2023年10月31日火曜日

パティ・スミスと『地獄の季節』

ランボーを読む、それは初めてコルトレーンを聞く衝撃

リマール社によるアルチュール・ランボー『地獄の季節』(1873年)の150周年記念エディションの監修構成をパティ・スミスが担当し、スミスの写真とデッサンとテクストを増補した大判(250mm x 325mm、176ページ)豪華本が2023年9月28日に刊行された。その序文で彼女はこう書いている。
<< 彼の顔のイメージとその詩に私が初めて惹かれ、動顛し同時に魅了されたのは16歳の時だった。その酔わせる魅力に深く浸り、読んだばかりのことを思い出せぬほど、私は震えてそこから抜け出た。しかしながら彼の言葉は私の脳に深く刻まれ、死に至る霧の中に漕ぎ出る幽霊船のデッキに縛りついた綱のように私に巻きついた。地獄の季節は私にとって、濃縮ハシッシュや多量のアルコールのような若き日のドラッグだった。>>

16歳の時から心酔し、詩人を”アルチュール”と兄弟のように呼ぶパティ・スミス、彼女の記念すべきファーストアルバム『ホーシズ(Horses)』(1975年) は当初の予定では10月20日(アルチュール・ランボーの誕生日)にリリースされることになっていたが、遅れが発生し、”奇跡的にも”(パティ・スミス自身の表現)11月10日(ランボーの命日)に発表されている。彼女の並々ならぬランボー愛について、2023年10月28日付
リベラシオン紙が2面にわたるインタヴュー記事(聞き手フレデリック・ルーセル)を掲載している。そのほぼ全文を、以下に(無断)翻訳した。

リベラシオン:『地獄の季節』の150周年記念に何か特別なことをしたいと思っていたのはどうしてですか?

PS1973年の100周年記念の時、私は二十代だった。私はシャルルヴィルに赴き、彼の墓参りをしたが、当時誰もそのことを気に留めていないようだった。私にとってそれはいまだかつて書かれたことのない最高の詩集だった。アレン・ギンズバーグ、ウォルト・ホイットマン、ライナー・マリア・リルケなど天才的な詩作品は数多くあろうとも、この詩集を凌ぐものはないと私は思っている。その栄誉は敬わなければならない。彼の生前にそれはなされなかったのだから。」

リベラシオン:あなたの変わることのないランボーへの情熱はどこから来るのですか?
PS
「私が16歳の時、フィラデルフィアのとあるバス停の中の陳列台に一冊のランボー詩集『イリュミナシオン』が置いてあったのを見つけた。私はその顔に引きつけられた。その頃私にはボーイフレンドがいなかった。私は全部を理解することはできなかったけれどその言語が非常に美しいと思った。それはコルトレーンを初めて聞いた時のような何かとても新しいものだった。つまり私のランボー発見は二重のものだった。少女だった私はまずこの美しい少年に惹かれ、次いでその言語に魅了された。それは私から一生離れなかった。」

リベラシオン:その時の詩集をまだ持っていますか?
PS
「盗まれてしまったわ。私はどこに行くにもこの詩集を欠かさず持っていくようにしていたのだけれど、1978年シカゴ でトラックに積んでいた私たちのツアーの荷物(ギター、ピアノ、ドラムセット...)全部が盗まれてしまった。その中に私の小さな旅行バッグもあって、中には『ホーシズ(Horses』のコスチューム、『イリュミナシオン』詩集、ウィリアム・バロウズの私へのメッセージが書き込まれていた本などが入っていた。1978年、誰かが私の『イリュミナシオン』詩集を盗んだのだけど、その人がそれを大事にしてくれたらと願っている。元はと言えば私自身それを盗んだのだから。あの当時その本は1ドルもしなかったのだけど、私にはお金がなかったのよ。」

(中略)


リベラシオン
: 1873710日にヴェルレーヌがランボーに発砲したピストルもあなたにとって貴重なオブジェではないですか?

PS 「私はそれを最も早い時期に見ることができた人間のひとりだ。2014年の夏、ツアーでブリュッセルに寄ったとき、ベルギー王立図書館のすぐ近くのホテルに宿泊していた。王立図書館で私のアルチュール・ランボーへの心酔を知っている人がいて、 私のエージェントにこう電話してきた“最近非常に特別なものが納品になり、まだ誰も見ていない、パティなら見たがるのではないだろうか?”。図書館司書が私の前にひとつの菓子箱のようなものを置いた。柔らかい紙に包まれて、1世紀以上もの間ある引き出しの中に仕舞われていたかのピストルがあった。皮肉なことにヴェルレーヌがランボーをピストルで撃ったホテルはそこから遠くない通りを上ったところにあった。その武器を慎重に光沢紙の上に置き、許可をもらって私は写真を撮った。2015年このピストルはヴェルレーヌが2年間投獄されていたモンス刑務所に展示され、私はその時自分の手で持つことができた。その後ピストルは競売にかけられ売却された。このピストルはあの当時一種の魔力があった。」

リベラシオン:このピストルがこのように非常に象徴的lな意味を持っているのはどうしてですか?
PS
 「その銃声の炸裂がヴェルレーヌを監獄に送り、ランボーをシャルルヴィルに送り返しかの傑作詩集を完成させることになった。この小さなピストルはすべての中心だった。私は私がこの本に書いたことについて長い間考えあぐんでいた。私は英語で書かれたすべての評伝を読み、熟考の末、自分の直感に従うことにした。この二人の詩人の関係とランボーの作品あるいはランボーという人間そのものについて研究した者なら誰でもあらゆるスペクトルを容認しなければならない。 幾人かのランボー研究者たちは彼の挙動を咎めもする。われわれの文化環境は少なくともアメリカにおいては批判的傾向に転じていった。ランボーをその多くの挙動によって判定することはできる。しかしその判定は彼の最良の文学作品のいくつかを封印してしまう方向にも向かってしまう。ランボーが後世に残したもの、それは彼の挙動ではなく、彼の言葉である。私が1970年代の自分自身の少女時代を見直してみれば、自分がどれほどまでに頑迷で侮蔑的であったかがわかる。私はロックンロールという非常にハードな環境に身をおいていて、当時その世界で女は非常に少なかった。時には剥き出しの悪人のように振る舞い、ドアを蹴り破ることが必要だったのよ。」

