2008年3月31日月曜日

それでも地球は回っている



 ラフェエル『ラファエル天動説』
 Raphael "Je sais que la terre est plate"


 ラファエル・アロッシュ(1975- )の4枚目のスタジオアルバムのはずです。2005年の『キャラヴァン』の後で2枚ライヴアルバム出してますが,聞いていません。2007年1月には"Les aventuriers d'un autre monde"(別世界の冒険者たち)(ジャン=ルイ・オーベール,リシャール・コランカ,アラン・バシュング,ダニエル・ダルク,カリ...)のツアーに参加してますが,見ていません。オーベール,バシュング,ジェラール・マンセ,ステファン・エシェールなどからチヤホヤされる人で,テレビにもかなり良く出ますし,スターアカデミーも出ましたし,ラジオはNRJ(80年代から聴取率最高を続ける音楽FMネットです)が強力プッシュです。一体どうしてこんなことになったのでしょうか。
 爺がラファエルのことが気になるのは,何をさておいても「きれいな子」だからです。それだけかもしれません。それだけでも十分に価値はあるはずなんですが。
 ミリオンセラー『キャラヴァン』の次なので,ある種黙っていてもある程度は売れるアルバムのはずです。11曲35分(!)。そのうち1曲はインスト(11曲目 "Transsbérien"),テレラマ誌ヴァレリー・ルウーは,このインスト曲が一番いい,なんていうちょっと皮肉な評で採点は「ff」でした。この音楽にこんなに贅を凝らしていいのか,というようなメンツです。プロデュースがトニー・ヴィスコンティ3曲,ルノー・レタン3曲,ラファエル4曲となっています。前作に引き続きデヴィッド・ボウイのギタリスト,カルロス・アロマール,同ベーシスト,ゲイル・アン・ドーシー。ピアノにスティーヴ・ニーヴ(エルヴィス・コステロ),ドラムスにリシャール・コランカ(テレフォヌ),トニー・アレン(フェラ・クティ),パーカッションにミノ・シネルー,ゲストヴォーカルにトゥーツ&メイタルズのトゥーツ aka フレデリック・イベール,ギター&コーラスその他でステファン・エシェール...。ミュージシャンリストだけで29人います。
 そういうアルバムだと思って聞きますよね。たしかにいろいろ繊細なサウンドが聞こえてきて,スラヴ風味もあれば,カントリー風味や東洋趣味もあります。ラファエルにおなじみのテーマである「旅への誘い」であります。ただ,毎回のボロンボロン・ギターのマイナー3コード進行,メジャー3コード進行,少年系鼻声のナイーヴなヴォーカル,この子は限界ありますよ。
 その限界というのがこのアルバムでは「世界の限界」なのです。ラファエルにとって世界は平らなのです。"Je sais que la terre est plate"(地球は平らだということを僕は知っている)。どこかに世界の果てがあって,そこまで行ったらストーンと落ちてしまうんですね。こういうテーマで始まっておいて,10曲目"Les Limites du Monde"(世界の限界)では,最終的に「地球は丸い」ということに同意してしまいます。少年のナイーヴさと言うには,なにか,これ,とても... バカにすんなよ,という気持ちになってしまいます。
 娘(13歳)にこのアルバムを聞かせました。『キャラヴァン』は娘は大好きだったので,期待して聞いたようですが,聞き終わっていみじくも言いました。

  C'est limite-limite.

 この繰り返しがいいですね。Limite-limite(リミットリミット)は,日本語の繰り返し語と同じニュアンスで「すれすれ」「ぎりぎり」なんですね。好きか嫌いかと言われたら,私は嫌いと言ってもいいんだけど,なんか許していいか,という限界のところですね。


<<< トラックリスト >>>
1. Le vent de l'hiver
2. Je sais que la terre est plate
3. Adieu Haiti (featuring Toots)
4. Le petit train
5. Sixième étage
6. La jonque
7. Quand c'est toi qui conduis
8. Concordia
9. Tess
10. Les limites du monde
11. Transsibérien (instrumental)

CD DELABEL 5201020
フランスでのリリース:2008年3月10日

ラファエル・オフィシャルサイト

 
 

2008年3月27日木曜日

摩訶不思議な銀行口座



 ニコラ・ボー&オリヴィエ・トセール著『シラク日本銀行口座綺談』
 Nicolas Beau & Olivier Toscer "L'Incroyable Histoire du Compte Japonais de Jacques Chirac"


