2021年6月28日月曜日

造反有理ガガーリン

『ガガーリン』
"Gagarine"

2020年フランス映画
監督:ファニー・リアタール&ジェレミー・トルーイ
主演:アルセニ・バチリー、リナ・クードリ
フランスでの公開:2021年6月23日

供たち、1920年代から第二次大戦後のフランスの経済成長期末期まで、パリ市を取り囲む郊外の町々は、サンチュール・ルージュ(Ceinture rouge 赤いベルト)あるいはバンリュー・ルージュ(Banlieu Rouge 赤い郊外)と呼ばれ、その頃大挙して郊外に住んでいた工場労働者たちの支持を受けて地方選挙に連戦連勝していたフランス共産党が町々の市政をつかさどっていたのだよ。この映画の舞台であるパリの南郊外ヴァル・ド・マルヌ(94)県イヴリー・シュル・セーヌ市に至っては第二次大戦期(1939 - 1944)を除いて1925年から今日(2021年)まで、絶えず共産党市長が選出されている。赤い旗がはためく郊外。1980年代以降、全国的には共産党の勢力は弱まっていき、その後国際的にソ連・東欧共産国群が崩壊していくや、共産党は一挙に「時代遅れ」となり、共産党市政の郊外市町村の数は大幅に減った。だからこのイヴリーも今や共産党”最後のモヒカン”的な趣きがある。
 映画の冒頭は、そのイヴリーに1963年に建設された巨大な公営高層集合住宅「シテ・ガガーリン」の完成記念セレモニーの様子を伝えるモノクロのドキュメンタリー映像である。言うまでもなくこの建造物につけられた名前は、1961年に人類初の宇宙飛行士となったユーリ・ガガーリンの栄誉を記念してのものだが、このシテの完成セレモニーにガガーリンその人がテープカットのためにやってきたのである。その英雄を熱烈歓迎するイヴリー市民たち、ロックスターのようだ、とりわけ子供たちは誰もが「ぼくも宇宙飛行士になりたい!」と夢見ていた頃だもの... 。ああ、ガガーリンも、ソ連も、共産党も、みんな偉大だった。その良き時代のシンボルが赤レンガ貼りの”近代集合住宅”のシテ・ガガーリンだった。
 場面は現代に移り、築70年になろうとするシテ・ガガーリンは激しく老朽化し、エレベーター故障や電気回線と上下水道のトラブルは日常茶飯事、空き家階のスラム化も起こっている。市や管理機関からは修繕修理の手がほとんど回ってこない。16歳の黒人少年、その名もユーリ(演アルセニ・バチリー)は、自己流で身に付けたDIYノウハウをフルに生かして、この巨大な公営住宅のよろず修繕をボランティアで行っていて、中古でも部品さえあればエレベーターでも直すことができる。他の郊外シテが次々に解体されていったように、このシテ・ガガーリンも遅からず壊されてしまうことをユーリは知っている。だが少年はその解体をなんとかして引き延ばしたい、できるものなら解体せずに残してほしいと願っている。ソ連→ロシアがソユーズ宇宙船やバイコヌール宇宙基地を修繕に修繕を重ねて使い続けているように。
 そしてユーリにはその修繕活動を支持してくれる住民たちがいて、部品購入のための資金カンパや肉体労働支援もある。このシテの間借り人たちはは大家族的なつながりで結ばれていて、その中心となっている女性がファリ(演ファリダ・ラフアディ)で、まさにこのシテの”おっかあ”のような行動的で人望の厚い素晴らしいキャラ。ファリがオーガナイズするシテのおばちゃんたちのエアロビクスやヨガや太極拳のサークル活動や、小さな子たちの共同託児や、宗教関係なしの合同カーニバルやら... 色とりどり&さまざまな体操着でダイナミックに体を動かすおばちゃんたちのこれらの映像はまさにユートピア的なのだ。われわれが持つ判で押したような郊外シテのあのイメージは大きく覆される(まあ、映画ですから)。バンリュー・ルージュのインターナショナリズムとはこういうものだったのかもしれない。
 ファリはユーリが生まれた頃から少年を知っていて可愛がっている。ユーリの母親が新しい愛人のためにユーリをひとり残してシテから出て行ったことも。今週観た映画『イブラヒム』と同じように、この映画でも”母の不在”が大きなカギになっている。同じような16歳、17歳の男の子の主人公であるからして。
 さて、ユーリはシテの部屋から(天体)望遠鏡で下界を覗き見していて、スパナとペンチを使って器用に自動車メカをいじくっているロマの娘ディアナ(演リナ・クードリ、2019年ムーニア・メドゥール監督映画『パピシャ』で同年セザール新人女優賞)と遭遇する。ユーリと同じほどメカに強いこの娘はシテに近い空き地に(不法)野営するロマの一団に属していて、ユーリのシテ・ガガーリン修繕のボランティアの強力なパートナーになっていく。廃品・クズ鉄(ロマのスペシャリティーであるが)に通じたディアナに連れられて、とあるガラクタ倉庫に行くと、そこは郊外で解体された多くのシテ建造物の墓場のようなところで、現場から回収されたケーブルや配電機材や鉛管などが堆く保管されている。その倉庫番で現金での売買もしている薄汚いオヤジの役でなんとドニ・ラヴァンが特別出演している。
 こうしてユーリとディアナのゴールデンタッグの活躍でシテは機能を取り戻していくのであるが、住宅公団の調査団がやってきて、ユーリやファリら住民たちの抗議にも関わらず、シテ・ガガーリンの取り壊しが決定されてしまう。住民たちは解体工事開始前の期日までに出ていかなければならない。思い出のいっぱい詰まった"わが家”との別れ。大移動の悲しい光景。「これだけは誰にも渡さない」と備え付けの自分宛郵便受けボックスを持ち去る老人(悲しい...)。
 ユーリは(愛人と暮らしている)母親のところに受け入れられることになっていた。ところが引っ越しの段になって、母親から「おまえとは一緒に住めない、伯父のところで世話してもらえ」と現金入りの封筒が...。家(シテ)も母の愛も失ってしまったユーリは絶望の淵に。
 映画はここから全く別のディメンションに突入していく。もう素晴らしすぎて、あまり描写してはいけないとは思うのだが、さらっと書いておく。住民が撤去され、解体作業が開始された誰も住んでいない立ち入り禁止のシテ・ガガーリンにユーリはひとり残り、ハンマーで壁を打ち抜き、広いフロア全部を使ってまさに宇宙ステーションのようなサバイバルゾーンを作り、発電、給水、食品保存、(人工光による)食用植物の栽培、天体観測、音楽創造... すべてハンドメイドのシェルター基地にしてしまったのだ。ガガーリンフォーエヴァー。シテ・ガガーリン砦の最後のモヒカン。
 ユーリのガガーリン基地から見えた建築現場のタワークレーン、その最上部(クレーン操縦室)から光がチカチカ。そのモールス信号を解読し、それがディアナとわかる。ガガーリン基地とクレーン操縦室の間で交わされるモールス信号光の会話。美しいなぁ。ディアナはユーリのサバイバル体験を理解し応援する。そして二人は恋に落ちる。美しいなぁ。
 しかし映画ですから、恋は引き裂かれるのね。それもいとも社会状況的な事件によって。ディアナと家族とその一団が野営している空き地に、機動隊がブルドーザーなど重機でもってやってきて、強制退去令を執行してしまい、キャラバンカーが無残にクレーンの爪でバリバリと破壊されるシーンあり。この理不尽を必死で抗議するディアナとユーリだったが、ロマの一団は逃げを決め込み(たぶん、”いつものことだから”という含みあり)、ディアナはその父親の厳命で家族と共に逃走を余儀なくされる。
 そしてガガーリン基地にひとり残されたユーリは、冬の厳寒に凍え死にそうになりながらも、苦しいサバイバルを続けていく。そして月日は過ぎ、解体工事は大詰めの「爆破破壊」の日を迎える。ファリやおばちゃんおっちゃんたち子供たちの旧住民たちが招待され、その”わが家”に別れを告げるべく爆破倒壊シーンを見守るのだった。その中にディアナもいて、作業員に詰め寄り、中にまだ一人いるはずだから救出してほしい、と嘆願するもむなし。無情にも、爆破のカウントダウンが始まってしまう。10、9、8、7、6....。

