2017年12月26日火曜日

路地で生まれたんだから

Johnny Hallyday "Je suis né dans la rue"(1969)
ジョニー・アリデイ「俺は路地で生まれた」

 ョニー・アリデイ(1943-2017)の数あるアルバムの中で、ROCK & FOLK誌、レ・ザンロキュプティーブル誌、リベラシオン紙などが「ロック・アルバム」として最上級の評価を捧げている "RIVIERE... OUVRE TON LIT"(1969年)のアルバム最終曲(B面5曲め)で、シングルカットもされた。サイケデリック期のアルバムで、録音はロンドン録音(サウンドエンジニアにグリン・ジョンス)、音楽監督はミッキー&トミー(ミック・ジョーンズとトミー・ブラウン)、ジョニーのバンドの他に、スティーヴ・マリオット(フェイセズ)、ロニー・レイン(フェイセズ)、ピーター・フランプトン(ハード)が参加しており、この録音セッションで意気投合したスティーヴ・マリオットとピーター・フランプトンがのちにハンブル・パイを結成したということになっている。
 この曲「俺は路地で生まれた」は、フランスの黎明期ロックンローラーでありジョニーのデビュー前からのダチであったロング・クリス(1942 - )が詞を書き、ミック・ジョーンズとトミー・ブラウン(すなわちミッキー&トミー)が作曲したもの。「俺の名前はジャン=フィリップ・スメ、あんたたちにはジョニーの名でよく知られている」と始まる、自伝的なテクストだが、この歌がジョニーの「ストリート伝説」の元。貧困、父の蒸発、不良時代、すべて歌詞の中に入っている。これが神話となって、どん底から生まれたスター、ワーキングクラス・ヒーロー、路地に生きる若者たちの兄貴分になっていくのであるが....


俺の名前はジャン=フィリップ・スメ
パリ生まれさ
あんたたちには
ジョニーって名前でよく知られている
1943年6月のある夜
俺は路地で生まれたのさ
嵐の夜にね

俺は都市に生まれた
壁はみんな灰色で
空き地の裏には
あばら家ばかり
ブリキのゆりかごの中で
俺は大きくなった
俺が笑うことを知らないったって
驚いちゃいけないぜ
俺は路地で生まれたんだから

夜になったら家に帰れって言う
父親は俺にはなかった
母親はしょっちゅう
夜中働いていた
俺は舗道に座って
ギターを弾いていた
石ころみたいな心で
俺の人生は始まった
俺は路地で生まれたんだから

俺のやりたい人生を通すために
俺は闘わなければならなかった
俺の人生を守るためには
もっともっと俺は闘わなければならなかった
都市の四方八方から俺は追われていたんだから
両の拳はいつも固く握られたまま
あれから俺は変わってないぜ
俺は路地で生まれたんだから

今や俺は灰色の壁ばかりの街に
住むのをやめてしまった
俺の名前は銀色に輝き
俺はギターは金色だ
俺の昔の歌は
今も同じさ
だけど夜になれば
俺は路地に戻っていくのさ
俺は路地で生まれたんだから

今や人々は俺に敬意を払い
俺は王様たちと夕食する
俺の友人になる人を選んでくれて
最良の人たちばかりを集めてくれ
俺を変えてやろうとしたんだ
だけどそれは無理な相談だ
あんたたちの時間の浪費に過ぎない
俺は路地に戻っていくさ
俺は路地で生まれたんだから

だって俺は路地で生まれたんだから
そうとも路地で生まれたんだ
路地でね

(↓)「俺は路地で生まれた」1969年ヴァージョン(リードギター:スティーヴ・マリオット)


(↓)「俺は路地で生まれた」2000年エッフェル塔ライヴ(リードギター:ロビン・ル・ムジュリエ、ブライアン・レイ)

2017年12月23日土曜日

2017年のアルバム With a little help from my friend

Orelsan "La fête est finie"
オレルサン  『あとのまつり』

 のアルバムを評するレ・ザンロキュプティーブル誌のレヴューがイントロで「ラップは今やヌーヴェル・シャンソン・フランセーズになった。オレルサンはそれに乗じていて、この分野の最も才能ある作者の一人であることは明白だ」と言うのですよ。新しいシャンソン・フランセーズかぁ。この呼称は90年代にミオセックやドミニク・アが出てきた時に言われたものだけど、「シャンソン性」とは今日どんなものなのだろうか。例えばストロマエが出てきた時にもろにジャック・ブレルと比較されたのは、その叙情表現性によるものだと思う。哀愁や悲嘆や悔恨や苦悩がエレクトロに乗ったら、それはシャンソンと呼ばれても不思議ではない。最初から極めて文学的だったクロード・MC・ソラールが、シャンソンと呼ばれたのを聞いたことがないが。で、オレルサンである。これをシャンソンと呼ぶとすれば、それはその「物語性」によるものだと思う。
 この物語性やシナリオ性に関するオレルサンにまつわる避けて通れないことは、かの裁判沙汰である。その女性蔑視的表現、性暴力的表現を含むライムが訴訟となって争われたわけだが、オレルサンは一審でも二審でも無罪となっている。なぜ? それはフィクションだからである。映画や小説の中と同じように、その作中人物は卑劣漢やレイシストやセクシストであり得るし、その発言は創作的表現であり、作者の思想や性向を直接表現するものではない。作中に登場するナチス将校が極めてナチス的な反ユダヤ表現をしても、その作者は罰せられることはない。オレルサンのラップに登場する暴漢が暴力的表現をしようが、創作においては...という理屈なのである。この訴訟によって女性蔑視者のレッテルを貼られたオレルサンは、名誉回復の権利があるが、いたずらにその方面で刺激的な表現はしなくなったようだ。そりゃそうだろう。
 ノルマンディー地方オルヌ県アランソンから出てきた35歳。本名をオーレリアン・コタンタン。日本語版ウィキペディアにも載っているが、ひどい日本語なので見ない方がいい。
オレルサン名義の3枚目のアルバム。この人日本のマンガが大好きで(このアルバムの中の"Christophe"という歌の中で "J'aime que les mangas"という歌詞あり)、その手の日本語は結構知ってて、「オレルサン」というのは「オーレリアンさん」のつづまったものらしい。アルバム冒頭の「San」という曲で「"さん"とは3のこと、"さん”とはムッシューのこと」と言っている。このアルバムは三部作の最終章だ、とも。

OK 俺、新しいアルバム出すぞ。
だけどその前に基礎の復習が必要だ。
俺、単純なヴィデオ作って、そん中で単純なこと言うぞ
あんたたちときたらアホすぎるんだから
シンプルでベーシックなやつさ、オーケイ?

最も聡明な人間というのは必ずしも最も話し上手というわけではない(シンプル)
政治家たちは嘘をつかなければならない、じゃなきゃきみは彼らに投票しないだろう(ベーシック)
きみがしょっちゅうアルコールの問題はないって言うのは、問題ありってこと(シンプル)
よく知らない相手と子供を作ってはならない(ベーシック)

FNのやつらは映画の悪役と同じようなツラがまえだ(シンプル)
信念を持つことと卑劣漢であることの間の境界線は極めて細い(ベーシック)
Hugo Bossはナチスの制服を作っていた、スタイルってのは重要なんだ(シンプル)
イルカは凶暴な動物だ、外見に惑わされるな(ベーシック)

ベーシック、シンプル、ベーシック、シンプル
あんたたち基礎がなってない、あんたたち基礎がなってない
あんたたち基礎がなってない、あんたたち基礎がなってない

インターネットに載ってることはひょっとして嘘かもしれないがひょっとして真実かも(シンプル)
イルミナティ かどうかなんてどうでもいい、きみは乗っ取られてる(ベーシック)
外国に行ったらきみは外国人さ、レイシストであることは何の役にも立たない(シンプル)
最も気のふれたやつって往々にして最も悲しいやつなんだ(ベーシック)
100人の人間が地球の財産の半分を所有している(シンプル)
5連勝単式馬券というのは必ず1頭か2頭は当たっているもんだ(ベーシック)
きみがいつも問題を一人で抱えているっていうのは、その問題ってきみのことだからなんだ(シンプル)
どんな世代でも言うんだ、俺たちの後の世代はデタラメだって(クリッシェ)

ベーシック、シンプル、ベーシック、シンプル
あんたたち基礎がなってない、あんたたち基礎がなってない
あんたたち基礎がなってない、あんたたち基礎がなってない

(↑ "Basique" オフシャルクリップ)
 これ、学校の先生の常套句なの。数学とかフランス語の授業で、先生は必ず言うのですよ「あんたたち基礎がなってない、もう1回基礎からやり直して来い」ってね。おお、いやだ、いやだ...。これがアルバムの3曲め。
 続く4曲めは、オレルサン作詞+ストロマエ作曲の「ヌーヴェル・シャンソン・フランセーズ」。オフィシャルクリップ制作もストロマエ。アルバムには12曲めにオレルサン+ストロマエ作詞、ストロマエ作曲、ヴォーカルフィーチャリングストロマエという"La Pluie"という佳曲も含まれている。オレルサンの才能を疑うものではないが、ストロマエ初め、強力な友人たち(メートル・ギムス、イベイ、ネクフー...)のサポートでこのアルバムは「すごいこと」になったんだと思う。では、その4曲め "Tout va bien (万事良好)"。

おやすみ
おやすみ

あのムッシューが外で寝ているのは、車の音が好きだからなんだ
死人のふりしているのは、銅像の真似して遊んでいるんだ
いつかあのおじさんがいなくなったとしたら、それは百万長者になったということさ
きっと棕梠の木の島にいて、ビールを飲んでいるにちがいない

すべてはうまく行っている
坊や、すべてはうまく行っている
万事良好だ、坊や
すべてはうまく行っている

隣のおばさんが大声で叫んでいるのは、おばさん耳が遠いからなんだ
おばさん体に青いものがあるのは、絵の具で遊んでたからなんだ
いつかあのおばさんがいなくなったとしたら、それはきっとハネムーンで出かけたのさ
雨が降ってくれないかなぁと言いながら、サングラスをかけているよ

すべてはうまく行っている
坊や、すべてはうまく行っている
万事良好だ、坊や
すべてはうまく行っている

人間たちが銃で撃ち合いをしているのは、銃弾の中にワクチンが入っているからなんだ
建物が爆破されても、それは星を作るためなんだ
いつかこの兵隊たちがいなくなったら、あんまり楽しく遊んだから
遠くに行ってみんなで輪踊りをしようってことになったからさ
みんな束になって、手に手をとって

すべてはうまく行っている
坊や、すべてはうまく行っている
万事良好だ、坊や
すべてはうまく行っている

おやすみ
おやすみ

(↑ "Tout va bien" オフシャルクリップ)

 ストロマエ制作のクリップはウクライナで撮影されたそう。オレルサンの隣の少年が最後にボソボソっと言うのは"не вірте все, що написано"(そんなこと僕は信用しないよ)。

PS:このアルバム、2017年のベストですから、この後他の曲のオフィシャルクリップが発表されたら、随時対訳つきで紹介していきます。
 
<<< トラックリスト >>>
1. SAN
2. LA FETE EST FINIE
3. BASIQUE
4. TOUT VA BIEN
5. DEFAITE DE FAMILLE
6. LA LUMIERE
7. BONNE MEUF
8. QUAND EST-CE QUE CA S'ARRETE
9. CHRISTOPHE (feat MAITRE GIMS)
10. ZONE (feat NEKFEU & DIZZE RASCAL)
11. DANS LA VILLE, ON TRANE
12. LA PLUIE (feat STROMAE)
13. PARADIS
14. NOTES POUR TROP TARD (feat IBEYI)

CD/LP 7TH MAGNITUDE - WAGRAM
フランスでのリリース:2017年10月20日

カストール爺の採点:★★★★★

(↓アルバムオープニング曲 "SAN" - ラジオSkyRock スタジオライヴ。エモーショナル!)

2017年12月17日日曜日

2017年のアルバム そらぁ、あんたぁ...