 大統領ジャック・シラク(在位1995〜2007)は、去年2007年の5月から免罪権(大統領特権)がありません。ディディエ・ヴァンパスは2006年1月にシングル盤「シラクを牢屋に!(Chirac en prison)」を発表して、俺はフランスの正義を信じる、2007年にはシラクが監獄に行く、と歌っていました。2008年3月現在、シラクはまだ牢屋に入っていませんが、クリアストリーム事件の担当検事二人はシラクに事情聴取ができる状況にあります。
 クリアストリーム事件とはルクセンブルク公国にあるクリアストリーム銀行にある隠し口座に関する事件で、第一次と第二次があって、ここでは第一次を省いて第二次だけを説明すると、2004年に発覚した隠し口座の口座名義人リストの中にニコラ・サルコジの名前があったということなのです。このリストは第一次事件を調べていた担当検事ルノー・ヴァンルインベックに、謎の密告人から届けられたものでが、それがコンピュータを操作したニセ文書であるということがわかり、一体誰がこの偽造リストを作ったか、ということが重要な問題となりました。リストにはサルコジだけではなく、多くの政界人/財界人/マスコミ人の名があり、社会党の重鎮ドミニク・ストロース=カーンもあれば、元ル・モンド編集長もあれば、変わったところでは当時売れっ子の少女歌手アリゼの名前もありました。しかし最重要はサルコジの名前であり、このスキャンダルによってサルコジ降ろしを図ろうとしたという疑惑が、当時の首相ドミニク・ド・ヴィルパンにかかり、ヴィルパンの後ろで糸を引いているのは大統領ジャック・シラク自身であると言われました。と言うのは、この事件の証言者となった、当時フランスの諜報機関である国家保安委員会(DGSE)のNo.2だったフィリップ・ロンドー将軍が、たいへんなメモ魔で、当時の会話記録などを全部メモとして残していて、そのヴィルパンからの指示系統がはっきりと記録されていたのです。
 サルコジとシラクの関係は1995年の大統領選挙の時に、それまで若きシラク派の出世頭だったサルコジがシラクに叛旗をひるがえし、シラクが作ったド・ゴール派政党RPRの反主流派エドゥアール・バラデュール支持に回った時から、サルコジはシラクにとって絶対に許すことのできない裏切り者となっていました。シラクは大統領となり、サルコジはシラク大統領在位中、反主流派として小さくなっていたのですが、徐々に勢力を盛り返し、シラクが作ったRPR(のちのUMP党)の主導権を握り、次期大統領候補への道を着々と準備するに至ったのです。シラク派の第一の後継者となったヴィルパンはこのサルコジ台頭を必死になって阻止しようとします。これが第二次クリアストリーム事件の背景でした。
 ところでこの事件審理中、フィリップ・ロンドー将軍のメモに、ジャック・シラクが日本に隠し銀行口座を持っていて70億円の預金があったということが記録されていたのです。ただならぬ金額です。このことは国家保安委員会でロンドーの前任者たちによって1996年に既に確認していて、国家に大不安をもたらす可能性があるとして、大統領の意志と関係を持たずに調査が続けられていたのです。東京相和銀行という二流の銀行で、なおかつ暴力団界との関係も取りざたされる不透明な金融機関に、シラクはなぜ銀行口座を持っていたのか、そのオーナー長田庄一とシラクの関係は何か、またその70億円という金はどこから来たのか、というのを2年間にわたって追跡調査した二人のジャーナリスト、ニコラ・ボーとオリヴィエ・トセールの調査報告書がこの本です。
 未来においてフランスの大統領になるとは多くの人々が予想していなかった、70年代の保守ド・ゴール派のタカ派政治家だったシラクが、日本と急に親密な関係を持ち始め、今日まで五十数回にわたって日本との往復を繰返し、類い稀な親日家となった真の理由は何だったのでしょうか。その文化が好き、相撲観戦が好き、というだけではないことは確かでしょう。本書は76年にジスカール大統領と袂を分ち首相を辞任し、次期大統領になる野望に燃えてパリ市長となった頃から、シラク流の不透明なやり方で、パリ市公営事業の入札などで入ってくる裏金と、シラクに未来を託す日本の黒幕の後押しによって、シラクが急速に勢力を伸ばす過程も描いています。日本の黒幕は既に70年代から、日本の特定の利益のために働いてくれる都合のよい未来の大物としてシラクに接近していた、というのがこの本の前半部です。
 いろいろな名前が出てきます。シラクに親しい日本女性たちも登場します。N画廊のマダム、女優S、セラピーアーチストCなど写真入りで出ています。長田庄一の持つ淡島のホテル、その豪華クルーザー("東相2世"という名前が見えます。東相とは東京相和銀行でしょうか)の舳先に立つシラクの写真なども見えます。そういう週刊誌ネタ的な部分はさておいて、なぜシラクが日本に70億円もの銀行口座を持つに至ったのか、その金はどこから来たのか、という最も重要なポイントに、この著者たちは笹川財団の名前を持ってきます。
 笹川良一の戦前/戦中/戦後に関してはこの本でも詳しく説明されています。ミッテラン大統領第一期の後半に、いわゆるコアビタシオン(大統領派が国会多数派でなくなったために、首相および政府が大統領対立派となる”保革同居状態”)で首相となったシラクに、中曽根康弘(既にシラクの友人。首相)から笹川良一へレジオン・ドヌール勲章を、という推薦書が届きます。この時すでに笹川財団は、ブロワ城(ブロワ市はミッテランの文化大臣として知られたジャック・ラングの選挙地盤)のステンドグラス修復、およびシャルトル大聖堂の大オルガンの修復で巨額の援助をしていて、この効果でジャック・ラングと大統領夫人ダニエル・ミッテランは親笹川派にまわったように書かれています。しかし政府内では元戦犯にフランス最高栄誉の勲章を与えることに反対する動きもあります。と言う間に1988年の大統領選挙でシラクが負けて、この笹川レジオン・ドヌールの話は一旦消えてしまいます。同じ1988年、新しい左翼政府(首相ミッシェル・ロカール)は笹川日仏財団がフランス政府に申請していた「公益団体」認定を却下します。しかし2年後の1990年には同じ政府の下でそれが認可されてしまうのです。一体その水面下で何が起こっていたのでしょうか。
 それに続いてWHO(国際保険機関)Unesco(国際連合教育科学文化機関)のトップに日本人が選出されます。これはシラクの工作によるもの、とこの本は書きます。シラク2期の大統領在任期間中(1995-2007)に、シラクが後押しをした日本人、日本団体、日本企業はどれほどあるでしょうか。なぜ、こんなに日本のために働いてくれたのでしょうか。「親日家ですから」という理由だけでしょうか。
 本書の後半は、この日本の隠し銀行口座をフランス国家の諜報機関が調査していた、と知ってシラクがあらゆる手を使ってそれをもみ消しにかかる、権謀術数の暗黒ストーリーが描かれています。大統領は国家の最高責任者でありながら、「朕は国家である」式のごり押しは通せないのです。この記録を消滅させろ、これを知る人間たちをすべて消せ、というやり方はできません。それを表面に出ないやり方で、水面下で処理しようとするのですが...。内務省、外務省、防衛省、法務省...これらの省庁のトップ人事を巧妙に変え、この件(通称"Affaire japonaise"=日本事件)に関与する人物たちを次々に更迭します。そしてこの銀行口座のありかを掴んだ当時の国家保安委員会(DGSE)の人物は、別部署に降格されたあげく、ある日、道路横断中に猛スピードの車にはねられ、(一命はとりとめます)、その運転者は軽い罰金刑で放免されるという不可思議な事件が起こります。また奇妙なことに、この人物の名は、最初にあげたクリアストーム事件の、ニセ口座名義人リストにも登場しているのです。
 ところは飛んで、タヒチで長年に渡ってその絶対的な権力をふるっていた政治家ガストン・フロスは、シラク派の重要人物であり、そのフロスの裏金などを調査していた地元新聞記者が、ある日死体となって浜辺に打ち上げられます。その記者は、日本から巨額の金がタヒチを経由してシラクに、という動きを知ってしまったために...。

