2022年5月1日日曜日

魅惑の美形シンガーの謎の死

ティーナ誌に12年間も連載されていた『それでもセーヌは流れる』は、毎回3〜4ページという長文記事だった。題材は私の独断で決められ、それが日本の読者に関心があろうがなかろうが、フランスの音楽および文化一般に関する内容で紙面は埋められていった。編集側から露骨に言われたことはないが、同誌で熱心に読まれることなどない連載だったという自覚はある。だから、時々「読まれる記事」を書きたいと悪あがきをした。マイク・ブラント(1947 - 1975)について書いた記事は、100%芸能誌ネタだった。1970年無一物でフランス上陸、フランス語も全くできないのにシングル盤が連続ミリオンヒット、短期間でスーパースターの座を手に入れ女性ファンたちを熱狂させたが、その人気の頂点にあった1975年、謎の転落死(自殺説/他殺説種々あり)。日本での知名度はたいしたものではなかったと思う。それでもこれは日本読者も興味を引いてくれる芸能ネタだろうと私は思ったのだが....。2015年マイク・ブラントの40回忌の年に書いたこれは、良くも悪くもわが連載にしては異色の記事だったと思っている。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2015年7月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


誰がバンビを殺したの?
マイク・ブラントの死から40年

(In ラティーナ誌2015年7月号)


 1975年4月25日午前11時頃、パリ16区エルランジェ通り6番地()の舗道上にマイク・ブラントの死体が発見される。同番地の最上階6階のアパルトマンから転落した。死因はオフィシャルには自殺だが、他殺説(極端なのはイスラエル秘密警察による暗殺説)もいろいろ出ている謎の死である。28歳だった。

 アウシュビッツ収容所から救出されたポーランド系ユダヤ人夫婦の長男(キプロス生れ、国籍イスラエル)本名モッシェ・ブランドは、4歳まで口が利けなかった。これがホロコースト体験のある両親から受け継いだ精神的疾患だったのかどうかは定かではないが、最後の年の2回の高い階からの転落(一度めはスイスのホテルで命を取りとめていて、2度めは前述のパリのアパルトマン)を自殺とする説にはこの精神的トラウマの影響を説明するものがある。
 イスラエルのハイファに居を固めたブランド一家は父がキブツ農場で働き糧を得るつましい生活であった。モッシェは学業も仕事も身につかない青年に育ったが、美貌に恵まれ歌がうまく、バンドを組み、観光ホテルで米国ヒット曲(プレスリー、シナトラ、トム・ジョーンズ等)を歌って人気を得ていた。やがて周辺国からも仕事が来るようになり、外国での受けを考慮して芸名をマイク・ブラントと名乗るようになった。1969年5月、テヘラン(イラン)のホテルのショーで歌っていたマイクを、ちょうどツアー中だったフランスのトップスター、シルヴィー・ヴァルタンとその付き人のカルロス(世界的に著名な児童心理学者フランソワーズ・ドルトの息子)が注目。これが幸運の出会いになって、ヴァルタンとカルロスはこの若者のフランスでの成功は間違いない、とバックアップを約束して、パリ渡航を促すのだった。



 1969年7月末、このフランス語を一言も話せない男がパリ・オルリー空港に降り立ったのは22歳の時だった。カルロスに紹介された作詞作曲家のジャン・ルナールは、その夏、ジョニー・アリディの「ク・ジュテーム(邦題:とどかぬ愛)」というメガヒット曲の作者として勢いに乗っていた。ルナールの編曲者としてコンビを組んでいたのがジャン=クロード・ヴァニエ(ゲンズブール『メロディー・ネルソンの物語』の共作者。本誌201412月号の拙稿参照)で、ブラントとルナールの初対面は、私が昨年インタヴューで訪れたパリ3区のヴァニエのアパルトマンでなされたのだ。フランス語を話せない若者に、ルナールはピアノでFマイナー(ヘ短調)の和音を弾いて、これで何か歌ってみろ、と促した。ブラントはガーシュインの「サマータイム」の冒頭をほとんどシャウトで熱唱した。15秒もせずルナールはこの声の響きに圧倒され、このアーチストの潜在力を確信した。


