2015年2月28日土曜日

共和国よ、おお僕の共和国よ

アブダル・マリック『共和国広場』
Abd Al Malik "Place de la République"

(著者・出版社の承諾なしに、p12〜P13の27行を日本語訳します)

そして僕はこのシテの小径を歩く。複数の人間たちのひとりとして。僕はここでは一人だけでも徒党なのだ。僕はこのシテの通りを進む。ここではヘルメットなしでバイクに乗り、みんなジミー、ジャメル、アンリなどと名乗り、僕らのヒーローはトニーだ。歩く僕らを見ている湿ったまなざしは、工場で腰をこわした僕らの両親たち、家事手伝い婦たち、失業者たち、僕らが教育システムから逃げ出さないようにと神に祈っている破産した生活保護受給者たち。歩く僕らに儀礼的に尊敬のまなざしを注いでいる少年たちは、獄入りの回数で階級を昇進させている僕らの身分の目印を見つけるのに苦労している。僕らはここを歩き、中心街を避ける。あそこではブルジョワがあたかも僕らが卑しい病気を持っているかのような目つきで僕らを睨むから。僕らは警察と法の監視の下で歩く。彼らは僕らが生け贄の色をしているからと僕らをすでに犯罪者と断定している。そして今、僕らのナイキ・エア・ジョーダンはヴァーチャルのシテの中に入り込んでいる。その通りは僕らの住所からアレッポの廃墟までつながっているのだ。誰もが自分の属するコミュニティーを探している。おまえが好きだ、俺たちはおまえを必要としていると執拗に言ってくれる人々を探している。おまえが美しかろうが醜くかろうがそのままのおまえを採ると言ってくれる人々を。共和国よ、おお僕の共和国よ、なぜあなたはその前に僕を愛していると言ってくれなかったのか?

Abd Al Malik "PLACE DE LA REPUBLIQUE"
Editions Indigène刊 2015年2月  30ページ 3,90ユーロ



PS(記:2015年3月3日)アブダル・マリック『共和国広場』に関する向風三郎の記事は、ラティーナ誌2015年4月号に掲載されます。

2015年2月22日日曜日

ソルガ男の生きる道

Dupain "Sòrga"
デュパン『ソルガ』

 1988年5月のことでした。たった3ヶ月間だけ在籍した日系(大)企業の通訳でマルセイユの西側にある工業都市フォス・シュル・メールに出張しました。マルセイユからレンタカーを借りて産業道路を西進していくうちに、晴れていた空がどんどん色が変わってピンク色の霞になって、強い臭気で窓が開けられなくなりました。石油精製、鉄鋼業などが集まっている地区です。強烈に記憶しているのは空の色です。ヴァン・ゴッホが描いた南仏の空には黄色い渦巻きが見えるのですが、フォスにはピンク色の渦が見えました。
 2000年デュパンのファーストアルバム『工場(L'Usina)』を聞いた時、私はすぐにこのフォスの灰ピンクの渦巻く空を思い出しました。このバンドがフィーチャーしているヴィエル・ア・ルー(英語名ハーディー・ガーディー)という楽器の、ともすれば耳障りな擦弦ドローンはサウンドに濁りを与えます。文字通り工場の鳴り止まない重機の低轟音のよう。へヘルメット&遮音ヘッドホンを被った真っ赤な顔の作業員たちは、こういう声でなければ何も言葉にならないんだ、という振り絞りヴォーカルのサム・カルピエニア。いにしえの遠いヨーロッパから聞こえてくるような螺旋的なメロディー。オック語という面妖なフランス語。これは私たちは当時「中世インダストリアルロック」と呼んでました。レコード会社が(当時メジャーの) Virgin Franceでしたから、私たちはその会社傾向から判断して、新傾向の「ロック」として解釈しようとしてたんですね。機械、マシーン、エレクトロニクス、強い批評性、オーガニックでプリミティブな雰囲気、オクシタン ... 半分はロック的で、半分は非ロック的でも、シャウトするサム・カルピエニアの姿に、私たちはノワール・デジールのベルトラン・カンタに近いものを感じていたと思いますよ。百歩譲ってこれはロックである、と。
 デュパンは(本人たちの許可なしと言われている)『L'Usina Remix』(ミニアルバム。2001年)、次いでセカンドアルバム『カミナ』(2003年)でエレクトロニクスと遠ざかり、マンドール(Mandoleです。 Mandoreと混同のないよう)というアルジェリアのシャアビ伴奏の撥弦楽器を導入します。
 メジャーを離れて、北フランス、ピカルディー地方アミアンの独立ジャズ・レーベル LABEL BLEU(ラベル・ブルー)のワールド系サブ・レーベルINDIGO(ロキア・トラオレを世界に知らしめたレーベルです)から、サードアルバム『レ・ヴィヴァン(Les Vivants)』(2005年) が発表になります。レッテルの妙でしょうか、レーベルが変わっただけで、このバンドはロックバンドから「ワールド」に急にカテゴリーが変わってしまいます。デュパンがこのアルバムで初めて「フランス語」で歌っていても、人々はこれを"ロック・フランセ”から「地中海ワールド」に売場の位置を変えたのでした。
 このサードアルバムは松山晋也君の解説がついた日本盤(ビデオアーツ社)も出て、中村とうようからの賛辞もあり、ミュージックマガジン誌の2006年度の年間ベストで「ワールド部門」7位にランクされてます。私はこのあとデュパンが活動できなくなったのは、中村とうように誉められたからではないか、という説を持っていますが、ま、それはそれ。

