2017年2月25日土曜日

クメールのことよ

Banteay Ampil Band "Cambodian Liberation Songs"
バンテイ・アンピル・バンド『カンボジア解放の歌』


 利チエミのCDをフランスで復刻リリースしたファブリス・ジェリーの独立レーベルAKUPHONEの2017年2月新譜。1982年録音。十数年も前から続いているカンボジア内戦の真っ只中。カンボジア西部タイ国境付近に拠点を置く反ベトナム/反カンプチア人民共和国(親ソ連・親ベトナム派ヘン・サムリン政権)のレジスタンス機関(ソン・サン派)クメール人民民族解放戦線(FNLPK)の教宣活動音楽バンドがこのバンテイ・アンピル・バンド。
  その状況を理解するために、カンボジア現代史をおさらいすると、1953年にフランス保護領から完全独立し、ノロドム・シハヌークを国家元首とするカンボジア王国が成立。国王は映画と音楽を愛する文化人として知られ、映画監督、歌手としてもデビューしかけたことがある。またアコーディオンは名手トニー・ミュレナに 教わっている。国民に愛された国王であった。本CDの詳細なライナーノーツには、比較的平和が保たれた50/60年代のシハヌーク治世下で、首都プノンペンではジャズ、ラテン、ロックンロールが流行 し、多数のローカルバンドがラジオやクラブを席巻していたと記述されている。そのスウィンギング・プノンペンの黄金時代に王宮ダンスホールでは国王がバン ドマスターのジャズバンドが演奏していた。60年代後半、隣国でベトナム戦争が始まり、アメリカ軍の参戦/北爆に反対してアメリカと国交断絶もしている。しかし1970年に親米派のロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シハヌーク派は追放され、クメール共和国が成立した。
 ロン・ノルはベトナムでの共産主義勢力を攻撃する米軍と南ベトナム政府軍に協力し、カンボジア国内の(北勢力に協力的と見なされる)ベトナム移民を迫害し、カンボジア国内の共産勢力拠点も米軍に爆撃させた。このロン・ノルのクメール共和国に最も激しく抵抗したのが、マオイスト系共産主義革命組織クメール・ルージュであった。このグループは在パリのカンボジア人留学生たちによって1960年代に結成されたものだが、70年代の米軍のカンボジア爆撃とロン・ノルの弾圧政策によって急激に支持層を増やしていく。73年、ベトナムから米軍が撤退し、ロン・ノルは後ろ盾を失い、ポル・ポト率いるクメール・ルージュはカンボジア全土を掌握し、1975年にロン・ノルがアメリカに亡命、クメール・ルージュ政権が誕生し、国名を「民主カンプチア」とした。
 (とここまで書いて、資料を書き写すのに嫌気がさしてきた。カンボジア、ベトナム、アメリカの三つ巴戦争、中ソ対立による共産ベトナム対共産カンボジアの代理戦争、ポル・ポトの狂気のような原始共産制構想、大虐殺...。あの頃、私たちは何も知らずに一体何をしていたのだろうか。)
 1975年以前、ベトナム・米軍によるカンボジア人犠牲者の数は60万〜100万人、76年から79年のポル・ポト政権時代のカンボジア人犠牲者の数は100万〜300万人。カンボジア全土は廃墟と化した。
 1979年暮れ、廃墟同然のプノンペンに入城しポル・ポト政権を打倒したのはベトナム人民軍。元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命していたヘン・サムリンを擁立してベトナム傀儡政権である「カンプチア人民共和国」が誕生。
 このCDの音楽が作られた「現時点」はここなのである。
 ベトナム傀儡政権へのレジスタンス組織クメール人民民族解放戦線(FNLPK)は、シハヌーク治世時代(1967年)の元首相 ソン・サン(1911-2000)によって1979年に創設され、その拠点をタイ国境に近いバンテイメンチェイ州アンピルに置いた。ソン・サンは右派共和主義者で、FNLPKは「虐殺政治クメール・ルージュの復帰阻止」、「ベトナム軍による占領の廃止」、「カンボジア再建」を3つの目標として掲げ、アンピルの難民キャンプから反政府ゲリラ攻撃をかけていた。しかし1番目の目標にも関わらず、FNLPKはクメール・ルージュとも手を組み、「カンプチア人民共和国」を打倒するために、ポル・ポト派、シハヌーク派、サン・ソン派は「三派共闘」を展開することになる。

 サン・ソンが クメール人民民族解放戦線のプロパガンダ活動に音楽が必要と、アンピルの難民キャンプで結成させたのが、このバンテイ・アンピル・バンドなのである。
 女性シンガー2人、男性シンガー3人、インストルメンタリスト5人(ヴァイオリン、キーボード、ギター、ベース、ドラムス)の10人組。 右の写真を見る限りでは、リーダーのウーム・ダラ(Oum Dara。1940年生。ヴァイオリン、キーボード、作詞作曲)を除いてはみんな十代〜二十代の若者たちのようだ。
 ウーム・ダラは50年代にフランス人教師からヴァイオリンを学び、17歳で音楽で身を立てることを決意、ピアノなど他の楽器もマスターし、国立劇場つきの伴奏楽団やカンボジア国営ラジオで演奏するようになる。西洋音楽のコピーに飽き足らず、1960年25歳で作曲を始め、 その最初のヒット曲が人気女性歌手ロ・ソレイソティア(1948-1977。日本語版ウィキペディアには「(クメール・ルージュ)強制労働キャンプに閉じ込められている間に、死亡したと考えられている。」との記述あり)のためにウーム・ダラが作詞作曲した「Chas Chu Em」だった。その後数々のヒット曲を生むのだが、1975年クメール・ルージュが権力に就くや、抑留され、音楽活動を一切禁止されただけでなく、作曲した譜面は全て焼却された。音楽家たちの多くが「粛清」された中、ウーム・ダラは身分を隠し生き延びた。そして1979年、FNLPKを組織したソン・サンに招かれ、アンピルの難民キャンプに合流し、音楽監督としてキャンプの若者たちを養成して結成したのがバンテイ・アンピル・バンドである。
 バンドの楽器はベトナムのカンボジア侵攻に反対する国々(USA、タイ、マレーシア、マレーシア)で構成する機関(ライナーノーツには "ASEAN WORKING GROUP"と記述されている)から寄付されていてる。彼らはFNLPKのオフィシャルな行事の他、難民キャンプを回って演奏し、その歌は「ラジオ・クメール・ヴォイス」(またの名を「解放ラジオ」。シハヌーク派とソン・サン派の共同海賊放送で、タイから放送されていた)の電波で人々に知れ渡った。歌のテーマは、愛国、民族意識鼓舞、抵抗戦士賞賛、反ベトナム、反共産主義などで、もっぱらソン・サン派人民民族解放戦線のプロパガンダであった。
1982年、バンテイ・アンピル・バンドは "ASEAN WORKING GROUP"の支援で極秘のレコード録音を敢行する。バンドは陸路でタイのバンコクまで行き、次いで飛行機でシンガポールに至り、録音スタジオで一夜のうちに全曲を吹き込む。その際バンドは写真撮影禁止を厳命されていた。
 アルバム『CAMBODIAN LIBERATION SONGS(カンボジア解放の歌)』はバンテイ・アンピル・バンドが残した唯一の録音であり、1983年からLPとカセットで流通している。アジアで、アメリカで、フランスで、オフィシャルな配給経路を通さずに、口コミのみでアルバムは人の手に上り、幾多のカセットコピーが末端に広がっていった。
 英語とフランス語で書かれたライナーノーツは、このアルバム誕生の経緯に詳しいが、結論部にはこう書かれている:
このプロパガンダ・レコードはベトナム人(ベトナム系カンボジア政府軍)とクメール系反対勢力の内戦の時期に作られ、クメール民族が独立国としての主権と土地と文化を失ってしまうことの懸念を表現している。しかし1979年ベトナム軍侵攻以降のベトナム人移民の大流入の以前にも、ベトナム人は17世紀初頭からカンボジア国内に多く住んでいた。「複数の民族性」を認めようとしない傾向のあるこの国にあって、その先人たちの多くはカンボジアに骨を埋め、自分たちを「カンボジア人」とみなしていた。このベトナム人への恐怖が、歴史的に政治利用されたことはしばしばあり、このレコードは明白にレジスタンス運動への支持と「敵」に抗して団結するよう訴えている。