MCSolaar "Géopoétique"
MCソラール『ジェオポエティック』

 年のフランスの音楽アーチストで、メジャーレコード会社"U"と喧嘩別れ(訴訟込み)した大物ふたり:ジョニー・アリディとMCソラール。12月6日にジョニーHが他界して、"U"社はその歴史的な旧譜でこの年末大いに稼いでいるだろう。それに引き替え、MCソラールの”歴史的”初期4枚のアルバムは"U"が凍結したままで、中古コレクター市場を除いてどこにもなく、若い人たちにはもう「聞いたこともないもの」になりつつある。
 クロード・MCソラールの10年ぶり、8枚めのアルバムである。48歳。 なりゆき上過去の人になったが、過去の人になることは消え方によっては神話化になる。前作から意図的に4年間消えることを選んだが、実際には8年間休んでしまって、2年間で音楽、スタジオ、ミュージシャン仲間、ライムのようなものを取り戻したらしい。自分を失わずに取り戻す、それは鏡を見ることのように、輪郭やシワや肌の張りを確かめることだろう。すると、どうだ、こいつはフランスのラップシーンの最重要パイオニアで、フランス語の革命すら起こしてしまった偉人だった、ということに気がつくのだ。「それはおまえだったのか」と。アルバムの序曲的なファーストトラック "Intronisation"(王の即位と Introをかけているのね)はクロード・MCソラールの神話を自らなぞっている。そして人生の秋を迎えたという自覚と自虐である「秋の歌」である "Sonotone"(ソノトーヌ。son音とautomne 秋を合成した「秋の音」)へと続く。

このみなぎる自信、一体なんなのだろうか。
 小さい頃クロードはパン屋かジャーナリストになりたいと思っていたという。大きくなって機会が巡ってこういう言葉の職人になったが、ラッパーやソングライターは言わばジャーナリストに近い立場で自分に映る世界像を言葉にしているのであった。ところが2000年代がやってくる。世界の Google 化。それで検索すれば誰もがジャーナリストになれるようになったのである。情報は寸時のうちにほぼ無限に入手でき、フォーラム、ブログ、SNSは誰でも無数の大衆に向かって情報を伝えたり、オピニオンを表明したりすることができるようになった。ラッパー、ソングライター、ジャーナリストはこのインターネットが支配的な世界の登場に、居場所のぐらつきを覚えたに違いない。
 クロードMCの10年間の沈黙とは、Google化された世界を前に、俺に何が言えるのか、何を表現できるのか、という内省の時間だったのかもしれない。で、ラッパーのクロードMCソラールがこの世に放てるものはポエジー=詩であると改めて悟ったのではないか。彼は地球を政治的に捉える地政学 Géopolitique(ジェオポリティック) の視点は捨て、詩的インスピレーションで地球を見る「地詩学 = Géopoétique ジェオポエティック」を展開してみようと思った。そこでクロードMCは、世界を股にかけたG.O.(ジェ・オ。日本語読みではジーオー。Gentil Organisateur クラブ・メッドなどのヴァカンス村の何でもする従業員)になって大サービス。

シンガポール(サンガプール)でのヴァカンスについて
アンケート調査をかけ
挙手投票させたら、5人の女が反対
5人の男が賛成(サンガプール)
エストニア(エストニー)でのヒッチハイクについては
一票足りなかったが、それはアリアンヌだったか
トニーなのか(エストニー)
一人のアジア娘の車が寄ってきて
ねえ黒い人、乗りなよ(モンテネグロ)
俺は茶を一気飲みしちまった
まるでモンテネグロのシュナップス飲みみたいに
小柄体型(タイ)、痩せ体型(タイ)、あの娘はタイかな
タイワンかな?
その娘のジーンズはディーゼル製じゃなくて
ガゾール製、サイズは1(タイワン)

(リフレイン)
南回帰線、アフリカの角 Cancer du tropique, corne de l'Afrique
アジア・ヨーロッパ大西洋条約 Traité Atlantique euro-asiatique
天使の風景、自動小銃  Paysage angélique, arme automatique
俺のボールペンよ、問題点を書き出せ Mon bic, note les tics
詩人のG.O.  G.O poétique

 詩人のジェ・オ、そらぁ、あんたぁ、ねえじぇよ。

< トラックリスト >
1. INTRONISATION
2. SONOTONE
3. L'ATTRAPE-NIGAUD
4. FROZEN FIRE (featuring JULIA BRITE)
5. JANE & TARZAN
6. EKSASSAUTE
7. LA CLE
8. LES MIRABELLES
9. MEPHISTO IBLIS
10. J.A.Z.Z. (KIFFEZ L'AME) (featuring MAUREEN ANGOT)
11. SUPER GAINSBARRE (featuring MAUREEN ANGOT)
12. I NEED GLOVES
13. ADAM & EVE
14. ON SE LEVE
15. ZONME DES ZOMBIES (featuring BAMBI CRUZ)
16. AIWA
17. GEOPOETIQUE
18. PILI-PILI
19. LA VENUE DU MC

CD/LP PWAY TWO/WARNER FRANCE
フランスでのリリース:2017年11月3日

カストール爺の採点:

(↓) "L'ATTRAPE-NIGAUD"オフィシャルクリップ。



***** ***** *****

追記(2018年2月3日)

ルバム6曲め「エクサソート! Eksassaute」のクリップが公開になった。グサグサ迫るエモーショナルな出来。巨匠の仕事。シャポー。この人が健在であることはとても励みになる。以下、訳詞を試みました。

勉強して学位も取って試験もパスした
俺は大人でもうガキじゃない
ゆっくりと企業で出世していき
そして独立して会社を作った
俺の「約束の地」を目指して
もっと生産性を向上させなければ
俺のちっぽけな企業活動は
よその市場を探さなければ
俺は袖をまくり上げて
昼夜の別なく働いた
俺は教会が日曜に開くことさえ反対だった
だが、俺はダンピングの犠牲者
メイド・イン・チャイナの競合にはかなわない
わが愛しきトランポリン製造会社、ここに眠る
今になって俺は気づいた
俺は目を開くべきだった、って
リジューの聖女テレーズのように
時と光を見出すべきだった、って
きみの時間を、きみの生活の一部を
きみ自身ときみの友だちに差し出すんだ
忘れちゃいけない
こうべを高く上げて、
これまでの常識から自分を解放するんだ
定説なんぞ消えてなくなれ(エクサソート!)
ある女性コンサルタントが一人の画家に出会った
彼女は彼の耳元で
豪奢な世界とアプサント酒の話を囁いた
彼はわかったような顔をしたが、
パステルでしか絵を描かなかった
そこで彼女は「蛍光マーカー」「デジャヴ」「幻日」を彼に強要した
そしたら彼の評価はうなぎ上り
広告業者たちから引っ張りだこ
彼は今やバイリンガルのようにおしゃべりになったが
語るのはアートのことではなく数字のことだけ
しかし絵筆は反逆し、創造が導いてくれる
地球上で時は止まり、宇宙では
星たちが凝結してしまう
きみたちは月が
潮の満ち干を左右しているのを知っているか?
月は魂の揺れを生じさせ
彼女の心を動かし、彼女を救ったということを?
今になって彼女は気がついた
彼女は目を見開くべきだった、って
時と光を見出すべきだった、って
きみの時間を、きみの生活の一部を
きみ自身ときみの友だちに差し出すんだ
忘れちゃいけない
こうべを高く上げて、
これまでの常識から自分を解放するんだ
定説なんぞ消えてなくなれ(エクサソート!)
俺はマイクロフォンをつかみ、そして声を上げ
地下抵抗運動(マキ)に飛び込んだ
俺はパック入りのクナキ(ソーセージ)みたいに
窮屈さを感じたので
カキ色の野戦服を着たんだ
タムール人かパキ(スタン人)みたいにね
そしたら俺には人間たちの生活が見えたんだ
人間たちの生活って誰のものなんだってことが
小休止:俺はランドヨットの中で軍隊生活を送った
その中には爆弾と裸の女たちがいたんだ
間違いでも間違いでなくても、こうべを高く上げていることだ
鎌を持った死の女神が来るまで、生きなくてはいけない
エクサソート!
そんなもの爆発してしまえ!
(↓)"Eksassaute" オフィシャル・クリップ



2017年12月16日土曜日

2017年のアルバム その2

ゴーヴァン・セール『だといいな』
Gauvain Sers "Pourvu"

 ール天カスケット、Gシャツ、ボーダー、ボロンボロンとなる3コードギター、 パリゴ訛り... 。2016年10月からルノーの復活「フェニックス・ツアー」(75回公演)の前座で回っていたそう。ギター弾き語りシンガーソングライター。リモージュ生まれ28歳。2016年、拙ブログに4つも記事を書いて応援したクリオが1曲でデュエットしている。ああ、クリオと名前を書いただけで、アルバム全曲が脳内をぐるぐる回る、それほど愛聴していた2016年アルバムだったが、それはそれ。クリオと違って、メジャーレーベル(Mercury France)から出て、ルノーの前座だけではなく、ガッチリとプロモーションされてメディア露出度も高かったゴーヴァン・セールのファーストアルバム。7月のリリース時点で5万枚売ったという。メディアのはやし立て方は、ジュリエット・アルマネが「まんまヴェロニク・サンソン」だったように、ゴーヴァン・セールは「まんまルノー」だった。
 この「まんま」という表現、フランス語では copie conforme(コピー・コンフォルム)と言い、公文書の原本と同一の写しである、という法律用語系の堅い言い方。これ言われたら、どうしようもないんですよ。オリジナリティーゼロと言われたに等しい。
 それからアルバムリリース前に最初に出たプロモーション・ヴィデオの "Pourvu"(アルバムタイトル曲)、誰が見ても大家作で、ミッシェル・ゴンドリーかな、ジャン=バチスト・モンディーノかな、と思ったら、モロにジャン=ピエール・ジューネその人だった(↓。featuring アメリー・プーラン、ジャン=ピエール・ダルーサン、ジェラール・ダルモン)

 「金のかかってるやっちゃなぁ」というある種のいや〜な予感。つくりもの感。
 アルバムを手にして、いろいろな先入観が消えていくには、クリオとのデュエット曲が必要だったし、アラン・ルプレストへのオマージュ曲"Comme chez Leprest"も、極右FN市政にめげず生きる人々を歌う"Hénin-Beaumont"も、地下鉄構内を住処とする誇り高き乞食の歌”Un clodo sur toute la ligne"も、すべて嬉しい「意外」であった。アルバムを閉じる6分の「大曲」”Mon fils est parti au djihad"(私の息子はジハードに行った)という、イラクで死んだフランス人ジハード戦士を思う母のバラード、こんな重いテーマを淡々と平易な言葉(優しい母の言葉)で、飾りなくも頼りない音程の地声直情の歌唱で歌い上げる。このフォークは二重にも三重にもデリケートである。シャポー。
 パリ生まれでないのに、ガヴロッシュ(パリ小僧)を気取る。このポーズは今日びかなり難しいことだと思う。ガヴロッシュはヴィクトール・ユゴー作『レ・ミゼラブル』の登場人物であり、それが「パリ小僧かたぎ」の代名詞になる。往時のパリ下町風なスカーフやカスケット帽のような身なりの真似だけではガヴロッシュになれない。
 この「ガヴロッシュ」がキーワードになっている歌 "DANS MES POCHES"(俺のポケット)(↓)

ズボンの奥底を探る考古学者さんよ
俺のポケットをひっくり返したら
いろんな素敵なものが出てくるぞ
ブリオッシュのパンくずにまみれて
どっかをほっつき歩いていた鍵束と一緒に
ほったらかしておいた何枚かの小銭
そして何かいいメロディーが浮かんだら
俺は音符を殴り書きするんだ
ポケットの中でね

小銭入れの中には
日本レストランの電話番号
古い映画の入場券
ガキの写真はまだないけど
使ってないメトロのチケット
ヴェリブ(貸し自転車)の利用カード
俺が本物のガヴロッシュになってからというもの
テレビは消しっぱなしだよ
ポケットの中でね

その日のジーンズにもよるけどね
俺はいつも両手をつっこむんだ
特に秋で天気が悪くなるとね
冬が近づいてきても両手は暖かいんだ
俺はポケットの中に俺の理想や
信念も入れておくんだ、高く突き上げた指とか
岩のように硬い拳
厄介ごとはポケット袋に
吊るしておくのさ

