2015年5月20日水曜日

憤激せよとこいつらも言う

ルテーズは南西フランスの隅っこ、スペイン国境と接するピレネー・ザトランティック県に中世からある古い町で人口は1万人ほどです。ル・トロットワール・ダン・ファス(Le Ttrottoir d'en Face = 向かいの歩道)は、この町で結成された8人バンドで、金管楽器(トランペット、トロンボーン、サックス)を含むジャヴァ・シャンソン・スカ・ロックバンドで、そのメッセージ性やお祭り騒ぎ性において、ゼブダ、テット・レッド、レ・ゾグル・ド・バルバック、HK&レ・サルタンバンクの後輩のように見做されている(比較的)新人バンドです。とは言っても結成から10年だそうです。
 2015年3月9日、オルテーズの広場プラス・ダルム(Place d'Arme)に2000人の子供たちがチョーク(1万本)を使って思い思いに絵を描いた。これは土地のバンド、ル・トロットワール・ダン・ファスのイニシアティブで、子供たちが描く未来はそれぞれ違っていても、そこに一緒にいること、その広場(共和国と言ってもいいでしょう)を共有するのは、それぞれが違う自分たちなんだ、というメッセージを込めて行われたイヴェント。当然「シャルリー・エブド」へのオマージュでもあります。
 これを8台のカメラで撮影し、「若者たちは怒っている La Jeunesse Gronde」という歌のヴィデオクリップとして制作しました。この歌は2011年にオルテーズのカステタルブ地区の子供たちと一緒に歌詞を作ったもので、大人(ル・トロットワール・ダン・ファス)と子供たちのダイアローグの形式で書かれています。歌詞を以下に訳します。


(子供)
わたしにはわからないことがあるの
わたしのような姿じゃない人たちを
みんな変な目で見る
わたしたちはみんな兄弟なのに
みんなず~っと違ったまんまよね
でもそれが面白いのに
ねえどうしてなの? わけを教えて
答はあるの、ないの?

(男)
それが何なのか俺にはわかる
そんな視線で俺も彼らを見てる
きみと同じように僕もそれに苛立つんだ
効果的なやり方で行動しよう
それを告白することだ
今までだって多くの人たちは
コチコチの偏見を打ち破ろうとしていたんだ
それが実現するように
俺はきみたちを頼りにしてるんだ

(リフレイン)
いたるところで一緒に、結びあって
それが俺たちの挑戦だ
若者たちは怒っている
俺たちは世界の市民だ
腕の先で地球を持ち上げよう
なんて奇妙な闘いなんだ
俺たちにはできるさ

(子供)
もう大人たちにはまかせておけないわ
もうこんなふうに放っておくことはできない
いつか私たちが持主になるのよ
このままの地球なんて欲しくない
あんたたちは一体何をしてきたの
あんたたちにだって考えはあったんだろうけど
私たちはあんたたちよりうまくやるわ
この狂った世界を変えるために

(男)
言っておくが、それは厳しいことだぞ
ゴミのない世界を作るなんて
きみがいろいろ考えるから
きみの頭がカッカするのは当然さ
子供たち、さあ仕事に取りかかろう
この世界を多色性にするんだ
黒と赤と白を使って
その調和が永久に続くように

(リフレイン :  2回)

(子供)
結局私たちは仲がいいのか悪いのか?
どうしてこんなふうになるのか?
どうして人々は変わらないのか?
やるべきことがあるんだったら言っておくれ
今あるこの世界はいやなんだ
だからそれを変えたいんだ
あなたみたいにそれを耐え忍ぶのなんてまっぴら
拳を上げて、信念を通すのさ

(男)
雷様を怒らせたみたいだな
きみの声はガラスを割ってしまいそうだ
その熱狂を離すんじゃない
きみの人生はそれでたくさんの色がつくんだ
でもきみのユートピアは
まだ白と黒の世界に囚われたままだ
さあきみにバトンタッチだ
世界中の若者たちの番だ

(子供たち)
若者たちは怒っている
若者たちは怒っている....

