2021年7月25日日曜日

ティーン・スピリットってわかるかい?

(←)2019年3月のサロン・デュ・リーヴルで、ニコラ・マチューと私(あほな写真)

 日本の出版界の事情は存じ上げないが、仏ゴンクール賞受賞作がもう3年連続で日本で翻訳出版されていないというのはゆゆしき事態だと思う。文学も映画も音楽も最新のフランスがこれほど日本の愛好者たちから遠ざけられたことはない。カルチャーの”総エンタメ化”のせいであり、ヒット性/商業性ばかり追求する傾向が今ここにある生きた表現を無視する。抵抗しよう。爺ブログは抵抗する。

 2021年7月17日と24日、2回の土曜日、(7月12日テレビ演説による)マクロンの”コロナ・ワクチンとワクチン・パスポート(Pass Sanitaire)の義務化”政策に反対するデモがあり、17日の動員数が11万人、24日が16万人を超えた。メディアでマイクを奪い合う極右、ポピュリスト、陰謀論者、ジレ・ジョーヌ残党、宗教原理主義者たちがメインなのではない。「(ワクチンに反対するのではなく)あらゆる強制義務に反対する」と主張する未組織の市民たちなのだ。2018年11月、突然全国の地方部のロータリー交差点を占拠した無名の市民たち”ジレ・ジョーヌ”運動出現の時のことを想わずにはいられない。どこから出てきたのか誰も予測できなかった無数の市民たち...。

 ジレ・ジョーヌが始まったあの冬、2018年11月から12月、私は単身日本(青森のみ)にいた。翌1月7日に逝くことになる母の最晩の病床に10日間詰めていた(結局臨終に立ち会っていない)。手元にはその年のゴンクール賞小説ニコラ・マチュー著『彼らのあとの彼らの子供たち(Leurs enfants après eux)』があり、ネットを開けば土曜日ごとに倍増していくジレ・ジョーヌ・デモの興隆と暴力破壊行為のニュースばかり見ていた。夜、青森の姉の家の二階に篭り、ラティーナ誌連載の原稿を書いた。昼は意識が稀にしか戻らない母の病室で、何種類も用意していた”最後に言いたいこと"を繰り返していたが、聞き取られたかどうかはわからない。極端に精神を消耗させた10日間だった。この原稿のことは、病室の窓と姉家の窓を叩きつけた雪吹雪の光景と共によく記憶に残っている。


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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年1月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。



ティーン・スピリットと黄色いチョッキ
ニコラ・マチュー『彼らの後の彼らの子供たち』


(in ラティーナ誌2019年1月号)

201811月、黄色いチョッキ(ジレ・ジョーヌ)を着た数十万人の市民がフランス全土の主要道路をマヒさせ、ガソリンスタンドを封鎖するなどの抗議行動に出た。ガソリン税などによる燃料費高騰が引き金になっての同時多発の直接行動であったが、労組や政党・政治団体が組織したわけではない、リーダーのない未組織市民たちの姿は年金生活の老人たち、家計の逼迫にあえぐ年配の女性たち、車が移動に必須の自営業者たち、失業者たちなどさまざまなものがあった。平和的にビラを配るものもあれば、1124日のシャンゼリゼ大通りでのように機動隊と激しく衝突する勢力もあった。統一性のない多種多様な数十万の怒れる人々は要求のスローガンの第一に「マクロン辞任!」を掲げ、運動テーマ曲のように国歌ラ・マルセイエーズをがなりたてて行進した。これを中央政局やメディアが見過ごしていた地下マグマ的マジョリティー、つまり合衆国でトランプを支持した人々や英国でブレクジットに投票した人々と同じように解釈する論もある。だがこの黄色いチョッキは端的に言えばフランスの広大な地方部の「貧しい人々」なのである。マクロンや歴代政府や既成政党や巨大労組は長年に渡ってこの貧しい人々の存在に知らぬふりをしてきた。 

