2019年3月29日金曜日

(愛に)飢えるべく

Michel Houellebecq "L'Amour,  l'amour"
ミッシェル・ウーエルベック『愛、愛』(※)

息切れ気味の退職年金生活者たちがエロ映画館の中で
凝視していた、そんなもの真には受けないが
肉欲そそる二組のカップルの下手に撮影された戯事
それにはストーリーがなかった

それなのだ、と私は独語した、それこそ愛の顔なのだ
紛れもないその顔
あるものたちは魅力的で、それらはずっと魅了し続けるが
そのほかはぼやけてしまう

そこには運命もなければ、貞節さもない
ただ肉体が引き合うだけだ
一片の愛着もなく、ましてや憐憫などあるわけもなく
体を使い、引き裂く 

あるものたちは魅力的で、とても好かれていて
それらはオルガスムに至るだろう
しかし他の多くのものは疲れてうんざりで、隠すものなど何もない
妄想すら残っていない

女たちの羞恥なしの悦楽によって
深まってしまった孤独だけ
「これは私向きではない」という確信だけ
ただの暗くちっぽけなドラマでしかない

彼らはきっと死んでしまうのだ、少し幻滅はするが
叙情的な幻想などあるはずもなく
彼らは徹底的に自分を蔑む芸を駆使していくだろう
それは機械的なものだろう

人を一度も愛したことがない者たちへ
人に一度も好かれたことのない者たちへ私は言いたい
解放された性を知らない者たちへ
ごく普通の快楽も知らない者たちへ私は言いたい

友人たちよ、何も恐れることはない、きみたちの損失は些細なものだ
どこにも愛など存在しない
それはただのひとつの残酷なゲームで、きみたちはその敗者なのだ
それはスペシャリストだけができるゲームなのだ 
(※)ウーエルベックのいつ頃の詩なのかは知らない。ウェブ上でたまたま見つけたので、2019年3月29日、試訳してみた。たぶん明日には訳の間違いや違う意味の発見があるはず。その都度変更していくので、興味ある同志は何日か経ったらまた読み直しに来てください。
今気がついているのは、昔(70年代頃)、フランスでハードコアポルノの映画館上映ができるようになって、一般上映館がつぶれて町にポルノ映画館がいっぱい出来た頃、その手の映画館の中は真剣な顔した中高年が多かった。ただ、あの頃はまだこれも「映画」であったので、シナリオ&ストーリーがあって、その手の客が待っているシーンになかなかたどり着かない。そういう客たちがつまらん物語よりも早く性交シーンを始めて欲しいというブーイングを(映画なのに!)立てるのだけど、この時「セックス!」「セックス!」と連呼するのではなく、その意味するところは同じでも、"L'amour! l'amour!”と要求する声を聞いたことがある。この詩を読んだ時に、即座に思い出したのは、その70年代のポルノ映画館のおっさんたちの不満の声だった。たぶんこの解釈は直接は当たっていないけれど、遠くないものだ、という自信がある。いつか本人に聞いてみたい。

(↓)ウーエルベック「愛、愛」、朗読ブランシュ・ガルダン


(↓)ウーエルベック「愛、愛」、作曲・歌:ミッシェル・ジャンリス

2019年3月27日水曜日

黄色はチューウィー

フランソワ・リュファン『おまえの知らないこの国』
François Fuffin "Ce pays que tu ne connaîs pas"

