2019年6月27日木曜日

All about Yves

"Yves”
『イヴ』

2019年フランス映画
監督:ブノワ・フォルジャール
主演:ウィリアム・レブギル、ドリア・ティリエ、フィリップ・カトリーヌ
フランスでの公開:2019年6月26日

母の持っていた小さな郊外一軒家に籠り、改造ホームスタジオで(売れない)ラップ・ミュージックを制作する冴えない音楽アーチストのジェレム(演ウィリアム・レブギル)が、ネットで募集されていた某スタートアップ企業の消費者モニターに当選して、送られてきた一台のインテリジェント冷蔵庫。搭載のAIに使用者のニーズに合った健全でバランスの取れた食料を供給するというプログラムが組まれていて、自発的に品々をスーパーに発注し配達させ自分のボディーに貯蔵し、ご主人様に三食をサプライする。この冷蔵庫くんの名前はイヴ。人間の言葉を話し、オンラインであらゆる情報データにアクセスでき、ご主人様の食生活だけでなく、スマホ/メール/SNSの履歴と内容まで把握しご主人様の生活全般のお手伝いをする。この試作冷蔵庫のモニター消費者試験をチェック&スーパーバイズするために派遣されたのがスタートアップ企業の女性幹部のソー(演ドリア・ティリエ)で、AI冷蔵庫が客の私生活すべての満足を創出できるかが職業的課題で、いろいろ微調整を加えるのだが、時を待たずその主導権は冷蔵庫に奪われていく。なにしろ向こうの方が頭がいいのだから。ジェレムは最初は機械だと思ってバカにしているが、私生活にどんどん立ち入ってくるイヴと衝突を繰り返しながらも、この冷蔵庫がパートナーとして欠かせない「いい奴」に変化していく。
 この映画がどうも弱いと思うのは、「音楽」を重要な要素としながら、その音楽がそれほど物を言わないということなんだと思う。しかもラップという大変ポピュラーながら特殊なジャンルをスポーツのように「下手」→「上手」→「プロ級」→「スター級」に上昇させていくクオリティ差がよくわからない。結局それを決めるのは動画サイトのビュー数であり、ビュー数の多さで天下を取るものが秀でた音楽であるという統計データの価値に絶対性を与える。ジェレムのやっている音楽は限られた野卑な語彙を繋いで綴るやけっぱち吐き捨てラップであり、AI冷蔵庫はそれを分析して大衆音楽の総合的傾向の統計から判断すると、何十年やってもジェレムのラップが商業的成功を見る確率はゼロであると断言する。しかし、With a little help from my friend. 「いい奴」になったイヴは、スタジオで制作助手となり、ジェレムの音の種類、リズムの種類、ライム語彙の数を飛躍的に増加させて、ヒット曲作りの手練手管すべてを使って「コラボ」するのである。「コラボ」は「ゴースト」化していき、イヴはジェレムの「声」も合成して再生できるので、内実はすべてイヴがやっているという...。最初は抵抗していたジェレムであるが、動画サイトに乗せればすべてがミリオンビューという名声の心地よさに...。
 AI冷蔵庫としてイヴが課せられたプログラムのご主人様の私生活の満足実現のために、ジェレムの恋成就の手助けもやってしまう。その片思いの相手が他ならぬソーなのだが、イヴは勝手にジェレミー名義でSMSなどの伝達ツールを用いて、勝手な待ち合わせ、勝手なパーティーを演出して二人を結びつけようとする。ソーはソーでジェレムに気があるので、AIテクノロジーを駆使して誘惑しようとする。AI自動運転の試作カー(マークはしっかりシトロエンだった)で遠くまで行き、その帰路にわざとAIカーに故障をプログラムさせ、エンスト修理の半時間(とAIが時間を算出する)にカーセックスタイムに、と...。
 このAIがなんでもできてしまうという近未来ならぬ現未来テクノロジーも映画として見ていて本当に疲れるんだ。やれて当たり前だからマジックがないのよ。特に冷蔵庫なんて形態としてキャラクターがあるもんじゃなくて、発せられるロボット(調)言語 だけで準主役取るって、かなり厳しいと思いますよ。
 そして人間の逆襲。元はと言えば自分の欲が招いた失敗なのにジェレムは、ソーとの恋を台無しにしたのはすべてイヴに責任があると逆上し --- 恋とか人間の複雑で崇高な情動など、機械にわかられてたまるか、というロジック。AIに情動はない、というロジック。ところが... ---イヴを池に沈めて殺してしまう、はずだったが、機械は死なない。
 今度はAIの逆襲。イヴの帰属するAIスタートアップ企業は、ジェレム名義で発表されたミリオンヒットの数々はすべてイヴが(声まで)作ったものであると訴え、ジェレムを相手に盗作裁判を起こす。裁判長役でベルトラン・ビュルガラ(映画のオリジナル音楽も担当)が出演していて、なかなかいい味。 裁判はAI側の全面勝訴。そして晴れて音楽アーチストとしても認知された冷蔵庫イヴは、そのヒットメイカーとしての才能を評価され、フランスを代表してユーロヴィジョン・ソングコンテストに出場し、優勝してしまう。
 さて、AIに情動はあるか、という問題に帰ろう。映画はジェレムとソーとイヴは三角関係であるという構図を採用する。つまりイヴの立ち振る舞いというのは、ジェレムのダチ兼恋敵のそれであり、今やソーはイヴとの(禁じられた)蜜月関係に溺れつつある。だがソーはこのAI機械との肉体関係スキャンダルで会社を解雇される。
 そしてそして人間の再逆襲。名声も金も失ったジェレムは、後天性ハイテク機械アレルギーで皮膚病となり、世の中には機械のせいで妻や夫や恋人を失っている人たちが多くいる現実を知り、全人類を代表してAIから人間を防衛するべく、冷蔵庫イヴとの「クラッシュ」(ラップ口撃一騎打ち)に挑む...。

