2019年9月28日土曜日

未刊で未完

Françoise Sagan "Les Quatre Coins du Coeur"
フランソワーズ・サガン『心の四隅』

 ガンさんがしゃがんだ。
(↑だるまさんがころんだのリズムで読むこと)

フランソワーズ・サガン(1935-2004)の死後15経って初めて出版された未発表の未完小説です。本書の序文で息子で写真家のドニ・ウェストホフが、この草稿を母の死後に発見し、そのままでの刊行を試みたが果たせず、ウェストホフ自身が何年かかけて掠れた文字を想像で復元したり、不要と思われる箇所を削除したり、ある種の「校正加筆」をほどこした上で、ようやく出版にこぎつけた経緯を説明しています。サガンの未発表作であれば、大出版社が競って権利争奪戦をしそうなものですが、どうもそうでもない事情なんでしょう。
 何読んでもみな同じ、という頑迷な先入観から、個人的にほとんど読んでいない作家ですが、そういう個人的サガン観も含めて爺ブログでは2008年にディアンヌ・キュリス監督のサガンのバイオピック『サガン』(↓予告編)の紹介記事「流行作家はお好き?」を書いてます。読んでみてください。

 
 さて200ページの未発表・未完小説『心の四隅』です。20世紀後半、80年代頃でしょうか、小説中にフランスからの農産物を輸入している日本の商社をVIP接待するシーンが出てくるので、そういう日本商社マンがフランスで肩で風切って闊歩していた時代でしょう。そう、日本は先端産業国でフランスは農業国とあの頃の人たちは思ってましたわね。それはそれ。フランス中部、ロワール川流れる内陸の古都トゥールの近郊で、クレッソンなどの野菜の輸出で巨万の富を築いたその名もクレッソン家という大富豪家の屋敷が舞台です。大庭園に囲まれたその城館は「ラ・クレッソナード」と呼ばれ、金はあるが審美眼のまるでない当主の悪趣味で、建築様式も家具調度も装飾品(コンテンポラリーアートとミロのヴィーナスのコピーが混在する)もめちゃくちゃだが、住んでいる家族は頓着していない。ゴリ押しのブルドーザー型実業家のアンリ・クレッソンは地場産業(農業)に貢献し、地元に多くの職をもたらした土地の名士にして実力者です。金と権力にものを言わせるけれど、超俗物として描かれているわけではない。出来の悪いひとり息子をなんとかしなければ、という親心もあるし、高級娼館のマダムと懇親の仲という粋人のようなところもある。その出来の悪い息子リュドヴィックは、若くして死んだ先妻との子で、軟弱に育ち、人からもバカ息子に見られ、名門家の後継者として最低の評価をされてきた。それでも20代を過ぎ、パリ出身で都会的に洗練された女性マリー=ロールと恋(これはどうかわからない)に落ち、晴れて結婚して城館ラ・クレッソナードに迎え入れます。
 しかし、リュドヴィックがマリー=ロールにプレゼントした超高級スポーツカーは、新妻の運転中に大事故を起こしてしまい、運転席のマリー=ロールは大したケガもなかったのに助手席にいたリュドヴィックは医師も助からないと判断したほどの瀕死の大重傷を負います。病院の絶望的診断にも関わらず、数日間の昏睡状態からリュドヴィックは奇跡的に蘇り、骨も内臓も治療復元不可能だったのが長い月日をかけて元の状態に戻り、口が全く聞けないほどの精神障害も精神病棟の中で少しずつ回復し、3年の歳月をかけてリュドヴィックはラ・クレッソナードに無事の生還を果たします。
 ところが暖かく帰還を迎えてくれるはずの妻マリー=ロールは、3年前に亡くなってしまえばよかったと言わんばかりに、この幽霊のような夫を終わった男として拒絶し、離婚の意思を表明し、一緒の寝室で眠ることを拒否します。その上弁護士と連絡を取り、巨額の離婚慰謝料はせしめるつもりです。
 この嫁による「寝室拒否」のエピソードを、城館のプラタナスの木の影で聞いていた父親アンリは、性悪な嫁との離婚はしかたないと思いつつも、それよりも出来の悪い息子をどん底から救い出さなければならないと考えるのです。マッチョな家父長の知恵ですが、アンリは長年の裏側のつきあいである(非合法)高級娼館の主マダム・アメルに助けを借り、性快楽によってリュドヴィックに立ち直る下地をつくらせます。3年間薬浸けにされ、療養所、リハビリセンター、精神病棟で植物的に変身させられ、その上妻の拒絶でさらに腑抜けになった男は、性セラピーで回復していきます。
 周辺地方の誰もが知ることになったクレッソン家の跡取り御曹司の瀕死の事故、すなわちクレッソン帝国の存続の危機という悪評を振り払うため、当主アンリは3年後跡取りが全快して復帰したことを公に大々的に示すために、城館での全快大祝賀パーティーを企画します。予算に糸目をつけない大パーティーです。その宴の企画と采配のために、アンリが白羽を立てたのがマリー=ロールの母親のファニーでした。ファニーはパリの有名オート・クチュリエの助手として働くやり手の管理職レディーで、最愛の夫カンタンに先立たれ、女手ひとつでマリー=ロールを育てました。仕事ができ、職業柄上流社会の趣味も知り尽くしていて、美しく、華のある熟女、おまけにクレッソン家の内部事情にも熟知している。これ以上の適材はない、とアンリはファニーの夏のヴァカンスを返上させて、2ヶ月でこの大宴会の準備をさせるため、城館にひと部屋もうけてファニーを滞在させます。
 さて当主アンリ、跡取り息子のリュドヴィック、その妻のマリー=ロール、新しく住人となったファニー、この4人のほかに城館にはアンリの二番目の妻であり病気がちであまり人前に出てこないサンドラ、そしてサンドラの弟でサンドラが嫁いだクレッソン家の財産にたかって生きている遊び人のフィリップの二人がいます。この6人は城館のダイニングで三食を共にするのですが、新座のファニーはこの5人の間に虚飾の会話はあっても、人間的なコミュニケーションが何もない、ということに気づきます。やや暴君的な性格のアンリの財産にすべてを負っている、という恐れからなのか、財産を狙っているという魂胆からなのか、それとも情緒が本当に欠落しているのか。
 異変はリュドヴィックから起こります。軟弱で才気のないボンボンだったこの男は、母親の年齢とも思えるファニー(妻マリー=ロールとの縁からすると"義理の母”)に恋心を抱いてしまいます。ファニーは娘マリー=ロールを不幸にさせたくないからと拒否するのですが、亡き夫カンタンを除いて最愛の男性はないとしながらも、隠れて若いツバメちゃんと楽しむのも...と揺れていきます。その上軟弱だったボンボンは、上述の「性セラピー」のおかげで精悍な男性に変身していたのです。
 それを全く知らない父親アンリは、病気がちでわがままな妻サンドラに愛想を尽かしかけていて、ファニーの城内登場以来、サンドラと離婚してファニーと再婚することを真剣に考えるようになります。
 リュドヴィックとファニーの情事は、よくある「テアトル・ド・ブールヴァール」(大衆喜劇、特に"寝取り””寝取られ”をお笑い題材にするものが多い)のように、城館内でバレそうでバレないコミカルさで描かれます。この小説のサガンの文体は辛口な滑稽さで、おのおのの人物の欠陥部分を意地悪く皮肉ります。辛口人情喜劇風な名調子でもあります。
 それはかの大宴会が近づくにつれて、恋慕もたくらみも破滅の契機もどんどんクレッシェンド的に高ぶっていきます。わくわくですよね。そしてすべての仮面が剝げ落ちるであろうその宴の夜は...。この小説はそこを書くことなく未完成で終わるのです!

 それはフランソワーズ・サガンの本意ではもちろんなかったでしょうが、これでは意地悪ばあさんと言われてもしかたないでしょう。朝吹登水子先生(1917-2005)亡きあと、このサガンの未完成遺作は朝吹由紀子先生がお訳しになるのでしょうが、ファンの方は待っていなさい。上流階級、スポーツカー、城の生活、倦怠、火遊び、年の差のある恋... サガンはサガンである、と思い知りましょう。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

Françoise Sagan "Les Quatre Coins du Coeur"
Plon刊 2019年9月19日 202ページ 19ユーロ

(↓)国営テレビFRANCE TV INFOがこの『心の四隅』の刊行に合わせて作った「サガン、自由に生きる Françoise Sagan, Vivre en liberté」と題するモンタージュ・バイオグラフィー。

2019年9月20日金曜日

Happy End

ラシッド・タハ『アフリカン』
Rachid Tana "Je suis Africain"

2018年9月12日、あと6日で60歳になるはずだったラシッド・タハは心臓発作のためにこの世を去った。1987年に難病「アーノルド・キアリ病」と診断され、この脳の奇形に起因する脊髄の障碍によって、身体の機能が徐々に麻痺していった。長い年月この病気に侵食され、とりわけその平衡感覚が失われていった。ステージでよろける姿を見て、この難病の症状であることを知らぬ人たちはメタメタに酔っ払ってるとなじったものだ。2016年からこのアルバム『アフリカン』をラシッドと二人三脚で準備していたトマ・フェテルマン(Toma Feterman、ラ・キャラヴァン・パスのリーダー。本アルバムのプロデュース、共作曲、編曲、ほとんどの楽器の演奏)は、
骨が少しずつ石灰化していき、彼の腰と右手は完全に麻痺していた。彼は触る感覚も失っていて、ボールペンを持つこともできず、俺が彼の口述する歌詞を書きとめなければならなかった。
と証言している(2019年9月、国営ラジオFRANCE INFOのインタヴュー)
 20歳年が離れたラシッド・タハとトマ・フェテルマンの親交は、ラ・キャラヴァン・パスのアルバム "CANIS CARMINA"(2016年リリース)に2曲ラシッドがゲスト参加したことに始まる。(↓)ラ・キャラヴァン・パス+ラシッド・タハ「ババ」

この曲のヴォーカル録音のためにラシッドは俺の家(ホームスタジオ)に来たんだ。録音が済んで夜になったんだが、機材をそのままにしといてくれって言うんだ。これから歌作りをしよう、ってね。彼にヘッドホンをつけさせ、俺はギターを構えた。そして俺に、悲しくて同時に陽気なようなメロディーを弾いてくれ、と。こうして俺たちのインプロヴィゼーションは始まった。その夜だけで12曲つくった。このアルバムに入っている"Andy Waloo"、"Minouche"、"Happy End"はその時つくったものだ。(同インタヴュー)
それから数ヶ月、二人は定期的に会いトマのホームスタジオで同じようなやり方でインプロセッションをし、しまいにラシッドはトマにこのアルバムをおまえのプロデュースで作ろう、と。このプロジェクトは発端から数えると2年の歳月を費やすことになる。
俺はラシッドにこう言った:「あんたはもうじき60歳になるんだ。あんたがのべつまくなしに叫んだり飛び跳ねたりするようなアルバムにはしたくないんだ。俺はあんたと一緒に"オリエンタル・パンク・クルーナー"のアルバムをつくりたいんだよ」。そしたら彼は目を大きく見開いたんだ。ここアイディアが気にいったのさ。(同インタヴュー)
と、ここのところの話はもうひとりの孤高のロッカー、ダニエル・ダルク(1959-2013)ととてもよく似ている(ラティーナ2019年9月号の拙記事「ダニエル・ダルク、あるロックンローラーの生と死」読んでください)。2004年に年下のシンガーソングライター、フレデリック・ローのホームスタジオで、2年がかりでローと二人三脚でつくった傑作『心臓破り(Crève coeur)』は正真正銘の"パンク・クルーナー"のアルバムだ。ダニエルとラシッド・タハは同じ1959年生まれだった。

 レ・ザンロキュプティーブル(「泣けるほど美しい」)、リベラシオン(「最高の遺作」)、テレラマ(「溢れ出る活力、胸を刺す遺作」)、フィガロ(「いまだかつてなく活き活きとしたラシッド・タハ」)などメディアの大絶賛に迎えられて2019年9月20日にリリースされた、ラシッド・タハ11作目のアルバム『アフリカン(Je suis Africain)』、10曲38分。先行で発表されたアルバムタイトル曲 "Je suis Africain"のヴィデオ・クリップ(↓)は打ち上げ花火のように華やかで祝祭的な雰囲気の中、不在の故人に代わって現れる(レコーディングに参加しているわけではない)ゲストスターたち:オクスモ・プッチーノ、ムース&ハキム、フェミ・クティ、アニエス・B、カトリーヌ・ランジェ、バンジャマン・ビオレー、ジャンヌ・アデッド、クリスチアン・オリヴィエ、ムールード・アシュール...

