2020年5月31日日曜日

フィクション大魔王

トニノ・ベナクィスタ『すべての恋物語は語り尽くされた、ただひとつを除いて』
Tonino Benacquista "Toutes les histoires d'amour ont été racontées, sauf une"

トニノ・ベナクィスタには様々な肩書きがあり、推理小説家、(純文学)小説家、劇作家、映画脚本家、BD(劇画)脚本家、放送作家、コント作家などなど。これを十把一絡げで職業欄に"ecrivain(著述家)"と書くことにベナクィスタは抵抗があると言う。役所関係の種々の公式書類で記入しなければならない「職業欄」にベナクィスタは"conteur"(話し手、語り部、噺し家...)と書きたいのだそうだ。物語を語る人、英語で言うストーリー・テラーである。当ブログの題目として私が拝借した「ペール・カストール(カストール爺)」というビーバー親父も、何百という「お話し」と子供たちに語ってあげる"conteur"であった。面白い、聞く者を夢中にさせる物語を名人芸のように話してきかせるのが "conteur"である。お話しおじさんであり、歩く「物語の宝庫」なのである。この場合、物語は創作であり、フィクションであり、結末があるものなのだ。
 爺ブログ2008年5月に『続マラヴィータ』を取り上げた時に、著者紹介で私はこう書いていた「1961年生れ,イタリア移民の息子,トニノ・ベナクイスタは学生の頃映画と文学を専攻しますが,途中で投出し,さまざまな職業を転々とします。飲食店関係,ガードマン,私立探偵助手,寝台列車の世話係...これらの体験はのちのちの小説やシナリオ(映画,劇画)に,日常生活者からは見えないダークサイドの驚くべきディテールとして,ベナクイスタ作品の魅力のカギとなっていきます。とにかくこの細部の面白さが,読者を目には見えないけれど実在するワンダーランドへと連れていってくれるわけですね」。この文章で誤りがあるのは「目には見えないけれど実在するワンダーランド」というところで、それはやはり実在はしないのだ。フィクションだから。フィクションは虚構の創作物と思われがちだが、フィクションで最も重要なのは "crédibilité"(クレディビリテ=信憑性、信頼するに値する確かさ)であるとベナクィスタは言う。絵空事ではない、真に迫るものでなければならない。文学、劇作、映画、テレビ、劇画などのフィクションに人々が夢中になるのは、それが真に迫る虚構であるからだ。それはリアルワールドによく似たパラレルワールドと言い換えられよう。私たちが体験しているリアルには結末がないが、フィクションであるパラレルワールドにはひとつひとつ結末がある。だから私たちは結末が知りたくて好んでフィクションの中にのめり込んでいく。
21世紀の今日、信憑性のあるフィクションの宝庫はテレビ連ドラであり、テレビというメディアを通さずインターネット上でストリーミング公開されるようになってからの連ドラの豊穣な創造性には目を見張るものがある。1997年、テレビドラマと言えばまだアメリカ制作人気ドラマ(の再放映、再々放映)がメインだった頃、時の文化大臣が米ドラマの寡占状態をストップさせ「フランス制作ドラマ」の放映割合をテレビ局に義務付け、やる気のないテレビ局が深夜の時間帯に流す低予算のSITCOM(シチュエーション・コメディ)の制作のために、失業中の脚本家4人を低サラリーで雇ったのだが、その4人の作った超低予算のテレビ連ドラがあにはからんや大ヒットしてしまう、という長編小説(450ページ!)がトニノ・ベナクィスタの『サーガ』であった。テレビ界や売れないシナリオ作家たちのことを知り尽くしたベナクィスタであったからこその怪作であり、時間持たせとして作らせたかったテレビ局(大資本)の思惑に逆らって傑作を作る職人(シナリオ作家+制作スタッフ)の意匠心の真髄はリアルであってほしい、という架空の視聴者たちとリアルな(小説)読者たちの心を掴んだ。その二十数年後の「返歌」のような小説がこの『すべての恋物語...』である。なぜ「返歌」と喩えたかと言うと、『サーガ』が制作サイドの物語だったのに対して、この新著はテレビ連ドラを(過激に)観る者の物語だからなのだ。
さて、この小説には話者がいる。この話者が出会ったひとりの人物レオ、目立たない、うだつの上がらない若者だったレオに何か惹かれるものがあって、密なつきあいが始まる。小さなアパルトマンに住み、つましく階下のスーパーで買ってきたものを食べ、やや不潔でも気にならない独身オトコ、目立たないガールフレンド(その名をアンジェリック)あり、職業はSNCF(フランス国鉄)のアンケート係、客車車両に乗り込みアンケート用紙をくばり(あなたはこの路線を利用するのは初めてですか?、年間に何回利用しますか?、切符の割引を利用していますか?....)下車前に回収する。話者がレオと親しくなって最初にレオのアパルトマンで飲み会を開いた時(レオも話者もガールフレンド連れで総勢四人)、夜もふけたあとで、レオがやにわにノルマとして残っているアンケート用紙の代筆をみんなに頼んだのである。みんな面白がってその数十枚にとりかかり、信憑性をもたせるために1枚1枚字体を変えたり、男になったり女になったりVIPになったり失業者になったり...。するとレオはみんなが書いているテーブルの脚を掴んでわざと揺らすのである。電車の揺れを模擬体験するために!話者はこの時初めて、このレオという男は外見で判断できるような凡庸な人間ではないと直感するのである。(読者もここで"いい小説"の始まりを直感するでしょ)
そしてこの話者がレオの秘められた写真の才能を発掘する。 夜のパリを徒歩で徘徊し、閃きがあれば(連写ではなく一回のみのシャッターで)なにかを捉える(射止める)という瞬間芸術家で、「月光の下の街灯、緑の光線を反射する窓のある古ぼけた建物、誰も見たことがないアングルから捉えられたコンコルド広場」などを写し出す。話者はこのレオの夜のフォトハンティング徘徊に同行するようになり、そのユニークな芸術性を世間に認めさせたいと、ポートフォリオを作ってやり写真エージェンシーに売り込む。レオ本人は全くその気がないのだが、写真は評判が良く、雑誌・新聞の記事飾りとしてそこそこ稼げるようになる。写真素材を求めて世界を旅することもできるようになる。そういう芸術家としての転身を嫌い、貧しくても安定した生活を欲していた(目立たない)ガールフレンドのアンジェリックが身を引き、縁が途切れる。
その同じ時期に登場するのがガエルという派手な娘で、レオは電撃的な運命の女性との出会いを感じ、二人は衝撃的な恋に落ちて、レオは夢のような愛ある新生活に入る。悲劇はその幸福の頂点に起こる。その年台によくある話でレオに親知らずが生えてきて、その摘出手術を歯科医フィリップ・ギユーに託すのだが、その歯科医はガエル・ギユーの父親、つまりレオにとっての義父であった。名医と誉高いその歯科医にも、万に一度、百万に一度の原因不明の失敗があり、神経系をどう失敗して刺激したものか、レオの顔面の半分が血色を失ってマヒし、まぶたと頬はKO負けボクサーのように垂れ下がり、半面ゾンビーの態となった。そして二度と開かなくなった片目のまぶたのせいで、二度と写真を撮ることもできなくなってしまったのである。レオはこの悲劇を受け入れることができない。医学の力で復元することができないと知るや、その責任を問うて義父を相手取って訴訟を起こすが、敗訴してしまう。そして最愛の父を敵に回したとガエルは激昂し、二人は破局する。レオはこのすべての不条理(顔の半分が怪物になり、写真を失い、運命の女性に別れられる)が全く理解できないのである。
この小説の99%はここから始まる。リアルの世界の耐えがたい不条理を前に、答のない問いを自殺の手前まで繰り返したレオは、それでも答を探すのである。少なくともリアルの世界には答はないのだ。答のある世界とはどこにあるか?それが本稿の冒頭で書いたフィクションの世界であり、そこにはいつも連ドラの最終回のように結末と答があるのである。レオは引き籠り、テレビ受像機とパソコンモニターをむさぼるように見続け、フィクションの中に身を投じて、そこにあるであろう結末と答を探す。話者は行き場(生き場)を失ったこの友を自宅に引き入れ、かつて夜間のパリ徘徊の道連れだった時のように、レオの自暴自棄の末のテレビ・フィクション没頭につきあうのであるが、レオはそれにも耐えられなくなり、話者の家を出て行き、連絡を経ち、蒸発する。そして、人知れぬ町の建物の屋根裏部屋の壁を黒く塗り、外からの光を厚いカーテンで遮断してプライベート試写室にあつらえ、その中で昼も夜もなくありとあらゆるフィクション・ドラマを見続けるのである。
奇しくも2020年春、この小説が発売された頃、フランスにいる私たちは自宅での引き籠りを余儀なくされ、テレビ受像機やパソコンモニターを前に古い映画やテレビドラマを病人のように観ていたではないか。
フィクションの醍醐味はぎりぎりの瀬戸際まで追い詰められ、その危機のどん詰まりで活路を見出し大団円を迎えることである。超過激なフィクション・ドラマ・ウォッチャーとなったレオはそのドラマの奥深くまで入っていき、あたかもその現場に立ち会っているようなテレポートをしてしまう。ベナクィスタはこの小説の中で二十いくつものフィクション・ドラマを登場させ、テレビの連ドラよろしく小説の進行にそって同じフィクションの第○話を切れ切れに挿入させていく、という凝った編集をあえて行っている。その二十いくつものドラマのそれぞれがみな素晴らしいのだ。自称"conteur"の面目躍如である。
最初のエピソードは、ナチス将校の男爵の館で開かれた夜会に招待された若きイケメンのプレイボーイ医師(実は英国のスパイ)が、宴の間に機知のある話上手と男爵に気に入られて接近し、密かに毒を盛ることに成功したのだが、翌朝、毒が回って断末魔の苦しみにある男爵から助けを求められ、スパイである前に自分は医者であると、倫理的に葛藤してしまい、助けるか殺すか....。絶対続きを知りたくなるのがフィクションの典型のような導入。次にフィラデルフィアの貨物港の廃屋倉庫に集まってくる12人の男女による集会、これは一種の「アルコホーリクス・アノニマス(AA)」であるが、アルコール依存をやめたわけではない、そのやめられない悲劇を告白し合う自助グループ。その最初の告白者が絶世の美女にして酒と男がやめられないモーリーン、酔って一緒に一夜を明かす男のせいでありとあらゆる悲劇が巻き起こるのだが、それでもやめられない...。また絶対に何も起こりそうにない平々凡々な4組のカップルの間に(フィクションゆえに)避けられずに生じてしまう不倫の順列組み合わせの話や、ルネッサンス期イタリアを舞台にしたミケランジェロ、ダヴィンチ、ラファエロのライバル三角関係の話(これは本当にぜひドラマ化したほしいものだ!)など、レオは過激なTVドラマウォッチャーとなって、言わば"鏡の向こう側”の世界に深く侵入していく。過激ウォッチャーゆえに、いちいちそれに面白いだの、くだらないだの、こうならなきゃおかしいだの、深入りな批評も止まらなくなる。例えばストリーミングTVにたまたま出てきた溝口健二映画『雨月物語』(1953年)の映像をリモコンで途中で切ってしまって、レオはこう毒づく。
傑作だって?冗談じゃない。美的意図過剰、主知的傾向過剰、伝統過剰、深刻過剰、日本過剰、封建制過剰、封建的日本過剰、文化過剰、われわれ貧しき西洋人に理解不能な習俗過剰、敬意過剰、キモノ過剰、アリガトウ過剰、ナンデスカ過剰、映画過剰、芸術過剰、モノクロ過剰、もうどうにでもしてくれ!(p93)

