2023年11月29日水曜日

そして宴は続くのだ

"Et la fête continue !"
『そして宴は続く!』


2023年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ロバンソン・ステヴナン、ローラ・ネイマルク
フランスでの公開:2023年11月15日


2021年『ツイスト・ア・バマコ』というゲディギアン初の海外ロケ映画 にして初の”非マルセイユ”映画に続いて、ゲディギアンはマルセイユに帰ってきた。これが23作めの長編映画。冒頭は(実際に起こった)マルセイユ旧市街オーバーニュ通りの老朽建物倒壊事件(2018年11月5日)の映像。死者8人、負傷者多数、避難を余儀なくされた人々約1500人。21世紀のマルセイユにあって過度に進んだ老朽化による倒壊の危険性を知りながら何もしなかった行政。この悲劇があってからやっと危険建築の徹底調査が始まる。怒りと悲しみ。いろいろなことが立ち行かなくなっているマルセイユ。
  このオーバーニュ通りの倒壊事故現場のすぐ前に、古代ギリシャ詩人ホメロス(紀元前8世紀)の胸像柱(19世紀の彫刻家エティエンヌ・ダントワーヌ作)が立っていて、根元から泉水が出、フォンテーヌ・ドメール(Fontaine d'Homère = ホメロスの泉)と呼ばれている。この泉の広場が、この建物倒壊の悲劇を記憶するために「11月5日広場」と改名され、毎年11月5日には地域住民によって慰霊イヴェントが開かれる。なぜマルセイユにホメロスか、と言うとマルセイユは紀元前6世紀にギリシャの小民族ポカイア人( 仏語でphocéen)が植民市として建設したマッシリアを起源としていることに由来する。映画の主人公で未亡人のローザ(演アリアーヌ・アスカリード)の一家はオリジンがアルメニア(監督ロベール・ゲディギアンのオリジンでもある)という設定で、長男のサルキス(演ロバンソン・ステヴナン)は医学博士号を持つ身で「ヌーヴェル・アルメニー(新アルメニア)」という在マルセイユのアルメニア出身者の溜まり場的ビストロ・バーのパトロン(マスター)になっていて、客たちに「マルセイユはギリシャ人ではなくアルメニア人が作った」という自説を吹聴する。次男のミナス(演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)はコロナ禍以来第一線の病院救急科医師であり、ナゴルノ・カラバフ地域でのアゼルバイジャンによるアルメニア人排斥(民族浄化)紛争に心を痛め、現地に飛んで救援医療活動を強く希望するが妻の反対で踏みとどまっている。ローザの弟のアントニオ(演ジェラール・メイラン)はマルセイユ最後のコミュニストを自認する元闘士で、自分の家屋を使って住宅問題被害者を保護する”ひとり”ボランティア活動をしていて、その間借り人のひとりが若いレティシアという黒人看護婦(演アリシア・ダ・ルス・ゴメス、前作『ツイスト・ア・バマコ』の主演女優、すばらしい!)で、病院で古参婦長ローザの下で働いている。ローザとアントニオの死んだ父親はマルセイユで戦時中レジスタンスで戦った理想に燃えた共産主義者で、二人の子供にその理想を継がせるべく、娘の名をローザ(ローザ・ルクセンブルクに因む)、息子の名をアントニオ(アントニオ・グラムシに因む)としたのだそうだ。映画中、ローザの夢枕に父親が現れ、ローザが幼い頃、選挙の夜に父親のオートバイの背にまたがり、選挙投票所を回って開票結果をいち早く知り、共産党議席数を数えて夜を明かすという回想シーンがある。これはローザとアントニオに共通する共産党ノスタルジー。なぜならもうマルセイユには共産党議席などないに等しいようなさまなのである。
 1995年から25年もの長い間続いていた保守市政(市長ジャン=クロード・ゴーダン)を2020年の地方選挙で破り、左派連立市政(市長ミッシェル・リュビオラ→ブノワ・ペイヤン)が誕生して現在に至るが、”左派連立”(エコロジスト、ソーシャリスト、左翼「不服従のフランス」、コミュニスト...)共闘の不協和音は徐々に大きくなり、空中分解の可能性もある。(左派共闘の分裂傾向は国政レベルではもっと顕著であり、市民の幻滅感は日増しに高まりつつある → 極右に票が流れる。それはそれ)。長い看護婦業(近く定年退職)のかたわら、長く地域住民活動に関わり、人望も厚く、次の区議選に左派比例代表グループのトップとして立候補を推されているローザだが、頭の痛い問題はまさにその左派各派の足の引っ張り合い。選挙対策合同会議のたびにローザはことの難しさに追い込まれ、立候補を断念すべきか悩んでいる。
 土地っ子ではないが、マルセイユを愛し、住民たちの間に入ってその地域活動を支えてアクティヴに動き回る若い女性アリス(演ローラ・ネイマルク)は、アマチュア合唱のコーチ/指揮(歌っている曲がアルメニア系フランス人アズナヴールの"Emmenez-moi = 邦題「世界の果てに」"という難民流謫の歌であるというのがミソ)をしながら、来るべき11月5日の建物倒壊慰霊イヴェントの準備をしている。この一人娘のことが心配で、パリ圏からアリスの父親で寡夫のアンリ(演ジャン=ピエール・ダルーサン)がマルセイユにやってきてホテルに長期滞在して娘の動向を近くから見守っているが、これがアリスには鬱陶しくてしかたない。アンリは退職した本屋の親父で、妻と死別してからアリスの面倒をよく見てやれなかったという後悔があり、それを退職後の今になって挽回しようとしている。アリスと恋仲でほぼ結婚するであろうことが決まっている相手が、ローザの長男サルキスである。ローザもアリスのことを住民活動絡みでよく知っていて、とても好感を持っているのではあるが... 。
 アリスの市民アマチュアコーラス団の発表会が地区の教会で開かれ、その客席にそれとは知らず隣り合わせたのがローザとアンリ。仮にサルキスとアリスが結ばれれば親戚関係となる寡婦と寡夫の二人、ローザとアンリは時を待たずして老いらくの恋に落ちる。いいなぁ。ローザはこのセンセーションを自分の中だけに抑えることができずに、次男ミナスに(もう何十年ぶりかのことのように)「私セックスしたのよ」と告白する。いいなぁ。

