2014年4月21日月曜日

風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ

J.M.G. ル・クレジオ『しけ -  二篇のノヴェラ』
J.M.G. Le Clézio "Tempête - Deux novellas"

 
 二篇の作品なのに、なぜ2冊ではないのか。私なりの説明をしますとね、これはA面B面にそれぞれ1曲の長尺2曲入りのプログレッシヴ・ロックのLPレコードアルバムみたいなものだと思うのですよ。一篇めの『しけ』が長さにして120ページ、二篇めの『身元のない女』が100ページ。独立した二つの中編作品です。この形式を作者はフランス語のヌーヴェル(nouvelle = 中編小説)と呼ばずに、ノヴェラ(novella。元はイタリア語ですが、もっぱら英米文学上での長めの中編小説のこと)と称したのでした。かなりたっぷりな読み応えの2つのノヴェラのAB面カップリングのロングプレイ(LP)と言えます。
 レクスプレス誌(2014年3月27日)の書評によると、第一篇の『しけ』 は元々は小説ではなく映画シナリオであったそうです。韓国のリゾート島チェジュド(済州島)の東側に位置する小さな島ウド(牛島)を舞台にした物語で、ル・クレジオはこのシナリオを持ってプサン(釜山)国際映画祭に乗り込み、韓国人映画監督にその映画化をプロポーズしたのですが、果たせず。「私は俳優の人選までしていたんですよ」とル・クレジオは笑う。しかたがないから、そのシナリオをノヴェラに書き換え、もう一篇の『身元のない女』はその勢いで一気に書き上げたようです。場所もストーリーも全く違う二篇のノヴェラですが、どちらも主人公は少女であり、どちらもある種の不幸を抱えていて、エキセントリックで孤的な戦いを生きている。『しけ』のジューンは父親を知らぬ私生児、『身元のない女』のラシェルは母親を知らぬ私生児、というところも両作品の「呼び合い」を感じさせるところです。

 まず第一篇の『しけ』 です。話者は二人います。ひとりは初老のアメリカ男、フィリップ・キョー。ジャーナリスト/著述家の成り損ないと自称していますが、ヴェトナム戦争時に従軍記者であり、ヴェトナムの旧首都フエで起こった集団婦女暴行事件に関わったとして、有罪になり、3年間監獄に入れられています。罪状は米兵たちの暴行を目の前で見ながら、被害者の救助を求める訴えにも関わらず、ただ見ていた、というものです。この事件以来、男には自分が人間として破綻しているという自覚がついて回ります。その原罪を背負って3年間の地獄のような監獄生活を経ますが、その原罪は消えません。人間性の破綻した男としての生きている価値を問いつめながらの彷徨いの日々の果てに、タイでマリー・ソングというジャズ/ブルース・シンガーと出会います。その生の深さを歌う女性に魅せられ,二人は一緒になり、この韓国の小島ウドに住みつきます。季節には観光客で賑わうが、決して穏やかな海岸ばかりではない野生を残した島です。この島を選んだのはマリーで、この島の海に強烈に惹かれているのです。そして遠泳歴も多く、決して海に溺れて海に飲まれるわけのないマリーは、ある日泳ぎに出たまま帰らぬ人となります。死体は見つかりません。フィリップにはそれが全く理解できません。なぜ最愛の海に行って、そのまま帰らなかったのか。
 30年後、男はウドに帰ってきます。マリーはどうして死んだのかを確かめに。死体が見つからなかったマリーがひょっとして生きているのではないか。マリーと同じようにこの海で死のうとしているのではないか。フィリップはこの島で何もするではなく、スポーツ店から釣り具一式とテントを借りて、釣り方も知らず不器用に海釣りのポーズをしながら毎日海辺に出ています。そこで、少女ジューンと出会うのです。ジューンは韓国女性と米黒人兵の間の私生児として生れ、米兵は逃げ、母親と二人で島に移り住んで来ました。ジューンは肌の色が黒いだの、父なし子だのの差別を受けて育ってきました。母親は島に来て、アワビ採りの海女として生活を立てるようになりました。この英語を流暢に話す少女が現れた時、男はマリーの生まれ変わりと錯覚します。ジューンは釣りの仕方を全く知らぬ初老の外国人に、やり方と魚のいる場所を教え、二人の間に奇妙な交流が始まります。
 小説はここから話者二人になり、男の側からの記述と少女の側からの記述が交互して、二人の過去と現在が展開されます。二人は二人だけのゲームを考案したり、海辺のテントの中で夜を過ごしたり、体を温め合ったり(しかし、一線を越えず、no sex)、親密さは濃くなっていきます。 少女は男がこの島に死ぬためにやってきた、ということを感づいている。男は自分が少女が思っているような人間ではなく、破綻してしまった(悪魔の側の)人間なのだ、といつか告白しなければならないと思っている。その象徴的なパッセージのひとつに、少女が教会でゴスペル歌唱の独唱者として歌う時、男は教会の中に入れず、階段口で隠れるようにして聞く、というのがあります。少女はほとんど恋をしてしまって、フィリップ・キョーは「私の一生の男」と思うようになります。しかし男は絶対にそれを許しません。
 ひとつのカギは海の神秘です。マリーは海の底に吸い寄せられるように消えていったのではないか。人間を吸い込まずにはいない魔力だったのではないか。題名のように小説には荒れ狂う海が描写されます。その犠牲者たちのうち、浜に死体が上がらない人たちはどこへ行ったのか。こういうミトロジーっぽいところがル・クレジオ読者にとってはたまらない魅力ですけど。
 ジューンに生気を少しずつ与えてもらったフィリップは、それでもジューンとの危険な関係を断つかのように、島の薬屋の女主人と動物的に愛し合います。少女はこの性的な拒否を前にどうしようもなくなります。私はこの男とは絶対に一緒になることはできない。そして男と距離を取り、学校をやめ、母親と同じようにアワビ採りの海女になります。 その海女デビューの初潜水に、ジューンは(マリーのように)海の底に吸い寄せられていくのです。海中で失神して漂うジューンは、海女仲間の女たちに助けられて九死に一生を得ます。
 それを知ったフィリップはジューンに再会することもなく、また島で死ぬこともなく、ウド島を去って行きます。ジューンもまた海の女としてひとりで生き始めます。それぞれの再出発みたいなエンディングです。う〜ん....。

