2023年12月30日土曜日

ちびのフランチェーゼと呼ばれた天才彫刻家の愛と死とイタリア

Jean-Baptiste Andrea "Veiller sur elle"
ジャン=バティスト・アンドレア『彼女を見守る』


2023年ゴンクール賞


れは大衆小説(roman populaire)である。2013年のゴンクール賞作品ピエール・ルメートルの『天国でまた会おう』(576ページ)と同じほど長く、同じほど波乱万丈の絵巻物的大作であり、同じほどの大ベストセラーになること間違いなしのエンタメ小説である。毎回これだと困るが、ゴンクール賞がたま〜にこのような作品にも与えられることはいいことだと思う。コレージュやリセの子たちに読む喜びを広げる意味でも。
 作者ジャン=バティスト・アンドレア(当年52歳)は遅く文学に入った人で、これが4作目の小説だが、もともとは映画脚本家(および映画監督でもあった)であり、ストーリーテリングのプロであったから”新人”作家というわけではない。最初の映画監督作品が2003年の米仏合作ホラー映画"DEAD END"(日本上映題『 - LESS レス』)で、私は観ていないが、エンタメ畑の人というのは想像できよう。今回の小説は全編20世紀のイタリアが舞台であるが、アンドレア本人も母方がイタリア系で、昨今のインタビューではルーツとしてのイタリアをことさらに強調している。
 小説は1986年、北イタリアピエモンテ州の象徴となっている標高962メートルの絶壁に立つサクラ・ディ・サン・ミケーレ修道院の中で82歳で息を引き取ろんとするひとりの男の死の間際の回想から始まる。この男は40年間この修道院で暮らしているが、ここで寝食を共にして暮らす32人の男たちの中で、ただ一人修道僧でも修道請願者でもない。言わば世俗の人間だが、32人の”兄弟”のひとりとして農作業や院内の修繕作業の奉仕をして清貧に生きてきた。1946年までこの男は名のある彫刻家だったのだが...。
 その男は1904年フランスで生まれた。父親も母親もイタリア系なのに、そこで生まれたというだけどこの男は”フランチェーゼ”とあだ名されるが、彼は一生このあだ名を嫌った。(俺の国はイタリアだ)。彼が最も嫌悪するもう一つのあだ名が”チビ”だった。「こびと症」で成人しても身長は140センチにとどまった。父親は腕のいい石彫り師で、アトリエを構え教会の石像や墓石など彫ることを生業としていた。母親はこの子がお腹の中にいた時に、父親に似て優秀な石彫り師になることを直観し、その子にミケランジェロ(!)という名前を与えた。ミケランジェロ・ヴィタリアーニ、それがこの小説の主人公の名前である。幼い頃から父親に付いて彫石の修行をしていた彼は、この彫刻の神のような大仰な名前を嫌い、”ミモ(Mimo)"と短縮形の愛称で呼ばせていた。1914年に始まった第一次大戦に父親は"フランス兵士"として動員され戦死する。収入源を失い、養うことができないと、母親は12歳のミモをイタリアの叔父のもとに送り、彫石の見習い工として自活して暮らせ、と。
 国境を越えてやってきたのがピエモンテ地方ピエトラ・ダルバ(Pietra d'Alba)高地、そこに叔父ジオ・アルベルト(無能、粗暴、アル中)の彫石工房があり、ミモはきわめて冷遇された”奉公”を強いられるが、その彫刻の才能はめきめき伸びていく。このピエトラ・ダルバに君臨する北イタリア屈指の富豪(侯爵家)が中世ローマ時代から続くオルシーニ家で、豪奢な城館ヴィラ・オルシーニを構えている。貧しい石工見習い職人のミモは、この豪華絢爛城館を装飾するフレスコ彫刻や石像の修復の仕事を請負いこの城に出入りすることになる。そしてこの侯爵家の末っ子で唯一の女児であるヴィオラと運命の出会いを果たす。
 その時二人とも12歳。誕生日が同じ(実は数日違う)とミモが無邪気に偽ると、ヴィオラは「私たちは宇宙で繋がっている双子(jumeaux cosmiques)」と宣言する。運命で繋がれた二人は、ユートピア的な共同の夢創造の時もあれば、誤解、別離、和解、すれ違いを繰り返しながら1946年まで二人のストーリーを続けることになる。貴族雲上人と極貧の石工、出会うはずのない別世界の二人だったが。ヴィオラは幼くしてその中世から続く侯爵家のカビ臭さに反抗を抱き、新しい世と科学の進歩を信じ、すべてを禁じられてきた「女」である私がそれを切り開く者と自負している。侯爵家にはイタリアの知の宝庫と言える蔵書の詰まった書庫があり、父親侯爵からその出入りを禁止(女に”知”は必要ない)されながらも、少女ヴィオラはかたっぱしからその書物の数々を読み漁る。そのIQと記憶力は書の内容が一旦脳にインプットされたら一字一句失われることはない。科学、医学、哲学、美学... その”知”の断片をヴィオラはミモに分け与えていき、ミモに書庫から”一時拝借”した本を読ませ、とりわけ”美”の歴史を啓蒙していく。のちの彫刻家ミケランジェロ・ヴィタリアーニの美の感性はこうして育まれていく。
 貴公女ヴィオラと平民ミモは公に会うことなどかなわないが、密会の場所は深夜の墓地。この少女は墓石の上に横たわると死者の声と対話することができる。熊(オルシーニ家にまつわる伝説にも登場する”家獣”)に変身する(これはのちに真相が明かされて事実ではない)ことも熊と対話することもできる。そしてその並外れた知能は(500年前のレオナルド・ダ・ヴィンチの”ヘリコプター”の原理による)人力飛行を可能にする翼システムを開発しようと試みる。この飛行実験のためにプロジェクトリーダーのヴィオラの手足となって動く夢見る少年たちの一団(ミモ、石工見習い仲間のヴィットリオ、エマヌエーレ、エクトール)のパッセージが素晴らしい。ある種「魔改造の夜」にも似たエンジニア/実験班の涙の努力のストーリーなのだが、これだけでも古い(少年もの)イタリア映画の名場面を思わせる。
 日中はおじアルベルトのパワハラでボロボロの徒弟暮らしだったミモは、ヴィオラに美と知の指南を受け彫刻家として開花していくのだが、一方ヴィオラは歳を重ねるにつれて”女ゆえに”その可能性がどんどん閉ざされていき、侯爵家のために結婚を余儀なくされ...。そしてイタリアはムッソリーニとファシストが天下をおさめてしまう...。
 オルシーニ侯爵家は老いていろいろ障害が出てきた侯爵と矍鑠とした侯爵夫人が存命であるが、 長男は第一次大戦で将校として命を落とした。これが一家で最も信望の厚かった人物であり、惜しむ声は長く続いた。次男ステファーノは家業である果樹農園を継ぐ者だったが、もっぱら地方のライヴァル関係にあるガンバーレ家との勢力争いおよび自らの政治権力欲に心を注ぎ、ファシストに近い立場も取った。ステファーノはミモの小さな体躯を侮蔑して「ガリバー」というあだ名で呼ぶ。
 三男のフランチェスコは神学を学び聖職者となったが、ヴァチカンでパチェッリ枢機卿(のちの教皇ピオ12世、小説ではこのパチェッリが彫刻家ミモの天才をいち早く発見したローマ教会高位者ということになっている)と非常に近い関係にあり、ファシズムとの関係も曖昧なものであったが、家族の中で最もヴィオラに理解を示す者でもあった。教会権威を擁護する擬似人徳者のようでもあり、オルシーニの家名を守るために権謀術数をめぐらす策士でもある。不透明な人間だが、ミモとオルシーニ家を強力につなぎ合わせる重要人物である。
 ヴィオラが16歳の時、その祝いにミモは秘密で叔父アルベルトから勝手に拝借した極上の大理石で"熊"(オルシーニ家の”家獣”であり、ヴィオラの変身伝説のオリジンでもある)を彫り、それがパチェッリ枢機卿の目に留まりそのおかげで、ミモはオルシーニ家主催のヴィオラ誕生宴に列席を許される。だがそれは家族が政略で仕組んだヴィオラの婚約披露の宴でもあった。大人しくその主賓席におさまっていたかに見えたヴィオラは途中で姿を消し、宴のフィナーレの花火に紛れて、ヴィラ・オルシーニ城館の最上の屋根から、あの人力飛行の翼をつけて飛び立ち、数秒もせずに地上に墜落する(幸い樹木の枝が緩衝となって命は取り留める)。
 そのヴィオラの生死の安否も知らぬうちに、ミモは叔父アルベルトの怒り(大理石を盗まれたことと枢機卿に才能を認められたことへの嫉妬)の仕打ちでフィレンツェの工房に身売りされる。このフィレンツェでミモは地獄(労働)と退廃(アルコール)を知ることになるのだが、そのフィレンツェの美にも心から魅せられるのだった。彫刻の聖人ミケランジェロゆかりの地でもあるし。