 今回のジャン=ピエール・ダルーサン演じるアンリという役どころは、元本屋の博識”知恵ぶくろ”で、ローザの”政治的”悩みにも、アリスの”文化的”悩みにも相談役ご意見役になれる長屋の御隠居的重みがある。マルセイユには新座ものでありながら、いつのまにかローザの大家族的グループの上座に座っている。それが映画ポスターにもなっているマルセイユのカランクでの海浜ピクニックのシーンであり、ローザの弟アントニオとその間借り人レティシア(いつのまにか父娘のような親密な友情で結ばれている)を含むローザを要とする複合大家族が陽光の下でユートピックな共同体となって至福の瞬間を過ごしている。
 種々の問題を抱え、日々生きづらくなっていっているマルセイユにあって、この共同体は義侠の人々である。一連のゲディギアン映画の流れにあってはこの共同体はあらゆる試練に打ち勝つお約束ごとになっているのではあるが、本作の前のマルセイユ映画『グロリア・ムンディ』(2019年)では同じマルセイユの複合大家族でも、21世紀型新リベラル資本主義に翻弄され、底辺で蠢きながらも誰も(家族であっても)助け合えない悲惨が描かれ、ゲディギアン映画史上最もペシミスティックな作品となっていた。その反動かこの新作は累積された問題はあれどもポジティヴでオプティミスティックな人々の姿に救われる。
 医療現場でコロナ禍の前も後も同じ過酷な人手不足環境で働く看護婦レティシアは、もはや過労バーンアウト寸前のところまで来ているとローザに退職の意思を伝える。考え抜いた末のこととは知りながらもローザは「考え直しなさい、世界はあなたのような人を必要としているの(Le monde a besoin de toi)」と。病院で、学校で、地域住民団体で、困窮者支援の現場で、あの住民たちを住まわせたまま倒壊した老朽住宅の悲劇に衝撃を受け、われわれは行動し続けなければならないと心を新たにしたマルセイユの人たちがいる。アルメニア/アゼルバイジャンで起こっていることに心を痛め、人道活動の手助けをしたいと切望するマルセイユの人たちがいる。分断された地域の人々の心を繋ぎ合わせるのはアートであると、演劇、音楽、造形芸術などに人々を誘うマルセイユの人たちがいる。こんなマルセイユで、なぜ”左派連合”は勢力争いばかりするのか? ー これがローザの最大の悩みであり、アンリの目の前で(選挙活動の)サジを投げる寸前のところまで至ってしまうが....。
 建物倒壊事故からX年後、11月5日広場での慰霊イヴェントでのスピーチを準備しながら煮詰まってしまったアリスにインスピレーションを与える父アンリ。さすがの博識。あの事故の時最も近くにいた証人は誰か? ー そこにいるホメロスだ。ホメロスは盲人だった。だからホメロスはすべてを聴いていた。建物が崩れ落ちる音も、人々の悲鳴も断末魔の叫びもみな聴いていた。ホメロスならばこの悲劇をどのような叙事詩として書き残すだろうか、それを考えればスピーチは出来上がりだ...、と。ー そしてそのアリスの書いた”叙事詩”が、イヴェント当日に11月5日広場を囲む四方の建物の窓から複数の朗読者によってメガホンで読まれるという、胸に迫る感動的なシーンが実現する。これがこの映画のマジック。
 そのアリスにも重大な悩みがあり、サルキスとの将来に暗い影を感じている。それはサルキスの強い子孫願望であり、アルメニアの血を継いでほしいという一種の”アイデンティティー”思想であった。たくさんの子が欲しい(←勝手なマッチズムにすぎない)。ところがアリスは子供を授かることができない体になっていた。これをサルキスに告白することができないでいる。このことが知られたらこの幸福は終わる、と。さあ、これはどのように止揚されるでしょうか(と、古いコミュニストのように言ってみましたが)....。

 Et la fête continue! (そして宴は続く!)。さまざまな幻滅や小競り合いを経ても、われわれは祭りを続けていくだろう。そのためにはローザ(やアントニオ)のような不屈の人やアンリのような知恵袋の人が必要だし、この年寄り(60代で現役、恋に燃えたりもする)たちに続く人たちも要る。われわれは続けなければならないけれど、それは苦役ではなく、宴であり、踊りの輪である。オプティミスムを失ってはいけない。昔も今もマルセイユ下町は人情ものが似合う風景である。ありがとう、マルセイユ。