ランソワ・リュファンは1975年北フランス、カレーの生まれ、ピカルディー地方ソンム県都アミアンを活動の地盤とするジャーナリスト/新聞主宰者(1999年創立の左翼オルタナティヴ新聞FAKIR)/映画監督であり、2017年6月の国会選挙でソンム県「立てピカルディー」会派から立候補して当選し、現在国会議員(所属は「服従しないフランス France Insoumise」党)。本書でも詳しく触れられているが、2歳年下である1977年アミアン生まれの現大統領エマニュエル・マクロンとは、アミアンのリセ・ラ・プロヴィダンス(イエズス会系の私立学校)ですれ違っていたはずである。地方左翼新聞の行動的ジャーナリストだったリュファンが全国的に名前を知られるようになったのは、2016年リュファン監督のドキュメンタリー映画『メルシー、パトロン!』(フランス第1位の超富豪ベルナール・アルノー自身から、その巨大企業LVMHの北フランスの子会社工場の閉鎖で困窮する労働者夫婦があの手この手で損害賠償金を奪取するまでの記録映画、4ヶ月で観客50万人を動員する異例のヒット作にしてセザール賞最優秀ドキュメンタリー)によってであり、ちょうどその映画が話題になっていた当時、社会党エル・コモリ労相による労働法改悪反対運動の興隆があり、さらにパリ・レピュブリック広場を占拠して夜を徹しての討論集会運動「ニュイ・ドブー」にヒーロー的に登場し、一躍中央メディアの寵児になった(テレビ出演時は必ずベルナール・アルノーのポートレートの"I ❤️ Bernard" Tシャツを着用していた)。
 時は移り、今は2018年11月にフランス全土から湧き上がった民衆抗議行動であるジレ・ジョーヌ(黄色いチョッキ)運動の只中にあり、これを書いている2019年3月末現在、運動に衰えはない。4ヶ月を経て、なぜこの運動が終わろうとしないのか? それはエマニュエル・マクロンとその政府が有効な回答を何一つ示すことなく、力(警察+先週からは軍隊も)によって鎮静させて逃げ切ることしか考えていないからである。
 フランソワ・リュファンは最も強力で積極的な運動支援者のひとりであり、自身がニューステレビの座談会に招かれる時は必ずジレ・ジョーヌの運動家を同席させ発言させる。
 2018年12月、ジレ・ジョーヌ危機打開策として大統領マクロンは「グラン・デバ・ナシオナル Grand débat national」と称する全国規模での国民参加原則の大討論会を12月から4ヶ月間に渡って行い、「税制と公的支出」、「公共サービス」、「環境変化問題」、「民主主義と市民権」の4つのテーマで国民の意見を吸収する、と発表。野に下って、民の言うことに耳を傾けよう、という試み。この4つのテーマから、(マクロンが廃止した)富裕税(ISF)の復活というジレ・ジョーヌの要求が除外され、討議対象にならないことからジレ・ジョーヌの大半はこのグラン・デバ・ナシオナルに背を向けている。ジレ・ジョーヌたちは週日は全国の地方幹線道路の都市部入り口のロータリー(ラウンダバウド)を封鎖する抗議活動をし、週末(毎土曜日)にパリをはじめとする都市部に出てデモ行進で要求を訴えている。フランス全国である。
  フランソワ・リュファンは、大統領マクロンが「野に降りて」地方に出向いて(かなり積極的に)グラン・デバ・ナシオナルの討論会にマラソン的に行脚しはじめたのと同じ時期に、友人の映画監督ジル・ペレと共に小さなバン車(シトロエン・ベルランゴ)に撮影カメラを積んで、地元アミアンを皮切りにフランスを南下縦断して地中海に至る「ジレ・ジョーヌたちと出会う旅」に出発する。その各地での出会いは、2019年4月3日公開のドキュメンタリー・ロードムーヴィー『J'veux du soleil(太陽が欲しい)』としてまとめられる。(この映画に関しては4月3日に観たのち、ブログかどこか雑誌にきちんと紹介します。) 本書はおそらくこのロードムーヴィーと同時期に書かれたものであろうし、本にも多くのジレ・ジョーヌたちが登場する。ペギー、アンヌ、ロールリンヌ、ズービール、マックス.... これらの名前で登場する人たちは、ソーシャルワーカー、介護ヘルパー、工場労働者、運転手、失業者、老齢年金生活者... 毎月400ユーロから1000ユーロ(5万円〜12万円)の収入で家族と共に生きている。"Fin du mois"(月末)が苦しいどころではなく、月半ばにして家計ゼロになる窮状の中にある人々である。社会運動や政治運動、ましてや労組に関わったこともないような人たちが、2018年11月、地方道路のロータリーに集まり交通妨害をしながらビラを配り、自分たちの我慢の限界を訴えた。日本からは見えないかもしれないが、フランスは圧倒的多数の人々が貧しいのである。それもいつの頃からこんなに貧しくなったと気づかぬうちに、みんな急速に貧しくなった。逆に金持ちは信じがたい伸び率で天井知らずの金持ちになっている。当たり前におかしい話なのである。
 本書はなぜジレ・ジョーヌたちがスローガンの第一に「マクロン辞任!」を掲げるのかという理由が明瞭に理解できる。それは民衆の困窮化の信じがたいスピードを止める大統領ではなく、ますます加速させる者であり、同時に金持ちが信じがたい伸び率で超金持ちになることをますます加速させる者だからなのである。
 この数十年、フランスの不幸の元凶は「失業」とされてきた。失業率を下げるというのが毎度の大統領選挙の各候補の第一公約だった。この失業べらし政策として金持ちに金をばらまくという不可思議なロジックがある。それは大企業主や資本家たちがフランスの重税を理由に、企業や資本や経営者自身を外国に流出させることを防ぐには、彼らの重税を解き、裕福になってもらってその富をさらなる国内資本投下に導くことである、という説。金持ちが増収して満足すれば、企業はフランスで大きくなり雇用も増える、と。金持ちよ、フランスから逃げて行かないでください、と優遇することが失業べらしと雇用の拡大に最も有効であるのだそうだ。マクロンはこのロジックで、裕福税(ISF)を廃止した。おいおい、それでもフランスでどんどん工場は閉鎖され、賃金の安い外国に移転しているではないか、という批判には、失業率がこの程度で抑えられているのは、この金持ち優遇策のおかげなんです、それをしていなければ、フランスに資本家と大企業はガタ減りし、失業率は倍増しているはずです、としゃあしゃあと言うのである。景気回復は資本家層が潤ってからこそ訪れる、というアベノミクス発想と何ら変わらない。