 ちょっと聞くと牧歌的でさえあるフォーク・ロックの数々。この解放と自由を希求するレジスタンスの歌は、一方ではその「敵」である特定の民族を攻撃・憎悪するメッセージを含んでいる、ということを無視してはいけない。いくら難しいと言われようが複数の民族性の同居は可能であり、実現させなければならないと思いますよ。

<<< トラックリスト >>> 
1. MY LAST WORDS
2. PLEASE TAKE CARE OF MY MOTHER
3. TUOL TNEUNG (THE HILLOCK OF THE VINE)
4. DON'T FORGET KHMER BLOOD
5. SEREKA ARMED FORCES
6. FOLLOW THE FRONT
7. I'M WAITING FOR YOU
8. PLEASE AVENGE MY BLOOD, DARLING
9. DESTROY THE COMMUNIST VIET !
10. LOOK AT THE SKY
11. VIETNAMESE SPARROWS
12. THE VIETNAMESES HAVE INVADED OUR COUNTRY

BANTEAY AMPIL BAND "CAMBODIAN LIBERATION SONG"
CD/LP AKUPHONE AKU1004
フランスでのリリース:2017年2月

(↓)BANTEAY AMPIL BAND "MY LAST WORDS"



(↓)BANTEAY AMPIL BAND "PLEASE AVENGE MY BLOOD, DARLING"



(↓)BANREAY AMPIL BAND "LOOK AT THE SKY"

2017年2月17日金曜日

おいしい水

Aquaserge "Laisse ça être"
アクアセルジュ『レス・サ・エトル』

 語わかる人なら、この一見奇妙なアルバムタイトルは英語『レット・イット・ビー(Let it be)』の仏語直訳のであると気づくでしょう。ビートルズへの目配せがそんなに重要なバンドではないような感じがしますが、世界のどこにビートルズに影響されていないバンドがありましょう? たぶん、リーダーのバンジャマン・グリベールが「タイトルをどうしようか?」と悩みに悩んでいた時に、聖母マリア様が顕現して、その叡智の言葉として「レット・イット・ビーなんかどう?」とのたもうたのでしょう。
 トゥールーズの人たちです。フランス語で歌うジャズ・ロックです。2010年代の仏語アンダーグラウンド・ムーヴメントを支援するメディア(ウェブジン)LA SOUTERRAINE の周辺では最も高い評価を受けているバンドの一つで、これが4枚目のアルバムになります。今回は世界配給がベルギーのCRAMMED DISCSですから、やっと世界的に知られるようになるかもしれません。
 バンド名アクアセルジュは「水」と「セルジュ」の合成とみなしていいのでしょうが、その後半の「セルジュ」というのは、誰が見てもゲンズブールあやかりと思われましょう。そのセルジュ・ゲンズブールが1978年にジェーン・バーキンに書いた曲で「アコワボニスト Aquoiboniste」というのがあります。アコワボニストとは何に対しても"A quoi bon ?"(ア・コワ・ボン?それが何なのさ?)と言う傾向のある、やる気も関心も情緒も欠落している人間のことで、この語を発明したのはボリズ・ヴィアンであるという説もあります。ア・コワ・ボン? しかしてゲンズブール流言葉遊びの流儀に従えば、このバンド名は
A quoi sers-je ? 
 (ア・コワ・セール・ジュ? 私は何の役に立つのか?)
と書き換え可能でしょう。
 しかしながら、このバンドが熱心なビートルズ・フォロワーでないのと同様に、ゲンズブール的要素もあまりないのです。あるとすれば、ゲンズブール『メロディー・ネルソン』時のジャン=クロード・ヴァニエの作編曲&サウンド環境作りには大いに影響されている風には聞こえるということでしょうか。
 女性二人(クラリネット奏者、ベーシスト)を含む5人組が基本フォーメーションで、豪州のサイケデリックバンド、テーム・インパラに出稼ぎ参加しているドラマーのジュリアン・バルバギャロがここに加わることもあり。これに4人ほどのホーン隊が加わったトランス・ジャズ楽団が「アクアセルジュ・オーケストラ」で、この名義で別行動もしています。またバンジャマン・グリベール(ギター。一応リーダーと呼んでいいのかな?)、ジュリアン・ガスク(キーボード)、前述のジュリアン・バルバギャロ(ドラムス)はそれぞれソロアルバムも出していて、2000年代からフレンチ・サイケデリック・アンダーグラウンドの顔役(アクア役)として暗躍しています。
 この4枚目のアルバムはアクアセルジュ・ファミリー総出演のビッグバンドっぽい音です。言い訳程度に歌詞(歌)が入ってますが、アクアセルジュは基本的にインストバンドだと思っていいでしょう。詞と言ったって、ダダでナンセンスでシュールなものでして...。
きみ自身の足で歩くっていうことは
きみは世界一周をしたってことだよ
鏡に映ってるのがきみの顔だっていうことは
きみはモナリザではないってことだよ
       ( 世界一周 Le tour du monde)