リベラシオン:この『地獄の季節』150周年記念版は、あなたの写真、デッサン、テクストで増補された一種の豪華本となっています。どのように作業されたのですか?
PS
 「これは私にとって大変栄誉ある仕事だった。この記念版が十分価値あるものであるように、私は細部にわたって確認し熟考し、それは目次にまで及んだ。私は最初にすべてを手書きで書いてからタイプ転写したのだけど、ガリマールは私のテクストの一部を手書きのまま割り込むことにしたのよ。」

 

リベラシオン:あなたの筆跡は見事ですね。
PS
 「私は1950年代初頭に育ち、インク壺と羽ペンで書き方を学んだ最後の世代に属するのよ。ロバート・メイプルソープ1946 – 1989)は私と同い年で、走り書きの美しい筆跡をしていた。私は『独立宣言』のような古い手書き文が大好きで、こんなふうに書けるようになりたかった。少女時代『独立宣言』の複写は1/4ドルで買うことができて、そっくりの書き方になるように私は何度も何度もそれを書写したものよ。」

(中略)

リベラシオン:シャルルヴィルにはどれほどの回数足を運んでいますか?
PS
 「1970年代から何度もひんぱんに。そこに行くたびに私はいつも興奮している。ランボーがシャルルヴィルを嫌っていたことを知っていても、彼はそこで生まれたのだから。私が全く初めてそこを訪れた時、ランボー博物館は閉まっていて、私は涙にくれていた。博物館の番人が私に温情をかけてくれて、中に入れてくれた。そこは埃っぽい場所で、彼のマフラーやコップや食器や地図帳がガラス陳列器の中に納められていた。私は床に座り込み、彼の似顔絵を描いた...。」

リベラシオン:(2017年にパティ・スミスが買い取ったシャルルヴィルから40キロのところにありランボーが少年時代に篭って詩作をしていたとされる)ロッシュの農家はどういうものにするつもりなのですか?
PS
 「この家はランボーの母親の持ち物だった。1917年にドイツ軍によって破壊され、その後同じ姿で再建された。私はそれを作家のレジデンスにしたいと思っている。ランボーのように苦悩する作家がひとりだけで滞在できるような場所に。私にとって最も重要なことは“家”ではなく、“土壌”なの。これが『地獄の季節』の土壌。その上で彼が夢想しながら眠っていたひとかけらの土地。最も偉大な文学作品のひとつが創造された場所として私は保存したいのよ。」

(Article par Frédérique Roussel, dans Libération du 28 octobre 2023)


(↓)2023年10月、国営テレビ France 5「グランド・リブレリー」オーギュスタン・トラプナールによるパティ・スミスインタヴュー。(YouTubeで見るをクリックしてください)

2023年10月26日木曜日

1年ではすまない

"Une année difficile"
『苦しい1年』


2023年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:ピオ・マルマイ、ノエミー・メルラン、ジョナタン・コーエン、マチュー・アマルリック
フランスでの公開:2023年10月18日


