2022年7月28日木曜日

お祝いの言葉に代えさせていただきます

Fabrice Caro "Le Discours"
ファブリス・カロ『祝辞』

(単行本 Gallimard刊 2018年10月)
(Folio文庫刊 2020年1月)


ルトBD『ザイザイザイザイ』(2015年)の3年後に発表されたファブリス・カロガリマール書店からの2作目の小説。14万部のベストセラー、2020年に映画化(ローラン・ティラール監督/バンジャマン・ラヴェルニュ主演)もされている。
 208ページという長からず短からずの小説であるが、小説で展開される時間はおよそ3時間という短さである。ある家族の夕食の間に流れる時間。場所は父母の家、つまり実家と言っていい。集まってきたのは話者「私」アドリアンという名の息子40歳独身男、その妹のソフィー、そしていつの間にか家族の一員になったような顔で食卓についているのがソフィーのフィアンセのリュドヴィック(通称リュド)。老いた父母を囲んでの5人の家庭料理会食という, 言わば”義務的”リユニオンの場である。何度聞かされたかわからない親父の人生経験エピソード、母親の子供たち幼少時の思い出話、博識な義弟の超雑学ひけらかし(それに称賛の相槌を欠かさない妹)... これが母親の自慢料理であり何度食べさせられたかわからないジゴ・ダニョー(仔牛のもも肉)のロースト、つけあわせはポム・ドーフィノワ(ジャガイモのグラタン)、絵に描いたようなオールドフランスの庶民家庭晩餐メニューの香りに包まれて、ママンのジゴは天下一品... な時間の中で進行するのである。話者アドリアンはこの儀礼的な家族愛ごっこがおおいに苦手なのだが、それを壊すわけにはいかない慮りをわきまえた良い長男を演じようとするのだが...。

 その夜アドリアンには家族会食などどうでもよくなるほどの事件が起こっていたのだが、それを押し殺す最大限の努力をしながら、食卓のいつもの席についている。発端はその38日前に遡り、その夜最愛の女性ソニアが唐突にこう言う:
J'ai besoin d'une pause
私には小休止が必要なの
この一言を残して、ソニアはアドリアンの前から姿を消す。この不可解な別れをアドリアンは受け入れることができず、何日も悶々としていたのだが、不可解とは書いたものの、よ〜く思い起こせば、思い当たることがないではない。「私、コーヒーを音立てて飲む人ってがまんがならないの」ー 僕はそんな理由で最愛の女性から捨てられたのか。そうは思いたくなくても、いろいろな心当たり(特に、あのロマンとかいう男に惹かれたのかもしれない、などなど)がアドリアンを苦しめる。本当にこれは終わったことなのか。38日の煩悶の末、アドリアンは思い切ってコンタクトを試みるのである。この日17時24分、アドリアンのスマホはソニアのスマホに向けてこんなメッセージを発信する:
Coucou Sonia, j'espère que tu vas bien, bisous !
やあソニア、元気かい、ビズー!
熟慮の末とはとても思えない"歳なんぼ?"のメッセージであるが、これを発信したあとアドリアンの胸ドキドキは止まらない。そして両親との約束の夕食のために家を出る直前、17時56分、ソニアのスマホが受信/メッセージ読了が確認されたのである。ソニアが読んだ。読んだら必ず返事をくれるはずだ。いらいらじりじり...。
 こんな状態でアドリアンは家族会食の席についたのであるが、気もそぞろの態のところに、何の抑揚も重さもない無機質な声でリュドヴィックが、ソフィーとの結婚式の時に祝辞スピーチをお願いできたらうれしいんだけど、と。小説はこの「それどころではない」時の(あまり気を許していない)未来の義弟からの申し出と、最愛の女性からの返事が来るか来ないかの内心の激しい煩悶と、退屈極まりない毎度の家族会食という三つのファクターのごちゃごちゃの絡み合いの進行となる。5分に一度でも席を立ってトイレに駆け込み、スマホのメッセージ受信を確認したい、極度のいらいらじりじり状態のアドリアンであるが、じっと我慢で着席したままの話者は、会食の虚空の会話を茫然と聞き流しながら、さまざまな思念(9割はソニアへの思念)を心中に大暴れさせるのである。ドラマはすべて話者の心中で起こっていて、それを必死に制御しようとするのもまた話者なのだ。そしてそれは食事の時間の進行と共にいろいろと変容もしていく。例えばこの「祝辞」の依頼であるが、最初はリュドヴィックにていよく断るつもりだったのに、しだいにさまざまなスピーチ案(これがすべて傑作)を考えだすほどに変わっていく。しかし(主菜が済み、デザートが済み)待てど暮らせどソニアからの返信は来ない...。
 これはおそらく誰にも書けなかった類の恋愛小説である。スマホのメッセージを待つことに、どれほどの焦燥とロマンティスムを込められるか、という恋愛の苦悶のクレッシェンドを笑いで包んだ物語である。話者の心中で縦横無尽に放射される幾多のエピソードは、スタンダップ芸人の名人話芸のテンポの良さで、(理解と無理解に支えられた)家族とは何か、運命の出会いとは何か、偶然とは何か、結婚式とは何か、などさまざまなテーマで笑わせてくれる。ファブリス・カロの引き出しの多さは驚愕に値する。
 そして、食事も終わって、(話者の秘めたる内なる苦悶の時間の末に)退屈な儀式と思われていたこの時間が、何かかけがえのない貴重な時間に思えてきた頃に、21時16分、ソニアからの返信はやってくる...。そして、極上の祝辞スピーチもできあがってしまうのですよ。
 ああ、なんて良い小説の時間の流れであること。

Fabrice Caro "Le Discours"
Collection Folio版 2020年1月刊  210ページ  7,60ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2020年に映画化された"Le Discours"予告編 


(↓)脈絡がないわけではない、パトリック・ジュヴェ「ソニア」(1973年)

2022年7月19日火曜日

無罪!無罪!

