枚("World Musette"と"Tribal Musette")貼ってある。これは実にうれしくなる絵。親しみがもろ倍増。

(↓)『革命が私に残したたったこれだけのもの』予告編

 
(↓)ラ・スーリ・デグランゲ「ワルシャワ労働歌」(1982年)🎶暴虐の雲、光を覆い...




 

2019年2月10日日曜日

往生の物語

『クレール・ダルリング 最後の狂気』
"La Dernière Folie de Claire Darling"

2017年制作フランス映画
監督:ジュリー・ベルトゥッセリ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、キアラ・マストロヤンニ
フランス公開:2019年2月6日

髪のカトリーヌ・ドヌーヴ。ある晴れた夏の朝、突然に死期を悟った斜陽地方富豪の老女クレール・ダルリング(演カトリーヌ・ドヌーヴ)の最後の1日の物語。場所設定は北フランスのピカルディー地方オワーズ県ということになっているが、何十年何百年と変わっていないようなフランス深部の村。昔からの風習のように夏の到来と共にやってくる移動遊園地+サーカス。サーカスの呼び込みや芸人たち(+動物たち)のデモンストレーション行進、宣伝飛行機...。失業も難民も「黄色いチョッキ」もどこ吹く風で、古風な幸福ウキウキ感で包まれた村。この時間が止まっている感じがこの映画のミソ。映画主人公の妄想として過去が立ち現れても、背景やら着ているものやら車やら、何にも変わっていない。唯一電話の音(固定電話、プッシュホン、ケータイ、スマホ...)だけが違っている。
 ヘヴィースモーカーのカトリーヌ・ドヌーヴはどんな映画に出ても必ずタバコを吸っている。21世紀になって映画スクリーンからタバコの出番が憚られるようになっても、ドヌーヴだけはおかまいなしに吸っている。私はこれが好きだ。この映画では時の流れへの逆らいのようにタバコに火を点ける。この映画は時の流れに逆らって1日のうちに様々な過去がクレールを諭すように現れる。記憶が怪しげになり、顔も名前も思い出せなくなっていたクレールが、その最後の日にすべてを呼び戻すことができたかのように。
 歴史を思わせる大きな館に住む一人暮らしの白髪の老女(とは言っても70歳代の設定)は、画面に現れた時からその性格の悪さ(朝食を運んできたヘルパーの女性が「今朝はご機嫌いかが?」と聞くと「いいわけないじゃない、でも聞いてくれてありがとう」と答える)と記憶障害のいくつかが露呈してしまう。いつも不満そうにものを言う、微笑みのない偏屈婆。このキャラクターを大女優カトリーヌ・ドヌーヴが演じきってしまう、しかもなんとも言えぬ軽やかさで。シモーヌ・シニョレじゃないんだから。 この老女は死にゆく運命の重さがない。タイトルにある「狂気 folie」は、軽々しいものではない深刻さを伴いながら、終始軽やかなのである。神の啓示のように「最後の日」を直感したクレールは、思い出を持つことなど何の意味もない、と先祖代々からの館のコレクション(骨董、絵画、調度品、書籍、家具...)を、館の中庭に並べ、破格値の即席骨董市を開催する。ただ同然の値段だが、人は往々にしてただのものには手を出さない。一銭でも値段のついたものに価値を認めるものなのだ。その中にはガレのガラス工芸やティファニーランプやからくり人形や仕掛け時計など、博物館並みの価値のあるものばかり。クレールの目の前で一堂に陽の目にさらされたこれらの品々から、亡霊のように過去の記憶が立ち上ってくる。
 かつて娘マリーの幼なじみだったマルティーヌ(演ロール・カラミー)は今は旦那と骨董商を営んでいるのだが、この狂気の露天市に慌てふためき、できるだけ多くのものを買い占めようとする一方(ここがとても可笑しい)で、この測り知れない文化遺産の大放出をやめさせなければならないと悲嘆にくれるのであった。そこへ風の噂か、20年も連絡をとっていなかった(実は娘はずっと手紙を書き送っていたのに、母親は一度もそれを開封していなかったということがあとでわかる)家出娘のマリー(縁キアラ・マストロヤンニ)がやってきて、かつての親友マルティーヌから事情を聞き、母クレールにこの狂気をやめさせようとする。しかし、20年ぶりの再会も何のエモーションもなく、母クレールはかつて娘が代々の家宝である指輪を盗んでいったことをなじるのだった。