 途中で書いたように、このラップの説得力や破壊力やサウンド的衝撃が実際にものを言わなければ、この映画は成り立たないと思うのですよ。しかしそれはシナリオ上だけの話なので、それがなくてもまあまあよくできた大衆娯楽コメディー映画 のラインだけは保てるのだね。フィリップ・カトリーヌは山師的で好色で変態的で憎めない二流音楽プロデューサーとして出演。ウィリアム・レブギルは前から好きな器用な男優だけど、全く「郊外的」ではない郊外ラッパーという複雑な役どころ。TVカナル・プリュスの天気予報ガール出身の女優ドリア・ティリエはインテリ&セクシーが売りだろうけど、なかなか良い作品に恵まれないねぇ。
 クラッシュ(ラップ一騎打ち)で、グーの音もなく破れたイヴが発熱解凍して庫内から失禁するように水を放出するシーン、これが落ちかいな!? とあきれましたがね。

カストール爺の採点: ★★☆☆☆

(↓)「イヴ」予告編


(↓)映画中のジェレム作のラップ曲 "CRAB" = (carrément rien à branler ”関心をそそるものが全く何もないね"、”全く関心がないね”、語義的には"性器を刺激するようなことが何もないね = 勃たないね”みたいなニュアンス)。この動画は映画の断片ではなく、このサントラ曲のクリップとして作られたもので、フィリップ・カトリーヌも参加している。