”Zaï zaï zaï zaï"
『ザイザイザイザイ』


2020年フランス映画
監督:フランソワ・ドザニャ
原作:ファブカロ
主演:ジャン=ポール・ルーヴ、ジュリー・ドパルデュー、ラムジー・ベディア、ジュリー・ガイエ、ヨランド・モロー
フランス劇場公開:2022年2月23日
フランスDVD発売 : 2022年6月29日


場公開がコロナ禍で延び延びになり、他の多くの公開待ち(大作)映画と共に2022年2月に封切られたものの、話題も客も取れず...。
 原作は本ブログでも紹介した2015年発表のファブカロ作のカルト的人気BD『ザイザイザイザイ』。スーパーマーケットでレジ会計の時、ポイントカード(フランス語のCarte de fidélitéなのだが、日本語で何と言う?)を忘れてきたという”大罪”を咎められ、ネギを武器にして抵抗し、警備マンを振り払って逃走、警察によって全国に指名手配され、フランス最深部(電話電波もテレビもラジオも通らない)"ロゼール”という地までヒッチハイクと徒歩で逃げていく、作者ファブカロがいみじくも「ロードムーヴィー」と副題した原作BD。「ロードムーヴィー」の映画化はおのずとロードムーヴィーになるか、というと、それほど単純ではない。映画化が"原作に忠実”なのを期待する人は映画なんか観なくて原作で満足したらいい。フツーはね、映画化がどれほど原作にないファクターを取り込めるか、それが原作の持ち味をどれほど増幅できるか、みたいな興味で映画化作品を観るのですよ。
 まず苦言。主役のジャン=ポール・ルーヴ。この頃映画に出過ぎ。とりわけブロックバスター連作コメディー映画『テュッシュ家の人々(Les Tuche)』(オリヴィエ・バルー監督)(2011年から2021年まで4作、いずれも集客ン百万人超え)の中心人物ジェフ・テュッシュ(フランス最深部の失業者がロト宝くじで10億ユーロをあて、モナコに移住、ついでアメリカへ、さらにフランス共和国大統領就任...)役のイメージは、この男をダメにしたと思いますよ。これしかできない俳優になってしまった感おおいにあり。2005年トレダノ&ナカッシュ映画『Nos jours heureux (われらが幸福の日々)』は当時11歳だった娘のカルトDVDになって私も何度も一緒に観たが、問題ある子供たちと問題あるアニマトゥール(引率員)たちで繰り広げられるヴァカンス・コロニー(林間キャンプ)の(問題ある)責任者役で主演した若き日のジャン=ポール・ルーヴにすっかり魅了された私としてはですね、昨今の厚みのない”道化化(どうけか)"は残念でしかないのですよ。というわけで、この映画『ザイザイザイザイ』を2022年的現在で観た人々は、"ジェフ・テュッシュ”ジャン=ポール・ルーヴ像と同質の過度な(単純)ドタバタを求めていたのかもしれない。原作『ザイザイザイザイ』はドタバタではなく不条理ユーモアなので、その点でもジャン=ポール・ルーヴはミスキャストの可能性。
 ストーリー的には(前半は)原作にかなり沿ってはいるが、まず主人公ファブリス(演
ジャン=ポール・ルーヴ)が原作ではBD作家なのにこの映画ではコミック俳優という設定。主に喜劇映画に出演する男優。ジャン=ポール・ルーヴの素性に近づけた脚色。これが原作ではファブリスの孤軍奮闘逃亡劇だったところを、この映画では後半に喜劇映画関係者(俳優その他)や音楽アーチストやアンテルミッタン・デュ・スペクタクル(非常勤芸能従事労働者)らが、ファブリス救済のために立ち上がるという、非常に素敵なエピソードを盛り込む土台となっている。”凶悪犯”ファブリスの逃走中、その主演映画の上映館前で市民団体が映画ボイコットのデモをしたり(もちろん原作にはない)。
 もうひとつ原作にない重要な登場人物がファブリスの妻のファビエンヌ(演ジュリー・ドパルデュー)。不条理ストーリーにつじつまの合うエピソードを加えたかったのだろうか。コミック俳優の妻ながら、フツーそうな在宅主婦(小学男児つき)で、今や最悪の凶悪犯として逃走中のファブリスを心で支えながらも、芸能界の早技でこの事件を映画化しようという企画で主人公ファブリス役を演じることになったコミック俳優バンジャマン(演ラムジー・ベディア、exエリック&ラムジー)と恋に落ち、芸能ゴシップ誌の表紙を飾り(このニュースは逃亡中のファブリスにも伝わる)一躍時の人となったり...。最後にはファブリスと元の鞘に収まるハッピーエンドなのだが、このジュリー・ドパルデューとラムジー・ベディア絡みの挿話のシナリオは非常に弱い。ファブカロの世界とあまりシンクロしてないようだし、要らないんじゃないですかぁ?
 それから私も大好きな大女優ヨランド・モローが、退役後も非常勤でときどき現職を続けている(アルコール中毒の)老警視として特捜本部のトップに駆り出される、という役。これも原作にはない。まあ、ヨランド・モローだから許しますけど、挙動が戯画化されたジェラール・ドパルデューのようで笑える。 
 逃亡をめぐる原作BDの挿話の数々はほぼ忠実に再現されているし、原作どおり"最果ての地”ロゼールにたどり着き、リセ時代の同級生ソフィー・ガリベールとまさかの再会を果たし(この部分爺ブログ記事『野ばらのひと』にある部分訳参照してください。この長広舌、全部映画で再現されてます)、警官隊に包囲されたソフィー・ガリベール宅から逃走する途中、つまづいて転び、身柄を拘束される。原作はこの直後、簡単で不条理な裁判があり、カラオケで「野ばらのひと(ザイザイザイザイ)」を歌わされるという刑でエンディングとなる。ところがこの映画はその結末を踏襲しない。映画が俄然面白くなるのはここから後で、公判裁判抗争のやりとりはこの映画の白眉である。捜査官立会による犯行再現シーンもすばらしい(警備ガードマンの再現演技がまったく真実味がない、と苛立つ女性捜査官が、ファブリスに「あんた役者だろう?なんとかしろ」と命じ、ファブリスがガードマンにセリフ発音などの演技指導をするところ、本当にすばらしい)。
 たぶんこの映画が原作BDの意表をついた突飛な演出で最も笑えるのは、ファブリスの同僚たる映画人、俳優、音楽家、アンテルミッタンたちが、獄中のファブリス支援のために"We Are The World”型のチャリティーソングを録音、というシーンである。歌のタイトルは"De Meilleurs Lendemains(よりよき明日)"、作詞作曲はバンジャマン・ビオレー(!!)、歌い出しっぺはピアノ弾きながらのバンジャマン・ビオレーその人。続くソロおよび合唱はファブリス支援委員会:アリー・エルマレー、エレナ・ヌーゲラ、フランソワ=グザヴィエ・デメゾン、ニコル・フェローニ、MCソラールポーリーヌ・エチエンヌ、カド・メラード、リオネル・アベランスキー....。この歌、YouTubeにアップされていないのが、本当に残念。
 こういった映画終盤でどんどんよくなる映画の大団円は、裁判長による判決文読み上げが、誰にも理解できない.... と。裁きは終わって司法的決着はつき、裁判関係者も報道陣もみな仕事は終わり、不可解は不可解のままで、被告警護官たちはこの被告を牢獄に戻すのか釈放するのかもわからない。来るはずもない責任者の指示を待ちながら幾時間、被告警護官はお腹が空いてくる...。背に腹は替えられず、勝手に無罪無罪無罪無罪...というエンディング。