 サム・カルピエニアは謎の人です。マルセイユ生れではなくノルマンディー出身で、ポーランドの血も引いています。1989年マルセイユ近郊の港町ポール・ド・ブークで結成された(ファンク、レゲエ、オルタナティヴ系)ロックバンド KANJAR'OC(カンジャロック。4半世紀にわたって、マッシリアなどと混じり合いながら南仏シーンの名物バンドになっているものの、私はよく知らない)のギタリストでした。それからイタリアとブルガリアでヴォーカル・ポリフォニーを研鑽したマニュ・テロン(後のロ・コール・ド・ラ・プラナ)と、GACHA EMPEGA(ガチャ・エンペガ)と名乗る二声ポリフォニーグループを作ります。マルセイユのトラッド/フォークロアをヴォーカルで大変革してしまう最初のバンドです。それからサムはデュパンへ、マニュはロ・コール・デ・ラ・プラナへ。この二人は親友でくっついたり離れたりをその後も繰り返しますが、 ブルガリア型の地声ベルカントを思わせるマニュ、アンダルシア・カンテ・ホンドとロック唱法のミックスのようなサム、というヴォーカル資質の違いだけではない、なにか大きな特徴の差があるように思えるのです。この個性的なヴォーカルアーチスト二人は、共に大団円のある歌唱を得意とし、螺旋階段昇りつめ式にヴォーカルによるトランス状態まで持っていくことができます。しかしこの二人が違うのは、アティチュードとして冗談だらけのマニュ、冗談なしのサム、だと私は思うのです。このあたりがね、(↑の写真)細身長身&メガネで哲学者然としたカルピエニアと、小さく丸っこくて剽軽もののテロンが、ドン・キホーテとサンチョ・パンサのように見えてしまう所以なのですよ。
 デュパンを解散してから4年後の2009年にソロアルバム『Extatic Malanconi(エクスタティック・マランコーニ)』が出た時、パリのカフェでちょっと長い時間話を聞くという機会がありました。その時の模様は爺ブログの『サム・カルピエニアとアペロを共にする』に記録してあります。柔和な表情でいろいろ話してくれたのですが、その時も「デュパン後」というか「いかにデュパンを葬るか」みたいな試行錯誤で頭がいっぱいで、さまざまなプロジェクト("Extatic Malanconi"ツアー、ビージャン・シェミラニとの新バンドForabandit、ガチャ・エンペガでの再活動など)が同時進行している、と言ってました。
 元デュパンのヴィエル・ア・ルー奏者(言わばサムと並んでのデュパンの双頭リーダー)ピエロー・ベルトリーノが参加したオネイラ(爺ブログ『地中海の6人』参照)にゲストヴォーカルとして出演した時、ビージャン・シェミラニとウラシュ・ウズデミールと組んだトリオ、フォラバンディ(爺ブログ『追放人たちの歌』参照)としてのライヴ、それからデュパン再結成の手始めとしてピエロー・ベルトリーノとのデュオで行ったライヴなど、サムがパリに来た時は必ず会いに行くようにしているし、その度に少しばかり言葉を交わしていました。後でわかるのは、私はやはりデュパンの話ばかりしようとしていたし、「デュパンをまたやる」と聞いた時には「やっぱりそうだよな」と祝してやりましたけど。このサムという男、この間の10年間、あれもこれもといろいろやったけど、結局満足できなかったのだと思いますよ。冗談のない分、妥協もない人でしょうから。

