2008年7月22日火曜日

R.I.P. リュックス・B


 マッシリア・サウンド・システムの4人のMCのひとり,リュックス・Bが18日ガンで亡くなりました。47歳でした。リュックス・B(aka リュックス・ボテ)は1962年アルジェリア生れ。マッシリア・チュールモ(親衛隊)で激しく目立ったお祭り野郎で,知らないうちにマッシリアのステージに登るようになっていましたが,93年からマッシリアのMCとしてハンドマイクを持って暴れ回るようになりました。
 マッシリアの3番目のMC ガリ・グレウとマッシリアの別動バンド,ワイスターOaistarも組んでいました。1年前から病いに倒れ,マッシリアの最新アルバム『ワイと自由』にもほとんど参加できず,その後のツアーにも同行していませんでした。
 7月22日,マルセイユで葬儀が行われ,その夜マルセイユのカフェ・コンセール「バルタザール」で,マッシリアその他の友人たちによる追悼コンサートが開かれます。
実は私はワイスターがパリに来た時も,マッシリアの時も,一度もリュックス・Bに会って話したことがないのでした。とても悔やまれます。
 下のリンクはワイスターのヴィデオの中で,一番リュックスが目立っているものを選んでみました。

Oaistar en suisse


PS.1 (7月23日)
 (←)マッシリアのオフィシャルページに訃報と共に飾られたイラストです。マルセイユとリュックス,美しい図です。

後ろ向きな夏ばかり30年も過ごして



 ローラン・ヴールズィ『ルコレクシオン』
Laurent Voulzy "Recollection"


 2008年7月,コールドプレイ『ビバ・ラ・ビーダ』と共にカルラ・ブルーニの新アルバムの初登場1位を阻んだ(!)ヴールズィの1トラック10部構成の45分アルバムです。新作アルバムと言えるのかどうか。77年発表のミリオンヒット長尺11分シングル「ロッコレクシオンRockollection」の31年後,その拡大解釈(はっきり言えば水増し)版の再録音(約30分)をメインに,それ風な青春ノスタルジーの新歌詞をアラン・スーションが書き,リッケンバッカーのやたらと耳障りの良いエアリアルなギターを中心にした必殺のソフトロックサウンドで,どんどん延長させていく,というしろものです。上品で年齢層高めの地中海クラブカラオケショーの趣きもあります。特に第6部「Rockollection Scène 10」では,ヴールズィでない(無名)リードヴォーカルが複数で歌うものがあるので,なおさらです。
 「ロコモーション」,「ア・ハード・デイズ・ナイト」,「サティスファクション」など77年版で引用していた曲はすべて保存されているわけではなく,「ミスター・タンブリンマン」と「メロウ・イエロウ」(ディランとドノヴァンの曲ですね)が消えました。新たに「黒くぬれ」,「抱きしめたい」,「涙の乗車券」,「サニー・アフターヌーン」,「グッド・バイブレーションズ」などのシクスティーズものだけでなく,セヴンティーズ,エイティーズまで,種々雑多にメドレー化していて,挿入曲の合計は40を越しています。
 こんなもん,最初から最後まで聞いたら脳が溶けてしまいますね。そうなりたい中高年にはこたえられない1枚かもしれません。77年に振り返った自分の十代というのがシクスティーズである世代は,ほとんどがベビーブーマーズです。日本では団塊と言うのでしょうか。初めて買ったシングル盤,初めて持ったギター,初めてのダンスパーティー,初めての外泊...。それをヴールズィは77年に「あの時はバックにこういう曲が流れていた」というヒット曲をメドレーでつなぎ合わせて,青春グラフィティーを回顧してしまったのです。その29年後,2006年,懐古趣味アーチストはその本領をもう一度発揮して『第7の波 Septieme vague』という,(夏が来れば思い出す)スローバラード・ヒット曲のカヴァーアルバムを発表して,大ヒットさせました。
 甘く酸っぱいノスタルジーは,特に「夏場」の主力商品であり,毎夏同じようなナツメロ特集を主要テレビ局/大手一般ラジオ局がオンエアし,ヴァカンス中の中高年たちは,あの時きみは若かった,を思い,目をうるうるさせたりします。
 確信犯ヴールズィはノスタルジー領土を果てしなく拡張していく,という技において,多くの中高年の美しい老後設計の強い味方として登場します。アンドレ・リウの大オーケストラと双璧でしょう。このアルバムでまともな新曲として1曲だけ提出されている第2部「ジェリー・ビーン」は,スーション詞でありながら,ヴールズィの幼少期から少年期までを自伝的に,しかも100%肯定的に,青春すべてが美しい,あんた一体どこの惑星で生きていたんだ,というあきれた曲で,私,ほんとスーションを買いかぶっていたのか,と自問してしまいました。
 時は過ぎ行く。オール・シングス・マスト・パス。いつでも過去に帰っていきたいなら,その曲のオリジナル盤を聞くというのが正しいでしょう。なぜ,フランスの中高年たちはヴールズィでそれを疑似体験しようとするのでしょう? それは過去に何重にもフィルターをかけて,甘美の度合いを果てしなく増量したヴァージョンであるからでしょう。この過去はとんでもないフィクションなのですが,それがいいというムキにはしかたないじゃないですか。
 挿入曲中,唯一のフランス語曲は「きみとの愛がすべて L'amour avec toi」(ポルナレフ作)です。考えてもしかたないことを考えてしまいます。
 ついでに言うと,77年版と一体何が一番違うか,というと,英語の発音です。77年版はモロにフランス人英語の発音だったのに,30年もこれやってるうちに,英語が(日本人英語みたいな)ネイティヴ・イングリッシュに近くなってます。これも気持ち悪いものです。
 なおアルバムタイトルは『ルコレクシオン Recollection』(再び集めること)であって,『レコレクシオン Récollection』(【宗】〈黙想中の〉精神集中,潜心,瞑想)ではないと思います。決して精神集中して聞いてはいけません。