この批評眼とシナリオへのケチのつけ方、いわばシナリオにト書きを入れるようなドラマへの参加/参入の態度がレオを”鏡の向こう側”の世界で活性化していく。この数ある挿入フィクション・ドラマの中でひときわ重要性を持って描かれる2つの物語がある。ひとつはアメリカ有数の世界的超大企業の社長という昼の顔を持った男が、その本社ビルの下の地上道路を徘徊する乞食というもうひとつの顔を持つ、ひとりの生身の人間による超リッチ/超プアーの入れ替わりの物語。この一種のジキル/ハイド物語のヴァリエーションは、超リッチがどんな極限まで超プアーに耐えられるかというマゾヒスティックな超克を求道するウルトラな苦行なのだが、結末は...。もうひとつは英国の流行作家の数々のヒット小説の末に人生の終わりに書くべき最後の作品は何か、という物語。その流行作家ハロルド・コーデル(言わばトニノ・ベナクィスタの化身)は厭世的で冷笑的な作風の大衆小説家で、そのヒットの影には伴侶であり原作第一読者であるアリスの助言進言が欠かせなかった。彼女がコーデルの作品の舵取りをしているようなものだった。その作品の通り厭世的で女癖も悪かったコーデルだが、アリスはずっとそれを支えてきた。しかしアリスは病に倒れ、病院でその最後の日々にありながら、懸命に見舞うコーデルに対して最後の助言を与える。あなたがこれまで一度とした書いたことがなかった恋愛小説を書くのよ。それは誰も書いたことのない小説になるはず。そうして息を引き取ったアリスであったが、コーデルはその遺志を叶えようとするにも関わらず全くうまくいかない。
この小説内のドラマの中の小説を書く、それに立ち会うのが過激なドラマウォッチャーのレオなのだ。ハロルド・コーデルはその自分が書けなかった究極の恋愛小説というのが、紆余曲折のあげく、やっとそれがハロルドとアリスの恋物語であったということに気づく。それを見ているレオがどんどんそれに「ト書き」を加えていくのだ。こうして鏡の向こう側の世界で、ヴァーチャルとリアルの二人三脚、つまりハロルドとレオの二人三脚によって、この小説題の言う"語り尽くされたすべての恋物語”を超える唯一無比の恋愛小説ができるという話なのだ。そしてこの究極のフィクションの完成によって、レオは救済され、再び話者の前に姿を現し、(これは私の読みで定かではないが)見えないところでずっとレオを支えてきた最初の恋人アンジェリックと和解する、という大団円が待っているのである。
氾濫するほどにヴァーチャルの世界に蔓延するフィクション・ドラマが、どうしようもなくそこに逃げ込むしかない絶望の人々に救済になりうる、というフィクションのパワーの再発見・再認識、これがこの壮大なフィクション小説のモラリテである。ストーリー・テラーは世界を救済できるかもしれない。そうでしょうとも。そして私たちがこの春実体験してしまった自宅引き籠りの危機にも、フィクションは大いなる救済であったことを思い起こそう。

