2021年7月25日日曜日

ティーン・スピリットってわかるかい?

(←)2019年3月のサロン・デュ・リーヴルで、ニコラ・マチューと私(あほな写真)

 日本の出版界の事情は存じ上げないが、仏ゴンクール賞受賞作がもう3年連続で日本で翻訳出版されていないというのはゆゆしき事態だと思う。文学も映画も音楽も最新のフランスがこれほど日本の愛好者たちから遠ざけられたことはない。カルチャーの”総エンタメ化”のせいであり、ヒット性/商業性ばかり追求する傾向が今ここにある生きた表現を無視する。抵抗しよう。爺ブログは抵抗する。

 2021年7月17日と24日、2回の土曜日、(7月12日テレビ演説による)マクロンの”コロナ・ワクチンとワクチン・パスポート(Pass Sanitaire)の義務化”政策に反対するデモがあり、17日の動員数が11万人、24日が16万人を超えた。メディアでマイクを奪い合う極右、ポピュリスト、陰謀論者、ジレ・ジョーヌ残党、宗教原理主義者たちがメインなのではない。「(ワクチンに反対するのではなく)あらゆる強制義務に反対する」と主張する未組織の市民たちなのだ。2018年11月、突然全国の地方部のロータリー交差点を占拠した無名の市民たち”ジレ・ジョーヌ”運動出現の時のことを想わずにはいられない。どこから出てきたのか誰も予測できなかった無数の市民たち...。

 ジレ・ジョーヌが始まったあの冬、2018年11月から12月、私は単身日本(青森のみ)にいた。翌1月7日に逝くことになる母の最晩の病床に10日間詰めていた(結局臨終に立ち会っていない)。手元にはその年のゴンクール賞小説ニコラ・マチュー著『彼らのあとの彼らの子供たち(Leurs enfants après eux)』があり、ネットを開けば土曜日ごとに倍増していくジレ・ジョーヌ・デモの興隆と暴力破壊行為のニュースばかり見ていた。夜、青森の姉の家の二階に篭り、ラティーナ誌連載の原稿を書いた。昼は意識が稀にしか戻らない母の病室で、何種類も用意していた”最後に言いたいこと"を繰り返していたが、聞き取られたかどうかはわからない。極端に精神を消耗させた10日間だった。この原稿のことは、病室の窓と姉家の窓を叩きつけた雪吹雪の光景と共によく記憶に残っている。


★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★


この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年1月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。



ティーン・スピリットと黄色いチョッキ
ニコラ・マチュー『彼らの後の彼らの子供たち』


(in ラティーナ誌2019年1月号)

201811月、黄色いチョッキ(ジレ・ジョーヌ)を着た数十万人の市民がフランス全土の主要道路をマヒさせ、ガソリンスタンドを封鎖するなどの抗議行動に出た。ガソリン税などによる燃料費高騰が引き金になっての同時多発の直接行動であったが、労組や政党・政治団体が組織したわけではない、リーダーのない未組織市民たちの姿は年金生活の老人たち、家計の逼迫にあえぐ年配の女性たち、車が移動に必須の自営業者たち、失業者たちなどさまざまなものがあった。平和的にビラを配るものもあれば、1124日のシャンゼリゼ大通りでのように機動隊と激しく衝突する勢力もあった。統一性のない多種多様な数十万の怒れる人々は要求のスローガンの第一に「マクロン辞任!」を掲げ、運動テーマ曲のように国歌ラ・マルセイエーズをがなりたてて行進した。これを中央政局やメディアが見過ごしていた地下マグマ的マジョリティー、つまり合衆国でトランプを支持した人々や英国でブレクジットに投票した人々と同じように解釈する論もある。だがこの黄色いチョッキは端的に言えばフランスの広大な地方部の「貧しい人々」なのである。マクロンや歴代政府や既成政党や巨大労組は長年に渡ってこの貧しい人々の存在に知らぬふりをしてきた。 

 2018年6月号で紹介した作家エドゥアール・ルイが、北フランスの奥まった村の貧困な環境で迫害されるゲイの少年を描いた自伝的な第一作小説『エディー・ベルグールにケリをつける(2014)の原稿をパリの大出版社各社に送りつけた時、小説の内容よりも「このような貧困がフランスにあるわけがない」という理由で拒否されたという経緯がある。失業とアルコールとクレジット負債、法的禁止事項を破ってでも食物を手に入れねばならぬ人々、こういうフランスの地方をフランス中央は知らない。この人々がマジョリティーだということを知らず、国民誰もが夏に2ヶ月のヴァカンスを謳歌していると想像している。この人々は昨日今日に現れたわけではない。地方社会の破壊と貧困化は「栄光の三十年間」(日本の高度成長期と対応する1945-75年)の直後に始まり、それから地方は見捨てられ続けている。

 11月8日、フランス文学賞の最高峰である2018年ゴンクール賞はロレーヌ地方出身の40歳の作家ニコラ・マチューの『彼らの後の彼らの子供たち(Leurs enfants après eux)』(アクト・シュッド刊)に与えられた。432ページの大著である。欧州有数の鉄鋼業地帯だった時代が終わってしまった1990年代のロレーヌ地方の谷あいの町を舞台とする土地のティーンネイジャーたちの年代記であり、4章に分かれ、「1992スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」、「1994ユー・クッド・ビー・マイン」、「1996ラ・フィエーヴル」、「1998アイ・ウィル・サーヴァイヴ」と章題が付されている。それぞれニルヴァーナ、ガンズ&ローゼズ、シュプレームNTM、グロリア・ゲイナーの歌のタイトルである。これはまさにあの時ティーンたちが聞いていた音楽が聞こえてくる小説であり、カーステやウォークマンや田舎カフェの音楽が重要な脇役になっている。 

 止まってしまった溶解炉がすべての中心だった谷合いの町、かたわらにはヨットの浮かぶ湖、北には金満の国ルクセンブルクの国境も近い。大人たちは職を失い、転業が難しく一時雇いの単純労働で食いつなぐか、職安と再職訓練を往復する。アルコールの恒常化。妻/母/女たちは早く老い、男たちに見切りをつける。貧困、離婚、不倫、家庭崩壊が「一般的な」風景であるフランスの地方。子供たちは一刻も早くこんな環境から逃げ出してやる、と心に決めるのだが、幻想は手の届くものではない。