 小説はそのミケランジェロのピエタ像を最重要のリファレンスとしている。ピエタ(磔刑に処されたイエスを抱く聖母マリア)の彫像をミケランジェロは4体作ったとされ、そのひとつはフィレンツェのドゥォーモにある。しかし美術史上で彫刻の最高傑作のひとつとされるピエタはバティカンのサン・ピエトロ大聖堂にある通称「サン・ピエトロのピエタ」(写真→)である。このピエタにまつわる現実に起きた事件として、1972年、ハンガリー生れのオーストラリア人ラスロ・トートが「私は死界から蘇ったイエス・キリストである」と叫びながらハンマーでピエタ像を損壊させた、というものがある(精神異常者による凶行と見做された)。しかしジャン=バティスト・アンドレアの小説は異説を唱え、ラスロ・トートが破壊しようとしていたのは、別のピエタだった、というのである。そのピエタとは....ミケランジェロ・ブオナローティ(1475 - 1564)ではなく、ミケランジェロ・ヴィタリアーニ(1904 - 1986、すなわちミモ)が1946年に彫ったピエタである、と。
 ヴィタリアーニ作のピエタは一般人からは忘れ去られたが、美術史研究者の間ではさまざまな伝説が立ち、今なお謎に包まれた部分が多い。完成されたヴィタリアーニのピエタ像はかのミケランジェロの傑作に匹敵するとの噂が立ち、フィレンツェで縁のあったヴィンチェンゾ神父の教区の教会に設置されたが、すでに高名な彫刻家となっていたヴィタリアーニの大作を一目見ようと集まってきた人々がそれを見るや発熱、頭痛、目眩などの異常反応を次々に起こし、それがまた噂となり多くの見物者を呼ぶことになる。しかし教会への抗議も殺到し、ヴァチカン教皇庁も本格的な調査をはじめ、教皇庁の高位の祓魔師(エクソシスト)まで派遣するが、原因はわからない。あげくの果てヴァチカンはこのピエタ像の公開を禁止し、かのサクラ・ディ・サン・ミケーレ修道院(すなわちこの小説冒頭の場所)の地下倉に光の当たらない状態で保管することにしたのである。
 ミモ・ヴィタリアーニはこの時からすべてを捨ててこの修道院で残りの人生を過ごすことにした。ここで、この小説のタイトルであるが、"Veiller sur elle" ー「彼女を見守る」と直訳したが、veiller は見守る、見張る、監視する、(寝ずの)番をする、といった意味。elle は三人称女性代名詞で「彼女」(人間としての彼女ということであればそれはすなわちヴィオラということになる)としてもいいのであるが、このコンテクストに近いのは la statue(像という意味の女性名詞)の代名詞としてのelle、すなわちピエタ像を意味すると考えるのが自然である。つまり、"Veiller sur elle"とは自ら作ったピエタ像の番人となってこの修道院で一生を終える、ということになる。おわかりかな、お立ち会い?

