2013年12月18日水曜日

アルゼンチンよ、泣かないで

Hélène Grémillon "La Garçonnière"
エレーヌ・グレミヨン 『ラ・ギャルソニエール』

 360ページの小説です。夕食後から夜中にかけてという限定つきですが、4晩で読み終えました。私にしては驚異的なスピードでしょう。読ませる人だなぁ、と率直に思いました。彼女のデビュー作にして大ベストセラー小説である "Le Confident" (2010年発表、30万部、世界27カ国語で翻訳されてますが、日本では出ていません)は未読ですが、文庫本化されたのでこの冬読みます。上にリンクしたYouTubeの著者による作品紹介では『ル・コンフィダン』は、第二次大戦期を背景にした二つの恋愛を軸にした小説のようですが、この戦争&占領時代という作者が生きていない時期を周到に資料調べして、さまざまなことが困難だった状況という油絵カンバスの下塗りのような小説の土台固めを非常に重要視しています。それはこの新作『ラ・ギャルソニエール』 でも同じことで、舞台は1987年8月のブエノス・アイレス(アルゼンチン)、76年から83年まで続いた軍政時代の後始末がまだ終わっていない頃で、誘拐や拷問や恐怖と不正の限りを体験してきた市民たちがその後遺症から立ち直れていない。どんな小さな口実でも、簡単に無実の人々が投獄されたり暗殺されていたので、その後数年が経っても人々の口は重く、誰を信用していいのかわからない、その上軍政時代の協力者たちが無罪放免となって何喰わぬ顔で町に戻ってきている。明日にでもまた同じことが繰り返されるのではないか、という不穏な空気が漂っています。
 最初に前置きがあります。
 この小説はある実話から着想を得ている。事件はアルゼンチン、ブエノスアイレスで起こっている。時は1987年8月、冬である。季節はいたるところで同じというわけではない。だが人間は同じである。
最初からいい感じです。わ、この作家は大きなものがある、と思わせるものがあります。読み始めたら、その筆致はますます名調子です。話者や時制がパズルのように混じり合っていますが、組み立てがしっかりしているから、読者は混乱することがありません。クリアーです。私はそうとは思わずにこの本を手にしたのですが、これは本格的な推理小説なのでした。
 美貌の女性リサンドラは、建物の5階にある自宅アパルトマンの窓から転落して死にます。自殺か他殺か。現場の状況:アパルトマンの入口ドアは開かれたまま。広間では大きな音で音楽がかかっていた。広間の窓は開いている。肘掛け椅子が横転し、電気スタンドと花瓶が床に落ちて、花瓶から流れた水が床にひろがっていた。磁器でできた猫の置物とワインの瓶、そしてワイングラスふたつが床に落ちて割れている。地面に落ちた体は背を下に横たわり、頭部は横を向き、顔には細い血の筋、両目は腫れていて見開いている。身には真新しいドレスをまとっている....
 アパルトマンの隣人は、この前に大声で口論する男女の声が聞こえてきた、と言います。
 リサンドラの夫で、精神分析医のビットリオ・プイグは、(本人の弁では)アパルトマンに帰ってくるやいなや、異様な様子(戸が開いている、床の乱れ、開け放たれた窓...) に気付き、窓から下を見る人体が潰れていて、すぐさま階段を駆け下りていったら、それがリサンドラの死体と知った、と気を動顛させますが、駆けつけた警察に、この殺人の最重要容疑者として逮捕されます。
 わお、「こりゃやっかいだ」と最初から思わせます。それは当時のこの国にちゃんとした警察や司法があるのか、という疑いが読者の側に出てくるからです。ついこの間までの過去の暗い記憶のおかげで、警察はろくに調べもせず、犯人をでっち上げれば仕事は終わりだ、という深い疑念です。ビットリオ・プイグもよりによって最愛の妻を殺された私に嫌疑がかけられるとは...という不条理な「軍政被害者」のような目線になります。彼は一刻も早く自分を無実を証明しなければ、多くの軍政被害者のように有無を言わさずこの世から消されるという恐怖があります。そこで自分の精神分析院の患者のひとり、火山研究学者のエヴァ・マリアに助けを求めます。
 エヴァ・マリアはもろに軍政被害者でした。あの時代に多くの子供たち(3万人と言われています。詳しくはこの『五月広場の女性たち』のリンクをお読みください)が行方不明になって二度と帰ってこなくなったのですが、彼女の娘ステラもその一人でした。この娘を失ったことで、エヴァ・マリアは精神のバランスを失い、ステラの弟のエステバンに辛く当たり、夫と別れることになってしまい、その「心の病」を精神分析医に診てもらっていたのでした。ビットリオは自分にとって「名医」である、だから悪い男であるわけがない、というロジックで彼女はビットリオに協力することを決めたのではありません。まず、警察や国家への絶望的な不信感があります。娘を救い出すことをできなかった母親が、ほとんど情念的にこの男を(警察から)救わなければならない、という気持ちだったのでしょう。
 エヴァ・マリアはリサンドラと一面識もありません。
 ビットリオは精神分析医として職業上の禁忌を犯していました。秘密で患者との対話をすべてカセットテーブレコーダーに録音していたのです。問診の後で分析上不明の点が出てきた時に聞き直すため、という方便ですが、自分の心の最深部まで語る患者にはそれが隠れて録音されているなどという事実を知った日には大醜聞となるだけでなく、その分析医は永久にその職業ができなくなるでしょう。そのデオントロジー(職業倫理)を破ってビットリオはそれをしていたわけですが、そのテープがリサンドラ殺しの重要な手がかりになるかもしれない。なぜならその赤裸々な告白の中にはビットリオへの私怨や間接的なリサンドラ殺しの動機が含まれているかもしれない。エヴァ・マリアはリスクを冒してその多数の録音テープをビットリオのアパルマンから見つけ出し、1本1本テープ起こしをして全会話を文字化するのです。
 小説はこの前半でおおいなる「精神分析推理小説」とでも呼ぶべき展開になります。老いに対する恐怖からあらゆる若い女性に対して嫉妬を抱く中年女性アリシア、妻との確執や幼くして死んだ兄への嫉妬など複雑な心理背景を持つ元・軍政側兵士フェリペ(不妊の妻のために養子を迎えたと告白するが、軍政によって誘拐された子供の可能性が高い)、表現の自由と芸術を忌み嫌う軍政のために捕われ、ありとあらゆる拷問を受けたピアニストのミゲル(その会話の中で、拷問執行現場には必ず軍政に雇われた精神分析医が立ち会っていて、拷問効果を上げるための指示を出していたと言っている。ここ重要。ビットリオが軍政時代にそこで働いていたかもしれない可能性).... 臨床現場の実録であるこれらのテープから浮かび上がってくる患者たちのねじれた心の告白に、エヴァ・マリアはこれらの誰もがビットリオ(とその妻リサンドラ)に敵意や殺意を抱いてもおかしくない、と推理します。だが、それのひとつひとつが決め手に欠ける。その上、エヴァ・マリアが想像していた善良な精神分析医のイメージがどんどん崩れ、そのダークサイドがどんどん見えてくるのです。
 小説の半ばからわかってくるのは、ビットリオとリサンドラは決して円満な夫婦ではなかった、ということ。ここのあたりがちょっとややこして、これがビットリオの証言でなく、エヴァ・マリアの調査から推察できる想像&仮説で語られているので、どこまでが、というリミットが曖昧です。ここからの最大のテーマは「ジェラシー」です。 P231にはご丁寧にもコンチネンタル・タンゴの名曲中の名曲「ジェラシー」("La Jalousie" デンマークのヴァイオリン奏者/作曲家ヤコブ・ゲーゼの1925年の作品)の楽譜が載っています。
 エヴァ・マリアのなじみのカフェのマスター、フランシスコの証言によると、リサンドラはフランシスコを過去に情人としていたし、彼女は同じような情人を複数で持つほど、旺盛な性欲があった。リサンドラが通っていたタンゴ・スクールの老教師ペドロ・パブロ(通り名ペペ)の証言によると、リサンドラは夫ビットリオの浮気に心を暗くしていた。リサンドラが浮気をしていたのか、ビットリオが浮気をしていたのか、またその両方なのか。
 ここでペペの証言から翻って展開されるリサンドラの黒々とした嫉妬の描写がすさまじいのです。嫉妬とはここまで至るものなのか、グレミヨンのエクリチュールのパワーに脱帽します。ビットリオの一挙手一投足のすべてのディテールがリサンドラには浮気の証拠に見えてしまう。もう二度と心が戻ってくるわけはない夫と決着をつけるため、リサンドラはX-デイを準備していたように、読者は思い始めます。
 自殺にしろ、他殺にしろ、この事件はビットリオに最大の嫌疑が覆い被さるように用意されていました。自殺ならばそれはビットリオへの恨みの自殺であろうし、ビットリオを殺人犯として社会的制裁を与えることによって、リサンドラは願いを果たせる。ビットリオあるいはリサンドラ(あるいは両者)に恨みを持っている他者の犯罪であっても、事情は同じ。
 ビットリオが犯人であれば、なんとかしてそれを逃げるでしょう。その罠にはまったのがエヴァ・マリアだとしたらどうでしょう?ビットリオはその患者であったエヴァ・マリアが娘の蒸発の悲しみを鎮めるためにアルコール依存症になったことを知っています。アルコール依存症のために夫と別れるはめになり、残された一人息子ともうまくいっていない。アルコール依存症のために記憶も時々飛んでしまう。ビットリオはこの患者の弱点をまんまと利用して(精神分析医というは医者か、という議論は置いておいて。医師にあるまじき!)、取り調べにエヴァ・マリアが怪しいという証言をしてしまうのです。
 小説は終盤です。警察はエヴァ・マリアが分析医ビットリオ・プイグに恋慕の情を抱き、嫉妬でリサンドラを殺害した、という仮説を立て、エヴァ・マリアの自宅で彼女を逮捕しようとします。ビットリオの裏切り。ところがここでもうひとつのどんでん返し。エヴァ・マリアの息子エステバンが「リサンドラを殺したのは僕だ」と名乗り出るのです。死んだ姉ステラのことばかりしか頭になくなった母親に復讐したくて(かのカセットテープ群の中にエヴァ・マリア問診の会話も入っていて、エヴァ・マリアがステラの代わりにエステバンが蒸発すればよかった、という不用意な発言をしてしまうのです)....。それを聞いたエヴァ・マリアは気を動顛させながらもそれを「母を庇うための大ウソ」と解釈して、「いいえ、この子は私を庇うためにウソをついています、真犯人は私です、どうぞお縄を」と逆自白をしてしまいます。エステバンは「いいや、真犯人は僕だ」と...。面倒くさい警察は「ええい、騒々しい、二人ともしょっぴいてしまえい!」と...。
 審理に21週間、公判に9日間、その結果、エヴァ・マリア・ダリエンゾ、無罪釈放、エステバン・ダリエンゾ、リサンドラ・ピュイグ殺害により禁固15年刑、という判決が下ります。ところが、ところが....。作者エレーヌ・グレミヨンは別の結末を用意しているのです。事件のすべては、リサンドラの少女時代に受けた性犯罪に端を発していたのです...。(もうこれ以上書きません。とは言っても、なぜ書名が"La Garçonniere"なのか気になるでしょう? ラ・ギャルソニエールとは [1]妻ある男が情婦と密会するために持つ小アパルトマン - [2]男たちにつきまとうことが好きな少女 -  といった意味なのですが、答えはこの結末部を読まないとわからないようになっています。)

 盛りだくさんです。何冊もの小説をまとめて読んだ気になります。大きな流れは「精神分析」「男女間の嫉妬」「母と子の確執」など、そのテーマひとつひとつが壮大な読み物になっていることだけでなく、土台となっているアルゼンチンの時代状況がはっきりと浮かび上がってきます。ファンになりました。次作も出版されたらすぐに飛びついて買います。

カストール爺の採点:★★★★☆

HELENE GREMILLON "LA GARCONNIERE"
Flammarion刊  2013年10月  360ページ。20ユーロ


(↓ Julien Clerc "Jaloux de tout" )


 

2013年12月15日日曜日

今朝のフランス語:イレパラーブル

irréparable
[ i〈r〉reparabl ]
a. 取返しのつかぬ、償えない;(機械が)修理できない;(衣服が)繕えない。malheur 〜 取返しのつかぬ不幸。
 - n.m. 取返しのつかぬこと
 (大修館新スタンダード仏和辞典)

 1996年に独立して始めた事務所はもう何台のパソコンを入れ、何台壊れて買い替えたか覚えていません。この6月にパリ11区から、自宅近くのブーローニュ・ビヤンクールに事務所を引っ越したその前後にいずれも6〜7年くらい使っていたiMac2台とポータブルのMacBookが次々にダメになりました。最多時には6人いた事務所も、今はほとんど私ひとりなのでちゃんと動く機械が1台あればどうってことないんでしょ、と人は言う。なぜ、私が複数のパソコンが必要なのか。少なくとも2台が必要なのは、フランス語のシステムでないと動かない経理・会計のプログラムがあるからで、日々の日本語仕事(営業・情報発信)とは別個にしておかないといけない「コンパティビリテ」の壁が存在するからなのです。だから最低2台あればいい。日本語システムの1台とフランス語システムの1台。私の事務所には5台のパソコンがあり、日本語システムが3台、フランス語システムが2台。
 12月のある日、そのフランス語システムの1台が動かなくなり、修理屋に見てもらったところ、 "irréparable"(イレパラーブル)の答え。この機械は事務所引越後の7月に買った中古のMacBook Pro(2007年型)で、買った時に3ヶ月のギャランティーがついていました。案の定10月にトラブルが起こり、10月はギャランティー内なので、無償で直してもらいました。ところが同じトラブル(端的に言うと「起動しない」という致命的なトラブル)で12月に持って行ったら、"irréparable"と言う。これは先方の「診断書」によると、本当はイレパラーブルなのではなく、修理可能なのだけれど、修理費(部品交換費など)が新品を買う値段と変わらなくなってしまう、だから修理する意味がない、というロジックなのでした。
 わが家には躾け不良の犬がいて、自分が欲しいもの(まあ食べ物しかないですが)を得るためだったら何でもするという知恵があり、スキあらば私や家族が不用意に犬様 の手の届く距離においてしまったメガネ、テレビその他のリモコン、ケータイ電話などを口に咥えてしまい、そうすれば私たちが大慌てで犬用ビスケットなどを差し出す、ということがわかってるんですね。しかし、そのビスケットを差し出すタイミングが少しでも遅れると、犬様は顎の力をぎゅっと入れます。そうするとその歯の間に挟まれたオブジェはバリバリバリっと音を立てて歯に砕かれていきます。 これまでそういう被害にあった件数は十数回に及び、その度にメガネ屋や電話屋や家電修理屋に行きますが、十中八九イレパラーブルの答えが返ってきます。今は年齢が12歳になって老犬化したので、こういうトラブルは起こらなくなりましたが、当時は再教育不可能なこの犬もイレパラーブルだとあきらめておりました。犬様を返品するわけにはいかないですし。これさえなければ本当に可愛い家族ですし。

(→1973年発売の日本盤シングル「愛する心が - L'irréparable」)
 1972年発表のヴェロニク・サンソンのデビューアルバム『アムールーズ』 に、"L'irréparable"という歌が入っています。定冠詞 "L'"がついているので、「リレパラーブル」、形容詞ではなく名詞になります。意味は上の大修館新スタンダード仏和辞典の訳では「取返しのつかぬこと」となっています。この当時ヴェロさんは23歳。ただ、私がインタヴューで直接聞いた話では、この頃の歌の多くは16-18歳頃に書き溜めていたもので、本当に湧き水のように大変な量の曲が出来ていたのだそうです。だから、と納得してはいけないんですけど、詞は少女っぽい。
毎日の生活で
思い違いをすることってあるわ
たいしたことじゃないって
そんなことを言う人って何も知らない人

人はそれが習慣か偶然かって
その運命を呪ったりするものだけど
大切なことじゃないわ
そんなことを言う人ってとても悪意のある人

なぜって、恋を恋することって
取り返しのつかないことなのよ
それは笑うこと
ボンジュールって言い合うだけのことなのに
取り返しのつかないこと
それは恋を恋すること
それは命の一部を差し出すことだから