 続く第二篇めの『身元のない女』 は、最初の舞台はガーナです。白人植民者として成金生活を送るバドゥー夫婦には二人の娘がいますが、姉ラシェルは父親の連れ子(小説の後半で父親の強姦によってできた子供ということがわかります)であり、父親からも母親からも好かれていません。特に母親の方は徹頭徹尾ラシェルを嫌悪しています。その中で妹ビビだけは姉を慕い、姉をモデルとして育っていきます。家庭は荒れています。大邸宅、使用人たち、大型四駆車数台、という派手さの中で、父親は女癖が悪く、虚飾の美貌を誇るマダム・バドゥーとの夫婦ゲンカは絶えません。文字通り食器や置物や刃物が飛び交うケンカです。ラシェルとビビはこの荒れ方にも関わらず、アフリカの自然を愛し、その中で美しく育っていきます。ラシェルには幼少の頃から、自分は愛されていない人間で、身元不明であるという自覚があります。
 やがてバドゥー家は事業に失敗し、破産してしまいます。アフリカを追われ、無一物の父親はブリュッセルでレストランの使用人として再就職し、マダム・バドゥーと娘二人はパリの南郊外クレムラン・ビセートルに住みます。マダムは開業歯科医と愛人関係を持ち、そこで歯科アシスタントとして働き、娘二人のことは放っておきます。そこは絵に描いたようなパリ郊外ですから、二人は加速度的に「郊外=郊外」の娘に変身していきます。ラップ、ヒップホップ、売春、ドラッグ....。ル・クレジオはこんなことまで詳しいのか、とちょっとうれしい驚きですよ。あんな音楽に夢中になっている同級生たちに呆れて、ラシェルがこれが音楽だと言わんばかりにイヤフォンでフェラ・クティを聞かせるんですよ。笑っちゃいますよね。
 ラシェルはそんな荒れた郊外で、演劇をやる青年ハキムと知り合い、彼の脚本で制作中の劇(千夜一夜物語の中のバドゥーレ姫物語)で主役となるべく稽古をしています。これがこれまでのラシェルの人生で最も人間らしかった時期でしょうか。ところが、妹ビビが売春事件に巻き込まれて、麻薬漬けにされ、集団強姦され、大けがを負ってラシェルの前に現れます。ラシェルはあらゆる厄介事を避けるために警察にも救急にも連絡しません。それを知ったマダム・バドゥーはビビをこんな目に遇わせた責任はすべてラシェルにある、とラシェルを追い出してしまいます。ここからラシェルの地獄の彷徨が始まるのですが、この少女の場合、全然ヤワじゃないのですよ。身元がない=sans identitéということが逆に武器になったり、透明になったりできるのですね。高速道路わきのロマの野営地に紛れ込んだりもするのです。
 ところがどんな目にあっても姉ラシェルを慕うビビは、身元不明のラシェルの身元を知ってしまい、それをラシェルに伝え、ラシェルの実の母はラシェルに会いたがっている、と強引にその人物とラシェルの再会(初対面と言うべきか)をセットアップしてしまいます。この対面はうまく行きません。ラシェルは黒々とした憤怒をこの人物に抱き、望みもしないのに突然露呈してしまったこの母子関係を否定しようとします。
 身元を持たなかった人間が30歳にして身元を明らかにされた怒り、それを否定しようとする止むに止まれぬ欲求、それはどんどん膨張していき、ラシェルは実母を殺せば自分の身元も(元通り)不明なものに戻すことができると考えます。しかし実母暗殺計画は、寸でのところで失敗してしまいます...。
 エンディングはアフリカ回帰です。あまりにも美しいので、ここでは書かないでおきます。