<<< トラックリスト >>>
Acte I. Dans le vent qui va
Acte II. Jelly Bean
Acte III. Radio Collection
Acte IV. Rockollection 008
Acte V. A7708
Acte VI. Rockollection Scène 10
Acte VII. Les Interrogations d'Elizabeth
Acte VIII. Jukebox
Acte IX. Sous La Lune
Acte X. Epilogue : Dans le vent

LAURENT VOULZY "RECOLLECTION"
CD RCA/SONY-BMG 88697318952
フランスでのリリース:2008年7月2日



PS 1
あっちゃっちゃ...。見なくてもいいですよ。Youtubeに7月14日(革命記念日)シャン・ド・マルスでのコンサート(口パクではないですけど,プレイバック使用ですね)のヴールズィ「ルコレクシオン」が載ってました。Laurent Voulzy "Recollection"
Pathétique !

2008年7月18日金曜日

コジ・ファン・トット(ちゃん)



 Tetsuko Kuroyanagi "Totto-Chan La petite fille à la fenêtre" (traduction du japonais : Olivier Magnani)
 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』(仏語訳:オリヴィエ・マニャーニ)

 
 娘が夏休み中に読むという約束で買った3冊の本のうちの1冊です。日本戦後最大のベストセラー。オビには"Plus de 8 millions d'exemplaires vendues(8百万部を越す売上)"と書いてあります。フランス語訳の単行本は2006年にプレス・ド・ラ・ルネッサンス社から出ていて,2008年4月に文庫化されたのがこのPOCKET版です。単行本(20ユーロ)の時もいわさきちひろのイラストが表紙でしたが,文庫版(6.40ユーロ)の方がインパクトの強い,はっきりした「ちひろ画」です。
 娘が7月前半サヴォワ地方でコロニー(ヴァカンス合宿)だったので,この本も持っていかそうとしたのですが,出発後見たらしっかり自分の部屋の机の上に置いてありました。だめなやつ。
 これまでも(そんなに多くないですが)娘と同じ本を読んで,そのあとでその本についてディスカッションをする,ということをしていて,娘の読解力や娘の意見などがわかってとても面白いし,逆に娘も私の見方というのを興味を持って聞いてくれます。というわけで,娘が帰ってくる(実は昨日17日に帰ってきた)までの3日間の通勤時間を利用して,かの有名な『窓ぎわのトットちゃん』(フランス語版)を読み終えました。私は日本語版を読んでいません。初体験です。
 まず仏語訳をしたオリヴィエ・マニャーニに満腔の敬意を表します。こんなに柔和でわかりやすく,小津映画の仏語字幕のような優しさにあふれたフランス語に心うたれます。細部の注釈もとても親切で,娘のような日仏宙ぶらりんの人間には「きんぴらごぼう」や「でんぶ」といった食べ物がどんなものなのか,マニャーニ訳でわかってしまうかもしれません。
 12月14日赤穂浪士討ち入りの日,つまり義士祭ですね,その時にトモエ学園の丸山先生が子供たちを連れて,"Le temple du Pic-fontaine"というお寺をお参りします。この名前は一体何だろうと,一生懸命探しました。尖った泉の寺? そういう時には私もインターネットを使って赤穂浪士ゆかりの地を探して,それに相当する名前を見つけようとしますね。ありました。「泉岳寺」。四十七士の墓碑のあるところですね。そこに行く道々,子供たちは丸山先生の説明の中に出てくる人物の有名なセリフを真似して,こう繰り返すのです:Moi, Rihei Amanoya, je suis un homme。(モワ,リヘイ・アマノヤ,ジュ・スイ・アン・ノム)。なにかミッシェル・ポルナレフの歌みたいですね。これは四十七士を金銭面で支援したと言われる浪速商人が切る大見栄の台詞で「天野屋利兵衛は男でござる」というやつなんです。こういうところを面白がるのは(へへへ...)日仏バイリンガルの冥利ですね。だからミッシェル・ポルナレフにも日本語でやってみろ,と言ったら「ポルナレフミシェルは男でござる」と見栄を切ってくれるんじゃないか,と。
 1940年代初め,1年生で不適応児童として小学校を放校処分させられた「トットちゃん」が,新しい学び舎として編入した一風変わった学校「トモエ学園」と,その中で変身を遂げる「トットちゃん」の風雲録です。日本で超有名な本ですから私がここで内容について説明する必要など何もないでしょう。散歩(小遠足)やリズム体操や時間割の自主管理(1日の課題を好きなものから始めてもいい,何時間かかってもいい...)などで,ノルマ主義の学校教育の正反対を実現していた不思議な学校,その創立者小林宗作は一体何を考えていたのか,また米国との戦争が始まり挙国一致の風潮の中で,吹き荒れる軍国主義にも負けず,どうしてこのような自由な学校が可能だったのか,興味はつきないものがあります。フランス人読者には,その歴史的な周辺の状況が見えづらいかもしれません。とは言っても時代を越えて,国境を越えて,いずこも同じ画一化教育に子供たちも親たちも現場の先生たちもあっぷあっぷしている状況は共通です。フランス人読者たちの感想も,一番先に「こんな学校が欲しい」というものが来ます。
 理想の学校は子供の将来をやや過剰に考える親たちとはソリが合わないでしょう。親たちも不安でしょう。「トットちゃん」はその親側の不安を越えて,トモエの教育方針を最終的に信頼してくれた自分の両親にとても感謝していますが,中にはそうでない親がいてトモエを去っていく子もいます。特殊な学校という差別感でしょう。この学校に任せておいたら特殊な子になってしまう。特殊な子で何が悪い,という親はごく少ないでしょうね。
 この本で娘によく読み取ってほしいのは,「トットちゃん」が遭遇しているあらゆる種類のレイシズムです。身体障害者,ろうあ者,外国人(この本の中では朝鮮半島から来た人たち),外国育ちの日本人...。この本の中では,あの当時日常的であったこれらの人たちへの差別感覚を,「トットちゃん」やトモエという学校が,「人と人の違いがあることは素敵なことなんだ」へ変えてしまうパワーを持っていたことなんですね。
 この本が描いた時代から60数年経っているわけです。レイシズムはいまだに私たちの日常にも娘の学校にもありますし,学校で勉強することがどれだけ意味があるのかがますますわからなくなっている21世紀です。「トットちゃん」は小林宗作と出会えた幸運を一生抱きしめていけるのですが,この出会いを考えた場合,娘はそういう誰かと出会えるのか,あなたや私はそういう誰かと出会ったのか... この最後の問いには私は長い沈黙をするしかないのですが,life goes on。カストール爺は男でござる。