 マクロンとはそんなやつだったのか? ー 本書はまさにそのことを詳説している。リュファンの地元、アミアンで生まれたこの貴公子のように振る舞う若き大統領は、いかにして独占資本階級(オリガルシー)によって蝶よ花よと育てられ、たっぷり金を与えられ、超資本家たちの固く閉ざされたサークルに出入りを許され、ちやほやされ、そのサークルの利益のために大統領にしていただいた、そのストーリーをクロノロジカルに記述している。
 このオリガルシーとはベルナール・アルノー(LVMH)、グザヴィエ・ニエル(テレコム)、フランソワ=アンリ・ピノー(Pinaultグループ)、パトリック・ドライ(テレコム、メディア)、マルタン・ブイーグ(TF1、ゼネコン)、アルノー・ラガルデール(メディア)、ヴァンサン・ボロレ(運輸、重工業、メディア)、セルジュ・ダッソー(2018年没、航空機、兵器)などのことである。フランスが特殊なのはこの寡占的資本家たちが、有力メディア(民放ラジオ/テレビ、新聞雑誌、ウェブメディア等)の所有者なのである。フィガロやパリジアンのような保守寄りメディアだけでなく、左寄りと言われるル・モンド(社主グザヴィエ・ニエルとマチュー・ピガス)、リベラシオン(社主パトリック・ドライ)まで例外なくこのサークルの資本家がパトロンである。これらのメディアのパトロンたちはこぞって「次期大統領マクロン」を推し、その配下のメディアは2016年の時点で立候補表明前から若きキレ者経済相とその優雅な公生活と私生活をスター扱いで第一面報道を繰り返した。大統領選が始まる前からコミュニケーション戦術では既に圧倒的に優位だったわけである。
 私たちは往々にして「報道の自由」「報道の独立性」という点においては、フランスは世界でも上位にある健全報道の国と思いがちであるが、リュファンの詳説するマクロン大統領誕生における(ある息のかかった)フランスの大メディアの役割を知らされると、あ〜あ、と嘆きたくなる。だから、国営ラジオのフランス・アンテール、ウェブメディアのメディアパート、 風刺(&暴露)新聞のカナール・アンシェネ、風刺画報のシャルリー・エブドが、この国には絶対必要なのである。その中にリュファン主宰の新聞ファキールも加えておこう。
  ENA(国立行政学院。エリート養成グランゼコールのひとつ)卒業後、上級公務員(財政検査官)となる前、マクロンはオワーズ県庁の研修中に、土地の有力実業家アンリ・エルマン(1924-2016)の目に止まる。エルマンは戦後フランスで郊外型ハイパー・マーケット/ショッピングセンターのパイオニアのひとりで、大規模センターの全国展開で大成功した男だが、マクロンをわが子のように可愛がり、財を成す方法、人脈の作り方などを伝授し、自ら媒酌人となって結婚させたブリジット&エマニュエルのマクロン新郎新婦にポケットマネー(55万ユーロ=1370万円)で家屋を進呈する。財界とつきあうには自ら財を成さなければならないという教え。そこから(サルコジ大統領の諮問機関のジャック・アタリ座長の)「フランス経済成長自由化委員会」の報告書作者となったり、ロスチャイルド国際投資銀行の重役になったりするのだが、人脈はエルマンから。そしてエルマンは大実業家・大資産家の身ながら社会党員なのだった。財を成す社会党員ということだけで、私などは疑ってしまうが、大企業と連動で国の政治を進めるしかなかったミッテランの14年間(1981 - 1995)で社会党は大きく変わった。そのふにゃふにゃになった社会党の候補でも、サルコジの失政に愛想を尽かしたフランス人は2012年フランソワ・オランドを大統領にした。そこで若きエリート君はオランドの右腕のキレ者経済相となるのだが...。そのENA → 高級官僚 →アタリ委員会 → ロスチャイルド銀行 → 経済相という黄金の出世コースと並行して、エルマンが仲介となって開ける超強烈なオリガルシー人脈が固められていき、オリガルシーの利益確保&倍増のための大統領誕生のシナリオは確実なものになってしまったのである。
 リュファンはこの上昇ストーリーを、ほとんど悪意をこめて書いている。この男はものをもらうことを拒まない。エルマンにヴァカンス招待されることも、ベルナール・アルノーに頻繁に食事接待を受けることも、妻ブリジットがルイ・ヴィットンからすべて無料で衣服を与えられることも。マクロンはやってもらったことすべてを大統領としてお返ししていくだけのことである。
 富裕税を廃止した穴埋めを、老齢年金から引くCSG(一般福祉税)のパーセンテージを上げたり、住宅保護手当の額を削ったりして補う。つまり金持ちに金をばらまき、その分貧乏人から吸い上げる。ジレ・ジョーヌたちは、それがオリガルシーの子飼いでしかないマクロンの本意だと見抜いているから、もう単純に「マクロン辞任!」で闘争するしかないのだ。
 この怒りをより鮮明にわかってもらうために、この本はマクロン天下取りストーリーと、地方道路のロータリーでバリケードを組む人々の現実を交互に挿入している。おそらくドキュメンタリー映画だと、もっともっと鮮明になるだろう。
 そして本書のタイトルが伝えるように、たとえどんなにマクロンが野に下りて「グラン・デバ・ナシオナル」に奔走しようが、マクロンはフランスの人々を知ることができないし、知ろうともしない。だが、マクロンが生返事をし、高圧的に機動隊や軍隊でジレ・ジョーヌたちを力づくで押えこもうとすればするほど、黄色い蛍光は輝きを増していくであろう。11月から始まったこの運動は、冬を越したのだ。季節はこれから、街頭に出る人たちに味方する。花も太陽もジレ・ジョーヌに味方する。