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)『そして宴は続く!』予告編


(↓)重要な挿入歌シャルル・アズナヴール「世界の果てに Emmenez-moi」(1968年)

2023年11月14日火曜日

病める時も健やかなる時も

François Bégaudeau "L'amour"
フランソワ・ベゴドー『愛』


 『壁の中で(Entre les murs)』(2006年)のフランソワ・ベゴドーは小説・随筆を問わず多作家であるが、この最新小説は久しぶりに書店ベストセラー上位にのぼる話題作となった。90ページの短さ。大上段なタイトル。愛とは何か、と構えているわけではない。誰も書いたことのないある特別な愛を描いた小説でもない。本の裏表紙に著者の言葉としてこう明言されている:
私はほとんどの時代にほとんどの人々によって体験されたであろう(危機も事件もない)愛をあるがままに描きたかったのだ。
つまりあちらにもこちらにもある波風がなく長い間寄り添って生きられた男女の生きざまについて書かれた小説なのである。「平凡な」「フツーの」と形容される種類のカップル。それはがまぶしく冠された小説タイトルである「愛」という言葉でわれわれなら形容しない、どこにもいるような市井の男女の同居し共有した長い年月のことなのである。
 私事を挟んで失礼。私は20世紀半ばに東北の奥まったところで生を受け18歳まで生活したが、その十代の目で観察してみて、この地方の環境にあって大人たち男女の”つがい”というのは、愛が結びつけたものではない、という絶望的確信があった。それは生きていく"なりゆき"で結びついたもので、その属する社会が円滑に機能するために、世の中は昔からそういう仕組みになっているのだからという流れを持続するために、所帯を持ち、子をつくり育て、という”人となり”のことをして歳を取り、人生を全うするプロセスであった、という範疇を出ない。私は少年の目なりに、それは愛ではない、と見ていたばかりか、私の知るこの地方環境では”愛”というボキャブラリーは存在しないのだ、と思っていた。愛とは絵空事であり、文学や映画の中のことであり、自分の環境にはあるはずのないものであった。家庭内で愛を語ろうとすればおまえ気が違ったかと言われただろう。地方の子であったから、大都会にはあるのかな?という愚考もないではなかった。この小説はカップルの関係を愛と名状することが意味をなさない地方の環境が描かれ、それがまず第一に私がよく知っている世界だ、と思わせたのである。だが、それはどこでもそうなのだ、という話に落ち着くのだが。
 
