2016年1月24日日曜日

呪われた夜 (One of these nights)

エドゥアール・ルイ『暴行譚』
Edouard Louis "Histoire de la violence"

  小説とは何の関係もありませんが、この1月18日に67歳でこの世を去ったグレン・フライへのオマージュで、フライが作者としてクレジットされている1975年ジ・イーグルスのヒット曲のタイトルを拝借しました。合掌。
 その呪われた夜はこの小説では2012年12月24日の夜。小説の話者は前作(小説第1作め)の『エディー・ベルグールにけりをつける』(2014年発表)と同じ「エドゥアール ・ルイ」で、オート・フィクションです。この2012年12月、話者は最初の小説『エディー・ベルグールにけりをつける』を書き終わり(出版にはまだこぎつけていない)、前作で描かれた貧困と村意識と男性原理とあらゆる種類のレイシズムに浸りきっている北フランスの故郷を離れ、パリで社会学を研究するエリート学生になっています。ウィキペディアの記述によると、正式に名前を「エディー・ベルグール」から「エドゥアール・ルイ」に変える手続きを取って新名を許可されたのは2013年のことで、この小説では自分のことは「エドゥアール・ルイ」と名乗っていながら、警察や病院で呼ばれる名前は「エディー・ベルグール」になっている、という過渡期です。そのクリスマスの夜、エドゥアールは親友のジョフロワ(小説ではこのファーストネームだけ登場ですが、実在の人物は社会学者のジョフロワ・ド・ラガヌリー)とディディエ(同じくファーストネームのみの登場。実在の人物は哲学者のディディエ・エリボン)とレヴェイヨンの食事をし、ノエルの贈り物としてそれぞれから本をもらって、真夜中前に二人と別れて「早くその本を読みたい」というワクワクした気持ちで、11区レピュブリック広場に近い自宅アパルトマンに帰るところでした。
 その自宅への早足の途中で一人の男が寄ってきて、エドゥアールを(もろに)ナンパしようとします。多分その前の親友たちとのアルコール酔いが残っていて、そのガードをゆるめたのでしょう、執拗に言いよる男にエドゥアールは根負けして、会話が始まります。男の名はレダ。言わばストリート不良です。話していくうちにこの男が60年代にカビリアから戦乱を逃れてフランスに渡ってきた難民の子であることがわかります。レダは父親がどのような状態でかの地を逃れ、どのような状態でフランスに迎えられたか、という悲惨を語ります。あらゆる名前のレイシズムを体験しているわけで、それはレダの代まで続いている。誇り高いカビリア人たちはその歴史や言語や文化の違いにおいて「アラブ」と混同されることを嫌います(このことは小説でことさら強調されていることではありませんが、重要なことなので続けます)。アラブがカビリアを弾圧する長い歴史があるからです。多くのフランス人は北アフリカ人=アラブという判で押したような先入観があり(それはフランスの原初的なレイシズムの一態で、小説の後で出てくる警察による取り調べでも繰り返し現れます)、レダはそのことからはっきりとアラブ人嫌悪があります。このアラブとカビルの違いを認識しないフランス社会にあって、「僕は知っているよ」とカビル語の一言二言を発語するエドゥアール。これだけでどれだけレダが打ち解けるか。そして今でこそエリート学生のような身のこなしをしているものの、その少し前まで貧困とあらゆる名前のレイシズム、マッチスム、同性愛排斥等が渦巻く北フランスの村(これが前作『エディー・ベルグールにけりをつける』に描かれた環境です)の中にいたエドゥアールは、境遇的シンパシーを抱かないわけにはいかないのですね。
 この打ち解けた交感は軽々しく急展開し、レダはエドゥアールのアパルトマンまで上っていき、二人は性交します。いいですか?エドゥアールの記憶では「4、5回」愛情交わりをしたことになっているんです。すごいエネルギーです。これって激情と言うべきものではありませんか。しかしこれが恋慕の始まりなのか、ということに関して、小説は非常に曖昧です。この曖昧さは、その後の出来事の結果に引っ張られての曖昧さだということとが読んでいくうちに了解されていきます。
 状況の急変はシャワーの後です。一緒に浴びればいいものを。一人一人が別々にシャワーを使ったものだから、エドゥアールはその後、自分のスマホがなくなっているのに気づきます。それから自分のiPadがレダの上着のポケットの中に入っているのにも気がつきます。エドゥアールはそれを直接的に咎めようとはしません。なんとか穏便に解決しよう、としますが、スマホの中に保存されている写真だけは取り返したいという気持ちが...。レダは逆上激昂の頂点にまっしぐら。盗人呼ばわりされた、侮辱された、俺の民族・俺の母親まで辱めた....。マフラーでエドゥアールの首を締めます。絞殺寸前まで。そして拳銃を取り出しエドゥアールのこめかみに銃口を当て、おまえの顔をぶっ壊してやる、と脅迫します。そしてエドゥアールを強姦します。たくさんの血が流れます。この野獣と化したレダは、この呪われた夜の明け方、エドゥアールのアパルトマンを出て去っていくのですが、一度引き返してきて戸口まで来てこう言うのです。
Tu es sûr que tu veux que je parte ? Je suis désolé. Pardon.
俺に本当に出て行って欲しいのかい? 悪かった。すまん。

 これが呪われた夜のだいたいのあらましです。小説はこの暴行事件を時間軸通りに記述するものではありません。話者は複数いて、その最も重要なのが妹のクララです。彼にとっては地獄に等しい北フランスの村と家族を捨ててパリで研究者・作家となったエドゥアールの身内での唯一の理解者というポジションの妹で、家族とエドゥアールの和解も願っています。ものを多く言わない頷くだけの男と結婚していて、その二人だけの家にエドゥアールが事件後に避難していき(エドゥアールはそれを後悔しています)、一部始終をクララに告白します。翌朝、エドゥアールが寝ていた部屋の隣の台所(兼食堂)で、クララが夫を相手にエドゥアールの身に起こったことを詳しく説明します。それを扉の隙間からエドゥアールが聞いている。つまりクララのヴァージョンでこの事件が描写されるわけです。これはエドゥアールの語り口とは全く異なり、北フランス・田舎人・下層階級の表現と語彙で展開します。これを聞き書きする形でこの小説の中にクララ・ヴァージョンが引用されるのですが、エドゥアールはそこに間違いの訂正や注釈を加えるという二重チェックがあります。
 クララは自分ほど兄の全てをよく把握している人間はいないという「血のリクツ」に基づいた断定が多く、われわれ日本人にも親しく了解できる(非ロジカルな)田舎説法がこの小説に全く別のディメンションを加えます。わ、この作家はこんなこともできるんだ、という驚きがあります。
 そしてまた別のヴァージョンというのは、親友ジョフロワとディディエの視点であり、エドゥアールは凶暴な事件にも関わらずレダへの感情がまだ曖昧なままであるのに、彼がそこから抜け出すためには事件を自分の外に出すしかない、法的に告訴して、事件を外在化するしかない、と説得します。
 精神的にももちろん肉体的にも衰弱した状態で、エドゥアールは警察に出頭して告訴の手続きを取ります。 ここでまた事件の別のヴァージョンが警察作成の調書という形でできてしまうのです。上にも少し書いたように露骨にレイシストな取調警官とのやりとりがあります。エドゥアールは途中で告訴することを悔いて、もう取り止めたいと言うのですが、警察側は「この時点ではこれはもはやあなた個人の問題ではなく、"Justice"の問題なのだ」と言われ、取り消しも認められないのです。
 そして病院でも同じで、「強姦」という事態では担当の場所も医者も違い、事件は法医学的にまた違うヴァージョンとなってエドゥアールにおいかぶさってくるのです。
 エドゥアールはクララに、親友に、警察に、病院に、何度も同じ事件のことを話したはずで、その度に相手によって若干は違った供述になっていたかもしれないけれど、事件は同じものなのです。ところが、その度に事件はヴァージョンを変え、エドゥアールの外側で複雑に分裂・膨張していきます。その分裂して膨張した全容を一編の小説に詰め込んだのです。恥辱・苦痛・悔恨・自虐の一人称小説ではなく、多視点からこの凶暴な事件の苦痛を書き直していくような作業です。レイシズムや同性愛差別や貧困の問題にもコミットしています。前作『エディー・ベルグールにケリをつける』では、極端に閉鎖された田舎社会(貧困・レイシズム・同性愛排斥)の被害者のストーリーという一面的な読まれ方が、その凄絶な筆致を情念的な評価にしていたと思います。この小説は、それだけではなく、こんな多面体的な組み立てができて、多視線のエクリチュールができるのだ、という大変な才能に脱帽します。23歳。3年がかりで書いた作品です。読むのにキリキリ胸が痛くなる作品であることも付け加えておきます。

EDOUARD LOUIS "HISTOIRE DE LA VIOLENCE"
SEUIL刊 2016年1月 230ページ 16ユーロ

カストール爺の採点:★★★★⭐️

 (↓ 2016年1月、国営テレビFRANCE 5「ラ・グランド・リブレリー」で "HISTOIRE DE LA VIOLENCE"について語るエドゥアール・ルイ)

2016年1月17日日曜日

デルペッシュ・モード

『レール・ド・リヤン』
"L'air de rien"
2011年制作フランス映画
監督:グレゴリー・マーニュ&ステファヌ・ヴィアール

主演:グレゴリー・モンテル(執行吏グレゴリー・モレル)、ミッシェル・デルペッシュ(himself)、クリストフ・ミオセック(himself)
フランス劇場封切:2012年11月7日
フランスDVD発売:2013年3月27日

   2016年1月2日に69歳でこの世を去ったミッシェル・デルペッシュが、「落ちぶれた元人気歌手ミッシェル・デルペッシュ」という役で主演していた喜劇映画です。グレゴリー・マーニュ&ステファヌ・ヴィアール監督の初長編映画で、劇場公開時はあまり目立っていなかったと思います。今、デルペッシュが亡くなってから、こういう映画があったんだ、と再発見している人たちの方が多いのではないでしょうか。
 本人の名前で本人を演じているとは言え、クロノロジー的には実際のデルペッシュ経歴とは大いに異なるフィクションです。現実には90年代末頃から若い世代のアーチストたちに支持されてカムバックは事実化していたし、2004年のアルバム "Comme vous"の時のツアーは夏の大きなフェスティヴァル(フランコフォリー、ヴィエイユ・シャリュー)の看板にもなってましたし、2006年のデュエット・アルバム"Michel Delpech &"はアルバムチャートの1位に輝いた、といった具合。それに対して、この映画の中のデルペッシュは「かつてのスター歌手」であり、30年間人前に出ずに、人知れず田舎の一軒家で一人暮らしをしている、いわば隠遁者です。ところが金回りが良かった頃とあまり生活消費のリズムを変えていないため、税金・罰金の滞納、未支払いの請求書は溜まっていくばかり。
 映画の主人公は、グレゴリーという名の30代の男で、職業は法廷執行吏(ユイシエ・ド・ジュスティス)です。これは、裁判所の決定に従って罰金・税金・不支払い金などの徴収を強制的に執行する役人のことで、その取り立てに居留守を使ったりトンズラ不在にしている家のドアを壊して、家具や家屋を差し押さえたりするので、市民にはとても怖い役人です。まあ、並の神経の人にはできない職業です。執行日にはたとえ相手が病気入院中でも取り立てに行きます(そういうシーン出てきます)。情状酌量なし。弱者・貧者の事情など聞く耳を持たない。とにかく取り立てを執行する、という役人です。このグレゴリーはフランスの地方部で長年の友人で執行吏のマックスをパートナーにして、二人でユイシエ事務所を運営しています。マックスの方が先輩格で、シニカルで冷徹で陰険で、仕事現場では高圧的でサディスト的ですらある絵に描いたようなユイシエ。ところが、駆け出しのグレゴリーの方は明らかにこの仕事に向いていない温情派で、いろいろと仕事上のストレスを溜めています。
 こういう好きでもない仕事で生きている冴えない男が、ある日を境に、活き活きとした男に変身してしまう。タイトルの "L'air de rien"は、「気がつかないようななんでもない風情の」もの/人のことで、それが逆のことになる(逆のことをする)というつながりがある時に使われ、「見かけによらず」「何気ないふりをして」といった意味になります。冴えない男は、極端に冴えない男になって莫大な負債を抱えている元スター歌手に出会って、一大奮起してあの手この手でミッシェル・デルペッシュ復活を実現させてしまう、というストーリーです。
 そのあの手この手というのがクセモノで、彼のユイシエ事務所に裁判所から取り立て執行依頼が来ているファイルの中から、騒音法や風営法やその他で「客」となっているディスコやバーやコンサートホールなどを抜き出して、その追求の手をゆるめるからという柔和策、あるいはその逆でその追求を倍にすることだってできるんだぞというオドシという強攻策を使って、無理矢理それらのハコを使って、その地方一円でミッシェル・デルペッシュ・コンサートツアーをオーガナイズしてしまうのです。ここから映画はフランス最深部を行くロードムーヴィーとなります。まさにデルペッシュ往年のヒット曲「ロワール・エ・シェール県」の絵です。田園の真ん中のディスコ、地方巡業モーターサーキットの余興スタンド、倉庫街の端っこのロフトライヴ小屋...。 デルペッシュは最初半信半疑なのですが、それでも(たとえカラオケでも)マイクを持たせたら花形歌手、人は徐々に集まってくるのです。特に年配のご婦人方ではありますが...。
 ユイシエの事務所に週半分も出勤せずに、隠れてデルペッシュ・ツアーのマネージメントをしているグレゴリーの実態をマックスは見破ってしまいます。 そしてユイシエという裁判所直属の公務執行人という職業的デオントロジー(あ、難しいこと言いますが、要するに役人の杓子定規ということです)から、グレゴリーを告発して、この職業から追放してしまうというエンディングです。しかしグレゴリーには後悔はないのです、当たり前ですけど。

 デルペッシュのいいシーンたくさんあります。ある町のコンサートの終わりに、サイン会をしていたら、遠い過去にこの町に巡業にやってきたデルペッシュと一夜を共にしたらしい女性が現れます。「近くに来ることがあったら、必ず連絡するって言ってくれたのに。私ずっと待っていたのよ」と真顔で話す美しいクーガー女性。デルペッシュはもちろん憶えているはずもなく、相槌も呆然としていて、遠い遠い目になってしまいます(すごくいい顔)。
 またツアーが調子に乗り始めたら、グレゴリーと逗留した地方ホテルの美しい女性従業員に目をつけ、グレゴリーに「こういうのはツアーにつきものなんだら、誰もなんとも思わないよ。この町にもう二度と来ることだってないだろうし。なあ、あの娘チャーミングだから口説いて来いよ」なんていうセリフを言うのですよ。芸能界が少しずつデルペッシュに戻っていくのです。
 そしてこの映画の白眉です。某町で、同じ日にミオセックのコンサートとバッティングしてしまうのです。90年代ヌーヴェル・シャンソン・フランセーズの騎手のひとりで、全国に熱心なファンを持つ現役の野生派(酔漢)アーチストです。グレゴリーとデルペッシュはそのミオセックのコンサートを告げるポスターを見るや「こりゃあ、今夜は客ひとりも来ないなぁ...」と不戦敗を予想していました。ところがその夜、デルペッシュのコンサートのポスターを見たミオセックが、「俺、昔からファンでさぁ...」という顔でお忍びでやってくる。そして飛び入りでデルペッシュのステージで「ル・シャスール(猟師)」をデュエットで歌ってしまうのです。その夜 "アフター"で、デルペッシュとミオセックは意気投合の至福の酒で、シャンパーニュの瓶がボンボン開き、コンサート売上を全部飲み干してしまい...。

 世間知らずの元花形歌手という惚け役で始まり(アマチュア無線が趣味という渋い設定も)、だんだん大物感が戻ってくる不思議なキャラクター。自己パロディーとは言え、その懐の深さでグレゴリーも引っ張られていく、現役田舎人デルペッシュの怪演。撮影は2011年ということなので、まだ発病していなかった頃でしょう。何気ない演技に(l'air de rien)、デルペッシュからにじみ出る深い慈愛のようなものを見ない人はいないでしょう。

カストール爺の採点:★★★★☆ 


(↓ 映画『レール・ド・リヤン』予告編)



追記(2016年1月18日)

これがデルペッシュの事実上の「白鳥の歌」。
2014年4月発表の子供向け(キリスト教聖書)音楽劇『ドリー・ビブル(Dolly Bibble)』(ナターシャ・サン・ピエール、アモリー・ヴァシリー、ユーグ・オーフレイ、フィリップ・ラヴィル、デイヴ...)の中の一曲 "LA FIN DU CHEMIN(道の果て)"。これは旧約聖書の主なエピソードを子供にわかりやすい音楽劇にしたもので、デルペッシュはその中でアブラハム(最初の預言 者)の役で出ていて、この歌はアブラハムの死を歌ったものだが、この1月2日以降は、デルペッシュが自らの死を歌った最後の歌のように聞かれるようになっ たものです。録音は2013年秋。

さあこれが私の地球上での
道の終わり
私はあなたのもの
私を迎えたまえ
我が父よ
さあこれが私の魂
兄弟たちよ
涙を乾かしなさい
私は光り輝くところへと
去って行く

親愛なる皇帝よ
両腕を開いて迎えておくれ
私はもうすぐ到着する
私のことを思い
私を待っていておくれ
私はもうすぐ到着する

さあこれが私の地球上での
道の終わり
私はあなたのもの
私を迎えたまえ
我が父よ

さらば人生よ
私は私の幸運を
祝福する
真実と
永遠が始まる

始まる
始まる

真実と
永遠が始まる
(さようなら、良い旅路を)

(↓) "La fin du chemin 道の果て” 

2016年1月14日木曜日

ア・ロング・アンド・ワインディング・ロード

ミッシェル・デルペッシュ『生きる!』
Michel Delpech "Vivre !"


 ボウイーと同じ新年に、ボウイーと同じ歳(69歳)、ボウイーと同じ病気(ガン)で逝ったデルペッシュ。ボウイーの命日以後はとたんに目立たなくなってしまいましたが、それはそれでいいではないですか。本書は2015年6月に刊行されたもので、文面から推定すれば書き始めは2013年。デルペッシュが初めてその深いキリスト教帰依を告白した本 "J'ai osé Dieu..."(Presse de la Renaissance、2013年11月刊)の推敲が終った頃、一度克服したはずのガンが3ヶ月後に場所を変えて再発します。しかもそれは歌手の命である喉と舌という場所に。再入院、放射線療法、化学療法など、さまざまな治療のさなかにノートに書き綴っていたものだそうです。
 温厚な人、控えめな人、自分より上のものがあるということをよく知っている人、例えば料理にかけては私はこの人にはかなわないという人の料理はおいしい、道をよく知っている運転手がいるときは行程は彼にまかせる、室内装飾は私の妻にはかなわないのですべて彼女の趣味に従う。舟に乗ったら船頭にまかせる。そういうあたりまえだが実際には難しいことを、この人が書いたらとても説得力があります。
 長いスランプ期、離婚、極端な鬱病、アルコールとドラッグ。学校を出ていない(バカロレアも取得していない)ということをすごく気にしていた人。その基礎のない(と彼が思っているだけで、誰も専門分野には基礎などないのですけど)頭で、哲学書や宗教書(主にキリスト教と仏教)を読み漁り、宗教秘跡めぐりの旅に出たりするわけですが、その長い時間にどんどん落ち込みは深くなっていきます。こうやって手短かに書くのは簡単ですが、その期間は20年も続いたのですよ。
 歌うことは職業ではない。彼は歌うために生まれてきた。歌い、酔わせ、踊らせ、言葉とメロディーを伝え、共にエモーションを分ち合い、旅から旅へ、新しい歌を作り、新しい出会いと共感を...。トゥルバドールの一生をデルペッシュは後悔していない。トゥルバドールであることを誇らしげに語っている本です。
 この本の結びの段落を以下に訳します。最後のあの有名な曲の題の引用が、定冠詞の「ザ」ではなく、不定冠詞の「ア」であること、これがデルペッシュという人の度量の深さのすべてを語っているように思いませんか。

 時の流れに沿って、多くの幻想は消え去っていく。荷は軽くなる。まちがいなく頂点に近づいていく。そして人は頂点に至り、自分を幸福だと思うことができる。しかしこの頂点は外界の動きに由来するものではない。それは人が物事を見つめ、それを把握するしかたに由来する。これは内的な作業である。妻と子供たちから愛されるだけでは十分ではないのだ。それはそれで素晴らしいことだが、十分ではないのだ。頂点はその上を行く。それは道探しである。人が向かうべき何か。私が名状することはできない何か。それは平静だよ、きっと。ア・ロング・アンド・ワインディング・ロード....
(Michel Delpech "Vivre!" p140)

MICHEL DELPECH "VIVIRE!"
Plon刊 2015年6月 140ページ 14ユーロ

(↓)2016年1月8日、パリ、サン・シュルピス教会での葬儀。

2016年1月8日金曜日

私の人生は無駄ではなかったと思うの

サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ、ジュリエット・グレコ(←の写真はテレラマ誌1960年11月13日号表紙。33歳)はこの2月7日で89歳になられます。芸歴は66年になります。昨2015年4月の「ブールジュの春」フェスティヴァルから始まった彼女の引退ツアーは、2016年5月で終ります。
  「たとえ痛みがあっても、幕が上がると説明不能なパワーが沸き上がってきて、私はすべてを統べる主になる。私はもう痛みを感じない。聴衆と向き合っている時は魔法の時間よ。でもショーが終わりになると、私のなまの体が目を覚ますの。舞台から出ると私は突然歩くことができなくなって、誰でもかまわず腕にしがみついていく。恩寵の状態は長くは続かない。だからと言って私は同情を求めるようなことはことはしたくない...」。このグレコのことばはテレラマ誌2016年1月6日号の巻頭インタヴュー(4ページ)の一部 で、インタヴュアーは同誌音楽欄ジャーナリストでシャンソン評論家のヴァレリー・ルウー。当ブログでも向風の雑誌記事でも頻繁に参考にしていただいている、私が最も信頼するシャンソン・ライターです。
 そのインタヴューのことは向風のフェイスブックでも少し紹介しましたが、大ブルジョワの祖父母の家に反抗した母(共産党、レジスタンス、同性愛)から「事故」のように生まれた娘として、15歳で一緒にレジスタンス活動をしたにも関わらず母親に愛されず、戦後貧しくサン・ジェルマン・デ・プレ界隈を徘徊していた頃のこと、歌手としての成功から一転して70年代に人気を落とし、左翼に近いゆえにテレビやラジオと縁遠いが一貫して自由な女性・発言する女性のポジションを保ち、80年代から若者たちに再発見されて第一線に戻っていく過程について語っています。話は極右フロン・ナシオナルやイスラム過激派のジハードにもおよび、この凶暴さへ若者たちが連れ去られるのを防ぐものは「文化」でしょう?というヴァレリー・ルウーの問いにこう答えます:
 もちろんよ! 好奇心、それは知ろう、理解しよう、愛そう、向上しようという欲求、自分の人生がどんなものになるかを選ぼうとする欲求よ。それは孤独が私に教えてくれた。それは毒入りの贈り物だけれど、天からの贈り物にちがいない。ひとりでいると、人間は好きなことをするものなのよ。パリが解放された時、私は大きな石門の下で寝泊まりしていたけれど、それでも私は毎週ルーヴル美術館に通っていた。文化というのは私たちが呼吸する空気と同じほどに絶対必要なもの。芸術は今もっと小学校で教えられなければならない。これは緊急課題よ。
ー 文化は失われてしまったのですか?
私たちがその一部を失ってしまったのは、みんなで一緒に生きるという暮らし方。それは礼儀正しさであり、繊細さであり、それがフランスのたまらない魅力となっていた。この優雅さは貴重なもの、それが話し言葉や、人間関係や、食べ物や、シャンソンといったどんな分野にあろうとも。ブラッサンスとブレルとバルバラが死んでからというもの、私たちはこの言語のきちんとした決まりごとをないがしろにしてしまった。この3人にとって、ひとつのシャンソンをつくるということは非常な大仕事で、数ヶ月をつかって探求して、手を加えて彫り込んでいく金銀細工のようなもの。このシャンソン書きの炎はまったく消え去ったわけではないけれど、とても稀なものになってしまったわね。それ以来、売ることが第一の目的になってしまった。何がなんでも人に好かれるものをつくること。お金が絶対的な価値になってしまった。商業的な音楽というのは、工場生産の食べ物のように標準化されているわ。今日の若者たちも望む望まないに関わらずみんな制服着せられているようなもの。同じジャンパーを着て、同じバスケットシューズ履いて、みんな同じブランド...。
ー あなたはその逆でしたね...
私は必要があって自分で作ったのよ。私はとても貧乏だったし、私が居候した家庭にはほとんど男しかいなくて、彼らが私に擦り切れた古着をくれたの。私はパンツの後ろが破れたような状態だったけれど、少なくとも背中にははおるものがあった。男もののシャツ、男ものの上着、つぎをあてたズボン。そんな格好だから、私は人とは違う、奇妙な人物で、人目についた。しばしば人は私を白眼視したけれど、それでも私の外見はひとつの流行を創ったのよ。本当よ。サン・ジェルマン・デ・プレの1945年から46年、それは幸福と発見と自由の原子爆弾(ママ)が炸裂したようなものだった。この特異な時期は3年もしくは最大でも4年しか続かなかったわ。ここにもお金がやってきたのよ...。

 シャンソンやサン・ジェルマン・デ・プレの熱狂が金・商業・資本主義の到来で変節してしまった、ということをグレコは強調します。金がすべてを変えてしまった20世紀よりも、新自由経済・超資本主義の世界となった21世紀に、私たちのシャンソンやアートはどうやって生き延びるのか、グレコには明るい答えが出ません。ブラッサンス/ブレル/バルバラまでは、シャンソンは貴金属細工のような匠の仕事であったということ。このことはみなさんにもよくわかってほしいです。

 このインタヴューでヴァレリー・ルウーは一回だけ極プライベートなゾーンへの直接的な質問をしています。
ー あなたは恐ろしい人種差別の時代にマイルス・デイヴィスを愛しましたし、あなたよりずっと歳上で既婚者のカーレーサー、ジャン=ピエール・ ヴィミルと恋に落ちました。そしてあなたは女性の愛人を持ったということを否定しませんでしたね....
 もちろんよ。今日、私はジェラール・ジュアネストという素晴らしい音楽家と共に生活している。私たちは知り合ってもう47年にもなるわ。私は生涯ずっと、私が望んでた相手を愛してきたし、それは一度ではなく二度も。私の孫娘が言うのよ、学校のクラスメートたちが「あんたのおばあちゃんはおいぼれのレズだ!」ってはやしたてるって。信じられないわ。私の孫も私と一緒でそんなこと理解できないの。昔の公序良俗が復活しているのね。いったい何の名において他人の私生活を糾弾できるというの?並外れた下品さね。私は窓のうしろからカーテンを持ち上げて片目で人のことを探るなんて最低のことだと思うわ。まるでそういう他人たちには命がないとみなしているように。

 89歳になって、それでも私の人生は捨てたものではないと思うようになったそうです。それは道でグレコを見ると女性たちが寄ってきて「あなたがいなかったら、私はこの人生を生きられなかったでしょう」と言ってくれるのだそうです。
それは私を動揺させる。そして私にもっと前に行こうという力をくれるのよ。そんな瞬間には、私は私の人生は無駄ではなかったと思うのよ。

 ジュリエット・グレコ様、長生きしてください!

(引用はすべてテレラマ誌2016年1月6日号のインタヴュー。無断翻訳なので、出版社・著者からクレームが来ましたら、削除することになると思います)



(↓)ジュリエット・グレコ、おそらく最後のスタジオ録音「メルシー」

 

2016年1月3日日曜日

ワイト元気よく出て行ったよと

2016年1月2日21時30分、パリ西郊外ピュトーの病院で、ミッシェル・デルペッシュが亡くなりました。69歳でした。長い間喉と舌にできたガンと闘ってきましたが、2015年6月にその親友である国民的テレビ司会者ミッシェル・ドリュッケールが「安らかに消えつつある」とデルペッシュの病状を公表しました。デルペッシュ自身の依頼でドリュッケールがそれを公にしたと断ってはいましたが、「もうこの9月にはこの世にいないだろう」と事態が深刻であることを強調しました。自ら(あるいは医者)の予想よりも3ヶ月多く生き延びて、新年の到来を見たあとで逝ったわけですね。
 1946年パリ郊外クールブヴォワ生れ。学校出てないんです(このことをすごく気にしていたようです)。若くしてスターダムにのし上がり、最初のヒット曲が「ロレットの店で」(「青春のふる里」という題で古賀力が歌っていたようです)で、デルペッシュ19歳でした。C'était bien c'était chouette。1966年に20歳で結婚。アヴィニョンの聖女ミレイユ・マチューを国際的なスターにしたことで知られるジャーマネ、ジョニー・スタークと契約したことによって、このデルペッシュはどんどんショービズ・タレント化していきます。クロード・フランソワを頂点とするいわゆる "Chanteurs à minettes"(シャントゥール・ア・ミネット。若い婦女子の皆さんにもみくちゃにされる美形男性歌手)のひとりとなってヒット曲を飛ばすことが生業になります。折しもその伝播媒体はラジオからテレビに移行した時代で、7インチシングル盤の売上が飛躍的に上昇した頃です。諸先進国からすれば遅れていたと思われがちなフランスでも、テレビの歌謡ショー番組がゴールデンタイムの花形になり、ルックス勝負・歌って踊れるスター歌手たちがお茶の間の人気者となったのです。虚飾に満ちた芸能界はレコード産業と共に、この頃全世界に帝国を築いていったのですが、その話はまた別の機会に。
 この(いずこも同じ)ショービズ界の使い捨て式のタレント量産時代の犠牲者となって、70年代の数々のヒットにも関わらずこのデルペッシュは第一線を退かざるをえなくなります。頭髪が減っていったのもその理由かもしれません。頭髪と音楽とどう関係があるのか、と思われるムキもありましょうが、70年代にあっては頭髪は音楽に優先したのかもしれまっせん。離婚、鬱病、アルコール&ドラッグ、自殺未遂...。こういう話を海外逃亡という道で耐え凌いだミッシェル・ポルナレフは、戦術的に「うまかった」と言われてもしかたないでしょう。フランスという「現地」では死骸がゴロゴロ転がっていたのですから。
 デルペッシュは2000年代に、カリ、ベナバールなど新世代のシャンソン・フランセーズの担い手たちの熱いラヴコールによってトリビュートされ、若い世代にも単なる芸能もの(「ヴァリエテもの」と言っていいでしょう)とは違う高度なポップ・フランセーズと評価されるという幸運を得て、かなり幸せな老後だったと思います。前線復帰と言われながらも、やっぱり売れるのは往年のヒット曲のコンピレーションで、若い人たちに囲まれながらも半分はナツメロ歌手で21世紀を生き延びました。文句はないでしょう。よく引き合いに出されるポルナレフだってこれからは(一級の)ナツメロ歌手でしかない。
 
日本で知られてたんですよ、この人。ポルナレフ同時代の「フレンチポップス」の日本でのヒット曲というのはダニエル・ジェラール「バタフライ」、ジュリアン・クレール「燃えるカリフォルニア」、アラン・シャンフォール「ボンジュールお目目さん」などがありましたけど、デルペッシュは日本では「青春に乾杯」「ワイト・イズ・ワイト」という強力な2大ヒットがありました。
 特に「ワイト・イズ・ワイト」は私は青森くんだりの高校生をしていた時にとても好きだった曲で、その高校の悪しき伝統であったマラソン大会があった時、苦しくもがきながら走る17歳の私の頭にはこの曲が繰り返し繰り返し流れていたということをよ〜く記憶しています。

 2007年向風三郎はその著『ポップ・フランセーズ名曲101徹底ガイド』の中で、この「ワイト・イズ・ワイト」を1969年の1曲として取り上げ、ミッシェル・ウーエルベックの小説から題を着想して「ある島の可能性」と題して論じています。我ながらすぐれたクロニクルであると思うので、全文を引用して、アーチストの冥福を祈ります。合掌。

『ある島の可能性』 

 年度間違いではない。世に有名なワイト島フェスティヴァルで、ウッドストックを上回る60万人を動員してジミ・ヘンドリックス最後のステージとなったものは1970年であった。
 しかし同フェスティヴァルは68年から開催されていて、われらがミッシェル・デルペッシュ(1946 - 2016)が見てきたのは第2回めの69年8月30日と31日の2日間である。それは前年(1万人)よりは飛躍的に拡大したが、翌年の規模には及ばない15万人ほどを集めたポップ・フェスティヴァルで、ジョー・コッカー、アインズレー・ダンバー、ナイス、ムーディー・ブルース、ペンタングル、プリティー・シングス、フリー、フーなど27組のアーチストが出演したが、メイン中のメインはボブ・ディラン&ザ・バンドであった。
 ディランは問題作『ナッシュヴィル・スカイライン』の年で、フランスのラジオでも澄んだ声の「レイ・レディ・レイ」が流れると、こんなもんディランなわけがない、という抗議の電話が来たという。
 大きなステージに立つのは3年ぶりというディランはこの69年のワイト島で8月31日夜11時頃に現れて真夜中に終わるとう1時間ほどの短いショーで17曲を歌った。ブーイングやヤジも飛んできたそうだ。
 デルペッシュは64年にデビューしたアーチストで、65年の「ロレットの店」という甘くノスタルジックなバラードで第一線に出たきた。ミレイユ・マチューを世界のスターにしたマネージャー、ジョニー・スタークが彼を手がけるようになってから派手なポップに方向転換、その第一弾シングルがこの「ワイト・イズ・ワイト」である。
 しかしデルペッシュはワイト島に出演したわけではなく、この歌が記録映画のサントラに使われたというわけでもない。スタークはデルペッシュにリポーターの役割をさせたのである。われ、ワイト島を見たり。ここでデルペッシュはディランを神のように見てしまったのだ。
 「ワイト・イズ・ワイト、ディラン・イズ・ディラン」。ディランはやっぱりディラン。簡単な英語でこう表現したのだった。それは灰色の空に出現した太陽のようだった。「ワイト・イズ・ワイト、ヒッピー、ヒッピー、ピー」。
 ワイト島はヒッピーだらけだという意味だろうが、こうなるともう歌詞ではない。しかしこの手の簡単英語リフレインは欧州大陸で簡単にヒットする。「ブラック・イズ・ブラック」、「レイン・レイン」、「マミー・ブルー」みんな同じ系列。
 そして歌詞は「ワイト・イズ・ワイト、ヴィヴァ、ドノヴァン!」と続く。おいおい、この年ワイト島にドノヴァンは出ていないぞ。
 これについてデルペッシュは「ドノヴァンは象徴ですよ、象徴」と言い訳した。講釈師見てきたような嘘をつき。
 (向風三郎 『ポップ・フランセーズ名曲101徹底ガイド』 p24-25)
ミッシェル・デルペッシュ「ワイト・イズ・ワイト」(1969年)


PS : 2015年1月3日。
この日曜日1日中、テレビ各局でデルペッシュ特番が組まれ、その人気の高さと、フランス人のメモワール・コレクティヴにおけるこのアーチストの重要さが、私の予想をはるかに超えるものだということがわかりました。ポルナレフは青ざめているかもしれません。
アフター・サービスで、私のデルペッシュの最も好きな歌のひとつを。これは1975年、デルペッシュがまだ29歳の時に歌った、ある種の "辞世の歌”で、73歳になった先の短い老人(そうです。1970年代では73歳というのは大変な老齢のように思われていたのです)が、自分が歌手でスーパースターだった頃を回想するというものです。

"QUAND J'ETAIS CHANTEUR"(俺が歌手だった頃)

リウマチがやっかいになってきた
俺の愛しいセシルよ
俺はもう73歳だ
俺には介護の女がいて
寝椅子に寝そべって暮らしている
俺が歌手だった頃には
こんなに足をひきずることなんてなかったんだ

俺は白いブーツを履いて
ごつい皮ベルトをして
そのデカいバックルの上には
胸を大きく開けたシャツ
俺の最大の武器は
俺のスマイル顔さ
俺が歌手だった頃には
俺は気違いみたいに有頂天だった

ある夜サン・ジョルジュで
俺は野外コンサートをしていた
俺の妻はメルセデス・ベンツの中に
隠れて待っていたんだが
俺のファンクラブがどっとやって来て
彼女はアンドル川にドボンと捨てられてしまった
俺が歌手だった頃は
そんなイカレタ生活だった

警察の連中は
俺のことを知っていて
スピード違反なんざ
俺は一度も罰金を払ったことがない
どんな俺のやばいことも
一時間もあればもみ消してくれた
俺が歌手だった頃は
俺のご乱行はすべて放免だったのさ

俺の可愛いセシルよ
俺は73歳になった
ミック・ジャガーが
ついこの間死んだって知ったよ
俺はシルヴィー・バルタンの引退も祝ったんだよ
でも俺にとってはもうずいぶん前にそんなこと終っちまったんだ
俺は今やもういろんなことが分からないようになっちまった
だけど俺が好きなことだけは分かるんだ
それで気を紛らわせているんだ

でも俺にとってはもうずいぶん前にそんなこと終っちまったんだ
俺は今やもういろんなことが分からないようになっちまった
だけど俺が好きなことだけは分かるんだ

それで気を紛らわせているんだ



2016年1月1日金曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ2015

 2015年は大変な年でした
 それはシャルリー・エブドに始まり、私の肝臓ガン発病と手術をはさんで、バタクランで終った1年でした。爺ブログも統計的には急激な変化のあった年で、これまで目立たず細々と月間4000ビュー程度の読まれ方でやってきたのに、1月のシャルリー・エブトのテロの頃(ウーエルベックの『服従』発表)と、11月のバタクランのテロの頃に拙ブログでは見たことのない驚異的なページビュー数をカウントし、2007年ブログ開設以来8年で最高(しかも例年の1,6倍)のご愛読をいただきました。ありがとうございます。
 2015年の記事数は38件で、横這い状態ですが、 2015年は紙媒体でも向風三郎の毎月の連載も2件になり、また7-8-9-10月の闘病生活もあったので、それを考えると、よく頑張ってブログ記事書いたものだな、と自分を誉めております。連載記事との重複を避けたわけではないのですが、向こうで書いたものはこちらでは書きづらく、個人的にはこちらに書いていないヴェロニク・サンソンのアメリカ時代のこと(ラティーナ2015年3月号)、オーレリアン・メルルのこと(オヴニー2015年7月15日号)は、自分でも重要な記事だったと思っています。
 新刊紹介は2015年は9編のみの紹介で、約束していたブーアレム・サンサルの『2084』もマチアス・エナールの『羅針盤』(2015年ゴンクール賞)も紹介できませんでした。言い訳すると、どちらも入院中に枕元にあったのですが、服薬中で読んでも全然頭に入らないという状態だったのです。で、2015年、私が最も愛した本はヴィルジニー・デパントの『ヴェルノン・シュビュテックス1&2』(↑写真)でした。この本についてはブログではなく、ラティーナ2015年10月号で紹介しました。ごめんなさい。続編(&完結編)『ヴェルノン・シュビュテックス3』(2016年春刊行予定)が出たら、必ず爺ブログで紹介します。
 それでは2015年の爺ブログのレトロスペクティヴです。純粋にページビュー数の多い順に10点並べました。どれも思い出多い2015年の瞬間でした。

1. 『今朝、私はレピュブック広場に来ました(2015年11月15日掲載)
 現時点で爺ブログ始まって以来の3万5千ビューをカウントしている記事です。11月13日金曜日のパリ10区・11区街頭、サン・ドニのスタッド・ド・フランス、11区のコンサート会場バタクランでの乱射・自爆テロの2日後にその時点で思っていたことを直截的に書き綴りました。SNS(ツイッター、フェイスブック等)でたくさんの方たちにシェア&リツイートしていただきました。いろいろな意見をいただきました。概ね好意的な評で、この事件の激烈な痛みの質というのが少しでも共有できたのではないか、と思っています。音楽や自由を愛することとは何か、共和制とは何か、フランスで市民でいることは何か、ということを自分なりに初めてちゃんと書いたのではないか、と思っています。続きもあると思います。たくさんの皆さんにありがとうと言いたいです。

2. 『すまんですめばユイスマンス(2015年1月20日掲載)
1月8日、シャルリー・エブド編集部襲撃テロ事件と同じ日に刊行されたミッシェル・ウーエルベックの小説『服従』の紹介記事です。 これは日本語翻訳本も9月に出ましたし、たくさんの方たちが読んだことと思います。私はその政治的な予言である「2022年フランスにイスラム穏健主義派の政府が誕生」という話題よりも、ウーエルベック一流のエンターテインメント性とフランス19世紀末文学のチャンピオン、ジョリス=カルル・ユイスマンスの転向的なキリスト教帰依に関する評伝的な記述に圧倒されたのでした。ウーエルベックを胡散臭いポップ小説家のように言う人々がいますが、私のウーエルベック=誠実真摯な大作家という評価は作品を重ねるごとに揺るぎないものになっています。


3. 『俺はこの日フランス人になった(マジッド・シェルフィ)(2015年11月18日掲載)
バタクラン・テロの後で、ゼブダのリーダー、マジッド・シェルフィがリベラシオン紙に特別寄稿した文「大殺戮(Carnages)」を無断で全文日本語訳した記事です。フランスは夢の国ではないし、ましてやフランス人は理想的な人々ではない。この不完全さをいろいろと羅列しながらも、なぜ私たちがこの土壌、この環境、この人間たちの中にいることにしがみつくのか、ということがとてもよくわかるし、私自身とても共感できる一文でした。理想化してはならない。不完全さゆえのフランスの意味。三色旗を窓に翳したりフェイスブックプロフィールにしたりという立場とは少し異なるフランスへのオマージュでした。

4. 『座礁マスト・ゴー・オン(2015年11月10日掲載)
11月13日テロの直前に掲載された記事であるということが大きな原因だったと思います。11月15日掲載の『今朝、私はレピュブリック広場に来ました』を読んだ人たちがついでに読んでいったということだったのでしょう。2015年、爺ブログが最も高く評価したアルバム、フ〜!シャタートンの『ICI LE JOUR (A TOUT ENSEVELI) ここでは日の光(がすべてを覆いつくした)』の中の1曲で、2013年1月13日(金曜日)に地中海で起った豪華客船コスタ・コンコルディア号の座礁難破事故を描いた「コート・コンコルド」という歌の紹介記事でした。

5.『今夜俺たちは踊りに行く(アシュカ)(2015年11月19日掲載)
今年のレトロスペクティヴはどうしてもバタクラン・テロの時期に掲載したものに集中してしまうのですが、稀代のプロテスト・シンガー、HK(アシュカ)が事件後の11月17日にオルター・グローバリゼーション機関紙に寄稿した一文を無断で全文日本語訳した紹介記事です。 アシュカは2014年秋にトゥールーズで知り合ってから、個人的にとても親しくしているアーチストで、2015年も爺ブログだけでなく、オヴニーでも紹介記事を書きました。日本での評価もじわじわ上昇していて、私の周辺ではとても目立った活躍をした人でした。

6. 『あとで肘鉄プラウダ(2015年1月30日掲載)
アンヌ・ヴィアゼムスキーの12作めの小説で、映画監督ジャン=リュック・ゴダールとの結婚生活の後期を描いた『1年後(Un an après)』の紹介記事です。1968年という時代、政治と闘争映画、ビートルズとの映画プロジェクト(実現せず)、ローリング・ストーンズとの映画『ワン・プラス・ワン』の驚くべき裏話など、とくに映画ファンの方たちから読んでいただいた記事でした。ヴィアゼムスキー20歳、ゴダール37歳。加速度的に手のつけられないどうしようもない男になっていくゴダール、という描き方はヴィアゼムスキーの愛憎ごちゃまぜの視点でしょうが、時代と映画現場の証言としてたいへん貴重です。


7. 『今朝のフランス語:Du temps de cerveau disponible(2015年4月3日掲載)
パリの日本語新聞オヴニーに月1回の連載『しょっぱい音符』 を始めたのが4月15日号で、HK(アシュカ)&レ・サルタンバンクの『星に灯りを点す男たち』を紹介しました。その補足のようにその中の歌"SANS HAINE, SANS ARME ET SANS VIOLENCE"(憎しみも武器も暴力もなく)の歌詞について解説した記事です。2004年の巨大テレビ局(TF1)社長の発言から、テレビの仕事というのは広告スポンサーに対して、極端な娯楽番組によって視聴者たちの頭を空洞化してコマーシャルメッセージに無防備な時間を作ること、ということを知るのです。自分も大変勉強になった記事でした。

8. 『ジハード・デイズ・ナイト(2015年2月16日掲載)
シャルリー・エブド事件の翌日の1月8日に出版されたノン・フィクション本で、ジャーナリストのアンヌ・エレル(匿名)著『女ジハード戦士になりすまして』の紹介記事です。この本はその後5月に日本語訳されて『ジハーディストのベールをかぶった私』(日経BP社)として出版されたので、読んだ方も多いかと思います。ジハード戦闘員スカウトの誘いに乗ったふりをして、フランスからのジハード志願者たちのルートを暴こうとしたジャーナリストの記録ですが、その危険と彼女自身の心理的葛藤ばかりが強調されて、読み物としてはどうなんでしょうか、という私の結論でした。しかしフランスのジハード志願者たちの数は減ることを知らず、11月13日のバタクラン/サン・ドニの乱射・自爆テロの実行犯のほとんどがフランス人であったことをわかった時、普通にインターネットをいじっている間にジハーディズムの魔力に囚われてということはごく身近に起っていることなのだと改めて知らされます。

9. 『ソルガ男の生きる道 (2015年2月12日掲載)
2000年から2005年まで、エレクトロ・オクシタン・ロックのパイオニアとして、ワールドファンとロックファンの両方を魅了したバンド、デュパンの10年後の復帰アルバム『ソルガ』の紹介記事です。サム・カルピエニアがたまたま古本屋で手に入れたマクサンス・ベルナイム・ド・ヴィリエという20世紀中葉の不詳詩人の詩集『ソルガ』にインスパイアされたアルバムということなのですが、この詩が高踏で難解で模糊模糊したしろもので...。一生懸命訳そうとして、何晩も苦悩したものでした。私はとても好きで、これは後世に残る傑作と思ったものですが、結果としてオクシタニア・ファンからもロック・ファンからも、ピンと来ない作品として注目されませんでした。残念です。

10.『火事になれば、またあの人に会える (2015年10月30日掲載)
2015年も爺ブログは新譜紹介の数が多くありませんでした。11点のみ。ごめんなさい。それでも2013年のストロマエ、2014年のクリスティーヌ&ザ・クイーンズのレベルのアルバムに出会えたことは幸運でした。フ〜!シャタートンは一目惚れです。アルチュール・テブールは故エルノ・ロータ(ネグレズ・ヴェルト)+アルノー・フルーラン=ディディエのようなルックスで、故ジョー・ストラマー+故ジルベール・ベコーのような歌い方をする人。文学あり、不良あり、悲恋慟哭あり、シャンソン・レアリストあり、プログレッシヴ・ロックあり...。スケールの大きなバンドとして成長していくでしょう。未体験の方たちはぜひ。