 "Raison d'Etat"(レゾンデタ)は日本で「レゾンデタ」というカタカナ外来語にまでなっている、国家的理由という言葉ですが、シラクが自分の銀行口座を隠そうとするのはレゾンデタにはなりません。むしろ、この銀行口座への執拗な調査を続けていたフランスの秘密諜報員とその機関=国家保安委員会(DGSE)の方に、この銀行口座が持つ「フランス国に及ぼす危険性」の方にレゾンデタがあると私は思います。そしてこの本でもわからないのは、このDGSEの「日本事件」諜報活動は、国家のトップ(大統領)も知らぬところでなされていたわけで、誰がこの諜報活動を指示したのか、という命令系統がないのです。
 刑事ドラマなどで、ある捜査官が調査の末に(その場合の多くは時の権力者にとって)知ってもらっては困ることに行き着いてしまった時、(その権力者からの命令系統で)捜査官の上司が「もうここまででやめておけ」と封じにかかって、先に進めなくなりますよね。この本にはそれがないのです。シラクが国家最高責任者であっても、いかにシラクが不愉快に思っても、このDGSEの調査活動を大統領命令で止めるわけにはいかないのです。なぜか。それはシラクはその大統領任期が終われば「普通の人」に戻るということを知っていたからです。これが共和国の根幹であり、シラクと言えども、サルコジと言えども、共和国市民であることには変わりがないのです。すなわち犯罪を犯せば「普通の人」と同じ罰が待っているわけです。

 日本で翻訳本が遅からず出ると思います。ぜひ読んでみてください。

 Nicolas Beau & Olivier Toscer "L'Incroyable Histoire du Compte Japonais de Jacques Chirac"(Editions Les Arènes 2008年3月21日刊行。255頁。19.80ユーロ)




 PS:Youtube に、この本の予告篇クリップがあります。ちょっと戯画的にすぎる部分が多いですけど、本の雰囲気はよく伝えています。


(↓)ルイーズ・アタック feat ディディエ・ヴァンパス「シラクを牢屋に!」
 
 
 
 

2008年3月21日金曜日

昨夜は冬が終わった日でスタン



 アランブラ(Theatre de l'Alhambra)は1920年代に建てられた劇場で,第二次大戦まではミュージックホールとして人気を高めましたが,ブームが去って長い間閉鎖されていて,倉庫や家具の競売場などにも使われていましたが,それを完全に壊して再建,2008年に劇場として再オープンしました。そのオープニングにこのスタニスラスのコンサートが組まれていたのですが,最初2月に予定されていたのを工事の遅れで3月に延期,それでもそれまでに工事が終わるかどうか危ぶまれていたそうです。
 3月19日と20日(20日の方は追加です。急に人気が出たのです。TF1のStar Academyに出演したのが原因とも言われています),私たちは20日の方に行きました。会場に入ると,壁の塗装が終わっていないし,空調パイプなどむき出しになっていて,床は絨毯張りのところとコンクリートのままのところがあったり。1階席と2階席合わせてキャパ600-800人ほどでしょうか。
 おおそれにしても,なんという客層でありましょうか。ほぼ満員ですが,身内関係の多そうな30歳〜60歳です。若い人は,若干の親子連れを除いて,まず見ませんでした。この年齢層ですから最初から最後まで座って見れましたが,これがスタニスラスのファン層なんでしょうか。
 ステージは劇場スペースですからやや広めでしょうけど,そこにかみ手にロックバンドセクション(ギターX2,ベース,ドラムス,キーボード),しも手に十数人のストリングスオーケストラ,ハープ,木管1,金管1,打楽器1...もうぎゅうぎゅうに詰めて配置した感じです。真ん中にいるわれらがスタンはヴォーカルとエレピです。
 基本的にあのシンフォニックなアルバムと全く同じ音が出る,というスペクタクルです。カラオケでするのとあまり大差ない,という悪口も出そうなほど,CDアルバムと同じ編曲で同じ音です。われわれのぜいたくは,ここでストリングスとリズムセクションでちょっとでもずれが出たりすると「わ,これは生演奏なのだ!」とうれしくなってしまう,みたいな人間たちのパフォーマンスに触れることだったりします。なにか子供の頃にテレビで見た「オーケストラがやってきた」を思わせるものがあります。
 クラシックのフルオーケストラ(オペラ・ド・マッシー管弦楽団)の常任指揮者であり,音大の教授でもあるスタニスラス・ルヌーが,35歳でポップ・ミュージックの自作自演アーチストとしてデビューしました。昨年11月に出たファーストアルバム "L'EQUILIBLE INSTABLE"(Polydor France)は,その少女マンガ的リリシズムとセンチメンタリズムと,フルオーケストラが表現できる叙情性のすべてを駆使したような明解かつ繊細な編曲と,ロマンティック少年ヴォイスのスタニスラス・ルヌーのヴォーカルテクニックが,奇跡のように結晶した世にも稀な作品です(こんな日本語をよく書けるなあ,爺?)。私はそれを検証に行ったのですが....,なんとそのまんまなのです。
 これは新装ホールのせいでしょうか,音量が私が普段コンサート会場で聞く音量よりもずっと小さいのです。これはクラシック・コンサート音量ではないかしらん。あるべきリズム(主にベース・ギターとドラムス)のズンズンズンズン音響が薄いから,客席も揺れないんですね。この音量でのエレクトリック・ギターのソロは寒々しいのです。ストリングスが聞こえ,ハープ(いいですねえ,このコンサートの花ですねえ)やクラリネットやフルートが,エレクトリック・ギター同様にはっきり聞こえるシンフォニー効果を得るには,この音量でないといけないのかもしれません。しかしもっともっとデカイ音で聞きたかった...。
 アルバムに収められた曲は全部演奏しました。"La Belle de Mai","Memoire morte"のようなバラードがやはりビシビシ来ました。「今日は冬の最後の日,最後の冬を謳歌しよう」というMCでヴィヴァルディー四季「冬」を原曲にした "L'Hiver"も素敵でしたけど,これはクラシック・イージーリスニングですねえ。
 で,自作曲でないものを3曲やりました。ケイト・ブッシュ「嵐が丘 Wuthering Heights」!スタニスラスなら同じキーで歌えるのではないかと期待していましたが,最後まで1オクターブ下でした。敬意を込めて作者を「カトリーヌ・ビュイソン Catherine Buisson」(薮のカトリーヌ)と紹介していました。
 それからザ・ビーチ・ボーイズの"Pet sounds"から「神のみぞ知る God only knows」!この時スタニスラスは最近始めたばかりというアコーディオン(ピアノ鍵盤式)を抱えての演奏で,左手ボタン部には,押してはいけないキーの部分にガムテープがベタっと張ってあり,大笑いでした。
 そしてカヴァーの3曲めは,劇場アランブラの黄金時代を懐かしみ,あの頃のスター,フレッド・アステアへのオマージュとして「ザ・ウェイ・ユー・ルック・トゥナイト(今宵の君は) The way you look tonight」をほとんどピアノ弾語りで。これはびっくりでした。極上でした。スタンのかすれ声高音部のロマンティスムはこういう曲でこそ生きるのですね。
Fred Astaire "The Way You Look Tonight"

 現在フランスのシングルチャート上で2位にある"Le Manège"は,アンコール2曲めでやりました。当然「これ聞くまでは」のファンが多かったでしょうが,わたくし的には2007-2008年フランスで発表された最も美しい楽曲です。わたくし的には恩寵の瞬間でありました。はい。Tu me fais tourner la tête...。

2008年3月20日木曜日

アルジェ,アルジェ....