Tonino Benacquista "Toutes les histoires d'amour ont été raconntées, sauf une"
Gallimard刊 2020年3月、215ページ、19ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)テレビ出演のごく稀なトニノ・ベナクィスタが5月24日France2トーク番組"On n'est pas couché"に出演した。ホストのローラン・ルーキエ(20年来のベナクィスタのファンと告白)と聞き手に作家フィリップ・ベッソンとジャーナリストのヴァレリー・トリエルヴェレール(前大統領フランソワ・オランドの元伴侶)。


(↓)記事タイトルの出典

2020年5月29日金曜日

ブリジッチ・バルドー、バルドー


"Brigitte Bardot"
「ブリジッチ・バルドー」(1960年)
作:ミグェル・グスタヴォ
歌:ジョルジ・ヴェガ

ブリジッチ・バルドー、バルドー
ブリジッチ、ベジョー、ベジョー

日本語版が出るとしたら、この部分は「美女〜、美女〜」になるはず。「ブリジッチ」なのはブラジルだからであり、”Brigitte”と綴ってあれば、ブラジル葡語では”ブリジッチ"と発音される。1960年、国際舞台におけるフランスのシンボルの地位はシャルル・ド・ゴールとブリジット・バルドーの間で争われていた。その名声はなんでこんなところまで?と驚いた17歳の少女がいた。その名をマリー=フランス・ブリエールと言い、アルゼンチン人の母、フランス人の父(旅客船船長)を持ち、家族でその冬(南半球は夏)のヴァカンスをリオ・デ・ジャネイロで過ごした。すると、町中がマーチングサンバに乗せて「ブリジッチ・バルドー、バルドー、ブリジッチ、ベジョー、ベジョー」と歌い、躍り狂っているではないか!少女はこのバルドーのサンバに魅せられ、ヴァカンス帰路の大西洋汽船の荷物の中にこのシングル盤を詰め込み、パリに着くやいなや、走って行った先が民放ラジオ局ウーロップ・ニュメロ・アン(Europe No.1)。
なぜ、このラジオ局かと言うと、戦後国営放送しかなかったフランスに、周辺国から国境超えて電波を飛ばした民間(商業)放送局(ラジオ・アンドラ、RMCラジオ・モンテカルロ、RTLラジオ・リュクサンブール)の中で最も遅く1955年に開局したのがウーロップ・ニュメロ・アンで、電波は西ドイツ(当時は西ドイツと言っていた)のザール県から電波発信していた(とは言っても、放送局本社はパリにある)。古臭いド・ゴール時代のフランスで、この新座の民放ラジオは若い聴取者層にアピールする番組を売り物にしていて、その開局の年1955年に始まった大人気のジャズ番組 "Pour ceux qui aiment le Jazz(ジャズのお好きなあなたへ)"(ホストはフランク・テノとダニエル・フィリパキ)に続いて、1959年にイエイエ世代のマスト番組「サリュ・レ・コパン」(ホストは同じくフランク・テノとダニエル・フィリパキ)が始まり、若い世代にとって新しい音楽は Europe No.1で知るという定評が出来てしまった。
ちなみにちょっと時代は数年ずれるが、1966年の米映画『グランプリ』(ジョン・フランケンハイマー監督、ジャームス・ガーナー、イヴ・モンタン、三船敏郎...)の中でレーサーのガールフレンド役で登場するフランソワーズ・アルディが、四六時中トランジスター・ラジオに耳をあてて「サリュ・レ・コパン」に聞き入っているというシーンがあり、60年代世代におけるラジオ偏愛現象を垣間見ることができる。
話はだいぶ遠回りしているが、その当時の"若者ラジオ”ウーロップ・ニュメロ・アンでテノやフィリパキたちのボスだったのが1960年にディレクターになったリュシアン・モリス(1929-1970)であった。エディー・バークレイジャック・カネティと共にあの頃のレコード界&芸能界のドンのひとり。ダリダをスターにし、ミッシェル・ポルナレフを発掘したことで知られる。ダリダとの屈折した愛憎関係の末に自殺(1970年)、その死に捧げられたのがポルナレフの「誰がおばあちゃんを殺したの?(愛のコレクション)」。

