2016年2月29日月曜日

週に一度花に水を

アラン・ルプレスト『花に水を』
Allain Leprest "Arrose les fleurs"

 2008年のアルバム『氷山が溶けてしまう時(Quand Auront Fondu Les Banquises)』の中の1曲です。アラン・ルプレスト(1954-2011)の死の3年前の曲だから「晩年の作」ということになるのでしょうか。57歳で死んだ詩人の54歳の作品。
 2016年2月28日にインタヴューしたベルギーのアーチスト、イヴァン・ティルシオーがこの曲をカヴァーしていて、私もルプレストの話になると、身を乗り出して「これほどの筆を持ったシャンソン詩人は...」とひとしきり二人で話し込んでしまったのでした。
 シャンソンという短詩形式に、これほどのドラマ性を詰め込める人、その才能がはっきり見えるシャンソンの一つです。説明を加えるのは大変無粋なことと知りつつも、ちょっとだけ輪郭を。大げんかをして出て行った女から、男のもとに手紙が届きます。男の健康を気遣う優しい言葉があります。そしてまだ愛しているから、そこに戻りたいという意思表示があります。男にとって、そこまでは何らの問題もなく、逆に願ってもない、嬉しい復縁なのです。ところがその手紙の中の「一週間に一度花に水をやってね」という一言が、気に障ってしかたがない。カチンと来てしまったのです。なぜこの言葉に引っかかるのか。それが4行ずつの5つ詩節の進行で、微妙に変わっていく。怒りというのではない、何か承服できない引っかかりから始まって、「勝手に出て行っておきながら...」と突き放してみるものの、おまえのいない月日というのは何だったのだという自問に変わり、おまえから植物を愛することも教わったという回想も混じり、もう一度二人で花に水をやる姿を想像してしまう自分に気づいて...。ルプレストのシャンソンでしか表現できない機微なのでしょう。なぜやるせなさが残るのでしょう?
 きみが僕に宛てた手紙、今朝受け取った
僕のことを気遣ってくれてありがとう
きみはもうすぐ僕のもとに帰ってくるんだって、僕たちはまだ愛し合っているんだって
「週に一度は花に水をやってね」って?

愛しい人よ、僕はきみに誓えるよ、花には水をやっておくよ、って
きみには信じられないだろうが、僕たち二人は破裂してしまったんだ
僕はきみの言葉をもう一度つぶやいてみる「私は出て行ったけれどあなたを憎んでいないわ」
でもこの「週に一度は花に水をやってね」って?

きみの不在の間、僕が自分にタバコや
サンテミリオンを禁止するのって、一体僕には何の役に立つんだ?
僕はきみの手が「一週間で戻るわ」って書いた封筒を握りしめている
でもこの「週に一度は花に水をやってね」って?

きみのおかげで僕は植物の言葉を話せるようになった
そして僕は花びらの枚数を数えるように過ぎ行く日数を数えている
きみの手紙を読み返してみる、そこには何の問題もない
ただこの「週に一度は花に水をやってね」って?

きみが僕に宛てた手紙、今朝受け取った
僕のことを気遣ってくれてありがとう
僕は想像してみるよ
週に一度花に水をやりながら、二人で歩いていく庭園のことを
週に一度花に水をやりながら
("Arrose les fleurs"  詞アラン・ルプレスト/曲ロマン・ディディエ)

(↓アラン・ルプレストのオリジナル・ヴァージョン)


(↓イヴァン・ティルシオーのカヴァー・ヴァージョン)


(↓アメリー・レ・クレヨンのカヴァー・ヴァージョン)

2016年2月11日木曜日

ぴょんと高く跳び上り、そうっと降りる

オリヴィエ・ブールドー『ボージャングルスを待ちながら』
Olivier Bourdeaut "En attendant Bojangles"

 狂気ってどこまでのことでしょうねぇ?私たちはかなりのところこれを抑制し、押し殺す努力をして生きていますよね。日本語の狂気というのはとても固くてネガティヴに思えます。あってはならないものという側のものです。ところがフランス語ではこの "folie(フォリー=狂気)"はずいぶんと許容されているもののように思えます。"folie légère(フォリー・レジェール=軽い狂気)"、"folie douce(フォリー・ドゥース=甘い狂気)"、”grain de folie(グラン・ド・フォリー = 粒ほどの狂気)"といったフランス語表現は、むしろ生活において必要な笑いであったり、はめ外しだったり、奇抜さによる魅力だったり、とてもポジティヴなものです。私たちはバカ笑いが好きだし、突拍子もないことが好きだし、奇想天外なことが好きですが、どこまでを許容できるか、どこまでがポジティヴで、どこからが度を越えてネガティヴになってしまうのか、危険で有害で死に至るような狂気はどこから始まるのか、そんなことを考えさせられました。それは恋愛と似たものですよね。世の中の仕組みというのは節度ある恋愛は許容しても、度を越した恋愛は抑制し、禁じてしまう。しかし狂った恋はそれを超えてしまう。狂気と恋愛は結びついているものであり、狂気のない恋愛はないのですけれども、"どこまでの狂気が?"と計ったり加減したりして恋愛ってできるのですか?それって恋愛と言えないでしょう?
 この恋と狂気のリミットについての小説です。古今東西このテーマ(言わば "amour fou"あるいは"fol amour")については夥しい数の書が著され、夥しい数の歌が歌われました。その多くは重い文学があり、重いトーンの歌だったでしょう。ところが、この小説は軽いのです。軽々とリミットを超えてしまう。高く高く跳び上がってしまう。He jumped so high, he jumped so high...

