2021年2月28日日曜日

ジャーマネ一代男

Francois Ravard "Rappels - Mémoires d'un manager"
フランソワ・ラヴァール『ラペル:あるジャーマネの回想録』
 
"5人目のテレフォヌ"と言われた男フランソワ・ラヴァール(1957 - )は1976年から10年間、フランスのトップロックバンド、テレフォヌのジャーマネを務め、その後も音楽と映画のプロデューサーとして、レ・リタ・ミツコのアルバム『ザ・ノー・コンプレンド』、ジャン=ピエール・モッキーの2本の映画、セルジュ・ゲンズブールの最後の映画『スタン・ザ・フラッシャー』を制作、そして1994年から26年間にわたってマリアンヌ・フェイスフルのジャーマネでもある。
 フランスではとにかくテレフォヌが破格の人気バンドであったから、この本への興味というのはそのバンドの内部から捉えた行状記という点に集中すると思うが、熱心なファンではない私やあなたには、この本の前半はそれほどのめり込める内容はない。ただ、フランスの特殊な事情はとてもよく見えてくる。まず日本でも同じ頃(1970年代)に同じような問いがあり「日本語によるロックは可能か?」に、いわゆる「洋楽」側の人たちは非常に冷ややかだった。アプリオリに本物のロックは英米なのである。テレフォヌはフランス語ロックでメジャーデビューした稀有なバンドのひとつだったが、レコード会社(パテ・マルコーニ)はやる気がなく、このバンドの将来など知ったこっちゃないという態度だった。 これはパテの担当ディレクター、フィリップ・コンスタンタン(1944 - 1998。テレフォヌの他に、レ・リタ・ミツコ、キャルト・ド・セジュール、ステファン・エシェール、モリ・カンテなどの発掘者として知られることになる)のバックアップがあっても事情は変わらない。私は業界内部の人間として1980年代後半からこのパテ・マルコーニほかフランスのレコード会社に出入りしていたが、このフランスの大手レコード会社のやる気のなさ、というのはよく感じていた。長波ラジオ(FM以前)の歌番組感覚、主流販売媒体がカセットテープ、ヴァリエテ/シャンソン/アコーディオン...。この人たちにロック革命はゆっくりとしかやってこなかった。このやる気のない旧体制の会社と心中しないために、バンドは制作・楽曲管理・プロモなどを自分たちの管理下に置くよう独立会社を作ってレコード会社と会社対会社の交渉ができるようにする。テレフォヌ・ミュージックはこうして出来上がり、ラヴァールが代表者+バンドメンバー4人で構成された。こういうシステムは英国ではずいぶん前から広まっていたのだが、フランスでは最初。ましてや"マネージャー”というアーチストの渉外全般を扱うプロなどフランスにはいなかった。ラヴァールはフランスで前例のないロックバンドジャーマネとして、誰も教えてくれないショービジネスのジャングルで手探りでジャーマネ業を学び、ビートルズやローリング・ストーンズの歴史的ジャーマネと同じほど重要なものに昇格させていくのである。
 独立の広告業者を父親に持ち、学校とソリが合わず不登校になった少年フランソワは、学校に行かなくてもいいから英語を覚えて来いとロンドンに留学させられる。15歳で70年代ロックカルチャーのど真ん中に飛び込み、世界各地から集まったヒッピーたちと不法占拠家屋で共同生活をし、都市ボヘミアンとロックの青春(いいなぁ...)。パリに帰り、唯一興味のあった映画を学ぶため一念発起して独学でバカロレアを取得しパリ大学ヴァンセンヌ校映画科に編入、そこでオリーヴ(オリヴィエ・コードロン 1955 - 2005)と邂逅。大学キャンパスでギグしていたパンクバンドのヴォーカリスト/ギタリストだったオリーヴがラヴァールに引き合わせたのはリセ以来の親友で時々一緒にギグもしていたジャン=ルイ・オーベール(1955 - )だった。この3人が波長が合ってしまって、ひとつアパルトマンに同居して、音楽創造したり、ドラッグをきめたり、パリのアンダーグラウンド・シーンでのやんちゃを繰り返すのだが、チケット買う金がないので外タレのロックコンサートにはすべてホールの屋根から忍び込むという冒険譚はじつに素敵だ。20歳になるかならないかの頃だもの。で、オーベールが時々参加していたバンド"セモリナ”のドラマーのリシャール・コランカ(1953 - )が、1976年11月12日、パリ14区の500人キャパのホール"アメリカン・センター”(その場所は現在フォンダシオン・カルティエ=カルティエ現代美術財団になっている)でのコンサートの契約をとりつけたのだが、コンサートの3週間前にバンドが喧嘩別れ解散をしてしまう。