2019年12月6日金曜日

聖アニェスのために

ニェス・Bの最新刊2冊、『アニェス・Bとのそぞろ歩き(Je chemine avec Agnès B)』(Seuil 2019年11月)と『わたしは魂を信じる(Je crois en l'âme)』(Bayard 2019年10月)をもとに、月刊ラティーナ2020年1月号にアニェス・Bの"生活と意見”みたいな記事を書いた。"モード(流行)"という言葉が嫌いな、流行を超越したスティリスト。シンプルで着やすく飽きがこない長持ちする服を作ってきた人。何年も何十年も擦り切れるまで着て欲しいと彼女は言う。人が長く着ること、メーカーが少なく生産すること、それが環境にとってどれほど優しいことか。常に最新ものに買い替えを強要しようとするファッション業界では稀なポリシーと哲学を持っている人。そしてすべてにエシカル(フランス語では éthique エチック、倫理的であること)であることをアニェスは会社に徹底させていて、製造はフランスか、さもなくば環境と労働に関して条件が適正である国と決めていて、商業宣伝広告は一切行わない。社会運動家、人道活動家としても第一線で行動している。音楽/芸術のクリエーターたちをサポートするメセナ(庇護者、資金援助者)、コンテンポラリー・アートのコレクター兼ギャラリー運営者、21歳で離婚したためカトリック教会から破門されているにもかかわらず敬虔なキリスト教徒であり続ける....。この素晴らしい女性について書くことができたことに、私自身とても幸せなものを感じている。記事読んでみてください。
 この記事作成のために読んだ上述の2冊の本の断片を、向風三郎のFBタイムライン上で4回に分けて訳して公開した。それを以下に再録して、爺ブログ記事として保存します。

(ソフィー・リュイリエ:私たちの中に眠っている好奇心はどうやって呼び覚ますのですか?)
アニェス・B「まず自分が何に一番興味があるのかを知ること。この問題をちょっと掘り下げましょう。あなたがヒップホップが好きなら、ヒップホップについて見識を深めることができる。その音楽をよく知り、アーチストたちを知ることができる。でも商標(マーク/ブランド)やルックスにばかりとらわれないで。今日という時代はそのことを過度に重要視しているのよ。わたしが15歳だった時、わたしにはほとんど着るものがなかったし、そのほとんどが姉のお下がりだったけど、わたしは不幸ではなかったわ。」
(ソフィー・L:あなたがそれを言うんですか!)
アニェス・B「そうよ。マークやブランドやルックスが大きな場所を占めすぎているの。こんな狂った状態にしたのは広告のせいでもあるわ。広告はフラストレーションを生み出す。人々はこのブランドのこの靴を何が何でも欲しがる。なぜ?自分がそれを持っていないと、愚か者に見られてしまうから。これはバカげたことでしょ。個性を持たなければ。自分が身につけて心地よいと感じるものを見つけなければ。この基準に従って身につけるものを選ぶことが大切で、それはその時のトップブランドである必要はない。その上そのトップブランドのものはすぐ時代遅れになるのよ。それは別のものに取って代られ、結局それはとても高い買い物になるの。人は騙されたと感じるわね。こういう理由から、わたしは広告を一切しないのよ。広告は人を騙し操るものだと思う。わたしは広告を打たなくても「成功」できるという生きた証拠であることにとても満足よ。」
(ソフィー・L:それはそうですけど、簡単なことではないし、多くの努力を必要としますよね)
アニェス・B「そうだけど、少なくともわたしはわたし自身に忠実だということで、わたしはそれだけで満足よ。自分自身に忠実であることは掛け値のないものよ。それをわからなければいけない。わたしはそうでなければ生きられないでしょう。かつてわたしは "b. yourself."と書かれたTシャツをつくったことがある。含蓄する意味は「他の人を気にしない、他の人もリスペクトしよう」ということ。わたしは常にこの教えを従うよう努力してきた。AからZまで。この基本の道徳をわたしはごく小さい頃に教え込まれたし、今でもわたしを導いている。他人へのリスペクトと、分かち合いの気持ち。人と分かちあえるということはまさにこの地上の幸福よ。わたしがお金がなかった時、人とパスタを分け合って食べた。今日、わたしはもっとたくさんのものを人と分かち合えるのよ。」
Sophie Lhuillier + Agnès B "JE CHEMINE AVEC... AGNES B"(Seuil刊 2019年11月)(p69〜70)

(ソフィー・リュイリエ:ひとつの企業という尺度からすれば、非の打ちどころのない倫理性とは生やさしいことではありません。現代社会の競争のシステムは私たちを倫理へと向かわせません。この競争と倫理を両立させることはできますか?)
アニェス・B「わたしは一度も広告を出したことがない。わたしはそれはまやかし操作だと思っているし、好きではないのよ。わたしはとても頑固よ。今日わたしはそのことのさまざまな結果を被っている。わたしはデビューしてすぐに報道プレスに支持されて、それは30年間も続いた。プレスはわたしの仕事にこれまでと何か違うものがあると認めてくれた。けれど今から10年前頃から状況は変わった。ジャーナリストたちはそのメディアでもはやわたしのことを報道することができないと知るや、ファッションショーにも顔を出さなくなった。その新聞雑誌の多くは広告主たちの団体に牛耳られているから。わたしはそのシステムに属していないので、記者たちはわたしの記事を書く必要がなくなったのね。わたしの服を身につけたわたしの友人の俳優がある雑誌のために写真を撮る時に『だめだよ、アニェス・Bの服着てちゃ』と言われた、という話まであるのよ。すごいでしょ。だからわたしは広告システムの犠牲者なんだけど、しかたないわね。エチエンヌ(註アニェスの長男、アニェス・B社社長)が広告をやろうと言い出しても、わたしは抵抗するわよ。わたしは代表取締役社長(PDG)だけど、いろんな時にわたしはアニェス・B社のスティリストでしかないと思うことがある。なぜなら社長とわたしはいつもいつも同意見ではないから。でも彼にはたくさんの管理すべきことがあり、わたしはそれがたいへんなことだとわかっているわ。
世の道徳(モラル)は変わったわ。わたしがELLE誌でエレーヌ・ラザレフ(註ジャーナリスト/編集者 1909-1988、1945年ELLE誌の創刊者)の下でデビューした頃は、ジャーナリストがメーカーから贈り物を受けとることは一切禁止という鉄則があった。とても厳格だったわ。今日それは完全に消えたわね。このことはもっと語られていいはずよ。」
Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p45-46