 この映画も奇跡は起こるのですよ、映画ですから。

 映画監督コンビ、ファニー・リアタールとジェレミー・トルーイの初の長編映画。前作短編映画『青い犬(Chien Bleu)』(2019年、セザール賞短編映画賞にノミネート)もシテを舞台にした旺盛な想像力と遊び心とメランコリックな詩情あふれる作品。『ガガーリン』はそのレトロ・フューチャーな風景と、シテというコミュニティーの暖かさ、そして16歳の少年の絶望から転じた反抗的サバイバルのドラマに心を鷲掴みにされる。バンリューは未来だったし、人間の住処だった。あふれる創造性を宿した黒人少年と鍵なしでどこにでも入れるロマの少女の愛、アトモスフェリックなたくさんのスタジオ魔術、風穴だらけの宇宙船、エフゲニー&サッシャ・ガルペリン作のドリーミー&スペイシーなエレクトロニック・ミュージック(サントラ)、どれをとっても、ウンウンうなずくしかない快作。新しい才能たちに感謝。

カストール爺の採点:★★ ★★☆

(↓)『ガガーリン』予告編

(↓)シテ・ガガーリン解体決定後、2019年パリジアン紙による動画ルポルタージュ。

2021年6月24日木曜日

All along Bastille tower

『イブラヒム』
”IBRAHIM"

2020年フランス映画
監督:サミール・ゲスミ
主演:アブデル・ベンダエール、サミール・ゲスミ、ラバー・ナイト・ウーフェラ、ルアナ・バジュラミ
フランスでの公開:2021年6月23日


ミール・ゲスミはかれこれ30数年間、フランス映画で脇役俳優としていい味を出していたベテランで、顔を見ればあの映画でもこの映画でもと思い出す馴染みの顔である。53歳にして初監督作品。手の込んだことなどなく、その俳優の持ち味そのままの、シンプルで味わい深い映画。
 父子家庭。父一人子一人。舞台はパリ東部。「リセ・ポール・ヴァレリー」という実在する学校(パリ12区の公立の職業高校)も登場する。   17歳のイブラヒム(演アブデル・ベンダエール)はそのリセに通う少年。フットボールが好きで父親アハメド(演サミール・ゲスミ)の後押しもあり、地元のフットボールクラブに所属するが、必死の練習の甲斐なく補欠メンバーの地位に甘んじている。"イブラヒム”と言えば2010年代(正確には2012年から16年)首都のチームであるパリ・サン・ジェルマン(略称PSG)で大活躍したスウェーデン人スター・ストライカー、ズラタン・イブラヒモビッチの略愛称のひとつであり、この少年イブラヒムの憧れる人物でもあった。” イブラ”とも愛称された。しかし少年の現実はイブラの夢とは程遠いイバラの道(あ、つまんないダジャレ)。職業リセでは公的ディプロマであるCAP(セアペと読む、Certificat d'Aptitude Professionnelle 職業適合資格)の試験が迫るが、それが保証する未来などない。何になるでも何をするでもなく父親との二人暮らしの単調な日常を繰り返す。
 その父親アハメドはフランス語の読み書きができないながら、オペラ座街の老舗ブラッスリーに雇われたが、前歯を失っているためにパトロンから接客業(この場合"ギャルソン")は無理であると、エカイエ(冬季に店頭屋台でカキを売るカキ開け職)か食器洗い係しかやらせてもらえない。息子と違ってこの父には夢がある。それはこの老舗店で古風なギャルソン正装をつけてうやうやしく/誇り高く客に給仕すること。映画ではその日のために自宅でアハメドが鏡に向かって給仕のポーズをトレーニングしている姿が映し出される。だが、ギャルソンとしてデビューするための必須条件が、醜くボロボロに欠けた前歯を隠す入れ歯、というわけ。これを歯科技工士に発注して、送られてきた請求書の金額が1700ユーロ。その手紙が読めないのでイブラヒムに読んでもらい、小切手帳に金額を書き込んでもらい、父アハメドがサインする。この小切手を送りさえすれば、父の(ささやかな)夢は叶うのだ。しかし...。
 夢も生きる覇気もないイブラヒムは、その日その日を無為にやりすごしているが、友だちと言えるつきあいは、年上の落第同級生のアシル(演ラバー・ナイト・ウーフェラ、ドローンとした目つき、得体の知れなさを漂わせるキャラ、うまい)のみ。窃盗常習犯で、口が立ち、地下経済ともつながっていて、地域のワルたちに人望もあり、人気がある。そのアシルに”一の子分”であるかのように可愛がられ、連れ回されることをイブラヒムは断れない。この強引な兄貴分に付いていってしまう心の弱さがある。
 アシルがイブラヒムを引き込んで行く世界は、うまくやればこれほど簡単な世渡り術はない、という盗みとイージーマネーと暗部コネクションの領域。金は欲しい ー これはリアリティーである。まっとうに最低のディプロマを取得したところで、マグレブ系劣等生にどんな人生が約束されているというのか。アシルは既に”味のある”ワルであり、リアルな生を実現している。このアシルとイブラヒムの関係にホモセクシュアリティーは介在するのか?ナイーヴながら鋭く端正な顔立ちでもあるイブラヒムからおのずと滲み出てしまう「ボーイ」性は無害なものではない。イブラヒムは自覚的ではないが、多分その美貌を使えば簡単に別の世界に入れるということをアシルは知っているのだろう。自慢の”(きれいな)弟分”として傍に置いておきたい、そんなたくらみ/願望も見える。
 しかしイブラヒムは家電量販店での盗みの初歩実地演習でしくじってしまい、警備員たちに捕われる。逃走途中で足がひっかかり壊れてしまった大型テレビを弁償すれば、警察沙汰にしないでおく、という警備員の示談申し出。その場に父親アハメドが呼び出され、父親は抗弁せず無言で弁償金3000ユーロの小切手を切る...。
 