 こういうすごいのが二篇ですよ。東洋の小島、アメリカの監獄、アフリカ、パリ郊外、ノルマンディー... 魂も肉体も移動して、ストーリーも波瀾万丈で、ちょっと長めだけど一気読みができる、それがノヴェラの長さかもしれません。このノーベル賞作家は何でも知ってるし、何でも見ていて、何でも体験している。74歳。この万年青年の顔をした老作家は、どんどんわかりやすく、どんどん21世紀的「ヒューマニティー」に直接響くストーリーテラーになっていると思いますよ。いまだにル・クレジオは難解だなどと言う人たちは退場してください。

カストール爺の採点:★★★★☆

J.M.G. LE CLEZIO "TEMPETE  - Deux novellas"
ガリマール刊 2014年3月 235ページ 19,50ユーロ

(↓2014年4月10日、国営テレビFRANCE 5の読書番組LGLに農民作家ピエール・ラビと共に出演したJ.M.G. ル・クレジオ) 

2014年4月17日木曜日

今朝のフランス語:グージャ

goujat [グージャ] n.m 1. (特に女性に対して)無作法な者、無礼者。  se comporter comme un 〜 無作法な振舞いをする。2. 《やや古》粗野な男、田舎者。3. 《古》軍隊付きの従僕 (大修館新スタンダード仏和辞典)

 日本語人にとっては、この語感がすごいですよね。「グジャ」ですよ。堅からず柔からず、スタンダードな硬度の物体を難なく足で踏みつぶした感じ。ぐじゃっ!そう、おまえなんか、潰されたってかまわない、まるでカスタード・プリンの容器みたいなもんだ(あ、これ、あとで解説します)、潰されて不燃ゴミでも可燃ゴミでもいいから、廃物となって清掃車に持って行かれろ、みたいな音ですよ。おまえは人間のクズだ、と同様の響きですよ。
 ちょっと教養ある日本人は、これに「愚者」と漢字を振ろうとしますよね。ところがこの漢字は「ぐじゃ」ではなく「ぐしゃ」と読む。おろかな人間、という意味だけではなく、この単語出すとタロット・カードにおける(ほれほれ、爺の世代はみんな若い日に澁澤龍彦とか種村季弘に夢中だったりしたから...)愚者と賢者の話を夢中になってし始まる人おりまっしゃろ。字面のわりに高尚な言葉だったりするのです。それはそれ。