 小説は主に三人の少年少女(失業労働者の子アントニー、モロッコ移民の子アシーヌ、土地有力者の娘ステフ)の交錯する年代記であり、季節は夏に限定されている。92年、94年、96年、98年の夏物語である。第一章92年の夏は、14歳のアントニーが同じ年頃の従兄弟と共謀して、湖のボートクラブから一艘のカヌーを盗み出し、湖対岸のプライベートビーチ(通称「ケツ丸出しビーチ」)まで漕いでいくという冒険から始まる。元製鉄工、失業期を経て形ばかりの自営工事人になった父パトリックはアル中、母エレーヌとは離婚の危機にある。そんな一人っ子だが、両親とうまくやり、裏ではハッパとアルコールを常用し、ドライバーひとつでスクーターを盗める有り体な不良少年だった。粗野にして突進型。この対岸高級ビーチ潜入も、夏休みにヴァカンスに出れない少年のアンニュイと性への興味からの衝動的なものだった。こんな町にもいる上流子弟たちの集まるビーチで、アントニーは開放的なブルジョワ少女ステフと出会う。ステフには小さな出会いでも、アントニーにはこの時から恋が始まってしまう。

 二度目に出会う機会は、両親がヴァカンスで出ていったブルジョワ子弟のプール付き大豪邸でのパーティー。アントニーはそこにステフが現れることを確信している。その夜少年は父親が若い頃アマチュアレーサーとして乗っていたレース用バイク(車庫の奥にカヴァーをかけてしまっていた父親の宝物)に乗って行きたいと母エレーヌに頼むのだが、離婚の危機にあり夫と口を聞きたくないエレーヌは息子可愛さからそのキーを無断でアントニーに渡してしまう。無免許/ノーヘルメットで颯爽とパーティー会場に乗り付けるが、そこは誰が招待されたなど知ったことではない金持ち子女も貧乏不良も集まってしまうところ。そこでも敬遠されるマグレブ出身者系の不良グループがあり、その頭目の少年がアシーヌだった。二人の少年の対面は一瞬のことだがアントニーはすでに不吉なものを感じ取る。パーティーはアルコール、音楽、マリファナ、コカイン、セックス、乱闘が入り乱れ、アントニーは酩酊の果てに探し求めていたステフの姿をプールサイドで見つける。午前3時空虚な宴を祝福するようにニルヴァーナのあの歌が響き、30人ほどの若者たちが合わせて首を振っている。午前5時、家路につこうとしたら、父のオートバイが忽然と消えている。一家崩壊は決定的となる。

 誰もがこれはアシーヌの仕業と決めてかかっている。オートバイを取り戻す方策はほとんどない。数日も経たぬうちにブツはアフリカに密輸されて、何百フランかの対価になろう。共犯者の呵責に兢々とする母エレーヌはアシーヌの家を訪れ、その父親マレクに談判する。厳格無骨な父はそれは間違いだとエレーヌを追い返すが、帰宅したアシーヌを無言のままツルハシの柄でしたたか打ち付ける。アントニーはアシーヌからブツを取り返すために、不良仲間の兄貴分から拳銃を借り受けるのだが

 モロッコからの移民であるマレクは製鉄工として長年働いたあと工場閉鎖で解雇され、長男は失踪、妻はモロッコに帰り、アシーヌはコレージュ卒業後就職するはずであったが職はない。誠実律儀な家父長であるマレクはまっとうな人生を子に強いるが、アシーヌは父への服従はしても、地方の移民の子に開かれた未来はなく、ドラッグのディーラーとして安直な日銭を稼ぐ。今さら驚くべきではないが、この小説の中でも(地方でもなお)若年層の大麻の消費量は著しく、その平行経済の金銭の流れは凄まじい。アシーヌはそのモロッコ→西欧の自動車を使った運び人となって、1回の輸送で父親の1年の給料を超える報酬を得る。未成年で早くもこの麻薬シンジケートの首領格を目指すようになる。これがアシーヌにとっての「脱出」であった。

 アントニーの父パトリックは製鉄工失職後転職に失敗し続けアル中に転落した典型的なルーザーで、宝物のオートバイ喪失がきっかけで離婚、いったん断酒できるまでに改心するのだが、その不幸の元を作った張本人アシーヌに出会うや逆上し、前歯すべてを折る重傷を負わせる。裁判費用、死ぬまで働いても返せない負債、元妻と息子から見放され、最後は湖で水死体となって果てる。

 ステフは町の有力者(町長)の娘で、はちきれる肢体と旺盛な性的好奇心を持つが、同じブルジョワ層のプレイボーイに翻弄されて消耗し、勉学の鬼と化してグランゼコール合格ラインに達する。退屈なこの町を出ることを望んだものの、パリの生活には幻滅する。ステフが猛勉強して上に行こうとすればするほど、上には上があることを思い知り、そして世界はこの少数の上の者だけに握られていることを悟る。この田舎優等生の喪失感を忘れさせるのが、一途な少年アントニーの一方的な恋慕と性的冒険だった。

 一方アシーヌはパトリックに顔を破壊されて以来がらりと人が変わり、(白人)公務員夫婦の娘コラリーと恋仲になり、倉庫係として就職し、低収入ながらささやかなヴァカンスのあるこぢんまりとした幸せに落ち着くことも悪くないと思うようになった。ところがコラリーが女児を出産したとたん、心的未成熟のせいか彼女は強烈なフラストレーションを覚えるようになり、アシーヌが抱いていた小さな家庭の幻想は崩れていくが、愛児可愛さのあまり身動きが取れない。アシーヌは20歳そこそこで、父マレクと同じように妻も子も失って朽ちていくという運命を悟ってしまう。精一杯の抵抗で、コラリーの猛反対を押し切って借金で小さなオートバイを買い、疾走するアシーヌだったが、そのオートバイはなんとアントニーに盗まれるという未来が待っている。