 コトはここでまっとうで一本気で寡黙な父親の(実現寸前だった)夢の崩壊、という悲劇に転化する。ひとり息子の愚行のせいで。父の入れ歯代金を払える可能性がなくなったことで自責の念にかられたイブラヒムはなんとかしてその金を捻出しようと奮闘するが、そのためには”アシルの方法”を使うしかないではないか。ここに至って”悪魔”アシルとイブラヒムの契約は成立しかけるのだが...。
 アハメドは息子の愚行を許そうとしない。息子が入れ歯代金をまっとうでない方法でかき集めようとしていることを知るや、その怒りはさらに掻き立てられる。父と子の関係はいよいよ悪化する。この映画で一貫してこの父と子は対話が少ない。寡黙な関係なのだが、これは日本映画的な体験である。そして父親は息子を殴る。口で言うより手の方が早い昭和(地方部)日本の父親の図である。なぜこの父と子は話ができないのか? この父と子の間に不文律のタブーがあることがだんだんわかってくる。それはイブラヒムの母親のことなのである。息子は母親が着ていた(と思われる)「I❤︎NY」のTシャツを好んで着ているが、父親はそれを好んでいない。息子は母親がなぜ死んだのかを父に問う機会を窺っているが、その機会は巡ってこない。あれあれ?この話どっかで聞いたなぁ。そう、2010年度ゴンクール賞ミッシェル・ウーエルベック『地図と領土』の第一部、造形アーチストとその父建築家の最後の会話でも母親の死の真実が遂に明かされない、というアレ。

 最悪になった父アハメドとの関係、アシルの世界との決別と逃走、夜のパリを彷徨い、バスチーユ運河沿いの灌木の下に身を隠し野宿するイブラヒム。しかし救済の手がかりは見出される。宿無し(父親のいる自宅に帰れない)のイブラヒムを匿ってくれたのは、職業リセの同級生の少女ルイーザ(演ルアナ・バジュラミ、2001年コソボ生まれ)で、この一人暮らしで独立心が強く勝気な娘が、イブラヒムに違う新しい道へと導いていく...。
 映画の中で最も美しいシーンは、ルイーザに連れられてバスチーユ広場中心の「7月の円柱」(高さ50メートル、てっぺんに「自由の精 Le génie de la liberté」像)の内部螺旋階段を登って、二人で頂上からパリを眺望する、というともすれば月並みに取られてしまいそうな図であるが、わぉっ、パリ12区の暗部しか見ずに生きてきた少年が、革命と自由を象徴する塔の上で、やっと広い世界が見えるようになるのである。しかもルイーザと二人で。感涙してしまうではないか。
 (この映画の翌日に観た『ガガーリン』で、同じように最も美しいシーンは、主人公の黒人青年とロマの娘が、建設工事現場のタワークレーンのてっぺんの運転室に登り、郊外上空からパリを見下ろす、という図。塔の高みからずっと世界を見渡せば、一挙に何かが変わるセンセーション。同じような感涙シーン)

 サミール・ゲスミ『イブラヒム』は、その父親像と同じように、言葉少なに、複雑な展開もなく、ゆっくりと、しかも確実に、幸福な和解という大団円に連れて行ってくれる。父と子の寡黙なペアの彩(あや)、初監督作品と言えど、とても職人の匠を思わせる。

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)『イブラヒム』予告編


(↓)『イブラヒム』断片。公営プールでアシルがイブラヒムに窃盗のイロハを教える。

(↓)「見張り塔からずっと」(The Playing For Change Band, 2018)


2021年6月16日水曜日

ナミの国に閉じ込められて

Julie Blanchin Fujita "Au pays de Nami"
ジュリ・ブランシャン・フジタ『ナミの国』

は納豆が好き』(2017年)のジュリ・ブランシャン・フジタの第二BDアルバム。『納豆』アルバムはずいぶん高く評価したし、日本の友人たちにもだいぶ買ってもらって好評だった。納豆など大衆的で生活臭のする日本文化への好奇心で(2011年東日本大震災を含む)日本体験をイラストと2カ国語(フランス語と日本語)で書き綴った前作は、その最後にイッセイ(一世)という若者と恋に落ち、妊娠した体で南西フランスのペルピニャンで新生活を始めるところで終わっていた。そのペルピニャンで生まれたのがナミ(漢字では"波美”)。本作はこのナミの誕生から始まり、一家の日本への再移住、ナミがバイカルチャラル&バイリンガルな童女として成長していく日常の機微をイラストで記録するBDアルバムである。それは母親ジュリが前作で展開した"フシギ日本”との出会い&発見を娘が再体験するようなところもあるが、視点はあくまで親のもので、ナミが直接日本カルチャーと対面しているわけではない。この構図では「親が代弁しすぎ」は避けられない。たぶん「ナミを主役に」「ナミの視点で」を構想して始めたんだろうが、この企ては長続きしていない。

 Episode 2(p10)でナミが「ハーフ(ha-fu)」という言葉で分類されることに猛烈にからんでいる。人間として半分ではないのに、この言い方はなんだ、と。血の混じり合い、ミクストを意味するフランス語「メティス métis」の方がどれほど尊厳が保たれているか。それはわかるんだが、これ、怒っているのはナミではなく母親ジュリだよね。
 ナミの行く(両親に連れて行かれる)日本のさまざまなところを、きれいにイラスト化するのは母親ジュリだけど、そういうページは本当にカラフルで美しい。この部分は日本の田舎を知らないフランス人読者たちへのイラストレイテッド・ガイドの趣がある。そこでは作者の才能が最良に発揮されるのだけど。ー  

 根本的なことであるが、一体この本は誰に読まれることを想定してつくられたのだろうか、ここがはっきりしない。漠然とそれはフランス人読者であろうし、BDと日本が好きな人たちではないかな。フランスの出版社側の意図としてはそうだろう。仏日メティスの童女ナミの日本行状記のつもりで読んでいると、前半から早くも主題は母親ジュリの苦悩の日々に変わってくるし、インスピレーションの枯渇も吐露されるし、育児疲れもおおいに見えてくる。そして(フランス人的に)政治的オピニオンをはっきり持っているジュリのエコロジスト/フェミニスト傾向がおおいに顔を出してきて、ああ、この人、日本でいろいろぶつかって消耗しているところがあるのだなあ、とおもんぱかってしまう。そして(この時期であるから)コロナ禍でさまざまな予定が狂い、行動が制限され、仕事まわりもややこしくなる。この本全体から感じられるフラストレーションはかなりのものがある。だから、可愛い女の子が主役の"kawaii"系ジャポネ本と思ってこの本を手にすると、たいへんなことになると思う。
 そのフラストレーションにはおおいに同情するものがある。イラストレーター/BD作家としてやっていくのは大変そうだ。日中はフランス人トゥーリストたちのガイドもやっている(うまくやっている人たちもいるかもしれないが、私個人の体験からすれば、見知らぬ人たち数人に半日/全日観光ガイドでつき合うのって本当に消耗するハードな仕事、いやだいやだ)。フランスに(一時)帰りたいのに帰れない2020年的現実も笑えない。
 前作同様、フランス語と日本語のバイリンガル表記だが、前作同様、フランス語と日本語の間には微妙なデカラージュ(差異)がある。日仏バイリンガルの人たちはそこんところ、楽しんでください。それからボーナスとして「マルチニックのナミ」(10ページ)と30種類のスティッカーシールつき。
 『納豆』がジュリがナミを妊娠したところで終わったように、この『ナミの国』もジュリが第二子妊娠、という知らせで終わるのである。だから続編はあるはず。続編はもっと良いコンディションで制作していただきたいと願ってます。いやほんま。

Julie Blanchin Fujita "Au pays de Nami"
Edition Hikali 2021年6月4日刊 130ページ 16,90ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆


2021年6月14日月曜日

100年前ジャマイカとマルセイユが出会っていた

2021年6月4日、40年近く活動しているマルセイユのバンド、マッシリア・サウンド・システムが通算9枚目のアルバム『サル・キャラクテール(性悪)』(Manivette Records MR20)を発表した。アルバムについては当ブログの"ここ"に紹介されているが、そのレヴューを書くためにいろいろと過去に私がマッシリア、ムッスー・T&レイ・ジューヴェンその他マルセイユの音楽アーチストたちについて書いたことを読み直してみた。ずいぶん書いたものである。マルセイユのスペシャリストのような趣きがあるが、私はマルセイユについては何も知らない。住んだことも長期に滞在したこともない。けれど今や行けば迎えてくれる仲間たちがいる。1930年代からのマルセイユ・オペレット(大衆歌謡劇)の楽曲を取り上げたアルバム『オペレット 1』(2014年)と『オペレット 2』(2018年)を制作したムッスー・T&レイ・ジューヴェンを取材しながら、その大きなインスピレーションのひとつとなったジャマイカ出身の黒人作家クロード・マッケイ(1889 - 1948)のことを知る。2018年秋、私は夢中になってその小説『バンジョー』(1929年発表)を読んだ。そこには驚くほど活き活きしたブラックネスあふれるジャズの港町があり、そのことをラティーナ誌2018年10月号に書いた。あの夢のマルセイユはもう存在しないと誰が言い切れるだろうか。

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2018年10月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

クロード・マッケイ『バンジョー』
1920年代マルセイユのブラックネス



(in ラティーナ誌 2018年10月号)

ッスー・テ&レイ・ジューヴェンが両大戦間1930年代のマルセイユ歌謡をカヴァーした異色作『オペレット』を発表したのは、今からちょうど4年前の2014年7月のこと。このアルバムについてのタトゥーへのインタヴューは本誌2014年8月号の当連載記事に掲載されたが、そのインタヴューは2014年サッカーW杯ブラジル大会の真っ最中に行われていて、そのテレビ中継(ブラジル vs チリ戦だった)を横目で見ながらの落ち着かない質問のやりとりだった。その大会でフランスは準々決勝でドイツに敗れて消え、勝ったドイツが713日の決勝でアルゼンチンを下して世界一になった。4年後今年のロシア大会で7月15日決勝でクロアチアを破り、われらがレ・ブルーは二度目の世界チャンピオンに輝いた。この気分が上々の時に、タトゥーが新作『オペレット・2』(フランス発売1019日)の製品見本と沢山の資料を送ってきた。浮かれてないで仕事しよう。
 多産家のムッスー・テ&レイ・ジューヴェンにあってこれは2016年のオリジナルアルバム『ナヴェガ』に続くもので、通算で10枚目である。マルセイユの古参レゲエバンド、マッシリア・サウンド・システムのMCタトゥーとギタリストのブルーによるサイドプロジェクトとして2005年に始まったマルセイユ歌謡(シャンソン・マルセイエーズ)バンドであるが、そのバンド結成のインスピレーションについて、新アルバムのプレスリリースの第一行にこう書いてある:

 

「思えばバンドの結成はひとりのジャマイカ人に負うものであった。その人は偉大なる作家クロード・マッケイ(1889-1948)であり、その小説『バンジョー』との出会いが私たちに世界に開かれた大港湾都市としてジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたいという強い欲求を抱かせたのだった。」

 

 この一文(註:全文”ここ”に訳してあります)に触発されて、私はクロード・マッケイ著『バンジョー』(1929年発表。私が読んだのは仏語訳本)を入手したら、その370ページの長編小説に描かれた当時のマルセイユのブラックネスにすっかり魅せられてしまった。ただ、タトゥーの口上文でやや強調しているジャマイカ(母体マッシリアがジャマイカ音楽の影響で始まったバンドであることも含めて)は、この小説には全く登場しない。クロード・マッケイは1889年ジャマイカのクラレンドン生まれで、1912年にジャマイカ方言英語による詩集「ソングス・オブ・ジャマイカ」で文壇デビュー、アメリカに移住してからその人種差別制度に驚愕して政治的ポジションを明確にし、ニューヨークでアフロ・アメリカンの文学運動「ハーレム・ルネッサンス」に合流する。マッケイの特色は終わりのない旅の人で、アメリカ全土を端から端まで回ったのち、ロンドン、ロシア、フランス(パリとマルセイユ)、モロッコ、バルセロナと移住している。代表作は『ホーム・トゥ・ハーレム』(1928)、『バンジョー』(1929)、『バナナ・ボトム』(1933年、唯一ジャマイカを舞台とした作品)、短編集『ジンジャータウン』(1932)など。私がインターネットで検索した限りでは日本語訳本は出ていないようだ。

 『バンジョー』の舞台は1920年代後半のマルセイユである。アフリカ大陸および世界主要港とつながった地中海屈指の大港湾都市として繁栄していた頃。1929年の世界恐慌はこの小説にはまだ登場しない。マルセイユと言っても当地出身の劇作家マルセル・パニョル(1895-1974)の諸作品(特にマルセイユ三部作「マリウス」「ファニー」「セザール」)に現れるような風光明媚な南仏情緒と人情は、この小説とはほとんど関係がない。旧港から北のジョリエット地区に至る「ラ・フォッス(La Fosse=穴)」と呼ばれた低級歓楽街が主な舞台で、安い娼館と安ビストロが立ち並び、外国船の船乗りや港湾労働者や娼婦とその女衒たちで賑わうコスモポリタンな色街だった。1943年にナチス占領軍によって街は取り壊され更地となり、戦後はビジネスタウン化したのち21世紀にはお台場風な未来メガロポリスに変身して、この小説の頃の面影は一切残っていない。この猥雑なマルセイユの一角の噂を聞いて、世界中の貧乏船乗りたちが集まってくる。美味この上ない安ワイン、そしてそのワイン1瓶ほどの値段で一夜の愛を売ってくれる女たち、そしてご機嫌なジャズ。これは夢の港町である。特に禁酒法時代(1920-1933)
のアメリカから来た者にはこの安ワインの魅力は格別だ。 
 この底辺の色街に居着いてしまったその日暮らしのアメリカ黒人たちがいる。定職を持たず、寄港する外国船の雑務を請け負ったり、乗船者たちに物乞いをしたりして生きているが、何はなくてもワインと女はどうにか手に入る。英語しか話さなくても平気だ。そしてこの多民族でごった返す下町では、一部の民族同士の反目はないわけではないが(表面上は)人種差別はない。

 そんな気楽な貧乏アメリカ黒人仲間の中に、アメリカ南部(ディキシー、すなわち奴隷制時代の長かった人種差別地帯)の出身でカナダ軍の傭兵だった男が入ってくる。バンジョー弾きゆえ人呼んでバンジョー。口が立ち、人当たりが良く、女にもて、ダンディー的ですらあり、その上音楽が出来る。ほとんど無一物の状態でこのマルセイユの下町にたどり着いたが、その口のうまさで波止場で物乞いをすれば簡単に金を手に入れることができる。その稼いだ金をバンジョーは気前良く仲間と分け合い、飲み代をおごってやって安歓楽街のナイトライフを謳歌するのである。セネガル人バー、アメリカンバー、マルチニックレストラン(ビギン楽団で踊るシーンあり)、安くたらふく食べられてみんな大好きな中華レストラン。商売女たちとその女衒たち、久しぶりに丘に上がった多国籍の船員たち、見回りの警官、これらすべての人々を浮かれさせるジャズ。バンジョーはいつしかこの英語黒人グループのリーダー格になり、このマルセイユという地上の天国で成功するにはジャズ楽団を組めばいい、と悟るのである。

