2023年2月21日火曜日

Can you hear me Major Tom ?

"L'Astronaute"
『宇宙飛行士』

2022年フランス映画
監督:ニコラ・ジロー
主演:ニコラ・ジロー、マチュー・カソヴィッツ、エレーヌ・ヴァンサン、アユミ・ルー
フランスでの公開:2023年2月15日


2022年8月26日付けテレラマ誌でまる1ページで紹介されていた新人女優アユミ・ルー(このことは向風三郎のフェイスブックで紹介しました)が重要な役どころで出演している、というので観た映画です。
 タイトルの通り宇宙飛行士の映画です。ストーリーに入る前に、一応予備知識としてフランスの現在の「宇宙」への関わりをさらっと言っておきますと、ヨーロッパエアバスと人工衛星打ち上げロケットアリアーヌを開発してきたエアバス/アエロスパシアル → EADS  → ASL (Airbus Safran Launchers) → 2015年からアリアーヌ・グループ(ArianeGroup)という名に変遷して、かの打ち上げロケットのアリアーヌは1 - 2 - 3 - 4 - 5を経て、現在は「アリアーヌ6」の時代になっているのです。この映画の冒頭タイトルバックに「協力:アリアーヌグループ」という文字が出てきます。これを見た時、わ、これまずいんじゃないの?と私は思いました。というのはこうなると、フランスの宇宙開発およびアリアーヌグループのサクセスにケチをつける映画には絶対にならない、ということなのです。国の最先端基幹産業に楯突くストーリーには絶対にならない。あらかじめハッピーエンドが約束された話にしかならない。
 シナリオはとてもわかりやすく単純で、簡単に先読みができそうな展開です。主人公ジム(演ニコラ・ジロー、ちょっと若い頃のフィリップ・ノワレに似た雰囲気)はアリアーヌ・グループの噴射エンジン開発部門のトップエンジニアで、高給取り独身40代、祖母オデット(演エレーヌ・ヴァンサン、いつもいつも素晴らしい)との二人暮らし。このジムが祖母の全面的援助を得て密かに進めているのが、農家の倉庫を改造した秘密アトリエでの有人カプセルを成層圏に到達させる自家製打ち上げロケットの製作。ガキの時分からの夢というナイーヴさをはるかに越えた、(アリアーヌ・グループの)最先端宇宙工学のノウハウのすべてを”アマチュアレベル”に注ぎ込んだ綿密な計画。自らがトップエンジニアであるという地位を”悪用”して、自分が作れない超精密部品は、アリアーヌ・グループの外注会社から自分の噴射エンジン開発部の研究目的で仕入れ、こっそり自分用にくすねてしまう(ここから”社”にバレて、しまいには国家安全を脅かす犯罪者として追及されることになる)。
 祖母オデットの亡き夫(つまりジムの祖父)の夢でもあったこの有人宇宙飛行計画は、その息子(つまりジムの父)の頑迷な反対に合う(それが最後には和解するという筋は簡単に先読みできる)。ジムは2009年にフランスのCNES(フランス国立宇宙研究センター)の宇宙飛行士候補選考試験に最終まで残って落選している(現実の世界ではこの年に宇宙飛行士として選考されたのが今や世界的に有名なトマ・ペースケである)。それでも諦めきれずに、自作宇宙ロケットで宇宙に行く計画が始まった。協力者は祖母の他にひとり、ガキの時分からの自作ロケット仲間で、アマチュア化学者のアンドレ(演ブルーノ・ロシェ)、これがアリアーヌの規模とは程遠い高さ12メートルの打ち上げロケットで有人カプセルを宇宙まで届けられる革命的ロケット燃料を発明する(なんかイージーなシナリオ)。そして祖母の発案で、引退してアルプス山中で隠居生活をしている元フランスの宇宙飛行士であるアレクサンドル(演マチュー・カソヴィッツ)に助言を求めに行く。波長が合い、この狂気の計画に惚れ込んでしまったアレクサンドルは”経験者”という視点を持つ超強力なスタッフとして参画し、ジムの宇宙飛行士養成特訓(やっぱりスポーツ根性ドラマにようですけど)を開始する。