 小説は多数のエピソードを盛り込んで、バルザック人間喜劇並みのスケールの人間模様を描き出すのだが、映画『ロッシュフォールの恋人たち』の終盤のような多くのドラマがいっぺんに同時に起こる場所が3つ用意されている。ひとつは町の名士の葬式、次に714日(革命記念日)の湖畔花火大会、そして(フランスが初優勝した)1998年サッカーW杯の中継大スクリーン前である。町のあらゆる階層の人々が無条件に集まってしまうこれらの場所で同時に起こってしまう偶発ドラマのディテールの数々をニコラ・マチューが名調子で実況中継する文体は圧巻である。

 この破産製鉄地帯は過去の清算をないがしろにしたまま(工場廃屋をあちこちに残したまま)、蘇生という美辞をつけてツーリズム(ヴァカンスレジャー施設、テーマパーク、土地名産品、イングリッシュスポークン、湖での水上イベント)開発へと突き進む。その音頭を取る町長がステフの父親である。彼は湖に国際的レガッタレース大会を誘致する、と花火大会前の演説で公表する。オリンピックだの万博だのと言えば民衆の意気が変わると皮算用する想像力となんら変わりない。

 この町と父母の揉め事から抜け出したいアントニーは軍隊に志願するという解決案をもってくる。誇らしげな出口であったが、思惑は外れ、1年も経たぬうちにスポーツ訓練の怪我がもとで不適格となり除隊させられる。その不本意な帰還の途中、彼はパリに立ち寄るのだが、仄かな幻想を抱いていた都には一夜で幻滅してしまう。やむなく町に戻り、短期単純労働者として就職し、アントニーに十代は終わる。アシーヌから奪ったオートバイを走らせ、町長邸宅の中にいるステフの元にやってくるが、98W杯の夜、その一途な恋はあっけなく破れる。

 アントニー、アシーヌ、ステフは三人三様の格闘の末、若くしてもはや自分は親の世代と同じことをして朽ちるしかないことを思い知る。これが小説の主題である。シラ書から引用された小説題『彼らの後の彼らの子供たち』は無名の民の宿命を暗示させたものだが、この永劫の倦怠を私たちはくすぶらせ、それは時として表現となって爆発する。


 98W杯フランス民衆の満場一致の高ぶりは、ひょっとして(アラブも黒人も金持ちも貧乏人も)みんな一緒に生きられるのではないか、という一瞬の蜃気楼を見せてくれた。小説はこのW杯のクレッシェンド的盛り上がりのうちにも、遂に消えない少年少女たちのやるせなさを浮かび上がらせる。

 マドンナ、シンディ・ローパー、ガンズン・ローゼズをバックに聞きながら、地方の倦怠とからみあい、もがく若者たちの90年代。これも中央が見ぬふりをしてきたフランスの現実であり、不可視のフィールドで展開されていた少年少女の反抗を描いた一種の青春小説であり、社会政治小説でもある。黄色いチョッキ(ジレ・ジョーヌ)運動の地方無名市民たちから噴出した怒りを理解する上で、この小説はおおいに役に立つであろう。

 しかしこの小説の最大の魅力は、無軌道で不安定で言葉少なく怒号が多いまっすぐ一途な少年アントニーの無鉄砲な疾走ぶりの美しさである。原石のきらめきを思わせる。映画化を望む。動くアントニーを見てみたい欲求がかきたてられる。

(ラティーナ誌2019年1月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


Nicolas Mathieu "Leurs Enfants Après Eux"
Actes Sud 刊 2018年8月 430ページ 21,80ユーロ


(↓)出版社アクト・シュッド制作のニコラ・マチュー『彼らの後の彼らの子供たち』の自著紹介動画。



(↓)シャカ・ポンク「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」(ライヴ2018)

2021年7月19日月曜日

合金マイウェイ

"Titane"
『チタン』
2021年フランス映画
監督:ジュリア・デュクールノー
主演:アガート・ルーセル、ヴァンサン・ランドン
2021年カンヌ映画祭パルム・ドール賞
フランスでの公開:2021年7月14日