一時間後に飛び立つ飛行機について
心ひそかに語ること
それは何でもないことよ
それを思うと微笑まずにはいられないわ

消えていく虹の七色が
見分けられないこと
それは何でもないことよ
それを思うと微笑まずにはいられないわ

なぜって、恋を恋することって
取り返しのつかないことなのよ
それは笑うこと
ボンジュールって言い合うだけのことなのに
取り返しのつかないこと
それは恋を恋すること
それは命の一部を差し出すことだから

ね?少女っぽいでしょう?「一時間後に飛び立つ飛行機」って、こういう字面見ただけで、一時間後にある「しばしの別離」なのか、一時間後にある「もうすぐあなたに会える」なのか、想像してみることができるでしょう。「虹の七色が見分けられない」のは涙でそうなっているのか、混乱するほどに高揚しているのか、あなた想像できますか? - でもこの歌詞によると、Ce n'est pas important それは全然たいしたことではない
 取り返しのつかないこと、修繕がきかないこと、あと戻りができないこと、訂正のしようがないこと... それは恋することであり、それは「命の一部を差し出すこと」と、若き日のヴェロさんは断言しています。
L'irréparable (取返しのつかないこと)
C'est aimer d'amour (それは恋を恋すること)
C'est donner une partie de sa vie(それは命の一部を差し出すこと)
ここで、"aimer d'amour"(エメ・ダムール)という一種の重複強調表現を、「恋を恋する」と日本語にしたら、ちょっとおかしいかもしれません。日本語の「恋を恋する」は、恋愛願望みたいな意味になりますよね。しかし仏語の "aimer d'amour"は、"aimer d'amour intense"としたらわかりやすいかもしれませんが、「激しい恋心で人を愛する」という意味と解釈できます。つまりフツーの恋愛ではなく、「常軌を逸した恋」「狂気の愛」とも言い換えられるものなのです。 それは命の一部を差し出せるものなのです。
 この17か18のお嬢さんにこんなことを説教されて、はて、私は命の一部を差し出すほどの恋をしたことがあるか、と老いた顔を鏡に映してみます。数十秒間、そうやって見ていると、その顔がイレパラーブルになっていることが、だんだんわかってきます。

(↓ヴェロニク・サンソン 1972年「リレパラーブル L'irrérapable」)  

2013年11月29日金曜日

発車オーライ、明るく明るく走るのよ

 Anne Sari "La Porte !"
アンヌ・サリ『ラ・ポルト! -  ある女性バス運転手の意外な告白』


 イトルの出典は1957年の歌謡曲『東京のバスガール』 (作詞:丘灯至夫 / 作曲:上原げんと / 歌:初代コロムビア・ローズ)です。その歌詞の3番を以下に引用します。
 酔ったお客の 意地悪さ
 いやな言葉で どなられて
 ホロリ落とした ひとしずく
 それでも東京の バスガール
 「発車 オーライ」
 明るく明るく 走るのよ
バスの車内で起こることはこの歌から半世紀以上経った今も、さほど変わっていません。路線バスの車掌という職業はこの世から無くなってしまいましたが、それ以来運転手がすべての仕事をしなければならなくなりました。本書の著者はリヨン市の公営バスの女性運転手です。女性だからと言って夜間や早朝の仕事がないわけではなく、フランスの大都市郊外というセキュリティー的におおいに問題のある地帯の路線を深夜に走行したりということも日常的にあるのです。酔ったお客なんて序の口で、さまざまな脅威にさらされながら、ほとんど無防備な状態でハンドルを握っているわけです。
 アンヌ・サリは、この『東京のバスガール』 の歌詞のように、この仕事でかなりの量の涙を流しています。筋骨隆々たる男ですら、この仕事は大変だと思いますよ。路線バス運転手。しかも並のバスじゃない。「連接バス」と呼ばれる2両編成。全長18メートル、重さ28トン。二つの車両のつなぎ目が蛇腹になっていて、ここが間接部になっていてカーブする時に蛇腹が開いたり閉じたり。フランスのバス業界用語では、この蛇腹バスをかの高名な民衆アコーディオン奏者に因んで「ヴェルシュレン」と呼ぶそうです。フランスっぽい洒落た異名ですね、なんて感心している場合ではない。この怪物バスを女性ひとりが運転し、渋滞や工事やらさまざまなイレギュラーのある道のりを安全に走行し、車内にトラブルがないように監視し、老人や体の不自由な人たちを固定した安全な場所に座らせ、土地に明るくない乗客の道案内をし、なじみの乗客の話相手になってやる....なんてことを全部するのですよ。
 この本は300ページあります。書きたいことが山ほどあったのでしょう。まず最初に、よくこんな本が世に出たものだ、という驚きがあります。「女性バス運転手の手記」、これだけ見て、誰が「へえ?面白そうだなぁ...」と思うでしょうか。バスのことなんか私たち市民の日常にあまりにも密接で、その中で起こっていることなど毎日見ているようなもんじゃないですか。一流航空会社の国際長距離便のパイロットや客室乗務員であったらまだしも、多少興味深い話が期待できるのではないか...と思うのが人情ではありませんか。
 アンヌ・サリはまさしく、そういう夢と希望を若い日に抱いていて、彼女はフランス国営航空会社エール・フランスに就職しています。年齢をバラしてしまうと、彼女は今日50歳を過ぎています。私が若かった頃も、アンヌが若かった頃も、航空会社はたいへん華やかな職業でした。ところがいろいろありまして、特に21世紀に入る頃から、民営化やら、系列会社(チャーター、ローコスト、海外県専門...)分離や再統合・合理化・リストラなどの末、アンヌは名刺の社名がエール・フランスから何度も名前が変わります。空の会社と思って就職したのに、結局レユニオン島(フランス海外県)の地上勤務を長年こなした挙げ句、空とは縁のない状態で会社を去り、フランス本土に帰ってきます。
 再就職はやはり自分の経験に適合したものと思うものの、そんな職はありっこないのです。これは本を読み進むうちに徐々にわかっていくのですが、3人の子供たちは大きくなって手がかからなくなっている。しかし長年連れ合った伴侶とは全くうまく行っていない。家族が5人だった頃の家は売りに出され、それぞれが散り散りになる。そんな状態でアンヌはフランス第三の都市、リヨンに身ひとつでやってくるのです。すなわち、アンヌはその50歳台のある日に、人生の一からのやり直しをリヨンでやってしまうのです。誰からも強いられたわけではなく、リヨン市交通営団の募集に応募して、「え?女で?」、「え?その歳で?」といった人の目をものともせず、アンヌは採用され、数ヶ月の技能訓練を受けて、晴れてバス運転手としてデビューするのです。
  "La porte !(ラ・ポルト!)"は、フランスのバスの中で非常に頻繁に聞く言葉、と言うよりは叫び声ですね。状況としては乗客が次の停留所で降りたいという意思表示の停車願いボタンを押して、バス中央部の降車専用出口に向かい、バスが停車するのを待っています。これはバスの安全のための絶対のまもりごとですが、運転手はバスが完全に停止するまで絶対に出口ドアを開けません。これはみんなリスペクトする。ところがこのドア開放が、完全停止から1秒も遅れてしまったら、間髪を入れずに「ラ・ポルト!」という叫び声が運転手席に向かって飛んでいくのです。ほとんど怒号です。「ドアを開けてください(Madame, ouvrez la porte s'il vous plaît)」なんていうニュアンスなんてない。シルヴプレなど付け加えられるわけがない。ただ一言「ドア!」。(ドアっつってんだろ、すかたん!)、 この侮蔑のこもった命令語を運転手はかしこまって受け止め、速やかにドアを開けなければならないのです。運転手としては最も言われたくない言葉でしょうね。
 この何事にも耐えて「明るく明るく走るのよ」と自分に言い聞かせている女性運転手の手記ではありません。彼女の日々のストレスたるやたいへんなもので、悔し涙を流すのは日常茶飯事、特にこの本が多くページを割いているのは、バス会社の管理体制、組織、上司や同僚との関係、労働条件などのことで、彼女の筆致は告発的で、さまざまなインタヴューで「あとでどんなことになるかわからないけれど、書かずにはいられなかった」と述懐するように、組織と「落とし前をつける」覚悟も見られます。ハイテクシステムを駆使した中央管理部から見れば、この区間は何時から何時の間は何分で走行でき、何人の乗客を収容できる、というような統計データに基づく理論的数値を達成できなければ、やっぱり運転手として適合性に欠けるという評価が待っています。公営バス会社としても数字を上げなければならないわけですから。ところが現場は、老朽車両や、整備員不足で点検の曖昧な車両でも回していかなければならないほど、運航スケジュールはギチギチで組まれている。その上天気の良い日ばかりではなく、急変して強風や豪雨になったり、雪や路面凍結があったり、無届けのデモ行進があったり、気まぐれな大統領や大臣の抜き打ち訪問があったり.... そしてバスでも人身事故や接触事故を起こすのです。紙に書いたようにすべてが理論通りに履行されることはない、とわかりつつも会社上層部はそれに限りなく近づくことを要求するものです。彼女は自分の身を守るために、労働組合に加盟し、まだまだフランスにもある「女のくせに」という蔑視にもめげず、ある種の論客としての立場を獲得していきます。あたりまえでしょう? その辺の若造よりはずっと職業経験や人生経験が多いのですから。
 だいたいにおいて、人の命を預かるという重要な責任において、長距離国際線旅客機のパイロットとバスの運転手に何の違いがあるのでしょうか? 副操縦士がついたり自動操縦に切り替わったりする前者の仕事に対して、後者は全部マニュアルで操縦し、乗客の応対をし、チケットを売り、渋滞にイライラし、遅れを咎められ、「ラ・ポルト!」と怒号を浴びせられ... 旅客機パイロットとバス運転手ではどれだけ給料格差があると思いますか?
 ま、言い出したら切りのない職業上の愚痴は、本書で十分読まされることになりますが、この本のたまらない魅力は、アンヌ・サリがこのバスという空間の中で出会うたくさんの人間たちの描写です。アンヌが運転するリヨン市と郊外のヴェニシューを結ぶC12という路線には、市街地もあれば、郊外高層住宅区もあれば、ロマの野営地もあれば、精神病院も刑務所もある、というカラフルさです。そういう路線で彼女はさまざまな人生と出会い、交流していきます。
 フランスのバスの最前部の左側部分は運転手ボックスです。その右側には乗り口ドアがあり、検札マシーンがあり、パスを通したり、チケットのない人は運転手からチケットを買ったりする、フロントガラス続きの立ち席ゾーンがあります。フランスのバスでは、ここに立って、道々運転手と親しげにおしゃべりをしている人を見ます。かつてはバス利用規約として「運転手と会話をすることは禁止」と大きく張紙されてたこともありましたけど、誰も気にしていません。このフロントガラスにへばりついた道々のおしゃべり相手のことを、バス業界の用語では"poisson-pilote(ポワソン・ピロット)"と呼びます。これは良い訳語が見つからないのですが、鮫のような大型の魚に密着して泳いでいき、おこぼれを頂戴するコバンザメのような魚のことだと思います。大きなバスの横にへばりついて、道先案内(pilote)をしているように見えるからでしょう。このポワソン・ピロットたちがアンヌにさまざまな人生を語ってくれるのです。
 刑務所に面会に行く女性たち、刑務所から仮出所でシャバに出る男、精神病院に通院する人たち、ロマのキャンプに出入りする人たち、ラマダンの時の疲れた男たち、ニカブを着衣して他のイスラム教徒を罵倒する女、墓参りを日課とする老寡婦の人生話....いろいろな人生をバスは運んでいます。アンヌのエクリチュールはユーモアと皮肉と人間愛にあふれ、その名調子はジュリエット・ヌーレディンのシャンソンにも似ていますし、本書の中でもアンヌと出会っているのですが、 大失業時代に職業経験のない女性がノルマンディーの港町で掃除婦として働くという潜入体験記ウィストレアム河岸のジャーナリスト、フローランス・オブナの辛辣ながらウィットのある観察眼にも似ています。
 ラジオRTL のインタヴューで、「文学やジャーナリズムの経験がないのに、よくここまで書けましたね」みたいな大変失礼な質問があり、ここにまた「バス運転手」という職業を低めに見てしまう人の目があります。それに対してアンヌは「学歴や教養がなくても文章は書ける」ときっぱり答えています。 これはわれわれ市井のブロガーたちの言葉でもあります。
 サン・ジャン・ド・デュー病院の前に鎮座するジグムント・フロイトの銅像とアンヌ・サリとのツーショットがこの本の表紙です。フロイト像には有名な診断用の長椅子がついていて、そこは病院内の散歩者の休憩所になったり、夜にホームレスの人が一夜の宿になったり。アンヌはそこに時々フロイト博士に話を聞いてもらいに行くのです。揺れる50歳女の波乱の日々を語りに行くのです。この女性は素晴らしいです。抱きしめたいです。

ANNE SARI "LA PORTE! - CONFESSIONS INATTENDUES D'UNE CONFUCTRICE D'AUTOBUS"
MICHALON 刊 2013年10月9日  300ページ  18ユーロ


2013年11月24日日曜日

ゲンズブール映画と思ってもらったら困る

『パリは実在しない』
1969年フランス映画
"Paris n'existe pas"
 監督:ロベール・ベナユーン
主演:リシャール・ルデュック、ダニエル・ゴーベール、セルジュ・ゲンズブール


 寺山修司の1974年の映画『田園に死す』 で、バーで飲みながら木村功が菅貫太郎にこんなことを言います:
ボルヘスは言ってるじゃないか。5日前に無くした銀貨と、今日見つけたその銀貨とは、同じじゃないって。ましてやその銀貨が、一昨日も昨日も存在し続けたと考えることなんて、どうしてできるんだい?

  おいおいおい、このボルヘスって誰なんですか? 映画は逆に「おまえはボルヘスも知らないのかい?」と観る者を試すようなところもあります。寺山のこの映画でこのシーンがどれほどの重みを持っているのかは別として、こういう引用や衒学的なレトリックは私はとても苦手です。画面が見れずに下に流れる字幕だけについていかなければならないような映画に似ています。おまけに私は字幕を読むのが遅く、読み終わる前に字幕が消えてしまうのです。ちょっと話がそれました。ロベール・ベナユーンの『パリは実在しない』 は、映画の最後に、ジェネリック(クレジット・タイトルのスクロール)の前に、文字でこういう4行が映し出されます。