 そして発射からカプセル帰還までの軌道を算出できるスーパー数学者が必要であるとアルクサンドルの紹介で、パリ某大学名誉教授のフェルンバック博士(なんと特別出演のフェオドール・アトキン)に会いに行くのだが、その教室で博士から落第点をもらってなんとか合格点をくれるよう食い下がっている女子学生イズミ(待ってました、アユミ・ルーさん!)と遭遇する。ジムの宇宙飛行計画を聞かされたフェルンバック博士は「12メートルのロケットなど存在しない!」とこの計画を鼻で笑って全く相手にしない。このやりとりを陰で聞いてしまったイズミは後日、ジムの勤め先まで訪ねていき、「私が軌道を算出できる」と...。
 落第学生ごときにこの大事な計画の数字を任せられるか、というジムのイズミへの不信は映画中盤ごろまで引きずるのだが、落第点はともかく、明晰な頭脳と計算の速さはアレクサンドルの認めるところとなる。ジムとイズミの確執ももうちょっと深いシナリオにすればよかったのに(深すぎると二人のラヴストーリーになってしまうのかな)、軽めに和解してイズミは最重要スタッフのひとりに落ち着く。しかし、この数値で現在建造中の自作ロケットが自爆してしまう確率が32%ある、という厳しい数字を算出して公言してしまうのもイズミであった。
 さて計画は完成(発射段階)に近づくにつれて様々な問題が噴出し(映画ですから)、父親の邪魔、職場(アリアーヌ・グループ)によるジムの”不正部品購入”発覚から解雇さらに国家治安総局(DGSI)による捜査へ。ここでこの国家の最重要基幹産業の内部に、このジムの計画に心情的に賛同してしまう”下町ロケットの財前さん”みたいな人=ジムの元上司のドミニク(演イポリット・ジラルド)が現れて、なんとか捜査の手が回らないうちに発射を、と急がせる。そして発射予定を3日繰り上げて、宇宙飛行士ジムは自作ロケットで、警官隊突入目前で宇宙へ....。映画ですから。
 ストーリーはどうあれ、祖母の名を取って「オデット1号」と命名されたこの有人宇宙ロケットの発射シーンは山場中の山場であり、(アリアーヌ・グループが映画スポンサーなので)打ち上げ失敗のシナリオは全く考えられないとわかっていても... 感動してしまうのですよ。デヴィッド・ボウイ「スペース・オディティー」が脳内反復してしまうし。
For here am I sitting in a tin canFar above the worldThe planet Earth is blue and there's nothing left to do
そしてジムはカプセルを出て宇宙遊泳へ。地上基地(農家のキャンピングカーを改造したもの)の中からジムの異常な行動にアレクサンドルが無線で呼びかける「ジム、聞こえるか、一体何をしているんだ、応答せよ!」(これもボウイ「スペース・オディティー」の Can you hear me Major Tom?みたいでしたよ)と。するとジムはなんと、宇宙の夢を抱いて亡くなった祖父の遺灰を宇宙にばらまいているではないですか。それを見て祖母オデットは涙涙涙、そしてそれを抱きしめる(ずっとジムの計画に反対していた)父ジェラール...。さらに(映画ですから)このばらまかれた灰が宇宙でキラキラと輝きながら何億の蝶のように飛び拡散していく映像の... なんと饒舌なことでしょう。
 そりゃあ米国の桁外れ予算の宇宙映画からしてみれば、”下町ロケット”サイズの宇宙映画ではあるけれど、こういうシーンはやはり美しく見せますよ。まあ、国や国営巨大企業を敵に回さず、ちょっとだけアウトローな宇宙冒険を、という映画。小せえ、小せえ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)”L'Astronaute(宇宙飛行士)"予告編