 今朝国営FM局FIPでその代表曲のひとつ「アルジェ・アルジェ」が流れて,そのあとコメンテーターが「シャンソン・ジュデオ・アラブの巨人,リリ・ボニッシュが3月6日に亡くなったことを,われわれは今知らされました」と告げました。1921年アルジェ生れとありますから,86歳か87歳で亡くなったんですね。
 スペインとカビリアの血を引くユダヤ人宝石商の息子,13歳でウード奏者として楽団デビューし,15歳でラジオ・アルジェに自分の番組を持ったという伝説があります。40年代,自作歌手としてタンゴ,パソ・ドブル,ルンバ,シャービ,カンツォーネ,シャンソン,アラボ・アンダルーズ,オリエンタル....その他様々のスタイルで曲とつくり,歌詞はアルジェ風アラブ語とフランス語が混じり合っていました。これは「フランカラブ francarabe」と呼ばれ,ボニッシュの人気はアルジェはもとより,パリでも沸騰するでした。40年代末に彼が出演していたパリのモンマルトルのキャバレー「ソレイユ・ダルジェリー」には,彼の歌の大ファンだった若い代議士,フランソワ・ミッテランがよく足を運んでいたそうです。
 最初の結婚の失敗,アルジェリア独立戦争などが重なって,ボニッシュは歌手を廃業し,パリに移住し,レストラン経営(失敗)や事務用品の外交セールスマンなどをして暮らしておりました。
 30年のブランクの後,リリ・ボニッシュを再び舞台に登らせたのがフランシス・ファルセト(90年代"ワールドミュージック"のエキスパートのひとり。エチオピアン・モダン・ミュージック発掘のきっかけとなったETHIOPIQUES エチオピック・シリーズの監修者)で,古いレパートリーのCD復刻がなされ,92年にはボニッシュを日本にまで連れていくのです。
 
 フランス植民地の要港だったアルジェは,たぶん地中海対岸のマルセイユと同じようにコスモポリタンな活気に溢れていたはずなのです。ボニッシュの当時の楽曲は "TRESORS DE LA CHANSON JUDEO-ARABE(シャンソン・ジュデオ・アラブの至宝)"というCDで聞くことができますが,カスバのエンターテイナーは驚異のワールド・ミクスチャーを成功させていたのですね。これが第一線から消えるのは,20世紀後半以降のユダヤとアラブ世界の緊張した関係のせいと言えますが,つい半世紀前まではそれが芸能として宗教の境なく多くの人たちが楽しんでいたというのを知ることは重要だと思います。
 フランシス・ファルセトに続いて,リリ・ボニッシュの後押しをしたのがファッション・クリエーターのジャン・トゥイトゥー(APC)で,98年にリリースされたボニッシュのスタンダード集『アルジェ・アルジェ』と,トゥイトゥーの個人的友人であるビル・ラズウェルらが関わったダブ・アルバム『ボニッシュ・ダブ』は,多くの若いリスナーをつかみ,当時のブランシェ(Branchés もう死語かしら。先端人種のこと)たちに大きく評価されます。この辺の事情はアンリ・サルヴァドール現象の小型版みたいな感じもあります。-M-(マチュー・シェディド)がボニッシュと共演したこともあります。

 そんなことより私にはまず,このまろやかな声,泣きたくなるような郷愁,皮肉なフランス語歌詞,幻を追うような虚無視線.... いろいろ胸を打つのが「アルジェ・アルジェ」という歌でした。
3月20日,春分の日,フランス語ではダイレクトに "Printemps"(春)の日。気温が8度までしか昇らない寒い春の幕開けです。曇天のパリでもう一度「アルジェ・アルジェ」を聞きながら,カスバのエンターテイナーのことを思ったり,このブログをよく読んでくれているらしいアルジェに住む友人のことを思ったり...。


(↓)リリ・ボニッシュ「アルジェ・アルジェ」

2008年3月14日金曜日

いつだってアムールーズ

ヴェロニク・サンソン『アムールーズの40年』
Véronique Sanson "Petits Moments Choisis 1969-2007"


