2021年11月30日火曜日

こりにサロメ(チール)

Salomé Leclerc "Mille ouvrages mon coeur"
サロメ・ルクレール『千の手仕事 私の心』


ベコワーズ。フォーク/アコースティック系シンガー・ソングライター。1986年生まれ、これを書いている時点で35歳。これが4枚目のアルバムであるが、2011年のファーストアルバム"Sous les arbres"(フランス/ケベック録音、エミリー・ロワゾーのプロデュース)からすべてフランスで発売/配給されているそう。私は今日まで全く知らずにいた。フォーク系と書いたが、初めてものにした楽器は10歳の時、兄二人と組んだバンドのために始めたドラムスだったそう。しかもオーソドックスなブルース(ハード)ロック系(ZZトップ、AC/DC...)のレパートリーを演奏するバンドだったため、筋力むきだしドラマーとして鍛えられた。これは強いよね。ドラムスできるようになったらどんな楽器でもできるようになるはず。バンドの真ん中にいて、他の楽器を全部聞いてリズムでバンドを引っ張る司令塔だから。現場監督の立場。だからギター、ベース、キーボードなんてちょろいちょろい。
 今からちょうど10年前の2011年にエミリー・ロワゾーとのコラボレーションでできたアルバム"Sous les arbres"の時から、この人のサウンドに特徴的なのは繊細なんだけど"きれい”にしようとしない、耳障りを刺激するなにか粗なものを混ぜて構成されていること。例えばギターのチューニングがちょっとだけ狂っていたり、ちょっと外れるタイミングがあったり。20世紀末以降のきっちりディジタルな整然さにちょっと歯向かっているような。息遣いとか体のエモーショナルな動きに忠実な音楽。わざとらしいローファイではなくて。完全主義を目指さない手仕事主義。でも前述のように何でも楽器ができるようになっちゃって、現場監督的な耳が育っちゃったもんだから、スタジオに入ると全部ひとりでできてしまって、その方が思うような音にできる、という自惚が。で、2018年のサードアルバム "Les choses extérieurs"は本当に誰の力も借りず全部ひとりで録音してしまった。一から十まで。このアルバムはすごく評価が高い(ちゃんと聞かねば)。
 で、2020年から21年、コロナ禍の”籠り”を余儀なくされた時期、サロメは同じように一人籠りで録音していったのだけれど、このコロナ禍で誰もが思った”籠りを突き破って誰かと共有したい”という切望がサロメにも。で助けを求めたのが同じレコード会社Audiogram(ケベックの独立レーベル)のアーチスト、ルイ=ジャン・コルミエ。サロメよりややキャリアの長い同世代歌手/作編曲家/マルチインストルメンタリスト/プロデューサー、フランスではわが最愛のラジオFIPがかなり押していて、アルバムはナントのヨタンカ・レコードが配給している。
 で、ただものではない(かの国のバンジャマン・ビオレーみたいな)コルミエがまずしたのは籠りながらの録音すべてを聞いてやることであり、その結果サロメの多重トラックデモのほとんどすべてを使おうということに。その上でストリングス、ホーン、コルミエの打ち込みなどをほどよく(サロメの"ラフ"さを損なわないほどに)加えていく、という作業。つまり「サロメひとりサウンド + α」のような、”素(そ)”を生かす音環境づくりをコルミエが目指したわけです。歌の世界は(少女期)ノスタルジックだったり、残酷な時の流れだったり、何年たっても消化できない別れだったり...。秋と冬しかない国ケベックならではのモノトーンなメランコリアがさまざまな絵になって、という印象です。

 では、曲を聞いていきましょう。2曲め「バルセロナでのあなたの目(Tes yeux à Barcelone)」

昼が夜でなかったことがあった
まるでそうだったってこと
真夜中になる前に
星を探していたのね
バルセロナ

この日がこの世のものでないように
すべてが響きあっていた
夢を見つけ
すべてを築いたのよ
私たち自身の手で

あなたは何を憶えているの?
あなたの目には何が見えたの?
目を閉じると流れ出す
あそこで撮った私たちの映画
あなたには何が見えるの?
私たちを包んだ風を
もう一度連れてきて

実際に再訪したことなんてなかった
無理もないわね
 
幸福はそれが与えてくれたものすべてを
取り返すことなど
絶対にない

バルセロナでのあなたの目は
木炭デッサンの一筆で描かれたものじゃないって
見えていたのに

一年前
浜辺で
影と影が横たわって延びていった

あなたは何を憶えているの?
あなたの目には何が見えたの?
目を閉じると流れ出す
あそこで撮った私たちの映画
あなたには何が見えるの?
私たちを包んだ風を
もう一度連れてきて

あなたは何を憶えているの?
ねえ、何が見えていたの?


ふるえる声、映像的なサウンドデザイン、断腸のワルツ。凝ったことしてると思いますよ。弦楽四重奏団とチューバ奏者の他は全部サロメの多重録音。

 続いて6曲め「私のためだけのあなた (Juste toi pour moi)」。どんどんよくなる。こういう複雑で交感不能な恋を歌わせたら、このサロメにかなう人いないのではないかな。
私がここにとどまらないのは
私がそう努力しようとしなかったからじゃない
私がここにとどまらないのは
私がどこかに行こうとしているからじゃない
私がどこかに行こうとしているからじゃない

まだあなたを愛しているの
知ってるでしょう、私が今まで手に入れたかったものは
ただひとつ
私のためだけのあなた

私があなたに両腕を開けないのは
私の体が眠っているからじゃない

私はそれ以上のことができないのは
私の心が眠っているからじゃない
ただ過剰なのよ、過剰な努力が要るのよ

まだあなたを愛しているの
知ってるでしょう、私が今まで手に入れたかったものは
ただひとつ
私のためだけのあなた


2分9秒目から約1分半続くアウトロが必殺だよね。アドリブのヴォカリーズも。ケレン・アン・ゼイデルやファイストがこういうの得意だったと思う。厚めの室内楽アンサンブルのようなサウンドデザインは、弦楽四重奏団+管隊(トロンボーン+フレンチホルン+チューバ+クラリネット+フルート)そしてその他の楽器とヴォーカルはすべてサロメ。