 Tetsuko Kuroyanagi "Totto-Chan La petite fille à la fenêtre" (traduction du japonais : Olivier Magnani)
 (Pocket文庫13106 2008年4月 284頁 6.40ユーロ)

2008年7月13日日曜日

今夜は徹底的にノヴォ!



 エキスポ・カタログ『デ・ジュヌ・ジャン・モデルヌ / フランスにおけるポスト・パンク、コールドウェイヴ、ノヴォ・カルチャー 1978-1983』
 Collectif "Des jeunes gens Mödernes - Post-Punk, Cold Wave et Culture Novö en France 1978-1983"


 このエキスポは2008年4月3日から5月17日まで、レ・アールのアニエス・Bギャラリーで開かれていました。爺は行っていません。と言うか、こんなエキスポがあったことなど知らなかったのです。町と情報から遠いところに生きている証拠です。レ・アールなどもう何年も足を踏み入れていない世界なのでした。
 70年代半ば、レ・アールにはすでにマルク・ゼルマティの「オープン・マーケット」、ミッシェル・エステバンとリジー・メルシエ・デクルーの「ハリー・カヴァー」といった店があって、Tシャツやファンジンや自主制作レコードが流通していました。フランスで後に教祖的なロック・クリティックとなるイヴ・アドリアンは、ROCK & FOLK誌1973年1月号に"JE CHANTE LE ROCK ELECTRIQUE"(電気ロック讃)と題するマニフェスト的な記事を書き、MC5、イギーとストージーズ、フレーミン・グルーヴィーズなどを称賛し、その中で「PUNK, c'est l'orgasme électrique, le satori dirty(パンク、それは電気のオーガズム、ダーティーな悟りである」と宣言してしまったのです。一種の「われパンクを発見せり」ですね。
 その後ロンドンから「ノー・フューチャー」というパンクの死の宣告がやってきます。それは68年5月と同じように革命的で短命で、とりわけ社会的な事件でした。無産階級のアナーキーな運動に似ていました。度を越して増幅された音と度を越したスピードで演ぜられるこの音楽がひとつの規格となった時にパンクは革命ではなくなりましたし、元々革命に期待していなかった中産階級は次なるものをすぐに欲したのです。
 中産階級は「ノー・フューチャー」というスローガンに自分たちを結びつけることができなかった。やっぱり未来は好きなんだもんね、というテレビ世代のヴィジョンがあります。あの頃「当座の未来」は機械であり、テクノロジーであり、原子力でした。米ソのミサイルがいつ飛んできてもおかしくない脅威もありました。冷たいマシーンと友だちにならなければ、生き残れないような危機感もありました。
 われらがロック・クリティック、イヴ・アドリアンはパンク後の氷河時代の到来を見てROCK & FOLK誌1978年2月号に長稿を投じ、"AFTERPUNK"(アフターパンク)というコンセプトで説明します。まじに体でぶつかりあっていたパンクが終わり、アフターパンクはゲームである、と言います。それは自分と離れたゲームのコマ、アイコン、ヴァーチャルな代理自我が、画面上で生や愛を表現する、機械的/ロボット的なロマンティシズムとなり、実像よりも虚構を好む、テレビ世代のリアリティーとなります。音楽的には「アフターパンクは1977年に生まれている。オルファン(イヴ・アドリアンの代理自我的なフィクション上のヒーロー)が認める4枚のアルバム:クラフトワーク『トランス・ユーロップ・エクスプレス』、デヴィッド・ボウィー『ロウ』、イギー・ポップ『愚者』、デヴィッド・ボウィー『ヒーローズ』の中にアフターパンクは生まれた。鉄の色をした4枚のポートレートであり、ドイツの指導下に作られ、情熱ではなくインテリジェンスに従属した4枚のモダン・アルバムである」とアドリアンは断言します。
 アドリアンはこのようにボロボロで肉体的なパンクと惜別して、冷たいダンディズムのふるまいでアフターパンクを構想し、1980年にはさらにマジックミラーの内側的で、都市内隠遁者的で、スタイリッシュな虚構に閉塞的な未来を見ていく「Novö ノヴォ」というコンセプトを提出します。
 アドリアンの兄貴分的に、同じような耽美的で冷たいダンディズムをふりまいていたのが、リベラシオン紙の「アンダーグラウンド担当」ジャーナリスト、アラン・パカディ(1949-1986)です。それに加えてパンクバンド「アスファルト・ジャングル」のリーダー/ヴォーカリストで、Best誌(Rock & Folkより後発ですが、当時のフランスの2大ロック誌のひとつ)で論陣を張ることになるパトリック・ウードリーヌが混じり、フランスの「(パンク/ニューウェイヴ)ロック・クリティック三筆」を形成するようになります。
 こういう論客と、新聞雑誌メディア(Rock & Folk, Liberation, Best)と、レ・アールの数々のブティックが連動して、70年代末から80年代前半にかけて、短髪でクリーンで近未来的で機械的なポップ・ムーヴメントが展開されます。特徴的なのはグラフィズムやデザインが音楽のコンセプトと最初から合体しているような、デザイン性の高さです。ジャン=バチスト・モンディーノ、ピエール&ジル、グラフィック集団のバズーカなどが、このムーヴメントのヴィジュアル面を支え、特殊な審美性を醸し出します。このグラフィズムのヌーヴェル・ヴァーグはファクトリー・レコードや4ADと同時進行的に起こったものですが、そのエステティズムの極致のようなレーベルがノルマンディー地方に1978年に設立されたソーディド・センチメンタルSordide Sentimentalで、スロビング・グリッスル、ジョイ・ディヴィジョン、サイキックTV、ドゥルッティ・コラムなどが独特のパッケージングで発表されています。
 スティンキー・トイズ(後のエリ&ジャクノ)、エレクトリック・カラス、マリー&レ・ギャルソン、マルキ・ド・サド、タクシー・ガール、カス・プロダクト、リタ・ミツコ...。これらの音楽はフランスのメディアやメジャーレコード会社に黙殺されながらも、スタイリッシュなクオリティーを保ちながら地下シーンを沸かせていました。ニューローズ、セルロイド、スカイドッグ、ZEレコード、ドリアン、マヌカンといった独立レーベルがこれらのアーチストたちのレコードを出し、Rock & Folk誌ではジャン=エリック・ペランがそのシーンを「Frenchy But Chic(フレンチー・バット・シック)」という定期コラムを張ってバックアップしていました。また79年に再刊されたフランスを代表するカウンター・カルチャー雑誌アクチュエルは、このフランスの新しいアーチストたちを "Des jeunes gens modernes"(モダンな若い衆)と揶揄的に呼んだのでした。

 その30年後の回顧展が、あの当時レ・アールでその評価を確定的にしたファッション・デザイナーであったアニエス・Bの音頭取りで開かれたというわけです。このカタログはバズーカを初めとした当時のアンダーグラウンドなグラフィズムがたくさん載っていますが、私にとって最も興味深かったのは、イヴ・アドリアンとアラン・パカディという二人のロック・クリティック・ダンディーの冷たくもあり、悪ガキっぽくもある、妙なるロマンティスムによるロック批評に多くが割かれていることでした。キーワードはやはり「ノヴォ Novö」なのです。二つめの[o]の上のウムラウト[¨]にこだわってます。ドイツ接近、または東側接近に80年代的モダンの意味を持たせようとしているのでしょう。さっそくアドリアン/パカディの著作を読んでみようという気になりました。
 
 エキスポのプロモーション・ヴィデオのようなドキュメンタリーをデイリーモーションで見つけました。『The Art Pack - Des jeunes gens mödernes』。実に惜しいエキスポを見逃したものです。

