2012年11月16日金曜日

ステファヌ・エッセルとステファン・エシェールの接点

Stephan Eicher "L'Envolée"
ステファン・エシェール『飛翔』


 東欧ジプシーの血を引くスイスのアーチスト、ステファン・エシェール(ドイツ語圏スイスの人なので「シュテファン・アイヒャー」とカタカナ表記するべきかもしれませんが、ここではフランスでの呼ばれ方に倣います)の12枚目のアルバムです。 前作『Eldorado(エルドラド)』は5年半前に発表されました。正確には2007年の4月16日にリリースされていて、ニコラ・サルコジが大統領に当選する20日前のことでした。『エルドラド』はそのタイトルのように、ある種オプティミスティックな黄金郷/黄金時代待望の雰囲気に包まれていました。ところがこのアルバムの直後にサルコジが国の指導者になったばかりでなく、サブプライムローン問題に端を発する世界大恐慌が始まってしまいます。
 ステファン・エシェールは大きなショックを受けます。エルドラドは存在しない。すべては崩壊してしまった。デモクラシーは機能しなくなり、すべての「民主主義国家」は債権者への返済だけのために国民を動かすようになる。2007年のある晴れた日から、世界の全市民は、その姿の見えない世界金融のために責務者にさせられ、言われのない借金返済のために奴隷のように働かなければならなくなったのです。
 ステファン・エシェールはこれを「メルディエ」(merdier 男性名詞《卑》 手がつけられないほどの乱雑、大混乱、泥沼状態)と名付けました。このメルディエに対して、自分が何らかの答が見つけられないうちはアルバムは出せないと自らに課したのです。
 ステファン・エシェールはフランスに住むスイス人です。おそらく「フランスで税金を払う唯一のスイス人」だろうと言っています。多くの人たちは忘れているんですが、スイスは直接民主主義の国なんです。投票する、自分の意見をはっきりさせる、というのが権利であり義務でもあるような土地柄なんです。投票箱のことをフランス語で ユルヌ(urne)と言うのですが、元々の意味は骨壺なのです。フランスでの選挙というのは、ユルヌに票(フランス語で ヴォワ voix = 声)を投じることですが、このことは骨壺に声を封じて埋葬してしまう意味にもなりませんか。大統領選挙を例に取れば、フランス人は5年に一度この投票をして、その声を5年間地中に封じ込めてしまう、という風にこのスイス人には見えるのです。
 しかし、お立ち会い、ご安心めされい、エシェールは大上段から政治的スローガンを構えて、拳振り上げて歌うようなアルバムは作りません。『L'envolée (飛翔)』は怒りもあれば、哀しみも優しさも、出会いも別れもある、トータルなアルバムです。そのたくさん詰まったアルバムが、12曲34分50秒しかないのです。このことについてはあとで触れましょう。幕開きはこんな歌です:

 1秒の時間を僕におくれ
 まる1ヶ月の時間を僕におくれ
 永遠の時間を僕におくれ
 すべて僕には都合がいい
 光を僕におくれ
 影を僕から遠ざけておくれ
 おまえの祈りの言葉の中に僕のことを入れておくれ
 僕を支えておくれ
 僕に大きくなれと言いつけて
 僕にここにいろと言いつけて
 おまえを僕の腕の中に抱きとめるために
 僕は何をしたらいいのか
 おまえを欺くようにしむけておくれ
 おまえを利用するようにしむけておくれ
 僕の中にいるこの愚か者を
 ほくそ笑ませておくれ
 どの道程を進んでいくべきか?
 どの闘いを挑むべきか?
 どの誓いをやぶるべきか ?
 僕はここにいる
 おまえの一言があれば
 死ぬことだってできるはず
 悪い最後を見ずに生きることなど
 できるわけがないのだから
  ("Donne-moi une seconde")
  (詞 :フィリップ・ジアン / 曲:エシェール+マルク・ドーマイユ)