 BD『ザイザイザイザイ』は基本的に絵よりも言葉がものを言う作品である。絵がまさる映画というフォーマットでこれがどうなるか。このBDの幾多のエピソードがこの映画になって成功したものも冴えないものも。半々くらいでしょうか。ただ映画終盤の(映画独自)展開は、その冴えない部分をずいぶん挽回していると思いますよ。
 ちなみに原作者ファブカロ(ファブリス・カロ)自身もちょい役で出演していて、事件現場にいた当事者(警備ガードマン、レジ女性)たちの証言をもとに、犯人のモンタージュ似顔絵を描く司法似顔絵師の役(原作BDにはないエピソード)。左利きの絵師だったのですね。証人たちの眉毛がどうの、頬のこけがどうの、という言葉にしたがって描いていくと、ジョージ・クルーニーになってしまうというギャグ。笑えます。

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)映画『ザイザイザイザイ』予告編

2022年7月16日土曜日

過労ざむらい

Fabrice Caro "Samouraï"
ファブリス・カロ『サムライ』


BDザイザイザイザイ』(2015年)の大ヒット(+舞台演劇化+映画化)以来俄然売れっ子になったファブリス・カロの小説では第4作めにあたる作品。ガリマール社の映画、BD、音楽、自然科学など他ジャンルで活躍する人たちが書く小説を紹介する2018年発足の新叢書 Sygne から。
腰巻のプールサイドで新作小説のアイディア枯渇に弱っている作家の図(ミニチュアフィギュア)は、写真家/造形作家の田中達也の手になるもの。
 さて、シュールで不条理(な笑い)が売りのファブリス・カロであり、私は前3作を読んでいないのでいいかげんなことは言えないが、あらゆる方向に話を飛躍&膨張させながら、いくらでも書ける人なんだろうな、という印象。冒頭からその筆致は魅力的だ。
その週、数日の間隔をおいて3つのことが起こり、僕の子供時代からの親友が自殺し、リザが僕の元から去っていき、そして巨大隕石が地球をかすめると予告された。その接近距離は人々を十分に不安に陥れるほどの近さで、一部の専門家たちは地球衝突の可能性も否定できない、と。その日付と時刻は信じられないほど正確に算出されていて、天文学者たちはどのようにしてこのようなものすごい正確さで隕石軌道を計算できるのだろうか、その一方で一週間の天気予報はあまり信頼できないのはどういうわけなのだろうか、と不思議に思った。3つの事件のうち、ひとつはどちらかと言えば難なく収まったが、まだコップの水は半分は残っている(原文 voir le verre à moitié plein) ー より正確にはまだ三分の一は残っているということだ。
この最後の表現 voir le verre à moitié plein (コップに水が半分残っていると見る)は、ものごとの肯定的要素と否定的要素が半々なのだが、楽観的にまだ半分の可能性がある、ととらえる見方のこと。似た表現で voir le verre à moitié vide (コップに水が半分しか残っていない)は、悲観的にもう半分の可能性しか残っていない、という見方。だから付け足しの「水はまだ三分の一残っている」は、否定的要素が三分の二もある、ということの反語的表現ということになる。私はこういうひねった表現がわかるほど(70歳近くになって)フランス語が上達したのだよ!
 それはそれとして、二つの事件は起こり、小説はそれらの事後と向き合う主人公=話者(その名をアラン・クワルテロ)のおどおどとした小心/怖がりなひと夏の物語である。二つの事件つまり親友マルクの自殺と愛するリザとの別離は、おのずと後者の方に重きが置かれるのだが、マルクの死を受け入れられないでいる彼の母親と話者との永遠に続きかねない"喪”のやりとりも泣き笑いペーソスものでじわじわ来る。マルクの死を受け入れられないその母と同じように、話者アランはリザが別れて行ったことを受け入れられない。"ウジウジ"という形容詞がしっくりくる、未練、悔恨、理不尽、なぜなんだ... がぐるぐる頭の中で回っている男なのである。
 アランは小説家であり、その最初の小説は1年前に中央の名のある出版社から出たものの、全く箸にも棒にもかからなかった。その発売日に大物政治家のセックステープスキャンダルが暴露され、そのせいで、とアランは言い訳するがそんなわけがあるはずがない。件の小説の内容は遺産相続をめぐる兄弟姉妹の諍い心理ドラマなのだが、その遺産の元と思われていた一枚の絵がモジリアーニ作とされていたものの、鑑定してみると...。そういう小説なのだが、インスピレーション元は伴侶リザの家族の騒動にあり、出版されるまでその内容を知らなかったリザは怒りまくり、こういう決定的なセリフを吐いてしまう。
Tu veux pas écrire un roman sérieux ?
まともな小説書けないの?
この un roman sérieux は「まともな小説」と訳すとちょっと違うかもしれない。”シリアスな”、”真面目な”、”真剣な”、”本物の”小説の方が正しいかもしれない。おまえのは小説じゃない、と宣告されているようなものだ。リザはこのようにアランを見限ったのである。こうしてリザはアランを捨て、今はルネサンス期の大詩人ピエール・ド・ロンサール(1524 - 1585)の研究学者の50男と恋に落ち、新たにカップルとなっている。よりによってロンサール研究家? - ということの特異さがわからないと前に進めないかもしれない。現代人の興味ランキングの最々々々々下位にも登場しないかもしれない中世詩の研究家のために最愛の女性が自分を捨てたのか、という言わば原初的な職業差別思想である。しかし自分はリザにとってはまともな小説を書けない小説家なのだ。どちらが職業的に劣るか。