コランカがキャンセルはもったいないと言うので、ラヴァールとオーベールとコランカが人選して間に合わせで立ち上げたバンド4人:ジャン=ルイ・オーベール(ギター/ヴォーカル)、リシャール・コランカ(ドラムス)、オーベールのリセ友でジャック・イジュランのバンドでプロデビュー済みのルイ・ベルティニャック(リードギター、1955 - )、ベルティニャックがその加入の必須条件としてつきつけた当時の恋人コリンヌ・マリエノー(ベース、1952 - )、これが未来のスターロックバンドの始まりだった。バンド名も決まっておらず「11月12日にロックコンサート」とだけ書いたチラシ/ポスターをパリ中に配ったが、当日蓋を開けてみたら超満員大盛況。テレフォヌという名は(当時)最も簡便で効果的な伝達ツールという点に着目したオーベールが、ロックによるメッセンジャーたらんという思いから提案し、全員の賛意を得た。4人+ジャーマネの5人、これがすべてを共有し、ギャラ報酬も5等分で分ける。アメリカン・センターのギグの評判はたちまち業界に広がり、様々なコンタクトやオファーが飛び込んでくるのをさばくのがジャーマネの仕事。19歳の若造は海千山千のショービズ猛者たちにもまれながらもバンドの独立を絶対的に保持する姿勢を崩さず...。まあこれは一種のサクセスストーリーなので全体の筆致は自画自賛ぽい。
 さて前述のようにこのバンドに全く期待をかけていなかったレコード会社パテ・マルコーニと契約し、1977年、ロンドン、エデン・スタジオで録音したファーストアルバム『アンナ』(→写真は当時まだ無名だったジャン=バチスト・モンディーノ)を発表。ここからテレフォヌの快進撃が始まり、1984年の5枚目のスタジオアルバム『Un autre monde(別の世界)』までミリオンヒットに次ぐミリオンヒット、ツアーはスタジアム級という急成長を遂げる。まあ、フランスにいないとよく見えない現象ではあるので詳しくは書かない。(↓デビュー時1977年にパリ地下鉄営団とのタイアップで行われた地下鉄ナシオン駅構内でのライヴ動画、曲は「イジアフォヌ (Hygiaphone)」)
 さて、このデビューアルバム『アンナ』のジャケでも(↑)の動画でもそうなのだが、このバンドで否応なく目立ってしまうのが、凄腕女性ベーシスト、コリンヌ・マリエノーの存在である。稀である。こういうのはあの時代世界を見渡しても、トーキング・ヘッズのティナ・ウェイマスぐらいしかいない。日本語の「紅一点」とはマッチョな環境の中でのチャームポイントのように捉えられるが、バンドはそれを際立たせようとしたわけではない。このラヴァールの回想録の中でコリンヌの位置は微妙である。テレフォヌは1986年に解散するが、その29年後2015年にレ・ザンシュ(Les Insus)と名乗ってコリンヌを除く3人で再結成されている(バンドとしての決定はすべて5人の合議に基づくという縛りから"テレフォヌ”と名乗れない)。テレフォヌのファンたちにとってはコリンヌは一番のやっかい者という印象があるが、この本はそれを証言するような記述が多い。1977 - 78年の冬、ローリング・ストーンズがわが町ブーローニュ・ビヤンクールのパテ・マルコーニのスタジオでアルバム『サム・ガールズ』の録音が行われ、その滞在中にテレフォヌのメンバーとちょっとした交流があったのだが、ジャン=ルイとラヴァールにキース・リチャーズがこんなことを言っている。
「なんだって? おまえたちのバンドには女がいるのか? ギタリストとカップルだって?! 覚悟しろよ、野郎ども、面倒なことになるぜ」(p72)
(←1979年セカンドアルバム『毒を吐き出せ(Crache ton venin)』のヌード仕掛けジャケ。ジャン=バチスト・モンディーノ)
これが未来を暗示するキースならではの啓示的な一言なのだ、というトーンがこの本にはある。それは直接的に「女はやっかいである」という性差別思考だとは言わないが、後年5人の亀裂が表面化する時、まとめ役のジャーマネであるラヴァールと悉く対立していくのがコリンヌだった。上で述べたようにテレフォヌ結成時にベルティニャックと恋仲であり、ベルティニャックが強引にバンドに引き込んだ経緯があるが、そのベルティニャックとの関係も永続的なものであるはずがなく、その破局後コリンヌは一時的であるにせよジャン=ルイ、次いでリシャールとも関係を持つのである。バンドの中が穏やかならざるものであったことは間違いない。年齢も関係しているかもしれない。コリンヌは最年長であり、最年少のラヴァールと5歳違う。バンドは結成以来、原始共産制のようにすべての収入を5等分分配することにしていた。また楽曲はほぼ全曲がジャン=ルイ・オーベールの作詞作曲であったにも関わらず、バンドの共同創作として著作権登録し、(これに限ってはラヴァールを除外して)著作権収入は4等分分配された。リーダーのないメンバー同等の共同創造(クレアシオン・コレクティヴ)、これに最もこだわったのがコリンヌだった。インタヴューは一人で受けず必ず4人で。