(←セルジュ・ゲンズブールとマリー=フランス・ブリエール)
はい、元に戻ります。17歳のマリー=フランスが会いに行ったのはこのディレクター、リュシアン・モリスであった。ウーロップ・ニュメロ・アンの試聴室にダニエル・フィリパキなんかも集めて、リュシアン・モリスはお嬢さんが持参したシングル盤「ブリジッチ・バルドー」を一聴、おお、これはすごい、という話になってしまった、というわけ。ヒット誕生。このラジオ局の一押しで仏バークレイ・レコードのシングル盤は大ヒット、さらにダリオ・モレーノによるフランス語カヴァーシングル(これはフランス語なので、"ブリジッチ”も”ベジョー、ベジョー”も変っちゃって、"ブリジット・バルドー、バルドー”、”ブリジット・バルドー、ブラヴォー”になってる)ほか、世界中で多ジャンルにまたがるたくさんのカヴァーを生むという、幸福なロングヒットとなったのでした。

 話はこれだけではない。リュシアン・モリスはこのお嬢さんの"耳”と"勘”に惚れ込み、若者向けラジオとして躍進するウーロップ・ニュメロ・アンのためにその才能を生かしてくれないか、とラジオ局の有力スタッフとしてスカウトしたのである。ここからマリー=フランス・ブリエールのラジオ人⇨テレビ人→プロデューサーとしての長い長いキャリアが始まり、後年に「フォール・ボワヤール」や「タラタタ」といった仏TV界の記念碑的番組を世に送るのである。大物TVプロデューサーから転じて現在は2008年に創設された年次映画フェスティヴァル「アングーレーム仏語圏映画祭」の主宰者(ドミニク・ベスネアールと共同主宰)となっている。1枚の観光土産レコードが人生を変え、フランスの放送界・芸能界も変えてしまったつうわけ。

(↓)オリジナル1960年ジョルジ・ヴェイガ「ブリジッチ・バルドー」


(↓)1961年ブラジルのギタリスト、エラルド・ド・モンチのヴァージョン。チャチャチャ、これはYouTube動画もよく出来てて好き。


(↓)1961年ジャック・フォン・ドームのドイツ語ヴァージョン。


(↓)1962年ブラジルのギタリスト、ボラ・セーテのエレキインスト。うっとり。


(↓)1982年ベルギーのトゥー・マン・サウンド(Two Man Sound)のサンバ・ディスコヴァージョン



(↓)1962年スペイン語で歌うベルギーのバンド、レ・チャカチャスのヴァージョン。


(↓)北の国から。1961年フィンランドの女性歌手ライラ・キヌーネンによるスオミ語ヴァージョン。


(↓)2014年の国営TVフランス3によるマリー=フランス・ブリエールのインタヴュー。そのキャリアの始まりである「ブリジッチ・バルドー」のエピソードから、テレビプロデューサー時代、そしてアングーレーム仏語圏映画祭まで。

2020年5月21日木曜日

ゴラ芸

アラン・ゴラゲール『ゴラゲールのインストルメンタル芸  -  ジャズと映画音楽 1956 - 1962』

Alain Goraguer "Le monde instrumental d'Alain Goraguer - Jazz et Musiques de films 1956 - 1962"

2020年新型コロナウイルス禍の外出禁止令期間中、「フレモオ&アソシエ社4月新譜」としてリリースされたCD3枚組ボックス。アラン・ゴラゲールは1931年生れ、88歳で今もお元気。ピアニスト、作曲家、編曲家。 私たちはアレンジャーとばかり思っているフシがある。作曲家として、1956年フランス音楽史上最初のロックンロール曲と言われる「痛ぶってよジョニー(Fais-moi mal Johnny)」(詞ボリズ・ヴィアン/歌マガリ・ノエル)という歴史的な曲を書いている。ヴィアンとの仕事では「原子爆弾のジャヴァ(Java des bombes atomiques)」などもゴラゲールの作曲であり、また1959年ヴィアン原作の小説を映画化したミッシェル・ガスト監督映画『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』(プレミア試写会でヴィアンが悶死する)の音楽もゴラゲールが手掛けていて、この3CDボックスにそのサントラ全曲が収録されている。映画のことが出たので書いてしまうと、一種のいわゆるヌーヴェルヴァーグ映画、ジャック・ドニエル=ヴァルクローズ監督の『唇によだれ(L'Eau à la bouche)』(1959年)の音楽はセルジュ・ゲンズブールと共同作曲ということになっているが、ほとんどはゴラゲールが書いている。

(↑)このラテン・パーカッションの必殺のイントロがすべてを語っているのだが、これがゴラゲール・スタイル。初期ゲンズブール曲のすべての編曲をゴラゲールがしていて、ラテンとジャズと異国情緒でゲンズブール曲を際立たせた華麗なるアレンジャー。
ゲンズブールとの編曲者の仕事は1959年の初アルバム"Du chant à la une !"(「リラの切符切り」入り)に始まり、6枚目のアルバム"Gainsbourg percussions"(1964年)まで続く。そして1965年、ゲンズブール作詞作曲であの騎兵隊鼓笛隊のような奇抜(で時代遅れ)なリズムが特徴的な編曲(言うまでもなくゴラゲール)に乗ったフランス・ギャル「夢シャン」がユーロヴィジョン・コンテストで優勝。日本は言うに及ばず世界的大ヒットとなり、初めてゲンズブールは巨万の印税を手に入れ、人が変わってゴラゲールと決別するのである。それはそれ。
ゴラゲールはジャズ・ピアニストであった。22歳でパリに出て当時の大巨匠であったジャック・ディエヴァル(1920-2012)の直弟子となり、アート・テイタムとオスカー・ピーターソンの影響をもろに受けたジャズ・ピアニストに成長し、ルネ・ユルトルゲの第一のライヴァルと言われた。シモーヌ・アルマという女性歌手の伴奏ピアニストをしていた時に、アルマがジャズっぽい歌をレパートリーに入れたいということで邂逅したのがジャズフリークとして知らぬ者はなかったボリズ・ヴィアン。以来緊密なコラボレーションが始まるわけだが、ヴィアンはレコード会社フィリップスのディレクターでもあり、ジャズ・ピアニストとしてゴラゲールはフィリップスからレコード・デビューもする。これがボリズ・ヴィアンのライナーノーツ付きで発表されたアルバム"GO GO GORAGUER"(1956年)であり、2002年に仏ユニバーサルからCD化されているが、このフレモオの3CDボックスでも全曲収録されている。このゴラゲールの "Go Go"という愛称であるが、この3CDボックスとは関係ないが、1964年、ゲンズブールがフランス・ギャルと仕事し始めた頃、同じようにゴラゲールも作曲陣としてお呼びがかかっていて、父ロベール・ギャルの作詞で"Jazz à Go go"(↓)という曲を書いている。この場合、"Go go"はゴラゲールの愛称であって、ダンス名ではない。なお1965年かの「夢シャン」のB面として発表された "Le coeur qui jazze"(詞ロベール・ギャル/曲ゴラゲール)は「ジャズる心」という卓抜な日本語題がついている。それはそれ。