 小説はリザへのいよいよ募っていく未練を起爆剤に、どうすればリザを振り向かせることができるか ー 答えはひとつ、まともでシリアスな小説を書き上げること ー というアランの不退転の決意がどう変遷していくか、というストーリー展開である。絶対に"un roman sérieux"を書き抜くという石よりも硬い一本気を象徴するものとして、ファブリス・カロは小説題を「サムライ」としたのだが、どうだろうか、私はこのメタファーは小説のグローバルなイメージを伝えるものにはなっていないと思う(↓爺評価が三ツ星である主な減点理由)。
 時は夏、場所は海が遠くない地方都市(おそらくモンプリエ)、ヴァカンスに出た隣家(大邸宅)から不在中のそのプライベート・プールの番(たまに掃除、洗浄、水質管理...)を頼まれたアランは、ひと夏この誰もいないプールサイドにノートパソコンを持ち込んで"小説”を書き上げるつもりでいる。サムライのように揺るぎない意志で。
 ひらめきはやってくる。Alan Cuartero アラン・クアルテロという名前が示すように、この男のオリジンはスペインである。彼の祖父母はフランコの軍と戦い、追われ、フランスに庇護を求めてやってきた難民。苦難の旅路を乗り越えてきた家族の記憶、それはアランの血にも流れているものであり、これを語ることは一世一代の"roman sérieux"にならないわけがない。スペイン市民戦争という現代史に翻弄された家族史、この大河的叙事詩は自分のライフワーク的偉業となるはずだ。アランのひらめきは即座にこの小説を豪胆にもスペイン語で"Sol Y Sangre"(ソル・イ・サングレ=太陽と血)と題することに。既に文豪による大名作の風格が。プールサイドでこの大名作の行く末を妄想する(クレール・シャザルによるインタヴュー、テレラマ誌やレ・ザンロキュプティーブル誌の書評...)アランであったが、プールに少しずつ異変が起こっている...。
 世の中にはどうしようもないおせっかいがいる。長年のダチ仲であるジャンヌとフロランの夫婦は、アランがリザと破局した聞くやいなや、その悲嘆と苦悶をおもんぱかり、その悲しみを一日も早く終わらせるには新しい恋人を見つけるしかない、と。ひとりでい続けるのはよくない、二人(カップル)になることこそすべての解決の条件、と堅く信じている人たちはいて”不幸”なひとりものを放っておけない、縁結びが何よりも好きな関西のお世話おばちゃん、みたいなキャラがこのジャンヌである。彼女はフィットネスジムを経営していて、そのジムに通う女性たちのほとんどが理想の男と出会えていないという”現場”を目の当たりにしていて、良質の候補者はいくらでもいる、という確信がある。ウジウジとリザへの未練にひたっていることにさほど抵抗がないアランは、放っておいて欲しいのだが、それをはっきりと言えない忖度だらけの性格。乗り気でないそぶりも見せられないアランは、ジャンヌとフロランがセッティングする新しい恋人候補との出会いにしぶしぶ...。小説は「ミレーヌ」、「クロエ」、「ルイーズ」と章分けされ、お世話おばちゃんジャンヌが紹介してくる女性との出会いとその後が活写的に描かれているものと思いきや、かなり特異なキャラ(みんなくせ者)の女性たちでありながら、アランの及び腰が災いしてどれも二次的エピソードのレベルで終わっている。
 それにひきかえ自殺したマルクに関するパッセージは感傷的で優しさに溢れていて、こういうことは茶化さない作者の折り目正しさが垣間見られる。マルクはライフル銃の銃口を口にくわえ、発砲するという自殺の方法を選んだ。葬儀が終わり、悲しみに暮れるマルクの母親が毎週のように電話をしてきて、アランはその度に彼女の家に足を運ぶ。マルクとは青春時代(10歳から20歳)のベッタリ友。その後25年間も疎遠になっていたが、その母親自身が息子の死の報せの電話をくれた。10歳から20歳だから、初めてのあれ、初めてのこれ、初めてのなに、すべてを共有した仲。マルクの母親の家に行くたびに、二人はお茶をすすりながら、言葉少なめにマルクのあの頃の写真アルバムを見ることになる。マルクとアランのおどけたツーショットばかり。沈黙の中で母親とアランの間でさまざまなメモリーが交信される。そろそろおいとまを、という頃に母親は”好きな写真を一枚持っていってちょうだい”と言うのだ。また一週間後に母親から電話が来て、会いに来てちょうだい、と。そして同じようにお茶をすすりながらアルバムを一緒に眺め、別れ際に"写真を一枚持っていってちょうだい”と。母親の終わることのない喪。たぶんそれはアルバムの写真が全部なくなるまで続くのだ。それにアランは寄り添って、彼女を見守っていくのである。(ああ、いい話...)
 しかしプールサイドの毎日に戻ってみると、プールの中に見たこともない虫が発生し(notonecta という実在する水棲昆虫)その数がどんどん増えていき、さらにどこから来たのかカエルも泳ぎ始め、水の色がどんどん緑色に濁っていく...。小説の進行と並行してどんどん悪化していくプールの水質に、アランは薬品を使ったりさまざまな抵抗を試みるのだが、解決はしない。最後にはプールに死体が浮いているというカタストロフまで。
 このプールの変化に連鎖してか、サムライの不退転の決意で書き始めた(題だけで、その後が続かない)シリアス小説"Sol Y Sangre『太陽と血』"は、どんどん変質していくのである...。

