2016年12月26日月曜日

ヰタ・セクスアリス

レイラ・スリマニ『鬼の庭で』
Leïla Slimani "Dans le jardin de l'ogre"

 2016年度ゴンクール賞を獲得した『やさしい歌』の作家レイラ・スリマニが2014年に発表した彼女の第1作めの小説です。私は当然『やさしい歌』に圧倒的に魅了されたがために、緊急にこの第1作を手にしてしまったのですが、しかし何という筆力でしょう。1行1行ごとに鞭打たれるような激しさが秘められています。
 主題は簡単ではありません。性依存症の女性の話です。 この病気はプロ・ゴルファーのタイガー・ウッズや仏政治家ドミニク・ストロース=カーンの事件があった時から一般に認知されるようになりましたが、それまでは「異常性欲」「淫乱」「変態」といったフツーの人間の悲しい性(さが)の延長のような扱いだったと思います。ある種誰でも持ってるダークサイドのような軽い認識。それはインターネット時代に一挙に氾濫するようになった性情報とポルノグラフィーによって、私にもあなたにもある興味と興奮が、なあんだ、みんなそうなんじゃん、という誤った「理解」ですね。性依存症はそんなレベルではない。
 女性の場合、性欲過多のような蔑称の言い方は「ビッチ」(英)、「サロップ」(仏)、 「痴女」(日)です。どれもひどい言葉です。だから、この小説は読者の側に性依存症という認識がなければ、これは「サロップの物語」としてしか読まれないのです。
 アデルは医師であるリシャールと結婚し、男児(リュシアン)をもうけ、国際時事週刊誌のジャーナリストとして働いています。パリ暮らしと病院勤めにうんざりしているリシャールは、地方(ノルマンディーに目を付けている物件がある)に大きな家を持って家族でゆっくり暮らしたいと考えています。アデルはそれに賛成も反対もしません(つまり、反対なのですが、その理由は言えない)。
 小説はアデルがその性衝動をやっとのことで1週間抑えられた、というイントロで始まります。パリ市を縦断して走り回り、水ばかりを飲み、早寝早起きをして、必死にそのことを考えまいとしますが、1週間目で炸裂して、ある男のところに転がり込んでいく。この抗いようのない性衝動に対応するために、アデルは身内の者は誰も知らない第二の携帯電話があり、何十というセフレの名前がリストされた鍵付きのアドレス張がある。このアデルの裏の顔は絶対に暴かれてはならないのだけれど、その危うさを時々無防備に露呈させて、同じ社のジャーナリスト仲間のパーティーなどの深夜に酔ったふりをして若い新米記者を誘惑してしまう。済んでしまえば、よくあることで、「昨日は飲みすぎたわね、ごめんなさい、なかったことにしましょう」で了解できればいいのですが、ウヴだったりセンチメンタルだったりする男はそうでは済まなくなる場合があります。しつこく「次いつ会える?」とか「僕ときみはこのままで済むわけがない」とか言い出す輩が厄介です。
 というわけでアデルは経験から、口が堅く、情緒に薄く、急な欲求にも対応可能な男たちをセレクトして関係を保っています。しかし作家の描き方は、この性衝動は快楽原則とはやや異なっているように思えます。アデルにとって必要なのは、とにかく男が挿入して機械的に運動を繰り返してくれること、それだけが重要なのです。その間アデルは目を開けて天井の隅の汚れや、壁紙の柄の連続性などを観察している。これが済めば1日2日は我慢できるという充足感だけなのです。
 小説の前半は、不器用に子育てと職業(国際時事ジャーナリスト)をかろうじてこなして、いつ夫に発覚するかもわからないリスクを冒しながら、発作的に訪れる性衝動の充足のために奔走するというアデルの二重生活が描かれます。夫リシャールとは愛情関係にあるのか、というと、アデルは頼れるのはこの男しかいないというレベル。しかし秘密は守られなければこの薄氷の夫婦/家族は崩壊してしまう。リシャールはある種伝統的カトリック系とも思える家族の絆や、家庭の充実を重んじ、優秀な医師としての信望を得て、豊かな自然の中の田舎医師として生きていきたい。もう一人二人子供が欲しい。良き夫良き父親として家族建設をリードしていく家父長タイプ。性欲は淡白で、若い頃から男たちのその種の冒険やジョークに眉をひそめてきた(しかし小説の後半でリシャールが若い娘にグラっと揺れるエピソードあり)。
 アデルが隠れながら繰り返す男刈りの相手の一人として現れるのが、リシャールの親しい同僚である医師のグザヴィエです。妻のフランソワーズと共にリシャール/アデル夫婦との夕食の席の背後で、アデルはグザヴィエを誘惑してしまう。二人のダブル不倫はやがてパリ13区に逢瀬専用の部屋を持つほどエスカレートしていく。ここがアデルの闇の世界の崩壊の始まりです。
 さらにリシャールがスクーター事故を起こして脚部を壊し、緊急入院、手術、リハビリという長期間に及ぶイレギュラーな日々が始まります。アデルは甲斐甲斐しくリシャールを看病して支えますが、その間にも性衝動はやってきて、隠れた行動をやめるわけにはいかない。体に自由が利かなくなったリシャールは観察眼が鋭くなり、疑惑が湧いてきます。そしていち早くその関係に気づいたフランソワーズが、リシャールにグザヴィエとアデルの密通のことを明かします。 リシャールはアデルの不在中に子のリュシアンがたまたま見つけたアデルの「第二の携帯」、そして秘密のアドレス帳を探り当て...。
 アデルとリシャールの関係はここで壊れるはずでした。
 ここからがこの小説のエモーショナルなところで、あらゆる名前の疑惑をかけられたアデル、世にもおぞましい「サロップ」の正体が暴かれてしまったアデルが、リシャールに許しを請います。"Il est plus fort que moi"(それは私よりも強い=私の理性ではコントロールできない)と。リシャールは許せる心などありません。それは家族の体面を死守すること、家に汚名がかぶさってはならぬ、という田舎保守的なリシャールの理念が、この受け入れがたい屈辱をリシャールに受けさせたのかもしれません。
 リシャールは予定どおりノルマンディーの田舎に大きな敷地の家を購入し、近隣の町の診療院に席を得て、リュシアンとアデルを連れてパリから引っ越します。アデルは今や専業主婦です。すなわち収入ゼロ。金銭を厳格にリシャールにコントロールされ、外出や移動などの自由を制限され、半ば幽閉状態で家事と育児をしています。リシャールも医師ですから、アデルの性依存症は病気であるという認識ができます。心理医療士によるカウンセリングや食餌療法 などで、この依存症から脱する試みをします。アデルはリシャールに許しを請いた時から、リシャールが強いるあらゆる条件を受け入れる覚悟がありました。なぜならばアデルはリシャールを本当に愛していたことに気づいたからです。
 月日は流れ、都会から隔てられてストイックに衝動の沈静化を得ようとしたアデルとリシャールの努力は少しずつ実を結んでいっているように見えます。許されない妻にリシャールは少しずつ許しを返していく。アデルはこれを蘇生への最後のチャンスと思い、耐えていく...。アデルとリシャールの間に雪解けが見えた頃、リシャールは200ユーロの現金を与えて、パリへの一泊旅行を許します。しかし、悪魔は再びそのスキを見逃さないのです....。
  帰宅予定に帰ってこなかったアデル、連絡不能になったアデル、翌日もまたその翌日も戻ってこないアデル、待ち続けるリシャール...。

 ぎゅ〜っと胸締め付けられるエンディングです。作者はここで不確かな未来形文体でアデルの蘇生と、忍耐による愛の勝利を描こうとするのですが、本当に不確かなのです。おぞましいほど狂おしく耐え忍びの極限まで強いる忍耐の愛、アデル、その闘いはまだ終わっていないんだ、と。わおっ!

Leïla Slimani "Dans le jardin de l'ogre"
単行本発表 2014年(Gallimard刊)
文庫本刊行 2016年11月 (Folio)  230頁  7,10ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓自作『鬼の庭で』を紹介するレイラ・スリマニ)

 

2016年12月21日水曜日

音楽にセーズを持ち込む

ダミアン・セーズ『ル・マニフェスト - 自由の鳥』
Damien Saez "LE MANIFESTE - L'Oiseau Liberté"

 1977年8月1日生まれで、今39歳。その39歳の1年間、2016年7月31日から2017年7月31日、この1年間をひとつの作品にしてしまおうとダミアン・セーズは考えた。そのプロジェクトの名は『ル・マニフェスト』。3年の沈黙を破ってセーズは音楽活動(芸術創作活動)に還ってきたのだが、2016年6月16日(数字的に16-06-16がどんな意味があるのか。意図的に選ばれた日らしい)にセーズはこの帰還を宣言し、来る7月31日から次の年の7月31日までを『ル・マニフェスト』の1年と定めた。何をするのか。テクスト、映像、ツイート、音楽ストリーミング、コンサート...。
 12月9日に(フィジカルに)アルバムが発表された。私はそこでアウトラインが掴めたのだが、セーズは2016年1月のシャルリー・エブド襲撃事件、同年11月のバタクラン・テロ事件のことばかり歌っているのだ。「もうこの言葉しか出てこないんだ」と言わんばかりに、同じ フレーズを複数の曲に何度も繰り返しながら、ひとつのテーマ(シャルリー/バタクラン)の変奏曲のような、祖国、自由、戦争、子供たちのことを歌っていく。ふるえる声で。ピアノ、あるいはアコースティック・ギターの伴奏で。こうしか歌えないんだ、というやり方で。そう、こういう剥き出しで無防備なやり方で。

 テレラマ誌2016年12月21日号に、ヴァレリー・ルウーが『抵抗の伝令使(Héraut de la résistance)』という一文を、この帰還したプロテスト・シンガーに捧げている。

やってくる気配はなかった。しかしそれを感づかないわけにはいかなかった。セーズ、この全く手を抜くことを知らない永遠の熱狂者は1枚のレコードを出した。全曲が去年のテロ事件とそれが巻き起こした衝撃について歌われている。これは1枚のレコードと言うよりもひとつのマニフェストである。「自由の鳥」あるいは恐怖と抵抗、それが10曲の歌に隔てられているのだが、それは大きな1曲を形成している。彼はそこでその苦悩を告白しはするが、何よりもそれは恐怖に慄いている国の大木を揺すってみせる。彼の目には、その恐怖が文化を衰退させることに見えるのだ。彼はそこで過去の偉人たちを呼び出してくる。知と独立と言葉の賛美者たちを。ヴォルテールからユゴーまで。ブレルからバルバラまで。蒙昧なごまかし主義に反対して知的友愛を説く。名前を明かすことのない石油利権戦争を告発する。消費至上主義への無自覚を叱責し、脳みそを非活性化するフェースブックやツイッターを非難する。
今日誰もならなくなった政治参加歌手の化身として、セーズは頑固者であり、同じ言葉や同じフレーズを繰り返すことを恐れない。歌詞から歌詞へ、それがよりよくメッセージとして届くように。「あんたたち俺の声が聞こえるかい?本を開けよ、体を動かせよ、愛せよ、抵抗せよ!」このアルバムの最初から終わりまで彼はそう叫んでいるように思える。もちろんテロ事件後の恐怖とそれを跳ね返す勇気について歌ったのはセーズが最初ではない。ルノー、ジョニー、ルイーズ・アタック、そしてルアンヌですらもそれを歌った。とりわけジャンヌ・シェラル。感きわまることを隠すこともせず、(テロに対しては)「永遠に中指を立てるのよ」と敢えて歌った。ブラヴォー。レオ・フェレとフランソワ・ベランジェの伝統ある国で、こういう歌手たちは少なくなかった。しかし正直に言えば、それはもっと多くても良かったのではないか、と思っていた。その欠如感をこのセーズがたった一人で埋めてくれるまでは。セーズはいつも通り誰よりも大きな声でそれをやってくれた。彼のもろに左岸派風な歌い方や、戯画化されやすい恨み節は茶化されてもいいだろう。だが彼の行為は強烈であり、熱情はそこにある。計算や見栄など一切ない。今週、彼はその反抗をステージで歌う。どこで? バタクランで。
 (Valérie Lehoux / p.19 in Télérama no 3493-3494 21/12/2016)

 気がついたら全文訳していた。ダミアン・セーズは今、これを書いている12月21日そして明日・明後日とバタクランの舞台に立って、その思いの丈を歌うだろう(ソールドアウト)。
 アルバムの中で、最も直截的なバタクラン犠牲者鎮魂歌が、「天国の子供たち(Les Enfants Paradis」という歌。長い歌詞だが、全文訳した。

彼らは微笑みだった、彼らはすすり泣きだった
彼らは鳥たちの歌のような笑い声だった
海辺に行くと彼らは朝日だった
彼らは悲しみの心、彼らは光り輝く心
彼らは詩、彼らは鳥
彼らは小川のほとりでささやく「ジュテーム」だった

彼らはカフェだった、彼らはビストロだった
彼らは異邦人で、彼らは何の旗印もなかった
彼らはパリ出身で、彼らは地方出身だった
彼らは僕の心を軋ませる雨の芯だった
彼らは人生の真っただ中で春のまなざしをしていた
空が泣き出しそうになると彼らの心は笑った
彼らは約束ごとであり、彼らは変転だった
彼らは出発を余儀なくされるにはあまりにも若すぎた
彼らはオリエントの子供、彼らはオクシデントの子供
天国の子供たち、バタクランの子供たち

彼らはフランス人の心、あるいは国際人の心
彼らはショールの下で涙のように流れる露だった
彼らは約束された子供たち、まだツボミで
悲しみをこみ上げさせる歌だった
彼らは家族同士、友だち同士だった
彼らは夜空の中で輝くものだった
彼らは暴政に逆らって身を潜める恋人たちだった
彼らはきみにも僕にも似ていた
彼らは戦士ではなかったのに、戦いで死んだ
彼らは愛し合う心、たとえ十字架の下に置かれても
打ち続ける心臓だった
僕の知らなかったこういう友だち、それが彼らだった
彼らは僕の国であり、きみの国でもあると信じる
彼らはパリであり続ける
パリはこれらの友だちを永久に記憶し続け
光は輝く