(↓)アユミ・ルーが演じた”イズミ”という女性のことを歌ったわけではない、何のエニシもない、沢田研二「イズミ」(1975年)


(↓)アストロノウツ「太陽の彼方に」(1964年)

2023年2月18日土曜日

世の中が見ようとしない人々

J.M.G. Le Clézio "Avers"
ル・クレジオ『金貨の表』


題に "Des nouvelles des indésirables"(望まれざる人々の短編集)とある。そして裏表紙に作家自身署名の短い6行の紹介文が記されている(↓)

私にとってエクリチュールとは何よりもまず行動を起こすひとつの方法であり、思想を伝播する手段である。ここに登場する人物たちの境遇は羨むべきものなど何もない、なぜなら彼らは望まれざる人々であるのだから。私が目的としているのは読者のみなさんにおいて彼らが遭遇している不正義に対する憤激の感情を芽生えさせることである。ー J.M.G. L.C.

 8篇の短編が収められた220ページの本である。舞台はロドリゲス島(インド洋モーリシャス島から北東560kmに位置するモーリシャス領の孤島)、ペルー、メキシコ、モーリシャス、パレスチナ、パナマなどに分かれているが、それぞれの土地で困難な状態で生きながら世間から見向きもされない人々が描かれる。そのうち2篇はフランスでの話で、当然のことながら悲惨はこの地にもある。そのひとつは "L'amour en France"(フランスでの愛)という優しい題がつけられたわずか5ページの超短編だが、題のソフトさとは裏腹に、極貧のために妻と子供たちを故国に置いてフランスにやってきて既に3年、過酷な条件で土木工事現場で働くアフリカ人左官工が、妻の名前、子供の名前、村の名前などを思い出し、その名前を口ずさむことによってしばしの心の安らぎを得る、という話。名前を慈しむことで得られるほんの少しの"愛”の感触が、辛い仕事や疲れや冷たい社会を忘れさせ、明日もその名前(特に妻)のために働き生きることができる、と。
 このアフリカ人左官工はアブデルハクという名前を持っている。しかし工事現場の監督は彼のことを”アメド”と呼ぶ。それだけでなくこの監督はすべてのアフリカ人作業者を"アメド”と呼ぶのだ。十把一絡げの"アメド”。こうしてこれらのアフリカ人は自分の名前を失い、見えざる人々になってしまう。
 同じくフランス(パリ)を舞台にしたもうひとつの短編で5つのエピソードで構成される30ページの物語"Fantômes dans la rue"(路地の幽霊たち)でもこれと似た挿話がある。”ルノー(Renault)"とあだ名される男は実際に自動車のルノー公団の人事部の要職にあったのだが、ある日嫌気がさして辞職しその後働くこともなく路上生活者まで転落していくのだが、後悔はしていない。無口で厭世的な男なのだが、ひとりの通りがかりの黒髪の若い女性と波長が合い、二人は路上でいろいろ自分のことを話すようになる。その中で自分がルノー社の人事担当だった時のことを回想し、高度成長期に政府の肝入りで北アフリカおよびサハラ以南のアフリカから労働者を大挙雇い入れ、ルノー工場の各地のアトリエに配置振り分けをしていたのが彼だった。オマール、ファデル、ウレド・ハッサン、アベル、アブデラズ、アブデルハク... みんな美しい名前を持っていて、その妻たちもアイシャ、ラシダ、ラニア、ハビバ、アジザ、ジャミラ...彼はその名前を全部覚えていた。しかしルノーの上役たちは名前を覚えようとはせずに、すべてのアフリカ系移民労働者を”モアメド”と呼ぶ。そして苦労して貯めた給料で”ブレッド(里)”に一時帰国するという噂を聞くと上役たちは「モアメド、俺に上等のタピ(絨毯)を土産に買ってくるのを忘れるなよ」と声をかける。そして年末やヴァカンス前の従業員たちの会合/懇親会が催されることになると、「モアメド、ファティマに人数分のクスクスを作ってもらえ」と。”モアメド”がすべての移民労働者の名前であるように、白人上役たちにとってはその妻たちの名前はすべて”ファティマ”なのである。名前も顔も覚えられず、十把一絡げにされる人々、体がダメになったらいくらでもアフリカから新労働力を注ぎ込んで交代させお払い箱にされる人々、これを路上生活者”ルノー”は「クスクス・タピ」の人々と呼んで、若い娘に話してやるのである。そしてこの人事担当者は、自分のやっていることの非人間性が耐えられなくなって辞職し、路上生活者になる。このエピソードでは話者(路上の人々を見ている観察者=女性)の目にはたくさんの通行人の中で"ルノー”と、それに接近する若い娘だけが「人間(humain) 」に見えるという、不可視の人々を逆照射する表現を使っている。
 この話者(観察者)がこの路上でもうひとり手放しの好意で見ているアミナタという名の太っちょのアフリカ女性がいる。このおしゃべりな女性は小気味いい正論を言う。アミナタは"ルノー”に近づいていった黒髪の若い娘とも打ち解けて、いろいろ話すようになる。