 さて話は前後するが(この小説の構成も時間軸はかなり前後する)、空から墜ちたヴィオラは相手方から狂女と見做され婚約を破棄される。肉体的拷問療法で”精神の病”が治ると信じられていた時代だった。ヴィオラも宗教施設や隔離療養所に送り込まれる危険をなんとか免れていたが、オルシーニ家は彼女に”普通の女の道”を強要する。強いられた結婚相手リナルドはミラノの弁護士で急伸長中の映画産業で財を成していく、言わば都会の新時代の人間であったが、口は立つが知能知識でヴィオラに勝てないと知るや妻に暴力を振るい、外部では女たらしの男だった。オルシーニ家の権威と繁栄を第一に考える家族はそういうリナルドに寛容であったが、ある日この婿殿が度を過ぎた失態をおかす。浮気相手に暴力を振るい負傷させてしまった。家名が傷つくことを避けるために、聖職者にして策士の三男坊フランチェスコはミモを呼びつけ、事件の夜リナルドはミモと一緒にいたという偽アリバイ供述を強要する。これによってミモはオルシーニ家の家族の一員に匹敵する地位を得ることになる。
 ミモはその時もはや平民石工ではない。バティカンのパチェッリ枢機卿のお墨付きもあり、その彫刻の才能は広くイタリア中に知られるところとなり、殺到する注文を断ることによってその値段は吊り上がり、ローマとピエトラ・ダルバに工房を持って数人の助手を従え、運転手付き高級自動車で全国を移動する”大先生”なのだ。オルシーニ家はその駆け出し期からのミモのメセーヌ(メセナ、パトロン、保護者)という立場である。
 このミモの成功は、かの狂気の墜落事故以来ヴィラに囚われの身となって、結婚しても在宅夫人でいるしかないヴィオラとの関係を複雑なものにする。少年少女の日々、自由で創造力に溢れていたヴィオラに憧れ、その自由と創造を共にすることで芸術家に羽ばたいていくことができたミモは、囚われのヴィオラをどうすることもできない。ファシストに近づくことに頓着しないミモをヴィオラは非難する。しかし今やオルシーニ家の家族に等しい地位を与えられたミモは、オルシーニ家風の(上級階級)処世術に流されていく....。売れっ子彫刻家への注文はバティカンだけでなく、ムッソリーニその人からも来てしまう(注文は断れないが、結局彫刻は作っていない)。勢いは止まらず、ファシスト政権からの後押しで、ミケランジェロ・ヴィタリオーニは、40歳の若さでイタリア芸術アカデミーの会員という最高の栄誉を得ることになる。ところが、若い頃からヴィオラに啓蒙されてきたミモの批判精神はここで爆発し、アカデミー新会員就任セレモニーのスピーチの最後に、政府要人を含むギャラリーの前で、授与された会員章金メダルを「あんたのケツの穴に詰め込んでやる」と叫び、「殺人者たちの政府のために働くなんて金輪際ごめんだ!」と結び、即座に逮捕投獄された。
 ヴィオラ以外、オルシーニ家はこのミモの反ファシスト反逆劇については寝耳に水であり、ミモのメセナ(パトロン)として(半ファシストだった)ステファーノも投獄されることになるが、結果的にこれはファシスト政権崩壊後にステファーノが解放されピエトラ・ダルバに帰ってきた時に、なんと「反ファシスト運動の英雄」として町民たちが歓呼で迎えることになるのである。笑っちゃいますね。

 小説終盤のラストスパートはすごい。ほぼ花火大会の最後の尺玉連続乱れ打ち状態である。ページ数にして530ページ以降。ミラノ駅前広場でムッソリーニが公開処刑に処され、第二次大戦が終わり、イタリアは新しい民主主義の時代を迎えようとしていた。普通選挙が行われる。しかも婦人参政権と被選挙権も認められた上で。それまであまりにも長い間ヴィラ・オルシーニ城館の囚われびとだったヴィオラは、新しい時代に乗じて自ら開花する時が来たと悟った。博識にして科学的分析に長け、先見の明もあるこの行動的知識人は、新しい時代の女性の旗手として、政界に乗り出す決意をした。悪夫リナルドとの離縁にようやく成功し(兄聖職者フランチェスコの方便によると、離婚を認めないローマカトリックにあっても、「結婚取り消し」というやり方はあるのだそうだ!)、リナルドと同じほどマッチョで卑劣な兄たちにもめげず、強権政治崩壊後の混沌としたイタリアという荒海に船出するのである。政治に興味がないと言いながらもミモはこのヴィオラの新しい冒険を全面的にバックアップし、選挙区内の村々/町々をミモの車で巡回し個別訪問でヴィオラの政策を説いてまわる。ヴィオラの言葉には説得力があり、最初戸口であからさまに拒絶的態度をとっていた村民も、数十分後にはもっと話を聞きたいと引き留めにかかるほどだった。なぜヴィオラの言葉には人を引きつけるものがあるのか。それをヴィオラはミモに”風の名前”の例をとって説明する。
「この地方には5種類の風が吹いているの。トラモンタン、シロッコ、リベッチオ、ポナン、ミストラル。私は”風が吹く”と言うときに間違いばかりしていたのよ」とヴィオラは私の肩をひと突きして激しい口調で言った。
「ねえミモ、それぞれの言葉には意味があるのよ。言葉で名付けること、それは理解することよ。”風が吹いている”というのは何も意味しないの。それは生き物を死なせる風なの?種を撒く風なの?苗木を凍らせてしまう風なの?それとも温める風? 私の言葉に何の意味もなければ、私はどんなたぐいの議員になれるの? 他の議員たちと何も変わらないわ。」
(p531-532)