彼らの名はジュテーム、彼らの名は青春
彼らの名は詩、彼らの名は優しさ
彼らの名は姉妹、彼らの名は兄弟
彼らの名は少女、彼らの名は少年
彼らの名は歓喜、そして非暴力
彼らの名はフランスの子供たち、
あらゆる地平の子供たち、あらゆる名前の子供たち
彼らの名前は愛、彼らの名前は地平線

彼らの名前はジャック・ブレル、そしてバルバラ
彼らの名前は空、彼らの名前はなぜ
ここではいつも深い森に恐怖が潜んでいて
永遠に辿り着くのは罪なき者なのか
彼らは振り上げたコブシだった、彼らは僕らのコンサートだった
彼らは刑執行人を目の前にした、締め付けられた心臓
彼らは銃口を目の前にした、カーネーションの花の芯だった

悲しみに満ちた心で、僕らは友たちのために泣く
銃弾に倒れ、殺された無実の人々のために
機関銃の残虐さに倒れた無名の兵士たちのために
ヴェルダンの野に響く
悲しみの聖歌がただの役立たずの文言なら
この黒い金曜日に倒れた僕の国の兄弟たちが
絶望しか僕たちに残さないのなら
僕の国よ、おまえの文化は殺されて死んだことになろう
だが、知ってるだろ、僕らの文化は決して死ぬことなどない
モリエール、おまえが僕の国、ダ・ヴィンチ、おまえが僕の国
ヴォルテール、おまえが僕の国、ヴァルミー、おまえが僕の国
地球、おまえが僕の国、パリ、おまえが僕の国
地べたから立ち上がれ僕の国
僕の国それは光、僕の国それは命
僕の国は文学で、僕の国は悲しい命だ
僕の国よ、兄弟たちよ、おまえ、僕の国の兄弟よ
自分の母を愛するように、自分の祖国を愛するのだ
(Les Enfants Paradis / 詞曲ダミアン・セーズ)



<<< トラックリスト >>>
CD 1 LE MANIFESTE - L'OISEAU LIBERTE
1. MON PAYS JE T'ECRIS
2. L'HUMANISTE
3. L'OISEAU LIBERTE
4. LES ENFANTS LUNE
5. TOUS LES GAMINS DU MONDE
6. LES ENFANTS PARADIS
7. LE DERNIER DISQUE
CD 2 LE MANIFESTE - PRELUDE ACTE II
1. C'EST LA GUERRE
2. MON TERRORISTE
3. JE SUIS

DAMIEN SAEZ "LE MANIFESTE - L'OISEAU LIBERTE
2CD 16ART 342202
フランスでのリリース:2016年12月9日

2016年11月26日土曜日

きょう、ベベンが死んだ

Leïla Slimani "CHANSON DOUCE"
レイラ・スリマニ『やさしい歌』

2016年度ゴンクール賞受賞作品

  1981年ラバト(モロッコ)生まれ、当年35歳のフランス・モロッコ二重国籍女流作家の第2作目の長編小説で、この11月2日に2016年度ゴンクール賞を受賞しました。
 この小説を書くきっかけとなったのは2012年アメリカで実際に起こった事件だそうで、二児の母が家に帰ってみると、幼い子が二人とも50歳の乳母に刺殺されていたというもの。フランス語で言う 「フェ・ディヴェール(faits divers)」、つまり「三面記事ネタ」です。こういうフェ・ディヴェールから発して20世紀文学の一つの巨峰となったのがトルーマン・カポーティ『冷血』(1965年)ですが、『冷血』のようなジャーナリスティックなアプローチで殺人事件に迫るノン・フィクション的文体で書かれたものとは、このレイラ・スリマニの作品はだいぶ異なります。事実に発して、人物たちを作り上げ、劇的に自分の小説世界に取り込む、という純フィクションです。
 小説第一行めがすごいです。
Le bébé est mort.
赤ん坊は死んだ。
 もう一人の幼女(赤ん坊の姉)は、救急隊が到着した時にはまだ命があった(しかし病院で命を落とす)。赤ん坊は即座に死んだが、幼女は苦しみ悶絶のうちに死んだ。そういう小説の導入部なのです。 結部が先にある。小説はどうしてそこに至るのかを、乳母の側、子供たちの側、その両親の若夫婦の側、その他複数の関連人物の側から、立体的に分析展開していくのです。レイラ・スリマニも元ジャーナリストです。現場のリアルさを伝えながら、読む者をその場の証人にしてしまう筆力があります。
 ミリアムとポールは若くして結婚した夫婦です。そして若くして二人の子供を授かった。ポールが録音スタジオで働くサウンド・エンジニアだったが、そのセンスが評価されて制作側にどんどん入り込んでいき、プロデューサー(この意味は出資者ではなく、制作監督者)の地位にまで至ろうとしています。その代わりこの世界は時間が無制限で、アーチストの気まぐれにも付き合わなければならず、徹夜で作業というのは日常茶飯事のこと。昨今どんどん難しくなっている音楽産業内で生き延び、なおかつプロデューサーとして成功していく、この展望にミリアムは熱い支援の目を注いでいる反面、それにひきかえ自分は一体何をしているのか、という嫉妬もあります。ミリアムは法科の学生時代、クラスで最も優秀な成績で誰もが一目置いていて、弁護士資格も簡単に取得して有望な将来があったはずだった。しかし結婚・出産・育児という日々はそれから遠ざけ、ポールと子供たちに24時間尽くす主婦になってしまいました。その上子供たちは難しい。小さいお人形というわけではなく、こんな幼さで反抗もすれば拒否もする。そんな日々にフラストレーションを蓄積していたミリアムに、偶然出会った学生時代の友人パスカルは、ミリアムの優秀さを知っているがゆえに、もったいないと思い、自分の弁護士事務所のスタッフとして加わらないか、と誘います。これはミリアムにはまさに渡りに舟だった。ポールもミリアムの職業復帰ということには全面的に賛成するのですが、さて子供たちをどうするか?
 上の子ミラはエコル・マテルネル(2歳から入れる幼年学校)に通っているが、下の子アダンはまだベビーカーが必要な小ささ。これを夫婦共働きの場合、その不在時間に世話してもらえるのが "nourrice"(ヌーリス、乳母、子供ことばではヌーヌー)という職業婦人です。私たちの現地人的印象ではどうしてもアフリカ系、インド・パキスタン系、アンチル系(マルチニック、グアドループ...)のおばちゃんというイメージが強いです。しかしミリアムとポールが何人も面接した後で最終的に採用したヌーリスは、白人フランス人中年女性ルイーズでした。経験が豊富で前雇用者からの照会もいい。そして時々非常に難しくなる幼児二人でもすぐさま懐いてしまう熟練の子育て術を持っています。
 ポールとミリアムはこの天からの贈り物のような理想のヌーリスに大満足です。若夫婦のヌーリス採用の最大の目的は「子供のことを考えずに仕事に没頭できること」でした。第一線の現場で仕事して成功していくという夫と妻のそれぞれの希望は、このほぼ完璧なヌーリスの登場でほとんど叶えられたかに思えます。おまけにこのルイーズは、家事全般にその能力を如何なく発揮して、若夫婦のアパルトマンの不備・不具合を改善し、無駄を節約し、完璧に清潔で整理された居住空間を作り出し、さらにミリアムになど到底出来ない料理を子供たちと若夫婦に用意します。ヌーリスに求められることの10倍ものことをルイーズはやってのけるのです。 若夫婦はこれを友人たちに自慢しまくり、自分たちの幸運を見せびらかし、人を呼んでルイーズの絶品の料理を賞味させます。これは若夫婦のサクセスストーリーなのです。思う存分仕事をして、家庭は円満で、子供たちは幸福に成長している。
 この幸福をもたらした張本人はルイーズなのです。子供たちはすでに「第二の母」としてルイーズに対する愛情と依存度を深めていきます。ともするとミリアムよりもずっと深い関係になっている部分ができてきます。どんどん家庭に深入りしてきます。ある種この共同体は4人で成立している、という深みにまで入り込みます。そしてこの深い関係に対して最初は全面的に好意的だった若夫婦は、ルイーズを夏のヴァカンスにまで招待して「家族同様」の関係を築こうとします。その行き先のギリシャで、ルイーズは自分の弱点(水が怖いこと、泳げないこと)などを露呈してしまいますが、個人的に自分が味わったことのない美しい時間を体験し、彼女にとっては「ひとクラス上の」幸せを感じてしまうのです。
 若夫婦が故意に感知しようとしないことですが、ルイーズには暗い過去があり、それを引きずった現在があります。暴力的で実生活で失敗して多額の借金を残して死んだ夫、その家庭にいる未来を絶望して家出した娘、今でも夫の借金の返済に追われながら、家賃の滞りにパリ郊外の住処を今にも追い出されそうになっている毎日があります。
 ルイーズはこの若夫婦の家庭で働くことで得ているつかの間の幸せがあります。だから時間のことなどとやかく言わず、たとえポールとミリアムの帰宅が仕事の都合で遅くなっても、24時間常にリカバリーができるスーパー・ヌーリスとして奉仕ができるのです。ルイーズはそういうアプローチをするのです。できるならこの幸せを延長したい、と。
 しかしほぼ「第二の母」ほぼ「家族の一員」ということが越えられない一線というのが厳然と存在します。それはポールとミリアムがルイーズに対して最初の前提として固辞している「雇用者と被雇用者の関係」なのです。若く未成熟なこの夫婦はこの関係はあくまでも雇用関係の内部でのみ成り立っていると思っている。つまりたとえどんな完璧で天使のようなヌーリスであっても、それは主従関係のルールの下にあるものと思っている。だからいつまでたっても、若夫婦とルイーズの関係はフェアーなものではなく、上下関係なのです。これはルイーズには何かしら諦めのつかないものであるのです。
 さらに複雑なのは子供たちの態度です。次第に子供たちは多忙で不在がちなミリアムよりもルイーズの方に親近感を抱いていき、その懐き方はミリアムへのそれを上回っていく。ここでミリアムとルイーズの間に確執が生まれていきます。
 ポールも次第にルイーズの育児の仕方が自分の思っている方向とは違うと感じ始めます。ある日、ミラのわがままでルイーズの手持ちの安い化粧品の全てを使って、ミラが自分の顔にケバい化粧としてしまいます。私はこれは幼い女の子だったら本当に大好きなことだということを経験として知っています。それを見てしまったポールは逆上して、下品で下劣で娼婦まがいの顔になったわが娘を力づくで洗面させ、わが娘をここまで貶めたルイーズを徹底的に糾弾します。
 結局若夫婦にとっては、ルイーズは「使用人」でしかない。たとえどんなに恩寵のような瞬間が4人の間にあっても、ルイーズは金で雇われた人間の域を出ないのです。過度にエゴイストというわけではない、一生懸命に生きているミリアムとポールの姿はあれど、読む者はこの若夫婦の未成熟に苛立つはずです。それはある種恵まれた環境の中で生きるということが、子供の教育に関しても非現実的で、自分の仕事を優先させることが今日的で、自分たちが子供たちの前に不在であるということの重いデメリットがわかっていない。そして「使用人」は差し替え可能という思い上がりすらある。ルイーズとの関係がダメになったら、次を探せばいい、という思いあがり。
 小説はこの人間同士の全くフェアーでない関係を浮き彫りにします。ほとんどマゾヒスティックと言っていいルイーズの努力は報われず、ルイーズの小さな夢は水泡に帰します。その中間にアダンとミラという幼児たちがいて、この二人は絵に描いたような良い子ではなく、凶暴で残酷な一面があります。これをポールとミリアムはほとんど知らない。ルイーズは言うことを聞かないミラに血がにじむほど腕を噛まれるのですが、それを若夫婦には言いません。ルイーズはルイーズでこの子らに関しては若夫婦の知らないたくさんの秘密を知っているし、それを言わないけれどその点でルイーズの方が優位にあるという自尊心もあります。
 なぜ凶行に至ったのかは、読み進むにつれて不思議のないことに了解されていきます。若夫婦、幼児二人、ルイーズからの視点だけでなく、この関係に関与した複数の人々の視点を差し込みながら、小説は立体的にこの事件の深刻さを明確にしていきます。私が最もこの小説で考えるのは、何ゆえにこれほど人と人の関係はフェアーでないのかということです。「第二の母」「家族同然」と言われながら、越えられない主従関係。人を見れば、最初に自分より上か下かを読み取ろうとする態度。入り込もうとしても予め拒否されている社会構造。その進行につれて、ルイーズは怪物化していくのです。この怪物は読む者にとって少しも不可解ではないのです。この三面記事ネタからここまでの拡がりを持った今日的人間ドラマに展開できた文学力、私はそれに敬服しますし、ゴンクール賞の名にふさわしい傑作だと思います。

Leïla Slimami "Chanson Douce"
Gallimard 刊 2016年8月、 230ページ、18ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)自作『やさしい歌』を紹介するレイラ・スリマニ。



 


 

2016年11月21日月曜日

今朝のフランス語:エリミネ

Eliminé
エリミネ

1.(無用・有害な要素として)削除された、排除された。(受験者・選手・チームなどが)ふるい落とされた、不合格となった、外された。
2. 《数》(未知数などが)消去された。
3. 《生理》(老廃物、毒物などが)排出(排泄)された。

 本語的な語感ですよね。「エリミネ」さんという苗字の人いますでしょうし。フランス語には結構ありますよね、どこか日本的な響きの言葉、「マカベ」とか「オノレ」とか「イヌイ」とか。