時間は私を構成する要素である。
時間は私を連れ去っていく流れであるが、私は時間である。
それは私を咬み千切る虎であるが、私は虎である。
それは私を焼き尽す火であるが、私は火である。
      ー ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 わお、またボルヘスですか? これは私たちフランスにいる人間たちには、バカロレア(大学入学資格試験)の哲学の試験問題のようだ、と頭が痛くなるような引用文に見えます。しかし、よく読むとそれほど難しいことを言っているわけではない。人間は時間と共に生きることを余儀なくされているわけですが、時間によって翻弄されようが、時間によってひどい目にあおうが、時間は自分の外にある見えざる力なのではなく、自分に内在するものなのだ、ということでしょう。他人と同じ時間を共有していると錯覚してはいけない。時間は自分だけのものなのです。自分が死んで無くなった時に、時間もまた無くなってしまうのです。 
 この時間は自分だけのもの、と思ってしまったら、ひょっとしてこれは自分の五体と同じように自分でコントロールできるのではないか、なんてことを考えるようになります。つまり時間を一定の速度の一方向への流れであることをやめさせて、過去・現在・未来を自由に統御できないものだろうか、という願望ですね。このテーマは古くから多くのSF小説やSF映画を生み出してきました。『ふしぎな少年』(手塚治虫 1961年)、『時をかける少女』(筒井康隆 1967年)など挙げたらきりがありません。
 映画『パリは実在しない』 は、インスピレーション枯渇期にある若い画家シモン(リシャール・ルデュック)が、ある夜のパーティーで知らずに喫った幻覚剤がもとで、過去と未来を視覚化する能力を得てしまう、という話です。制作年が68年です。このような設定の映画では、私たちはSF映画などで後年、特撮やCGなどを駆使した「見えないものが見える」ファンタスティックな映画表現をたくさん見ることになるわけですが、68年の低予算独立映画の表現では、え?っと驚くようなシンプルな描かれ方(例えば、柱時計の針がぐるぐる逆にまわる)です。それはともかく、シモンは現在にありながら、人には見えない過去と未来が見えてしまうようになります。最初は当惑していたシモンも、次第にこの能力をコントロールできるようになり、混乱状態で現れていた過去と未来の「幻視」を、自由に見たい時点の過去と未来を視覚化するまでに至ります。ところが、現実の「現在」の世界にいる恋人アンジェラ(ダニエル・ゴーベール)と親友のローラン(セルジュ・ゲンズブール)は、このシモンの状態を「幻覚」「幻視」またはスランプ時期のノイローゼのように見なし、早く現実の世界に復帰せよと諭そうとします。現実の世界と人々との溝は深まっていきます。
 さてここでこの映画におけるセルジュ・ゲンズブールのポジションです。一言で言うならばディレッタント・ダンディーです。ブリティッシュなテイラード・スーツ、手には(あるいは口には)いつもシガレット・パイプ、隣りには美女、上からの目線で芸術論をよどみなく語る趣味人、そんな感じです。フリルつきのシャツで出て来るシーンもあります。観念的で衒学的で引用の多い語り口です。だから、ローランとシモンのダイアローグに私はほとんどついていけないのです。「なんだボルヘスも知らないのか」と言われているような気分になります。
 ロベール・ベナユーン(1926-1996)は40年代からシュールレアリスム運動の渦中にいた人で、作家・脚本家・文芸評論家・映画評論家・映画俳優でもあり、映画監督としてはこの『パリは実在しない』(1969年)と"Sérieux comme le plaisir"(1975年。あえて訳すと『快楽のように真剣』。ジェーン・バーキン、リシャール・ルデュック主演。音楽がミッシェル・ベルジェ)の2作しか発表していません。バイオグラフィーを読む限りでは、シュールレアリスム的審美観の論客として評論活動がこの人の本領であるようなので、わかりやすい映画など作るわけがない、というのは了解できます。この映画ではそのダンディー的な部分を俳優セルジュ・ゲンズブールが体現していたと言えるのでしょうが、私には言っていることがよくわからん、というイライラがあります。
 さて映画はシモンが視覚的な「過去へのトリップ」を自由に操れるようになり、シモンが住んでいるアパルトマンの1940年代にタイムリープし、そこに住んでいた麗しい婦人フェリシエンヌ(モニック・ルジューヌ)にほのかな恋心を抱く、というところまで行ってしまいます。恋人アンジェラは遠くまで行き過ぎたシモンをなんとか引き戻そうとするのですが...。
 では『パリは実在しない』 というタイトルはこの映画では何なのでしょうか?映画の1時間13分めにシモンがアンジェラにこう言います:
すばらしいことさ。
(何がすばらしいの?)
パリは実在しないんだ。
(どういうこと?)
きみと僕は継続的に存在する。だけどパリはその背景でしかなく、いつも姿を変えている。だけど僕らは永遠なんだ。僕らの周りで世界はバラバラになろうが、僕らは動かない。僕らは僕らの道を断念しない。
おわかりかな? 常に姿を変えてばかりいるもの、それは実在しないのです。われわれは動かない。だから実在するのです。だんだん禅問答っぽくなってきました。そして1時間28分めにローラン(=ゲンズブール)が、「ある有名なイギリスの詩人がこう言ったんだ」と前置きしてこう言います。
時は過ぎ行く、というのは間違いだ。
時は留まり、われわれが過ぎ行くのだ。
こんなこと言われましても、ねえ...。

 68-69年という動乱の時期でもあり、私はこの映画を観る前になにかその時代の空気をこの映画に期待していたと思います。旧時代の秩序や道徳と異なるもの、反抗的なもの、サイケデリックなもの、例えばバルベ・シュローダーの『モア』(1969年)みたいな。ところが、『パリは実在しない』はシュールレアリスティックでスタイリッシュで観念論的な映画でありました。サイケデリックという点では、セルジュ・ゲンズブール(作曲)+ジャン=クロード・ヴァニエ(編曲)というコンビによる音楽はその期待に十分応えてくれます。このコンビの初の共同作業だそうですが、この3年後、このコンビは大傑作『メロディー・ネルソンの物語』を制作することになるのですよ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

Paris n'existe pas (un film de Robert Benayoun 1969)
DVD 93分 (+ ボーナス 30分)

言語:フランス語
DVD XIII Bis Music EDV2567
フランスでのDVD発売:2013年11月


(↓『パリは実在しない』予告編)


2013年11月19日火曜日

私たちの望むものは

Various Artists "Mobilisation Générale - Protest and Spirit Jazz from France 1970-1976"
V/A 『総動員 - プロテスト&スピリット・ジャズ・フロム・フランス 1970-1976』

 「1968年、フランス株式会社で火災発生、建物全体が倒壊寸前にある。人々は何の救おうとはしない。崩壊した旧世界の瓦礫の中から、マルクスとコカ・コーラの子供たちが姿を現し、青白赤の三色旗から青と白を引き裂いてしまう。大気は赤く、音楽はもはや人々の暮らしを和ませたりはしない。大工事が始まる」(クロヴィス・グーによるライナーノーツの冒頭11行)

 とりわけ「70年代は何もなかった」と思っている諸姉、諸兄へ。

 私の現役時代です。オイルショックで高度成長が終わり、ベトナム戦争が終結し、新左翼運動が衰退し、「いちご白書」見てみんな会社に就職した時期でした...が。68年〜69年に乗り遅れた人たちが、もうみんな終わってしまったんだ、と「シラケ」を決めていたんですけど...。私は73年に東北から東京に出て仏文科生になり、ジャズ喫茶に入り浸り、時々デモ(狭山闘争、三里塚闘争...)に行き、同人誌を発行し、中央線上の店々でやっていたヘンテコなロックコンサートに顔を出し、友だちのロックバンドのために詞を書いていました。「なんにも終わっていないんだぞ」と息巻いていました。そして76年に初めてフランスの地を踏んだのです。 初めて着いたノルマンディーでフランスは「なんにも終わっていな」かった。
 闘争ということで言えば、日本にいた頃は敗北感が圧倒的で、あれも負けた、これも負けた、なぜ人民は動かなかったのか、みたいな話が、早くも70年代で新宿の飲み屋で平気で大声で語られたりしてちょっと辛かったですね。ところが68年5月革命は、大多数のフランス人にとって美談になってしまっていたし、服装も風俗も68年を境にまるで変わってしまったのです。具体的には大学寮の女子専用棟に男子が出入りできるようになってしまった(私はしょっちゅう泊まりがけでお世話になりました)。76年、私が初体験したフランスはおおいに行儀悪く、煙っぽく、(留学生だったので)女の先生たちはやたらセクシーに見えたし、男の先生たちはみんな長髪ひげぼうぼうだった(ような気がする)。
 しかし当時のフランスの若者たちには「徴兵制」という 重い責務があり、彼らにはインドシナ戦争もアルジェリア戦争も非常に近い記憶であり、軍隊にとられて戦地で死ぬかもしれない、という不安は常にありました。ある日大統領が「国民総動員! Mobilisation générale !」とひと声を発すれば、そうなっちゃう。彼らの反戦・反軍運動は往々にして戦時の日本のように「非国民」のそしりを受けることになる。(このコンピレーションにも反戦・反軍のトラックが3曲)
 1971年、時の防衛大臣ミッシェル・ドブレが南仏ラングドック地方アヴェイロン県とエロー県にまたがるラルザック台地にある軍用地(陸軍演習場)を、周辺の農地を撤収して13700ヘクタールにまで拡大すると発表。それに反対する農民たちが非暴力・不服従の抵抗運動を展開。全国から10万人もの運動に応援する人たちがやってくる。そしてこの闘争からエコロジーの運動や、オクシタニア文化復興運動、ジョゼ・ボヴェの農民同盟なども生まれていく。ユートピア的で祝祭的なこの農民・市民運動は10年の長い闘争の末に、遂に軍用地拡張中止を勝ち取ってしまうんです!(1981年、ミッテランによる中止決定)
 この地の70年代は、腹の立つことも多く、ポンピドゥーは「自動車に適合した都市づくり」を敢行して、パリのセーヌ河岸にも弾丸道路を通してしまったし、国営ラジオ&テレビを統御するORTF(1954-1974)はバシバシ検閲していたし、ジスカール・デスタンはテレビをばんばん政策プロパガンダに使い、国民はダリダとクロード・フランソワさえテレビに出ていれば満足、というふうに見透かされていたのです。
 そんなフランスで1965年に創設されたピエール・バルーのサラヴァ は、売れなくてもアヴァンギャルド度を増していき、アート・アンサンブル・オブ・シカゴは1969年にパリに降り立ち、テアトル・デュ・ヴュー・コロンビエで一連のコンサートを行い、ブリジット・フォンテーヌ&アレスキーやトーゴ人の詩人/俳優のアルフレッド・パヌーなどとレコードを録音したのです。このコンピレーション・アルバムの土台はここです。フランスの若者たちが68年に古い世界から解き放たれようとしたように、ブラック・ジャズは古いジャズの決まり事をぶちこわした。フリー・ジャズはフランスで68年世代や在仏移民アーチストたちと出会って、不定型でアナーキーで祝祭的で精神的な音楽を集団創造(クレアシオン・コレクティヴ)していく。テレビではクロード・フランソワしかなかったフランスで、実は大地ではこんな抵抗と自由の音楽が奏でられていた。コルトレーン、コールマン、ドルフィー、サン・ラーのフォロワーたちが、シャンソンやアフリカ音楽や抵抗詩と一緒になって騒々しくて陶酔的な音楽になっていく。しかも集団で。
 人種差別、資本主義、国家権力、戦争、軍隊、移民政策、工場生活... この人たちは黙しているはずがない。日本だって黙していなかった人たちがたくさんいたはず。若松孝二は『天使の恍惚』(1972年)で「個的闘争」の時代に入ったことを強調したのですが、私はほとんど一人だったにも関わらずまだ集団を全面的に疑っていなかったし、集団的創造(クレアシオン・コレクティヴ)の可能性も信じていたのです。
 フランソワ・チュスク(フランスのフリー・ジャズの創始者)、MAHJUN (Mouvement Anarco Héroïque des Joyeux Utopistes Nébuleux 陽気で空疎なユートピア待望者たちによるアナーキーで英雄的な運動)、フル・ムーン・アンサンブル(アーチー・シェップ)、アヴィニョンのシェーヌ・ノワール(黒い樫)劇団、アレスキーとブリジット・フォンテーヌ、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ... 
 サラヴァ音源のものを除くとすべて初めて聞く音楽ばかりでした。当時はと言えば、ロックやヴァリエテばかり聞いていたくせに、こんなのを聴かされると、本当のところでは、芯のところでは、こういう時代だったのだ、と、興奮したり、ほっとしたり。

<<< トラックリスト >>>
1. ALFRED PANOU & ART ENSEMBLE OF CHICAGO "JE SUIS UN SAUVAGE"(1970)
2. ARESKI & BRIGITTE FONTAINE "C'EST NORMAL" (1973)
3. ATARPOP 73 & LE COLLECTIF DU TEMPS DES CERISES "ATTENTION... L'ARMEE" (1973)
4. RK NAGATI "DE L'ORIENT A L'ORION" (197?)
5. FREDERIC RUFFIN & RAPHAEL LECOMPTE & CAPUCINE "LES ELEPHANTS" (197?)
6. FRANCOIS TUSQUES & LE COLLECTIF DU TEMPS DES CERISES "NOUS ALLONS VOUS CONTER..." (1973)
7. M A H J U N (Mouvement Anarcho Héroïque des Joyeux Utopistes Nébuleux) "NOUS OUVRIRONS LES CASERNES" (1973)
8. FULL MOON ENSEMBLE "SAMBA MIAOU" (1971)
9. BAROQUE JAZZ TRIO "ORIENTASIE" (1970)
10. MICHEL ROQUES "LE CRI" (1972)
11. CHENE NOIR "HEY ! " (1976)
12. BEATRICE ARNAC "ATHEE U A TE" (1973)

V/A "MOBILISATION GENERALE - PROTEST AND SPIRIT JAZZ FROM FRANCE 1970-1976"
BORN BAD RECORDS CD BB057CD / 2LP BB057LP
フランスでのリリース:2013年12月9日

↓"MOBILISATION GENERALE" ティーザー



2013年11月3日日曜日

Amour debout (直立の恋)


ある日悪魔がその獲物たちを監視するために地球にやってきた。悪魔はすべてを見、すべてを耳にした。すべてを知ったあと悪魔は向こう側に帰って、大晩餐会を開いた。宴の最後に悪魔は立ち上がり、こう演説した。
万事良好だ。
地球上ではそれを照らす火がまだあちこちに燃えている。
万事良好だ。
人間たちは狂ったように危険な戦争ごっこをして愉しんでいる。
万事良好だ。
理想で頭がいっぱいの男たちが線路に爆弾をしかけ、列車は大音響とともに脱線する。この死者たちはこれまでにないものだ。懺悔もなく死んでいく者たち。懺悔しても容赦なく殺される者たち。
万事良好だ。
なにもかも全く売れないが、すべては買収されている。名誉も聖性すらも。
万事良好だ。
国家はこっそりと株式会社に変身している。
万事良好だ。
大人たちは子供たちの国で作られるドル札を奪いあっている。
ヨーロッパは『守銭奴』 (モリエールの劇)の稽古をしている。1900年の舞台背景をつかって。これは多くの餓死者たちを出す。そして国家の衰退も。
万事良好だ。
人間たちはこれらのことをあまりにも多く見すぎて、目がうつろになっている。
万事良好だ。
パリの区々ではもう誰も歌を歌わなくなっている。
万事良好だ。
人々は勇者たちを狂人あつかいし、詩人たちを間抜けと罵る。しかし世界のいたるところで新聞には卑劣漢たちがデカデカと顔写真を載せている。 それは正直者たちには苦痛でも、不正直者たちをおおいに笑わせるだろう。
万事良好、万事良好、万事良好、万事良好!
    (詞曲:ジャック・ブレル「悪魔(万事良好)」)

 1954年、パリのクリシー広場にあった大きな映画館ゴーモン・パラスで、無名の駆け出し歌手、ジャック・ブレルは、二本立て映画の幕間に余興歌手として出演して3曲歌いました。誰も歌なんか聞いていません。その2階席にジュリエット・グレコがいて、その大きな手、長い腕、長い脚、長い顔の歌手の出現に、「まるで猟犬のように」(グレコ自身の表現)体が固まってしまい、じっとその歌に聞き入りました。その横にジャック・カネティ(ピアフ、トレネ、アズナヴール、グレコ、ブラッサンスなどを発掘した名プロデューサー)がいて、彼女に「ジュリエット、興味あるのかい? 彼の名前はブレル、ベルギー人だ。オーディションするよ。一緒に見よう」と言いました。
 これがジャック・ブレル(当時25歳)とジュリエット・グレコ(当時27歳)の出会いでした。ブレルは無名でしたが、グレコは既に「サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ」であり、オランピアでショーを打ち、国際ツアーにも出ているスターでした。
 オーディションの末、グレコはすぐさまこの曲「悪魔(万事良好)」を「私がいただくわ!」と申し出ました。「当時彼にはこの曲を成功させる手だてはなかったけれど、私にはあったのよ」(2013年10月28日、ル・モンド紙掲載のヴェロニク・モルテーニュによるインタヴューでのグレコ談)。

 「でも他の曲は全部あなたが歌うのよ」と私は彼に言った。彼はこのことを一生忘れなかった。この日から彼の死の時まで、私と彼は愛し合っていた、直立の恋として。」
      (同インタビュー)

 昨日雑誌原稿を準備していて、ここまで書いて、私は筆が止まってしまいました。この "Amour debout”というグレコの表現をどう訳したものか、どう説明するべきか、と頭を抱えてしまったのです。"Amour debout"(立ったままの愛)とは、"amour couché"(横になった状態の愛)ではない、ということだと理解はできます。つまり一緒に横になったりはしない、ベッドを共にしたりしない、プラトニックな恋愛であった、ということなのでしょう。しかしこれを「プラトニック」と訳してしまうと、この "debout"の含意する潔さ、折り目正しさ、凛とした姿勢みたいなものが消えてしまうのではないか、思ったわけです。グレコは恋多き女性でした。ブレルもまた恋多き男性でした。これを「アーチストだから」という月並みな理由で説明するつもりはありません。しかしこの偉大なアーチストふたりが、出会ったとたんお互いに「この人には触れたらいけない」という別格・別次元のリスペクトと愛を直感したのではないか、というのが私の(過剰な)解釈なのでした。
 "Amour debout"、直立の恋、なんと美しい表現なのだろう、としばらく感動しておりました。

