2019年5月17日金曜日

おかあさんは川へ洗濯に

"Dolor y Gloria"
『苦悩と栄光』

2019年スペイン映画
監督:ペドロ・アルモドバール
主演:アントニオ・バンデラス、アシエル・エツェアンディア、ペネロペ・クルス
2019年カンヌ映画祭(コンペティション)出品作
フランスでの公開:2019年5月17日

 映画のための映画。映画によって救われる映画人の映画。アルモドバールの自伝的要素を大きく含む作品で、自身の化身アントニオ・バンデラスが泣かせる「男」の映画。
 サルバドール(演アントニオ・バンデラス)は長い間映画から遠ざかっている監督で、インスピレーションの枯渇だけでなく、持病と自分では思っている脊髄障害で腰痛・背痛・頭痛・耳鳴り・不眠症に悩まされている。32年前に撮った映画 "Sabor"(味)がリストアされシネマテーク入りし、再評価の気運が高まっているが、当時サルバドール自身はひどく低く評価していたのに今見直すと良い作品だったことが改めてわかってきた。そのシネマテークでの再上映会に合わせて、サルバドールは主演男優だったアルベルト(演アシエル・エツェアンディア)と再会する。32年前はサルバドールはアルベルトの演技が気に入らず、ほとんど喧嘩別れとなっていた二人だったが、旧交はすぐに深まっていく。当時からアルベルトが常習的なジャンキーだったことを知っているサルバドールは、持病の緩和になればと、生まれて初めてアルベルトからヘロインを分けてもらい試してみる。その効果でサルバドールに蘇ってくるのは少年の日の思い出なのである。 
スペインの田舎の貧しくも幸せな母(ペネロペ・クルス)との日々。川で洗濯をする女たち、歌を歌いながら洗濯ものを川辺の灌木の上に干す女たち、このシーン、本当に美しい。この洗濯女ペネロペ・クロスは『戦場を駈ける女(Madame Sans Gêne)』(1961年)の洗濯女ソフィア・ローレンにそっくりだ。
 天才的に早熟で賢く読書好きで、美しい声で歌を歌える子供だったサルバドール(演アシエル・フロレス)は、家に学費の余裕がないので、推薦で入れて学費無料の神学校で学ばせたいという母に逆らい、死んでも神父になどなりたくないと言う。 ある日、聡明博学な少年サルバドールの前に、読み書きを知らない左官職人の(美しい)青年が現れ、手紙の代書をしてくれないか、と言う。少年は今の世の中に読み書きができないのは一生の損だと青年を諭し、マンツーマン授業で読み書きを教えてやろうと言う。年端もいかぬ小僧が大人相手に厳しい教師のような口調と教育法でスペイン語の読み書きを叩き込むのだが、これが少年の「性の目覚め」になるとは...。
 初老のサルバドールは沈痛のつもりで始めたヘロインにいよいよ依存症になっていき、幻覚の中で再会する過去が少しずつ彼を変えていく。創作から遠ざかっていたはずの彼には手をつけられずにいる過去の書きかけがいくつかある。サルバドールの幻覚トリップ中にアルベルトはサルバドールのパソコンの中身を盗み見、保存されていたファイルの中の「アディクシオン」と題されたテクストの美しさに心打たれる。かつては喧嘩別れしたものの、サルバドールの優れた才能には敬服していたアルベルトは、俳優として再起するためにこのテクストが欲しい(独り舞台演劇の台本に使いたい)とサルバドールに迫る。最初は頑なに拒否していたものの、ヘロイン欲しさか、少し上向きかけた創作意欲のゆえか、サルバドールはそのテクストを推敲して手を加え、「このテクストはまさしく俺の告白であり、この作者が俺であることは知られたくない、だから作者として俺の名前を出さないでくれ」という条件でアルベルトに差し出す。
 そしてマドリードの劇場で上演されたこの作者不詳のモノローグ劇「アディクシオン」は、アルベルトの会心の演技で大好評を博す。それは30年前の覆面作者(サルバドール)の創造の泉が溢れ出ていた頃、そのインスピレーションのすべてだった恋人(男)との激烈な愛と苦悩と中毒(アディクシオン)を(メロ)ドラマティックに表現したもので、エモーションは観客席を包み込んでしまう。その観客席の中に、なんと、数年ぶりにブエノスアイレスからたまたま一時帰国していたという30年前のサルバドールの恋人、フェデリコ(演レオナルド・スバラグリア)がいたのである。上演後アルベルトの楽屋に飛び込み、作者に会わせてくれ、と。その夜のうちに、フェデリコはサルバドールの住むマンションのドアを叩き...。↓写真サルバドール(アントニオ・バンデラス)とフェデリコ(レオナルド・スバラグリア)
この映画で間違いなく最も感動的なシーン。30年前に別れの言葉もなく別れた二人が、その後のいきさつ話に花を咲かせ、あっと言う間に夜は過ぎ、抑えていたエモーションは今にも爆発しそうなのにぐっとこらえ、「アルゼンチンに遊びに来いよ/ああ、絶対に行くよ」などとあり得ないとわかっていることを言い合い、30年前にできなかった真の別れのあいさつのように、唇と唇で激しく接吻するのですよ!

 50年前、少年サルバドールがスペイン語の読み書きを教えていた美しい左官職の青年は、夏の暑い日、その持って生まれた絵心で段ボール紙の上に少年の姿を描いていく。サルバドールの家の台所のタイル張りの仕事を終えた青年は、台所の中で大タライに水を入れて裸になって体を洗う。美しい逆三角形の上半身。青年は少年にタオルを持ってきてくれないかと呼び、タオルを持って台所に入っていくと、サルバドールはそのあまりに美しい裸身の衝撃に気を失ってしまう...。その50年前に左官青年が描いた少年サルバドールの肖像画が、マドリードのアマチュア画秀作展に出品されているのを初老サルバドールが見つけてしまう...。

 その他すべての偶然はこの映画の中で、生気を失っていたサルバドールを「生」の側に少しずつ回帰させていく。そしてヘロインを断ち、脊髄の手術を受け、生き返りを決意するのである。再びめぐってきた創造のインスピレーションの導くままに、再び映画を撮るために。映画に救われるために。

 お立ち会い、この映画にはいつものアルモドバールのような奇抜さやズレのある諧謔はありませんよ。自分に正直な自分のことを語っている映画だから。たぶん幾多の映画監督がやったであろう「私は映画だ」タイプの映画と言えるのだろうが、この強烈さはアルモドバールさ、と言っておきましょう。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『苦悩と栄光(仏題 Douleur et Gloire)』 のフランス版予告編。


2019年5月14日火曜日

ボワット(ノワール)生きてんじゃ...

ITO Shiori "La Boîte Noire"
伊藤詩織 『ラ・ボワット・ノワール』
(原題『ブラックボックス』/日本語からの仏訳ジャン=クリストフ・エラリー&アリーヌ・コザ)

著『ブラックボックス』(2017年文藝春秋社)出版から2年後、2019年4月フランス語訳が出ました。著者よりやや若い世代に属するわが娘に読んでもらいたくて買ったのですが、薦める前にまず自分が読まなければ無責任と思い読みました。読み始めたら一気に読めますね。よく構成されているし、谷も山も谷も峡谷も丘もある流れも、ドキュメンタリー映画制作者のセンスを思わせるメリハリ+立体感です。原著は当然日本語読者を想定して書いたでしょうから、こういう(ノンフィクション)本の外国語翻訳だと、日本における付帯状況に関する脚注解説でページがうるさくなるものなのですが、なんとほとんど注釈がありません。これは仏語訳者のたいへんな手腕ではないかしらん。最初からフランス語で書かれたアキ・シマザキの小説群に見られるような文中の時に説明的にすぎる(歴史的状況的)日本背景の記述がありませんが、それがなくても、ここに見えてくるのは紛れもない日本です。
 シマザキの小説のようにその日本には重苦しい公的抑圧(パブリック・プレッシャー)があり、可視不可視にのしかかる性差別や、「普通に生きる」ために不文律のしきたりに従ったり、沈黙したり、逆らわないようにしたり、という古いモラルがあります。伊藤がこの事件を最初に告白する相手は家族(両親と妹)ではない。家族には心配をかけたくない、何事もなかったことにしておきたいというのが最初の反応で、実際に事件の翌日に会うことになっていた妹とは、何事のなかったように会い、お茶とショッピングをするのです。自分が強姦被害者であるのに、そのことで家族に迷惑がかかってはいけない、とまず最初に考えてしまう。「家族に迷惑」って何ですか? 確かに伊藤の生い立ちと経歴も記述されているので、小さい頃から勝気で闊達で、自分の好きなことをやり通すということにおいて、親にそのわがままを許してもらっていたというところはあるでしょう。自分の道を切り拓くために、十代からアメリカやヨーロッパで苦学生をしてきて、一人前になるまで親から学費生活費の援助はもらってきたわけですが、それは親の理解であって、親の迷惑や親への負債ではない。ひとたび成人して社会人になったなら、もう親に迷惑をかけてはいけないという、よく言えば独立心、悪く言えば負債返済心みたいなものが、この伊藤の手記ではとても気になった。この悲劇的事件に両親家族は抗いようもなく巻き込まれていくことになるのだけれど、伊藤の描写では娘の惨事におろおろと狼狽する優しく弱々しい両親と、娘のその後の行動を心底のところで理解できていない両親も登場する。それはしかたない。だがその「極力迷惑をかけたくない」という性向は、伊藤があの事件から闘っていくことになる旧態然とした日本のモラルの重要な一部なのではないのでしょうか。家族に社会に世の中に迷惑をかけたくないという理由で、性暴力被害に泣き寝入りする女性たちのケースのどれだけ多いことだろうか。自分が受けた幾多の言われのない攻撃は、家族にも及んでしまうのだけれど、それはしかたのないことであって迷惑ではない。自分の闘争を一緒に闘ってもらうのだから、両親家族にも。味方なんだから。
 それはそれ。事件は(みなさんご存知のように)2015年、東京、伊藤当時26歳、TBSワシントン支局長だった山口敬之によるレイプドラッグを使った意識のない状態での強姦行為の被害者である伊藤が警察に訴えた結果、山口が「準強姦」事件の容疑者として逮捕される寸前に「上からの支持で」逮捕されず、事件そのものも不起訴となった、というもの。本書はその全容を詳らかにし、被害者である伊藤が逆に追い詰められていくような、言わばカフカ的に不条理な警察捜査の連続、日本における「性犯罪」に関する法制度の前時代で封建的で性差別的な実態、そして国家の上層部からの指示があれば法律など通り越して不正が免罪される現政権の「ユビュ王的独裁国家」的圧力まで暴露している。性犯罪の女性被害者たちが、日本では告訴しても「勝てっこない」ということがシステムとして確立されているような分厚い壁もよく説明されているし、理不尽極まりないことに今年になって連続している「男親による実娘強姦事件」の無罪判決も、本書が解読する現行の(明治以来変わっていない)法制度では抗いようがないものに思えてきます。「抵抗の形跡がない」が「同意の上」に解釈されてしまうということです。
 本書を外国語翻訳で読む人たちはたぶん驚くに違いない「準強姦」なる日本の法規定語があります。フランス語では "quasi-viol(カジ=ヴィオル)"と訳されていて、そのまま仏訳の造語です。「おおよその性暴行」「ほとんどの強姦」という意味になるかと思いますが、それがどういう行為なのかというのは判断できません。また英語では "quasirape"となっていて、これはそのまま読まれれば "almostレイプ”、"semi レイプ"だと解釈されましょう。ご丁寧にも ネット辞書Wiktionary には "quairape"の項があり、こう説明されています。
Simulated rape for example as a type of roleplay.
(例えば役割演技の形式による見せかけの強姦)
つまり、これは強姦/性暴力ではない。演技や見せかけであって強姦とは別物と英語では思われてしまう。 日本語の字面を見ても"準”がつくことによって、本物ではないこと、擬似のこと、という印象を受けます。そこまで至っていないもののような印象です。ところが、これは強姦に変わりがないのです。日本の刑法規定で意味する「準強姦」とは、
女性の心神喪失や抵抗ができないことに乗じて、または暴行・脅迫によらずこれらの状態にして姦淫する罪 (デジタル大辞源)
 のことなのである。正真正銘のレイプ行為なのです。 暴力を伴えば強姦、暴力が介在しなければ準強姦、というこの名称の分け方は被害者が被る身体的精神的打撃に対してあまりにも無神経ではないですか。あなたが受けた強姦は「ソフト」でしたよ、と法律から規定されてしまったような。レイプにハードもソフトも正も準もない。レイプはレイプなのである。
 山口が使用したレイプドラッグによって(この部分は確定的な証拠がない)心神喪失状態にされた伊藤は、山口の宿泊するホテルの部屋に運ばれ、未明にレイプ被害のさなかに意識を取り戻すが、その前夜の寿司屋からそこに至る一部始終の記憶が全くなくなっている。警察はその強姦犯罪捜査において、ホテルなどの密室における事件の犯罪立証の難しさについて「ブラックボックス」という表現をつかったと本書は言っているが、当然その上の意味で、生存者ゼロの飛行機事故の事故原因の重要な手がかりとなる操縦士ヴォイスレコーダー(ブラックボックス)と同じような働きをなすはずのものが、伊藤の失われた記憶のほかにあるはずなのである。寿司屋、タクシー運転手、ホテル従業員、ホテル防犯カメラなど、伊藤の記憶の代わりになる断片を拾い集めてパズルを埋めていく作業は困難を極めるが伊藤は決してあきらめない。ブラックボックスは少しずつ開いていく。ここが本書の表現力の優れたところで、ミステリー的に読者は引き込まれよう。
 だがあえてこの伊藤の書の文学的な重さについて言えば、それは上でも一箇所で形容したように非常に「カフカ的」な日本社会が構造的に「女性」および「性犯罪被害者」を貶めていく、その力学を伊藤が苦悩して格闘して明晰に描写する筆力であり、カフカ的不条理の黒さに読者はきわめて文学的な体験を共有すると思いますよ。その文学的な重さに関しては、北フランスの田舎でゲイと貧困ゆえに虐めぬかれた少年時代を描いて21歳で作家デビューしたエドゥアール・ルイと共通する繊細でありながら自制のきいた(底知れぬ)パワーを思わせました。だから、いつか伊藤が(自伝的であってもいい)フィクションを書く日が来たら、その文学的昇華力は必ずやインパクトの強いものであろうことは間違いないと思いますよ。
 アメリカやヨーロッパの多様なリファレンスを提示できるし、ジャーナリストとして現場体験(コロンビア密林の反政府ゲリラ/麻薬密売地帯などの取材)で培われたのか、この若い女性はかなりのところまで自己防御できる鎧を身につけてはいます。しかし彼女を孤立させてはいけない。ひとりにしてはいけない。日本のカフカ的不条理な社会構造は伊藤ひとりではどうすることもできないものだから。私は娘ほかフランス人の友人たちにこの本を読んでもらうようすすめます。伊藤詩織を応援します。

カストール爺の採点:★★★★★

ITO SHIORI "LA BOITE NOIRE"
Editions Picquier刊 2019年4月 230ページ 19.50ユーロ

( ↓)2019年4月19日、国営テレビFRANCE2の朝番組「テレマタン」で5分にわたって紹介された伊藤詩織の事件とその行動と日本の反響に関するルポルタージュ。たいへん良くできています。