 時は2016年11月20日(日曜日)、パリ圏地方は雨と曇りの典型的晩秋・初冬の空模様、わが町ブーローニュでは第20回目になる11月恒例のセミ・マラソン(21,1キロ)大会が開かれ、わが家の前のセーヌ脇道路も車両がエリミネされて、8000人ものローカル・マラソニアンたちが雨に打たれながら走っていたのでした。その日、フランス全国のトップニュースとしては、2017年フランス大統領選挙の保守・中道派からの統一候補を選ぶ保守中道有権者による予備選挙市民投票の第一回投票が行われたのでした。立候補者数は7人。保守最大政党にして第一野党であるLR(レ・レピュブリカン。日本では「共和党」と訳されている)から6人:アラン・ジュペ(1995〜97年首相、現ボルドー市長)、ニコラ・サルコジ(2007〜12年大統領)、フランソワ・フィヨン(2007〜12年首相)、ジャン=フランソワ・コペ(LRの前身UMP党党首2012〜14年)、ナタリー・コシュルコ・モリゼ(2007〜12年環境大臣)、ブルーノ・ル・メール(2009〜12年農相)。そして非LRの保守政党でPCD(キリスト教民主党)の党首であるジャン=フレデリック・ポワソンが立候補して、計7人の候補者で争われました。9月からの選挙戦は、3回のテレビ公開討論会を含む全国選挙レベルの展開でしたが、序盤中盤は圧倒的にアラン・ジュペ優勢と見られ、それをサルコジが追う形で、この選挙はジュペ/サルコジが2強と思われていました。
 この予備選挙は2回の投票。まず11月20日が第一回投票で 7人の候補者から上位2人を選出し、下位5人をエリミネします。そして1週間後の11月27日が決選投票で、勝者が見事保守・中道統一の大統領候補となり、敗者ジュペはエリミネされます(と断言したら、ジュペ派から天誅を喰らうかもしれません)。
 11月20日、この雨混じり曇天の日曜日、驚いたことにこの予備選挙に保守系有権者たちは大挙して投票所に向かい、予想をはるかに上回る430万人が票を投じたと言われています。その数日前からメディアは様々なアンケート調査機関の数字を上げて、ジュペ急落、フランソワ・フィヨン猛追と声高に報道していたのですが、「アンケートなんてね、けっ!」という市民感情があるじゃないですか、当地でもトランプ当選の後遺症は大きいのですよ。後遺症だけでなく、不可能が可能になるというモチヴェーションを名も無き投票者たちに与えたのかもしれません。
 11月20日、フランス全土の予備選挙投票所は19時に門を閉ざし、20時半すぎには開票速報が出始めると言われていました。
その夜、 私たちはパリ18区ピガール地区にあるトリアノン劇場にいて、フランスの代表的な独立レーベル『サラヴァ』の50周年を祝うコンサートを着席して鑑賞しておりました。年齢層も高く、長年のピエール・バルーのファンたちの集まりという感じで、一階席と2階バルコニー席までほぼ埋まってました。ピエールさんの「サンバ・サラヴァ」で20時に始まったコンサートは、娘マイア・バルー、ダニエル・ミル、アルチュール・H、ジャンヌ・シェラル、アルバン・ド・ラ・シモーム、バスチアン・ラルマン、ドミニク・クラヴィック、クレール・エルジエールなども出演して、派手ではないけれど丁寧なオマージュでピエールさんをもり立てていた、暖かい50周年イヴェントでした。
 ところがそういう心温まるコンサートにあっても、不逞の輩たちはいるんですね。演奏の最中にもスマホを開けて、予備選挙の開票速報を追っていた人たち、少なくなかったんじゃないかな。21時近くになって、私たちの座っていた一階席の後方から、小声で「サルコジ、エリミネ!」のささやき。それがどんどん伝わってしまう。あちこちでささやき声「サルコジ、エリミネ!」「サルコジ、エリミネ!」「サルコジ、エリミネ!」「サルコジ、エリミネ!」...。
 21時すぎに幕間休憩があり、みんなホールに出て、たくさんの人たちがスマホ開いてカチャカチャやっている。私もすぐさまスマホを開いて開票速報:フィヨン 42%、ジュペ 28%、サルコジ 20%の数字。わお、サルコジ、エリミネ確実ではないですか! ー その後のコンサート第二部はそれとなく会場全体の気分が上々になった感じ。わかりますとも。これで少なくとも2017年5月の大統領選挙・決選投票で「ニコラ・サルコジ vs マリーヌ・ル・ペン」という悪夢の二者択一の可能性は消えたわけですから。

 冒頭に訳語挙げておきましたが、エリミネは強烈な言葉です。不要なもの、有毒なものを除去・排除するというだけでなく、マフィアが邪魔者や裏切り者を消すときも使いますし、スターリン時代のソ連KGBが反革命分子を粛清するときも éliminer という動詞を使っていたのです。私がこの言葉をちゃんと記憶したのは1980年代のヴィッテル(ミネラルウォーター)のテレビCM(↓)だったと思います。

スローガンは「Buvez, Eliminez」つまりヴィッテルを飲んで、エリミネしようという意味になると思いますが、この場合は体内の水分の不純な部分をヴィッテルを飲むことによって浄化して、悪いものはオシッコとしてエリミネしましょう、というメッセージです。オシッコとして流される、これもエリミネ。

 私なりのコメントはほとんどありません。この予備選挙にも大きな興味を持って傍観していたわけではありません。伝統的保守政党の器はどれも似たようなものという先入観があります。ジュペ、フィヨン、サルコジを分つものは何かと探すのも徒労だと思います。似たものですし、2007年から12年までサルコジは大統領でしたし、フィヨンは首相でした。私はフランスに来てからジスカール・デスタン、ミッテラン、シラク、サルコジ、オランドという各大統領の政治を経験してきました。2007年から12年までどれほど暗く、フランスに不信を抱いていたか、私の個人的記憶ははっきりしています。12年の大統領選挙前、この選挙に敗れたら正解を引退するか、というBFMTV(ジャン=ジャック・ブールダン)という問いに、サルコジは三度「ウィ」と答えました(↓)。


 2014年サルコジは復帰し、いとも簡単にUMP党党首となり、自分の思い通りに党名をLRと変え、この(初めての)「保守・中道統一候補予備選挙」を開催すると決めました。次期大統領の座を奪取・奪還するためです。2015年、2016年、その勢いは伸びず、このカムバックは極右の票を奪い返すことでしか成功しないというはっきりとした教権的・排外的政策を打ち出すところが、フィヨン、ジュペとの違いでしたでしょうか。
 昨夜、開票されるまで、次週は「ジュベ vs サルコジ決戦」だと思っていたでしょうか。3位になってエリミネされたサルコジは、二度目の政界引退を余儀なくされました。11月20日、22時頃、アイム・ア・ルーザー演説(↓)



(↓)その36秒目からこんなこと言ってます。
Il est donc temps maintenant pour moi
D'aborder une vie avec plus de passions privées
moins de passions publiques

今こそ、私には
公的な情熱(政治)を減らし
より個人的な情熱に満ちた生活に向かうべき時がやってきたのです。

これは引退宣言でしょうけど、passions publiques を減らすけれども無くすとは言っていませんからね。エリミネされても、エリミネされても、数年後に帰ってきますよ。まだ62歳ですから。

 

2016年10月28日金曜日

ソングライターなんて皆おなじ

ヴァンサン・ドレルム『今この瞬間』
Vincent Delerm "A présent"

 5曲め "Les chanteurs sont tous les mêmes" (歌手なんてみんな同じようなもの)
詞曲:ヴァンサン・ドレルム
歌:ヴァンサン・ドレルム&バンジャマン・ビオレー

また夜のパリのこと
また去った女のこと
危機の状態にある恋のこと
歌手なんてみんな同じようなもの

またあのソングライターか
よく髪型を変え、よく涙を流す
セーヌに身投げするような

またきみか、同じ上着で
照明係やその他を引き連れて
しばらく前からきみがこのあたりを
うろつくのを見ているが
きみの芸は退屈だ
いつも同じ老ぼれジョーの歌だ
僕がきみのことを見ていなかったとでも思っているのか
僕がきみのことを見ていないとでも

また雨のパリのこと
午後の恋のこと
ヴェルレーヌ流の強いアルコール

またきみのコンサートか
ブーローニュ・シュル・メールの体育館
しばらく前からきみがこのあたりを
うろつくのを見ているが
きみの芸は退屈だ
いつも同じ老ぼれジョーの歌だ
僕がきみのことを見ていなかったとでも思っているのか
僕がきみのことを見ていないとでも

またきみか、同じ上着で
照明係やその他を引き連れて
しばらく前からきみがこのあたりを
うろつくのを見ているが
きみの芸は退屈だ
いつも同じ老ぼれジョーの歌だ
僕がきみのことを見ていなかったとでも思っているのか
僕がきみのことを見ていないとでも

また夜のパリのこと
ネオンとタクシー
また青白い夜明けのこと
歌手なんてみんな同じようなもの

人生の黄昏まで
僕は歌い続けるさ 僕の恋人よ
それが何か問題なのかい?


11曲め "Le Garçon"
詞曲:ヴァンサン・ドレルム
雪降るボーモンで、7月の浜辺で、あなたたちを愛していた子、それが僕。
いとこのトマがカウボーイに扮してるこの仮装写真に写っている子、それが僕。
あなたたちのことを愛していた子、変わってしまったね、ごめんなさい、でも今でも僕のことがわかるかい?
色あせたスーツを着て、中身も色あせてしまった子、それが僕。
2月のルーアンで、21人のチケット購入者のためにバルバラを歌うコンサートを開きたかった子、それが僕。
ある晩第3階段教室で、とても昔のある夜、そこに残っていた学生、それが僕。
希望を持っていた子、変わってしまったね、ごめんなさい、でも今でも僕のことがわかるかい?
20時に楽屋に入る子、それが僕、でも中身は変わっていない。

移動遊園地に近づくと耳が赤くなってしまう子、それが僕。
バレエ教室でたったひとりの男だった子、それが僕。
車に乗ると道順案内をしなければならなかった子、それが僕。
「スターウォーズ」を見なかった子、それが僕。
ブルーノ・マリーローズにサインをねだった子、それが僕。
コールドウェイヴのバンドの一員だった子、それが僕。
ヴァンサン・シュミットと友だちだった子、それが僕。
一人の幼友だちを亡くした子、それが僕。
パリに移り住んだ子、それが僕。
地下鉄駅で言うとアレジア、バルベス、ポワソニエール、ベルヴィルで暮らしていた子、それが僕。
夜中にディアコネス病院(12区)のバルコニーにいた子、それが僕。
12区の区役所で新生児誕生を届け出た子、それが僕。
12区の区役所でもうひとり新生児誕生を届け出た子、それが僕。
雪降るボーモンであなたたちを愛していた子、それが僕。

<<< トラックリスト >>>
1. LA VIE DEVANT SOI
2. DANS LE DECOR
3. JE NE VEUX PAS MOURIR CE SOIR
4. DANSER SUR LA TABLE
5. LES CHANTEURS SONT TOUS LES MEMES
6. LA DERNIERE FOIS QUE JE T'AI VU
7. UN ETE
8. CRISTINA
9. ETES-VOUS HEUREUX
10. A PRESENT
11. LE GARCON

VINCENT DELERM "A PRESENT"
CD TOT OU TARD 3340102
フランスでのリリース: 2016年10月7日

2016年10月20日木曜日

Yes Oui Can

V/A "Les Artistes Français chantent en Anglais - The French Artists sing in English"
V/A 『英語で歌うフレンチアーチストたち』