 しかし、フランス語というのはそんな感動をかき消すように...。グレコの表現とは全く関係がないと断言しておきますが、辞書やインターネットで "amour debout"という言い方を調べていきましたら、"faire l'amour debout"というのにぶつかりまして...。この表現になっちゃうとですね、立った状態で愛情交わりをすること、つまり性体位のひとつで「立位」と呼ばれるセックスをすることなんですね。こうなっちゃうと、私の心はぐじゃぐじゃになってしまうのですよ。一日を棒に振った感じ。

(↓ジュリエット・グレコ「悪魔(万事良好)」1954年)

 

2013年10月29日火曜日

ジャンヌ・モロー、プッシー・ライオット救援に立ち上がる

私の歳ではもはやバリケードの上に登り立つことはできないけれど、私の憤激を表現するために私は声を出すことした。できるだけ多くの人たちにこの声が届いてほしい。この若い女性の身に起こっていることを告発するために。彼女の命は危機に瀕している。
 女優ジャンヌ・モローが、モルドヴィア共和国(ロシア連邦)にある強制労働収容所に収監されているプッシー・ライオットの救済のために、フランス国営ラジオFRANCE CULTURE(フランス・キュルチュール)の電波を使って、囚われの二人のひとり、ナジェージダ・トロコンニコワの獄中からの手紙をフランス語で読み上げます。彼女のメッセージは10月30日水曜日の正午(フランス時間)に全文モローの声で紹介されます。またこのメッセージ放送を録画したヴィデオが、インターネットニュースサイトであるメディアパルト(Médiapart) で公開されることになっています。
 プッシー・ライオットの事件に関しては、私のブログでも2012年8月31日に「女性器の反逆と書いてプッシー・ライオット」という記事で紹介しました。
 ナジェージダ・トロコンニコワは23歳で、一児の幼い子の母親。2012年2月21日に、モスクワのロシア正教・聖救世主教会大聖堂で「プーチンを放逐したまへ」と祈るパフォーマンスを行ったために、2年間の強制労働刑の判決を受け、収容所で服役していますが、その極度に非人間的な刑務条件(1日に16-17時間の労働、6週間に1日だけの休日...)に生命の危険を冒しながらハンストを挙行、強制的に病院に収容されたものの、牢獄に戻されてから、再びハンストに入っています。

 この記事の続きはジャンヌ・モローの放送のあとで書きます。
 
  (↓ナジェージダのハンストを報じる 9月23日のEuronewsの映像)



追記:10月30日
(↓ナジェージダ・トロコンニコワの手紙を読み上げるジャンヌ・モロー。10月30日フランス国営ラジオFrance Culture で放送されたものです。)


追記:10月31日
ジャンヌ・モローが読み上げたジェージダ・トロコンニコワの手紙の一部を以下に訳します。訳出したものの原文(仏訳文)はラジオFrance Culture のインターネットサイトのここにあります。

「最良の場合睡眠時間は4時間とれる。誰もそれに逆らおうとはしない。私たちのひとりを医師が手当しようとすると、他の受刑者たちが医師に襲いかかっていく。この所内秩序を確保するために、公にすることができない懲罰の数々(例えば、シャワー室や洗面所や食料庫への出入りの禁止)が制度化されている。」
「女たちは尻や顔や頭を打たれる。この収容所では、受刑者たちによる集団暴行は収容所管理局の許可のもとに行われている。」
「私は受刑者たちが極度の衰弱の末に倒れていくのを黙って見逃すわけにはいかない。私は人権の尊重と、この奴隷制度の廃止を強く要求する。」

インターネット・ニュースメディアであるMEDIAPARTの10月30日の記事では、数日前から身内にすらも彼女の収監場所、その境遇、その健康状態に関する情報が全く途絶えている、と書かれています。




2013年10月24日木曜日

ミッキー・ベイカー(1925-2012)はフランスで死んだ。

Mickey Baker "Mickey Baker Plays Mickey Baker" + "Mickey Baker Joue La Bossa Nova"
ミッキー・ベイカー『1962年フランス録音集』

 ミッキー・ベイカー(1925年ケンタッキー州生れ、2012年トゥールーズ没)の、1960年フランス移住後の仏ヴェルサイユ・レコードに録音した2枚のアルバム "MICKEY BAKER PLAYS MICKEY BAKER""MICKEY BAKER JOUE A LA GUITARE BOSSA NOVA"(共に1962年録音)とシングル盤ESPERANZA"(仏オデオン1962年)を加えた25CDです。
 両親に見捨てられて孤児院で育ち、42年にNYCに出て石炭運搬人などの職を転々として47年からアポロシアターの楽屋に入り浸るようになり、ミュージシャンを志します。最初はトランぺッターにと思ったんですが挫折、次いで中古のギターを買って日夜練習しまくること3年、当時流行のビバップ楽団ジミー・ニーリー(Jimmy Neely)オーケストラに入団、53年からはNYCの録音セッションギタリストとして、エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ、リトル・ウィリー・ジョンなどの録音に参加。平行してRB女性歌手シルヴィア・ヴァンダープールとのデュエット・チーム「ミッキー&シルヴィア」として自作曲を歌って成功していき、その中にかのミリオンヒット"LOVE IS STRANGE" 1956年。ボ・ディドリー作)があります。 
  で、その後のシルヴィアの結婚ということが大きな原因なんでしょうが、かなり音楽家として成功していたのに、1960年、アメリカを去ってフランスに渡ってしまう。親友メンフィス・スリム(1915-1988)がフランスに来いよ、と誘っていたという説もあります。このILD盤の解説をILD創始者のイヴ=アンリ・ファジェ翁が書いていて、それによるとアメリカのショービジネスの極端な金儲け主義と、ヒットと成功の度にぶつかる人種差別の問題に辟易してしまったのだ、としています。そういうアメリカ黒人のアーチストがいっぱいフランスに来ました。上のメンフィス・スリムだって、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスだって、古くはジョゼフィン・ベイカーやマイルス・デイヴィスもその例でしょう。
  仏オデオンと独占契約をしたミッキー・ベイカーは, 新進のロック歌手ビリー・ブリッジ(こういう源氏名ですがフランス人です)のギタリスト&編曲者としてダンス「マジソン」を大ヒットさせます。その他ロニー・バード、フランソワーズ・アルディ、シルヴィー・ヴァルタンなど、イエイエの人気歌手たちから引っ張りだこのギタリストになってしまいます。のちにフランスの戦闘的ブルース歌手として知られることになるコレット・マニー(1926-1997)の唯一のヒット曲「メロコトン」にもギターで参加しています。そしてナンタル、ゴヤ、1964年から67年にかけて、シャンタル・ゴヤの編曲家プロデューサー(何曲かの作曲も)となり、ゴヤを主役にしたゴダール映画『男性・女性』(1966年)ではミッキー・ベイカーがレコードプロデューサー役で出演もしているのです!
(↓ゴダール『男性・女性』このYouTube30秒めから57秒めに出て来る指揮振りのおじさん

  イエイエ世代のマスト雑誌「サリュ・レ・コパン(SLC)」の社長ダニエル・フィリパキ(元々はジャズ評論家)の依頼でベイカーはギター教則本("La méthode de guitare SLC" = サリュ・レ・コパン流ギター教本 )を出版するのですが、これが若いギタリストたちの聖書と化してしまうのです。という具合にフランスのショービズ界にも溶け込んでしまったのですが、やはりアメリカでもそうだったように、フランスのショービズにも辟易してしまって、後年ブルースに戻っていきます。78年には来日して高円寺「次郎吉」で吾妻光良らとプレイしたそうです。 - - -   
  だからと言ってブルースアルバムを期待されては本当に困るんですが、アメリカのコレクター諸氏にもあまり知られていなかったフランス62年録音の2枚です。1枚め(112曲め)の方はブルースともジャズとも距離があるエレキ・インストアルバムです。パーティーでジルバを踊るために作られたような。オルガンとピアノにジョルジュ・アルヴァニタス、トランペットにロジェ・ゲラン、ベースにミッシェル・ゴードリー、ドラムスにダニエル・ユメール等々、当時のフランスジャズ界の錚々たるメンツが参加してます。2枚め(13曲め以降)はおそらくフランスで最初の「ボサノヴァ」録音だそうです。パーティーでボサノヴァって新しかったんでしょうね。こちらもオルガン&チェレスタでジョルジュ・アルヴァニタス、コントラバスにピエール・ミシュロなどが参加しているのに加えて、後年にクラシック・フルートの世界的なスターとなるマクサンス・ラリューの名前も。ま、全体的に軽めのヌーヴェル・ヴァーグ映画のサントラのようにも聞こえる若年寄&腕達者インストばかりの25曲です。ILDですから。

<<< トラックリスト >>>
1. ZANZIE
2. OH YEAH, AH, AH 
3. DO IT AGAIN 
4. NIGHT BLUES 
5. FUGUETTA BLUES 
6. DO WHAT YOU DO
7. NO NAME 
8. BAKER'S OTHER DOZEN 
9. GONE 
10. MISTER BLUE
11. STEAM ROLLER
12. BABY LET'S DANCE
13. DESAFINADO
14. DORALICE 
15. O BARQUINHO
16. PARISIAN HOLIDAY 
17. TING TOUNG 
18. ESO BESO 
19. CHEGA DE SAUDADE 
20. SAUDADE DE BAHIMA 
21. DECADO 
22. MEDITACAO 
23. SAMBA DE UNA NOTA SO
24. BRASILIAN LOVE SONG
25. ESPERANZA

MICKEY BAKER "MICKEY BAKER"
CD ILD 642332
フランスでのリリース:2013年10月

(↓上の1曲め、ミッキー・ベイカー「ザンジー」)

 

2013年10月20日日曜日

昔の人は「デバート」と呼んでいた。

『人喰い鬼のお愉しみ』(ちょっとひどい邦題)
"Au Bonheur Des Ogres" 2012年フランス映画
監督:ニコラ・バリー

原作:ダニエル・ペナック
主演:ラファエル・ペルソナーズ、ベレニス・ベジョー
フランス公開:2013年10月16日

 1985年刊行のダニエル・ペナックの同名ベストセラー小説の映画化。85年ですよ。あなた何してました?物語の中核のひとつが爆弾テロです。デパートでの爆弾テロ。85年でも社会的大パニックの大事件でしたが、それを題材にしてこういう小説が成立したというのは、まだ一種のフォルクロール(どう訳してみたらいいかな、民衆娯楽とでも言うのかな)として見ることができたような余裕があったんでしょうね。2013年的今日では、一切の冗談が差し挟めないような主題ではないですか。ですから、これを2013年的今日にコメディー映画として提出するのは、メチャクチャなリスクじゃないですか。この辺で、この映画の無謀というのは評価してもいいと思う一方、やっぱり無茶じゃないかな、という気もします。
 85年ですよ。この国の大統領はミッテランという名前でしたし、失業なんて全然大した問題ではなかったんです。携帯電話など存在すら夢見ることができなかったし、パソコンなんてオフィスでも珍しい時代だったんですよ。その時代のエポックメイキングな小説、ある種メモワール・コレクティヴ(共有的記憶)である小説、つまり多くの熱心なファンが筋を暗記してしまっている小説を、2013年的今日に置き換えて映画化しているのです。このデカラージュ(差異、時差)はすさまじいものがありますが、映画の側にとってはそれが最初からのエクスキューズとなっている部分もあります。
 当然あの頃にはない携帯電話もノートパソコンも防犯ヴィデオカメラ(婦人下着売場の試着室までついている)も重要なファクターとして映画の中でハバを利かせていますし、爆弾テロは当時よりも数段手の混んだものになっています(が、コメディー映画ですから、奇想天外であまり罪のない描かれ方です)。問題は舞台である百貨店、仏語のグラン・マガジン、英語のディパートメントストア 、日本語のデパート、これが一般市民にとって85年と今日では企業イメージや存在感が大きく、大きく変わってしまったということだと思います。85年とは言わず、「その昔は」と言ってしまえば、デパートは多くの一般市民にとって夢の場所でした。欲しいと思うあらゆるものがある、というだけでなく、それが美しく陳列されている、売り子さんはみんなきれいで親切な言葉を使う、売場装飾や照明だけでも幻惑されてしまう、おまけに吹き抜けに仰ぎ見るドーム天井の美しさよ、われわれ小市民は金がなくても、何も買わなくても、デパートに行けば幸せだったのですよ。その小市民消費者の幸せがなんらかの不具合(たとえば買った商品が欠陥品だったり)のせいで壊された時、その怒りは並大抵のものではないのです。
 ペナックの原作の天才的なアイディアはここで、小市民の怒りを挫くのです。デパートの信用に傷がつくようなあらゆるクレームを封じ込める係を創出したのです。「苦情処理係」なんていう生易しいものではない。「完全封じ込め 」なのです。これはペア(二人組)で機能します。まずそのデパート(オ・ボヌール・デ・パリジアンという長い名前。ABDP)には建前上の「商品苦情受付室」があり、そこの課長が毎日怒り心頭で飛んで来る客の商品苦情を受け付けています。客のおさまらない怒りを見るや、店内放送で品質管理責任者たるバンジャマン・モロセーヌ(演:ラファエル・ペルソナーズ)を呼びつけます。(役職名は"contrôle technique"=技術管理係というものですが、こういう職名は何でも屋を意味します。私も3年間勤めたフランスの運送会社で "technico-commercial"というポストにありましたが、入社した時にこの職は何かと質問したら何でも屋だと言われました)。すると怒れる消費者の目の前で、課長はモロセーヌに「こんな不良品を売りつけるとは、おまえの品質管理は一体どうなっているんだ!」とあらゆる言葉を使ってその無能をなじり、罵倒し、最低の屈辱を味わわせ、モロセーヌはひとことも言い訳も抗弁も許されず、涙まで流してその屈辱に堪えるのです。ひとしきりの罵詈雑言が終わると、課長は客に向き直って「この責任はこの不徳の社員を徹底的に裁判訴訟までして、一生かけて償わせますから、こちらの訴え状にご署名お願いいたします」と書類を差し出すと、客は「何もそこまでしなくても... 」と怒りが萎え、モロセーヌに憐憫の情まで抱くようになって、苦情を取り下げて去って行く、ということになるのです。
 この技術管理係という名の「ののしられ役」をモロセーヌはプロの職業としてやっています。彼によると本当の職名は "bouc émissaire"(ブーク・エミセール、贖罪の山羊、スケープゴート)であり、無い罪を負わされて殺されるという役割なのです。この職を発案したのがこのデパートの先代社長で、職能には乏しいが気の弱さは百人前というモロセーヌにうってつけ、とかれこれこの非人間的な職業を数年続けています。仕事の割によい給料を保証している、とデパート側は言います。こんな屈辱的な仕事になぜ耐えているかと言うと、バンジャマンには養うべき5人の義理の弟たち妹たちがいるからなのです。 バンジャマンを含めた6人の母親は同一なのですが、父親はすべて違う。言わば、恋多き女性なのですが、恋して子供を産むのが好きで生きている自由人で、いつも不在で(つまりいつも恋していて)子供たちを長兄のバンジャマンに任せっぱなしです。しかしこの兄弟姉妹たちはみんなお母さんが大好きという一家なのです。
 このパリ20区のベルヴィルに住むモロセーヌ一家を描く連作小説をダニエル・ペナックが次々に発表してベストセラー作家となるわけですが、この『人喰い鬼のお愉しみ』がその第一作なのです。ミステリー小説です。クリスマス商戦を迎えたパリの百貨店「オ・ボヌール・デ・パリジアン」に起こる連続爆破事件。しかもその爆破事件の現場には、必ず社員のバンジャマン・モロセーヌがいる。そして先代社長時代に起きた幼児蒸発事件。それを追っているのが、人呼んで「ジュリア・おばちゃん」という万引きが趣味という女性ジャーナリスト(演:ベレニス・ベジョ)。デパートの過去の記憶を持っている人間が次々に殺されていく。果たして犯人は、現社長サン・クレール(演:ギヨーム・ド・トンケデック)か、ミステリアスな元デパート守衛で今のデパートの地下に住むストジル(演:エミール・クストリッツァ。ちょっとミスキャストのような気がする)か、はたまた警察が最初から第一容疑者と目星をつけているバンジャマン・モロセーヌその人なのか...。