 アルバムにはアコースティック・ギターだけだったり、楽器少なめ編曲の曲もあるのだが、私は圧倒的にこの厚め室内楽アンサンブルのようなバッキングの曲が好きです。
 次の曲もそういうサウンドデザインの曲で、シングル化されてたいへん高踏的で難解ドラマティックなヴィデオクリップもつけられた「人生って時々 (La vie parfois)」(7曲め)。
人生って時々投げ出すものね
私がもう一回りできるって思ったら
あなたはまだそこにいるわね

それは日曜日の長い一日みたいなもの
そんなに早く進もうとしても
全然何も変わらない

たいしたものじゃないわ
断片的なイメージばかり
それがあなたと私
あなたが選ぶのよ
これをどうやって終わりにするか?
あなたが私を受け入れるなら
あなたが私を忘れないなら

人生って時々ずっと先を進んでしまう
私があなたと私の間の距離を取り払おうとすると
(時々それは距離を通り越してしまう)

時々すべてがごちゃごちゃに混ざってしまう
(私は時々自問するのよ)
どうやってそこまで行くの?
(どうやって私は最後まで屈服するの?)

たいしたものじゃないわ
断片的なイメージばかり
それがあなたと私
あなたが選ぶのよ
これをどうやって終わりにするか?
あなたが私を受け入れるなら
あなたが私を忘れないなら


これも弦楽四重奏団+フレンチホルン+チューバ、ルイ=ジャン・コルミエの打ち込み、ヴォーカルその他全楽器がサロメというアンサンブル。難しい歌詞をケロっと歌うクロ・ペルガグに通じるシュールな雰囲気だが、病気っぽくはない。ただ"別離”のようなテーマは、こうやって歌ってくれた方がストレートに聴く者を打つ。

 2021年に出会ったアーチストでは一等賞だと思ってます。

<<< トラックリスト >>>
1. Anyway
2. Tes yeux à Barcelone
3. Où on s'est trouvé
4. Avant les éclats
5. Chaque printemps
6. Juste toi pour moi
7. La vie parfois
8. 12 heures plus tard
9. Cinéma
10. Rue Messier
11. Mon coeur à l'endroit
12. Tes voyages

Salomé Leclerc "Mille ouvrages mon coeur"
CD/LP/Digital Audiogram/Yotanka YO123
フランスでのリリース:2021年10月8日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)サロメ・ルクレール "Mon coeur à l'endroit"

2021年11月26日金曜日

失われた黒いランボーを求めて

Mohamed Mbougar Sarr "La plus secrète mémoire des hommes"
モアメド・ンブーガール・サール『人々の最も秘められた記憶』

2021年ゴンクール賞

はじめに予言と王あり。予言が言うには地球は王に絶対の権力を与える代わりに老いた人間たちの灰を求めるであろうと。王は予言を受け入れ、王国の老人たちを焼き殺し、遺骸を王宮の周りにばらまくや、たちまちそこに森が生じた。死の森、これを人は非道の迷宮(Labyrinthe de l'inhumain)と呼ぶ。
ー T.C.エリマン『非道の迷宮』

1990年ダカール(セネガル)生まれ、現在31歳のセネガル人作家の4作目で2021年度のゴンクール賞受賞作品。460ページ。壮大な「アフリカ文学」小説である。
 このことは小説の根にある大きな批判的疑問符であるが、一体アフリカ文学とは何か、それはどこにありどうなっているのか、という問題を(アフリカ文学の)「若い書き手」たる作者と作中主人公(これも作家)が問い詰める。それは21世紀の今日、各国・各文化圏で各言語で書かれて成立するものかもしれない。しかしその文学がアートたらんとする時、アカデミズムのフィルターがものを言い出し、(世界的)文学権威がお墨付きを与えるか与えないかという関門がある。それはギリシャ古典や欧州文学の積み重ねでこちこちに固まった文学観であり、その審美眼に応えられるものが文学であるという「正統」論である。この小説に登場する西アフリカ(旧フランス植民地圏およびフランス語圏)の若い作家たちは、そのアカデミックな権威に精一杯の抵抗をしつつも、西洋文学の教養を最低の基礎として勉強してフランス語で作品を発表し、故国よりもフランスの出版社で世に出されることを望み、”フランス文壇”で注目され、例えばル・モンド紙の書評欄で「アフリカ新文学の旗手」などと数行書かれることが、「作家」として創作活動するために避けられない道となっている。これは言い換えればコロニアリスム(植民地主義)なのである。フランスの出版社に認められること、フランスの文芸批評家たちや文学者たちおよぶフランスの読者たちに認められること、これを外しては「アフリカの文学」はそれ自体として成り立たない。斬新に野心的で、因習や封建社会や権力腐敗を糾弾告発したり、性的にスキャンダラスな作品を書くこのアフリカ新文学の旗手たちは、このフランス文壇依存というコロニアリスムに呪縛されている。
 しかし、このコロニアリスムや西洋アカデミスムを凌駕し超越する「アフリカ文学」作品が実在したらしい。この小説の話者でセネガル人の小説家であるディエガン・ファイユは、その噂をダカールでの高校生時代に高校教材の「アフリカ文学概論」で見つけて以来、その虜となってしまい、数十年も入手不可能となっている誰も読んだことのないこの本を追い求め始める。その書とは1938年パリで出版された当時23歳のアフリカ人作家T.C.エリマンの初小説『非道の迷宮(Le Labyrinthe de l'inhumain)』。今日、全く語られることのないこの小説は、前述の「アフリカ文学概論」に記された数行によると出版当時フランス文壇で大反響を巻き起こすが、その後批評家からの攻撃(民話からの剽窃、複数の作品からの盗作)と盗作裁判が起こり、出版社が販売中止、回収、ストックの廃棄のあげく会社は倒産、そして作者の消息も途絶えている。ディエガンはバカロレアを取得し、渡仏してパリで暮らすようになるが、この地でもエリマン著『非道の迷宮』はどこにも見つけることができない。その執拗な探究の成果はわずかに当時の書評の断片などを散発的に発見するのみ。月日は経ち、ディエガンは学業から離れ自ら作家となり、最初の本は2ヶ月でたったの79部しか売れないという"快挙”であったが、運良くル・モンド紙に書評が載り「アフリカ文学の期待の新人」となる。ブックフェアやアフリカ文学のシンポジウムなどにお呼びがかかるようになる。パリには仏語圏アフリカ(セネガル、マリ、コンゴ、カメルーン...)の”流謫”作家たちがいて、一種のゲットーを構成しているのだが、フランスでの出版を経由しなければ作家として認められないし喰えないというのが現実だ。その中で、ちょっと年配(60歳代)で、評価は賛否分かれ、性的スキャンダルや醜聞暴露で訴訟沙汰も何度かある(その度に法廷には弁護士なしで出廷するという武勇伝あり)セネガル出身の女性作家シガ・Dと偶然出会う。強烈な個性を持った傑物女性であり、小説中最も多くの情報を握る人物として、第二の話者のような重要性を持つ。このシガ・DがなんとT.C.エリマン著『非道の迷宮』一冊を所持していた。彼女は惜しげもなくその一冊をディエガンに差し出す。止まらない戦慄とともにディエガンはこの本を何回も読み返す。その驚愕の内容はこの小説では詳らかにされない。とにかくすごい代物なのだ、というオーラのみが強調される。そしてディエガンはこれを共有しようとパリの"ゲットー”アフリカ文学気鋭作家たちを召集し、この不遇の先達の大偉業をわれわれの手で復権しよう、と。ゲットー作家たちは『非道の迷宮』の衝撃におののき、ディエガンに協力を誓うのであるが.... 「エリマンとは誰であったか」を追求する気の遠くなるような仕事は結局ディエガンひとりしかできないのだった。
 エリマンの情報を最も多く持っているシガ・Dとディエマンの関係は、エリマンに取り憑かれたという共通項のある姉弟、あるいは母と子、あるいは性関係で融合する愛人同士のように密なものになっていく。ディエマンはシガ・Dのことを「母なる蜘蛛 araignée-mère」と呼び、エリマンの秘密という幾重にも編まれた蜘蛛の巣の中に囚われもがいているのはディエマンである。