(↓)その1年前、2018年4月、AFPによる1分間ルポルタージュで、日本における "#MeToo"の例として紹介される伊藤。

2019年4月27日土曜日

首尾は上々シュビュテックス

テレビ連ドラ『ヴェルノン・シュビュテックス(シーズン1)』
Série TV "Vernon Subutex - Saison 1"

制作:カナル・プリュス
監督 : カティー・ヴェルネー
主演: ロマン・デュリス、セリーヌ・サレット、フローラ・フィッシュバック
原作:ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス 1 & 2』
テレビ放映:2019年4月9日から35分 x 9回
DVD発売:2019年4月24日 

 ヴィルジニー・デパント作の大河小説『ヴェルノン・シュビュテックス』(2015 - 2017、3巻、総ページ数1200)の第1巻と第2巻を原作としたテレビ連続ドラマで、2019年4月にカナル・プリュスで放映された35分 x 9エピソード = 315分(5時間15分)を2本のDVDにまとめたもの。ワクワクものなので一気に見れます。
 デパントの小説に関しては爺ブログではなく、ラティーナ2015年10月号(1巻と2巻)と同2017年7月号(3巻)に熱い賞賛の紹介記事を書いてますが、一向に日本語版出版の動きはないようで残念なことです。90年代パリのレピュブリック広場近くにあったレコードショップ「リヴォルヴァー」の店主ヴェルノン・シュビュテックス(演ロマン・デュリス)は、21世紀に入ってレコード/CDが売れなくなり店が倒産し、自分のアパルトマンの家賃も払えなくなって、立ち退きを余儀なくされ、路頭に迷うようになる。その追い出された夜に、「リヴォルヴァー」時代の常連で、ヴェルノンから買ったレコードで音楽に開眼してロックアーチストとして成功し、兄弟のような親友関係になっているアレックス・ブリーチ(演アタヤ・モコンジ)のバタクランでのコンサートがあり、VIPインビテとして招待されたヴェルノンは、コンサート後ひとりブリーチ宅に招かれ、二人は旧交を深めながら多量のアルコールとドラッグを摂取する。翌朝ヴェルノンが気づくとブリーチはオーヴァードーズで息絶えている。おぼろげな記憶の中でその夜ブリーチが遺言と称して、携帯ヴィデオカメラとヴェルノンに向かって長々と何かを言っていたのを覚えているが、途中で眠ってしまっている。死亡現場からヴェルノンはブリーチが録画したミニヴィデオカセット3本を持ち出す。
 小説だとここから、この遺言ヴィデオをめぐって大人数による追跡と逃走の大狂騒サスペンスとなっていくわけですが、この(編集して)5時間の完成ドラマで、どこまでそのディテールが込められているかが興味深いところです。小説評で高く評価された「バルザック人間喜劇」的な、ひと時代を共有する多種多様な人間群像(ブルジョワ、貧乏人、ヘテロ、ホモ、トランス、凡人、芸術家、映画人、大学教授、ポルノ俳優、極左、極右、成金トレーダー、ホームレス、 ロックライター、刺青師、硬派イスラム教徒...)は、このテレビ映画ではだいぶ半径が狭まれた感じがします。
複雑な人間模様を単純化して、このテレビ化作品でははっきりした「悪人」はたったひとりです。それはローラン・ドパレ(演ローラン・リュカ)という映画制作会社社長であり、芸能界の大物プロデューサーとして自らの帝国を築き、逆らう者やライヴァルを「消せる」権力がある卑劣漢です。これがブリーチの遺言の中に自分に絶対的に不利な証言が含まれているという確信があり、何が何でもそのヴィデオカセットを奪って消滅させよ、と手を尽くします。その最尖兵として雇われたのが女産業スパイのコードネーム"イエーヌ"(↑写真。ハイエナの意。演セリーヌ・サレット。こっちの方が主役じゃないかと思えるほど重要な役どころ、かつこの事件の全容を知りうる唯ひとりの人物)で、ドパレに高報酬で雇われておきながら、いつでもドパレを裏切ることができそうな不透明さ。
 時は2010年代、シュビュテックスは47歳。「リヴォルヴァー」がロックレコードファンたちの溜まり場として毎夜大盛況だった頃から15〜20年が経過しています。無宿となったヴェルノンがその夜の居候先を探す時、この時代なのでSNS(フェイスブック)が大変重宝になります。ヴェルノンの書き込みに呼応してくれるかつての「リヴォルヴァー」常連がひとり、またひとりと現れてきますが、かつて若かったこの旧友たちも今現在はそれぞれの問題を抱えていて関係の再構築は簡単ではありません。こうしてSNSを頼りに一夜の宿を探していきますが、長続きすることなくヴェルノンは21世紀的パリでホームレスに転落していきます。そこでも新しい人間関係はできていくのですが。
 小説と違って映像ではこのSNSの介在というのが画面としてリアルである分、とても邪魔くさいですね。SNSさえあれば即席に過去関係が再生されるというロジックはないと思いますよ。後半部では逃走するシュビュテックスを追う多くの人物たちが、SNSでその「捜索網」を共有してコネクト数が飛躍的に増加し、シュビュテックス追跡が共有ゲームのような態になってしまいます。
 かの遺言ヴィデオカセットの件は真剣に追っている人の数はごく少ない(ドパレとイエーヌほか)はずなのに、いつの間にか多くの人々がヴェルノンを追いかけるようになるのはどうしてなのか。ヴェルノンはなぜ追われるのか。ここがもっと魔術的なものがあるはずなんですよ。小説ではもっとはっきりしていると思う。それは、みんなヴェルノンという人物に魅せられて、惹かれてしまう、ということなのですよ。この男には何かがあるという何かなのですよ。そこがこのロマン・デュリスという俳優に出せるのか、この作品のカギはここですよね。
 そして小説では見事に文章で表現されていた音楽の力。ヴェルノンが「リヴォルヴァー」の時代に人々を惹き寄せられたのは、彼が毎夜人に聞かせる「おすすめレコード」の魅力のおかげなんです。この店に来れば絶対に素敵な音楽と出会えると思わせるセレクト/選曲/発掘力があったということなんです。ここですよ、デパントが小説で強調していたのは。レコード屋は人に素敵な音楽を与えられるから、自分にだけ「こんな音楽があるんだぜ」と一枚出してくれるから、その音楽で人生が変わることもあるから。そういうレコード屋のマジカル・パワー、ここんところが、このテレビ映画ではすっぱり抜けちゃってるんですね。小説ではこのマジカル・パワーがホームレスとなったヴェルノンに再び宿ってきて、そのミックスする音楽で人々を「ドラッグなしで」究極のトランス状態まで導いていく、それがいわば宗教的な体験として語り継がれ、いつしかヴェルノンはグールーとして崇められていく、という展開になるのです(小説では第2巻終わりから第3巻はじめ。だからこのテレビ映画ではまだその段階ではありません)。
ですから、小説を読んだ人ならば、もっともっと音楽がものを言う映像作品であることを期待したと思うのです。で、入念にセレクトされたと言われる(ヴィルジニー・デパントにもチャックしてもらったと言われる)サントラ盤があります。ジョナサン・リッチマン、ソニック・ユース、ニュー・オーダー、ジーザス&メアリー・チェイン、ドッグス、ダニエル・ダルク、ジャニス・ジョプリン...。実際に映像の中に挿入されるのは、すべて断片ですし、音楽で泣くという映像作品ではありません。ただ「フンイキ」にしちゃってるのがちょっと残念ですし、小説の「音楽の力」は望むべくもないのです。
 アレックス・ブリーチの遺言ヴィデオで聞かれる無機的な発信音のリピートで構成された断片があります。これを死ぬ前にブリーチは最良/極上の繰り返し音であると断言するのですが、即座にヴェルノンはわかりません。ところがこの音を音楽に融合させると、聞く者は奇跡的な快感を感得できるのです。このマジックをヴェルノンは偶然手に入れるのです。これは小説では文章で描写できるでしょうが、実際の音楽(つまりこの映像作品のサントラ)で再現するのは... 不可能ですわね。このテレビ映画にここまでのマジックを要求するのは酷です。しかし、音楽の力はもっともっと丁寧に扱って欲しかったな、と思っています。
 ロマン・デュリス? 掛け値なしに素晴らしい演技です。
  "SAISON 2"(ヴェルノンが聖人となっていきます)おおいに期待しましょう。

SERIE TV "VERNON SUBUTEX  SAISON 1"
2DVD (35min x 9 Episodes)
STUDIOCANAL EDV1392/831848-5   19 EUROS

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)カナル・プリュス『ヴェルノン・シュビュテックス』ティーザー
彼には女も妻も家族もスマホもスタートアップ企業も貯蓄も家屋も別荘もスイス銀行口座も出会い系サイトも電動サイクルもない。だが彼にはこの髪と皮ジャンとロックがある。誰もが彼のとりこになる。世界は変わったが彼は変わらない。 - 俺が死んだら人類は滅亡だ。- 


(↓)カナル・プリュス『ヴェルノン・シュビュテックス』ティーザー (ロングヴァージョン)

2019年4月25日木曜日

ロマン・ノワールと人の言ふ

Philippe Djian "Les Inéquitables"
フィリップ・ジアン『レ・ジネキターブル(公正でない人々)』

quitable(エキターブル=公正な)"という形容詞は、1990年代からフランスでよく聞くようになった「フェアトレード (fair trade、公正取引、commerce équitable)」(途上国の産物が外国大資本の流通戦略によって不当に安価に売買されることを避けるために、生産者を守り尊重する適正価格売買を保証するラベル表示によって消費者に公正取引を知らせ、発展させていくオルタナティヴ商業運動)と関連して、非常にポジティヴなニュアンスで使われていたものです。仲介第三者の不当な利益や搾取を退けて、良心的な生産者と消費者が安全で良質のものを直接的に適正価格でやりとりする。良いことです。ジアン最新作がなぜこのようなタイトルになったのかはよくわからいところがありますが、「取引」とは関係しています。それは麻薬の密売に関することで、小説の中心人物マルクはある朝、海岸に打ち上げられた多量のコカインの包みを発見し、そのうち3キロを誰にも見られることなく持ち帰ります。積んでいた船が沈没したのか、取締捜査に追い詰められて海中に捨てられたものなのか、のちにこの大量麻薬発見のニュースはマスコミで報じられますが、そのうち3キロがなくなったのは誰も知りません。マルクはインターネット上でのギャンブル癖があり、いつも金欠状態なので、この天から降ってきた財宝を売って、大金を得ようとします。そのことを義理の兄のジョエルに相談するのですが、「やばい世界」は正直でジェントルマンな適正取引などあるわけがなく、そこからマルクとジョエルは "流血”も含むさまざまなトラブルに巻き込まれていきます。ここに登場する人物たちは「公正でない人々」と言うよりは「まっとうでない人々」と訳した方がいいかもしれません。
 舞台はフランスのバスク海岸の町ビアリッツで、漁港もヨットハーバーもある、魚介類を日常的に食べていそうな人たちが住んでいるところです。陽光さんさんのリゾート地というだけではなく、気候の厳しい日も多い「地方」であり、小説の中でふんだんに現れるように「麻薬」と「暴力」が環境の一部になっているようなグレーな海浜地区です。町がグレーに不安定な状態になったのは、1年前に死んだ(殺された)パトリックという男によって空いた「ヒーローの不在」現象のせいのようなことを小説は匂わせます。多くの町の人たちに人望があり、誰ひとりとしてこの男を悪く言う者はいない、みんなの「兄貴分」のような人物を想像できますが、小説は詳しいことを一切描写しません。この死のショックから立ち直れない第一の人物がその妻だったディアナ。撃たれたパトリックはそのディアナの腕の中で息を引き取っているのですから。町でその世代では一番の美貌の持ち主で男たちは誰もが憧れたディアナ、しかしそれ以上に完璧に「いい奴」だったパトリック、人々はこのカップルを完全無欠なものとみなしていたし、ディアナはすべての面で幸福であり、パトリックを熱愛していた。が、このヒーローが撃たれて死んだことによって、町の平衡バランスがガタガタに崩れるようなショックがあったのです。
 パトリックの実弟、つまりディアナの義弟のマルクはその日から心身共に弱ったディアナを護衛するためにディアナと同居を始めます。女ひとりで暮らすには不安材料の多すぎる町ということもあります。しかしそれよりももっと不安なのは、ディアナを襲う自殺衝動であり、彼女はこの小説の中で三度自殺未遂を起こしています。マルクの一番の役目はその自殺を未然に喰い止める監視役ということになります。年齢が20歳ほど離れたディアナとマルクの奇妙な同居生活は表面上はうまく機能していますが、マルクにとってもディアナはどこかで「憧れの女性」であることには変わりない。お互いに裸身の見える距離で暮らし、親密な話もし合う関係ながら、ディアナはマルクに「絶対にパトリックの代わりにはなり得ない」とクギを刺しています。マルクでなくても、ディアナにとってはヒーロー・パトリックの代わりになる者はこの世にいないのです。
 ディアナは開業歯科医であり、建物の地階を歯科医院として使い、階上を住居にして今はマルクと同居しています。定職もなく、家ではネット・ギャンブル、外ではひとりで小舟を沖に出して釣りをし、たまにレジャー船修理アトリエを営むジョエル(ディアナの実の兄)の手伝いをしているマルクは33歳のその歳まで性的体験がない。不器用で頑固な若い日々を送ってきたが、パトリックには可愛がられ保護されてきた。大人になれない未成熟なキャラクターだが、これが「ワル」として背伸びをしようとするところがあるんですね。ディアナには「ガキ」として見られたくない。
 そのマルクがひとりで初めて「おおごと」をするチャンスが、前述のコカイン3キロとして転がり込んで来たわけですが、これはひとりでは手に負えない厄介ごとに発展していきます。そしてディアナのボディーガードとして取り巻いていたつもりが、ディアナに横恋慕する町の有力者セルジュ(市長の息子) の気に障り、顔面を殴打され前歯を折ってKO負けしてしまいます。マルクとディアナの事情をあとで知ったセルジュは丁重に詫びを入れ、治療費全額の小切手を送り和解を求めてきます。マルクは心底の和解は絶対にしません。おまけにセルジュはディアナのセフレになった(ディアナは"純粋にセフレ”であり、パトリックの代わりではないとマルクに断言する)と知り、こいつのことは絶対許せんと思うのですが、例の事件でセルジュと協力関係を結ばざるをえなくなります。市長の息子であり、行く行くは次期市長となるべく政治的勢力も伸ばしつつあり、かつ警察とも通じていて情報も入手できるところにあり、若干の権力もあるからです。
 マルクが最も信頼を置いているジョエルは、実の妹であるディアナと険悪な関係にあり(実際はディアナがジョエルを憎悪している一方的嫌悪関係)、ディアナはマルクとジョエルの友好関係を良く思っていない。ジョエルは20歳も若い妻ブリジットと結婚したが、長続きせず離婚寸前の状態で、今は妻のいる自宅に戻らず、自社の事務所に寝泊まりしてアルコールにまみれて生きています。唯一信頼のおける男としてコカインの売り先探しをジョエルに相談したマルクでしたが、「ひとまず俺が預かっておく」がどこでどうバレたのか、ジョエルの自宅が襲撃され、ブリジットはパニックを起こし...。
 小説の不安なトーンはここで、町の全く無軌道で全くコントロール不能で名前のない破壊的な若者たちの存在をほのめかします。この超アナーキーでヴァイオレントな若い衆はどんな手を使ってでも欲するものを手に入れる。オールドスクールのワルには想像もつかないような武器も手段もある。そういうものを敵に回してしまった、というわけです。たまらずジョエルは(コカインのことはバラさずに)町の有力者セルジュに助けを求めます。ここでマルクも不本意ながらセルジュの庇護の下に入るわけです。
 ジョエル同様マルクも襲撃される可能性があるということは、当然ディアナも危険に遭う可能性があるということを察したセルジュは、ディアナのガードマン役のマルクに拳銃を授けます。得体の知れない敵との全面戦争が始まるようなピリピリした空気が町を包みます。