François Ruffin "CE PAYS QUE TU NE CONNAIS PAS"
Les Arènes 刊 2019年2月20日 220頁  15ユーロ

(↓)予告なしに出版された本書について語るフランソワ・リュファン


(↓)ドキュメンタリー映画『太陽が欲しい(J'veux du soleil)』予告編


2019年3月18日月曜日

Why don't you write me (手紙が欲しい)

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』
"The Death and Life of John F. Donovan"

2018年カナダ映画
監督:グザヴィエ・ドラン
主演;キット・ハリントン、ナタリー・ポートマン、ジェイコブ・トレンブレー、スーザン・サランドン
フランスでの公開:2019年3月13日

ベック出身の映画界のアンファン・テリブル(当年30歳)、グザヴィエ・ドラン初の「英語映画」。2018年9月10日、トロント映画祭で初上映されるも、アメリカとカナダのメディアの酷評によって、カナダとアメリカでは一般上映が期限なく延期になっている。その酷評とは、10年間に7本(!)長編映画を撮ってきたドランの、金太郎飴のような毎度の同じテーマ、母と息子の愛憎・確執、ホモセクシュアリティー、それに対する虐め・社会的疎外など、これしかこの監督にはないのか、といったことだと想像する。大予算+豪華キャストによる21世紀映画のアンファン・テリブルの新作の上映は北米で立ち往生しているが、映画出資国のひとつフランスがそれではということで封切に踏み切った。フランスは世界で最もドランの支持者が多い国だろう。かくしてこの3月13日のフランス封切りが世界初の一般上映。
 唐突に私事であるが、2019年1月に亡くなった母と約1年間続いた文通をきっかけに、私は他の人たちにも手紙や絵はがきを書くようになった。ボールペン字で書いて、切手を貼って投函する。手元に自分が書いたことが残らない。普通郵便であるから、着信されたのかどうかもわからない。こういう手作業で前時代的な手紙は、メールその他の電子コミュニケーションに慣れた者には不安なものだ。出ていった手紙は何を書いたんだっけ?着くのだろうか?返事は来るのだろうか?何日かかるのだろう? ー これが手紙だ。手書きで、書きしくじりをしながら、誤字脱字をしながら、自分の言葉を伝える。スリリングなものである。緊張感は返事を待つ日数に比例する。受け取った手紙の自筆筆跡に感じるものがある。すぐに返事を書きたくなる。これが手紙だ。
 この作品は21世紀を舞台にしているが、手紙がものを言う映画である。緑のインクで書いてある。そういうことがものを言う映画である。手書き文字がどんなものであるかがものを言う映画である。
 冒頭はアメリカの少し前までの大スター(テレビ連ドラ、スーパーヒーロー映画)俳優ジョン(演キット・ハリントン)がニューヨークの自宅で死体で発見される。自殺ともオーヴァードーズ死とも。その10年後、イギリス在の若い俳優ルパート(演ベン・シュネッツァー)がジョン・F ・ドノヴァンの死の真相を知っていると名乗り出、芸能ジャーナリストではない、政治・社会・国際問題に筆をふるう(フランス語では "grand reporteur"と言うのだが日本語では?)第一線記者であるオードリー(演タンディー・ニュートン)にコンタクトを取り、ワルシャワでインタヴューを受ける。映画はここからルパートのオードリーへの証言の再現フィルムとして展開され、そこに登場する少年ルパート(演ジェイコブ・トレンブレー。映画の主役という意味ではこの少年であろう。怪演)が、イギリスにいながらどのようにアメリカのスター俳優と交流していたかを映し出していく。まずルパートの家庭は母一人子一人であり、父は離婚別居していて、二人は母サム(演ナタリー・ポートマン)の事情でアメリカからイギリスに移住している。この時点で既にジョン・ドノヴァンの大ファンであり、子役俳優になってジョンと共演したいという夢を抱いていた少年には、この移住は大きな痛手であった。途中で転入したイギリスの学校では、アメリカ訛りをバカにされるだけでなく露骨な「ジェンダーいじめ」を受ける。このいじめは陰湿かつ暴力的である。クラスメイト誰一人庇ってくれない。友だちのいない孤独な子供だが、文章力はあり、その才能と想像力は教師が評価しているが、作文課題でクラス全員の前で発表した「米スター俳優との文通」は、教師は孤独ゆえの想像力の一人歩きと決めつける。少年ルパートは、母親にも言えぬ、唯一の心の支えがジョン・ドノヴァンであり、そのテレビ連ドラの全シーンを暗記し、これさえ見ればすべてを忘れることができるほどののめり込み方でスターを崇拝し、滾る想いをこめて手紙をしたためる。あろうことか、この少年の熱い手紙にスターは返事を出すのである。なぜなら、スターもまた同じように孤独であったのだから。
 めちゃくちゃなやり手の女ジャーマネのバーバラ(演キャシー・ベイツ。晩年のシモーヌ・シニョレを想わせる凄み)にスターダムの軌道に乗せられ、幼なじみの女優エイミーとヘテロ・カップルを偽装しているが、この男優スターの座を守るためにジョン・ドノヴァンがゲイであることは秘密にされている。ジョンもまた燃えるような恋をするのだが、スキャンダルを避けるために自らその恋を絶ってしまう。ここでジョンはなぜ自分らしく自分の思いのままに生きられないのか、という思いをこの声変わりもしていないような少年に手紙で吐露するのである。緑のインクで書かれた手紙の文通は5年間続く。
 映画のもうひとつの重要なテーマは母と息子の関係であり、2014年のドラン作品『マミー』 で展開された極端に親密で複雑な母子関係のヴァリエーションのような、ルパートとその母サラ、ジョンとその母グレース(演スーザン・サランドン。アル中で多弁で高圧的でわれこそ世界の中心のように振る舞う庶民女性像。素晴らしい!)の、それぞれの愛情と憎悪と下手な表現とが絡み合った関係がパラレルに進行する。最終的に母と子は和解するのだけれど、それまでの激しい応酬には、ドラン映画的既視感が否めないものだが、これがドランがうまいんだからしかたない。なぜわかりあえないのか、なぜ意志とは裏腹に会話は空虚にすれ違うのか、これが終盤にふ〜っと解消して涙するのはドラン映画のマジックではありませんか。
 イギリスにいる孤独な少年とアメリカにいる孤独なスター俳優は、その秘めた文通で結ばれているものの、一度も会うことなくジョンは死んでしまう。その死のきっかけは、イギリスで暴露されてしまったこの文通の事実を、アメリカでスター俳優が公の場所(テレビインタヴュー)で一笑のもとに否定して、スキャンダルを防ごうとしたこと。そこからジョンはこれまでの人生で最も大切だったものを否定したことにバランスを崩し、俳優業もできぬほど落ちていき、ショービジネスはこの男を捨てる...。そのことの次第のすべてを少年ルパートは知っていた、というわけである。
 ドランのカメラワークは毛穴が見えるほどの顔の大写しばかりで、顔がみなすごい。ものを言う表情はものを言うよりも雄弁である。特に母親役二人、ナタリー・ポートマンとスーザン・サランドンの顔に圧倒される。悪い母親が泣かせる母親に変わっていく移り変わりが大写しで見れるのである。
 最初に書いたように、この映画はたいへんな揉め事に絡まれている。ドラン最初の「英語映画」であり、米の大スターで俳優陣をかため、3年の撮影の末に、最初の編集で4時間になったものを最終的には2時間にまで縮めた。消されたのは(米スター女優)ジェシカ・チャステインが関わったすべてのシーン。これはジョン・F・ドノヴァンのスキャンダルを嗅ぎつけ執拗に追及していく女性(芸能)ジャーナリストの役だったのだそうだが、ジョンを自殺に追い詰める鍵となる人物だったはず。これをドランがばっさり(大スター出演シーンを)全部カットした、という裏側事情もアメリカのメディアのこの映画非難の材料になったと思われる。気にしなくていいと思う。完成されて私が観た2時間のヴァージョンはそれだけで十分に完成度が高い。
 問題ではないが、気にさわるのは、アイデンティティーのことであり、この映画の二人の中心人物、ルパート少年と俳優ドノヴァンの、母親と複雑な関係にあるゲイの子供、というドランが自己投影しているに違いないパーソナリティ。「これしか撮れないの?」という気がしないでもない。わかりやすい。ドランはそれでいいのだろう。
 EメールやSNSの時代に、手紙がものを言うストーリーは、古典回帰のような効果もある。クラシックな雰囲気はこの若い監督(30歳)の得意とするところかもしれないが、私たちが忘れかけているものでもある。手紙の人肌と情緒を体感する映画である。手紙を復権させよう。