ちょっと訳してもしかたがない。これは全部 "oche"(オッシュ)という韻踏みで、poche, croches, mioches, téloche, moche, roche, sacoche.... gavroche(ガヴロッシュ)と連鎖しているもの。結構な芸達者。叩いてみるたび、味のあるアーチストになっていきそう。

<<< トラックリスト >>>
1. POURVU
2. DANS LA BAGNOLE DE MON PERE
3. MON RAMEAU (en duo avec CLIO)
4. DANS MES POCHES
5. HENIN-BEAUMONT
6. UN CLODO SUR TOUTE LA LIGNE
7. LE VENTRE DU BUS 96
8. QUAND ELLE APPELLE SA MERE
9. SUR TON TRACTEUR
10. ENTRE REPUBLIQUE ET NATION
11. COMME CHEZ LEPREST
12. LE POULET DU DIMANCHE
13. COMME SI C'ETAIT HIER
14. MON FILS EST PARTI AU DJIHAD

CD MERCURY FRANCE 5763240
フランスでのリリース:2017年6月7日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"MON RAMEAU" (ライヴ)クリオとのデュエット



2017年12月15日金曜日

2017年のアルバム 

ジュリエット・アルマネ『プティ・タミ』
Juliette Armanet "Petite Amie"

 やまっ、若くない。一聴してぐわぐわ押し寄せてくる年寄り感。2017年、最もイヤフォンで聴いたアルバム。つまり散歩の友。メランコリックになりがちな散歩をニヤニヤ笑いに変えてくれた怪盤。本当にお世話になりました感の強い1枚。
 ジュリエット・アルマネは1984年北フランス(つまりとてもベルギー寄り)リール生まれ(現在33歳。若くない)で、音楽アーチストになる前は、ARTE(独仏共同経営の文化教養テレビ局)とフランス国営ラジオFRANCE CULTURE(名は体を表す文化教養ラジオ局)でドキュメンタリー制作のジャーナリストだった。若くない感に加えてのクセモノ感は多分ここに由来するのかもしれない。それは単純なインテリっぽさではなくて、曲を作ったり編曲したりする時に、この女性はこうしたらこうなるという術の抽出しが多くて、ふふふと笑いながら作業している様子が目に浮かぶのである。
 この年寄り感のもとは多くのメディア評が指摘するようにもろな「セヴンティーズ」嗜好であり、より具体的には「ヴェロニク・サンソン・ヘリテージ」ということなのだ。トップアーチストとしてキャリアが長く、今や大御所中の大御所の地位にあるヴェロニク・サンソンであるが、辛口の批評誌/批評家に言われるまでもなく、その最高峰のアルバムは1972年のデビューアルバム『Amoureuse(アムールーズ)』(邦題『愛のストーリー』)であり、同じ年のセカンドアルバム『L'autre côté de mon rêve(夢の裏側)』(邦題『愛と夢の詩集』)であり、この2枚のクオリティーは群を抜いているのである。米人スティーヴン・スティルスと出会う前のもので、当時23歳だったサンソンが、当時の伴侶であり25歳だったプロデューサー、ミッシェル・ベルジェと二人三脚で制作した2枚。ジュリエット・アルマネのデビューアルバムは、誰が聞いても「サンソン+ベルジェ」のサウンドそのまんまであり、アルマネ自身、その影響を全く否定していない確信犯である。だから、2017年4月、このアルバム『プティ・タミ』が出た時、メディアは口々に「新ヴェロニク・サンソン」とはやし立てたのだった。
 サンソンだけではない。ヴールズィ、スーション、ウィリアム・シェレール、バシュング、ゴールド、ミレーヌ・ファルメール.... 後年ある種蔑視&否定される傾向にあった「非FM系」セヴンティーズ・ヴァリエテのアトモスフィアがボコボコ立ち上ってくる。しかもほとんが美しいラヴソングであるのだから。例えばこの「アレクサンドル」である。

アレクサンドル
あなたの灰のひとかけに
あなたのラッキーストライクから落ちる灰のひとかけだけのために
わたしの命のすべてを捧げるわ

アレクサンドル
あなたはわたしのカリフォルニア
あなたの優しい言葉が
わたしのビキニの内側で泳いでいるわ

あなたはわたしの神への瀆し
わたしの最高に素敵な不眠症
でもあなたにジュテームと言うことは
わたしには禁じられているの

あなたはいくら汚らわしくてもいいわ
あなたはわたしの神

アレクサンドル
あなたのすべてにわたしはウイと言うわ
そのすべてが得られるのなら
わたしは天国よりも地獄を選ぶわ

アレクサンドル
わたしをあなたのアレクサンドリアにしてちょうだい
あなたはわたしが優しいって分かるはずよ
カリフォルニアみたいに優しいって

あなたはわたしの神への瀆し
わたしの最高に素敵な不眠症
でもあなたにジュテームと言うことは
わたしには禁じられているの

あなたはいくら汚らわしくてもいいわ
あなたはわたしの神

アレクサンドル
あなたは未発表盤より素敵よ
わたしはあなたの声を聞くのが好き
なぜってアレクサンドル
それはきれいなんだから

 わおっ。美しい旋律にワイルド&ダイナミックな詞、これは2017年、最も美しい愛の歌ではありませんかえ。
 それから散々「サンソン+ベルジェ」まんまと言われている「孤独な愛 L'amour en solitaire」(アルバム1曲め)

わたし一人ご満悦
浜辺で
わたしはメロドラマを演じ
雲たちを誘惑するの

わたし一人のパーティー
それは残念
二人ならばとても素敵
浜辺で二人で
タバコを吸えるなんて

わたし一人の船あそび
帆を上げるわ
でも一人だと水浸し
船乗り浸し

わたしの分身
わたしの無二の分身はどこに
わたしにはあなたはわたしの母だった
わたしの父だった、わたしのロデオだった
わたしは砂漠を横断する
孤独の愛を抱いて

わたしの分身よ 帰っておいで
わたしはわたしの大地を再び見つけたい
わたしのビールを、わたしのセーターを
もう砂漠の横断はこりごり
孤独の愛もこりごり

わたし一人の島
浜辺で
わたしは糸一本で支えられ
わたしの貝殻を集めている
壊れそう

わたし一人の顔
鏡に映る
たくさんの顔の中に
あなたを見つけることができない

わたし一人で踊るチークダンス
あなたの曲に合わせて
わたしは波に飲み込まれて
わたし一人で難破してしまう

でも結局のところ、そんなのどうでもいい
全然大したことじゃない
あなたがいなくて、わたしぼ〜っとしてただけ
ただそれだけ

わおっ。サンソンとは似ても似つかぬこの諧謔のセンスは、もうひとりのジュリエット、偉大な怪シャンソン歌手ジュリエット・ヌーレディンヌのもののようだ。元気になれる。
  無駄のない12曲39分アルバム。まだまだこのアルバムを散歩の友にできるぞ。

<<< トラックリスト >>>
1. L'AMOUR EN SLITAIRE
2. L'INDIEN
3. SOUS LA PLUIE
4. A LA FOLIE
5. CAVALIER SEULE
6. ALEXANDRE
7. MANQUE D'AMOUR
8. A LA GUERRE COMME A L'AMOUR
9. UN SAMEDI SOIR DANS L'HISTOIRE
10. STAR TRISTE
11. LA CARTE POSTALE
12. L'ACCIDENT

CD/LP BARCLAY 5748401
フランスでのリリース:2017年4月7日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"LA CARTE POSTALE" ジュリアン・ドレとのデュエットのヴァージョン(ライヴ)、これは「サンソン+ベルジェ」風。






2017年12月7日木曜日

Everyday is Hallyday

マジッド・シェルフィ「このジョニーは彼自身よりはるかに大きいもの」

 2017年12月5日から6日かけての深夜、ジョニー・アリデイは74歳で亡くなりました。死因は肺ガンでした。フランスはこの国民的アーチストの逝去に、6日早朝から全メディアが追悼プログラムを展開しています。大統領府、政府、国民議会などからオフィシャルな弔事が発表され、9日(土)にはシャンゼリゼ大通りでの葬送行進を含む、国家あげての追悼セレモニーが開かれる予定です。
 この偉大さは日本からは見えづらいものでしょう。私自身、30数年の滞仏生活で、このアーチストのファンになったことはありませんし、コンサートに行ったこともありません。しかし自宅のレコード/CD棚を数えてみたら、シングル/LP/CD/DVD合わせて40枚もあり、知らず知らずのうちにジョニーと共に過ごした時間も少なくない「一般的フランス人」の仲間入りをしていたのだなあ、とびっくりしています。 
死の翌日のリベラシオン紙の第一面は、レイモン・デパルドン撮影の1967年のジョニーのライヴ写真。1面から19面までジョニーの追悼特集でした。その中にゼブダのマジッド・シェルフィの特別寄稿が1面扱いで載っていました。私にも覚えがありますが、人前で「ジョニーを評価する」というのは、われわれみたいにちょっと文化人気取りだったり、左翼っぽいポーズ取ったりする人たちにはかなり難しいことだったんです。そういうイントロでマジッドも書いてます。全文訳してみました。あらゆる下層の人たちとジョニーの声をくっつけてオマージュしようとしていますが、多数派の観点ではないと思います。マジッドらしいといえばマジッドらしい。メインのメディアでジョニーの死について語っている人たち(ジャーナリスト、芸能人、政治家、有識者...)はどうしても国民的ヒーロー像にしてしまいたいようで。

マジッド・シェルフィ「ジョニーは傷ついた魂の代理口頭弁論」

男でも女でもみんなそれぞれひとりのジョニーを持っている。私は80年代にその構文や文法や動詞活用の間違いのことでジョニーをバカにしていた若者たちのひとりだった。その頃はまだ「政治的」な時代で、人々はまだ左派を支持していた。われわれはその無教養を嘲り、その現実離れした美貌と完璧なアポロンのようないでたちを笑い、その歌の髪振り乱したロマンティスムや往々にして反動的な様相をバカにしたものだった。その学識の欠如と語彙の少なさをからかった。神というのはここまで誤りを冒すものか、と安心したりもした。人間が到達できるような偶像をめちゃくちゃにすることはたやすいことだった。
私はレオ・フェレを神格化するような、今言葉で言うなら「ボボ」(註:ブルジョワ・ボエーム=進歩派を気取る若い裕福層の蔑称)の一派だったが、最も反動的なものは見かけではわからないということを忘れていたのだ。私はそういう見かけを気にするような奴らのひとりだったが、例外的に、人に隠れてジョニーのアルバムを買っていた。私はその手作りの「美」によだれを流さんばかりだった。私はひざまづいてその歌詞よりもその声を聞き、それは私を打ちのめし、その後私は足取りを軽くさせその場を去った。たしかに、私は前衛なるものを自認していた「恥ずべき連中」のひとりだったし、あらゆる希望よりも高いところから降りてくるこの影のようなものに我慢がならなかったのだ。私はこの男が単なる声だけでないものであり、この声はどん底の人々の苦悩の化身であり、同時に担がれた十字架より高いところにある一筋の光なのだということを忘れていたのだ。それは頭痛の種を破壊するヴァイブレーションであり、傷ついた心を甲羅で包んでくれる。その声は疲労困憊した肉体を再びシャキっとさせ、朝には再び最低の職種と最低の仕事に赴かせてくれるのだ。その声はわれわれの声を救いにやってきてくれる。怒りの日にはわれわれの声を逞しくしてくれる。押しつぶされた苦悩の叫びを助けるために、その声はわれわれの声帯に乗り移ってくれる。それはすべての助けを求める叫びのメガフォンであり、下層の人々のメガフォンなのである。彼は自分ではそうとは気付かずに、すべての声なき人々、すべてのシステムから除外された人々の声を支えてきたのだ。彼は学識のない人にイロハを提供し、傷ついた魂に代わって口頭弁論をし、語彙の少ない人々の欠席答弁を買って出たのだ。
彼の楽曲の数々はバイブルとなり、居心地の悪い大多数たる無言者たちの口頭弁論と不幸な人々の光となった。自らを励ますことしか望まないこの男は、打ちのめされた者たちの自信を取り戻させ、より良い世界を説くあらゆる理想主義者たちに集中砲火を浴びせ、選挙公約や神の啓示を粉々に砕く。彼は自分自身のための約束しか守らない神であった。彼は老いて、病気を患い、酒を飲み、喫煙し、自分自身の欠陥に打ち勝ってきた。このジョニーはロックンローラーではなく、歌手でもなかったが、われわれのあらゆるフラストレーションに効く膏薬であり、あらゆる人生の不幸に効く絆創膏であった。悲嘆に暮れた日々の心を縫いつくろってくれる修繕装置だった。このジョニーは彼自身よりもはるかに大きなものであり、慰安の化身であり、プロレタリアの苦しみの穴を塞いでくれた。彼は最悪の不幸を生き抜いた人々、あらゆる格下げ被害者たちを慰めてくれた。これらのすべての人々が不幸に打ち勝つ勝利の可能性を説くこの男に自分の姿を見ようとした。彼はいつしか大きな不在者、失われた指導者、あまりに早く死んでしまった母親、傷ついた子供の代役となったのである。貧困者、のけ者、ホームレス、失業者、暴力にさらされた女、黒人、アラブ人、ロマ、一言のフランス語も解さない者の苦しみを和らげてくれた。彼の歌声はその歌詞や歌そのものをはるかに上回った。常に彼はその態よりも、彼自身よりも強いものだった。天使のような顔をした男、その彼が「俺のツラがどうしたってんだ? qu’est-ce qu’elle a ma gueule ?」と歌う時、あらゆる醜男たちはそこに自分を投影し、そのまさに真実味ある抑揚と勇ましさに自分の姿を見るのである。彼の声はまぶたの中にあらゆる悲しみの涙をせき止めるダムを建設してくれた。その堰の内側にわれわれは身を避難させていたものだが、この喪の悲しみの時に際して、私はそのダムが大量に作られたとは思えないのだ。今日、私は私の家族でない者の死のために泣いている。だが、彼は家族だったのではないのか?