 (←)またNaiveから同エキスポの2枚組コンピレーションCD"Des jeunes gens mödernes"(Marie & les Garcons, Norma Loy, Charles de Goal, Taxi Girl, Masoch, Kas Product, Tanit, Electric Callas, Casino Music, Suicide Romeo, Marquis de Sade, Etienne Daho, Lizzy Mercier Descloux, Modern Guy, Elli & Jacno, Tokow Boys....)も出ています。未聴です。なんとしてでも聞かねば。

 Collectif "Des jeunes gens mödernes"
(Naive/Galerie du Jour Agnès B。2008年5月。192頁。39ユーロ)

2008年7月9日水曜日

それにつけてもこいつはカルラ



 7月9日,オフィシャルサイト「カルラ・ブルーニ・ドットコム」で,2日後7月11日リリースのアルバム"COMME SI DE RIEN N'ETAIT"(NAIVE)の試聴が可能になったとたん,同サイトのアクセス数はピークに達したのだそうです。
 爺もアクセスしてみました。「espace vip」というところに会員登録が必要で,氏名,郵便番号と国名,誕生日,メールアドレスを書き込まなければなりません。それからオフィシャルサイトからの認証をもらって,やっと「espace vip」への入場が許されます。その場に居られるのは120分のみで,残り時間が表示されてます。14曲全曲がイントロからエンディングまでノーカットで試聴可能です。お慈悲深いことに無料です。まあ,これだけの個人情報と引き換えにということですから,怖がる人たちも多いと思います。明日からエリゼ宮からプロパガンダ・メールが届くようになるかもしれません。この無料試聴サーヴィスは7月21日まで続くそうです。

 これはプロモーション効果としてはどんなものでしょうか。リベラシオン紙のインターネット版には9日午後から轟々の投稿が来ているそうで,そのほとんどがアルバムを酷評する内容です。聞いていない人たちの投稿が多いのかもしれません。しかし発売前からこういう世評を作るチャンスを消費者(あるいはフランス国民)に与えてしまっていいものでしょうかねえ。
 ドミニク・ブラン=フランカールのプロデュースによるシクスティーズ・フォークテイストの編曲で,弦のアレンジにバンジャマン・ビオレーも起用されてます。ミッシェル・ウーエルベックの詩「ある島の可能性」(同名小説の最終部に出てくる詩です。ウーエルベック自身が監督した同名映画もこの秋公開の予定です)は2曲目という重要な位置にあります。ボブ・ディランのカヴァー "You belong to me",ジュリアン・クレール曲の"Déranger les pierres",死んだ兄に捧げられた "Salut marin"...。爺が一聴しただけで,これはやっぱりカルラ・ブルーニだと思わせる曲がありました。まあテレラマ誌のヴァレリー・ルウーが「凡庸なヴァリエテ・アルバム」としながらも「きれいな曲が中にはある」と書いてあったのは,このことなんだろうと思いました。
 ル・モンド紙は今日付けでアンヌ・ギヤールによるアルバム評が出ました。以下に結論部を訳します。

 Mais Carla Bruni-Sarkozy paraît avoir oublié le côté ludique de la langue, et l'émotion n'est pas au rendez-vous (....) La première dame reste dans sa bulle, comme si de rien n'était.
 しかしカルラ・ブルーニ=サルコジは言葉の持つ遊びの面を忘れてしまったようで,感動はついに訪れない。(...) ファーストレディ様はシャボン玉の中に留まっている,何ごともなかったかのように。

 

 何ごともなかったかのように。そのままタイトルです。これが7月11日に店頭に並びますよね。翌週は7月14日(革命記念日=祝日)があるので,SNEP(フランスレコード協会)のオフィシャル・チャートの集計はたぶんないと思います。だからこの週のアルバムチャートの発表は7月22日の火曜日になるでしょう。この時「カルラ・ブルーニ初登場1位」ということが仮に発表されるとしますね,それはどういうことになるか,それは「音楽的大事件」にはならず,「政治的大事件」になるはずなのです。断言すれば,このアルバムは絶対に「初登場1位」になるわけのない作品なのです。この不可能が可能になった場合,それは政治的な何か,なのです。おわかりかな,お立ち会い?

 アルバムの収益中,アーチストのロイヤリティーは全額慈善団体FONDATION DE FRANCEに寄付されます。つまりカルラ・ブルーニは一銭ももらいません。
 なお,今朝の国営ラジオFRANCE INTERに出演したカルラ・ブルーニは,正式にフランス国籍を取得したことを発表しました。チャオ,イターリア! チャオ,ベーラ!!! 