 デビュー曲「レス・モワ・テメ Laisse-moi t'aimer」(きみを愛させて)はルナール作詞作曲、ヴァニエ編曲で用意されたが、フランス語を解さないため、歌詞をヘブライ文字表音に置き換えて、極端な外国訛りがなくなるまで練習するのに数週間かかった。この表音置き換えで歌詞を覚えるテクニックを「フォネティック」と言うが、75年にフランスでデビューした沢田研二は同じようにカタカナによるフォネティックでフランス語歌詞を歌った。

 この70年2月のデビューシングル以来、75年に亡くなるまでの5年間にマイク・ブラントは16枚のシングル盤、4枚のLPアルバムを発表し、その売上総数は3千万枚と言われている。この5年間で区切れば、それはクロード・フランソワやジョニー・アリデイをはるかに凌いでいた。


 70年代は日本に数年遅れながらもフランスも本格的なテレビの時代に入り、大衆歌謡のヒット曲もラジオを超してテレビがヘゲモニーを握るようになった。それが曲や歌詞よりもルックスが人気のポイントになる現象を生み、レコード購買層の年齢を一挙に低下させる。こうして次々にテレビに登場したティーンネイジ・アイドルたちを、フランスでは「シャントゥール・ア・ミネット chanteurs à minettes 」(仔猫のような女の子たちに好かれる歌手)と呼び、当代の日本語ではイケメンと言うのだろうか、テレビ受けのするルックスと身のこなしと無内容なラヴソングでヒットパレードを席巻した。デイヴ、パトリック・ジュヴェ、クリスチアン・ドラグランジュ、C・ジェローム、アラン・シャンフォール... その中でマイク・ブラントは一馬身も二馬身も先を行く人気があり、コンサートでは若い女性の失神者たちがあとを断たなかった。

 

 この人気の重要なファクターがエキゾティスムであった。フランス語を一言もしゃべれない異国の王子様、言葉よりも神秘的な瞳が語りかけるエトランジェ...74年に地球規模でヒットしたソフトポルノ映画「エマニエル夫人」を思い起こしてみよう。性的倦怠を覚えていた外交官夫人が世界の片隅でアジア人導師に性のイニシエーションを授かるのである。興味本位のエキゾティスムは70年代西欧の女性たちにおいて爆発的に流行するのである。マイク・ブラントの大成功に続いて、その二匹目のドジョウを狙って、同じようにエキゾティック王子様タイプのシンガーが次々とフランスのテレビに登場する。ヨニ(イスラエル)、サンチアナ(チュニジア)、シェイク(マレーシア)、ジャイロ(アルゼンチン)、沢田研二(日本)... どれも一様に黒い長髪の美青年であり、人気は短命だった。


 5年間常に人気の頂点にあったマイク・ブラントは、この短い間に制作スタッフ、レコード会社、マネージメントを頻繁に変えている。言葉の点で不安があった彼は不透明な芸能界で誰も信用できなかった。トップヒットを連発していくうちに、自分がやりたいことはティーンネイジャーに騒がれるシャントゥール・ア・ミネットを続けるのではなく、トム・ジョーンズのようなヴォーカル・アーチストになることである。実際ブラントはコンサートで女子たちのキャーキャー叫び声に「静かにしてくれ」と訴えることが少なくなかった。

 

 数多く出ているバイオグラフィー本で、異口同音で最大の転機とされているのが、1974年のシモン・ワイントロブ(→写真。1978年に自殺。他殺説もあり)とのプロデューサー契約である。それまで音楽界とは縁のなかったこのイスラエル人はサルバドール・ダリの画商として成功して巨万の富を得、ブラントとは100%ヘブライ語でやりとりをして「兄弟のような」信頼を勝ち得たという。しかし南仏マフィアのドン、ジャン=ルイ・ファルジェット(1993年に暗殺された)との関係もある不透明極まりない人物で、ブラントと派手にメディアに登場するものの、ブラントに約束した支払いの不履行のトラブルが二人の関係を険悪にしていった。