 166ページの比較的短いこの小説で、空気の重さで押しつぶされそうな海岸の町の、男も女も関係の糸をごちゃごちゃに絡ませながら、裏切りも雪解けも殺しも陰謀も...。ジアンの近作に多い、ときどき話者が誰なのかわからなくなる直接話法の文体で、罠も不可解もある緊張の連続の暗黒小説。ジョエルは若き日に、学生だったディアナの親友の女を極端にむごいやり方で強姦したがゆえに、ディアナはジョエルをずっと許せなかった。それを知ったマルクがジョエルと距離を置くようになると、いよいよジョエルは常軌を失い...。小説の中で死体は3つ、ジョエルが殺した女ふたりとマルクが殺したジョエル。
 どういうことと理解されるかと言うと、この悪天候と不穏な空気の町で、ディアナに青二才扱いされていた33歳童貞マルクが、犯罪と裏切りのドラマの数々に打ち勝って、ディアナを守り通すことができてヒーローの高みに昇華していく話なんですね。つまり遂に兄パトリックのレヴェルに達して、ディアナに身を捧げられる男になるっていう...。それにしても黒々とした小説で、フィリップ・ジアンさまさまです。

Philippe Djian "Les Inéquitables"
Gallimard刊 2019年4月 166ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ラジオインタヴューで映像なしですが、民放ラジオRTLのインタヴューで最新作『レ・ジネキターブル』を語るフィリップ・ジアン。


2019年4月24日水曜日

ヴェロ70歳

2019年4月24日、わが最愛のヴェロニク・サンソンが70歳になった。パリジアン紙ウェブ版の当日号に、『70歳まで生きられるなんて思ってなかった(Je ne pensais pas arriver à 70 ans)』と題する70歳インタヴューが。喉頭ガン手術で8ヶ月間の闘病後、この4月にステージ復帰してツアー中(パリ、パレ・デ・スポール他)のヴェロ。後年の満身創痍は若き日の無鉄砲のツケと悟っているよう。その「70年代」の突出した音楽性だけで、この人は多くの人たちの宝物だけれど、焼かれても傷ついてもノートル・ダム聖堂のように立ち続けるつもりらしい。おめでとうヴェロ。Je t'aime pour toujours。
以下パリジアン・インタヴューを無断で全文日本語訳します。

(パリジアン):この水曜日で70歳になりますが、どんなことを思いますか?

ヴェロ「ただごとではないわね。70歳よ! 少女だった頃には超年寄りのように思っていた。自分がここまで来るとは思ってなかったし、今だってどうやってここまで来れたのか自分でもわかっていない。私は心筋梗塞をやったし、頸動脈を切る手術もしたし、血が凝結しない遺伝子系の血液病も持っているし…。私は正真正銘のサバイバーよ。私は生命への感謝の念でいっぱい。人間をより高いところまで至らせてくれるある種の超越したパワーにも感謝しているわ。」

(パリジアン):今から16日前にあなたはステージ活動を再開し、それから既に3度のコンサートを行いましたが、どんな感じですか?

ヴェロ「思ってたよりいいわよ! ステージに立っていると、私には何も近づけないわ。ファンたちと再会できて本当にしあわせ、ステージは「わが家」って感じね。しあわせすぎて一晩に2回のショーやってもいいわ、って思ったほど。私にはそれができるって、みんなに見せたくてたまらないのよ。」

(パリジアン): そのために準備したのでしょう?

ヴェロ「全然! 私は恐ろしいほどの怠け者なのよ。みんな私にスポーツをするようにすすめたのだけど、ウッディー・アレンがうまいこと言ってるわ「スポーツをするくらいなら萎縮した方がまし」ってね。最初のコンサートのあと、筋肉痛なんか全然なかったわよ。」

(パリジアン): そしてあなたの声は元のままでした!

ヴェロ「私は手の指に関しては何の心配もしていないの。手はよく動いてるわ。でも声が言うことを聞かないんじゃないかってどれだけ心配したことか。私は二日間しかリハーサルをしなかったし、毎度のことで「あがり」もあった。でも幸運なことに私の声帯は傷ついていなかったし、私の声に障害はなかった。その上それはうまく手当されていて、私は高音部が出るようにもなったし、ちょっと違う響きも出るようになった。まるで別人の歌手になったような印象よ。」

(パリジアン): あなたの腫瘍は治ったということですか?

ヴェロ「それはわからない。ご存知のように私は極端なまでにさまざまな治療を受けてきたのよ。私はそれを治すために6週間の放射線治療など人がやれと言うことはすべてやった。私は「催眠治療師」にもお願いして、放射線治療の副作用(首に赤あざが残る)を取り除いてもらった。このことは強調しておくべきだと思うけど、パラ医学というのは科学的医学に補完的な役目をするもので、決してイカサマではない。」

(パリジアン): あなたは最近「若き日の放蕩のツケを払わされた」と述懐しましたね。

ヴェロ「そうよ、でもそれはそうなんだから。私は絶対的に制限や禁止やタブーや慣習といったものが全部嫌いだった。私は人がやれと言うことの反対のことばかりしてきた。自分の身を危険に晒してきたのよ、でも私は危険が大好きだった。ガンという病気もひとつの危険であって特別なものじゃない。あなたがたは私のことを狂ってると思うかもしれないけれど、私はそんなものまったく無頓着だったの。私はそれを治すように人から言われたことに従った、何ごともなかったようにね。」

(パリジアン): そうしたのは死への恐怖からですか?

ヴェロ「そうじゃないわ。私が怖いのは死に関わる苦痛や病苦だけなの。喉頭ガンと宣告された時、私の頭の一方では「それは順序通りのことね」と観念したけれど、もう一方ではこう言ってた「いつものように私を救ってくれるものが現れるわよ、アンリみたいな人がね」って。」

(パリジアン): 誰ですか、そのアンリとは?

ヴェロ「私の守護天使よ、彼は一度も私を見捨てたことがない。この守護天使を私は時々は私よりも彼を必要としている人たちに貸し出しもして、それがとってもうまくいくの。アンリは私がオルジュヴァルに住んでた頃に初めて出現した。彼はまったく言葉を離さないけど、私は彼が私と一緒にそこにいるって知っている。ロサンゼルスでは、彼は書棚を倒すことにも成功したのよ(註:ヴェロニク・サンソン史では有名なエピソード。離婚抗争で最悪の関係にあったステファン・スティルスが銃を持ってヴェロニクを追い詰めたが、書棚を倒してバリケードにしてその難を逃れたという実話)。みんなこの話をお笑い種にするし、「あの女完璧にイかれてる」って言う話になるんでしょうけど。でもね、幽霊って存在するものなのよ。」

(パリジアン):そんなことすべてが新しい歌のインスピレーションになるんですね?

ヴェロ「断片的なフレーズやリフレインや言葉の端っこね。興奮状態で書いたらだめね。3日前、私は1曲(詞と曲)書いたのよ。このツアーが終わったら、私はまたアルバムを作って、そしてまたツアー。 Si Dios quiere (神がお望みなら)ね。」

(パリジアン): あなたは神を信じているんですか?

ヴェロ「ええそうよ。でも私は "教会通い”じゃない。私は宗教は好きじゃない。でも仏教は例外かも。仏教はむしろ人生哲学だから。」

(パリジアン): ノートル=ダム大聖堂の火事には衝撃を受けましたか?

ヴェロ「当然でしょう。でもキリスト教徒としてではなく、この例外的な建造物の礼賛者としてね。屋根を組むだけでひとつの森全体の木が必要だなんて、気が遠くなるわ。この火事に心が痛むわ。私は息子クリストファーが小さかった頃よくそこに行ったものだった。それから私の孫娘たちや、外国から来た友人たちともよく行ったわ。もしも歌ってくれと言われてたら(註:4月20日アンヴァリッドでのノートル=ダム救済コンサート)喜んで歌ったでしょうに。」

(パリジアン):あなたの誕生日をステージで祝おうというのはどうして?

ヴェロ「実のところ、息子と姉を例外として、誰かの誕生日のことなんか私は全然覚えてないのよ。人がバースデーカードを送ってくれなかったら、私は自分の誕生日も忘れてると思うわ。でもね、今回のはやったらすごく素敵なんじゃないかって思ったの。私は40歳の時にそのお祝いをして、すごく良かったし、格別だった。今度は70歳よ、もっと格別のはず。私のこと年寄りだと思う?」

(↓)ラジオRMC、2019年4月23日のルポルタージュ。


2019年4月8日月曜日

Laïque a rolling stone

"La Lutte Des Classes"
『学級闘争』

2018年フランス映画
監督:ミッシェル・ルクレール
主演:レイラ・ベクティ、エドゥアール・ベール、ラムジー・ベディア
フランスでの公開:2019年4月3日

リの東隣でひっついている町がバニョレです。「ヌフ・トロワ(93)」と(ある種侮蔑的なニュアンスで)呼ばれるパリ北東郊外のセーヌ・サン・ドニ県に属しています。ヌフ・トロワは90年代頃から「荒れる郊外」の代名詞になっている失業・犯罪・ラップの渦巻く地帯ということで、歌にも映画にもよく描かれました。 そういうヌフ・トロワの中にあって、バニョレ(とその先のモントルイユ)は、ちょっと異種の「ボーダー地帯」のようなところがあり、移民系のエキゾティックなコミュニティーと、エコロでボボ(bourgeois-bohèmeブルジョワ=ボエーム、ちょっと裕福な”進歩的"ババクール)な(白人あるいはミックス)30〜40代夫婦ファミリーが共存して、フリマや異種合同カルナヴァルや共同有機農園で溶け合ったりしてる、そういう新しいソフトな郊外の顔が見えたりするところです。こういうちょっと「新しい快適」が話題になると、とたんに不動産が値上がりしていき、貧乏人たちは駆逐されて「劣悪な」郊外に放出されていくという現象も起こります。
 さてこの映画は、パリ20区のベルヴィル地区(やはり"ボボ”街となって不動産高騰の地になりました)から出て、予算内ギリギリでバニョレで小さな一軒家を購入した「結婚しない」カップルが主人公です。ポール(演エドゥアール・ベール)はかつてはちょっと名の知れたパンク・バンド「アマデウス 77」(実在のバンド Ludwig Von 88 のもじり)のドラマーで、現役で難民ホームレス支援のガード下コンサートなどしているユートピア系反抗中年ですが、基本的に良家のボンボンの風来坊で、前の伴侶との間にハイティーンの反抗的な娘がいます(同居してます)。ソフィア(演レイラ・ベクティ)はマグレブ系の血を引き、弁護士として社会的に成功している(かのように見えても、やはり問題ありというのが映画の途中でわかる)まぶしい女性です。二人の間にはコランタンという小学生の男児がいます。バニョレに引っ越してきて、ボボ的傾向の二人なので、やはりバニョレの中のボボ傾向の友だちが出来て、アペロや食事を共にする関係になりますが、みんな同じような年頃の子供たちがいます。で、みんな「ソフト郊外」的理想を夢見て、学校も人種も宗教も問題にしないライック(教育に宗教を持ち込むことを禁じる)な公立学校で育てようとします。ところが現実は公立だとどんどん学力が低下していき、上の良い学校へ行くのが難しくなるという懸念があり、ボボのようなある程度裕福な人たちには子供たちの将来のために私立学校へ入れるというのはごく自然な考え方です。しかしその辺のボボと一線を画すポールとソフィアの左翼的で反抗的な理想主義は、子供を共和国のライックの学校で育てて成功させる、と方針を変えません。
 映画はその共和国の(つまり公立の)学校の現場を映し出します。騒然とした学級、手に負えない子供たちになすすべを知らない教師...。ボボ親たちの子供たちがどんどん私立に移り、コランタンは孤立していきます。この映画の表現では、コランタンはクラスで最後の「ブラン(白人)」になってしまいます。ソフィアはポールのこの表現に憤慨します。「私の前で "ブラン"って言うの!?」ー ソフィアはマグレブ系の娘として(程度の問題とは言え)「ブランシュ」と見なされない少女時代を勉強で跳ね返して弁護士として晴れの舞台に出たと思われようが、パリの大きな弁護士事務所で回ってくる仕事と言えば、やはりマグレブ系クライアント案件専用なのです。「私は郊外では"ブランシュ"だけど、パリの仕事場では"アラブ”なのよ」という複雑さを、ポールは理解していない。まあ、それはそれ。
 バニョレの公立小学校のクラスで孤立して、移民系(と言うよりは、みんなフランス人なのだけど、肌の色が違ったり、給食でブタを食べなかったり、という程度の違いなのだけど)の子供たちにいじめられるコランタン。それをなんとか公立のやり方でまるく納めようとする気のいい小学校長ベンサラー(演ラムジー・ベディー。この人この頃とってもいい味)。おまけにコランタンは将来は男とカップルになると公然と宣言するような"自由"な子供で。しかしポールとソフィアの息子への心配はだんだんエスカレートしていき、ついには観念して私立学校に転校させるか、あるいは偽住所を作って隣町モントルイユの公立小学校に越境転校させるか、というレベルへ....。
 監督のミッシェル・ルクレールは現代(90年代以降という時代限定ですけど)の遅れてきた左翼闘士コメディーのような作品を撮る映画作家で、最も知られているのが『人々の名前(Le Nom des gens)』(2010年)、その次作の『テレ・ゴーショ』(2012年)はこのブログでも紹介してるので参照してください。トーンは心優しい左翼人がどんどん変わっていく時代と折り合いをつけるのがとても難しくなっている滑稽さなんです。この新作では元パンク(あ、現役パンクか)のポールが、どうやって自分たちが信じてきた理想をこの難しい時代に生き残らせるのか、というのに必死になっている滑稽さなのです。
 タイトルは La Lutte des Classes とそのままの文字では「階級闘争」 と訳さなければなりません。この "Classes(クラス) = 階級”を "Classes(クラス)=学級/教室"とかけているわけです。学校のクラスをめぐるこの若いカップルの必死の闘争ということです。
 映画は最後は、詳しくは言いませんが、共和国の学校が勝利するかたちで終わります。そうですとも、このライックの価値をどうにかして私たちは守らなければならないと私も思っています。それはバニョレのような町がやっているようなある種の新しい冒険を、やっぱり大事にして応援してやるようなオピニオンが増えていかないといけないんじゃないか。「ボボ」という揶揄された目で見られようと、境を取り払い共存しようというイニシアティヴを持ってやってるのは、この30-40歳代の有機野菜世代なのですから。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『La Lutte des Classes(学級闘争)』予告編