 1938年、エリマン『非道の迷宮』は発表後一部批評家から絶賛され「黒いランボー」とまで称されたのであるが、その直後(アフリカ民話剽窃、複数の現存作品の編集盗作嫌疑を含む)批判・非難の集中攻撃を浴び、訴訟沙汰となり回収・絶版の憂き目を見、出版社は倒産する。人民戦線政府の崩壊から翌1939年の第二次大戦開戦にかけてフランスの論調は右傾化しており、フランス文壇のエリマンつぶしは概ねレイシズムによるものと考えられる。エリマンはこの不当な謗りへの反論の一言もなく、一度も公に姿を現すこともなく、忽然と姿を消す。TC エリマンという作家は実在したのか?本当にアフリカ黒人だったのか?覆面作家ではないのか? ー このミステリーを追っていた女性文芸ジャーナリスト、ブリジット・ボレーム(後年フェミナ賞審査員長という文壇の大御所の地位を得る)は、1948年に件の出版社の共同主宰者だったテレーズ・ジャコブを見つけ出しインタヴューに成功し、そこからエリマンの実像をなぞる「黒いランボーとは誰であったか?」と題する記事を発表している。この記事も全く話題にならず今日どこにも記録が残っていないものだが、シガ・Dは入手でき、文学界の重鎮となったボレーム女史に会いに行っている。

 話は前後するが、セネガル出身の流謫のスキャンダル女流作家シガ・Dはエリマンと同じ血を引く一族の出身である。19世紀(1888年)生まれの盲目の父ウーセイヌー・クーマクがだいぶ高齢になってから生まれた末の娘がシガ・Dであり、母親は出産のあと死んでしまった。母の死を引き受けて生まれた子供というトラウマゆえに父ウーセイヌーとは幼少から対立し反抗して育ち、その恨みはウーセイヌーの最晩年まで続く。その父が自らの死の床にシガ・Dを呼び寄せ、反抗的な娘にその長い生涯の最大の心残りである甥(ということになっている)エリマンのことを包み隠さずすべて語るのである。これだけでミスティックなアフリカがごまんと詰まったものすごい話なのでここでは書けないが、少しだけ。ウーセイヌーは双子で生まれ兄のアッサンとは体型も性格も違い、社交的で豪放な兄に比べて弟は静かで思慮深かった。20歳の時ウーセイヌーは漁に出て舟から転落して一命を取り止めるが視力を失った。アッサンは勉学にフランスに出向き別名をポールと名乗り西欧化したが、ウーセイヌーはイスラムとアフリカ伝統の学問に秀で、秘教も習得してのちに遠方にまで知られる治癒者・祈祷師として敬われる。若き日にこの双子はひとりの女モサンを同時に恋慕するが、モサンは両者を愛しながら形としてはアッサンを選択したことになり、二人は都会で夫婦となりモサンは1914年に妊娠する(後でわかることだが、この胎児は父親がアサンかウーセイヌーかわからない)。第一次大戦勃発。植民地セネガルの宗主国フランスは欧州で戦う兵士を募り、フランス愛に燃えたアッサンは志願し、欧州戦線に出征するが、その不在中の妊婦モサンと生まれて来る子供の世話を弟ウーセイヌーに託す。1915年、生まれた男児はエリマン・マダグと名付けられるが、その”父”アサンは欧州から二度と帰って来ない。”叔父”ウーセイヌーと母モサンに育てられたエリマンは早熟な天才ぶりを見せ、ウーセイヌーから教わる伝統的学問の知識も(おそらく秘教の伝授も)完璧に吸収するだけでなく西洋学問も誰にも負けない。1935年20歳でエリマンはフランスに渡り、大学で学問を研鑽することになっていたが....。ウーセイヌーとモサンあてに定期的に送られていたエリマンの手紙もやがて途絶える。そして1938年小説『非道の迷宮』出版、盗作騒動で蒸発。母モサンは心を病み、来る日も来る日も村の墓地前のマンゴーの木の下に裸体で座りエリマンの帰りを待っている狂女になってしまう...。
 忌み嫌い憎悪していた父ウーセイヌーの死ぬ間際に聞かされた、おそらく40年も歳の離れた”異母兄”かもしれないエリマンの存在。ウーセイヌー、エリマンと運命を分かつことになるであろう私=シガ・D。ウーセイヌーは娘シガ・Dがエリマンと同じように村およびセネガルから出て行ったきり帰ってこない文筆家になることを見抜いている。私=シガ・Dはエリマンの側の人間なのだ。