この3CDボックスはCD1がジャズ・ピアニストとしてのゴラゲール、CD2が映画音楽作曲家としてのゴラゲール、とはっきりと区別されていて、CD3は言わばライトジャズとイージーリスニング職人的なゴラゲールのアスペクトを特集している。
CD1の17曲め〜20曲めの4トラックが、ゲンズブールのデビューアルバム"Du chant à la une !"(1959年)の中の4曲をジャズ・インストルメンタル曲化したゴラゲールのEP "Du jazz à la une !" のもの。(↓)"Du jazz dans le ravin"

CD 2の映画音楽集は、このボックスの「1956-1962」という期間しばりによって、『墓に唾をかけろ』(1959年)と『唇によだれ』(1959年)の全曲がメインである。1963年にゲンズブールと共同で音楽を担当し、後年サントラ盤超コレクターアイテムとなる『ストリップティーズ』(ジャック・ポワトルノー監督)というのがあるのだが、残念ながら収録されていない。ゲンズブールもそうだが、あの頃、ちょっとエロもの系の映画の仕事が増えてきている。70年代になってハードコアポルノが解禁になると、フツーの映画作っていた監督たちがどんどんポルノに転向し、わがゴラゲールも70年代から80年代にかけて、もおすごい量のポルノ映画の音楽を手がけるようになる。慎みの心からであろうか、この種の映画の音楽の時は「ポール・ヴェルノン(Paul Vernon)」という変名を使う。"ヴェルノン"は言うまでもなく、『墓に唾をかけろ』の作者としてボリズ・ヴィアンが使った変名"ヴァーノン・サリヴァン(Vernon Sullivan)"に由来する。
変名と言えば、ジャン・フェラ(1930-2010)の1961年から1991年までの全アルバムの編曲者/アレンジャーなのだが、この場合はゴラゲールは「ミルトン・ルイス (Milton Lewis)」という変名を用いている。
変名がいくつもあって、怪人多重面相のようなところがあるが、その極め付けがCD 3に収録されている「ローラ・フォンテーヌ(Laura Fontaine)」という女性ピアニストである。1958年にゴラゲールは「ローラ・フォンテーヌと彼女のクアルテット(Laura Fontaine et son quartet)」という名前で『ピアノバー』というアルバムを発表する。これは"ムード音楽"なのである。サム・テイラーのサックスのようなものなのだが、これはこれで需要はあったのである。
このCD3は、ローラ・フォンテーヌのこの14曲入りムードアルバムと、翌1959年に出たシングル盤の2曲が前半。そして後半は、ジャック・ブレルの編曲者として名高いフランソワ・ローベ François Rauber (1933-2003)とアラン・グラゲールの"二大編曲者夢の競演"みたいな企画なのだろうか、ローベ/ゴラゲール双頭オーケストラが録音した12曲アルバムの全曲が収録されている。双頭オーケストラと言っても、ストリングス部分の編曲がローベ、管楽器+リズムセクションの編曲がゴラゲールという分業作品で、レパートリーはジャズスタンダードとヴァリエテヒット曲と...。ま、ムード音楽、ほめ言葉では"ラウンジ"と言ってしまっていいと思う。(↓)ローベ&ゴラゲール・オーケストラ"Le Jazz et la Java"(1962年、クロード・ヌーガロのヒット曲)


往時は資料性が売り物だったフレモオ&アソシエ社のパブリック・ドメイン復刻も、今はどうなのだろうか。2017年までは言わばフレモオの「代理店」のような仕事をしていたので、全品見本製品が来てチェックできていたが、今は全く交信がなく、どんな新譜が出ているのかも知りようがない。かつてはフレモオCDのブックレットと言えば分厚く40ページのものまであったし、写真豊富、詳細ディスコグラフィー、解説の英語訳までついていた。このゴラゲール3CDを監修し、解説も書いているのが、パリ第4大学(ソルボンヌ校)の音楽学教授のオリヴィエ・ジュリアン(Olivier Julien)。16ページ。うち英語要約(マーチン・デイヴィス、この人も仏ユニバーサルの重役だったんだが)1ページ。ヴィアンとゲンズブールのパートナーだった時期に集中しているのに、興味深い情報があるわけではない。とても残念。
このゴラゲールはこの3CDで区切った1962年のあとも、アレンジャーとしても映画音楽作家としても大なり小なり第一線で活躍するのだけど、印税収入という点においてゴラゲールを最も潤おしたのは、1982年、(後世カルト番組化する)国営TVアンテーヌ2のエアロビクス番組"Gym Tonic(ジム・トニック)"のテーマ曲だったと言われている。この作曲者をフランス人たちは誰も知らないが、”トゥトゥユトゥ、トゥトゥユトゥ”は誰でも知っている。しかしこの3CDボックスには関係ない。


<<< トラックリスト >>>
Fremeaux.com のこちらを参照のこと。

Alain Goraguer "Le Monde Instrumental d'Alain Goraguer"
3CD Frémeaux & Associés FA5758

フランスでのリリース:2020年4月

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)2018年 SACEM(フランス著作権協会)制作のアラン・ゴラゲールのインタヴューヴィデオ。

2020年5月15日金曜日

高齢者アリアーヌ・ムヌーシュキンの怒り

” 若者たちよ、恐れ慄け、私たちはきみたちの未来なのよ!”


レラマ誌2020年5月13日号に掲載された太陽劇団座長アリアーヌ・ムヌーシュキンのインタヴュー。新型コロナウイルス禍外出禁止令と文化界が被った甚大な被害、高齢者を切り捨てる社会、政策を自画自賛する政府... 怒りと連帯と希望へのメッセージが詰まった熱弁の7ページロングインタヴューから、主にフランス政府の虚偽政策(とりわけマスクの問題)、老人施設と高齢者の問題を語った部分をピックアップして(無断で)翻訳してみました。81歳の行動する演劇人の意見です。
アリアーヌ・ムヌーシュキン:私は悲嘆を感じている。毎夕テレビでひとりの男が政府の素晴らしい行動を自賛しながら次々に発表する数字(感染者、死者、重篤入院者、退院者...)の背後にある女たち男たちの死にまつわる人々の苦悩や孤独感を私は想像せずにはいられない。、どのような儀式の形式にせよ、これらの死者たちを愛した人々の弔いに欠かすことのできない愛情と温情の催し事を禁止するということへの当惑と理解不能な反応。これはどんな文明の下でも欠かせないことである。ほんの少しでも願いを聞き敬意を示し、為政者たちとそのモリエール喜劇的な科学者顧問たちの少しの同情心があれば、このあたふたと発表された規則(註:老人施設での家族面会禁止、臨終→埋葬の家族近親者立ち会い禁止など)は少しは緩和できたかもしれない。その規則のいくつかは理解できるものではあったが、それらは唖然とするほどの冷徹さで問答無用に厳守された。

テレラマ:あなたは怒っていますか?

A.M.
:
ええ、怒っていますとも。私が感じている怒り、とてもひどい怒りだけでなく、わが国の政権担当者たちの出来の悪さ、絶え間ない自画自賛、誤った情報による虚偽、頑なな横柄さに、ひとりのフランス市民として屈辱感も味わっている。この外出禁止令の間の数日間、私は病気でほとんど意識のない状態にまで陥っていた。目が覚めた時、私はおうむのように同じことを繰り返す政府の代理人の放送を見るという失敗を冒してしまった。メディアも全くおうむのように繰り返している。私はエマニュエル・マクロンが経済面で早々と対応したことを評価していた。あの有名な「たとえいくら金がかかっても quoi qu’il en coute」という号令で企業の解雇・人員整理を回避したことを。でも、私の病状回復の頃になって、四人の道化師が舞台に登場したのよ。保健担当官、厚生大臣、政府報道官、それに加えて、鞭打ち爺さん(悪い子供たちを鞭で懲らしめる伝説上の人物 p
ère fouettard)の親玉である内務大臣、この四人の登場に私は激怒した。もう二度とこいつらを見たくないと思った。


テレラマ:彼らの何を非難しているのですか?


A.M.
: これは犯罪よ。マスクのこと。私はマスクの不足について言いたいんじゃない。このスキャンダルは前政権と前々政権(ニコラ・サルコジとフランソワ・オランド)の頃から始まっている。しかし、3年前から政権についている今の政府も、わが国の保健厚生システムの悪化をさらに深めたということで、前任者たちと同じ責任がある。あらゆる良識に反して、彼らは毎晩のようにマスクは不要であり感染防止にならないと繰り返し言っていた。つまり彼らは毎晩のように私たちに嘘の情報を流し、文字通り武装解除させていたのだ。しかしひとたび中国で大規模感染が発生するやいなや、私たちもアジアの多くの国の例にならって規則的にマスクをしなければならなくなり、その時それがないものだから、自分自身で作らなければならなくなった。私たちはあの四人の道化師たちの度重なるウソに服従してきたのであり、そのうちのひとつがかの政府報道官(註:シベット・ンジャイエ)の忘れがたい発言であり、彼女は(彼女自身の意見として)彼女自身がマスクをつけるすべを知らないのだから、誰もマスクをつけるようにはならないだろうと言ってのけだのだ!多くの医学者たちがこのことを知っていたが、伝染病禍の初期には政府の言うことを繰り返す「おうむメディア」ではその意見が通らず、私たちはみんなしてマスク着用の教宣をして、私たちは人生において度々マスクをつけなければならないと言ってまわった、しかし政府が作ったコロナ予防キャンペーンのヴィデオクリップの5つの予防行為(註:Gestes barriers .自宅に留まる、2.くしゃみ/せきは肘の内側に、3.顔に触らない、4. ソーシャルディスタンス、5. 手洗い)の中にいまだにマスクは含まれていない。私は、伝染病流行の最初の警鐘があった時から、人が規則としてマスクを着用していたら、私たちが屈辱的に耐え凌いだこの外出禁止の期間を短縮できたはずだと思う人間のひとりである。

テレラマ : 屈従することは最悪のことですね?

A.M
:
私たちはこの政府の虚偽の情報に屈従することをやめなければならない。私は「自宅にこもっていなさい」というスローガンには反対しない。しかし(マクロンが演説したように)わが国が戦争状態にあるのであれば、このスローガンだけでは十分ではない。国が戦争を宣言するのであれば、それと同時に国民総動員も必要だ。この総動員は、繰り返したっぷりと言われてはいたものの、本当のところでは全く望まれていなかった。私たちは動員されるよりも、直ちに猿ぐつわをはめさせられ、閉じ込められたのだ。ある人たちは他の人たちよりもひどいやり方でその仕打ちを受けた。私は老人たちと老人たちの扱われ方のことを言っているのよ。メディアに登場する偏執的反老人主義者たちが、私たち老人全てを、すべての老人と肥満者と糖尿病患者を来年2月まで閉じ込めておく必要があると公然と主張している、さもなければ、こんな人々で病院はパンクしてしまうだろう、と。こんな人々だって? 今や高齢者や病人をこんなふうに言うのですか?そうなると病院は健康で生産性のある人たちだけのためにあることになっていいのですか? すなわち2020年のフランスにあっては、私たちは65歳まで働き、その年齢に達したら、私たちは病院の廊下を混雑させないために病院に行く権利もなくなるというわけか? これはファシズム前期あるいはナチズム前期の計画ではないにしても。とても良く似ている。このことも私を激怒させるのよ。

テレラマ : この大病禍は同時に(何かを変える)ひとつの機会ではありませんか?

A.M.
:おお! 機会ですって? 何十
万という人が世界で亡くなっているのに? インドやブラジルでは飢えで人が死んでいる。わが国の大都市郊外のいくつかで同じリスクがあるのに? わが国のように充実した民主主義の環境にあっても、貧富格差の深刻化はさらに加速しているのに? ある人々はわれわれの古き良き世界大戦はよい機会だったと考えている。私はそんな質問には答えられないわ。それはインドやエクアドルやその他の土地で地面に落ちている米粒やトウモロコシの実を拾い集めている人たちへの最低の敬意にすぎないことであっても。


テレラマ : フランス人は幼児退行していると思いますか?


A.M.
: もっと悪い。子供たちには大抵の場合、子供たちに世に出る準備をさせることを知っている献身的で有能な非常に良い教師たちがついている。でも私たちは心理的に無防備にさせられたのよ。私を仰天させた話があるの。ボーヴェ(註:北フランス、オワーズ県の町)のある老人施設で看護師たちが施設収容者たちと一緒に館内監禁をすることに決めた。彼女たちは計画的に行動し、床にマットレスを敷いて、ひと月の間彼女たちが世話していた老人たちの傍らで眠った。コロナ感染は一切なかった。一件の感染もなし。彼女たちはこの体験を例外的に素晴らしいことのように語っていた。しかし労働管理局の監察官がやってきて、この労働条件は法に適合しないと判断した。床に直にマットレス、それはしてはならない、と。監察官はこの同居監禁の中止を命じた。看護師たちはその家族たちに感染するリスクを負いながら自宅に帰っていき、老人施設の収容者たちに感染するリスクを負いながら老人施設に出勤してきた。英国では20%の看護師たちが収容者たちと同居監禁をしている。ところがここでは、看護師たちの真の博愛的ボランティア精神から始まったこの同居監禁の実験を禁止してしまったのだ。杓子定規の規則厳守からか、イデオロギー的見地からか、あるいはその両者からか。


テレラマ : この高齢者たちの隔離政策はある文化的問題を浮き彫りにしているのではないでしょうか?


A.M. : まったくその通り。欧州委員会議長(註:ウルズラ・フォン・デア・ライエン、ドイツ人女性政治家)が高齢者はあと8ヶ月間自宅(あるいは収容施設内)監禁を続けることを推奨した時、彼女はこの言葉の残酷さをわかっていただろうか? 社会における高齢者の地位についての彼女の無知をわかっていただろうか? 私の含めたこれらの高齢者たちの多くが、私と同じように、働き、行動し、家族のために役立っているということをわかっているのだろうか? われわれ老人たちは死を避けられないものとして受け入れていることを彼女は知っているだろうか? そして望んだ時にその死を与えてもらえる権利(この権利は他の多くの国では認められているのに、フランスではまだ頑なに拒まれている)を要求している私たち老人たちは数知れないということを? なんという欺瞞! 私たち老人たちの中で平穏のうちに威厳をもって死の瞬間を選択したいと望む人たちの希望を叶えるよりも、私たちを人目につかないようにすることを望んでいる。エマニュエル・マクロンが「われわれはわれわれの年長者たちを保護する」とささやいた時、私は彼にこう叫びたかった:私はあなたに私を保護することを頼んだりしない。私があなたにお願いするのは私たちから私たちを保護する手段を奪わないでほしいということだけ! マスク、消毒ゲル、抗体テスト! 彼らはあらゆる老人たちを隠して忘れさせる老人施設の全国的普及を夢見ているようだから。若者たちよ、恐れ慄け、私たちはきみたちの未来なのよ!

 (↓)2019年12月、マクロン政府が進めている年金法改正に反対してデモ行進する太陽劇団とアリアーヌ・ムシューキン




2020年5月5日火曜日

性感染症ですらない平凡なウイルス

「なにひとつ以前と同じようにはならないだろう」などという断言など私は半秒たりとも信じない。逆に私は「すべては全く前と同じままだろう」と言ってしまえる。

2020年5月4日朝9時、フランス国営ラジオFRANCE INTERが公開朗読したミッシェル・ウーエルベックの新コロナウイルス禍に関する考察テクスト(全文の写しと朗読のポドキャストのリンク)。ペシミスティックで冷笑的ないつものウーエルベック節であるが、自作品『ある島の可能性』 (2005年)で予言した”人類の消滅”のことすら忘れている無責任さも吐露されている。このテクストが国営ラジオで発表されてからというもの、ネット上では賛否両論がかまびすしい。だが、私は「すべては全く前と同じまま」論だけは承服しない。私は少なくとも新リベラル経済への大いなる反省はなされるはずだと信じている。これまでの新リベラル経済は、このパンデミックによってコロナウィルスよりも多くの人々を殺し、困窮に貶めることがはっきりしているから。ウイルスよりも今ある経済の方が多くの人たちを殺している世界にわれわれは生きている。必ずやこれは変えなければならない。多くの人たちが"その後”も生き残るために。

では(いつもと同じように権利者には無断であるが)、ウーエルベックのテクスト全文の日本語訳です。権利者がクレームしたら削除します。

白状しよう。ここ数週間で交信したメールのほとんどは、相手が死んでいないかどうか、またそうなりつつあるのではないかということを確認することが第一の目的だった。そしてひとたびその確認がなされるや、おたがい何か興味深いことを語ろうとするのだが、それは容易なことではない。なぜならこの伝染病は、苦しみをもたらすものであると同時に憂鬱きわまりないものであるという大殊勲を立てつつあるから。華々しさに欠けインフルエンザ系の陰湿なウィルスに似通った平凡なウィルスであり、どんな条件下で生き延びているのかよく知られておらず、その性質も曖昧で、症状が軽い場合もあれば死に至る場合もあり、しかも性感染症ですらない。結論として、価値のないウィルスなのだ。
この伝染病はいかに世界で毎日数千人の死者を出してこようとも、それは”非・大事件”であるという奇妙な印象しか生み出さなかった。第一、私の尊敬する同業者諸氏(その一部は本当に尊敬できる)は、それについて多くを語っておらず、それよりも外出禁止の問題について語るのを好んでいる。以下、彼らの考察のいくつかに、私の意見を付け加えて紹介しよう。
フレデリック・ベグベデ(ピレネー・アトランティック県ゲタリー在住)
結局のところ作家とは多くの人と会うことをせず、その書物と共に隠遁して生きるものだから、外出禁止でも事情はほとんど変わらない。
全くもってフレデリックに同意する。社会生活に関することをほとんど何も変わらないのだ。ただ、きみが考察を怠ったことが一点だけある(それは間違いなくきみが田舎で暮らしているせいで、きみはあまり”禁止“の被害者ではないからなのだ):作家とは歩くことを必要としているのだ。