R指定16歳。
ホラー苦手でかつて『エイリアン』で気を失いそうになった私から見れば非常にゴアな映画である。食前に見ない方がいい。 監督のジュリア・デュクールノーは1983年生まれの現在37歳。母親が産婦人科医で父親が皮膚科医 ー このことでこの監督の作風の背景となっているものがずいぶん説明できよう。これが2作めの長編映画。1作目の『Grave』(2017年)は(私は未見です)ヴェジタリアンとして育てられた女性が強制的に肉を食べさせられ、カニバリストに変態していくという多量のヘモグロビンが流れる作品のよう。
 この映画の冒頭でポタポタ音を立てて滴り落ちるのはヘモグロビンではない。古いメカの車のボンネットの中の機械部から滲み出る黒濁した潤滑油である。不気味な生き物のようなメカなのだが、この黒い油にまみれた機械はメタファーではなく、映画の本物の主役なのだということがわかっていくしくみ。人間のかたちをした主人公はアレクシア(演アガート・ルーセル)という若い女性である。幼い頃から情緒が破綻したような子だったが、車の後部座席に座った少女はその極度に不安定な素行によって父親の運転を狂わせ大事故となり、瀕死の重症を負う。しかし現代医学はこの子の脳にチタン合金を埋め込むことで少女を再生させるのである。
 アレクシアはショーダンサーとして働いている。一見モーターショーの(セクシーな)コンパニオン嬢のような出で立ちだが、ライト&サウンドでショーアップされた巨大な倉庫に陳列された数々のヴィンテージカーの車体を相手に半裸のダンサーがセックスの四十八手で挑むような煽情ダンス。ヴィンテージカーおたくと女体撮りめあての男どもが垂涎しながら見つめる、というショー。このアレクシアの車体を舐めまわしたり、性器を擦りつけたりのセックスそのもののダンス表現が、実はメタファーではなく、性行為そのものであったということがあとでわかることになる。
 早くも映画はアレクシアの残忍な連続殺人が展開される。凶器はアレクシアが髪留めに使っているチタン合金製の”かんざし”。「必殺...」系時代ドラマにありそうなかんざし連続殺人。仏語版ウィキペディアの「かんざし」項では
aussi être utilisés comme armes d’auto-défence
護身具としても使用されうる
との記載あり。女性の自己防衛抵抗の最後の切り札的なイメージを持たれようが、アレクシアの場合は純粋に必殺凶器。これさえあれば誰でも殺せるような自信を与える魔の凶器。アレクシアは殺人衝動に憑かれたら滅法強い。相手を絶対に仕留める。頭にはめ込まれたチタン合金から"ターミネーター”とイメージが重なる。そして殺しのシーンはめちゃくちゃにゴアだ。かんべんしてほしい。
 両親まで殺し(かんざしではなく密室焼殺だが)て居場所を失い逃走するアレクシアは、ショッピングモールのコンコースにいくつもあるニュース映像タレ流し大画面に、連続殺人犯として自分の似顔絵が何度も出てくるのを見た。まずい。顔を変えねば。そこで目にしたのが、10年前行方不明になった少年アドリアンの捜索協力を求めるポスター、10年前の顔写真とAIによって想像された現在の顔写真、これになりすまそう。そして洗面所で髪を切り落とし、包帯絆創膏で胴体をぐるぐる巻きにして女体型を隠し、さらに指名手配のアレクシアの顔でなくなるために洗面台に顔を打ちつけて鼻の骨を折る....。
 警察に出頭し、10年前家出したアドリアンだと告げ、捜索依頼主である父親ヴァンサン(演ヴァンサン・ランドン)と対面する。DNA鑑定をしますか?という警察の申し出に、その必要はない、この子は私の子だと断言するヴァンサン。10年間執念で一人っ子を探し続けてきたという父親の反応ではない。その人間はたぶん誰でもよかったし、それが息子でないということも直感していたはず。親父として(どんな人間でも)息子に改造できるような自信。ここから映画はヴァンサンとアドリアン=アレクシアの屈折した”親子”愛憎心理劇に移っていく(単純なホラー映画ではないっちゅうことです)。
 ヴァンサンは消防署営舎に署長/指揮官として暮らしていて、同じ営舎に寝泊りしている消防隊員たちからは「コマンダン Commandant」と呼ばれている。消防隊員(フランスでは軍隊と同様の厳しい規律と階級制度のもとにある)人生が彼のすべてであり、消防署が彼の世界のすべてである。厳しい訓練に明け暮れる毎日だが、ヴァンサンは老いと体力の低下を喰い止め第一線の指揮官として生き残るため、隠れて筋肉増強剤を注射している。ヴァンサン・ランドンが臀部を露出して自らブス〜っと太いオチューシャを打つシーンが何度も。この女流監督は果敢であると思わせるシーンのひとつ。それにしてもこの初老の消防署長がシルヴェスター・スタローンのような超モリモリの胸筋を誇示するあたりでも、監督はその役作りのためにかなりのことをランドンに要求したのではないか、と思わせる。
 そしてこの消防署ワールドは世にもマッチョな空間であり、消防隊員たちの描き方はハードゲイ的なリファレンスに溢れている。そういう環境の中で、アドリアン=アレクシアは毎朝同じように胴体を包帯絆創膏でぐるぐる巻きにして男になりすまし、父親ヴァンサンから男のスパルタ教育を受け、一人前の”男”消防隊員に生まれ変わっていく。
 話は前後するが、この映画で最も重要な点、アレクシアが妊娠している、ということ。どの辺からだろうか、アレクシアの腹部が膨らんでいく異変が映されるようになる。腹部の膨張は日に日に大きくなっていくが、映画を観る者がこれが妊娠であると気づくのはずいぶんあとになってからであろう。アドリアン=アレクシアは乳房も膨らんだ腹部も包帯絆創膏でぐるぐる巻きにしてカムフラージュする。しかし腹部の異変は(妊娠と同じように)アレクシアに激しい痒みや苦痛を生じさせ、腹部の極度な膨張で張り裂けた皮膚の裂け目からは金属の光沢が見え、下り物のように排泄される液体は黒濁した機械油状なのだ。この苦痛に耐えきれなくなったアレクシアはかの必殺のチタン合金かんざしを股間に挿し入れ、この得体の知れぬものをえぐり出そうとするのだが....。
 笑えるエピソードひとつ。救急出動でかけつけた自殺未遂の息子と母親の二人暮らしの家、昏睡状態の息子を隊長のヴァンサンが酸素吸入など応急処置を始めるが、それをそばで見ていた母親がショックで倒れてしまい心肺が止まってしまう。手が離せないヴァンサンはアドリアン=アレクシアにすぐに心臓マッサージを始めろ、と指示する。アドリアンはそんなものやったことがないよ、とパニックに。ヴァンサンが「おまえマカレナ知ってるか?」と。マカレナのリズムで両手で心臓を押すんだ、とヴァンサン・ランドンがマカレナを歌ってやるのだよ ー 
Dale a tu cuerpo alegría Macarena
Que tu cuerpo es pa' darle alegría y cosa buena
Dale a tu cuerpo alegría, Macarena
Hey Macarena
この「エ〜、マカレナ(ハ〜イ)」の”ハ〜イ”に合わせて口から思いっきり息を吹き込むんだ、と。アドリアンはマカレナのリズムで心臓マッサージを繰り返し、”ハ〜イ”で息を吹き込む。その間ヴァンサンはマカレナのリフレインを何度も歌ってやる。エ〜、マカレナ(ハ〜イ)、これでなんと老女は意識を取り戻すのだよ。ゴアな映画の中にも一輪の花。美しい。

 残忍な殺人機械のようだったアレクシアがヴァンサンの前に少しずつ”人間ぽく”なっていくという展開であるが、マッチョな消防署ワールドはこのアンドロギュノスを受け入れられないなにかがある。性を超越した存在になりかけては、妊娠した大きなお腹の苦痛に"母性”に無理やり連れ戻される。たぶん性を超越して信頼関係が築けそうなところがヴァンサンとアレクシアのkライマックスであろうが、そこにカタストロフとしてやってくる”出産”とは....。