2019年6月15日土曜日

ザ・キングの名のもとに生まれた男

Roméo Elvis "Chocolat"
ロメオ・エルヴィス『ショコラ』

この山のもの、というわけではない。ロメオ・エルヴィスは、本名をRoméo Johnny Elvis Kiki Van Laekenと言うので、とってつけた芸名ではなく本名の一部なのである。父親がセルジュ・ヴァン・ラーケンという名前だが、芸名をマルカ(Marka)というシンガー・ソングライターで90年代にはフランスのシングルチャートTOP50に2曲ヒットを送り込んだ。そのうちの1曲が"Accouplés"(1995年)であるが、これは2007年にマルカとその奥様で女優のローランス・ビボによるデュオ”ムッシュー・エ・マダム”が日本語ヴァージョン「一緒になろう」を発表している。その夫婦の間に1992年に生まれたのがこのロメオ・エルヴィスということなのだが、やっかいなことにこの両親は1995年にアンジェルという妹をもうけていて、この妹は2017年から2018年、シンガー・ソングライターとして兄を遥かに凌駕する国際的評価と人気を獲得してしまった。 今やこの男は「マルカの息子」と言われても誰もピンと来ないが、「アンジェルの兄」となると誰もが振り向くけれど、妹に比べて何よあの兄は?と世間の目は厳しいものがある。
  公立中学(コレージュ)を放校処分になり、カトリック系アートスクール、サン=リュック=トゥルネ校で絵画を学ぶ。このアートスクール時代にロメオ・エルヴィス少年の音楽はラップ/ヒップホップ一辺倒になり、次いでブリュッセルの高等アートスクール ESA75在学中に当時第一線のブリュッセルのラップトリオだった L'Or du Commun(ロール・デュ・コマン)に接近し、準メンバーのポジションを得る。ずんずんと頭角を表していくのだが、ラップアーチストとしては喰えないのでカルフールのレジ係として働いており、この経験は何度かライム化されている。2016年春、ダチのラッパー、キャバレロとのデュエットで発表したマニフェスト的ベルギー首都賛歌 "BRUXELLES ARRIVE"がヒットし(YouTube 2千万ビュー)、ロメオ・エルヴィスの名はやっと独り立ちして、カルフールを辞職した。
おまえはしまいにはペール=ラシェーズ墓地行きだが、俺は違うぜ
俺にはおまえの頭を一発で狂わせるサウンドがあるんだ
ブリュッセル軍団のお出ましだ、みんな車にギューギュー詰めで乗り込むぞ
仏語圏ラップのメッカであるパリを俺たちは必要としない。パリでくたばりたいやつは(ペール=ラシェーズ墓地に入りたいやつは)好きにしたらいいが、ブリュッセルはもっとすごいぞ、俺たちはギューギュー詰めなほどたくさんいるんだ。クリップに登場するだけでも、キャバレロ、ジャンジャス、ラ・スマラ、ロール・デュ・コマン(3人)... 連帯してブリュッセル・ラップシーンを盛り上げている。これが白耳義国のティーネイジャーたち(特に女子)に爆発的に受けて一大ブリュッセル現象が起こったのだそうだ。この歌の連帯性を地で行くようにロメオ・エルヴィスは連名のEPを何枚か出すのだが、2019年4月、正真正銘のソロ(ロメオ・エルヴィス名義)ファーストアルバムを発表。