 ピュタ〜ン....。何という第1曲なのでありましょうか。これが祈りのようなステファンのヴォーカルに、木管楽器やピアノやストリングスや聖歌コーラスやギターやらが複雑に絡まって、螺旋階段を昇るようなアンサンブルハーモニーとなって進行するのですよ。
 このアルバムはいろんな人が手伝ってます。この曲の共同作曲者となっているマルク・ドーマイユは男女フォーク・デュオ コクーン(Cocoon)の男の方で、各種ギター、キーボード、バックヴォーカル、編曲などで参加。ボルドーのエレクトロ系のアーチスト、(フレッド・)アヴリル(Avril)、この人も共同作曲、編曲、サウンドデザインなどで参加。そして、バシュングやテテなどのアルバムの総仕上げ人として知られるお姐さん、エディット・ファンブエナが、全曲の「ポスト・プロダクション」という仕事をしています。これはエシェールとその一党が、これは絶対に必然的になければならない音だからという音をしこたま、ぎゅうぎゅうに詰めてしまったあと、彼女が泣きの涙で「これはない方がいい」とちょちょっと梳刈りを入れたり、ピンセットで抜いたり、という辛い仕事だったそうです。とにかくサウンド的には、1曲1曲、ミニマルからフルオーケストラものまで、環境デザイン、ヴォイスデザイン、頭が下がるほど緻密に作られています。
 それで12曲34分50秒。イントロや間奏も極力排した、凝縮された音楽ばかりです。これはステファン・エシェールで最も短いランタイムのアルバムですが、これもエシェールの批評精神の現れなのです。われわれは今日、音楽を聞く時間がとても短い、ひいてはほとんどないのです。1曲めの「1秒の時間をくれ」というのは詞内容とは関係がなくても、象徴的なタイトルです。音楽家は聞く人たちがいなくなれば生きていけないのです。その聞く人たちの「1秒」を再び音楽家が取り戻すために、エシェールは1秒にどれだけの良質の「音楽」を詰められるのかというチャレンジをしているかのようです。音楽産業の落日、それは音楽家の側にも責任があるのではないか、もっと音楽を念入りに作る努力が必要ではないか、という自戒でもあります(謙虚な人だなぁ)。
 さて、マルチリンガルのエシェールは毎回数か国語の曲が並ぶのですが、この新盤はフランス語9曲とスイスアレマン語(スイスのドイツ語)3曲の2カ国語だけです。後者の方は3曲ともチューリヒの作家マルティン・ズーター(『ブリオンの迷宮』など日本でも出版されています)の手になるもの。ブックレットに仏語訳がないので内容を把握できないのが残念。そしてフランス語詞はこれまで作家のフィリップ・ジアン(『ベティー・ブルー』)の独壇場だったのですが、今回は9曲のうち7曲がジアン、1曲が前述のフレッド・アヴリル、そしてもう1曲が(ブレストの乱暴者)クリストフ・ミオセックが書いています。

俺は俺の心を解雇し
俺の感情を売却し
俺たちの恐怖を解任し
俺たちの幻想を罷免し
俺たちの武器を捨て
俺の興奮を追い払った
冒険はここで終止符を打つ
いままでずっと俺についてきてくれてありがとう
俺は作業エプロンをはずし
店を見回してみる
明日この店を開くことはまずないだろう
すべては消え去らなければならない(在庫全品処分)
すべては消え去らなければならない
過去の俺のすべて
今あるべきだった俺のすべて
すべては消え去らなければならない
 ("Disparaître")
    (詞:クリストフ・ミオセック / 曲:エシェール+アヴリル)
危機の時代の歌です。拳を振り上げているわけではありません。私たちはこういう工場閉鎖や倒産を身近にたくさん見て2012年的日常を生きています。一体何のために、どうして、そしてこれは避けられないことなのか、私たちはそれを問うと、ステファヌ・エッセルの小冊子『憤激せよ』に従って行動しようという気持ちになってきます。しかし、ステファン・エシェールとフィリップ・ジアンのコンビは、ジャン=ジャック・ルソーからステファヌ・エッセルにまで通じる性善説に賛成しないのです。人間の悪を見てしまう。そういうテーマでジアンはこんな詞を書きます:

非情であれ
誰も中に入れるな
言葉に惑わされるな
奴らに絶対にドアを開けるな
奴らの微笑みや言葉は毒を盛られていて
奴らの約束や奴らの夏は
すべて死んだ言葉だ
だが俺だけは例外にしてくれ
 ("L'exception")
    (詞:フィリップ・ジアン / 曲:エシェール+ジアン)

 20年来の親友である作家フィリップ・ジアンが、このアルバムで初めてヴォーカリストとしてエシェールとデュエットしている(10曲め "Elle me dit")、というのもこの新盤の花のひとつです。
  また、アメリー・レ・クレヨンの新盤『Jusqu'à la mer (海に至るまで)』と同じように、すばらしいイラストレーション14葉に飾られたブックレットが、このCDをぐっと引き立てています。こういうCDがある限り、人々はCDを買い続けるでしょう。買い続けなければなりません。

<<< トラックリスト >>>
1. Donne-moi une seconde
2. Morge
3. Le sourire
4. Dans ton dos
5. Tous les bars
6. Envolées
7. Du
8. Disparaître
9. La relève
10. Elle me dit (en duo avec Philippe Djian)
11. L'exception
12. Schlaflied

STEPHAN EICHER "L'ENVOLEE"
CD Barclay/Universal 3713826
フランスでのリリース:2012年10月22日

(↓ "Le sourire"のヴィデオ・クリップ)




 

2012年11月14日水曜日

九分九厘のブルックリン

『ヌー・ヨーク』2011年フランス映画
"NOUS YORK" 監督 : ジェラルディーヌ・ナカッシュ&エルヴェ・ミムラン
主演 : レイラ・ベクティ、ジェラルディーヌ・ナカッシュ、ペイエ
フランス公開:2012年11月7日