2019年4月5日金曜日

Carry that weight a long time

Aki Shimazaki "Maïmaï"
アキ・シマザキ『マイマイ』

阜県出身ケベック在のフランス語作家アキ・シマザキの15作目の小説にして、第三のパンタロジー(五連作)《アザミの影 L'Ombre du Chardon 》のサイクルを閉じる第5作め『マイマイ』です。このパンタロジーの前4作:『アザミ』(2014年)、『ホオズキ』(2015年)、『スイセン』(2016年)、『ふきのとう』(2017年)については、全作爺ブログで紹介されているので、それぞれのリンクから入って参照してください。さて本作『マイマイ』の話者は『アザミ』の時に4歳、『ホオズキ』の時に7歳だったタロウで、現在は26歳になっています。連作《アザミの影 L'Ombre du Chardon 》で中心的な存在だったミツコ(教養人たちのセレクトバー「アザミ」の人気ママ → 学術書専門の古書店「キトウ」の店主)の息子で、聾唖者でスペイン人との混血という「ハンディキャップ」を背負っています。耳と口が不自由なことはハンディキャップというのは了解できるけれど、父を見ることなく混血児として生まれ育ったことも、アキ・シマザキ描く日本の現代社会ではハンディキャップとなるのですね。しかし青年は画家を目指して専門校を卒業し、その日欧ハーフの容貌は美しくなり、名古屋というメディアやファッションという点では中心にない都市にありながらマヌカンとして収入を得ています。その同じマヌカン・エージェンシーに所属するミナという24歳のマヌカンと現在「交際中」です。
 小説冒頭で母ミツコがアルコール依存症に誘発された心臓発作で58歳の波乱の一生を閉じます。タロウに残された身内はミツコの母、つまり祖母である「ばあちゃん」と呼ばれる老女のみ。ミツコは死を予期していたかのように、タロウにさまざまな遺産を残します。まず学術書古書店「キトウ」を畳み、店舗を画廊に改装し、タロウの絵を陳列販売する。階上のミツコの住居に「ばあちゃん」とタロウが同居する。こうしてタロウは画家として独立する基盤を得ます。しかしミツコは自分の死後の段取りは組んであっても、タロウに隠されていたたくさんの謎は「ばあちゃん」も知らない迷宮のまま。その最も大きな謎はタロウの出生に関したことで、ミツコの弁では彼女がヨーロッパ(スペイン)で知り合い結婚の約束もしていたフェリペ・サントスと名乗る男(画家?)と出来た子供で、男は子供を一度も見ることなくマドリードで自動車事故で死亡、ミツコはその後金沢の産院でタロウを出産してミツコ(片親)の子として届けを出した、ということになっています。しかし死後発見されたミツコのパスポートの記録では、該当する年月にミツコは一度も日本を出国していない、というのがわかります。
 さて娘に先立たれた「ばあちゃん」はもう余生も短いのだから、タロウに早くいい女性を見つけて身を固めて子供を作り、「ばあちゃん」を早く安心させておくれ、なんていう封建的課題をタロウに課します。タロウはあらゆるハンディキャップを乗り越えて、「ばあちゃん」の願いを叶えようとする健気な孫であります。ちょっとちょっと、こんなので文学になるんですか?と不安になりますが、それはそれ。
 このアキ・シマザキ新作で、本当に気になるのが、重い大気のように日本人にのしかかる「フツーにたどるべき幸せのあるべきかたち」の圧力です。YMO風に言えば「公的抑圧 Public Pressure」となりましょうか。ユダヤ、イスラム、カトリック的な戒めのない多くの日本人の不文律の規範のようなもので、結婚して家庭を築くという「フツー」が「つとめ」であり「幸せ」であり「生きる理由・目的」でもあったりする。それをしないと「まっとう」ではない。一連のシマザキ小説はこの重圧をフランス語で非日本人にわからせようとしているところがあります。仮にこの一連の作品が日本語化されたとしたら、日本人読者はこのことになぜこんなにくどいのだろうと驚くかもしれません。そして21世紀的日本では、この重圧はこんなに極端なものではない、という反論も出るでしょう。この点は私はシマザキに同意するものがあり、この日本を包む空気はシマザキや私のように遠い外部から見る者たちによりはっきり見えるものなのだと思います。
 ちなみにこの日本的結婚のイメージはミッシェル・ウーエルベックの最新作『セロトニン』の中にも現れ、小説の序盤で現れるどうしようもない日本女性ユズも日本の良家の出身であり、日本に帰れば両親が決めた良家の許婚がいて自動的にその鞘に収まる義務がある、という主人公はユズの状況を解釈しています。この家柄による結びつき結婚という日本の封建的なイメージは欧米人に根強く残っているものかもしれませんが、それは全くの虚像ではないでしょう。
 さて「結婚」という「目的」を具体的に考えられるようになった(すなわち結婚相手候補が見えてきた)タロウは大きな壁にぶち当たります。自明のことながら結婚とは当事者の問題であるよりも、家と家との問題であるからです。目下のガールフレンドである美しい24歳のマヌカン(文面では雑誌写真モデルでハワイでの水着撮影もあるので、"グラドル"のようなものでしょうか)のミナは、フィアンセとして両親に引き合わせたいと言います。聾唖者+混血という2つのハンディキャップに加えて、独り立ちしているとは言え画家という経済的不安定も両親にはマイナス要素となりましょう。「身元のしっかりした人なんでしょうねぇ? 」この辺も怪しいものがある(なにしろ父親を知らない)。「フツー」水準に達していないおそれという公的抑圧にタロウは両親に会う前から打ちのめされそうになります。
 ミナとの関係に終止符が打たれるのは、ミナの数倍も波長が合ってしまう女性ハナコの(再)出現によるものですが、ほとんど時を同じくしてタロウは残されたただ一人の身内である「ばあちゃん」が前科者であり牢獄を体験したということを知り、結婚がはるか彼方に遠のいたと感じてしまうのです。いいですか?このシマザキ描く日本の公的抑圧の下では、タロウは聾唖、混血、不安定アーチスト、水商売女の息子、前科者の孫であり、これらの重荷を一身に背負ったタロウは、結婚という人生の目標地点に達することはもとより、生きていくこと自体数知れぬ障壁とぶち当たっていくことを運命づけられているということなのです。この巨大な重荷を背負ってのろのろ進むしかないカタツムリ(まいまい)、それがタロウなんですね、お立会い。
 余談ですが、平成の皇后美智子が幼少時に出会った童話としてよく紹介され、美智子自身が背負った悲しみのメタファーとしても引き合いに出される『でんでんむしのかなしみ』(新美南吉作、1935年)というのがあります。でんでんむしの殻の中には悲しみしか詰まっていない。その嘆きを別のでんでんむしにすると「私の殻も悲しみだけ」と言う。また他のでんでんむしも同じことを言う。そうかぁ、みんな同じか。みんな自分の悲しみを背負っている。この自分の悲しみの重さに耐えて生きていくしかないんだ、Boy, you're gonna carry that weight, carry that weight a long time... と悟るという童話です。
 この童話の寓意のように、タロウと同じほどの極端に重い悲しみを背負った人間がもうひとりいて小説の最後にその悲しみに耐えきれず殻を爆発させてしまうのですが、それはまた後ほど。
 タロウが7歳の時、突然現れた4歳の少女ハナコ、手話も知らないのに聾唖のタロウと自然にコミュニケーションが取れてしまう不思議。このいきさつはこのパンタロジーの第2作『ホオズキ』で展開されています。本作『マイマイ』の最大の弱点は、この『ホオズキ』を読んでいればすべてがお見通しなのです。『マイマイ』のなりゆきと結末はすでに『ホオズキ』の中に書かれているに等しいのです。熱心なシマザキ読者はこれに耐えられるかな?
 幼い日に一緒にお絵描きをしたり、名古屋の東山動物園で一緒に遊んだタロウとハナコ(ちょっとなあ、この名前二つ並べただけで童話的なのだが、このニュアンスをシマザキは説明する必要があるのではなかろうか)が約20年後に再会するにはミツコの死という事件がなければならなかった。ごく身内だけで葬儀を済ませ、多くの人はミツコの死を知らないはずなのに、ハナコは知っていた。それは古書店「キトウ」の顧客教養人サークル、そしてかつての教養人セレクトバー「アザミ」の常連サークル、というこのパンタロジー5作の中で出てきた人脈に限られたことであった。第1作『アザミ』でミツコの愛人となる地方雑誌編集者ミツオ(ちょっとなあ、この名前二つ並べただけで... )が、今も発行している地方文化雑誌「アザミ」にその死亡と古書店「キトウ」閉業の記事は載った。ハナコの父サトは外交官であり、現在は在ベルギー日本大使、20年前に古書店「キトウ」から哲学書を買っていた客(とは言っても来店はせずに、サト夫人が代理で買いに行っていた)で、雑誌「アザミ」の定期購読者。ハナコはそれを読んで、家族にお悔みを告げに現れたという次第。驚いたことにハナコは大学で社会福祉学も学び、完璧な手話者になっていた。
 第2作『ホオズキ』で展開されるミツコとサト夫人の短くも激烈なやりとりを、幼いタロウもハナコも知らない。しかしミツコはその時の思い出の品々(タロウがもらった浦島太郎の絵本、ハナコが描いた絵...)を机の引き出しに大事にしまっていたのをタロウは発見する。 ミナと破局した直後だったタロウは、幼い日のセンセーション(誰よりも一番気が合う相手)だけでなく、世界で最も大切なものを再び見出したような高揚を覚えてしまうんですね。二人は燃えるような恋に落ち、ハナコは人生最初の性的体験をタロウと交わすという劇的な展開となるのですが...。
 タロウの知らなかったミツコの別の顔、つまり濃い化粧とセクシーなドレスを纏ったセレクトバーのマダムを想像して、タロウはそのポートレートを連作で描き、その絵はかつての「アザミ」常連客に高価な値段で売れていき、タロウの画廊は軌道に乗ります。そして本格的に「ばあちゃん」とタロウとハナコの3人で家族として暮らそうという話になります。そこで再び現れるのが「結婚」という大きな壁です。駐ベルギー日本大使のサト夫妻が出張で一時帰国し、名古屋にも滞在する。ハナコとタロウの交際を知らない夫妻に、ハナコは結婚したい相手がいるので会って欲しい、と。タロウは再び日本の公的圧力の重さと直面しなければならないと緊張します。相手は外交官で名門の家、それにひきかえこちらは何重ものハンディキャップを抱えた問題多い素性。しかし幼い日の記憶では優しさあふれていたサト夫人...。
 その日がやってきて、ハナコのフィアンセ候補をそれと知らぬままその場に現れたサト夫人は、タロウの姿を見ただけで固まり、倒れ、やがて容態は悪化し、精神病院に収容されるのでした...。

 どうなんでしょうか。全体が難しいパズルではないので、いろいろ小さなトリック(元「アザミ」の客の婦人科医がミツコが妊娠不可能の体だったと証言する、「ばあちゃん」の監獄時代の友達は息子の罪を被って有罪になった、外交官サトは大変なプレイボーイで夫人と離婚の話があった...)は本当にこじつけっぽくて弱い。私はもっとざっくりと、タロウという何重の重荷もある美しい若者が、かたつむりのように触覚を出したり引っ込めたりいろいろな方向に突き出したりして、日本的重圧とぶつかっていく姿が見たかったのでしょう。たくさんのストーリーを詰め込むよりも、これまでのシマザキの切開してきた秘密やタブーや掟や性のありかなどを、ひとりの人間(この場合タロウ)がもっともっと問い詰めていくものであって欲しかったと思っていますが。
 最後は精神病院の病室で精神の不安定なカコ(サト夫人)がタロウに一対一で(手話で)告白&懺悔をします。何重の重荷(悲しみ)の殻がはじけたかたつむりというわけですが、悲しみは全く消えないのです。なにはともあれ完結しました。

Aki SHIMAZAKI "Maïmaï"
Actes Sud刊 2019年4月3日  175ページ 15ユーロ
 
カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)The Beatles "Carry that weight" (1969年)これも今から50年前の曲。

2019年3月29日金曜日

(愛に)飢えるべく

Michel Houellebecq "L'Amour,  l'amour"
ミッシェル・ウーエルベック『愛、愛』(※)

息切れ気味の退職年金生活者たちがエロ映画館の中で
凝視していた、そんなもの真には受けないが
肉欲そそる二組のカップルの下手に撮影された戯事
それにはストーリーがなかった

それなのだ、と私は独語した、それこそ愛の顔なのだ
紛れもないその顔
あるものたちは魅力的で、それらはずっと魅了し続けるが
そのほかはぼやけてしまう

そこには運命もなければ、貞節さもない
ただ肉体が引き合うだけだ
一片の愛着もなく、ましてや憐憫などあるわけもなく
体を使い、引き裂く 

あるものたちは魅力的で、とても好かれていて
それらはオルガスムに至るだろう
しかし他の多くのものは疲れてうんざりで、隠すものなど何もない
妄想すら残っていない

女たちの羞恥なしの悦楽によって
深まってしまった孤独だけ
「これは私向きではない」という確信だけ
ただの暗くちっぽけなドラマでしかない

彼らはきっと死んでしまうのだ、少し幻滅はするが
叙情的な幻想などあるはずもなく
彼らは徹底的に自分を蔑む芸を駆使していくだろう
それは機械的なものだろう

人を一度も愛したことがない者たちへ
人に一度も好かれたことのない者たちへ私は言いたい
解放された性を知らない者たちへ
ごく普通の快楽も知らない者たちへ私は言いたい

友人たちよ、何も恐れることはない、きみたちの損失は些細なものだ
どこにも愛など存在しない
それはただのひとつの残酷なゲームで、きみたちはその敗者なのだ
それはスペシャリストだけができるゲームなのだ 
(※)ウーエルベックのいつ頃の詩なのかは知らない。ウェブ上でたまたま見つけたので、2019年3月29日、試訳してみた。たぶん明日には訳の間違いや違う意味の発見があるはず。その都度変更していくので、興味ある同志は何日か経ったらまた読み直しに来てください。
今気がついているのは、昔(70年代頃)、フランスでハードコアポルノの映画館上映ができるようになって、一般上映館がつぶれて町にポルノ映画館がいっぱい出来た頃、その手の映画館の中は真剣な顔した中高年が多かった。ただ、あの頃はまだこれも「映画」であったので、シナリオ&ストーリーがあって、その手の客が待っているシーンになかなかたどり着かない。そういう客たちがつまらん物語よりも早く性交シーンを始めて欲しいというブーイングを(映画なのに!)立てるのだけど、この時「セックス!」「セックス!」と連呼するのではなく、その意味するところは同じでも、"L'amour! l'amour!”と要求する声を聞いたことがある。この詩を読んだ時に、即座に思い出したのは、その70年代のポルノ映画館のおっさんたちの不満の声だった。たぶんこの解釈は直接は当たっていないけれど、遠くないものだ、という自信がある。いつか本人に聞いてみたい。

(↓)ウーエルベック「愛、愛」、朗読ブランシュ・ガルダン


(↓)ウーエルベック「愛、愛」、作曲・歌:ミッシェル・ジャンリス

2019年3月27日水曜日

黄色はチューウィー

フランソワ・リュファン『おまえの知らないこの国』
François Fuffin "Ce pays que tu ne connaîs pas"