 成功の数々の果てにいよいよバンドの亀裂が深まった頃の1984年、テレフォヌは日本に行き、武道館にジ・アラームの前座として2回登場している。友人の谷理佐は新宿ルイードでのギグを見たと言っていたが、そのことは本書では触れられていない。相撲観戦や黒澤明『乱』の撮影に立ち会うなど盛り沢山のスケジュールをこなしたが、その中で日本のテレビ出演でライヴ演奏するという機会があった。ところがその収録ヴィデオを見たコリンヌが激怒する。ほぼジャン=ルイしか映っていない。これは何だ!われわれは「ジャン=ルイ・オーベールとそのグループ」ではない。テレフォヌというバンドである。テレビ局に対して猛烈な抗議を行うのだが、生放送だったのでどうしようもない。これがコリンヌをよく象徴するものであるが、これに関してはコリンヌが圧倒的に正しい。
 1986年テレフォヌは二つに分裂し、一方は”Aubert n Ko”(オーベールとコランカ)、他方は"Les Visiteurs"(ベルティニャックとマリエノー)となる。その後もラヴァールが代表者としてテレフォヌの楽曲管理をしていた5人の会社テレフォヌ・ミュージックの経営をめぐって、ラヴァールとコリンヌ・マリエノーは衝突し、ついには会社を売却する結末となる。有名バンドの解散はどこも巨大な金の取り合いとエゴの衝突というのが相場だが、このバンドではそれに加えてこのジャーマネと女性ベーシストの確執が大きな要因になっている、と読ませる本なんだね、これは。30と数年経った今でも、これは未解決の問題であり、3人(+ジャーマネ)で復活したバンドが"テレフォヌ”を名乗れず、コリンヌは頑なに再加入を否定する(または否定されてる)のは、既にこの本で言い訳されている。そしてそのフシにはどこか言外に「しかたないじゃん、女なんだから」というニュアンスが透けて見えるのだよ。絶対に言ってはいけないことなのだけど。
さて、本書の前半はテレフォヌの栄枯盛衰で閉じられ、後半には映画プロデューサーとして、貧乏多作映画作家ジャン=ピエール・モッキー(1933 - 2019)との(めちゃくちゃに消耗する厳しいものだったが充実した)2本の映画制作に続いて、セルジュ・ゲンズブール(1928 - 1991)の生涯最後の映画『スタン・ザ・フラッシャー』(1990年)の制作、というたいへん興味深い章がある。 退職した英文学教授が、世間からも妻からも見放され、老いと性的減退に怯えながら、個人授業の(ロリータ)女生徒たちに”露出”するというシナリオで、当時は大映画監督にして大映画プロデューサーだったクロード・ベリ(1934 - 2009)を主演男優に選んだ。この章ではゲンズブールがどうのこうのよりも、クロード・ベリがいかに身勝手で最低の男であったかに多くが割かれていて、ゲンズブールも覇気に欠けていた様子が窺われる。映画監督の経歴としてはそれまでの4作ことごとく興行的には失敗しているが、本人は高踏的な作家主義映画であろうという意思はなく、人が入り話題になる映画を作ろうと思っている。だから毎回人が入らないことに深く消沈している。そしてこの映画も同じ末路となる。1990年3月に封切られ、2週間で上映館から姿を消したこの映画の悪評が死を早めたのかもしれない。手術で体が弱り、アルコールは絶ったが、タバコはやめられない。おまけにバンブーとの関係も悪化した。生気を失った状態のゲンズブールにラヴァールは時々会いに行ったり電話で話したりしたが、それでも次のプロジェクトがあり、ニュー・オルリンズでブルースのアルバムを制作する、と語っていたそうだ(1991年3月2日ゲンズブールは他界する)。
 後世にこの映画が語られるとすれば、女優エロディー・ブシェーズ(1973 - )を発掘した映画であるということ。ゲンズブールはこの女優の将来を確信していて、この映画のサントラ曲を作って彼女に歌わせると言っていたが、実現されていない。それからゲンズブールは彼女の「ブシェーズ」という姓を"どうもいただけない"と嫌っており、映画のエンドロールには「エロディー」としか表記されていない。