 2018年6月号で紹介した作家エドゥアール・ルイが、北フランスの奥まった村の貧困な環境で迫害されるゲイの少年を描いた自伝的な第一作小説『エディー・ベルグールにケリをつける(2014)の原稿をパリの大出版社各社に送りつけた時、小説の内容よりも「このような貧困がフランスにあるわけがない」という理由で拒否されたという経緯がある。失業とアルコールとクレジット負債、法的禁止事項を破ってでも食物を手に入れねばならぬ人々、こういうフランスの地方をフランス中央は知らない。この人々がマジョリティーだということを知らず、国民誰もが夏に2ヶ月のヴァカンスを謳歌していると想像している。この人々は昨日今日に現れたわけではない。地方社会の破壊と貧困化は「栄光の三十年間」(日本の高度成長期と対応する1945-75年)の直後に始まり、それから地方は見捨てられ続けている。

 11月8日、フランス文学賞の最高峰である2018年ゴンクール賞はロレーヌ地方出身の40歳の作家ニコラ・マチューの『彼らの後の彼らの子供たち(Leurs enfants après eux)』(アクト・シュッド刊)に与えられた。432ページの大著である。欧州有数の鉄鋼業地帯だった時代が終わってしまった1990年代のロレーヌ地方の谷あいの町を舞台とする土地のティーンネイジャーたちの年代記であり、4章に分かれ、「1992スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」、「1994ユー・クッド・ビー・マイン」、「1996ラ・フィエーヴル」、「1998アイ・ウィル・サーヴァイヴ」と章題が付されている。それぞれニルヴァーナ、ガンズ&ローゼズ、シュプレームNTM、グロリア・ゲイナーの歌のタイトルである。これはまさにあの時ティーンたちが聞いていた音楽が聞こえてくる小説であり、カーステやウォークマンや田舎カフェの音楽が重要な脇役になっている。 

 止まってしまった溶解炉がすべての中心だった谷合いの町、かたわらにはヨットの浮かぶ湖、北には金満の国ルクセンブルクの国境も近い。大人たちは職を失い、転業が難しく一時雇いの単純労働で食いつなぐか、職安と再職訓練を往復する。アルコールの恒常化。妻/母/女たちは早く老い、男たちに見切りをつける。貧困、離婚、不倫、家庭崩壊が「一般的な」風景であるフランスの地方。子供たちは一刻も早くこんな環境から逃げ出してやる、と心に決めるのだが、幻想は手の届くものではない。

 小説は主に三人の少年少女(失業労働者の子アントニー、モロッコ移民の子アシーヌ、土地有力者の娘ステフ)の交錯する年代記であり、季節は夏に限定されている。92年、94年、96年、98年の夏物語である。第一章92年の夏は、14歳のアントニーが同じ年頃の従兄弟と共謀して、湖のボートクラブから一艘のカヌーを盗み出し、湖対岸のプライベートビーチ(通称「ケツ丸出しビーチ」)まで漕いでいくという冒険から始まる。元製鉄工、失業期を経て形ばかりの自営工事人になった父パトリックはアル中、母エレーヌとは離婚の危機にある。そんな一人っ子だが、両親とうまくやり、裏ではハッパとアルコールを常用し、ドライバーひとつでスクーターを盗める有り体な不良少年だった。粗野にして突進型。この対岸高級ビーチ潜入も、夏休みにヴァカンスに出れない少年のアンニュイと性への興味からの衝動的なものだった。こんな町にもいる上流子弟たちの集まるビーチで、アントニーは開放的なブルジョワ少女ステフと出会う。ステフには小さな出会いでも、アントニーにはこの時から恋が始まってしまう。