マジッド・シェルフィ
(歌手、作家、俳優、ゼブダのメンバー)

(↓)文中に出てくる「マ・グール(俺の顔)」2006年パレ・デ・スポールでのライヴ映像 ("Ma Gueule" 1979年初録音。作詞:ジル・チボー、作曲:フィリップ・ブルトニエール。ちょっとピンク・フロイド「豚」っぽい。)


(↓)死の5ヶ月前、2017年7月1日「ヴィエイユ・カナイユ・ツアー」(ジョニー・アリデイ+エディー・ミッチェル+ジャック・デュトロン)ボルドーでの映像(YouTube投稿動画)。"La musique que j'aime"(作詞ミッシェル・マロリー/作曲ジョニー・アリデイ。オリジナルシングル1973年)

2017年12月2日土曜日

2017年の映画

"LA VILLA"
『ラ・ヴィッラ』

2017年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジェラール・メイラン、ジャン=ピエール・ダルーサン、アナイス・ドムースティエ
フランス公開:2017年11月29日

 ディギアンだし、マルセイユ近くだし、プロヴァンスなんだから、なまって「ヴィッラ」とカタカナ化してみました。アナイス・ドムースティエを除いては、社会派映画の巨匠ロベール・ゲディギアンの幾多の映画のいつものメンツ、アスカリード+ダルーサン+メイランの主演作。だから同じ映画の続編の続編の続編といった印象。ずっと見ているわれわれもこの人たちと一緒に歳とってきたような。今回の新作の配役設定は3人兄弟。父の意志を継ぎ客がほとんど来なくなっても大衆レストランを続ける長兄のアルマン(ジェラール・メイラン)、(左派系)インテリで口が立つがそれが災いしてかエリート管理職を解雇され失業中の次男ジョゼフ(ジャン=ピエール・ダルーサン)、そしてテレビ・演劇・映画とすでに長いキャリアを持つ女優である末娘のアンジェル(アリアーヌ・アスカリード)。このずいぶんの間会っていない3人兄弟が、老いた父親の容態の急変(バルコンから夕日を見ながら、タバコに手が届かず椅子から転落、神経系をやられて全身不随に)の知らせで、プロヴァンス、マルセイユに近い小さな入り江の村の「実家」に参集する。
 われわれの歳頃(60歳前後)にはいずこでもよくあることで、自由のきかなくなった親の面倒をどうするか、財産はどう分けるか、今ある家はどう処分するか、とかを子供たちで協議するのだが、こういうことはずっと避けてきたのに、いつかは避けられない事態になる。この映画では今がその時。国立公園にもなっているカランクと呼ばれる美しい断崖入り江の村ではあるが、 小さな漁港とヨットハーバーがあるものの、猫のひたいほどの平地に人家が集まった寒村で人口流出が続き、観光開発もされず、寂れる一方。その寒村にひときわ目立つ父の家はブルジョワの豪奢な別荘(ヴィラ)のように、断崖の上に建てられ、海にパノラマを臨むそのテラスから眺める地中海に沈む夕日が絶景。裕福とは縁遠い階級(大衆料理屋経営)の父が無理を承知で作った「一点豪華」。この「ヴィラ」の上を高架で地方沿線の電車がガタンガタンと音を立てて通っていく。映画はこの電車通過シーン何回も見せてくれるのだが、なんとも侘しさが...。それと、冷やかしなのか、不動産物件を海上から探しているのか、豪華クルーザーに乗ったサングラス&スーツ姿の男たちが、入り江から数枚写真を撮って、また去っていくというシーン、見るだけで腹が立つ。
 この村、かつては子供たちも若者たちもいた。祭りもあった。その70年代の青春のような映像が、この3人兄妹の若き日の姿そのもので回顧されるパッセージあり。20代のアスカリード+ダルーサン+メイランの3人が海浜で若さを爆発させているシーン。ロベール・ゲディギアン監督のアーカイヴからモンタージュしたものであることは間違いないが、こんなに昔から一緒に映画作っていたのだ、としばし嬉しい驚き。
 しかし今日、3人兄妹には3人の事情があり、問題は簡単ではない。長兄アルマンは一人でも大衆レストランを続けていくつもりはあるが、今や客はほとんどいない。次男ジョゼフはこの家族会合に目下の恋人である若いベランジェール(演アナイス・ドムースティエ。かなり中心的な役割になってしまう闖入者)を同行させている。都会派でジョゼフと同じほどインテリだが、どう見てもジョゼフとは不釣合いな若さと魅力に溢れたベランジェールに、ジョゼフはいつ彼女が他の男に取られてしまうか気が気ではない。そしてジョゼフは失業したとは言え、中央で活躍してきたエリート気質が邪魔して田舎になど戻れないと思っている。末娘アンジェルの事情はもっと複雑で、数年先までスケジュールが詰まっている第一線の女優。加えてアンジェルにはこの「家」には消すに消せない悲しい事件の記憶(女優仕事の間に預けておいた一人娘ブランシュが、父と兄が目を離した隙に海に落ちて水死する)が詰まっている。父親はせめてもの償いに、とアンジェルにだけ別額の遺産を用意するのだが、彼女は受け付けない。
 映画はそれだけでなく、家族とずっと親しくしていた実家の隣人老夫婦が、長い間病気と闘ってきて先が長くないことを悟り、若く優秀な医者の息子の懸命の計らいを振り切って、夫婦で睡眠薬自殺してしまうというエピソードが、空気をさらに重くしてしまう。
 そしてこの映画は2017年的今日が背景なのである。この冬のカランク入り江の小さな村に、物々しいフランス軍のジープが行き交い、自動小銃を抱えた兵士たちが徒歩で海岸線を監視して回っている。地中海の向こう側から難民たちを乗せたボートがやってきて、この沿岸近くで難破したという通報あり、生存者が漂着してくる可能性がある。フランスはそのような漂着難民を保護する立場にあるのではないのか? なぜこのような武装した兵士たちが警戒監視しているのか? その問いに兵士は「難民は危険である可能性もある」と日本の政治家のような答えをするのですよ! 3人兄妹はムッと来るのだが、それを抑えて「不審な者を見かけたらすぐに軍に通報するように」と言う兵士に、二つ返事でハイハイと。
 映画ですからね。やっぱり。われらが期待する通り、われらが3人兄妹は、濡れた衣服のまま潅木の中を彷徨う幼い難民の子3人と出会ってしまうのである。少女の歳頃の姉と幼い弟2人。映画はここでラジカルにトーンを変えてしまう。ユートピアはここから始まっていく。3人兄妹は和解し、難民の子たちを秘密裡に保護し、ジョゼフもアンジェルもこの「ヴィラ」を動かないと決意するのです。付随的に若いベランジェールは、新しい(年相応の)恋人(自殺した隣人老夫婦の息子の医者)を見つけヴィラを離れ、これまた付随的に年増女優(おっと失礼)アンジェルは自分よりふた回りも若い村の演劇好きの漁師と恋に落ちるのである。60歳代の3人兄妹が、2017年的現実の事件をきっかけに、ふ〜っと和解し、ふ〜っとポジティヴな方向に歩き始める。これは奇跡のような映画でしょうに。
 「ふ〜っと」、これはみんなが次第にタバコを「再び」吸い出す映画でもある。「一服」の幸福、この世から消されつつあるものだが、忘れなくてもいいものでしょうに。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ラ・ヴィッラ』 予告編


 

2017年11月24日金曜日

大統領どの、約束時間を忘れずに

大統領どの、
私たちは無駄話などもう聞きたくない

 インスタイン事件に触発された女性たちのセクハラ/性暴力の告発運動、#MeToo、#BalanceTonPorc、そして11月5日のエマニュエル・マクロン大統領への公開意見書「女性ふたりにひとり」 (署名者数70万人以上。詳細は拙ブログのここを参照のこと)。大統領マクロンは沈黙を破って、明日(11月25日)、この件に関する声明を発表すると言う。 
この署名運動を推進してきた女性活動家5人(カロリーヌ・ド・アース Caroline de Haas, クレマンティーヌ・ヴァーニュ Clémentine Vagne, マドリーヌ・ダ・シルヴァ Madeline Da Silva, ファティマ・ベノマール Fatima Benomar, ロール・サルモナ Laure Salmona)が、その前日である今日11月24日、大統領にその声明が曖昧な時間稼ぎや空虚な美辞麗句ではなく、具体的な緊急対策と具体的な予算の提示を求める #SoyezAuRdv キャンペーンを展開。27秒間の動画を用いて、大統領に「無駄話は不要」「大統領の高みにあれ」「約束時に必ず Soyez au Rendez-vous」と訴えている。

(動画メッセージ翻訳)
今日フランスでは毎日
227人の女性たちが強姦の被害者、
1643人の女性たちが性暴力の被害者、
数千人の子供達が暴力の被害者となっている
そしてその大多数の場合において
暴行者たちは
追及されることも
罰せられることもない
大統領殿
11月25日
あなたは声明を出します
私たちはもはや
無駄話など聞きたくない
私たちが聞きたいのは
具体的な行動
その方法
そして得られる結果です
大統領の高みにふさわしく
約束時に来てください