(←マリアンヌ・フェイスフルとフランソワ・ラヴァール、2005年)
 本書の第三部の約60ページは1990年代から四半世紀にわたってラヴァールがジャーマネとなるマリアンヌ・フェイスフル(1946 - )に割かれている。言うまでもなく60年代のロック・アイコンであり、当時も今もローリング・ストーンズと太いパイプで繋がっている”歴史的”女性である。私はロック史の重要人物として敬意を表することはあっても、音楽アーチストとして惹かれたことはなく、1枚のアルバムも持っていない。むしろ苦手。というわけで、破天荒な行状と(金がないのに)金のことを頓着せず豪遊する貴族のような気位の高さと根っからのジャンキーであることだけ、よくわかったとしておく。10歳年下のラヴァールとは10年間ほどプライヴェートでもカップルの関係にあった。

 最終章は、ロック人間の宿命であるかのように、セックスとドラッグ(+アルコール)とロックンロールで体をボロボロにしたフランソワ・ラヴァールが超悪性のC型肝炎となり、肝臓移植以外生存の道はない、と。生死の境をさまよいながら、天はラヴァールを見放さず、移植手術が成功し、激励にやってきたあの旧友3人が、俺たちまたバンドやるぜ、というものすごいニュースを持ってくるし...。めでたしめでたしで回想録を閉じるのでありました。
 
 リアルタイムでフランスの音楽業界にいた私としては、めちゃくちゃよく知ってる部分もあるが、大方は雲の上のショービジネスの話で、テレフォヌのファンやゲンズブール研究家、ローリング・ストーンズマニアには読んでおいても悪くない一冊ではなかろうか。登場する交友関係者で興味深いのは前述のフィリップ・コンスタンタン、作詞家・作家のエチエンヌ・ロダ=ジル、そしてピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ。間接的だが私にも非常に重要な影響のあった3人であった。
 おしまいになったが、書名の"Rappels"(ラペル)とは、さまざまな意味があり、まず電話(テレフォヌ)では返信・コールバックのこと、コンサートではアンコールのこと、会計用語では請求書未支払いに対するリマインダー(再請求)のこと、一般的にはメモ書きなどの備忘録のこと。ジャーマネやってれば、みんな重要な意味を持つ言葉であろう。優れたタイトルだと思います。
 
Francois Ravard "Rappels - Mémoire d'un manager"
Harper Collins 刊 2021年1月、300ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓ハーパー・コリンズ社による本書のプロモーションヴィデオ)


(↓レ・ザンシュ Les Insus 2017年 アコーロテル・アレナ=旧ベルシーでのライブ「イジアフォヌ」)


2021年2月20日土曜日

酔うて消えろ

Daniel Fernández "Si tu me perds"
ダニエル・フェルナンデス「僕が姿を消したら」(1981年)

ルダ・フェルナンデス(1957 - 2019)はバルセロナで生まれたがカタロニア人ではない。アンダルシアから仕事を求めてバルセルナに”国内移民"したアンダルシア人の子供であり、誇り高いバルセロナ/カタロニア人たちから差別を受けた記憶がある。おまけにフェルナンデス家の信仰はプロテスタントだった。アンダルシア人でプロテスタント、これは(スペインでもフランスでも)マジョリティーとは違う生き方である。ジタンと同じように、フラメンコはDNAに刷り込まれているとニルダは言う。ノマド的性向もしかり。6歳の時にフランスに渡り、リヨンで少年時代を過ごす。スペイン語教師となった頃ギターを作詞作曲、妹とバンドを組み、小さなホールで歌い始める。イエスのジョン・アンダーソンとよく比較される小柄な体から出る高音のハスキーヴォーカルは早くから評判になっている。
 1981年パテ・マルコーニ(EMI→現ワーナー)と契約、バルバラの制作プロデューサーとして知られるクロード・ドジャック(Claude Dejacques 1928 - 1998)のプロデュースで本名ダニエル・フェルナンデス名義のアルバム(全曲フェルナンデス作詞作曲)を発表。この"Si tu me perds"を含む13曲入りLPアルバムは、当時大きな注目を集めることはなかったが、1993年に"Le Bonheur Comptant"というタイトルでCD再発されている。
 才能への揺るぎない自信のせいなのか、DNAに刷り込まれたと自ら認めているノマド的な性格のせいなのか、彼はレコード会社とのトラブルが死ぬまで絶えなかった。”ヒット曲”を求めるレコード会社の方針と衝突し、プロモーションを嫌う。1981年のメジャーデビュー後、ダニエルは姿を消し放浪の旅へ。1987年ディスク・ドレフュス(クリストフ、ジャン=ミッシェル・ジャール...)からシングル「マドリー・マドリー」で再デビュー、ニルダ・フェルナンデスと改名。妖しいアンドロギュノスの出で立ちは、多くの男女(ここ重要)の心を虜にしたに違いない。このシングルヒットの後、アーチストは再び姿を消し、1991年にEMIからアルバム『ニルダ・フェルナンデス』で再々デビュー、"Nos fiançailles"、"Mes yeux dans ton regard"など大ヒットシングルも出て、その年のシャルル・クロ・ディスク大賞とヴィクトワール賞も獲得し、全国区的評価を確かなものにした。私はその1991年にフランスEMIの社屋でニルダと会い、半時間ほど話した。繊細さが小さな全身から伝わってくる青年という印象だった。しかし、そのまま安定したアーチストポジションになることを拒絶して、その後もレコード会社とのトラブル、蒸発、放浪を繰り返し、南米(とりわけアルゼンチン、メルセデス・ソーサと共演)、ニューヨーク、スペインなどに出没し、2001年からは5年間ロシアに居を構えていた。旅と出会いこそがニルダのアートの糧、と言えば聞こえはいいが、追い続ける熱心なファンたちも少なくなかった。
 音楽業界とのトラブル(メジャー会社を公然と批判攻撃している)のせいかもしれないが、後年のニルダはアルバム作りをあまり大事にしていなかったと思う。レコード/CDを軽視しても、ライヴでのファンたちとの交感を最重要に考えるタイプのアーチストだった、と。
 それにひきかえ、1981年のこの『ダニエル・フェルナンデス』というアルバムは、どれだけ丁寧に作られていたか、と頭が下がる。きちんと再評価されるべき。
 中でもこの"Si tu me perds"は何度聞いてもうっとりする。アンドロギュノス的で少年少女が想うような死や別離が、モノクロのスライドショーのように連写されるイメージ。詞はこんな感じ。