 「こんな絵柄のパジャマを着た男に殺人などできるわけがない」と警察は見抜きます。バンジャマン・モロセーヌの着ているもの&着方はどれも滑稽です。髪型もヒゲの伸び方も情けない顔もすべて滑稽です。これはラファエル・ペルソナーズ(1981年生れ。32歳)というアクターにモロセーヌのキャラがドンピシャにはまったということでしょう。ペルソナーズはバイオによると演劇出身で、結構下積みが長く、いろんな役こなしてきてますね。日本では2013年公開の映画『黒いスーツを着た男』 (あまり話題にならなかったようですね)で、ひたすら二枚目(この種の新人が出て来ると日本では必ず「ドロンの再来」とレッテル貼りますね)、というような紹介のされ方でしたが、ああやだやだ。
 バンジャマン・モロセーヌが、幼い(&あまり幼くない)弟たち妹たちを寝かせつけるために、毎晩アドリブ創作の物語を聞かせてやるのです。弟たち妹たちはそれが毎晩の楽しみで、熱心に聞くだけでなく、いちいちああでもないこうでもないと批評もしたりするもんだから、このワクワクの物語は奇想天外に雪だるま式にふくらんでいきます。これは今バンジャマンの勤めているデパートで起こっていることをベースにした空想冒険物語になるのですが、爆破事件や犯人探しの追いかけ劇に混じって、巨大なキリンがデパートの中に現れてデパートは大パニック、そこにおにいちゃん(=バンジャマン)が颯爽と現れて、「こら、そこのキリン、止まれ、そして俺の言うことを聞け!」と誰にも解せない言葉で命令して、まんまと手懐けてしまう。おにいちゃんはデパートの英雄となって、めでたしめでたし  -   みたいな話を(もちろん映画ですから、その物語はイメージ化して映されます)するときのラファエル・ペルソナーズの紙芝居屋みたいな顔百面相と名調子、すばらしいです。この役者、ずっとこのパターンで成功して欲しいです。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"Au Bonheur des Ogres" 予告編 

2013年10月16日水曜日

(This is not a) Love Song

Philippe Djian "Love Song"
フィリップ・ジアン『ラヴ・ソング』

 フィリップ・ジアン(1949 - )は往々にして「フランスで最もアメリカ的な作家」と称されます。それは2年前にジアンの前々作『復讐』をここで紹介した時に述べました。私が読み慣れた20-21世紀のフランスの作家たちとは明らかに違う、動的で映画シナリオ的でエンターテインメント性に富んだ筆致が特徴的な作家です。ゆえに「ポップで軽め」と見なされる傾向があります。この新しい小説もポップ・スターが主人公で、タイトルが『ラヴ・ソング』ときてますから、軽視されてもしかたないような外観・外装ではあります。
 この小説には「殺し」があります。主人公が自ら手を下す場合と、彼が殺人者を使って遂行する場合があり、前者は未遂、後者は完遂しています。ジアンの場合「殺し」をクライマックスに持ってきたり、「殺し」を物語の進行上の大転機にすることになりますが、なにかゲーム上での事件のように、「殺す」「死ぬ」ということへの頓着が少ないのです。(かの『37,2(ベティー・ブルー)』でも殺してますでしょ。)
 ダニエルは53歳のメジャーのポップ・シンガー・ソングライターですが、かれこれ30年に及ぶ 第一線でも活躍で、世界的にも評価が高く、ヨーロッパ、北米、オセアニア、アジアなどで世界ツアーを敢行できるほどのスター・アーチストでした。「でした」と過去形で書きましたが、現役です。ところが、ダニエルだけでなく、この世界の現役はみんな苦境に立たされている。これを書いている私はその内部の人間のひとりなので、この説明を書かせたら何十ページだって書けるほど言いたいことはあるのですが、ま、要は音楽業界が20年前とはガラリと変わってしまったということが、この小説の土台になっている暗い状況なのです。ジアンは自ら90年代のメジャーレコード・レーベル、バークレイの看板スターのひとりだったステファン・エシェールの作詞家として、エシェールの栄光の時代と、昨今の苦境を内側から知っている人間という自負があります。変わったのはアーチストではない、音楽産業、すなわちレコード会社が変わってしまったのだ、という憤りがあります。そのことをこの小説の刊行時の種々のインタヴューでジアンは言いたい放題言ってました。レコード会社はその魂を遥か遠方におわす(音楽など何も知らぬ)株主たちに売り渡し、その結果「音楽」ではなくまず第一に「利潤」を作るための組織に変わってしまった、という論です。ダニエルは十数枚のアルバムを世に出し、その流行り廃りの波を越えて、第一線アーチストとしての地位を確保してきました。ところが、今制作中の新アルバムに関しては、そのデモ録音に関してレコード会社ディレクターが注文をつけるようになったのです。「こんな陰気な歌ばかりでなく、2曲は陽気な歌を入れてくれないか?」すなわち「売れ線の曲」を作ってくれないか、という意味です。
 この悪魔の手先と化したレコード会社の制作ディレクターがジョルジュという名の男なのですが、ジョルジュにしたって(レコード会社と同じように)以前はこんな男ではなかった。スタジオやツアーで寝食を共にし、そのインスピレーション探しに共に世界中を駆けずり回り、アーチストを物理的にも心理的にもサポートしてやる公私ともの密着パートナーであり「親友」でもあった。ダニエルのレコードは調子良く売れ、ジョルジュはレコード会社内でどんどん昇格していき、買収や再統合でコロコロ変わっていく上層部(社内にいない出資者)にも信頼が厚く、ダニエルの売上で豪邸を構えた。この小説の中で悪玉がいるとすると、このジョルジュひとりだけなのです。それは腐敗した音楽産業のシンボルである上に、卑劣漢なのです。ところがダニエルはこの男と仕事を続けていくしかない、というジレンマがあります。私のような業界内部の人間にしてみれば、だったらメジャーを離れて独立レーベルで男を上げてみろ、と茶々を入れたい部分でもあります。
 しかし、ダニエルが昨今曲作りのレベルで不調で、陰気な歌しか書けなくなっているのは別の理由があるのです。20年間連れ添ってきた妻のラシェルが不倫をして出て行き、もう8ヶ月もラシェル不在の状態が続いている。 しかもその相手はダニエルのバンドのミュージシャンのトニーで、ダニエルはこの男をミュージシャンとしても人間としてもBクラスと思っていただけに、この不倫は不可解だった。しかし不倫という点では、ダニエルにも「前科」はあり(そりゃあトップクラスのアーチストですから、という理由にならない理由もあり)、20年寄り添っていた夫婦には並にありそうな関係があちこちに。そのひとつもきっかけになって、2年前、ラシェルは携帯電話を耳にあてて車を片手で運転中、突然出て来た犬を避けようとして、通行中のラシェルの弟のワルテール(ダニエルの秘書アシスタント)を跳ね飛ばし、沿道の木に激突したワルテールは背骨を破壊されてしまい、その上ラシェルは対抗から現れたトラックに体を引っ掛けられ、数百メートル走行してひきずったあと、彼女の両脚を轢いてしまいます。
 この大事故は姉弟の運命を変え、特に20年前から秘書としてダニエルの手足となって働いていたワルテールは脊椎に異常をきたし、失敗すれば全身不随という大手術を受けることになります。事故以来ダニエルが欠かさずマッサージを施してきたラシェルの傷跡だらけの両脚も良くならず、杖の人になってしまうのですが、それでもその後でトニーと愛人関係になるのです。
 ジアンの小説ですから、いつものようにたくさんのストーリーが詰まっています。上に書いてあるのは、小説の中頃から分かってくる付帯状況を説明してしまっているのですが、小説の本当の始まりは、8ヶ月の不在の果てに、ラシェルがトニーと別れてダニエルの家に帰ってくるところなのです。そしてダニエルはレコード会社から芸歴上初めての「NG」を喰らい、アルバムの作り直しをしているのです。
 物語は序盤から複雑化していき、ラシェルはトニーと破局したものの、トニーとの子を妊娠している(と最初は告白されるものの、小説後半でそうでないことが判明する)のです。そしてそのトニーは、日本の楽器会社からのスポンサー贈呈のピアノをダニエルのスタジオに搬入する途中、ダニエルが足をすべらせた拍子に搬入業者がバランスを崩し、ピアノに潰されて死んでしまうのです。ラシェルはこれをダニエルが故意に起こした事故という疑いをず〜っと持ち続けるのです。
 長い躊躇と夥しい量の(ちょっと不毛な)ダイアローグの末、家に戻ったラシェルとダニエルは再び男女の欲望を取り戻し、表面上の和解を果たします。長い間ラシェルと愛情を交わし合い、子作りの努力もしていたのに、遂にそれが果たせなかったダニエルが、愛人の子を宿った妻と、その生まれて来る子を自分の子として受け入れられるか、その葛藤は凄まじいものなのですが、これをダニエルは止揚してしまう、乗り越えてしまう。ここでラシェルへの愛の歌(まあ、つまり、ラヴソング、というわけですな)が生まれることになるのです。レコード会社ディレクターのジョルジュは大喜び。傑作、ヒット間違いなし。小説中盤ぐらいで、なんだこの陳腐な落とし前は、思ってしまいますよ。
 最初の殺しは、ワルテールの脊椎の大手術に関係したことで、ダニエルのすべての仕事のオーガナイザーであり相談役であり弟分でもあるワルテールとダニエルの間で、この手術が成功せずにもしも全身不随の状態で存命したら、ダニエルの手でその命を断つ、という約束がなされます。手術後ワルテールの全身マヒ状態は直らず、兄弟仁義的な男の約束を果たすべく、ダニエルは車椅子のワルテールを病院からワゴン車で森の奥まで連れていき、ナイフで刺殺しようとするのですが、その刺さりどころが脊椎を刺激して.... そのショックでワルテールは全身不随状態から脱するのです! うっそぉぉぉぉっ!という展開ですが、この辺がジアン一流のエンターテインメントでして。
 ラシェルが8ヶ月の不在の間、ダニエルの欲望のはけ口としていた元ミュージシャン(ドラマー)でジャンキーで年増のコール・ガール、アマンダも魅力的な人物として描かれています。これもジアンにはおなじみの男にとって都合のよい女性像なんですが、ラシェルと復縁した後、ダニエルは麻薬のために病弱化していくアマンダを、あらゆる手段を使って(超高額の医療施設を使ってということです)救済していきます。ここでジアン小説にはいつも重要なファクターである無頼で堅固な「友情」が 確立していきます。この小説で善玉はただ二人、 ワルテールとアマンダなのです。かと思えば友情も愛情も疲労してしまっている医師ジョエルとその妻キャロのような登場人物もあり、その描き方のコントラストが映画的隠し味のようで妙です。
 かくしてラシェルから女児ドナが生まれます。果たしてダニエルは初意を貫いて「ドナの父親」として生きることができるのでしょうか?
 ここで第二の殺しがあります。殺されるのはレコード会社ディレクターのジョルジュ。最初から悪玉として描かれているので、さもありなん、という感じもしますが、なぜ、というのは.... ダニエルがドナの父親はトニーではなく、ジョルジュだということを知ってしまったからなのです。 ラシェルは20年前にダニエルと結婚した頃から、ジョルジュと関係があったということを知ってしまったからなのです。

 なぁ〜んだ、これは!

 そして故ジョルジュの飼い犬(雌犬)ジョルジアが誰も住む人のいなくなったジョルジュの豪邸で野犬化していくのを見るとき、(もう詳しくかいつまんでは説明しませんが)ああ、これがあの時の犬だったのか、というのもわかってしまう。もうゴッチャのストーリー詰め過ぎですよ。こうしてダニエルの「ラヴ・ソング」は歌になっていくのですが、この小説からはほとんど何も音楽なんか聞こえて来ないのです。

Philippe Djian "Love Song"
(Gallimard 刊  2013年9月。236ページ。18,90ユーロ)





↓ラジオEurope 1で小説『ラヴ・ソング』に関連して、「今日のレコード会社は音楽を愛していない」と述べるフィリップ・ジアン

2013年10月1日火曜日

太陽を直視する



デトロワDétroit : ベルトラン・カンタ vo. g. + パスカル・アンベール cb)、2013年11月18日発表のアルバム "HORIZONS"から。"Droit dans le soleil".

来る日も来る日もそのシーンを撮り直すんだ
Tous les jours on retrourne la scène
闘技場の真ん中にいる獣のように
Juste fauve au milieu de l'arène
諦めるんじゃない、試みるんだ
On ne renonce pas, on eaasie
太陽を直視することを...
De regarder droit dans le soleil...

2013年9月24日火曜日

アメリー・ノトンブ『二つの水源に培われた生』

 アメリー・ノトンブ『二つの水源に培われた生
2012年フランス国営テレビFrance 5制作のドキュメンタリー50
分。
この経緯は最新小説『幸福なる郷愁(La Nostalgie Heureuse)』で展開されており、当ブログのここで紹介されています。

(↓)仏デイリー・モーションの再録された動画です。

2013年9月21日土曜日

オン・ザ・ロード・アゲイン

ドヌーヴの勝手に逃げろ(という邦題を提案したい)』2013年フランス映画
"Elle s'en va"
(日本上映題『ミス・ブルターニュの恋』)

監督:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ネモ・シフマン、ジェラール・ガルースト、カミーユ
フランス公開:2013年9月18日


