2020年2月17日月曜日

因縁のエルランジェ通り

ジャン・エシュノーズ『ジェラール・フュルマールの生涯』
Jean Echenoz "Vie de Gérard Fulmard"

ソ連の人工衛星が降ってくるという出だし。とっくの昔に役目を終え、老朽化して宇宙のゴミとなったものが、大気圏に突入する際燃え尽きずに、残骸破片が地上に落ちてくる。ごく稀ではあるが、それが人家を直撃する事態もある。小説はそれがパリ16区、オトゥイユ門付近を襲い、ハイパー・マーケット「カルフール」に店舗の一部を損壊する被害をもたらしただけでなく、破片のひとつがエルランジェ通りの某アパルトマンの窓を突き破り、住人の腹部を直撃して即死させている。被害者はこの界隈で数軒の賃貸アパルトマンを所有する大家であり、そのひとつのアパルトマンの間借り人が本小説の主人公ジェラール・フュルマールであった。この一件で、家賃支払いの遅れをうるさく請求してくることがしばらくなくなるのではないか、とフュルマールは他人の不幸にほくそ笑んでいる。なぜならフュルマールは失業中であり、収入は極めて不安定だからだ。
彼は航空会社のスチュワード(今日びの日本語では"CA"とか"客室乗務員"と呼ばれる)だったのだが、業務上(より正確にはパリ→チューリッヒ便)の過失を理由に解雇され、失職後の社会保障サポートで精神医のカウンセリングを受けている。パリ1区ルーヴル通りにあるその精神医ジャン=フランソワ・バルドーの診察所のすぐ近くに(実在する)有名なデュリュック私立探偵事務所(フランス最古の私立探偵事務所だそう)があり、カウンセリングの行き来にこの前を通るたびにフュルマールの霊感が刺激され、果てに(再就職せずに、その上その職業の経験も素養もないのに)自営の探偵事務所を開設することを思い立つ。エルランジェ通りのフュルマールのアパルトマンは「アシスタンス事務所」(漠然としているが、よろず援助・補佐業のようなイメージ)の看板を掲げ、地区のフリーペーパーに広告を載せ、引っかかってくる客を日がな一日待っている。
 キートン/チャップリン時代のおとぼけ探偵映画のような趣きであるが、この男は身長168センチ、体重89キロ、だからどうした、ということもないのだけれど、これだけはなく"向き”ではないことを仄めかす要素多数。それでも無気力失業者の傾向はなく、受動的(人にやらされるクチ)ながらも乗り掛かったら行動を惜しまない従順な小市民。
 舞台のパリ16区エルランジェ通りは、いろいろ因縁があり、最近では2019年2月4日から5日にかけての夜半に(放火による)大火災があり、10人が焼死した。小説中も詳説されているが、1975年4月25日、イスラエル出身のトップ人気歌手マイク・ブラントがエルランジェ通り6番地の6階のアパルトマンのバルコニーから転落して即死(自殺説が一般的だが、暗殺説も)。また日本では記憶されている方も多いであろう、1981年6月11日、エルランジェ通り10番地のアパルトマンで、日本人留学生佐川一政がオランダ人女学生を射殺し、その人肉を調理して食べたという事件が起こっている(この小説中 p146〜147にかなり詳しい犯行描写あり)。それから第二次大戦中、ナチス占領下、エルランジェという通りの名が19世紀のこの地区の大地主のドイツ系ユダヤ人に由来するという理由で、通りそのものに「黄色い星」をマークされかけた、というエピソードも。エシュノーズの筆はこういう細部を逃さない。この一冊の小説で読者はさまざまな分野の細かな雑学知識を大いに増やしてしまうことになる。ありがたいことだ。
 さて冒頭の旧ソ連人工衛星破片墜落事件に続いて、ニュースメディアは大々的緊急度(24時間ライヴ放送体制)で政界の要人の誘拐事件を報じる。FPI(Fédération Populaire Indépendante = 独立民衆連合)党の総書記であり、党創立者(現党首)の妻であるニコル・トゥルヌールが何者かに誘拐され、その監禁された姿を撮影した動画がメディアに公開された。フランス政界を震撼させる大事件。犯行声明はない。身代金狙いか?政治的背景は? ー  答えはない。小説はここから国を揺るがす事件に入っていくと思いきや、どうもそうではない。まずこのFPIなる政党は全国的な政治組織であるとは言え、国政選挙で2%前後の得票率しかない弱小政党であり、中央政治を揺るがすような勢力はまるでない。右でも左でも中道でもないお題目政党で、建前論ディスクールの立派さだけが取り柄。全国党大会を開いても演壇上幹部席が20席、壇下の参加党員がパイプ椅子で300席という程度。こういうFPI 党であっても、党首脳のひとりの身に災禍がふりかかったとなると、記者会見をし、党声明を発表し、事件に関する党の立場を公式に明らかにする。こういう政党メカニズムをこの小説は徹底的に揶揄するのである。こんな小政党でも、党設立者(フランク・テライユという名前)とその家族縁で固めた主流派(テライユの再婚妻ニコル・トゥルヌール総書記、その前夫との娘で党広報責任者ルイーズ・トゥルヌール)、次期党代表の地位を狙う何人かの幹部、次次期を狙う青年部、そして地方に拠点を持つ反主流派グループなど、普通の政党にありうるすべてが揃っている。
