2023年7月16日日曜日

追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(1/2)を読む

2023年7月16日、ジェーン・バーキンがパリの自宅で亡くなった。76歳だった。
この女性を語ること、それはかつて私たちには「セルジュ・ゲンズブールの」という枕詞なしにはできなかったのだ。それがジェーン・Bというひとりの女性像として確かに把握できるようになったのは、2018年10月とその翌年10月に発表されたジェーン・バーキンのプライベートな日記の上下巻800ページが暴き出した”生きざま”によってだった。「ゲンズブール史の一部」として限定されるわけのない、自由なエゴと共に不安定に紆余曲折してきた生身の女性の記録、それは必ずしもすべて正直なものではあるまい。日記とはそういうものだろう。私はこの上下巻に魅了され、雑誌「ラティーナ」にそれぞれ3ページずつの紹介記事を掲載してもらった。もう一度この女性の生きた軌跡を(ゲンズブール絡みでない多くの部分を含んで)知っていただきたく、追悼の意をこめて、ここに再録します。ジェーン、安らかに。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2018年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ジェーン・バーキンの極私的日記を読む(1)

 イギリス出身の女優・歌手ジェーン・バーキン(1946― )が、11歳の時から断続的に書き続けてきた極私的日記を(書き直しなしで)整理編集、自らフランス語翻訳して発表出版、題して『マンキー・ダイアリーズ』。マンキーとは少女の時に縁日くじ引きで当てた猿のぬいぐるみ人形の名前で、日記の告白相手となった。それは少女時代から大人になってさえもいつも寝床に一緒にいてくれないと眠れないフェティッシュで、旅先にも必ず持っていった。103日に刊行されたその第1巻は、1957年から1982年までの日記を集めたもの。ロンドンでの少女時代から、18歳で女優デビュー、20歳で映画音楽作曲家ジョン・バリー(007シリーズの音楽)と結婚、女児ケイトを出産後離婚、フランスに渡りセルジュ・ゲンズブールと邂逅恋仲に、その後ろ盾でフランスで歌手・女優として大成功、シャルロット出産をはさむ12年の愛情生活が1980年に破綻、映画監督ジャック・ドワイヨンと新生活、女児ルーを出産するところでこの第1巻は終わっている。来年出版予定の第2巻はそこから2013年の長女ケイト・バリーの謎の死(事故説と自殺説あり)までが収められる予定で、バーキンはケイトの死で日記の役目は終わったとして、その後は全く書いていない。

 映画と音楽のスターであったジェーン・Bの私生活は隠されていたわけではなく、私たちは芸能誌などでかなりスキャンダラスな部分まで知っている。それはとりわけゲンズブールの「生涯の女性」として、その1991年の死の頃から世界的に高まったゲンズブール評価によっても大きくクローズアップされた。わずか12年のカップルであったが、言わば「世紀のカップル」のような神話化が進行した。そのため、メディアがこの女性を語るときどうしても「ゲンズブール史の一部」という限定がついているように思えてしまう。その死から年月が経てば経つほどエスカレートする神格化にともない、彼女はその最重要証人としてその生涯と作品を繰り返し繰り返し語っていくしかない。2016年から始まった、中島ノブユキを編曲者・音楽監督とする「バーキン/ゲンズブール・シンフォニック」の世界ツアーが大成功で今日も続いているのを見るにつけ、この女性は死ぬまで「ゲンズブールのミューズ」であり続ける運命を背負っているは間違いない。しかし人間ジェーン・Bはそれだけに集約されるわけではない。たぶん私たちはこの日記で初めて人間ジェーン・Bに接しているのである。主語「私」がジェーンである人間に。

 自ら定めた編集方針では、原文の英語からフランス語に翻訳はしても、シンタックス・エラーや不適切な表現があっても訂正や書き直しはしない、としている。現在(2018年)のバーキンからの補足と注釈は別書体印刷で付記されているものの、本文はリアルタイムでその時・その場での肉声なのである。12歳の少女は不安で、意地悪で、嫉妬深く、コンプレックスがあり、大人を呪ってみたりするのである。18歳の無鉄砲な娘は、15歳年上で離婚歴も子供もある作曲家ジョン・バリーとの結婚がどんな不幸になるものかなど全く予想していない。日記の現在地点の視点は未来から修正されることはできない。間違いも非合理もどうすることもできない。