われらすべてアフリカン、マニフェスト的な誇りに溢れるこのアフロ・オリエンタル・ポップの歌詞に登場する(ネーム・ドロッピングされる)"アフリカ人”たちとは、マンデラ、ラ・カヒナ(7世紀ベルベル女王)、マルコムX、カテブ・ヤシーヌ、ジミ・ヘンドリックス、ジャック・デリダアンジェラ・デイヴィスフランツ・ファノンパトリス・ルムンバトマ・サンカラ、ボブ・マーリー、ハンパテ・バー(マリの作家/人類学者)、エメ・セゼール、そしてラシッド・タハとなっている。
  ジャケットを開くと、ビートルズ「サージェント・ペパーズ」にも似た50人ほどの偉人/著名人たちの似顔絵イラストが中央のラシッドの似顔絵を囲んでいる。上の"Je suis Africain"でネーム・ドロッピングされた人物だけではない。このアルバムはラシッドはもちろん「遺作」を意識してつくったわけではない。しかしこれらの人々はラシッドの人生に大きな影響を与えたであろうし、人生の終わりに謝辞を捧げているようなアルバムになってしまった。それほどアルバム中のネーム・ドロッピングは重要である。
ー 5曲め "Wahdi" : ファリド・エル・アトラッシュ
ー 7曲め "Andy Waloo" : アンディー・ウォーホル、ハリル・ジブランウマル・ハイヤームアブー・ヌワース、エルヴィス・プレスリー、ボ・ディドリー、エディー・コクラン、ウーム・カルスーム、ルー・リード、ジョニー・キャッシュ、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ジャン・マレー
ー 9曲め "Like A Dervish" : マイルス・デイヴィス、エルヴィス・プレスリー
ー 10曲め "Happy End" :マルレーネ・ディートリッヒ、ウィリアム・シェイクスピア
ジャケット内側のイラストにはこれらの歌に出た人たちのほかに、カール・マルクス、ジョン・レノン、パティー・スミス、カルロス・サンタナ、ブライアン・イーノといった人たちの顔も見て取れる。生きている人も中にはいるが、ラシッドの音楽と思想と生き方にインスピレーションを与えてきたこれらの偉人たちと、ラシッドは今や同じところにいるのかもしれない。
 5曲め "Wahdi"でデュエットしている素晴らしい女性歌手 Flèche Love(フレッシュ・ロヴ)ことアミナ・カデリは、スイス在住のアルジェリア系アーチストで、ラシッドが YouTubeで発見して、アルバムにこの声が欲しいとトマ・フェテルマンに猛烈に要求したのだそう。フランス語とアラブ語とスペイン語の混じるメランコリックなバラード。
 言語のゴチャ混ぜはこれまでもラシッドの特徴でもあったが、このアルバムではなんと英語曲がある。歌詞でもろに "This is my first song in English"と紹介する9曲め"Like A Dervish"。だがすぐにごまかし、インチキをし、"My English is not so rich"と照れる。ダンサブルだし、カルト・ド・セジュール時代のようなアラビックビートだし、2曲め "Aïta"と共にダンスフロアーに直行のナンバー。
 しかし、しかし、俺の言語はアラブなんだよ、と最後に言ってしまう。愛の言葉、俺はどんな言語でも言えるけれど、おまえの心に残るのはアラブ語だろう。そういうことをアルバムの最終曲で、最も美しいシャービに乗せて歌うのですよ。これが幸せな終わり。ハッピーエンド。どうして、こんな出来過ぎの終わりができるのか。本当にこれで終わりなのか。

俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
おまえは俺の命、おまえは俺の愛
おまえは俺の命、おまえは俺の愛
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
イッヒ・リーベ・ディッヒ
だいたいそんなことはどうでもいい
俺はマルレーネ・ディートリッヒが大好きだ
テ・キエロ
アイ・ラヴ・ユー
テ・キエロ
ハビビ
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
アイ・ラヴ・ユー
モナムール
イッヒ・リーベ・ディッヒ
ほかのことはどうだっていい
おまえを心から愛している
それは月並みな言葉だって知っている
おまえをいつだって愛している
こうなると、俺だって美しい
あらゆる言語で俺が歌を歌うことができたら
俺の口からシェイクスピア物語が出てきただろうに
だけど俺の言語はアラブ語なんだ
そんじょそこらにあるアラブ語じゃない
俺の言語はおまえの心に残る
アラブ語なんだ
("Happy End")


<<< トラックリスト >>>
1. Ansit
2. Aïta
3. Minouche
4. Je suis Africain
5. Wahdi (feat. Flèche Love)
6. Insomnia
7. Andy Waloo
8. Striptease
9. Like A Dervish
10. Happy End

RACHID TAHA "JE SUIS AFRICAIN"
CD/LP NAIVE/BELIEVE
フランスでのリリース;2019年9月20日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2018年9月「ラシッド・タハ死去 」を報じるモロッコMEDI 1 TVの仏語ニュース。



 

2019年9月17日火曜日

秋の日の ヰ゛オロン

Akira Mizubayashi "Ame Brisée"
水林 章 『折れた魂柱』

ジャックは会計をすませ、ギャルソンに食事を長引かせ深夜まで居残ったことを詫びた。そして二人はレストランを出た。
「あらいやだ、雨が降ってるわ」とエレーヌは呟いた。
わが心に涙が降るごとく、巷にも雨が降る
「それ順序があべこべよ」

「知ってるよ、でもこれは自然に僕の口から出てきたんだ...」
               (『折れた魂柱』p110 )

 作者自身もヴェルレーヌを援用しているので、私もこの記事タイトルに、おそらく日本人が最も親しんでいるフランス詩人、ヴェルレーヌを。お立会い、これは壮大なるヴァイオリン小説です。
まず題名の中の"âme"ですが、通常「魂、精神、心」といった訳語が付されるものです。これがヴァイオリン類の弦楽器では、共鳴胴内部で表板と裏板の間に立てられる棒の柱のことであり、日本語では魂柱(こんちゅう、たまばしら)と呼ばれ、表板の振動を裏板に伝え楽器全体が同じ振動で共鳴するために絶対的に必要なものです。ですから題名"Ame brisée"は仮に「折れた魂柱」と訳しましたが、これはもちろん文字通りに訳せる「壊れた魂」「砕けた心」の意味も同時に含んでいるのです。この魂柱を割り砕き、人間たちの心に消え難い傷を負わせるのは日本の軍国主義であり、戦争であるのです。
 小説の始まりは1938年、場所は東京渋谷(神泉)、二人暮らしの父と子、教養人で英語教師でアマチュア音楽家(ヴァイオリニスト)であるミズサワ・ユウが11月の日曜日、子供を連れて区の文化公民館の一室で弦楽四重奏の練習を。11歳の息子レイは一緒についていくが、何よりも今読んでいる本に夢中で、練習中も退屈することなく熱中読書。その本は吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』(1937年新潮社刊。これが2019年9月現在宮崎駿が制作中の最新アニメ作品の題名であり原案小説である、という話はこの小説とは全く関係がない)で、この本はレイの一生の友になっていくのです。さてユウの四重奏団のほかの3人(男2+女1)は中国人留学生で、1937年の日中開戦以来その滞在が危険なものになっているものの、学問の自由をまだ信じて勉学を続けている。紅一点のヴィオラ奏者ヤン・フェンは流暢で誰もがネイティヴと思うような日本語を話す。このことが彼女の運命と大きく関わり、日本・フランス・中国にまたがるこの小説の重要な核のひとつとなります。ここにひとりのフランス人フィリップが介入します。この男はフランスの新聞社の日本駐在記者でしたが、日本の軍国主義化によって報道活動の困難と危険を覚え、緊急にフランスに帰国することになっている。友人のユウにそのことを告げに来たのだが、ユウが四重奏団の練習中だったので、その晩ユウの自宅に出直して話すことに。フィリップが去ったあと、日本人を第一ヴァイオリンとしてあとの3人を中国人で固めた弦楽四重奏団はシューベルト弦楽四重奏曲第13番イ短調『ロザムンデ』D804の練習を繰り返す。
 前章とエピローグに挟まれたこの小説の本編4章は、この『ロザムンデ』の4楽章と同じ  " 1. Allegro ma non troppo / 2. Andante / 3. Menuette - Allegretto / 4. Allegro moderato " と名付けられていて、この小説がこの楽曲とシンクロしていることを示しています。
 そしてこの4人の練習中に、日本兵(憲兵隊)が乱入してきます。その気配にユウは息子のレイを練習広間に隣接する物置場の中の大きな戸棚の中に身を隠させます。レイはその後に起こる事件を戸棚の内部から鍵穴を通してしか知ることができない。憲兵隊はユウを敵国音楽(シューベルトはオーストリア人で、今やオーストリアはナチスドイツに占領されたので敵国ではない、とユウが教養ある反論をし、憲兵の逆上を招く)を敵国人(中国人)と演奏する非国民であり、敵国諜報員に違いないと決めつけ、ユウに殴る蹴るの蛮行、その上ユウのヴァイオリンを叩き割り、軍靴で潰してしまいます。そこへ上官のクロカミ中尉が現れ、部下の乱暴をやめさせ、スパイではなく本当の音楽家であるかもしれないではないか、とユウに一曲演奏するよう命じる。自分の楽器が壊されたので、四重奏曲はできないと、ユウは第二ヴァイオリン奏者からヴァイオリンを借り、ソロで小作品を見事に奏でます。するとクロカミ中尉は「バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番のガヴォットですね」と曲を言い当て、その演奏を称賛します。 この音楽愛好家の軍士官の登場でその場は救われたと思いきや、軍上層部からの伝令が割り込み、全員検挙の命令が下されます。部下たちが4人の音楽家を逮捕連行したあとも、この光景に無念を感じた中尉は踏みにじられたヴァイオリンの残骸を手にして、控えの物置室に入ると人の気配を感じ、大きな戸棚を開けてみるとひとりの少年が震えながら隠れている。背後から中尉を探して迎えに来た部下たちの声がして、とっさにクロカミはこの壊れたヴァイオリンを少年に手渡し、戸棚をしめて、何事もなかったように部下たちに合流していきます。
 重要なディテール忘れてました。憲兵たちが乱入してきた時に、ユウはヴィオラ奏者ヤン・フェンを「私の妻のアイコです」と日本人と偽って庇おうとします。これが純粋にとっさの機転だったのか、それともユウの秘めた想いが発露したのか、2000年代まで中国で生き残ったヤン・フェンにずっと後をひくことになり、ヤン・フェンは独身を通しました。それはそれ。
 レイは壊れたヴァイオリンと『君たちはどう生きるのか』の本を持って、歩いて家までたどりつきますが、その途中で一匹のシバ犬と出会い、父親が鍵を持ったままなので家に入れず門前で座り込んで寒さに震えているのを、このシバ犬が体を寄せつけて暖をわけてくれるという美しい話が挿入されます。そしてその晩、ユウとの約束でやってきたフィリップがこの状況を完璧に把握して、レイの父ユウはもう生きて戻ることはないと判断し、フランスに孤児としてレイを連れていき、養子としてフランスでフランス人として育てるのです。これが壮大なる小説の始まりです。