Vis ta vie de bete en enfer(ヴィ・タ・ヴィ・ド・ベート・アン・アンフェール)
fer à cheval dans le soda (フェール・ア・シュヴァル・ダン・ル・ソーダ)
seau d'armes à feux dans la cité (ソー・ダルム・ア・フー・ダン・ラ・シテ)
Si t'es coco c'est pas facile(シ・テ・ココ・セ・パ・ファシル)
Fa si la sol fa mi ré do(ファ・シ・ラ・ソル・ファ・ミ・レ・ド)
domination colonialiste (ドミナシオン・コロニアリスト)
       (Tintin on est bien mon loulou)

(↑)の2番目はナンセンスなしりとり歌なので訳さずにカタカナ表音転写だけしましたが、アホらしい楽しさがわかってくれればいいです。歌詞は全然重要じゃないんです。それでいいんです。このバンドの本領はインスト・アンサンブルの妙です。この音楽の旅はクラウトロックカンタベリー派、プログレ、サイケデリック、ノイズ... フリー・ジャズ、コズミック・ジャズ、シャンソン・ダダ... など1曲の中で様々な停車場に立ち寄るパノラマ列車のよう。早くなったり遅くなったり、ダンスを拒む変拍子になったり。リファレンスとして見え隠れする名前は、カン、ムーンドッグ、フォンテーヌ/アレスキー、アルベール・マルクール、ジャン=クロード・ヴァニエ、ロバート・ワイアット、キング・クリムゾン、ジョン・コルトレーン...。
  注目:7曲め "CHARME D'ORIENT"で、アシッド・マザーズ・テンプルKawabata Makoto(河端 一)がギターで参加してます。
 こんな名前が並ぶと「高踏派なんだな」と身構えるかもしれませんが、全くその必要なし。そりゃあムードイド(2013年デビューの仏サイケデリックのメジャーバンド。2015年に来日もした)のような大掛かりなポップさはありませんが、名前の通り流れる水のようなフレッシュさが身上。これをブラジルの先人は Agua de beber (飲み水ですよ)と歌い、その歌を故ピエール・バルーは Ce n'est que de l'eau, camarade (ただの水だよ、同志)と仏語訳して歌ったのでした。 けだし、アクアセルジュはただの水だよ、同志たち。

<<< トラックリスト >>>
1. TOUR DU MONDE
2. VIRAGE SUD
3. TINTIN ON EST BIEN MON LOULOU
4. SI LOIN, SI PROCHE
5. C'EST PAS TOUT MAIS
6. L'IRE EST AU RENDEZ-VOUS
7. CHARME D'ORIENT
8. LES YEUX FERMES

AQUASERGE "LAISSE ÇA ETRE"
CD/LP ALMOST MUSIQUE
フランスでのリリース:2017年2月3日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アクアセルジュ「世界一周 LE TOUR DU MONDE」フランス国営ラジオFRANCE INTERスタジオ・ライヴ


(↓)アクアセルジュ「南カーブ VIRAGE SUD」ヴィデオクリップ


 

2017年2月12日日曜日

バルバラ色の人生

ジェラール・ドパルデュー『バルバラを歌う』
Gérard Depardieu "Depardieu chante Barbara"

 本では知る人も少ないであろうが、フランスには2006年から「ジェラール賞」という年次セレモニーがある。その年度の演劇界最優秀俳優に与えられる由緒ある「ジェラール・フィリップ賞」とは全く別のもの。「ジェラール賞」はフランスの映画とテレビにおけるワースト(映画、番組、俳優、司会者...)に与えられる賞で、セレモニーに受賞者が現れるのはごく稀である。ワーストに冠される賞に、なぜこの「ジェラール」という名前か、という理由は公然とは言われていないが、誰もがあの男優のことを思い浮かべてしまう。
 かつて映画・演劇界の若き大名優として国際的スターにまで昇りつめたジェラール・ドパルデュー(1948年生れ。現在68歳)のこの10数年の巨体化、奇行蛮行、暴言、スキャンダルの数々(サルコジ支援、ロシア国籍取得、イスラム改宗...)は、この大俳優のイメージをずいぶん変えた。哀れな滑稽ささえ漂う。メディアの嘲笑的傾向の報道に腹を立て、ドパルデューは昨今のドナルド・トランプのようにジャーナリストたちに吠えつき、取材をシャットアウトする。外聞など全く気にしなくなった偏屈な誇大妄想者というイメージで見られているのが今日のジェラール・ドパルデューである。
 さて2017年はバルバラ(1930-1997) の20周忌に当たり、さまざまなトリビュート・コンサート、トリビュート・アルバムが予定されているほか、映画監督としてマチュー・アマルリックが撮った長編バイオピック映画(主演バルバラ役にアマルリックの元妻ジャンヌ・バリバール)があり、さらに秋にはフィラルモニー・ド・パリでバルバラの大エキスポが開かれることになっている。その一連のイヴェントの皮切りのように、ジェラール・ドバルデューがこの『バルバラを歌う』と題するアルバムを2月10日に発表し、2月9日から18日までパリのビュッフ・デュ・ノール劇場で連続コンサート(連日ソールドアウト)を行っている。
18歳年の離れたドパルデューとバルバラは親密な友情関係にあったが、公に最も知られているのは1986年1月初演のバルバラ作の音楽劇『リリー・パシオン』での共演であった。私はその1月のパリ・ゼニットでこのスペクタクルを見ることができた。殺し屋(ドパルデュー)と女歌手(バルバラ)の二人舞台の物語。女歌手が行く先々の興行地で、そのコンサートの夜に必ず殺人事件が起こる。殺し屋が女歌手を誘い出す手段のように。神話的な恋物語は、二人が刺し違える結末となるのだが、これが一体何の寓意であるのか、私も含めて多くの人たちはよく理解できなかったと思う。このスペクタクルはパリ・ゼニットの後、約1年間フランス全土を公演して回る。つまりこの1年間バルバラとドパルデューは衣食&苦楽を共にしたわけである。
 『リリー・パシオン』 は難産の音楽劇であり、発案から初演まで4年の月日がかかっていて、その間にウィリアム・シェレールが編曲してスタジオ録音したアルバムをボツにしたり(最新の情報では2017年に蔵出しされる可能性あり)、20年間バルバラのアコーディオン奏者(つまりメインの伴奏者)だったロラン・ロマネリと(ドパルデューとの諍いが原因で)決別することになったり...。公演が始まっても、興行的には大成功というわけではなかったようだ。しかし死後になっても、完全収録ではないライヴ盤しか出ておらず、当時スペクタクルを見た人たちを除いては全容が見えていないこの一種の「呪われた」音楽劇に、再評価の機運が高まっている。そして死後刊行された自伝『一台の黒いピアノ』(1998年)で自ら明かした父親との近親相姦のことにより、バルバラの歌の「読まれ方」は随分と変わってしまったし、「黒いワシ」と同じように、『リリー・パシオン』の殺し屋をそのイメージで解読することもできる。
ジェラール・ドパルデューは最も近い距離にいた生き証人であり、そのことについて死後20年に渡って沈黙してきたが、2017年2月1日号のテレラマ誌巻頭インタヴューで初めて証言を公にしている。以下、無断で部分訳。
テレラマ(インタヴュアー:ヴァレリー・ルウー)「バルバラが亡くなってからあなたは彼女について一度も語ったことがありませんでした。なぜですか?」
ドパルデュー:彼女自身が語ることが大嫌いだったんだ。どうして私が彼女の代わりにそれをできる! 第一、私は私と彼女の秘密についてはこれからも一切言わないよ。二人の笑い声、二人の傷、それはほとんど同じものだったし、これからもそれは私たち二人のものだ。
(……)
テレラマ「上演された当時、リリー・パシオンが彼女の内面の深い部分の何を隠していたのか、誰も良く理解できませんでした」
ドパルデュー:私がそれは何かを言うわけにはいかないんだ。リリー・パシオンは素朴なおとぎ話で、バルバラは自分自身の多くの部分をその中に詰め込んだ。多くの象徴もね。例えばリリーが殺し屋に「ナイフで刺して、ダヴィッド、ナイフで」と言う時、それは「黒いワシ」と同じように近親相姦のしるしかもしれない。その歌の中で、「私の手の中にその首を滑り込ませた Dans ma main, il a glissé son cou」と歌っているが、その首というのはイチモツのことだと容易に想像出来る。「黒いワシ」は近親相姦のことを歌っている。