PS 1 (7月10日)

このブログで頻繁に取り上げること自体,間接的にプロモーションの手伝いをしてあげることになってしまうので,そろそろやめましょう。7月10日日刊(地下鉄配布)フリーペーパー新聞METROに掲載されたインタヴューには,(1)カルラ・ブルーニ=サルコジは妊娠していない + ボディのラインが変わったのはビールの飲み過ぎである (2)北京オリンピック開会セレモニーに正式出席すると大統領は表明したが,カルラ・ブルーニ=サルコジは同行しない,といった情報が載っていたようです。
(2) の方には,一連の中国問題(人権やチベット)に関して,大統領と大統領夫人のご意見の違いみたいなものを期待してしまうムキもありましょうが,その部分をそのまま転載しますと
(METRO) Allez-vous accompagner votre époux aux JO de Pékin?
(CBS) Non. C’est un très long voyage, il n’a jamais été question que j’y aille.
(METRO 北京オリンピックにご主人と同行されますか?)
(CBS いいえ行きません。それは大変な長旅なので,私が行くことなど問題外なのです)
となっています。つまり長旅だから行かない,ということです。洞爺湖に行かなかったのも同じ理由と考えられます。ロジックです。ただ解釈によっては,夫人が長旅がいやだから,という理由が通ったとも考えられます。ファーストレディの随行は法で決められた義務ではないし,理由があればちょっと国家代表として格好が悪いけれど単身訪問もしかたないでしょう。長旅がお好きでない。そうかもしれません。21世紀の女性ですから,夫の体面のためにお好きでないこともがまんしてしなければならない,という旧時代的な考え方は捨てましょう。 - 「どうして行かないの?」「だって疲れるんだもん」 - このレベルでの決定ではないか,とも考える爺です。アンニュイには理由がある。

PS2 (7月17日)
7月6-12日のSNEPアルバムチャートが発表になりました。
Top Album IFOP/SNEP
1位コールドプレイ、2位ローラン・ヴールズィ、3位(初登場)カルラ・ブルーニ。なにかとてもホッとした気分です。18日付のリベラシオン紙によると、11日/12日2日間の売上枚数は14000枚で、レコード会社Naiveはたいへん満足しているそうです。リベ記事「カルラ・ブルーニ14000枚」

PS3 (7月23日)
7月13-19日のSNEPアルバムチャートで Top Album IFOP/SNEPで,カルラ・ブルーニが1位になってしまいました。サルコランドの現実でしょうか。あ〜あ。

2008年7月6日日曜日

愛するアニタ



 ファブリス・ゲニョー『シクスティーズのミューズたち』
 Fabrice Gaignault "Egéries Sixties"