そしてこの選挙区には対立候補がいた。何世紀にもわたってオルシーニ家と対立関係にあるガンバーレ家の息子オラーシオである。土地の権力者であるから、悠々当選するとたかを括っていたが、ヴィオラは草の根作戦でその支持をどんどん獲得していき、オラーシオは劣勢に回った。両候補の最大の争点は建設予定の高速道路であり、高速道路こそ進歩であり繁栄をもたらす未来であると主張するオラーシオに対して、地方を分断し弊害ばかり撒き散らし地場産業を衰退させると建設に反対するヴィオラ(未来のエコロジストの先駆のようだ)。ところが政治の”闇”は真っ黒な策謀でヴィオラに立ちはだかる。高速道路利権に絡む大きな勢力からガンバーレ家に圧力がかかり、優勢なヴィオラの立候補を辞退させ、なんとしてでも建設賛成派オラーシオを当選させよ、と。ガンバーレ家は何世紀も続いてきたオルシーニ家との抗争を終わらせ和解し(長年水不足に悩むオルシーニ家の果樹園への水源水路を無償で譲渡する→作物生産量が6割増える!)、その見返りにヴィオラの立候補を取り下げよ、と。この提案を呑まぬ場合は、かの闇勢力は候補者の暗殺も辞さぬ、と。ステファーノとフランチェスコはオルシーニ家に利益しかもたらさないこの提案を快諾したいのだが、ヴィオラは全くその気がない。そこでフランチェスコはミモにヴィオラを説得するよう依頼する....。
 少年少女の時からミモにとって知能と感性の”師”だったヴィオラ、彼女によってその美学を開眼されたミモ、一緒に冒険をし、そのヴィオラの過度の無鉄砲を”理性”で引き留めたミモ、誤解と裏切りと和解を繰り返し、出会うはずのなかった侯爵跡取り娘と石工の息子はその30年間の夢のような関係を今、精算する。世に知れた天才彫刻家になってしまったミモ、新しいイタリアの創生に(”女ゆえに”できなかったことすべてのことを乗り越えて)その全知全能を開花させようとしているヴィオラ。”理性”の声としてミモはそれを(ヴィオラの命に関わることゆえ)止めようとし、ヴィオラはそれを拒絶する。最初からわかっていたこと。556ページから560ページまで、二人の最後の会話はこの小説で最もエモーショナルなパッセージである。
 Adieu, Viola.
  So long, Francese.
「私に何かあった時にだけ、封を開けて読んで」と手渡された手紙。その約束をミモは破る。今生の別れと知って"Adieu"を告げ、ピエトラ・ダルバのヴィラ・オルシーニ城館を出て行ったミモは、どこでもいいから遠いところへと運転手に命じ、車(FIAT2800)は北に向かってひた走る。その車の中で、何度も手紙に手を触れては押し留めていたが、根負けしてミモは手紙を開く:
私の大切なミモ、約束したにもかかわらずあなたが長い時間辛抱できずにこの手紙を読むだろうということは知っていたわ。私はただそれを知っていたということを言いたかったの。あなたが私を欺くとき、あのときフィレンツェでアメリカ行きを中止させ、今夜私の部屋で出馬を辞退せよと頼み、そして今こうして手紙を開いて読み、あなたが私を欺くときはいつも愛情でそうしたのだということをわかっている。あなたを決して恨んだことなどない。あなたの大切な友、ヴィオラ(p561)
これを読んでミモはFIAT2800の後部座席でたかだかと哄笑するのだった。ここがこの小説を読み解くための最重要の鍵。ヴィオラはミモが三度ヴィオラを欺くことを知っていてそれを許した。おわかりかな?イエス・キリストは使徒ペテロが三度欺く(否定する)ことを知っていた(!!!)  ー 小説のディメンションはここで大きく変わってしまうのですよ。

 北へ進む車に激しい雨嵐が吹き付け、ポンティンヴレーアの峠のあたりで旅籠屋の灯を見つけ避難し、ミモと運転手はビールで疲れを癒し、そのまま深夜になり、一晩泊まることにする。時計は真夜中を過ぎ、1946年6月1日、旅籠屋の部屋でいくつもの悪夢のあと寝静まったミモは突然ベッドから投げ出され、顔を床に叩きつけられ目がさめる。真っ暗で空気が押し詰められたように厚い。窓を開けて外気を入れなければと窓を探すが、窓がないばかりではなく壁もなく屋根もない。周りには漆黒の厚い闇が広がっていた...。
 1946年6月1日、午前3時42分、北イタリア、ピエトラ・ダルバ地方一帯に「メルカリ震度階級」の度数11の極度大地震が発生する。世界有数の地震国イタリアの火山学者ジュゼッペ・メルカリの考案した震度階級は12段階あり、その最強度12に次ぐ震度11は「頑丈な建造物が全壊し、橋が崩落する」と説明されている。小説原文のフランス語では最高震度12を"Cataclysmique(カタクリスミック = 天変地異的)"と形容表現していて、それに次ぐ震度11は"Catastrophique(カタストロフィック=破局的)となっている。おわかりかな?1946年6月1日ピエトラ・ダルバ大震災は、劇的/文学的にもこの小説の大カタストロフなのですよ、お立ち会い。
 ミモはその朝運転手にピエトラ・ダルバに全速力で引き返すことを命ずるが、道はズタズタに遮断され、FIAT2800はピエトラ・ダルバの10キロ手前で前に進めず、ミモは徒歩で川の浅瀬に沿って進まなければならなかった。壊滅したピエトラ・ダルバの町に着いたのは日没どきで何もできず、救助隊が到着して倒壊したヴィラ・オルシーニ城館の最上階部分からヴィオラの遺体を発見したのは、翌日の昼前のことだった。
 ヴィオラの遺体はほぼ裸の状態だった。少女の頃から痩せた長身で胸はなく、骨格が浮き出てかの空からの墜落事故で傷ついた痕跡(縫合痕)もいくつか残っていた。「前髪がその眠る顔にかかっていたのを私は指で払ってやった。壊れてしまった私のヴィオラ(Ma Viola cassée)」(p569)。この壊れてしまったヴィオラの姿のすべてを脳裏に刻んで....。

 小説原文はこんなに順序立てて書かれてはいないので。だがこのカタストロフの後にやってくるのは、彫刻家ミケランジェロ・ヴィタリアーニ最後の大作である世に言われる「ピエタ・オルシーニ」の制作だった。ムッソリーニ直々の注文だった彫刻「新人間」像のために取っておいた極上の大理石を隠匿しておいたフィレンツェの工房に戻り、その石でミモは1年間休みなしでピエタ像を彫り続けた。磔刑に処されたイエス・キリストを抱き抱える聖母マリア。われわれはこのピエタというテーマでは、聖母マリアばかりを見てしまうのだよ。聖母マリアの悲しみを想うばかりなのだよ。ところがミモはそうは彫らなかった。ヴィオラを失ったミモの悲しみは聖母マリアの姿に表現されるのではないか、とも想像するムキもあるかもしれない。ところがミモはそうは彫らなかった。磔刑に処されて死せるイエス・キリストの姿、それがヴィオラの姿だったのだ。

 完成し、公の場で公開されたミケランジェロ・ヴィタリアーニのピエタ像を見た人々に起こった説明不可能の発熱、不快感、嘔吐感...。人々はヴィオラのストーリーなど知る由もない。ましてやイエス・キリストのモデルとなったことなど...。(↑)上述の自称イエス・キリストの生まれ変わりラスロ・トートは、その強い霊感ゆえにこのピエタ像が冒涜として許せなかったのだろうが、標的を間違えミケランジェロ・ブオナローティのピエタ像を破壊したというのがこの小説の仮定。たとえそのイエスが女だったと知らずとも、その彫刻が発する不可視のヴァイブレーションはある種の人間たちの感受性に変調をもたらすものだったかもしれない。この小説とは直接の関係はないが、私は「キリスト女性説」にはやや心惹かれるところがある。

 600ページの名調子大河小説は、おおいなる芸術賛美、女性賛美、イタリア賛美の巨編である。芸術と女性とイタリアを称えること、これを500年前の人々はルネッサンスと呼んだのだ。大風呂敷ながら、そういうことを納得させられる濃い読み物であり、作家の出自を引き合いに出さずとも、必ずや映画化され、その映像でも多くのファンをつかむであろうことは容易に想像できる。エンターテインメントものがゴンクール賞を取ったと言っても、このように知的刺激にあふれるものであれば文句はない。とくに若い人たちに読んでほしい。

Jean-Baptiste Andrea "Veiller sur elle"
L'Iconoclaste刊 2023年8月 590ページ 22.50ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)出版社イコノクラスト制作の著者自身による"Veiller sur elle"紹介動画

2023年12月10日日曜日

Do they know it's Christmas time at all ?