テレラマ「彼女はそのことを一生苦しんでいたのですか?」
ドパルデュー;そんなことはない。彼女が歌を歌い始めた時から近親相姦は影を潜めた。彼女はそうやってそこから逃れることができたんだ。彼女が自分の体型を嫌っていたことも歌うことで気にならなくなった。私は彼女が近親相姦について苦悩していると感じさせた場面に一度も出会ったことがない。一度も。私と彼女がナントで一緒に歌った時、その歌「ナントに雨が降る」へのオマージュでナント市長がある道をその歌に因んだ「ラ・グランジュ・オ・ルー通り」と命名した時も全く動じなかった。私はその話をずっと後になってから知ったのだ。彼女が自伝(IL ETAIT UN PIANO NOIR)を書き始めた時にね。性的暴力を蒙った人たちはたくさんいるし、中にはそこから回復できない人(パトリック・ドヴェールのようにね)もいるが、それを乗り越えて生きられる人たちもいる。バルバラは単にとても陽気だったのではなく、彼女にはとても強い生きる力があるんだ。彼女は人の言葉を聞けて、人々の不幸も受け入れることができるが、彼女自身の生きてきたことに関しては決して嘆いたりすることななかった。「ナントに雨が降る」で、彼女はそれを赦したということを示したのだ。

テレラマ「彼女は父親をその罪から解放したかった。自伝の中で彼女は “あなたは安らかに眠れるのよ、私は歌うことによってそこから抜け出せたのだから”と書いています」
ドパルデュー:彼女はすべての人間たちと同じようにこの男も解放したかったんだ。「ゲッチンゲン」を歌うことによってドイツの人々を解放したようにね。しかも「ナントに雨が降る」の中に近親相姦に関した歌詞がないように、「ゲッチンゲン」にもガス室に連れて行かれる子供たちに関する歌詞はない。「死のエイズ愛(Sid’amour à mort)」を歌うことによって、彼女は当時の偏見に晒されたエイズ患者たちをも解放しようとした。
テレラマ「エイズに関しては彼女はこの歌だけではなく、大変な尽力をしていました」
ドパルデュー:私は彼女と一緒に多くの病院を訪問したが、彼女は家族に見放された患者たちに会いに行ったんだ。今から30年前のことだけど、あの当時私が見たのは魔女狩りか中世のらい病者放逐のような場面だった。エイズは愚かな宗教者たちから恥ずべき病気で天罰のようにみなされて、多くの人たちは孤独のうちに死んでいった。バルバラはそういう人たちのためにそこに行ったんだ。彼女は人間たちの狂気に由来する苦しみに我慢がならなかった。アメリカで最近起こったようなトランペット(小さなトランプ)による人々の狂気に由来する不幸にね。あるいはそれはもうすぐこの死にかけているヨーロッパにも起こるかもしれないが。
そしてジェラール・ドパルデューはこの『バルバラを歌う』 をつくった。もうひとりのジェラール、15年間に渡ってバルバラのピアニストをつとめたジェラール・ダゲールがピアノと編曲を担当して、1973年からバルバラが住処としていたプレシー・シュル・マルヌのバルバラ邸のサロンに機材を持ち込んで録音している。もちろんピアノはバルバラが持っていたものをダゲールが弾いている。楽器はピアノの他に、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、アコーディオン(マルセル・アゾラの名があり)、パーカッションも入っているが、おそらく別吹き込みと思われる。14曲入り。最終トラックの"Précy Prélude"は、ジェラール・ダゲール作曲のピアノソロインストで、その他13曲はバルバラ詞曲で、ジェラール・ドパルデューが歌っている。
 ドパルデューは歌ったことがないわけではない。1980年には歌手としてRCAからLPアルバム "Ils ont dit Moteur... Coupez!”(作詞作曲がエリザベート・ドパルデュー)を発表しているし、2006年の映画 "Quand j'étais chanteur"(グザヴィエ・ジャノリ監督)では、地方のダンスホール歌手役でゲンズブール「アナムール」などを堂々と歌っていた。
 バルバラとの『リリー・パシオン』ではセリフのみで1曲も歌ったものはないということになっていたが、実は前述のオクラ入りになったウィリアム・シェレール編曲のスタジオ録音ではドパルデューもバルバラと一緒に歌っていた(と、2月9日のテレラマWeb版でヴァレリー・ルウーが興奮して報じている)。
 『ドパルデュー、バルバラを歌う』はその音楽劇『リリー・パシオン』の中の曲「ミモザの島 (L'ile aux mimosas)」から始まる。オリジナルではバルバラ(女歌手)が歌い、ドパルデュー(殺し屋)がセリフで応えていたこの曲を、ドパルデューは女歌手役と殺し屋役の両方を歌っている。私はこの歌声に驚き、震えた。演劇人の優れたディクションかもしれない。バルバラのヴァージョンよりも、どれほど言葉がはっきり聞こえるか。その言葉の伝えるものを伝えられる技というのだろうか、そこに引き込まれていく感じ。歌うたいの表現力とは違うものであろう。
 「小さなカンタータ」、「黒い太陽」、「サン・タマンの森」、「孤独」、「黒いワシ」、「ナントに雨が降る」、「いつ帰ってくるの?」、「ゲッチンゲン」...。バルバラの歌で暗記するほど聞いたこれらの歌は、68歳の老男優が大事にする言葉の発し方/転がし方でエモーションが純化されたように聴こえてくる。重く、軽く、硬く、柔らかく、味わいは変わる。ゲンズブールやバシュングのような声とマイクロフォンの特性の調和によるマジックかもしれない、ドパルデューの声のプレゼンス。
  10曲め "A force de"は、オリジナルはバルバラ最後のアルバム『バルバラ』(1996年)の2曲め(アルバム2曲めは常にアルバム最重要曲)に収められていて、作詞はギヨーム・ドパルデュー(1971-2008)。一般にはそれほど知られた曲ではないと思う。しかしどうしてもこの曲は入れたかったのだろう。亡きバルバラと亡き息子の共作曲、どれほどの思いで歌ったことだろうか。
 Que d'émotions...