70万を超える人々が
あなたを注視しています


2017年11月12日日曜日

マンチェスター娘モディアノを歌う


The Chanteuse "Modiano"
ザ・シャントゥーズ
『モディアノ』

 テレラマ誌2017年11月8日号で紹介されていた英国マンチェスターの女性シンガー、ルーシー・ホープ(ステージ名「ザ・シャントゥーズ」)の8曲入りミニアルバム。タイトルが示すように2014年度ノーベル文学賞受賞作家パトリック・モディアノ(1945 - )が、作家デビュー(1968年『エトワール広場』)する前に、リセ・アンリ・キャトル校のダチだったユーグ・ド・クールソン(70年代プログレッシヴ・フォークバンドのマリコルヌ)と作詞作曲コンビを組んでいた時期のモディアノ作詞の歌8曲のカヴァー。この辺の事情は拙ブログのここにその中の1曲「サン・サルバドール」(映画『禁じられた遊び』テーマで知られる曲「愛のロマンス」にモディアノが詞をつけたもの。このザ・シャントゥーズのアルバムの2曲め)の日本語訳つきで紹介されているので、参照のこと。
 一般に世に知られているのはフランソワーズ・アルディによって歌われた「驚かせてよブノワ(Etonnez-moi, Benoît)」(1968年録音)の1曲のみ。
 ちなみにモディアノ最新小説『眠れる記憶(Souvenirs Dormans)』(2017年10月刊)の中で、作詞作曲家協会の会員になりたての頃、パリ13区にあった大手レコード会社ポリドールの録音スタジオに出入りしていたこと、そこで秘書として働いていた女性「ジュヌヴィエーヴ・ダラム」と接していたこと(小説の要!)が記述されている。
さて、ザ・シャントゥーズはオクスフォード大学で現代フランス文学を学び、パトリック・モディアノを卒論にしたのだそう。地元のサイケデリック系のバンド The House Of Glass のヴォーカリスト/作詞家であるほか、ホラー映画の映画音楽を担当したり。本業のスペシャリティーはフランス語シャンソン/ヴァリエテのカヴァーであるよう。レパートリーとして挙げられているのは、ブレル、ピアフ、ブラッサンス、バルバラ。YouTube に発表されている動画を見ると、フレンチ・シクスティーズ (アルディ、ゲンズブール、バルドー...)を売り物にしているよう。
 まあ、それを「おしゃれ」と思っているのか、フランスにはゲンズブールしか天才はいないと思っているのか、そういう浅薄な動機で発表される(外国の)カヴァー作品はとても多い。英国のザ・シャントゥーズのこのアルバムも「68年5月」「メロディー・ネルソン」「ジャン=クロード・ヴァニエ」などのリファレンスが。厚みのある声、クラシカル(古風なストリングス)な編曲、わずかにキャバレー歌手風な英語訛り.... 行ったことないけれど、英国大都市の小さなシャンソン酒場のショーみたいなものを想像してしまう。あの頃の日本のようにフランソワーズ・アルディを「アンニュイ」と言うなら、このルーシー・ホープの声は「スプリーン」と言えると思う。

<<< トラックリスト >>>
1. LES OISEAUX REVIENNENT
2. SAN SALVADOR
3. LES ESCALIERS
4. A CLOCHE-PIED SUR LA GRANDE MURAILLE DE CHINE
5. L'ASPIERE-A-COEUR
6. JE FAIS DES PUZZLES
7. LA COMPLAINTE DE ROLAND GARROS
8. ETONNEZ-MOI, BENOIT

CD/LP/Digital  UK Metropolis Labels
英国でのリリース : 2017年10月7日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ザ・シャントゥーズ「鳥たちは戻ってくる Les Oiseeaux Reviennent」のクリップ。

2017年11月5日日曜日

女性ふたりにひとり

ずは数字。
2017年10月19日付フィガロ紙で発表されたアンケート調査によると、53%の女性がこれまで性的暴行あるいは性的ハラスメントの被害者であったということを認めている。ふたりにひとり。

1 femme sur 2 (女性ふたりにひとり)
この異常な被害率を目の前にして、若い新大統領は何もしないのか?
緊急に具体的に対策を講じることはできないのか?
これが「1 femme sur 2」という意見書を作成したフェミニスト運動家カロリーヌ・ド・アースとジャーナリストのジュリア・フォイスが始めた、「大統領への書簡」への同意を求める署名運動です。全文は11月5日付の日曜紙ジュルナル・デュ・ディマンシュに掲載され、最初の賛同署名者として、ロール・アドレール(ジャーナリスト)、ザブー・ブレイトマン(女優)、マリー・ダリウーセック(作家)、ルアンヌ・エムラ(歌手)、フローランス・フォレスティ(漫談家)、イマニー(歌手)、アニェス・ジャウイ(映画監督・女優)、コリーヌ・セロー(映画作家)の名と写真を載せています。その他、同JDD紙のサイトには100名の著名署名者のリストが。また賛同者は意見書のサイト http://1femmesur2.fr で(男性でも)署名できます(これを書いている時点で、27000ほどの署名が集まっていました)。 以下、大統領への意見書の全文翻訳です。


クロン殿、あなたは私たちの側ですか?
大統領殿
私たちはあなたが忙しい日程をこなしていることを知っています。しかしあなたは何日も前から起こっていることに無関心ではいられなかった。何百という数のメッセージがSNS上に現れ、フランスにおいて性的暴力に被害に遭う女性たちの事態の重大さを証言しました。女性のふたりにひとりが性的暴力の被害者となっています(2017年10月19日付フィガロ紙で発表されたアンケート調査)。ある女性たちはこの意見書に賛同署名することなく、暴行によってこの世を去っています。またある女性たちは身体の不自由ゆえに、同性愛者ゆえに、またレイシズムの被害者ゆえに、この性的暴力の被害をさらに特殊なものにしています。
あなたが移動先で、一般市民と出会ったり、会合や公式夕食会を催したりする際に、このことを頭の中に入れていますか? 私たちは「ふたりにひとり」なのです。
大統領殿、この意見書の署名者たる私たちは、多くの他の女性たちと同様に過去において嫌がらせを受けたり、暴行されたり、強姦されたりした者です。多くの女性たち同様、私たちはしばしば私たちを取り巻く人たちの無理解や否認、国家の行政が真剣に取り扱ってくれないこと、そして社会がこのようなことは大したことではないと私たちを信じさせようとしていること、あるいはそこに至る前に被害者自身が何か対策するべきだったという論などに直面することになります。私たちは、これらすべてのことに対する私たちの社会の極度に重苦しい沈黙の証言者です。耐え難い集団的な否認。根本から私たちの社会は女性たちを虐待しているのです。
大統領殿、これらのことはあなたはすべてご存知でしょう。ではなぜ私たちはこの意見書を書いたか? それはあなたがこの性暴力を止めさせる権力を持っているからです。
私たちの習慣に深く根付いていて変わりようがないと思われていたメンタリティーや振舞を、既に過去において公的権力は変えることに成功してきました。30年前に誰が交通事故死者数を4分の1にすることなど予想できたでしょう? 20年前に誰が紙ゴミの分別が今日常識的に行われるなど予想できたでしょう?
大統領殿、往来においても、職場においても、家庭においても、暴力を許さないことは規範とならなければなりません。緊急策として政令を布告してください。今すぐに。

1) 女性たちを電話によって、あるいは物理的身体的に保護する市民団体への補助金を即刻倍増し、女性被害者たちの収容可能キャパシティを倍にしてください。
2)2018年から、女性被害者たちと接触する職業従事者(教育者、行政官、司法官、警察官、憲兵、医療従事者、とりわけ労働医療関係者)への組織的かつ義務的な教育研修を実施してください。
3)新学年からコレージュ(中学校)に、現行の「交通安全資格認定」の例にならって、「非暴力資格認定」を義務単位として新設してください。
4)被雇用者と管理職に対して職場における性的ハラスメントの防止のための研修を義務化し、この件に関する企業内の交渉を義務付け、女性被害者の職を保護してください。
5) 交通安全キャンペーンと同等の重要な規模で、性的ハラスメント防止の全国キャンペーンを実施してください。そのためにあなた自身が大テレビ局のニュースに出演して、国家首班として、私たちの国には暴力がまかり通る場所がないということを断言してください。

これは作戦計画のように見えますか? これはそのうちの一部です。
大統領殿、私たちは深刻な危機に直面しているのです。
あなたは私たちの側につきますか?

(↓)国営テレビFRANCE 2の11月5日のニュースで報じられた「1 femme sur 2」

2017年10月27日金曜日

She don't lie she don't lie she don't lie..

70歳になったばかり、芸歴50年、24枚目のアルバム『われらが愛に(A nos amours)』のプロモーション中のジュリアン・クレールが、週刊誌パリ・マッチ(2017年10月26日)のインタヴューで、80年代の「若き日のあやまち」を告白。どうってこたぁねえっすよ。みんな若かったんだから。

パリ・マッチ「回顧的に見てみれば、ロダ=ジルとの決別は良い決定だったのではないですか? 1978年に始まる10年間は、あなたにとって最大の商業的成功をもたらした時期だったのですから…」

JC「僕はいつでも善良な一兵卒さ。ベルトラン・ド・レベー(註:ジャーマネ。現在は欧州最大のアーチストエージェント会社代表)の役目というのはこういう決定を下すことだった。僕の芸歴においてこの方面に関しては僕は彼に全面の信頼を置いていた。でもそれは僕がナイーヴな若者だったからかもしれない。何れにしてもこの時期に一つの大きな前進があったことは確かさ、とりわけヴァージンと契約したことはね。でも僕はこの時期もデビュー当時と同じように物事に無自覚に過ごしていた。」
パリ・マッチ「でも、あなたはそうやって “FEMMES… JE VOUS AIME”を歌って、フランスでも最もセクシーな男になったのじゃないですか…」
JC「人が言うには僕はその頃気難しかったんだそうだ。ありうるね。でも僕はその成功というのは僕の努力の結実だと思っていた。そして当時僕を取り巻くスタッフに僕は固くガードされていた。例えばその”FEMMES… JE VOUS AIME"という歌だけど、最初僕には歌うのが難しかった。初めてミウミウに歌って聞かせた時、彼女は「ノン!それは “FEMME JE T’AIME”じゃないとおかしい」と言った(註:複数の女性FEMMES をVOUSとして愛するのではなく、単数の女性FEMMEをTUとして愛するのでなければおかしい、と言ったのだよ)。人々の受け止め方は、僕に関しては50年間すべて良好という印象があるだろう。ところがね、客が良く入らなかったツアーというのもままあったんだよ。奇妙なことにそのことは誰も知らないんだね。
パリ・マッチ「80年代半ば、あなたは声の状態をキープするためという理由でコカインにまで手を延ばしました…」
JC「そしてそれは全く良くなかった! それは喉の奥のところで溶けてしまって、僕の耳鼻咽喉系のトラブルには全く効き目がなかった。その頃僕はあまりトレーニングをしない天才スポーツ選手のようだった。だからコカインなしには歌うことができなかった。だけどそこには快楽など全然なくて、早々にコカインからは卒業したよ。」
(↓)「ファ〜ム、ジュヴゼ〜〜ム」


(↓)2017年アルバム(カロジェロのプロデュース)"A NOS AMOURS"から 「ジュ・テーム・エトセテラ」



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2017年10月28日追記


リジアン紙10月25日の第一面。ハーヴェイ・ワインスタイン事件を皮切りに、フランスでも一挙に噴出してきたあらゆる分野でのセクハラ・性暴力告発の大ムーヴメント。これに男性たちも支援・コミットする、という有名人男性16人の声明。
写真最上段・左から二人目にジュリアン・クレール。JC様の声明を以下に訳します。

ジュリアン・クレール、歌手、70歳

われわれすべてに責任がある。

不幸にしてセクハラ加害者はどの社会環境にも、どこにでもいる。しかし幸いにして僕はこれまでその場に居合わせたことは一度もなかった。僕が気がかりなのは、それに対して自分を防御することができない女性たちのことである。仕事場で好色な上司にセクハラ被害に遭う女性たちは自分の職を失うことを恐れている。われわれはみんなその各々の立場において責任があるが、それは極めてデリケートな問題であり、僕は知りもしないのに教訓を垂れたり、断罪したりするつもりもない。”FEMMES JE VOUS AIME”の歌詞を書いたジャン=ルー・ダバディーと共に、僕たちは女性たちを尊重する男たちである。僕は常にフェミニストの男であることを自認しているし、僕は常にフェミニストたちと共に生きてきた。ミウミウと共に僕は、婦女暴行犯罪の裁判を多く闘いその関連法を改善してきた弁護士ジゼル・アリミと密接な関係にあったし、そのことが僕に深い影響を与えた。愛は分かち合うものでなければならないし、このことに議論の余地がないのだ。
 L’amour doit être partagé, ça ne se discute pas. 「愛は分かち合うものでなければならないし、このことに議論の余地はないのだ。」
ありがたいお言葉です。


2017年10月23日月曜日

今朝のフランス語:indéboulonnable

"Au Japon,
l'indéboulonnable
Shinzo Abe"