アマゾンの流れに飲まれて、

サイクロンに巻き込まれて、庭のガラクタの山に埋れて
僕が姿を消したら
きみの記憶の中に僕の眼差しだけをとどめておいて

 

何のためかは知らないけれど

ひとりで行かせるべきじゃなかったね

行って、行ったきりで帰ってこない、
それはほんものの愛じゃないね


狂った群衆に連れ去られて、

猛った波に巻き込まれて、物置のごちゃごちゃの下に埋まって

僕が姿を消したら

きみの思い出の中に、僕の微笑みだけを残しておいて

何のためかは知らないけれど

ひとりで行かせるべきじゃなかったね

行って、行ったきりで帰ってこない、
それはほんものの愛じゃないね

すべてのことを語り合ってないのに

ひとりで死なせたらいけなかったね
死ぬなんて、何も告げずに死ぬなんて
それは友だちじゃないよね

 

アマゾンの流れに飲まれて、

サイクロンに巻き込まれて、僕の家の瓦礫に埋れて

きみの姿が消えたら
僕の記憶の中に、きみの物語だけしまっておいて

僕の記憶の中に、きみの眼差しだけをとどめておいて

きみの思い出の中に、僕の微笑みだけを残しておいて

このダニエル/ニルダ・フェルナンデスというのは詞もメロもその歌唱もふるまいも”少女マンガのキャラ”だったと思っているし、たぶん私は丁寧に描かれた少女マンガを愛するようにこのアーチストを愛していたのだと思う。丁寧に作られたサウンドもすばらしい。この録音でギターを弾いていたフランソワ・オヴィド(1952-2002)はプログレ系で日本でも知られた人だったが、プリミティヴ・デュ・フュチュール、ウクレレ・クラブ・ド・パリにも在籍しており、2002年窓からの転落死という最後だった。そして耽美な音色のバンドネオンはジルベール・ルーセル(1930-2002)という50-60年代の名アコ奏者。本当に丹精込めた録音だったと思う。


 ニルダ・フェルナンデスはその30年後、イタリアのジェノヴァで録音したアルバム『ティアーモ(Ti amo)』(2010年)の中で、この"Si tu me perds"をワールド/エスノ風味を加えて再録音しているが、オリジナルに比べてまさに丁寧さがかなり欠落しているように聞こえる。



【蛇足】
本稿を書きながら出会ってしまった名アコーディオン奏者ジルベール・ルーセル、シャンソン復刻で知られるマリアンヌ・メロディー社から出ている編集盤CD"Il en faudrait si peu"から、1962年録音(作曲ジルベール・ルーセル)の「セーヴル橋(Pont de Sèvres)」という曲。アルバム『ダニエル・フェルナンデス』も録音された我が町ブーローニュのセーヴル通りにあったパテ・マルコーニ(EMI)の録音スタジオ(ローリング・ストーンズも何枚か録音している)、そこの専属アコ奏者でもあったルーセルが、そこから見えるセーヌ川にかかるセーヴル橋をイメージして書いた曲ではないか、と勝手に想像している。なんて美しいミュゼット・ワルツ。
 

 

2021年2月15日月曜日

【動画】ウィンキー in ウィンター(Feb 2021)

2月10日の動画ウィンキーのインスタグラム(管理編集は娘が担当)で好評だったのに気を良くして、雪が残っている間に第二弾を、と2月12日にパリ16区ブーローニュの森、ラ・グランド・カスカードの近くで娘が撮影した動画です。こういう自然体に近い(人工の森です)林に入ると、イギリス狩猟犬種(ジャック・ラッセル)のDNAが刺激されるんでしょうか、ウィンキーはたいへん喜んで走り回ります。動画の最初の方に黄色いラッパスイセンの花が見えますが、2月も後半になると群生のスイセンの花があちこちで満開になるパリ圏です。この雪も今はほとんど消えて、今は春に向かっています。コロナウィルス禍のせいで遠くに行けなくても、ウィンキーさんには走り回れる環境があります。いつかまた場所を変えて、動画撮影してみましょう。娘のテクニックも向上しているでしょう。

Winky in Winter 2 (Feb 12, 2021)
Cameraworks & Montage : Yu Tsushima (c) 2021

2021年2月11日木曜日

【動画】ウィンキー&スノウ(Feb 2021)