 ルシアル・マルチネーのMAGIC RECORDSの2016年9月新譜です。この会社も私の会社同様2000年代に何度か倒産を噂され、その「閉業在庫処分セール」を手伝ったこともあります。奥さんと娘さんと3人企業としてしぶとく残っているところは、私の会社と全く同じで、たまに電話で話すたびに、お互いの連帯・友情を確かめ合う、そんな仲でコラボレーションを続けております。コレクターの琴線をくすぐる60-70年代盤の復刻で大変評価の高い仕事をしているレコード会社ですが、オリジナル盤の復刻よりも、そのサービス精神のためかたくさんのものを詰め込む編集盤が多く、その辺がオリジナル盤を求めるコレクターの欲求とソリが合わなかったり。そして、残念なのは解説や資料が乏しいのです。今日び、インターネットで検索すれば、多くのことは知ることはできますけど、ライナーノーツに解説やデータがあれば、どれだけ助かるか、と思うことしばしばです。マルチネー自身が稀代のコレクターなので、 あまり手の内をバラしたくないのかもしれません。
 この編集盤も、おそらく全曲マルチネーのシングル盤(あるいはLP)コレクションからの選曲だと思います。25曲トータルランタイム78分。なんという気前良さ。2枚に分けて、vol 1, vol.2 として、倍の売上を狙ったっていいところだと思いますよ。太っ腹のCD1枚もので登場。しかし解説が皆無。
 要は60年代から70年代前半にかけて、歌詞を英語で録音したレコードを出したフランスのアーチストたちの珍盤の数々というわけです。かつてはフランスは英語を話すのが不得意な国の代表みたいに言われていましたし、隣国ドイツやオランダや北欧が英語バイリンガルが一般的になった時代にも、パリのような大都市でも英語がほとんど通じなかった。この60-70年代ももちろんそんな時期で、英米アーチストならともかく、フランス人が英語で歌ったら、ひっこめバカヤローと言われてもしかたなかったでしょう。
 英語で歌う理由は多々あったでしょう。フランソワーズ・アルディやサッシャ・ディステルのようにイギリスで人気の出た歌手たちは当然英語を要求されたでしょう。1957年に始まったユーロヴィジョン・ソングコンテストは、欧州各国の大衆歌謡曲を加速度的にショービジネス化して、歌の市場の国境を取り去り、国際ヒットという可能性をもたらしました。あの頃はまだフランス語で国際ヒットというのは可能でしたし、ベコー、アズナヴールといった大シャンソン歌手たちは世界中にファンを持っていましたが、次世代はシャンソンの未来というのはあまり考えられなかったようで、英語というのは「世界」という可能性を与える言語だったのです。そして時を同じくしてやってきた「ロック革命」というのがありまして、若い世代を熱狂させたこの音楽は、やっぱり「英語で歌われてこそ」と思われたのです。日本70年代に「日本語によるロックは可能か」と論争されたように、フランスでも同じようなことがあり、フランス語は全然ロックに乗らない、と否定的なことを言う人たちが多かった。ロックだけでなく、ブルース、R&Bなどから音楽を始めた若い人たちも「フランス語で」などと考えもせず、英語の方が本物なのだから、という感覚。
 そんな時期のフランス人アーチストたちなのです。ここに収められた25曲で、真に世界的ヒットで、今日もナツメロFMの定番となっている曲はたったひとつ、ジルベール・モンタニエの「ザ・フール」(1971年。この年モンタニエ19歳)だけです。
 モロッコ出身のR&B歌手ヴィゴン(フランス人ではないんですけど、まあいいじゃないですか)の「ハーレム・シャッフル」(1967年)もザ・ローリング・ストーンズがカヴァーしたということで時々ナツメロTVラジオに登場しますが、これはヴィゴンがオリジナルヒットというわけではない。
 イエイエの大物たるジョニー・アリディ、リシャール・アントニー、ディック・リヴァース(レ・シャ・ソヴァージュ)も意外な側面と言えないことないけれど、国際色よりもローカル色が出ますね。
 大物で大変驚いたのはクリストフで、ジョルジュ・ロートネール監督の『サリナへの道(ROAD TO SALINA)』(1970年仏伊合作サイケデリック・ミステリー映画。主演にあの『モア』 のミムジー・ファーマー)の映画音楽を担当し、その主題歌「サリナから来た女(The Girl from Salina)」は抒情サイケ・プログレど真ん中の迫力です。
 映画音楽ものではレイモン・クノーの同名小説を映画化した "ON EST TOUJOURS TROP BON AVEC LES FEMMES"(1971年、ミッシェル・ボワロン監督 = 日本ではナタリー・ドロン&ルノー・ヴェルレー主演『個人教授』でことさら有名) の音楽で、クロード・ボーリング作 "A LITTLE PEACE OF MINDE"(歌:Trianglophone)という、カントリー調のサントラ大御所芸の作品も。
 しかし、この編集盤の宝ものは、やはりポップ・ロック系の隠された佳曲の数々で、うれしい発見多々あり。後年映画音楽(特に『37,2 ベティー・ブルー』)で名を成すガブリエル・ヤレドと、後年(スタジオセッション)コーラスデュオとして名を成すコスタ兄弟(ジョルジュ・コスタ&ミッシェル・コスタ)の3人組 COSTA YARED COSTA(1973年)とか。それから後年バシュングの作詞家で名を成すボリス・ベルグマンが、ギリシャのアフロディーテズ・チャイルド(デミス・ルソス&ヴァンゲリス・パパタナシュー)「レイン・アンド・ティアーズ」(1968年) に続く国際ヒットを目指して書いた、(フランス人スタジオミュージシャンの即成バンド)ジュピター・サンセットの "BACK IN THE SUN"(1970年)。フェージングのかけ方があの時代を思わせますよね(バルバラ「黒いワシ」も1970年)。同じくボリス・ベルグマンが、同じようにスタジオミュージシャンかき集めの即成バンドで、当時人気のあったアンデス民謡(コンドルは飛んで行く...)にインスパイアされた曲調で(午後の数時間で)録音したシングルがタイム・マシーン「ターン・バック・タイム」(1971年)。こういうスタジオでバンドでっち上げてシングルヒットを狙うというパターン、よくありましたね。
 北フランス、リール出身のバンドで、当ブログで2009年6月に大きく紹介したアナーキック・システムもこの盤で取り上げられてます:「ロイヤル・サマー」(1973年)
 カヴァーものでは、ビートルズの「エリノア・リグビー」を1971年に CSN風コーラスワークとプログレ・ギターでやっているイルース&ドキュイペというデュオ(Bernard Ilous & Patrice Decuyper)。


 それでもやっぱりイギリス人にはかなわない、と思わせるのが、60年代からシルヴィー・バルタンやジョニー・アリディのライター/コンポーザー/アレンジャー/バンドマンとして活躍していたイギリス人二人、ミッキー&トミー(ミッキー・ジョーンズ&トミー・ブラウン)の手になる曲で、ここでは「フランスのブライアン・ジョーンズ」ロニー・バードが歌っています:「サッド・ソウル」(1969年)。



 と、まあ、いろいろと発見のある盛り沢山の1枚。マルシアル・マルチネーに最敬礼。

<<< トラックリスト >>>
1. JOHNNY HALLYDAY "SHAKE THE HAND OF A FOOL" (1962)
2. JOEL DAYDE "DO IT NOW" (1972)
3. GILBERT MONTAGNE "THE FOOL"(1971)
4. JUPITER SUNSET "BACK IN THE SUN" (1970)
5. HECTOR & LES MEDIATORS "WHOLE LOTTA SHAKING GOIN' ON"(1963)
6. VIGON "HARLEM SHUFFLE" (1967)
7. ALAN JACK CIVILISATION "SHAME ON YOU" (1969)
8. LES 5 GENTLEMEN "DAYTIME" (1968)
9. CENTURY "WHY (DID YOU TAKE SO LONG)" (1970)
10. LES VARIATIONS "COME ALONG" (1968)
11. TRIANGLE "BLOW YOUR COOL" (1970)
12. RICHARD ANTHONY "PERSONALITY" (1959)
13. COSTA YARED COSTA "GOT ME" (1973)
14. DOC DAIL "SAD HAROLD" (1969)
15. TRIANGLOPHONE "A LITTLE PEACE OF MIND" (1975)
16. ZOO "HARD TIMES GOOD TIMES" (1971)
17. MORRIGANN "MY LADY NEVER SAID GOOEBYE" (1972)
18. CHRISTOPHE "THE GIRL FROM SALINA" (1971)
19. HOLLY GUNS "CRAZY WEEK" (1969)
20. CLASSICAL M "SUCH A LOVELT VOICE" (1970)
21. ANARCHIC SYSTEM "ROYAL SUMMER" (1973)
22. RONNIE BIRD "SAD SOUL" (1969)
23. ILOUS & DECUYPER "ELEANOR RIGBY" (1971)
24, LES CHATS SAUVAGES "I'M A PRETENDER" (1962)
25. TIME MACHINE "TURN BACK TIME" (1972)

V/A "LES ARTISTES FRANCAIS CHANTENT EN ANGLAIS"
CD MAGIC RECORDS 3931014
フランスでのリリース : 2016年9月 



PS : これなんかも本当に大好き。ZOO "HARD TIMES GOOD TIMES" (1971)





2016年9月30日金曜日

捨てましょう 捨てましょう

ラリー・グレコ「指輪を捨てろ」(1965)
Larry Greco "Jette-la"

リー・グレコは本名をクロード・ドガリエと言い、1941年スイスのベルンに生まれました。父親の楽団でベーシストとしてデビューしたのち、1961年にダチのジャン=ジャック・エリーとローザンヌでロックバンド「レ・ムスクテール」を結成し、62年にバンドはパリに上って活動し、それに注目したのがシルヴィー・ヴァルタンと兄のエディー・ヴァルタンで、レ・ムスクテールはシルヴィーと共にツアーするようになります。63年、ラリー・グレコ(&レ・ムスクテール)初シングル&初ヒットが「マリー・リザ」。好調にヒットを出し、シルヴィーやジョニー・アリディなどにも曲を提供する活躍ぶりで、65年にはなんとザ・ローリング・ストーンズの前座でオランピア劇場に出演します。スイス産ワイルド・ロックンローラーがその65年に発表した、おそらくラリーの最大のヒット曲がこの「指輪を捨てろ Jette-la」で、エディー・ヴァルタン楽団がなかなかいいバッキングの断腸ロックです。
 その後60年代末ぐらいまでは、まだスターだったようですが、ヒットも止まり、75年には芸能界を退き、故国スイスでスキーインストラクターになり、さらにフランスの地方でレストランを開業したり...。2006年にカムバック、2010年にベストCD、そして2015年11月、人知れず74歳でこの世を去っています。
 この断腸の結婚破棄ロカバラード「指輪を捨てろ」ですが、歌詞訳してわかったのは、「おまえ」と二人称で語りかけてるのは自分なんですね。振られた自分を自分で説得してるんです。本当に悲しいです。

教会の前に、朝早くから、おまえは立ち尽くしている
おまえは結婚するはずだった
だけど彼女は来なかった
あの女はおまえをコケにしたのさ
だから、指輪を抜いて、捨てちまいな

手のひらの中に指輪握りしめて
おまえはまだ大丈夫だと思ってるのか
おまえは本当にお利口さんで

おまえは本当におめでたいな
ひとりの女に振られたって
そんなもの何でもないんだ
どうってことないんだ

結婚なんておまえ向きじゃない
おまえには向いてないんだ
おまえとは縁がないんだ
わかるか?
だからおまえは何も後悔することなんかないんだ
俺を信じろ
おまえは
指輪をはめて
首に縄をかけて
もう後に引けないと思ってるんだろう
おまえはそんなこと思ってるのか
一体何を考えてるんだ?
おい答えろよ
おまえしっかりしろ
おまえってやつは、おおおお!

冗談じゃないぜ、冗談はよせよ
シャレにならないぜ
ノンノンノンノン...
いつかこんなことみんな笑い飛ばせるんだ
いつか笑い話になっちまうって
だからおまえの悲しみなんか置いていけ
ここにおまえの悲しみを放っておくんだ
いいか、そうしろ
だがその前に、この結婚指輪を捨てるんだ
捨てろ、そうさ、捨てろ、
捨てるんだ
 ("Jette-la"  詞:ジル・チボー/曲:ラリー・グレコ)

(↓ LARRY GRECO "JETTE-LA" 1965年)

2016年9月25日日曜日

まれ!異例のレイ・レマ

レイ・レマ&ローラン・ド・ヴィルド『リドルズ』
Ray Lema & Laurent De Wilde "Riddles"

 レイ・レマ(コンゴ出身のマルチインストルメンタリスト。今回はピアノ専業)とローラン・ド・ヴィルド(ワシントン生れのニューヨーク派仏ジャズ・ピアニスト)のピアノ二重奏アルバム "RIDDLES(謎)"。
 準備期間6ヶ月、リハーサル1ヶ月。だからある日偶然にスタジオに居合わせて作ったアルバムとはまるで違う。全く違う道のりを歩んできた(放浪してきたと言うべきか)二人の音楽家が、(レイの言葉では)「その道が実はひとつだったような」ところまで歩み寄る。(ローランの言葉では)「ひとりのピアニストというのは全部がひとりでできる世界の王者だ。それが目の前にもうひとりの世界の王者が現れて対話する時には、良質の謙虚さが要求される」。腕の競い合いではない。ひとつのメロディーを二人で違う方法で愛でていくような。全体的な印象としてはレイのアフリカ的なるものが、ローランの包み込みで輝きや色彩が増していく感じ。ジャズ的けれんみを排除し、音符数を減らし、二人が相手の次の呼吸を読み合えるまでに近づいていく。バラフォンのような音を出すローランのピアノ(3曲め "Fantani")は鮮やかなアフリカへのオマージュ。ブルース、マンダング、タンゴ、ラグタイム、ジャマイカン... 二人の呼吸が合ったらあれもできる、これもできる、という茶目っ気混じりのオリジナル曲(ほとんどレマ/ド・ヴィルドの共作)は、優美さが際立っている。録音の数日前に知ったプリンスの死を悼んで、録音演目に入れた「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ナ・デイ」(10曲め)。2016年に聞いた最も美しいアルバムの1枚。
<<< トラックリスト >>>
1. INTRO (Lema/De Wilde)
2. COOKIES (Lema/De Wilde)
3. FANTANI  (Lema/De Wilde)
4. RIDDLES (Lema/De Wilde)
5. CONGO RAG  (Lema/De Wilde)
6. TOO MANY KEYS (Lema/De Wilde)
7. THE WIZARD  (Lema/De Wilde)
8. LIANE ET BANIAN (De Wilde)
9. MATONGUE (Lema)
10. AROUND THE WORLD IN A DAY (Prince/John L Nelson/David Coleman)
11. FANTANI - Radio Edit
(Lema/De Wilde)
RAY LEMA & LAURENT DE WILDE "RIDDLES"
CD GAZEBO GAZ127
フランスでのリリース:2016年10月21日
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)メーキング・オブ
 
 
 