 さて『ショコラ』である。ショコラは今日のベルギーを世界にアピールできる名産品であり、同じベルギー出身の世界のスーパースター、ストロマエが「ムール・フリット」をフィーチャーさせたような華麗なるベルジチュードか、と思われよう。違います。ショコラで色が黄色というのはおかしいだろう。バナナの皮色とも言えるが、関連はある。なぜならショコラとは"ライトドラッグ"のことなのだから。チョコレートを中毒的に食して恍惚に至る人もいるかもしれないが、この場合は銀紙に包まれた違うもの。ジャケ写の男(ロメオ・エルヴィス)の目が半開き、口が半開きは"ショコラ”が効いてる状態なのね。表題曲「ショコラ」(2曲め)は、自分の悪ガキだった頃(ショコラばかり吸ってた頃)の体験から始まって、若い世代にショコラに手を出したらいかん、ショコラに頼ったらいかん、と説教を垂れる。
ショコラをやり出したらだめだ
もしもやるんだったら必ず二人でやれ
おまえはこれぐらいの算数はわかるよな
葉っぱ(ショコラ)をあてにしたらだめだ
 ライトドラッグをテーマにした曲はこんな感じだが、アルバムにはヘヴィードラッグを歌った曲もあり、これだけではすまない。
 アルバムからの最初のシングルとして先行発表されたのが3曲めの「マラード(Malade)」で、これは失恋という長〜い病気期間のことを直情的に表現したもので、どことなく(大名作)ストロマエ「フォ〜ルミダブル」を想わせるやけっぱち加減。
Quand on a cessé d'aimer on doit se laisser tranquille
愛するのをやめたとき、そのまま大人しくしていないとだめだ 
愛を失った時、大人しくしてられないほど、病気(malade)になるほど人は長い間苦しむのであり、これはアズナヴールやブレルのシャンソンのようなテーマだ。ほかの頭の固いシャンソン歌手たちと違って、アズナヴールは早くからラップ表現を支持していたし、シャンソンの未来までラップの中に見ていた。MCソラール、アブダル・マリック、ストロマエ、オレルサン、グラン・コール・マラード... この言わばラップ/ヒップホップの中の「シャンソン派」のような系列にロメオ・エルヴィスを位置付けてもいいんじゃないですか?
 このアルバム『ショコラ』には、マチュー・シェディド(-M-)とデーモン・アルバーンという二人のゲスト(大)スターのフィーチャリングがある。シェディド・マチューの裏声ヴォーカルをフィーチャーした「パラノ(妄想症)」(5曲め)は上の「マラード」と共通する21世紀的焦燥の歌である。
恋人よ、あなたが前と同じ人間なら
どうしていくつかのことは変わってしまったの?
平日に私に電話くれる回数減ったわね
長い裁判訴訟に私を陥れたみたい
パラノ、パラノ、パラノ、パラノ...
きみがそれを望んだんだろ、俺はパラノのど真ん中だ
パラノ、パラノ、パラノ、パラノ...
俺は死ぬよりは愛することを選ぶよ
性別も愛憎も交錯するスキゾなライムであるが、 妄想する根底には複雑さを超えて生き続けようとするバランス本能のような働きの狂いと修正の繰り返しがあるのだと思う。この歌はわしには結構強烈なのね。
 そしてデーモン・アルバーンが加わったアルバム最終曲(19曲め)「負け(PERDU)」である。これがいい曲なんだぁ!
俺はすべてをコントロールしながら、同時に敗北を喫してしまった
俺は群衆の中で自分を失い、澄んだ空気を求めている
俺はまもなく呼吸すらできなくなるような気がする
人目に追われ俺はその圧力で身をかがめる
通りに追い込まれ、俺は道を識別することもできない
家に帰りたったひとりでショコラを食べる
不快な味はパセリ(葉っぱ)では消え去らない
最後2行は「ショコラ」に始まったアルバムが(人にはやめておけと言いながら)、打ちひしがれて「ショコラ」に戻っていくエンディング。" "ça part pas avec le persil"はその不快感(不安)はパセリ(葉っぱの植物→大麻)では消え去らないという意味と、"persil”(ペルシル=有名な洗濯洗剤)で洗濯しても落ちない、というダブルなメタファー表現だけど、ライトドラッグではどうしようもないという結語。悲しくも美しいルーザーの歌。

 イントロとインターリュードを含み19トラック詰まった長尺アルバムは、そのほかに妙に小難しくなってヒップスターたちにも受けるようになったラップを皮肉る「ボボ(Bobo)」(7曲め)や、ヘヴィードラッグに冒されボロボロになっても正常(ノーマル)と救いようのない状態の「ノルマル(Normal)」(10曲め。閲覧注意だけど力作クリップ)、またベルギーの旧アフリカ植民地に関する政策を直接的に批判する政治的な「ラ・ベルジック・アフリック(La Belgique Afrique)」といった興味深い曲が印象に残った。