 この小説において、偶然の出会いはすべて必然である。この出会いの必然の連鎖で小説はさまざまな円環を広げていく。80年代シガ・Dが貧乏学生としてパリで暮らす(アパルトマン賃貸を可能にする)ために保証人になってくれたハイチの女性詩人(外交官の娘)とは第一の親友となるが、ずっと後年になって、1950年代に彼女がまだ学生だった頃父の赴任地ブエノス・アイレス(アルゼンチン)でエリマンと出会い、父親ほどに歳の離れたエリマンと一時的に恋人関係になっていたことを知る。シガ・Dとハイチ詩人は(見えないエリマンの引き寄せによって)出会う運命にあったのだ、と。ではなぜエリマンは50年代末から60年代にかけてアルゼンチンおよび南米諸国をさまよっていたのか?それは人探しのためだった。おそらくその人間を殺すために。
 ずっと上(↑)で少し述べた消えた『非道の迷宮』著者の正体を追う文芸ジャーナリストでのちにフランス文壇の重鎮となるブリジット・ボレームは、訪ねてきたシガ・Dに、1938年当時に『非道の迷宮』を論評した文芸評論家および文学者たち十数人について克明な調査をしていて、この全員がその後1〜2年の間に自殺を遂げているという事実が挙げ、これはエリマンがなんらかの方法で彼らを自殺に導いたのではないか、という推論をほのめかすのである。自分が手を下すのではなく、自殺に誘導する。シガ・Dはそれを否定しない。アフリカの村で治癒師・祈祷師として言わば超自然的に病気を治したり、未来を予知したりすることができた父ウーセイヌーの能力は疑えない。若い日にそのウーセイヌーの教育を受けたエリマンが受け継いだものはあるはずだ。アフリカのミスティシズムはこの小説の大きなファクターでもある。

 エリマンはさまざまなところにいた。"父”アッサンが姿を消した北フランスの第一次大戦古戦場の各地にアッサンの軌跡を探しに。その"父”探しの旅に同行してくれたエリマン第一の理解者(小説家エリマンの発見者でもある)のシャルル・エレンスタイン(テレーズ・ジャコブと共に『非道の迷宮』の出版社の共同経営者)は、ユダヤ人ゆえナチ占領下のパリで捕まり収容所送りとなった。恩人エレンスタインを逮捕しガス室送りにした張本人のナチ将校は、戦後南米に逃亡したが、エリマンは執拗にそれを追跡し、アルゼンチンに数年滞在することになる。またシガ・Dのいた1980年代のパリにもいて、何度か”異母妹”とニアミスしている...。
 2018年、それらのすべての情報をシガ・Dから引き継いだ若きディエマンは、その先の最後の最後まで見届けるために、セネガルに向かうが、その時ダカールはひとりの娘の抗議自殺に端を発した前代未聞の高揚を見せる反政府運動の真っ只中...。

 こんなレジュメでどの程度まで理解してもらえるかどうかわからないが、460ページ、めちゃくちゃにいろいろ詰まった小説なのだ。戦前のフランス文壇コロニアリスムに消されたアフリカ文学の傑作と23歳のアフリカ黒人作家の真相を追っていくと、それは必然のように「今」につながってしまう。先に書いたようにこの小説で偶然はなく、すべて必然なのだ。エリマンは103歳まで生きて、廻り廻ってセネガルにたどり着いたディエマンと出会うことなく、その直前に死んでいる。”父”ウーセイヌーから継承したかもしれないエリマンの予知能力は、その若者がここに来ることを知っていた。予知する者、見る者、それはランボーの「見者 voyant」と同じだ。しかしこの黒いランボーは、ランボーのように筆を折らずに、何十年もの彷徨のうちに作品、すなわち『非道の迷宮』の続編を準備していたのだ。それを受け取り、受け止めたディエマンはどうするのか、というエンディング。