 ミズサワ・レイは11歳でフィリップ・マイヤールの息子ジャック・マイヤールとして生まれ変わり、フランス人として教育され,、ヨーロッパのヴァイオリン工芸の聖地であるフランスのミルクール(ヴィヨーム)とイタリアのクレモナ(ストラディバリ、アマティ、ガルネリ)で修行を積んで一流のヴァイオリン工芸職人となっていきます。その修行時代のミルクールで知り合ったヴァイオリン弓職人のエレーヌと恋に落ち、二人はカップルとなってパリでヴァイオリンと弓の製造・修繕アトリエを持ちます。ジャックは日本を離れて何年経とうが日本語を忘れることを避けるためにかの『君たちはどう生きるのか』を繰り返し読み続けます。そして十分に腕の立つ職人としての自信がついた時から、父ユウの遺品である砕かれたヴァイオリン(19世紀製造のヴィヨーム)を少しずつ修繕し、十数年の年月をかけて完全に復元することができたのでした。
 ジャックの個人史のすべてを知るエレーヌは、国際ヴァイオリンコンクールで優勝し世界的に注目されている若き日本人ヴァイオリニスト、ヤマザキ・ミドリにジャックとの繋がりを直感します。 そのインタヴューで「元軍人の祖父によってヴァイオリニストへの道を拓かれた」という箇所にピンと来たのです。
 半信半疑でコンタクトを取ったミドリは、まさしく元陸軍中尉クロカミの孫であり、ジャックは60余年もの間帰ったことのなかった日本にミドリに会いに行きます。「ジャック・マイヤール ⇄ミズサワ・レイ」というひとりの中の二つの人格を行き来する小説ではありませんが、この日本への旅は「失われたミズサワ・レイを求めて」の旅という性格を帯びます。ヤマザキ・ミドリとその母のヤマザキ・アヤコ(故クロカミ・ケンゴの娘)の前に立ったフランスからやってきた老ヴァイオリン職人は「ミズサワさん」なのです。この母娘から元陸軍中尉がどんなに戦争を憎み、自分が加担した戦争を恥じ、苦しんでいたか、そしてあの戸棚の中にいた少年がどうなったかをどんなに案じていたかを聞かされます。特に死期が近づき、幻覚が襲ってきて、戦争を呪う妄言が著しくなっていった、と。クラシック音楽、とりわけ弦楽曲を深く愛していた元中尉は、聞くレコードにも偏愛があり、深い想いを持って何度も聴いていたのがシューベルト弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」であった、と。孫のミドリに大きな影響を与え、世界的なヴァイオリニストになるきっかけを与えたクロカミ・ケンゴは、晩年に孫ミドリと娘アヤコを同行者として長年の夢だったヨーロッパのクラシック音楽聖地めぐりの旅に出て、ベルリン、ウィーン、プラハなどを訪問した際に、ヴァイオリンの聖地イタリアのクレモナ、そしてフランスのミルクールも訪れていた。1938年のあの夜、部下憲兵によって砕き壊されたヴァイオリンが19世紀にミルクールで作られたヴィヨームであったことを知っていたからではないか。その旅は元中尉にとって日本の軍国主義によって破壊された音楽と楽器と音楽家への供養と懺悔の旅ではなかったか。
 
小説中最高に美しい小話のひとつ:ミズサワ・レイが東京のヤマザキ・ミドリの家で昼食に母アヤコが料理したトンカツを食べます。白いご飯と味噌汁をなつかしく口にしながら、突然に1938年11月のあの日の朝、父ユウと食べた朝食を思い出し、アヤコに勝手なお願いで恐縮ですが「生卵一個いただけませんか?」と。小鉢に卵を割り、箸でかき混ぜ、醤油を少し垂らし、それをご飯茶碗にかけ「生卵ごはん 」で食べたのです。プルーストのマドレーヌよろしく、ここでレイは60数年前のあの朝の記憶が鮮明に蘇り恍惚となるのです。この光景を見たミドリとアヤコは、クロカミ・ケンゴがあのヨーロッパ旅行中、しかも終盤のフランスのミルクールで、長旅で続いた欧風料理の食事が口に合わず何も食べられなくなり、ミドリとアヤコがここならば食べられるものがあるだとうと連れて行ったミルクールの町の中華レストランで、それでも何も食べられず、ケンゴが「白いご飯と生卵を」とわがままを注文し、本当においしそうに「生卵ごはん」を食べたというエピソードを話すのです。最高じゃないですか、生卵ごはん。フランス人読者にどこまで感動が伝わるか。日仏バイリンガルな自分が本当に徳だと思える瞬間です。この挿話は extrêmement délicieux, un régal、 水林章にごちそうさまと言いたいです。
 
 小説はそれぞれの戦争と戦後を終わらせるための長い旅のようです。戦争を憎み、愛する音楽のために苦しんで死んだクロカミ・ケンゴと、音楽を愛したまま虐殺された父ミズサワ・ユウの魂を鎮める仕事がレイに託されていたわけです。戦争に破壊されたヴィヨームの名器ヴァイオリンは、ジャック・マイヤール/ミズサワ・レイが完璧に復元し、それを試した世界的ヴァイオリニスト、ヤマザキ・ミドリは驚異と感動でヴァイオリンのように打ち震えます。レイはこのヴィヨーム(+エレーヌ作の弓)をミドリに進呈し、ミドリはそれまでの愛器ストラディヴァリウスをしまい、このヴィヨームで世界の演奏会に臨むことになります。
 一方、中国上海の病院で闘病生活を送っていたヤン・フェンとも60数年後にコンタクトが取れます(インターネットってすごいですねぇ、としか言えません)。余命いくばくもないヤン・フェンのいる上海に飛んでいったレイ。ヤン・フェンはレイの父ユウがあの1938年11月の夜に特高に連行されてから、どのように最後の日々を生きていたかを知りうる限り証言します。遺品はふたつ。特高に見つかってはまずいと判断したのだろう、捕まる前にとっさにユウから手渡された小林多喜二『蟹工船』の本(ヤン・フェンはこれをスカートの中に隠して難を逃れた)、そして若くして死んだレイの母が着ていたカーディガン(ユウが寒い練習の日にヤン・フェンに着せて貸したままになっていた)。ユウの最後をレイに話し、遺品ふたつを手渡すことによって、ヤン・フェンの長い戦後は終わったのです。
 そしてフランスに戻り、月日は流れ、ある日、ヤマザキ・ミドリがアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」のプログラムでパリのクラシックの殿堂サル・プレイエルでコンサートを開くので、と招待を受けます。舞台から十数メートル離れた中央席という最良の音響で聴ける場所に座らされたジャックとエレーヌ。かの名器ヴィヨームでベルクの協奏曲を見事に演奏しきったミドリは、アンコール楽曲に入る前にフランス語で聴衆に、手に持っているこのヴィヨームのヴァイオリンの辿った数奇な運命、祖父の陸軍中尉と日本人アマチュア演奏家の出会いと悲劇、その演奏家の息子がフランスに亡命して世界的ヴァイオリン工芸家となり、このホールに臨席していること... を長々とスピーチし、大喝采を浴びるのです。そしてアンコール曲として、あの日ミズサワ・ユウの四重奏団がリハーサルしていたシューベルト弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」を、さらに再アンコールに、あの夜ミズサワ・ユウがクロカミ中尉にソロで演奏して聞かせたバッハ無伴奏パルティータ第3番ガヴォットを...。

 たいへんな音楽小説であり、水林章の音楽愛と、その音楽を描写する詩的な文体から音楽が流麗に聞こえてくる240ページ長編です。前作『千年の愛(Un amour de Mille-ans)』(2017年)については、2017年5月15日号のオヴニー紙に「フランス語愛とモーツァルト:水林章『千年の愛』を読む」という記事を書きました。これもモーツァルト歌劇『フィガロの結婚』 をめぐる壮大な音楽小説でしたが、その記事でも触れているようにその主人公も日本の(ポスト福島的現在の)状況に追われるように、病めるフランス人妻とフランスに移住してきます。日本の戦前回帰的傾向も作者の苦悩の種になっています。軍靴によって踏みにじられたヴァイオリンの魂柱を立て直し、父ユウと元中尉クロカミとヴィオラ奏者ヤン・フェンの戦争と戦後を終わらせ、鎮魂するのは、ジャック⇄レイとエレーヌとミドリ(+アヤコ)の共同体であり、それは音楽によってなされるのです。私はそのオヴニーに書いた前作紹介記事で、水林のフランス語表現の有効性を強く感じて、バイリンガルの狭間に立っても、これはこちら側(フランス語側)の小説であり、日本語訳が遅くなっても別にかまわないと書きました。しかし、この新作『折れた魂柱』 は、戦争のこと、日本の政治/文化状況のことを考えれば、日本人にこそ読まれなければならない小説だと思いますよ。水林先生、ぜひ日本語化を考えてください。

カストール爺の採点:★★★★☆

Akira Mizubayashi "Ame Brisée"
Gallimard刊 2019年8月 240ページ 19ユーロ 

(↓)シューベルト弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」



 

2019年9月14日土曜日

異端 ・トゥー・フォーエヴァー


『ジャンヌ』
"Jeanne"


2018年フランス映画
監督:ブルーノ・デュモン
主演:リーズ・ルプラ=ブリュドム(ジャンヌ)、特別出演ファブリス・ルキーニ(王シャルル7世)
原作:シャルル・ペギー
音楽:クリストフ
フランスでの公開:2019年9月11日