Roméo Elvis "Chocolat"
CD/LP Barclay / Strauss Entertainment
フランスでのリリース:2019年4月12日

カストール爺の採点:★★★★☆
 

2019年6月14日金曜日

ツイン・ピークスの男 やまみつのささやき

『ミエル・ド・モンターニュ』
"Miel De Montagne"

 この山のもの、と言うわけではない。知っている人は驚くと思う。マルセル・カンシュの息子、本名ミラン・カンシュ。マルセル・カンシュ(1954年生)は70年代半ばから80年代にかけて活動していた(ポスト・ロック、アヴァン・ジャズ・パンク)トリオ Un Département のヴォーカリスト/ギタリストとしてフランスのコールド・ウェイヴ/ノイズ・ロックのパイオニアと言われ、次いで90年代にはメジャーのバークレイ(フィリップ・コンスタンタン)と契約して、およそ商業性とは無縁の難解文学系の作品を何枚か発表する。バークレイは一方にアラン・バシュング(カンシュとは仲がいいのだ)というその世界のチャンピオンを有するレーベルなので、それもありかなと思うのだが、バシュングはある種のポピュラリティーを得ても、カンシュは全くそれがない。硬派でノイジーで高踏派で。2000年代からも独立系で作品を出し続けているが、もはや神話的アヴァン詩人ロッカー。
 そういう堅物の父親を持ったこの24歳の息子が一体どんな音を出すかと言うと...。ドリーム系シンセ・ポップ。落差はかなり大きい。まあ、親と同じようなことをしない、というのは健全な育ち方の証拠でもあるが。もともとハウス系DJで、それだけで喰えないから作詞作曲を始めた。その環境で育まれたプロ感覚というか、親父がどうしてポピュラーでないのかを肌で知ったフィーリングというか、こうすれば聴きやすく、耳に残り、リフレインを一発で覚え、快感を伝播できる、という術が身についちゃったんだろうねぇ。このオプティミスムについていけず、誰も彼の楽曲を採用しないので、自分で歌う(+演奏全部)ことに。ほとんどティーン・アイドル向けのような浮いちゃったナイーヴ歌詞
"きみにジュテームと言われてから、僕は前の僕とは違うんだ"(Plus le même)
”街角で見かけるあの娘、僕のこと一度も振り向かないけれど、僕はあの娘をずっと夢見てるんだ"(Cette fille)
決まり悪くなることを恐れてはいけない。ポップスとは歌詞じゃないよ、サウンドだよ、と今更ながらに認識させられる。われわれがガキの時分に心を奪われた英語ポップスなんて、響きだけで夢中になったものではないか。
今やその道の大家になったフィリップ・カトリーヌの平易でナンセンスで必殺のBセンス・ポップに続くものかもしれないが、制作されたクリップはすべて軽めのお笑い系に脚色されている。 シングルヒット狙い(狙おうと思えば狙えるキャッチーさ)の必殺イントロを持った "Permis B, Bébé"のクリップは、練馬変態クラブに囲まれて幸せそうなギーク青年に撮られているが、歌詞は
ボンジュール、マドモワゼル
今はまだお互いのこと知らないけど
きみの前にいると
僕は何も言葉が見つからないんだ
ボンジュール、マドモワゼル
こんな寒い外で何をしているの
良かったら僕の素敵なクーペで
送って行ってあげようか 
だって、僕はB免許を持ってるんだよ、ベベ
僕はB免許を持ってるんだよ、ベベ