I knew a man Bojangles
And he danced for you in worn out shoes
WIth silver hair, a ragged shirt
And baggy pants, the old soft shoe
He jumped so high, he jumped so high
Then he lightly touched down (...)
Mister Bojangles, Mister Bojangles, Mister Bojangles, dance !

 この「ミスター・ボージャングルス」は1968年、米国のシンガーソングライター、ジェリー・ジェフ・ウォーカーの曲で、ニッティー・グリティー・ダート・バンド、サミー・デイヴィス・ジュニアなど世界のあまたのアーチストたちにカヴァーされ、日本では早くから中川五郎さん(名訳"ぴょんと高く跳び上り、そうっと降りる")が歌っていました。この小説で繰り返しターンテーブルに載せられ、主人公の男女をワルツで陶酔に導いていくのがニーナ・シモンの歌による「ミスター・ボージャングルス」です。このニーナ・シモンのヴァージョンがこの小説のエンドレス・サウンドトラックです。この歌は機会を選びません。宴の終わりや、諍いの後や、病室の中や... このレコードさえ流れれば踊りは始まり、時間は止まり、至高の幸せは戻って来るのです。
 小説の話者は少年です。幸福な父と幸福な母の間に生まれた幸福な子供です。父親は少年が生れる前、蠅たたきを職業にしていたと言います。これは小さな子供に自分の複雑な実情を知らせるよりも面白おかしい超人としてしまおうという優しい悪戯心なのだ、ということを子供は見抜いていますが、複雑な現実は無邪気な嘘で面白く脚色した方が世界はうまく行く、そういう世界観の一家なのです。だから小説は奇想天外・荒唐無稽な展開もしていくものの、読む方もそれが真実・現実であるのかということなど全く気にならなくなります。蠅たたきは辛い上に報酬が悪いゆえ、父はガレージ屋という表向きの政商になります。上院議員のダチ(しかも"L'Ordure=汚物”とあだ名される男)と通じて、未来に成立する法律の情報を得て、その新法で儲けられる新業を誰よりも先に始めてしまう(例えば義務車検の新法が通る前に、車検ガレージを全国に開業して、独占的に儲けてしまうということです)。本当かウソか、そんなこんなで彼は何不自由しない富豪になってしまう。(巨万の富のおかげで、彼は仕事をやめて、小説を書くようになるのですが、それをいつ書き始めたのかは最後にならないとわからない。その小説は原稿を受け取った出版社が「シッポも頭もない ni queue ni tête = つまり、何の脈絡もない」と取り合ってくれません。)
 一種の生来のホラ吹き男なのですが、新興の成功実業家の集いのような席(場所はニースの豪華ホテル)で、自分はハンガリア貴族の末裔で先祖はドラキュラと親交があっただの、デトロイトの自動車王の子として生まれてフル操業工場の騒音のせいで自閉症児だっただの、ホラでその場の人気者になってしまいます。そこに、その絶世のダンス美女はいたのです。
「あなたは私の暖炉の上に架かった絵の中のプロシアの騎士と同じ髪型をしています!地球全体でこんな髪型をした人には会ったことがありません。プロシアはずっと前に滅亡してしまったのに、あなたはどうしてその髪型ができるの?」ー「私はこの髪型のまま生まれてきたのです、数世紀前に!」(中略)「告白しますが、私の父はジョゼフィン・ベイカーの隠し子なんです。」ー「なんと!実は私はジョゼフィン・ベイカーをよく存じていたのですよ、大戦中のパリで私と彼女は同じホテルにいたのですよ。ある夜激しい空襲があってジョゼフィンは私の部屋に避難してきたのです。」ー「では、あなたは私のお祖父さんなのですね!」
ホラ吹き男と軽度の狂女の出会いだったのです。そしてこの二人は激しく愛し合い、「ミスター・ボージャングルス」のレコードの調べにダンスの歩を進め陶酔していくのです。男の名はジョルジュ。ところが女は自分の名前を覚えていないので、退屈しないようにジョルジュが毎日違う名前で彼女を呼んであげなければならない。マルグリット、ルネ、コンスタンス、ジョルジェット、オルタンス....。宴会好き、奇抜なイヴェント好き、そんな彼女の嗜好をすべて読み取って、ジョルジュは彼女の好きなことすべてを実現するのです。アフリカ旅行の際、ナンビアで出会った巨鳥(ツルの一種)を自宅で飼いたいと言えば、税関がどうであろうが法律がどうであろうが、なんとかしてパリのアパルトマンにこの巨鳥を住わせてしまう。このわがままで気難しい巨鳥は「マドモワゼル・シュペルフェタトワール」(余計な付け足し嬢、ミス余分)と名付けられ、一家の(そして小説上の)重要なキャラクターになります。そして二人の間に生まれた話者の少年です。この少年は本当によく出来た子供で、破天荒かつ超エピキュリアンな父と母を愛し、幼くしてこの夫婦の信奉者および記録者としての使命を受け入れたのです。パリの巨大なアパルトマン、スペインに所有する夢のような城、この二つの場所で、ジョルジュとオルタンス(またはジョルジェット、ルネ、コンスタンス、ポーリーヌ、マルグリット...)は饗宴を繰りひろげます。気まぐれなお姫さまの宴のクライマックスには決まってニーナ・シモンの「ミスター・ボージャングルス」が流れます。少年はこの二人を愛してやまない。無上に幸福な家族3人(+1羽の巨鳥)の恩寵の時は長続きしません。小説ですから。
 He jumped so high, then he lightly touched down. いとも高く跳び上り、そしてゆっくりと降りてくる。緩やかに転落はやってきます。長年放っておいて封を切ることなどなかった手紙の山、それは未払い金催促書や、罰金、税金の督促状ばかりでした。一家は天文学的な金額の追徴金を負うはめになり、やむをえずパリの超豪華アパルトマンを手放さざるをえなくなります。これを父と子はしかたのないことを諦められるのですが、母は受け入れられず、人の手に渡るぐらいなら無くなってしまった方が、と放火未遂事件を起こしてしまいます。火事は小さなもので済んだのですが、母は放火犯として精神鑑定にかけられ、精神病院に収容されてしまいます。
 病院でもエピキュリアンな母は、病院で宴を繰り返し、すっかり病院の人気者になってしまいます。しかし病院は病院、彼女にとっては牢屋でしかなく、精神状態はますます危うくなっていきます。父と子は入念な偽装誘拐作戦を実行して(ここのパッセージめちゃくちゃ面白いです)、母親を救出して、スペインに国外逃亡します。
 そして再び家族3人(+1羽の巨鳥)の生活をスペインの城で始めるのです。ここでこのダブルミーニング(フランス人には直喩でしょうが)を了解する必要があります。"Château en Espagne(シャトー・アン・エスパーニュ=スペインの城)"とは「不可能で非現実的な計画」という意味の仏語表現です。 オルタンス(またはジョルジェット、ルネ、コンスタンス、ポーリーヌ、マルグリット...)は、その精神疾患発作の頻度をいよいよ増していき、家族の平和な日々はどんどん地獄の試練に陥っていくのです。三人家族の "folie douce(甘い狂気)"は彼女の "folie dure (過酷な狂気)"によって破壊されてしまったのです。それでもジョルジュの"amour fou(狂気の愛)"は変わることがないのです。