 さて、2012年からこの国の現職大統領であるフランソワ・オランドという人のことです。この人は愚者ではないとは思いますが、賢者とも言いがたいものがあります。そしてちょっと変わっているのは、この歳(59歳)で一度も結婚したことがありません。結婚してない人間なんて世界にもフランスにもゴマンといるわけですし、結婚してないということで肩身の狭い思いやコンプレックスを持つことなんてないですよ。ただこの世の中には「国の代表者として、国家主席として、結婚してないってえのは、ちょっとまずいんじゃないの?」と思っていた人が少なくなかったようです。2012年5月に大統領選に勝って、エリゼ宮(大統領官邸)に移り住んだ時も、夫人がいないので、当時私生活を共にしていたジャーナリストのヴァレリー・トリエルヴェレールを同居者として連れて入りました。結婚していないので正式には「ファーストレディ」と呼べないので、米国のニュースメディアなどは「ファースト・ガールフレンド」などと珍妙な呼び方で紹介してました。しかし、大統領の正式行事(国家行事や外国の公式訪問など)には、「大統領夫人」の座にこの女性がいらっしゃったのです。もちろん国費予算がこの女性にも使われていたわけですね。
 
 結婚していようがいまいが、大統領カップルがうまく行っていたら、ま、あまりディテールは気にならなかったんですよ。ところが、2014年1月、フランスの週刊黄表紙雑誌クローザー(Closer)が、現職共和国大統領と女優ジュリー・ガイエの密通をすっぱ抜いてしまった。それがもとで、ファースト・ガールフレンドは、現職大統領と破局して、エリゼ宮から出ていってしまったのです。ま、共和国始まって以来の椿事ではありますな。そして、そうでなくても、公約の失業者減らしも国庫赤字減らしもままならず支持率を前代未聞の低さまで落としている大統領は、この一件でさらに信頼度を失ってしまうのです。
 さて、いいですか、ここで私、自分の意見言いますよ。私はですね、「結婚してないんだから、別にいいじゃないですか」という立場です。オランドの前の連れ合いで、両者の間に子供もあるセゴレーヌ・ロワイヤル(2007年大統領選候補者、現フランス環境相)も、結婚という「制度」を採らなかった。「ユニオン・リーブル」だったわけです。このチョイスは尊重されていいはずです。ヴァレリー・トリエルヴェレールもそういう選択をしたはずです。私生活においてオランドとトリエルヴェレールがうまく行かなくなった、新しい恋人が現れた、別れた... これがその極めて高度な公職のゆえに、国に対して重大な支障をきたした、とは私は考えませんよ。「国の体面上...」という理屈を言う人もいますけど、聖人君子と共和国大統領というのは概念として一致するものが少ないと思いますよ。とりわけ「結婚していない」という自由の選択はオランドを護っていますよ。

 では、今朝のフランス語に戻ります。 発言の主は女優ソフィー・マルソーです。言わば国民的女優様のひとりですね。中国や韓国では異常に人気が高いので、大統領の公式訪問にはお供をして、外交上重要な働きもするスター様です。男性月刊誌GQの2014年5月号(4月16日発行)に掲載されたソフィー・マルソーのインタヴューでのフランソワ・オランドに関するコメントです。
"Il a des maîtresses et, quand on le sait, il refuse d'en parler. Un mec qui se conduit comme ça avec les femmes, c'est un goujat. Moi, je n'ai jamais voté pour lui."
 「彼には(複数の)愛人がある、それが発覚した時、彼はそれについて言及することを拒否する。女性に対してこのような態度を取る男、それはグージャよ。私は彼に票を投じたことなど一度もないわ」
  これだけでも大変強烈な罵りですが、それに加えてソフィー・マルソーは "lâche"(ラッシュ)という言葉を畳み掛けます。意味はスタンダード仏和辞典によると「臆病者、卑怯者、卑劣漢」です。
"J'avais envie de l'aimer un peu, de me dire qu'il n'est pas si terrible que ça. Mais là, je me suis dit : 'Quel lâche !'"
「私は彼をそんなに悪い人間じゃないと思おうとしたこともあったのよ。でもこれはひどい。思わず、なんてラッシュなの!と言ってしまったわ」
 はいはい、言ってくださいよ。もうこれで十分ですか?
 この度合いを越えた罵りを現職大統領にぶつけたソフィー・マルソーの発言に対して、著しい憤怒を表明したのが、世界的な映画のイコン、カトリーヌ・ドヌーヴです。われらがドヌーヴは日曜刊新聞ラ・ヌーヴェル・レピュブリック・ディマンシュ(4月20日号)で、ソフィー・マルソーのコメントは"grossier"(グロシエ)で "honteux"(オントゥー) であると反論しています。意味はスタンダード仏和辞典によると、前者が「無教養な、粗野な、下品な」であり、後者が「恥ずかしい、恥ずべき」となっています。で、何を言っているかというと:
Je trouve ça très grossier. Extrêmement grossier. Je suis étonnée de voir la facilité avec laquelle les gens – dont les journalistes – parlent du président de la République. Les couvertures des journaux avec "Flamby"... Je trouve ça honteux. Nous avons atteint un niveau de bassesse. Il y a quand même d'autres choses à dire !
Je comprends qu'on puisse lui reprocher des choses mais pourrait-on rester sur un terrain un peu plus élevé, quand même ? Un "goujat" et un "lâche" ! On dirait qu'on parle du mari de sa meilleure amie qui vient d'être quittée... Je trouve ça incroyable.
これは下品(grossier)だと思う。極めて下品なことよ。共和国大統領について論じる時、人々が(ジャーナリストたちも含めてのことよ)こんなふうな容易さで語るのを見ると、私は仰天してしまう。新聞雑誌の表紙に「フランビー」を使うなんて(下の註で説明します)...。これは恥ずべき(honteux)ことよ。もう甚だしい低俗さ(バッセス:bassesse)の水準に至ってしまった。もっと言い方ってあるはずよ!
大統領を批判することはできることよ、でももう少し高い次元に留まって批判することってできないことなの?「グージャ」だの「ラッシュ」だの!まるで彼女の最良の女友達の逃げた夫の話をしているみたいじゃない。信じられないわ。

