2012年7月30日月曜日

Castor in holidays

暑中お見舞い申し上げます。

8月12日までサン・ローラン・デュ・ヴァール(南仏コート・ダジュール)におります。ブログの次回の更新は8月後半になります。
皆様、よい夏をお過ごしください。
      カストール爺

2012年7月18日水曜日

アンリの頂上

Henri Salvador "Tant de temps"
アンリ・サルヴァドール『かくも長き時間』

 撫するような声で歌う老人アンリ・サルヴァドール(1917-2008)が90歳で亡くなってから4年が過ぎました。この老人が,何度かコミック芸人ではなくミュージシャン/アーチストとして正当な評価を得ようとしたのですが,なかなか果たせず,その日は2000年にリリースされたアルバム『眺めのよい部屋』("Chambre avec vue",日本盤タイトルはなさけなくも『サルヴァドールからの手紙』)にやっとやってきたのでした。その時既にアンリ翁は80歳を過ぎていたのです。世界で最も甘美で哀愁的な声を持ったクルーナーを復活させるのに大きく貢献したのが,ケレン=アン・ゼイデルとバンジャマン・ビオレーという21世紀に華ひらく若いミュージシャン/アーチストでした。
 このアルバムの後,アンリ翁は幸せなアーチストとして,死ぬその日までコンサートとアルバム制作に夢中で,その途中で立ったまま前のめりで倒れるように昇天しました。この人だったら,100歳まででも歌い続けられるだろう,と言われもしました。まあ,文字通り,天寿を全うした,と言っていいんじゃないでしょうか。
 その3年後,仏ユニバーサル・ミュージックの社内レーベルPolydorに,作曲家フランシス・マッジューリが,実はアンリ・サルヴァドールの未発表デモ録音を6曲保管している,と告げます。マッジューリは90年代の仏ポップ・トリオ,レ・チャート(Les Charts。カロジェロとジョアキノのマウリチ兄弟とマッジューリのイタリア系3人少年のバンド)としてデビューしていて,その後は作曲家としてナターシャ・サン=ピエール,パトリック・フィオリなどに曲を提供しており,その最大のヒット曲はノルウェン・ルロワの"Cassé"(2003年)ということになっています。
 このデモ6曲は1999年に録音されています。つまり『眺めのよい部屋』とほぼ同時期ということです。このもうひとつの「クルーナー・アルバム」は,実を結ぶことなく,デモテープのままお蔵入りしていました。これをPolydorは『眺めのよい部屋』の立役者バンジャマン・ビオレーに委託して,アルバムとして「完成」させるという企画を立てたのです。(途中でレーベルはPolydorから同じユニバーサル社内のV2に移っています)。
 その作業中に未発表録音は全部で10曲まで見つかりました。1999年に録音された8曲,1991年に録音された1曲(6曲め "Qui es-tu ?"),そして1962年に録音された1曲(4曲め "Mon amour")。この10曲がバンジャマン・ビオレーのきめ細かく,巧みと贅を尽くしたオーケストレーションで「完成」されてしまいます。ジャズ・ビッグ・バンドのアレンジに包まれた6曲め "Qui es-tu?"では,元ラフェール・ルイス・トリオのユベール・ムーニエがデュエット・ヴォーカルで参加。もう1曲ビッグ・バンド編曲の9曲"Ca leur passera"では,バンジャマン・ビオレー自身がデュエット歌手として,ルイス・アームストロングのようなヴォーカルを聞かせます。
 この10曲に加えて,ビオレーはサルヴァドールの代表曲「シラキューズ」(1962年録音版)のサルヴァドールのヴォーカルとギターだけを抽出して,それにビオレーの全く新しいオーケストレーションをかぶせ,まるでドビュッシー/ラヴェルを聞くような「ビオレー版シラキューズ」に仕上げて,このアルバムの終曲にしています。
 奇妙な曲がひとつ。4曲めの"Mon amour"は,サルヴァドールがこの「モ・ナムール」という「わが愛する人よ」という言葉をくりかえして,ギターに合わせてヴォカリーズしているだけなのです。たぶん即興のいたずら録音だったかもしれないこのギターと「モ・ナムール」だけの曲に,ビオレー編曲のピアノ,サックス,ベース,パーカッションが介入することによって,これは「祈り」(テレラマ誌のヴァレリー・ルウーの表現です)のレベルまで高められていくのです。引き上げられたのはビオレーの編曲のせいかもしれませんが,私たちはここにアンリ・サルヴァドールの声の魔力の頂点のようなものを聞いてしまうでしょう。私はこれを「アンリの頂上」と名付けます。
 ベストトラックは2曲め(そしてアルバムタイトル曲)"Tant de temps"。何度でも聞きたくなるようなサルヴァドール・サウダージがびしびし迫るボサ・ノヴァ曲です。
11曲34分19秒,なにか悠久の時の中で聞いているような体験です。 かくも長き時間。