 書くこととは何か、読むこととは何か。T.C.エリマンの『非道の迷宮』は紛れもない例外的な傑作であろうが、それは悪く読まれることによって抹殺されたのだ。エリマンは悪く読んだ者たちに復讐を企てるほどの激情の書き手であったのか。復讐者エリマンはこの復讐が終われば、再び書くことが始められると思っていたのか。終わりのない彷徨が孤独な書き手に何をもたらしたのか。今やその最後の手稿はディエマンの手にあり、ディエマンはそこからどう動くべきか。これがエリマン探しの旅の果てだ。
 書くこととは何か、アフリカ人作家にとって書くこととは何か、その問いにはこのエリマン探しの旅に同行した幾人かのアフリカ人作家たちのそれぞれの答えがある。コンゴ内戦のさなか少年の日に家の井戸の中に隠れて、両親が反乱兵士に陰惨を極める拷問の末に殺されるのを息を潜めて聞いていた亡命作家ムジンブワ(おそらくディエマンの最良の理解者であろう)は、この井戸の中にいる自分が作家の原点であり、井戸の中に聞こえてきたことを書いていくことが俺の作家としての役目だと言う。
 19世紀アフリカからヨーロッパの二つの大戦、アフリカ諸国の独立、南米の軍政化など世界史の動きを背景に展開する大河小説の趣きもある。この小説の最終部は2018年的現在のセネガル(ダカール)の巨大民衆デモの中で、ディエマンと(報道特派リポーター)アイーダとの激しい恋の終焉というドラマチックなカタストロフも。エルネスト・サバトヴィトルド・ゴンブロヴィッチもT.C.エリマンのブエノスアイレス滞在時代の文芸サロン友人として"ゲスト出演"。いくつか登場する証言資料をロラン・バルト用語の"Biographème"(ビオグラフェーム、日本語では”伝記素”というよくわからない訳語がついている)と見出しをつけるなど、その種の知的刺激あそびもちらほら。そしてディエマンのイヤフォンにはいつもシューペル・ジャモノ・ド・ダカール
 最も秘められ、最も呪われたアフリカ人作家、黒いランボーたるT.C.エリマンの実像を追跡して、それが少しずつ見えてくる時の読者のわくわく感、これはこの盛り沢山の長編小説が持ち合わせてしまった"エンターテインメント性”である。よく構成されている、という読後感も、このエンターテインメント性によるものであろう。このエンターテインメント性が過ぎると文学は必ずや壊れてしまう。私はこの小説はそのリミットを超えていないと思いたいが、困ったことにかなり面白いのだ。

Mohamed Mbougar Sarr "La plus secrète mémoire des hommes"
Philippe Rey+Jimsaan共同出版 2021年8月刊 460ページ  22ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ゴンクール賞受賞後のネットメディアBRUTのインタヴューに答えるモアメド・ンブーガール・サール(聞き手:オーギュスタン・トラプナール)
あなたはどこから来たのか、という問いに「私は文学という領土からやってきた」と答える。すばらしい。

2021年11月7日日曜日

ヴェロさんのアメリカ

まだ人生が終わったわけではないが、わが生涯を通じて(レコード/CDにおいて)最も聴いたアーチストはビートルズでもローリング・ストーンズでもなく、ヴェロニク・サンソンである。それが年を追うごとに72年/73年の圧倒的な魅力を加速度的に失っていってもである。ファンというものはそういうものだ。それが2016年のアルバム "Digues, dingues, donc..."を最後に新譜を買わなくなったし、コンサートも(声が出ない状態を知っているので)行かなくなった。もともとこの人のライヴは好きではない。フランスで見るからだろうが、ファンたちのサポートで支えてもらっているようなパフォーマンスがいやだった。テレビのショー番組での「生演奏」も見て(聞いて)いられない。ゴシップ誌やネットメディアで見るのは、(フランソワーズ・アルディと同じように)その"病状”や芸能ネタばかりで、どうにも興味のいだきようがない。私は古いレコード/CDだけでいい。それだけでファンを続けよう。2008年12月にワーナーから出た全集(CD22枚+DVD4枚)は聴くほどにまだまだ発見がある。
 音楽誌ラティーナに連載していた「それでもセーヌは流れる」(2008〜2020年)では2度まとまった記事を書いているが、その2度目は2015年、ヴェロニク・サンソンの(ミセス・スティーヴン・スティルスとしての)アメリカ滞在期に関するものだった。それまでイメージされていた「暴君的な夫に命の危険さえあった悪夢のような年月」という俗説をかなり否定する、”歴史修正”的な見直しと、アメリカ期に録音された5枚のアルバムの再評価の試みだったようだ。われながら、発見のある面白い記事だった。再録します。

★★★★  ★★★★  ★★★★  ★★★★ 


この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2015年3月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。



タバコを買いに行くわと言って出たきり帰ってこなかったヴェロニク・サンソンのアメリカ時代


(In ラティーナ誌2015年3月号)


バコを買いに行くわ」と言って出たきり、二度と戻ってこない。これがヴェロニク・サンソンの伝説だった。

   時は1972年3月、ファーストアルバム『アムールーズ』が出て、23歳の誕生日も近い頃、ヴェロニクは公私とものパートナー(恋人でありプロデューサーでもある)ミッシェル・ベルジェと連れ立って、オランピア劇場にマナサスのコンサートに行く。1970年にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングとして歴史的傑作『デジャ・ヴ』を世に送った当時のスーパースター、スティーヴン・スティルスの新しいバンドである。そのライヴに二人(とりわけヴェロニク)が魅了されたことは間違いない。偶然にその翌日彼女が所属していたレコード会社WEAのフランス支社に、同じWEA所属のスーパースター氏が表敬訪問していて、ヴェロニクとスティルスは支社長ベルナール・ド・ボッソンの室で初対面する。その時のスティルスの顔を「まるでテックス・アヴェリー動画に出て来る赤ずきんちゃんを見たオオカミのよう」だったとボッソンは後日回想している。同じソファーに腰掛け話し出す二人。スティルスは既にアルバム『アムールーズ』を聞いてその才能を確信していて、会う前からそのアメリカ版を自分がプロデュースできたらと考えてたよ、とミス・サンソンに言った。よく言うよ。初対面なのに長々としゃべってしまった。おもむろにヴェロニクは「私もう行かなくちゃ」と席を立った。するとスティルスも「俺ももう出るよ」と。
 「私は彼の手を取り、夢中でシャンゼリゼ大通りを走って横断した。そして自分がどうしていいんだかわからなくなって、じゃあ、さよならって、彼をそこに放っておいたの」。

   伝説ではここで握手のシーンがある。エモーションのあまりどれほど強く握ったのだろう、ヴェロニクは通りを渡り、背後かなたにスティーヴが消え去る頃、彼の手袋がまだ手の中に残っていたことに気付くのである。