(↓)『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』予告編


(↓)仏プルミエール誌のインタヴューで『ジョン・F・ドノヴァン』を語るグザヴィエ・ドラン(2019年2月)


(↓)記事タイトルの出典はサイモンとガーファンクル「手紙が欲しい」(1969年)

2019年3月12日火曜日

姐ェよ銃をとれ

『江湖儿女』
仏語題 "LES ETERNELS"
英語題 "ASH IS PUREST WHITE"


2018年中国映画
(2018年カンヌ映画祭出品作)
監督:ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)
主演:チャオ・タオ(趙濤)、リャオ・ファン(廖凡)
フランス公開:2019年3月6日
 
 舞台は中国内陸部の山西(シャンシー)省の大同(ダートン)、時は2001年から2017年まで。この時の移り変わりは携帯電話からスマホまで、オンボロ乗合バスからかの「高速鉄道」まで、ひなびた炭鉱の町に巨大なサッカースタジアムが建設されるまで、という背景映像でよくわかる。目まぐるしいまでの「発展」である。物語はこの地方都市で賭場や密売などでシマを張っている極道グループがあり、その若きカシラで義侠に厚いビン(演リャオ・ファン)とその愛人キャオ(演チャオ・タオ)の極道ラヴストーリーから始まります。カシラと姐御、その睨みの利かせ方や部下の統率もいい感じ、任侠の世界かくあるべし、という図。消えていく炭鉱で一生働いて社会主義建設を目指していたキャオの父親は、資本主義的変容に最後まで抵抗する老兵のように頑固だが、カタギでなくなったキャオの父への思いはせつない。カタギか極道かという身の置き方の前に、世の不条理・不道に痛めつけられ、それから自衛するために兄弟/一家を築いてきた、「惚れましたぜ、兄貴っ」というノリ。当然この映画にもヤクザ映画やマフィア映画のたくさんのエッセンスが詰まっているのだが、古典的というよりはタランティーノ/北野武寄り。ディスコで愛のダンスのようにYMCA(ヴィレッジ・ピープル)を踊るカシラと姐御。まじに美しい。
そして宴の終わりに、カシラ、姐御、腹心の舎弟たちが、持ち寄った様々な酒瓶を全部タライの中にぶちまけてごちゃごちゃに混ぜ、その濃〜い混じり酒をめいめいコップですくって、乾杯一気飲みをして「永遠の兄弟の誓い」を立てるのです。まじに美しい。
さらにカシラはその命を預けるように、姐御に自分の護身用の拳銃を渡す。それを手にしたらもう永遠に極道である。引導を渡されたようなもの。これをキャオは永遠の愛を誓い合ったことだと確信するのだが...。野の丘の上で拳銃を二人の手で撃つシーンがこの映画のポスターになっている。まじに美しい。
 しかしこの「永遠」があっけなく崩壊するのが、極道の世界でして。 夜、ダートンの繁華街を(運転手つき)黒塗り高級車で走行するビンとキャオの行く手を阻むチンピラ軍団、車を取り囲み、凶器(登山スコップ?)で攻撃を始める。運転手が応戦するが多勢に無勢、ついにビンも車を降り、鉄拳でチンピラたちを殴り倒していくが、これも多勢に無勢、集団のスコップの殴打に敗色濃厚、そこへ姐御キャオが拳銃を空に向けてバーン、ついで銃口をチンピラどもに向け、ものすごい形相で睨みつけ、さらにもう一度空に向けてバーンっ!
 その場の騒ぎはそれで治ったものの、キャオとビンは警察に捕らえられ、裁判にかけられる。裁判の最大の争点は一体この銃は誰のものかということで、キャオはビンをかばうために一貫して銃は自分のものだと証言する。その結果、キャオは4年の禁固刑をくらい、ビンは1年だけの刑で先に出所する。しかし4年の懲役刑を終えて、キャオが出所した時、刑務所の門にビンは迎えに来ていなかった...。
 ダートンに帰ってみれば、ビンの姿がないどころか、その極道グループは既に解散して昔のことは誰も語りたがらない。ここから映画はメロドラマ化し、キャオはビンの行方を方々探し回り、まるで隠れるように逃げ回るビンをついに探し出して、もう一度やり直そうと手を差し伸べるのだが...。すでに眼光も極道パワーも覇気も失っていたビンは、俺にはもう女がいる、とその手を払い、二人の永遠の誓いはご破算になるのだった。
 月日は流れ、キャオはダートンの町で再び賭場の姐御としていっぱしの極道として復帰し、高級ブランドの衣服で身を飾っていた。ダートンにも開通した「中国高速鉄道」、その駅に車椅子に乗った半身不随のビンが降ろされた。キャオはその障害のある中年男をその一家に「客人」として迎え入れる。その話では、長年の極端なアルコール摂取により神経を患い、下半身がまったく動かなくなったのだ、と。病院の診断ではもう手の施しようがないと言うのだが...。
 ダートンに十数年ぶりに姿を見せたビンであったが、かつてのギャングヒーローの落ちぶれた姿にかつての舎弟たちも冷たい。それをキャオはひとりで庇い、絶対に元どおりのビンに戻してみせる、二人でまたやり直すんだ、といじらしくも甲斐甲斐しい極道姐御ぶりを発揮します。ここが中国映画のマジック。ここで奇跡を起こすのだね。西洋医学では全く手が出せない分野で、中国三千年の叡智はこの神経疾患を針治療で治していくのです!下肢が少しずつ動くようになったビンを車椅子に乗せて、あの若い日に二人で拳銃を射った野の丘の上に連れていく。そこでキャオは車椅子から5メートルほど離れた位置に立ち、ビンに立ってここまで来い、と手招きするのです! ー これは『アルプスの少女ハイジ』の「クララが歩いたぁぁぁっ!!!」シーンの再現でなくて何であろうか。泣くよね。