 っけからこんなこと言ったらナンですが、この人、何歳だと思います? - 1943年生れ。これを書いてる時点で言うと、もうすぐ70歳になられます。言うまでもなくこの方は20世紀フランス映画のイコンです。もとい20世紀映画の大文字と定冠詞つきの一等賞女優そのものであります。モニュメントであります。そのモニュメントに対して、「あんた本当は何歳なんだい?」と若い男が聞くシーンがあります。
 ディープ・フランス、ブルターニュの内陸部の村におそらく一軒しかないファミレス兼バー兼ディスコ兼ゲームセンターに迷い込んだベティー(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、土地の風来坊マルコ(ポール・アミ。ワイルドなダメ男風貌+5日髭で、獄中時代のベルトラン・カンタによく似ている)にしこたまアルコールを飲まされて、朝目が醒めたら、ホテルのダブルベッドで男と裸で寝ている、という具合。朝食をトレイに載せて持ってきたマルコに、一体昨夜何があって、どうしてここにいるのかの一部始終を聞いて、そんなバカな、と愕然とするベティー。「あんた本当は何歳なんだい?若かった頃はきれいだったろうなって想像しながらあんたとセックスしてたんだ」なんてことをこの田舎の若造が言ってしまうのですよ!ええい、控え居ろうっ!ここにおわすお方をどなたと心得る! 天下のカトリーヌ・ドヌーヴなるぞ...。....ではないのですが、この映画では若い頃はとびきりきれいだった女で、1969年の「ミス・ブルターニュ」に選出されたということになっています。
 これまで汚れ役やお笑い役がなかったわけではないのに、「美人」「大女優」の看板が邪魔して、何やっても硬質で、理知的で、元・お嬢さん的で、ブルジョワ的で、体感温度低めで、というイメージがあった人です。まあ、それを本人も気にしていたようです。
 カトリーヌ・ドヌーヴは変わった。老いたし、体重も増えた(体型はずいぶん変わった)。しかし、今この大女優がありのままで出てきても、多くの人は、やっぱり幾多の輝かしい過去を背負った大女優の姿を見てしまうでしょうね。
 映画の最初の舞台はブルターニュ地方の漁港の町コンカルノーです。ベティーは母親と二人暮らしで、レストランを経営していますが、このレストランが今や経営破綻状態です。おまけに30年来愛人関係にあった妻ある男エチエンヌ(画面に登場しない)が他の若い女のところに逃げてしまいます。ベティーはその夜、長年やめていたタバコを深々と吸ってしまいます。す〜〜〜〜っ... ふぅぅぅぅぅ〜〜〜〜っ....。なんとおいしそうにタバコを吸う大女優でしょうか。21世紀になってから、フランスではタバコは社会悪のチャンピオンの座にあり、テレビや映画からどんどんシャットアウトされてきました。ところが、この映画はこの瞬間から「タバコへのオード」とでも言うべき、タバコによる恵みと救いがサブ・テーマのように随所に登場します。私は元・スモーカーですから、この救いは実体験としてわかってしまう部分があります。そもそもタバコは南米古代マヤ文明の沈痛薬・悪霊祓い薬として使われていたそうですから、歴史的に長い間これは痛みや悪から救ってくれるものだったはずでしょう。
 倒産の危機&愛人の離反という目の前真っ暗な事態に、ベティーはタバコでいっときの落ち着きを取り戻すのですが、タバコが切れた時点でパニックはまたやってくるのです。つまり長年やめていたタバコに手を出したその時から、ベティーは仮性「モク中」に陥ってしまったのです。レストランの昼の営業中、この女主人は「ちょっと出て来る、すぐに帰ってくる」と言い残して、ベージュ色のメルセデス・ベンツ・ブレーク(90年代ものでしょう)に乗り込み、さまざまな暗澹たる思念に涙しながら、タバコを買いに出かけるのです。こうしてこのロード・ムーヴィーは始まります。
 ところが2013年的今日、タバコを買うというのは大変なことなのです。場所はフランス深部、時は日曜日、開いているタバコ屋などあるはずがない。ベージュのベンツは出発点からどんどん遠ざかっていきます。その道々でベティーはさまざな人(一人暮らしの手巻きタバコの老人、深夜のショッピングセンターのガードマン、バーのテーブルの一角を占拠している気のいいレズのお姉さんたち、そして上に述べた若い風来坊...)と遭遇して、相手の身の上話を聞いたり、自分の身の上のあることないこと(かなりデマカセを言うこともある)を話したりということで、自分が抱えた山ほどの厄介ごとから少しずつ離れていくのです。
 という老女の家出行が軌道に乗り始めた頃に、普段全く音信のなかった娘ミュリエル(カミーユ!怪演!)から携帯電話にメッセージが入ります。夫を失い、女手ひとつで息子シャルリー(ネモ・シフマン。これまた怪演)を育てていますが、ずっと失業中だったミュリエルにやっと就職のチャンスが見つかり、明日面接という時に、息子シャルリーの夏ヴァカンスの世話を見なければならず、困り果てているから(普段には嫌っている)母ベティーにSOSを発信。すなわち、息子を亡夫の父のところでヴァカンスを過ごすために、そこまでベティーに送り届けて欲しい、と。普段にはあり得ないこの娘の願いをベティーは受け入れ、ここから第二のロード・ムーヴィーが始まるのです。
 ベージュ色のベンツはブルターニュからマイエンヌ地方に入って、娘の家でシャルリーをピックアップし、進路を南東に取り、ローヌ・アルプ地方までの長い旅路に出ます。ところが、このシャルリーという少年が、母親(ミュリエル)似の手に負えない120%自己主張の子である上、120%情緒過敏な子なのです。道中はトラブルが絶えませんが、始終ベティーは「いいおばあちゃん」であり続けます。しかし、突然に(ベティーのレストランの経営破綻の結果として)彼女のクレジット・カードが支払い停止となり、支払いが出来ないばかりか、現金引き出しも拒否されて、高速道路上のサービスエリアでベティーは一文無しになってしまいます。金もない、食べるものもない、タバコもない。シャルリーは役立たずとなった祖母に反逆し、車を降りてひとり逃走し、映画は最大の窮地に陥ります。はらはら、ドキドキ。
 美は危機を打開する。上にちらりと書いたように、ベティーは1969年度の「ミス・ブルターニュ」に選出されるほどの美人であった。その往年のミス・フランスを一堂に集めての写真セッション(チャリティーと化粧品メーカー宣伝の目的で旧ミスばかりで写真カレンダーを作る)が、ローヌ・アルプ地方アン(Ain)県(県番号01。フランス人だったら他の県は知らなくても、誰でもこの県は知っているのです)の湖畔の町の豪華ホテルで催されている。ベティーはその招待をずっと断っていたのですが、(金と食べ物のために)急遽その招待を受諾して、シャルリーを連れて豪華ホテルに乗り込むのです。 ミス・ノルマンディー、ミス・ピカルディー、ミス・ラングドック、ミス・アキテーヌ、ミス・プロヴァンス、ミス・イル・ド・フランス.... たくさんの旧ミスたちとの再会。このシーンは大いに笑えます。しかしみんな美しい。その美しさを人工的に保っている人もいれば、内面から保っている人もいれば... ここは教えられるもの多いですね。
 この写真セッションの虚飾に満ちた世界のストロボ・フラッシュの連続の果てに、ベティーは気を失って倒れてしまいます。その収容された病院に、ミュリエルの義理の父、すなわちシャルリーの祖父であるアラン(ジェラール・ガルースト)が現れます。この男は気難しくも不器用で、シャルリーとベティーの自分の領域への出現を全く歓迎していないような対応をします。しかし.... このアランはスモーカーなのです。ベティーとアランのぎくしゃくした最初の出会いは、一本のタバコの共有です〜っと救われるものがあるのです。
 アランはこのアン県の小さな町 の町長で、折しも地方選挙の真っ最中、「この大事な選挙の時に、あんたたちにかまっているヒマはない」みたいなナーヴァスな態度だったのですが、選挙当日、支持者たちを自宅庭園に招いて昼食会、その料理を(現職レストラン経営者である)ベティーが準備します。そこへ、ベティーの失踪を案じてブルターニュからベティーの母親がかけつけます。その上、就職活動で忙しいはずの娘のミュリエルもやってきます。ミュリエルは積年の恨みをぶちまけるように、ベティーへの悪口雑言(曰く、あんたは自分の夫=ミュリエルの父よりも愛人を愛した不貞の妻・母、娘=ミュリエルを愛したことのない冷血な母...)を衆人に聞こえる大声&早口で超ワイルドに長広舌します(このシーン、本当にカミーユのキャラクターにはまりすぎ)。
 田舎の庭園の大昼食会には、(絵に描いたようなフランスのように)アコーディオンがつきものなのです。そして古いシャンソンがあります。おいしいワインがあります。ここでユートピアが出現してしまうのです。ミュリエルとベティーは和解し、その夜、ベティーとアランは恋に落ちます。なんでや、この結末は,,,,

 これは70歳のカトリーヌ・ドヌーヴだから可能だった映画なのです。シナリオの弱さやこじつけはままあるとしても、この最後の幸せに至るまでの極端な紆余曲折を、ベージュのメルセデス・ベンツとタバコの煙を伴わせて、老いてなお(太ってなお)魅力にあふれたカトリーヌ・ドヌーヴ、地についた人生ひきずったカトリーヌ・ドヌーヴ、恋するカトリーヌ・ドヌーヴとして撮ることができたエマニュエル・ベルコという若い女流監督にシャポー。

カストール爺の採点:★★★★☆

 (↓ "Elle s'en va" 予告編)



PS (2015年1月31日)

この映画に関するカトリーヌ・ドヌーヴのコメント「彼女はすべてを投げ出したんじゃない。全然劇的なものなんかない。でも彼女は行ってしまうのよ。それはね、そういう瞬間だということ。人生において、疲労や怒りのあまり、人はそうしたいと思うことがよくあるわよ。もうたくさん、いち抜けた、ってね。でも結局そういうことって絶対しないのよ。私はそれを実行した人って知らないわ。唯一の例外は、タバコを買いに行くって外に出て、そのまま帰らなかったヴェロニク・サンソンね。」(ローラン・カリュ&ヤン・モルヴァン著 "VERONIQUE SANSON - LES ANNEES AMERICAINES" P14)

2013年9月5日木曜日

渋谷で「見性」するアメリー・ノトンブ

Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
アメリー・ノトンブ『幸福なる郷愁』

 「人が愛するものはすべてフィクションになる(Tout ce que l'on aime devient une fiction)」と小説の第一行は書きます。なにか最初から言い訳しているなあ、と思いました。この人の立場は「フィクション」を書く作家です。彼女が好きなものを追いかけて突き詰めていったら、それは小説になったのです。その最愛の対象のひとつが「日本」であり、ノトンブはこれまで発表した22作の小説のうち、4作が日本と関連しています。愛するがゆえのフィクションなので、誇張やイマジネーションの産物や故意な曲解もまま顔を出し、私には居心地の悪くなるウソっぽい日本が登場します。フィクションですから。
 ノトンブを世に知らしめ、大ベストセラー作家としてメディアに(その奇怪な帽子と共に)登場させるきっかけとなったのが、『畏れ慄いて(Stuppeurs et tremblements)』(1999年)です。ベルギー人女性「アメリー」が就職した東京の大商社ユミモトで、日本人と西欧人の文化摩擦ゆえに社内で忌み嫌われ、苛められ、最後には便所掃除係にまで転落するという小説です。これは1年後の2000年に日本語訳されて作品社という出版社から日本発売されました。また2004年にはアラン・コルノー監督によって映画化されていますが、日本で一般公開はされませんでした。ノトンブはこの小説が日本で出版されたら、この日本社会の暗部の暴露が大醜聞となり、日本とベルギー、および日本と西欧の間に大きな国際問題にまで発展するだろうと思っていました。出版当時ノトンブは「私は日本ではペルソナ・ノン・グラータである」と誇らしげに言ってましたから。
 その翌年2000年に発表された『管の形而上学(Métaphysique des Tubes)』(2011年に日本語訳も刊行) は、彼女が生れ育った神戸・夙川での 0歳から3歳までの記憶をつづったフィクション。0歳から3歳までの記憶を保持しているとは希有な人だと思われましょうが、フィクションですから。日本人として生れ育ったと確信し、乳母ニシオ・サンを自分の理想の母と慕ってきたのに、それが真実でないと知り、3歳で自殺未遂をはかるという小説。そして2007年に発表された『イヴでもアダムでもなく(Ni D'Eve Ni D'Adam)』は、『畏れ慄いて』のユミモトに入社する1年前に、当時21歳の「アメリー」が東京でフランス語を家庭教師していた日本人学生リンリと交際していて、その関係は2年間続くのだけれど、この日本人青年は金持ち(宝石会社社長・ジュエリー専門学校校長の息子)で優しく気立てはよく交際相手としては申し分ないのに、「恋」に至らないというフィクションです。この小説に関してはこのブログのここで長々と論じています。(かなり批判的です)。
 ノトンブにとって最愛の「日本」とそれに関してフィクションしてしまったこの3作の重要な小説を、この新作小説は再検証しようとします。2012年春、アメリー・ノトンブは16年ぶりに日本を再訪します。なぜ「最愛の」と言いながら、16年間も離れていられたのか。まず私の素朴な疑問はこれです。ノトンブが言うように『畏れ慄いて』で日本社会を誹謗中傷した(と取られてもしかたがないことをした)ゆえに、「国際問題・外交問題」を避けるために自粛していたのか。そうではないでしょう。彼女は日本を「熟知」していることを土台に、西欧(ノトンブは誇らしげに "occidentale"と自称します。欧州人 "européenne"とは言いません)と日本の文化の差異と、それによって避けられなく生じてしまう文化摩擦の「生き証人」としてフィクションを書いてきたのです。それそのものが小説の中心的主題ではないにしても、多くの読者たちはノトンブによって「知られざる・意外な日本」を知りました。ところが読者の中には、ノトンブよりも日本を「熟知」している人たちがいたり、私のようにノトンブの「熟知」を疑問視する人間も少なくないのです。私は彼女の日本語理解という点はかなり問題があるのではないか、思っていました。
 おそらくノトンブはボロを出すまいと思っていたところがあると思います。断じて日本熟知者であり続けなければならない。その思いが、今ひとりでのこのこ日本に行ったら、赤っ恥をかくことになる、という恐怖にもなっていたかもしれません。
 そこへ、フランス国営テレビFrance 5から「アメリー・ノトンブと日本」というテーマでもドキュメンタリー映画を制作したい、という申し出が来ます。私はこれはノトンブにとって「渡りに船」のプロポーザルであったと思うのですよ。フランスのテレビの制作スタッフと共に日本に行き、その行状がすべてヴィデオ・カメラに収められ、「ノトンブによる日本」を映像化して、「ノトンブの書いていた日本」が確かに存在したことを証明してくれることになるわけですから。ノトンブの「私の最愛の日本」はここで優れた共犯者を見つけたのです。
 かくして2012年春、アメリー・ノトンブとテレビ局の撮影スタッフは日本に降り立ちます。16年ぶり。それは神戸に生まれてから5歳で日本を離れ、再び21歳で日本に住むという、最初の日本との別れの16年間と一致します。バイオグラフィーから演算すると、ノトンブは28歳で日本を去り、その後16年間一度も日本に足を踏み入れていないということになります。2度めの16年間よりも1度めの16年間の方がずっと辛かった。5歳6歳の時は机の下に隠れて、その失われた庭や音楽を想い、その思い出をよりはっきり再現するために暗闇の中で泣いていた、と言います。そして誰かが彼女を見つけて「どうして泣いているの?」と聞くと、彼女は "C'est la nostalgie(ノスタルジーよ)"と答えていた。彼女が感じた最初のノスタルジーは目を開けたまま泣けるほどの悲しみだったのです。
 日本の滞在は神戸に6日間、東京に3日間。その間撮影スタッフのカメラはアメリーとその夢の国日本を撮り続けます。23年ぶりに訪れる神戸では『管の形而上学』の舞台である夙川に向かいますが、彼女が住んでいた「家」は影も形もありません。1995年の神戸震災で倒壊したのかもしれません。次に「日本人アメリー」の理想の母であったニシオ・サンに会いに行きます。79歳のニシオ・サンは、実の娘から見捨てられ、神戸郊外のごく小さな公団アパートでひとり暮らしをしています。この再会のシーンは当然全員がおいおい泣き出すようなことになるのですが、テレビはしっかり撮影しています。しかしアメリーが5歳の時に無理矢理引き裂かれて別れた「実の母」と思っていたこの老女は、その遠い昔に育てた外人のお嬢さんと、あまり「まともな」話ができないのです。アメリーが「東北大震災の余震が神戸でもありましたか?」と聞くと、「何のこと?」と老女は答えられません。「フクシマのことですよ」とアメリーが言うと、「さっぱりわからない」と取り合いません。これを作者はこの老女の頭が、神戸空襲や神戸大震災などを経験してきたゆえに、もうこれ以上の大惨事を受け入れられなくなっているのだ、と解釈しています。そうでしょうか? 私には別の説明があります。フランスで超有名な大ベストセラー作家が、テレビカメラとマイクロフォンを引き連れて、一人暮らしの老人の貧乏アパートにやってきたら、その人は一体何が話せると言うのですか?目の前にいるテレビカメラが一体私の何を撮ろうとしているのか、どうやって理解できるのですか? テレビカメラの凶暴さ、ということをアメリー・ノトンブは考えたことがあるのでしょうか?
 次に夙川でアメリーが通ったということになっている聖母マリア幼稚園を訪れ、園の人から見せられた70-71年組の集合写真の中に、ふくれっ面をした幼女を見つけ「watashi desu !」と叫ぶのです。それから京都に行き、「バガンと同じほど神秘的で崇高で、ボルドーと同じほど豊かでブルジョワ的で、シアトルと同じほどテクノロジックで混沌とした町」 というノトンブ流の京都講釈があります。
 取ってつけたように(としか私には言いようがない)、一行は「フクシマ」に向かいます。小説の文面では一体どの辺まで行ったのか判然としませんが、あの日から1年と20数日経った東北のあの辺りでしょう、目の前に見える廃墟とそれに集まるサギ鳥の群れなどを、数時間にわたって表敬訪問するのです。
 終わって福島から東京に向かう電車は、チケットを急いで買ったので一行の座席が離ればなれになってしまいます。通訳君(ユメトと名乗る21歳の若者)が乗り合わせた乗客と席交換を交渉しますが、その客は譲らず「席番号を尊守せよ」の一点張りです。ま、こういう日本もある、というエピソードにしたかったんでしょうが。
 翌日4月4日は、この小説で最も出来事が集中した日で、言わばクライマックスです。まず、アンスティテュ・フランセでとある日本の女性ジャーナリストとのインタヴューがあります。話は主に『管の形而上学』(2011年末日本刊行)のことになるのですが(日本語でなされたのかフランス語でなされたのかが文面では判然としない)、通じなくなると、通訳(日本で最も有名な仏日語通訳と書かれている)のコリンヌ・カンタンが助けてくれます。アメリーはここで自分が幼い頃に暮らしていた関西の日々にどれだけ "nostalgique"であるか、と強調します。この "nostalgique"という言葉を通訳のカンタンは日本語で「なつかしい」とせずに、カタカナ英語で「ノスタルジック」と日本語通訳するのです。あとでアメリーはこのことに怒り、カンタンにどうして「なつかしい」と訳さなかったのか、と詰めよります。
 お立ち会い、よくお聞き。ここでコリンヌ・カンタンは(私のめちゃくちゃ入れこんだ意訳で説明すると)、あなたの言う"nostalgique"は日本語の「なつかしい」に相当しない、なぜならば、あなたの言わんとする"nostalgie"は、良い思い出、悪い思い出、楽しい思い出、悲しい思い出がゴッチャの過去への郷愁であるはずで、日本語の「なつかしい」は良いも悪いも楽しいも悲しいもすべて「幸福」の領域で包みこんでしまう、全面的に肯定的な回顧感なのである、と説明するのです。日本語の「なつかしい」は幸福な回想である、と断言的に定義するのです。 作者はここで初めて日本語の「なつかしみ」とフランス語の"Nostalgie"は根本的に異なるということを知るのです。そして、この小説の題名、およびこの小説の大趣旨が生まれるのです。すなわち『幸福な郷愁 (La Nostalgie Heureuse)』であり、これは日本人に特化した回顧感なのである、と。
 そのインタヴューと出版社が用意した昼食が終わり、アメリーはこの日本再訪のハイライト中のハイライトである、21歳の時の日本人フィアンセ、リンリと再会します。ここだけテレビ局のカメラは遠慮します。『イヴでもアダムでもなく』 で描かれたナイーヴな日本青年リンリは、アメリーとの不可解な別離にも関わらず(なぜならばノトンブの理屈では、日本語の「恋」は仏語の"amour"に相当せずに、「好き嫌い」「好み」でしかなく、自分はリンリに遂に amoureuse になることができなかったと言うのです)、その後人間的にも社会的にも成長し、企業家として成功して、愛する人を見つけて家庭をつくり一児を得て、幸せで魅力的な40男に変身しています。アメリーは予想していなかったその変身ぶりに目眩がします。そして、この再会をリンリはフランス語でこう形容するのです:indicible :(スタンダード仏和辞典の説明)アンディシブル:[文語](喜びなどが)言うに言われぬ。言語を絶する。
 わぉーッ!
 小説はこういうクライマックスを迎えるわけです。
 16年後に訪れた日本で、幸福なノスタルジーを抱えながらも、ニシオ・サンはあんな風に変わり、リンリはこんな風に変わった。作者はここで、幸福なノスタルジーの延長に、とてつもない虚無の淵に自分が立たされていることを悟ります。あ、この「悟り」という言葉ですが、作者もこの禅語に非常にセンシブルで、「悟り」などという境地はブッダかごく少数の高僧にしか至れるものではなく、私のような人間には到底近寄れぬものであると認識しています。しかし「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、これをノトンブのこの小説では"kenshô"とローマ字表記していて、この"kenshô"には作者は何度か至っているのだ、と書いています。
 無の始まりを感知すること、これをノトンブは"kenshô"と言い、私はその言葉を知らず、あれこれ調べた結果それが「見性」 であることをやっと突き止めました。この見性の体験は、アメリーに突然やってきて、渋谷の交差点で極端な人ごみの中で歩いている彼女をテレビカメラが撮影している時に「見性」を感じ取り、彼女はその中でバタっと足を止めてトランス状態に入っていくのです。