 この黒人たちがウィスキーやジンやラムなどをやめて南仏ワインに飛びついた理由をこの小説は、彼らは酩酊するためではなく、栄養を摂るようにワインを飲む、飲めば飲むほど心も体も快調になる、と書いている。夜の果てまで浴びるほど飲んで宴は続くのである。この黒人たちほど享楽の喜びを徹底して満喫できる人々はいない。これがこの小説のポジティヴなブラックネスである。だがこれをプリミティヴ“とか「動物的」(ひどい表現では「猿的」)と卑下する傾向もあるのだ。20世紀初頭、アメリカやヨーロッパの大学で学んだ黒人インテリゲンツィアは、人種差別撤廃、黒人解放という目標に向けて様々な主張を戦わせていた。アフリカ回帰を訴えるもの、黒人自治を訴えるもの、共産主義との連動を訴えるもの...。文明や進歩の問題をどうするのか、歴史的に黒人に搾取と隷属を強いてきた文明に背を向けるべきか。このような黒人たちの様々な葛藤を、この小説の登場人物たちのキャラクターが代弁する。


 バンジョーの後で黒人浮浪者仲間に合流したハーレム出身の作家志望の男レイは、この始まったばかりの20世紀世界と黒人たちとの関係を理論的に思索するインテリで、言わば作家クロード・マッケイの化身である。享楽的で楽観的で無鉄砲なバンジョーとその自分にはない無鉄砲さゆえにバンジョーに惚れ込んでしまう知識人のレイがこの小説の二輪の輪である。フルート、ギター、コルネット、パーカッション、踊り手...、バンジョーを取り巻く仲間でバンドは出来上がり、マルセイユの安歓楽街の夜にバンジョーたちのジャズは高らかに鳴り響く:Shake that thing ! (↑写真;クロード・マッケイ撮影とされるマルセイユのジャズバンド)

 この恩寵の瞬間は長続きしない。仲間割れ、我慢がならない意見の相違(例えば黒人の中だけでうまくやろうとする者に対して白人ともうまくやれるバンジョー)、景気不安は港湾の労働からの黒人たちを締め出し、簡単な日銭稼ぎができなくなる。音楽も仲間も失って孤立し、慣れぬ過酷な苦力(クーリー)仕事の末、バンジョーは瀕死状態で病院に担ぎ込まれる。

 このような苦境でもフランスの役所とアメリカ領事館には邪険に扱われたが、レイの尽力で領事館から次の帰国船でアメリカに帰れる手筈と帰国日まで滞在費の保障を取り付ける。少しの金が入ると、また前と同じように仲間におごって遊び惚けるバンジョーだったが、アメリカ帰国の船が出る日、誇り高いバンジョーは乗船を拒否するのである...

 理性的なレイはこれをどう理解すればいいのか。社会主義にもアフリカ回帰思想にも懐疑的で、文明との調和など幻想だと考えるレイが模索する解放された黒人たちが進むべき道に、バンジョーは非理性的なインスピレーションを与える。一体ブラックネスとは何か。アフリカがわれらに与えたもうたものは何か。それは宴を徹底的に楽しみ、その震えをあらゆる人に共有させる性質ではないか。この祝祭性ではないか。バンジョーの人生は宴であり、合理性に邪魔されなどしない。ジャズの熱狂に書物は要らない。レイが嫉妬するほどに気高いバンジョーの黒い自由は、レイに文学形式などに全く囚われない自由で激しい小説を書かせるだろう。


 おそらくこのマルセイユはフランス人も知らなかったものだろう。コスモポリタンなどという小綺麗な形容とは全く違う、世界の善と世界の悪をごっちゃにした港町、その安歓楽街の極端な悲惨や暴力もマッケイは隠さない。ドルとポンドに支配された世界経済の縮図、民族や人種の啀み合い、密輸犯罪、ローカルマフィア、警察買収、ブルーフィルム(当時の新興行)...。このような環境でアメリカからたどり着いた黒人浮浪者たちは、天国にいる思いで人生を謳歌していた。そして例外はあるが、ここでは概ね世界の黒人たちが連帯している。ワインとジャズを兄弟のように共有している。そしてその場所には白人もムラートもインド人も観光客もいてもいいのだ。しかしマッケイは「ジョゼフィン・ベイカーをスターにした世界で最も黒人に理解ある国」のように自慢するフランスの欺瞞(植民地搾取)への批判も忘れていない。それでもマッケイ自身、このマルセイユのどん底を心から愛したことは疑いようがない。(↑写真 2015年に命名された「クロード・マッケイ小路」マルセイユ2区にあり)

 小説『バンジョー』に描かれたラ・フォッス地区は、現在は地中海博物館(2013年開館)などが建ち、あの安歓楽街の面影は全く残っていない。タトゥーはこの小説に触発されて「ジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたい」と思ったと書いているが、マッケイの小説から感じられるブラックネス溢れるジャズ音楽と30年代マルセイユ歌謡「オペレット」がどのように同時代音楽として混じり合っていたのか。少なくとも4年前の『オペレット』(第1集)では、マルセイユ訛りの地中海情緒歌謡の傾向が大きくフィーチャーされていて、温故知新が中心的なアルバム制作態度だったと思う。これが新作『オペレット・2』で、どうマッケイの小説の世界へのアプローチを試みているのか、どう変わったのか、ということを来月号の本連載で書いてみようと思っています。

(ラティーナ誌2018年10月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)ムッスー・テ&レイ・ジューヴェン『 オペレット ・2』ティーザー


2021年6月5日土曜日

森友の賭け

"Petite Maman"
『プティット・ママン』

2021年フランス映画
監督:セリーヌ・シアマ
主演:ジョゼフィーヌ・サンズ、ガブリエル・サンズ、ニナ・ムーリス
フランスでの公開:2021年6月2日


(イントロ:さよならを教えて
最愛の祖母が収容されていた高齢者施設、祖母の部屋と同じフロアーの老人たちひとりひとりに8歳の少女ネリー(演ジョゼフィーヌ・サンズ)は「オ・ルヴォワール(さようなら)」と挨拶し、老人たちは「オ・ルヴォワール」と返しの挨拶をする。オ・ルヴォワール、オ・ルヴォワール...。しかし祖母の部屋には空のベッド。ネリーは最愛の祖母にオ・ルヴォワールが言えなかったことを悔やんでいる。それが最後のオ・ルヴォワールになることを知らなかったから。それを知っていたら、私は上手にオ・ルヴォワールを言うことができただろうか。少女はお別れを言えなかったから、その死別を受け入れられないでいる。機会を失ったさようなら。

幸せな愛などない
ネリーの母マリオン(演ニナ・ムーリス)は、その母の遺品を整理するために夫と娘と共に郊外の母の家(それはマリオンが生まれ育った家でもある)にやってくる。死んだ祖母は娘マリオンの少女時代のもの(作文ノート、玩具、宝物...)をすべて保管していた。その母の少女時代のノートを横目で見ながら「つづり間違いが多いわね」と見抜くネリーだった。少女は祖母の形見にと脚の悪かった祖母がずっと使っていた杖をもらう。幸せな愛などない。映画を観る者たちにはそのディテールは明かされないが、マリオンはその母を失った悲しみだけでなく不幸なのだった。そしてその母の家の整理を半ばにして、姿を消す。夫と娘は予めそれを承知していたかのように驚かない。重いけれど優しく過ぎる父と娘の時間。近くには森があり、母が小さい頃よく枝を集めて束ねた三角小屋を作って遊んでいた、と。父が家の整理をしている日中、ネリーはその森へ行ってひとり遊び。すると...。