 ジェラルディーヌ・ナカッシュとエルヴェ・ミムランの初の共同監督作品 "TOUT CE QUI BRILLE"(『輝くものはすべて』。2010年3月公開)は、その予想外のヒットのおかげで、レイラ・ベクティという女優をスターダムにのしあげ,ベクティの主演映画はこの2年間で7本にもなりました。特にルーマニア生れの監督ラデュ・ミハイレアニュの映画 "LA SOURCE DES FEMMES"(2011年カンヌ映画祭コンペティション出品作。北アフリカの村の水汲み労働を拒否する女たちのセックス・ストライキを描いた映画)に至っては,フランス映画界は大女優の誕生を見てとり,翌年のセザール賞の最優秀女優賞にノミネートしたのでした(受賞はしませんでしたけど)。とにかく昨今のレイラ・ベクティの輝きはたいへんなものです。
 またジェラルディーヌ・ナカッシュの兄,オリヴィエ・ナカッシュは相棒のエリック・トレダノとの4本めの映画 "INTOUCHABLES" (2011年,邦題『最強のふたり』)が地球規模での大ヒットを記録して,ナカッシュ兄妹はフランス映画で最も注目される二人の映画監督となっているのです。
 さて前作 "TOUT CE QUI BRILLE"は郊外の二人の娘エリー(ジェラルディーヌ・ナカッシュ)とリラ(レイラ・ベクティ)の友情のストーリーでしたが,私はブログ紹介 の時にこの二人がユダヤ人(エリー)とムスリム(リラ)であることは語りませんでした。ところが,この二人がそれぞれの文化背景をしっかり抱え込んだまま「親友」であるということは,非常に重要なファクターであった,ということがこの新作を見終わってはっきりとわかったのです。
 新作映画は前作と同じように対照的な二人の娘,サミア(レイラ・ベクティ)とガブリエル(ジェラルディーヌ・ナカッシュ)の友情と仲違いと和解が重要な軸になっているものの,今回は友情は二人だけではないのです。男3人を加えて5人の「兄弟姉妹同様の」(とシルヴァンは映画内で紹介する)親友のストーリーです。
 最初の場面はナンテールです。このパリ西郊外に林立する高層集合住宅(シテ)の前で,3人の30男,ナビル(ナデール・ブーサンデル。マグレブ系移民の子),ミカエル(マニュ・ペイエ。カフェ・オレ色の肌。映画の役では特定されていないものの,マニュ・ペイエはレユニオン島出身),シルヴァン(バチスト・ルカプラン。こいつだけがあまり混じりけのないフランス人か)が,多くの家族&知人友人たちに囲まれてニューヨーク旅行出発の見送りを受けています。たった一週間の旅行なのに,なにか戦中の出征兵士の見送りのような盛大さです。これが郊外の人種も宗教も越えた大家族的でポジティヴな人間関係を過剰に大写しにするものですが,まあ戯画に違いありません。
 3人を乗せたエール・フランス機はJFKに着陸し, この郊外男たちはビッグ・アップルに入城し,目に入るものすべてに超オノボリさん的に驚嘆し,3人そろって歓喜の雄叫びを上げるのですが,そのシャウトが「オバマ〜 !!!」というものなのです。この叫びは映画の中で何度も繰り返されます。これがこの映画の「超フレンチー」なトーンをよく現しています。奇しくも(と言うよりもそういう意図的な狙いはあったでしょうが),この映画の封切日11月7日の前日,合衆国大統領選挙はバラク・オバマを再選しています。選挙結果やその前の米国世論調査ではロムニー/オバマが接戦,僅少差の争いと言われていたのに対して,この地フランスでは80%がオバマ支持で,特にフランスの大都市郊外ではその数字は100%近いものだったはずです。そういう郊外フレンチー気質を丸出しにして,3人はビッグ・アップルをオバマ顔写真Tシャツを着て闊歩するのです。万一ロムニーが当選していたとしたら,この映画のユーモア効果の大半は死んでしまうことになったでしょうが,郊外でオバマが既に偶像であるように,われわれフランスに住む市民にとってロムニー当選など絶対にあり得ないことという確信がずっと前からあったのです。その意味でこの「オバマ〜!!!」はア・プリオリに正しいことだったのです。アメリカ人にはわからないでしょうが。この映画に関して第一に誉めることがあるとすれば,この「オバマ〜!!!」でしょう。そして容姿/肌の色の点で最もオバマに近いミカエル(マニュ・ペイエ)が,大統領的にこの映画のキー・パースンであることは映画の最終部でわかるのです。