 すべてに”受け身”で、災難を被りやすいバスター・キートン型キャラクターの主人公である。何が起こるかわからないが、何が起こっても、それはたぶん自分のせいじゃないか、と見つめ直してしまう。で、事態はその弱みをいいことに、好き放題に乱れ狂う最終部へ向かってクレッシェンド、またクレッシェンド、という類の不条理ユーモア小説。うまい人だ。そのまま映画シナリオになるだろうが、映画よりも小説が勝るだろう。この夏はファブリス・カロをすべて読もう、と心に決めた。

Fabrice Caro "Samouraï"
Gallimard(Collection Sygne)刊 2022年5月 230ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)”Samouraï"発売日の翌日、ラジオEUROPE 1(フィリップ・ヴァンデル)のインタヴューを受けるファブリス・カロ。

2022年7月13日水曜日

セリーヌ・ディオン14歳

Céline Dion "D'amour ou d'amitié"
セリーヌ・ディオン『恋か友情か』
(1982年12月リリース)

詞:エディー・マルネー
曲:ジャン=ピエール・ラング/ロラン・ヴァンサン
録音:1982年7月パリ

まず1982年のフランスの音楽事情について。前年1981年に社会党のフランソワ・ミッテラン(1916 - 1996)が大統領に初当選し、その文化的大改革のひとつがFM電波解放でした。全国で無数の自由放送局が勝手な放送をFM電波で流すという大変エキサイティングでアナーキーでクリエイティヴな時期があったのですが、1982年にFM電波に商業放送を許可したとたん、FMはヒット曲と商業コマーシャルをセットした局が急激に聴取率を伸ばし、FMは大手レコード会社の最良のプロモーション媒体となります。フランスの音楽はこうしてFMというフォーマットに適合した曲ばかりが幅をきかし、そのおかげで英米ヒットおよび仏産ポップ(ジャン=ジャック・ゴールドマン、テレフォヌ...)がレコード業界に大好況をもたらします。逆にそれまで非FM商業放送局(RTL、Europe 1、RMC)が牛耳っていた従来のヴァリエテ歌謡ヒット系の音楽は急激に色あせていきます。
 セリーヌ・ディオン(1968 - )のフランス初登場はこんな時期だったのですが、故国カナダ・ケベックでは1981年のデビューシングル "Ce n'était qu'un rêve(ただの夢だった)"から既に破格の歌唱力の少女歌手として成功していた。末恐ろしい13歳。
 フランスのオールドスクール系(既にミレイユ・マチュー、ダリダ、クロード・フランソワ、マリー・ラフォレなど歌謡ヴァリエテヒット多数)の作詞家エディー・マルネー(1920 - 2003)がケベックの少女歌手と最初に組んだのは、セカンドシングルの"Tellement j'ai d'amour pour toi (あなたへの愛でいっぱい)"(1982年9月ケベックリリース)だったが、この歌はその年10月の第13回ヤマハ世界歌謡祭に”フランス代表”としてエントリーしているのでした(↓動画)。14歳の熱唱を記憶している日本人音楽ファンも若干いらっしゃるのでは?

歌唱力は別物として、こういう全然若くない曲調なので、当時の若気ではちきれんばかりの勢いのあったフランスのFMからは見向きもされなかったと思います。ヴァリエテ・フランセーズの辺境、ケベックでの出来事ですし。
 しかしこの若き逸材のフランス制覇の野望を持ったオールドスクール作詞家は、第三弾シングルで華々しく鳴り物入りでフランスデビューさせようと。この"D'amour ou d'amitié(恋か友情か)”は1982年7月にパリで録音され、その12月フランスの大レコード会社パテ・マルコーニからシングル盤でリリースされます。そして1983年1月、世界の音楽業界の年次見本市であるMIDEM(於カンヌ)のガラ・コンサートで、世界の業界人たちを前にお披露目を。これに飛びついたのが、フランス最大手の”非FM系”商業ラジオ放送局RTL、さっそく同ラジオの全国ネットでこの曲をヘヴィーローテーションで。私が思うに、RTLがこれをやったから、当時のFM各局はこの曲を避けたのかもしれない。そして初期”フランス語歌手時代”セリーヌ・ディオンはなかなかFMに乗らない時代が結構続くのです。だってこれ”新手のミレイユ・マチュー”じゃん、という若者たちの批評眼だったと思いますよ。
 さらにオールドスクール系のプロモーションは1983年1月29日、フランスで最高の視聴率を誇るヴァリエテ・ショー番組「シャンゼリゼ」(今やフランスの人間国宝的テレビ司会者ミッシェル・ドリュッケールがホスト)に初登場を果たす(↓動画)。
 
ラジオRTLとテレビ「シャンゼリゼ」、この旧時代の芸能プロモーションシステムがおおいに機能して、FM時代と逆行するこのヴァリエテ歌謡曲は1983年夏までに50万枚を売り、見事セリーヌ・ディオン初の国際的(カナダ、フランス、ベネルクス、スイス...)大ヒットとなったのでした。
 では、古き良きヴァリエテの作詞家(にして国際スターセリーヌ・ディオンの仕掛け人)エディー・マルネーはこの14歳の少女歌手にどんなことを歌わせていたのでしょうか。

彼は私のことを思っている、私にはそれがわかる、感じられる、知っている

彼が私を迎えに来る時の微笑みに嘘はない

彼が辿ってきた道で見たもの、そして彼の未来のプロジェクトのことを

私に話すのが好きなの

私にはたった一人の彼だけど、 彼は他の女の子たちにも会っている

あの子たちが何を望んでいるのか、彼がどんなことを話しているのか私は知らない

私は彼にとって他の子たちより上だとしても

彼の中で私がどんな場所を占めているのか私は知らない

 