 二度目に出会う機会は、両親がヴァカンスで出ていったブルジョワ子弟のプール付き大豪邸でのパーティー。アントニーはそこにステフが現れることを確信している。その夜少年は父親が若い頃アマチュアレーサーとして乗っていたレース用バイク(車庫の奥にカヴァーをかけてしまっていた父親の宝物)に乗って行きたいと母エレーヌに頼むのだが、離婚の危機にあり夫と口を聞きたくないエレーヌは息子可愛さからそのキーを無断でアントニーに渡してしまう。無免許/ノーヘルメットで颯爽とパーティー会場に乗り付けるが、そこは誰が招待されたなど知ったことではない金持ち子女も貧乏不良も集まってしまうところ。そこでも敬遠されるマグレブ出身者系の不良グループがあり、その頭目の少年がアシーヌだった。二人の少年の対面は一瞬のことだがアントニーはすでに不吉なものを感じ取る。パーティーはアルコール、音楽、マリファナ、コカイン、セックス、乱闘が入り乱れ、アントニーは酩酊の果てに探し求めていたステフの姿をプールサイドで見つける。午前3時空虚な宴を祝福するようにニルヴァーナのあの歌が響き、30人ほどの若者たちが合わせて首を振っている。午前5時、家路につこうとしたら、父のオートバイが忽然と消えている。一家崩壊は決定的となる。

 誰もがこれはアシーヌの仕業と決めてかかっている。オートバイを取り戻す方策はほとんどない。数日も経たぬうちにブツはアフリカに密輸されて、何百フランかの対価になろう。共犯者の呵責に兢々とする母エレーヌはアシーヌの家を訪れ、その父親マレクに談判する。厳格無骨な父はそれは間違いだとエレーヌを追い返すが、帰宅したアシーヌを無言のままツルハシの柄でしたたか打ち付ける。アントニーはアシーヌからブツを取り返すために、不良仲間の兄貴分から拳銃を借り受けるのだが

 モロッコからの移民であるマレクは製鉄工として長年働いたあと工場閉鎖で解雇され、長男は失踪、妻はモロッコに帰り、アシーヌはコレージュ卒業後就職するはずであったが職はない。誠実律儀な家父長であるマレクはまっとうな人生を子に強いるが、アシーヌは父への服従はしても、地方の移民の子に開かれた未来はなく、ドラッグのディーラーとして安直な日銭を稼ぐ。今さら驚くべきではないが、この小説の中でも(地方でもなお)若年層の大麻の消費量は著しく、その平行経済の金銭の流れは凄まじい。アシーヌはそのモロッコ→西欧の自動車を使った運び人となって、1回の輸送で父親の1年の給料を超える報酬を得る。未成年で早くもこの麻薬シンジケートの首領格を目指すようになる。これがアシーヌにとっての「脱出」であった。

 アントニーの父パトリックは製鉄工失職後転職に失敗し続けアル中に転落した典型的なルーザーで、宝物のオートバイ喪失がきっかけで離婚、いったん断酒できるまでに改心するのだが、その不幸の元を作った張本人アシーヌに出会うや逆上し、前歯すべてを折る重傷を負わせる。裁判費用、死ぬまで働いても返せない負債、元妻と息子から見放され、最後は湖で水死体となって果てる。

 ステフは町の有力者(町長)の娘で、はちきれる肢体と旺盛な性的好奇心を持つが、同じブルジョワ層のプレイボーイに翻弄されて消耗し、勉学の鬼と化してグランゼコール合格ラインに達する。退屈なこの町を出ることを望んだものの、パリの生活には幻滅する。ステフが猛勉強して上に行こうとすればするほど、上には上があることを思い知り、そして世界はこの少数の上の者だけに握られていることを悟る。この田舎優等生の喪失感を忘れさせるのが、一途な少年アントニーの一方的な恋慕と性的冒険だった。

 一方アシーヌはパトリックに顔を破壊されて以来がらりと人が変わり、(白人)公務員夫婦の娘コラリーと恋仲になり、倉庫係として就職し、低収入ながらささやかなヴァカンスのあるこぢんまりとした幸せに落ち着くことも悪くないと思うようになった。ところがコラリーが女児を出産したとたん、心的未成熟のせいか彼女は強烈なフラストレーションを覚えるようになり、アシーヌが抱いていた小さな家庭の幻想は崩れていくが、愛児可愛さのあまり身動きが取れない。アシーヌは20歳そこそこで、父マレクと同じように妻も子も失って朽ちていくという運命を悟ってしまう。精一杯の抵抗で、コラリーの猛反対を押し切って借金で小さなオートバイを買い、疾走するアシーヌだったが、そのオートバイはなんとアントニーに盗まれるという未来が待っている。