 小説の始点は1970年代初頭の西部フランス、ロワール地方の田舎町である。父をインドシナ戦争で失ったジャンヌは、公共施設の清掃員として働く母を助け、自らも田舎ホテルのフロント係として(夜勤ありの)不規則な時間帯で働いている。母が町の体育館の清掃の担当の日、ジャンヌはその手伝いに駆り出され、そこで練習する町のバスケットボールチームのスター選手ピエトロに勝手な妄想の片思いを抱き、将来ピエトロと庭付きの家で暮らすことを夢想する。ある日ジャンヌの務める田舎ホテルのフロントにこの長身イケメンのバスケット選手が現れ、予約で満室のところなんとか一部屋工面してくれないか、と。ジャンヌはまさかの申し出に心ときめかせ、雇い主にクビにされることを覚悟で宿帳を細工し、部屋の鍵をピエトロに渡し、そのお呼びがかかるのを待っている。そこへ、町の獣医病院の派手な若奥様がやってきて、ムッシュー某の部屋は?と。小さい町のことで、誰もが誰もを知っている世界、これは内密にと言われてもすぐにバレる火遊び。ジャンヌの”庭付きの家”幻想はあっけなく消えるのだが、この”よくある話”パターンがこの小説を支配するトーンである。”よくある話”に頓着しない人々がこの世界の住人であり、この地方からめったに外に出ることがなく、この風景の中で生きて朽ちていくことをフツーと思っている。そしてなりゆきで伴侶になってしまう人間も”よくある話”のように現れてしまう。
 ジャンヌがフロント係をしているホテルに改装工事業者として出入りする自営左官職人ジェラール・モローは、息子ジャックに家業を継がせるべく工事に徒弟として同行させるが、近い将来においてこの種の自営職は需要がなくなりジャックは別職を探さざるをえなくなる。何の取り柄もない若者だが、ガキの時分からプラモ(軍用機、 戦車、軍艦、ロケット...タミヤ模型オタク)が趣味で組み立て、丁寧に塗装して、陳列棚にコレクションしていく。これは一生続くのだが、その増え続けるコレクションの置き場所に苦情を言われることはあれ、誰もそれを評価してくれるわけではない。私のレコード・CDも同じだが、それはそれ。かのイケメンのバスケ選手がホテルで”ご休憩”を楽しもうというのに改装工事の騒音がうるさすぎる、とジャンヌに苦情を言う。ジャンヌは改装業者親子にもう少し静かにやってくれないか、とご機嫌とりにホテルのバーからドリンクをちょろまかして振る舞ってやる。こうしてモロー家とジャンヌは知り合い、懇意になっていく。そしてよくあるなりゆきのように、かのイケメンバスケ選手と同じように、宿泊チェックイン前の客室でジャックとジャンヌは”ご休憩”を楽しむようになってしまう。これがジャンヌとジャックの50年以上にわたる寄り添いの始まりである。
 父ジェラールの自営左官屋が立ち行かなくなり、ジャックは食うために軍隊志願を考える(産業のない地方の”学のない”男子の重要選択肢)のだが、父をそれで失ったジャンヌの反対の功あって、町の緑地管理課の作業員という”公務員”職に籍を得る。多くの地方の男たちのなりゆきのようにこれがジャックの一生の職になるのである。ジャンヌはフロント係という不規則な仕事にケリをつけ、その後は田舎町のおねえさん/おばさんに出来る仕事を転々とし、一生の仕事などないがアクティヴな給金取りとして...。
 結婚、出産、両方の親の世話、死別、飼い犬の代替わり.... 小説の時間の流れはテンポ良く進んでいく。乗っている車の車種がどんどん代わり、吸うタバコの銘柄も代わり(地方人は老いも若きもフツーにスモーカーである)、テレビや流行り歌の移り変わり、留守番電話→ノキア→ブラックベリー→スマホ、そんな背景や小道具の変化で読者は今どんな時代なのかを知ることになる。このベゴドーの”コマ送り”は見事であり、世のうつろいは読者の中でイメージ化される。この時間はあっと言う間なのである。世の50年間寄り添ったカップルたちに聞いてみたらいい、この50年はあっと言う間だった、と答えるだろう。これがフツーのなりゆきなのである。
 ジャックはフツーに髪の毛を失い、フツーに太鼓腹になり、フツーに昇進して緑地管理課の管理職になり、フツーに親子3人で食えるようになるが、そのいびきに耐えきれずジャンヌは夫婦の寝室から出て、寄宿学校で不在の息子ダニエルの部屋のベッドで眠るようになる。いびきだけではない。ジャンヌには我慢がならないジャックの悪癖がたくさんあり、それは口に出して言ってみてもどうしようもない。ジャックはジャックでジャンヌの態度や行動で理解しがたいことがたくさんあるが、それはどうしようもない。それが理由で(よくフランスの映画で見るような)食器が飛び交う大げんかになることなど一度もない。ジャックにはガキの時分からの腐れ縁のダチ、フレデリックがいて、小さな問題を抱えて寄ってくるダチにはジャックは面倒見がいい。ジャックはジャンヌの誕生日や結婚記念日には小さな贈り物を欠かさない。その40歳プレゼントに、ジャンヌがファンだとわかっているが、自分はどうでもいいイタリア人熱唱歌手リカルド・コッチャンテ(フランスでは”リシャール・コッシアント”と呼ばれ、ジャックは”イタリアの醜男”と呼ぶ)のナントでのコンサートに招待するくだりはなんとも可愛らしい。
 波風が全くないわけではなく、小さな波風は恒常的にあり、おたがいぶつぶつ言うことは通奏低音である。これではフツー小説にならない。波乱とドラマティックな上昇と下降の展開がない。ながいこと一緒にいるというのは文学的ではない。だがこのベゴドーの描く日々の機微は読ませる。
 そんな中で65ページめで、やっと小さな波乱が登場する。いつ頃のことかはジャンヌが記憶していない。おそらく記憶したくない。台所でりんごのタルトを準備している(手にはりんごの皮剥きの包丁が)。家の前に一台のBMWが停車し、中からスーツ姿の若い婦人(ジャンヌよりは10歳は若そうに見える)が降りてきて、勝手口をノックする。ジャンヌはエホバの証人の勧誘だと想像する。エプロン姿で包丁を手にしたまま、ニコルと名乗る女を台所に引き入れる。水を一杯いただきたいと女は言う。水を飲み終えやっと言葉を取り戻した女は、私は5年間胸に悶々と詰まっていたことを吐き出しに来た、と。そして5年前の冬(ほぼひと冬を通して)彼女はジャックと関係があったと告白。
その関係はニコルが妊娠したとわかった時点で終わった。その子の父親が誰なのかを知ることもなく。
ー 私には夫がいます
ー 私にもいるわよ
ー 私が言いたいのは私は夫とも性関係があったということです
ー 私にはないわよ
そして身篭った子を中絶してその関係は終止符を打つのだが、ニコルはそのことをずっと申し訳なく自分が恥ずかしいと思っていたと言うのだ。彼女曰く、ジャックもそれを心から申し訳なく思っていた、と。その上ニコルが最後にジャックに会った時、ジャックは愛する女性はひとりしかいない、他の誰も愛せない、と言ったというのだ。
ー それは誰のことだったのよ?
ー あなたですよ