が観たわが町のランドフスキー名画座(平日15時45分の回。平日のこの時間は客はほとんど老人ばかり)では、上映開始5分後にすでに立って退場する観客が数人いました。開始早々「えらいものを観にきたもんだ」という戸惑いは私にもありました。海が近いであろう灌木と砂丘の荒野、セットなどない殺風景な丘陵に時代(15世紀)の扮装だけはしている少人数の登場人物が、セリフ棒読みアマチュア演劇のようなダイアローグを。ジャンヌ・ダルク物語と聞いて、歴史的大絵巻物のような映画を想って観にきたのかもしれない善良な老人たちは、すぐさま「これは違う」と気付いて退場して行ったのだろう。わかりますよ。私だって、これ最後まで観れるだろうかと不安になりましたもの。低予算、活劇なし、素人演技,,, その上、音楽が大きくフィーチャーされていて、エレクトロニクス楽器の調べに乗って老巨匠クリストフが切れ切れの高音ヴォーカルで長々とジャンヌへのエレジーを歌うのですよ。耐えられない人もいましょう。
歴史的事件はこうです。イギリスとの百年戦争で領地を大幅に奪われたフランスは、1429年、神からのお告げでフランスを救うために立ち上がった少女ジャンヌの率いる軍によりイギリス(+ブルゴーニュ連合)軍を破り、オルレアンを解放し、フランス王位後継者シャルル7世を戴冠させた。ここでジャンヌは救国の聖女と崇められるのですが、シャルル7世は「首都」パリ解放をジャンヌに命じ、この戦いに赴いたジャンヌは初めて敗北を喫してしまいます。英国に同盟したブルゴーニュ軍によりコンピエーニュで捕らえられたジャンヌは、英国軍に引き渡され、ルーアンでカトリック教会聖職者たちによるジャンヌの異端裁判が行われます。
この映画はパリ奪回戦の敗北の責任を、兵士たちに戦意を鼓舞することなくキリスト教的な「愛」を説いたジャンヌに負わせたい軍部、神の啓示による戦争を説きながら破れるという「神の名」を語った詐欺・冒涜を裁こうとするカトリック教会、敵国イギリス+ブルゴーニュによるフランスの敗戦責任の追及を一身に受けた囚われのジャンヌの、敗北→異端裁判→火刑による死までも描いた作品です。
ジャンヌを演じるリーズ・ルプラ=プリュドムは12歳(シジエム=コレージュの初学年=日本式に言えば小学6年生)。後述しますが、映画はこれが初めてではなく、この映画の前のブルーノ・デュモン監督の作品『ジャネット - ジャンヌ・ダルクの子供時代(Jeannette - L'Enfance de Jeanne d'Arc)』(2017年)で既に8歳のジャンヌ・ダルクを演じています。映画『ジャンヌ』(初公開が2019年5月カンヌ映画祭「監督週間」部門)の評価は、何をおいてもこの少女女優の圧倒的なプレゼンスに集中しています。この少女だけで観る者は否応なしにこの映画の最後まで惹きつけられてしまうのです。
意表をついた演出です。予算の関係ということではなく、北部フランス(フランドル)出身の監督ブルーノ・デュモンのエステティスムによるものと思われる荒涼とした北フランスの丘陵の上でフランスのすべてが決まるのです。教会司教、王軍参謀、王の使者らがこの何もない荒野に集まり、甲冑で身を固めた少女ジャンヌにフランス王国の命運をゆだねます。大人と子供の会話のようにも見えます。神のお告げは、雲が払われて輝き出す太陽を見つめるジャンヌにだけ聞こえているようです。このジャンヌには迷いもあります。生身の12歳の少女の目は神がかっている時だけはなく、人間の目にもなってしまう時があります。
莫大な人員を使った歴史的戦闘シーンなど、この映画には登場するわけがない。これをブルーノ・デュモンは、甲冑姿で槍を持って馬上にあるジャンヌを真ん中に、空中から撮影した数十頭の騎馬兵による大掛かりな馬術バレエとして表現します。この馬術バレエはかなり延々と続きます。ん?ん?ん?と思ってしまいますよ。
ジャンヌの功績でフランス王として戴冠したシャルル7世(演ファブリス・ルキーニ。この映画中、おそらく唯一人の"プロの”俳優)は、敗北したジャンヌと面会しても、ジャンヌを擁護せず、軍務から解いて退陣させようとします。このファブリス・ルキーニの"浮いた”演技はまさに名人芸、映画中の最大の「場違い」さはユビュ王と同種の不条理でしょう。
史実ではルーアンでされたとなっているジャンヌを裁く異端裁判は、この映画はアミアンの大聖堂で撮影されたようです。この威圧的な大伽藍は、封建時代の重さ、宗教権力の重さ、中世の重苦しさ、そんなものらがいっぺんにものを言っているようなアトモスフィアを一目瞭然に作り出してしまうのですが、ジャンヌが見上げればそこにも光は差すんですよ。そして法学者、聖職者、権力者らが一方的にジャンヌの異端性を詰問し、その過ちの自白を強要します。ここはアマチュアが演じているからということなのか、露骨な頑迷さと憎悪だけが際立ったものの言い方が逆に迫真的です。その中でひとり、頭巾で顔を隠していた老高僧が、頭巾から顔を覗かせ天を向いてジャンヌへの哀歌を歌い出す、という唐突な展開があり、この歌う老高僧がクリストフその人なのでした...。(↑写真、高僧クリストフに演技指示するブルーノ・デュモン)
 火刑を待つジャンヌが閉じ込められる牢獄は、おそらく北フランスの古戦場(第二次世界大戦?)に残されているコンクリート製のトーチカの趾をつかったものだと思われます。中世と20世紀などひとっ飛びだなぁ、と妙な感心をしてしまいました。その牢獄の中で、汚れ、ボロボロになっていくジャンヌもリアルに描かれていて、異端とされても信仰を捨てない、その神に祈る姿がこれまた不条理なものです。
 この映画の前作『ジャネット - ジャンヌ・ダルクの子供時代』(2017年)は観ていませんが、映画サイト AlloCinéの紹介を読むとこれまたかなり奇抜な演出で、バロック・メタル/デス・メタル系のアーチスト Igorr (イゴール)と組んだミュージカル映画仕立て(振付けがフィリップ・デクーフレ!)です。(↓『ジャネット - ジャンヌ・ダルクの子供時代』予告編)


(↑)この前作観ていたら、この本作の印象も全然違うのでしょうね。しかし心の準備をせずに、予備知識ゼロでこの映画観てよかったと思ってます。意外性の連続が強烈に新鮮でした。カール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928年)と同じほどに「顔」がものを言う映画ですが、『裁かるるジャンヌ』はサイレントだったから顔がものを言うしかなかったと言えばそれまでですけど。しかしこの12歳の少女(リーズ・ルプラ=プリュドム)の神がかりの顔は、どんなジャンヌ・ダルク映画の聖処女像よりも心を射る強烈な印象が残ると思いますよ。この映画の突飛性や前衛性はこの顔に支えられれば、全然大丈夫な2時間18分になってしまうのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ジャンヌ』予告編


(↓)2016年ARTEで放映された映画ジャーナリストのフレデリック・バスがまとめた歴代のジャンヌ・ダルク映画の断片集。カール・ドライヤー、ロベルト・ロッセリーニ、ジャック・リヴェット、リュック・ベッソン、ザ・シンプソンズ.... 。やっぱりジーン・セバーグかな。

2019年9月12日木曜日

もわもわっとした二人

『ふたりの自分』
"Deux Moi"

2019年フランス映画
監督:セドリック・クラピッシュ
主演:アナ・ジラルド、フランソワ・シヴィル
フランスでの公開:2019年9月11日

半世紀も前から、フランスの若く優しく不安定で脆い男や女やその群像を撮らせたら、この人に勝る監督はない、そういうセドリック・クラピッシュの13本目の長編映画です。時はスマホとSNSだけですべてができそうな21世紀的現代、場所はモンマルトルの丘と国鉄「北駅」の北側にあるパリ19区。高架地下鉄スターリングラード駅や北駅からの郊外電車/ユーロスター/タリスなどが画面にちょくちょく現れます。主人公二人、メラニー(演アナ・ジラルド。イポリット・ジラルドとイザベル・オテロの娘)とレミー(演フランソワ・シビル)は、全くお互いを知らない状態で、この19区の片隅に隣り合わせの二つの建物のそれぞれ上の階のアパルトマンに住んでいて、それぞれの窓を開けると同じように地下鉄や郊外電車のガタンゴトンという音が聞こえてきます。この二つの窓を、クレーンかドローンかでロングショットで撮る美しいシーンがあり、後ろにはモンマルトルの丘サクレ・クール寺院が見えます。大都会ですから、この二つのとても近い窓の二人の住人が知り合うことはまずないのです。そしてこの二人もそれぞれが「ひとり」から抜け出せずに生きていて、二人とも同じように不眠症で悩んでいます。この寂寥をアラン・スーションは「ウルトラ・モデルヌ・ソリチュード」(1988年)と歌ったのでした。その二人が不眠症を訴えて同じ時間に同じ薬局に行き、隣り合わせて二つの窓口にそれぞれ同じようなことを相談しているのですが、隣の人のことには気づかない(うまいシーンですね)。
 アラウンド30歳のアナは北フランスアミアン出身のガン研究所の研究員。半年後には研究所を代表して研究論文発表をしなければならない(その評価次第で研究費の割当が大きく左右される)という大役が待っているのだが、寝不足のため全く仕事に身が入らない。そこで精神分析医(psychanaliste)(演カミーユ・コタン、うまい)のところへ...。
 アラウンド30歳のレミはアルプスサヴォワ地方出身で超大手通販会社(ま、アマゾンでしょう)の倉庫係だったのが、ロボットに職を奪われ、配置転換で電話アフターサーヴィス課へ。寝不足で地下鉄の中で倒れ、病院で体異常はないものの心身症の疑いありということで、精神療法医(psychothérapeute)(演フランソワ・ベルレアン。うまい)のところへ...。
 このプシ(Psy = 精神医)にかかりに行くというのがこの映画のミソでして。映画題の"Deux Moi"(ふたつの moi )の "moi"とは単に「私」とか「自分」というのではなく、この精神医学の分野では「自我」と称されるものなんですね。だから、この映画の主題はふたつの病める自我がどう活路を見出していくか、みたいなもんなんです。
 で、21世紀的現在で、ウルトラ・モデルヌ・ソリチュードをお手軽に解消できると思われているのがソーシャル・ネットワーキング・サービス、すなわちSNS、すなわち出会い系で、この二人の主人公もそれぞれの側でそれを試します。当然それでウルトラ・モデルヌ・ソリチュードはさらに深まってしまうのですが。軽いコメディータッチの映画ですから、このSNSを地獄のようには描きませんけど、やっぱりこの出会い世界は壊れてますよね。
 それからこの二人にはそれぞれ病める自我をずっと以前から引きずっている原因があり、アナは両親の離婚(父が愛人作って逃げていく)そして完璧と思われた恋人との破局、レミーは幼い頃妹を病気で失い両親がそれを家族内のタブーにしている...。まあ、わかりやすい「深い傷」です。これらの深い傷に落とし前をつけないと、それぞれが自我を取り戻せないと、それぞれのプシ(心療医)が道をつけてやろうとするわけですね。探すのは自分(moi 自我)ですが。
 クラピッシュ映画の『猫が行方不明』(1996年)を伏線にしたような、一匹の猫が登場し、ふとしたことから最初レミーに飼われ、行方不明になり、隣建物の住人アナに拾われるというエピソードがあります。しかし猫は一方から他方に移るのですが、それで二人が出会いそうな予感は裏切られ、猫は縁結びにはなりません。
 この映画の真の縁結びは意外な人間なのです。フランス式コンビニの元祖、いわゆる"エピシエ・アラブ"と呼ばれる深夜まで営業する食品スーパー。この映画ではEPICERIE SABBAH ORIENTALE(エピスリー・サバー・オリアンタル)という店で、このサバーというのが店主の名前でしょう。このエピシエ(演シモン・アブカリアン、怪演)が、良い食品、悪い食品、クオリティーの違い、全部を知っているものの言い方で客に高いものを買わせることができる名人芸商人なんですね。俺の言うことを信用すればみんな満足。たしかに買った客はそのクオリティーに納得して、次の回もこの店主の意見を聞くことになります。そしてこのエピシエは近所のあらゆる情報を持っていて、世話好きときている。アナもレミーもこの店主に全幅の信頼を置く客になっていきます。そして、すれ違っても見ず知らずだったこの二人がある日、エピシエの紹介したコンパ(ハイチのダンス)教室のレッスン初日に...。
 ちょっとうますぎる。クラピッシュ節名調子全開。
 個人的なことですが、ちょっと。アナが学会での論文発表前夜、緊張で眠れないからとSNSで近距離フィットした初対面の男を部屋に呼び出して、セックスとドラッグとアルコールで乱れに乱れ、急性アル中でグロッギーになるが、駆けつけた妹キャピュシーヌ(演レベッカ・マルデール)の看護の甲斐あって翌朝、学会会場へ。そして暗記した内容が全部飛んでしまって、ほぼアドリブ勧進帳で、これまでのガン治療の主流だった化学療法(ケモセラピー)に代わる、患者自身の免疫を刺激してガン細胞を打ち破る免疫療法の有効性を弁舌さわやかに。ここでアナの心の中でなにかがふっきれるわけですが、免疫療法は私も病院で受けているので、ありがたくご高説を拝聴。私も"yes !"と喝采したのでした。
 ま、パリ下町と、二人のアラサーの迷える日々と、猫と、プシ。SNSを捨てよ、町へ出よう、アマゾンを捨てよ、隣のエピシエへ行こう、と呼んでいるわかりやすい映画でした。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ふたりの自分(Deux Moi)』予告編