<<< トラックリスト >>>
1. L'ILE AUX MIMOSAS
2. UNE PETITE CANTATE
3. MEMOIRE, MEMOIRE
4. DROUOT
5. LE SOLEIL NOIR
6. AU BOIS DE SAINT-AMAND
7. LA SOLITUDE
8. L'AIGLE NOIR
9. NANTES
10. A FORCE DE
11. MA PLUS BELLE HISTOIRE D'AMOUR
12. DIS, QUAND REVIENDRAS-TU ?
13. GOTTINGEN
14. PRECY PRELUDE

GERARD DEPARDIEU "DEPARDIEU CHANTE BARBARA"
BECAUSE MUSIC CD/LP
フランスでのリリース:2017年2月10日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ドパルデュー、バルバラを歌う』 ティーザー


(↓)CDアルバム『バルバラを歌う』を手にするドパルデュー



2017年2月11日土曜日

むちむちぷりん


ジャン・ギャバン『今や知れり吾』
Jean Gabin "Maintenant Je Sais"


 無知の知ソクラテス)、クセジュ(われ何をか知る。モンテーニュ)、私は何も知らないということを、60歳になって悟るという歌です。1974年に発表されたシングル盤です。20世紀フランスを代表する世界的名男優ジャン・ギャバン(1904-1976)が歌っています。この歌の2年後にギャバンは72歳でこの世を去っており、この歌の「60歳にして」という内容に関わらず、実際のギャバンは70歳でこの歌を吹き込んでいます。
 作曲は英国人コンポーザー、フィリップ・グリーン(1911-1982)です。 作詞は、2008年からフランス学士院(アカデミー・フランセーズ)会員という国家的賢人となっているジャン=ルー・ダバディー(1938 - 2020) (ミッシェル・ポルナレフ「哀しみのエトランゼ」、ジュリアン・クレール「マ・プレフェランス」...)です。歌ったギャバンは70歳でも、書いたダバディーはこの36歳。年齢を見たら、何でおまえがこんな知ったような口を、と思いたくなるような詞です。
リンゴ3個分ぐらいの背丈しかなかったガキの頃
俺は一人前に思われたくていつも大声でこう言ってた

「知ってるよ、知ってるさ、知ってるとも!」
 

それが始まりだった、春みたいなものさ
18歳になった時、俺は言ったもんだ
「さあ大人だ、今こそ俺は何でも知ってるんだ」
 

そして今、俺は昔の日々を思い返している
俺が何百歩と毎日踏むしめてきた地球だが 
それがどうやって回っているかなんて未だに知らないんだ
 

25歳頃、俺はすべてを知っていた
恋、バラの花々、人生、金
特に恋は俺は一通り全部やってみたさ!
 

幸いにして,他のダチたちと同様で、
俺は自分のパンを食べ尽すことはなかった
人生の半ばで、俺が知ったことだってある
俺が知ったそのことは短い言葉で言えばこういうことさ
 

「だれかがおまえを好きになってくれた日、それは快晴の日だ」
これ以上俺はうまく言えない、それは快晴の日だ!

 今や人生の秋にある俺にさえ、

まだ人生で驚くことがあるんだ
悲しみの夜の多くは人は忘れてしまうもんだ
だけど優しい朝のことは決して忘れないんだ!

若い時は、俺は「知ってるさ!」とばかり言いたかったんだ
ただ、探せば探すほど、俺が知ってることなんて少ないものなんだ

今や時計は60の時を告げて鳴ってしまった

俺は窓辺に立ち、外を眺め、自分に問うてみる

俺は今わかった、

「人は決して知ることなどないのだ」ということを
 

人生、恋、金、友だち、バラの花々
これらのことの音も色も、人は決して知ることなどないのだ
それが俺が知っているすべてのことだ!
そのことは俺は今知っているよ!
年齢がものを言わせるような詞ではありますが、70年代では60歳というのは本当に人生の秋という感覚だったでしょう。21世紀的今日、60歳がまだ「働き盛り」のような扱いを受けて、社会のど真ん中に踏みとどまっています。それは私は間違ってると思う。60歳ぐらいになったら、やはり過去を振り向いていろいろ悟って、次世代にいろいろ譲って、違う余生に進んでいくべきだと思っています。かく言う私はもうすぐ63歳になります。私は何も知らないということを、ようく知っています。むちむち爺。

(↓)ジャン・ギャバン「マントナン・ジュ・セ」


(↓)イオソ、イオソ、イオソ! 珠玉のカヴァー、ジノ・パオリ「イオ・ソ・ケ・ノン・ソ」(1996年)



(↓)映画スターの語りソング・ヒット曲の元祖、アンソニー・クイン「アイ・ラヴ・ユー、ユー・ラヴ・ミー」(1967年)。同志たち、よい聖バレンタインを。

(↓)ギャバン "je sais je sais"とアンソニー・クイン "I love you"をイントロでパロったアラン・スーション(&ヴールズィのコンビ)の佳曲 "Y a d'la rumba dans l'air" (1977年)

(↓) I know, I know, I know...