  2017年10月23日、リベラシオン紙駐日記者アルノー・ヴォールランの記事の見出しです。"indéboulonnable(アンデブーロナブル)”は見慣れない形容詞ですが、単語を構成する要(かなめ)は "boulon(ブーロン)"で、これはボルト(雄ねじ)ナット(雌ねじ)のボルトを意味します。"boulonner (ブーロネ)"という動詞はボルトねじを締めるということで、逆にボルトねじを緩めてナットから抜いてしまう意味の動詞は "déboulonner(デブーロネ)"です。接尾詞 " - able"は「〜が可能な、〜できる」、そして頭についている接頭詞 " in - "は続く語の意味を否定する働きをします。"in - déboulonn - able"はすなわち、ボルトが固く締まっていてレンチでいくら頑張って緩めようとしてもビクともしない、そういう状態、転じて(人を)地位から引きずり下ろすことができない、(人の)評判をくつがえすことができない、という意味で使われます。
 これは10月22日の衆院選挙での自民党大勝を受けての論評ですが、記事の第1行はこうです。
C'est le paradoxe Abe : impopulaire mais élu et réélu sans discontinuer depuis cinq ans.
安倍のパラドックス、それは不人気であるのに5年間途切れることなく当選を繰り返していることである。

 (中略)この「投票所の王様」の新たな成功は全面的なものだったがそれは「ピュロスの勝利」にはならなかった。しかしながら世論調査からは安倍と国民の間の不信度の増大が懸念された。賄賂と身内偏重の2つのスキャンダル、国民に批判された安保法制の強行採決、そして日増しに驕りたかぶっていく国会での態度は、この日本保守政治のリーダーに正当性を与えるものではなかった。しかし彼の資質はもう傷がついた。2006年から2007年にかけて初めて政府首班となって完全に失敗した過去がある、この日本政界の「カムバック・キッド」は今日勝利的であるが、脆弱である。この列島の首相として連続5年、まもなく新記録になるが、安倍晋三は2020年のオリンピックまでもつだろうか?(後略)

リベラシオン紙ははっきりとそのカラーを出している左側の新聞なので、そういう読みなんでしょう。ところで一つこの記事で出てくる「ピュロスの勝利」という表現、初めて知りました。紀元前3世紀の古代ギリシャの王で、戦術の天才と言われたピュロスの故事なんですが、戦うたびに大損害を出して自軍兵の数を減らしていくことから、「損害が大きく、得るものが少ない、つまり割に合わない勝利」のことを「ピュロスの勝利」と言うようになったのだそう(日本語版ウィキペディア)。こんな高尚な喩えを出して、安倍の勝利を語ることなんかないのに。

↓(アベ・モワ!)


↓(アベ・モワ!)


2017年10月13日金曜日

黙っとらんベルトラン

今週号のレ・ザンロキュプティーブル誌表紙、ベルトラン・カンタ。2003年夏のマリー・トランティニャン殺害事件の被告として2004年過失致死罪で8年禁固刑。2007年仮出所、2011年刑務終了。2010年ノワール・デジール解散。2013年、ベーシストのパスカル・アンベールと「デトロワ Détroit」結成、本格的に音楽活動再開。この時、レ・ザンロキュプティーブル誌(2013年10月23日号)は表紙にカンタの大アップ顔写真を載せ、事件以来10年以上沈黙していたカンタのロングインタヴューを掲載した。
 私はその記事とデトロワのアルバムについて、ラティーナ誌2014年2月号に「生き返るのではなく生き直すための音楽 ー ベルトラン・カンタの帰還」という記事を書いた。私はその際に(実は本当に予測していたのけれど)抗議や非難のメールや投書は一切受け取っていない。しかしフランスではそんなことはタダで済むわけはなく、レ・ザンロック誌は多くのフェミニスト団体の轟々たる抗議だけでなく、文化人や音楽人たちの非難でメディアは沸き立ち、レ・ザンロック誌ボイコットの運動も起こった。にも関わらず、デトロワのデビューアルバムは20万枚を売り(私も絶賛した)、続く全国ツアーも(ノワール・デジールの楽曲を演奏したこともあって)大成功だった。しかしコンサート会場の外では常に抗議団体のデモがあったという。
 あれから3年、さめるわけのないほとぼり。デトロワを解消して(とは言っても、相方のパスカル・アンベールを制作の重要な協力者として残しておいて)、ソロ(ベルトラン・カンタ)の名義でアルバムを制作、12月にBarclay(ノワール・デジールからずっとカンタのレコード会社。仏ユニバーサル傘下)から発売するのだそう。レ・ザンロキュプティーブル誌は4年前と同じようにベルトラン・カンタを表紙にし、JD・ボーヴァレによるロングインタヴュー入り6ページ記事を掲載した。たちまちSNS上では男女均等担当大臣のマルレーヌ・シアパが発禁回収要求を出すなど、フェミニスト団体を中心に非難轟々である。掲載号発売の10月11日から今これを書いている10月13日までに、抗議・非難の声を上げた著名人たち : ローランス・ロシニョール(政治家、元・家族問題担当大臣)、ラファエル・エントーヴェン(哲学者)、パスカル・プロー(スポーツ解説者)、マチュー・カソヴィッツ(映画人)、アリソン・パラディ(女優)、ヴァネッサ・パラディ(女優)... その他、フランス国営ラジオFRANCE CULTUREによる「ロマン主義的ヒーローに見立てられたベルトラン・カンタの背景にあるフランスの男性優位主義プレスの伝統」という長い論考も興味深い(読むまでもないと思う)。
 残虐な殺人犯の「プロモーション」に手を貸すレ・ザンロキュプティーブル誌のエディトリアル方針への批判、殺人犯をロックヒーローとして復活させることへの嫌悪感、どうして控えめに活動することができないのか。3年前と同じように、私はこのソロアルバムにおおいに興味を持っているのだが、私は再び大きな記事を書くことはないと思う。
 2017年12月発売予定、ベルトラン・カンタ名義の初ソロアルバム『アモール・ファティ(Amor Fati 己が運命を愛せよ。フリードリッヒ・ニーチェの言葉)』のプロモーション、JDボーヴァレによるロングインタヴュー入り6ページ記事の一部。
レ・ザンロック:きみ自身の名前できみの新アルバムを出すということに躊躇はなかったか?
ベルトラン・カンタ「もちろんあったさ。俺の名前で、ということには執着はなかった。これも共同作業での制作だからね。アルバムのタイトルは "AMOR FATI"と言い、ニーチェの「運命愛」からコンセプトをいただいた。意味は「汝の運命を愛し、それと共に生きよ」ということ。アモール・ファティは覚醒して受容することであり、諦念による忍従ではない。これは俺にとって知性を超えたところにある、強靭な生命の秘密だった。それは俺が後悔や呵責なしに生きているということではない。アモール・ファティ、それは俺がとった行為がもたらした結果をすべて引き受けることだ。俺は下された審判と刑罰を受容するということにおいては常に明白な態度だったし、それは今も変わらない。全知全霊でもって俺はそのすべてを保って続けている。俺は忘れることができない、だが俺は変わることができる...」

 この最後の1行「 Je ne peux pas oublier, mais je peux évoluer (俺は忘れることができない、だが俺は変わることができる)」という意味は何か。 アーチストとして自分の名で音楽をクリエートしていく上で、それが悲劇のヒーローとして自分を変容させることにならないか。またファンが聞きたい音楽はまさにそれではないか。どうやって乗り越えるのか。

(↓)ベルトラン・カンタの初ソロアルバム 『アモール・ファティ』(2017年12月発売)からの初シングルで、イギリスのブレクジットを嘆く歌「アングルテール」





2017年10月17日追記


先週10月11日号のレ・ザンロキュプティーブル誌のベルトラン・カンタの表紙をめぐって、論争(と言うよりはレ・ザンロキュプティーブルへの抗議・非難)は終わっておらず、フランスを代表する女性誌ELLEが、今週号の巻頭論説でマリー・トランティニャンの顔アップ写真を背景に、「マリーの名において」と題するレ・ザンロキュプティーブルとベルトラン・カンタを非難する声明を。以下全文訳します。

2003年8月1日、マリー・トランティニャンはベルトラン・カンタの殴打によって亡くなった。今日、彼女は一つの象徴である。このとりわけユニークな魅力を持った彼女の顔は、男の暴力によるすべての女性被害者たちの顔になった。昨年だけで123人に上る伴侶に殺された名もなき女性たちの顔である。

フランスで1日平均で33人に上る強姦被害を告発する無名の女性たちの顔である。2016年に216000件のハラスメントと暴行を告訴した女性たちの顔である。これらの女性たちには、ハーヴェイ・ワインスタインを告訴した女優たちのような、デヴィッド・ハミルトンを告訴したフラヴィー・フラマンのような勇気が必要だったのである。

マリー・トランティニャン、私たちはあなたのことを忘れない。ベルトラン・カンタのおぞましいメディア露出(「レ・ザンロキュプティーブル誌」10月11日号)などではあなたの炎は消えるわけがないのだ。

「ここに光があるためには向こうには影がなければならない」(A light here required a shadow there)とヴァージニア・ウルフは書いた(1927年『灯台へ』)。あなたはまさにその光であり同時に影なのだ。あなたは、いつの日かただただ信じがたいこの暴力がこの世から消えるという希望であり、同時にその苦しみなのだから。

2017年10月7日土曜日

トレダノ&ナカッシュの「式場狂時代」

"Le Sens de la Fête"
『祝祭のセンス』

2017年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:ジャン=ピエール・バクリ、ジル・ルルーシュ、ジャン=ポール・ルーヴ、エレーヌ・ヴァンサン
音楽:アヴィシャイ・コーエン
フランス公開:2017年10月4日

 の映画の主人公マックス(演ジャン=ピエール・バクリ)の元々の職業はトレットゥール(traiteur = 仕出し屋、総菜屋)だそう。それが結婚披露パーティーのバンケット一切(会場選び+デコレーション+飲み物&料理+ケーキカット+音楽&ダンスアトラクション+花火...) をパッケージングして売っている。日本の仕出し屋祝言みたいなものでしょう。この道30年。しかし世の傾向は結婚などという旧時代の制度に背を向ける若者たちが急増していて、たとえ書類だけはちゃんとしておこうかと役所に行く者たちでも「ナシ婚」で済ませてしまう。新郎新婦とその両両親が泣きっぱなしの「感涙ドラマチック結婚式」など誰も望まなくなってしまった。映画の冒頭は、エッフェル搭とセーヌ川が目の前に見えるガラス張りのバンケットルームでの、未来の新郎新婦とマックスの披露宴パッケージの商談シーンで、若い男女は「メニューから前菜を抜けばいくらになる?」「会場装飾の盛花の予算の最低限は?」と値切ることばかり。しまいにマックスが切れて「飾りなし、テーブルサービスなし、飲み物食べ物各自持ち込みのパーティーにしますか!?」と。
 演ずるジャン=ピエール・バクリは多くの映画でこういうイライラ持ちの不平屋(フランス語では grognon = グロニョン)というキャラクターに決まっていて、こういう役をやらせたらバクリに勝る者はない。トレダノ&ナカッシュはその天下一の不平屋俳優にその最良の役どころをプレゼントしたようで、このことを2017年10月4日号のテレラマ誌(サミュエル・ドゥエール)は
Jean-Pierre Bacri compose le plus beau grognon de sa longue carrière de grognon.(ジャン=ピエール・バクリは彼の長い不平屋芸歴において最も見事な不平屋像を作り上げている)
と評している。グロニョン人生、ここに極まれり。
 さて本編の方は、実際の本番結婚パーティーの当日の準備から翌日の片付けまでの24時間のストーリー。会場として借りた場所は17世紀に建立されたという由緒正しいシャトーで、見事な大庭園もあり。マックスの会社のスタッフ十数人(料理人、給仕人、洗い場人...)に加えて、記念写真屋のギー(演ジャン=ポール・ルーヴ)とその見習い、音楽アトラクションDJのジェームス(演ジル・ルルーシュ)とそのダンサー+バンドといった人々がこの祝宴の裏方であるが、これらのマックスの「手足」たちがまったく協調性がないため、逆にマックスの手足を引っ張ってしまうという大筋。古典的コミック映画の骨組みですが。トレダノ&ナカッシュの映画歴からすると、子供たちのヴァカンス村を舞台に子の扱い方など全く知らない素人インストラクターたちが数々のドジの末に3週間で子供たちと夢の共同体を築くという『われらが幸福の日々(Nos jours heureux)』(2005年。ジャン=ポール・ルーヴ主演)と構造的に似ている。12年前の映画でヴァンサン(J=P・ルーヴ演ずるヴァカンス村の責任者)のインストラクターたちのドジの数々は、最新映画でのマックスの手下たちのドジの数々と同じように、一つ一つが人物キャラを強烈に引き出す珠玉の小コントになっていて、映画がカラフルな絵画パレットのような多人数人間模様になっている。その丁寧さは準主役クラスが十数人いるようなお誂えギャグの連続で、チームワークの賜物のようなCréation collective 的印象を深くする。 そう、駄目チームが主題の映画で、チームの素晴らしさがわかるという二重構造なんですな。
 この新作でとりわけ目を引く準主役の一人が、給仕人不足で当日急に借り出された現金アルバイトの失業者サミー(演アルバン・イヴァノフ)。テーブルサービスのことはもちろん、料理のことも何も知らないのだが、無知のほどが芸になるシーン多数。(↓そのいくつかをまとめた編集断片)

 
 それからマックスの下で現場の指揮を執る副支配人アデル(演エイエ・アイダラ)は、トレダノ&ナカッシュ映画には必ず出てくる切れると猛烈に汚い言葉で怒鳴り散らす女性(前作『サンバ』ではシャルロット・ゲンズブールがその役をした)で、キャラも物腰も「女性版オマール・スィ」。この女優はゴダール『ゴダールの社会主義』(2010年)にも出演していたそう。今後良い役をもらってオマール・スィのように羽ばたいてほしいものです。

 そして前作『サンバ』ではこの人一人のおかげでどれだけ救われたか。エチエンヌ・シャティリエーズ映画『人生は長く静かな河』(1989年)以来永遠のブルジョワ婦人女優エレーヌ・ヴァンサンが、 シャトーで結婚披露宴を開くブルジョワ新郎ピエール(演バンジャマン・ラヴェルニュ)の母親役で登場。はまり過ぎ。華やかで息子自慢ででしゃばりで。おまけに思わぬダークサイドもある。もう姿を見ているだけで幸せになりますね。
 こういう優れた脇役陣の優れたギャグに支えられて、ジル・ルルーシュ、ジャン=ポール・ルーヴ、ジャン=ピエール・バクリの3本柱が活きる。この3者に共通しているのは、3種の斜陽産業で飯を喰っていること。ジェームス(演ジル・ルルーシュ)は21世紀型DJとは程遠い音楽アトラクション屋で、カラオケやディスコダンスの他に客たちのリクエスト(この映画ではジジババたちが、レオ・フェレやらブラッサンスやらを注文)にも応えて演奏しなければならない宴会エンターテイナー。憂さばらしに本番前リハーサルにエロス・ラマツォッティの"Se bastasse una canzone"(1990年フランスでも大ヒットした。わしも大好き)を朗々と歌ってしまう(ジル・ルルーシュ、本当にうまいっ!)のだが、それを見ていた新郎に「イタリア語に聞こえない」とけなされる。この自分こそがスターと目立ちたがるMCジェームスに、新郎ピエールは「シックで地味でエレガント」な進行を厳命し、絶対に絶対に絶対にやってはいけないこととして、招待客全員によるテーブルナプキンのぐるぐる回し(まあ当地では結婚パーティーの最大の盛り上がりの祝福喝采の定番ですけど)だけは絶対にやめてくれと確約させます。映画観客はすでにこの時点で、これは絶対にある、と予測できる。
 意固地に銀塩写真カメラを使い続ける記念写真屋ギーは最も斜陽職業に属する男で、その職業意識が極度のスマホアレルギーを生じさせる。その超アナログ人間が、見習い君からスマホにはGPSによる「出会い」アプリケーションがあり、今この場で理想のお相手を特定できると教わり、一夜にしてスマホ依存症に変身してしまう(その特定されたお相手がエレーヌ・ヴァンサンなのだけど)。(↓写真屋ギー版の予告編)

 ジャン=ポール・ルーヴは記念すべきトレダノ&ナカッシュの第一回監督作品"Je préfère qu'on reste amis..."(2005年)と第二回作品"Nos jours heureux"(2006年)の主演男優であり、難しいこともいろいろ出来る役者だったのに、今やオトボケのキャラクターが定着しているようだ。日本ではヤン・モアックスの映画『ポディウム(俺がスターだ)』(2003年)での偽ポルナレフ役だけでちょっと知名度がある。
 さて冒頭で紹介したグロニョンの名優ジャン=ピエール・バクリであるが、その役マックスは非常に複雑な状況にある。まず経済的にこの立ち行かなない斜陽産業である「結婚式屋」をもはや手放してしまいたいというルーザー感。次に長い間うまくいっていない妻との関係(+ずいぶん前から社内スタッフの女と愛人関係にある)。社で非合法に働かせている現金払いの日雇いや不法滞在移民(これもトレダノ&ナカッシュ映画には毎回必ず出てくる社会問題系のお笑いネタ)のことで役所にビクビクしている。もう何かあったら、これを最後にこの商売から足を洗おうと思っているのだが、映画の進行はそんな生っちょろいことではない大カタストロフによる(イライラ持ちで高血圧持ちのマックスはここでショック死しなければならない程度の)披露宴パーティー大惨事を用意しているのだが...。
 小技ではあるが、携帯メール(SMS)を使いこなせないマックスが、送ってしまうメールがことごとく「自動文書コレクター機能」のせいで、伝えたい意図と反対の意味になったり、卑猥語になったり、というギャグをまとめた予告編(↓)。仏語わかる人には通るだろうが、日本公開時にこの部分の日本語字幕どうするんだろう?(解説すると本当につまらないのだけど、最後の予期せぬ男の訪問者とマックスの会話:男「あなた私のSMS受け取ったでしょう?」/ マックス「それにはちゃんとSMSで返事してますよ」 / 男「あなたはこう書いてます "着いたらすぐにコールしてください。すぐにあなたをペロペロしてあげますから (je viendrai vous lécher)"と。」 ー これは je viendrai vous chercher (あなたに会いに行きますから)をSMS自動コレクターが勝手に修正したという話)

 
 その他、細部にわたってギャグセンスが散りばめられていて、『サンバ』や『最強のふたり』よりも館内の笑いは数倍多い。そしてトレダノ&ナカッシュ映画にはつきものの、みんながしあわせになれるダンスシーンは、夜も老けたディスコ・タイムのボーイズ・タウン・ギャングの「君の瞳に恋してる」(これは1982年のヒット曲。ジジババたちも大喜び)の時、そして件の大カタストロフ/大惨事の後、シャトーの別室でタムール人(マックスに洗い場労働者として雇われた不法滞在移民)たちが演奏する「ウェディング・ソング」( アヴィシャイ・コーエン)。この二つのシーンは本当にしあわせになれる。この映画で音楽担当として起用されたイスラエルのジャズ・ベーシスト(同名のトランペッターと混同するなかれ、こちらはベーシスト)、アヴィシャイ・コーエンの曲では、この「ウェディング・ソング」と映画のサブテーマ曲のように何度か流れる「セヴンシーズ」がとても印象的。それと、新郎ピエール自らが演じる気球を使ったアクロバットショー(ここで大カタストロフは起こるのだが、十分にしあわせになれるシーン)で流れるカスカドールの「ミーニング(コーラル・ヴァージョン)」も素敵だ。 

 そして最後にすべてを救うのは「式場屋だましい」というべきか、イヴェントのプロたちのセンス、すなわち "Le sens de la fête"なのである、ということなのかな? こういう収拾のつけ方ではないように思えるけど。
 マックスのイライラと高血圧がすべて解消してしまう翌朝の片付け、スタッフの解散シーン。フェデリコ・フェリーニが映画の都チネチッタに捧げた映画『インテルビスタ』(1987年)の最後のように、また次の映画で会おう、ではなくて、また次の結婚式で会おうと言って別れていく男たち女たち。心憎いラストである。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)予告編何種類かあるけど、これが一番好き。

2017年10月3日火曜日

ガバリと寒い海がある

イニアテュス[エ・ポック]
Ignatus [e.pok]

 ニアテュス・ジェローム・ルッソーの6枚目のアルバム。ニコラ・ロッソン(電子音楽)、エルヴェ・ル・ドルロ(ギター)、ジェローム・クレマン(ヴィデオ)との共同作業で2015年から始めた「エ・ポック(e.pok)」と名付けられたプロジェクトの第1回作品(第2回があるとは限らないが)。このプロジェクトはイニアテュスによって「実験音楽とシャンソンとヴィデオアートの境界線上にあるパフォーマンス」と定義されている。高踏ゲージツのように思われようが、恐れることはない。イニアテュスですから。
 この頃のイニアテュスについてちょっと触れておくと、こういう前衛っぽい電子音楽とアーティなヴィデオにどっぷり浸かりながら、2015年10月1日からツイッター上で俳句を1日一句のペースで発表している。どんな俳句かと言うと

La vieille veste de mon père 父の古上着
Je la met 着て感じ入る    
Et je le sens jeune 若返り


L’escalier est si large 幅広階段
C’est pour les chutes 不意の転落
Inespérées 仕組められ


Au marché aux puces ノミの市
Il y a trop de douleurs 物どもの痛み
Dans ces choses あまりあり

l est très sage おとなしき子の
l’enfant à la tablette タブレット画面
l’écran préserve qui ? 誰まもる?

Ce livre m’ennuie 本に倦むも
mais ne pas le terminer 読破せざるは
serait comme un échec 挫折なり

J’ai saisi ma chance  運来たり
et je l’ai attachée pour qu’elle ne s’échappe pas… 逃さず掴めど
Mais elle a changé 運変じ

Courir après l’amour 追う恋は
comme après le métro  メトロに似たり
ou attendre le suivant ? 次を待つ?

La dernière feuille de l’arbre 最後のひと葉
garde la mémoire 輝きし夏
d’un été radieux 留めおき

Croquer dans la pomme 林檎かじり
pour se relier encore un peu 大地と繋がる
au sol 少しだけ

 どうです。なかなか。われわれに親しい東洋短詩の真髄を射当てているような、心象情緒の凝縮かげんがお見事。「飯田橋冬です」(レ・ゾブジェ1991年アルバム『ラ・ノルマリテ La Normalité』9曲め"Watashi wa")の時から、ジェロームは日本風「もののあはれ」を日本語でも表現できていたのだから。若くして竹林の詩人のような渋味ある洞察が、その歌詞にも随所に。それがソロアーチストになってからは、バスター・キートン風な不条理ユーモアの方向に行っちゃって、私と仲間たち(あの当時はYTTという会社がオーベルカンフ通りにあって、ジェロームはしょっちゅう遊びに来ていた)はそれが大好きで、アルバムが発表されるたびに1枚1枚力のかぎりに応援していたのだった。"L'Air est différent(日本語題『異空』)”(1997年)、”Le Physique(日本語題『イニアテュスの身体論』)"(2000年)、"Cœur de bœuf dans un corps de nouille(日本語題『ヤワな体に牛の心』)"(2004年)、"Je remercie le hasard qui(日本語題『ありがたき偶然』)(2009年)、 私は歌詞対訳をしたり、ライナーを書いたり、力いっぱいの布教活動をしていたのだった。力はなかなか及びませんでしたけど。
 2017年9月9日にリリースされた新アルバムは大きなレコード会社とも、大きなプロモーションとも無縁で、CDはFnacやAmazon.frでも流通していない。LA SOUTERRAINE という仏語表現の独立系アーチストたちの流通互助団体がネット販売している(このLA SOUTERRAINEの代表のバンジャマン・カシェラをOVNI「しょっぱい音符」2015年10月15日号でインタビューしている)。だけどこんな流通だから、誰の目にも耳にも入らないのではないか、と心配されたが、なんとテレラマ誌9月18日号が「ffff」で大絶賛したのです。筆者フランソワ・ゴランは「イニアテュスは奇人(original)であり、この男のそばを通りながらいつまでもそっぽを向くわけにはいかない」と、知らない人は緊急に発見せよとけしかけています。私だってこのテレラマ評を読んで、あわててこのCD取り寄せたんです。ジェロームから手製の俳句スティッカー4枚と手書きメッセージ(皮肉と病気見舞い)付きでCDが届いたのが9月末。
 届いたアルバムは既にYouTubeに載っていた[e.pok]のティーザー(↓)