   スティルスとマナサスは世界ツアーを続け、その10月にパリに戻ってくる。ヴェロニクのアルバムは「フランス初の大型シンガーソングライター」と世界で絶賛され、既にセカンドアルバムを準備中で、その中には(後日に明白になるのだが)スティルスとの出会いにインスパイアされた曲が何曲か録音されている。アルバムタイトル曲である『私の夢の向こう側(De l'autre c
ôté de mon rêve)』の意味が、スティーヴン・スティルスとアメリカであるということを恋人のミッシェル・ベルジェは知らずに、淡々とスタジオ録音作業を続けている。そのスタジオにスティルスが訪れている!ベルジェとヴェロニクは17区の新居に引っ越したばかりだった。そこは室内が真っ白に塗装され、白いピアノが置かれていた。その春ベルジェとサンソンが連名で設立した音楽出版社の名前は「白いピアノ(piano blanc)」だった。

   スティルスがパリでの日程を終え、アメリカに帰る時、悪魔の誘惑、彼はサンソンの分の航空券を用意して、空港で彼女を待っている。心の決まらない女は荷物を持って空港に行くものの「あ、パスポート忘れちゃった」と臭〜い芝居をして、一時はその夢を断ち切ろうとフランスに留まり、ロックスターはひとり機中へ。

   しかし...。沖からの呼び声はヴェロニクを狂わせる。ベルジェと新生活を築いていると信じている両親と姉には何も言えない。セカンドアルバムのヴォーカル吹き込みが終った時、彼女は歌手のニコレッタ(「あなたの生きるべき人生を生きるのよ、お金はいつでも好きな時に返して」)から航空券代を借り、録音スタジオワークの合間に「タバコを買いに出てくるわ」と言い残し、そのまま帰ってこないのである。


   2015
年2月、4月に緑寿(66歳)を迎えるヴェロニク・サンサンが4年ぶりに大規模なツアーに出ている。ショーは"Les Ann
ées Américaines"(アメリカ時代)と銘打たれ、彼女がアメリカに滞在していた時期(オフィシャルには1973年から81年)に制作した5枚のスタジオアルバム:


"Le Maudit"
(邦題『悲しみの詩』1974

"Vancouver"

(『想い出』1976

"Hollywood"
(
『想い出のハリウッド』1977

"7
ème"
(『愛の微笑み』1979

"Laisse-la vivre"

(『ときめき』1981

に収められた曲から演目を構成したものになっている。同時期にグラッセ社から『ヴェロニク・サンソン - アメリカ時代』(ローラン・カリュ&ヤン・モルヴァン共著)という評伝本も出版され、またレコード会社ワーナー・フランスからは同名のCD2枚組の編集盤もリリースされた。


 このアメリカ期は「ミセス・スティルス」であった時期である。これまでこの時期は、音楽的評価よりも前に(芸能誌的な多くの情報によって)プライヴェート面における多くの問題の方が強調されていたようなきらいがある。曰く、スティーヴン・スティルスとも蜜月時代は短く、ミッシェル・ベルジェとの悔いある別離、アメリカ生活での孤独、アーチストとしての行き詰まり(アメリカでの成功がない)、ドラッグとアルコールへの転落、暴力的な夫との長い離婚訴訟...等々。不幸なヴェロニク・サンソンというイメージはその歌詞にも多く、ミッシェル・ベルジェが1992年に亡くなった後で、アメリカ期に書かれたほとんどの曲がベルジェへの悔恨・懺悔・永久の愛のメッセージであると告白して、ベルジェ未亡人であるフランス・ギャルと重度の確執関係となっている。愛のない結婚、異国での孤独、アルコール... それだから心に響いて来る音楽もある。この才能あふれるシンガーソングライターは一級の私小説作家の面を持つ。自らの生きざまが音楽になったのだ。だから...とファンたちは妙に納得して、悲劇のヒロインの音楽に感動していたのだ。

 ところが、本当にそうだったの?前掲のカリュ&モルヴァン共著本『アメリカ時代』は、視点がこれまでの評伝本とは大いに異なっている。170 x 240ミリ版130ページのカラー図版本でまず驚くのは多くの未発表写真で、とりわけハワイでの日焼けした水着姿や、テニスする姿、ビーチで煙草を吸う姿に驚かされる。それらはリラックスしたヴェロニクのリゾート満喫の美しい笑顔があり、スティルスと子供クリストファーの顔も優しい。なにか過去を書き換えているような印象すらある。

 40年を経て『アメリカ時代』が見直される。同時にスティルスとの関係も。冒頭で紹介したようなサンソンとスティルスの電撃的な恋は、今までこんなにディテールが伝えられたことはない。この新著の中では手袋を握りしめて消え去ろうとするヴェロニクに向かって男は"I will marry you!"と叫ぶのである。嘘だぁ。

 「タバコを買いに」と行方不明になった娘の居場所を、父ルネ・サンソンは国際警察機構(インターポール)を使ってつきとめる。第二次大戦のレジスタンスの英雄であり、政府高官をつとめた(因みに70年大阪万博のフランスパビリオン館長でもあった)ルネだからできたことだが、この誇り高いフランス名士は娘を強引に娶ろうとするテキサス野郎に「きみは娘を本当に幸せにできるのか?」と問うた。それに対するスティルスの答は「僕は世界で千八百万枚のアルバムを売った男ですよ」。

 それは見当外れの答ではない。このスーパースターはこのフランス娘に音楽アーチストとしての最良の環境を準備してやるのである。

 「一緒に歌うのは息子のためだけだね。僕はアーチストとしての彼女に口出しはしない。もちろんできることがあれば助けるさ。でも彼女は十分才能がある。僕は道具を与えたいだけなんだ」(スティルス、ローリングストーン誌197412月)。コロラドとロサンゼルスとハワイに家を持ち、ポール・マッカートニーやスティーヴィー・ワンダーと知り合い、最良のミュージシャンたちと最良のスタジオで録音する。駆け出しのシンガーソングライターだったフランス娘は、その恵まれすぎた環境に気後れすることなく傑作アルバム"Le Maudit"(『悲しみの詩』1974)を作った。これは絶対にフランスではできなかったことなのだ。