(ソフィー・リュイリエ:あなたの政治的な目覚めはいつどんなふうに起こったのですか?)
アニェス・B「ギュフレ校(註:アニェスが通っていたヴェルサイユの私立学校)の最終学年(註:日本の高校3年に相当)の時、クラスに17歳で結婚した友だちがいて、その若い夫は23歳でアルジェリア戦争に招集された。彼女は学校を卒業するために授業に戻ってきたけど、身を黒い衣装で包んでいた(あの当時は誰も黒いものなんか着なかったわ)。彼女は夫を失い喪に服していた上、妊娠もしていて、このことはわたしを動顛させた。わたしはアルジェリア戦争とは何かを深く知ろうと調べ始めた。わたしの両親は頑固な右派だった。わたしの祖父は将校だったけどド・ゴールには全く賛成していなかった。そしてわたしは理解したの、アルジェリアが求めていたものは自治独立だったということを。わたしは理解したの、フランスの若者たちは悪い理由で殺されるはめになったし、それはアルジェリアの若者たちも同じ理由で殺された、と。こんなことがあっていいわけがない。この”フランスのアルジェリア”は”アルジェリアのフランス人”たちにもアルジェリア人民たちにも同じほどのたくさんの苦しみをもたらしたのよ。」
(Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p71)

(ソフィー・L:68年5月革命の時、あなたはこの事件をどのように生きていましたか?)
アニェス・B「あの頃、わたしは毛沢東を崇拝していたわ。ジャン=リュック・ゴダールが『中国女』をつくった頃ね。わたしはまさに左翼だったし、デモの時は街頭で左手の拳を高くかかげてたわ。わたしはその前からデモによく参加してたし、アルジェリア戦争終結の頃はしゅっちゅう行進してた。地下鉄シャロンヌ駅で9人のデモ参加者が死んだ(註:1962年2月1日、アルジェリア戦争反対デモに対する警官隊の過剰暴力事件)ときもわたしは現場にいたし、ピエール・オヴェルネイ(註:ルノー自動車工員で左翼プロレタリア運動(毛沢東主義系)活動家、1972年ルノー工場の警備員に殺害された)の葬儀にも参列したし、わたしは常にわたしの主義主張で抗議活動していた。すなわち、わたしは事件の真ん中にいたのよ。わたしは真剣にこの消費社会を変えるために闘っていたし、社会をもっと平等なものにするために行動していた。いろいろなアイディアが迸り出てきて、雰囲気は喜びに満ちていたわ。でもね、わたしは自分の車で何人も負傷者を運んだこともあるのよ...」
(Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p74)

サラエボハート(Le Coeur de Sarajevo)欧州大陸で、第二次世界大戦後、最も多くの死者(10万人)と難民(200万人)を出した内戦「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」(1992-1995)の時の人道支援について。 アニェス・B「20世紀の終わりの頃にヨーロッパのある都市が、中世の出来事のように敵国に攻囲されたの。つまり住民は水もなく、くべる木もなく、食べるものもなくなった。それは怪物じみたことだったし、ありえないことだった。わたしには5人の子供がいる。養わなければならない子供がいるのに、なにも子供に食べさせるものがない、水さえもない、なんて考えただけで...。わたしは食べ物をつくるとき、台所もなく家族に食べ物を与えることもできない女性たちのことを思うと、今でも心が張り裂けそうになる。
そこでわたしは怒りにまかせてハサミを使って角ばったハートを描き、それをメタルにして2サイズつくって、それぞれ当時の値段で30フランと50フランで売ってサラエボ市民支援金にした。それからわたしのブティックで働いていた青年ロドルフの発案で「プルミエール・ユルジャンス(最緊急)」という名のNGOを創設した。オランダで1箱35フランのケースを買い、ケースの中にはコンビーフ、パスタ、歯ブラシ、ロウソクなどを詰めた。それは最低限必要なものばかりだったのに、セルビア人たちは途中でケース総量の30%も没収したのよ。何台ものトラックがケースを山と積んでパリからサラエボへと向かった。彼らは非常に長い行程を進まなければならなかったけど、みんな素晴らしい人たちだった。わたしはパリに戻ってきて、ボスニア紛争反対のデモ行進をした。50人のデモだった。ある日、わたしはコンコルド広場の真ん中を横切ろうとしていたら、ミロシェヴィッチ(註:スロボダン・ミロシェヴィッチ1941-2006。1987年から2000年までセルビア大統領。戦争犯罪人)が歩いているのが見えた。わたしはたったひとりで彼の前に行き、拳をこんな風に振り上げたの。わたしはミロシェヴィッチと彼がやったすべてのこと、彼が犯したすべての犯罪を心底から憎悪していたのよ。
このサラエボハートを何種類もつくって売ったし、今でもサラエヴォの教育復興のために売り続けている....。
(Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p75 - 76)

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