 この3人とコレージュ〜リセを通じて「兄弟姉妹と同様の」親友であるガブリエルとサミアは2年前から(古風な)アメリカン・ドリームを追ってニュー・ヨークで暮らしています。前作同様ジェラルディーヌ・ナカッシュ(ガブリエル)は堅実で苦労症な役どころで,レイラ・ベクティ(サミア)は派手好きでチャンスを掴むためだったら何でもするという勝ち気な役どころです。ガブリエルはユダヤ人老人ホームで介護婦/インストラクター/仏語教師として朝早くから夜遅くまで働き,いつも疲れています。サミアは某映画スターの世話係として,ロケなどで不在中のスターの超高級大マンションを管理したり,スターの代わりにブロマイド写真にサインしてやったり,代償としてスターの弁護士を使ってグリーン・カードを取ってやるからという口車で,スターの手足として動き回るのが「仕事」です。3人はブルックリンでガブリエルと再会し,その足で(不在の)某スターの大マンションに直行し,サミアの盛大な30歳の誕生パーティーに参入します。そこには絵に描いた餅のようなアメリカン・ウェイ・オブ・ライフがあるわけですが,5人は夢のアメリカを祝福し,銭湯のペンキ絵のようなニュー・ヨークを抱きしめるのです。
 この5人という関係の微妙さは明白です。2年という不在期間がありながら,ガブリエルとナビルは恋仲であり(ここでもユダヤ人とアラブ人の恋なのです),サミアとシルヴァン(これはマグレブ二世女と白人男との恋と言えましょうか)もそういう仲なのに,ミカエルはフリーな立場にあるのです。映画は進行するにつれて,このミカエルがどんどんリーダーシップを取るようになります。そしてこのお調子者は,滞在中にブルックリン娘デニーズ(ドリー・ヘミングウェイ。そうです,文豪アーネスト・ヘミングウェイの曾孫にして女優マリエル・ヘミングウェイの娘)と恋に落ちてしまいます。このデニーズが大金持ちというのはあとでわかるのですが,”INTOUCHABLES"同様,金持ちであることが映画の解決のカギを握っているという点が,どうもなぁ,と首をかしげたくなる部分でもあります。
 ガブリエルが働くユダヤ人老人ホームにも,この3人は溶け込んでいき,レクリエーションで老人たちとボール遊びに興じる非常に美しいシーンがあります。その老人ホームに収容されているマダム・アザン(マルト・ヴィラロンガ)というフランス人女性がいて,ガブリエルをわが子のよう思って,甘え放題わがままし放題の困ったおばあさんです。ガブリエルの疲労の原因の大半はこの女性のせいなのですが,アルジェリア戦争でアルジェから逃れてきたこのユダヤ人女性は3人男のうち,アラブ人のナビルととても親密になります。ナビルが老人ホームのパソコンのグーグル・アースを使って,マダム・アザンが住んでいたアルジェの家の現在の姿を見せてやるという場面はほんと心温まります。マダム・アザンはガブリエルに,こんなところで未来のない老人たちに囲まれて歳取るのをやめて,自分たちの未来を考えよ,と諭します。ナビルと一緒に家庭を作ってみては,と。
 一週間のつもりが,夢のブルックリンの人々との交流に魅せられて,滞在を延長してきた3人はいよいよお金が尽きてきます。事件はいろいろ巻き起こり,サミアの雇用主である大スター女優はある日前触れもなくニュー・ヨークに帰ってきて,(スターにはよくある)ドラッグ的錯乱の末に, サミアを解雇してしまいます。またガブリエルの老人ホームでも,マダム・アザンが息を引き取ってしまい,ガブリエルはニュー・ヨークに居残る理由はなくなったと悟ります。住む所も金もなくなった5人は,最後のニュー・ヨークをコニー・アイランド遊園地で楽しみます。大ジェットコースターで彼らは思う存分「オバマ〜!!!」と叫ぶのです。美しい!
 ブルックリンの通りの上に電信柱でつながった電線があり,そこに靴ひもでつないだそれぞれの一足のバスケットシューズを投げて,電線にひっかかって線上に残った者が勝ち,という賭けを5人でします。バスケット・シューズをうまく電線に巻き付けられた者が,合衆国大統領になれる,と。そしてそのバスケット・シューズ投げに見事成功するのがミカエルなのです。オバマと同じ褐色の肌をした男です。
 そしてそのミカエルが5人分のフランス行きの帰国便チケットを用意するのです(実は富豪の娘である恋人デニーズの金なんですが)。5人の帰国の日,JFK空港に向かうイエロー・キャブに全員の荷物を押し込んだあと,そしてサミア,ガブリエル,ナビル,シルヴァンが乗り込んだあと,なんとミカエルは乗らずニュー・ヨークに居残ることに決めたのです。バスケット・シューズの賭けを信じて,あたかもここに居残って合衆国大統領になることを決めたかのように。 (エンドマーク)