<<< トラックリスト >>>
1. Ca n'a pas d'importance
2. Tant de temps
3. Une île sans elle
4. Mon amour
5. Une belle journée
6. Qui es-tu ? (with Hubert Mounier)
7. Paname à la havane
8. Mes petites préférences
9. Ca leur passera (with Benjamin Biolay)
10. Doucement
11. Syracuse


HENRI SALVADOR "TANT DE TEMPS"
V2/Universal CD 3700631
フランスでのリリース:2012年6月18日

(↓アルバム1曲め「たいしたことじゃないさ (Ca n'a pas d'importance)」。「歌入れ」が1999年、編曲が2012年。これは墓場の向こう側の声を目の前で聞く体験でしょう。)

(↓ Universal Musicで公開されているメイキング・オブ "Tant de temps")
      

2012年7月11日水曜日

カイリー来ぬ青春

『ホリー・モーターズ』
"Holy Motors" 
2012年フランス映画
監督レオス・カラックス
主演:ドニ・ラヴァン、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ
フランス公開:2012年7月4日

 レオス・カラックスの13年ぶりの新作です。5月のカンヌ映画祭にオフィシャル(コンペティション)出品されたのですが、非常にポジティヴだったプレス評にも関わらず、賞なしでした。しょうないものはしょうない。この時の審査委員長はナンニ・モレッティでした。この映画にはナンニ・モ。
 思えば私は『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)から『ポーラ・X』(1999年)までの4本の長編映画はほとんど封切時に観ていて、多分多くのカラックス・フォロワーと同じように『ポーラ・X』を観るまではずいぶんポジティヴにこの監督を持ち上げていたと思いますよ。そして知ったふりして『ポーラ・X』褒める人たちとは口を聞かなくなりました。私は『ポーラ・X』は嘔吐寸前でしたからね。
 『ポーラ・X』で東欧女イザベルを演じたカテリーナ・ゴルベヴァが、44歳で謎の死を遂げたのが2011年8月14日のこと。(自殺説もあり)。カラックスの伴侶として10年連れ添っていて、3人の子供あり。新作『ホリー・モーターズ』 はジェネリックで写真入りで「カテリーナ・ゴルベヴァに捧ぐ」と出てきます。