 不眠不休(そして薬物漬け)のスーパースターは友人ジョニー・アリディの勧めで7411月スイスの私立クリニークで数日間の休養を取っている。1122日、そこから25キロ離れたジュネーヴのホテルにシモン・ワイントロブが逗留していて、ブラントは支払い不履行の抗議をするべくそのホテルまで出向いていく。12時9分、6階の509号室のバルコニーの手すりを越えてマイク・ブラントの体は地上めがけて落下していく。途中3階の雨樋いに脚がひっかかり、それがショック緩和となって地上に叩き付けられたブラントは一命を取り留めた。一体何が起こったのか?公式には極度の神経衰弱による発作的自殺未遂となっていて、この事件の瞬間にワイントロブはシャワールームでシャワーを浴びていたことになっている。別証言(歌手ダリダにブラントが打ち明けたとされる)では、ワイントロブが「空を飛びたいのか?やってみろよ」とけしかけたとされている。

 5日間の昏睡状態を抜けて、この世に帰ってきたブラントは2月までジュネーヴの病院で過ごし、雨樋いにひっかかることで彼の命を救った左脚の回復を待ってカムバックを心に誓っていた。その再起シングルとして4月21日にパリで録音されたのが「ディ・リュイ Dis-lui」(彼女に言って)(75年モーリス・アルバートの大ヒット「フィーリングス」のカヴァー※※)であった。スイス事件の前に空き巣強盗によって荒らされた住居を捨て、4月22日ヌイイに新しいアパルトマンと契約、2階建てなので、ここならいくら飛ぼうとしても大した怪我をしなくてすむ、と冗談を飛ばしていたという。4月23日、病院からレントゲン検査の結果、左脚の経過は良く、将来においてびっこを引くことはないと太鼓判を押され、ブラントは大喜びだった。424日、再起後初のテレビ出演を翌日に控え、昼からシモン・ワイントロブの事務所で打ち合せ、ワイントロブと金銭のことで大口論、ブラントが涙を流す場面が証言されている。

 24日夜、フランス移住時以来の女友だちジャンヌ・カッシのアパルトマン(パリ16区エルランジェ通り6番地6階)で眠ることにし、そこに着くが不安と興奮で眠れない。テレビを見ながらジャンヌにプロデューサーに裏切られた話を長々としている。23時半に付き人のアラン・クリエフ(84年に地下鉄に投身自殺している)から「今晩テレビで恐怖映画は見ない方がいい」という電話。ブラントはもっとましな電話を期待していた、と憤慨。その夜は眠れず、睡眠薬も飲んでいない。

 25日午前11時頃、ジャンヌはシャワールームにいる。電話が鳴る。不機嫌さを露にしながらブラントが電話をとる。しかし相手の声を聞くやいなやブラントは受話器を置いてしまう。その数分後に,6階下の地上にマイク・ブラントの落下死体が発見される

 死の
15日後に発売されたシングル盤「ディ・リュイ」は即日に百万枚のセールスを記録。

 一体なぜ死んだのか。自殺か他殺か。関係者(ワイントロブ、クリエフ)が次々に死んでいるのはなぜか。繊細な魂を死に追いやったのは芸能界の暗黒部分か。40年後もこのスーパースターの死は謎に包まれ、ドラマやミュージカル劇の題材になってきた。2016年にはイスラエル人監督エイタン・フォックスによる本格的伝記映画『マイク』(ジョゼ・ガルシア、メラニー・ローラン等出演)が予定されている(※※※)。




 

そこから20メートルほどの距離にあるエルランジェ通り10番地で1981年6月に佐川一成の殺人・人肉食事件が起きている。 そのエルランジェ通りで起こった怪事件に端を発するジャン・エシュノーズ小説『ジェラール・フュルマールの生涯』(2020年)の紹介記事が爺ブログにあり。(→『因縁のエルランジェ通り』)
※※1957年に作曲家ルールー・ガステがダリオ・モレノのために作曲した「プール・トワ Pour Toi」が原曲。ガステ未亡人の歌手リーヌ・ルノーが7年の訴訟の末にモーリス・アルバートの盗作を認めさせ、以後作曲者名はルールー・ガステと明記されるようになっている。日本のハイ・ファイ・セットによるカバー(1976年)もしかり。
※※※エイタン・フォックスによるバイオピックはマイク・ブラント親族の反対により2016年に企画が頓挫している、



(ラティーナ誌2015年7月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

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