 狂気はぴょ〜んと高く飛び上がり、やがてゆっくりと降りてきたのですが、底なしに地獄まで降りていくのです。 これを父と子はどうすることもできない。小説は大部分が子供が話者となって書かれていますが、父の文章も登場します。何しろ(一度も出版されていないにしろ)小説家なのですから。シッポも頭もない小説を書く作家なのです。彼はこの地獄を記録していくのです。もちろん地獄の前にあった幸福な狂気の頃のことも。
 この地獄にどう収拾をつけるのか。それは多くの読者が結末を見ずに予測できたことでしょう。女は完全に向こう側に行く日が近いと悟り、その過度な狂気が三人家族を破壊し尽くす前に、スペインの城の前に広がる湖に多量の睡眠薬を飲んで歩み進んで行きます...。
 女の葬儀をすませ、男は城に籠り、十数日間不眠不休で小説を書き上げ、彼もまた自ら命を絶ちます。そのシッポも頭もない小説は『ボージャングルスを待ちながら』と題されて、後年のベストセラーとなるのです....。

 ミュンヒハウゼン男爵やボリズ・ヴィアン『日々の泡』を想わせる軽妙さに始まり、悲愴な狂気の愛で終わる。真実があまりにも残酷なものなら、(たとえ限りがあることであっても)ウソで軽々と跳ぶことの方がいいに決まっている、と跳ぶことを選択した父と子が二人三脚で書いた小説、という作りです。実は父が一人が書いたというのが最後にわかるのですが。オリヴィエ・ブールドー、35歳、相当年月をかけて書いたと想像に難くない初めての小説です。この狂気は私たちが愛する狂気です。

Olivier Bourdeaut "EN ATTENDANT BOJANGLES"
FINITUDE刊 2016年1月 160ページ  15,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★⭐️⭐️ 

(↓ 2016年1月、国営テレビFRANCE 5「ラ・グランド・リブレリー」で『ボージャングルスを待ちながら』について語るオリヴィエ・ブールドー)