 レオス・カラックスは本名をアレックス・デュポンというのですが、映画アカデミー賞の "Oscar"と自分のファースト・ネーム "Alex"の二つ "Oscar Alex"のアナグラム(字の並び替え遊び)で "Leos Carax "という源氏名を考えついたのです。映画守護神オスカーの子アレックスは、レオス・カラックスとして映画のアンファン・テリブルになったのです。そしてこの『ホリー・モーターズ』で11役をこなすドニ・ラヴァンの役名は「ムッシュー・オスカー」なのです。
 一体、映画って何でしょうね? 唐突にこんなこと言ってしまいますが、巨大映画会社が大予算かけて小難しくてややこしい映画を作るはずはないのです。あらゆる映画がみんな金が取れるわけではない。映画にはいろんな可能性があるはずで、銭勘定だけでみんながみんなあんな映画やこんな映画になってもらっては困る、と思います。特にパリ/東京などの飛行機長距離便の機内サービス映画の数々を見るとそう思います。これではわれわれの映画は死んでしまうのだ、という危機意識から、古今の映画人は警鐘として「映画のための映画」を作ってきました。トリュフォーの『アメリカの夜』、ヴェンダースの『ことの次第』、フェリーニの『インテルヴィスタ』などがそうです。(私はゴダールの『映画史』を観ていません)。
 映画の子でいながら(2007年に3者連作の短編映画集『東京』 の中に「メルド」という作品を作ったという例外はありますが)13年の沈黙を守っていたカラックスが、ここでカラックス流儀の「映画のための映画」を作ってしまったのです。