 デュパン再結成は、サムとピエローの二人さえいれば、というものではありません。サムとピエローの馴らし運転は2011年から始まったようです。私がパリで見たデュパン(デュオ)のライヴでも"L'Usina"のレパートリーをやったのですが、二人でループマシンを駆使して多めの音にしようとしていて、これだったら人数増やした方がいいのに、と思っていました。エマニュエル・レイモン(コントラバス)、フランソワ・ロッシ(ドラムス)、そしてこれが新生デュパンの最重要エレメントでしょうがブルターニュ出身のセルティック・フルート奏者ギュルヴァン・ル・ガックが加わったクインテットになりました。余計な機械を使わずとも、この5人で大丈夫と思わせる、各人の出る音数の多いアンサンブルです。そして、サムのマンドールの掻き鳴らしだけでは絶対に実現しない「ビート・バンド」の音になりました。
 レ・ザンロキュプティーブル誌では、この新生デュパンの音を「Folk Step(フォーク・ステップ)」 と称しています。私の知らなかった英語なので、その定義をウェブ上で探してみました。
A style of music that is best described as the fusion of folk rhythms and electronic, mainly dubstep, beats.  
よくわかりませんが、私たちが20世紀に「フォーク・ロック」と呼んでたり、20世紀末に「サイバー・フォーク」と呼んでたりしていたものに近くて、ビートが強調されたものと思っていいでしょう。ヴィエル・ア・ルーをフィーチャーしたイマジナリーなオクシタン音楽に、新たにセルティック・フルートが加わり、バレティとフェスト・ノーズの混合バル(ダンスパーティー)のようなビート・フォーク・ミュージックと解釈しましょう。
 