 またしても新刊ではありません。オリジナル単行本は2006年に刊行されていて、これは2008年6月にJ'AI LU社から文庫化された版です。ガソリン代高騰に勝てず、4月から地下鉄通勤者になってからは,通勤時間を利用して本がそれまでの倍読めるようになりました。そういう時は文庫本(リーヴル・ド・ポッシュ。ポケット本)がかさ張らず便利です。おまけに安い。この本だって2年前の単行本が20ユーロで,この文庫版は6.70ユーロですから。こういう当たり前のことに気がつかなかったのは十数年間クルマ生活者だったからなんですね。
 さて,著者ファブリス・ゲニョーは女性月刊誌Marie Claireの文化欄編集長です。タイトル中の"égérie"(エジェリー)は適当な訳語が見つからなかったので「ミューズ」としましたが,どちらかというと「ニンフ」に近く,芸術家に霊感(インスピレーション)を与える女性のことで,このノンフィクション本は主に60年代のロック・アーチストたちにその美貌(+その他)で多大な影響を与えた女性たちを,本人とその周囲の人たちの証言で多面的に捉えるものです。ニコ,アマンダ・リア,ズーズー,パティー・ボイド,マリアンヌ・フェイスフル,アニタ・パレンバーグ...。ブライアン・ジョーンズ,ミック・ジャガー,キース・リチャーズ,ジョージ・ハリスン,エリック・クラプトン,デヴィッド・ボウイーなどを狂わせた女性たち,というわけですが,誰が誰とどうなっていたということを芸能誌ネタ風に書き並べている本ではありまっせん。そんなものは英国タブロイド紙に任せておけばいいのであって,フランスのステータスある女性誌の幹部ジャーナリストのすることではないでしょう。なぜファブリス・ゲニューがこのような本を書けたのかは,多くの人たちが意外なことと思うはずなのですが,これらのことの舞台はロンドンではなく,ほとんどがパリで起こっていたからなのです。これらのミニスカートの似合う細身の美女たちは,パリのマヌカン派遣会社社主兼スカウトのカトリーヌ・アルレが,パリのナイトクラブなどで発掘して,ヴォーグその他世界のファッション雑誌に売り込んでトップモデルとなっていったのです。国籍はどうあれ世界の最先端の美貌はパリに集中し,そこからニューヨークやロンドンやトーキョーに出張して仕事をしていたわけです。
 私たちはあの頃を思う時とりわけ音楽のことを考えると,ビートルズやローリング・ストーンズを生んだ国と比べるとフランスには何もなかったと思いがちです。スウィンギング・ロンドンの時代,パリには何もなかった,と。それはビートルズとジョニー・アリデイを比べるからなんですね。
 ところがこの本はあの頃ロンドンの夜は何も面白いものがなく,みんなパリに来ていた,ということを証言しています。極端に言えば,世界トップクラスの美女を求めて,ロックスターたちがパリにナイトライフの拠点を置いたということにもなります。その代表がブライアン・ジョーンズ,ミック・ジャガー,キース・リチャーズというローリング・ストーンズの3人でした。そのパリ移住組の中には映画「パフォーマンス」(ニコラス・ローグ監督,ミック・ジャガー初主演映画)のシナリオ(およびローグと共同監督)を書いたドナルド・キャメルもいて,キャメルとデボラ・ディクソン夫妻のモンパルナスのアパルトマンでのパーティーが,ロックスターとトップモデルたちの出会いの場所だったりします。「アドリブ」,「カステル」,「レジーヌ」...パリのナイトクラブには,サガンやゴダールなどの他にボブ・ディラン,ビートルズ,フー,キンクス,ヤードバーズなどのメンバーが出入りして,ハプニングアートや世界一の美女のツイストを見ながら朝まで狂乱するということをしていたようです。ズーズーに「きみはツイストがうまいねえ」と声をかけるのがジョージ・ハリソンだったり。
 ロックンロールの枕詞は「セックス&ドラッグ」です。ローリング・ストーンズ歌う「マザーズ・リトル・ヘルパー」(母ちゃんの小さな助っ人)は経口避妊薬(ピル)のことでした。シクスティーズの若い男女はピル登場のおかげで,誰が誰とセックスしようが何の心配もなくなってしまった。このトップモデルたちとロックスターたちはパリの夜にいくらでもパートナーを変えて性の饗宴を繰り広げるのです。ドラッグはその栄養剤/刺激剤としてなくてはならないものになります。エイズが出現するまでロックスターたちは,それでフツーだろうが,と思っていたんですね。