2021年2月10日、本格的なコロナウイルス禍が始まって1年になろうとする頃、今シーズン2度目のまとまった雪がわが町に。朝起きたら、すばらしい朝日に照らされて対岸のサン・クルー城址公園が真っ白に。冬季にも稀にしか見ることがないこの機会に、(自分が小さかった頃そうだったように)娘の鶴の一声で家族全員(3人+1匹)で雪中遊歩に。一番喜んでいたのがウィンキーさん。ほぼ誰にも出会わなかった広大なサン・クルー公園の雪原、雪の並木道、そしてセーヴルのセーヌ川沿いのボート練習場の桟橋までの散歩を、娘が動画撮影してくれました。家に帰ってほんの短時間で娘が編集して音楽をミックスしてくれて、こんな2分間のショートフィルムができました。正直、娘にこんなテクニックがあるとは思っていなかったので、うれしい驚きです。中間1分02秒のところに、雪の中で咲いているクロッカスの花が見えます。後半で見えるセーヌ川は、1月からの雨続きで危険なほど増水しています(わがアパルトマンの建物の地下駐車場も浸水が始まっています)。対岸にルノー本社の建物や、セーヴル橋の向こうに巨大コンサートホール「セーヌ・ミュージカル」(ず〜っとイヴェントなしで閉鎖中)も垣間見れます。まだどれほど続くのかわからないコロナ禍、そんな中でもこんな日がたまにあるから耐えられているのでしょう。素晴らしい動画にしてくれた娘に感謝。この動画は向風三郎のFacebookとウィンキーのインスタグラムでも公開しています。


Winky & Snow (Feb 10, 2021)
Cameraworks & Montage : Yu Tsushima (c) 2021

 

2021年2月9日火曜日

膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み

Leïla Slimani "Le parfum des fleurs la nuit"