 原稿書く手が麻痺してしまってもう1週間くらい経つので,もう一度頭を空にしようと思って,このエントリーを書き始めました。あのインタヴューの前後,フランスにいる日本人,日本にいる日本人,数人の方たちにヴェロニク・サンソンについて聞いてみたら,やはりほとんど知らないですね。だったら私は何から始めたらいいのか。人となりを一通り説明して,この女性はすごいんだぞおおお,と書くべきなのか。
 ピアフ,バルバラ,サンソン。生きざまが歌になり,歌が生きざまになったこの3人の女性たちは,同じように多くの凄い歌と多くのつまらない歌を歌い,同じようにボロボロになってしまったのですね。
 ヴェロニク・サンソンは少女の頃から危険が大好きだった。スリルを愛していた。スピードを好み,趣味のように家出をし,学校が嫌いだった。それは一生変わらないんですね。あらゆる点で折目正しい優等生であったミッシェル・ベルジェとは,性向がまるで違う二卵性双生児のように,理屈を超えた磁力で結ばれた関係だったと言います。だから,ヴェロニクが外でいくらやんちゃをしても,いつでも帰っていけるような家が,ミッシェル・ベルジェとの生活であったようです。
 1967年,姉ヴィオレーヌと友人フランソワ・ベルナイムで組んだフォーク・トリオ,レ・ロッシュ・マルタン(Les Roche Martin)が,EMIパテ・マルコーニから4曲入りシングルでデビューします。インタヴューで言っていたのですが,この17-18歳の頃,ヴェロニクはたいへんな数の曲を作っていて,それはまだ引き出しの中にしまってあるのです。このベスト盤には入ってませんが,2001年のダブルベストアルバム"Les Moments Importants"に入っていた未発表のボサノヴァ曲"Clapotis de Soleil"(ヴェロさん最良のボサノヴァ曲であることは爺が保証します)は,17歳の作品でした。
 ピアノに向かえばメロディーが無尽蔵に出て来た時期でした。バッハ,ショパン,ドビュッシー,サティー,ガーシュイン,ビートルズ,ドノヴァン,セルジオ・メンデスが少女ヴェロニクをいろいろ刺激していました。
 1969年,ヴェロニク・サンソンはEMIパテ・マルコーニからソロ・デビュー・シングル"Le feu du ciel"(空の火)を発表します。この3枚組ベスト盤のCD1の第一曲めです。この録音はMagic Recordsの復刻編集盤「シクスティー・ガールズ」で既にCD化されていましたが,多くの人たちにとっては初めて聞く曲でしょう。その時のパテ・マルコーニの担当プロデューサーがミッシェル・ベルジェ。まったく売れなかったこのシングル盤の失敗の苦さを忘れるために,ヴェロニクは日本に飛びます。父親ルネ・サンソンが70年大阪万博のフランス・パビリオンの責任者として,68年から日本(神戸市垂水区)に住んでいたのです。ヴェロニクは7ヶ月間垂水の日本住宅に暮らして,日本を堪能します。
 爺のインタヴューは「あなたはそこで何を見たのか?」ということに集中するのですが,多くのことは忘れてしまっている。ただ,ひらがなとカタカナはまだおぼろげに覚えていて,私が持っていった日本の雑誌(ラティーナですけど)を一生懸命読もうとするんですね。「あ,この字覚えてる!」とうれしそうな声も上げていました。
 「この時期に日本で作った曲はありますか?」- 「もちろんたくさん作ったはずだけれど,今はっきりと思い出せるのは "FEMININ" (この曲は1977年のアルバム『ハリウッド』に収められ,この3枚組ベストではCD1の17曲目です),この曲は日本で書き始めて日本で書き終えたとはっきり言える」。
 71年,フランスに新しい(アメリカ系)レコード会社WEAが設立され,その新社長ベルナール・ド・ボッソンによってミッシェル・ベルジェがチーフ・プロデューサーとして抜擢されます。ヴェロニク・サンソンはそのエレクトラ・レーベル第一号アーチストとして,シングル盤という手順を踏まずに,いきなりアルバムでデビューすることになります。72年発表のアルバム『アムールーズ』は,フランス初の本格的女性シンガー・ソングライターの登場でした。この才能はキャロル・キングやジョニ・ミッチェルと比較され,ヴェロニクの名前は「サリュ」のような芸能誌よりも「ロック&フォーク」誌のようなロック誌で大きく取り上げられます。
 あの当時,フランスの新しい音楽は,クラシック音楽を学び,英米ロックの大きな影響を受けていた3人のピアニスト(ミッシェル・ポルナレフ,ジュリアン・クレール,ヴェロニク・サンソン)によって具体的なかたちになったのです。(このことはこの3枚組ベストのライナーでヤン・モルヴァンが書いています)

 同じ72年,米ロックのスーパースター,スティーヴン・スティルスと電撃的な出会い。沖からの呼び声。危険が大好きなヴェロニクの本能を直接刺激する,抗しがたい誘惑。この時彼女はことの急激さに抵抗していないものの,いつもの「家出」と同じように何日かすればミッシェル・ベルジェのところに帰れるもの,と思っていたようなところがあります。しかしそうはいかないのです。73年結婚。アメリカ生活。男児出産。幸福でなかったということは絶対ありません。
 後悔,未練,アルコール中毒,長期にわたるスティルスとの離婚訴訟... 73年から81年にかけてヴェロニク・サンソンは5枚のスタジオアルバムを発表します。"LE MAUDIT"(74), "VANCOUVER"(76), "HOLLYWOOD"(77), "7EME"(79), "LAISSE-LA VIVRE"(81)。これがサンソンのアメリカ期で,その苦悩と悪い条件にも関わらず,私はこの時期のアルバム群が最もヴェロニクの生きざまが露出されているように聞こえます。痛ましいです。この時期,英語で歌われる歌はすべてスティルスへの恨み言であり,フランス語で歌われる歌はすべてミッシェル・ベルジェへの未練です。
 84年にアメリカのすべてを清算して,フランスに帰ってきたヴェロニク・サンソンは,"VERONIQUE SANSON"(85), "MOI LE VENIN"(88), "SANS REGRETS"(92), "INDESTRUCTIBLE"(98), "LONGUE DISTANCE"(2004)とオリジナル・スタジオアルバムを発表していて,フランスにいないとほとんどわからないでしょうが,出せばミリオン・セラーという高い人気を維持しています。88年にはシングル曲「アラー」をめぐって,サルマン・ラシュディー『悪魔の詩』と発売期が重なったために,イスラム原理主義者からの抗議と脅迫が相次ぎ,サンソンのオランピア劇場でのコンサートに爆弾テロの予告があり大騒動となりました。92年にミッシェル・ベルジェが急死し,和解も許しもないまま他界してしまったベルジェに,99年にベルジェへのオマージュアルバム"D'UN PAPILLON A UNE ETOILE"(加えてベルジェのレパートリーのみでのコンサートツアー)でその自分なりの決着をつけようとするのですが...。
 そういう悲恋の人である面が音楽的には強調されていますが,実生活では男性遍歴はいろいろあって,恋多き女性です。マスコミに意地悪く揶揄と嘲笑の対象となった,19歳年下のホモセクシュアルのコメディアン,ピエール・パルマードとの結婚(1995年)という事件もありました。そして有名なアルコール中毒です。2003年に息子クリストファーが母親の病院収容を強制的に断行します。2004年にはそのアルコール抜きの体験を語るためにテレビやラジオに多く出演して,アルコール中毒の危険性を声高に訴えていましたが...。
 しかし2003年にゴシップ雑誌が「不治の病い」というショッキングな見出しで,ヴェロニクの遺伝子系の血液病のことを報道します。疲労が激しく,抵抗力もなくなる病状が言われ,その年のピアノ弾語りコンサートツアーが全部キャンセルになり,再起不能説も出ました。