 

2019年9月5日木曜日

やっかいな傷

アブダル・マリック『やっかいな傷』
Abd Al Malik "Méchantes Blessures"

ブダル・マリック8作めの小説。紹介はラティーナ2019年10月号の「それでもセーヌは流れる」で書いているのでそちらを参照してください。ここではジュリエット・グレコが登場する箇所(p155〜156)を(無断で)部分的に訳してみたので、読んでみて。

ある日、パリのリュテシア・ホテルで昼食を共にしながら、私に孤独について語り出したのは彼女の方だった。それは誰もが嘆いていることがらだが、自分の片割れ(moitié、伴侶、ベターハーフ)と出会った瞬間からこの苦しみはおしまいになるものなのよ、と彼女は言った。でもあなたは何度も片割れを変えたじゃないですか、と私は指摘した。「それはその男たちが私の片割れじゃなかったということなのよ」ー「どうしてあなたはそうわかったのですか?」 ー 「アンニュイ(退屈、倦怠)よ、カミル、アンニュイでわかるのよ。正真正銘の片割れとは退屈することなんてありえないのよ」。私は少し考えて、こう聞いてみた:「ではあなたはジェラール(・ジュアネスト)とは一度も退屈しなかったということ?」 ー 「30年間で一度もなかったわ」と彼女は言い切った。「私には彼の前にももう一人正真正銘の片割れがいたけれど、彼とはうまくいかなかった」 ー 「本当ですか?それは誰ですか?」 ー 「マイルス... マイルス・デイヴィス、向こうから私と決別したたったひとりの男、私の人生で別れがこの方向で告げられたのはたった一度だけよ。私も彼の正真正銘の片割れだったのに.. ドラッグやらなにやらで。もうずっと昔のことよ」と彼女は声を震わせた。短いものだったが、多くの文献で語られたジュリエット・グレコとマイルス・ディヴィスの恋物語は、フランスとアメリカの間で起こったひとつの事件への私の見方に大きなインパクトを記した。ギリシャの女神とエジプトの神というこの二人が形成したカップルは、多くの意味において20世紀後半における前衛であったし、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルのカップルと同じほど象徴的であり、この二人は私にとってそれぞれの芸歴のすべてにおいて、最も厳格で豊穣な音楽と詩の顕現であり、その現れは世界に及ぼす影響力となりえたし、世界を加工できるほどのものでもあった。
長い沈黙の末に、ジュリエットは私に尋ねた ー 「あなたの長編映画はどうなってるの?」 ー 「とりかかってますよ、真剣に」 ー 「そうね、今の時代ではポエジーは難しいわよね」と彼女は続けた ー 「最初ポエジーというのは理解されるのは難しかったのよ。誰かがね、濃い内容ながらも大衆的な作品を発表して、ポエジーはいたるところにあるんだということを証明してくれた日まではね。その意味で、本物のポエジーというのは絶対に間違いないのよ。」 ー 「そうですとも」と私は大声で同意した ー 「たったひとつの作品で十分だった!」 ー 「その通りよ、プレヴェール、コスマ、カルネをご覧なさい。今の時代はもうちょっと複雑かもしれないけれど、人々は理解するのよ。偉大なポエジーは必ず最後には理解される。そのためにはいい表現者さえあればいいのよ...」
("Méchantes Blessures" p155-156)

ABD AL MALIK "MECHANTES BLESSURES"
PLON刊 2019年8月22日 220ページ 19ユーロ

(↓)自作『やっかいな傷』 を紹介するアブダル・マリック

2019年9月2日月曜日

すぎ去りし日の・・・

Dorval "Les choses de la vie"
ドルヴァル「日々の事ごと」


作詞:パスカル・ベレル(aka ドルヴァル)
作曲:ローラン・マンガナ

(2003年アルバム "Les choses de la vie"より)

朽の名画、1970年公開のクロード・ソーテ監督・主演ロミー・シュナイダー&ミッシェル・ピコリの『すぎ去りし日の・・・』原題 LES CHOSES DE LA VIE。私はこの「フンイキ語」のような日本題がどうも苦手だし、そのあとに続く「・・・」(てんてんてん)がもっと気持ち悪い。国語テストの「つづく3文字を書き入れなさい」と言われているよう。そのテストの答えならば、「すぎ去りし日の」とくれば、それに続いて「思い出」と大方の人たちは答えるであろう。含みも暗喩もあったものではない。こちらのIQを見透かされてる。日本の映画ファンはそんなに程度低いと思われているのか。特に「女性向け映画」とカテゴライズされるものはそれが顕著だと思う。ま、それはそれ。
この映画と同じタイトルのアルバムで2003年にデビューしたドルヴァル。デビュー時はデュオ(2人組)と紹介されていた記憶がある。バンジャマン・ビオレーのマネージャーをしていたローラン・マンガナ(作編曲プロデュース)とその妻のパスカル・ベレル(作詞・歌)、この二人でドルヴァルだったようだが、誰もマンガナのことなんか気に留めなくて、女性歌手がドルヴァルということになってしまった。
アルバムにはマンガナとの旧友関係でバンジャマン・ビオレーが1曲提供し、他の曲の編曲でも参加している。それからアルバムのゴーストトラックで、この5月に61歳で惜しまれて亡くなったニルダ・フェスナンデスがデュエット・ヴォーカルで加わった "Il se fait tard"という曲が収められている。
 さてアルバム最終曲として(ゴーストトラック前に)収められた "Les choses de la vie"はかの映画とはあまり関係がなく、文字通り"de la vie"(生活の、人生の、生きていく上の)の" les choses "(種々の物、事柄、事象の数々)で、私はこれを「日々の事ごと」と訳してみた。詞は4行短詩 x 4連で、スナップ写真のコラージュや、イメージ名詞羅列の名曲「ヨコハマたそがれ」のように、叙情的情景のストップモーションの連続となっている。日本的感性を感じさせる。それに加えて、イントロ・間奏・アウトロがしっとり&ゆったりとした坂本龍一〜久石譲タイプの東洋メランコリー旋律(吹奏楽編曲はバンジャマン・ビオレー)で、われわれに耳慣れた叙情性がクレッシェンドして上昇していく。

Les enfants qui courent
走り去る子供たち
Le temps des beaux jours
晴れの日の多い季節
L’heure du déjeuner
昼食の時間
L’averse est  passée
にわか雨は去った

Une lettre d’adieu
別れの手紙
Un été pluvieux
雨の多かった夏
Il rentre à Paris
彼はパリに戻る
Les choses de la vie
日々の事ごと

Quelques trahisons
いくつかの裏切り
Amours de saison
季節で終わる恋
Un après-midi
一度の午後だけで
C’est déjà fini 
もうおしまい

Une vitre, un café
窓ガラス、カフェ
Ses yeux embués
涙で曇った目
Elle est si jolie
とても美しい女
Les choses de la vie
日々の事ごと

Dorval "Les Choses De La Vie"
CD Eastwest France 2564606862

2003年リリース
 
<<< トラックリスト >>>
1. Calme blanc
2. Du vent dans les ailes
3. Ne me demande rien
4. Le Bonheur
5. Les falaises d'Etretat
7. Entre nous et moi
8. Fin du jour
9. Sur la balançoire
10. Les petits mots
11. Le bal des officers
12. Les choses de la vie
(Ghost track) Il se fait tard (duet with Nilda Fernandez)


(↓)YouTube投稿動画でクロード・ソーテ映画"Les choses de la vie"のサントラ(フィリップ・サルド作曲)「エレーヌの歌」とドルヴァル "Les choses de la vie"をくっつけたもの。なかなか良い流れ。




2019年8月17日土曜日

ウィンキーが消えた12時間

れは2019年8月15日18時ごろに起こった。
 私たち一家(私、奥様、娘、愛犬ウィンキー)はこのメンバーで初めての長期ヴァカンスに出ていた。私にしてみれば闘病開始後3年ぶりの夏ヴァカンスであった。私たちは8月3日に自宅のあるブーローニュ・ビヤンクールを車で出発し、第一夜をヴォークルーズ県アヴィニョンのホテルで過ごした。初めて自分のテリトリーを長期で離れるウィンキーのことで私たちが一番心配だったのはピピカカ(排泄)のことだった。牝犬でテリトリーマーキングをしないので、普段のピピカカは我が家アパルトマンのベランダか、散歩で慣れているいくつかの公園の中でしていた。心配は的中し、アヴィニョンに着く前、何度か高速道路サービスエリアで外に出してもピピカカができず、アヴィニョンに着く直前に車の後部座席に敷いてあったマットレスの上で...。アヴィニョンの一夜、奥様はホテルの室内でそれをされては困ると新聞紙でピピ場所を用意したが、そこにはしなかった。翌朝早く目が覚めてしまった私はホテルからウィンキーを連れ出し、シテ・デ・パップ(アヴィニョン幽閉時代のローマ法王庁)からさらに遠くローヌ川沿いのアヴィニョン橋まで早朝散歩。誰もいない安心感だったのか、川沿い遊歩道でピピとカカを続けざまに。
 翌4日、私たちはさらに南下してコート・ダジュール海岸ヴァール県サント・マキシムへ、連続12泊をこの町のレジデンスで過ごした。ここも広いバルコニーがあるので、ウィンキーのピピカカはここで慣れてもらおうと、いろいろ指導(バルコニーにウィンキーを出してガラス戸を閉めて新聞紙ピピカカゾーンに用を足すまで閉じ込めてしまう)したのだが、なかなか...。コート・ダジュールのビーチの多くは「犬禁止」なのだが、隣町サン・トロペの”極端な”動物愛護主義者で知られるブリジット・バルドーのご威光か、この近辺も「犬OK」ビーチが少々ある。私たちはサント・マキシム滞在中、日中のほとんどをウィンキー連れでビーチで過ごしたが、いくつかの「犬OK」ビーチで私たちは本当にしあわせだった。毎日が晴れ、気温も29度から31度と暑すぎない程度、そして海水の温度が24〜25度。海は初めてではないが、地中海での海水浴は初めてのウィンキーは、最初は恐る恐るだったのに、滞在の終盤には水辺に向かって突進していくほど海での水遊びが好きになった。老夫婦と娘と愛犬が一緒になって水辺で遊ぶ様子は、人からは絵に描いたような犬好き一家に見えたろうなぁと思う。
 