あらゆる色の若者たちが
胸を高鳴らせて集まってくる
みんな優しい夢を見ている
激しい叫びは抑え
ペンを高くかざしている
マイクの音量を大きく
若者たちは高く強く怒りを表明する
世の中にはタブーが多すぎる、と

鏡よ美しい鏡よ、シーツのような白色で俺を白く塗ってくれ。古い恨みによって、いつから聖人たちは血の匂いがつくようになったのか? 明日のない思想の弾丸の嵐の前に俺を目覚めさせてくれ、真実は俺たちの手のひらよりもずっと大きいんだって。俺たちはみんな違っているけれど結びついているんだ、俺たちの自由が絶対に倒れないように。


 このヴィデオクリップは3月2週目にSNSで公開され、たちまちのうちに10万ビューを越え、大きな反響を呼びました。 寄せられるコメントはポジティヴなもの7割、ネガティヴなもの3割といった具合でしょうか。万人が賛成なわけではない。特に「子供たちの洗脳」を非難するものや、極右からの悪意ある書き込みも非常に多かったのです。地方バンドはこれで一躍全国のメディアに登場して、論争のタネとなりました。
 なお、この曲は5月に発売になった彼らのファーストアルバム『影ひとつなし(Nulle Ombre)』 には入っていません。「これは俺たちだけの曲ではないから」とリーダーのブノワは言います。子供たちと一緒に作った曲だから。自分たちだけの収益のために使うわけにはいかないでしょう。これだけ話題になった曲を、そういう理由でアルバムに入れず、しかし「コンサートでは喜んで歌うよ」と言う。潔いアティチュードではないですか。





2015年5月14日木曜日

こうべを高く

『こうべを高く』
"LA TETE HAUTE"
2014年フランス映画
監督:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ロッド・パラド、ブノワ・マジメル
フランス公開:2015年5月13日

 2015年5月13日に開幕したカンヌ映画祭のオープニング作品で、同日発行の風刺週刊誌シャルリー・エブドの表紙にカトリーヌ・ドヌーヴが登場、見出しに「クロワゼット大通りに不審な置物が!」とあり、映画祭報道陣が器材を捨てて避難したあと、吹き出しに「警報解除!あれはカトリーヌ・ドヌーヴだ」と。
 箱型冷蔵庫のような体型のドヌーヴという茶化しですが、私はですね、容姿を笑いものにすることは認めませんよ。シャルリーだけでなくフランスの多くの戯画家や漫談家が、サルコジの背の低さを笑いのタネに使ってきましたが、私は反サルコジの考えを持っているとは言え、この笑いだけは絶対に認めませんよ。
 かつての絶世の美女は今は貫禄のある老女です。その貫禄を初めて引き出したのが、エマニュエル・ベルコの前作『Elle s'en va』(2013年)であると言っていいでしょう。当ブログは2013年9月13日記事で絶賛しています。 今回のドヌーヴは未成年担当の女性裁判官です。書記官を横に置き、どでかいデスクの上に担当事件の書類を山積みにし、その前に引き出される問題児やその親(未成年ですから責任は親にあります)に対して、法の番人としてその子の処置を最終的に下すという極めて重責な立場にあります。威厳が要求されます。ところが、この女性裁判官の前に現れるのは、凶暴で無責任などうしようもない子供たちとどうしようもない親たちばかりなのです。判事・弁護士・裁判官に対して卑語・罵詈雑言・恫喝を繰り返し、隙あらば暴力沙汰になりかねない。だから問題の子が入室する前に、机の上のハサミやペーパーナイフの類いの凶器になり得るものは隠しておかなければならない。おそらくそういう修羅場は何度も経験している、ということを思わせる貫禄がこの役どころには必要なわけで、その顔、その言葉、その堂々とした容姿に、カトリーヌ・ドヌーヴは完璧にその「絵」となったのです。
 映画はその極端に凶暴で情緒の欠落した少年マロニー(演:ロッド・パラド)の6歳から17歳までのクロノロジーです。問題を起こし、母親セヴリーヌ(サラ・フォレスティエ、怪演!)とまだ乳飲み子だった弟と共にダンケルク地方裁判所の児童担当裁判官の前に出廷させられますが、その裁判所決定を先読みしたかのように、母親は逆ギレし、もうこんな手に負えない子供と一緒にいるのはウンザリ、と少年の身の回り品を詰めた布バッグと少年を残して、裁判所から逃げ出して行きます。ここからマロニーの施設での生活が始まります。
 1年前、2014年のカンヌ映画祭で、今日の映画界のアンファン・テリブルと評させるカナダのグザヴィエ・ドーラン(当時25歳)が一大センセーションを起こして同映画祭の審査員と区別賞を獲得した映画『マミー』(爺ブログのここに記事あり)は、同じように凶暴な(ADHD = 注意欠陥・多動性障害と診断された)少年の物語でした。いくつかのメディアはこの二つの映画の類似性を指摘します。しかし、決定的な違いは、『マミー』では少年は社会に見捨てられ母親によって救済され、『こうべを高く』では少年は母親に見捨てられ社会によって救済されるのです。救済という言葉は強すぎるかもしれません。少なくとも一条の光は与えられるのです。
 派手なドーランの映画に比べて、このベルコの映画の地味さもただものではありません。前者に登場する少年スティーヴの極端にネガティヴになったり極端にポジティヴになったりという情緒の浮き沈みが、後者に登場するマロニーにはなく常に極端にネガティヴでアグレッシブなのです。これを隔離された集団生活の中で修正していく目的の施設の中でマロニーは育ちます。その担当教育員ヤン(ブノワ・マジメル)は、マロニーの野卑ですべてに否定的な言語に負けない、強靭で威圧的で教唆的な言語を用いますが、そこにはアニキ分的な慈愛のスパイスを利かせる必要があります。この映画の中でブノワ・マジメルはロバート・デニーロに良く似ている、と何度も思いました。しかし、抑制の取れていたはずのヤンも映画後半で我慢の限界を越え、暴力的にマロニーを押さえ込んでしまいます。このことでマロニーへの非暴力の教えは無に帰してしまうのです。
 マロニーを更生の道へ導くことは非常に長い時間がかかります。この映画の長さ(2時間)はその一進一退のリズムでもあります。そしてそのヒーロー&ヒロインたちは、女裁判長とひとりの教育員ヤンだけではなく、施設や未成年監獄で働くすべての人たちなのです。映画はこの問題ある少年たちと文字通り体当たりで向き合っている人たちひとりひとりにも多くのシーンを割いています。まず圧倒されるのはこの人たちの言語です。暴力的で論理も情操のかけらもない少年たちのめちゃくちゃな物言いに対して、それに打ち勝てるボキャブラリーとロジックを持っていなければならないのです。辛抱強さ・自制心・論理性の極限のような言葉で少年たちを最終的に従わせるのです。このような人たちこそ、容易な美談でなどありえないこの映画の土台となっているのです。
 あれあれ?似たような映画あったな、と思い出すのは、2011年のマイウェン監督の『ポリス』 (2011年カンヌ映画祭審査員賞)で、パリ警察の未成年保護部隊を描いたものですが、これも体当たりで未成年犯罪に立ち向かう人たちがヒーロー&ヒロインです。この映画、エマニュエル・ベルコがマイウェンと共同でシナリオを書いていて、ベルコ自身も警官役のひとりで出演していたのです。
 今週号(2015年5月13日号)のテレラマ誌のインタヴューでベルコが『こうべを高く』のインスピレーションについて次のように語っています。
もともとはわたしの子供時代の想い出なの。8歳の時ブルターニュの祖父母のもとでヴァカンスを過ごしていた。そこから遠くないところで、教育員である叔父が、非行少年たちのためのキャンプを主催していた。ある日、わたしはそこに行って、わたしの知らない世界を発見したの。カオス的な遍歴を経た若者たちは「野性の子供」のような側面があり、今日の非行少年たちとはかなり違っていた。可愛がられて保護されて良い教育を受けていた少女だったわたしは、この日の体験のショックをよく記憶している。すべての子供たちがわたしのような幸運があるわけではないということを初めて実感したのよ。それはお金のことではないわ。愛情と教育のことよ。同時にわたしは彼らの生き方、動き方、しゃべり方に魅了されてしまったの。映画の中で、主人公の少年に恋してしまう少女、それはわたしなの。