2016年9月15日木曜日

やせガエル、負けるな

Gaël Faye "Pili Pili Sur Un Croissant Au Beurre"
ガエル・ファイユ『唐辛子の乗ったクロワッサン』

 2016年秋、ガエル・ファイユの初小説『プティ・ペイ(小さな国)』(グラッセ刊, 2016年8月)は大変な話題となっていて、FNAC小説賞を受賞したあと、フランスの権威ある文学賞であるゴンクール賞とメディシス賞の候補に選ばれ、ベストセラーを続行中。この小説についてはOVNI2016年9月15日号の「しょっぱい音符」で紹介したので、詳細はそちらにゆずるが、ガエル・ファイユの自伝的なフィクションで、ルアンダ人の母とフランス人の父の間にブルンディで生まれた主人公ガブリエルの幸福な少年時代が、90年代に始まる政変、クーデター、大統領暗殺、フツ族とツチ族の民族紛争から大虐殺へと進展していく歴史に巻き込まれていく10歳から13歳の日々が描かれている。素晴らしいテンポ、小気味良く出て来るアフリカ的ボキャブラリーと言い回し、少年のナイーヴさと大地の子供のしたたかさ、平和から大惨劇までを当事者として見つめる観察眼.... 大変な小説の登場だと思った。
 この当年34歳の作者は、音楽アーチストとして2008年から活動していて、 ラップ、スラム、ヒップホップのシーンではかなり知られている(ということを私は知らなかった)。カメルーン系フランス人のエドガール・セクロカ(aka シュガ)とのデュオ「ミルク・コーヒー・アンド・シュガー」を経て、2013年にガエルがソロアーチストとして発表したアルバムがこの "PILI PILI SUR UN CROISSANT AU BEURRE"。メジャーの仏ユニヴァーサル傘下のモータウン・フランスから。このレーベルはかのベン・ロンクル・ソウルが稼ぎ頭で、ガエルのこのデビュー・アルバムにもベン・ロンクル・ソウルがゲスト参加している。
 さてかく言う私はあの小説を読んだあとで、このガエルのアルバムを3年遅れで発見したというわけなのだ。アルバムの12曲めに未来の小説と同じ題の「プティ・ペイ」というトラックがあるように、このアルバムもまたこの青年の私小説的に、アフリカ、混血、ブジュンブラ(ガエルが生まれ育ったブルンディの首都)、99%の得票率で選ばれる大統領...など小説『プティ・ペイ』に現れる原風景があちらこちらに。冒頭の「A-France(アフランス)」(アフリカとフランスの結造語)から、タンガニーカ湖で一緒に遊んだ悪ガキ仲間の思い出がどれだけ恋しいかを歌うのだが、アフリカとフランスに身を裂かれてしまっていることを死ぬほどの苦しみと言う。フランスの血とアフリカの血の融合によって本来ならば溶け合ったもののはずなのに、この混血は「分離」していると歌う10曲め「メティス」。
 J'ai le cul entre deux chaises, j'ai décidé de m'asseoir par terre.
  僕の尻は二つの椅子の間にあるんだが、僕は地べたに座ることに決めた
              ("Métis")
このようなテーマは同じような混血だが、ルアンダ人(父)とベルギー人(母)の間に生まれたベルギーのスーパースター、ストロマエにも繰り返し現れるものである。ガエルとストロマエに共通する「引き裂かれ」の事件は、ルアンダとブルンディでの大虐殺であるが、ストロマエの場合はその父がその事件で死に、少年ガエルは自身がそれを実体験した。この二人はこの後も歌や小説でそれを語り続けるだろう。
 詞の世界もさることながら、サウンド構成や曲作りもかなり手が混んでいて、その仕掛人はギヨーム・ポンスレという作編曲家プロデューサー/キーボディスト/トランぺッターである。1978年グルノーブル生れのポンスレは、ミュージシャンとしてはもっぱらジャズの世界にいた人で、2011年までONJ(オルケストル・ナシオナル・ド・ジャズ)の一員だった。こちら側の世界ではMCソラールやミッシェル・ジョナスなどと仕事してきた人だが、ガエル・ファイユとはミルク・コーヒー&シュガー以来作編曲プロデュースでペアを組んでいる。ポンスレはこのガエルの初ソロアルバムのために、28人のミュージシャンを集め、録音はパリとブジュンブラ(ブルンディ)で行われている。大きなプロジェクトだったのだ。ブルンディの演劇/映画人/ミュージシャンのフランシス・ムイレ(「プティ・ペイ」)、セネガルのジュリア・サール(「スローオペレーション」)、アンゴラのボンガ・クエンダ(「大統領」)、南アフリカ・ジョハネスバーグのヒップホップバンド、トゥミ&ザ・ヴォリューム(「ブレンド」)、RDC(キンシャサ・コンゴ)のピチェンス・カンビロ(「アフランス」)、フランス人シンガーソングライター/フランソワ・グロワンスキから(偽)セネガル人ミュージシャンに転身したウースマン・ダネジョ(「メティス」)、 そしてフランス随一のソウルマン、ベン・ロンクル・ソウル(「イシンビ」)といった人たちがドンピシャの場所にいてガエルをサポートしている。
 あの本の後なので、私の興味は真っ先に12曲め「プティ・ペイ」に向かうわけだが、「小さな国、おまえは押しつぶされてしまったが死ななかった。おまえは苦しんだがその苦しみはおまえを倒すことはなかった」と満身創痍でも立ち続けた小国ブルンディをいとおしむ。自分自身も引き裂かれたままなのに。勇気ある大作アルバム。もっともっと知られるべき1枚。小説が引き金になったとは言え、こうやって3年後にアルバムを手にする人たちは少なくないはず。

カストール爺の採点:★★★★☆

<<< トラックリスト >>>
1. A-France (feat PYTSHENS KAMBILO)
2. Je Pars
3. Ma Femme
4. Slow Operation (feat JULIA SARR)
5. QWERTY
6. Blend (feat TUMI)
7. Charivari
8. Fils Du Hip Hop
9. Isimbi (feat BEN L'ONCLE SOUL)
10. Métis (feat OUSMAN DANEDJO)
11. Président (feat BONGA)
12. Petit Pays (feat FRANCIS MUHIRE)
13. Bouge à Buja
14. Pili Pili Sur Un Croissant Au Beurre
15. L'ennui Des Après-Midi Sans Fin

GAEL FAYE "PILI PILI SUR UN CROISSANT AU BEURRE"
CD Mercury/Motown/6D Production 3701593
フランスでのリリース:2013年2月

(↓)ガエル・ファイユ「プティ・ペイ」


(↓)ガエル・ファイユ「メティス」

2016年8月30日火曜日

ピアノマン

Romain Didier "Dans ce piano tout noir"
ロマン・ディディエ『この真っ黒なピアノの中に』

 マン・ディディエさん(1949年生、現在67歳)には、2011年に亡くなったアラン・ルプレストの縁で、生前のルプレストのコンサート楽屋で2度会ったことがあります。酔いどれの詩人ルプレストとは1985年以来作詞作曲の盟友関係でしたが、ルプレストがパフォーマーとして激しく前面に出て行ったのに対して、ロマン・ディディエは自作自演歌手としては比較的地味なアーチストとして通っていました。ピアノのヴィルツオーゾ、編曲者として多くのシャンソン・アーチストの裏方だったような職人人生。自身の名義のアルバムは20枚以上出しているのに。そんなシャンソン人生を振り返って、「ロマン・ディディエ、ロマン・ディディエを歌う」という形式の全曲メドレーつながりのピアノ弾き語りアルバム。36曲76分。その歌の発表時期を振り返るように、ミッシェル・ルグランやジョルジュ・ブラッサンスなどのメロディーをインターリュードとして挟みながら、自分のシャンソン人生を噛み締めるように自作曲を歌い込みます。これは2015年のアヴィニョン演劇祭の時にスペクタクルとして立ち上げたロマン・ディディエ・ワンマンショーとして創作されたもの。ピアノと歌唱だけの一人世界。目の前で歌ってくれるような息づかい、指づかい。この黒いピアノの中に全てが詰まっている、というピアノマンアーチストのカタルシス。それがアルバムタイトルであり、1988年発表の「この真っ黒のピアノの中に Dans ce piano tout noir」という歌です。
この真っ黒なピアノの中には

この真っ黒なピアノの中には子供時代の霧がある
そのピンク色の霞はあなたの肌にくっついて離れない
シャン・ド・マルスの回転木馬、少し運がよければ
当たりの輪をつかみ取って、もう1回タダで乗れる
この真っ黒のピアノの中にはパリの通りがある
近所の人たちはあまりに早く通り過ぎていった
そこには1台のグランドピアノがあり、夜にはぬいぐるみがひとつ
文豪ユゴーの肖像画は、5フラン札1枚で買えた
この真っ黒なピアノの中には、古い市バスが走っている
大西部を想像して遊んだ郊外の公園がある
夏ヴァカンスはブルターニュに行き、秋にはふさぎの虫にとりつかれた
沢山の恋の悲しみがあり、いろんな名前が心に残っている

この真っ黒なピアノの中にはアナーキストの黒旗がある
海なんて一度も見たことがないサン・ミッシェルの舗石がある
金融資本のこと、(貧民救済)炊き出しスープのことなどを語りながら
映画スターのようにゴロワーズの煙を吹き出した
この真っ黒なピアノの中にはヴェトナムの傷がある
たくさんのボートが死神と出くわしている
戦争があり、流血があり、ドルと武器がある
俺がそれを売らなければ、別の人間がしてしまうのさ
この真っ黒なピアノの中には8時の定時ニュースがある
NASAが映し出す写真、サハラ砂漠の映像
サンチャゴ、ワルシャワ、どこかの不幸の岬
そこでは子供たちが別種の石蹴りで遊んでいる

この真っ黒なピアノの中には白い絹ドレスをまとった娼婦がいる
聖女の乳房はカララ大理石でできている
日曜の装いをした純朴な人たちの惨めさ
ビストロカウンターの語り手たちの長広舌
この真っ黒なピアノの中には私の生命線がある
人っ子ひとりいないカジノに続く緑の絨毯がある
飢えた猫のように待ち伏せている死神がいる
それを笑って見ていたナチ占領時代がある
この真っ黒なピアノの中に私の愛する女がいる
低音の弦と希望の音符を持った女だ
愛から生まれた子供たちが私に主題をくれる
そしてそれを今夜歌うためにすぎていく時間がある

この真っ黒なピアノの中には子供時代の霧がある
そのピンク色の霞はあなたの肌にくっついて離れない
シャン・ド・マルスの回転木馬、少し運がよければ
当たりの輪をつかみ取って、もう1回タダで乗れる

ミッシェル・ジョナス("La Famille" 4曲め)、ムールージ("Un jour tu verras"11曲め)、ジルベール・ベコー("Et maintenant" 24曲め)というロマン・ディディエと共有世界を持つ人の作品3曲を挟みながら、一挙に弾き語ってしまう36曲。多分永遠に終わりたくなさそうなシャンソン職人のとめどない歌心。止めてはいけません。

<<<トラックリスト>>>
1. DANS CE PIANO TOUT NOIR
2. MON ECHARPE GRISE
3. SA JEUNESSE
4. LA FAMILLE (Michel Jonasz)
5. L'ENFANT QUE J'ETAIS
6. MON ENFANCE
7. STASTION EMILE ZOLA
8. JLIE LA LOIRE
9. EN ETE 42 (Michel Legrand)
10. SI UN JOUR C'EST FINI
11. UN JOUR TU VERRAS (Mouloudji)
12. PETIT MATIN
13. LA CHANSON DES VIEUX AMANTS (Georges Brassens)
14. JE T'AIME EN BRAILLE
15. LES PASSANTES
16. LA DAME DE MONTPARNASSE
17. LE DOUX CHAGRIN
18. DANS MA RUE
19. J'AI NOTE
20. TU T'LAISSES ALLER
21. A QUOI CA TIEN
22. TU M'AS VOLE LA MER DU NORD
23. A DES ANNEES LUMIERE
24. ET MAINTENANT (Gilbert Bécaud)
25. IL N'AURAIT FALLU
26. L'AEROPORT DE FIUMICINO
27. PLEURE PAS
28. NE PLEURE PAS JEANNETTE - LE PONT DU NORD
29. LES COMPTINES
30. LA FILLE DU GEOLIER DE NANTES
31. EST-CE AINSI QUE LES HOMMES VIVENT
32. JE ME SOUVIENS
33. DIX PIEDS SOUS TERRE
34. INSOLENTE ET INFIDELE
35. AU BOUT DES RAILS
36. LE CLOCHER DE GREENWICH

ROMAIN DIDIER "DANS CE PIANO TOUT NOIR"
CD TACET/L'AUTRE DISTRIBUTION TCT-RD-10961606
フランスでのリリース:2016年9月23日

(↓)ロマン・ディディエ「この真っ黒なピアノの中には」




 
 

2016年8月22日月曜日

アロー、ママン、ボボ。

MHD "MHD"

MHD、本名モアメド・シラ。ギネア人の父、セネガル人の母のもとに、1994年ヴァンデ地方ラ・ロッシュ・シュル・ヨンに生まれたフランス人のラッパー。 パリ19区を地盤として、アフリカン・ポップとトラップを融合させた「アフロ・トラップ」の先駆
者のひとり。19区の仲間で結成した19 RESEAUXの中心メンバー。
 2016年4月リリースの初ソロアルバム。どうなんでしょうね? この曲 "Maman, j'ai mal"(ママン、俺は苦しい)は、この夏のヴァカンスの南下(行き)&北上(帰り)のカーステで何度も何度も聞かされましたけど。1977年アラン・スーション「アロー・ママン・ボボ」の直系のかあちゃん泣きつきソングでしょうし、スークースのサウンドをバックにしているところはとうちゃん泣きつきソング「パパウテ」(ストロマエ、2013年)的でもある。かあちゃん大切にな。

おまえが金持ちだろうが貧乏だろうが
元のところは一緒なんだ
全能の神の前では同じように報告しなければならない
俺は信仰を持ち続けよう
天使と悪魔のどちらを信じるか、俺はどちらも信じるね
ママンは俺を信頼し、俺のことを勇敢な子だと言った
ママンを問題から救い出すためだったら、俺は腕一本失ったっていい
お国の家族は毎月末俺の金をあてにしている
俺はもう指一本動かす力もないんだ

相変わらずの俺さ、何も変わっちゃいない
俺は人を傷つけたし、それを申し訳なく思っている
夜になれば気晴らしにガキどもをうちに集めて遊んだ
俺についてきたのはいつも同じ連中
俺を嫌ったのも同じ連中
俺は仲間を変えていない
物語の始まりはこんなふうに綴られたんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

家よりもひんぱんにポーチの下に集まっていた仲間も
季節ごとにその数を減らしていった
仲間は俺に言った「MHD、おまえひとりで行けよ
おまえの棺桶にまでついていくやつはひとりもいないよ」
信用は金で買われ、友情は何の価値もない
俺のママンへの愛が盲目なら、俺はレイ・チャールズさ
腕時計を片目で見れば、もう俺の潮時が近づいている
ここから立ち去る前に、俺は俺の仲間たちを踊らせたいんだ

相変わらずの俺さ、何も変わっちゃいない
俺は人を傷つけたし、それを申し訳なく思っている
夜になれば気晴らしにガキどもをうちに集めて遊んだ
俺についてきたのはいつも同じ連中
俺を嫌ったのも同じ連中
俺は仲間を変えていない
物語の始まりはこんなふうに綴られたんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

あれから時は経った
俺にはわかった、成功は決して遠いものじゃないと
俺はグループから離れた
ステージにのぼる時、俺はいつもびくびくするんだ
俺には群衆の声が聞こえる
ママン、心配するな、あんたの息子は大丈夫やりとげるさ
俺は不平を言わない、俺には俺をささえてくれる家族があるんだ
俺は成功するって人は言う、だから俺はその順番を待ってるんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

(MHD "Maman j'ai mal)
MHD "MHD"
CD UNIVERSAL FRANCE 4785833

フランスでのリリース:2016年4月15日


(↓ MHD "Maman j'ai mal)







2016年8月5日金曜日

ギイがすたればこの世は闇だ

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で1999年12月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Christophe Bourseiller "Vie Et Mort de Guy Debord"
クリストフ・ブールセイエ『ギイ・ドボールの生と死』 
(1999年10月刊)
 
 "Faut-il virer Guy Debord?"(ギイ・ドボールを追い出すべきか?)。こういう見出しの1ページ記事が、世界的女性誌の権威とでも言うべきELLE誌の1999年11月22日号に載ったのである。ブーム(フランス語では "phénomène"フェノメーヌ)なのだそうである。確かに一般的な雑誌メディアで昨今よく見る名前である。このELLE誌の記事の中で、いまどきのギイ・ドボールの 信奉者たちについて「ギイ・ドボールを引用する人たちの半数はギイ・ドボールを一度も読んだことがない。そして残りの半数は一度も理解したことがない」と看破している。その代表的著書『スペクタクルの社会(La société du spectacle)』(初刊1967年。邦訳は遅れに遅れて1993年木下誠訳、平凡社から刊行)を読もうが読むまいが、彼の思想シチュアニショニスム(状況主義)を理解しようがしまいが、今、ギイ・ドボールを持ち上げることは、シックでブランシェ(先端的)なことなのである。それは今日フランスで最も先端のTVジャーナリズムと言えるカナル・プリュスや、雑誌レ・ザンロキュプティーブル、新聞リベラシオンなどの、シックでブランシェなトンガリ人種が信奉しているのだから、軽薄な新しモノ好きたちが放っておくわけがない。
 確かにギイ・ドボールに関する書物は今年になって十数種も刊行されており、大規模総合文化ショップチェーンのFNACの各店では、ギイ・ドボールの特設コーナーができたほどである。本書はその中の一冊で、著者クリストフ・ブールセイエは四十代前半のジャーナリストで、あらゆる前衛に関するスペシャリストという特異な専門分野を持つ、TVやラジオにも出演し、さらに副業で映画俳優もするというマルチな男。私はこのブールセイエという人物がかなり前から気になっていた。80年代にパリの週刊シティーガイド誌で、老舗パリスコープ誌とロフィシエル誌という二大ガイド誌に挑戦した "7 à Paris(セッタ・パリ)"という短命なガイド誌があったが、ブールセイエはその副編集長兼主筆であった。この週刊ガイドは、もう最初から老舗2誌と同じことをするのではダメだと悟っており、ガイド誌的情報はきっちり事務的に網羅しておきながら、他の紙面はほとんど冗談に近いアナーキーさで、B級映画ガイド、誰も読まない本の書評。超くだらないレコードのレヴューなどで。一部の熱狂的な読者層をつかむことになる。そして末期には、パリ市議選挙に比例代表制の政党として立候補し、名誉のX%の得票を得て沈没してしまう。このメジャーなメディア社会の中で、これほど世の中を過激におちょくった雑誌の中心人物がブールセイエであった。そして私はブールセイエ(とその先駆的メディア初期リベラシオン紙)から、学び、受け継いだものがある。それは「タイトル・記事見出し」であり、記事内容と何ら関係がなくても、強烈で冗句的で記憶に留まるものであればいい、という見出し・タイトルの付け方である。それは当ホームぺーじの随所で同じポリシーが機能しているので、読書の諸姉諸兄はもう慣れているだろう。
 かつて日本の某音楽雑誌に、アルジェリアのポップ・ミュージックであるライが、イスラム原理主義のテロの猛威の前にかなり変容しているというかなり深刻な記事を寄稿して、そのタイトルに「揺らぐライの足場、アシバライ」とつけたら、見事にボツになった。わからない人たちには通用しないであろうが、私は内容とシンクロしなくてもいいから目立てばいいタイトルの決め方、ということをブールセイエから多くを学んだ。
 そしてブールセイエはそれをギイ・ドボールから学んでいたのである。それは極端な詩的一行であり、一行で決める落書き的効果であり、「XXX反対」とか「XXX粉砕」とかではない、「真実など何もない、すべては許される Rien est vrai, tout est permis」や「弁証法でレンガが壊せるか? La dialectique peut-elle casser des briques?」や「決して働くことなかれ Ne travaillez jamais」などといった、必殺の一行でなければならないのである。
 1994年ギイ・ドボールが62歳で自殺した時でさえ、一般の人々にはドボールはほとんど無名の人間であった。テレビラジオを初めとした大衆メディアには登場しなかったというだけではない。彼の思想は伝播しづらい性格のものであり、また伝播されることを目的としていない性格もある。
 68年5月革命を準備したと評価されるドボールのシチュアショニスム運動は、その母体となる団体アンテルナシシオナル・シチュアニスト(l'Internationale Situaniste 略称IS)の活動期間(1957-1972),を超えることなく、68年を契機に一時的に広い範囲の支持を得たにも関わらず、度重なる内紛とメディアの黙殺の末に姿を消している。これはメディア的な膨張を極端に嫌うドボールの意図的な拡大防止策であったと言われる。
 パリのブルジョワの家庭に生まれ、南仏に育ち、学生としてパリに登ってきても、自分の衣類を洗濯することも知らなくて、いちいち南仏の祖母に洗濯物を送っていた。1951年、シュールレアリスムから派生した芸術運動レトリスムと合流、1952年、初の長編映画『サドに加担する呻き声』 を発表。この映画は20分のギタギタに分断された対話と、沈黙の1時間、さらに終盤20分は音も映像もない静寂の黒スクリーンが延々と続くというもの。レトリストたちはこの映画の上映によって巻き起こる観客たちの喧騒と怒号を楽しんでいた、というわけである。早くもドボールはこの上映に際して「もはや映画はない。映画は死んだ」と宣言していた。
 スキャンダルと挑発に長けたこの若者は、2年も経たずにレトリスムの頭目イジドール・イズーを乗り越えてしまい、1953年にはその分派アンテルナオシオナル・レトリスト(l'Internationale Lettriste、略称IL)を結成、機関誌ポトラッチ(Potlach)を刊行、芸術と政治の両領域で過激な論を展開するのであった。
 この若き日のドボールにおいて私がとても魅力を感じるのは、彼が若くして無類の酒呑みであり、このような芸術・政治運動の討論も決議も毎日深夜から明け方までのビストロで行われており、彼の周りにはインテリと縁のない泥棒やチンピラなどもいて、猥雑な飲み屋の中の騒然とした環境の中でドボール思想が培われていったということである。そしてビストロの中で居合わせたポルトガル人やモロッコ人と意気投合することが、そのまま「アンテルナシオナル(l'Internationale = 国際組織)」を名乗るスケールになっているのである。深夜の酒場で結団されるアンテルナシオナル、こういう世界の見え方が素敵だ。しかし文字通り「アル中で乱暴者」の彼らは当然の成り行きとして酒場をグジャグジャにしてしまうので、しょっちゅう酒場の出入り禁止を喰らい、行きつけの店をその都度失ってしまい、新しい店に流れていくのである。
 このほとんど愚連隊と言っていいILの行状こそ「日常生活の冒険」として位置付け、第八芸術は生そのものである、という論を機関誌ポトラッチは展開していく。彼らは伝統的左翼のような未来的(社会主義建設)なヴィジョンを問題にせず、今ここにある生、生の場所的現在の変革を訴える。これはドボールと親交のあった(そして後に大げんかして訣別する)唯一の大学人アンリ・ルフェーブルの著『日常生活批判』のベースとなる思想を増幅して戦闘的にしたものと言える。
 その生に局面局面における現場を彼らはシチュアシオン(状況)と呼ぶのである。シュールレアリスム、レトリスム、アナーキズム、そしてアンリ・ルフェーヴルの日常論を母体に、シチュアショニスム(状況主義)(通称SITUシチュ)は生まれた。シチュの基本思想は「剰余労働を強いられた受動的な生と決別して、密度の濃い生の瞬間=状況を作り出すこと」である。またシチュの代表的な68年落書きスローガンでは
Vivre sans temps mort et jouir sans entraves
無為の時間なしに生きること、そして制約なしに楽しむこと
とも言っている。それは彼ら愚連隊が酒場でやっていたことの理論化および思想化であった。
 1957年、アンテルナシオナル・シチュアショニスト(略称IS)が組織され、その同名の機関誌は11年間にわたって縦横無尽言いたい放題の侮辱・誹謗中傷・罵倒の超ラジカル文書を満載していたが、そのほとんどの無署名記事をギイ・ドボールが書いていた。毒筆の矛先は保守体制・政権は言うまでもなく、伝統左翼(スターリニスト)、毛沢東主義者(ジャン=リュック・ゴダールを含む)、既存の権威と共存する思想家(サルトル他)などであった。
 シチュの最も重要なキーワードのひとつが「デトゥルヌマン détournement」である。これは逸らすこと、ずらすこと、といった意味であるが、ハイジャックのような武器の威嚇による無理矢理な方向転換の意味にも使われる。シチュの場合は戦略的な意味の取り違えであったり、強制的な意味の読み替えだったりする。例えばポルノ漫画で性的恍惚に喘ぐ女性の顔の吹き出しに「プロレタリア独裁って素敵だわ...」というセリフを書き込むことである。IS機関誌ではそういうイメージと言葉のコラージュによる強烈な意味の方向転換の図版を多く掲載し、シチュ的デトゥルヌマンのスタイルを作り出す。しかし(...しかしという接続詞ではないか...)80年代頃から商業広告業界が、このデトゥルマンを援用したヒット広告やCMを多数発表することになるのである。

 1967年、ギイ・ドボールの主著『スペクタクルの社会』が刊行される。彼はここで当時まだ世界的に熟したとは言えない来るべき「消費社会」の現実を既に看破しており、商品という「もの」へのフェティシズムに侵食され尽くした資本主義経済(今風な例では日本女性の高級ブランド崇拝のようなものが支配的な消費社会)と、スペクタクル(見世物)という形態を取らなければ現実性を持たなくなってしまったマスメディア中心社会が、生の現実を消し去っていく、という明晰な分析をしている。実際に有益なものよりもブランド付きの無益なものを崇拝する社会、実際の人生よりもテレビに映し出される虚構のドラマにリアリティーを求める社会、ドボールは今から32年前にこの社会の嘘っぱちに否を唱えていたのである。
 1968年、パリ五月革命、シチュは少数派ながら最前線にいた。ここでシチュがトロツキストやマオイストなどの68年運動主流派と決定的に違っていたのは、シチュは大学を資本階級エリートを作るための機関として批判していたのではなく、スペクタクルおよび商品の支配する社会の前衛として批判していたわけで、大学をバリケードで占拠することは資本エリート養成機関の解体よりも、スペクタクルを主体の側に奪い返すことが目的でなければならなかった。すなわち、シチュにとって五月革命は闘争と同時に祝祭であり、宴であった。シチュにとってはバリケードの中にどれだけ多くの酒類が持ち込めるかが最優先の課題のひとつであったのだ。 そして世にも強烈な落書きを創作すること。
 そこなのである。私が体験した70年代初めの日本の新左翼的環境の中において、受験勉強の延長のように政治用語を暗記したようなセクト的ディスクールに辟易し、警察権力と敵対セクトへの憎悪を増幅させるだけの「主体性」(あの頃の流行語であるなあ)の没落した運動に失望していた。なぜ日本で運動は「宴」ではなかったのか。なぜ高度成長期のモーレツサラリーマンのようにがむしゃらな組織(セクト)のディスクールを盲信して突き進むしかなかったのだろうか。
 IS(アンテルナシオナル・シチュアショニスト)はセクトではなかった。なぜなら上層部の指示などないからである。自分の置かれたその場の局面状況を自分でなんとかしなければならない。極端に言えば、シチュでは政治的異議申し立てをすることと酒飲んで暴れることの間に違いなどないのである。シチュアシオンを作るのは自分でしかない。トロツキストやマイオスト等が集団的・集合的な闘争と創造を訴える時、シチュは自分ひとりでやれと突っぱねる。
 そしてまさにこのことがシチュアショニスムの孤独であり、結果として党派として存続しえなかった原因である。ドボールはILの時期から少数精鋭主義の組織構成を貫いており、ドボール思想に心酔したからと言って誰もがクラブ会員になれるというものではなかった。ドボールの先駆と言えるシュールレアリスム運動の頭目アンドレ・ブルトンがそうだったように、ほんの些細なことで組織構成員の多くをバサバサと除名していった。右腕と言われた者も、真のブレインと言われた者も破門されていった。ドボールは暴君であった。
 1968年から69年、ISはやっとアンダーグラウンドから脱し、ドボールの著書『スペクタクルの社会』 と共に一般的な評価を得るところとなったが、ドボールはその評価が高まることを忌み嫌うように沈黙してしまう。なにか事件や現象があるたびに、メディアはISがそれに対してどうコメントするかを待つようになったのである。ドボールはこのメディア(すなわち資本側、体制側)によるシチュの「取り込み利用」(仏語のレキュペラシオン récupération。回収、抱き込み)を警戒するが、時すでに遅し、今やドボールとシチュはまさに自分が予見したスペクタクルのスターシステムの中に取り込まれてしまっている、と悟り屈辱的なショックを受ける。シチュだけではない。「68年5月」という事件そのものもブランド化し、見世物化し、体制側に大幅に取り込み利用されてしまっている。もはやシチュアショニスムはISというブランド化した運動媒体で続けることはできない。1972年、ISは解散し、その後、ドボールはあらゆるレキュペラシオンを回避するように、オーヴァーグラウンドに再浮上することなく長い潜行時代に入る。

 今日私たちは「前衛芸術家」が笑ってテレビに出る時代に生きていて、年端もいかぬ日本の少女たちがヴィトンやエルメスを狂ったように買い求める光景を見ている。ドボールが見破った商品=スペクタクルの社会は、とどまることなく拡張し、その包囲をますます堅固にしている。1999年11月のシアトルの世界貿易機構(WTO)会議は、言わば「スペクタクルの社会」のグローバリゼーション化を目的とした会議であった。前書きで述べたように、ドボールが今、社会現象的に再評価されているのは、どういうことなのか。私はブールセイエのこの評伝を読んで、(何度か読みかけては途中で断念してきた)ドボール著『スペクタクルの社会』を読み直そうとしたが、やはり断念した。スペクタクルの社会のことはもうアップアップするほどよく知っている、という拒否反応のようなものだ。もはや「これは一般教養だから」という風に書店に並べられている本なのだから。
 ドボールの言う、苛烈で密度の濃厚な生の瞬間と状況を創造・実現することは、そのまま酒を飲んで暴れることとして翻訳されることは断じてない。私が3年に一度ほどの割でやってしまう正体なくなるまでの酒乱痴態はシチュアショニスムとは何の関係もない。焼酎アショニスムとでも呼ぶべきものである。

Christophe Bourseiller "Vie et mort de Guy Debord"
Plon刊 1999年10月 453頁

(↓)2013年 BNF国立フランソワ・ミッテラン図書館でのギイ・ドボール回顧展のティーザー動画。

2016年8月4日木曜日

テニスでは"40"が瀬戸際


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2002年2月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Tonino Benacquista "Quelqu'un d'autre"
トニノ・ベナクイスタ『だれか他の人間』
(2002年1月刊)

 多くの男たちにとって40歳というのは魔の年齢である。論語では「四十不惑」(四十歳にして惑わず)と言うが、反語的にこれほど惑う年齢はないからこそ、惑うなと戒めているのかもしれない。人生のちょうど真ん中にさしかかって、半生を振り返って、これでいいのだと自己に肯定的になれる人の数は、こんなものでよかったのだろうかと懐疑的になったり、こんなもんじゃなかったはずだと後悔と否定的な怒りを自分にぶつける人よりずっと少ないはずである。そしてある男たちは病気になる。大厄(男の数え年の42歳)とはよく言ったもので、それまで若いと思って無理を強いてきた自分の肉体がある日言うことを聞かなくなる。変調がやってくる。こんなはずじゃなかったと思う男はとたんに焦り始める。
 半生に激しい悔恨を持つ男は、ある日自分の過去をことごとく抹消して別の人間として再生することを夢想する。誰か他の人間に成り代わってしまうことである。子供の頃に「大きくなったら何になりたいか」と聞かれて答えたことが実現する人間は少ない。そしてそれは大人になってからでは実現が絶対不可能と考えがちである。だが、現実を知り、経験を積んだ四十男こそ、最も具体的にその可能性が得られる年代ではないか。軌道修正あるいは軌道を全く変えてしまうにはこの時期しかない。あるきっかけが巡ってくれば、男はその最後のチャンスに賭けられるかもしれない。
 この小説の主人公の二人の男のきっかけはテニスであった。パリのテニスクラブで、もう何ヶ月もラケットに触っていないティエリー・ブランが、テニス再開の意を決してクラブ登録して、偶然にクラブからあてがわれたパートナーは、そのクラブに登録してからかれこれ2ヶ月経つがパートナーに恵まれないと嘆いていたニコラ・グレジンスキー。初対面の二人は軽く練習ウォームアップをした後、試合をしてみようということになる。試合は立ち見のギャラリーができるほどの大熱戦となり、二人はそれぞれ自分の持つ水準以上のプレイをしていることに自ら驚きながら、本気むき出しの真剣勝負は、第3セット、タイブレークの末ティエリー・ブランが勝利する。初顔合わせの好敵手二人はその後バーに席を移し、熱いテニス談義を交わすのだが、二人の飲む酒は零度に冷やしたヴォトカ。ティエリー・ブランが何気なしに頼んだこの強い酒は、アルコールがほとんど飲めなかったニコラ・グレジンスキーを後にアルコール漬けにするきっかけとなってしまう。彼らの共通のテニスアイドルはビヨルン・ボルグ。冷徹で完全主義的なプレイヤーである。その一番のライバルであったジミー・コナーズは、それとは対照的な力まかせ&インスピレーション型のテニスで、観客を沸かせることではボルグの数倍の人気があったし、人々は勝つボルグに冷淡で、負けるコナーズに絶大な拍手を送った。
ー コナーズは安定性を欠いた、カオスのエネルギーだった。
ー ボルグは完璧さであり、コナーズは霊感であった。
ー 完璧さは往々にして霊感を欠くものである。 
そしてボルグはある日コナーズになってみたいと思ったであろうし、コナーズもまた逆のことを考えたであろう。自分と全く違う他人になること。二人は酒を重ねていくうちに、今日現在の自分がしたいことは何かをあっさりと確認してしまう。それは自分と全く違う他人になることである。二人はこの夜、自分には到底できるはずのなかった好試合をしたこと、自分と似た新しい友を見つけたこと、酩酊するまで飲んだことによって自信が漲り、こんな約束をする。3年後の今月今夜、この場所でもう一度会おう、その時は二人とも全く違う他人になっていよう、と。

 小説は二人の変身の過程をパラレルに描いていくが、その道筋はそれぞれ全く違う。ティエリー・ブランは能動的にアクティヴに具体的に自分が全く違う人格を獲得していく方法を練り上げ、それを実行に移していく。額縁職人としてアトリエと店を持ち、いささか冷めた関係になっている同居女性がいて、風采のあがらないブランは、周到な準備のうちに全貯金を別の場所に移し、アトリエを別の職人に譲渡して蒸発してしまう。ブランは額縁職人という職を捨て、私立探偵事務所で見習い修行をし、1年後に一人前の探偵として独立する。そして顔面専門の整形外科医に巨額の手術代金を払って、全く別の顔を持つ男になり、同時に探偵見習いで見つけたヤミの身分証明作成ルートを使って、「ポール・ヴェルメイレン」という全く新しくしかも合法的なアイデンティティーを獲得してしまう。かくしてティエリー・ブランとは全く姿かたちの違う、ポール・ヴェルメイレンという男がパリから遠く離れたところで、私立探偵事務所を開設することになるのである。
 一方ニコラ・グレジンスキーは巨大企業グループの広告部門に勤める目立たない社員であった。それがこのティエリー・ブランとの出会いの翌日から別人のようになってしまう。原因はその前夜に覚えたアルコールのせいで、それまで彼が外面に出したことがなかった雄弁で大胆な話術が口をついて出てしまうようになる。その日上司は不在であったが、クライアントの激烈なクレームに、グレジンスキーは「責任者に代わって補佐の私がお応えします」と電話を取り、そのさわやかなる弁舌でクライアントを説得・論破してしてしまう。上司はこの不手際の責任をグレジンスキーに取らせることで自分の首をつなぐつもりでいたが、事態は逆に進行し、クライアントはニコラの鮮やかな説得を信頼してしまっており、重役会議の末、ニコラを部門チーフに抜擢、その上司は解雇ということになってしまった。出世とアルコールの日々。彼のセクションはどんどん業績を上げていくが、チーフは型破りで模範的とは言い難いアル中の中間管理職である。
 ある日グレジンスキーは缶入りハイネケン・ビールと缶入りコカコーラ・ライトをオフィスに持ち込み、後者の中身を捨て、そのアルミ缶の上蓋部と底部をハサミで切り離し、残った円筒部をタテせんで切り、ハイネケン缶にかぶせた。そうするとハイネケン缶は外面上はコカコーラ・ライト缶となる。オフィスでアルコールを飲むことを見られまいとすることから出た知恵だが、このアイディアをグレジンスキーは「トリックパック」と名付けて、特許局に実用新案として登録してしまう。これが何ヶ月も待たずして、外国の包装会社が次々と権利を買い取り、缶入り飲料の商品名隠しだけでなく、自分の飲み物を個性的に見せる新しいパッケージとして大ヒットしてしまう。飲料名のパロディーや有名キャラクターを使用したもの、さらにアーチストによるオリジナル作品など、「トリックパック」はどんどん新手のものを作っていく。おかげでニコラ・グレジンスキーはこの巨大企業グループの中間管理職として得る収入の数倍の金額が毎月転がり込んでくることになる。
 ポール・ヴェルメイレンとして新しい人生を送っていた男はある日新聞のお悔やみ広告欄に「1年前に姿を消したティエリー・ブランを偲ぶ友の会開催のお知らせ」を見つけて愕然とする。ティエリー・ブランは遂に死んだのである。しかしそのティエリー・ブランを偲ぶ友人たちがいたとは彼自身知りもしなかった。大いに好奇心をそそられ、それに乗じて彼は「友の会」の日にその会場まで出向いてしまうのである。私立探偵ヴェルメイレンは、かつてティエリー・ブランがそのクライアントの一人であったという口実でこの会に紛れ込み、かつての恋人や知り合いたちが事実に忠実だったり忠実でなかったりする死者(つまり自分)の思い出話をするのを聞いている。しかし、この会の中で一人だけティエリー・ブランは死んでいないと確信している人間がいる。額縁アトリエの雇われ女性会計士で、この会を主催した人物であり、彼女はティエリー・ブランに気付かれぬまま長い年月彼を恋慕していたのである。彼女はたとえ警察の捜索が打ち切られてもブランの生存を信じており、その思念の強さのあまり初対面の私立探偵ヴェルメイレンにブランの捜索調査を依頼してしまう。
 巨大企業で誰の目もはばかることなくアルコールに浸りながら業績を上げていく男グレジンスキーは、地位を得、金を得、そして恋も得てしまう。美しくインテリで酒に造詣の深い女性ロレーヌとは常にホテルで会ってホテルで別れる関係(因みにそのホテルはパリ15区の「ニッコー」)である。彼女はその日中の生活については秘密を守っている。二人は深く愛し合い、おたがいを理想のパートナーと思っているが、その関係を崩すのは、木下順二「夕鶴」 の例に同じ、見てはいけないと言っておいたものを見てしまう男の深い業である。グレジンスキーはある日会社を抜け出して、嫌がるロレーヌを昼に呼び出して、その上その後彼女を尾行し、彼女が食品スーパーのレジ係として働いていることを見てしまう。彼女はそれだけは見られたくなかった。ロレーヌは昼はそうして働き、夕方はワイン学の講座で学び、来るべき自分の世界のどこにもないワインショップの開店を準備していたのだ。つまり彼女もティエリー・ブラン、ニコラ・グレジンスキーと同じく、全く別の人間になることを自分に賭けていたのだ。これを見られたロレーヌはニコラを許さない。
 蒸発した過去の自分自身を捜索する私立探偵、この部分はこの小説で最も面白いハイライトの部分であり、ここで多くを説明することは避けるが、名探偵ヴェルメイレンは別のティエリー・ブランを新たに創作し、その実像は依頼主の女会計士が恋い焦がれていたティエリートは似ても似つかぬ男であった、という迷案によってかろうじて逃げ切るのである。これはハラハラものであるが、恋は盲目、女会計士はまんまと説得させられ、このティエリー・ブランもいなかったことにしましょう、という結論で手を打つ。これでヴェルメイレンは二度ティエリー・ブランを殺したことになる。

 この小説の構図はプロローグでのボルグ対コナーズの対比からはっきりしていて、ティエリー・ブラン/ポール・ヴェルメイレンは用意周到完璧主義のボルグのタイプで、ニコラ・グレジンスキーは霊感型で破滅型でもあるコナーズタイプの人間なのだ。グレジンスキーには、企業を放逐され、ロレーヌに捨てられ、かつての上司から銃撃されるというカタストロフが最後にやってくるが、負けてもコナーズは大喝采されるように、作者ベナクイスタはグレジンスキーにハッピーエンドを用意している。
 3年後の約束の日、姿かたちが変わって中身が変わらない完璧主義のブラン/ヴェルメイレンと、姿かたちは変わらないが中身が大変身を遂げた霊感型のグレジンスキーが再会する。素晴らしいエンディング。
 四十男の変身願望を二つの全く異なる対照的な人物像を使って、どちらも成功させてしまうパラレルな小説。テニス論、企業ストーリー、変身蒸発、発明サクセス、探偵ミステリー、アルコール讃歌、ラヴロマンス...、盛り沢山の270ページ。なによりも、人生半ばにさしかかった人たちには応援歌のように受け取れる小説ではないだろうか。

Tonino Benacquista "QUELQU'UN D'AUTRE"
Gallimard刊 2002年1月  270頁  

(↓)ボルグ vs コナーズ (1976 US Open)

2016年8月3日水曜日

帰れない放蕩息子


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2004年10月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Philippe Besson "Les Jours Fragiles"
フィリップ・ベッソン『脆い日々』
(2004年8月刊)

 『脆い日々』 は詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)の最晩年を見届けた詩人の妹、イザベル・ランボーの日記という形式で書かれた小説である。フィリップ・ベッソンは2001年の第二作め『Son frère 彼の兄』(2001年11月のおフレンチ・ミュージック・クラブ「今月の一冊」で紹介)で注目された三十代の作家で、『彼の兄』はパトリス・シェローによって映画化もされた。この『彼の兄』は病気で死が宣告されている弟を最後まで看取る兄の日記として書かれた、透明な近親愛の悲しみに満ちた作品であったが、この新作(5作め)はそのヴァリエーションであるかのように、死にゆく兄を見つめる妹の、内に秘めながら燃えていく近親愛を押し殺しながら献身する魂の記録である。
 詩人ランボーの最晩年の姿を照射するというのはこの小説の主題ではないが、一応その背景として詩人の生涯を紹介しておくと、アルチュールは北フランス、アルデンヌ地方の地主を母親とし、軍人を父として男児二人女児二人の兄弟姉妹の次男として生まれている。父親とは幼い時期に別居しており、4人の子供は母親の許で育てられるが、妹ヴィタリーは病死、兄フレデリックは別居して疎遠になっていく。アルチュールは1870年に最初の家出。パリ、次いでベルギーへ。1871年パリ、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896) と同性愛生活。1872 - 1873年、ヴェルレーヌとイギリスとベルギーを放浪。1873年5月破局。7月10日、ヴェルレーヌがランボーに発砲、負傷させる。この1873年でランボーの詩作活動は終わってしまう。ランボー詩集(1869-1873年)、『イリュミナシオン』(1871年執筆、刊行は1886年)、『地獄の季節』(1873年)。ランボーは19歳で筆を折り、イギリス、ドイツ、イタリアを放浪、オランダの植民地軍の外人部隊兵、スカンジナヴィアのサーカス団の通訳、キプロス島の工事現場監督などを経験した後、1880年から91年初めまで東アフリカで象牙と武器の商人となる。1891年5月、片膝に腫瘍ができ、その手術のためにフランスに帰国。マルセイユの病院で片脚切断。
 