2017年2月10日金曜日

ルック・チョコレート、ダイスキ

V/A "DESSINE-MOI UNE POCHETTE DE DISQUE VOL.1"
コンピレーション『レコジャケ描いてよ VOL.1』

 マジック・レコーズ社主マルシアル・マルチネーは自ら世界的なシングル盤コレクターで、時々こうやってそのコレクションの宝物の一部を自社リリースの中に紛れ込ませます。今回はサイケデリックなレコジャケシングル盤特集で、時代は1968年から76年まで。イラストレーションや色使いやレタリングで、ああ、あの時代ね、とわかる人たちは年寄りです。
 トラックリスト見ても、コレクターでなければ、スコット(雨にも)マッケンジー「花のサンフランシスコ」(1967年)ぐらいしか知らないと思いますよ。鬼のシングルコレクターが、自慢げに作ったコンピレーションですから。しかし、レコジャケ特集と題しながら、レコジャケをきちんとブックレットで見せてくれるわけではなくて、このフロントカヴァーで見えるように小さな2センチX2センチの縮小写真だけなんです。ケチ。とは言っても、ちょっと解像度のいい写真など載せた日には、すぐコピーされて海賊シングル盤が作られてしまうことは容易に想像できます。
 ここにある音楽はすべて完成度の高い(つまりシングルヒットしそう、ということなんだけど、実際にはヒットしなかった)ロンドン〜米西海岸系の和音たくさんのソフトロック/サイケデリックポップばかりです。春の行楽のカーステ御用達みたい。この時代のことをちょっと回想しますと、1968年にザ・ウォーカー・ブラザースが来日した時、不二家の「ルック・チョコレート」のCMフィルムを撮ったんです。

(↑)の動画で見るように、モノクロ映像だったのかなあ。やたらカラフルだったような記憶があるのですが、モノクロでカラフルというのは明らかに矛盾。雑誌広告やミュージックライフの写真とかでカラフルに思っただけなんでしょうね。こうやってこのコンピレーションに並べられた小さな 2センチ X 2センチのジャケ写の数々を見ても、それほど多色刷りじゃないのにカラフル、と見えてしまいます。そしてこのコンピレーションにはウォーカー・ブラザースの一番目立たない男だったゲイリー・ウォーカーのシングル盤も入っています。
 同志たち、ルックチョコレートで良いバレンタインデーを。

<<< トラックリスト >>>
1. THE BUNCH "DON'T COME BACK TO ME"(1968)
2. WOOD "SAILIN' MY SHIP" (1971)
3. JUPITER SUNSET "MONTE-CARLO" (1970)
4. CHARLES BRUTUS MCCLAY "I'VE GOT MYSELF A LITTLE GIRL" (1970)
5. THE BELLS "FLY LITTLE WHITE DOVE, FLY" (1973)
6. THE ALAN BOWN "TOYLAND" (1967)
7. THE CASUALS "TOY" (1968)
8. COPPERFIELD "ANY OLD TIME" (1969)
9. EVERY MOTHER'S SON "PUT YOUR MIND AT EASE" (1967)
10. JOHN FRED & HIS PLAYBOYBAND "HEY! HEY! BUNNY" (1968)
11. THE SPARROW "TOMORROW'S SHIP" (1966)
12. GREENFIELD & COOK "THE END" (1972)
13. GRISBY DYKE "THE ADVENTURES OF MIS ROSEMARY LA PAGE" (1969)
14. JAMES ROYAL "CALL MY NAME" (1967)
15. THE MAGIC LANTERNS "SHAME SHAME" (1969)
16. SCOTT MCKENZIE "SAN FRANCISCO" (1967)
17. MR.BLOE "GROOVIN' WITH MR.BLOE" (1970)
18. PILOT "CANADA" (1976)
19. THE SHAKESPEARES "SOMETHING TO BELIEVE IN" (1968)
20. STRAWBERRY ALARM CLOCK "INCENSE AND PEPPERMINTS" (1967)
21. THE LOVE AFFAIR "EVERLASTING LOVE" (1968)
22. GARY WALKER AND THE RAIN "SPOOKY" (1968)
23. THE YELLOW BALLOON'S "YELLOW BALLOON" (1967)
24. THE YOUNG IDEA "MISTER LOVIN' LUGGAGE MAN" (1968)
25. WHITE PLAINS "I'VE GOT YOU ON MY MIND" (1970)

V/A "DESSINE-MOI UNE POCHETTE DE DISQUE VOL.1"
CD MAGIC RECORDS 3931019
フランスでのリリース:2017年2月