 映画の中のターニングポイント、それはまさにマロニーを愛してしまう少女テス(演:ディアンヌ・ルークセル)の登場です。鑑別施設のフランス語教師の娘であるテスは、極短ショートカットで、その上キックボクシングを習う明らかに少年的な立ち振る舞いの少女。このテスを何が何でもマロニーに会わずにはいられない衝動 に駆り立てた恋は最初は完全に一方的なもの。マロニーは野獣のようにテスと性交はできるものの、それが何なのか全く分からない。抑制のきかない恋慕と性欲でマロニーに迫ってくる少女を、マロニーは拒否せず受け入れていくが、テスはジュテームと言えても、マロニーはそれがどういう意味なのか分からないし、母親以外ジュテームなる言葉は言えないのです。
 周囲の人々の懸命の努力にも関わらず、さまざまな偶然も手伝って、マロニーは車の盗難+無免許運転+交通事故という監獄行きが避けられない事態に陥ってしまいます。心が少しずつ通じ合っていたと思われた女裁判官も教育員ヤンも、もはや何もできなくなってしまいます。そういう状況の中で、マロニーはテスが妊娠したことを知るのです。テスはそれが監獄を早く出られる法的な理由になれるのだから、それを利用してちょうだい、と言うのですが、マロニーには子供を持つ、父親になる、ということが全く自分の理解に及ばない、自分とは無関係のことにしか思えないのです。
 拒否されたテスは失意のどん底で妊娠中絶手術を受けることを決めます。監獄にいるマロニーの心が揺れます。そのことが気になってしかたがありません。そして監獄仲間たちの協力を得て、遂に脱獄を挙行してしまうのです。一目散に病院に駆け込み、テスの中絶手術を直前で力づくで阻止するのです(映画の最大のヤマ)。そしてその時初めてテスにジュテームと言うのです....。