 わおっ!  カトリーヌ・ドヌーヴはこんな低次元の話をするな! と言っている。もっとレベルを上げろ! と言っている。カトリーヌ・ドヌーヴ 70歳、ソフィー・マルソー 47歳。年長者のご意見であります。いくら歳を取っても出来の悪い娘だなぁ、という説教でもありますよ。

 
: フランビー Flanby とはネスレ社が商品化しているカップ入りカスタード・プリンの商品名。グリコのプッチンプリンと同じようなもの。対立派サイドからは、オランドの顔つきや体型のたるんでぶよぶよした感じ&しまりがない感じがカスタード・プリンのようだという揶揄からのニックネームとされています。しかしオリジナルは同じ陣営である社会党のアルノー・モントブール(現経済・生産性復興担当大臣)が2003年につけたあだ名であり、「柔らかいが、揺すっても元の形に戻る」という外面軟派 but 内面硬派の性質を喩えたものだそうです。



2014年4月8日火曜日

クロ・ペルガグの奇天烈な世界・3

4月3日パリ11区カフェ・ド・ラ・ダンスでクロ・ペルガグのコンサートがありました。超満員でした。3月11日に18区のレ・トロワ・ボーデで見た時とは全然違ってました。この二つのパリのコンサートの間に3週間あったのですが、ベルギー、スイスを含めて14回のコンサートを消化しています。そういう自分の足もそうですが、テレラマ、レクスプレス、ル・モンド、テレビ局アルテ、国営ラジオ局のFIPとフランス・アンテールなどのバックアップがあって、クロ・ペルガグは飛躍的に知名度を上げたと思います。その評価はすべてポジティヴです。しかしヴァリエテ/大ショービズ界とは違う動き方をしているので、メジャーテレビ局の歌番組に出たり、雑誌の表紙になったり、ということはありません。
 カフェ・ド・ラ・ダンスのコンサートの日の午後、サウンドチェック前の時間を借りて、クロ・ペルガグと20分ほど話すことができました。そのことは雑誌ラティーナの5月号の記事として書きます。私は、この若いアーチストの音楽的ユニークさは、1曲におけるメロディーの多さであり、 AABAやAABCAのようなポップソングの修辞法とはほど遠い、ポップソング十曲分ぐらいのメロディーを一曲に突っ込んでしまう気前の良さであり、大団円に向かうシンフォニックな展開であると思っています。この五線紙のページ数の多さ、しかもその一枚一枚に音符がビシビシに詰まっていて、旋律と和声にスキがないぞ音大で勉強しすぎだぞと思いきや遊びの要素が随所に顔を出す、というケラケラ笑いの作曲才能だと思っています。たしかにケラケラよく笑うお嬢さんでした。
 その曲に、いったいなぜこの歌詞なのか。病気、死、怪物、恐怖、薬物...。人に言わせれば、この曲およびその全体のユーモラスでコミカルな雰囲気とそれに付された詞の「デカラージュ」(ずれ、差)が面白いのだ、と。人、これをシューレアリスムと呼ぶ。それは超有名な引用をしますと「手術台の上のこうもり傘とミシンの思いがけない出会いのように美しい」(ロートレアモン)なのですよ。
 クロ・ペルガグの音楽は美しくも複雑かつ繊細に構築された曲と突拍子もないブラックな詞の若く可憐なお嬢さん上の偶然の出会い、ということになりますかね。
で、病気や怪物の歌ばかりのクロ・ペルガグに思い切ってこう聞いてみました:「あなたのレパートリーにラヴ・ソングはないのですか?」ー ケラケラ笑うお嬢さんは、ここで、キッと顔が変わって、睨むような目つきで「あるわよ。直接的にはそう聞こえないかもしれないけれど、ラヴ・ソングはいっぱいあるわ」と。