 映画は寝室で長い眠りから醒めたパジャマ姿のレオス・カラックス(himself)から始まります。カラックスが壁の隠し扉を開けて、別の間に入っていくと、そこは映画館なのです。いっぱいの観客は音もなく座っていて、座席の間の通路には小さな女の子が歩いていたり、猛獣が歩いていたり...。ここで映画はなにものでもないのです。ただの活動写真。古い時代のスポーツ選手の動作を捉えるだけの「動く写真」。
 転じて郊外の超高級邸宅から、早朝に仕事に出かける「ムッシュー・オスカー」(ドニ・ラヴァン)の登場です。白塗りのスーパーリムジンには運転手兼秘書のセリーヌ(エディット・スコブ)がいて、今日のアポイントメントをバインダーファイルにしてオスカーに教えます。電話が入り、わけのわからないファイナンシャル用語での会話があります。オスカーはここで世界経済上のVIPという役をひとつこなすわけですが、その陳腐なファイナンシャル用語でのダイアローグで、どうしようもなくヘボいのです。リムジンの中は舞台俳優の楽屋のようになっていて、化粧台、衣装、小道具などがたくさん詰まっています。これから一日、深夜遅くまでムッシュー・オスカーはそのアポイントをひとつひとつこなしていくのですが、その度に化粧と衣装を変え、まったく別の人格としてリムジンから降りていきます。全部で11。オスカーは11種の人間の役を演じるわけです。「11人いる!」は萩尾望都のSF漫画でしたが、関連は全くないとは誰にも言いきれないでしょう。
 映画に何ができるのか? カラックスは彼の流儀で映画の11の可能性を提示するのです。オスカーは国際経済のVIPから、パリの橋の上にいる腰の曲がった老婆乞食になり人々から侮蔑の目で見られます(超社会派ルンペン・プロレタリア映画?)。サイバー格闘技の戦士になり、ゲーム空間のような暗闇の中で戦闘したり、くねくねうねるセックストイのようなサイバー女とセックスしたり、それをCGで別映像化したり(超アバター映画?)。中華街でヤクザの兄弟分の敵討ちのような、残忍でヘモグロビンが多量に出る殺害シーンと、害者の顔を改造してしまう後始末(超バイオレント・アジア映画?超タランティーノ映画?)。労働者階級の優しいパパが、十代の娘が行った友だちのホームパーティー(窓からカイリー・ミノーグの曲が聞こえる)に迎えに行って、車(プジョー205)の中で父娘の優しい会話があるのですが、娘がそのパーティーで誰ともダンスしなかったと聞くや、突然態度が豹変して激怒し、娘を途中で車から降ろしてしまうのです(超ホームドラマ?)。金持ちの老紳士が超高級ホテルのベッドの上で死につつあり、その死の床に姪(演エリーズ・ロモー)が現れ、そのあまりに歳のかけ離れた激しい恋愛の悲しい告白ダイアローグがあります(超メロドラマ?)が、それがすべて演技であり、即興のシチュエーション・フィクションであることが後でばらされます(超クサイ映画?)。
 映画のハイライトは2つあります。短編映画『東京』(メルド編)で登場した、下水道マンホールから出てくる緑の服を着た乞食の狂人メルドです。片目が白眼で、手から黒い爪がうずを巻いて伸びた汚い男は、通行人たちにぶつかり、タバコを奪い、花や札束を食べます。行く先はペール・ラシェーズ墓地。そこで超トップ・モデル(演エヴァ・メンデス)が、超トップフォトグラファーと写真撮影中で、そこに荒々しく乱入したメルドに、このフォトグラファーはインスピレーションを得て、この醜さはただものではない、こうなったら「美女と野獣」をやってしまおうと被写体になることをプロポーズします。そんなものに聞く耳持たず、絶世の美女を前に激情してしまったメルドは、トップモデルを誘拐し、墓地の地下に逃げ込みます。ここで美女と野獣は恋に落ちるのです(超「美女と野獣」?)。メルドのペニスは雄々しく勃起し(画面上にはっきりと映されます)、その状態で裸のメルドはトップモデルの膝枕で安らかに(勃起したまま)眠り、トップモデルはメルドを優しく愛撫しながら子守唄を歌ってあげるのです(超X-rated映画?)。 
 アメリカ映画史において、男優のペニスの勃起角度で X-ratedの検閲度合いが違っていたという事実があります。あたかもペニスが勃起すれば革命が起こってしまうのではないか、と政府は恐れていたようです。その昔 X-ratedは「闘う映画」だったのです。
 もうひとつのハイライトは「ポン・ヌフの恋人」との再会です。恋人を演ずるのはジュリエット・ビノッシュではなく、カイリー・ミノーグです。過去の恋から醒めきれぬ二人は、リムジン同士の衝突事故で、ポン・ヌフ橋のたもとで再会し、今や廃屋となっているサマリテーヌ百貨店(1991年映画『ポン・ヌフの恋人たち』では、ポン・ヌフ橋とサマリテーヌの精巧な映画セットを作っておきながら、気に入らなくてつぶしてしまう、という曰くつきの撮影エピソードがあります。本当にサマリテーヌをつぶしてしまったのはカラックスかもしれない)にエヴァ(カイリー・ミノーグ)とオスカーは入っていき、階段を一段一段昇りながら屋上までいたるのですが、愛しながら別れた男女の悔恨を、ミュージカル映画仕立てでエヴァ=カイリー・ミノーグは歌っていくのです(超シェルブールの雨傘?)。「わたしたちは誰だったの? Who were we ?」(詞:レオス・カラックス+ニール・ハノン/曲:ニール・ハノン)という本当に泣かせる歌なのです。こんなにおセンチで痛々しい歌と情景は、めったな映画で見れるものではありません。私が涙しそうになったすぐあとで、ポン・ヌフ橋を眼下に見るサマリテーヌ百貨店の屋上で二人は再び別れ、男が立ち去ったあとで、なんとエヴァは屋上から飛び降り自殺をしてしまうのです。ちょっと待て!おまえは『ポン・ヌフの恋人たち』にこんな落とし前をつけるか!と、私は猛烈に腹が立ちましたね。 - (ジュリエット・ビノッシュ代理殺人事件という解釈も可能でしょう)。
 ムッシュー・オスカーの今日の最後の仕事はパパとしてある家庭に帰宅すること。「今帰ったぞ〜い」と入って行った家には、チンパンジーの奥さんがいて、その二階にはチンパンジーの娘さんがいます(超猿の惑星?)。そしてその平和な家庭の一日の終わりの情景をバックに、ジェラール・マンセの"Revivre"(再生)という歌が流れます。「再生したいんだ。それは同じことをするためにもう一度生きたいということだ」。
 セリーヌが運転するのと同じようなスーパー・リムジンがたくさん「ホリー・モーターズ」社の車庫に帰っていきます。ムッシュー・オスカーと同じような「仕事」をしている人たちは世の中にたくさんいて、人気がまったくなくなった車庫の中でその人たちのことをリムジンたちが(口のように車体ボンネットをバクバク開けて)嘲笑したり、揶揄したり。