 しかしこの任侠メロドラマはハッピーエンドではない。結末には触れないでおくが、この耐えて信じて命かけて「永遠」を通そうとしたキャオという女性の気高さを、この元ギャングヒーローは受け止めることができない。釣り合いが取れない。どうしていいのかわからない。ルーザーはやはり去るしかないのかもしれないが、映画の余韻は、また繰り返される永遠のメロドラマの方向性も。軽妙な任侠メロドラマのように始まるこの映画はどんどん女の顔と共に熟していく。このキャオを演じるチャオ・タオという女優(ジャ・ジャンクー監督の奥様だそう)の、姐御から菩薩に至る女性の凄さを体現する演技の素晴らしさに尽きると思うよ。

 映画で挿入されるエピソードで、キャオがビンと再会し破局して、ひとりダートンに長距離電車で帰る途中、ひとりの男にナンパされかける話がある。この男は口がうまく弁が立ち、喋り出したら周りの人間をすべて巻き込んでその論を詳細展開して説得するタイプ。滅法押しがきく営業マン型。2019年的には世良商事型と言うべきか。つまり山師ということ。この男がキャオをその話に引き込んで、刑務所上がりで職を探しているというキャオに僕のところで働いていいから、と。そのホラ話は彼は観光エージェントであり、今、某地区にある壮大な観光プロジェクトを立てているのだ、と。その場にいた電車の乗客たちは、あそこは観光と言っても何もないところだよ、と否定的。実際何もないのだけれどね、その住民たちは他の地にはない奇妙な体験をしているのだ、それは多くの人たちがUFOと遭遇したと証言しているのだ、と。そのプロジェクトというのはその村に、UFO体験のできるテーマパークを作り、全世界に宣伝すれば、その数知れない数の愛好者たちは世界から集まって来る、と。なるほど、と一同納得してしまうんだね。で、キャオもその話を半信半疑ながら、この男、悪い感じがしない、とふらふらとついて行きそうになる。電車を乗り換え、その男と二人旅になり、夜汽車は行くのであったが、ちょっとボーっとしていたキャオはわれにかえり、ある停車駅で、深々と寝入っている男を車内に置き去りにして、ひとり下車する。降りてみたはいいが、そこは真っ暗で人気のない小さな駅、右も左もわからない。さあどうしようと呆然としていると、急に頭上が明るくなり、見たこともないような物体の気配が....。私、このエピソードはこの映画の宝石だと思いますよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『江湖儿女 - LES ETERNELS』 フランス語版予告編。


(↓)カシラと姐御と舎弟たちが同じたらいの混じり酒を飲み、永遠の兄弟仁義の誓いを立てるシーン。

 
 

2019年3月3日日曜日

レイラ・スリマニ、カール・ラガーフェルドを悼む

2019年2月19日、(推定)85歳で亡くなったファッションクリエーター、カール・ラガーフェルドを追悼特集した週刊レ・ザンロキュプティーブル誌2月27日号に、ゴンクール賞作家レイラ・スリマニの故人を惜しむ談話が掲載されている。古典文学への深い造詣で知られ、その蔵書30万部と言われる書庫とそれに隣接したラガーフェルド選書書店(Librairie 7L, 7 rue de Lille 75007 Paris)で交わされたラガーフェルドとスリマニの会話の思い出を語っている。(この圧倒的な書庫の空間は、2017年1月にフランス国営テレビFRANCE 2のレア・サラメの番組 "STUPEFIANT!”で映し出されているので、(↓)に動画を貼っておきます)
以下、レ・ザンロキュプティーブル誌およびレイラ・スリマニに無断で同談話を日本語訳してみます。

Leïla Slimani : "C'était quelqu'un d'une grande profondeur"
レイラ・スリマニ:「偉大な深みを持った人物」