"Bâtiment 5"
『5号棟』

2023年フランス映画
監督:ラジ・リ
主演:アンタ・ジャウ、アレクシ・マネンティ、アリストット・リュインデュラ
フランス公開:2023年12月6日

ンヌ映画祭審査員賞+セザール賞最優秀映画賞(+3部門)+観客200万人の映画『レ・ミゼラブル』(2019年)の4年後、ラジ・リ監督の2作めの長編映画。4年前爺ブログは『レ・ミゼラブル』の絶賛評の最後に「一言だけ苦言を言えば、女性たちの出る幕がほとんどない映画。郊外で女性たちが出る幕がないということはありえないはず。」と書いた。それに応えてくれたのか、ラジ・リ新作の主人公は女性である。これが素晴らしい女性ではあるのだが...。
 舞台は町名は出てこないがパリ郊外93(セーヌ・サン=ドニ)県のとある町である。シテと呼ばれる林立する高層社会住宅の地区があり、一方で瀟洒な一戸建て住宅の立ち並ぶ地区もある。映画は老朽化した高層社会住宅のひとつを爆薬によって倒壊させるセレモニーから始まる。数百人の元住民たちの数十年の歴史の舞台となった建物の最後は、町のお偉方たちがお立ち台に並び、見物聴衆たちのカウントダウンの声が「ゼロ!」になるや爆破スイッチが押され、大歓声と大轟音のうちに...。ところが、爆破工事請負会社の計算違いか、爆破の破壊力は予想をはるかに超える大きさで、爆風がセレモニー場所まで吹き荒れ、市長を直撃し、そのショックで市長は死んでしまう。
 "栄光の30年(Trente Glorieuse)"と呼ばれた第二次大戦後の高度成長期に外国や海外県から迎え入れた夥しい数の労働者たちを住まわせるための低家賃(高層)社会住宅は、大都市近郊周辺からそのドーナツ円周を拡大させ、遠距離に広がっていった。老朽化すれば壊し、新しい建物と地区が同じ場所にできるが、家賃は上がり、元住民はそれより安い遠い周辺に追いやられる。大都市とその周辺の都市計画はこのように低所得者を周辺にさらに周辺にと追いやるかたちで進行してきた。それには当然建設会社や不動産会社の利権が絡み、地方政治的には所得の安定した住民を増やし貧乏人を駆逐することで税収や治安の安定をはかるという意図もある。成長期が終わり、大失業時代がやってきて、貧富の差はいよいよ拡大していくが、この都市計画は止まらない。老朽化した社会住宅は、破壊→建て替え→新地区への移行を早期に実行したいため、公団による修理修繕も手薄になりただ腐敗するのを待っている。そういう郊外の高層住宅が貧困者のゲットーとなったり、地下経済/並行経済および麻薬や銃器売買のアジトとなったり、十全主義的宗教セクト思想の温床となったり、といったネガティヴなイメージで塗り固められていく。前作『レ・ミゼラブル』と同様、この映画もそういう現場を背景にした作品である。
 死んだ市長は、腐敗した高層社会住宅をひとつひとつ爆破して、そのあとに小綺麗なニュータウンを、という都市計画の推進者であり、所属する中央の党(名指されていないが保守系)もゼネコン/不動産筋からの黒い金の恩恵があるので、是が非でもこの路線は続けてもらわなければ困る(これを市幹部に厳命するのが、同党の地方選出国会議員役のジャンヌ・バリバール)。次回選挙までの(市執行部によって選出され)代理市長となったのが、死んだ市長の補佐役のひとりで町の開業小児科医であるピエール・フォルジュ(演アレクシ・マネンティ、前作『レ・ミゼラブル』に続いての怪演)。あからさまな政治的野心があり、これを足掛かりに中央政界さらにその上までを視野に入れている。かなり戯画的なポリティック・アニマル。この男が登場したとたん、映画全体がいっぺんに政治劇になってしまう。
 仮市長フォルジェは権力を掌握するや、町の諸悪の温床はすべてかの老朽化した低家賃公団高層住宅地区にあり、それをできるだけ近い将来に解体し住民たちを放逐するべく工作を始める。シテの駐車ゾーンでの”闇”自動車修理・解体業を禁止し、重機で強制的に撤去する。未成年の夜間外出や未成年だけで集合することを禁止する条例を発令する....。
 北アフリカやアフリカなどからの”難民”は受け入れないが、シリアからの”キリスト教徒”難民は市が手厚く保護する。「選択的難民受入」という批判をものともせず、市長はこれを模範的難民政策として世論にアピールしようとする。父と二人この町に受け入れられた若いシリア難民女性タニア(演ジュディ・アル・ラシ)は市役所の文書管理課に研修生として働き始めるが、その上でその課に働いているのがハビー・ケイタ(演アンタ・ジャウ)で、彼女はシテ地区の”民生委員”的な役割を担っていて、さまざまな相談ごとを受け、その解決のために公的機関と折衝・談判もする行動的ボランティア。ハビーはこのシテの5号棟で生まれ育ち、今もその住民たちと密な関係で生活しているので、市当局の超手抜きのシテ建物管理(エレベーターが長年修理されていない等)には執拗に抗議し改善を求めるが、市が進めている(シテ解体後を想定した)新都市計画には真っ向から反対する。
 オプティミスティックでその”政治”による解決はあると信じるハビーがいる一方で、その恋人のブラーズ(演アリストット・リュインデュラ)は政治では何も変わらない、ましてや暴動でも何も変わらなかった(これは『レ・ミゼラブル』の大きな主題だった)というペシミスティックな考え方の持ち主である。 シテの現実にどちらが近いかと言えば、私はブラーズの側だと断言できる。それはそれ。ブラーズはそれでもハビーの行動を支援し、ハビーの相談に乗っている。
 映画の中で最もイケすかない役割を演じているのが、死んだ前市長の時から市長補佐をしているロジェ(演スティーヴ・チェンチュー。ちょっと柔道のテディー・リネールを想わせる巨漢カリビアン黒人)で、保守市長側がこういう肌の色の人間を要職に置いておけば”その種の”住民たちの信用を得られるだろうという意図が見え見えで、ロジェ本人も保守勢力から甘い汁を吸わせてもらっているという立場。これがシテ住民たちの意見を聞くフリだけはするが。ハビーの行動には敵対していく。
 仮市長フォルジェの(警察機動隊・CRSを使っての)シテ住民たちへの圧力は露骨さを増していき、ハビーは住民たちとデモを組織し、フォルジェに対して市長選挙の実施の義務をつきつけ、ハビーは市長選に出馬する。こうしてフォルジェ対ハビーの一騎打ち選挙戦が始まるのだが、フォルジェはあらゆる手を使ってハビーを妨害する....。

 いいですか、お立ち会い、こんなふうにこの映画ははっきりした「善」対「悪」の政治闘争、いわば古典的階級闘争になってしまうのですよ。これが悪いとは言わないけれど、一挙に『レ・ミゼラブル』の複合的な深みが失われてしまうのですよ。

 シテの中の多彩な民族色あふれる共同体的つながりは、建物の中に調和的な溜まり場をつくり、人々が集まり、共に語り、時には歌ったり踊ったり、そして飲み、一緒に同じものを食べたりする。大鍋を使った大人数料理を作ったりする。彼らには欠かせない生活の営みである。外食するような金などないのだから。みんな助け合っているのだから。これがこの映画の罠になるのである。老朽化したシテ内のアパルトマンの台所での大人数用の火を使った大鍋料理... ここから火災が発生してしまった...。瞬く間に煙が回ってしまう老朽高層住宅、逃げ惑う住民たち...。
 消防のおかげで延焼は免れたが、建物が被ったダメージは甚大である。消火後火災現場を視察する市長フォルジェと消防と市の幹部。フォルジェは検証の結果として、(千載一遇のチャンスと勝ち誇ったように)、消火ダメージによって建物の危険状態が著しく、住民全員の避難(仮住まい転居)が必要と退去命令を発する。長年望んでいたことがこんなに簡単にやってきたではないか、とフォルジェは補佐のロジェに言う。ロジェは驚き「クリスマスの日に住民を追い出すのか?」と異を唱えようとするが、結局権力=フォルジェに従うはめになってします。
 映画の一番の見せ場は、この警察機動隊・CRSの大部隊が出動して、着の身着のままの住民たちを建物から追い出すシーンであるが、住民たちはできる限りの抵抗として家財道具を持てるだけ持ち出し、高層住宅の窓から吊るして下ろしたり、投げ下ろしたり...。これがクリスマスの日に起こったのだ。冷笑的にあんたたちの宗教とは無関係だろうと言うムキもあろうが、子供たちにとってはどんな子供たちでもクリスマスはクリスマスなのだ。ハビーの怒りと悲しみは...。そしてすべてを失ってしまった住民たちは...。
 