 カラックスはどうだ映画はここまでできるんだ、というリミットを遠くに押しやるような映画を作りたかったのでしょう。11のエピソードは当たり外れはあれど、映画的にスリルもサスペンスもホラーもグロもSFもロマンティスムもエロもシュールレアリスムもある、というカタログのようです。ただ、それは「映画のための映画」かと言うと、私にはどうしてもその前に「自分のための映画」であるという強烈なメガロマニー(誇大妄想狂)な色づけが気になって、しばしば居心地が悪くなるのです。カラックスについてはよく言われることで、この性向を形容するフランス語は "Nombrilisme"(ノンブリリスム)です。手元の仏和辞書に載ってないので、日本語の訳語はわかりません。"nombril"とは「へそ」のことで、へそが体の中心であるように、自分のことを世界のへそ、つまり世界の中心と考える自己中心主義のことです。
 オスカーが何役もこなしてリムジンから出入りしているのを知っているひとりの男(ミッシェル・ピコリ)が、オスカーにどうしてそこまでするのか、と尋ねます。オスカーはそれに "Pour la beauté du geste"(行為の美しさを追求するために)と答えます。彼は美の探求のためにあらゆる役回りをしなければならない。その美を決定する審美眼はカラックスひとりしか持っていない(映画というのはそういうものと言われればそれまでですが)。美醜のリミットを破ろうとすることや、俺様式の完全主義は、この映画で当たるものもあれば外れるものもあり、その外れるものでは極端な不快感さえ呼び起こすかもしれない(それが狙いもありうる)。「私の審美眼が映画を決定する、なぜなら私は映画=オスカーなのだから」という鼻の高さは、拍手する人もいれば、どうしたものかと思う人もいるでしょう。この映画がカラックスの「私は映画だ」というマニフェストであるならば、私は7割の強度で拍手します。
 最後にこれだけははっきり言っておくと、カラックスは女性に対する敬意が欠落しています。『ボーイ・ミーツ・ガール』から数えて、私はカラックスの映画に登場するすべての女優たちはカラックスに大なり小なりの隷属を強いられているようにしか見えないのです。

(↓『ホリー・モーターズ』予告編)

Holy Motors, de Leos Carax (bande-annonce) par Telerama_BA



2012年7月5日木曜日

ハイランド・モルトの恵み

『天使の取り分』2011年イギリス映画
"La Part Des Anges (The Angels' Share)" ケン・ローチ監督
主演:ポール・ブラニガン、ジョン・ヘンショー、ジャスミン・リギンス...
2012年カンヌ映画祭審査員賞
フランス公開:2012年6月27日