 さて、3枚目までのデュパンの明確な特徴としてあったのが、歌詞のメッセージ性であり、マッシリア・サウンド・システム、ファビュルス・トロバドール、ロ・コール・デ・ラ・プラナ、ラ・タルヴェーロなどのオクシタン・ムーヴメントのアーチストたちと同様に、強烈に社会や政治にコミットする異議申し立ての歌詞を歌ってきたのですね。私はこの全曲オック語で歌われている新アルバムを先に歌詞記載なしのプロモーション盤でもらって、曲タイトルだけ見ても全くどんな内容が歌われているのかわからなかったのです。2月3週目にやっと製品(歌詞ブックレット。オック語原詞、フランス語訳、英語訳つき)をもらって、そのブックレットを目にしたのですが、たいへん当惑しました。1曲めは2曲めの詩の一部(2行のみ)を引用した、言わば2曲めのためのイントロダクションのような曲です。それはこういう2行なのです。
千頭の蝶が
曲芸飛行に熱中していた
(Mille Papillons 千頭の蝶)
お立ち会い、日本語では蝶々は「一頭、二頭」と数えます。羽根よりも頭が目立つんでしょうか。その蝶々が千もいて、その頭を失わんばかりに夢中で猛スピードで縦横無尽に飛び回っている図。一体何のことでしょう? 一体どんなアルバムがここから始まろうとしているのでしょう?
 全12曲中、11曲の詞が「マクサンス(Maxence)」という名前になっています。私はすぐにデュパンのフェイスブックページにメッセージを送り、サムに一体このマクサンスとは誰なのか、と問いました。答えはサムではなくピエローから来ました("サムはフェイスブックページなんて見てないよ”。さもありなん)。
マクサンス・ベルナイム・ド・ヴィリエ(Maxence Bernheim de Villiers)は不詳の詩人で、出身はパリ、オック語表現の詩と文学に関心を抱いていた。われわれは彼が若き日に書き、1958年にフランス語・オック語の二言語で出版された彼の詩集 "SOURCE"/"SORGA" のことしか知らない。
その詩集をある日サム・カルピエニアが古本屋で見つけ、強烈なインスピレーションを受け、このアルバムの構想練りが始まった、ということのようです。
 その詩は非常に難解です。いつもBuda Musiqueから出るアルバムで歌詞やテクストの英訳をしているドミニク・バックさん(Buda Musiqueの広報担当もしている女性)が、このブックレットの中で、わざわざ断り書きを入れています:「この英訳は、(その意味するところが必ずしも明白ではない)これらの美しくも神秘的な詩の雰囲気を描写する試みであるにすぎません」。で、私もやってみようとして、めげてしまったのですよ。
私の静寂の中心で
夜の中に水の動きがすべりこむ
この重い動脈に
 - 広いまぶたに千の皺 -
私の期待の秘密が虹色に輝く
(2曲め"Au cór de mon silenci"「 私の静寂の中心」)
こんな感じで、私も自分が何を書いているのか、わからなくなります。書かれたのが50年代ですから、「現代詩」と言っていいと思いますが、ライム(韻)でもミーニングでもないところの神秘性なんでしょう。黒いです。黒い装釘です。種村季弘や澁澤龍彦の本にも似ています。イラストレーションはピエロー・ベルトリーノの手になるもので、アルバムタイトルの『ソルガ』(水源、源泉、泉)を象徴するのは、マルセイユ・タロット・カードからインスパイアされたという、ふたつの水瓶から水を流す女神。流れ星、怪物、ヴィエル・ア・ルー、ベースマン、頭から鳥が飛び立つ笛吹き男。そして涙の真ん中で揺れる目のイラストは(↓)この歌のためでしょう。
存在の井戸には
どれだけの涙が流れ落ちたことか
ひとつの顔の恥ずべき頬をうがつために
そこでは空に取り憑かれた目が
転がっていた
眩暈
(8曲め"Vertige"「眩暈」)
最低の翻訳だと思って読んでくださいよ。私にはこれ以上できないですよ。 そして、今回のアルバムは歌詞を誰も気に止めないことになりましょう。この詩の雰囲気とサウンドを精神性や神秘性につなげてトリップすることは、「プログレッシヴ・ロックの道なり」(©石坂敬一)なんでしょうが、そう聞いて悪いという法はないです。
最も美しい太陰月には思いもよらぬ
悲しみの奥底へ行くこと
水源
その生まれたてを飲むこと
輝かしい難関、節理
再びもとに戻るのだ!
(3曲め"La Sórga"「水源」)
サム・カルピエニアは水源に戻ろうとしているのだろうか。このような神秘詩こそが彼のルーツだとしたら、この「冗談のなさ」を実現してしまったデュパンというバンドは、これからどんどん向こう側に行ってしまうかもしれませんね。この辺の話を今度サムに聞いてみたいものですが、語彙の時点で私の理解をはるかに超えてしまうおそれも。ま、そんなこと言わずに、この黒くもあり、求道的でもあり、熱いシャウトでもあるビート音楽をしっかりとお楽しみください。

<<< トラックリスト >>>
1. MILLE PAPILLONS (千頭の蝶)
2. AU COR DE MON SILENCI (私の静寂の中心に)
3. LA SORGA (水源)
4. BEVEIRE D'AUCEUS (鳥を飲む者)
5. CADA VOUTA (毎分)
6. UN MOSTRE (怪物)
7. VAGANT TREPAIRE... (星をハンマーで叩く放浪者)
8. VERTIGE (眩暈)
9. COPAR TOTJORN COPAR (引き裂け、もっと引き裂け)
10. TOT VEIRE, TOT OBLIDAR (すべてを見ろ、すべてを忘れろ)
11. NON O FALIA PAS MAI (もうしてはいけなかった)
12. GLENWAR (グレンワール)

DUPAIN "SORGA"
CD FULL RHIZOME/BUDA MUSIQUE CD 860268
フランスでのリリース:2015年3月16日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)DUPAIN "VERTIGE"(LIVE)


 

 
 

2015年2月16日月曜日

ジハード・デイズ・ナイト

アンナ・エレル『女ジハード戦士になりすまして』
Anna Erelle "Dans la peau d'une djihadiste"