 ロンドンでの少女時代とワイト島での寄宿学校生活などを読み進めていくうちに否応なく了解されるのは、この小ブルジョワ家族の絆の強さである。第二次大戦中イギリス海軍の士官としてイギリス南岸とブルターニュ半島を往復してフランスのレジスタンスを支援した父デヴィッド・バーキン(1914-1991)はその戦傷が後を引き、何度も入院と手術を繰り返すのだが、この父へのジェーンの思いは後年のゲンズブールへの思いと等価できるほどの厚みがあり、この日記の第二部で読むことになろう19913月にたった5日の間を置いて相次いでこの世を去ったゲンズブールと父デヴィッドの死の衝撃は想像を絶する。母である女優ジュディー・キャンベル(1916-2004)には、自分が女優になる上でコンプレックス絡みの複雑な感情もあった。少女の頃妹のリンダには、姉の自分に比べて何でもうまくでき、自分には許されないことも何でも許されている、というジェラシーがあった。学業成績だけでなくアート全般に長けた兄アンドリューは、一生に渡ってジェーンの守護者兼スーパー助っ人となる。この一家は彼女が家を出てからも、ロンドン、パリ、ヴァカンス地、女優ジェーンの外国のロケ地などに集まって、幸福な家族の時間を過ごすのである。それは父親の違うジェーンの二人の娘ケイトとシャルロットが加わっても事情は同じで、バーキン家の結束は堅固そのものである。

 ゲンズブール絡みの興味で読み始めた読者には、第1巻の3分の1の少女からハイティーン時代の稚拙で感覚的で非論理的な文章は興味を殺がれるかもしれない。それでも1963年、エディット・ピアフが死んだ時、たまたま語学研修合宿でパリに来ていたジェーンの民泊したアパルトマンがピアフ邸の隣で、訃報を聞きつけてやってきた報道陣や有名人たちで大混雑の隣家の前で、無名イギリス人少女ジェーンが報道陣からフランソワーズ・アルディに間違われて取材を受ける、というとんでもないエピソードも見つかる。

 奥手のハイティーンだったようだ。初めての重要な恋関係はジョン・バリーという15歳年上の有名作曲家、それがそのまま結婚、出産へと発展した。後年のゲンズブールとは22歳の年の差。年齢差と社会的上位に基づく権威的で教育的で支配的な男に傅く傾向があったということか。1966年ミケランジェロ・アントニオーニ監督映画『欲望』(67年カンヌ映画祭パルム・ドール)での全裸演技(当時としては大スキャンダル)で少し脚光を浴びたバーキンだったが、新人女優の将来は不安定だった。ダンディーにして既に作曲家として映画界の重要な地位にあったバリーは、精神的職業的不安定を一時的に解消することにはなるのだが、不在の多い夫であった。当時の日記の文面は彼女の旺盛な性的好奇心を隠せない。この性的冒険欲は、同好者にしてその道一流の通人であったゲンズブールによって大きく開花することになる(68年に色街ピガールの安宿での体験エピソードあり)が、その愛はもちろん性的魅力のみによって燃え上がったものではない。


彼は甘く優しく強く、官能的で性的な素晴らしさを持ち合わせているけれど、私は単なるセクシーな男以上のたくさんのものを持っていて、輝きがありユニークだと感じている。もしも彼を失うとしたら、私がこれまで失ってきたすべてのものよりも大きな損失となる。なぜなら私はこれほどまでに満たされた感覚を今まで持ったことがなかったのだから。これは真実の愛であり、私は自分がとても強くなった。私たちはお互いを補っていると思う。ジョンと私がお互いを破壊しあっていたのとは逆に。
19701月の日記。『マンキー・ダイアリーズ』p139-140

 その「真実の愛」は1968年から81年まで続く。映画女優ジェーン・バーキンはフランスで開花し、ゲンズブールというパートナーは彼女を第一線のヒット歌手にもしてしまう。そのデビューに冷ややかだったイギリスを後にして、ジェーン・Bはフランスで真実の愛と確固たるアーチスト(女優・歌手)の地位を得た。それはすべてゲンズブールが与えたものと言われるかもしれないが、それは徐々に重苦しいものとなり、12年後には耐えられなくなる。しかしその破局まで、この世紀のカップルはほとんど夢のような素晴らしい日々を送るのである。パリ7区ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸を本拠に、セルジュ、ジェーン、ケイト、シャルロット(71年生まれ)の4人家族は円満で笑いが絶えなかった。特にこの日記で描かれているゲンズブールの良きパパ、良き家長ぶりには驚かされる。家族キャンプで自転車やボート遊び、さらに自炊などに奮闘するゲンズブールの姿がジェーンのイラスト入りで描かれる。イギリスのバーキン家ともフランスのギンズブルグ家とも調和的な関係が築かれ、破天荒というパブリックイメージとは程遠いゲンズブールであった。