レイラ・スリマニ『花々の香り・夜』

来ならば、かの三巻大河小説(第一巻『他人の国』2020年)の第二巻めの執筆に没頭していたであろう頃、たぶん筆が止まってしまったのだと想像する。スリマニの母方の祖母(アルザス出身のフランス人)に始まる三代の女たちと、モロッコの独立などを挟む(ほとんど誰によっても書かれていない)民衆史を独自の女性視点でロマネスクに描く試みであった。ちょっと前に進めない状態に陥ったのかもしれない。
 そこへ、三部作の出版社ガリマールではない別の出版社ストックの女性編集者から、ヴェネツィアのコンテンポラリーアートのミュージアム内にひとりで夜間滞在してその体験記を書いてくれないか、という依頼が来る。大運河沿いに17世紀に建立されたパラッツォ・グラッシと税関として使用された建物を現代フランスの大富豪フランソワ・ピノーが買取り、2006年、安藤忠雄の設計でピノーのコンテンポラリー・アート所蔵品を展示するミュージアムに改造したプンタ・デッラ・ドガーナ
 気乗りのしなかった企画であり、コンテンポラリーアートなどまるで門外漢であり尻込みしていたのに、スリマニはウイの返事を出してしまう。自分でもこの理由についてはうまく説明できない。たぶん何かを変えたかったのであろう。それほど行き詰まっていたのかもしれない。しかしこの企画は転地して気分を変えるという性格のものではない。閉じられた空間に一夜幽閉されに行くのだから。わざわざ閉じ込められに、ということは作家という職業ではままあることである。外部との連絡方法をすべて絶って自宅や別宅や山の上ホテルに籠るというのは原稿を仕上げるにはこうしないと、という苦行環境づくりである。作家であることはつらい孤独なことである。そういうことを今度のスリマニの本はポロポロとこぼしているのである。
 この本はレイラ・スリマニが初めて主語「私 = Je」で書いている、とテレラマ2021年1月20日号の記事にあった。 初めて極私的に「私」を語るスリマニがそこにいる。時は2019年4月、まだコロナウィルス禍など言葉でもなかった頃、ヴェネツィアは世界中からの観光客でにぎわっている。『ヨーゼフ・メンゲレの蒸発』(2017年ルノードー賞)の作家で友人のオリヴィエ・ギューズはスリマニを "Toi, tu es l'Arabe comme qu'on l'aime"(きみはみんなが好むようなアラブ女)と評したが、彼女は公然とタバコを吸い、豚肉を食し、アルコールをたしなむ。この夕刻も彼女はレストランのテラスでかなり濃厚な食事(メインにミラノ風カツレツ)とワインをいただき、仕上げにタバコを吸ってからかのプンタ・デッラ・ドガーナに向かうのだが、この重すぎた食事で気分が悪くなってくる。そして通用門から入り、守衛に案内されて簡易ベッドのある小さな部屋に通される。タバコ吸ったらバレるだろうか ー そんなことを気にする当代一の気鋭の作家であった。一夜の幽閉が始まる。
 編集側の意図としてはこのユニークなミュージアムと向き合う作家という出会いにこそ重点を置いてほしかったのかもしれないが、作家はその意図を十分に与しながら建物と陳列アートに立ち向かっていくものの、時を待たずに誰もいない深夜のミュージアムで出会ってしまうのは自分自身なのである。151ページある本編は111ページめからトーンが一変し、スリマニはスリマニを語り始める。この閉鎖された空間での孤独は、無実の罪で投獄されていた亡き父のことを思わぬわけにはいかないのだ。
 父オトマン・スリマニ(1941 - 2004)は貧しい家から身を起こし、奨学金を得てフランスで経済学を学び、モロッコ帰国後王国上級公務員として様々な要職(仏語ウィキペディアによるとフットボール・ナショナルチームの監督として、1976年アフリカカップに優勝している)につき、大学教授、政府通商省長官を経て、CIH不動産銀行の頭取(1979 - 1993)となっている。2001年にこの銀行をめぐる大規模な不正事件が発覚し、モロッコの大スキャンダルとなったが、事件に関与したとされる当時の重役たちが国外逃亡したにも関わらずオトマン・スリマニはモロッコに残り堂々と取り調べに応じた。2003年には数ヶ月に渡ってサレ刑務所に収監された。釈放されたのちオトマンはガンを発症し、2004年に62歳で亡くなっている。そしてその不正事件裁判の決着は2010年につき、オトマンへの嫌疑はすべて晴れ無罪となり名誉回復された。どれほど無念であったことか。
 レイラ・スリマニが作家になったのはこの父のことが第一のきっかけとなっているとこの本で告白している。それは真実を暴露して父の恨みを晴らすことではない。たしかにスリマニ家は醜聞にさらされ、人々から国賊のそしりを受け、暗い日々を過ごさなければならなかった。若いレイラにもこの理不尽は理解できたが、レイラが理解できなかったのはこの父親は抵抗することなく多くを語らない男だったこと。その謎は父が死んだことで謎のままで止まっている。
 フランス語で高等教育を受けた(当時は)希少なアラブ人のひとりで、家庭内はフランス語を話していた。ラバト(モロッコ首都)でも特異な家庭であったろうが、このフランス語(+フランス文化)環境が作家レイラ・スリマニを生む土台であったことは間違いない。言わば欧米の映画・文学・音楽をたしなむブルジョワであった。学校で浮いた子供であったことは容易に想像できる(なぜレイラがアラブ語をきちんと習得できなかったのかは別の箇所で触れる)。たいへんな読書家であった父は読んだ本を書机の床にブロック塀のように積み上げて行き、まるで自分の周りに壁を築くようであった。残された数少ない少女レイラと父とのツーショット写真に一枚だけ書斎で撮られたものがあり、そこに写っていた本がポール・オースターの『ムーン・パレス』(仏語訳)だった。ローティーンだったレイラは背伸びして父の文学世界に近づきたくて(父の気をひきたくて)この本を読み始めたが半分まで読んでこの本を紛失してしまう(彼女は未だにこの本を読み終えていない)というエピソードが綴られている。
 回想しても会話の記憶は少ない。レイラは本当に父親のことをよく知らないのだ。だから作家として(よく知らない)父の過去を修復するフィクションなど書けるわけがないのである。幽閉された深夜のミュージアムの中で、近づいてこない父を寄せようとしている、というわけではないのだ。そのことを彼女はこう書いている。
 父のことを考えるのは気乗りのすることではない。なぜだかはよくわからない。 私には常に一種のためらい、距離のようなものがあり、この考えに全面的に浸り込むことなど一度もなかったし、それに心を任せてしまうことを自分に禁じていた。なにしろ私はそれを欲していないのだ。たったひとりでいても、私は父がいなくて寂しいと繰り返し熱い涙を流すことなどまったくなかった。父にはなにか謎めいたものがあり、私と父の関係には中途半端で終わってしまったなにかがある。言われなかった言葉、起こらなかった体験。父は私の家族であったが、私にとっては家族的ではなかった。私にはたぶん父を手に入れること、父をうまくやりこめること、父を味方につけること、父を友だちにすることという目標があったのだ。だが私がそれを実現する前に父は死んでしまった。正直な話、私は父のことを考えるのは好きではない、なぜならこの考え自体にたくさんの空虚があるからだ。私にはひとつとしてはっきりした記憶、ひとつの会話や遊びや食事も呼び戻すことができない。この考えにはおおきな穴が開いていて、父と私を分ける深い溝がある。
 奇妙なことに、私が父のことを書けば書くほど、父がほんとうに実在したという印象は薄れていく。言葉は父に命を吹き込むかわりに、父を架空の人物に変えてしまい、父に背いてしまう。私が父の記憶を呼び戻そうとすることは苦痛である。それは子供の頃膝小僧を傷つけてできたかさぶたを掻き剥がしたことに似ている。それは痛いことだったが、私は傷口から再び血が出るの見てある種奇妙な快感を味わっていた。父について書くことはまさにこのことと似ている。人がものを書くのは痛みから解放されたいからだとは私は思わない。私の小説は私が体験した不正な事象を克服していくものだとは思わない。 むしろ逆に作家というものはその苦痛や悪夢に不器用にしがみついているものだ、そこから治癒快復することほど怖いものはない。
(p 123 - 124)