5年間詰まっていた重い重い荷物を女は吐き出し、その重い重い荷物はすべてジャンヌに乗り移ったのである。このディアローグの間、ジャンヌはりんご皮剥きの包丁をずっと手にしたままなのだ。ここのベゴドーのパッセージはこの包丁がいつ凶器に変わるかという契機をほのめかすサスペンス感、ほんとうにうまい。
 帰宅して何事もなかったかのように、焼き上がったりんごタルトを賞味するジャック。ジャンヌは受け取ったこの重い重い荷物に、何か返さねば気がすまないではないか。次の日曜日、テレビの週末スポーツまとめを見ながらくつろぐジャックに、ジャンヌはおもむろに淡々と保険代理店の秘書をしていた時にその所長と関係があった、と告げるのである。ジャックは何も言えない。「私があんたの立場だったらどなるところだけどね」と挑発する。「俺がおまえをどなるって?」としか言えないジャック。こういう問題だけでなく普段でも思っていることをはっきり言えない口下手なジャックだということをジャンヌは見透かしている。これでおあいこだ、とジャンヌは思う。夜遅く、パジャマ姿になってジャックはぼそっと言う「俺も愚かなことをしたことがある」。ジャンヌは驚いたふりをして「それはいつのこと?」と尋ねる。「ずいぶん昔のことさ」とジャックは答えるが、心の中でジャンヌは”5年前とはずいぶん昔のことなのか”と突っ込みたくなるが、あえてしない...。
 この小説で唯一の波乱であるこの二人の”不倫”疑惑の箇所は、実に味わい深い。フランス語で言わせてもらえば、実に "savoureux"だ。そしてジャックはこのことを一生気に留め続けるのだ。ここでこの小説の言わんとする”愛”というなんとも味わい深いものが浮かび上がってくる。
 結婚式の時に御託のように読み上げてしまう「病める時も健やかなる時も」をこの二人はやり遂げて50年後にその晩期を迎える。ジャンヌの頭に腫瘍ができ、それを取り除く手術のあと、目覚めるはずのジャンヌはなかなか目覚めない。病院近くのホテルを数度延泊して病室に通っていたジャックは、ほどなく病室に寝泊りするようになり、意識の戻りを待ってさまざまなことを話かけ続ける。泣ける。その努力にもかかわらず、ジャンヌは先に行ってしまう。
 葬儀のあと、ジャックはそのプラモ細工のアトリエに篭り、プラモを作り続ける。ある日そのアトリエの椅子にジャンヌが棺桶に入っていた時のピンク色のドレスで座っている。

ー 食事はしたのか? 俺が何か作ってやるよ。
ー あなたこそ食べなきゃだめよ、ひどくやせっぽちになっちゃって。
ー 俺がやせたらおまえ満足だろ。
ー 私はあんたの出っ張ったお腹が好きだったのよ。
その履物は彼女のために彼が病院に持って行ったものだったが、彼女はそれを一度として履くことができなかったものだ。彼は立って靴箱まで行って彼女の靴を探して持って来てやりたかったが、なにかの圧力が彼をその合皮椅子に抑えつけた。
ー あの保険代理店長とのこと、あれはウソだったんだろ?
ー 本当なわけないじゃないの。
ー どうであれ、何も変わらないさ。
ー ええ、何も変わらないわ。
 このジャンヌの「お迎え」を受けて、ジャックも旅立っていく...。
 時代は移り、世界は変わっても、フランスの田舎でどこにも動かずに静かに目立たずに寄り添って生きた二人。一人息子はフランスのみならず、世界をまたにかけて仕事をし、今は3人の孫と韓国ソウルで暮らしている。かの不倫疑惑を除いては波乱もなく、周りの人たちと同じように楽しみ、同じように伴侶に不満を抱きながら生きた50年の年代記、これはフツー文学になり得ないものであろうが、ベゴドーの名調子はその逆を証明してしまう。あんたたちがどう言おうが、これは”愛”である。

François Bégaudeau "L'amour"
Editions Verticales刊 2023年8月17日 90ページ 14.50ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ボルドーの独立系書店Mollat制作の動画で自著『L'Amour(愛)』を語るフランソワ・ベゴドー

2023年11月9日木曜日

マリリン・マンソン・ノー・リターン

2023年11月6日、今年のルノードー賞は1965年生れの女流作家アン・スコットの10作目の小説『Les Insolents(無礼な人々)』に与えられた。1990年代の音楽(ロック、テクノ、ファッション、映像、アンダーグラウンドカルチャーから出てきた人で、ヴィルジニー・デパントと同棲していた時期もある。1990年代から”パリの音楽業界人”であった私とも近くにいてもおかしくなかったようななつかしさがある。デパントが”大作家”になったこととは距離ができたであろうが、書き続けていたのだね。10作めでルノードー賞ということは「やっと認められた」感は否めないが、書き続けてよかったのだ、と祝福したい。受賞作は後日当ブログで必ず紹介する。
2001年、私のウェブサイト『おフレンチ・ミュージック・クラブ』は彼女の2作目にして、アン・スコットの名(フランシス・スコット・フィッツジェラルドから拝借したペンネーム)を一躍世に知らしめた小説『スーパースターズ(Superstars)』を紹介していた。読み返して”あの時代”が無性になつかしくなった。以下に再録するので、この感じ、共有できる人たちがいてくれたらうれしい。

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2001年1月に掲載された記事の加筆修正再録です。


Ann Scott "Superstars"
アン・スコット『スーパースターズ』


(Flammarion刊 2000年10月)