彼女は自分のアフリカの国のことを語るが、ここの人たちはそれを知らないくせに野蛮人の国のように思っている。「でもここの方がよっぽど汚いのよ、ここは人間たちが犬のように外でおしっこをするし、いたるところに紙屑が散らかっているのに誰も拾おうとしない」(...)「どうしてここの人たちはこんにちわも言わないの?どうしてみんな怒ったような顔をしているの?誰もあんたがどうしているのか尋ねたりしない、誰もあんたのことを知らない、誰もあんたを見ようともしない。みんなおんなじような姿をしていて、おんなじとても青白い顔をしている。みんなおんなじような陰鬱な服を着て、誰もカラフルな色を着ようとせず、みんな青や灰色だらけ。どうして女たちは花模様を着ないの?どうして誰も自分の家の前で洗濯しないの?あんたたちここの人はアフリカ人たちにホウキを持たせ、緑の作業着を着させ、通り押しやって、そら、道を掃け、と。誰も彼らに声をかけない。あんたたちはアフリカの悪口を言うけど、あんたたちはまだそうやって奴隷を従えているのよ! 一体全体、どうしてこんなに汚いのか私にはわからないわ。誰も家の外で食べないからなのね。あんたたちの国ではみんな閉じこもって食事をする、隠れるようにして食べる、そして支払いをして、立ち去るのね。」
食料品屋の店主が彼女のことを無視すると、アミナタは彼女のやり方で抗議する「ムッシュー、こんなに大きくて太っちょの私なのに、あんたは私が目に入らないの!」。食料品屋は肩をすくめ、ぶつぶつ言う「ちょっとあんた、もめ事は起こさないでくれよ」。アミナタがそれに対して返した言葉は、真実の息吹きのように私の耳に届いた:「あんたたちにとって、私たちアフリカ人は目に見えないものなの?」
私はそれが真実だと思った。この町の人たちにとってすべての外国人はこの灰色の風景に滑りこんだ色のシミにすぎない、そのシミは通り過ぎ、行ってはまた戻ってきて、やがていつか消え去ってしまう。
("Fantômes dans la rue" p112-113)
 おそらくこの短編集ではこのフランスを舞台にした2篇はメインではないような気がするし、他の6篇の悲惨さに比べれば”ソフト”にも感じられる。だが、副題にある「望まれざる人々」はわれわれのすぐ隣りにもいるのであって、往々にして私たちもまた目を背けている人々であり”現実”でもある。

 第一話「金貨の表(Avers)」はインド洋モーリシャス島沖合のロドリゲス島の漁師の娘モーリーズ(Maureez、父親の漁師トミーはこの子にMaureen=モーリーンという名前を付けようとしてその釣り船にMaureenとペンキで書いたのだが、ペンキが乾かぬうちに最後の文字"n"がくずれてしまい"z"に見えるようになったので、そのままモーリーズという名前にしたというエピソードがなにかとても自然でル・クレジオ的に読めてしまう)が、父親が漁に出た海で遭難し帰らぬ人となってから、継母ローラに虐待され、ローラの愛人に性暴行を受けそうになり、家出して島の山奥に逃げていく。極端に過酷な逃避行の末、山奥で孤り暮らす女アデルに助けられ、修道院/寄宿学校(ここでも虐めにあう)を経験していくうち、アメリカの黒人霊歌"Wade in the water"(黒人奴隷たち=子供たちよ、犬が追いかけてこないように水の中を歩いて逃げなさい、神が水を濁らせて逃してくれるでしょう)と出会うのである。この英語を歌を少女モーリーズは素晴らしい天使の声で歌うことができる。山奥の小さな教会の聖歌隊で歌ったモーリーズの歌声は噂が噂を呼び、多くの人々の前で歌うようになり、ついには世界的なゴスペル歌手になる...。自由を求めて逃げ惑ったあの頃の黒人奴隷と同じように現代の世の中で逃げたモーリーズはクレオール、モーリシャスとその周辺の島に連れてこられたアフリカ奴隷の末裔という因果。