 舞台はスコットランドの大きな町です。たぶんグラスゴー。ロビー(ポール・ブラニガン)は元不良少年。コカイン吸飲の勢いで,見知らぬ青年を超人的なヴァイオレンスで殴る蹴るを繰り返し,一生残る障害のある体にしてしまいます。この結果ロビーは監獄刑を喰らうことになりますが,軽減されて強制労働奉仕刑になります。その間にロビーは恋人レオニーが妊娠し,父親として真っ当な人間に更正することを自ら誓うのですが,不良時代の古縁の諍いの盛り返しや,ロビーを忌み嫌いレオニーから引き離そうとするレオニーの父親の妨害が絶えず,ロビーは再び「暴力」の側の人間に戻ってしまいそうになります。
 レオニーとロビーの子は無事誕生し,レオニーは新しい生活を求めますが,ロビーには職も住処もありません。レオニーの父親はロビーに金をやるから,この町から消え去りロンドンへ行け,という取引さえ提案します。この親に禁止された愛は「ロメオとジュリエット」ですな。
 金なし,職なし,暴力沙汰に巻き込まれる脅威に常に曝されながら,ロビーはこの町でどうやって「父親」として生きられるのか - という暗〜い幕開きです。暴力もいっぱい出てきます。おお,これはシリアスな社会ドラマだなや,と不安になります。そこに現れるのが「強制労働奉仕刑」の受刑仲間です。いずれも社会不適合者ばかり。盗癖のある女モー,理屈の通らない反抗者アルバート,がさつな乱暴者ライノ,そしてロビーが奇妙な4人組として結束してしまいます。
 それに加えて,崖っぷちのロビーに最も厚い救いの手を差し伸べるのが,受刑者教官のハリー(ジョン・ヘンショー)です。ペンキ塗りやら墓地掃除やらの労働奉仕の監督の他に,この教官は受刑者たちの再就職のための職能啓発にいろんな企業見学もさせるのですが,その中にウィスキー蒸留会社がありました。実はハリーも大のモルト愛好者で,自らの楽しみもあったのですね。ここでロビーの秘められていた驚くべき才能が発掘されてしまいます。この青年はなんと天性のウィスキーテスターなのでした。その才覚を自覚したロビーは独習でウィスキー学を猛勉強します。そしてハリーが連れていくウィスキー試飲会では、プロも顔負けのテイスターぶりを発揮してしまいます。
 その試飲会で知った値のつけようのない至宝中の至宝のモルトの存在。その国際オークションが、ハイランドにある醸造所で開かれるという。盗みの名人モーはその資料を盗み出し、4人の頭脳たるロビーはこの至宝モルトを盗み出す計画を立てます。4人はハイランドの「ウィスキーおたく」を装うために、キルトを腰に巻き(これが最高に可笑しい)、ヒッチハイクで醸造所に乗り込んで行きます。(古式に則って,キルトの下には何もつけないもんだから,アルバートはひどいマタズレ状態になってしまうのですが,婦女子の皆さんにはこの苦しみわかるまいに)。
 ここが社会派ケン・ローチの腕の見せ所です。スコットランドの明日のないどん底の前科者たち4人の前に見えてくるのは、金に糸目をつけない世界中のウィスキー・コレクターたちです。貧しい者はますます貧しくなり、金持ちはますます金持ちになっていく、21世紀的二極化世界です。このハッピー・フューたちは,アメリカや日本からやってきて,または電話やインターネット入札という手段で,この世にも稀な至宝モルトの樽を競り落とそうとしまう。激しい競り合いで桁はついに百万ポンドを越してしまいます。この熱い競り合いのエキサイトした場の空気のおかげで,ロビーが倉の中に忍び込んだことなど,誰も気にも止めないのです。
 ロビーと仲間はその夜,ボトル4本分の至宝モルトを盗み出すことに成功するのですが...。

 アルコール醸造の世界で言われる「天使の取り分」とは,樽の中で熟成していく年月のうちに蒸発してしまうアルコール分のことで,熟成開始の量から蒸発して減ってしまった分は,天使たちが頂戴しているのだ,という詩的に美しい表現です。この映画は値のつけようもないほどの超高価で超レアな液体を盗む,という行為を犯罪と断定してこの若者たちを地獄に戻すことはしません。むしろ,自然に蒸発して消えるべき「天使の取り分」を,偶然分ち合うことができた若者たちだ,というバッカスの神のお情けに包まれた恩寵の映画です。
 ここからロビーは醸造会社のテイスターという定職につき,パパとして新しい人生を歩み出し,ほかの3人もやや多めの金(全然ン百万という単位の額ではなくその百分の一)を手にしたおかげでそれぞれ前に進み出せるのです。こういう過酷で殺伐とした21世紀的貧困の中で,彼らは一生の友と,前に進む機会を得たのです。その仲介となったのが.... アルコールです。ハイランド・モルトの豊穣なる恵みです。アルコールは健康を害するですと?  -  そういう了見の人はこの映画観て,考えを改めてください。

(↓『天使の取り分』予告編)