2000年の大ベストセラーのひとつで、元広告マンによる広告業界の内部告発的な小説『99フラン』を書いたフレデリック・ベグベデは、今テレビでかなり露出している作家/評論家となっていて、言うことも容姿も私にはたいへん苦手な男なのだが、こいつがテレビでこのこのアン・スコットの2作目の小説を「クリスティーヌ・アンゴのテクノ・ヴァージョン」と紹介したのだった。
 私は本欄でクリスティーヌ・アンゴを2冊紹介するほど、アンゴを高く評価する者であるが、このベグベデの安直なアンゴのカタログ化にややむっとくる。彼が言いたいのは、ナルシスティックな美貌の持ち主であること、超高速で興奮しまくりかつ問答無用のエクリチュール、バイセクシュアルであること、といったことなのである。この条件が揃えば誰でもアンゴというわけにはいかんだろうに。
←2000年代のアン・スコット
 アン・スコットは1996年に最初の長編小説”Asphyxie(窒息)"を発表していて、パンクロックと死を通奏低音とするこの小説は、文学誌だけでなくロック・ジャーナリズム(ロック&フォーク誌、レ・ザンロキュプティーブル誌等)からも高く評価された。それに続くこの『スーパースターズ』は音楽環境をロックからテクノに変えて、その音楽的状況描写も多く含みながら、パリのエレクトロミュージックシーンの現場内部にる若い女性群像を描いている。
 音楽アーチストの話者(私=ルイーズ)は、ふたつの大恋愛に終止符を打って、独り身の生活を送っている。最初の恋人はニッキという名の男。キース・リチャーズを心の師として70年代的な職人気質のギタリストで、彼のリーダーシップの下でルイーズはベーシストとなり、大いなる音楽的影響を受けることになる。次の恋人がアレックスという女。金持ちの娘にして売れっ子のDJ。ルイーズはこの女からレスビアンの性技四十八手裏表(カーマスートラと言うべきか)を教わった。このアレックスとの破局の末、行く先を失って、パリのクラブ「レックス」でぼろぼろになっているところからこの小説は始まる。助け舟はたまたま居合わせた造形アーチストのアリス(ニッキの妹)で、アリスとアパルトマンをシェアしているファッションクリエーター見習いのパラスと共に、ルイーズを共同生活者として迎えいれる。
 パラスは最初ルイーズに対して露骨に意地悪で、分の悪い家賃の折半や彼女の作った家内規則(あれもいけない、これもいけない)を押し付けてきたのだが、まもなくしてアリスが独立してこのアパルトマンを出て行き、パラスとルイーズの二人暮らしとなった時点で急激に融和し、密接な友好関係となって、加えて時には同じベッドで寝るということになる。しかしパラスはどう思っていたかは明らかではないが、ルイーズにとってこれは恋愛ではなくダチづきあいでしかなく、身を焦がした過去の二つの恋愛のような重要さは微塵もないと思っている。アレックスとの濃厚強烈な同性愛関係をやめたあと、どちらかと言えば精神的で音楽的なニッキとの関係への懐かしみも強くなる。またフィジカルな欲求だけならば、セフレの男友だちもいるし、アレックスとの強烈なプレイを再現することも可能だ。しかしながらルイーズの求めているのはそういうものではない。
 RMI(最低生活補償支給)の受給者であり、明日をも知らない生活を送っていたルイーズに、レコード会社ヴァージンが契約書とアルバム1枚制作の前払金10万フラン(約180万円 = 当時)を送ってきた。すでに音楽で糧を得て生きているニッキとアレックスと肩を並べたようなものだ。31歳にしてやっと巡ってきたチャンスに、ルイーズは自分が生きて愛してきた音楽のインテグラルなサウンドを創造しようと企てる。すなわち、70年代のロックと今日のエレクトロ・ミュージックの統合であり、ニッキとアレックスから影響されたもののすべてである。
 そういう一大転換期に、ルイーズは17歳の少女イネスと出会う。イネスはその時アレックスの寵愛を一身に受けていて、あとでわかるのだが同居人パラスもひそかに想いを寄せている美少女である。最初にルイーズに言い寄ってきたのはイネスだった。歳の差のこともあり、アレックスとパラスの手前もあり、ルイーズは当初は躊躇し、抵抗していたのだが、なんともあっけなく陥落してしまう。激愛してしまう。電話を待ってそわそわし、こっちからかけるべきかな、こっちからかけたらどう思われるかな...そわそわ、いらいら... といった感じの少女向け恋愛ロマンのような純愛描写が可笑しい。そしてこの四角関係を恐れず、ルイーズはイネスにすべてを賭ける、というレベルまで燃える恋心を昇華させていく。
 ところが、現実はルイーズの思惑とは激しくかけ離れていて、アレックスと別れてすべてを捨ててルイーズのもとに来ると言っていたイネスは土壇場で裏切るし、ことの次第に呆れ果てたパラスはルイーズとの親友関係を一刀両断に断ち切ってしまう。すべてに絶望し自分を失ったルイーズはドラッグで底無しのジャンキーに転落し、やがてヴァージンからの前払い金で新しいアパルトマンと契約して新しい生活を開始する、というところで小説は終わる。

  (2023年ルノードー賞小説『無礼な人々』を持つアン・スコット→)
 私には親しい音楽業界の若い女性たちの口から出てくるような、テクノ〜エレクトロの内輪ボキャブラリーが随所に見えるこの小説は、アーバンな若い女性の街言葉口語体で書かれていて、活字行間のつまった310ページという長さにもかかわらず、かなりのスピードで読むことができる。そういう意味ではポップな小説なのかもしれない。しかし、テクノにはメッセージがない。この小説の中で引用されるのは、ローリング・ストーンズ「ギミー・シャルター」、マリリン・マンソン「ザ・ドープ・ショー」といったロックのリファレンスである。特にマリリン・マンソンはこのテクノ的環境にありながら、例外的に光り輝く純粋精神の象徴のように、これらの若いアーバン女性たちに憧憬されている。
 そして小説の山場として訪れる、この31歳の女性の純愛の急上昇と急降下は、アン・スコットのバックボーンそのままにパンクでありトラッシュである。読む者のセンセーションは、ノイジーな轟音ギターがギョイ〜〜〜ンとフィードバックして鳴り止まない状況に似ている。
 かのベグベデが紹介の時に強調していたが、かなり濃密な同性愛の情交シーンの描写があり、さらにかなり濃密なドラッグ体験の描写がある。流血しながら愛し合うイネスとルイーズのパッセージは実にショッキングであるが、まさにエレクトリックなこの小説の純愛表現はこうでしかありえなかったのだろう。マリリン・マンソンのステージショーはこの小説の中でリアルな現実である。しかしマリリン・マンソン的ヴィジュアル表現がこの小説を代表するものでは断じてない。