彼はとても私の近くにいるのに

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

これが恋なのかそれとも友情なのか

決められるのは彼だけ

私は彼を愛していて、私の命を捧げられると思っている

たとえ彼は私の命を望まなくても

私は彼の腕に抱かれることを夢見ているけれど

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

彼は恋と友情の間でためらっているように見える

そして私は大海原に浮かぶ小島のよう

私の望みが大きすぎると言われているみたい

何も言わなくても彼は私がすべてを捧げられると知っている

私は彼に微笑み、彼を待ち、彼を勝ち得ることを望むだけ

でも夜は長くて悲しくて

私は彼なしで生きるすべを知らない

彼はとても私の近くにいるのに

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

これが恋なのかそれとも友情なのか

決められるのは彼だけ

私は彼を愛していて、私の命を捧げられると思っている

たとえ彼は私の命を望まなくても

私は彼の腕に抱かれることを夢見ているけれど

私はどんなふうに彼を愛していいのかわからない

彼は恋と友情の間でためらっているように見える

そして私は大海原に浮かぶ小島のよう

私の望みが大きすぎると言われているみたい


まるで大昔の女子中学生の日記文のような歌詞ではありませんか。われわれ昭和中期に生まれた人間には覚えがあるのですが、「恋愛か友情か」なんてのは昭和期の十代の大問題だったのです。中学や高校のホームルームの議題になるような。「勉学と男女交際は両立するか」なんて問題になったり(両立するわけはない、という自明のことはそのずっとあとでわかる)、「一対一交際を避けてグループ交際を」なんて優等生解答をするやつを村八分にしたり...。おお、われわれは無意味に悩んでいたのですよ、恋愛か友情か、なんていう問題は昭和の一時期の暗い思い出ですよ。「友だちでいましょうね」ー 昭和のあの頃われわれはこの言葉に何度泣かされていたでしょうか。そうか1982-83年はまだ昭和(昭和57/58年)であったか...。
 14歳の(ヴィルツオーゾ歌唱)少女歌手に、思春期のイヤ〜な記憶を逆撫でされる、そういうことを非FM系の保守反動フランス人リスナーたちは追体験していたのでしょう。マゾ。
 だがセリーヌ・ディオン(+ジャーマネ/未来の夫のルネ・アンジェリル)自身、この生温い保守反動のフランス語世界ではダメなんだ、と思うようになるんですよ。(英語を猛勉強して)1987年、セリーヌ・ディオンは米国CBS と契約、英語で歌う国際スター歌手として世界に羽ばたくのですが、そうなるとフランスのFMはにわかにこの英語バカウマ歌手を強力にバックアップするようになるのです...。

(↓)コルネイユ(1983年ルワンダ大虐殺の生き残り、ケベックの"フランス語”R&Bシンガーソングライター)によるカヴァーヴァージョン。私はこのコルネイユをあまり評価していないのだが、このカヴァーだけはものすごく好き。


(↓)コルネイユ、本人セリーヌ・ディオンを前にしてのラジオスタジオライブ "D'amour ou d'amitié"


2022年7月6日水曜日

(ちょっくら)クララ天狗

千代に八千代に
クララ・ルチアニ

レラマ修司です。
2022年7月6日号の表紙はクララ・ルチアニ。今から1年前(正確には2021年6月11日)にリリースされたセカンドアルバム"Coeur"は今日まで20万枚(ダブル・プラチナ・ディスク)を売る、2021〜2022年的現在のフランスでほぼ満場一致で愛されるアイテムとなった。このリリース以来、2年ほど続いたコロナ禍”コンサート規制”が解かれるやいなや、クララは水を得た魚のようにツアーに全精力を注ぎ込み突っ走っている。ステージ/ライヴが本当に好きなのだ。成功で頭でっかちにならず、この幸福の1年を振り返るインタヴューの一部を以下に翻訳してみる。聞き手はテレラマ誌音楽ジャーナリスト(シャンソン)のオディル・ド・プラ。

テレラマ:1年前に発表されたあなたのセカンドアルバム"Coeur"について、その時の心境はどんなものでしたか?
CL「私はアルバムにとても自信があったのだけど、同時にそのダンスミュージック仕立ての軽さがスープの上に落ちる髪の毛みたいになるのではないかと少々不安だった。その当時の世の中の全体的な暗さの中で目障りになってしまうのではないかって。世界は変わってしまって、私たちはもとの習慣を取り戻せるのだろうか? マスクを外すことはできるのだろうか? 誰も知らなかった。私の新曲は自分を取り戻す喜びへのいざないになってくれればと望んでいたのだけれど、私はそれが理解されないことを恐れていた。私が何も患いごとがなく、「パンがなければブリオーシュを食べればいい」と言ったマリー=アントワネットのように次元の違う世界に生きていると想像されることを恐れていた。でも幸いにして人々はアルバムを手にしてくれた。アルバムからのセカンドシングル"Respire encore"(直訳すると”もう一度深呼吸を”)は、マスク着用義務解除の4時間前に発表されたのよ、すばらしい惑星直列よ!」