の最初の小説『鬼の庭で(Dans le jardin de l'ogre)』(2014年)の刊行のあと、彼のファッションショーに招待された。ショーが終わり、彼が招待客たちを接待しているサロンに通された。私と彼は座につき、本について語り始めた。私と彼の会話はいつも文学が話題の中心だった。彼は驚くほど多くの現代文学を読んでいて、それらについてとてもはっきりした意見を持っていて、とても楽しかった。その意見がとても厳しいのは、彼がとても古典文学を愛していたからだと私は思っている。彼は自分たちの時代の最も偉大な文豪たちはすでに皆死んでしまったという印象を抱いていた。彼の意見はみな興味深く、私たちが日頃あちらこちらで聞く意見とは全く違っていた。私は彼の素晴らしい書庫に入るという幸運を得た、ユニヴェルシテ通りの彼の自宅のすぐとなりにあり、信じられないほど高い天井の一間で、何万という数の本が収められていた。そして彼は今しがたそれについて語った書物がどこに置いてあるかを言うことができた。あらゆる言語の本があり、彼は同じ書物をドイツ語と英語とフランス語で読んでいた。彼にはそれがごく自然のことで、どの言語で読んでいるのか全く意識されないほどだと語っていた。私に多く語っていたのは17世紀の文学、特にラ・ファイエット夫人についてだった。彼はそのエスプリを愛していた。総体的に彼は、エスプリ、才気、人間性といったことにとても敏感なところがあった。私は彼に、あなたはとても17世紀的なところがあって、気の利いた言葉を操るのがとても好きなので、当時での文芸サロンでは目立っていたでしょうね、と言った。また、彼はドイツ文学についても語った。彼は子供の頃ゲーテを読んでいて、そのパッセージを暗記していた。彼はトーマス・マンについてもたくさん語ってくれた。その上彼は「イリヤス」と「オデュッセイア」の叙事詩を正確に語ることでできる人でもあった。彼はとても古典的な「オネットム honnête homme」(註:17世紀社交界の範と考えられた紳士、節度を心得、婦人に丁寧で言動の洗練された貴族 ← スタンダード仏和辞典より)の教育を受けた人だった。
さらに彼はミッシェル・ウーエルベックを熱愛していて、天才的で世を覆す作家と評していた。彼が大いに気に入ったのはウーエルベックがポリティカル・コレクトネスに全く屈することがないということ。
カール・ラガーフェルドは非常に豊かなユーモアの持ち主で、実生活にはある程度距離を置いているけれど、とても奇妙なのは、彼は今日の資本主義と消費商業主義のアイコンであり、象徴であるのにも関わらず、それに対して非常に明晰な視点を持ち、この消費社会に飲み込まれないために脇道に進むということができた人物であったということ。それが彼の最も素晴らしい点であり、誰かが彼を何かの中に押し込めようとしたとたん、彼は即座に彼のいる場所についてはすべてお見通しだという言葉を発することができ、人がそれについてどう思おうが知ったことではないという態度をとること。
私は世の中には二つのタイプのアーチストたちがいると思っている。一つめは、今日の大多数であるが、過去の知識なしに創造することが可能だと思っている人たち。私たち文学の世界では、「私は一切本を読まずに作品が書ける」と言う作家たちで、私は信用しないが。もう一つは、過去において創られたものと共に創造して、その歴史の中に自らを刻もうとする人たち。カール・ラガーフェルドは後者である。彼は非常に多くの図と形と歴史を消化し、理解し、自分のものにしたが、それは彼にとって全く重荷ではなく、その考証学的博識が彼の創造を助けたのである。そしてまたその博識が彼を市場の原則から自らを防衛することの手助けとなったのだ。彼は偉大なる読者であり、彼は人間の条件とは何かを知る真の知識があったのだ。それは偉大な深みを持った人物だった。
彼の人間性に関する視点は? "空の空。伝道者は言う。空の空。一切は空。” 奥底のところで、彼は人間たちを断定していなかった。彼は人間たちに大きな優しさを持っていた、なぜなら彼はそれ自身の弱点である有限性ということを理解していたのだから。だからこそ言おう、空の空、一切は空、それは翼を与えることもできるし、あなたを地面に墜落させることもできる。そしてそれは彼に翼を与えたのだ。彼はその人生を一冊のロマンにし、ひとつの並外れた物語にしたのだ。
(聞き手/まとめ:ネリー・カプリエリアン)

(↓)カール・ラガーフェルドの書店と書庫で撮影が行われた国営FRANCE 2 レア・サラメの番組"Stupéfiant!"(2017年1月)

2019年3月1日金曜日

アバターもえくぼ

『あなたがそう信じている女』
"Celle que vous croyez"

2018年制作フランス映画
監督:サフィー・ネブー
原作:カミーユ・ローランス小説 "Celle que vous croyez" (Gallimard 2015年)
主演:ジュリエット・ビノッシュ、ニコル・ガルシア、フランソワ・シヴィル
音楽:イブラヒム・マールーフ
フランス公開:2019年2月27日 