 冷たい母。小さい頃からずっと娘につらく当たっていた母。映画のフラッシュバックは実はそうではなかったという断片をちょこっとずつ出してはいくのだが。
 立ち上ってくる過去の記憶:愛のない結婚、溺愛していた息子の死、その死をめぐる夫との諍いに続く夫の事故死(クレールはその現場にいながら救急車を呼ばず、夫を見殺しにした、ということを心の秘密にし罪深さを悔やんでいる)、田舎神父とのほのかな交情(クレールと同じように老いたその田舎神父が、死を悟ったクレールの「悪魔祓い」をする、という滑稽なシーンあり)、娘の家出の原因となる家宝の宝石指輪の窃盗事件...。
 カトリーヌ・ドヌーヴとキアラ・マストロヤンニという現実の世界での母娘が、映画で「母娘」の役で共演するのはこれが初めて。実際の世界でも複雑な母娘関係であったことも、この映画では一種の「鏡効果」ともなっているのだが、観る者は「そりゃあ親子だもの」という言わずもがなの説得力にだまされよう。しかしそれに加えて驚くキャスティングの妙があり、若き母親時代のクレールを演じるアリス・タリオーニ(Alice Taglioni)の、若き日のカトリーヌ・ドヌーヴによく似ていること、そして少女時代のマリーを演じるコロンバ・ジョヴァンニ(Colomba Giovanni)の若き日のキアラ・マストロヤンニ(この人現在46歳)にそっくりなこと。これもこの映画の芸の細かさかな。
 さて、笑顔が少なく難しく生きてきた斜陽ブルジョワの老女が、いろいろと引っかかってきた過去の出来事をひとつひとつ精算して、心安らかに向こう側に旅立てるのか、というのが映画の本筋である。村は夏のお祭り騒ぎ。あの世とこの世の区別があいまいになるお盆のような陽気。骨董のからくり人形やサーカスの登場人物など、魔の世界と現実を自然とパラレルに配置する映画の進行はとても効果的である。夢遊病のように夕暮れの移動遊園地にふらふら歩いて行き、アトラクションの「バンパーカー」に乗ってひとりぐるぐる回るカトリーヌ・ドヌーヴの美しさったら...(そのままこの映画のポスターになっている)。息子の死、夫の死、家出した娘、すべては夢の中の出来事のように、あいまいながらもすべて和解して、まるくおさまってしまうんです。そして、館にもどり、最後のお茶を飲もうと、ケトルに水を入れて、ガス台を点火したのだが、老女の曖昧は記憶はこの時に火が点いたかどうか確認ができない。そしてそのまま寝入ってしまう。
 村の宵のお祭り気分は最高潮でフィナーレの花火大会に移っていく。花火はどんどん盛り上がり、最後のブーケ・フィナルへ。そしてその火の粉が館の煙突から入り、ガスの充満した館は大爆発。ここで、ジュリー・ベルトゥッセリ監督は、大爆発を何度も何度もスローモーションで、そしてからくり人形や仕掛け時計やティファニーランプがバラバラになって飛び散るシーンを超スローモーションで何度も何度も....。お立ち会い、この映画のフィナーレ何だと思います? ミケランジェロ・アントニオーニ『砂丘(ザブリスキー・ポイント)』 (1970年)の最終シーンの援用なのだよ。サイケデリック!
 人生の終わりをクレール・ダルリングは大花火で飾ろうとしたわけではない。大花火にしたのは映画の狂気である。それがまた偏屈で難しく生きてきた富裕女性にふさわしい。カトリーヌ・ドヌーヴはここで白髪の大輪の花であるからして。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『クレール・ダルリングの最後の狂気』予告編


(↓)ミケランジェロ・アントニオーニ『砂丘(ザブリスキー・ポイント)』(1970年)ラストシーン。音楽ピンク・フロイド。


(↓)蛇足ながら、記事タイトルの出典はこれです。