 いやはや大変なオージー時代だったのですが,その中心地のひとつがドゴール〜ポンピドゥー時代のパリであったということです。この本に登場する人物たちは程度の差こそあれすべてジャンキーです。大陸の方がドラッグが手に入りやすかったということもあるかもしれません。この本の最重要人物のひとりとなっているアニタ・パレンバーグの証言では,彼女が初めてローリング・ストーンズのコンサートに行くのは,モデル仕事の出張先のミュンヘンでのことで,時は1965年,その時楽屋に潜り込むことに成功して,彼女はストーンズのメンバーにマリワナをすすめますが,メンバーは怖がってなかなか手を出さなかったというのです。ブライアン・ジョーンズを除いて,彼らはまだ「クリーン」だったというわけです。
 後に6人めのローリング・ストーンズと言われたアニタ・パレンバーグはその夜からブライアン・ジョーンズの恋人となり,2年間同棲し,1967年春のある日,デボラ・ディクソン,キース・リチャーズ,ブライアン・ジョーンズ,アニタ・パレンバーグの4人が自動車(ベントレー)でパリからモロッコまでの旅行に出かけ,いろいろなゴチャゴチャがあって,この時からアニタはキース・リチャーズの恋人になります。このモロッコ旅行に関してはこの本で3者の違う証言があり,大変興味深いです。この時をきっかけにローリング・ストーンズ創始者ブライアン・ジョーンズは主導権を失い,やがてバンドから放逐されてしまうのですが,この時からアニタはそれまでパッとしなかった大人しい好青年風のギター弾き君を大改造して,私たちの知る私たちの大好きなワルでスタイリッシュなギタリスト,キース・リチャーズを誕生させてしまうのです。その代わり徹底的なヤク浸け人間にも改造されるのですが。
 71年ローリング・ストーンズは税金対策のために彼らの大好きな南仏コート・ダジュールに移住します。ミック・ジャガーとビアンカがサントロペで結婚し,キースとアニタはヴィルフランシュ・シュル・メールのヴィラに住み,毎晩近所のワルたちも集めてパーティーしていました。この時期にアルバム『メインストリートのならず者』も録音されるのですが,静かなストーン,ビル・ワイマンはこの時に画家マルク・シャガールと交友関係を持ちます。この時の話がこのセックスとドラッグだらけの本の中でひときわ異彩を放つので,少しだけ訳します。

 (P253 訳はじめ)
 - 最初に画家の家を訪れた時,彼は家の壁という壁がすべて大きく美しいたくさんの絵でおおわれているのに驚いた。ワイマンはシャガールにどうしてこれらの絵は売られたり展示されたりしないのかと尋ねた。画家は彼にこれらの絵が完成していないからだと答えた。「僕は彼に,絵が完成したと彼が認められるのはどんな瞬間なのか,と質問した。彼は《絵を私の庭に持っていって花や草の真ん中に置いてみる,その時絵がもう悪い健康状態じゃなくなっているな,と思える時,私はその絵が完成したと認めることができるのだ》と答えた」。この美しい話をブライアン・ジョーンズが聞いたら,きっと好きになるだろう,と彼は確信している。
(訳おわり)

 マリアンヌ・フェイスフル,アマンダ・リアなど現役の人たちもいます。ニコを唯一の例外として,この本に現れた女性たちは,何はともあれ,生きています。自殺,他殺,病死,オーヴァードーズ,いろいろな理由で彼女たちが関わった男たちはたくさん死んでいます。
 アニタ・パレンバーグは77年にキース・リチャーズと共にカナダで麻薬所持で捕えられて以来,キースの重刑(長期の禁固刑)すなわちローリング・ストーンズの消滅という最悪の事態を避けるために,共犯関係を否認するための法廷上の手段としてキース・リチャーズと別離します。これで6人目のローリング・ストーンズは消滅するわけですが,アニタはこの本のインタヴューでは今でもキースを愛し続けているし,別離こそしても交流は続いていると言います。ただ,「私の生涯の恋人というのはブライアン・ジョーンズであり続ける」なんてことも言うのです。キースは相棒,共犯者,愛人であって,私の情熱はずっと違うところにあった,と。 Talk is cheap (Keith Richards)