 小説は片脚となった兄アルチュールの帰郷をアルデンヌの村で待つイザベルの日記から始まる。 言うまでもなくイザベル・ランボー(1860-1917)は実在の人物であり、またイザベルが描いた病床でのランボーの姿は、幾多のランボー評伝に必ず登場するデッサン作品である。そしてイザベルの日記というのも実際に存在し、この小説でも実際にイザベルが書いた部分はイタリック体で印刷され、原文のまま転写されている。それ以外はすべてフィリップ・ベッソンの創作である。
 マルセイユに帰港したランボーに会いに行くのは母親である。その間の家ののうちのすべての管理はイザベルに任され、イザベルは疲労のために倒れてしまう。この家は男たちがみんな出て行く家だ、とイザベルは述懐する。父と二人の兄は出て行ってしまって帰ってこない。残るは二人の女である。冷徹でもあり強靭でもある母親だからこの家が管理できるのであり、それを継ぐのは私しかいない、という宿命的な自覚がある。自分は損な女である。恋も男も知らない。自分は兄のように家出することなどなく、このまま家にいて、母を継いで死んでいくだろうと、憂鬱だが受け入れなければならない未来像が見える。自分は平凡な顔立ちと貧弱な肉体をした女であるが、アルチュールは美しい容姿と射るような目を持った少年だった。その兄がどのような姿になって帰ってくるのか、とイザベルは想像してみる。
 結局母親はアルチュールをマルセイユから連れ帰ることができない。この二人は決して和解することがないのである。神がアルチュールを赦したとしても、母親はこの息子を決して赦さない。その理由は小説の最後部で分かってくるのだが、母親がこの息子の何を憎んでいるのかというと、そのホモセクシュアリティーなのである。神に背く大罪を背負った息子と見なしているのである。
 アルチュールはひとりでアルデンヌに帰ってくる。それを駅で迎えるのがイザベルであり、彼の部屋を用意し、彼の介護をし、彼の便宜をすべてはかるのがイザベルの仕事となる。母親はイザベルがアルチュールにかかりきりになることをよく思っていない。この小説で母親は一貫して冷酷な人間として描かれるが、イザベルはこの母親を理解し、弁護する側にも立つ。
 片脚を切断しても腫瘍はすでに転移しており、アルチュールの病状は悪化する一方である。モルヒネとイザベルが調剤する煎じ薬草で痛みを抑えながら、アルチュールはイザベルに心を開いていく。母親に愛されなかったアルチュール、女性を愛することがなかったアルチュールは、なぜイザベルにだけ真の打明け話ができるのか。それは兄妹という関係だからというわけではなく、イザベルに「女性」を見ることができないからなのだ。イザベルはこのコンプレックスを超えて、兄アルチュールと初めてある種の共犯関係を築くことができ、それに異常なまでの興奮を示していくのである。

 兄が死にゆくことを知っているイザベルは、アルチュールの最期の日までの検診を自分に課し、詩人の望みを叶えるためのあらゆる努力を払う。太陽に憧れたアルチュールは、その太陽によって命を縮めた、とイザベルは言う。死にゆく床にある詩人は、それでもなおアフリカに帰らなければならないと強く望んでいる。ランボーにとってアフリカはどんなことがあっても約束の地なのである。そしてそこには彼と結ばれることを待つ恋人もいる、とイザベルは告白される。アデンにいるジャミという名の若者である。この青年となんとかして結ばれたいとアルチュールはイザベルに訴える。
 かくして詩人は無謀なアフリカ再渡航を妹に嘆願し、妹は不可能を知りつつアルチュールの望むままにアルデンヌの村を出て、マルセイユ経由でアフリカへという旅に立ち会うのである。しかし病状の悪化で経由地のマルセイユで足留めを喰らい、その6ヶ月前に片脚
切断手術をした同じ病院に収容されることになる。そしてそこがランボーの死の床となるのである。
 幾多のランボー評伝での論議されていることのひとつに、死を直前にしてランボーが悔悛し、キリスト教に帰依し、キリスト者として死ぬことを選んだ、ということがある。反逆の少年詩人は神を呪い、キリスト教を侮辱する言葉を多く残した。それがなぜ最終的にキリスト教的来世に至ることを望むようになったのか。この小説ではイザベルが敬虔なキリスト者であり、アルチュールがキリスト者として神に召されることを強く希望していたことが描かれている。しかし死の床でランボーが和解したかったのは、神ではなく、母親ではなかったろうか。キリスト者として妹と母親の側の人間となることで、神ではなく母親の赦しを願ったのではないか。イザベルは兄のキリスト教帰依をアルデンヌに残る母親に早速手紙で書き送るのだが、母親の反応はない。母親は絶対にこの息子と和解することはないのだ。
 農地と共に生きる定住者のイザベルと、自由と太陽を求めて放浪する兄アルチュール、この極端に違う二つの魂に流れるのは母親の「悪い血」である。イザベルは受け入れて生き、アルチュールは拒絶して死ぬ。生まれて初めてこの二つの魂は、たった半年間だけ強く結びつくのである。小説はイザベルの側から書かれているから、アルチュールの心情は隠されたままであるが、兄の最後に向かって振幅をいよいよ大きくしていくイザベルの心の揺れが鮮明に描かれている。その揺れは兄の死と共に跡形もなく消え去ってしまう。

 詩人ランボーの最後がどうであったか、ということは文学史研究者に任せておけばいい。フィリップ・ベッソンはその罠に陥ることなくこのフィクションを書き上げた。話者イザベルが見ている悲劇的に分裂している家族のドラマを背景に、その最も強烈な二つの核である母親と兄の間にいるイザベルの最初で最後の反抗の物語である。反抗者に同伴した者の記録ではない。初めて自ら反抗した者の日記である。読む者は必ずや強烈な悲しみに身震いするであろう、

Philippe Besson "Les Jours Fragiles"
Julliard刊 2004年8月 190頁 18ユーロ 

(↓)2004年10月、フランス国営テレビFRANCE 3の図書紹介番組 "1JOUR 1 LIVRE"、オリヴィエ・バロによるフィリップ・ベッソンインタヴュー。

Philippe Besson : Les jours fragiles par ina

2016年8月2日火曜日

餅はモディアノ


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2005年2月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Patrick Modiano "Un Pédigree"
パトリック・モディアノ『ある血統』
 (2004年12月刊 )

 これは20世紀後半のフランスを代表する作家パトリック・モディアノが、いかにして作家になったかを、自から解題する作品である。
 私には読後すぐに、この小説からある程度距離のある二つのことが頭に上ってきた。ひとつはあの善良なアナキン・スカイウォーカーが、いかにして悪の権化ダース・ベーダーになりえたか、ということである。ジョージ・ルーカスはその『スター・ウォーズ/エピソード 1.2.3』という長大なサーガでそれを説明しようとするのであるが、そこで悪いのは「血」ではない。モディアノはこの自伝的な小説を『ある血統』と題することで、ある血の問題が介在することを喚起しているわけだが、スター・ウォーズ的な表現を使えば、確かにモディアノの父親はダークサイド(フランス語では côté obscur コテ・オプスキュール)の側の人間であり、ユダヤ人にして第二次大戦中の対独協力者かつブラックマーケットの商人であった。
 もうひとつはドイツの乗用車メーカー、アウディの2005年冬のTVコマーシャルスポットで、そのスローガンは "La mémoire est séléctive"(記憶は選択的である)というものである。

4つの例が出てきて、ぼやけた背景の中からブランコに乗った二人の少女だけが鮮明な画像で現れて消え、ふたつめは人に連れられた吠える猛犬(猛犬しか見えない)、三つめはバレエの男女ペアの踊りで、男の腕に倒れ込む女性バレリーナの顔だけがはっきり見えて他はぼやけている。4つめはアウディの車からドアを開けてひとりの人間が降りてくるが、その人間は全く目に入らず(=ぼやけていて)、アウディ車の姿だけが記憶に残る、というもの。記憶は確かに選択的である。往々にして自伝的な作品とはその選択された記憶の記録だけに終始するものである。だが、このモディアノの小説では鮮明でないぼやけた部分こそ重要なものであり、曖昧な状態のまま網羅的に記述される日時、場所の名前、あった事実の数々は選択的に書かれているのではなく、むしろ飛行機事故後に飛行操縦士の全会話が録音されたブラックボックスを開く思いがする。何がカギで何がカギでないのかをモディアノは選択していないのだ。

 パトリック・モディアノは1945年7月に生まれ、1967年に作家となっている。この『ある血統』はモディアノが生まれてから21歳(当時の成人年齢)になるまで、ひいては作家になるまでを描いた自伝小説である。
 モディアノの父親と母親はフランスがドイツによって占領されていた時代に知り合っている。上に書いたように父親はユダヤ人・対独協力者・闇商人であり、複数の名前と住所を持っている。母親はベルギー・フランドル人の女優であったが、芸能人として派手な立ち回りこそすれ、一度も主役として成功することのない、名前のないアーチストである。この二人は戦後になって同じ住所(パリ5区コンティ河岸)同じ建物の別の階に住み、それぞれ別々の生活を送るようになる。父親は杳として実態のつかめない「実業」の世界にあり、母親は女優として劇場や映画撮影に出かけていく。早々と崩壊してしまった家庭の中で主人公は育つことになるが、疎んじられた息子でありながら、父親も母親も親の義務は果たそうとするポーズは見せていて、それと同時に親の権利だけは大いに主張してくる。特に教育に関して父親は口うるさい。あからさまに自分たちの日常生活から息子を遠ざけるように、父親はできるだけパリから遠く、できるだけ厳格な寄宿学校を選んで「私」を送り込む。
 小説は雑作もなく偶然に保存されていた多くの古写真や、学業ノート、会計帳簿、名簿、住所録、電話番号簿、新聞スクラップ、地下鉄や国鉄の切符、それらをつなぎ合わせた瞬時のスライド連続映写のように、余計な感傷的コメントを差し挟まずに展開していく。他のモディアノの著作では重要事件となっている弟リュディーの死も、この小説では多くの事件のうちのひとつでしかない。そしていくらたくさんの断片を集めてきても、パズルは組みあわされることはなく、その全体像はぼやけたままである。
 余は如何にして小説家なりしか。
 それはなぜ「私」は父親にも母親にも愛されることがなかったのか、ということと隣り合わせた問題であろう。女優で稼ぎが止まってしまった母親が無一文になり、生活することもままならなくなった時、その生活費をせびりに父親の許に行かされる少年の「私」。そこから戻ってきた「私」よりも、「私」が請いせがんで得ることができた金額にのみ興味がある母親。凄絶な図である。
 「私」が父親に近づくことを力ずくで邪魔しようとする父親の情婦「偽ミレーヌ・ドモンジョ」。そして父親を取り巻き、父親と関係のある、フランスの陰の世界の人々。「私」はそれらを子供〜少年の目で観察している。蠢めく陰の世界はナチス占領時代からアルジェリア戦争時代へと推移しても、その姿をアメーバ状に変容させながらその勢力を決して失うことはなかった。幼い頃からそれと関係を持ちながら生きてきた「私」は、その一味の息子なのである。父親に愛されることはなくても「私」はその息子なのだ。「ある血統」は決して否定されることはない。
 50年代から60年代へ、崩壊された家庭の息子である「私」は、寄宿学校で本の虫となっている。文学はこの孤独な魂を救済するか。モディアノはこの小説で文学が「私」を救ったなどということはひとことも書いていない。救われようが救われまいが、「私」には逃げ隠れする場所がほとんどなかったのだ。そして1966年という自分の成人の年が近づくにつれて、「私」はパリの町を浮浪するように、寝場所を転々と変えて逃げ回っている。逃げているのは、兵役と父親の執拗で父権的な指図からである。この小説の最後は、火の出るような父親と息子の手紙の応酬となっている。一日も早く息子を兵役に送り込んで厄介払いをしようとする父親と、それを拒否する息子の衝突は、この「成人=21歳」という境において爆発し、法的におまえを養育する義務はなくなったのだから、今後一切の援助はないと思え、という手紙に、「私」は成人となったのだから自分の責任はすべて自分で負い父親の援助は一切必要としない、と書き返すのである。この手紙の応酬の後、二人は二度と交信も再会もしていない。文字通り絶縁状の応酬だったのである。
 1967年6月、モディアノは出版社から最初の作品との契約の連絡を受ける。
Ce soir-là, je m'étais senti léger pour la première fois de ma vie
(その夜、私は生まれて初めて自分の体を軽く感じたのだった)
 21年間の生のあらゆる脅迫と不安から解き放たれて、その夜モディアノは作家になった。この日の記憶のためにモディアノは何編でも小説を書けたであろうが、この日のことを明らかにする小説は37年後になって初めて書かれたのである。時が経つほど記憶は断片的になっているだろうが、時が経たなければ明らかにできない深い傷の痛々しさはこの小説のあちらこちらに散らばっている。
 モディアノを既に読んでいた人たちは、この小説でこの作家の核の部分をかなり深く知ることができるであろうし、読んでいなかった人たちは、この作家のあらゆる作品を読みたくなるであろう。

Patrick Modiano "Un Pédigrée"
Gallimard刊 2004年12月 19,50ユーロ

(↓)モディアノ『ある血統』の YouTube個人投稿による紹介クリップ。
 
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