 軽〜いコメディーで,しかもニュー・ヨークはどこも絵葉書のように美しい。主人公を5人にした分,それぞれ個々のエピソードが薄っぺらく,ガブリエルとサミアの(高校の優等生と劣等生の口論のような)確執と和解も前作のようなメリハリがなく,男たちは滑稽で馬鹿げていることだけが強調されていて残念。ジェラルディーヌ・ナカッシュに親しい世界なのであろうニュー・ヨークのジューイッシュ社会は,この映画の真の舞台背景のようにさまざまな様態で画面に映し出されます。優しいジューイッシュの人たちばかりです。これをプロパガンダと解する人たちも出てきましょうが,これは確実にアメリカの風景のひとつでしょう。絵空ごとのようでも。

  カストール爺の採点 : ★★☆☆☆

(↓『ヌー・ヨーク』 予告編)


 

2012年11月10日土曜日

世界の果てで

プレスク・ウィ『家財を守れ』
Presque Oui "Sauvez Les Meubles"

 譜と言っても遠い昔のことではありません。録音は2004年、発売は2005年。プレスク・ウィはフランスの北の都リールの2人組でした。男チボー・ドフヴェール(ギター、プリペアド・ギター、ヴォーカル、キーボードその他)とその伴侶の女性マリー=エレーヌ・ピカール(ヴォーカル)。1998年から活動を始めていて、地方のカフェやバーなどで徐々に実力をつけていきますが、その速度はゆるやかで、何度もくじけかけます。それが2003年頃から複数の全国規模のシャンソン・コンクールに優勝したり、著作権協会(SACEM)の賞を獲得したり、その評価で仕事が増えて、アルバムを録音する可能性も出てきて、やっと未来の展望が開けてきます。
 プレスク・ウイ(ほとんどウイ)のポジションというのは、男女であり、結婚の届け出に市役所に行っても、市長の前で結婚の宣誓である「ウイ」を言うことができない、ほとんど「ウイ」なのに、なにかのひっかかりで「ウイ」と言えない男女カップル、という世の中にはよくあるパターンの二人です。このアルバムに挿入されている「夢」という短い(18秒)二人のダイアローグのトラック(7)があります。
男「よく眠れたかい?」
女 「まあね」
男「どんな夢見てたんだい?」
女「それは言えないわ」
男「どうして?」
女「だってそれはわたしの夢だもの」
この雰囲気がプレスク・ウイなわけです。寝食を共にしたって、夢まで共有するわけではない。この微妙な男女間の溝というか壁というか、そういうどこのカップルにも吹いてしまうわずかな隙間風、というのがこの男女デュオのユーモアのインスピレーションだったわけです。
 このジャケットの写真を見てください。洪水がやってきて家が浸水している中で、二人は椅子に座って別々の方向も見ている。そしてアルバムタイトルが『Sauvez Les Meubles (家財を守れ)』とあります。この"Sauver les meubles"というフランス語表現は、こういう洪水や火事の状況で「必要最低限の家財道具だけは持ち出せ」という意味で、転じて、どんな状態になろうが必要最低限の体裁や面目は保て、という喩えになります。つまり、この男女はこういう状態で「愛を救え」と言っているわけではなく、「体裁だけは保て」とお互いに言い聞かせているのですね。可笑しくも悲しい、悲しくも可笑しい、そういう男女ドラマをプレスク・ウイは歌にしていたのです。
 チボーとマリー=エレーヌはそういう歌の世界を作りながら、実は本当に愛し合ってこの微妙なユーモアを創造していったんだと思います。ドラマは残酷にも別の展開をし、このプレスク・ウイがこのアルバムを録音していた2004年に、マリー=エレーヌが肺ガンを発病してしまうのです。録音が終わり、数々の賞のおかげでアルバムお披露目コンサートは全国各地で数十回の予定でプログラムされていたのですが、マリー=エレーヌの病状はその多くをキャンセルしなければならないほど進行していたのです。
 2005年、アルバム発表後のプレス評は上々で、テレラマ、リベラシオンなどが絶賛します。病床のマリー=エレーヌはこのチャンスを逃してはならない、とチボーにパリ・バタクラン(1500人収容のホール)のコンサートはキャンセルしないで、と訴えます。チボーはその願いを叶え、プレスク・ウイのステージをデュエットではなく、チボーひとりでつとめるのです。2006年11月、マリー=エレーヌ・ピカールはこの世を去ります。
 プレスク・ウイはその痛手を乗り越えて、チボーのソロ・プロジェクトとして2008年、2011年にアルバムを発表していますが、私が正直に言ってしまえば、マリー=エレーヌの声のないプレスク・ウイなんて... と2枚ともがっかりしてしまいました。

 2005年のアルバム『家財を守れ』には宝石のような1曲があります。それは12曲めの「Le bout du monde (世界の果て)」で、核戦争のあとに生き残ったひとりの男とひとりの女の出会いと愛と絶望と新たな希望のようなものが、寓話的に歌われています。歌詞を全訳しました :
男は世界中を回って旅していた、女も世界中を回って旅していた
その時世界はかの爆弾によって崩壊した
二人とも世界には自分一人しか残っていないと思っていた
そして飛んでもないことに
偶然が二人を世界の果ての同じ場所に連れてきたのだ
世界の果てで二人は自分の目を疑って目をゴシゴシこすり
世界の果てで二人は自分の名前を告げ合った
世界には二人しか残っていないのだから
二人は一秒たりとも離れずに
二人で世界の果てを探索してみたが
3キロメートル四方にはネズミ一匹いなかった
二人は世界の果てで困り果て
二人は世界の果てで口論し
しかし二人はそれぞれ勝手にすることを断念した
二人は世界の果てで横になって日が落ちるのをながめ
二人は世界の果てで感極まった視線で見つめ合った
世界には二人しか残っていないのだから
二人は毎晩オオカミや
カラスやキツネのことを思い出した
そして暗闇の中で眠れるように歌を思い出し
しばらく経つと
二人は平和な小さな世界を作り出し
夜毎にお互いを少しずつ強く抱きしめるようになった
二人は世界の果てでよく理解しあった視線で見つめ合い
二人は世界の果てで一度の目配せだけで真っ裸になっていた
世界には二人しか残っていないのだから
世界の果てのある晴れた朝
世界をやり直すことに疲れて
二人は異口同音にもうすべてを止めようと決めた
旧世界の岸辺を夢見て
もう一度世界一周をしたくて二人は出かけたが
半日もせぬうちに二人は足を止めた
世界の崖っぷちの先には果てしない空虚が広がっていて
もうこの世にはこんなちっぽけな世界のかけらしか残っていなかった
二人は世界の果てで横になって日が落ちるのをながめ
二人は世界の果てで感極まった視線で見つめ合った
世界には二人しか残っていないのだから....
マリー=エレーヌの歌声は、優しく、彼岸も此岸も見てきたような説得力で、この世界の果てにいる二人の世界を描きます。チボーのギターのアルペジオも「ピーターとオオカミ」のように絵が見えるような描写力で迫ります。これがマリー=エレーヌの白鳥の歌です。世界の果てや世界の終わりがこんなに優しいものであったら...。