 17歳で男児の父親になったマロニーが、赤ん坊を抱いてダンケルク地方裁判所の女裁判長の執務室を訪れます。何度もマロニーが出頭を命じられてやってきた執務室です。「なんだかすっきりと片付いているみたいだけど?」とマロニーが聞くと女裁判長は「もう引退するのよ」と答えます。「きみとはもう10年のつきあいなのよ」と。赤子を抱いたマロニーを彼女は祖母であるかのように抱きしめます。そして、マロニーは赤子を抱いて、裁判所の出口階段を一歩一歩降りていくのです。こうべを高く上げて。エンドマーク。

 社会派映画というのは何でしょうね? と考えました。ひとりの人間がひとりの人間を救済したり変えたり、ということではなく、目に見える人/目に見えない人、さまざまな人たちが構成して機能している社会が、この世ではみ出して自己破壊してしまいそうな人をなんとかして持ちこたえさせる、そういうパワーがまだある、ほとんど絶望的だろうけど、懸命に抑えようとしている人たちがいる、それは本当に普通の市民には理解されていないことなのではないでしょうか。グザヴィエ・ドーランの『マミー』は母と子のギリギリの物語でしたが、ベルコの『こうべを高く』は少年と社会のギリギリのドラマだと私は見ました。そしてそれは限りなく現場に近く緊張したものなのです。現場は(例えばテレビ報道での非行少年ドキュメンタリーのような)そんなもんじゃないんだ、という現場の声が聞こえてくる映画なのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

エマニュエル・ベルコ監督 "LA TETE HAUTE"(こうべを高く)予告編


2015年5月4日月曜日

今朝のフランス語:アンフィデル Infidèle

7年ぶりのオリジナルアルバム『いまわの際に -  In Extremis 』(2015年4月27日発表)は、やっぱりそのタイトルでファンの多くは「これが最後のアルバム」と思って緊張して聴いたでしょう。その週の国営テレビFrance 5のアンヌ=ソフィー・ラピックスの番組"C'à vous"に出演したフランシス・カブレルは、ラピックスの質問に「これが最後のアルバムではない」と言い、ファン代表のようなラピックスの「ほら、それをちゃんと言ってくれなくちゃぁ!」という安堵の声を聞いたのでした。それでも「それほど長続きするとは思わない」という留保つきで、カブレルは静かに引退の花道を準備しているような風情でした。それはそれ。アルバムに関しては遅からず別の機会で必ず書きますので、ややお待ちを。
この13枚目の新アルバムのプロモーション中のフランシス・カブレルが、この3月に出版されたカブレル評伝本の中の記載について、私生活侵害・虚偽文書として訴訟を起こして、この本の販売禁止と回収を要求しています。ただならぬことです。問題の本はアラン・ウォドラスカ著『カブレル Les Chemins de Traverse』(L'archipel社刊 2015年)で、著者ウォドラスカは既に40冊を越えるシャンソン・アーチストのバイオグラフィーを発表していて、カブレルに関しても既に2冊の評伝を出版している多作ライターです。
 この人の場合、ほとんどが "biographie non autorisée"(ビオグラフィー・ノン・オートリゼ = 本人の承諾を得ていない伝記)のようです。私は "biographie officielle"(ビオグラフィー・オフィシエル = 本人公認のバイオ)よりも、 ライター視点で雑多な情報が多い「ノン・オートリゼ」の方が面白いものが多いと思いますよ。この本も「ノン・オートリゼ」とは言えども、出版時にちゃんとアーチストに1部送って目を通してもらっている(という著者の弁)ようです。
 では問題の箇所です。私はこの本買ってないので、雑誌や新聞のインターネットサイトで引用されているものをそのままコピペします。

"La notoriété a fané les amours printanières. Elle a mis sur la route du chanteur d'autres visages en fleurs. Tandis que la muse s'est changée en muselière, les deux amants ont scellé un second pacte, qui a garanti à Mariette le pouvoir de diriger la carrière de l'artiste, le privilège d'incarner pour lui un repère affectif"