 こんな数行ではあまりよくわからないでしょうから,もうちょっと練った原稿は,今週末にがんばって書きます。その音楽を聞いた方が,爺の文章などより100倍も雄弁にこの素晴らしい女性の生きざまを物語ってくれるはずなのですが...。とりあえずこの3枚組ベストを聞いてみてください。発見はたくさんあります。特に3枚めのライヴ特集がすごいです。13曲めの "TOI ET MOI"(1993年ライヴ)など,このライヴCD(ZENITH 93)を持っている私も全然気がつかなかった隠れた名曲です。未発表のものですが,CD3の19曲目(最後の最後)に収められている1998年ライヴの「アムールーズ」ピアノ弾語りの録音は,その時40度の高熱がありながら,オーディエンスのヴァイブレーションに支えられながらの恍惚状態の演奏だったそうです。72年の若い日にのびのび出ていたこの曲の最高音部の声が,この98年のライヴのこの演奏を最後に出なくなったそうです。

<<< トラックリスト >>>
- CD 1 (EN STUDIO 1969-1981) -

1. LE FEU DU CIEL (1969)
2. BESOIN DE PERSONNE (1972 "AMOUREUSE")
3. BAHIA (1972 "AMOUREUSE")
4. BIRDS OF SUMMER (1973 "AMOUREUSE - ENGLISH VERSION")
5. COMME JE L'IMAGINE (1972 "DE L'AUTRE COTE DE MON REVE")
6. DE L'AUTRE COTE DE MON REVE (1972 "DE L'AUTRE COTE DE MON REVE")
7. CHANSON SUR MA DROLE DE VIE (1972 "DE L'AUTRE COTE DE MON REVE")
8. ALIA SOUZA (1974 "LE MAUDIT")
9. LE MAUDIT (1974 "LE MAUDIT")
10. BOUDDHA (1974 "LE MAUDIT")
11. VANCOUVER (1976 "VANCOUVER")
12. WHEN WE'RE TOGETHER (1976 "VANCOUVER")
13. REDOUTABLE (1976 "VANCOUVER")
14. ETRANGE COMEDIE (1976 "VANCOUVER")
15. SAD LIMOUSINE (1976 "VANCOUVER")
16. BERNARD'S SONG (1977 "HOLLYWOOD")
17. FEMININ (1977 "HOLLYWOOD")
18. LES DELIRES D'HOLLYWOOD (1977 "HOLLYWOOD")
19. MA REVERENCE (1979 "7EME")
20. MI-MAITRE MI-ESCLAVE (1979 "7EME")
21. DOUX DEHORS, FOU DEDANS (1981 "LAISSE-LA VIVRE")
22. JE SERAI-LA (1981 "LAISSE-LA VIVRE")
23. PANNE DE COEUR (未発表。1969デモ)
24. LOUIS (未発表。1971デモ)

- CD 2 (EN STUDIO 1983-2007) -
1. ALLAH (1988 未発表 First VERSION)
2. MARIE (1988 "MOI LE VENIN")
3. MORTELLES PENSEES (1988 "MOI LE VENIN")
4. ENTRE ELLE ET MOI (duet with CATHERINE LARA. 1991 Catherine Lara album "SAND ET LES ROMANTIQUES")
5. SANS REGRETS (1992 "SANS REGRETS")
6. LOUISE (1992 "SANS REGRETS")
7. RIEN QUE DE L'EAU (1992 "SANS REGRETS")
8. LES HOMMES (1992 "SANS REGRETS")
9. VISITEUR ET VOYAGEUR (1992 "SANS REGRETS")
10. MELANCOLIE (duet with YVES DUTEIL. 1994 Yves Duteil album "Entre elles et moi)
11. J'AI L'HONNEUR D'ETRE UNE FILLE (1998 "INDESTRUCTIBLE")
12. JE ME SUIS TELLEMENT MANQUEE (1998 "INDESTRUCTIBLE")
13. CA VOUS DERANGE (2001 Compilation "LES MOMENTS IMPORTANTS)
14. VUE SUR LA MER (2004 "LONGUE DISTANCE")
15. LA DOUCEUR DU DANGER (2004 "LONGUE DISTANCE")
16. LONGUE DISTANCE (2004 "LONGUE DISTANCE")
17. LE TEMPS EST ASSASSIN (未発表ヴァージョン。1983)
18. UN PEU D'AIR PUR ET HOP (Duet with CLEMENTINE CELARIE。新録音。2007)

- CD 3 LIVE -
1. VERONIQUE (LIVE 1981 "SANSON AU PALAIS DES SPORTS")
2. MONSIEUR DUPONT (LIVE 1981 "SANSON AU PALAIS DES SPORTS")
3. TOUTE UNE VIE SANS TE VOIR (LIVE 1981 "SANSON AU PALAIS DES SPORTS")
4. AINSI S'EN VA LA VIE (LIVE 1985 "L'OLYMPIA 1985")
5. TOUT VA BIEN (LIVE 1985 "L'OLYMPIA 1985")
6. SALSA (LIVE 1985 "L'OLYMPIA 1985")
7. CELUI QUI N'ESSSAIE PAS NE SE TROMPE QU'UNE SEULE FOIS (LIVE 1985 "L'OLYMPIA 1985")
8. JE LES HAIS (LIVE 1989 "L'OLYMPIA 1989")
9. FULL TILT FROG (LIVE 1989 "L'OLYMPIA 1989")
10. CHRISTOPHER (LIVE 1990 "SYMPHONIQUE SANSON")
11. POUR CELLE QUE J'AIME (LIVE 1990 "SYMPHONIQUE SANSON")
12. L'AMOUR QUI BAT (LIVE 1990 "SYMPHONIQUE SANSON")
13. TOI ET MOI (LIVE 1993 "ZENITH 1993")
14. LES DELICES D'HOLLYWOOD (LIVE 1993 "ZENITH 1993")
15. UNE NUIT SUR SON EPAULE (duet with Marc Lavoine. 1995 "COMME ILS L'IMAGINENT")
16. ON M'ATTEND LA-BAS (duet with Paul Personne. 1995 "COMME ILS L'IMAGINENT")
17. L'IRREPARABLE (未発表ライヴ。1982)
18. C'EST LE MOMENT (未発表ライヴ。1984)
19. AMOUREUSE (未発表ライヴ。1998)