テレラマ
:この成功はあなたのファーストアルバム"Sainte-Victoire”(2018年)を上回るものになり、賞を次々と獲得しました。陶然となってしまうのでは?
CL 「二枚のアルバムは状況がかなり異なっていた。ファーストアルバムは売れ始めるまで1年近くの期間を要したし、私はいつか無名の新人という状態から抜け出せるのだろうかと不安だった。セカンドアルバムはとりわけ人々が示してくれた受け入れの反応にとても心動かされた。人々が私を待っていてくれていたこと、世界が何ヶ月もストレスを抱えていた時期のあと、私が準備していたものを聞いて人々が満足してくれたこと、このことこそ私がうっとりしてしまうことなのよ。このアルバム発表後の最初の一連のコンサートでは涙が出てきたわ。まず、私たちは3年間も演奏活動できなかったからなのよ、その上観客たちはみんな歌詞をソラで覚えていた!これらの歌は、毎日が決して容易ではなかったこの(コ禍の)年月の生活のサウンドトラックになったのよ。私は生まれて初めて、自分が以前より少し有益な人間になったというセンセーションを覚えた。私は労働者階級の家庭の出で、私の母は介護ヘルパーだった。彼女が毎晩家に帰って、今日も人の手助けをし世話をすることができたことに満足だったと言っていた。それに比べれば、私の仕事は空疎なものに思えるし、つまるところ自己満足のようなものだと思っていた。今回のステージ活動再開で、私は何がエッセンシャルなものなのかを理解した。アーチストはアーチストなりのやり方で、人々と共に歩み、介護をするものだ、と。このことにも私はうっとりしてしまったのよ。」

テレラマ:パンデミックの時期、あなたは幾度かカルチャー関連の感染対策規制への怒りを表明していましたね。
CL 「いくつかのことが私には全く整合性がないように思われたの。飛行機の中でポテトチップスを食べている人たちと乗り合わせているのに、コンサートに行くことは許されていない。私は科学者でも政治家でもないけれど、政府がかなり恣意的なやり方である種の活動を他よりも優先させてしまう理由が私には理解できない。この不公正が私を揺り動かし、この意味の欠如が私を狂わせ、私はこれを侮辱として受け止めた。多くの人たちと同じように、私は二度と自分の職業を営むことができなくなることを恐れていたのよ。」


テレラマ:"Coeur”(↑)は政治的メッセージを持った歌ですが、どのように生まれたのですか?
CL 「ある女性に対する暴力撲滅を目指す市民団体のために、私はたくさんスローガンを作ったのだけど、そのひとつが:”L'amour ne cogne que le coeur"(愛は心しか打たない ー 訳注、つまり体を打つ/暴力で傷つけるのは愛などではない、という含意)。私はこれはいつか使えるなと思っていた。私は千種類もの"Coeur"のヴァージョンを作ったけれど、この難しさは巧妙なニュアンスを用いながら強いメッセージを伝えるということ。私はこの問題を軽く扱っているとは思われたくなかった。私は他にもエコロジーのような重要な問題について歌いたいのだけれど、まだ私が満足できるような表現形式を見つけていない。このようなテーマを詩的に表現して常套的なやり方を避けることが重要なことだと私は思う。」

(←アルバム "Coeur"  2021年)
テレラマ:あなたの名声はあなた自身を通り越してしまって、今やカリカチュアの対象となっていますね...
CL「私は有名になりたいと思ったことは一度もない。けれども、私は人に知られるようになったことはとても嬉しいし、私の音楽が評価され、コンサート会場を満杯にできるのはとても幸福なことよ。ふたつのことはかなり違っていると私には思える。無名性を失うことは往々にして生きるのが難しくなったりするし、私の性格はそれに適合していない。私は私自身のイメージにしっくりきていないのよ。ずっと前から私は写真を撮られるのが苦手だった、家族と一緒の写真でも。調子がよくない時、街頭でセルフィーをせがまれて撮られることがあると、苦痛に思うことがあるわ。それでも私はそれを拒否できないの、私はファンたちに負うところが大すぎるのだから。私はそれよりもファンとちょっと時間を取って話し合ったり、デッサンを描いてあげたり、サインをしてあげる方が好きなのだけど、今はとにかくあらゆるクールな瞬間を写真に収めておかないと気が済まない人たちばかり。一編のYouTube動画を載せただけで電撃的な名声を得たアンジェル のような現象に耐えられるような体力を私は持てないと思う。私は自宅を出るときもおだやかで、道で誰も私を煩わす人はいない。私はもっと遠くを目指して、国際舞台みたいなことを考えてもいいんだけど、今はしない。それは野心がないからじゃなくて、私は今ここにいるのがとてもいいからなの。私は"栄光”とかそういう夢がないの。」

テレラマ:年齢の問題は男性歌手よりも女性歌手に重くのしかかってきますが、あなたにも気がかりなことですか?
CL 「もちろん私はこの社会的圧力に苦しめられている。バンジャマン・ビオレーやベルトラン・ブランが歳を重ねる時、人はこれをセクシーと見る。それに対して女が白髪まじりになるとこれは問題になる。ジャーナリストで著述家のソフィー・フォンタネルはその著作でこの問題を見事に解説している。ここには恐ろしいほどの不公正が存在する。女たちは嫉妬深く常に競争状態にさらされていることには驚くばかり。そうよ、愚かなことだけど、三十路を越すというのは取るに足らないことじゃない。現代社会は若さ偏重主義を推奨するし、とりわけ女性において顕著なの。まるで失効期日があるかのような。なぜ女性たちは50歳を過ぎると見えなくなってしまうのか?そのことは音楽でも映画でももっと語らなければならない。このタブーを打ち破ることこそ、前に進むための唯一の解決策なのよ。」
 
テレラマ:ストリーミングの登場以来、音楽アーチストたちの収入は最主要の問題となっています。アーチストたちはどのように行動できるでしょうか?
CL 「この件では自分は無力だと感じている。今日私は収入で快適な生活を営むことができていて、それを不満に思っているという印象は与えたくはないけれど、今日音楽をほぼ無償で聴けるということは音楽を豊かにすることには貢献していない。私の両親は買ったレコードアルバムを暗記するほど聴き込んでいる。音楽は貴重なもの。たしかに音楽は大衆的普及を果たし、配信プラットフォームはあらゆる音楽的好奇心を満足させることに役立ってはいる。しかし財源の欠乏はレコード制作のクオリティーに影響し、制作レーベルの独創性の欠如と売れやすいものを最優先する傾向を生み出している。私たちは調和のとれたバランスというのを見出していない。音楽業界がどこまで変わってしまったのかは想像を絶する。その中でとりわけひとつのことが私を不安にさせている。それは”アルバム”というフォーマットの消滅の可能性であり、私の目からすればそれは本の消滅と同じようなことなのよ。私は長い絵巻物の中に入り込み、気をもみながら、その流れをたどっていくのが大好き。ジョージ・ハリソンの『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)、あるいはバンジャマン・ビオレーの『ラ・シュペルブ』(2009年)のようなアルバムは私にとっては完璧なものよ。私がそれらを聴き直す時、いつも同じ質問が頭をよぎる:どうやってここまでできたのだろう?」