結構「雅文 」ですね。そのまま訳してみます。
名声は春の日の恋を色あせさせた。それはわれらが歌手の行く道の上に違った花々のような顔と出会わせた。美の女神(ミューズ)は口輪(ミュゼリエール)に変わってしまったものの、愛する二人は第二の契約を締結する。それはマリエットにアーチスト経歴上の進路を決める権利と、彼にとって常に愛の指標の化身であり続ける特権を保証すること。
付帯状況を説明しましょう。マリエット・ダルジョはフランシス・カブレルと40年以上も寄り添って生きる妻であり、カブレル・ファンにとっては最も重要な曲のひとつ(私にとっては最も美しい曲)であり、1977年のカブレル最初のヒット曲だった「プティット・マリー Petite Marie」を捧げられた小さなマリー(すなわちプティット・マリー = マリエット)だったのでした。以前(今年3月)当ブログで触れたジャン=ジャック・ゴールドマンと同じように私生活に関しては全く公にしないというのがフランシス・カブレルの鉄壁でした。知られていることと言えば、南西フランス、ロット・エ・ガロンヌ県の(カブレルが子供時代に住んでいた)小さな村アスタフォールに家族で住み、オーレリー(28歳。昨年歌手デビュー。デビュー曲 "Bref, s'aimer")、マノン(24歳)の二人の娘と、2004年にヴェトナムから養子縁組した娘ティウと一緒に暮らしているということぐらい。
 それをこのアラン・ウォドラスカのバイオグラフィーの数行は、フランシス・カブレルがヒットアーチストとなるやいなや、さまざまな女性関係をつくり(違った花々のような顔と出会いを重ね)、マリエットはおっかない管理女房になってカブレルの芸能活動の一切を取り仕切るようになった、と取れる内容で暴露したわけですね。ウォドラスカの本はそれまで芸能ゴシップ系メディアとは全く縁がなかったのに、このアルバムリリース前の数日間はその手のメディアが「フランシス・カブレル、不倫の疑い」と騒ぐようになってしまったのです。
 ここで使われる形容詞は "Infidèle" (アンフィデル)です。手元のスタンダード仏和辞典では
infidèle  a. 1. 不実な、不貞な、époux 〜 不実な夫。 être 〜 à son mari 夫に不実である。
といった訳と例文で、もっぱら夫婦関係での用法ですね。だったら、結婚していなければ、不貞ではないのか。このことは去年フランソワ・オランドとヴァレリー・トリエルヴェレールの関係についてこのブログでここにちょっと興奮して書きましたけど、 私は結婚してないんだからいいんだ、という意見です。Fidelité フィデリテ(貞節)とは結婚という制度が縛りつけているものでしょう。「不実」「不貞」「不倫」は結婚がなければ意味をなさない概念ではないですか。この方向で話はじめると、私、止まらなくなりますのでやめますが、私ははっきり結婚なんてこの世からなくなって欲しい派です。
 それはそれ。カブレルが24歳の時にマリエットに捧げた「プティット・マリー」を想い出してみましょう。こんなピュアーなラヴソング、世の中にざらにあるもんじゃないですよ。これを作ったらもうこの女性とは永遠じゃないですか。(↓歌詞、部分訳ですけど)

小さいマリー、僕はきみのことを言ってるんだ
きみの小さな声と、きみの小さな仕草で
きみは僕の命に
何千ものバラの花を降りかけてくれたんだ
小さな野性の子、僕はきみのために戦おう
1万年後には二人で平和な場所で出会えるように
その上の空は何千ものバラの花と同じように美しい

僕は空からやってきたんだ
星たちはきみの話でもちきりだ
きみは木片に両手を乗せて音楽を奏でる
ミュージシャンだって
奏でる愛は周りの空よりもずっと青い

きみの通りの暗闇の中で
小さいマリー、僕の声が聞こえるかい?
僕はきみだけを待っている 出発するために
きみの通りの暗闇の中で
小さいマリー、僕の声が聞こえるかい?
僕はきみだけを待っている 出発するために....

 「僕は空からやってきた」、「空で待っているスターマン」、「空でダイヤモンドをもっているルーシー」、みんな同じ仲間ですよ。 こんな歌を作ってしまったら、未来永劫においてこの歌は残ると思わなければいけません。5年後も10年後も40年後も... えへへと笑って「あれは歌の上の話ですから...」とごまかせるわけないじゃないですか。フランシス・カブレルに限って言えば、絶対にありえない、と断言できますよ。

(↓「プティット・マリー」92年のアコースティック・ライヴ・ヴァージョン。ベースはパガノッティ)