 この分野に詳しくない私でも、この映画にはさまざまな映画的リファレンスがあることがわかる。霊に憑かれた自動車の映画『クリスティーン』(1983年、ジョン・カーペンター監督、ステファン・キング原作)、自動車事故に性的絶頂を覚える人々を描く『クラッシュ』(1996年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)、そして体内に宿る怪物という点では『エイリアン』(1979年、リドリー・スコット監督)もそうかもしれない。映画的想像力では、このチタン合金に取り憑いたなにかを体内に引き受けて殺人機械になってしまった女アレクシアの、人間戻りへの困難な道程というストーリーは「あり」だと思う。その困難を表現するこれでもかこれでもかのゴアな演出の数々がこのジュリア・デュクールノー監督の希有な才能なのだとう。
 2021年(第74回)カンヌ映画祭は、この大胆な「16禁」映画にパルム・ドール賞を与えた。ジェーン・カンピオンピアノ・レッスン』(1993年)以来、二度目(たった!)の女性監督作品のパルム・ドール賞だそう。この点ではおおいに喜んでいいものではあるが、私は妊娠した女性の膨らんだ腹部が真っ黒な機械油で汚されたりすることに、どうしても眉をひそめてしまうのだよ。二度目を観ることはないと思う。

カストール爺の採点:★★★☆


(↓)『チタン』予告編


(↓)2021年カンヌ映画祭パルム・ドール賞受賞の瞬間。スパイク・リー(審査員長)。受賞壇上には興奮で自分で何語しゃべっているのかわからなくなるジュリア・デュクールノー監督と主演のアガート・ルーセルとヴァンサン・ランドン。

2021年7月13日火曜日

アネットおどろくタメゴロー... っと。

"Annette"
『アネット』

2021年フランス・ドイツ・ベルギー合作映画
監督:レオス・カラックス
原案・脚本・音楽:ロン&ラッセル・メール(ザ・スパークス)
主演:アダム・ドライヴァー、マリオン・コティヤール、サイモン・ヘルバーグ
2021年カンヌ映画祭コンペティション出品作(オープニング上映作品)
フランスでの公開:2021年7月6日


 公開時にル・モンド紙やテレラマ誌が最高点で絶賛した映画に私は何を言えるのか。カラックス初の英語&ハリウッド級大予算&大スター主演のミュージカル映画で、おそらくカラックス初の(世界規模の)商業的成功が見込める映画なのだからして。素直にグッドラックと言うべきであろう。
 音楽映画であり、ミュージカル映画であるから、近年の『ララランド』 (2016年)と『ボヘミアン・ラプソディー』(2018年)の世界的大成功と無関係ではないと思われるが、この鬼才監督さんなので、俺だったら(あんたたちにはできっこない)こんなこともあんなこともできるんだぜ、とミュージカル映画の常識を覆すあの手この手を...。例えば(これはマリオン・コティヤールがインタヴューで証言していたことなのだが)歌の録りは、サントラの録音スタジオでの別録りはなく、撮影アクション中のダイレクトライヴ録音だと言うのである。映画を観てしまった今となっても信じられないことだ。つまりアダム・ドライヴァーもマリオン・コティヤールもアクション中に生で歌って(歌わされて)いて、たとえばプールで泳ぎながら歌い、二人で激しくセックスしながら歌い、オートバイでビュンビュン飛ばしながら歌い... その歌声が映画で再生されているのだ、と。息がつまってもいいから、その臨場感を音楽/映像化したのだ、と。ほんまかいな...。
 私、ほんと細いことが気になってしまうのだが、日本の会社ユーロスペース堀越謙三)が共同制作者として名を連ねているからだとは思うけれど、どうしてこんなにたくさん日本人が出演してるの? 福島リラ、水原希子、古舘寛治(アネット出産時の取り上げ産医、結構目立つ)、山川真里果。そりゃあ日本で最もとんがった評価を受けているフランス映画作家であるとは思うがね、こういうキャスティングでしっかり日本での”話題作り”も画策できる商才なんではないの?
 さて、原案・脚本・音楽はザ・スパークスのメール兄弟である。カラックスは長年のファンだったと言っているが、スパークスとのコンタクトはカラックスの前作『ホリー・モーターズ』(2012年)の挿入曲としてスパークスの"How are you getting home?"(1975年)を採用したことに端を発する。そこから両者の「音楽映画」愛のがっぷり四つになって、スパークスの長年温めていた悲願のプロジェクトが実現に向けて動き出す。
 根っからの映画フリークだったスパークスが本格的に映画界に登場しかけたのは1974年のこと。 『ぼくの伯父さん』(1958年)の名匠ジャック・タチ(1907 - 1982、右写真タチとスパークス、1974年)が書き上げた新作用シナリオ『コンフュジオン(Confusion)』の主役に、当時英国ロンドンを活動拠点としていたスパークスという段取りで進んでいたのだが、結局タチの大作『プレイタイム』(1967年)の大コケが招いたタチの莫大な負債が長引き、撮影に入ることなくお蔵入りしている。スパークスは1976年のアルバム『ビッグ・ビート』で"Confusion"という曲を発表し、タチとの頓挫した映画を回想している。以来スパークスはさまざまな映画へのアプローチ(1980年代日本の漫画『』のティム・バートン監督による映画化、2009年"The Seduction of Ingmar Bergman"、を試みるのだが、いずれも実現に至らずにいた。
 一方のカラックスはガキの頃(5歳から12歳)クラシック・ギター→エレクトリック・ギター、しかし俺には才能が... と、それでも不良少年になってからもバンドでドラムスを叩いたり、という程度で止まっていたが、リスナーとしてはそれなりに。そして映画人となってからも音楽映画/ミュージカル映画を撮りたいという望みは最初期からあり、『ポン・ヌフの恋人』の最初の原案はすべてのセリフを歌でつなぐミュージカルにすることだった。1991年に公開された『ポン・ヌフ』は完成までずいぶん形を変えたが、音楽担当となったレ・リタ・ミツコとの共同作業は難航し結局Ⅰ曲だけしか使えなかった。『ポーラ・X』(1999年)は鬼才スコット・ウォーカー(1943 - 2019)と組んだのだが...。この映画のあとスコット・ウォーカーは『サテュリコン』(ペトロニウス作の古代ローマ小説、1969年フェリーニが映画化した)をミュージカル映画で、という提案をしてきたが、これはカラックスが同意しなかったそうだ。前作『ホリー・モーターズ』での最も美しいシーンとして、ポン・ヌフの百貨店サマリテーヌの改装工事現場でカイリー・ミノーグ(主人公オスカーの別れた恋人エヴァ役)が未練ごころを歌う"Who were we?"(作詞カラックス+ニール・ハノン/曲ニール・ハノン)という『シェルブールの雨傘』まがいの図があった。しかしこれらはすべて「部分」であって、トータルなミュージカル映画をという希望は叶えられないままだった。
 という夢果たせぬ二者ががっちり組んだ、二者のドリーム・カムズ・トゥルーという映画が『アネット』だった。配役ではカラックスは主役はホアキン・フェニックスしかないと思っていたのだが、ふられた。2017年頃の映画メディアでは主演女優と見られていたのはリアーナだったが、ふられた。結局スター・ウォーズのメガスター、アダム・ドライヴァーと「マルセ〜ル!マルセ〜ル!」マリオン・コティヤールの共演となったが、その方がずっと良かったと思いますよ。映画はビートルズ『サージェント・ペパーズ』のようなイントロデューシングで、監督カラックスとスパークスとバックミュージシャンとコーラス隊と主役の二人などが総出でショーの始まりを告げる"So may we start"が華々しく... 。