ランソワ・リュファンは1975年北フランス、カレーの生まれ、ピカルディー地方ソンム県都アミアンを活動の地盤とするジャーナリスト/新聞主宰者(1999年創立の左翼オルタナティヴ新聞FAKIR)/映画監督であり、2017年6月の国会選挙でソンム県「立てピカルディー」会派から立候補して当選し、現在国会議員(所属は「服従しないフランス France Insoumise」党)。本書でも詳しく触れられているが、2歳年下である1977年アミアン生まれの現大統領エマニュエル・マクロンとは、アミアンのリセ・ラ・プロヴィダンス(イエズス会系の私立学校)ですれ違っていたはずである。地方左翼新聞の行動的ジャーナリストだったリュファンが全国的に名前を知られるようになったのは、2016年リュファン監督のドキュメンタリー映画『メルシー、パトロン!』(フランス第1位の超富豪ベルナール・アルノー自身から、その巨大企業LVMHの北フランスの子会社工場の閉鎖で困窮する労働者夫婦があの手この手で損害賠償金を奪取するまでの記録映画、4ヶ月で観客50万人を動員する異例のヒット作にしてセザール賞最優秀ドキュメンタリー)によってであり、ちょうどその映画が話題になっていた当時、社会党エル・コモリ労相による労働法改悪反対運動の興隆があり、さらにパリ・レピュブリック広場を占拠して夜を徹しての討論集会運動「ニュイ・ドブー」にヒーロー的に登場し、一躍中央メディアの寵児になった(テレビ出演時は必ずベルナール・アルノーのポートレートの"I ❤️ Bernard" Tシャツを着用していた)。
 時は移り、今は2018年11月にフランス全土から湧き上がった民衆抗議行動であるジレ・ジョーヌ(黄色いチョッキ)運動の只中にあり、これを書いている2019年3月末現在、運動に衰えはない。4ヶ月を経て、なぜこの運動が終わろうとしないのか? それはエマニュエル・マクロンとその政府が有効な回答を何一つ示すことなく、力(警察+先週からは軍隊も)によって鎮静させて逃げ切ることしか考えていないからである。
 フランソワ・リュファンは最も強力で積極的な運動支援者のひとりであり、自身がニューステレビの座談会に招かれる時は必ずジレ・ジョーヌの運動家を同席させ発言させる。
 2018年12月、ジレ・ジョーヌ危機打開策として大統領マクロンは「グラン・デバ・ナシオナル Grand débat national」と称する全国規模での国民参加原則の大討論会を12月から4ヶ月間に渡って行い、「税制と公的支出」、「公共サービス」、「環境変化問題」、「民主主義と市民権」の4つのテーマで国民の意見を吸収する、と発表。野に下って、民の言うことに耳を傾けよう、という試み。この4つのテーマから、(マクロンが廃止した)富裕税(ISF)の復活というジレ・ジョーヌの要求が除外され、討議対象にならないことからジレ・ジョーヌの大半はこのグラン・デバ・ナシオナルに背を向けている。ジレ・ジョーヌたちは週日は全国の地方幹線道路の都市部入り口のロータリー(ラウンダバウド)を封鎖する抗議活動をし、週末(毎土曜日)にパリをはじめとする都市部に出てデモ行進で要求を訴えている。フランス全国である。
  フランソワ・リュファンは、大統領マクロンが「野に降りて」地方に出向いて(かなり積極的に)グラン・デバ・ナシオナルの討論会にマラソン的に行脚しはじめたのと同じ時期に、友人の映画監督ジル・ペレと共に小さなバン車(シトロエン・ベルランゴ)に撮影カメラを積んで、地元アミアンを皮切りにフランスを南下縦断して地中海に至る「ジレ・ジョーヌたちと出会う旅」に出発する。その各地での出会いは、2019年4月3日公開のドキュメンタリー・ロードムーヴィー『J'veux du soleil(太陽が欲しい)』としてまとめられる。(この映画に関しては4月3日に観たのち、ブログかどこか雑誌にきちんと紹介します。) 本書はおそらくこのロードムーヴィーと同時期に書かれたものであろうし、本にも多くのジレ・ジョーヌたちが登場する。ペギー、アンヌ、ロールリンヌ、ズービール、マックス.... これらの名前で登場する人たちは、ソーシャルワーカー、介護ヘルパー、工場労働者、運転手、失業者、老齢年金生活者... 毎月400ユーロから1000ユーロ(5万円〜12万円)の収入で家族と共に生きている。"Fin du mois"(月末)が苦しいどころではなく、月半ばにして家計ゼロになる窮状の中にある人々である。社会運動や政治運動、ましてや労組に関わったこともないような人たちが、2018年11月、地方道路のロータリーに集まり交通妨害をしながらビラを配り、自分たちの我慢の限界を訴えた。日本からは見えないかもしれないが、フランスは圧倒的多数の人々が貧しいのである。それもいつの頃からこんなに貧しくなったと気づかぬうちに、みんな急速に貧しくなった。逆に金持ちは信じがたい伸び率で天井知らずの金持ちになっている。当たり前におかしい話なのである。
 本書はなぜジレ・ジョーヌたちがスローガンの第一に「マクロン辞任!」を掲げるのかという理由が明瞭に理解できる。それは民衆の困窮化の信じがたいスピードを止める大統領ではなく、ますます加速させる者であり、同時に金持ちが信じがたい伸び率で超金持ちになることをますます加速させる者だからなのである。
 この数十年、フランスの不幸の元凶は「失業」とされてきた。失業率を下げるというのが毎度の大統領選挙の各候補の第一公約だった。この失業べらし政策として金持ちに金をばらまくという不可思議なロジックがある。それは大企業主や資本家たちがフランスの重税を理由に、企業や資本や経営者自身を外国に流出させることを防ぐには、彼らの重税を解き、裕福になってもらってその富をさらなる国内資本投下に導くことである、という説。金持ちが増収して満足すれば、企業はフランスで大きくなり雇用も増える、と。金持ちよ、フランスから逃げて行かないでください、と優遇することが失業べらしと雇用の拡大に最も有効であるのだそうだ。マクロンはこのロジックで、裕福税(ISF)を廃止した。おいおい、それでもフランスでどんどん工場は閉鎖され、賃金の安い外国に移転しているではないか、という批判には、失業率がこの程度で抑えられているのは、この金持ち優遇策のおかげなんです、それをしていなければ、フランスに資本家と大企業はガタ減りし、失業率は倍増しているはずです、としゃあしゃあと言うのである。景気回復は資本家層が潤ってからこそ訪れる、というアベノミクス発想と何ら変わらない。
 マクロンとはそんなやつだったのか? ー 本書はまさにそのことを詳説している。リュファンの地元、アミアンで生まれたこの貴公子のように振る舞う若き大統領は、いかにして独占資本階級(オリガルシー)によって蝶よ花よと育てられ、たっぷり金を与えられ、超資本家たちの固く閉ざされたサークルに出入りを許され、ちやほやされ、そのサークルの利益のために大統領にしていただいた、そのストーリーをクロノロジカルに記述している。
 このオリガルシーとはベルナール・アルノー(LVMH)、グザヴィエ・ニエル(テレコム)、フランソワ=アンリ・ピノー(Pinaultグループ)、パトリック・ドライ(テレコム、メディア)、マルタン・ブイーグ(TF1、ゼネコン)、アルノー・ラガルデール(メディア)、ヴァンサン・ボロレ(運輸、重工業、メディア)、セルジュ・ダッソー(2018年没、航空機、兵器)などのことである。フランスが特殊なのはこの寡占的資本家たちが、有力メディア(民放ラジオ/テレビ、新聞雑誌、ウェブメディア等)の所有者なのである。フィガロやパリジアンのような保守寄りメディアだけでなく、左寄りと言われるル・モンド(社主グザヴィエ・ニエルとマチュー・ピガス)、リベラシオン(社主パトリック・ドライ)まで例外なくこのサークルの資本家がパトロンである。これらのメディアのパトロンたちはこぞって「次期大統領マクロン」を推し、その配下のメディアは2016年の時点で立候補表明前から若きキレ者経済相とその優雅な公生活と私生活をスター扱いで第一面報道を繰り返した。大統領選が始まる前からコミュニケーション戦術では既に圧倒的に優位だったわけである。
 私たちは往々にして「報道の自由」「報道の独立性」という点においては、フランスは世界でも上位にある健全報道の国と思いがちであるが、リュファンの詳説するマクロン大統領誕生における(ある息のかかった)フランスの大メディアの役割を知らされると、あ〜あ、と嘆きたくなる。だから、国営ラジオのフランス・アンテール、ウェブメディアのメディアパート、 風刺(&暴露)新聞のカナール・アンシェネ、風刺画報のシャルリー・エブドが、この国には絶対必要なのである。その中にリュファン主宰の新聞ファキールも加えておこう。
  ENA(国立行政学院。エリート養成グランゼコールのひとつ)卒業後、上級公務員(財政検査官)となる前、マクロンはオワーズ県庁の研修中に、土地の有力実業家アンリ・エルマン(1924-2016)の目に止まる。エルマンは戦後フランスで郊外型ハイパー・マーケット/ショッピングセンターのパイオニアのひとりで、大規模センターの全国展開で大成功した男だが、マクロンをわが子のように可愛がり、財を成す方法、人脈の作り方などを伝授し、自ら媒酌人となって結婚させたブリジット&エマニュエルのマクロン新郎新婦にポケットマネー(55万ユーロ=1370万円)で家屋を進呈する。財界とつきあうには自ら財を成さなければならないという教え。そこから(サルコジ大統領の諮問機関のジャック・アタリ座長の)「フランス経済成長自由化委員会」の報告書作者となったり、ロスチャイルド国際投資銀行の重役になったりするのだが、人脈はエルマンから。そしてエルマンは大実業家・大資産家の身ながら社会党員なのだった。財を成す社会党員ということだけで、私などは疑ってしまうが、大企業と連動で国の政治を進めるしかなかったミッテランの14年間(1981 - 1995)で社会党は大きく変わった。そのふにゃふにゃになった社会党の候補でも、サルコジの失政に愛想を尽かしたフランス人は2012年フランソワ・オランドを大統領にした。そこで若きエリート君はオランドの右腕のキレ者経済相となるのだが...。そのENA → 高級官僚 →アタリ委員会 → ロスチャイルド銀行 → 経済相という黄金の出世コースと並行して、エルマンが仲介となって開ける超強烈なオリガルシー人脈が固められていき、オリガルシーの利益確保&倍増のための大統領誕生のシナリオは確実なものになってしまったのである。
 リュファンはこの上昇ストーリーを、ほとんど悪意をこめて書いている。この男はものをもらうことを拒まない。エルマンにヴァカンス招待されることも、ベルナール・アルノーに頻繁に食事接待を受けることも、妻ブリジットがルイ・ヴィットンからすべて無料で衣服を与えられることも。マクロンはやってもらったことすべてを大統領としてお返ししていくだけのことである。
 富裕税を廃止した穴埋めを、老齢年金から引くCSG(一般福祉税)のパーセンテージを上げたり、住宅保護手当の額を削ったりして補う。つまり金持ちに金をばらまき、その分貧乏人から吸い上げる。ジレ・ジョーヌたちは、それがオリガルシーの子飼いでしかないマクロンの本意だと見抜いているから、もう単純に「マクロン辞任!」で闘争するしかないのだ。
 この怒りをより鮮明にわかってもらうために、この本はマクロン天下取りストーリーと、地方道路のロータリーでバリケードを組む人々の現実を交互に挿入している。おそらくドキュメンタリー映画だと、もっともっと鮮明になるだろう。
 そして本書のタイトルが伝えるように、たとえどんなにマクロンが野に下りて「グラン・デバ・ナシオナル」に奔走しようが、マクロンはフランスの人々を知ることができないし、知ろうともしない。だが、マクロンが生返事をし、高圧的に機動隊や軍隊でジレ・ジョーヌたちを力づくで押えこもうとすればするほど、黄色い蛍光は輝きを増していくであろう。11月から始まったこの運動は、冬を越したのだ。季節はこれから、街頭に出る人たちに味方する。花も太陽もジレ・ジョーヌに味方する。

François Ruffin "CE PAYS QUE TU NE CONNAIS PAS"
Les Arènes 刊 2019年2月20日 220頁  15ユーロ

(↓)予告なしに出版された本書について語るフランソワ・リュファン


(↓)ドキュメンタリー映画『太陽が欲しい(J'veux du soleil)』予告編


2019年3月18日月曜日

Why don't you write me (手紙が欲しい)

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』
"The Death and Life of John F. Donovan"

2018年カナダ映画
監督:グザヴィエ・ドラン
主演;キット・ハリントン、ナタリー・ポートマン、ジェイコブ・トレンブレー、スーザン・サランドン
フランスでの公開:2019年3月13日