 町の反対側の瀟酒な高級住宅街のクリスマス電飾できらめく一角にある市長フォルジェの屋敷では、シリア難民のタニアとその父親をゲストに招いて、市長夫人がホロホロドリを焼き、クリスマス装いの子供二人とともに、ピエール・フォルジェの帰宅を待っている。そこに現れたのが、シテを警察権力によって追い出され無一物になったブラーズ、その煮えたぎる怒りを抑えることができなくなった彼は鉄バールを振り上げ、クリスマス装飾の市長宅サロンを手当たり次第に破壊していく。そこへ帰ってきたフォルジェもその暴力にひるんでしまい、悲鳴を上げ、小心者の正体が露呈してしまう。ブラーズはクリスマス料理の並ぶ大テーブルに石油をばらまき、火を点けてこの家を焼き払おうとするが....。

 映画の結末はこのような「闘争の敗北」を描こうとしているのではないので、最後のところまでは語らないでおくが、最後にかけつけたハビーにはこれでいいのか、これでいいのか、という問いが私には残る。この映画は未完である、と言うより「未完成品」である。山場まで来てシナリオが書けなくなった映画のようにしか見えない。
 この映画には続編が必要だ。「善」と「悪」の問題にしないでほしい。ハビーのやるべきことのヴィジョンも示されていない。クリスマスを台無しにされたのは、この映画を観た人々も同じであろうが、違う答えが来ることを私はまだ願っている。続編を待っていよう。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『5号棟』予告編


(↓)記事タイトルに借用したので。Band Aid(1984年)私これ大好きでしてん。

2023年12月2日土曜日

ミンナニデクノボートヨバレ

"Perfect Days"
『パーフェクト・デイズ』


2023年日本ドイツ合作映画
監督:ヴィム・ヴェンダース
主演:役所広司(2023年カンヌ映画祭男優賞)
フランス公開:2023年11月29日


まもなく(これを書いている時点から3週間後)日本公開になるし、すでに話題の”日本映画”であるし、おまけに日本語版ウィキペディアが大幅なネタバレを含むかなり詳細な情報を公開しているので、爺ブログが出る幕はないとは思う。のではあるが。
 1985年、ヴィム・ヴェンダースのドキュメンタリー映画『東京画(Tokyo-Ga)』を私はリアルタイムにパリで観ていた。パリの映画館でフランス人に囲まれて観ると、それは不思議の国「日本」の絵であった。ヴェンダースの最も敬愛する映画人であろう小津安二郎の1953年の映画『東京物語』をイントロとアウトロに導入するこのドキュメンタリーは、『東京物語』の30年後たる1980年代の東京に、いったい小津的情緒や小津的心象風景はまだ見い出せるのか、という問いから発している。答えはヴェンダースのカメラアイはその東京のあちらこちらにそれを見てしまうというものだった。ヴェンダースの知らなかったパチンコや食堂の料理見本(ロウ細工)や竹の子族にもカメラアイはそれを見てしまうのだった。この詩的にもメランコリックな東京は、私はおそらくヴェンダースを通して初めて知ったのかもしれない。
 この『パーフェクト・デイズ』はそれから40年後なのである。小津の『東京物語』その他で笠智衆が演じた「ヒラヤマ」という名の男をヴェンダースは彼なりに創ってみようとしたのだろう。口数が少なく、そこはかとない哀感を帯びた笑顔の初老の男、このヒラヤマ(演役所広司)は浅草界隈に近い木造2階建(風呂なし)ボロアパートに住むひとり身の底辺労働者で、その職業は東京の公衆便所巡回清掃員である。映画にはさまざまな意匠とデザインのハイテクな公衆便所が登場し、『東京画』の時のような不思議の国「日本」のような図に欧米人には見えるかもしれない。まさにこれは『東京画』の中の料理見本ロウ細工と同じようなもので、見た目の奇異さはあれど映画の重要なファクターではない。アメリー・ノトンブが東京の一流商社でパワハラを受け便所掃除を命じられた屈辱のようなドラマティックな要素もない。この映画で便所清掃は淡々としたひとつの労働であり、それ自体はドラマではないが、底辺労働として見られる衆目の価値観は避けられない。
 ラヤマの生活リズムはきわめて規則正しい。夜明け前、近所の老婦人の玄関先を掃く竹ぼうきの音で目が覚め、茶碗栽培の苗木に霧吹きをかけ、歯を磨き、シェーバーで顎髭を剃り、口髭を丁寧にハサミで揃え(旧時代のダンディズムを想わせる)、"THE TOKYO TOILET"(これがこの映画のタイアップ企業か)と背に書かれたつなぎの作業衣に身を包み、自販機で缶コーヒー(これが朝食代わり)を買い、便所清掃の七つ道具を積み込んだライトバンに乗って仕事の便所巡回清掃に出かける。
 この一日の始まりで重要な瞬間はヒラヤマが玄関ドアを開け、外に一歩出る時に、必ず上を向いて朝の空を見やり、満足げな微笑みを浮かべることである。この生活パターンのシーンは映画中何度もループマシーンのように繰り返されるのだが、この朝の空に微笑みのところは何度見てもいい。毎朝来るのに初めての朝のような。Morning has broken like the first morning. そんな歌のような朝だが、この歌は挿入歌として登場しない。しかし、この映画は数々の挿入歌がおおいにものを言う効果がある。その音楽のほとんどがヒラヤマの業務用ライトバンのカーステから聞こえてくるのだが、すべてヒラヤマの個人コレクションのカセットが音源なのだ。挿入曲リストを挙げておこう。
"The House of the Rising Sun" - The Animals (1964)
"Redondo Beach" - Patti Smith (1975)
"Walkin' Thru The Sleepy City" - The Rolling Stones (1964)
"Perfect Day" - Lou Reed (1972)
"Pale Blue Eyes" - The Velvet Underground (1969)
"(Sittin' On) The Dock of the Bay" - Otis Redding (1968)
"青い魚" - 金延幸子(1972)
"Sunny Afternoon" - The Kinks (1966)
"Brown Eyed Girl" - Van Morrison (1967)
"Feeling Good" - Nina Simone (1965)
シクスティーズ/セヴンティーズの渋みオーガニックポップロック精選のような曲並びであるが、映画で「カセット音質」が再現できているかどうかは、まあいいとしよう。要はルー・リードとヴェルヴェットなのだと思う。ヒラヤマはルー・リード好きの静かで木訥なる男という設定、これを役所広司が体現できているか、という問題。