(↓)ゲイリー・ウォーカー&ザ・レイン「スプーキー」

(↓)グリスビー・ダイク「ローズマリー・ラ・パージュ嬢の冒険」


2017年2月7日火曜日

チョコレートを贈る理由は聞かないものだから

90歳おめでとうございます。
  2017年2月7日、ジュリエット・グレコは90歳になった。2015年1月、ジュリエットは歌手引退を宣言、そのさよなら公演「メルシー」ツアーは2015年春に始まり、2017年春に終るはずだったが、2016年3月に脳血管障害に倒れ、それ以降の日程はすべてキャンセルになっている。
 グレコの健康状態を伝えるニュースは2016年9月以降途絶えている。今日2月7日の90歳誕生日を報道する新聞系/芸能誌系のウェブ記事でも、その輝かしい芸歴を讃えることだけで、健康状態への言及はない。
 その芸能誌系のひとつ Gala のウェブ記事は、2013年10月18日の同誌のジュリエット・グレコへのインタヴューの編集再録で、ジュリエットが愛した男たち(ジャック・ブレル、ボリズ・ヴィアン、マイルス・デイヴィス、セルジュ・ゲンズブール、ジェラール・ジュアネスト)について語った回想をまとめている。その中のゲンズブールをめぐる回想を以下に訳してみる。
1963年にゲンズブールは私のために「ラ・ジャヴァネーズ」を書いてくれた。その中に彼の心のうちを "De vous à moi, vous m'avez eu..." (あなたから私への方向では、あなたは私を虜にしたのですよ)と明かして。私と彼は何度も二人だけで外出したし、私は彼と一緒にいて信じられないほど楽しかった。彼はとても教養があって、意外な面がたくさんあり、感受性の強い人だった。彼はその外見に関して受けるあらゆる侮辱を体で受け止めていた。彼は絶対的な天才。素晴らしい作詞作曲家にして映画人、そして画家でもあった。私は彼に残された数少ない絵のひとつを持っている。ある夜、彼が片手にある包みを持って家にやってきた。それは1枚の絵で、そこには幼い頃の彼とその妹が描かれていた。「セルジュ、なんて美しいの」と私が言うと、彼は「これはあんたのために取っておいたんだ。他の絵は昨日全部焼いてしまった」と答えた。私は何も彼に問わなかった。人がチョコレートをプレゼントしてくれるのに、私は理由を聞いてはいけないと思うから。
チョコレートを贈る人に理由は聞かないもの。
2017年2月14日、同志たち、よき聖バレンタインを。

(↓)ジョアン・スファール映画『ゲンズブール、その英雄的生涯』(2010年)の中のゲンズブール(エリック・エルモスニノ)とジュリエット・グレコ(アンナ・ムーグラリス)による「ラ・ジャヴァネーズ」誕生のシーン。


(↓)ジュリエット・グレコとイブラヒム・マールーフ「ラ・ジャヴァネーズ」(2014年パリ、オランピア劇場)




P.S. (追記 2017年2月8日)
ゲンズブールの絵がグレコ邸から盗まれる
民放ラジオRTLのウェブ版で2015年11月6日に掲載された報道によると、オワーズ県のジュリエット・グレコ邸の2階寝室に飾ってあったゲンズブールの描いた絵(子供時代のリュシアン・ギンズブルグと妹のリリアンヌが描かれていて、署名は "ginsburg"となっている)が盗まれていたことがわかりました。
「とても暗い色をしていたのでおかしいと思って近づいてみたら模造画だった」とグレコは証言している。つまり犯人はこの絵を盗んだのちに、模造画とすり替えていたのです。「この絵は私の命の一部」であり「セルジュとの出会い、私と彼の会話、一緒にした仕事のすべて」を証言するものとグレコは言い、ラジオ放送を通して犯人に対して「この事件に関する告訴はしない。ただこの絵があるべき場所に戻して欲しい。これは私のものであり、私の命の一部、私の大切な思い出なのだから」と訴えたのでした。
その後これに関する情報は見つからないので、どうなったことやら。