 私が見た2回のコンサートでは幕開けの曲がこの「心の病 Les Maladies de Coeur」でした。当然この2014-2015年ツアーではずっとこの曲がオープニングなんでしょう。それくらい重要な曲なんですけど、これはアルバム『怪物たちの錬金術』に入っていません。2012年にケベックでリリースされたクロ・ペルガグのデビューEP(4曲)の中の1曲です。今のところ、私のクロ・ペルガグの最愛の一曲です。以下に歌詞訳を貼付けますね。
あなたたちを驚かせたくて
わたし自分で両脚を叩き壊したの
それをグローブボックスの中にしまっておいたのよ
贈り物用の包装をしようと思ったんだけど
キャベツは見つからなくて、キュウリだけは入れておいたわ
それでもちゃんと皮は剥いておいたのよ
手紙は添えていないけど
もう血痕がサインの代わりだからいいよね
わたしはあなたたちのためにそれをしたのよ
あなたたちの好みは知ってるわ
あなたたちは辛いものが好きなのよね
それから犠牲になるものも好きよね

あなたはわたしにお礼を言わなかったわね
あなたの腕時計をわたしにちょうだい
その時計は狂っていたってかまわないわ
わたしたちは同じ嵐の時をすごすのよ


わたしは連れていかれ、修理にかけられたんだけど
やっかいなことにいっぱい部品が足りない
あの人たちはそれを床下の物置の中で探してくれた

わたしはそれはあなたへのプレゼント用だと言ったのよ
医者たちははわたしと診察予約をとったんだけど
わたしは絶対に行かないわ
医者たちはわたしに
自分をこんなふうに傷つけるなんて信じられないと言った
でもそれは好みの問題でしょ
わたしはあの人たちに言ってやったの
いい?わたしは医者が嫌いなの
あの人たちの心の病が嫌いなの

あなたはわたしにお礼を言わなかったわね
あなたの腕時計をわたしにちょうだい
その時計は狂っていたってかまわないわ
わたしたちは同じ嵐の時をすごすのよ

あなたはわたしに会いに来たけどわたしの顔を見なかった
あなたの目はくらくらしていたのかもね
でも気にしなくていいわ
わたしはあなたの両目が向きを変える前に
捕まえてしまうからね
わたしはあなたと一緒に泳ぎたいのよ
わたしはあなたと一緒に雨のように落ちていきたいのよ

それでもね、わたしはあなたと一緒に大きくなったのよ

それでもね、わたしはあなたと一緒に大きくなったのよ


 訳はずいぶん苦労しました。シュールレアリスムですから(と笑って許していただこう)。で、これ、ひょっとしてラヴ・ソングかな???と思ったのです。男の子の気を引こうとして、自分の脚を傷つけてしまう少女。そうですよね。極端にひねくれてますけど、わかりますよね。

ここに"Les Maladies de Coeur"のヴィデオクリップを貼ろうと思っていたのですが、あらあら、ウェブ上から消えてしまいました。再び見れるようになったら、すぐに貼付けます

(↓)2013年秋、ゲベックのSIRIUS XM によるクロ・ペルガグのインタヴュー。素顔はこんなに素直そうなお嬢さんなのに。



PS : 自慢げに掲載します。クロ・ペルガグさんと筆者