 2015年1月8日、すなわちシャルリー・エブド襲撃テロ事件の翌日に出版されたノン・フィクション本です。著者は大手時事週刊誌に記事を提供する女性ピジスト(社外ジャーナリスト)で、戦地を含む海外特派リポートなどもする経験ある行動派のように見えます。しかしこの本とその前に雑誌掲載したジハード派(この場合イスラム国)のヨーロッパからの戦闘員スカウトに関する記事のために、イスラム過激派組織から脅迫を受け、この本では彼女の実名はもちろん、そのメディアおよびそこで働く人たちも全く明かされません。仮名の多いノン・フクションですが、事情は理解しましょう。
 時期は2014年春。アブー・バクル・アル=バグダディを指導者とするイスラム国はシリアとイラクにまたがる実効支配地域の面積がフランス国土の約半分ほどに拡大し、近いうち(実際には2014年6月)にイラク第二の都市モスルを陥落すると言われていました。この勢力を増長させていっているのが、外国から志願してやってくる戦闘員で、アラブ諸国やヨーロッパから未成年者を含む多くの若者たちがジハード兵士として戦線に送られています。フランスはおそらくヨーロッパで最多のジハード兵を送り込んでいる国です。... っと、今書いた文章おかしい。フランスがジハード兵を送り込んでいるわけではありません。フランスにいる若者たちがスカウトされて戦地に送り込まれているのです。
 そのフランス人ジハード兵の数は2015年1月20日のインターネット版フィガロによると2015年1月の時点で1281人(2014年の同時期には555人だった)とされています。ジハード志願者は後を絶たず、逆に倍増して1年で130%の増加です。この「ジハードへの誘い」は一体どのようになされているのか、というと、何の秘密もなく、すべてインターネット上で堂々と人寄せをしているのです。YouTube上のイスラム国のプロパガンダ動画にアクセスし、「ライク」を押し、コメント投稿する者があれば、ジハード派のスカウト係はその人にあの手この手で誘惑を繰り返し、選ばれた者の誇りを与え、英雄として生き、聖戦士として死ぬことを説くのです。戦士として誘われるのは男だけはなく、女もしかりです。ジハード戦士の妻として、または女ジハード戦士として、このスカウトは特に未成年少女に集中的に誘いをかけます。
 ジャーナリスト「アンナ」(30歳ということになっています)は、この女ジハード戦士としてイスラム国に合流するフランスの少女たちを追跡調査していて、その家族たちに取材をかけ、なぜ・どのようにして彼女たちが、という記事を書こうとしています。よりリアルな情報を掴むために、アンナはSNSを通してフランス人(あるいはフランス語人)ジハード派と交信を図りますが、こちらの身分(ジャーナリスト)が邪魔して集められる情報は限られてきます。そこで、フェイスブックに架空の少女のアカウントを設け、イスラムに改宗したばかりで、ジハードに興味がありその実体を知りたがっている人物として「ジハード派に誘惑されるがままについて行こう」というシナリオを考案します。
 この架空の少女を「メラニー・ニン」と名付けます。設定はトゥールーズに住む20歳、妹と共にシングルマザーに育てられた貧しい郊外少女で、リセあたりからグレ始め、窃盗など軽い犯罪で警察の世話になった経験あり、叔父の勧めでイスラムに改宗、未来の何の展望もなく、インターネットでSNSで時間つぶしをするのが唯一の楽しみ。家族と対話がなく、仕事もなく、唯一15歳の友だちヤスミーヌ(もちろん架空の人物)だけがイスラム改宗の仲間でこの方向での同志となっている。こういう不安定な娘がイスラム国のプロパガンダYouTubeに心動かされ、FBを通じてアブー・ビレル(これも仮名)と名乗るイスラム国幹部にメッセージを送ります。交信が始まって48時間後、38歳のアブー・ビレルは20歳のメラニーに強烈な愛の言葉を捧げ、求婚してきます。
 3万人と言われるイスラム国戦闘員のうち、半数の1万5千人が外国からの参戦者であり、その一割近い数がフランス人です。緊急に集めた情報によって、このアブー・ビレルはフランス人であり、実戦の指揮者クラスである一方、フランスからのジハード兵スカウトの責任者でもあり、イスラム国指導者のアル=バグダディとも非常に近い立場(「アル=バグダディの右腕」とまで噂されている)にあることを知ります。ジャーナリスト・アンナはここで「大魚がかかった」ことに興奮します。ここから最大限の情報を得ることによって、フランスからの「ジハード流出」の流れと構造を暴き出すことができるかもしれない。しかしそのためには、架空の娘メラニーに最大限の危険を冒してもらわなければなりません。
 熱烈にメラニーに求愛するアブー・ビレルは、キーボードと文字によるやり取りに業を煮やし、スカイプによるビデオ通話を要求してきます。アンナはパリの自分の部屋をトゥールーズのメラニーの部屋に見せかけ、ジハード派流解釈のシャリーアに従って黒いニカブを纏い、目だけを見せて20歳のメラニーの姿となりスカイプに向かいます。ビレルはスマートフォン、メラニーはマックブックです。このビレルとメラニーのビデオ通話のやりとりの一部始終は、アンナのジャーナリスト仲間であるアンドレが隠れてビデオ撮影しています。 
 スカイプ交信は2ヶ月続き、ビレルはいつメラニーがイスラム国(ビレルの現在位置はシリア領内)に来て妻になるのかを執拗にリピートします。その口説きはジハード兵のリクルートプロパガンダと同様に「ここはシャリーアの徹底によって不信心者がいないイスラム者の理想郷である」「あらゆるものが豊富にある(石油源を所有するため金はふんだんにある)」「男たちは理想に燃えて戦っている」「女たちは病院や孤児院などで天使のように働いている」「女たちも武器を取って戦って天国に行くことができる」...。そしてこちら側西欧資本主義の中で生きることがいかにイスラム者にとって地獄であり、イスラム者と敵対する行為であるか、ということ。これまで生きてきておまえほど愛した女はいない、おまえを絶対に幸せにする、おまえはここで絶対に幸せになる、おまえは選ばれた人間なのだ...。劇的な男であり、その表現はダイレクトであり、愛する女メラニーを見つめる目は情熱的で動物的で魅惑的ですらあります。ジャーナリスト・アンナは「よく言うよ」と心の中で思うのですが、ジハード志願の娘メラニーはこの誘惑に抗うことができない。この本の中で著者が述懐しているのは、この間中何度も人格分裂(スキゾフレニー)の危機に襲われていたということです。ビレルからのコールは(こちら側の)時かまわず&ところかまわずだからです。アンナがメラニー専用に契約した携帯電話は愛のメッセージでいっぱいになり、さらにそれに即座に答えないメラニーへの苛立ちと恫喝のメッセージが続きます。ビレルはほとんど不眠の男です。スカイプの時は「今日は受信状態が悪い」を口実に時折故意に交信を切らなければならないほど、メラニーの息詰る緊張は限界に達します。切ってアンナに返ってニカブを脱ぎ捨て、ジャーナリストは深々とタバコを吸うのです。そのあと再びニカブを身につけ、スカイプのビデオ画面に...。
 メラニーは求愛の言葉をはぐらかすようにビレルにたくさんの質問を浴びせます。今日何をしたのか、戦況はどうなっているのか、私のような女ジハードは他にもフランスからたくさん来ているのか、彼女たちはどうやって暮らしているのか、フランス国内に私の渡航を手伝ってくれる人はいるのか...。おかげで情報はどんどん集まってきます。
 さて、問題はどこで身を引くか、です。これくらいで十分に情報量のある記事が書ける、と判断して調査をここでやめるか、もっと奥まで進んでみるか。アンナは雑誌編集部と会議を持ち、後者を選ぶのです。それは架空の女ジハード志願者メラニーが、実際にどのようなルートで、どのような人間たちの仲介・案内を得てイスラム国の入口までたどり着くのか、ということを体験してしまおう、ということなのです。
 読む者はたぶんこの辺からちょっといや〜な感じがすると思います。命がけの取材に違いありません。しかしこれはジャーナリズムというよりはセンセーショナリズムに近いのではないか、と思わざるをえないところがあります。
 実際この本は、そういうジャーナリスト自身の葛藤に多くのページを割いています。取材方法としてこれは正しいことなのか、これは国家警察のするべき仕事ではないか、私の恋人や家族はどう思うか...。まず、なぜこのイスラム国によるフランスからのジハード兵スカウトのシステムとからくりを彼女は人々に伝えたいのか。それはこの毎週数十人単位でフランスからイスラム国に渡っているジハード候補の若者たちが、殺し、殺され、人々を不幸にし、自分たちも不幸になる、というふうに考えてしまっているからです。これを止めさせたいと考えているからです。これは取材・報道と言う前に彼女の人道的なアンガージュマンがおおいにものを言っているのです。日本の人たちはこういうところに拘りますよね。報道とは中立で客観的でなければならない、みたいなことを言いだしますよね。私はそうは思いません。彼女の姿勢は圧倒的に正しい。目の前で多くの若者たちが殺戮や自爆などを繰り返しているのを見てジャーナリストに何ができるか。それをやめさせるための真実を報道することでしょう。彼女は既に加担する側がどちらであるべきかを知っていて仕事している。それは正しいことでしょう。だから彼女の葛藤もまた読まれなければならないのです。
 この時点で生身のひとりの人間の中で、「ジャーナリスト・アンナ」と「女ジハード候補メラニー」という二人の人格がせめぎあっています。メラニーはイスラム国幹部アブー・ビレルの求婚を受け入れ「ジハード妻」としてイスラム国に赴こうとしている。アンナはジャーナリストとしてそのやり取りを傍受してしまい、個人になった時このビレルを殺してしまいたいほどの憎悪を抱いてしまいます。
 ビレルはメラニーにイスラム国の入口までの行き方をなかなか指示してくれません。経路や会うべき仲介人の名前もころころ変わります。ビレルはオランダ経由かドイツ経由かを選べと言い、メラニーはオランダ経由を選びます。メラニーの渡航条件は、親友で妹分の15歳のヤスミーヌ(ジハード志願者。架空の人物)を同行させること。このビレルが画面越しに見たこともなく話したこともない15歳の少女は、愛は盲目なのか、メラニーの口先だけの説明で簡単に同行を許されます。かくしてトゥールーズの二人のジハード志願少女は、メラニーが盗んだ母親のクレジットカードを使って航空券を買って最初に経由地アムステルダムまで飛びますが、実際に飛行機に乗ったのはジャーナリスト・アンナとベテランの戦場カメラマンのシャルリーでした。
 アムステルダムのホテルの部屋から、次の指示(イスタンブールに飛び、XXXに会い、YYYへ移動し...)を仰ぐために、メラニーはビレルとスカイプ交信します。しかし、ビレルのコール音にあわてて、ニカブを纏うことを忘れ、アンナの素顔がスカイプ画面に出てしまいます....。