何か特殊な運転免許のように思われようが、"Permis B(ペルミ・B)"=B種免許とは、日本の普通免許に相当する、言わば誰でも持っている免許証で、ことさらに"Bなんだぜ!”と自慢できる類のものではない。意気がって見ず知らずの女性を"ベベ”(へい、ベイビー)と呼びたい臆病少年が、 うまく言えずにどもってしまい "べ、べべ”となってしまったことが、"Permis bé bébé"(免許持ってんだぜ、べ、べべ)と発語されたということなんだろう。解説するとつまらなくなるけど。しかしナンセンスだけどこういうリフレインは絶対耳に残る、という良い見本。

 去年2018年にEPで発表され、YouTube2百万ビューの曲 "Pourquoi pas(いいじゃないか)"は、4行短詩の繰り返し。
きみと出会った時に
僕は一人つぶやいた
真っ裸で生きるのも
悪くないんじゃないか、って

これがフランスでの批評が持ち上げるような大いなるヌーディスト賛歌であるかどうかはアレとして、何度も"Pourquoi pas!"(悪くないんじゃないか)と言われると、曲も自然と、コレ全然悪くないね、という感じで聞こえてくる。なにかそういうマジックを心得たユルいポップなのだろう。このギーク君は水上スキーもできるのだね。

 それからこれぞ偽ナイーヴ・ポップ!と誰もが頷くであろう5曲め"L'Amour"(恋)は、シンセ・ボサノヴァのチープさがなんともいい感じで胸キュン。
僕は恋については何も知らないけど
ずっと探してるんだ、いつも探してるんだ
僕は恋については何も知らないけど
ずっと探してるんだ、毎日探してるんだ
恋、それはきみのことかも知れない
でももう遅い 僕は見逃しちゃった
恋、それはきっときみのことなんだけど
いつか僕のところに戻ってきてくれるかも

ギーク君と雪だるまの恋物語という設定の雪山クリップもナンセンスな中にそこはかとない哀愁(サウダージ)もある。ボサノヴァだもの(って安直な説明か)。

ミラン・カンシュ、芸名を「ミエル・ド・モンターニュ」(山の蜜)と言う。"Miel de Montagne" とグーグル検索すると、音楽アーチストのことよりも(山岳)地方特産品の通販サイトへのリンクの方が多い。それもいい感じ。"M"iel de "M"ontagneとMの字を重ねたのは、形状がツインピークス山状である文字 "M"を強調してのことだろう。日本では山は逆さすり鉢状であるが、アルプスなどの険しい山の地方ではすそがやや開いたM状で表現される。Mが二つ重なると険しい山並みを想像できよう。昭和のマンガ「エムエム三太」ではエムエムは「ミラクル・マイティー」の略であった。このアルバムはミラクル・マイティーとは程遠いヘナチョコであるが、マジックの"M"はあると思うよ。
J'M bien MM.

<<< トラックリスト >>>
1. Plus le même
2. Pour rien au monde
3. Permis B bébé
4. J'y peux rien
5. L'amour
6. Ces rêves
7. Cette fille
8. Pourquoi pas
9. Fragile
10. Le soleil danse

MIEL DE MONTAGNE "MIEL DE MONTAGNE"
CD/LP PAIN SURPRISES/DELICIEUSE MUSIQUE
フランスでのリリース:2019年4月

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)必殺のスロー "Le Soleil Danse"




2019年6月10日月曜日

ギミー・シェルター

"기생충"
("Parasite")
『パラサイト』 

2019年韓国映画
監督:ポン・ジュノ
主演:チェ・ウシク、ソン・ガンホ、チョ・ヨジュン
2019年カンヌ映画祭パルム・ドール賞作品
フランスでの公開:2019年6月5日 

Mmm a flood is threat'ning  (洪水がやってくる)
My very life today  (俺の特別な日だってのに)
Gimme, gimme shelter (避難場所をくれ)
Or I'm gonna fade away (さもなきゃ俺は消えちまうんだ)
War, children, it's just a shot away (たった一発の銃弾で戦争は始まる)
It's just a shot away (たった一発の銃弾で)

(「ギミー・シェルター」ローリング・ストーンズ 1969年)