ウィンキーがわが家に来たのは2017年4月29日のこと(→保護センターで初めて奥様に抱かれたウィンキー。推定2歳)。2016年10月に15歳で死んだドミノ(ジャック・ラッセル種。テンカンやアトピーなど様々な病気を持っていたがよく長生きした) を私たちはあまりにも溺愛していたので、それを失ったショックの大きさでもう二度と犬を飼うのはやめようと言っていたのだが...。2016年11月に私の(2015年夏に2回の手術で切除したはずの)肝細胞ガンがかなり進行した状態で再発したのがわかり、それからかなり重い治療を受け続けなければならないことになった。運営していた会社を畳み、仕事をやめ、早期退職年金生活者となって治療に専念する生活が始まった。奥様と娘は私が重いケモセラピーなどで体力的に消耗していったのを知っていたので、運動嫌いのあなたを動かすには犬との散歩が一番と、(私に内緒で)インターネットで”養犬”候補を探していた。そしてフランスで最も知られている動物愛護財団のひとつ"30 MILLIONS D'AMIS"(3千万匹の友だち)のサイトを検索して見つけたのがウィンキー。ジャック・ラッセル系雑種、牝犬、推定年齢2歳の捨て犬。生後約1歳の頃に同団体に保護されたが、それまでは不明(洞窟に潜んで生きていたらしい)。保護センターで健康体にしてもらい、去勢もして、人間や他の犬との社会的な触れ合いを経験した約1年間。それでも極度の怖がりは抜けず、今も(私たちを除く)人間たち、犬たち、自動車そのほか動くもの、大きな音などすべてが怖い。はっきりとした美人顔、愛くるしい目、死んだドミノと違ってスマートなボディーと長い脚、そんなウィンキーに奥様と娘は一目ぼれしたのだけど、わが家に来た当時はその「すべてに対する恐怖症」のために慣らすのにたいへんな努力を要したのだった。リードをつけて散歩しようにも、すべてが怖いので前に進むのも引っ張って方向を変えさせるのも全力で抵抗するので、家の周辺を一周するのに慣れるだけでもかなりの日数がかかった。その代り家の中では安心して自分の場所と悟ったときから縦横無尽に走り回って愛嬌を振りまくようになった。奥様の作ったものを食べることや、ベランダでピピカカをすることも、それほど時間がかかることなく慣れてくれた。
 月日のかかることではあったけど、私が連れていく大きな公園(サン・クルー、ブーローニュの森、エドモン・ド・ロッチルド公園、イル・ムッシュー...)では、リードを外して全く自由にさせても心配の要らない(止まれ、戻れ、リードに繋がれろ、といった命令に従う)ところまで慣れてくれた。しかし難敵は「犬」である。ほかの犬すべてが怖い。挨拶をしよう、話そう、一緒に遊ぼう、交流しよう、という意思が皆無。ほんの小さな犬ですら、近づいてくると避けてしまう。ましてや大きくマッチョな犬が来たりしたら、一目散に逃げようとするのだ。リードを外したウィンキーが私の制止も聞かず、脱兎のごとく全速力で逃げてしまい、見失ってしまう、という経験を私は二度している。一度めはロッチルド公園の奥から逃げ出し、当時(治療副作用のせいで)走ることができなかった私が早足で追いかけ、「白で黒ぶちの小型犬を見ませんでしたか?」を周りの人たちに聞きまくって、公園の出口から公道に出たところに駐車していた私の車の前でうろうろしながら待っていたウィンキーに再会した。二度めは、セーヌ川脇のボートクラブなどがあるイル・ムッシューの広大な芝地で大型犬に吠えられて逃走、サッカー場大の芝地を縦断して、トラムウェイの線路とかなりビュンビュン飛ばす車の行き交う川岸幹線道路を全速力で渡り、向かいのサン・クルー城址の緑地に入って、セーヴル陶器博物館側の出口を出て、さらにセーヴル橋から上り坂で続いていく高速道路A10号線の方向に逃げて行った。私はこの時は走れないと思ったが走った。走って走って、人々に聞きながら(ほんとにこういう時ってみんな親切に教えてくれるんだ。一緒に追ってくれる人まで出てくる)セーヴルの坂道を登っていった。セーヴルの町の入り口まで来たところで、途中のサン・クルー公園を縦断する有料自動車道のゲートのところで犬を見たという証言。そこまで引き返して公園敷地に入り、ゲートの料金所の番人(女性だった)に「見ませんでしたか?」と聞いたら、あっちよ、と道を示してくれた。その道はやはり私が車を停めた場所に通じる道で、行き着くとわが車の前でやはりうろうろしながら私を待っているウィンキーがいた。このバカっ!!! なんてことしてくれるんだ! ウィンキーは涼しい顔をしていた。
 この犬は頭がいい、と私は思った。私と確実に再会できて、安全を確保できるところというのを理解している、と。しかし、それは何度も行っていて、慣れたところの話ではないだろうか。
 8月15日(祝日:聖母マリア昇天祭)、私たちは十二分に夏を満喫して、海と太陽から恵みをたくさんいただいて、良い思い出しかないサント・マキシムを後にして、300キロほど北上して、ドローム県オートリーヴという町にやってきた。ブーローニュに帰宅する途中の一泊で、長年来たい来たいを思いながら果たせていなかった「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」 を見るためだった。予約した宿はちょっとユニークで、普通のホテル部屋の他に、敷地内にゆったりと庭付きで停留しているルーロット(ロマと呼ばれる「旅する人々」が使っていた移動住居キャラバン)が4車宿泊用に用意されていて、そのうちのひとつにわが家は泊まることにした。昔ながらの木造のルーロットで、中はキャンピングカー並みにバス・トイレ・台所・エアコン・テレビつき。気分はボヘミアン。
16時前に宿に着いた私たちは、「配達夫シュヴァルの理想宮」が19時まで見学可能というので、ウィンキーをルーロットの中に残して3人で徒歩で現地へ。現地でわかったのは理想宮では「犬禁止」の入場制限がなく、犬連れOKだったことで、ウィンキーを連れて来なかったことを大いに後悔。約1時間かけて世界でも唯一無比の手作り理想宮に驚嘆・堪能の素晴らしい体験。
 帰りに冷えたビールを買って、長旅の最後の宵のプレリュード的な乾杯をルーロットの前の庭に置かれたテーブルで。ホテルに予約した夕食は19時から。それまで時間があるので、ウィンキーを連れて散歩に行こう(ここに来てピピカカもまだしてないし)、とルーロットは離れて野歩きに。周りにはこの雨不足ですっかり干上がった小川があり、その橋を渡ると右側には羊や豚を飼っている農家があり、この羊の鳴き声にウィンキーはかなりビビっていた。幅50センチもない野の小径を進んでいくと、周りは広大なトウモロコシ畑が広がる。この道を進んでいくと、配達夫ジョゼフ=フェルディナン・シュヴァルが自ら生前に建立した理想宮によく似たシュヴァル家の墓がある。こんな野の道を自由に歩いたら気分も良かろうと私はウィンキーのリードを外して歩かせた。気分が落ち着いたのだろう、この道でピピとカカもした。おお、この環境にも慣れてくれたんだ、とほっとしていたのも束の間、18時頃、両側に野ばらの生い茂った細い小径でウィンキーが蒸発。
 小径の分岐点になっていたところで一方はさっきの畜産農家への道、もうひとつはトウモロコシ畑に囲まれた道。何秒も目を離していたわけではない。私たち3人はウィンキーがどっちに走り去ったのかも知らず、その蒸発に驚き、名前を大声で連呼した。野ばらの茂みに入ってしまったのか。何か怖いものを見て隠れてしまったのか。通常ならば何度か呼べばすぐに帰ってくるはずのウィンキー。人間は私たち3人の他に誰もいなかった。野ばらの茂みに挟まれた道を3人で何度も往復し、トウモロコシ畑の中も、農家の敷地も、その向こうにある一戸建ての住宅の並びも「ウィンキー! ウィンキー!」と大声で名を呼びながら探した。野ばらの道を往復するたびに短パン姿の私は野ばらのツルの棘でスネを何箇所も切り、血も出ていた。
 ウィンキー!  ウィンキー!
 私はどれほど叫んだろうか。少なくとも1時間はその名を叫び続けていた。その声を聞きつけたのか、村の人たちが出てきてくれた。娘が状況を説明すると、一緒に探してくれる人たちもいた。一戸建ての住宅の庭にいたマダムに「見ませんでしたか?」と聞いたら、見ないけれどこの子に手伝わせて、と10歳ぐらいの少年に一緒に探してあげて、と指示した。大人の男の人が長い棒を持ってきて、ウィンキーがいなくなった場所に近い野ばらの茂みをつついたり叩いたりして刺激して、潜んでいるかもしれないウィンキーを出させようとした。
 ウィンキー! ウィンキー!
 私の声は村中に響いたのだろう、遠くで(明らかにウィンキーの声ではない)犬の鳴き声が四方から聞こえてきた。いろいろな人たちが動いてくれて、車で周りをぐるっと回ってくれた人、ジャンダルムリー(憲兵署)に通報するべきと勧めてくれる人、トウモロコシ畑のフィールドの道路向こうのキャンプ場に(もしかして食べ物を求めてくるかもしれないから)声をかけておく、などなど。19時を過ぎ、20時近くになってさすがに辺りは暗くなり始める。ホテルに予約しておいた夕食をキャンセルしに、奥様と娘がホテルのレセプションに行き、ジャンダルムリーの電話番号を聞いた。娘が電話すると言っていたのだが「お父さん、私泣いちゃって言葉にならないから」(娘にはとても珍しいこと)と私にiPhoneを渡した。一応、名前と犬の容姿と首に「Winky」と奥様の電話番号の書いてある名札がついてあることなどを告げた。前述のようにその日は祝日。電話での訴えはレジスターしておき、明朝までにジャンダルムリーに連絡があれば娘に電話するが、さもなければ正式な行方不明届けを明朝地区の役場か警察署・憲兵署にするように、と。対応はたいへんコレクトだと思った。そしてホテルのレセプションから出たところで、ホテルの経営者(二代目。若い40代の男性。あとでわかったのだがルーロット宿泊の発案者)が子供たちとの食事(自分のホテルのレストランで食事するんだ)を終えて出てきて、娘から事情を聞いたあと、こう言った:
「私も犬を飼っているし、まれにだが逃げたりもする。だが、この村には犬を取ったり、悪く扱ったりする人はいない。みんながみんなを知っているので、情報はすぐに伝わり、失せた犬もほどなくして見つかる。あなたたちの犬は電話番号つきの名札がついているのでしょう?この村の中だったら、見つけた人はすぐに電話してくれますよ。心配しないで連絡を待ってなさい。」
 18時から会った何人かの人たち、そしてこのホテル主人、この村の人たちはすごい。こんなに心優しい人たちばかりなのだ。信じますよ、信じますけど、ウィンキーはいなくなったきりなのだ。
 20時すぎ、村の人に進言で私たちも車でトウモロコシ畑のフィールドの周囲をゆっくり回ってみた。白いものが見えるとすぐに車を降りて近寄ってみたがすべて違っていた。奥様と娘がキャンピング場へ行き、管理人に協力をお願いして電話番号を置いてきた。再びウィンキーが蒸発した現場へ行って、ひとしきり名前を呼んでみるが、辺りは暗く、目で探すのはもう不可能だった。
 とりあえず夕食がわりに何か食べようと、奥様と娘がテークアウトのピッツァを二枚買ってきてくれた。22時頃、遅い夕食。だが、半分も食べられなかった。
 土曜日(17日)にはボーイ・フレンドとイタリアにヴァカンスに出る予定にしていた娘が、もしもウィンキーが見つからなかったら、そんな旅行行けない、と泣き出した。こんなに泣く娘を見るのは本当に稀なことである。見つかるまでここに何日でもいよう、という考えもあった。村の人たちの暖かい言葉に助けられながらも、私たちの想像は悪い方へ悪い方へと向かい、二度とウィンキーが現れなかったら、どうするんだ、どうすればいいんだ、とそんなことばかり口から出てきた。何が信じられないかと言えば、これだけ充実してみんな心の底まで海や太陽な紺碧海岸の美しさと野の天才シュヴァルの偉業を享受して未だ嘗て体験したこともない素晴らしかった13日間の最後に、どうしてこんなことが起こるのか、ということ。もしかしてこのルーロットまで戻ってきてくれるかもしれないから、戸口の灯りは点けておこう、あるいは戸口を開けっ放しにしておこうとまで考えていたのだけれど。娘はずっと夜更けまで戸口の階段に腰かけて、彼氏とのSMSでその思いをぶつけて泣いていた。私はもう一度、とiPhoneの灯りをトーチにして、トウモロコシ畑の方まで行ってみた。時間的に大きな声は出せない(実際声が枯れてしまって大声は出せなくなっていた)から小声で何度も名前を呼びながら。
 私たちとウィンキーが18時近くにトウモロコシ畑の方に行った時、私たちはホテルとルーロットの駐車場の鉄門ゲートを通って行った。そのゲートは夜には閉まっていて道側からはルーロットの停まってある場所に入れない。私たちはその後で、ルーロットの側からトウモロコシ畑の方向に抜けられる裏道があることを知った。だが、ウィンキーはその裏道を一度も通ったことがない。もしもウィンキーがもと来た道をたどって私たちのいるルーロットに戻ろうとするとゲートに閉ざされて入ることができない。私たちの想像力は、もしも戻ろうとしても壁に突き当たるウィンキーのことを思い、ますます暗くなった。なにか食べているだろうか?怪我などしていないだろうか?他の動物に襲われていたりしないだろうか?
 私たちは(最初の好奇心的な喜びとは裏腹に、ホテル支配人には失礼ながら)あまり寝心地がいいとは言えないルーロット内の寝台に横になり、眠ることにした。明朝は万が一あるかもしれない村の人の(名札についていた電話番号を見ての) 電話を待ちながら、昼まではブーローニュに出発しないでおこう。その後でも、その日でなくても、何日か後でももしもその電話があったら、すぐにオートリーヴの村に駆けつけられるようにしておこう。そう言い合いながら、おやすみの挨拶をして、床についた。日が明けたら、またトウモロコシ畑に行ってみよう、とも言い合った。床についたけれど、誰もちゃんと眠っていなかったと思う。