レダノ&ナカッシュの8本目の長編映画。2014年の『サンバ』以来トレダノ&ナカッシュ映画3作で花を添えていた女優エレーヌ・ヴァンサンが今回は出ていない。ちょと残念。
 さて、”社会派”色の強いコメディー映画の巨匠になってしまったトレダノ&ナカッシュの『規格はずれ(Hors Normes)』(2019年)に続く4年ぶりの新作。前作が自閉症保護施設の現場という「これコメディーにしていいんですか?」という観る前の躊躇を一挙に吹き飛ばす超ヒューマンな快作に仕上がっていたので、事前の不安はないが、今回のテーマは「非暴力・直接行動派エコロジスト集団」と「多重債務(surendettement)」である。多重債務とは(金融広報中央委員会のサイトによると)「すでにある借金の返済に充てるために、他の金融業者から借り入れる行為を繰り返し、利息の支払いもかさんで借金が雪だるま式に増え続ける状態を指す」と説明されている。返済不可能とわかっていてもまた借りる、クレジット機関質屋家族親族友人同僚...あらゆる借りられるところから借りて、借金地獄の末、世から見放される。やっぱり、これ笑いのタネにしていいのかな?と思ってしまう。
 前作『規格はずれ』のスタイルを踏襲して、今回も主役は男二人のタンデムである。多重債務のどん底で生きているのに植木等的オプティミズムでぶあ〜っと(ほぼ無責任に)その日暮らしをしているアラフォー男である。見栄を張り、後先顧みずに衝動買いを繰り返し、近親の人間関係を壊し、わかっちゃいるけどやめられないライフスタイル。ブルーノ(演ジョナタン・コーエン)は、払えるわけのない住宅ローンで買った家を法的執行によって追い出される瞬間にあり自殺も辞さずという局面にありながら、ネットで見た個人オファーの格安大画面テレビが欲しくてポチり。アルベール(演ピオ・マルマイ)はそのテレビを「ブラックフライデー」の狂乱の争奪戦に勝って手に入れ、ネットで買い手となったブルーノのところに届け現金化しようとその家に着くとブルーノの自殺未遂に立ち会ってしまう。二人はこうして出会う。アルベールはCDG空港の手荷物運送員(かなりきつい仕事だが、滑走路や税関エリアまで入れる特権あり)として低給料で働いているが、住むところはなく、身の回り一切を旅行スーツケースに詰め、夜は空港サテライトの旅客待合室のベンチで”旅行者然”として寝泊りしている。唐突だが私はCDG空港勤務の経験があり、映画で映し出されるこの空港環境の裏側も知っている。アルベールは影で渡航客の持ち込み持ち出し禁止物品の没収ストックの横流しなどをして(あぶない)副収入を得ているが、多重債務の雪だるま借金の返済など夢の夢。
 この多重責務現象の大きな原因のひとつが新リベラル経済システムが激烈に推進する過剰生産&過剰消費のサイクルである。超大量の無用の”新製品”を消費者を誘導して買わせる商業システム、それは消費者たちの極端な貧困化を招くだけでなく、莫大な量の廃棄物によって環境も破壊する。このシステムの最悪の象徴として、この映画の冒頭は「ブラックフライデー」商戦の狂乱を映し出す。その当日、開店前に長蛇の列ができた某大型家電量販店、そのまだ閉じているシャッターの前に直接行動派エコロジストの一団が「ブラックフライデー粉砕」を掲げてスクラムを組み、長蛇の列の客たちの入店を阻止しようとする。しかし何が何でも入店しようとする気の立った消費者たちに叶うわけがない。その消費者たちの先頭にアルベールがいた。
 エキストラ400人を動員して撮られたというこの家電量販店のブラックフライデー商品争奪の(ルールなし、反則規定なし)肉弾戦は、スローモーションで映し出され、バックにはジャック・ブレルの美しい曲「華麗なる千拍子(La valse à mille temps)」が流れる。壮大さを帯びたヴァイオレントな映像と対照的な優美なメロディー。このシーン感動さえ覚える。なおブレル「華麗なる千拍子」は映画最後部のエモーショナルなシーンでもう一度流れる。
 さて、このブラックフライデー粉砕の直接行動に出たエコロジスト集団のリーダー格の女性カクチュス(活動家としての源氏名Cactus = サボテン、実生活の名がヴァランティーヌ)(演ノエミー・メルラン)と、二人のダメ男・多重債務者が接近/交流していくというのが映画の流れ。文無しのブルーノとアルベールが、タダでビールとチップスが振る舞われるというので立ち寄った、このエコロジストグループの環境問題フォーラム集会で、二人はそのディスクールや討論内容には全く興味がないものの、その若々しく楽しそうな雰囲気に溶け込んでいく。この集団は、日々その緊急性が増し続けている地球温暖化と環境問題を議会や既成政党に任せておいては手遅れになるという危機感から、市民ひとりひとりが今できることから始め、全人類に警鐘を鳴らさんと、非暴力直接行動に出た言わば”グレタ・トゥンベルグ以降の”新しい波。映画に出てくる直接行動の例では、自動車道を堰き止めてメッセージの横断幕を掲げたり、集約(産業)畜産農場の動物を逃したり、動物博物館内でダイ・インしたり...。なお、この映画にこのグループのメンバーとしてエキストラ出演しているのは、実在するエコロジスト集団の人たちなのだそう。前作『規格はずれ』でもその自閉症児養護施設の中に出てくるのが(軽度重度の差はあれ)実際にその疾患を持った子供たちだった。これはトレダノ&ナカッシュの本当に勇気ある映画作りの証左。
 一方多重債務者たち向けにも、救済市民団体があり、衝動買いやクレジットの罠にかからないためのコーチングや、ブルーノやアルベールのような”手遅れ”の超借金持ちを「自己破産手続き」によって負債ゼロにまで導く手伝いをしている。この救済センターの相談役アンリ(演マチュー・アマルリック、好演!)がブルーノとアルベールの件を担当し、親身になって両者の資料を吟味し、自己破産申し立て書類を準備してやるのだが.... アンリ自身が極度のギャンブル依存症でカジノのブラックリストに乗っていてカジノ入場を拒否されるというギャグが待ち受けている。コメディー映画ですから。それはそれ。フランスでこの自己破産申し立てを受理して借金をご破算にしてくれる公機関はフランスの中央銀行 Banque de Franceである。しかしアンリが尽力して用意した申請書類はブルーノもアルベールも虚偽記述が多かったり悪い前例がバレバレだったりで、両方とも却下されてしまう。
 最初は全くその気がなかったのに、この集団のやっていることが面白くなって(+アルベールに芽生えてきたカクチュスへの恋慕の情も手伝って)二人は積極的に派手なエコロジスト行動に参加するようになり、やがてカクチュスを補佐する中心的メンバーにまで。それをいいことに、この種の世直し運動にシンパシーを抱く富裕老人層からの物品寄付される高級品を横流しして現金化してふところに入れたり。そしてさらに悪知恵の働くブルーノは、次の抗議活動の標的として、リベラル経済による過剰生産・過剰汚染の元凶のひとつフランス中央銀行バンク・ド・フランスで派手な示威行動でメッセージを訴えようと提案する。抗議活動に銀行警備が注意を取られている間に、二人は銀行内に潜入し、書類置き場にファイルされている自分たちの自己破産申請に押された「不許可」スタンプをホワイト修正液で「許可」に変える...。書類偽造作戦はまんまと成功するが、銀行正門での派手な抗議活動の果てにブルーノとアルベールはカクチュスを巻き込んで警察に逮捕されてしまう。そして数時間の勾留の後で、警察署から出てきた3人は運動の英雄として大喝采されることになる。アルベールとカクチュスの恋はだんだんいい感じに。
 この映画を酷評するメディアは少なくない。その主な理由のひとつが、あまりにもエコロジスト運動をカリカチュア化しているというもの。ノエミー・メルラン演じるエコロジストリーダーが、大金持ちの令嬢であり(運動メンバーたちも富裕層の子女的なおもむきあり)、環境危機をあまりにも精神的に取り込んでしまって病気になり、セラピーのように運動に全身全霊を打ち込むようになった、と。この立ち位置は『サンバ』(2014年トレダノ&ナカッシュ映画)でのシャルロット・ゲンズブール(バーンアウト休職している巨大企業女性管理職が、移民労働者支援のNGOで見習いとなっている)とほぼ同じ。ノエミー・メルラン、すばらしい女優さんなのに、この役はかなり軽い。コメディー映画ですから。
 そしてこういう運動の中には往々にしてゲシュタポ的な人物がいるもので、アルベールが急速にカクチュスといい仲になりつつあるのを嫉妬してか、アルベールがかのブラックフライデーの封鎖ピケを一番先に破った場面や、寄付品の横流し販売の場面など証拠動画をメンバー全員の前で暴露する。カクチュスは真っ青になり、アルベールはエコロジスト集団から追放される....。
 運動に残ったブルーノは兄弟分アルベールの名誉回復復権を画策し、メンバーたちにはアルベールの介在を秘密にして、CDG空港滑走路での旅客機離陸をエコロジストメッセージの大横断幕でストップさせるコマンド作戦を企画する。メンバーたちはリスクが大きすぎると難色を示すが、ブルーノには絶対の自信がある。上に書いたようにCDG空港の裏の裏も知っているアルベールは、影で首尾よく行動隊の滑走路侵入を手助けし、その場で再会したカクチュスはアルベールの真摯な行動に心動かされる。滑走路に出現し、発煙筒を焚き、横断幕を広げて、離陸しつつある旅客機を寸前でストップさせてしまうシーン(ここでサウンドトラックとしてドアーズ”ジ・エンド”が流れる)、これは美しい。しかし空港警備隊の車両が群をなしてその現場に猛スピードで急行し、その一台がカクチュスをはね飛ばしてしまう...。

 山も谷もある2時間映画。今回のタンデム、ピオ・マルマイとジョナタン・コーエンのキャラクターには深刻さは何もない。温暖化・環境変動に真剣に何とかしなければという市民意識の深刻さも薄い。多重債務地獄や新リベラル資本主義地獄への真剣な省察などない。コメディー映画ですから。それでもそれらを笑える”見方”というのは非常に有効だと思う。トレダノ&ナカッシュ映画としてはたぶん『サンバ』の次ぐらいに評価の低い映画になりそうだが、私はこの楽天性がずいぶんこの極めて難しい世界の動き(映画はイスラエル・ハマス戦争の最中に公開された)に一息つかせてくれるものだと感じた。だが映画題となっている Une année difficile =難しい1年、苦しい1年、困難な1年は、1年ですむわけはない。

 病院に収容されたカクチュスは長い間昏睡状態で眠っている。その病床にはずっとアルベールがついている。どれほど長い日数が経ったろうか。待ち続けたアルベールと共にパリも変わっている。ようやくカクチュスは目を覚まし、アルベールは病院からカクチュスを連れ出し、パリの町に出ていく。通りには誰もいない。ロックダウンのパリ。通りの端に大きな鹿の姿が見えたりする。誰もいない美しいパリの通りで、二人はワルツを踊る。ジャック・ブレル「華麗なる千拍子」に乗って。ここでどれだけ私は救われたことか。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)”Une année difficlle(苦しい1年)”予告編 


(↓)素晴らしい挿入歌 ジャック・ブレル「華麗なる千拍子」(1959年)公式クリップ

2023年10月18日水曜日

文学への入り方はいくらでもある

Patrick Modiano "La Danseuse"
パトリック・モディアノ『バレリーナ』


ディアノの「作家誕生」の瞬間の記憶を呼び起こした作品は2004年の『ある血統(Un pedigree)』であり、それは話者「私」が1967年6月、出版社から最初の作品出版契約を受け取ったところで終わる。『ある血統』は自伝的にその両親との極めて悪い関係に押しつぶされそうになりながら、成人年齢(当時は21歳)に達して法的にその関係を断ち切りたい思いで、パリであらゆる(怪しげな)出会いを拒むことなくひとりで生きる道を模索していた時期が描かれ、その暗く不安定な時代が22歳で作家としてデビューすることで終焉する。最新小説『バレリーナ』は、その自伝的要素で解題すれば、その最も不安定だった時期に(作家になる前に)”文学”と出会うことになった事情について語られている。小説中で繰り返して現れるフレーズとして
Il y a tant de façons d'entrer en littérature
文学に入る方法はいく通りもある
というのがある。この小説の中でその当時(不安定で不確かだった若い頃)の「私」は自分の職業をシャンソンの作詞家と称していた。それもまた文学の入り口だったのかもしれない。小説には登場しないが、実生活においてモディアノが作詞家だったのは、(名門リセとして知られる)アンリ4世校の同級生だったユーグ・ド・クールソン(のちのプログレッシヴフォークバンドマリコルヌの創設リーダーのひとり)との作詞作曲コンビだった時期があり、その曲のいくつかはフランソワーズ・アルディによってレコード化されている。
 文学の入り口は、言い換えれば書くことへの入り口であったわけで、不安定で混沌としていた青年が書くことによって救済され、生き延びる道を拓いていくという方向に向かうには、それをそれとなく導いてくれた人物が必要だった。この小説ではその名が明かされなず”La danseuse(ラ・ダンスーズ = バレリーナ)"とだけ称される女性が、導いたと言うよりは青年の手本/模範になったと言えよう。
 小説は50年以上前の不確かな記憶の不意の蘇りのように語られる。それは表面が氷結したセーヌ川の氷が割れて、溺死者が水面に浮かび上がってくる、と喩えられている。その蘇りは、過去の痕跡をほとんど残すことなく自分にとって外国の町のように変貌し、巨大なアミューズメントパークかデューティーフリーショップ街に似てしまい、かつて自分が見たこともないほど多くの人々がみんなローラーのついたスーツケースを引いて団体を組んで歩くようになったパリで、不意にかつてのよく知った顔の人物が道を歩いているのを見つけ、記憶は突然に向こうからやってくる、という不意打ちから始まる。冒頭14ページめで、話者「私」はセルジュ・ヴェルジーニなる人物と50数年ぶりに再会した、と確信したが、相手はそれはひと間違いだと否定する。モディアノの小説であるから、嘘か本当かなど明らかにされないし、不明瞭なままでページは進む。
 ヴェルジーニはパリの風来坊だった頃の「私」が安アパートを探していた時に出会った男である。現金払いの貸し部屋数件とカフェ、レストラン、ナイトクラブなどを所有する身なりのエレガントなこの男は、裏で何をしているのかわからない凄みを秘めた人物だったが、「私」には妙に優しく、彼が連れて行ってくれたナイトクラブでかの「バレリーナ」と出会うことになる。ヴェルジーニと「バレリーナ」は古くからの縁があり、小説では断片的にしか明かされない複雑な過去を抱えた「バレリーナ」をヴェルジーニが支えてやっているようなのだ。
 「私」と「バレリーナ」の関係は小説で明言されていない。「バレリーナ」の幼い息子ピエールの”キッズ・シッター”であり、学校の送り迎えやバレエのリハーサルやその世界の付き合いで帰宅の遅い「バレリーナ」を彼女のアパルトマンで待ちながらピエールを寝かしつけるという場面は描写されるが、「私」が「バレリーナ」の若い情人のひとりであったことはそれとなくわかる。しかし「私」にとっては情人をはるかに超えた重要さを持った人物であることが、すでに24ページめでこう書かれている。
それは私の人生において最も不確かな時期だった。私はなにものでもなかった。来る日も来る日も私は通りをふらつき、舗道も街灯も見分けがつかず、まるで目に見えないものになってしまったような印象があった。しかし私には模範となる人物があり、その人物はある難しい芸道を日々研鑽していた(中略)。私はこのバレリーナという模範が、その時は明確に意識することはなかったが、少しずつ私の日々の行いを変えるように、私に取り憑いていた不安定さと虚無感から抜け出すようにとしむけていったのだと確信している。

 もはやこれがこの小説の核心と言っていい。
 「バレリーナ」はパリ9区クリシー広場に近いスチュディオ・ヴァケール(Studio Wacker = 1923年から1974年まで実在した)というダンス学校 でバレエの練習をしていて、その教師はロシア出身のボリス・クニアセフ(1900 - 1975、実在の人物)だった。クニアセフは「バレリーナ」の才能を評価していて、”特待”あつかいをしていた。そして常々バレエ教師は彼女に
La danse est une discipline qui vous permet de survivre.
ダンスはあなたの生き残りを可能にする種目だ
と言葉をかけ励ましていた。生きる(vivre)ことではなく生き残る(survivre)ことなのである。ここで私は"discipline"を”種目”と訳してみたが、"discipline"は規律/規則でもあり、規律に沿った厳しい修行のニュアンスもある。「バレリーナ」はクニアセフの厳格なレッスンについていき、一流のバレリーナとして舞台を踏むことになったが、それは生き残り、生き延びることであった。この”discipiline"の厳しさがあって初めて生き残ることが可能になる。「私」はこの”discipline"が自分には必要なのだと悟る。正しくは「バレリーナ」によって悟らされる。「私」と「バレリーナ」に共通しているのは、自分を圧殺してしまいそうな”複雑な過去”から逃れて生き延びることだった。

 小説では漠然としか語られない「バレリーナ」の過去は、パリの北郊外サン・ルー・ラ・フォレという町に凝縮している。この町はモディアノの2014年(ノーベル賞受賞の年)の小説『おまえが迷子にならないように』(爺ブログに紹介記事あり)で、その核心的な舞台となっていて、主人公の子供の頃の記憶の館があり、カタギでない人々が夜な夜な集まっている環境として描かれている。最新小説との直接的な関係は読み取れないが、ここでもやはり怪しげな人々の往来する場所なのである。「バレリーナ」はおそらくこの町で生まれ育ち、そこでバレエを始め、(小説では語られない)両親との混み入った関係があり、息子ピエールの父親との出会いと別れ(おそらくピエール出産前に別れている)があった。この諸々の事情を例のセルジュ・ヴェルジーニは知っている。ピエールの父親のことも知っていて、問題のあった(おそらく町に居られなくなった)男のニュアンスが読み取れる。「バレリーナ」は「私」と知り合った頃は、このサン・ルー・ラ・フォレから郊外電車でパリまで通っていたのだが、「バレリーナ」の過去を知る男につきまとわれ、ヴェルジーニに相談してパリにアパルトマンを見つけてもらい、同時にこのストーカーはヴェルジーニの”手配”によって(生きているか死んでいるかわからないが)姿を見せなくなってしまう。「バレリーナ」がパリのアパルトマンで暮らすようになったのをきっかけに、地方(ビアリッツらしい。ビアリッツもモディアノに因縁の町であり、1949年から2年間、母に捨てられて乳母に育てられていたという経緯がある。この事情からこのピエールという子供は幼いパトリック・モディアノの化身という読み方もできる)で縁者に育てられていたピエールを呼び寄せ、初めて母子で同居して暮らすようになる。この「バレリーナ」とピエールの関係もスムーズにはいかない。その仲をキッズシッターの「私」がとりもっているようなところもある。 
 息子とうまくコミュニケーションできない原因のひとつとして、この「バレリーナ」が非常に口数が少ないということがある。語る言葉が少ないのは「私」に対しても同様であり、「私」にはこの女性の過去のことは薄闇の中にぼやけてしか見えない。過去から逃げたい女はバレエに全身全霊を打ち込むようにして、身を軽くしていっている。まるで地面に足を着けずに歩くことができそうに。過去から解き放たれ、生き延びることが可能になる。そのためには"discipline"が必要だったのだ。「私」は彼女のように"discipline"を見つけたい。
 そんな時、パリ5区サン・セヴラン教会の近くのカフェで、モーリス・ジロディアス(1919 - 1990、実在の人物、出版者、1956年ジ・オリンピア・プレス社社長として、全米の出版社から拒絶されていたウラディミール・ナボコフ『ロリータ』を世界初出版したことで知られる)と邂逅する。英米の発禁書物をフランスから世界に向けて刊行することで知られたジロディアスは「私」が英語に長けていると知り、フランシス・ド・ラ・ミュール(Francis De La Mure 実在した作家かどうかは定かではない)の"The Glass Is Falling"というエロティック小説の出版前原稿に手を加えて、物語を膨らませてほしい、と依頼する。この申し出に「私」は飛びつき、”discipline"を込めて元原稿に直しを入れ、さらに2章を書き加えるのである。「バレリーナ」の模範に習って、初めて「書くこと」に"discipline"を見出したのである。まさに文学に入る方法はいくらでもあるのだ。
 そしてその本が出来上がってくる。本には「私」が手を加えたということはどこにも書いていないし、誰も知りようがない。私はこの本を「バレリーナ」に見せるべきかどうか躊躇する。「これはきみが書いた本ではない」と一蹴されるかもしれない。小説の70ページから72ページまでの3ページ、「私」は見せるべきか見せないべきか自問しながら、セーヌ左岸をさまよい、それでも足はコンコルド橋を渡り、シャンゼリゼ大通り、エトワール広場を経て、17区シャンペレ門地区の「バレリーナ」のアパルトマンまで至ってしまう。この3ページ、若い「私」がためらいながら通って行ったパリの街は美しい。そして目的のアパルトマンが近づいてきた時、「私」は「バレリーナ」が踊るように歩く足が地面から離れていく感覚を味わい、思わず笑いが止まらなくなってしまうのである。モディアノの名調子!

 年上の(影のある)謎めいた女性「バレリーナ」が手本となり模範を示し、不安定で虚無的だった時期から抜け出す契機を開いてくれたことを描く、薄暗闇のパリの中の青年期の記憶。どの記述も曖昧で不透明なのに、読者はこの青年の「トンネル脱出」劇をはっきりと感じ取ってしまう。モディアノ文学の偉大さはここにあるのだよ、お立ち会い。
 
Patrick Modiano "La Danseuse"
Gallimard刊 2023年10月5日 100ページ 16ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)自宅書斎で国営ラジオFrance Interのソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えて『バレリーナ(La Danseuse)』について語るパトリック・モディアノ(2023年10月3日放送)

2023年10月11日水曜日

小雨にぬれているわ エアポート

Jacques Brel "Orly"
ジャック・ブレル「オルリー」

1977年録音
2023年10月9日公開の未発表アコースティック(ギター+ヴォーカル)ヴァージョン


から45年前1978年10月9日、ジャック・ブレルは49歳でこの世を去った。その1年前、患っていた末期の肺ガンによる死期を察し、マルキーズ島から人目を避けてパリに戻って1977年9月5日から10月1日にかけて録音したのが、ブレル最後のアルバム『レ・マルキーズ』(1977年11月17日リリース)。「オルリー」はアルバム12曲中、A面の最後6曲めに収められていた。テーマは古今東西幾多のアーチストたちによって歌われた空港での愛する二人の慟哭の別れである。欧陽菲菲「雨のエアポート」(1971年)、テレサ・テン「空港」(1974年)、モーターズ「エアポート」(1978年)、ムーンライダース「モダーン・ラヴァーズ」(1979年)など、1970年代の空港ソングは佳曲ばかりである。

 ブレルの「オルリー」はそんな1970年代の空港ソングのひとつであるが、歌い手の視線は”エアポートの別れ”の当事者ではなく、別れの当事者の二人を斜めから観察するものである。悲しい別れを目撃する者は、しまいに別れの先の違う人生まで見てしまう皮肉と(ブレルに関してはよく言われる)ミソジニーが顔をのぞかせる。歌の中でもうひとつの空港ソングが引き合いに出される。それがジルベール・ベコーの「オルリーの日曜日」(1963年)である。60年代郊外労働者階級家庭のささやかな楽しみが日曜日にオルリー空港に行って世界中に飛び立つ飛行機を見ながら空飛ぶ旅を想像するという歌である。ブレルはこれをサカナにして
La vie ne fait pas de cadeau 人生は過酷なことだらけだ
Et nom de Dieu, c'est triste Orly le dimanche ベコーがいようがいまいが
Avec ou sans Bécaud 日曜のオルリーはなんて悲しいんだ
というリフレインをもってくる。
 アルバム『レ・マルキーズ』に収められたオリジナル・ヴァージョンの編曲では、歌詞一番から最初のリフレインまで生ギターのボロンボロンというストロークと歌だけの”弾き語り”パターンで、歌詞二番からフランソワ・ローベによるダイナミックなオーケストレーションが曲を劇的に盛り上げるという構成。で、今回発掘された未発表ヴァージョンは、最初から最後まで生ギターのストロークだけの伴奏というもの。これが驚くほどブレルの詞ことばの陰影と歌唱の生々しさを際立たせることになっている。
2000人以上いるはずだが、私にはこの二人しか見えない
雨が二人をぴったりと鑞付けしてしまったみたいだ
2000人以上いるはずだか、私にはこの二人しか見えない
私には二人が何を言っているのかわかる
男は女に「ジュテーム 」と言い
女は男に「ジュテーム 」と言っているはずだ
お互いに約束しあうことなど何もないはずだ
この二人は不正直になれないほどやせっぽちなのだ

2000人以上いるはずだが、私にはこの二人しか見えない
だしぬけに二人は泣きはじめる、大粒の涙で泣きだす
周りにいる連中はみな汗かきで脂肪質で希望に満ち溢れ
二人に怪訝そうに一瞥をくれるが
この上ない悲しみに引き裂かれた二人は
彼らをどうこう言う権利など犬にでもやっちまったようだ

人生は過酷なことだらけだ
ベコーがいようがいまいが
日曜のオルリーはなんて悲しいんだ

今や二人は大泣きしている
二人ともだ
さっきまでは男だけだったが
まるで壁にはめ込まれたように
二人はお互いのすすり泣きしか聞こえていない

それから、それから限りなくゆっくりと
二つの祈祷する体となった二人は
限りなくゆっくりと体を離していく
そして体を離していきながら
二つの体は引き裂かれる
二人は泣き叫んでいたはずだ

それから二人はもとの通りになる
もとの通り一人の体になり、もとの通り炎になる
それから二人はさらに引き裂かれ
目と目で見つめ合う
そして海が引いていくように
あとずさり
決別をたしかめる
なにがしか言葉を交わし
おぼろげに手を振る
そしてだしぬけに男は駆け出し、振り返らずに去っていく
そして男は階段に飲み込まれるように消えてしまう

人生は過酷なことだらけだ
ベコーがいようがいまいが
日曜のオルリーはなんて悲しいんだ

男は階段に飲み込まれ、消えてしまった
そして女はそこに残っている
苦難の心で、口はふさがらず
叫ぶことも語ることもなく
女は自分の死を知っている
その死と今出くわしたのだ
女は振り返り
何度も何度も振り返り
女の腕は地面に届くほどだ
こうして女は今1000年の歳に至ったのだ

扉はふたたび閉じた
光のない世界だ
女はくるくる回る
女は既に知っている
自分はこうして常に回り続けるのだと
彼女は男たちを失った
しかし今彼女は愛を失っているのだ

愛は彼女に言う
またこの役立たず女か
この女は待つことだけの未来のために
生き続けるだろう
またこの弱虫女か
売り物にされる前に
私がついているよ、私が付き添ってやるよ
群衆が女をなにかの果物みたいに
かじりついても
私は何もできないがね

(↓)ジャック・ブレル「オルリー」(未発表アコースティック・ヴァージョン)


(↓)ジャック・ブレル「オルリー」(アルバム『レ・マルキーズ』1977年オリジナルヴァージョン)