2017年2月4日土曜日

アザミと呼ばれた女

Aki Shimazaki "Azami"
アキ・シマザキ『アザミ』

 ベックでフランス語による小説を発表し続けている日系女流作家アキ・シマザキの第11作目の小説で、発表は2014年。この作家に特徴的なのは小説5編連作をひとつの大きなサイクルとしている(この五部作のことを"pentalogie"パンタロジーと言います)ことですが、すでに『秘密の重み』 (1999年〜2005年)、『ヤマトの真ん中で』(2006年〜2013年)を2巻のパンタロジーを完結させていています。この『アザミ』がシマザキ第3のパンタロジーの第1作目です。その第2作目の『ホオズキ』を当ブログでは2016年6月に紹介していて、今日(2017年2月)までに3000ビューという高い関心をいただいています。そして次に出る第3作目が『スイセン』 で、ケベックでは2016年9月に出版されましたが、フランスでの出版予定は2017年3月です。
 さてこの第3のパンタロジーの時代は特定されていませんが、わりと現代に近い平成初期ではないかと察します。登場する聾唖の男の子タローの歳でわかるのですが
、『アザミ』の中では4歳、『ホオズキ』の中では7歳で、両作の間に3年のインターヴァルがあります。『ホオズキ』を紹介した時に書いたのですが、祝日「成人の日」が1月15日ではなく1月第2月曜日になっているということで、それが変わった1999年(平成11年)より後と推定できます。しかしこの『アザミ』では、作品中に一度も携帯電話が登場せず、小説の話者(ミツオ)が公衆電話から愛人宅に電話するのを習慣としているところから、日本の町に公衆電話が普通にあった時代というのは?と海外生活者にはわからないことを想像したりします。
 それからこの小説の重要なキーワードが「セックスレス」という言葉です。一体この言葉はいつ頃から日本で言われるようになったのでしょう?
 話者ミツオは(おそらく中部地方の)大都市の雑誌出版社で編集者として働く30代半ばの男です。妻のアツコとは同じ出版社で知り合い、スムーズに結婚し、 スムーズに二人の子供を授かるのですが、その後ミツオとアツコはお互いに変わらぬ愛情を持ちながら、どうもうまく行かずセックスレスになります。寝室を別々にし、帰宅時間の遅いミツオはアツコが用意してくれた夕食を温めて一人で食べるということが多くなります。
 アツコは自分の両親から土地付きの田舎の家を相続して、週末と学校休みの時はこの田舎の家で子供たちと過ごします。やがてその土地で野菜の有機栽培を始め、それを本格的に事業にしてしまう計画を立てます。その田舎家を担保に銀行から資金を借り入れ、協力者二人を雇い、小型トラックを買って、有機野菜の生産販売に乗り出します。ミツオはミツオでいつまでも社員編集者で終わらずに、いつか独立して自分の雑誌(地方の民俗歴史月刊誌)を出したいという夢があります。しかし自立する夢はアツコの方が10歩も100歩も先を行ってしまいます。子供たちも母親の方になびきがちで、都会よりも田舎がどんどん好きになっていく。ところがミツオは典型的 "citadin"(シタダン、都会派人間)で、時々行くアツコの田舎の家も長くいると退屈してしまう。
 さてセックスレスの話に戻りましょう。この小説でシマザキはそういう説明はしていませんが、アツコという頭が良く家庭のことも子育てのこともすべてうまく出来、しかも好きなことで自立も可能な女性、仕事に追われ自由な時間も少ない夫に比べずっと活き活きと生きている女性になってしまったこと、ここが性的途絶の大きな原因のように読めます。シマザキが描くこのミツオという人物は取り立てて日本型男性原理に染まった男ではないにせよ、「並みに」男です。小説的キャラクターとしては人間的魅力が大いに欠けているように私には思えます。アツコを愛しているし、一生そばにいたいと話者は吐露するのですが、パッションはありません。自分よりもひとまわりもふたまわりも人間的に大きくなっている妻を前にして性的なブロッカージュが働いてしまう。
 この性行為衝動は男性優位でなければ機能しないということなのか。目下的に「可愛い女」でなければ日本の男は「できなく」なってしまうのか。ということをシマザキは説明しません。
 で、ミツオはその満たされぬ欲求を解消するために「フウゾクテン」(fuzokutenとそのまま小説に現れます)に通い、そのことをアツコは知っています。
 ここでまたミツオの男の「リクツ」があります。風俗店やピンクサロンに通うのは妻に対する不実ではなく、「必要悪」である。どうなんだろうか、この考え方は? 21世紀的今日の日本男性はやはりこういうことがフツーに必要だと考えるのだろうか? それはともかく、ミツオのリクツでは浮気は別物であり、自分は絶対に愛人を持ったり浮気したりはしない、と思って「いた」。
 小説の冒頭は、ミツオが偶然、小学校の時の同級生ゴロウと再会することから始まります。ゴロウはこの地方でめきめき躍進している大酒造会社の二代目社長で、社交的で人の面倒見が良く、成功者としての風格もある。(このゴロウがこのパンタロジー第3作でもうすぐフランスで刊行される『スイセン』の主人公になります)。フウゾクテンに出入りするミツオと違い、ゴロウは愛人が3人もいる。それはそれ。成金のゴロウに連れて行かれてた超セレクトな高級バーで、ミツオは同じ小学校の同級生だったミツコがホステスとして働いているのを見てしまいます。ミツコは6年生の時に転校してきた美しくも暗めの少女で、ミツオが強烈に片思いを寄せていた、言わば初恋の人。このミツオとミツコとゴロウの3人が後々まで数奇な運命で交錯していく、というのがアキ・シマザキの得意技の大河ストーリーであるわけです。
 小学6年の頃、将来カメラマンになりたいと言っていたミツオは編集者になり、大学教授になりたいと言っていたゴロウは大会社の社長になり、獣医になりたいと言っていたミツコはバーホステスになった。中産階級の子は中ぐらいの職業につき、金持ちの子はやはり金持ちになり、貧乏人の子は底辺で苦労する、という図式です。この3つを交錯させるというのもシマザキの得意とするところです。
 週に一度金曜の夜に高級バーで働き、他の日は昼に喫茶店のウェイトレスとして働くミツコはシングルマザーで4歳の息子を育てています。夜道でハンドバッグをひったくられそうになったミツコを偶然にも助け、急激に接近できるようになったミツオは、少年の頃の恋慕を再燃させます。新事業に夢中で田舎の家に行く機会が多くなっているアツコの不在をいいことに、ミツオはミツコのところに通い、隣室で眠っている幼児タロウを起こさないように音をひそめて情事を重ねます。セックスレスだったミツオは狂ったように回春し、いよいよ燃え上がっていくのですが、それはミツコと両方向ではなく、ミツコはミツオのパッションがかりそめのものであることを見抜いています。
 この小説の中で聡明・賢明なのは二人の女性です。男性はどれも魅力に乏しい。おまけに日本の男性社会的背景が大きくものを言ってきます。端的な例がミツオの出版社の上部は、ゴロウの大酒造会社を広告主として獲得したいと目論んでいて、ミツオとゴロウの幼なじみ関係を利用して、なんとか話をまとめろとミツオに強要します。そんな話に友人関係を利用したくないミツオですが、広告取りの話はどうにかうまく行きかけます。しかしゴロウという見た目よりもずっと複雑で倒錯した性格の男は、「お宅の会社の編集幹部のひとりが売春常連客である、あるいは夜の女と不倫関係にある、という噂を聞いた」と、「企業イメージに泥」という観点から、この広告契約に難色を示します。すなわち、ゴロウがミツオを罠にかけたような。24年前の少年少女時の「三角関係」から始まっているような根の深い確執。そして、アツコも遂にミツオの不倫行動に気がついてしまいます...。

 題名の「アザミ」はミツコが高級バーで働く時の源氏名です。一時は娼婦にまで身を落としたミツコがどうしてこの財界人や学術人が集まる超セレクトクラブで働くようになったのか。それは子供の頃からの膨大な読書量によって、学校に行かずともすぐれた教養人になってしまい、数カ国語もこなし、大学教授クラスと対等に問答ができる会話の達人になったからなのです。(正直に言うと、この教養レベルと描かれる人物像にはややギャップがあるように思います)。美貌と教養と会話レベルの高さ、これが「アザミ」さんをバーの売れっ子にしているわけです。
 そしてそれは偶然にもミツオが少年の日に、ミツコへの想いを綴っていた日記に、純情にもその名をダイレクトに書けず、ミツオが創造した恋人の名としてつかっていたのが「アザミ」であった、という話なのです。24年後にその日記をミツオから見せられたミツコは...。
 実の両親が離婚したり、死別したり、犯罪者になったり、そういう因縁でどこか似た者同士であるミツオ、ミツコ、ゴロウ。ここからシマザキ流のロマネスクを展開させようという新パンタロジーですが、前のふたつのパンタロジー『秘密の重み』『ヤマトの真ん中で』で見せた壮大なロマン世界から比べると、ぐっと世界は狭く、親密な展開になっていると思います。これまで11作シマザキの作品とつきあってきましたが、この『アザミ』はちょっとレベルが低いです。セックスレスはどこから来るのか、日本社会の中の男たちはどうして性と向かい合わないのか、ミツコはなぜ哲学者然としていられるのか、そういうところをもっともっと掘り下げて書いて欲しかったです。
 ミツコは自分の名前が嫌いだった。そして転校生ミツコは、ゴロウに「おまえの名前の漢字は読み方によってはマンコ」とからかわれる。こういうエピソードは小説の文学レベルをガタっと下げますよ。フランス語人にもそれはわかりますよ。
 ではまた次回『スイセン』 で。

Aki SHIMAZAKI "Azami"
Actes Sud刊 2014年9月  130ページ 13,50ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