 父の記憶の痛みは、作家レイラ・スリマニがなぜ書くのかという根源的な問いまで深夜のミュージアムに呼び寄せてしまう。父が与えてくれたフランス語、自国の中での「異邦人性」(これはまさに『他人の国』のテーマであった)、それらは今日のレイラ・スリマニの独自の文学性の土台である。メランコリックな内省体験となってしまったこのミュージアムの一夜に、幽霊・亡霊は現れることはなかったが、スリマニの「私」が見える150ページ随筆が残った。読者は、ずいぶんと距離が縮まったぞ、と思うに違いない。

Leïla Slimani "Le parfu, des fleurs la nuit"
Stock刊 2021年1月20日、150ページ、18ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2021年1月20日、国営テレビFrance 5「ラ・グランド・リブレーリー」でヴェネツィアのミュージアムでの一夜を語るレイラ・スリマニ



★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★
 
追記(2021年2月9日)

レイラ・スリマニはモロッコ生れ(国籍はモロッコとフランスの二重)のフランス語表現の作家である。第一小説『鬼の庭で』(2014年)と第二小説『やさしい歌』(2016年ゴンクール賞)でフランスを舞台にしたフランス人主人公の作品を発表して、フランスおよび世界的な評価を受けるようになった。そこにモロッコという作者のアイデンティティーが見えないのはどうなのか、という奇妙な難癖をつけるムキが出てくる。亡命作家ではないのに、明確なテリトリーを持っていないように見えるのだろう。この本の中でも、ヴェネツィアというオリエント/ビザンチン/バルカンと西欧の混じり合う港に、スリマニ自身のマグレブと西欧の混じり具合に似たものを思うくだりがある。フランス語は上に書いたように、父親からやってきたものであろうが、スリマニは学校でアラブ語を習得することに抵抗があったことが、この本で明かされている。これがモロッコという(国家でも宗教でもない)テリトリーへの「背信」という契機をはらんでしまう、という興味深い考察が以下に引用する箇所でなされている。

私はこの言語(フランス語)を話す。この言語は歴史的「戦利品」であり、私の父はこれを学校で学んだ数少ないアラブ人のひとりだった。私たちは家庭でフランス語を話し、家庭外の規則とは必ずしも一致しない規則に従って生活していた。エテル・アドナン(註:レバノンの詩人/ヴィジュアルアーチスト)と同じように、私もアラブ語を神話的言語のように崇めているが、アラブ語は私にとって極私的な悲しみであり、恥辱であり、欠けたものだった。私はその最も繊細なニュアンスまで知りたいと夢見ていたし、その秘密を自分のものにしたいと思っていた。子供の頃学校でアラブ語を学んだが、その女性教師はその講義時間の大部分をコーランの教育に割いた。彼女は生徒が質問をすることとその教えを問い直すことを許さなかった。私がアラブ語を完全に習得することができなかったのは多分この教育法のせいだった。その女教師はアルビノで両足が紫色になるほど窮屈な靴を履いていたが、ある日甲高い声でこう断言した:「ムスリムでない者は天国には行けない。すべての不信心者は地獄の炎の中で果てることになる。」 このことは私をおおいに困惑させた。私はまぶたが涙でいっぱいになったことを覚えている。私は祖母や叔母や私たちの友人たちが悪魔の手にかかって果てると考えてしまった。でも私は何も言わなかった。私はこの女の凶暴さを知っていて、沈黙を守るべきだということをよく理解していた。私が生きていた国では、ウルトラな狂信者たちの前では言いなりになるべし、いざこざは起こすべからず、危険を冒すべからずと教えられた。反動主義が脅威を増し、社会の中で盲信主義が網を張っている時には、人々は自らを偽るようになる。内縁関係にあることや、同性愛者であることなど言ってはいけない。ラマダンをしなかったことを白状してはいけない。酒の瓶は隠すべし。黒いビニール袋にしっかり包装して自分の家から数キロ離れたところに夜捨てに行くべし。やっかいにも口が正直な子供たちにこそ警戒しなければならない。私の両親は何時間もかけて私の口が押し黙らなければならないことを説明したものだ。私はこれを心底嫌った。私は自分の臆病と彼らの言う真理への服従に憎悪した。(サルマン)ラシュディーが教えてくれたのは、背信することの可能性を考慮することなしに、また子供時代から隠されつづけてきたこれらの事実を語ることなしには、文章を書くことなど不可能なのだ、ということ。
(p135 - 136)

私はこれをイスラムの問題とは思わない。イスラムをよりどころとする人々が作ってしまった通俗的で教条的な世の習いの問題であると思うし、植民地支配から開けたばかりの社会が旧体制とラジカルに異なった社会へ変容するためのプロセスでもあったと思っている。私はこれが本当に怖い。「宗教の名」のもとに”問題起こすべからず”を、民間で共同監視する環境。これを報告し、告発し、抵抗するのも文学である。レイラ・スリマニはネットとSNSの世界では恒常的に極右勢力から("反日”ならぬ)”反モロッコ”レッテルの攻撃に晒されている。私がレイラ・スリマニを信頼するのはこの点においてもである。