2023年10月2日月曜日

鍋の美味しい季節になりました

Fabrice Caro "Journal d'un scénario"
ファブリス・カロ『シナリオ日記』

”navet"(ナヴェ)というフランス語は野菜の蕪(かぶ)のことであるが、現代口語で”劣悪な質の映画”を指す言葉でもあり、それは蕪は煮すぎると味がなくなってしまうからだと説明されている。この小説は当初極めて優れていたたシナリオが、(外部からの圧力で)練って練って練りまくって修正を加える、つまり煮すぎることによってどんどん”ナヴェ”のシナリオに堕していくという悲しくも滑稽な日記による記録である。
 話者ボリスはアラフィフの映画シナリオ作家である。小説は歓喜と共に始まる。ようやくめぐってきたチャンス。名のある老映画プロデューサーであるジャン・シャブローズが、1年がかりで書いたボリスの長編映画シナリオ草案に食らいつき、手放しで絶賛し(「すべてはここにある」、「何も手を加える必要はない」...)、制作に向けて具体的に動き出そう、と申し出る。このプロジェクトの映画タイトルは『静かなる服従(Les servitudes silencieuses)』,男と女の出会いから別れまでの1年間の機微を詩的ダイアローグを駆使してモノクロ映像で描く、硬派の映画通好みとなるであろう要素に富んだ濃い作品で、主演にはすでにルイ・ガレルメラニー・ティエリーと想定してある。フランス映画に詳しいムキには、この二人の主演俳優の名前を並べて見れば、この映画が大衆娯楽映画であるわけがないが、定評ある実力派/個性派のアクター&アクトレスにサポートされた一級の「作家主義映画」となろう、と容易に想像できよう。日記にはその作家主義に対応するようなボリスによる監督候補の名が数々出てくるが、願望として強くなっていく名前はクリストフ・オノレに。小説はそんな願望が次から次に破壊されていく過程を描いていく。
 この「映画はいかにして死ぬか」のストーリーを軸にして、ボリスの”不本意ながら受け身慣れ”した人柄が浮き彫りにされる二つの並行ストーリーがある。ひとつは友情もの、もうひとつは(ほぼ)恋愛もの。前者はヤンという名の50男で、たぶんガキの時分からの腐れ縁であろうが、妻マルティーヌとの離婚という難しい時期にある。それも別れたいのは妻の方であり、ヤンの方はなんとか引き止めたいのだが、決めたことは決めたこと、という段階。ボリスにはヤンの辛さがよく見えていて(いつしかそれは件のシナリオにも反映されているのだが)、友としての役目を全うしたい心はある。二人の間にはジュールというまだ独り立ちしていない息子がいて、これも両親の離婚で不安定な時期にある。ボリスにしてみれば子供の頃から遊びの相手をしてやった甥っ子のようなつきあいであるが、ヤンは自分の現状の難しさに加えてこの息子の不安定が気がかりで、ボリスによりかかりたい気がある。ジュールは学校でグラフィックを学び、それを実践で使える(つまりプロになる)機会を探しているのだが、父ヤンからボリスのシナリオの映画化が決まったと聞き、その『静かなる服従』という未来の映画のポスター案をボリスに送り始める。試作1、試作2、試作3....、すべてひどいシロモノなのだが、難しい事情を知るボリスは無碍に突き返すこともできず、すべて受け取り褒め言葉を返してやる...。
 もうひとつはヤンのホームパーティーで出会ったオーレリーという女性で大学で映画学の教鞭を執る教師。産業の中ではないものの映画の世界内部の人間なので、即座に同じ”言語”で話せる仲。映画の話をしたら何時間でも続けられる。好み/見方が近い。オーレリーがボリスのシナリオプロジェクトについて知った時の熱狂的反応と、その進行状況への興味は熱い。そしてボリスはオーレリーから感想・意見を聞くことが、シナリオ完成に向けての大きな刺激となる。二人は逢瀬を重ねて語り合い、それは少しずつ恋のようなものに近づいていくのだが...。
 さて本筋の映画プロジェクトであるが、プロデューサーのジャン・シャブローズは実現のための土台である制作資金出資機関への売り込みをはかった結果、フランス第三の大手民放TVグループであるM6が参画の挙手を。これは願ってもない朗報であり、シャブローズとボリスはほぼ映画が完成したかのような喜び方だったのが...。出資者側もボリスのシナリオ草案に「すべてはここにある」「何も手を加える必要はない」の反応のはずだったのだが、シナリオ作家+プロデューサー+出資会社の三者会議(往々にしてレストランでの会食)は、出資会社が少しずつ「意見」を述べ始める。
 ここに登場するメジャーテレビ会社映画事業部門の二人の重役(ともに30代)は、ビジネススクール出の秀才のような市場理論とエンサイクロペディア丸暗記のような映画雑学があり、あなたたちはクリエーターとして作品づくりに専念しなさい、how to succesに関しては私たちにまかせておきなさい、というスタンス。まずコロナ禍で映画館は壊滅的な打撃を受け、それから2年たっても映画館には十分に観客が戻ってきていない。とくにフランス映画には人を「映画館に戻って行こう」という気にさせる作品が少ない。家庭サロンやスマホなどの端末で事足りるようになった映像”エンタメ”(この人たちは映画を”ロット”で十把一絡げにする)に対抗して人々を映画館に連れ戻すには、それ相応のクオリティーが必要だ。そのためには協力していただきますよ、という脅し。それは出資者側の「出資するからには元は取らせていただきますよ」というあからさまなソロバン勘定である。
 まず、モノクロ映画は(一部の選良シネフィル向け映画と思われ)大衆を怖がらせ、遠ざける、というイチャモン。男女の詩的ダイアローグとモノクロの濃淡のニュアンスの織りなす繊細抒情映画を想定してシナリオを書いたボリスにとって、これは絶対に受け容れがたいイチャモンであったが....。そのシナリオを大絶賛し、自分を全面的に擁護してくれるはずだった老プロデューサーも早くも出資者に”忖度”する側に鞍替えし...。烈火の怒りをなんとか鎮めて、『静かなる服従』カラー版ヴァージョンへのシナリオ手直しを。
 この堰が切れてしまうや、テレビ会社エリート社員二人組は慇懃無礼に「この素晴らしいシナリオのエッセンスを全くそこなうことなく」と前置きして次から次に手直しの必要をほのめかしてくる。主演男優の首のすげかえ。ルイ・ガレルからカド・メラドへ。これがどれほど落差のある人選であるかは、フランスにいれば明白にわかることでも、ここで私が日本の読者にどうやって説明できることなのか。あえて言えばここで早くも硬派作家主義映画の可能性が限りなくなくなるような、大衆喜劇俳優(しかもアラウンド60歳)の奇をてらった器用である。この俳優がシリアスな演技ができないわけではないし、人情もので味のある存在感の出るアクターである。1983年コリューシュ主演映画『チャオ・パンタン』(クロード・ベリ監督)の例もある。ただ、シナリオはカド・メラドのキャラに合わせて大幅な書き直し(なにしろ60男と40女の出会いと別れのストーリーになるのだから)が必要である。烈火の怒りをなんとか抑え、ボリスは原シナリオをエッセンスを失うことなく書き直していくのだが...。
 それが終わった頃にテレビ会社エリート社員二人組は、相手役俳優の首のすげかえを申し出る。メラニー・ティエリーからなんとクリスチアン・クラヴィエ(現在71歳)へ。仏ブロックバスター喜劇映画の顔とでも形容できる保守系(サルコジと親友関係)金満家俳優がなぜここに?(説明割愛)ー 男女の微妙心理抒情映画はこの段で、初老の男・男(60歳と71歳)のわびさび友情物語への変換を余儀なくされる。順風満帆で生きてきた引退間近の実業家(クラヴィエ)が長年連れ添ってきた妻から離婚を言い渡され失意のどん底へ。慎ましく生きてきたが常に親しい友人だった男(メラド)がその痛みを吸収して、違う未来へと道を拓いてやる...。たそがれた二人の男のわびさびダイアローグが別れを救済する...。これを原シナリオのエッセンスを失うことなく書き直すのがボリスに課せられた仕事。
 ルイ・ガレルもメラニー・ティエリーもモノクロ映画も失い、作家主義映画とは全く縁のない(とは言いながらボリスがメラドとクラヴィエのフィルモグラフィーを追っていったら、そういう硬派映画に少し出演していたりして戸惑う)二人の大衆喜劇スターのために全身全霊かけて書いた一世一代のシナリオを大幅に書き直す。烈火の怒りはタバコの本数を限りなく増やしていく。不可能は不可能なのだ、と言えないのはなぜなのか。ひとりで悩み狂うボリス。
 並行ストーリーに話を振ると、ヤンの妻マルティーヌへの未練は見るも痛々しく(これが↑のクラヴィエ/メラド用に改変されたシナリオにおおいに反映されていく)、ボリスはシナリオ中のメラドのようにヤンの違う未来を模索したり。その一方で息子ジュールは『静かなる服従』ポスター案を、ルイ・ガレルとメラニー・ティエリーのネット拾い画像でフォトショコラージュで何種も送りつけてくる。いずれも駄作だが、主演男優/女優のイメージはボリスの心をグサグサと刺す。
 もうひとつの並行ストーリーである映画教師オーレリーとの芽生えつつある恋慕の方は、ボリスがこのシナリオの大幅な改変をどうしてもオーレリーに知らせることができない。「ガレル/ティエリー/モノクロ」映画を誰よりも高く評価しその行く末を知りたくてボリスと逢瀬を重ねているオーレリーの期待を裏切ることはできないではないか。二人はそれを土台にして少しずつ少しずつ愛を深めていっているのだから...。