(↓)今から1年前、2021年最高のアルバム"Coeur”より "Le Reste"


2022年7月5日火曜日

ワカモレ・ブードゥー

Eric Judor & Fabcaro "Guacamole Vaudou"
エリック・ジュドール&ファブカロ『ワカモレ・ブードゥー』


2022年5月に発売以来、7月現在書店ベストセラー6位の大ヒット作である。"ロマン=フォト(Roman-Photo)"というジャンルは日本では何と呼ばれているであろうか、フォトコミックかな? BD(バンド・デシネ)の絵の代わりに写真が使われる、漫画と映画のクロスオーバーのような第二次大戦後の出版ジャンルで、フランスでは1947年発刊の雑誌"NOUS DEUX"が(女性読者をターゲットにした)恋愛ストーリーのロマン=フォトで大評判となり、週刊誌となった50-60年代には毎週150万部を売るというキオスク/新聞スタンドの目玉商品となった。80年代にロワッシー空港のカーゴ会社で働いていた私は、その昼休みの食後に熱心にNOUS DEUXに読みふける老若の女性労働者の皆さんの姿を見ている。写真版のハーレクイン小説みたいなもののように思っていたが、往時の日本の昼ドラのようにエグい内容のものもあったようだ。しかし、”無教養人の娯楽読み物”のような低級カルチャー蔑視傾向が常につきまとい...。それはそれ。
 著者のひとりでこの写真ドラマの主演者でもあるエリック・ ジュドール(1968 - )は、90年代00年代に人気を博したお笑い二人組エリック&ラムジーの片割れで、ソロでも脚本家および映画監督でもある。2017年(コロナ禍の2年前)、世界的パンデミックで人類滅亡の危機の中、生き残ったフランス深部のアルテルモンディアリストのコミューンを描いたコミック映画『プロブレモス(Problemos)』はジュドール監督/主演の大傑作である。
 もうひとりの著者のファブカロは先月このブログで紹介したBD『ザイザイザイザイ』(2015年)の作者ファブリス・カロ。BD作家、脚本家、小説家として21世紀フランスを代表する不条理ユーモアの書き手。
 時はミニテルのある1980年代、男はみんなウェイヴのかかったセミ長髪のカツラをかぶっている。商標・看板のない高層ビルが立ち並ぶだけのビジネス街。広告会社に勤めるステファヌ(演エリック・ジュドール)は無能を理由に会社から疎んじられ、上司同僚からバカにされ、意中のコピー取り女子社員マリー=フランソワーズ(演アリソン・ウィーラー)にうまく告白もできず、社員食堂やパン屋では残り物しか給餌されず、通勤メトロでは郊外ワルガキどもに恫喝され...。そんなダメ男が、張り紙広告で見つけた「週末ブードゥー講習会」。さまざまな悩みや問題を抱えた都会人男女が、ブードゥーの秘儀を伝授されて、ブードゥー呪術で問題を一挙に解決、という胡散臭いもの。行ってみると...。
(←写真)講習会参加者のひとりに
私の名はルネ、かにかまスティックでマルチナ・ナブラチロワの模型を作っています」という男がいる。演じているのはこのロマン・フォトのゲストスターのひとり、2020年小説『異状』のゴンクール賞作家エルヴェ・ル・テリエ。冗談ぽい前衛文学工房ウリポの現代表者であるから、こんな作品に顔を出しても不思議ではないが、この人がいるおかげで諧謔のクオリティーがぐんとアップする感じ。ほんのちょい役なので、気にしない人は気にしないでしょう。
 呪術講習の最後に、自分だけの呪文をひとつ選べと言われ、ステファヌがとっさに口から出た言葉が「ワカモレ(guacamole)」。この呪文を30分に一度唱えれば、彼は超絶の弁舌者となり、その口車でどんなことでも実現してしまう、と。
 スーパーブードゥー呪術パワーを手に入れたステファヌは、会社ではヒット広告コピーを連発して会社の売上を急上昇させ、重役(熟女)のマドモワゼル・ビアンコ(演じるのは劇作家オリヴィア・クードリーヌ)と懇ろの関係になり、一躍業界のスターとしてメディアに露出し、ついには政界に打って出て、大統領選に出馬する。この急速な人気/権力奪取の過程でステファヌに捨てられて復讐の念に燃えるマドモワゼル・ビアンコは、ステファヌがブードゥー講習会で呪術パワーを会得したことを知り、ブードゥー導師と交渉して、まんまと呪文の変更に成功してしまう。
 それを知らないステファヌは、大統領選挙戦のハイライト、ファシスト候補との一対一のテレビ討論(その司会役で登場するのが、ARTE TVの切れ者女性ジャーナリストのエリザベート・カン)に臨む。 そして超絶弁舌人になるべく「ワカモレ」の呪文を連発するのだが、まったく効かず、しどろもどろの答弁で全国民からそっぽを向かれてしまう。すべてを失い、ホームレスまで身を落としていくステファヌだったが、それを見つけ、愛で包んでくれるのが、かつての意中の女性マリー・フランソワーズ...。ハッピー・エンド、しかし...。

 という、まあ、なんというか、不条理いっぱい、奇妙な出演者いっぱい、業界風刺、内輪ギャグも含む豪華絢爛ロマン=フォト本であるが、一回読んだら終わりっしょ。それがロマン=フォト本来の持ち味なんだから。

Eric Judor & Fabcaro "Guacamole Vaudou"
SEUIL刊 2022年5月6日、80(オールカラー)ページ、18,50ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)TV5による『ワカモレ・ブードゥー』紹介+ファブカロのインタヴュー