Presque Oui "Sauvez Les Meubles"
CD L'Autre Distribution AD0609C (現在入手困難)
フランスでのリリース:2005年

(↓ YouTubeの投稿動画 Presque Oui "Le Bout Du Monde")

2012年11月3日土曜日

人間はなぜ死ぬのでしょう

『アムール』
"Amour"
 

2012年フランス・ドイツ・オーストリア合作映画

監督:ミヒャエル・ハネケ
主演:エマニュエル・リヴァ、ジャン=ルイ・トランティニャン、イザベル・ユッペール
2012年度カンヌ映画祭パルム・ドール賞
フランス公開:2012年10月24日


 かし何という女優なのでしょうか。「ヒロシマ・モナムール」(『24時間の情事』アラン・レネ監督 1958年)から50年以上経って、(失礼ながら年齢を言うと)85歳でこの体当たり演技、観る側が震えが来る感じです。エマニュエル・リヴァ、もうヴェリー・スペシャル・トータル・リスペクトです。この女優を見るだけで、この映画は希有な映画体験となりましょう。
 ストーリーはいたって単純です。80歳を過ぎて、平穏に生きている退職した音楽教授(ピアノ教師)夫婦(エマニュエル・リヴァとジャン=ルイ・トランティニャン)に、ある日妻アンヌに脳障害事故が訪れます。夫ジョルジュはあわてて妻を病院に入れ、必要な手当をしてもらおうとするのですが、アンヌはその手術の結果、体の右半身が麻痺してしまいます。車椅子、リハビリ、介護婦...ジョルジュは自分自身を老いをも顧みず、聖者に近いような献身的な世話焼きをします。二人の間にはエヴァ(イザベル・ユッペール)という娘がいて、彼女自身たくさんの問題(浮気な夫、経済的問題...)を抱えながら生きていて、それを聞いてくれる両親が心の支えなのです。ところが心の支えはドラマティックに衰弱していく。エヴァはこんなはずではない、という焦燥があります。まだまだ元気なはずの両親は消えつつあるのです。
 ジョルジュはありとあらゆることをします。介護と家事をし、日々衰えていく妻を無償の愛で包んでいきます。映像は排泄やベッドでの失禁などのリアルな現場シーンを映し出します。これが老いるという現実なのですから。しかしエヴァはそういうことを信じられない。現代の医学と医療制度・福祉制度をもってするならば、こういう悲惨はないはずだ、と思っています。だったら何をするのか、ジョルジュは娘に問います。それは病院か延命装置の完備した老人ホームに入れることなのか。
 アンヌは最初の手術(失敗して半身不随となってしまった手術)の後、ジョルジュに約束を迫ります、「二度と病院に入れないでくれ」と。ジョルジュはその時に即答を避けるものの、結局この約束を(約束宣言しないまま)最後まで履行するのです。自宅で、二人のアパルトマンで最後の日まで添い遂げること。娘には到底理解できないそのことをジョルジュはぎりぎりのところまでやり遂げるのです 。
 意識があってわがまま言い放題のアンヌから、発語することも困難になるアンヌまで、その時間はとても短いのです。この短い時間にジョルジュはさまざまな幻覚を見ながら、濃密な愛の時間を生きるのです。アンヌは言葉がなくなるほど衰弱しても、食べることや飲むことを拒否することでジョルジュにわがままを表現します。愛されたい、愛したい、私たちは見たこともないような愛の交信をこの映像で見てしまうのです。
 ところがどうしようもないリミットはやってくるのです。その限界の限界で、ジョルジュは切れてしまうのです。その行為は唐突です。唐突ですが、この映像を観る者は驚かないのです。意味のわからぬわめき声を上げるアンヌに、自分の昔話をしてあげて、落ち着きを取り戻してあげたあと、 ジョルジュはアンヌの顔に枕をかぶせて、窒息死させてしまうのです。
 息絶えたアンヌを花で飾り、一緒に旅立ちたい、というジョルジュの希みを、この映画は叶えてやるのです。映画の魔術はそれが可能なのです。ミヒャエル・ハネケは映画のあらゆる可能性を使って、その愛の昇華を叶えてやるのです。
 まったくもって、何という映画でしょうか。