3CD WARNER MUSIC FRANCE 2564696990
フランスでのリリース 2007年12月



PS.1 : 1988年にイスラム原理派からの爆弾テロ脅迫の対象になった「アラー」という曲があります。この曲は編曲・プロデュースをミッシェル・ベルジェにお願いしています。15年ぶりの共同作業です。これは結局再会/和解というドラマティックな展開にはならず、プロがプロに依頼してプロの仕事をプロとしてする、という次元を脱しません。ヴェロさんはこの仕事に当時はケチをつけませんでした。シングルもアルバム「Moi le venin」に入ったヴァージョンもベルジェ・プロデュースのものが使われました。
 ところが、ベルジェ死後ずいぶんたった近年、このベルジェの編曲が気に入らなかったことを告白しています。「その前に録音した私の最初のヴァージョンの方がずっと良かった」。このことにヴェロさんはずいぶん執着していたようなのです。15年の後に再会して感覚の違いがはっきりしてしまった、ということでしょうか。この3枚組ベスト盤のCD2の1曲めの「アラー」は、ヴェロニク・サンソン編曲の未発表ヴァージョンが収められています。
 残念ながら爺は「アラー」という曲自体にあまり感じるものがないので、どっちもどっちという感想でありますが...。


PS 2 :
ミュージックライフ1974年度人気投票
女性ヴォーカリストですね。カーリー・サイモン、スージー・クワトロ、キャロル・キング...トップ3だけ見ても、黒革ロックとシンガーソングライターの時代だったことがわかります。ダイアナ・ロスとシルヴィー・ヴァルタンに挟まれて、13位にヴェロニク・サンソンです。フランソワーズ・アルディ(20位)より上だったんですね。まあ、こんなランクって投票半分、編集部のスポンサー(広告主様)への心配り半分でできてると思いますが、ヴェロニク・サンソンはその前の年もその後の年もなく、1974年だけです。爺は女性の目立つ大学の女性学生数が圧倒的に多い学部学科に在籍しておりましたので、74年のヴェロニク・サンソン人気は爺の周りでは「真実」でした。学科が学科だからみんな「アムールーズ」原語で歌っていましたし。

2008年3月13日木曜日

バタクランで「シェ・ルプレスト」



 3月12日,パリ11区バタクランで,アラン・ルプレストとそのゲストたちによるコンサートでした。超満員で,外には入れない人たちがかなりいました。うれしいですねえ。年齢層は高いとは言え,本当にシャンソンの好きな人たち。ヴァリエテ系のファン層にありがちなアーチストと一緒に大声で唱和してしまうなどということは皆無の,じっくり聞く人たちばかり。一曲が終わるたびに「ブラボー,ブラボー!」の大喝采でアーチストを讃える人たちばかり。歌が聞こえ,歌詞がわかり,詩情が場を支配していまって,聴衆との交感が大きなヴァイブレーションになってしまうタイプのコンサート。
 舞台の上にビストロがあり,椅子とテーブルが並び,ギャルソンが給仕します。第一部で6曲ひとり(+ピアノ伴奏)で歌ったルプレストが,そのビストロに腰を降ろし,ビールを飲みながら,第二部のアルバム「シェ・ルプレスト」参加のアーチストたちによる歌を聞きます。盟友ロマン・ディディエ(ピアノ&編曲指揮)が,ピアノ,クラリネット,チェロ,アコーディオン。ギターのアンサンブルでゲストたちの歌をサポートします。エンゾ・エンゾ,ダニエル・ラヴォワ,オリヴィア・ルイーズ,エルヴェ・ヴィラール,ジャン・ギドニ,ジェアン,イーヴ・ジャメ(途中で歌詞を忘れて,ルプレストの絶妙の助けで救われている!),モン・コテ・パンク,アニエス・ビール,ニルダ・フェルナンデス,ロイック・ラントワーヌ... シャンソンという名の大家族が集まって,ルプレストのシャンソンを祝福しあっている図です。
 ルプレストは足もとこそ時々不安定になりますが,酔漢の哀歌(ブルース)的なダミ声歌唱は,ぐさぐさと聞く者の胸に突き刺さるパワーにあふれていました。翼から火を吹くボーイング機の中で家族に遺言する「大阪から東京まで」も歌いました。
 4月19日にウーロペアン座でもう一度「シェ・ルプレスト」コンサートが開かれます。

2008年3月11日火曜日

クロクロは生きていたら69歳



 3月11日,クロード・フランソワの30周忌であります。オフィシャルにはパリ16区のエグゼルマンス通りの自宅アパルトマンの浴室で,壁面につけられていた浴室灯の電球が曲がっていたのを見て,それを直そうとして手を触れたところ,感電して心臓が止まってしまった,ということになっています。他にも説はいろいろあります。どんな説にせよ,これは多くの国民にとって,悲劇的な死ではなく,「mort stupide=愚かな死」であります。ふつうそんなことで死ぬわけはないのに,なぜかやってきた不条理な死です。信じられない死です。当然のことながら生存説もあります。巨額の負債から逃れるための偽装死という説で,それによると本人は人知れず南米に脱出し今も生きているのです。
 爺もいやと言うほど特番やら伝記ドキュメンタリーを見ていましたが,多くの伝説のスターたちにあることでしょうけど,生前よりも死後の方がレコード売上はずっと上で,全く衰えることを知らないのです。これは現役で苦労して新作を出して売り続けなければならないジョニー・アリデイなどには,いい面の皮でしょう。まあ,死んで花実が咲くものか,ということもありますが。
 レコード会社を作り,興行プロダクションを作り,雑誌(Podium)を作り,ショービジネス界を自分のコントロール下に置こうとしていたクロード・フランソワの方法は,そのメディア戦術において,自分のメディアを使って私生活を見え隠れさせるところなど,ニコラ・サルコジに多大な影響を与えたことは間違いありません。ただ,昨今サルコジや首相のフランソワ・フィヨンが国民に向かって「国庫は底をついている」「国には金がない」とくり返しているように,クロード・フランソワもその派手さと我の強さゆえに,金はついていきません。10のものを売るために100の広告予算をかけるようなやり方です。それを取り戻すために彼は無理なスケジュールのコンサートツアーを続けなければならず,見栄のために払えもしないプライヴェート・ジェット機で移動しなければならなかったのです。
 フランス3のドキュメンタリーによると最後の日の前夜,プライヴェート・ジェットで空港についたクロード・フランソワは最初にパリの南郊外エッソンヌ県(91)に持っていた水車小屋つきの館「ムーラン・ド・ダヌモワ」(現在クロード・フランソワ博物館)に行って,そこで泊まろうとします。そこには妹が住んでいて館を管理していたのですが,クロード・フランソワがこの館の電気代を長い間滞納していたため,電気を止められ,暖房もない状態だったのです。寒い3月の郊外の夜です。彼はこの状態では休めないと,深夜に運転手を呼んで,パリ16区のアパルトマンに移動するのです...。
 アーチストとして,私はこの人に感じるものはほとんどありません。芸能ストーリーとしての波瀾万丈には,へええ...と思うことがしばしばあります。フランスのヴァリエテのプロフェッショナリズムというのはダリダとクロード・フランソワによって作られたようなところがあります。二人ともエジプト出身です。伝記本や回忌追悼特集の多さでは,この二人が他の追随を許しません。爺の苦手な芸能界の典型です。
 