 8月16日、朝6時。最初に目を覚ましたのは奥様だった。履物をはかない裸足の状態でルーロットの戸を開け、ワゴン車の手すりガードに覆われたバルコニーのような戸口から辺りを見回したがウィンキーらしい姿は見当たらなかった。次に起きたのが私だった。6時15分頃、歯磨き洗顔を終え、気温が下がっているので長ズボンを履いて外に出た。ルーロットの床下、車輪の陰、庭においてあるテーブルのひとつひとつ、隣に停車してある3台のルーロットも同じように床下などを探してみた。いない。やはり戻る道は閉ざされていたのか。さあ、長い1日が始まるぞ、と覚悟したその瞬間、ルーロットの置いてある後ろにある生け垣の灌木がザザザザっと鳴った。リードをつける胴衣のストラップに右前脚を挟み込まれ(たぶん胴衣を脱ごうと努力したんだろうな)、3本脚のような状態で、不自由なさまで、ザザザザっと音を立てて、ヒィーヒィーと声を上げて、
 
 ウィンキーが私の前に現れた。


(↓)サント・マキシムの浜辺で、サン・トロペのビーチで、カーニュ・シュル・メールの水辺で、地方ラジオKISS FMのヘビロテで、何度も何度も聞いて、娘も私も大好きになった2019年夏のチューブ "CALMA" (Pedro Capó & Farruko feat. Alicia Keys)。私はこの曲を聴いて素晴らしかった2019年夏とウィンキー蒸発事件のことをずっとずっと想い返すことになろう。

2019年7月30日火曜日

「80万」ビュー突破に寄せて

同志たち、ありがっとう!

2019年7月29日23時頃、爺ブログのビュー・カウンターが「80万」を突破しました。毎度お越しの同志たち、ありがとうございます。統計を取ったりしているわけではありませんが、やはり読まれているかいないかは大変気になり、こうして10万単位の山を越していくと、続けることの意味を感じさせてくれます。

カウンターの数字はどこまで信用してよいものかわかりません。日付では60万突破が(←)2018年1月6日、70万突破が2018年3月12日(→)、つまり60万と70万の間の10万ビューに2ヶ月ちょっとしかかかっていない。そして70万から今度の80万ビューにいたるまでには16ヶ月(1年4ヶ月)以上かかっています。10万ビューにかかった時間の差は何なのか。インターネット上の奇怪現象というのか、むしろ「機械現象」とでも言うべき、人間ではない機械(ロボット)による集中ビューとしか想像できません。
統計の始まった2010年5月から今日までの全期間ビュー数の折れ線グラフ(←)を見ると、2017年12月から2018年3月の4ヶ月間が異常に高く月に4〜5万のビジターがあったことになっています。これは明白にロボットのしわざです。この期間にアクセスのあったビジター(?)の国籍もちょっと考えづらい国(東欧、アラブ首長国連邦、中央アジア...)が多く、普段のビジターたち(日本、フランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、アメリカ、カナダ、オーストラリア...)ではありませんでした。何のために? 乗っ取り目的か? どこかいじくられたのではないか? と不安にはなったのですが、今のところ被害はありません。そして折れ線グラフの続きでは2018年4月からは月間ビュー数4000程度と(たいへん低く)安定しています。つまりこの頃は1日のビュー数100〜150程度( ! )です。これが爺ブログの自然のありのままの姿かな、と思ってます。

 2017年6月で自営の会社をたたみ隠居(闘病)老人となり時間も増えたので、ブログをいじくる時間も増えて記事数も格段に増えています。「ビュー数を増やさなければ」というつもりで書いているわけではないし、ましてや「商売」ではないので、この状態に嘆いているわけではまったくありません。自分のためにやっていることですから。

 新規記事だけではなく、古い記事も資料性のあるものはこれからインデックス化して読んでいただく努力をしてみましょう。あなたが出会っていない意外な記事も多分少なからずあるかもしれません。

 『カストール爺の生活と意見』はもう少し続くと思います。「いつまで」という考えは捨てました。だけどもう少し。楽しみながら続けますから、おつきあいください、同志たち!

(↓)久しぶりにテーマソングでも聞いてやってください。

2019年7月28日日曜日

主は私の羊飼い

ダニエル・ダルク「詩篇23」
Daniel Darc "Psaume 23"
(album "Crève Coeur" 2004)


2019年7月24日にフランス公開されたダニエル・ダルク(1959-2013)のドキュメンタリー映画『ダニエル・ダルク - ピーシズ・オブ・マイ・ライフ(Daniel Darc - Pieces of my life)』に関する原稿(ラティーナ2019年9月号掲載予定)を書いていて出会った(と言うかアルバムリリース当時は全く気にとめていなかった)2004年のアルバム『心臓破り(Crève Coeur)』の最終曲(12曲め)。詞は旧約聖書「詩篇23篇」より。日本語訳はダニエルの歌ったフランス語詞から私が訳した。
主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
涼しい草はらの上に
主は私を横たわせる

主は静かな水辺へと私を導き
そして私を蘇らせる
主は御名を讃えるために
私を正義の道へと導く

私が死の谷を渡るとしても
私は何も恐れない
なぜならあなたは私と共にあり
あなたの杖が私たちを導き、私の心を確かなものにする

あなたは私の敵たちの前で
私のために食卓を用意し
あなたが私の頭に香りをふりかけると
私の盃は飲み物で満たされる

恩寵と幸福が
私の生涯の毎日、私と共にあり
私は生きている限りずっと
主の家に住むことができる

主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
涼しい草はらの上に
主は私を横たわせる

恩寵と幸福が
私の生涯の毎日、私と共にあり
私は生きている限りずっと
主の家に住むことができる

主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない

(↓)Daniel Darc "Psaume 23" (from album "CREVE COEUR" 2004)


(↓)ダニエル・ダルク「詩篇23」2008年ユーロケンヌ・フェス(ベルフォール)でのライヴ。




2019年7月25日木曜日

ヴィラ神楽坂から

ルネ・ド・セカティ『わが日本の歳月』
René de Ceccatty "Mes années japonaises"