 さあ、この小説をどうするか。「人が愛するものはすべてフィクションになる」ー この第一行がこの小説のすべてを救済していて、泣き笑いもすべて含めて、ノトンブのフィクションの力に翻弄されてしまうのです。私は少なくとも「幸福なノスタルジー」という日本語的な「なつかしさ」をこの小説から教わったことだけでも、シャポー!と言いたい気持ちでこの本を閉じました。奇抜なシャポーをいつもかぶっている、イヤ〜なタイプの女性ですが...。

カストール爺の採点:★★★★☆

Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
(Albin Michel 刊。2013年8月 。152ページ。16.50ユーロ)

(↓France 5制作のドキュメンタリー番組 "Amélie Nothomb - Une vie entre deux eaux"の予告編)

(↓『幸福な郷愁』発表時の出版社主催のインタヴュー)


2013年8月21日水曜日

Have you heard the word ?

The Legend of Steve Kipner & Steve Grooves 1969 / 1973
スティーヴ・キプナー&スティーヴ・グルーヴスの伝説

 マルシアル・マルチネーのMAGIC RECORDSから、数年前に復刻されていたスティーヴ・キプナーとスティーヴ・グルーヴスのデュオ、スティーヴ&スティーヴィー名義のアルバム"STEVE & STEVIE"(1968年)と、ティンティン名義のアルバム"TIN TIN"(1970年)と "ASTRAL TAXI"(1973年)の3枚のアルバムを2CDにまとめて新装再発したものです。
 まあ、それなりにソフト・ロック界では隠れた名盤として評価は高かったようですが、キプナーは日本ではもっぱら1979年のアルバム"Knock The Walls Down"(ジェイ・グレイドンのプロデュースで日本ではAOR傑作となっているようです)によって知られているでしょうし、作曲者としてはオリヴィア・ニュートン=ジョンの「フィジカル」(1981年)を、また松田聖子に「マラケシュ」(1988年。ちょっとひどい歌だな)を提供していて、後年は巨万セールスソングライターとして幸せな人生を送りましたとさ。
 キプナーは1950年オハイオ州 シンシナティ生れ、1歳の時に家族と共に豪州ブリスベンに移住し、教育も文化もすべて豪州仕込みで育ちます。15歳でバンドを組み、父親ナット・キプナーの曲でレコーディングして早くも全豪1位のヒットになっています。最初のバンド、スティーヴ&ザ・ボード(Steve & The Board)解散して、68年にオーストラリア人スティーヴ・グルーヴスと組んで、スティーヴ&スティーヴィー(Steve & Stevie)を結成、イギリスでレコード契約を結んで世界デビュー(ま、豪州外デビューですけど)を果たします。この時に力になってくれたのが、同じ豪州組であったザ・ビージーズ(英国バンドですけど、1958年から66年まで豪州で下積みをしていたんです)のギブ三兄弟だったのです。とりわけモーリス・ギブとは親交があり、スティーヴ&スティーヴィーをロバート・スティグウッド(当時の超大物ジャーマネ&プロデューサー。クリーム、ビージーズ、ヘアー、サタディ・ナイト・フィーバー...。この人も豪州人)に引き合わせたり、スティーヴィー&スティーヴィーの録音に参加したりプロデュースしたり...。
 1968年のスティーヴ&スティーヴィー(↓)"Merry Go Round"

 まんまビージーズみたいなところがありますが。
 1969年、スティッグウッドの工作で、大レコード会社ポリドール・アトコからレコードが出せるようになったスティーヴ二人組は、モーリス・ギブのプロデュースで新たにレコーディングを始めますが、この時ティン・ティン(Tin Tin)とバンド名を改称します。この名前はベルギーが誇る世界的ヒットのカートゥーン『タンタンの冒険』(エルジェ作)からインスパイアされたそうです。1970年、最初のシングルはスカだったんですが、セカンドシングル "Toast and Marmalade for Tea"が全米TOP20のヒットになってしまいます。(↓)これです。

 このふらつく(エフェクトの)ピアノの音がヒットの隠し味でしょうが、これはスティーヴ・グルーヴスの曲で、モーリス・ギブもベースで参加してます。モーリス・ギブはその当時、英国のトップ女性シンガー、ルルと結婚したばかりで、ルルの弟でミュージシャンのビリー・ローリーも、義理の兄と共にこのスティーヴ&スティーヴィー〜ティン・ティンの録音セッションに大きく関係しています。こうして二人のスティーヴはそこそこのヒットも出たし、ファーストアルバムも好調だし、二人組からミュージシャンを追加してちゃんとしたバンド Tin Tin としてコンサートもしようか、なんて欲も出てきます。そんな感じでティン・ティンはある種余裕ある態度で、セカンドアルバム用のセッションをしておりました。
 そんな1969年のある日(正確には8月6日)、スティーヴ・キプナー、スティーヴ・グルーヴス、モーリス・ギブ、ビリー・ローリーにとんでもない茶目っ気が生じて、"Have You Heard The Word"という曲を録音してしまいます。 その日、モーリス・ギブは階段からすべり落ちて腕を折ってしまい、痛み止めをたくさん打ってのスタジオ登場、それでも痛むからスタジオのバーでしょっちゅうアルコールを補給。セッションはひどいもので、モーリス・ギブのヴォーカルも本人のものとは思えず(奇しくも誰かに極端に似てしまう)、ベースもギターもピアノもめちゃくちゃ。
 この録音がどういうわけか、1970年3月7日に Beacon Recordsからシングル盤で発売されます。レコード上のバンドの名前は The Fut (ザ・フット)、曲作者のクレジットはThe Fut。その他すべて不明の状態でシングル盤 "Have you heard the word ?"は発売されたのでした。それがこれ(↓)です。

 これはすぐさま、「ビートルズのブートレグ録音である」と大変な噂になったのでした。この声がジョン・レノンでないわけがない。小野洋子までがそう信じて、この曲の著作権を取得しようとしたのでした。
 この真実をその当初は誰も明かそうとせずに、この謎の「ビートルズ海賊録音」の噂は雪だるま式に大きくなっていったのでした。

 このCD2枚組はスティーヴ&スティーヴィー、ティン・ティンの2枚のアルバムの他にボーナスとしてこの The Fut "Have you heard the word"も収録されています。私たちの興味はこの1曲に集中してしまいますが、どう聞いてもこれはジョン・レノンですよ、という人たちが世の中にはまだまだいらっしゃるそうです。

<<< トラックリスト >>>
CD 1
Steve & Stevie
1. Merry Go Round
2. Remains to be seen
3. Sunshine on snow
4. Liza
5. As I see my life
6. Shine
7. To whom it may concern
8. Melissa Green
9. SHe's getting married
10. The Birds
11. Fairy tale princess
12. I can see it in the moon
Tin Tin
13. She said ride
14. Swans on the canal
15. Flag
16. Put your money on my dog
17. Nobody moves me like you
18. Tuesday's Dreamer
19. Only ladies play croquet
20. Family tree
21. Spanish Shepherd
22. He wants to be a star

CD 2
Tin Tin
1. Toast and marmalade for tea
2. Come on over again
3. Manhattan Woman
4. Lady in blue
5. Love her that way (bonus)
6. Back to Winona (bonus)
The Fut
7. Have you heard the word (bonus)
Tin Tin "Astral Taxi"
8. Astral Taxi
9. Ships on the starboard
10. Our destiny
11. Tomorrow today
12. Jenny B.
13. I took a holiday
14. Tag around
15. Set sail for England
16. The Cavalry's coming
17. Benny and the Wonder Dog
18. Is that the way
19. Talking Turkey (bonus)
20. Strange one (bonus)
21. I'm afraid (bonus)

THE LEGEND OF STEVE KIPNER & STEVE GROOVES 1968 / 1973
2CD MAGIC RECORDS 3930975
フランスでのリリース:2013年8月12日

2013年8月19日月曜日

あたりまえだのストロマエ

ストロマエ『√(平方根)』
STROMAE "√ (Racine Carrée)"

 「平方根(へいほうこん)」という訳語を見つけたら、そのままストロマエに "Hé, ho, con!" と呼び返したくなったのでした。お立ち会い、2013年夏、最高のアルバムです。"Brel Electro"(エレポップのジャック・ブレル)とまで評されるようになったベルギー男のセカンドアルバムです。できるだけ多くの人たちに聞いて欲しいです。
  言うまでもないことでしょうが、ストロマエ(Stromaé)という芸名は「マエストロ(Maeetro)」のベルラン(逆さ言葉)です。こう名乗るんだから、最初から自信あったんです。1985年ブリュッセル生れのこのやせっぽち君は、母親がベルギー人、父親がルワンダ人で、その父親はかのルワンダ大虐殺(1994年)で亡くなっています。新アルバムの2曲め "Papaoutai"はこの不在の父親というテーマの歌で、「赤ん坊をどうやって作るのかは誰でも知っているが、父親をどうやって作るのかは誰も知らない」という強烈な歌詞が出てきます。ジョニー・アリディ、フランソワーズ・アルディ、ロジャー・ウォーターズ(ピンフロ)の例を出すまでなく、父親の不在のアンニュイは多くのロック・ヒストリーを作っていくのですが、ストロマエはその系譜のひとりでしょう。
 3曲め"Batard" (バタール、英語のバスタードとほぼ同じで、混血児、私生児、雑種、その他良い意味では絶対に使われない侮蔑語)も、ストロマエ自身のアイデンティティーの問題に直接関係した歌で、白でも黒でもない、右でも左でもない、男でも女でもない、フランドル人でもワロン人でもない、ラシーヌ(根、ルーツ)のはっきりしない自分をマニフェスト的に過去・現在・未来にわたって俺は「どっちつかず」の道を選ぶ、と歌います。
 とは言いながら、自分にまとわりつくアフリカとヨーロッパ(ベルギー)を誇らしげに見せることもあります。2011年に急逝したカボ・ヴェルデの「裸足のディーヴァ」セザリア・エヴォラに捧げる "Ave Césaria" (5曲め)、ベルギーの国民食「ムール・フリット」(ムール貝の白ワイン蒸し+フライドポテト)を南アフリカのズールー・コーラス風に讃歌してしまう "Moules Frites"(7曲目)など、ストロマエの一筋縄ではいかないひねくれたワールド音楽アプローチに脱帽します。
 アルバムタイトルの"Racine carrée"とは数学のルート(√ =平方根)のことですが、別の訳をしてみると「はっきりとした根」ということになりましょう。アルバム全体を通して感じられるのは、「はっきりとした根」など持っていないストロマエが、必死になってアイデンティティー探しをしているような実直さに胸が痛くなります。3年前のファーストアルバム "Cheese" では、もっともっと冗談の側の人だったし、自分でやっているエレクトロ・ミュージックを小馬鹿にするような皮肉と黒い諧謔が印象深かったアーチストでした。まあ、多くの人たちがシングルヒット "Alors on danse"だけで消えてしまうだろう、という予想をしていたこともありますが...。それが、ベルギーのエレクトロ小僧から、「ジャック・ブレルの再来」という尾鰭までついて、「シャンソン・フランセーズの巨大新星」みたいに言われるようになったんですよ。
 そのきっかけになったのが、先行で2013年5月からオン・エアされた "Formidable"(アルバム6曲目)のヴィデオ・クリップなんです(↓)。
YouTubeで本日の数字で17百万ビュー。


 その他、ビゼーの「カルメン」をベースにして、「恋はツイッターの鳥のようなもんで、人がブルーでいられるは48時間だけ」なんていう憎たらしく2013年的に的を得た歌い出しから始まる"Carmen"(8曲め)、そして某レヴューによると「リタ・ミツコ『マルシア・バイーラ』以来」のガン(癌)と死に正面から向かって歌い上げた"Quand c'est ?"(10曲め。「いつなの?』 - カタカナ読みすると「カンセ」、癌のcancer「カンセール」と掛けてます)、仏ラッパーのオレルサンセクシオン・ダソーのメートル・ジムと元気いっぱいに世の中に毒づいている "+AVF"(13曲め)など、納得のいく曲にあふれています。しかし、キーワードはメランコリーでしょうか。泣きながら、汗まみれで歌ってしまうジャック・ブレルとは継承も断絶もありましょう。

<<< トラックリスト >>>
1. Ta fête
2. Papaoutai
3. Bâtard
4. Ave Césaria
5. Tous les mêmes
6. Formidable
7. Moules frites
8. Carmen
9. Humain à l'eau
10. Quand c'est ?
11. Sommeil
12. Merci
13. + AVF

STROMAE "√ "
CD MOSAERT/UNIVERSAL 3747987
フランスでのリリース:2013年8月19日

(↓ "Papaoutai" 父ちゃんどこにいたの?)