 小説は多数のエピソードを盛り込んで、バルザック人間喜劇並みのスケールの人間模様を描き出すのだが、映画『ロッシュフォールの恋人たち』の終盤のような多くのドラマがいっぺんに同時に起こる場所が3つ用意されている。ひとつは町の名士の葬式、次に714日(革命記念日)の湖畔花火大会、そして(フランスが初優勝した)1998年サッカーW杯の中継大スクリーン前である。町のあらゆる階層の人々が無条件に集まってしまうこれらの場所で同時に起こってしまう偶発ドラマのディテールの数々をニコラ・マチューが名調子で実況中継する文体は圧巻である。

 この破産製鉄地帯は過去の清算をないがしろにしたまま(工場廃屋をあちこちに残したまま)、蘇生という美辞をつけてツーリズム(ヴァカンスレジャー施設、テーマパーク、土地名産品、イングリッシュスポークン、湖での水上イベント)開発へと突き進む。その音頭を取る町長がステフの父親である。彼は湖に国際的レガッタレース大会を誘致する、と花火大会前の演説で公表する。オリンピックだの万博だのと言えば民衆の意気が変わると皮算用する想像力となんら変わりない。

 この町と父母の揉め事から抜け出したいアントニーは軍隊に志願するという解決案をもってくる。誇らしげな出口であったが、思惑は外れ、1年も経たぬうちにスポーツ訓練の怪我がもとで不適格となり除隊させられる。その不本意な帰還の途中、彼はパリに立ち寄るのだが、仄かな幻想を抱いていた都には一夜で幻滅してしまう。やむなく町に戻り、短期単純労働者として就職し、アントニーに十代は終わる。アシーヌから奪ったオートバイを走らせ、町長邸宅の中にいるステフの元にやってくるが、98W杯の夜、その一途な恋はあっけなく破れる。

 アントニー、アシーヌ、ステフは三人三様の格闘の末、若くしてもはや自分は親の世代と同じことをして朽ちるしかないことを思い知る。これが小説の主題である。シラ書から引用された小説題『彼らの後の彼らの子供たち』は無名の民の宿命を暗示させたものだが、この永劫の倦怠を私たちはくすぶらせ、それは時として表現となって爆発する。


 98W杯フランス民衆の満場一致の高ぶりは、ひょっとして(アラブも黒人も金持ちも貧乏人も)みんな一緒に生きられるのではないか、という一瞬の蜃気楼を見せてくれた。小説はこのW杯のクレッシェンド的盛り上がりのうちにも、遂に消えない少年少女たちのやるせなさを浮かび上がらせる。

 マドンナ、シンディ・ローパー、ガンズン・ローゼズをバックに聞きながら、地方の倦怠とからみあい、もがく若者たちの90年代。これも中央が見ぬふりをしてきたフランスの現実であり、不可視のフィールドで展開されていた少年少女の反抗を描いた一種の青春小説であり、社会政治小説でもある。黄色いチョッキ(ジレ・ジョーヌ)運動の地方無名市民たちから噴出した怒りを理解する上で、この小説はおおいに役に立つであろう。

 しかしこの小説の最大の魅力は、無軌道で不安定で言葉少なく怒号が多いまっすぐ一途な少年アントニーの無鉄砲な疾走ぶりの美しさである。原石のきらめきを思わせる。映画化を望む。動くアントニーを見てみたい欲求がかきたてられる。

(ラティーナ誌2019年1月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


Nicolas Mathieu "Leurs Enfants Après Eux"
Actes Sud 刊 2018年8月 430ページ 21,80ユーロ


(↓)出版社アクト・シュッド制作のニコラ・マチュー『彼らの後の彼らの子供たち』の自著紹介動画。



(↓)シャカ・ポンク「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」(ライヴ2018)

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