 「ブルースは僕の国から生まれたものだが、彼女はブルースのすべてを持っている」と1989年にスティルスは書いている。悲しみはヴェロニクの中にあり、それを源に音楽を作っていくようなアーチストの作業に最適な環境を与えるというのが、スティルスの役目であり愛情であった。ロンドンで満杯熱狂のウェンブリー・スタジアムでのライヴの主役を果たした数日後、パリのオランピア劇場の愛妻のステージでは後方で黙々とベースを弾く、というスティルスの姿は当時奇異に見えたであろう。

 夫婦の日々には天国と地獄がある。アルコールとドラッグと暴力、猟銃、放火、殺し屋、後半は信じられないほど恐ろしいエピソードが続き、限界をはるかに超えた時点で二人はやっと離婚できた。「もう前世のことさ!」とスティルスは言う。「今や彼女は僕の一番の親友さ。僕のすべてを理解していて、何も隠せない。僕の心がブルーになった時、誰に電話すべきか、今僕は知っている」。
 

 ヴェロニク・サンソンの「アメリカ時代」は結婚・出産・離婚と5枚のアルバム。コロラドの高山、西海岸のセレブリティー、ハワイのヴァカンス...40年後、66歳のヴェロニクは目を細めて、あの時の歌の数々を再び私たちの前で歌ってみせるのである。老いなければわからないこともあるのだ。


(ラティーナ誌2015年3月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)”LES ANNEES AMERICAINES"ツアーのDVDのティーザー

2021年11月1日月曜日

しゃれこうべと呼ばれた女

Patrick Modiano "Chevreuse"
パトリック・モディアノ『シュヴルーズ』

作のキーワードのひとつが "Art de se taire"、つまり沈黙する術、口をつぐむワザ、ということ。この"art”は処世術という言葉における"術”、身に付けた"作法"のような意味である。だから沈黙する術と言っても、やみくもに黙秘することではなく、言外のほのめかしをただよわせながら、この先は絶対に口を割らず沈黙ではぐらかすという術なのだ。あからさまにではなく、相手がおのずとこれ以上の深入りをシャットアウトされてしまうような逃げ方。この小説に登場するのは多くを語らない人たちばかりです。重要なほのめかしは数語で終わり、その意味するところはこちらの想像通りなのかどうかもわからない。そして本作の主人公はそれを深追いすることができない。それを突っ込んで聞くことによって、相手の罠にはまるかもしれないという恐れがある。だから彼もまた沈黙する術をわきまえなければならないのである。
 モディアノの小説に慣れ親しんでいる読者にはおなじみのこの曖昧模糊・五里霧中な雰囲気の中で、言ったことの途中で止めてしまう登場人物たち。その断片の数々を記憶に蘇る新しい手がかりを頼りになんとか全容を再構築していこうとする。しかし頼っているのは記憶なのでそれ自体が不確かなもの。モディアノの名人芸は、不確かなものを不確かなままでおぼろげな筋立てができていく妙。
 小説の始まりはラジオから聞こえてきたシャンソンである。今から50年ほど前しょっちゅうラジオにかかっていたセルジュ・ラトゥールの"Douce Dame(優美な貴婦人)"という歌。