ベック出身の映画界のアンファン・テリブル(当年30歳)、グザヴィエ・ドラン初の「英語映画」。2018年9月10日、トロント映画祭で初上映されるも、アメリカとカナダのメディアの酷評によって、カナダとアメリカでは一般上映が期限なく延期になっている。その酷評とは、10年間に7本(!)長編映画を撮ってきたドランの、金太郎飴のような毎度の同じテーマ、母と息子の愛憎・確執、ホモセクシュアリティー、それに対する虐め・社会的疎外など、これしかこの監督にはないのか、といったことだと想像する。大予算+豪華キャストによる21世紀映画のアンファン・テリブルの新作の上映は北米で立ち往生しているが、映画出資国のひとつフランスがそれではということで封切に踏み切った。フランスは世界で最もドランの支持者が多い国だろう。かくしてこの3月13日のフランス封切りが世界初の一般上映。
 唐突に私事であるが、2019年1月に亡くなった母と約1年間続いた文通をきっかけに、私は他の人たちにも手紙や絵はがきを書くようになった。ボールペン字で書いて、切手を貼って投函する。手元に自分が書いたことが残らない。普通郵便であるから、着信されたのかどうかもわからない。こういう手作業で前時代的な手紙は、メールその他の電子コミュニケーションに慣れた者には不安なものだ。出ていった手紙は何を書いたんだっけ?着くのだろうか?返事は来るのだろうか?何日かかるのだろう? ー これが手紙だ。手書きで、書きしくじりをしながら、誤字脱字をしながら、自分の言葉を伝える。スリリングなものである。緊張感は返事を待つ日数に比例する。受け取った手紙の自筆筆跡に感じるものがある。すぐに返事を書きたくなる。これが手紙だ。
 この作品は21世紀を舞台にしているが、手紙がものを言う映画である。緑のインクで書いてある。そういうことがものを言う映画である。手書き文字がどんなものであるかがものを言う映画である。
 冒頭はアメリカの少し前までの大スター(テレビ連ドラ、スーパーヒーロー映画)俳優ジョン(演キット・ハリントン)がニューヨークの自宅で死体で発見される。自殺ともオーヴァードーズ死とも。その10年後、イギリス在の若い俳優ルパート(演ベン・シュネッツァー)がジョン・F ・ドノヴァンの死の真相を知っていると名乗り出、芸能ジャーナリストではない、政治・社会・国際問題に筆をふるう(フランス語では "grand reporteur"と言うのだが日本語では?)第一線記者であるオードリー(演タンディー・ニュートン)にコンタクトを取り、ワルシャワでインタヴューを受ける。映画はここからルパートのオードリーへの証言の再現フィルムとして展開され、そこに登場する少年ルパート(演ジェイコブ・トレンブレー。映画の主役という意味ではこの少年であろう。怪演)が、イギリスにいながらどのようにアメリカのスター俳優と交流していたかを映し出していく。まずルパートの家庭は母一人子一人であり、父は離婚別居していて、二人は母サム(演ナタリー・ポートマン)の事情でアメリカからイギリスに移住している。この時点で既にジョン・ドノヴァンの大ファンであり、子役俳優になってジョンと共演したいという夢を抱いていた少年には、この移住は大きな痛手であった。途中で転入したイギリスの学校では、アメリカ訛りをバカにされるだけでなく露骨な「ジェンダーいじめ」を受ける。このいじめは陰湿かつ暴力的である。クラスメイト誰一人庇ってくれない。友だちのいない孤独な子供だが、文章力はあり、その才能と想像力は教師が評価しているが、作文課題でクラス全員の前で発表した「米スター俳優との文通」は、教師は孤独ゆえの想像力の一人歩きと決めつける。少年ルパートは、母親にも言えぬ、唯一の心の支えがジョン・ドノヴァンであり、そのテレビ連ドラの全シーンを暗記し、これさえ見ればすべてを忘れることができるほどののめり込み方でスターを崇拝し、滾る想いをこめて手紙をしたためる。あろうことか、この少年の熱い手紙にスターは返事を出すのである。なぜなら、スターもまた同じように孤独であったのだから。
 めちゃくちゃなやり手の女ジャーマネのバーバラ(演キャシー・ベイツ。晩年のシモーヌ・シニョレを想わせる凄み)にスターダムの軌道に乗せられ、幼なじみの女優エイミーとヘテロ・カップルを偽装しているが、この男優スターの座を守るためにジョン・ドノヴァンがゲイであることは秘密にされている。ジョンもまた燃えるような恋をするのだが、スキャンダルを避けるために自らその恋を絶ってしまう。ここでジョンはなぜ自分らしく自分の思いのままに生きられないのか、という思いをこの声変わりもしていないような少年に手紙で吐露するのである。緑のインクで書かれた手紙の文通は5年間続く。
 映画のもうひとつの重要なテーマは母と息子の関係であり、2014年のドラン作品『マミー』 で展開された極端に親密で複雑な母子関係のヴァリエーションのような、ルパートとその母サラ、ジョンとその母グレース(演スーザン・サランドン。アル中で多弁で高圧的でわれこそ世界の中心のように振る舞う庶民女性像。素晴らしい!)の、それぞれの愛情と憎悪と下手な表現とが絡み合った関係がパラレルに進行する。最終的に母と子は和解するのだけれど、それまでの激しい応酬には、ドラン映画的既視感が否めないものだが、これがドランがうまいんだからしかたない。なぜわかりあえないのか、なぜ意志とは裏腹に会話は空虚にすれ違うのか、これが終盤にふ〜っと解消して涙するのはドラン映画のマジックではありませんか。
 イギリスにいる孤独な少年とアメリカにいる孤独なスター俳優は、その秘めた文通で結ばれているものの、一度も会うことなくジョンは死んでしまう。その死のきっかけは、イギリスで暴露されてしまったこの文通の事実を、アメリカでスター俳優が公の場所(テレビインタヴュー)で一笑のもとに否定して、スキャンダルを防ごうとしたこと。そこからジョンはこれまでの人生で最も大切だったものを否定したことにバランスを崩し、俳優業もできぬほど落ちていき、ショービジネスはこの男を捨てる...。そのことの次第のすべてを少年ルパートは知っていた、というわけである。
 ドランのカメラワークは毛穴が見えるほどの顔の大写しばかりで、顔がみなすごい。ものを言う表情はものを言うよりも雄弁である。特に母親役二人、ナタリー・ポートマンとスーザン・サランドンの顔に圧倒される。悪い母親が泣かせる母親に変わっていく移り変わりが大写しで見れるのである。
 最初に書いたように、この映画はたいへんな揉め事に絡まれている。ドラン最初の「英語映画」であり、米の大スターで俳優陣をかため、3年の撮影の末に、最初の編集で4時間になったものを最終的には2時間にまで縮めた。消されたのは(米スター女優)ジェシカ・チャステインが関わったすべてのシーン。これはジョン・F・ドノヴァンのスキャンダルを嗅ぎつけ執拗に追及していく女性(芸能)ジャーナリストの役だったのだそうだが、ジョンを自殺に追い詰める鍵となる人物だったはず。これをドランがばっさり(大スター出演シーンを)全部カットした、という裏側事情もアメリカのメディアのこの映画非難の材料になったと思われる。気にしなくていいと思う。完成されて私が観た2時間のヴァージョンはそれだけで十分に完成度が高い。
 問題ではないが、気にさわるのは、アイデンティティーのことであり、この映画の二人の中心人物、ルパート少年と俳優ドノヴァンの、母親と複雑な関係にあるゲイの子供、というドランが自己投影しているに違いないパーソナリティ。「これしか撮れないの?」という気がしないでもない。わかりやすい。ドランはそれでいいのだろう。
 EメールやSNSの時代に、手紙がものを言うストーリーは、古典回帰のような効果もある。クラシックな雰囲気はこの若い監督(30歳)の得意とするところかもしれないが、私たちが忘れかけているものでもある。手紙の人肌と情緒を体感する映画である。手紙を復権させよう。

(↓)『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』予告編


(↓)仏プルミエール誌のインタヴューで『ジョン・F・ドノヴァン』を語るグザヴィエ・ドラン(2019年2月)


(↓)記事タイトルの出典はサイモンとガーファンクル「手紙が欲しい」(1969年)

2019年3月12日火曜日

姐ェよ銃をとれ

『江湖儿女』
仏語題 "LES ETERNELS"
英語題 "ASH IS PUREST WHITE"


2018年中国映画
(2018年カンヌ映画祭出品作)
監督:ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)
主演:チャオ・タオ(趙濤)、リャオ・ファン(廖凡)
フランス公開:2019年3月6日
 
 舞台は中国内陸部の山西(シャンシー)省の大同(ダートン)、時は2001年から2017年まで。この時の移り変わりは携帯電話からスマホまで、オンボロ乗合バスからかの「高速鉄道」まで、ひなびた炭鉱の町に巨大なサッカースタジアムが建設されるまで、という背景映像でよくわかる。目まぐるしいまでの「発展」である。物語はこの地方都市で賭場や密売などでシマを張っている極道グループがあり、その若きカシラで義侠に厚いビン(演リャオ・ファン)とその愛人キャオ(演チャオ・タオ)の極道ラヴストーリーから始まります。カシラと姐御、その睨みの利かせ方や部下の統率もいい感じ、任侠の世界かくあるべし、という図。消えていく炭鉱で一生働いて社会主義建設を目指していたキャオの父親は、資本主義的変容に最後まで抵抗する老兵のように頑固だが、カタギでなくなったキャオの父への思いはせつない。カタギか極道かという身の置き方の前に、世の不条理・不道に痛めつけられ、それから自衛するために兄弟/一家を築いてきた、「惚れましたぜ、兄貴っ」というノリ。当然この映画にもヤクザ映画やマフィア映画のたくさんのエッセンスが詰まっているのだが、古典的というよりはタランティーノ/北野武寄り。ディスコで愛のダンスのようにYMCA(ヴィレッジ・ピープル)を踊るカシラと姐御。まじに美しい。
そして宴の終わりに、カシラ、姐御、腹心の舎弟たちが、持ち寄った様々な酒瓶を全部タライの中にぶちまけてごちゃごちゃに混ぜ、その濃〜い混じり酒をめいめいコップですくって、乾杯一気飲みをして「永遠の兄弟の誓い」を立てるのです。まじに美しい。
さらにカシラはその命を預けるように、姐御に自分の護身用の拳銃を渡す。それを手にしたらもう永遠に極道である。引導を渡されたようなもの。これをキャオは永遠の愛を誓い合ったことだと確信するのだが...。野の丘の上で拳銃を二人の手で撃つシーンがこの映画のポスターになっている。まじに美しい。
 しかしこの「永遠」があっけなく崩壊するのが、極道の世界でして。 夜、ダートンの繁華街を(運転手つき)黒塗り高級車で走行するビンとキャオの行く手を阻むチンピラ軍団、車を取り囲み、凶器(登山スコップ?)で攻撃を始める。運転手が応戦するが多勢に無勢、ついにビンも車を降り、鉄拳でチンピラたちを殴り倒していくが、これも多勢に無勢、集団のスコップの殴打に敗色濃厚、そこへ姐御キャオが拳銃を空に向けてバーン、ついで銃口をチンピラどもに向け、ものすごい形相で睨みつけ、さらにもう一度空に向けてバーンっ!
 その場の騒ぎはそれで治ったものの、キャオとビンは警察に捕らえられ、裁判にかけられる。裁判の最大の争点は一体この銃は誰のものかということで、キャオはビンをかばうために一貫して銃は自分のものだと証言する。その結果、キャオは4年の禁固刑をくらい、ビンは1年だけの刑で先に出所する。しかし4年の懲役刑を終えて、キャオが出所した時、刑務所の門にビンは迎えに来ていなかった...。
 ダートンに帰ってみれば、ビンの姿がないどころか、その極道グループは既に解散して昔のことは誰も語りたがらない。ここから映画はメロドラマ化し、キャオはビンの行方を方々探し回り、まるで隠れるように逃げ回るビンをついに探し出して、もう一度やり直そうと手を差し伸べるのだが...。すでに眼光も極道パワーも覇気も失っていたビンは、俺にはもう女がいる、とその手を払い、二人の永遠の誓いはご破算になるのだった。
 月日は流れ、キャオはダートンの町で再び賭場の姐御としていっぱしの極道として復帰し、高級ブランドの衣服で身を飾っていた。ダートンにも開通した「中国高速鉄道」、その駅に車椅子に乗った半身不随のビンが降ろされた。キャオはその障害のある中年男をその一家に「客人」として迎え入れる。その話では、長年の極端なアルコール摂取により神経を患い、下半身がまったく動かなくなったのだ、と。病院の診断ではもう手の施しようがないと言うのだが...。
 ダートンに十数年ぶりに姿を見せたビンであったが、かつてのギャングヒーローの落ちぶれた姿にかつての舎弟たちも冷たい。それをキャオはひとりで庇い、絶対に元どおりのビンに戻してみせる、二人でまたやり直すんだ、といじらしくも甲斐甲斐しい極道姐御ぶりを発揮します。ここが中国映画のマジック。ここで奇跡を起こすのだね。西洋医学では全く手が出せない分野で、中国三千年の叡智はこの神経疾患を針治療で治していくのです!下肢が少しずつ動くようになったビンを車椅子に乗せて、あの若い日に二人で拳銃を射った野の丘の上に連れていく。そこでキャオは車椅子から5メートルほど離れた位置に立ち、ビンに立ってここまで来い、と手招きするのです! ー これは『アルプスの少女ハイジ』の「クララが歩いたぁぁぁっ!!!」シーンの再現でなくて何であろうか。泣くよね。

 しかしこの任侠メロドラマはハッピーエンドではない。結末には触れないでおくが、この耐えて信じて命かけて「永遠」を通そうとしたキャオという女性の気高さを、この元ギャングヒーローは受け止めることができない。釣り合いが取れない。どうしていいのかわからない。ルーザーはやはり去るしかないのかもしれないが、映画の余韻は、また繰り返される永遠のメロドラマの方向性も。軽妙な任侠メロドラマのように始まるこの映画はどんどん女の顔と共に熟していく。このキャオを演じるチャオ・タオという女優(ジャ・ジャンクー監督の奥様だそう)の、姐御から菩薩に至る女性の凄さを体現する演技の素晴らしさに尽きると思うよ。

 映画で挿入されるエピソードで、キャオがビンと再会し破局して、ひとりダートンに長距離電車で帰る途中、ひとりの男にナンパされかける話がある。この男は口がうまく弁が立ち、喋り出したら周りの人間をすべて巻き込んでその論を詳細展開して説得するタイプ。滅法押しがきく営業マン型。2019年的には世良商事型と言うべきか。つまり山師ということ。この男がキャオをその話に引き込んで、刑務所上がりで職を探しているというキャオに僕のところで働いていいから、と。そのホラ話は彼は観光エージェントであり、今、某地区にある壮大な観光プロジェクトを立てているのだ、と。その場にいた電車の乗客たちは、あそこは観光と言っても何もないところだよ、と否定的。実際何もないのだけれどね、その住民たちは他の地にはない奇妙な体験をしているのだ、それは多くの人たちがUFOと遭遇したと証言しているのだ、と。そのプロジェクトというのはその村に、UFO体験のできるテーマパークを作り、全世界に宣伝すれば、その数知れない数の愛好者たちは世界から集まって来る、と。なるほど、と一同納得してしまうんだね。で、キャオもその話を半信半疑ながら、この男、悪い感じがしない、とふらふらとついて行きそうになる。電車を乗り換え、その男と二人旅になり、夜汽車は行くのであったが、ちょっとボーっとしていたキャオはわれにかえり、ある停車駅で、深々と寝入っている男を車内に置き去りにして、ひとり下車する。降りてみたはいいが、そこは真っ暗で人気のない小さな駅、右も左もわからない。さあどうしようと呆然としていると、急に頭上が明るくなり、見たこともないような物体の気配が....。私、このエピソードはこの映画の宝石だと思いますよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『江湖儿女 - LES ETERNELS』 フランス語版予告編。


(↓)カシラと姐御と舎弟たちが同じたらいの混じり酒を飲み、永遠の兄弟仁義の誓いを立てるシーン。

 
 

2019年3月3日日曜日

レイラ・スリマニ、カール・ラガーフェルドを悼む

2019年2月19日、(推定)85歳で亡くなったファッションクリエーター、カール・ラガーフェルドを追悼特集した週刊レ・ザンロキュプティーブル誌2月27日号に、ゴンクール賞作家レイラ・スリマニの故人を惜しむ談話が掲載されている。古典文学への深い造詣で知られ、その蔵書30万部と言われる書庫とそれに隣接したラガーフェルド選書書店(Librairie 7L, 7 rue de Lille 75007 Paris)で交わされたラガーフェルドとスリマニの会話の思い出を語っている。(この圧倒的な書庫の空間は、2017年1月にフランス国営テレビFRANCE 2のレア・サラメの番組 "STUPEFIANT!”で映し出されているので、(↓)に動画を貼っておきます)
以下、レ・ザンロキュプティーブル誌およびレイラ・スリマニに無断で同談話を日本語訳してみます。

Leïla Slimani : "C'était quelqu'un d'une grande profondeur"
レイラ・スリマニ:「偉大な深みを持った人物」