Fabrice Gaignault "EGERIES SIXTIES"
(文庫 J'AI LU8679。2008年6月。318頁。6.70ユーロ)



PS1 (7月14日)
さなえもんへ。
(←)出典はこれです。

 
 
 

2008年7月4日金曜日

今朝の爺の窓(2008年7月)



 先月とあまり変わらないんですが,撮影が朝早かったので,手前側が日陰になっていてプラタナスの緑が濃く見えています。ベランダのラベンダーが紫色の花をたくさんつけています。セーヌ川は全く見えなくなりました。
 今年の革命記念日(7月14日)イヴェント,わが町ブーローニュの花火大会は7月13日夜,この河岸を数百メートル上流に行ったところにあるセガン島(中州。もとルノー自動車工場があったところ)から打ち上げられます。浴衣,下駄履きで行ってみたいものです。
 14日の夜はパリ市はエッフェル塔で花火ですけど,15区の屋上階に住む友人夫妻(3年前にセネガルに行った時に親しくなった人です)がシャンパーニュひと瓶を「入場料」にしてたくさんの人を招いて屋上パーティーをしながら,真正面にフランス最高級の豪華花火を楽しむ,という豪勢な誘いを受けています。行かないテはないですね。
 今朝娘セシル・カストールが2週間の「コロ」(colonie de vacances:子供のためのヴァカンス集団合宿)に出かけました。今夏は山です。サヴォワ地方の山の中で,キャニオニングやラフティングを体験するのだそうです。毎冬/毎夏「コロ」に行く度に,親が体験していない領域をどんどん増やしていくので,やや嫉妬です。爺がおまえの歳の頃は夏でも炎天下で野球するしかなかった,って言っても...。
 
 今夏は暑くなるのでしょうか。爺も休みたいですねえ。暑さには本当に弱いのです。
 暑い時は向かいのサン・クルー公園の泉水のところに行って涼を取ります。毎日曜日午後は,たくさんある噴水が1時間おきに一斉に噴き出しますし,こういう(↓)豪華な階段状の滝流れもあります。この滝は上の写真の中央から上方やや右の緑の中に見えるんですよ。

2008年7月3日木曜日

今朝のフランス語「リベレ」



 7月2日現地(コロンビア)時間の午後に、イングリッド・ベタンクールが6年半の人質拘禁状態からやっと解放されました。フランスのテレビは時差の関係で午後10時半頃から、各局で特別番組が始まりました。
 とても長い時間でした。元コロンビア大統領選挙候補者イングリッド・ベタンクールは2002年2月にその選挙キャンペーンに反政府ゲリラFARC(コロンビア革命軍)の勢力の強い地区まで乗り込んでいって、誘拐され、コロンピア政府に捕らえられている500人のFARC兵士の釈放を求めるための人質となります。

 Libérée(リベレ)
 
とリベラシオン見出しは書きます。
 新スタンダード仏和辞典は
 libéré(e) [libere]abjectif participial (過去分詞から来た形容詞)1. 釈放された、除隊した
 2. 解放された femme 〜e 解放された女性
- n.(名詞)釈放者;除隊兵(軍人)
 という説明があり、軍隊が解放してやったり、釈放してやったり、という感じのミリタリー調のニュアンスが強い言葉です。力づくで解放をもぎ取ったという感じもあります。この強い女性によく似合った言葉です。
 「femmes libérées」ファム・リベレというと、60-70年代の女性解放運動の成果として意識的にも経済的にも自立して解放された女性たちのことになります。これを優しく茶化した「解放された女性はつらいよ」と歌った80年代にビッグヒットがクッキー・ダングラーの『ファム・リベレ』です。
 また新聞の名称にリベレのついた「ル・ドーフィネ・リベレ Le Dauphiné Libéré」という南東山岳地方(サヴォワ,イゼール,オート・ザルプ,アルプ・ド・オート・プロヴァンス,ドローム...)を基盤にした有名な地方新聞があります。「解放されたドーフィネ地方」という意味ですが,創刊は1945年で第二次大戦時にレジスタンスで戦っていたジャーナストたちが立ち上げた新聞です。1947年からこの新聞社主催で世界的に名高い自転車ロードレース「クリテリオム・デュ・ドーフィネ・リベレ Critérium du Dauphiné Libéré」が毎6月に開かれ,言わば「トゥール・ド・フランス」の前哨戦のような山岳道の多いレースです。
 同じようにリベレとついた新聞「ル・パリジアン・リベレ Le Parisien libéré」というパリ圏発の全国紙がありましたが,1985年に「ル・パリジアン Le Parisien」と改名して「リベレ」を取ってしまいました。レジスタンスの心がなくなってしまったのかもしれません。