ンヌ映画祭は(昨年の是枝『万引き家族』に続いて)2年連続で極東のちょっと変わった家族映画にパルム・ドールを与えたわけです。共通しているのは最底辺に生きる人たちのリヴェンジということですね。この映画はエティエンヌ・シャティリエーズの出世作『人生は長く静かな河』(1988年)における最底辺家族グロゼイユ家と最上流ブルジョワ家族ルケノワ家の関係にも似た、最貧が最富を寄生虫(パラサイト)のように侵食していくストーリーが軸になっていますが、シャティリエーズ映画から30年後に作られたポン・ジュノ映画は、今や牧歌的とも思えるシャティリズーズ映画のワイルドながら調和的な"下克上"ハッピーエンドになどなりようがないのです。この30年の時の流れは、ネオリベラル資本主義の極端に苛烈な社会破壊の時間であり、貧乏と金持ちの格差の拡がりは計り知れぬものがあります。韓国は世界経済的には比較的うまく立ち回っているではないか、と思うむきもあるかもしれません。お立会い、そろそろものごとを国単位で考えるのはやめましょう。このネオリベラル経済において、成功している(あるいはうまく立ち回っている)のは国ではなく、その国の寡占階級にすぎないのです。ルールのない(それがリベラルですから)無限の利潤追求に成功する人たちに無限の富が集中し、貧乏人は限りなく増え、その困窮はどんどんひどくなっていく。これがリベラル世界のいたるところで起こっていることで、日本にもフランスにも韓国にも同じようにごく一握りの極端なオリガルシー(寡占階級)と、過酷な条件で生きることを余儀なくされる圧倒的多数の底辺の人々がいます。日本は比較的恵まれていると国単位で考えたがる人たちは、このネオリベラリズムの現実を直視できないでいるのです。オリンピックで金メダルを取れば、万人に富がもたらされるような幻想のまやかしをありがたく信仰しているのです。ま、それはそれ。
 さて映画の主役陣はソウルの最下層家族であるキテク一家(夫・妻・息子・娘)で、路地裏の地下室(明かり取りのガラス窓が道路面に、そこに通りがかりの酔漢が習慣のように立ち小便を)で、スマホとパソコンはあるが、階上住人のWiFiを傍受してやっとネットでつながっている。家族全員失業者、キ・テク氏(演ソン・ガンホ)は元運転手、息子のウー(演チェ・ウシク)は雑学・教養の豊富なインテリ君だが学費が払えず学業を断念、娘ジュン(演パク・ソダン)はパソコン細工が得意。その学歴も経歴もない息子に、大富豪パク家の娘の家庭教師の話が転がってくる。妹の超テクでアメリカ有名大学の卒業証書を偽造し、超豪華建築のパク邸へ面接に。ここでまた『人生は長く静かな河』を引き合いに出しますが、この面接に出てきたパク夫人(演チョ・ヨジュン)は、かのシャティリエーズ映画の大ブルジョワ家のルケノワ夫人(演エレーヌ・ヴァンサン) に本当によく似た気立ての良い世間知らずクーガーで、二人の子供(高校生の娘と幼稚園の息子)を最良の条件で育てたくて、そのためならば何も惜しまない盲目的愛情があります。パク夫人に気に入られ、やや過剰性欲気味のJK娘もとりこにし、ウーは就職に成功して、パク夫人の子思いを利用して、幼い息子の描く絵に精神的トラウマの兆候があり、それは時間をかけて治す必要があり、絵の先生兼心療ヘルパーとしてアメリカで勉強したジェシカ(実は妹のジュン)を雇い入れることを勧めます。こうして大富豪家にはそうと知られず、キテクの息子と娘はパク家で働くことになります。次いでパク家のお抱え運転手をジュンのお色気作戦をつかって解雇させ、晴れて父親キテクも(その家族関係を知られず)運転したこともない最新最高級のメルセデス・ベンツを運転する大富豪家運転手になります。さらに完璧この上ないパク邸家政婦をも(その桃アレルギーという奇病を発生させ)解雇させ、キテクの妻が雇われるという...。こうして大富豪の四人家族の家庭の中に、極貧の四人家族が寄生虫のように侵入することができたのです。
 しかしカタストロフは起こります。パク一家が泊りがけでリゾートに出かけていくのを見送ったあと、不在中この大邸宅を自由に使えると踏んでいたキテク一家は四人でパク家所蔵の高級アルコールと高級食品で豪勢に酒盛りをして盛り上がっています。外は激しい雨。こんな嵐の夜に、解雇された完璧家政婦が地下蔵に私物を忘れていたので取りに来た、と...。ここで一つめの大カタストロフ。それに続いてパク一家も旅の予定が嵐で全部中止になってしまったと、家に帰ってくるのです。第二の大カタストロフ。映画館はこの連続の大カタストロフシーンで大笑いに包まれることになります。実にバーレスクに可笑しい。
 命からがら三人(キテク妻は家政婦なのでパク邸に残っている)が山の手高級住宅街から、ソウル下町に逃げてくると、山の手ではただの大雨だったのが、下町では大洪水になっているのです。そして地面より低い位置にあるキテクの地下住宅の中は汚水が波立つプール状に轟々と...。これがネオリベラリズムの現実の地獄なのですよ。

 本記事の頭にローリング・ストーンズの「ギミー・シェルター」の歌詞を引用しましたが、この歌はこの映画と全く関係がないものの、映画はクライマックスとして洪水、そして戦争(おそらくキテクの中での抵抗戦争)を持ってくるのです。そしてシェルターはこの映画の重要な要素です。今日もなお終戦していない朝鮮戦争を生きている国であり、核の脅威が現実にあるところです。この映画の大富豪パクの大邸宅にも、たぶん同地の多くの金持ちたちが設置しているであろう核シェルターがあるのです。映画ではパク邸の地下核シェルターに逃げ込み、生き続ける人がいるのです。この映画はその韓国的現実もはっきりと浮き彫りにするのです。
 第一のカタストロフで逆襲に出て一旦はキテク一家をギャフンと言わせた元家政婦が、北朝鮮中央テレビのあの名物女性アナウンサーの口調で勝利宣言的な演説をするところは、さすがにフランス人観客には笑えなかったですが、私たち日本のテレビでしか知らない人間でも大笑いものでしたよ。
 そして、パク家に寄生虫として入り込んだ四人を「家族だ」と最初に見抜くのは、幼いパク息子なんですね。それは四人が皆同じ匂いがすると言うのです。金持ち社会ではみんなそれぞれ違う匂いがするが、貧乏人は皆同じ匂いがするのですよ。これは悲しいけれど、そうなんですよ。
 いろいろと隠し味的なエピソードもとても効いていて、本当に頭が下がる。ひとつだけ紹介すると、この男たちは老いも若きも(ボーイスカウトなどで教わって)モールス信号を知っているということ。これも朝鮮半島的現実の一部なのかもしれない。このインターネットやスマホの時代にあっても、最終的にサバイバルを可能にする通信手段はモールス信号であろう。映画は核シェルターに逃げ込んだ人間と、外でそのメッセージを受け取る人間がモールス信号でやりとりするのですよ。おそらく何ヶ月も何年も...。
 すばらしい役者たちと、さまざまなカタストロフ(すばらしい洪水)と、ネオリベラル経済の現実と、朝鮮半島の歴史に由来する悲喜劇と... いっぱい詰まった傑作映画です。

カストール爺の採点:★★★★★

↓『パラサイト』 フランス語字幕版予告編


↓『기생충 (Parasite)』インターナショナル・トレイラー


↓ローリング・ストーンズ feat ライザ・フィッシャー「ギミー・シェルター」(Live 1995)