2013年8月16日金曜日

白い水曜日

Caracol "Blanc Mercredi"
キャラコル『白い水曜日』


 のジャケ、クリックして拡大して見てください。わしらの世代では、あ、これ倉多江美って思う人おりましょうね。違います。イラストを担当したのはMalleusという人で、そのwebページを見ると、アール・ヌーヴォー(ミュシャ)風もあれば、ベルナール・ビュフェ風もあれば、ロジャー・ディーン(イエス)風もあればもののけ姫風もあれば、というやや偏ったヴァリエーションの夢幻系ロック・イラストレーターであることがわかります。このフクロウが赤い心臓を運んでくるのを迎える乱れ髪の娘という図、マニエリスム風でレトロな字体で書かれた "Caracol - Blanc Mercredi"の文字、なにやら(わかりやすい)「ワンダーランドへようこそ」の誘いのようです。
 一年中雪が降っていてもおかしくない国、ケベックの人です。キャロル・ファカル、人呼んでキャラコルのセカンド(ソロ)アルバムです。モンレアル(モントリオール)大学で音響工学を学び、ミキシング・コンソールのこちら側にいたのに、いつのまにかそちら側に行って舞台に立ち、レゲエバンドのバッキング・コーラスを経て、1998年ドリアンヌ・ファブレグ(人呼んでドバ)と、アフロ&ワールド寄りレゲエ・デュオのドバ・キャラコルを結成、2枚のアルバムを発表しています。(↓こんな感じ)

 寒い国の人たちが、暑い国の音楽にアプローチする、この気持ちはわかります。寒冷地ロックの人、OKIさんだって出発点はレゲエでした。逆のこともあって、セネガルとアンティルの血を引くテテが、2002年にモンレアル(モントリオール)に長期に滞在することがきっかけで自分の季節感にはなかった「秋」を発見してしまい、"A la faveur de l'automne"(秋に加担して)という大傑作を生んでしまったというケースもあります。   さて、キャラコルはこの(熱めの)デュオだったドバ・キャラコルを一旦解消して、ソロ活動に転じますが、一転してアコースティック・フォーク路線になるのです。ファーストソロアルバム "L'arbre aux parfums"(2008年)の中の曲"Le Mepris"(軽蔑)のクリップ(↓)

 このアルバムは「ラジオ・カナダ・ミュージック」新人賞などを獲得したほか、カナダのレコ大的なJUNO賞とADISQ賞に「最優秀フランス語アルバム」としてノミネートされました。(だからどうだ、という評価が私にはできないのは、まだ聞いてないからなんですが)。

 そして2011年にケベックでリリース(フランスでは2年遅れてこの夏リリース)されたセカンドアルバム『白い水曜日』はこんな第1曲目から始まります。
もし万一、月曜日に氷霧が私たちの心臓の上に凍りついてしまって
火曜日には私たちが霜で覆われてしまって、みんな死んでしまったら
最悪のことのあとにも最良のものが残っていることもあるって言うから
この白い水曜日に幸運の女神が私に微笑むってこともありうる?
あなたは私の光のままでいて
この美しい雪の下であなたの心を開いたままにしておいて
私の心はまだ燃えているわ
白い水曜日に幸運が私に微笑むわ
今夜天窓を抜け出して私の両目が狩りに飛び立つわ
冬が過ぎ去っても雪は降り続けるわ
私の両目はあなたの足跡を探しに行く
あなたをずっと愛しているわ
今だからそれが言える
「僕も愛しているよ」と答えるのは簡単なことよ
この白い水曜日にそれは可能なの?
あなたがそう言うのを感じたいの
あなたは私の光でいて、ずっとずっと
この美しい雪の下であなたの心を開いたままにしておいて
私の心はまだ燃えているわ
お願い、あなたは私の燃え盛る火災のままでいて
この白い水曜日、灰に覆われた空の下で
私の心はまだ燃えているわ
もし万一、月曜日に氷霧が私たちの心臓の上に凍りついてしまったら
この白い水曜日、あなたは私を愛してくれるかしら?("Blanc Mercredi")
「白い水曜日」のオフィシャル・ヴィデオクリップです(↓)


 お立ち会い、わかりますか? ディメンションが違うのです。「北の国では悲しみを暖炉に」なんていう緯度ではないのです。すべてが凍りついてしまう国で、心(心臓)を燃やし続ける愛、凍てついた真っ白な世界の中で真っ赤に燃え続ける心臓、そういう歌なんです。「あなたは光であり続けて」という願いが、この氷の世界では不十分で、最終部の歌詞は「あなたは燃え盛る火災になって」とラジカルに変わります。光(lumière)じゃだめなんだ、あなたは火災(incendie)になって、そうじゃないとこの極寒の世界では恋は死んでしまうんだ、と。こんなラヴ・ソング、そうめったにあるものではないでしょう。「八百屋お七」を思う方もいらっしゃいましょうが、それはまた別のディメンションなのです。
 とりあえず、私はこの第1曲めでガツ〜んと来ました。こういうスケールの曲ばかりだといいんですが、アルバム全体となると、なかなか...。6曲めにこんな歌があります。
マッチをシュッと擦って点火して
私は花火になって飛んでいって
今夜私たちの物語の最後に照らすのよ
今夜ほんの束の間 私の心を燃やして空を照らすの
バラバラに飛び散る勇気はどうやって見つけるの?
火の破片となって四方に飛び散っていく花火のように
火の粉の私が空の彼方に飛ばされて目から見えなくなる前に
私はこの夢にさよならを言うの
大気の中でぐるぐる回って私の心は塵になってしまうの
バラバラに飛び散る勇気はどうやって見つけるの?
火の破片となって四方に飛び散っていく花火のように ("Feu d'artifice")


恋の終わりを花火のように散らしてしまいたい、という歌ですけど、「玉屋がとりもつ縁かいな」とはディメンションが違うんです。 激しくもダイナミックな失恋の歌で、この人のキーワードは「火」かなぁ、なんて思ってしまいました。
 キャラコルは多くのケベコワと同様に仏語・英語バイリンガルで、この12曲のアルバムでも英語曲が5曲入っています。 英語?いいですよね。北米にして合衆国の隣国なので、われわれのような旧大陸の古ぼけたサウンドに慣れた耳には、「あ、これが世界標準のポピュラー音楽の音なのだな」と思わせる耳障りの良さで、実はこれが私をしてケベック音楽を敬遠させる最大の原因だったのですが。
 おしまいに、2011年に日本でも公開されたケベック映画『人生ブラボー(原題:Starbuck)』 という映画(日本語予告編のリンクもここに)の挿入歌として使われた "Quelque Part"という歌も、映画観て泣いたオヤジのひとりとして、うるうるしないわけにはいかなかったのです。
もうおしまいにする時が来た
私は堂々巡りばかりしていて、時間ばかりが過ぎていった
わかったことと言えば、あなたが隣りにいない年月はとても長かったということ
これは白昼夢ではないわ、嵐がおさまったのよ
世界のどこかで誰かが私のことをほんの少し思ってくれているんじゃないかって
思ったその時に
誰かがどこかにいるんじゃないかって
でも用心しなくてはダメ
人生は短くて、何も得ることがない、
みんなそれぞれ顔を隠しながら生きている、って人は言う
でも嵐はおさまった
私はここであなたを待つわ、辛抱づよく
すべてをやり直すために
世界のどこかで誰かが私のことをほんの少し思ってくれているんじゃないかって
思うから、誰かがどこかにいるんじゃないかって
でも用心しなくてはダメ
     ("Quelque Part")
(↓ "Quelque Part" モンレアルの街頭でのアコースティック・ヴァージョン)


<<< トラックリスト >>>
1. Blanc Mercredi
2. Certitudes
3. J'ai soif
4. Strange Film
5. All the girls
6. Feu d'artifice
7. Sailor Boy
8. Fantômes
9. Horseshoe Woman
10. Good Reasons
11. Je volerai ton baiser
12. Quelque part


CARACOL "BLANC MERCREDI"
CD INDICA RECORDS / L'AUTRE DISTRIBUTION AD2682C
フランスでのリリース:2013年7月22日

(↓ "Quelque Part" )

(↓ "Quelque Part" album version )

2013年8月14日水曜日

風の中の4人 (Quatre garçons dans le vent)

"Les Fils du Vent"
『風の息子たち』


2012年フランス映画(ドキュメンタリー)
監督:ブルーノ・ル・ジャン
出演:ニニン・ガルシア、チャヴォロ・シュミット、アンジェロ・ドバール、モレノ

フランス公開:2012年10月
DVD発売:2013年8月26日

 月8月、フランスの高速道路上では、多くのキャンピングカーが移動して行くさまを見ることができるのですが、この人たちは「ヴァカンシエ(vacanciers)」と呼ばれる一般市民のヴァカンス旅行者たちです。彼らは「キャンピング(camping)」と呼ばれる水・電気・衛生施設・遊戯施設などの設備の整った有料のキャンプ場に停まり、快適なヴァカンスを過ごします。ところが、その同じ時期の7月と8月、私たちはテレビの報道番組で「ロマの不法キャンプの強制立ち退き」や「不法滞在ロマの集団検挙」のようなニュースを見ることになります。一方の市民たちには許される「旅」が、これらの人々には許されない。
 第二次大戦時にナチスによってユダヤ人と同性愛者と同じように強制収容〜ガス室送りの対象とされていたロマの人々を、戦後になって保護するためのさまざまな法律が作られ、フランスでも人口3万人以上の地方公共団体に水道と電気の設備のある野営キャンプ地の確保が義務づけられています。しかしその法律があっても、市町村はなかなかそのキャンプ地の設置や確保に積極的ではなく、市民団体がその設置に反対行動を起こすところもあります。定住住民たちとのトラブルは、(何十年たっても何百年たっても同じ偏見で)「治安上」と「衛生上」の問題に集中します。
 2013年7月、西フランス、メーヌ・エ・ロワール県ショレ市の市長にして国会議員のジル・ブールドゥーレックスなる男が、「ヒトラーは十分な数のロマを殺さなかった」と発言、たいへんなスキャンダルとなり、同議員は「人道に対する犯罪への賛美」の廉で訴追され、所属党(中道派UDI)を除名されました。 日本の人たちにはなかなか理解してもらえないので、強調して言いますが、これは「言論の自由」の範疇ではないのです。フランスでは人種差別や人種憎悪を表現したり唆したりすることは法律で禁止されていて、立件すれば罰金刑・禁固刑に処されるのです。こういう法律は必要なのです。なぜ日本にこれに相当する法律がないのか不思議でなりません。
 イントロがちょっと固くなりました。このドキュメンタリー映画は、それぞれ特色のあるマヌーシュ・ギターのマエストロ4人、ニニン・ガルシア、チャヴォロ・シュミット、アンジェロ・ドバール、(リュシアン・)モレノのそれぞれの道程をブルーノ・ル・ジャン監督が8年間に渡って追い続けて撮影されたものです。2012年に劇場公開され(私は見逃しました)、このDVDジャケに貼られたスティッカーによるといろいろなドキュメンタリー映画祭で賞を取ったようです。で、1年後にめでたくもフレモオ&アソシエ社からDVD化です。フレモオ社のありがたいところは同社のDVDはすべてNTSC方式なので、日本でそのまま(パソコンじゃなくてもDVDプレイヤーで)見ることができるのです。
 マヌーシュ・ギターの開祖は言うまでもなくジャンゴ・レナール(1910-1953。日本ではどうしてもジャンゴ・ラインハルトというカタカナ表記になりますね)です。 その死後60年になる今日、ジャンゴの後継者たちは継承だけではなく、さまざまな新傾向を融合させて、マヌーシュ・ギターをますますメジャーなアートに成長させて、世界にファン層を拡大させています。毎年6月にはジャンゴ終生の地サモワ・シュル・セーヌで世界屈指のギター祭り「ジャンゴ・フェスティヴァル」が開かれますが、この映画にもそのシーンが登場します。この4人は今日のジャズ・マヌーシュを代表するギタリストであることに違いないのですが、米国の一流ジャズミュージシャンのような「大ホール」「派手な世界ツアー」「メジャーレーベルでの豪華録音」などとはあまり縁がありません。長年のキャラバン生活から足を洗ってパリのアパルトマンに定住してしまったリュシアン・モレノを例外として、3人はずっと家族とキャラバン移動の生活様式を続けています。アンジェロ・ドバールがその野営地に着くまでの運転中に「こんな自然の中で暮らす以上の幸せがあるものか」と語ります。この映画でだんだんわかってくるのは、彼らはさまざまな(社会的な)やっかい事があっても、移動生活を愛してやまないし、音楽は空気のように必要なものだし、彼らは「職業」として音楽を奏でるのではなく、彼らにとっては旅と音楽がそのまま「生きること」であるということです。うらやましいです。こういう人たちは21世紀の西欧社会で生きていけないのではないか、という愚かな疑問をこの映画ははっきり否定してくれます。
 思えば「演出された劇映画」としてはトニー・ガトリフ監督の諸作品がありますし、その『ラッチョ・ドローム』 (1993年)にもドラード・シュミットやチャヴォロ・シュミットが出ていましたし、『スウィング』(2002年)ではチャヴォロ・シュミットが主演俳優としても大活躍していました。ところが、マヌーシュ・ギターを題材にしたドキュメンタリー作品というのはあまり例がない。ブルーノ・ル・ジャンはその理由を「この内側は撮りづらいのだ」と説明します。アンジェロ・ドバールは自分をキャラバンで撮影するのは自由だが、その他のキャンプ野営民を撮影するのは絶対許さない、という条件をつけたそうです。しかしそれよりも何よりも、彼らの行動は予測ができず、待っているところにいてくれるわけではない。彼らは自由に動き回る。そういう人間たち4人を、ル・ジャン監督は8年間も辛抱強く追い続けたのです。
 また、この映画にはジャンゴの非常に珍しい映像が挿入されています。あれほどの数のレコード録音があるジャンゴでも映像は稀で、しかも映像と音声が同期したものは、全部で3分間しか記録保存されていないのだそうで、その一部が紹介されています。
 彼ら4人はそれぞれ違うところから出ています。ニニンは先祖が南方から来たらしいから「ジタン」と呼び、モレノは東方のようだから「ツィガーヌ」と呼びます。北方から来れば「マヌーシュ」。 そういった違いは言葉の訛りや生活様式や音楽にもはっきりとこの映画で出てきます。
 パリの北郊外サン・トゥーアン、クリニャンクールののみの市の真ん中にあるビストロ「ラ・ショップ・デ・ピュス」は今やマヌーシュ・ギターの殿堂となっていますが、そこを開いたのがモンディーヌ・ガルシア(この映画は「モンディーヌに捧ぐ」という文字でエンディングします)で、ニニンの父親。ニニンはそこで30年間に渡って(のみの市のある)土曜&日曜のステージをつとめてきましたが、今はその息子ロッキー・ガルシアが跡を継いでいます。
 モーゼル地方生れのモレノは、南仏ジタンの聖地サント・マリー・ド・ラ・メールとアルザス地方との往復の旅の中で育ち、チャヴォロ・シュミット、マニタス・デ・プラタなどの影響で腕を上げてきた人。クリミア(ウクライナ)出身のツィガーヌ女性歌手マリナ(この映画でも歌っています)と結婚。音楽的にも東欧ツィガーヌの要素を大きく取り入れます。上に述べたように、キャラバン移動生活をやめ、パリのアパルトマンで定住生活を始めますが、そのいきさつも映画の中で説明しています(警察に夜中に叩き起こされることがトラウマとなってしまったのです)。
 この映画で私(おそらく多くのマヌーシュ・ギターのファンたちも)の興味は、チャヴォロ・シュミットとアンジェロ・ドバールに集中します。チャヴォロはその激しいプレイとは裏腹に、温厚で言葉少なく、しかし詩人のように語ります。ブルターニュの海を相手に、その波の音にコード(和声)を探して、一緒に歌うシーンなど、本当に感動的です。
 それとは対照的にアンジェロは天才肌で、言葉は鋭く、はっきりした哲学を感じ取ることができます。またロマの現状に対する政治的な意見も明白に語っています。キャラバンのために発電機を回したり(当たり前ですが、めちゃくちゃ図にはまっている)、野営地に水道がないので道ばたの消防水道栓から水を失敬して、水がなければ人は生きられないのに水を取るなと決める西欧社会に皮肉を一言、なんていうシーンは「硬派な男」をよく感じさせてくれます。この4人の中で、旅と自然と音楽を最もピュアーに体現している人間に見えます。
 あとはマヌーシュ音楽を十分に楽しんでください。こんな人たちだからできる音楽、ということは(フランス語分からずとも、英語字幕読まずとも)何の説明もいらないでしょう。

カストール爺の採点:★★★★★

Les Fils du Vent (Un film de Bruno Le Jean)
DVD 96分(+ボーナス)
言語:フランス語(英語字幕)
DVD Frémeaux & Associés  FA4024
フランスでのDVD発売:2013年8月26日

(↓)"LES FILS DU VENT" 劇場上映時の予告編