アミティエ
ネリーと同じ年頃、同じ身の丈の少女(演ガブリエル・サンズ)が、森に落ちている長い枝を何本も集めてきてコーン状に立てて小屋を作ろうとしている。「ねえ、手伝ってよ!」と少女はネリーに呼びかける。電撃的なアミティエの始まり。少女の名前は”マリオン”。ネリーと同じ青い目、同じ波打つ長い髪、同じ声、目印を探すとすればいつもヘアーバンドをしている方がマリオン。日本語では瓜二つ。フランス語では deux goutes d'eau(水の二滴)。しかし徐々にわかっていくように、この二人の少女には30年ほどの時の隔たりがある。それを徐々に発見していくのはネリーであり、マリオンとネリーが森の中に作っている枝小屋から片方に進めばネリーの祖母の家があり、その逆に進めばマリオンとその母(演マルゴ・アバスカル。確かにニナ・ムーリスと似ている)があり、二つの家は同じ間取り、同じところに台所、トイレ、サロン、子供部屋がある。マリオンの母は脚が悪く、歩くのに杖を必要とするが、その杖は...。
 テレラマ誌(2021年6月2日号)のインタヴューでセリーヌ・シアマは、この二つの世界が時代の兆候を感じさせるようなディテールを極力排して構想されたと言っている。すなわち二人の少女は30年前も今も変わらないような子供服を着ているし、二人が遊ぶのはモノポリー・ゲームやトランプカードであり、スマホやパソコンや薄型テレビなどは登場しない。
 こうしてこの映画は特撮一切なしに時間を超えた二つの世界を出会わせたのだ。森のこちら側と向こう側にある二つの家は同じ家である。知っているのはネリーだけ。大の仲良しになった二人の8歳の少女は語り合い、マリオンの夢は女優になることだった。二人の想像力は探偵物語を創作し、その対話劇を二人で演じるのである(この劇中劇が素晴らしい)。そしてネリーだけが、この夢のような時間に終わりがあることを知っている。
 その目の前にいる少女が母だと知っているネリーにとって、このマリオンはどんな存在なのか? ー 友だち?母?姉?妹? ー ではマリオンがそのことを知ったらば、この世界は崩壊してしまうのか?
 この映画は「子供向け」と言ってもさしつかえない。子供たちはさまざまな想像ができるだろう。この二人の至福の数日間を自分ごとのようにわくわくして見ることだろう。実存(この少女から生まれた自分)と時間との裂け目に身を置くネリーの身をよじる(ほぼ哲学的な)省察もなんとなくわかるだろう。そしてこの映画は信じがたいほどやさしく(夢見られた母のように)収拾をつけるのですよ。
 その母が脚を悪くした病気を遺伝で受け継いだマリオンは、症状の悪化を防ぐために難しい手術を受けなければならず、入院のためにこの家を離れなければならない。ネリーは父との祖母の家の片付けがほぼ終わり、この家から出て自分の家に戻らなければならない。終わりが近づいたと観念したネリーは、思い切ってマリオンにその秘密を告げる「わたしはあなたの子供なの」。マリオン「あなたは未来から来たの?」 ー 

 (旅立ち Partir quand même
 お立ち会い、世界はここで崩壊しないのですよ。最後の日まで二人の屈託のない遊びと笑い声は続く。二人の親密な深い会話は続き、ネリーの今の一番の心痛は出て行った母のことだ、と。するとマリオンは「あなたのママンは帰ってくるわ」と。数日間の幻のような森の友は、帰って来ると賭けたのだった...。
 祖母に言えなかった「オ・ルヴォワール」をネリーは小さなママンに。そして大きなママンは...。
 
  2019年カンヌ映画祭脚本賞(脚本も監督本人)『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ監督の(上にも書いたが特撮一切なしで)映画のマジックにあふれる作品。森、その両側にある二つの(同一の)家、瓜二つの少女ふたり、これだけで想像力あふれる少女たちの世界も異次元界も生と死と出会いと別れもすべて凝縮されて描かれている。2021年6月、コ禍対策制限令で8ヶ月閉鎖されていた映画館が(5月19日)再オープンしたのち見ることができた数本の映画の中でベスト、すなわち2021年上半期ベスト。これは奇跡っぽい映画である。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『プティット・ママン』予告編


(↓)セリーヌ・シアマ監督が語る『プティット・ママン』のあらすじ


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追記(2021年6月9日)

テレラマ誌2021年6月2日号の巻頭インタヴューでセリーヌ・シアマが登場、6ページに渡って『プティット・ママン』を中心に語っています。敬愛する映画作家として宮崎駿の名前をあげるシアマが、この『プティット・ママン』制作中にもアニメ巨匠にヒントを求めたことや、この映画がコ禍を体験した子供たちへの緊急のメッセージであったことなど。部分訳してみました。

(コンテクスト:『燃ゆる女の肖像』で近世のブルターニュを舞台にした大作を“演出”したにも関わらず、それよりも脚本=シナリオが評価されて、カンヌ映画祭脚本賞を受賞したことに、あえて逆らうように『プティット・ママン』は少人数・少場面で“演出”がダイレクトにものを言うような映画を作ったということについて)


(翻訳はじめ)
テレラマ:この純粋に演出“を前面に出した映画にしたことは、2019年カンヌ映画祭で脚本賞を受賞することによって以前に増して「脚本家シアマ」というレッテルを貼られたことへのひとつの返答なのですね?
セリーヌ・シアマ「脚本を書くこと、それはそれ自体としてどう演出するかを書くことなのです。だから私は『燃ゆる女の肖像』が受けたこの賞についてとても誇りに思っていますよ、この脚本を書くのに私の人生のうちの5年を費やしたのですから。『
プティット・ママン』については、この少女がその子と同じ歳だった頃の自分自身の母親に出会い、一緒に時を過ごすというコンセプトは、神話あるいは古代の民話に通じるものだという印象がありました。このような物語を作ったのは私が最初かどうかは知らないけれど、私は最大級のシンプルさを追求する上で、私が初めてというつもりで制作しました。映画において『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のようなしかたで時空間を旅することは、往々にして(過去の)修正やヒロイズムにのみ換算されてしまいます。それに対して私は、この時間の旅を観る人たちにとってとても親密なものにしようと試みたのです。私がつくったこの映画自体が、時を旅するおもちゃ箱であるかのように、いくつかの単純な目印を置いておいてね。ある木の切り株を境界線にして、時の二つの側にある同じひとつの家、とか。」


テレラマ:子供向けの映画にもしようという意図も?
セリーヌ・シアマ「『プティット・ママン』に関して、私は細田守の『おおかみこどもの雨と雪』のようなアニメ映画を思ったりしてました。そして撮影に入ったら、いくつかの案に迷っていると、私は“この場合宮崎(駿)だったらどうするかしら?としょっちゅう自問したものでした。私は大人にも子供にも同じように観られ大切にされる映画にしたかったのです。同じ感動で大人と子供を結びつけ、親と子という垂直な関係を排して、水平な関係、平等な関係が作れるような。あえて言えば、大人と子供の連帯にいたるものです。私は子供たちが真剣に捉えられるようなフィクションを子供たちに提供しなければならないという緊急性を感じたのです。この(コ禍の)月日に体験したすべてのことについて子供たちに語り、「お別れ」を言えなかったことや、自分たちの親という神秘についても。撮影の間中、私にはいつもひとつのイメージが頭の中にありました。ひとりの大人とひとりの子供がこの映画を観たあと映画館を出て、バスに乗り遅れまいとして一緒に走り出す。その走り方は以前と同じではない、二人は以前と違うように手を繋いで走っている...。」