 そしてヒラヤマは読書家である。そのボロアパートの2階のせまい寝室(たぶん六畳、煎餅布団+掛け布団+枕)には、ヴィンテージなラジカセ機と棚にきれいに並べられたカセットのコレクションのほかに、文庫本の蔵書がある。すべて古本屋の「100円均一文庫本コーナー」で調達されている。映画に登場するだけでも、ウィリアム・フォークナー、幸田文、パトリシア・ハイスミスというラインナップ。広いレンジの文学を心の糧にしているのだろうが、読むのには時間がかかる。きつい肉体労働のあとの床の中で、眠りに落ちるまでに読めるのは数ページ。そのあとにモノクロのアブストラクトな夢が映像として登場する。
 渋め音楽好き、渋め読書好きの底辺肉体労働者、その掃除仕事の几帳面さは映像で強調されている。昼は木々に囲まれた神社境内のベンチで(たぶんコンビニ製の)三角サンドとパック牛乳で済ます。その昼休みの神社境内で、毎日ヒラヤマは(たぶん彼が愛してやまない)大樹が空覆う枝と緑の葉の姿を、下から時代物のインスタントオートフォーカスカメラ(要写真フィルム)で撮影する。この撮影したフイルムをヒラヤマは(今もこの世に現存する)町の写真現像屋に行って現像紙焼きしてもらい、良い写真とダメなものを区分けして、アルミの菓子箱に整理して長年の写真記録として押し入れに仕舞ってある。これが茶碗盆栽栽培と共に、ヒラヤマの偏執的オタクのような側面をよく象徴している。
 そして夕食は浅草地下街の大衆一膳飯屋で焼酎をひっかけながら。そのあと銭湯で汗を流して帰宅、読書、就眠。

 映画はこの朝起きてから就眠するまでのサイクルを数度繰り返していくうちに進行していく。昨日のコピーのような今日。しかしそのルーチンの合間にさまざまなことが起こっている。便所清掃の日常でもさまざまな人々が見えている。清掃仕事の同僚の若造(演柄本時生)の恋の最後のチャンスに立ち会ったり、その相手の女(演アオイヤマダ)にカセットで聞かせたパティ・スミスの曲で思わぬエモーションを引き出したり、ヒラヤマをあてにして家出してきた姪(妹の娘)ニコ(なんちゅう名前だ、と思われようがヴェルヴェット・アンダーグラウンドに由来する。演中野有紗 )に穏やかな人生のあり方をそれとなく感化したり、石川さゆり演じるママがいる場末の飲み屋で石川さゆり演じるママが石川さゆりの声で「朝日の当たる家」を歌うのを聴いたり、そのママの元夫(演三浦友和)でガンで余命いくばくもなしと宣告された男と夜の隅田川岸辺で二人で影踏み遊びに興じたり...。こういう日常の中での短編スケッチをオムニバス的につなげた映画。静かで木訥とした佇まいの初老男が、その日々に触れ合うちょっとしたもので、世界に少し影響を与え、自分も小さな満足をちょうだいしている。この静かな交感(コレスポンダンス)、これを小津的ポエジーだの禅的ふれあいだのとフランスの映画評は称賛するのである。たしかにここがこの映画の真ん中でしょうね。テレビもインターネットもスマホも持たぬ
(ガラケーは持っている)男、丈夫なからだを持ち 欲は無く 決して瞋からず 何時も静かに笑っている、これは宮澤賢治「雨ニモマケズ」ではないか。「雨ニモマケズ」は反語表現であると私は解釈している。「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と閉じるが、ワタシはなれないのであり、ワタシでなくても誰もなれないのである。サウイフモノをヒラヤマは体現している、というヴェンダース映画である。サウイフモノにとっての完璧な日々、パーフェクト・デイズは2020年代の東京でヴェンダースには見えたのだろうか。役所広司はすばらしい役者である、という次元で足踏みしてしまう映画には見えないか。
 この映画の日本公式サイトはキャッチコピーに「こんなふうに生きていけたなら」とムード的にうたっている。私は冗談じゃないよと思ってしまった。そういうレベルの映画にしないでほしい。たぶん日本側制作スタッフはたくさん注文をつけたように思えるものがやや目立つ。出資企業のものだけでなく。東京自画自賛にヴェンダースが加担しているように思えるところも。
 ヒラヤマがなぜ底辺労働者に身をやつしたのか、という過去のいきさつは映画ではほぼ不明のままである。ニコの母親(ヒラヤマの妹)が乗ってきた運転手付き超高級自家用車で想像できないことはない。説明的になる必要はないが、ヒラ ヤマはこのライフスタイルを自らが選び、その後悔はない(と言いながら、おいおい涙を流すシーンあり)。私はここのところがとても好きだし、ヒラヤマにとても深く秘められたものは、『パリ、テキサス』(1984年)のトラヴィス(演ハリー・ディーン・スタントン
の謎の失踪と同じ性質のものと思った。だから悪い映画ではない。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランス上映版の予告編


(↓)ルー・リード「パーフェクト・デイ」(1972年)