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5月、シャルロットを身籠った体で映画『ガラスの墓標』のプロモーションのためにゲンズブールと共に日本を訪問、この時の日記分量は6ページに及び、エキゾチックな描写が続くが、日本は遠い国だったのだ、と改めて思う。その2ヶ月後にジェーン・Bはロンドンの病院でシャルロットを出産するのだが、新生児に原因不明の黄疸症状が現れパニックに陥る。その時の日記の補足説明文に「目が細くて真っ黄色だったのを見て、2ヶ月前にセルジュと私が日本を旅行したせいだと思った」(前掲書 p176)という記述あり。ジェーン・Bにしてこのようなレイシスト・ジョークを発するものなのか。
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年夏の終わり、ブルターニュからパリに帰る途中、ゲンズブールは思いつきで、戦争中に(ロシア系ユダヤ人の子ゆえ)匿ってもらっていたサルト地方の農家に寄りたいと言いだす。12歳で絵の上手い少年だったリュシアン・ギンズブルグの痕跡を約30年後に見つけられるか。場所が近くにつれてゲンズブールは興奮しだし、ここはこうだった、あそこはどうだった、とジェーンに解説していく。そして件の農家に着いた時、大きな家という記憶があるのに、実際は小さなものであることに驚く。あの窓から隣家に住む19歳の娘が髪を解くのを見ていた。絵がうまいということで、入り口に自分の絵を貼ってもらっていた村の教会。そんな記憶が蘇るのだが、今住んでいる人に聞くと当時の家主も住人もいなくなったり、死んでしまったりで。「俺、リュリュなんだけど、憶えてないですか?」と聞くも虚し。時も人も移ってしまう。途方もない寂寥がゲンズブールを襲い、それを見ていたジェーンがこの悲しい午後を日記で記録する。私にはこれがこの第1巻で最もエモーショナルなパッセージであり、ジェーン・Bの眼差しの暖かさが感じられる日記文も胸に迫る。

 
 この本のちょっとした暴露部分として、出版時にフランスの芸能各誌で話題にもなったことだが、ゲンズブールは3ヶ月も風呂に入らないと記されている。汗をかかない体質だそうで、洗面台やビデなどを使って少量の水分で体を洗うことはあっても、浴槽はめったに入らない。しかし清潔さは申し分ない、と。

 心臓疾患で何度病院に収容されても、タバコもアルコールもやめない。ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸の一階サロンは、マニアックに博物館化されていて、そこにあるものは配置を変えることも触ることもできない。79年ジャマイカ録音アルバム『オ・ザルム・エトセテラ』でゲンズブールは13枚目にして初めてチャート1位、プラチナ・ディスクを獲得、ヴィクトワール賞を総なめ、さらにフランス国歌ラ・マルセイエーズのレゲエ版のため極右団体から抗議と脅迫を受けるというスキャンダルも起きた。それまで音楽的にはバーキンの影に隠れていたのに、ここで一挙にゲンズブール・スーパースターが誕生する。暴言、奇行、極度のアルコール依存、ゲンズブールの「ガンズバール化」(ジキルとハイドに模した悪の別人格)はこの頃から顕著になり、家庭内でも暴力的・暴君的になることもあった。

 日記はそれと同時期の事件として、ジェーンのお抱えヘアメイク担当で彼女のすべての映画撮影現場に同行させていた腹心の友アヴァの突然の病死の衝撃に多くのページが割かれ、死後何度も夢の中に現れるこの女性への断腸の哀惜が綴られる。ジェーンではもうコントロールが難しく、健康など全く意に介せず暴走をエスカレートさせるゲンズブール、そして消えることのない失った親友への思い、79年から80年の日記は自らの死をも喚起させる暗さが支配的になる。成長して難しくなる娘たち、父デヴィッドの度重なる入院、いろいろなものがひとつのカタストロフに向かって渦巻き上がっていくような日々の中で、79年夏、ジェーン・Bは同世代(2つ年上)の若手映画作家ジャック・ドワイヨンと出会っている。日記は彼女の情動の高まりを隠せないし、セルジュへの愛は揺るぎないものとしても、この別の強いセンセーションを失いたくない。虫の良い話だが、ジェーンB
はゲンズブールとドワイヨンとの調和的な三人の関係というのはできないものだろうか、と苦悩する。ドワイヨンもまた苦悩しながらジェーンを熱愛する

 この日記本第1巻の大詰めにして最大の山は809月、ジュリアン・クレールとセルジュが録音していたスタジオから、ひとりジェーンが抜け出し、タクシーを拾ってパリ右岸のノルマンディー・ホテルに部屋を取り、そこから電話帳でドワイヨンの名を探し、当てずっぽうでかけてみる。

最初に出た相手はご婦人で、私はジャック・ドワイヨンという人をご存知ありませんか、と尋ねた。すると彼女はそれは私の息子ですと答えた。私は彼がどこにいるのか知りたいのですが、と言うと、ご婦人は今私の横で眠っていますよ、と。これがおしまいであり、これがはじまりでもあった。(前掲書 p334

 「真実の愛」はこの夜、いったん壊れてしまうのであるが、日記第1巻の最終部はこの夜からたった1年後既にセルジュとの復縁(同じような関係はもう持てないと知りつつも)を願う述懐が綴られている。そしてお腹の中にはルー・ドワイヤンが宿っている、というところでこの本は終わる。

 芸能伝記本にありがちな脚色や修正を一切排したジェーン・Bのリアルな過去、葛藤も矛盾も邪気もそのまま曝け出した日記、私はこの人が本当に好きになった。

(ラティーナ誌2018年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)『マンキー・ダイアリーズ』発表時、ボルドーのMollat書店のインタヴューに答えるジェーン・バーキン。愛犬ドリーも出演。


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