 かなり辻褄合わせのような終盤です。ジャーナリスト・アンナはこの機会に乗じて、とアムステルダムやイスタンブールでジハード兵手配に関与している人間たちを取材しようというプランまで立てるのですが、何一つうまく行きません。そしてアムステルダムからの最後のスカイプ交信で、ビレルはイスタンブールでは誰も迎えがいないこと、イスタンブールからウルファまで国内線で飛び、そこからイスラム国が用意した案内人に電話連絡を取り... 云々の指示を出します。その指示の間、ビレルはメラニーに その場でXXXに電話しろ、次は YYYY に電話しろ、と命令します。しかし身元を明かされないためにオランダで買った使い捨て携帯電話の使用限度がオーバーし、この土壇場ですべてを水に流してはならぬと、とっさにジャーナリスト・アンナ・エレルのフランスの携帯電話を使ってしまうのです(そこからは簡単にアシがつきますわね)。
 当初の計画では、架空のメラニーとヤスミーヌはイスタンブール空港で消滅する予定でした。アンナはパリの雑誌編集部と連絡を取り、イスタンブール行きを中止してパリに戻ることを決定します。計画の中途での断念を悔やみながらも、これだけでもすごい記事が書けるのだ、とアンナはこの冒険の幕を閉じようとします。ところが、アブー・ビレルとイスラム国からのアンナへの暗殺脅迫はすぐに始まってしまうのです。