 最後に小説の中でルイーズのダチでジョーク好きのエヴァがいくつか話す「金髪女ジョーク(blagues sur les blondes)」の中の最高傑作を紹介しておく。
ある金髪女がクリスマスの日に会社をクビになった。家に帰ると今度はその彼氏が女と別れると言う。女は車に乗りひとっ走りして来ようと外に出たが、そこで女は大事故に遭遇してしまい、車はぺしゃんこになってしまう。もう私の人生はすべて台無しだと嘆き、女はモンパルナス・タワーまで歩いて行って、そのてっぺんから身投げしようと決心する。さあ、いざ身投げしようとした瞬間に、女の背後から「やめなさい」という声がする。振り向くと、なんと驚いたことにそこにはサンタクロースが立っている。女はサンタクロースにことの次第を説明する「私はこの24時間のあいだに仕事も恋人も車も失ってしまったのです、だから死にたいのです」と。するとサンタクロースは優しく「よしよし今宵はクリスマスだからおまえにも贈り物をあげよう。地上に降りたらまっさらの新車がおまえを待っておるし、家に帰ったらおまえの恋人がおまえを抱きしめてくれるだろうし、明日会社に言ったら会社は何事もなかったようにおまえを迎えてくれるだろう」と。女は仰天して心躍らせ「なんてすばらしい贈り物なんでしょう。私はあなたにどうやってお礼したらいいでしょう?」と。すると赤装束の老人は「ご存知の通り、私は天の世界ではトナカイたちと一緒だが、寂しい思いをしておる。だからちょっとだけ慰みごとをしてくれるとうれしいのだが...」と。金髪女はあまり気が進まなかったが、タワーのてっぺんで周りには誰もいないし、まあ事態が事態であるから、と思い、ひざまずいてサンタクロースの赤いマントの中に分け入った。サンタクロースは女の髪を撫でながら聞いた「おまえの名前は何と言う?」。金髪女は口いっぱいにものをほおばりながら答えた「私の名はパメラです」。サンタクロースは女の髪を撫で続けながら聞いた「パメラは歳はいくつかね?」。金髪女は口いっぱいにものをほおばり続けながら答えた「32歳です」。するとサンタクロースは言った「パメラ、おまえは32歳にもなってサンタクロースを信じているのかね?」
(↓)マリリン・マンソン「ザ・ドープ・ショー」


(↓)あまりいい動画ではないが、2000年12月、国営テレビFrance 2 のティエリー・アルディッソンのトークショー"Tout le monde en parle"に自著"Superstars"のプロモーションで出演、アルディッソンのしょうもない質問に答えるアン・スコット。

2023年11月2日木曜日

ひとかけのシクルさえあれば

Francis Cabrel "Un morceau de Sicre"
フランシス・カブレル「ひとかけのシクル」

から(ほぼ)ちょうど3年前、2020年10月にリリースされたカブレルの14枚目のアルバム『蘇った夜明けに(A l'aube revenant)』は、自らブックレットに記してあったようにオクシタニア/トルバドゥール文化に直接的にオマージュを捧げる曲が4曲もあり、南西フランスの文化遺産に強烈にインスパイアされた作品だった。その中の1曲「中世のロックスターたち(Rockstars du moyen âge)」の歌詞はフランス語とオック語で書かれていて、共同作詞者としてクロード・シクルの名がクレジットされていた。
クロード・シクル
(1947 -  )はトゥールーズのオクシタン・カルチャー・リヴァイヴァルの旗手的音楽デュオ、ファビュルス・トロバドール(活動開始1986年)を率い、アルノー・ベルナール地区での住民文化運動、マイノリティー言語を擁護する国際言語フェスティヴァルなど多岐にわたる文化活動で、トゥールーズの行動的大衆文化人として広くからリスペクトされている現在76歳の(長髪の)万年青年。フランシス・カブレルが長年根城としているだけでなく活動の本拠地(録音スタジオを含む)としている小さな村ロット・エ・ガロンヌ県アスタフォールはトゥールーズとは100キロ離れているものの、オクシタニアの都トゥールーズの文化圏に属していると言えよう。カブレルのプロミュージシャンとしてのデビューは今や伝説となっているトゥールーズの録音スタジオコンドルセ(Studio Condorcet)であり、パリに行くことなくカブレルはそのシンガーソングライターとしての土台を築いた。土地の文化人クロード・シクルとは古くから交友していたようだが、それはオクシタニアとトルバドゥール文化の伝道者にして碩学のシクルがカブレルにその奥深い歴史あるオック文化を教授し、インスピレーションを与えるものだった。言わば師弟のような。おかげで非オック語者だったカブレルもかなりのオック語つかいになっている。
  上述の前アルバムに収められた「中世のロックスターたち」はアルバム発表の2年前2018年に、トゥールーズの北東に位置するアヴェイロン県都ロデスのフェスティヴァルで(クロード・シクル見守る中で)、オック語の男声ポリフォニーグループ Corou de Berraを従えたアンサンブルで初演されている。これがフランシス・カブレルのオック語歌唱のデビューであった。(↓2018年ロデス撮影の動画)