アネット合唱団とでも言うべきこの一団はスタジオから外に出て行進を続け、人気スタンダップ芸人のヘンリー(演アダム・ドライヴァー)はバイクでショーホールへ、世界的ソプラノ・カンタトリスのアン(演マリオン・コティヤール)はオペラハウスへ、と"仕事場”に散っていく。
 あっけなくこの二人は熱愛して結ばれるのだが、LAで最も"Glamour"なこのカップルをめぐって芸能ピープルTVがその二人の動向を逐一Breaking News で報道する。人気の絶頂にあるソプラノ歌手アンの演目は生と死の淵にあるドラマティックなものがほとんどで、このアーチストの翳りのようなものを引き摺っている。全部マリオン・コティヤールの声で歌われているのであるが、クローズアップして披露される舞台上のアリア曲"The Forest"の1曲だけはコティヤールの歌唱ではなく、現役第一線のソプラノ歌手カトリーヌ・トロットマンが吹き替えている。この"The Forest"の舞台はオリゾンが開きその奥に本物の夜の樹海が広がっていて、歌姫はその死の樹海を助けを求めながらさまよって、また劇場舞台に戻ってくるという演出。美しい。まあ、聖なるものに近いということなのだろう。
 それに対して芸も私生活言行もぐっと俗っぽいのがヘンリーであり、お笑いスタンダップ芸人だから、ということだけではない度の過ぎ方が目につく。このヘンリーの漫談芸というのはふてぶてしさと客への愚弄で持っていて、実在した芸人ではアメリカのレニー・ブルース(1925-1966)やフランスのデュードネ(1966 - 。ファシスト漫談)に近い。狂信的なファンを集めるが、世評からは危険視される。俺はどうやってもウケる、何をやっても笑いを取れる ー その過剰な自己陶酔が過度にエゴを膨張させたり、自己破壊衝動に向かったり ー この芸人の狂気がこの映画を悲劇の方向にひっぱっていく。
 これは一連のカラックス映画で見てきた頭を身勝手に膨張させていく男(主人公、だいたいの場合”アレックス””オスカー”)の描き方であり、この映画もこのヘンリー=アダム・ドライヴァーをカラックスの”自己愛”視点のカメラがぐわ〜っと迫っていく。カラックスには一貫性がある。ここは納得しよう。身勝手な男の映画ばかり作ってきたのだ。ふてぶてしさと壊れやすさが見事に同居するアダム・ドライヴァーの顔でカラックスは思い通りの演出ができたのだと思う。
 しかしアンはそんなヘンリーに不安を抱き始め、スタンダップ芸の観客もヘンリーから離れていき、興行はキャンセルにつぐキャンセル。そして最高の人気を保つソプラノ歌手と落ち目のお笑い芸人のカップルに子供が誕生する。その名はアネット。天使と悪魔あるいは聖なる女と俗なる男の間にできた子供は、人間の子と異なっているのだが、その微妙なニュアンスは映画のマジックで特撮とCG効果で見事に(ここのところはバラさないでおく)。
 挿話的にヘンリーのセクハラスキャンダルが導入され、スパークス/カラックスなりの世相風刺なのだろうけど、セクハラ被害者の6人の女が#MeTooばりの糾弾を歌で投げつけ、その中にフランスの#MeToo運動のシンボルとなったベルギー人女性アーチストであるアンジェルがフィーチャーされている。アンジェルはカンヌ映画祭オープニング上映の時のレッドカーペット登壇のひとりとなっているが、このセクハラエピソードは”フェミニスト茶化し”であると思う。
 さて映画には重要な第三の男がいて、この音楽映画の中で最も"音楽”な役を担っているのが、ソプラノ歌手アンの伴奏オーケストラ指揮者兼ピアニスト(演サイモン・ヘルバーグ)である。この俳優のピアノの腕前、指揮棒の振り方は一流のもの。アンがヘンリーと出会う前の元カレであり、その後もアンに恋慕を抱き続けていた指揮者くんは、嵐海クルーズ(後述)でアンが海に落ちて死んでからも、アネットをわが子のように育て、幼子の隠された能力を開花させていく。
 映画のハイライトシーンのひとつが、ポスターにも描かれている猛り狂う嵐の海にクルーザーで漕ぎ出したヘンリー(泥酔状態)が甲板にいやがるアンを呼び寄せ、ワルツ("Let's waltz in the storm")を踊るというもの。スタジオ(プール)特撮の極限アートのような疾風怒濤、シュトルム・ウント・ドラング。ここでヘンリーの泥酔したエゴはキレてしまい、無意識か故意か、アンを荒海に放ってしまう。クルーザーは難破、ヘンリーと赤子アネットだけが助かる。そこでヘンリーは人魚の歌声のようなものを空耳するが、それは空耳ではなくアネットの声なのである。
 アンを失った悔恨と自暴自棄・自己破壊衝動でヘンリーは限りなく落ち込んでいくが、生きていく唯一の救いが娘アネットだった。自らすすんでベビーシッターとなった指揮者の愛情が赤子アネットに超人的なある能力があることを見出し、それを知ったヘンリーは指揮者をたぶらかしてアネットで一緒に銭儲けしよや、と。屈折しているがどこまでも俗っぽい男なのである。ベビー・アネット・スーパースター。ベビー・アネットのワールドツアー...。
 しかし亡きアンの過去をめぐって指揮者が恋敵であったことを知ったヘンリーは...。ジャック・ドレー監督映画『太陽が知っている(La Piscine)』(1969年)のシーンを踏襲して、アラン・ドロンがモーリス・ロネをプールに沈めて殺したやり方で、ヘンリーは指揮者の首をつかみプール水面下に押し込む。(フィガロ紙で、このシーンの撮影に際して、カラックスがサイモン・ヘルバーグに水の中に頭を押し込まれた状態で歌え、というむちゃくちゃな指示を出したことが報じられている!)

 ピノキオ寓話的なリフェランスとして、ピノキオの鼻のように、罪を犯すたびに大きくなっていくヘンリーの赤アザ、そしてあやつり人形だったアネットがヘンリーが投獄されたのちに(映画最終盤で)人間になっていること ー こういうアイディアはさすがにうまく効いているんだけど、これはスパークスの原案に既にあったことかな?
 こういうスパークスの原案シナリオと音楽の優れた部分がカラックスの映画演出部分よりも上回っているような印象が私にはある。ただ「身勝手男の破滅映画」というカラックス節も冴えている。アダム・ドライヴァーはこの映画で怪優の仲間入りを果たした。芸能界内輪話のような傾向も強いのだが、こういう現役大スターが演じてこその説得力である。映画とは昔も今もアートとしての"芸能”に身を削り、金銭/虚飾のショービジネスに身をすり減らされる人々の世界である。そう考えるとこの映画もまた映画のための映画であり、(なにはともあれ)show must go on の号令も聞こえてきそうな後味である。
 だがカラックスに関しては何度でも言っておきたいが、今回も女性の描き方は(男のための)道具のように使っているところありますよ。マリオン・コティヤールという大女優ですらも。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『アネット』予告編

2021年7月4日日曜日

情けがアジャーニ

"Soeurs"
『三姉妹』

2019年フランス映画
監督:ヤミナ・ベンギギ
主演;イザベル・アジャーニ、ラシダ・ブラクニ、マイウェン、アフシア・エルジ
フランスでの公開:2021年6月30日


ヤミナ・ベンギギ(1955 -  )という映画監督(および政治家)について断っておかなければなりません。(アルジェリア独立前)父は政治家/独立運動活動家で、母と共に北フランスに住んでいた頃、ヤミナは生まれた。父は北フランスでのアルジェリア独立運動の地下工作の廉でフランス当局に逮捕投獄されている。アルジェリア独立後も一家はフランスに残り、ヤミナは強権的な父の監督から逃れるために、父の意に沿って若年結婚しているが、父がアルジェリアに戻ったあと離婚している。母と兄弟姉妹らはフランスに残っている(←この事情が今回の映画の自伝的要素である)。90年代からフランスのテレビと映画の制作者として、文化面における諸外国からの移民とフランス同化をテーマにした報道番組やドキュメンタリーおよびフィクション作品を発表している。イスラムとフランス、ヒジャブ、アフリカ奴隷制の歴史、ネルソン・マンデラなど題材は多彩だが、ひとつ特記したいのは、自ら重度の中毒者だったケイト・バリー(1967 - 2013、ジェーン・バーキンの長女)が開設した麻薬中毒/アルコール依存症の(薬物を一切使わない)セラピー・センターを長期取材したドキュメンタリー『ケイトの家、希望の場所』(国営TVフランス2、1996年)である。フィクションでは2009年から11年まで4本放映されたフランス2のテレビ連ドラ『アイシャ』(アルジェリア移民2世の娘 アイシャをめぐる郊外コメディー)が毎回視聴率20%超えの大ヒット。("Soeurs"撮影中のヤミナ・ベンギギとイザベル・アジャーニ→)
 政治の分野では2008年から12年までパリ市長ベルトラン・ドラノエ(社会党、チュニジア出身、ゲイ)の人権担当副市長、2012年から14年までオランド大統領下ジャン=マルク・エロー内閣のフランコフォニー(フランス語圏世界)担当大臣となっている。
 しかし2014年、2005年に遡る巨額の個人財産の申告漏れが明るみに出され、パリ市長アンヌ・イダルゴらが公職辞任をベンギギに迫る。法廷では2015年の初審、16年の再審共に有罪。公職辞任はせずパリ市評議員およびパリ10区区議会議員として席をキープしているが、社会党からは除名されている。という事情もあり、かつての移民/人権・女権/フランス語文化圏の第一線の行動的映画人だったヤミナ・ベンギギは評判をかなり落としていることは確か。フランスでのこの映画のプレス評価がイマイチなのは、微妙にこのことが関係しているかもしれません。

 さて映画"Soeurs"は、在仏アルジェリア系女優オールスター共演。30年もの間、祖国主人エリアと父と離れ、母レイラ(演フェトゥーマ・ブーアマリ)とフランスで暮らす3人姉妹、ゾラ(演イザベル・アジャーニ)、ジャミラ(演ラシダ・ブラクニ)、ノラ(演マイウェン)。映画冒頭は、三女のノラが失業し、住居を追い出され、しばらく母レイラの家に居候することになって、ウーバーでたくさんのスーツケースを持ってやってくるシーン。急かすウーバー運転手に逆らい、ケースをトランクから下ろさない。不平の塊にして世の中への順応性ゼロ。マイウェンの"地”のような演技。就職してもすぐ解雇される。劇作家/舞台演出家として活躍する長女ゾラ、郊外の小さな市の市長となっている次女ジャミラに比べてどうしようもなく出来の悪いノラ。それが情緒破綻であり精神疾患であるということが映画が進むにつれてわかっていく。
 ノラは私がこんなふうになったのは、すべて母レイラが父アハメドと離婚したせいだと決めつけている。父親とアルジェリアに残っていれば違う人生があったはずだ、という恨み言。なぜ離婚したのか、ノラの糾問に母レイラは「おまえたちの自由のためだ」と答える。
 長姉ゾラは長年のプロジェクトで、母と自分たちが生きた体験をベースにした劇作品を作ろうとしていて、予算も上演日程も決まり、舞台稽古も始まっている。演劇人としてゾラには迷いがあり、自分を曝け出し、母や父や姉妹たちを曝け出してしまうこの劇作品が少しずつ形になっていくにつれて、ナーヴァスになり、徹夜で書き直しを繰り返し、抑えのきかない涙を流す。母親レイラの(22歳当時の)役を演じるのは、ゾラの娘のファラ(演アフシア・エルジ、いつもいつも素晴らしい)なのだが、この「家族」を題材にした劇を作っていることを(ゾラが切り出す前に)ファラは家族に口外してしまう。ノラ、ジャミラ、そして母レイラは猛反対し、この劇の制作を中止させようとするが、ゾラはこれは後には引けないものだと知っている、自分の命をかけたような劇だから。
 映画は劇中劇のかたちでこの芝居のリハーサルを挿入して、この家族のストーリーをなぞっていく。アルジェリア独立建国の理想に燃えたアハメド、祖国を植民地化し隷属したフランスへの憎しみ、独立運動に加担して捕らえられた女性たちへの拷問・強姦シーンもあり、アハメドは娘3人にアルジェリア祖国愛を叩き込み、食卓で国歌を斉唱させる。そして妻レイラに暴力を振るう。独立の英雄にして家庭の暴君であるアハメドは、長女ゾラが十代半ばになった時、彼が選んだ結婚相手に嫁がせる決定を。これにだけは母レイラは絶対的に承服できず、「娘たちの自由のために」夫に離婚をつきつける。劇中劇で刃物まで飛び出すDVシーン、アルジェリアの女たちの堕落の元凶をフランス化/欧米化と断じるアハメドが、レイラを椅子に縛りつけ口に漏斗(じょうご)を突っ込み無理矢理フランスワインを流し込む → この舞台稽古を見ていた次女ジャミラがたまらず舞台に上がりこみ、稽古を中止させるシーンあり。
 離婚後レイラが子供たち(三姉妹とその下の幼い弟)を連れてフランスに逃亡するたくらみと見抜いていたアハメドは、三女ノラと幼い長男を誘拐して隠匿する。三女ノラはやっとのこと探し出して連れ出すことができたが、幼い男児は救出できない。母と三姉妹はフランスへ。だが母から消えない一生の願いは息子を取り戻すこと...。
 ノラの精神的トラウマのすべてはここにある。三姉妹で最も「おとうちゃん子」だったノラは、この誘拐劇は父アハメドが自分を特別に好きだったからに他ならないと考える。母と姉二人には「自由への逃走」だったかもしれないが、ノラには愛する父と引き裂かれたことなのだ。私がフランスにいるのは理不尽で不条理なことであり、私は母の犠牲になって不幸な生を(冷たい国)フランスで送っている。
 ゾラの劇制作は行き詰まり、書き直しに眠れぬ夜ばかり過ぎていく。そんな時に、母レイラにアルジェリアから電話の報せが届く。アハメドが脳卒中(AVC)で倒れ、余命長くない、と。レイラは三姉妹にアルジェに飛べ、アハメドの息のある間に息子の居所を聞き出し、私の元に連れて来い、と。

 30年もの間、足を踏み入れていない故国アルジェリアへの旅はゾラがリーダーシップを取って妹二人を引き連れて行ったが、三女ノラの乱れ方は尋常ではない。嘔吐し、極度に興奮し、父の収容されている病室入りを拒否して暴れる。私から引き裂かれた父、私から引き裂かれた祖国、アイデンティティーの在り処、これらがすべて目の前に現れてしまうことへ、ノラは全く準備が出来ていない。錯乱する。このマイウェンの演技は、彼女自身の映画『DNA(原題ADN)』(2020年)と重なるところがある。この激しさは明らかにイザベル・アジャーニを喰ってしまっている。(若い頃だったら、これがアジャーニそのものだったのに、とその狂気の表現力を考えてしまう)

 映画はゾラの劇と同じように座礁し、旅は答えのない旅になる。父は三姉妹とまみえることなく死に、弟のことは不明のまま。しかしその旅で出会ってしまうのは、アルジェリア民主化運動HIRAK(2019年ブーテフリカ大統領退陣要求に始まり、2021年現在も続いている大規模大衆運動)の人、人、人...。ヤミナ・ベンギギ監督は、このポジティヴなイメージの中に映画の結末を刷り込もうとするのであるが...。

 私はこれは詰めすぎだと思う。おそらく一世一代の戯曲を作るはずだった劇作家・演出家ゾラ(演イザベル・アジャーニ)の内部葛藤が映画の中心であるべきところが、スキゾフレニア傾向が著しい三女ノラ(演マイウェン)の激しい情動によって見えなくなっている。素晴らしい女優ラシダ・ブラクニは政治家という役どころでおそらくヤミナ・ベンギギが最も自分に近いポジションであったろうが、(狂気の入った長女と三女に比較すれば)並みの良識人でしかなく、ちょっと可哀想。アルジェリアとフランスの歴史の問題はステロタイプ化された描き方であり、男性原理社会は戯画的であり、女性たちの忍従は見るに耐えない。これはマイウェン映画『DNA』の紹介記事でも書いたことだが、個人のアイデンティティーの根っこをアルジェリアという「国」、フランスという「国」に集約させる考え方に私は同意しない。個人史の複雑な複合要素を十把一絡げで「ルーツ」起因論の中で説明できるとは私は断じて思わない。そういうHIRAK的シチュエーションだったからと言われても、この映画の中で現れるアルジェリア国旗の多さよ。それを背負っての三大在仏アルジェリア女優の共演、ということであれば、ちょっと違うんじゃないの、と言いたい。とりわけ、大女優イザベル・アジャーニが可哀想だ。・

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『三姉妹(Soeurs)』予告編


(↓)映画挿入歌のひとつ、スアード・マッシ「善と悪(Le bien et le mal)」(2003年)、これはしみじみ名曲でしたね。