 読み物としてどうなのだろうか、と思うところがあります。これはイスラム国幹部とスカイプ会話をするというところまでは、たいへん勇気あるドキュメンタリーだと思います。フェイスブック、ツイッター、スカイプなどで、若者たちは簡単にその奥の世界まで行くことができるのが現実です。そこには真実と虚偽の両方があり、ジャーナリストたちはこのどちらが真実でどちらが虚偽なのかを見極められるだけの情報を把握していなければ、報道してはいけない、さもなければプロパガンダの片棒を担ぐことになると思います。
 こんなに勇気あることをしていながら、この女性ジャーナリストはかなり揺れるのです。上に書いた「葛藤」というのはそういう意味です。結局この人何をしたの? アムステルダムまでしか行ってないの? ー という結果論ではなくて、残念なのは、やはり史上最悪の国際テロリスト組織を調査・取材しているということの緊急度・緊張度・密度が足りないことです。映画のシナリオのように読まれることは可能ですけど。

カストール爺の採点:★★★☆☆ 

Anna Erelle "DANS LA PEAU D'UNE DJIHADISTE"
ロベール・ラフォン刊 2015年1月、270ページ、18ユーロ

(↓)1月21日、BFM-TVのインタヴューに答えるアンナ・エレル(死の脅迫を受けているため変名、顔を隠している)