(↓)参考までに。これは同じフェスの時期にロデスで録画された(フランシス・カブレルを相手に)トルバドゥールの歴史を講釈するクロード・シクル。


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とまあ、ここまでがクロード・シクルとフランシス・カブレルの3〜4年前の大接近+カブレルの”オクシタニア人”としての目覚めみたいな前触れである。
2023年、カブレルは新アルバムを作れるような状態ではなく、言わばアイディアの枯渇期なのだそうだが、焦って作ろうという気は全くなく、天からのインスピレーションを気長に待っている。このシングル盤は2014年に娘のオーレリー・カブレルが地元アスタフォールに設立した音楽制作会社(+アスタフォールの録音スタジオ運営) Baboo Music のために作った。オーソドックスな方法での(独立の)音楽制作事業が大変難しい時期であるのを見ての、父親からの援助みたいな動機だと思う。だからカブレル所属のメジャー会社(Sony Music)はこのシングル盤に関与していない。ラジオ等にオンエアされないのはそのせいであろう。
 曲はクロード・シクルとその町トゥールーズへのオマージュである。曲名”Un morceau de Sicre"(シクルひとかけ)は、"sucre"(シュクル=砂糖)との駄洒落であり、通常”角砂糖ひとかけ”と言うところを”シクルひとかけ”としたわけ。ところで"Un morceau de sucre"という曲名(フランス語訳であるが)の曲は存在する。1964年ディズニー映画『メリー・ポピンズ』、原題(英語題)では”A spoonful of sugar"、日本語題は「お砂糖ひとさじで」となっている。(↓)フランス語吹き替え版『メリー・ポリンズ』から "Un morceau de sucre"、なんという名曲!


 さてこちらは"Un morceau de Sicre"(シクルひとかけ)、作詞作曲フランシス・カブレル。クロード・シクルの地区住民運動の拠点アルノー・ベルナール地区ほか、さまざまなトゥールーズを象徴するものが歌詞に登場する。フットボールはそれほど強くはないが、ラグビーは滅法強く、その黒と赤のチームカラーは楕円形ボール世界ではつと有名。トゥールーズを代表する音楽アーチストではクロード・ヌーガロ(1929 - 2004)を忘れてはならない。歌詞中では "ville où les Claude suivent"(クロードたちが次々に現れる町)となっているが、これはクロード・ヌーガロ→クロード・シクルと複数の偉大なクロードの町という意味。そしてレ・モティヴェ(Les Motivésゼブダ、ムース&ハキム、同名の市民運動)、それから今日最もポピュラーなトゥールーズの兄弟ラップ・デュオ、ビッグフロ&オリも歌詞で出てくる。超売れっ子のこの兄弟ラップはこの歌の公式クリップの中にも登場している(3分7秒め)。クリップにはトゥールーズの往年の音楽人たち(ジャン=ピエール・マデール、ミッシェル・アルトメンゴ、エミール・ヴァンデルメール、リシェール&ダニエル・セフなど)も出演している。もちろんクロード・シクルその人も(2分45秒め)。

美しいトゥールーズは路線バスのバレエで目覚める

前日と同じような一日だけど、温度は少し上がっている

アルノー・ベルナール地区の空で数羽の鳩が追いかけごっこ

カフェ・ノワールにシクルひとかけ
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

これはと大いなるミステリーだが、ここで生きるのはみんな100%なんだ
外に出ていくと何もやることがない、「いつ戻るんだ?」ってことばかり気になる

それは磁力波か特別な空気でつながりあっているのか、誰も知らない
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

カフェ・ノワールにシクルひとかけ

 

さあ歌えや歌え、燃え上がる町、動け、黒と赤の町、

レ・モティヴェが生きる町、クロードたちが次々に現れる町、
大河の町、炎の町、ビッグフロとオリがスラム詩を詠む町

直立する町、誇り高い町、キャピタルになる条件をすべてを持った町

ここではすべてのボールが楕円形、群衆の中では
誰かが必ずそのトランクの中にコショネとペタンク玉を持っている
土地が人間を作り、みんなその鏡の中で育っていく
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

カフェ・ノワールにシクルひとかけ

妖精が降りてきて、そこを歩く通行人とトルバドゥールに変えてしまう
突然そいつは口達者になり、チャチュ(辻説法)を披露する
それは歴史の奥底からやってきたアーバンミュージック
カフェ・ノワールにシクルひとかけ
カフェ・ノワールにシクルひとかけ

さあ歌えや歌え、燃え上がる町、動け、黒と赤の町、

レ・モティヴェが生きる町、クロードたちが次々に現れる町、
大河の町、炎の町、ビッグフロとオリがスラム詩を詠む町

直立する町、誇り高い町、キャピタルになる条件をすべてを持った町

美しいトゥールーズは路線バスのバレエで目覚める

前日と同じような一日だけど、温度は少し上がっている


(↓)オフィシャルクリップ



Francis Cabrel "Un morceau de Sicre"
7"single Bamoo Music/Kuroneko FC45T23
フランスでのリリース:2023年10月13日

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)「中世のロックスターたち」(2021年、カブレル”トロバドール・ツアー”のDVDより)