の最初の小説『鬼の庭で(Dans le jardin de l'ogre)』(2014年)の刊行のあと、彼のファッションショーに招待された。ショーが終わり、彼が招待客たちを接待しているサロンに通された。私と彼は座につき、本について語り始めた。私と彼の会話はいつも文学が話題の中心だった。彼は驚くほど多くの現代文学を読んでいて、それらについてとてもはっきりした意見を持っていて、とても楽しかった。その意見がとても厳しいのは、彼がとても古典文学を愛していたからだと私は思っている。彼は自分たちの時代の最も偉大な文豪たちはすでに皆死んでしまったという印象を抱いていた。彼の意見はみな興味深く、私たちが日頃あちらこちらで聞く意見とは全く違っていた。私は彼の素晴らしい書庫に入るという幸運を得た、ユニヴェルシテ通りの彼の自宅のすぐとなりにあり、信じられないほど高い天井の一間で、何万という数の本が収められていた。そして彼は今しがたそれについて語った書物がどこに置いてあるかを言うことができた。あらゆる言語の本があり、彼は同じ書物をドイツ語と英語とフランス語で読んでいた。彼にはそれがごく自然のことで、どの言語で読んでいるのか全く意識されないほどだと語っていた。私に多く語っていたのは17世紀の文学、特にラ・ファイエット夫人についてだった。彼はそのエスプリを愛していた。総体的に彼は、エスプリ、才気、人間性といったことにとても敏感なところがあった。私は彼に、あなたはとても17世紀的なところがあって、気の利いた言葉を操るのがとても好きなので、当時での文芸サロンでは目立っていたでしょうね、と言った。また、彼はドイツ文学についても語った。彼は子供の頃ゲーテを読んでいて、そのパッセージを暗記していた。彼はトーマス・マンについてもたくさん語ってくれた。その上彼は「イリヤス」と「オデュッセイア」の叙事詩を正確に語ることでできる人でもあった。彼はとても古典的な「オネットム honnête homme」(註:17世紀社交界の範と考えられた紳士、節度を心得、婦人に丁寧で言動の洗練された貴族 ← スタンダード仏和辞典より)の教育を受けた人だった。
さらに彼はミッシェル・ウーエルベックを熱愛していて、天才的で世を覆す作家と評していた。彼が大いに気に入ったのはウーエルベックがポリティカル・コレクトネスに全く屈することがないということ。
カール・ラガーフェルドは非常に豊かなユーモアの持ち主で、実生活にはある程度距離を置いているけれど、とても奇妙なのは、彼は今日の資本主義と消費商業主義のアイコンであり、象徴であるのにも関わらず、それに対して非常に明晰な視点を持ち、この消費社会に飲み込まれないために脇道に進むということができた人物であったということ。それが彼の最も素晴らしい点であり、誰かが彼を何かの中に押し込めようとしたとたん、彼は即座に彼のいる場所についてはすべてお見通しだという言葉を発することができ、人がそれについてどう思おうが知ったことではないという態度をとること。
私は世の中には二つのタイプのアーチストたちがいると思っている。一つめは、今日の大多数であるが、過去の知識なしに創造することが可能だと思っている人たち。私たち文学の世界では、「私は一切本を読まずに作品が書ける」と言う作家たちで、私は信用しないが。もう一つは、過去において創られたものと共に創造して、その歴史の中に自らを刻もうとする人たち。カール・ラガーフェルドは後者である。彼は非常に多くの図と形と歴史を消化し、理解し、自分のものにしたが、それは彼にとって全く重荷ではなく、その考証学的博識が彼の創造を助けたのである。そしてまたその博識が彼を市場の原則から自らを防衛することの手助けとなったのだ。彼は偉大なる読者であり、彼は人間の条件とは何かを知る真の知識があったのだ。それは偉大な深みを持った人物だった。
彼の人間性に関する視点は? "空の空。伝道者は言う。空の空。一切は空。” 奥底のところで、彼は人間たちを断定していなかった。彼は人間たちに大きな優しさを持っていた、なぜなら彼はそれ自身の弱点である有限性ということを理解していたのだから。だからこそ言おう、空の空、一切は空、それは翼を与えることもできるし、あなたを地面に墜落させることもできる。そしてそれは彼に翼を与えたのだ。彼はその人生を一冊のロマンにし、ひとつの並外れた物語にしたのだ。
(聞き手/まとめ:ネリー・カプリエリアン)

(↓)カール・ラガーフェルドの書店と書庫で撮影が行われた国営FRANCE 2 レア・サラメの番組"Stupéfiant!"(2017年1月)

2019年3月1日金曜日

アバターもえくぼ

『あなたがそう信じている女』
"Celle que vous croyez"

2018年制作フランス映画
監督:サフィー・ネブー
原作:カミーユ・ローランス小説 "Celle que vous croyez" (Gallimard 2015年)
主演:ジュリエット・ビノッシュ、ニコル・ガルシア、フランソワ・シヴィル
音楽:イブラヒム・マールーフ
フランス公開:2019年2月27日 

21世紀環境(SNS、スマホ、ヴァーチャル・リアリティー...)がものを言う作品のようでありながら、根っこのテーマは古典的です。女は年老いたら(この場合50歳!)おしまいなのか。例えば50歳の男(この場合60歳でも70歳でも80歳でも)が24歳の女と恋仲になるというのはさほど不自然さを感じさせるものではない。ところが50歳の女が24歳の男と恋仲になるというのはそうではないでしょ?という世間様の目。主人公クレール(演ジュリエット・ビノッシュ)が恐れるのはその世間様の目ではなく、うまく行くわけがないでしょ、という自分自身への縛りなのです。それは老いであり、若々しくない容姿であり、人生(結婚、出産子育て、仕事、社会的ポジション)を知ってしまった若くないものの考え方であり...。このコンプレックスが根底にあるのが、ダリダ「18歳の彼」と変わらないものがあるわけですね。それは根強く残っているものでしょうけど、私としてはね、今日の50歳の女性たちはそこから脱して生きている人たちが多いと信じたいですね。最初からこの映画のちょっとひっかかったところを書きました。それはそれ。
 さて映画は大学のフランス文学教授であるクレール(50歳)が、若い愛人で建築家のリュドー(演ギヨーム・グイックス)との激しい情交のあった夜の翌朝、あっけなく振られるという始まりです。リュドーはかなりずけずけと二人の歳の差のことを言い、おばさんとは釣り合わないよね、という態度のサイテーの男なんですが、恋は(一方的に)盲目というやつで、女教授は大きなダメージを受けます。クレールは前夫ジル(演シャルル・ベルリング)と20年間共に生き、2人の男児をもうけるのですが、映画の後半で分かる理由で破局し、今は十代になった息子2人と3人暮らし。まだ手のかかる子供たちを抱え、このまま更年期となって年老いていく、という暗い展望と必死になって抵抗している風がありますが、この若いリュドーとの残酷な失恋に、もう女として恋愛することの最後であるかのような傷つき方をします。
 時期としてはその次にさらに激しい傷つき方をした時に、精神的な疾患をきたし、精神医であるボールマンス博士(演ニコル・ガルシア)にカウンセリングに行きます。映画はここからクレールの精神医ボールマンスへの告白の映像化という進行になります。つまり、クレールはリュドーの次にさらに激しい恋愛をして傷つくというわけです。
 リュドーにまだ未練のあったクレールはその動向を探ろうとSNS(この場合フェースブック)に潜入していくのですが、実名はリュドーにブロックされると知り、アバターIDを作ります。クララという名の24歳の女性です。写真はネットから勝手に拾ってきたとクレールはボールマンスに言いますが、実は意図ありだったというタネが映画の後半で明かされます。この若くセクシーでコケットな写真のアバターは、リュドーに行き当たらず、アレックス(演フランソワ・シヴィル)というリュドー周辺の若い男(実は親友であったということがあとで分かる)の気を大いに引いてしまうのです。クレールはヴァーチャルの世界でクララに変身し、アレックスはどんどんクララに引き寄せられていく。あたかも自分が24歳に若返ったようなウキウキした気分でどんどんウソが出て、アバター・クララは誘惑ゲームに勝利するが、それはリアルのクレールには激しい恋にまで昇華してしまうんですね。アレックスは実際のクララに会いたくてしかたがない。何度もリアルの接触を試みるが、クレールは逃げていく。なぜならアレックスが会いたくて愛しているのはクララであってクレールではないことを知っているから。実際にクレールがアレックスの目の前に立つのですが、アレックスの目にはまったくクレールが気がつかない、という映画魔術のシーンがあります(美しい)。
 このヴァーチャルの激しい恋には、ア・プリオリに悪い結末が待っているに違いないのですが、クレールはクララの正体、つまり24歳の若く美しい娘ではなく50歳のクーガーであることがバレたらすべては終わると思っています。そこでウソにウソを重ねて(例えば男と住んでいるとか、結婚して外国に行くとか、バレバレのことですけど)自ら姿を消すしかないと考え、それを実行に移して、自らの招いた破局で激しい激しい悲しみのどん底に落ちて精神科医に相談に行く、という.... 実はここまでがイントロみたいなもんなんです。
 ボールマンス医師は、クレールの話を聞きながら、これは虚偽をかなり含んでいるということに気がついていて、その度に真実を話すようにとクレールを糺します。すなわち、クレールのボールマンスへの告白は、ストーリーのクレールのヴァージョンでしかないのです。そのヴァージョンを続けます。クレールはアレックスのことがどうしても忘れられずに、うすうすとアレックスと交友関係があると知っていたリュドーにコンタクトを取ります。すると、リュドーは「親友」アレックスが、熱愛していた(一度も会ったことのない)女に去られたショックで自動車自殺をした、と告げるのです。
 実在しない女との失恋での自殺 ー このありえない悲劇にどう結末をつけるのか。クレールはここで小説を書くのです。アレックスが死ぬほどの悲しみを持つその前に、クレールその人がアレックスに近づき、クララを忘れるほどに愛し合い、しかしながら、アレックスが心底から愛しているのはクレールではなくクレールに現れるクララの幻であると知った日に、「クレール=クララ」という真実を明かし、その「クレール=クララ」に死を与える、という結末の小説です。映画ですから、この小説フィクションはすべて映像再現されます。「ドクター、この結末はどうですか?」とクレールはボールマンスに問います。
 その後は詳しく書きませんが、映画はさらに別ヴァージョンをボールマンス医師が見つけてしまうのですよ。

 某誌映画評で、これが黒澤明『羅生門』(1950年)のように、証人のひとりひとりが別々のことを言う構図の映画だというのを読んで、なるほどと思いましたよ。クレールの証言のヴァージョンは虚偽ではないけれど、そこからはそうにしか見えないという視点の狭さが悲しすぎ、このインテリでありながら余裕なく切羽詰まった感あふれる役どころを演じるジュリエット・ビノッシュの素晴らしさよ。
 重要なネタバレを追加しておくと、クレールがアバター・クララのポートレイトとして使った写真は、ネット上のまったく見ず知らずの人間ではなく、親族の不幸のためにクレールが面倒を見た従姉妹のカティア(ほとんど写真だけの出演だが、マヌカン/女優のマリー=アンジュ・カスタが演じている。レティシア・カスタの妹)のものだった。そして、この若いカティアが、クレールの夫ジルと恋仲になって、離婚に至ったという話。つまり、クレールはアバター・クララでカティアに復讐する意図もあった、ということですね。
まさにこういう映画を「心理ミステリー映画」と言うんです。からくりたくさんで本当に良く出来てます。おすすめします。

カストール爺の採点:★★★★☆ 

(↓)『あなたがそう信じている女』予告編


(↓)イブラヒム・マールーフ作曲の珠玉のオリジナルスコア。



2019年2月26日火曜日

見えた見えたよ松原ごしに

マチアス・マルジウ『マルジウの「人魚姫」』
Mathias Malzieu "Une Sirère à Paris"

にも何度か書きましたが、この人は「今コクトー」ですから。音楽、文学、BD、映画、今のところこういう分野でマルチな才能を派手に披露していますが、フィールドはますます拡がるでしょう。この新小説もすでに映画制作が始まっていて、今回はアニメではなく実写で、監督マルジウ、主演がレダ・カテブ(ガスパール)、クレマンス・ポエジー(ルラ)、ヴィルジニー・ルドワイヤン(ミレナ)、ロシー・デ・パルマ(ロジー)なのだそう。そしてディオニゾスによる音楽アルバムも用意されています。
 さてマチアス・マルジウ(1974 - )の最新小説『パリの人魚(Une Sirère à Paris)』です。タイトルからモロですが、人魚の物語です。擬人メタファーではなく本物の人魚です。このブログでも紹介しているマルジウの小説『時計じかけの心臓』(2007年)や『空の果てのメタモルフォーズ』(2011年)と同様の7歳から77歳までの子供のためのファンタジーです。しかし"人魚”という題材は、あまりにもアンデルセン作『人魚姫』 (1837年)のイメージが世界の人々に浸透しているため、それと縁のない人魚像を創り出すのはほぼ困難でありましょう。すでに舞台裏の史実として『人魚姫』は作者アンデルセンの大失恋から生まれたものですが、マルジウの本作も主人公ガスパールの大失恋が根底にあります。悲しみのどん底まで投げ落とされ、生きる力を失い、二度と恋などできるわけがないと思っていた男が、人魚と出会って...、という簡単に予測可能なストーリーです。
 時は2016年6月、記録的な雨続きでパリのセーヌ川が大増水した時です。小説の描写ではパリは浸水し、多くの死者、行方不明者が出ていたということになっています。シテ島向い左岸のモンテベロ河岸に接岸している帆船ファストフードレストラン/ショーボートの「フラワーバーガー」(スペシャリテ:季節の花バーガー)のオーナーの息子で、ショータイムにはウクレレ持って歌うショーマンであるガスパール・スノウ(Gaspard Snow、カウボーイハットを被り無精髭を生やした小柄&やせっぽちの若者)は、洪水のセーヌの橋の下から聞こえてくる、これまで一度も聞いたことがない美しい歌声に引き寄せられ、傷ついて弱っている青い血を流す不思議な生き物を発見し、助け出します。タミール人が運転するトゥクトゥク(三輪タクシー。パリ市内も2000年代から観光用で結構走るようになった。このトゥクトゥクはこの小説中よく働いてくれる)を捕まえ、全速力でサン・ルイ病院(パリ10区。17世紀からある古い病院で、建物は中世を思わせ、幽霊も多そう。2016年マチアス・マルジウが前作『パジャマを着た吸血鬼』で描いた自らの血液病入院闘病の舞台となったところ)まで連れていくのですが、救急受付で(実際よくある話ですが)「保険証(carte vitale)はお持ちですか?」という第一関門から前に進まなくなる。その間に病院地下の駐車場に置いておかれた謎の生物は、息絶え絶えながらも美しい歌声を上げ、それに引き寄せられて病院勤務の外科医ヴィクトールが飛んでくるのだが....。
 結局病院では全く埒があかないと判断したガスパールは、傷ついた人魚をパリ5区ラ・ブッシュリー通り(かのシェイクスピア&カンパニー書店の裏)の自宅アパルトマンに保護し、浴槽の中に入れて手厚く看護(四角いフィッシュフライを食べさせる)するのです。
 さて古今の人魚伝説でよく言われるように、人魚の歌声に魅せられ引き寄せられた男はみな死ぬことになるのです。今回の最初の犠牲者が外科医ヴィクトールです。しかし21世紀の一応超近代的な病院ですから、この血が青くなって息絶えたヴィクトールの謎の死はさまざまに分析され、ヴィクトールを愛していた女医ミレナ(制作中の映画ではこの役をヴィルジニー・ルドワイヤンが演じるようです。楽しみ)は現場の地下駐車場に残っていたウロコや青い血痕などから、そこにいてヴィクトールと接触したのが人魚であったと知るに至り、愛するヴィクトールへの復讐の心半分、これ以上犠牲者を出してはいけないという人道的理由半分で、血眼になって人魚の行方を捜すようになります。
 一方のガスパールは同じように人魚を歌声を聴いたのだから、体に変調をきたし、命を失ってしまうはずだったのだが、それはそうはいかないのです。
 ここでガスパールの個人事情を説明しますと、上に書いたように、彼は7年越しの大恋愛に破れて、そのショックのために生きる気力も失っていました。それから家族関係ですが、かの帆船レストラン「フラワーバーガー」は祖母シルヴィア・スノウが創業したもので、傑物であったこの女性は不思議なフード(フラワーバーガー)と幽霊や怪物を仲間につけたショー・スペクタクルで、人々を「驚かせる」ことで幸せにできる血筋を後世に残そうとしました。この「驚かせる人」という職業を彼女は "Suprisiers(シュープリジエ)"と名付けた。
Suprisiers : ceux dont l'imagination est si puissante qu'elle peut changer le monde.... du moins le leur, ce qui constitue un excellent début.
シュープリジエとは : 世界を変えてしまえるほどの強烈な想像力の持ち主のこと... とは言っても少なくとも彼ら自身の世界を変えられるということだが、それでもそれは優れた出発点である。
このシュープリジエになるための未完の手引き書"Le livre secret des Suprisiers(シュープリジエ秘伝書)"を亡くなったシルヴィアは孫のガスパールに託します。なぜなら息子(つまりガスパールの父)のカミーユは少々頼りなく、経営不振を理由に帆船レストラン「フラワーバーガー」を売りに出して、シルヴィアの遺志を継ごうとしない。そうは言ってもカミーユも悪い人物ではなく、大失恋で前途が見えなくなっているガスパールに、空気を変えて新しい道に進ませるにはこうでもしなくては、という親心でもあるのです。しかしガスパールは「フラワーバーガー」売却には真っ向から反対し、なんとかシュープリジエの道を進みたいと思っている。そんな中に巻き起こったこの人魚事件、その最中に船の売買契約は固まりつつある...。
 救われた人魚の名はルーラと言い、何千年の時を生きてきたのですが、セーヌ大洪水で受けた傷は大きく、このまま(青い)血が流れ続ければあと2-3日ももたない、火急的速やかに大海に戻してやらないといけない。そしてそれを救おうとしたガスパールも、人魚の必殺の美声のために死ぬはずだったのに死なないのは.... 見え見えのシナリオですが、恋が芽生えるからなんですな。(だんだん書いていくのがアホらしくなってきました...)
 ま、荒唐無稽などちらかと言えば20世紀アニメあるいはハリウッド喜劇流の想像力で成り立っているファンタジー読み物です。現役音楽家のマルジウですから、音楽リファレンスも多く登場し、最初のセーヌ大洪水でエディット・ピアフの"Non je ne regrette rien"のレコードが針飛びで繰り返されるところは、こいつその日本語題の「水に流して」というのを知ってて書いてるな、と思ったものでした。ガスパールの飼っている猫の名がジョニー・キャッシュ、外科医ヴィクトールはイヴ・モンタンの物真似が得意、その他レオナード・コーエン、ニック・ケイヴ、セルジュ・ゲンズブールなどネタはたくさん。マルジウの第一回監督映画(アニメ)『ジャックと時計じかけの心臓』(2013年)と同じように、これも最初からミュージカル仕立てで構想されていたような、音楽が聞こえてきそうな小説ではありますが...。
 で、小説はガスパールが人魚ルーラに出会ってから彼女を海に返してやるまでの3日間という短い時間の間に起こる波乱万丈が描かれるわけですが、一方でガスパールとルーラが彼の「シュープリジエ」的想像力の高揚によって恋が結晶化していくというストーリーと、もう一方で女医ミレナが亡くなった恋人ヴィクトールの仇討ちのために科学的に人魚を追い詰めていくというストーリーが、双方クレッシェンド的に最高に盛り上がったところで、え?という異変があって終わるという、起承転結のあるわかりやすい話です。
 小説として書いた、というよりも、映画という最終的な完成品のための第一段階の脚本案のようなものです。この種のファンタジー連作の最初の『時計じかけの心臓』(2007年)以来のティム・バートン映画的な趣味は変わりません。こうやって"ティム・バートン的"と書いてしまうと、この人の想像力というのはどうも限界があるように思えてきます。その想像力は作中の祖母シルヴィア・スノウによると「世界を変えられるほどに強力」でないと「シュープリジエ」にはなれないのです。そこが課題でしょう。映画化作品はそこんところ、その想像力の見せどころという映画にしてほしいものですが、商業性が先行しないことを切に願います。
 さて小説の最後は美しいです。「鶴の恩返し」的なところもありますが、人魚ルーラがガスパールのアパルトマンなどに落としていったたくさんのウロコ片は雲母化して凝固し、これまで発見されていない宝石として超高価で買われていきました。その金で帆船「フラワーバーガー」号は売却を免れたばかりではなく、大改造され、川船から大海の航行もできる船となります。ガスパールは「フラワーバーガー」一座のクルーを引き連れて、この船で、いつか人魚ルーラと再会することを夢見て、大海原に向かって帆を上げるのです。カモン、セイル・アウェイ! この時マチアス・マルジウは帆に家紋の「丸に十の字」を掲げるに決まってるじゃないですか。