21世紀環境(SNS、スマホ、ヴァーチャル・リアリティー...)がものを言う作品のようでありながら、根っこのテーマは古典的です。女は年老いたら(この場合50歳!)おしまいなのか。例えば50歳の男(この場合60歳でも70歳でも80歳でも)が24歳の女と恋仲になるというのはさほど不自然さを感じさせるものではない。ところが50歳の女が24歳の男と恋仲になるというのはそうではないでしょ?という世間様の目。主人公クレール(演ジュリエット・ビノッシュ)が恐れるのはその世間様の目ではなく、うまく行くわけがないでしょ、という自分自身への縛りなのです。それは老いであり、若々しくない容姿であり、人生(結婚、出産子育て、仕事、社会的ポジション)を知ってしまった若くないものの考え方であり...。このコンプレックスが根底にあるのが、ダリダ「18歳の彼」と変わらないものがあるわけですね。それは根強く残っているものでしょうけど、私としてはね、今日の50歳の女性たちはそこから脱して生きている人たちが多いと信じたいですね。最初からこの映画のちょっとひっかかったところを書きました。それはそれ。
 さて映画は大学のフランス文学教授であるクレール(50歳)が、若い愛人で建築家のリュドー(演ギヨーム・グイックス)との激しい情交のあった夜の翌朝、あっけなく振られるという始まりです。リュドーはかなりずけずけと二人の歳の差のことを言い、おばさんとは釣り合わないよね、という態度のサイテーの男なんですが、恋は(一方的に)盲目というやつで、女教授は大きなダメージを受けます。クレールは前夫ジル(演シャルル・ベルリング)と20年間共に生き、2人の男児をもうけるのですが、映画の後半で分かる理由で破局し、今は十代になった息子2人と3人暮らし。まだ手のかかる子供たちを抱え、このまま更年期となって年老いていく、という暗い展望と必死になって抵抗している風がありますが、この若いリュドーとの残酷な失恋に、もう女として恋愛することの最後であるかのような傷つき方をします。
 時期としてはその次にさらに激しい傷つき方をした時に、精神的な疾患をきたし、精神医であるボールマンス博士(演ニコル・ガルシア)にカウンセリングに行きます。映画はここからクレールの精神医ボールマンスへの告白の映像化という進行になります。つまり、クレールはリュドーの次にさらに激しい恋愛をして傷つくというわけです。
 リュドーにまだ未練のあったクレールはその動向を探ろうとSNS(この場合フェースブック)に潜入していくのですが、実名はリュドーにブロックされると知り、アバターIDを作ります。クララという名の24歳の女性です。写真はネットから勝手に拾ってきたとクレールはボールマンスに言いますが、実は意図ありだったというタネが映画の後半で明かされます。この若くセクシーでコケットな写真のアバターは、リュドーに行き当たらず、アレックス(演フランソワ・シヴィル)というリュドー周辺の若い男(実は親友であったということがあとで分かる)の気を大いに引いてしまうのです。クレールはヴァーチャルの世界でクララに変身し、アレックスはどんどんクララに引き寄せられていく。あたかも自分が24歳に若返ったようなウキウキした気分でどんどんウソが出て、アバター・クララは誘惑ゲームに勝利するが、それはリアルのクレールには激しい恋にまで昇華してしまうんですね。アレックスは実際のクララに会いたくてしかたがない。何度もリアルの接触を試みるが、クレールは逃げていく。なぜならアレックスが会いたくて愛しているのはクララであってクレールではないことを知っているから。実際にクレールがアレックスの目の前に立つのですが、アレックスの目にはまったくクレールが気がつかない、という映画魔術のシーンがあります(美しい)。
 このヴァーチャルの激しい恋には、ア・プリオリに悪い結末が待っているに違いないのですが、クレールはクララの正体、つまり24歳の若く美しい娘ではなく50歳のクーガーであることがバレたらすべては終わると思っています。そこでウソにウソを重ねて(例えば男と住んでいるとか、結婚して外国に行くとか、バレバレのことですけど)自ら姿を消すしかないと考え、それを実行に移して、自らの招いた破局で激しい激しい悲しみのどん底に落ちて精神科医に相談に行く、という.... 実はここまでがイントロみたいなもんなんです。
 ボールマンス医師は、クレールの話を聞きながら、これは虚偽をかなり含んでいるということに気がついていて、その度に真実を話すようにとクレールを糺します。すなわち、クレールのボールマンスへの告白は、ストーリーのクレールのヴァージョンでしかないのです。そのヴァージョンを続けます。クレールはアレックスのことがどうしても忘れられずに、うすうすとアレックスと交友関係があると知っていたリュドーにコンタクトを取ります。すると、リュドーは「親友」アレックスが、熱愛していた(一度も会ったことのない)女に去られたショックで自動車自殺をした、と告げるのです。
 実在しない女との失恋での自殺 ー このありえない悲劇にどう結末をつけるのか。クレールはここで小説を書くのです。アレックスが死ぬほどの悲しみを持つその前に、クレールその人がアレックスに近づき、クララを忘れるほどに愛し合い、しかしながら、アレックスが心底から愛しているのはクレールではなくクレールに現れるクララの幻であると知った日に、「クレール=クララ」という真実を明かし、その「クレール=クララ」に死を与える、という結末の小説です。映画ですから、この小説フィクションはすべて映像再現されます。「ドクター、この結末はどうですか?」とクレールはボールマンスに問います。
 その後は詳しく書きませんが、映画はさらに別ヴァージョンをボールマンス医師が見つけてしまうのですよ。

 某誌映画評で、これが黒澤明『羅生門』(1950年)のように、証人のひとりひとりが別々のことを言う構図の映画だというのを読んで、なるほどと思いましたよ。クレールの証言のヴァージョンは虚偽ではないけれど、そこからはそうにしか見えないという視点の狭さが悲しすぎ、このインテリでありながら余裕なく切羽詰まった感あふれる役どころを演じるジュリエット・ビノッシュの素晴らしさよ。
 重要なネタバレを追加しておくと、クレールがアバター・クララのポートレイトとして使った写真は、ネット上のまったく見ず知らずの人間ではなく、親族の不幸のためにクレールが面倒を見た従姉妹のカティア(ほとんど写真だけの出演だが、マヌカン/女優のマリー=アンジュ・カスタが演じている。レティシア・カスタの妹)のものだった。そして、この若いカティアが、クレールの夫ジルと恋仲になって、離婚に至ったという話。つまり、クレールはアバター・クララでカティアに復讐する意図もあった、ということですね。
まさにこういう映画を「心理ミステリー映画」と言うんです。からくりたくさんで本当に良く出来てます。おすすめします。

カストール爺の採点:★★★★☆ 

(↓)『あなたがそう信じている女』予告編


(↓)イブラヒム・マールーフ作曲の珠玉のオリジナルスコア。