 ニコル・トゥルヌール誘拐事件は日も経たぬうちにメディアの話題から消え去り、党幹部たちは事件の成り行きを待たずにトゥルヌール総書記の死を確信し、テライユ党創立者の引退、次期総書記選出というシナリオで動き始めてしまう。ここに来て党内の亀裂がはっきりしてきて、派閥間での水面下工作があり、昨日までの同盟関係の裏切りがあったりリンチがあったりという、どこの政党でもあるようなことが起こる。その党外にありながら有力な黒幕があの精神医バルドーであり、そのバルドーが医者としての守秘義務あっち向けホイでさまざまな弱み(カウンセリングでの告白の細部)を握って、有無を言わさず絶対服従させられる患者がフュルマールだったというわけ。新米私立探偵は開業まもなくこのバルドーの手先となって、党内工作の実行犯となるのだが、素質が素質だけにヘマばかり。
 総書記亡き(と勝手に決めつけて)あとの空席をどうするかを討議する臨時党大会で、名誉党首フランク・テライユは次期総書記に、義理の娘で党広報責任者のルイーズ・トゥルヌールを推薦する(実は関係の冷めてしまった”故”妻ニコルの死をいいことに、その美貌の義理の娘と関係を持とうとしている)。しかし党内には次期総書記(すなわち党の最高権力者)を狙っている幹部が複数いて、このルイーズ選出を阻止したい幹部らが裏で談合し、過激にもフランク・テライユの暗殺まで企ててしまう。暗殺は政治的スキャンダルを避けるために、党の全くの部外者によって遂行されねばならない。誰かいいやつ知らないか?という問いに、精神医バルドーが挙手し、その結果フュルマールが動かざるをえなくなる。
 しかし小説終盤はカタストロフの連続で、読む方は脳内を狂騒曲が反復するようなテンポになる。まず誘拐され殺害されたはずと思われていたニコル・トゥルヌールが生還する。公にはしないが、弱小政党とその最高幹部(総書記)の話題性を一挙に千倍アップさせるための狂言誘拐事件であったのに、その目算は全く外れ、ニコル・トゥルヌール生還はメディアが全然大きなニュースとして扱わない。渦中の若き美貌の次期総書記候補ルイーズ・トゥルヌールはその騒動に巻き込まれまいと、隠密で南アジア海域のリゾート島にで雲隠れヴァカンスを過ごし、紺碧の南海で巨大ザメに喰われて死んでしまう。党首暗殺を企てた党幹部たちは、このラジカルな状況の変化に、暗殺計画を白紙に戻そうとするが、実行犯ジェラール・フュルマールはすでに行動を起こしている....。
 奇想天外、シュールで不条理な政治サスペンス小説だが、語り口は講談師の名調子のようにテンポが良い。名人芸である。状況を全く把握できない私立探偵は、その狭い視野で必死に動こうとし、なおかつその必死さの過程でもその場で出会う人間たちを観察できるような不思議な余裕がある。話者と作者と主人公(フュルマール)の三者がそれぞれ微妙な違いを見せながらも、余裕でさまざまな雑知識が挿入されるエクリチュールの妙。読み終わったあと、すごく利口になった気がする。
 弱小政党とは言え、金はどこから湧いてくるのか、幹部たちの俗物的豪奢な生活ぶりもよく描かれているし、老党首が枯れた性欲のうずきにまかせてピガールの色街をさまようエピソードも見事としか言いようがない。
 パリ15区の医学ラボラトリーにMRI検査にやってきたフランク・テライユ党首を、MRI検査台に拘束された丸腰状態でMRI検査の騒音に紛れ、誰にも邪魔されず確実に射殺できると踏んだジェラール・フュルマールは、やっと初めて依頼された仕事を遂行できるはずだった。しかし...。暗殺の寸前に党幹部らに阻止され、逆に腹部を撃ち抜かれたフュルマールはその場からタクシーで逃走し、雪降るミラボー橋で非情なタクシー運転手にタクシーから投げ出され、真っ白な雪を血で染めながら、橋の欄干につかまり身を起こし、橋の下を見ると、アポリネールの詩の文句通り、ミラボー橋の下にセーヌは流れているのだった。
突然弱気の虫が私を襲ってきたが、私は川の流れを見つめ続けた。すると一隻のクルーザーがゆっくりした速度で上流に向かっているのが見え、そのキャビンの屋根の上に2羽のカモメが止まっていた。そしてそのキャビンからひとりの女が出てきて、宣伝用の傘を開いたので、私はそれに何が書いてあるのか読もうとしたが、ちょっと遠すぎてあきらめ、私は目を閉じた。私は雪のひとひらが片目のまぶたに落ちたのを感じたが、それが溶けたのだろう、私のこめかみにひとしずくの水が流れ落ちた。(p235-236)
完。もう何にも言うことないです。

カストール爺の採点:★★★★☆

Jean Echenoz "Vie de Gérard Fulmard"
Editions de Minuit 刊 2020年1月 240ページ 18,50ユーロ 

(↓)国営ラジオFRANCE CULTURE、オリヴィア・ジェスベールの番組 La Grand Table Culture(2020年1月15日)にゲスト出演したジャン・エシュノーズ



0 件のコメント: