2016年1月24日日曜日

呪われた夜 (One of these nights)

エドゥアール・ルイ『暴行譚』
Edouard Louis "Histoire de la violence"

  小説とは何の関係もありませんが、この1月18日に67歳でこの世を去ったグレン・フライへのオマージュで、フライが作者としてクレジットされている1975年ジ・イーグルスのヒット曲のタイトルを拝借しました。合掌。
 その呪われた夜はこの小説では2012年12月24日の夜。小説の話者は前作(小説第1作め)の『エディー・ベルグールにけりをつける』(2014年発表)と同じ「エドゥアール ・ルイ」で、オート・フィクションです。この2012年12月、話者は最初の小説『エディー・ベルグールにけりをつける』を書き終わり(出版にはまだこぎつけていない)、前作で描かれた貧困と村意識と男性原理とあらゆる種類のレイシズムに浸りきっている北フランスの故郷を離れ、パリで社会学を研究するエリート学生になっています。ウィキペディアの記述によると、正式に名前を「エディー・ベルグール」から「エドゥアール・ルイ」に変える手続きを取って新名を許可されたのは2013年のことで、この小説では自分のことは「エドゥアール・ルイ」と名乗っていながら、警察や病院で呼ばれる名前は「エディー・ベルグール」になっている、という過渡期です。そのクリスマスの夜、エドゥアールは親友のジョフロワ(小説ではこのファーストネームだけ登場ですが、実在の人物は社会学者のジョフロワ・ド・ラガヌリー)とディディエ(同じくファーストネームのみの登場。実在の人物は哲学者のディディエ・エリボン)とレヴェイヨンの食事をし、ノエルの贈り物としてそれぞれから本をもらって、真夜中前に二人と別れて「早くその本を読みたい」というワクワクした気持ちで、11区レピュブリック広場に近い自宅アパルトマンに帰るところでした。
 その自宅への早足の途中で一人の男が寄ってきて、エドゥアールを(もろに)ナンパしようとします。多分その前の親友たちとのアルコール酔いが残っていて、そのガードをゆるめたのでしょう、執拗に言いよる男にエドゥアールは根負けして、会話が始まります。男の名はレダ。言わばストリート不良です。話していくうちにこの男が60年代にカビリアから戦乱を逃れてフランスに渡ってきた難民の子であることがわかります。レダは父親がどのような状態でかの地を逃れ、どのような状態でフランスに迎えられたか、という悲惨を語ります。あらゆる名前のレイシズムを体験しているわけで、それはレダの代まで続いている。誇り高いカビリア人たちはその歴史や言語や文化の違いにおいて「アラブ」と混同されることを嫌います(このことは小説でことさら強調されていることではありませんが、重要なことなので続けます)。アラブがカビリアを弾圧する長い歴史があるからです。多くのフランス人は北アフリカ人=アラブという判で押したような先入観があり(それはフランスの原初的なレイシズムの一態で、小説の後で出てくる警察による取り調べでも繰り返し現れます)、レダはそのことからはっきりとアラブ人嫌悪があります。このアラブとカビルの違いを認識しないフランス社会にあって、「僕は知っているよ」とカビル語の一言二言を発語するエドゥアール。これだけでどれだけレダが打ち解けるか。そして今でこそエリート学生のような身のこなしをしているものの、その少し前まで貧困とあらゆる名前のレイシズム、マッチスム、同性愛排斥等が渦巻く北フランスの村(これが前作『エディー・ベルグールにけりをつける』に描かれた環境です)の中にいたエドゥアールは、境遇的シンパシーを抱かないわけにはいかないのですね。
 この打ち解けた交感は軽々しく急展開し、レダはエドゥアールのアパルトマンまで上っていき、二人は性交します。いいですか?エドゥアールの記憶では「4、5回」愛情交わりをしたことになっているんです。すごいエネルギーです。これって激情と言うべきものではありませんか。しかしこれが恋慕の始まりなのか、ということに関して、小説は非常に曖昧です。この曖昧さは、その後の出来事の結果に引っ張られての曖昧さだということとが読んでいくうちに了解されていきます。
 状況の急変はシャワーの後です。一緒に浴びればいいものを。一人一人が別々にシャワーを使ったものだから、エドゥアールはその後、自分のスマホがなくなっているのに気づきます。それから自分のiPadがレダの上着のポケットの中に入っているのにも気がつきます。エドゥアールはそれを直接的に咎めようとはしません。なんとか穏便に解決しよう、としますが、スマホの中に保存されている写真だけは取り返したいという気持ちが...。レダは逆上激昂の頂点にまっしぐら。盗人呼ばわりされた、侮辱された、俺の民族・俺の母親まで辱めた....。マフラーでエドゥアールの首を締めます。絞殺寸前まで。そして拳銃を取り出しエドゥアールのこめかみに銃口を当て、おまえの顔をぶっ壊してやる、と脅迫します。そしてエドゥアールを強姦します。たくさんの血が流れます。この野獣と化したレダは、この呪われた夜の明け方、エドゥアールのアパルトマンを出て去っていくのですが、一度引き返してきて戸口まで来てこう言うのです。
Tu es sûr que tu veux que je parte ? Je suis désolé. Pardon.
俺に本当に出て行って欲しいのかい? 悪かった。すまん。

 これが呪われた夜のだいたいのあらましです。小説はこの暴行事件を時間軸通りに記述するものではありません。話者は複数いて、その最も重要なのが妹のクララです。彼にとっては地獄に等しい北フランスの村と家族を捨ててパリで研究者・作家となったエドゥアールの身内での唯一の理解者というポジションの妹で、家族とエドゥアールの和解も願っています。ものを多く言わない頷くだけの男と結婚していて、その二人だけの家にエドゥアールが事件後に避難していき(エドゥアールはそれを後悔しています)、一部始終をクララに告白します。翌朝、エドゥアールが寝ていた部屋の隣の台所(兼食堂)で、クララが夫を相手にエドゥアールの身に起こったことを詳しく説明します。それを扉の隙間からエドゥアールが聞いている。つまりクララのヴァージョンでこの事件が描写されるわけです。これはエドゥアールの語り口とは全く異なり、北フランス・田舎人・下層階級の表現と語彙で展開します。これを聞き書きする形でこの小説の中にクララ・ヴァージョンが引用されるのですが、エドゥアールはそこに間違いの訂正や注釈を加えるという二重チェックがあります。
 クララは自分ほど兄の全てをよく把握している人間はいないという「血のリクツ」に基づいた断定が多く、われわれ日本人にも親しく了解できる(非ロジカルな)田舎説法がこの小説に全く別のディメンションを加えます。わ、この作家はこんなこともできるんだ、という驚きがあります。
 そしてまた別のヴァージョンというのは、親友ジョフロワとディディエの視点であり、エドゥアールは凶暴な事件にも関わらずレダへの感情がまだ曖昧なままであるのに、彼がそこから抜け出すためには事件を自分の外に出すしかない、法的に告訴して、事件を外在化するしかない、と説得します。
 精神的にももちろん肉体的にも衰弱した状態で、エドゥアールは警察に出頭して告訴の手続きを取ります。 ここでまた事件の別のヴァージョンが警察作成の調書という形でできてしまうのです。上にも少し書いたように露骨にレイシストな取調警官とのやりとりがあります。エドゥアールは途中で告訴することを悔いて、もう取り止めたいと言うのですが、警察側は「この時点ではこれはもはやあなた個人の問題ではなく、"Justice"の問題なのだ」と言われ、取り消しも認められないのです。
 そして病院でも同じで、「強姦」という事態では担当の場所も医者も違い、事件は法医学的にまた違うヴァージョンとなってエドゥアールにおいかぶさってくるのです。
 エドゥアールはクララに、親友に、警察に、病院に、何度も同じ事件のことを話したはずで、その度に相手によって若干は違った供述になっていたかもしれないけれど、事件は同じものなのです。ところが、その度に事件はヴァージョンを変え、エドゥアールの外側で複雑に分裂・膨張していきます。その分裂して膨張した全容を一編の小説に詰め込んだのです。恥辱・苦痛・悔恨・自虐の一人称小説ではなく、多視点からこの凶暴な事件の苦痛を書き直していくような作業です。レイシズムや同性愛差別や貧困の問題にもコミットしています。前作『エディー・ベルグールにケリをつける』では、極端に閉鎖された田舎社会(貧困・レイシズム・同性愛排斥)の被害者のストーリーという一面的な読まれ方が、その凄絶な筆致を情念的な評価にしていたと思います。この小説は、それだけではなく、こんな多面体的な組み立てができて、多視線のエクリチュールができるのだ、という大変な才能に脱帽します。23歳。3年がかりで書いた作品です。読むのにキリキリ胸が痛くなる作品であることも付け加えておきます。

EDOUARD LOUIS "HISTOIRE DE LA VIOLENCE"
SEUIL刊 2016年1月 230ページ 16ユーロ

カストール爺の採点:★★★★⭐️

 (↓ 2016年1月、国営テレビFRANCE 5「ラ・グランド・リブレリー」で "HISTOIRE DE LA VIOLENCE"について語るエドゥアール・ルイ)

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