 第二話「光る道 (Chemin lumineux)」はペルー、コロンビアなど南米の密林部を実効支配する麻薬製造組織に捕らえられ、密林の中の麻薬植物栽培キャンプで奴隷として働かされている子供たちのうち、組織の監視の目を掻い潜って逃走した少女と(ハンディキャップを持った)少年の物語。「ナルコトラフィック」「ナルコス」などと呼ばれる全中南米にまたがる麻薬製造供給組織に関する話はこの短編集の最終話「エトレベマ (Etrebbema)」にも登場するが、1970年代中南米(特にパナマ)に長期に滞在して小説を書いていたル・クレジオは、このナルコトラフィックが急激に勢力を伸ばし、原住民の社会と自然を尽く破壊し、大麻薬製造ゾーンを広げていった経緯を実際に見ている。その場にいながら、それに対して何もできなかった(実際に銃撃を受けて逃げてしまった)ことを悔いて、自分を責めることがこの短編集を生んだ直接の契機だったと語っている(リベラシオン紙2023年2月4日付けのインタヴュー)。それが冒頭で引用した裏表紙の「エクリチュールとは何よりもまず行動を起こすひとつの方法であり」と言わせていることであり、この作家にとって書くことは行動するである。その行動的エクリチュールのヒューマニズムが2008年のノーベル文学賞となって世界から評価されたことは言うまでもない。
 第三話「バルブ(La Pichancha )」は、国境警備警察の監視の目を掻い潜って、下水道を通ってメキシコからアメリカ側に密入国してアメリカで窃盗や非行行為をしてまた下水道を通ってメキシコに帰ってくる貧しい不良少年たちの物語で、下水でドロドロに汚れた身なりで素早く走り回ることから「ストリート・ラッツ street rats」と呼ばれている子供たちである。その水先案内人のような役割で下水道のすべてを知っているチェポという名の少年が、懇意にしている老人から井戸修理用のバルブ(ピチャンチャ)をアメリカ側で買ってくるよう頼まれ20ドル札を渡されるのだが、難航しながらも今回もアメリカ側にやっとたどり着き、老人を裏切るべきではないと何度も心で迷いながらも、恋心を抱いている女の子(他の男との間の子を妊娠している)のためにピンク色のスニーカーを20ドルで買ってしまう。そしてその帰りにアメリカの国境警察に捕まってしまう....。
 第六話「タニエ川(La rivière Taniers)」はル・クレジオ自身のルーツでもあるモーリシャス島を舞台にしていて、クレオールの血筋とは縁のない家庭だったのに、祖父がクレオールの子守唄を覚えているという謎を追っていく。第七話「ヘンネ(Henné) 」はパレスチナが舞台でイスラエル軍の砲撃を逃れて海を目指して逃げる少年兄弟ふたりと、途中でかくまってくれた家の唖の娘ヘンネの奇妙な友情の物語。そしてパナマを舞台とする最終の第八話
エトレベマ (Etrebbema)」は、かつてプロテスタント宣教師としてジャングル最深部まで入り密林の楽園に同化して聖者となった男の子孫ヨニ(作者ル・クレジオのガイド通訳でもある)が、その先祖の記憶など希薄なはずなのに、ひとたび密林の奥に進みいくと深層の記憶が少しずつ蘇り、自らがどんどん現住の密林人に変貌していく、という感動的なストーリーなのだが、そのユートピアも束の間、かのナルコトラフィック(麻薬組織)が魔の手を伸ばしてくる...。

 ル・クレジオ作品に親しんでいる人たちは、90年代頃から(初期の破天荒さが希薄になり)整った文体の整った物語が多くなっていることに気づいているだろうが、この最新短編集はなにか初期の『大洪水』『砂漠』『調書』『逃亡の書』などに近い文体やリズムや記号づかいを感じると思う。なにかとてもなつかしい。この見えざる人々、望まれざる人々はあの頃のル・クレジオ小説群のヒーローたちに似ている。82歳ル・クレジオの驚くべき若返りと言っていいのかな?そしてここでもル・クレジオを突き動かしているのはヒューマニズムであり、現代社会への憤りでもある。私たちはその歩みについていかなければならない。真剣にそう思いますよ。

J.M.G. Le Clézio "AVERS - Des nouvelles des indésirables"
ガリマール刊 2023年2月3日 224ページ 19,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)フランス国営ラジオFRANCE CULTURE、2023年2月8日のインタヴューで『AVERS』について語るル・クレジオ


(↓)第一話「AVERS(金貨の表)」で薄幸の少女モーリーズの才能を目覚めさせる音楽、黒人霊歌 "Wade in the water"