 私たち初老に属するジェネレーションはまったく他人事には見ることができない映画ですし、私たちの20年後や30年後、というだけでなく、私たちの親の世代(私は父を早くなくしましたが、母は90歳で存命です)の目に見える現実に切実に迫るテーマの映画です。時折、少年少女のような表情で愛の表現が見てとれるジョルジュとアンヌの、体の自由がきかない80歳代の男女の透明な愛、その愛は叶えられるという救いを持った映画、この映画体験は重いものの、天使的に軽やかでもあるのです。映画はそういうことも可能なのです。

(映画『アムール』 予告編↓)

2012年11月1日木曜日

見いだされない時(を求めて)

Patrick Modiano "L'herbe des nuits"
パトリック・モディアノ『夜の草』

 Pourtant je n'ai pas rêvé.  ー しかしながら私は夢を見ていたわけではない。
 
 とこの小説の第一行は始まります。モディアノの小説に親しい読者たちは、「そう言われても...」と最初からこの小説にとことんつきあおうという気にさせる第一行でしょう。モディアノは読み始めからくじけそうになる罠がたくさんあります。私たちが昨夜見た夢を思い出せずにイライラするのと同じ感じです。私たちはそれは絶対に思い出すことはできない、というあきらめでそのイライラを解消します。ところがモディアノは絶対にあきらめない。それは夢ではない、と言いながら、そのことは夢よりもはるかに遠い記憶なのです。その存在したか、しなかったのかも不確かななにかの記憶をモディアノは追うのです。これはすべてのモディアノの小説に共通したテーマです。だから、私たちは、また同じ(モディアノ)小説を読んでいるという錯覚に何度も陥ります。その闇の中で手探りで進んでいくエクリチュールが読者を離さないのです。同じようなことと知りながらも。
 話者(ジャンという名前。文中は一人称で「私」)はメモ魔です。ほとんど偏執的にその手帳にメモを取ります。通りの名前、建物の名前、人名、新聞で目についた記事... これらが備忘ノートとして網羅的に殴り書きされているのですが、それがどんな意味や関連性を持っているのか、書いた本人がわからなくなっているものが多いのです。またそれを書いていた頃の話者は既に文筆家であり、文学に関するメモ書きもそこに混入します。トリスタン・コルビエール、ジャンヌ・デュヴァル、ボードレール...。小説はそのメモが書かれた50年前の頃の記憶を蘇らせようとしているのですが、その文学メモのせいで19世紀的なパリも蘇ってきて、その混同がますますこの記憶めぐりの旅を困難にしていきます。
 読者はいつものように、序盤で、これは何が何だかさっぱりわからんぞ、という文章空間に叩き込まれます。五里霧中のポラー小説のようなものです。話者は何の確信もなく、たぶんそうだったのではないか、いやそうではなかったのではないか、という一進一退の文章で読者だけでなく、話者自身も不安にさせているようです。
 場所はパリ。21世紀の今にそこを訪れても当時の面影が残っていたり、いなかったりの不確かな記憶の中のモンパルナスです。話者はある安ホテルに出入りしている4人(あるいは5人)の男たちとダニーと名乗る女と関わりを持つようになります。右岸(16区)の小さなアパルトマンに定住する場所を持ちながら、そこになかなか帰ろうとしない、パリの放浪者である「私」は、どういう理由でこの人間たちと関わるようになったのかを知りません。また理由などなくてもいいとも考えます。中心はダニーと名乗る女です。彼はダニーと待ち合わせ、カフェに入り、一緒の時を過ごし、パリの町を横切って歩き、彼女が住所にしているモンパルナスのホテルに送っていき、そこで別れます。その安ホテルのロビーにはどう見てもカタギではない4人(あるいは5人)の男がいつもたむろしていて、ダニーを見張っています。ダニーはその男たちからアパートやホテルの部屋などの住むところを世話してもらっていて、男たちが手配する偽の学生証や身分証明書を使って、大学に登録して学生を装ったり、パリ14区のシテ・ユニヴェルシテール(国際学生住宅都市)に住んだりもします。そのうちにこのダニーが他にも違う名前をいくつか持っていることも知ります。
 「私」はなぜダニーと一緒にいるのか? その理由は判然としません。私にはとてもよくわかる理由で解釈しています。それは「ただ一緒にいたかったから」です。恋愛でも友情でもない、「一緒にいる」ことに強力な磁力を持っているパートナー、そういう関係と読みました。二人は同じ場所にいて,数少ない会話を交わし(ダニーは「私」が質問が多すぎる,と会話を避けることもあります),お互いのことを知りもしないでパリの街路を二人で移動する仲なのです。淡々とした関係であるような事実の記述の行間から,読者は強烈な「引かれ合い」を読み取るのです。おそらくこれはそれと銘打って書かれることのない壮大な恋愛小説ではないか,と。なぜなら「私」が追い求めているのはダニーに他ならないのですから。
 ダニーはこれまで住んだり滞在したりしたことのある部屋や家の鍵のコピーをすべて持っています。本来は家主に返すべきこの鍵のコピーで,ダニーはその場所に平気で忍び込んでいくのです。二人はいつか行こうと夢見ていた田舎の家(ブルゴーニュかもしれない,よそかもしれない,「私」には思い出せない)に滞在するのですが,そこも家主の許可なく鍵コピーで押し入ってしまうわけです。そこでの滞在中に「私」は小説の草稿を書き,その家の中に置き忘れてしまいます。いつかその草稿を取り戻せたら,あるいはそれを見つけた人が「私」に届けてくれたら,と話者は夢想します。「私」はそれがなければ書かれたはずの小説も思い出すことができないのです。その小説はおそらくその当時の自分の記憶の詰まったブラックボックスでもあるはずです。
 この小説には第三の関与者がいて,「私」の失われた記憶を外側から再構築する役割を果たします。それはパリ刑事警察の捜査官で,「私」はモンパルナスのホテルの4人(あるいは5人)の男とダニーと名乗る女と接触を持ったという嫌疑から参考人として捜査官の尋問を受けます。その事件とは、フランスからの独立を果たしたマグレブの国(モロッコですが)の政治団体(政府側か反政府側か判断できない)が、その政敵またはその家族に暗殺や誘拐という手段で国政に大きな影響を与えようとしているのですが、その実行部隊がモンパルナスのホテルの4人組(あるいは5人組)と自称ダニーという女であった、というものです。「私」は捜査官からその女がダニーという名前ではなく、複数の別のアイデンティティーを持ち、テロ組織の最前線のコマであることを知らされます。「私」はもちろんそのヴァージョンを信じません。
 その核心はこの小説の159ページめに現れるのです。何も知らない、知ろうとしない、ジャンという若者、すなわち「私」の前で、ダニーと名乗る女はこう問うのです : 「私がもし誰かを殺したことがあると言ったら、あなたは何と言う?」 ー それに対して話者はこう答えます:「俺が何と言うかって? 何にも」。 ー これがこの愛のディメンションなのです。この小説でこれが読めない人間はバカヤローと言いたい核心なのです。おお、こんな劇的な一行、古今の文学でもなかなか出会えるもんじゃないですよ。ジャンはダニーが人を殺したとしても、何も言わない、とマニフェストしているわけです。この五里霧中のすべてが曖昧で不確かな文章空間にあって、これほどくっきりとダニーへの話者の思いが浮き彫りになる部分はないわけですよ。
 時間軸は現在にも過去にも移ります。パリ刑事警察の捜査官は40年後に定年退職し、それでもその職務中に「捜査時効・調査中止」となった事件簿 を自分の仕事の悔恨として自宅に持ち帰ります。その中に「モンパルナス4人組(または5人組)とダニー」のモロッコ政治要人テロ事件の事件簿がありました。元捜査官は、この事件簿を今や有名作家となった「話者」に手渡そうという密かな願いがあり、それはある日偶然にパリ13区のカフェでの出会いによって実現するのです。この邂逅もこの小説の白眉です。
 その事件簿は「私」の失われた過去の多くの部分に対する答があるはずのものだったのです。ところが、この小説はそれを明かしません。ダニーの本当の正体は何だったのか? ダニーは本当にテロ先兵として人を殺したのか? ダニーは今どこにいるのか? ダニーは今生きているのか? ー この小説はその一切を明かしてくれないのです。