(翻訳おわり)
(P.4 Télérama no.3725 02/06/2021)

2021年6月4日金曜日

まる星やつら

Massilia Sound System "Sale Caractère"
マッシリア・サウンド・システム『性悪』

2014年の青いアルバム『マッシリア』から7年後、マッシリア・サウンド・システムの9枚めのアルバム『サル・キャラクテール』である。前々作『ワイと自由』が2007年であるから、同じように7年のインターヴァルを置いてマッシリアは還ってきた。2014年、前作『マッシリア』、ドキュメンタリー劇場映画『マッシリア・サウンド・システム:ル・フィルム』(クリスチアン・フィリベール監督)、400ページの大著評伝"Massilia Sound System - La Façon de Marseille"(カミーユ・マルテル著)、そして全国ツアーで結成30周年(一応1984年結成ということになっている)を祝ったこの中高年たちがまた還ってきた。なぜ還ってくるのか。それは私が7年前アルバム『マッシリア』の紹介記事にも書いたことだが、マッシリアがいくら30+α年間がんばってきても、その地盤マルセイユ(およびプロヴァンス、ひいてはオクシタニア)は少しも良くなっていないどころか、日に日に悪くなっているということに、この中高年バンドは黙っておれないからなのだ。
 2020年、マルセイユでは25年間におよんだ保守ジャン=クロード・ゴーダン市政に終止符が打たれ、エコロジスト+左派共闘による新市政(EELVミッシェル・リュビロラが新市長としてスタートしたが病気のため退き、社会党ブノワ・ペイヤンが現市長)が誕生した。とは言えこれはマッシリアにとっては特段喜ばしいことではない。もとより既成政党による「中央から見下す」地方政治に異を唱えてきたオクシタニストたる彼らにしてみれば、保守と大差ない首のすげ替えでしかない。だがその30数年間でどうしても許し難く、声を大にして抗戦しなければならないのは、極右の伸長である。その中心勢力たるRN(ラサンブルマン・ナシオナル=国民連合、旧称"FN"フロン・ナシオナル=国民戦線)は、2020年2月以来のコロナウィルス・パンデミック下にあって、大統領マクロンが見えない敵との「戦争」と名付けて一種の挙国一致体制で前代未聞の感染病と戦っている状況の中で、唯一政府対策にことあるごとに批判的な声明を出す政党として”存在感”をアピールしてきた。このコロナ禍状況で、2022年大統領選挙の闘いは各党ともキャンペーンを本格的に開始できない自粛傾向にあったが、2017年5月大統領選の決選投票敗北の時から既に雪辱戦キャンペーンを開始していたマリーヌ・ル・ペン(RN)はひとり他候補(立候補予定者)たちよりも何十歩もリードしていた。2021年5月現在、調査機関IPSOSのアンケートによると、2022年大統領選第一次投票の得票予想はマリーヌ・ル・ペンが 28%〜30%で、現職のエマニュエル・マクロン(25%〜27%)をリードしている。
 そして今現在(2021年6月)の関心事として、6月20日(第一次投票)と27日(第二次投票)に行われるフランス地域圏選挙(Elections régionales)&県選挙(Elections départementales)がある。マルセイユのある地中海沿い南東フランスの地域圏プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール(通称”PACA = パカ")では、ニュース専門TV局LCIのアンケート調査によると、現職地域圏知事の保守ルノー・ミュズリエがマクロン大統領派政党LERMとの共闘が成立したにもかかわらず、予想得票率が35%にとどまり、極右RNのティエリー・マリアニ(39%)に負けるということになっている。地中海沿いの南仏地域圏PACAがRN圏に!? これは大危機ではないか。
 こういうことになるからマッシリアはたとえ老体になっても、マルセイユ人、プロヴァンス人、オクシタニア人たちに激弁をふるって警鐘を鳴らし、何度でも言って聞かせなければならないのですよ。

 新アルバムの音楽的屋台骨は「ラバダブ Rub a Dub」である。すなわち1970年代ジャマイカのダンスホール・サウンド・システムの原初的なレゲエ・ルーツのスタイルに立ち返って、ということなのだ。ヴィンテージな機械と電子楽器のリディム(インスト)とサンプルによる100%卓上づくりのバックトラックである。驚くかもしれないが、ブルー(Bluことステファヌ・アタール)のギターもバンジョーも聞こえない(やっと12曲め「早かれ遅かれ Tôt ou tard」でバンジョーとアコギが)。前作前々作でブルーのよく鳴るギターのせいで「マッシリアのロック化」のようなことも言われたものだが。これは、マッシリアのオフィシャルなファーストアルバムと言われる『パルラ・パトワ(Parla Patois)』(↑写真、1992年)の30周年(マイナス1)、ということがおおいに関係しているらしい。2015年に44歳の若さで他界したゴアタリ(Goatari Lo Minot、マッシリア在籍1989年 - 1996年 ターンテーブル/キーボード/リズムボックス)への弔いということもあろう。あの頃のスタイルで初心に還り、とジャリ・パペ・Jタトゥーがイニシアチブを取ったのだ。
 その先陣を切ってアルバム1曲め「ア・カヴァロ(A cavalòt)」(騎馬)(以下、青字リンクを貼った曲はYouTubeに飛んで試聴できます)は、老兵ジャリとタトゥーによるマッシリアのオールドスタイルを誇示するような、丁々発止のチャチュ合戦が見事なラガの逸品である。
目を覚ませ、寝床から立ち上がれ
眠っていたらおまえの人生は変わらないんだ
タトゥーとジャリが合体した
これがラバダブ、いかしたラバダブ・スタイルさ!
このマルセイユのサウンドが聞こえたら
おまえはケツをふりふり
勇しくなるんだ
このマルセイユのサウンドが聞こえたら
おまえは身軽になって
イライラなんか気にならなくなる
そうさ、マルセイユはおまえの一部さ
(A cavalòt)
この二人にあこがれて、マッシリア親衛隊であるマッリシア・チュールモのメンバーとしてバンドに近づき(故リュックス・Bと共に)1993年にMCに昇格していったガリ・グレウは、マッシリアが単なる音楽バンドではなく音楽・マルセイユ文化・博愛主義・反ファッショなどを共有する大きな共同体の推進者であることを、人一倍肝に銘じているMCである。2曲め「カーザ・マッシリア(Casa Massilia)」は、ガリの発声で開かれた共同体としての"マッシリア一家”を歌う、3人MCの揃い踏みのファミリー賛歌である。
(ガリによるリフレイン)
おまえが必要なものすべて
おまえにやろう
何の問題もない
おまえにすべてやろう
取り決めなんかないさ
おまえにすべてやろう
(ジャリ)
マッシリア亭へようこそ、気楽にしてくれ
客は王様と言うが、ここには客なんかいない
友だちしかいないんだ、友だち、
踊って笑い合う元気なやつら、みんな喜んでる
みんなここにエネルギーをくれに集まってきたんだ
そしてエネルギーをもらいにもね、それがMCたちの魔術さ
絶対遅れて来るなよ、おまえの目が星のように輝くのさ
マッシリア亭には毎晩でも来ていいよ、ここはオープンバーさ
(Casa Massilia)
アルバムタイトル曲「サル・キャラクテール(性悪)」は、舌を出して悪態をつく女の子がジャケになっているが、テーマはムカつき老人である。すなわち状況がこれ以上悪化するとムカつきにとどまらず爆発してしまいそうな老人の心をジャリとタトゥーがまくしたて、ガリがこのジジイたちを怒らせたらあかんで、と援護する。
(リフレイン:ジャリ)
わしらは性悪なんで、わしらの前を横切ったらいかんぞ
さもないとわしらは自制心を失い、全部ひっくり返してしまうぞ
わしらは性悪なんで、怒らせたらいかんぞ
一歩うしろに引いてろ、わしらを調子に乗せたらいかんぞ
(Sale Caractère)