私にはこの外出禁止はフローベールとニーチェの間に起こった古い論争に決着をつける理想的な機会であるように思える。どこから発されたのか私は忘れたが、フローベールは、人が思考し、ものを書くのは、座っている時だけであると断言した。それに対して(これもどこから発せられたのか私は忘れたが)ニーチェが反論と揶揄の声を上げ、それはニーチェがフローベールを”ニヒリスト“(その頃から彼はこの言葉をめったやたらと使い始めたのだが)とこき下ろすところまで及んだ。ニーチェ自身そのすべての著作は歩きながら考案されたと言い、歩行中に考案されないすべてのものは価値がない、その上彼はいつもディオニュソス的(陶酔的)なダンサーであった、等々。私のニーチェへの誇張された贔屓だと疑われようが、この場合、正しいのはニーチェであると私は認めざるをえない。一日のうち数時間持続的なリズムで歩き続けるという可能性のない状態でものを書こうとすることは断じてやめるべきである。たまりにたまった神経的緊張が解消されず、思念やイメージが作者の哀れな頭の中で苦しげに回り続け、怒りっぽくなり、ついには気が狂ってしまう。
ただひとつ重要なのは歩行の機械的に規則正しいリズムであり、それは新しいアイディアを浮かび上がらせる(それに次いでアイディアをかたちにする)だけでなく、作業机の上に生まれた多くのアイディア(この点においてフローベールは必ずしも間違っていたわけではない)の衝撃によって誘発されたアイディア同士の衝突を鎮静化するものである。ニーチェがニースの後背地の岩だらけの坂道やエンガディン(註:スイス南東部、主邑サン・モリッツ)の高原で練られた彼の構想の数々を語るとき、彼はやや取り止めがなくなる。観光ガイドを書く時以外、通過してきた風景の数々は、内面の風景よりも重要なことなどないのだ。

カトリーヌ・ミエ(通常はパリ住民のはずであるが、外出禁止令が出た時に幸運にもピレネー・オリアンタル県エスタジェルにいた)
今の状況は彼女に不愉快なほどに、私の作品のひとつ『ある島の可能性』の”予言“の部分を想起させる、と。

それを聞いて、私は、読者がいるということはいいことだなあ、と独言した。私はそんな照合など考えもしなかったのだが、それはいたって明快なことではないか。今思い返すと、それは人類の消滅ということについてあの当時私の頭の中にあったことと全く同じなのだ。それは大スペクタクル映画のようなものでは全くない。どんよりと沈んだものである。それぞれの独房で離れて生きる個人個人は、自分の同類たちと身体的な接触を全く持たず、コンピューターを介したわずかな交信があるだけであり、その人口を徐々に減らしていく。

エマニュエル・カレール(パリ→ロワイヤン:彼はこの移動に関する有効な理由を見つけたようだ)
この時期にインスパイアされた注目すべき書物は生まれるであろうか?彼はそれを自問している。

私もそれを自問する。私はこの問題を真剣に考えたが、結論として答えは否と思う。ペストに関しては、何世紀にも渡って多くの書物が著されたし、ペストは作家たちの興味を引いた。ここなのだ、私に疑義があるのは。第一に、私は『なにひとつ以前と同じようにはならないだろう』という類の断言など半秒たりとも信じない。逆に私は、すべては全く同じままだろうと言おう。この伝染病流行の推移はすばらしく正常である。西欧は永遠に神から授かった世界で最も豊かで文明の発達した地域ではない。もうしばらく前にそんなものはすべて終わってしまったし、それはスクープでもなんでもない。詳細について調べるなら、フランスはスペインやイタリアよりも少しだけうまく危機を脱したが、ドイツよりは要領が悪かった。そんなことは、全くもって驚くべきことでも何でもないのだ。

コロナウイルスはその主だった結果として、それまで進行していたいくつかの変異を加速化させることになるはずだ。何年も前から進行している技術的な進化 ― ヴィデオ・オン・デマンドやコンタクトレス決済といった小さなところから、テレワーク、オンラインショッピング、SNSといった大きなところまで ― はその主に目指した結果(中心的な目標)は物質的接触と人間的接触を減らすことであった。コロナウイルスの伝染流行は、こうした重要な傾向にあったことに素晴らしい正当性を与えるものである。ある種の機械廃用は人間関係に打撃を与えるようだ。このことは、「未来のチンパンジー」と名乗る生殖補助医療(註:ART、フランスでの略語はPMA)に反対する行動家グループ(私はこの連中をインターネット上で発見した。私はインターネットには不都合なことしかないとは一度も言っていない)が作成したある声明文の中の明快な例えを思い起こさせる。では引用してみよう「近い将来、無料で行き当たりばったりに子供をつくることは、ウェブの仲介サイトを通さずにヒッチハイクをすることと同じほど礼儀知らずのことと思われよう」。相乗りカー(covoiturage)、アパートシェア(colocation)、それ相応のユートピアではあったが、もうやめにしよう。

この病禍に、われわれは悲劇や死や有限性を再発見したなどと断言するのも間違っている。半世紀前から今日までの傾向は、フィリップ・アリエス(註:Philippe Ariès 1914-1984 仏歴史学者)が見事に説明しているように、死をできるだけ包み隠すことであろう。この最近の数週間ほど死が人目に晒されなかったことは未だかつてない。人々は病院や老人施設の部屋の中で孤独に死んでいき、誰も招くことなく秘密のうちに埋葬(あるいは火葬 ― 火葬の方が時流に適合しているだろう)されている。その少しの証しもなしに死んでいく人たち、犠牲者たちは毎日の死者数統計のひとつの単位でしかなく、その統計全体の数が増えたことで人々に広がっていく不安恐怖は奇妙なほど抽象的なものである。

この数週間でもうひとつ大きな重要性を持った数字は、患者の年齢である。この患者たちは何歳まで治療し、蘇生を試みるべきであろうか? 70歳、75歳、80歳? おそらくそれはその人が世界のどの地域に住んでいるかによって違う。しかしいずれにしても、これほどあからさまに、しかも涼しいほど恥知らずの顔で「一定の年齢(70歳、75歳、80歳?)以上でなければ、すべての人々の命は同じ価値を持っていない」ということが示されたことはいまだかつてない。それはもうわれわれが既に死んでいるようなものなのだ。

私が既に述べたように、こうしたすべての傾向はコロナウイルス以前にも既に存在していた。これらの傾向のひとつの新しい証拠として今現れているにすぎない。われわれは外出禁止令解除のあと、新しい世界の中で目が覚めるということはないのだ。その世界は同じであり、前より少し悪くさえなっているのだ。

ミッシェル・ウーエルベック

(↓)2020年5月4日朝9時、国営ラジオFrance Interの番組でオーギュスタン・トラプナールによって朗読されたミッシェル・ウーエルベックのテクスト。