 
 

2008年3月4日火曜日

爺は有頂天



 3月4日、国営ラジオの建物メゾン・ド・ラジオの隣のレストラン・ラウンジの特別予約のサルーンで、ヴェロさんと会いました。15-20分という最初の制限をはるかに超過して、45分は裕にしゃべっていました。
 こんな幸せ、二度とないかもしれません。ファン冥利に尽きます。寝てもさめてもヴェロ、ヴェロ、ヴェロだったこの数日間の爺のときめきは、実のその人を前にして(居合わせたタカコバー・ママの証言によると)緊張するどころか、突然に雄弁になってベラベラいろんなことをしゃべっていたようです。
 いろいろ重要なことも話してくれましたが、悲しいのは、かの遺伝子系の血液病のせいで、もう飛行機での長距離旅行は困難なのだそうです。70年に垂水で数ヶ月暮らして、日本に魅了されていたヴェロさんが、もう二度と日本の地を踏むことが(現在の医学の力では)できないのだそうです。とても残念がっていました。
 続報はまた明日。


PS
主にTomiさんへ。
ヴェロさんとジュジュ様のデュエット1974年「バイーア」です。こんなもん見たことないでしょう?ジュジュ様もきれいだけど、ヴェロさんはブロンドのチャーミングな女性でしたね。
Véro & Juju "Bahia" 1974

PS.2
3月11日、1週間前の爺のインタヴューの日、その午前中に録音された国営ラジオ/フランス・アンテールのイヴ・カルヴィの番組「ノノブスタン Nonobstant」が今日の午後オン・エアされました。さすがプロのインタヴューは違うなあ...。「自分の歌を聞かないという歌手が多いけれど、私は自分の歌をよく聞くの。私はこうやって以前とは同じようには歌わないようにしているの。」歌は変容していく、時間と共に。その時間は外に流れるものでもあり、自分の中の時間でもあります。確かに以前と同じようには歌っていません。それは声が出なくなるとかそういうことではなくて、歌も同じように熟して老いていくのですね。ヴェロさんは自分の声をよく聞いているのです。
France Inter "Nonobstant"

2008年3月3日月曜日

明日ヴェロさんに会うのです。



 もう1週間ぐらい仕事が手につかない状態。爺は手持ちのCDをすべて聞いて、ジャン=フランソワ・ブリウーの本とディディエ・ヴァロの本を読み直して、寝ても覚めても、この人のことばかり考えています。人はこれを恋と呼んでもいいでしょう。CDは80年代以降のものは買っても数度しか聞いていない状態だったのですが、この週末はその5枚:85年"VERONIQUE SANSON"(=通称ホワイトアルバム)、88年"MOI LE VENIN"(クリスチアン・ラクロワの衣装)、92年"SANS REGRETS"(書道のような大きな"S")、98年"INDESTRUCTIBLE"(砂漠のヒッチハイカー)、2004年"LONGUE DISTANCE"(白ソファに赤いバラ): を集中的に聞いて、いろいろな発見がありました。歌詞的には過去ばかり引きずっているのに、サウンド的には米国から完全に引き上げてきた85年から過去とばっさり切れているようです。爺はこの「ヴァリエテ寄り」をずっと嫌っていたのですね。しかし、私が歳取ってしまったのでしょうか、週末はこの5枚にこんなに良い曲が入っていたのか、と驚くことが多かったです。"Mortelles pensées"(in "MOI LE VENIN"), "Louise"と"visiteur et voyageur"(in "SANS REGRETS"), "J'ai l'honneur d'être une fille"(in "INDESTRUCTIBLE")などは、私自身の「サンソン・スタンダード」として残っていく曲でしょう。
 アルコール中毒のこと、2003年にピープル誌に報道された遺伝子系の血液病のこと、こんなことを考えると初対面第一声で Comment allez-vous ? と聞くのが、アラン・ルプレストの時と同じように重い質問になります。年齢よりもずいぶんと歳取って見える時があります。テレビで見ると動作が時々老婆風です。
 いろんなことを聞いてみたいです。大阪万博の時に住んでいた神戸市垂水区のこと、宝塚のこと、76年東京音楽祭のこと、そういう日本がらみのことから始めるつもりです。


PS:
2008年2月放送のフランス国営TVの番組「タラタタ」でのヴェロさんです。
もう2005年のライヴくらいから顕著なんですが、高い声が全然出なくて苦しそうです。
Vero "Taratata" 15 fev 2008

PS2:
2008年1月放送のフランス国営TVの特番「フェット・ド・ラ・シャンソン・フランセーズ」でのヴェロさんが、息子クリストファー・スティルスやミッシェル・フュガン、ポール・ペルソヌ、イヴ・デュテイユなどと一緒に歌う「アリア・スーザ」です。これなんか見ててとても苦しそうです。近年のグレコかブリジット・フォンテーヌにも似た老婆性が見えます。
Vero "Alia Souza" 23 Jan 2008

2008年3月2日日曜日

アンリ・サルヴァドールの墓参りに



 娘とタカコバー・ママと3人でペール・ラシェーズ墓地のアンリ・サルヴァドールの墓参りをしました。2月15日の埋葬の時の花輪の数々が堆くそのままお墓の上に残っているようで、もうその花々はよれよれで、なんかあわれをそそる墓の状態でした。いつかはこの花々は取り払われるのでしょうが、この花々のおかげで墓碑銘も見えないし、それでもかすかに花の隙間から大理石に彫られたSalvadorの字が見えていました。
 サルヴァドールの墓の真後ろにエディット・ピアフの墓があり、墓めぐりの観光客(おもに外国人)はもっぱらエディット・ピアフの墓に興味が集中していて、写真を撮ったり、墓を撫でさすってその敬意を表現したりという光景が見られました。日本人の姿も何人か見えましたが、ピアフだけの興味で、その前にある堆いしおれた花々に包まれたアンリ・サルヴァドール墓には「何これ?」といった一瞥で通り過ぎて行きました。まあ、そんなもんでしょうね。



 ←花々の間にかろうじて見える "Salvador"の字。