Mathias Malzieu "Une Sirène à Paris"
Albin Michel 刊 2019年2月7日 240ページ 18ユーロ


カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ディオニゾス「パリの人魚(Une Sirène à Paris)」(ヴォーカル:マチアス・マルジウ+バベット)


**** 2019年3月6日追記 ****

(↓)3月6日国営テレビFRANCE 5の番組「ラ・グランド・リブレーリー」に出演したマチアス・マルジウ。小説『パリの人魚』に登場する不思議な機械 "VOICE-O-PHONE"(スピード写真のように、瞬時にして自分の声のレコード盤ができるコイン式自動販売ボックス)や、四面ハーモニカ "コクリコフォン"などが実在することを証言。また聴く者に死をもたらしてしまう人魚の声のメロディーを実演したりしている。



 

2019年2月22日金曜日

モン・デュー、モン・デュー....

『幸運にして』
"Grâce à Dieu"

2018年制作フランス/ベルギー合作映画
監督:フランソワ・オゾン
主演:メルヴィル・プーポー、ドニ・メノシェ、スワン・アルロー
2019年ベルリン映画祭・銀熊賞
フランス公開:2019年2月20日

ず映画のタイトルとなっている "Grâce à Dieu"について。これはフランス語の慣用表現で、「さいわいなことに、幸運にして」という意味であるが、字句通りには「神のおかげで」と訳せる。これはカトリック教会リヨン司教区の最高責任者バルバラン枢機卿が、20-30年前の同教区内のプレナ司祭による百件を超えると言われるペドフィリア事件が告発によって世に公表された際に行った記者会見の中での表現である(実話。このシーンは映画の中で出てくる)。
Nous sommes confrontés à des faits anciens, et grâce à Dieu, tous ces faits sont prescrits.
私たちは古い過去の諸事件と向き合っているが、幸いにして(神のおかげで)これらのすべての事件は時効となっている。
映画では、この発言の直後にひとりのジャーナリストがこの枢機卿の「神のおかげで」という表現に噛みつき、「これが幸いなことなのですか?」と詰め寄る。言わば枢機卿の失言であったのだが、ここに「神 Dieu」が介在するため、ことは二重三重の重みを帯びてしまう。
 このフィクション映画は実際の事件に基づいていて、当事者たる聖職者たちの名前は実名で出され、列挙される事件はこれまで事実と認定されたものだけに限定されている。事件は裁判抗争中であり、結審するまで被告となっている聖職者たちの「推定無罪 présomption d'innocence」は尊重されなければならない。これは上映された映画でも最初と最後の字幕で強調されている。そしてこの「推定無罪」の尊重を主張する被告の弁護人は、この映画の公開延期を求める訴えを起こしていて、フランスの封切り日(2月20日)の前日まで予定通りの公開は危ぶまれていた。しかし直前の2月16日、ベルリン映画祭に出品されていたこの映画は同映画祭の審査員グランプリ・銀熊賞を受賞し、国際的映画人たちはこの映画公開のためにプレッシャーをかけた。2月19日午後、パリ地方裁判所は公開延期要求を退け、予定通り2月20日の公開を正式に許可した。
 1980-90年代、リヨン司教区の司祭ベルナール・プレナ(演ベルナール・ヴェルレー)がボーイスカウト活動などを通じて犯したペドフィリア(彼の場合幼い少年たちへの種々の性的行為)が、30年以上経った今日になって被害者たちが次々に告発し、ブレナ司祭のみならず、その上位聖職者で2002年からリヨン司教区の枢機卿となっているフィリップ・バルバラン(演フランソワ・マルトゥレ)をブレナの性犯罪を知りながら司祭の任を解かず犯罪隠蔽+助長していたとして「非告発 non-dénonciation」の責任を問う裁判抗争に発展した。映画はこの告発がどう始まり、フランスのカトリック教会を揺るがす大訴訟になっていったかを、史実に基づいて描いていく。
 最初の告発者アレクサンドル(演メルヴィル・プーポー)はリヨンのブルジョワ家庭の出で、敬虔なカトリック信者、エリート会社員、金持ち、カトリック系私立学校で5人の子供を教育し、理解ある良妻(夫が少年時に司祭に性的辱めを受けたことを知っている)を持つ。この映画の中の告発者たちの中で唯一、”事件”後もカトリックの神の教えを信じ、一家で教会のミサを欠かさず、子供たちすべてにカテキズムを義務付けている。その子供たちの宗教教育活動を通じて、アレクサンドルはとっくに教会から追放されていたものとばかり信じていたプレナがリヨンに戻ってきて司祭となっていることを知る。彼は怒りと同時に直感的に自分の子供たちがプレナの毒牙にかかってしまう恐怖も覚え、教会に自分が受けた性的辱めのことを含めてプレナを告発し、プレナの解任破門を要求する。訴えは教区の最高責任者バルバラン枢機卿とローマ法王庁にも及ぶのだが、バルバランはこのスキャンダルが外部に漏れることばかりを恐れ、穏便にことを収めようと手を尽くす。バルバラン使命の調停人(女性聖職者)を介して、アレクサンドルとプレナは40年ぶりに再会する。プレナは過去の過ちを性衝動という"病気”と言い訳し、何度もこの問題を教会上層部にも告白して自らも"治療”の努力をしてきたと言い、アレクサンドルに許しを乞う。
 一面的な告発映画ではないということが明らかなのは、このプレナの憐れさの描き方である。この時、キリスト教的意味での「許し」とはどこまでのことか、という問いもあらわれる。儀式的に調停役のマザーはアレクサンドルとプレナの手を結び一緒に祈りの言葉を唱えるのだが、憐れでさもしい男であるプレナの手に屈辱的にその手を合わせ悔し涙混じりに祈祷の言葉を漏らすアレクサンドルにとって、これは踏み絵に等しい。このシーンはこの映画で最も印象的なものだろう。
 しかし、再三の訴えにも関わらず、バルバランはプレナを解任しない。カトリック信者ゆえに、最初は教会に波風は立てまいと思っていたアレクサンドルも苦悶の果てに、ついに裁判に訴えることを決意する...。
 この告訴に端を発して、警察と検察の調査が始まり、別の被害者探しの過程で、フランソワ(演ドニ・メノシェ)のところに連絡がいく。穏やかなアレクサンドルとは対照的に激しやすい性格のフランソワは、その過去は犬に噛まれた傷のように忘れようとつとめていたのに、母親(演エレーヌ・ヴァンサン!)が保管しておいた当時の教会と両親の手紙(両親の告発と教会の返答)の交信記録を初めて目にするや、あの時のおぞましい記憶が蘇り、教会のあまりに誠意なき対応に激昂し、あらゆる手段を使ってプレナと教会を糾弾しようという考えに変わる。フランソワはメディアを味方につけ、他の被害者たちを次々に見つけ出し、被害者団体「解き放たれた言葉 La Parole Libérée」を組織して、このスキャンダルを大々的に喧伝する。この部分、かの『120BPM』(ロバン・カンピーヨ監督、2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)を思わせる糾弾運動の高揚がある。しかし、この運動に合流して大筋は同調している第一告発者のアレクサンドルは、その運動の苛烈さに少し身を引くところもある。
 そしてフランソワによって発見された被害者たちの中に、その性的辱めのトラウマによって精神的にも身体的にも変調(後天性てんかん症状)をきたし、父母の離婚、定職につけないという、様々に傷ついてしまったエマニュエル(演スワン・アルロー、素晴らしい!)という貧しい青年がいる。彼の医者への訴えでは、そのペニスはプレナの執拗な"いたずら"のために(勃起時に)曲がってしまっているが、医者はその因果関係を立証するのは難しいと言う。こういうディテールだけでなく、いろいろ傷ついたエマニュエルの半分人生を捨てたような痛々しさが、この事件の再浮上で一転する。同じ目にあった仲間たちがそこにいると知ったからだ。この男は再生できるかもしれない、という映画で描かれないストーリーが浮かび上がる。

 映画はこの3人のパーソナルストーリーを軸に、それぞれが20-30年前に受けた傷と、その元の悪を追求していく戦いが、最初は個的なものだったのに徐々にコレクティヴ(集団的)になっていく闘争記録でもある。ここ数年、フランスだけでなく、世界のキリスト教の教会内における聖職者によるペドフィリー事件がおおきく問題にされている。カトリック聖職者になるための戒律として極端に抑圧され禁止される性欲のせい、と説明されることが多いが、この映画でプレナ司祭が自ら言ってるようにペドフィリアは「病気」であり、医学的疾患と解釈されるべきだろうし、その性衝動に起因される性的暴行は犯罪である。おそらく教会が成立した頃からこの問題はあったであろうし、それは教会という「聖域」の中でタブーとなっていた。歴史的に文献の中にはカトリック教会のみならず、世界の宗教の常軌を逸した裏事情が多く残されている。しかしその裏のさまざまなことが、神という権威の後ろ盾のもとに行われている場合がある。そこが重要なところで、この映画でも、再現シーン(行為は映されないが)としてボーイスカウトのたくさんの少年たちの中から指導者(聖職者)がひとりの少年を選び出して、キャンプテントの中に連れていくという場面が出てくる。後年の被害者たちの証言が同じように「あの時、最初は自分は"選ばれたのだ”とうれしく誇りに思った」と言うのである。年端のいかない子供たちで、日頃神の教えをリーダー(聖職者)から復唱させられている子供たちにあって、ある日ひとり "選ばれ”たら、それは神のメッセージが介在していると思ってしまわないか。そして、この再現シーンで、"選ばれなかった”子供たちは、嫉妬しているような顔になるのだ。被害者の証言はみな同じように、聖職者は「これは私ときみだけの秘密だ」と言ったというのである。
 フランスでカトリック教会の勢力/影響力は20世紀後半からだいぶ落ちていると言われている。その中でも古都リヨンは、まだまだ信者は多く、この映画でも告発を決意した被害者たちは「リヨン中を敵に回している」ような圧力を感じている。その圧力というのは、たとえ事実はどうであってもカトリック教会に醜聞を起こすべきではない、というものだ。神と教会は違うものなのだが、何世紀もの間、人はそう思っていないようなのだ。
 映画の終盤で、すでにキリスト教の信心を失っていたフランソワは、幼い頃に受けた洗礼を無効にして正式に離教の手続きを取ったと宣言し、被害者団体「解き放たれた言葉」は全員俺と同じように離教しようと訴えた。しかしこの裁判抗争がどんなに進行しても敬虔なカトリック信者であり続けるアレクサンドルはそれを承諾しない。さらにもっと終わりの頃に、アレクサンドルの子供のひとりが「パパはまだ神様を信じているの?」と問うシーンあり。モン・デュー、モン・デュー...。

(プレナ司祭とバルバラン枢機卿を被告とする裁判の判決は2019年3月7日に下される予定である)

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランソワ・オゾン『幸運にして(神のおかげで)』予告編


(↓)「空はいま 屋根の上に」ポール・ヴェルレーヌ(1881年)
Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là,
Simple et tranquille.
Cette paisible rumeur-là
Vient de la ville.

– Qu’as-tu fait, ô toi que voilà
Pleurant sans cesse,
Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà,
De ta jeunesse ?