 話者が狂おしいまでに見いだしたかった過去の記憶、それは多分この事件簿が多くを明かしてくれたはずなのに、小説はそれを言及しようとしない。何も言ってくれない。読者はここでどうやってこの小説に向かい会えばいいのか。 50年後、パリの街をさまよいながら、話者はその見いだされた記憶を何も言わないことによって、一体何を文学化しようとしているのか。私たち読者は、その何も言われていない、ジャンのダニーへの、あったかもなかったかも知れない事件や、どこまでも不確かな記憶を越えて、狂気のような途方もない追憶や、名前のつけようのない果てしない恋慕しか読めなくなって、本を閉じるのです。これは不可能を読むしかない、希有な文学体験だと私は思うのです。ため息 。

Patrick Modiano "L'herbe des nuits"
(Gallimard 刊, 2012年10月、180ページ、16.90ユーロ)

(↓フランス国営TVフランス5の文学番組LGLに出演したパトリック・モディアノ)

PS:この小説を私は10月19日、パリCDG空港で、友人の到着を迎える待ち時間に読み終えました。ため息の余韻の中で、税関出口から現れた友人を見ながら、私は「しかしながら私は夢を見ていたわけではない」という第一行を独語しました。私はその時、小さなモディアノだったのです。そしてその翌日、私と友人はマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の執筆地、カブール(ノルマンディー地方カルヴァドス県)へと向かったのです。「失われた時」も「見いだされた時」も私たちには曖昧であるまま。