(↓)そのオフィシャル・クリップは(予算をかけた)”時代活劇”風に脚色されたバーレスク悪漢ムーヴィーであるが、この人たちは役者としては今ひとつもふたつもなので....意図はわかりますけどね。評価は分かれるところであろう。


 癇癪持ちの老人の歌とは一転して、老いたタトゥーが波止場のベンチにひとり座って、過去と現在を無気力な目で追ってしまうバラード曲「イヤフォンに聞こえるのは(Dans l'Oreillette)」(5曲め)も印象的な(年寄り)歌である。
年月、過去
前進、退却
成功、失敗
まんまと見逃した機会
まだおまえは刀を抜けるかい?
頭を持ち上げられるかい?
それとも口をつぐんだまま
おまえの時がほつれ散ってしまうのを
ただ見ているのかい
つけたイヤフォンから聞こえるのは
前世紀のレゲエ
(Dans l'Oreillette)

そう言えば、私たち年寄りは前世紀の音楽ばかりヘッドフォンで聴いているなぁ。
 そしてマルセイユに言及する曲がある。2013年”欧州文化首都”マルセイユ=プロヴァンスという大イヴェントをきっかけに、低所得者層を駆逐して新たな裕福階層が大手を振るうようになったマルセイユ。ガリとジャリによる「露頭に(A la rue)」(6曲め)。
(リフレイン:ガリ)
不幸なことさ、マルセイユが露頭に迷う
マルセイユは露頭に迷っている
もともとそうだったように、おまえはそうなってしまった
マルセイユ、不幸なことさ
(ジャリ)
マルセイユが露頭に迷っているのなら
それは路地が全部マルセイユのものだったらいいさ
ここでももう立ち行かないんだ、古い亡霊がまた現れる
犯罪は金のためになるし、儲かるってみんな知ってる
ラ・ローズ地区からジュリアン遊歩道まで、海岸の端から端まで
やつらはたんまりもうかって、金は仲間うちで流れていく
裕福で飽食したやつらは強力な手段をつかう
弁護士たちはやつらをそそのかして、団体を組織する
怪物のような建築ブームはまだまだ終わらない
これが雇用を拡大し続ける唯一の工場さ
個人的に俺にはこれが頭痛の種なんだ
俺の住んでる界隈のことだから
悪意ある回答と、まずい質問ばかりさ
(A la rue)

何が悪いのか、何が原因なのか。私たち年寄りは飽きるほど繰り返し言っているのだが、何度言ってもわからない人たちがいる。もうそんなものは聞き飽きたと言われても、年寄りは言い続けるしかない。マッシリアはもう一度はっきり歌っている。すべての悪は資本主義に由来するのだ、と。労働革命歌のように勇ましい7曲め「市場経済(Lo Mercat)」。
すべては買われ、すべては売られる
俺はもっぱら買ってばかり
すべては買われ、すべては売られる
俺はもっぱら払ってばかり
金は金を呼ぶ
俺には頭と両腕しかない
金は金を呼ぶ
俺は太れるわけがない
市場経済は全能だ
誰にも選択の余地はないようだ
金持ちがその舵取りで
そべてはやつのお好みしだい
金持ちが司令官で
俺は服従するしかない
(リフレイン:タトゥー)
Le Capitalisme est une cochonerie 資本主義は汚辱そのものだ
Qui nuit gravement à la santé 健康に非常に有害なもの
C'est une véritable saloperie 不潔きわまりないものだ
Qui devait être prohibée 禁止されるべきものだ
Le Capitalisme est une maladie 資本主義は疫病だ
Qui détruit notre humanité われわれ人類を破滅させる
C'est une dramatique pathologie それは悲惨な疾病だ
Qui devrait être éradiquée 根絶されるべきものだ
(Lo Mercat)

アルバム中、一曲だけ(地中海)オリエント風味がかかった曲。タトゥーの趣味だと思う。そのメッセージもタトゥーの力量である。資本主義は根絶されるべき疾病である。想像してみよう。2020年から2021年、全人類は前代未聞の疫病と戦ったのである。人類の総意によってこの疫病を克服しようとしたのである。いつか人類は同じようにこの資本主義を根絶するために立ち上がるだろう(か?)ー ま、何言われたって、言い続ける年寄りはいるわけで、マッシシアも私もその点では連帯してますよ。
 連帯ということでは10曲めに「連帯万歳 Vive la solidarité」という3人のMCのマニフェスト的な曲がある。
(リフレイン:3人)
これはわが家でつくった歌
友だちを労わらなければならないと歌ってる
この歌は気取らずに語ってるんだ
Conosには禁止だ、「連帯万歳」
(3番歌詞)
(タトゥー)
都市に郊外に田舎に
山々から海原まで歌は広がり、あらゆる人々に歌われる
自分に勇気を与えるために、赤ん坊を寝かしつけるために
「連帯万歳」の歌が聞こえてくる
(ガリ・グレウ)
この歌は朝の目覚めから、シャワーをあびる時にもついてきて
きみの耳から入って、そしてきみの口から出ていくんだ
いたるところで歌われ、ロシア語にもオック語にもウルドゥー語にもなって
ペキンやリオやウガドゥーグーでも定番曲さ
(ジャリ・パペJ)
地球上のすべてのヒットチャートで1位
それでこの歌がのぼせ上がったりはしないさ
心配するな、この歌は絶対に下手に歌われることはない
Conosには禁止だ、連帯万歳!

"Conos(コノ)”とはオック・プロヴァンサル語、スペイン語、カタロニア語その他で「愚か者」「まぬけ」を意味する罵倒語であるが、ここでは1990年代からマッシリア・チュールモが展開している反ファシスト/反極右の運動 "STOP CONO MOVEMENT"が示しているように、極右および極右支持者の意味。極右だけは断じて止めなければならない。この点で私たちは連帯を崩してはいけないのだよ。

 今は全曲について歌詞紹介はしないが、求められれば(日本でアルバム配給するという会社が現れたりすれば)やりますよ。ジャリ・パペJとタトゥーと私は同世代である。年寄りはまだまだ言わなければならないことがあり、引っ込んでろと言われても出てきますよ。次はマッシリア40周年か。私ももう少し長生きしよう。

<<< トラックリスト >>>
1. A cavalòt
2. Casa Massilia
3. Nine
4. Sale Caractère
5. Dans l7Oreillette
6. A la rue
7. Lo Mercat
8. Drôles de poissons
9. La Mouche
10. Vive la Solidarité
11. Bòma Adreiça
12. Tôt ou tard
13. Uei

MASSILIA SOUND SYSTEM "SALE CARACTERE"
CD/LP/Digital Manivette Records MR20
フランスでのリリース:2021年6月4日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)「性悪(Sale Caractère)」スタジオセッション動画


(↓)「カーザ・マッシリア(Casa Massilia)」スタジオ・クチパク動画