めて読む著者である。ルネ・ド・セカティ(1952 - )は小説家(随筆家)・劇作家・翻訳家として非常に多くの著作がある(ウィキに列挙されているだけでも150点以上)。翻訳はイタリア語からの仏訳(ピエル・パオロ・パゾリーニ、アルベルト・モラヴィア等)と日本語からの仏訳(夏目漱石、大江健三郎、横溝正史、三島由紀夫等)であり、日本語翻訳の方はすべてNakamura Ryôji(この名前ネット検索では特定できない)との共訳ということになっている。
 Roman(小説)と言っていいのだろうか。本書はルネ・ド・セカティの自分史のほとんどすべてであり、その自分を形成した最重要な要素に「日本」があり、その関わりの(ほとんど)すべてを詳らかにした246ページである。日本愛などと定義できるものではない。日本との出会いが彼にとっての「第二の誕生」であったのだから。
 話者(ルネ・ド・セカッティ)は1977年9月に初めて日本の土を踏んでいる。成田空港が反対運動の激化で開港延期となり、羽田に着いてモノレールで都内に入っている。その時25歳。作家として初めて出版社と契約が取れた時期。職業的には北フランスで高校教師(哲学)をしていたが、兵役に代わる外国での教職活動として東京で2年間、かの九段の学校で教鞭を取ることになった。すでに東京のフランス村となっていた神楽坂界隈が彼のホームグラウンドになるのだが、その宿舎にあてられた「ヴィラ神楽坂」の窓に聞こえてくる石焼きイモ屋台の呼び声や、ちり紙交換軽トラックのアナウンス、よその学生寮のマージャンの音といったものに反応して快いカルチャーショックを。この40年前の衝撃の記憶を、話者はまめに保管しておいた母やその他の人々とやりとりした書簡をもとに再構築しようとする。ネットやE-メールなど遠い遠い未来だった頃のことである。ありがたき亡き母の証言、その残された書簡だけがこの自分史に客観的な視点を与えている。さもなければこの本は、意識的にも無意識的にも取捨選択された記憶断片の自身に都合のいい寄せ集めになっていたかもしれない。おまけにこの話者は前述のように非常に多作の(私小説的作品の)書き手であり、その時その時の恋愛関係で小説をぼんぼん書いてしまっている。だからこの作品の中でも、「だれだれとの関係のことはどれどれの小説で書いている」という断り書きが何箇所にも現れる。おいおい、これではこの著者の熱心な読者でない者にはとても読みづらい本ではないか、と思われる。大丈夫。それは全然重要なことではない。
 彼はゲイである。それを隠したことはない。しかしこの77年の日本渡航の前に、ルネはセシルという女性と恋仲になり、東京には「夫婦」として移住する。セシルも先進的な女性であり、闘士的な活動もする芸術家(画家)であり、おそらくこの男をゲイと知りながらも全く新しい男女関係という冒険に賭けていたのかもしれない。少なくとも一時的にはこの二人は熱愛するのだ。だがこの脆い関係はすぐに壊れ、セシルは東京でどんどん不幸になっていく。逆にセシルからの罵詈雑言泣き言を散々浴びせられながらも、ルネはどんどん東京と日本の魅力にとりつかれ、「第二の誕生」と言うべきメタモルフォーズを実現していく。日本に関して全くの素人だったわけではない。若くして作家・演劇人としてデビューしていた話者はその豊富な教養の中に日本は含まれていたし、渡航前には日本の近代/現代作家(漱石、芥川、三島...)の仏訳本を読み漁った。渡航後は苦労しながら日本語習得にもつとめ、週刊「ぴあ」で映画・コンサート・演劇などのイヴェントを探せるようにもなった。それから在東京のフランス人ゲイ・コミュニティーや日仏学院の男子学生たちとも深く交流するようになり、その世界の深部へとどんどん入っていく。こんなだからセシルはどんどんどんどん不幸になっていき、ルネの家族をはじめ友人たちにもルネの裏切り不貞を言いふらし、ルネに対して極端に攻撃的になっていく。地獄のようだったと表現したりもするが、実のところルネはセシルの不幸を頓着していないのだ。
 頻繁に恋に落ち(その度に小説に書いてしまう)、その果てにリョウジ(ナカムラ)という最重要のパートナーと出会うわけだが、この作品で奇妙なのは、このリョウジとの関係がどのようにパッショネートなものであったかを書き綴っている部分は一切ないのだ。話者が日本文学の奥の奥まで入っていく道先案内人となった、フランス語を完璧にあやつるこの長年の公私のパートナーに関して、書き方があまりに淡々としているのではないか。この二人は京都、鎌倉、金沢、七里ガ浜、尾道... その他日本の文学史跡を探訪し、ルネは日本(文学)を内在化できるほどに理解を深めていった。その結果、十数年に渡るリョウジと共同での日本文学のフランス語訳はウィキペディアに載っているものだけでも35点もある。大江健三郎、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、井上靖、河野多恵子、津島佑子...。その中には道元「正法眼蔵」というたいへんなものまで含まれている。この二人は1990年代には場所をブルゴーニュ地方の田舎家に移し、そこに十余年篭って日夜翻訳に没頭することになる。
 ルネ・ド・セカティには失礼だが、この共同翻訳というのは両者の割合がどの程度のものなのか疑問がある。ほとんどはリョウジ・ナカムラの仕事ではないか。全プロセスの最後のフランス語文として雅文化するところがセカティの主な役目ではないか。ファイナル・タッチ係、それはそれで重要で決定的な役割ではあるが。日本文学/文化への理解がどれほど深いかが決め手なのだから。だからこの「共訳」では二人の立場はフェアーではなく、主任と助手のようなヒエラルキーがあったのではないか。「日本文学狂」的な尋常ならぬ熱情で短期間でこの分野のエキスパートとなったルネとて、リョウジの既に蓄積された莫大な知識と情報なくしては、できることは限定されていたと思うのが自然である。いみじくも私は「フェアーではない」と数行前に書いたが、このフェアーでないことが二人の関係の限界だったと私は読む。そのことは本書には書かれていない。
 この話者は日本を愛し、日本で第二の誕生のような人生の大転換を果たしたが、日本人になろうとか、日本学を極めようとか、そういう意思は薄い。ただ凡百の「日本通(nipponophile)」や「日本専門家(japonologue) 」たちとは一線を画したい。このあたりの自分の立場、日本を深く理解し愛していてもあんたたちとは違うんだ、という個人的で親密な日本との関わりが強調されているから、この本は存在する価値があり、「極私的」日本愛と言ってもいい視点こそが本書の魅力なのだ。言い訳も躊躇もある。ただ、昭和期の神楽座を練り歩く石焼きイモ売り屋台の呼び声メロディーのように、いいものはいいのだ、という理屈なしの愛着は説得力を超えるものがある。
 21世紀の現在、日本通のフランス人たちはフランスにも日本にもゴマンといるし、私にしてみればマンガやアニメの領域でなくてもその種の若いフランス人たちには全く歯が立たないほどだ。情報量ということだけではなく、ものの理解・解釈においても。しかし私とほぼ同世代であるルネ・ド・セカティは、1970年代、どのような「予備知識」で日本を見ていたろう。この本でも話者にとって重要な影響となったとされているが、70年代フランスと日本の知識人たちの必読書となっていたのがロラン・バルトの日本論『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)であった。 バルトは1966年と69年、数度来日+滞在し、この日本論を書き上げたのだが、来日のきっかけは九段の日仏学院の招待であり、67年冬は学院の宿舎に滞在していた。10年後のルネ・ド・セカティと同じ神楽坂の風景を見、袋町の小径の雑踏に揉まれていたことだろうか。話者は先達バルトに敬意を払いつつも、今やその日本論のディテールについて訂正・批判できるものをたくさん手に入れてしまった(p201からp216でバルトに関する考察)。しかたない。しかしバルトよりも多くのものを発見し、日本理解を深めた自分は、それを肥やしにして「専門家」になることも望んでいないし、ましてリョウジなしには先には進めないだろう。1985年にセカッティーはフランスで聖フランシスコ・ザビエルの日本での行状を題材にした評伝小説"L'Extrémité du monde"を上梓する。これを手にしたリョウジはその中の「ザビエルは日本を発見した」という表現におおいに難色を示す。ザビエルの前に日本は存在していなかったような、覇権主義的で植民地主義的な表現だ、と。この辺の無意識に身についてしまったような西欧優越世界観を引きずっているということを身を持って知った話者は、ある種の微妙な事柄には「沈黙」(遠藤周作の作品も引き合いに出している)することを決意するのだが...。
 恋多き人であり、90年代にはエイズ死を身近に体験しながら、私小説を何編も書いてきた。パゾリーニや大江健三郎と親交してきたことは、その多作さにどう反映しているのだろうか。恋(と死)のことばかりで文学人を通せてきた稀有な人かもしれない。九段・神楽坂のフランス語文化圏で人生を変えてしまったフランス作家、今、日本は遠きにありて思うものなのだろう。

カストール爺の採点:★★★☆☆

René de Ceccaty "Mes années japonaises"
Mercure de France 刊  2019年4月 250ページ 18ユーロ 

(↓)ラジオRCJ(ユダヤ系コミュニティー放送局)の文学番組で、新刊『我が日本の歳月』について番組主キャロリーヌ・グットマンのインタヴューに答えるルネ・ド・セカティ。


(↓)2013年マルタン・プロヴォ監督映画『ヴィオレット - ある作家の肖像 - 』、このシナリオを手がけたのがルネ・ド・セカティ。



 

2019年7月20日土曜日

明日は月の上で


救世主アダモ『明日は月の上で』
Salvadore Adamo "A demain sur la lune"
(1969年)

(←)2019年7月20日付けリベラシオン紙フロントページです。1969年7月20日、米国宇宙船アポロ11号の2人の飛行士によるウォーキン・オン・ザ・ムーンの50周年を記念しての5面特集記事。主要テレビをはじめ世界中のメディアで同じようなことをやっているはずなので、私がとやかく言うことではありまっせん。リベ紙はその特集のタイトルとして、当時地球的規模で大スターだったベルギー人アーチスト、サルヴァドール・アダモ(1943 - )の1969年のヒット曲のタイトル「A Demain Sur La Lune(明日は月の上で)」を採用しました。言うまでもなく、このサルヴァドールは1963年の「雪が降る」以来、日本で最もポピュラーなシャンソン歌手として君臨し、何度も何度も日本に行くから、日本語も堪能ですし、日本では最もパリ的なベルギー人と奥様がたに評判です。後輩の森進一(1947年生、1966年デビュー)は往時「日本のアダモ」と呼ばれていました。それはそれ。
この「明日は月の上で」もさっそく岩谷時子の素晴らしい日本語詞がついて日本語版が吹き込まれ、毎回日本公演では奥様がたが総立ちで唱和するほどの人気ナンバーになりました。このヴァージョンは越路吹雪など日本のおシャンソンの人たちにも多くカヴァーされています。
明日月の上で
神様のそばで
明日月の上で
大空のすみで
オリジナル曲 "A Demain Sur La Lune"は当然1969年人類月面到達という事件にインスパイアされて作られたものです。誰でも子供の頃の夢だったのかもしれませんが、お月見ならぬ「お地球見」の風流も歌詞中に現れます。どうもね、当時はロマンティックな王子さまのような、日本の奥様がたの願望に沿ったイメージが先行していたようで、あの頃、英米のポップス(ロック含め)を聴いていた日本リスナーたちと、フランス語ポップス(イージーリスニングを含め)を好んでいた人たちとの溝を大きく深めた原因のひとつにアダモがなっていたと思うんですよ。ま、(60年代ですから)ビートルズ聴く人はアダモは遠慮すると思いますよ。その溝を一挙に縮めたのがポルナレフである、という主張には一理ありますよ。だって、この歌だって、めちゃくちゃ歯の浮くような歌詞なんだ。
À demain sur la lune 明日は月の上で
Aux quatre coins des dieux 四方を神々に囲まれて
À demain sur la lune 明日は月の上で
À trois bornes des cieux 天国にたった三里の距離のところで

Il y aura un carrosse 馬車は僕たちを
Qui nous emmènera 子供の頃の夢の場所に
Voir mes rêves de gosse 連れていき
Et tu t'y reconnaîtras きみはこれは夢じゃないと気づくだろう

Et pour toi ma jolie 僕の美しい人、きみのために
Le vent, ce magicien 風という名のマジシャンは
Jouera une symphonie 千人のミュージシャンをつかって
De mille musiciens シンフォニーを奏でるだろう

À demain sur la lune 明日は月の上で

Là nous verrons la terre そこから僕たちは地球を見るのさ
Comme une boule de Noël まるでクリスマスツリーの玉飾りみたいに
Se balancer légère 宇宙の大きなもみの木に吊られて
Au grand sapin du ciel 静かに揺れている

Et d'étoile en étoile そして星から星へと
Nos chevaux voleront 僕らの馬は飛んでいくだろう
À l'heure où le ciel se voile 空が白い千の夢のヴェールで
De mille rêves blancs 覆われるとき

À demain sur la lune 明日は月の上で

Le vent te couvrira 風はきみを
D'un voile de dentelle レースのヴェールで包み
Et tu t’endormiras そしてきみは最高に美しい夜のなかで
Dans la nuit la plus belle 眠りにつくだろう
Moi moi moi je te bercerais 僕はきみの揺籠をゆすりながら
J'attendrai ton réveil きみの目覚めを待っていよう
Puis je t’embrasserai 太陽が出たらその目も気にせず
À la barbe du soleil きみにくちづけるのさ

À demain sur la lune 明日は月の上で

 なんと饒舌なことでしょう。 「ヴェール」が2回出てくるところなんか、普通作詞家として恥ずかしくてできないんじゃないの?空駆ける馬とか、クリスマスツリーみたいな地球とか、風という名のマジシャンとか、一体この人は本当に1960年代に生きてた人だろうか、と疑いたくなるんですが、その当人が1966年に第三次中東戦争(6日戦争)を勃発するきっかけとなった「インシャラー」という曲も作ってるんですね。
 ベルギーで生まれた偉大なマンガ「タンタンの冒険」(エルジェ作) の16作目で「めざすは月(Objectif Lune)」(1953年発表)というのがあります。赤白の市松模様(クロアチアの国旗のよう)のロケットで月世界探検に出発する話です。アポロ11号の16年前の想像力、そのフォルムの美しさに感服します。
 さてアダモ「明日は月の上で」に戻りますが、歌詞はどうあれ、一流のメロディー・メイカーであったアダモのこの曲のBメロ、よく聴いてください。このメロディーは1975年、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」にパクられたんじゃないか、と私は真剣に疑っています。

(↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」


(↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」日本語版