この歌を聞いたのはガラガラに空いたヴェトナム料理レストランで、主人公ジャン・ボスマンスの向いにはひとりの女がいて、この歌をうっとりした顔で聞き入って、歌詞を口ずさんだりもしていた。女の名前はカミーユ・リュカ、だが人は彼女を「しゃれこうべ(髑髏)Tête de mort」と呼ぶ。なぜこんなあだ名かと言うと「その冷徹さゆえであり、無口で人を寄せ付けないところがあるから」だと。日中は会計職の雇われ人であるこの"しゃれこうべ”がどのようにしてボスマンスに近づいてきたのかはこの小説ではわからない。
 ボスマンスという人物はモディアノの小説では既に数作で登場していて、当ブログで紹介している分では2010年発表の小説"HORIZON”の主人公であり、作家/著述家であることからモディアノの化身と見なされている。今度の小説では、ボスマンスが書いた自伝的オートフィクション小説にその読者が(実在とされる)登場人物の消息について作家に情報を書き送るという挿話があり、内容がわれわれ読者には杳として見えないその小説内小説に、あらたに不確かな証言を加えるという、濃霧に包まれた作品世界に重ねて濃霧を追加するようなモディアノ節がある。
 あの頃20代だったボスマンスは駆け出しの作家で、その放浪癖のような不安定さであらゆる出会いを拒まなかった、それでいて誰にも心を許していないような警戒心もあった、そんな孤独な魂を漠然と感じさせる。ディテールは語られないが作家はそのような小説を書いていたのだろう。そしていつも大きな恐怖が迫ってくる予感がしていた。それが何だったのかをほのめかす記憶の断片がひとつ、またひとつと蘇ってくる。その断片をひとつひとつジグソーパズルのように貼り合わせていくわけだが、断片は曖昧であり、記憶であるから真偽は判然としない。これがなんとか形にするのがモディアノの名人芸である。
 セルジュ・ラトゥールの歌で呼び戻された"しゃれこうべ”と呼ばれた女の記憶。この小説の全編を通してみてもその名に由来する冷徹さはあまり感じられないが、多くを言わない人物であることはわかる。しかしボスマンスとは親密な関係だったことはうかがえ、後に明らかになる彼女の負わされた役割から翻って考えても、ボスマンスを傷つけまい、ボスマンスを守りたい、という秘められた態度すら了解される。そして小説後半には"しゃれこうべ”の15区のアパルトマンがボスマンスの隠れ家にもなっている。敵なのか味方なのか、愛人なの庇護者なのか、それはほとんど語られない。
 いずれにせよその頃のボスマンスは"ヒモ"のように"しゃれこうべ”について回っている。その行きつけの場所のひとつがパリ16区オトイユ地区にある個人アパルトマンのサロンで、そこは夜な夜な人々が集まってなにやら"組織”の社交サロンのようなさま。一体何の集会なのかはボスマンスにはわかっていない。そしてある日そこから、"しゃれこうべ”の女ともだちのマルティーヌと共に車で「寄り道するところがある」と連れて行かれたのがシュヴルーズ。パリの南西30キロの古い城下町と自然公園。マルティーヌが新しく借りることになっている館の下見に。車窓から見える景色に蘇ってくるボスマンスの子供時代の記憶。マルティーヌの新居の家主の名前=ローズマリー・クラヴェルを聞かされた時、ボスマンスの心のざわざわは激しくなるが、それを女ふたりに気づかせてはいけない。
 この小説では登場人物たちすべてがこうなのだ。こちらの手の内を見せてはいけない、動揺を悟られてはいけない。言葉少なになんとかこちらの誘いに乗せようとしているような。
 小説全篇でボスマンスは二度シュヴルーズに連れてこられる。二度めは"罠”だと気づかなければおかしいほどの露骨さで。だがボスマンスは罠とは気づかないふりを続けなければならない。
 背後で動く犯罪の匂いのしみついた男たち。"しゃれこうべ”とカフェで待ち合わせすると、いつも彼女の隣にいるミッシェル・ド・ガマという男。"しゃれこうべ”が会計係として以前勤めていたサン・ラザール駅近くのホテルで同僚だったと言う。そのホテルをド・ガマと二人で共同経営しているというギイ・ヴァンサンという男。"しゃれこうべ”はヴァンサンの事務室で会計仕事をしていた。ド・ガマはボスマンスに"しゃれこうべ”の元の仕事場を見せたいから、とホテルに招待する。ボスマンスは不思議なほど何も拒まない。言われるがままにホテルに行き、"しゃれこうべ”にヴァンサンの事務室を案内してもらうが、そのシーンにド・ガマは同行しない。事務室にある写真、置物、そしてヴァンサンの日程の書かれたアジェンダ...。"しゃれこうべ”は何も指示していないのに、あれこれのものをボスマンスに見せ、写真とアジェンダを盗みボスマンスに提供する...。さらにもうひとり、"組織”の集会サロンのあるオトイユの大きなアパルトマンの借主であるルネ=マルコ・エリフォールという男。ボスマンスは遠い記憶の中で、ド・ガマ、ヴァンサン、エリフォールの三人が監獄の中で意気投合した仲間であるというほぼ確信的な情報がある...。
 私はここでほぼ種明かしをしなければこの記事が続けられないので、書いてしまうが、ボスマンスの記憶が蘇れば蘇るほど、すべてが自分を陥れる罠だった、ということがわかっていく。"しゃれこうべ”もマルティーヌも怪しげな男3人もすべてグルだった。これはこの小説に書かれていないことも読み取らなければわからない。まずボスマンス(=モディアノ)が、両親に育てられず、施設(寮)や養親のもとで子供時代を過ごしたということはこの小説では書かれていない。そしてその養親のひとりが、裕福な独り身女性(=ローズマリー・クラヴェル)だったことも書かれていない。このクラヴェル夫人の館があったのがシュヴルーズであり、少年ジャン・ボスマンスはこの環境に土地勘が芽生えるほどの期間住んでいた(こともこの小説には書かれていない)。記憶として書かれているのは、派手な外車(アメ車)に乗ったならず者風な男がこの館に出入りしていたこと。ある日この館で大掛かりな内装工事が始まり、壁が打ち抜かれ、床に穴が掘られ、その後元どおりにされる。少年ジャンはその工事の一部始終を見ている。クラヴェル夫人がサロンで電話で話していて、ほかの言葉は聞き取れないが、ジャンは彼女がはっきりと「ヴァンサンが監獄から出てきた」と言った言葉だけは鮮明に覚えている。さらにボスマンスの記憶では館を警察が家宅捜索を敢行してあるものを探すのだが、その傍らにいた少年ジャンに警官が「子供の証言は必要ないな」と言い、放っておくのである...。
 ある犯罪、ある隠匿、現金か財宝か、その隠し場所の手がかりを握るたったひとりの目撃者がこの子ジャンであった、と悪党どもは考えた、ということも小説には書かれていない。
 十数年後、この宝物を執念深く追い続ける悪党ども(すなわちド・ガマ、ヴァンサン、エリフォール、あるいはその背後にもいる複数の人物)は、ボスマンスを見つけ出し、その薄れているであろう記憶を取り戻させようと、"しゃれこうべ”を接近させ、シュヴルーズとローズマリー・クラヴェルの記憶を鮮明に取り戻すよう、シュヴルーズとその他さまざまな場所に連れ出すという、時間をかけた大掛かりな記憶蘇生喚起を試みるのである。しかしそのそぶりは見せてはいけない。語ってもいけない。しかし悪党のひとり(ド・ガマ)は詰めのところで焦って本性を出してしまう...。
 お立ち会い、私がじりじりした挙句こんなレジュメを書いてしまったことを信用してはいけない。この小説はこんなに単純ではないし、登場人物たちは鍵になるセリフなど一言も吐かない。しかし私のような読者は「書かれていないこと」をここまで読んでしまうのだ。そして私の読みは諸説あるひとつにすぎない。冒頭でのべた "L'art de se taire"、沈黙する術の会得者ならば、私のようにベラベラ講釈してはいけないのであり、私は文学上最も無粋なことをしているのである。(言外と行間を)ここまで読ませるか? ー というのがこの小説の狙うところであり、モディアノはまた私をはめてしまった、と読後うなってしまう。
 富豪女性ローズマリー・クラヴェルの確証のない末路、消えてしまった悪党どもの行先、マルティーヌ、"しゃれこうべ”... 。50年後の今はすべて幽霊である。記憶とは幽霊のことなのである。

Patrick Modiano "Chevreuse"
Gallimard 刊  2021年10月7日、160ページ、18ユーロ
 
カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)フランス5文芸番組「ラ・グランド・リブレーリー」で『シュヴルーズ』を語るパトリック・モディアノ(2021年10月)
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