 二人の大衆喜劇スターによるシリアスな友情わびさび映画に変容していった修正シナリオを、テレビ会社エリート社員二人組は大満足で受け取り、ボリスを大称賛するのではあったが、この二大大衆喜劇スター共演に観客が期待するものは何か、全体的にシリアスな硬派映画であることはかまわないが、この二人がいて「お笑い」の要素が少しもないというのは、残念だとは思わないか?、と「お笑い」要素の注入を要求してくる。おまけにこの「お笑い」案は既にテレビ会社エリート社員二人組が用意していて、カド・メラドを宇宙人として設定しよう、というのである。しかもさまざまな音色のオナラを出すことができる宇宙人。このオナラによって地球人の親友クリスチアン・クラヴィエを窮地から救うことができる、というシーンを作ろう、きっと後世においてカルトムーヴィーシーンになること間違いなし、と...。ボリスの我慢の限界はとうの昔に決壊しているのだが、さすがに七色の音色のオナラを発する宇宙人が出てくるとは....。

 映画はこうして死に、ナヴェはこうして生まれる。
 ネオリベラル資本主義社会のハラスメントというだけのことではない。クリエーションはいともたやすく食い物にされ、その価値はネット上の言いたい放題と同じほど無責任なやり方で異常に面白がられたり、二度と世に出られないほどこき下ろされたりする。ボリスはこの世界で、職人芸のようにストーリーを綴ることに生命をかけているようにふるまっていたが、威勢の良さは肝腎な時に萎縮してしまう。エゴの薄い書き手。このシナリオがこれでもかこれでもかと底無しの地獄に転落していくさまが、ファブリス・カロ一流の不条理タッチで描かれ、読者は笑いますがね、地獄は地獄というリアルさも伴う。
 ファブリス・カロのヒーローたちはみな同じように世の理不尽さを一身に引き受けてもがいている。この「受け身型」人間像は、滑稽である以上に身につまされる。この小説の随所に出てくるたくさんの映画リファレンスは、シネフィルな読者たちにもたいへん刺激的なものだろう。
 
 ボリスは元シナリオの微塵も残っていない、オナラ宇宙人とブルジョワ地球人の友情コメディーのシナリオを完成させる。その印刷コピーを見てしまったオーレリーは絶句してボリスのもとから去っていく。ヤンはもう一度マルティーヌとやり直したいとアクションを起こし、息子ジュールはその仲介として動く。その後プロデューサーからもテレビ会社エリート社員二人組からも、その”決定版”シナリオが具体的に制作に入ったという知らせは来ない。しばらくして、ボリスはオーレリーに再び連絡を取ろうと心に決めて日記は終わる。この読後感は格別。

Fabrice Caro "Journal d'un scénario"
Gallimard/Sygne刊 2023年8月17日 200ページ 19,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

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