 よりもずっとソフトな前衛で、3次元で聞こえる(らしい。私はいいオーディオ装置を持っていないのでよくわからない)機械音・電子音・サンプル音もユーグ・ル・バルスのような茶目っ気が勝ってる印象が強い。そして何と言っても詞が風通しが良くて、多弁・饒舌を排除したスリムでクラシカルで象徴的なパロール。歌っている曲もあれば、朗読に近い語りの曲もあるが、後者の場合は歌わずとも音律が既に音楽であるような。これは上に例を挙げたような、ここ数年の俳句習作で獲得した詩情なのかもしれません。表現が不条理や笑いではなくなっていて、風情や境地のようなものが枝葉の少ないメタファーで浮かび上がっていくような。例えばこの2曲めの「ベーリング海峡」という歌です。

おまえは狼の平原を横断したあと
最終の村で一晩過ごさなければならない
アザラシのラードを忘れるな
それから村長の土産にウイスキーとたばこも
力を蓄え、たくさん食べるんだ
手を保護することを忘れるな
林の中を通らされることになるぞ
そのあとは振り向いてはいけない

俺はベーリング海峡の向かう側でおまえを待っている
焼けるような氷の端、諦めない感情

俺は小屋の中に身を寄せ、同じような時間を繰り返す
本を読み、料理をし、薪を割る
冬越えの蓄えは十分にある
寒さで俺とおまえの大陸がくっついている限りは

俺はベーリング海峡の向こう側でおまえを待っている
氷の中に俺には見える、俺とおまえの歩みが接するのが

おまえのアラスカ、俺のシベリア
すべては俺たちを対立させ、すべては俺たちを近寄せる
同じ雪、同じ無限
だけど感じ方は違う
白く冷たくまっすぐな1本の道
どの面も凍りついた大地
同じ凝結への不安
同じ暖化への恐怖

俺はベーリング海峡の向こう側でおまえを待っている
急いで、寒くなるから、俺はおまえに告げることがある
 ベーリング海峡はあらゆる点においてボーダー(境界)です。旧大陸( シベリア)と新大陸(アラスカ)、20世紀的には共産主義(ソ連)と資本主義(米国)、昨日と明日(日付変更線)、海洋的には太平洋と北極海を分かつ海峡です。イニアテュスは1984年、24歳の時に弟と二人でシベリア鉄道に乗ってソ連・中国さらに極東・韓国から日本までの長旅を挙行していて、荒涼たるツンドラの雪原の記憶がこのような歌を書かせているのだろうと思います。1987年、米国の女性遠泳選手リン・コックスがベーリング海峡横断に成功した時、「米ソ雪解けの象徴」と祝福されたそうですが、今や深刻な地球温暖化による雪解け&氷解けでこの海峡の幅は拡がり、両大陸を遠ざけているわけです。21世紀的寂寥を思わずにはいられない歌です。
 続く3曲めがこのアルバムで最も俳句的な歌でタイトルもそれ風な「朝を読む(Lire Le Matin)」 というもの。
耳の中で樹液の音、ようやく私の心を鎮める
古い本の森の中、わずかな休息
私の根が育まれる大地の力

朝を読む

この10月の家で、肘掛椅子に座し
私は心地よい、リンゴの木もすぐそばに
そして時は木々の下に横たわる

朝を読む

孤独は何世紀もの崖っぷちの生の数々から成り
ここでは軽やかだ

朝を読む
私たちにちょっとだけ親しい、水墨画や日本庭園や華道の写真集を見るような落ち着いた3分間。こういう音楽を聴いて、やっと、20年かかってやっと、イニアテュスは私が応援していたようなオトボケ系シンガーソングライターではなく、風雅の詩人であったということに気がついたのです。遅くて悪かったけれど、そのために私もイニアテュスも歳とらねばならなかったのです。

<<< トラックリスト >>>
1. Epok
2. Le détroit de Béring
3. Lire le matin
4. Un travail
5. Corps et bien
6. Florida
7. Dans l'eau
8. Oiseau
9. Dans la barbe de dieu

LP/CD Ignatub Ign0013
フランスでのリリース:2017年10月27日(配給 Differ-Ant)

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)「ベーリング海峡」(ヴィデオ:ジェローム・クレマン)


(↓)「エ・ポック」(ヴィデオ/アニメーション:デルフィーヌ・ビュリュス)




2017年9月29日金曜日

エリック・ロメールは死んだ

"Un beau soleil intérieur"
『内なる美しき太陽』

2017年フランス映画
監督:クレール・ドニ
主演:ジュリエット・ビノッシュ、グザヴィエ・ボーヴォワ、ニコラ・デュヴォーシェル
フランス公開:2017年9月27日

 私にとってエリック・ロメール映画のほとんどは、理想の愛を求める理屈ばかりこねて、そのかけらがいろんなところに見え隠れするのに、絶対にそれに到達することができず、どうしてそうなるのかわからずに泣いてばかりいる女(or 男)のストーリーです。永遠でしょ? 普遍的でしょ? なぜなら私たちは一人一人みんなそうなのです。この理屈の通らない壁は自分ではなく絶対的に相手(他者、ひいてはこの世)にあるのです。自分は少しも悪くないし、これほど努力してるのに、という被害者・受難者のセンチメント。だから一連のロメール映画は、主人公への感情移入のあまり(日本の70年代任侠映画の深夜映画館のように)観る者に「そうだ!そうだ!」と声が出てしまうほどの共感を生むのです。そう言えばこの映画の中で、画家イザベル(演ジュリエット・ビノッシュ)の作品を扱うアートギャラリーの女主人マクシム(演ジョジアーヌ・バラスコ)の事務所の壁に、かなり目立つように東映映画『昭和残侠伝 - 血染めの唐獅子』(1967年マキノ雅弘監督、高倉健主演)のポスター(→)が貼ってあります。何なんでしょうか。
 そしてエリック・ロメールは死んだ(2010年、89歳)。
 クレール・ドニ監督、クリスティーヌ・アンゴ脚本、ジュリエット・ビノッシュ主演の映画『内なる美しき太陽』は一言で表せば "トラッシュ版ロメール映画”だと思います。そのトラッシュ加減は映画の冒頭から明らかで、イザベルとその愛人の一人で銀行マンのヴァンサン(演グザヴィエ・ボーヴォワ)が性交をしているのですが、男が遅漏クンで精一杯頑張ってるのになかなか果てない、女は突かれながら白けていて天井ばかり見ている、たまらず「早くイっちゃって」と女が声をかけると、男が「前の男の時はそうじゃなかったんだろ」と飛んてもない余計なことを口走ってしまう。イザベルは怒り爆発しヴァンサンを突き放し、泣いてしまいます。滑稽ですけど悲しいですよね。そういう映画的でも文学的でもない「生身っぽい」エピソードに溢れた映画なのです。
 イザベルは長い間連れ添い一児(娘)までもうけた伴侶フランソワ(演ローラン・グレヴィル)と破局し、二人で購入した画家アトリエ付きのアパルトマンに娘と二人で住んでいます。二人で買ったものなので、カギはフランソワも持っていて、よりが戻りそうになったら帰って来る可能性もわずかに残しているのです(こういうところ、ロメールっぽいと思いますよ)。ある種大きな愛の終り。想定としては50歳ほどからの再出発です。クレール・ドニのカメラアイは十分に残酷で、裸のジュリエット・ビノッシュの年輪(別の言い方ではタルミやシワ)をかなり強調します。おまけにこのイザベルは年齢と取り巻く社会(パリ左岸系アート業界)とおよそ不釣り合いな「若い娘の街着」を身につけ、歩きづらく着脱に死ぬほど苦労するヒールつきブーツを履いています。滑稽ですけど悲しいですよね。
 件の銀行マンのヴァンサンは、高慢で金ピカでやり手で「妻を愛している」と言うお都合主義者で、何一つ良いところのない卑劣漢なのですが、イザベルはそんな男でも「電話する」と約束した日に電話が来ないとイライラし、会えない寂しさに涙してしまう。相手にしなければいいのに、「駒のひとつ」として残しておくのです。
 次に現れるのがイザベルよりは相当若い舞台俳優(演ニコラ・デュヴォーシェル)で、才能ある演劇人ながら未成熟で、夢もあれば不安もある。会えば(例えば、俺はもう妻とうまく行かない、といった話も含めて)長々と自分のことしか語らない男で、イザベルが明らさまに「もういい加減にしてよ」という顔をしても気づきません。何も語らず、この若く優しい肉体に抱擁されたら、どれほど幸せかと思うのですが、えてして男はそういう風にできてません。
 毎回魚屋で出会う男マチュー(演フィリップ・カトリーヌ。居てるだけで可笑しい)はぶよぶよの心優しいブルジョワで 、アートに興味があって田舎に城館を持っているという武器だけで会う度にイザベルを誘惑するのですが、イザベルは全く興味を示しません。このカトリーヌはロメール映画におけるファブリス・ルッキーニの役を想わせるものがあります。
 そしてアートギャラリー関係者たちと入ったナイトクラブで、業界話に辟易したイザベルが一人でダンスフロアーで踊っていると、めちゃくちゃダンスの上手い若者シルヴァン(演ポール・ブラン)に腕を取られ、ダンスの甘い陶酔で誘惑されて恋仲になります。若く、下町(漠然とパリ18区)生活者で、教養も金もない ー と友人でギャラリー業界者のファブリス(演ブルーノ・ポダリデス)はイザベルに「こんな不釣り合いな関係は失敗するに決まっている。俺たちの世界(左岸的ブルジョワ・ボエーム世界)にとどまっていろ」と忠告します。あれま、これはクリスティーヌ・アンゴの小説『愛人市場』(2008年。ラップ歌手ドック・ジネコとの関係を描いたオートフィクション)で出てくる「18区 vs サン・ジェルマン・デ・プレ」対立構図の援用ですね。シナリオを書いている本人なので仕方ありませんが、登場人物たちはみんなアンゴの小説のどこかでお目にかかったような人たちばかり。しかしてシルヴァンとはファブリスの忠告通り「身分の違い」を理由に別れてしまうのですよ。滑稽を通り越して呆れてしまいますけど。
 そんな風に何人とも「理想の愛」を求めて関係するのですが、男たちはどこか決定的な何かが欠落していて、イザベルは泣いてばかり。週替わりで娘の世話をする元伴侶フランソワは、娘から「ママンは泣いてばかりいる」と聞かされ、心配になりイザベルに優しく慰めたり、週末旅行を誘ったりしてきます。イザベルはひょっとしたら「大きな愛」が戻ってくるのではないか、と期待もします。お立会い、この映画が"トラッシュ版ロメール映画”だと私が言う極め付けのシーンはここなのです。お互いによりを戻したように思っている時に、フランソワがアパルトマンの鍵を自ら開けて、イザベルのところにやってきます。大喜びのイザベルはかつてのように裸になってフランソワをベッドに誘い込みます。二人は盛り上がり、いい感じです。そしてフランソワがさあいよいよ挿入という段になった時、フランソワは自分の右手の指2本(人差し指と中指)を舐めて唾液でベトベトにするのです!わかりますかこの動作? ー イザベルはそれを見て真っ赤に逆上して、「私と一緒だった時、あなたはそんなことしなかった!」(言い換えれば、どこでそんなこと覚えたの!)とフランソワを乱暴に押し返して、またまた泣いてしまうのです。

 多くの映画評では、映画の最後部に登場する男占い師(演ジェラール・ドパルデュー)とのダイアローグがこの映画を全部救ってくれるシーンのように高く評価されています。言わば、あらゆる男たちに失望しながら、果たして理想の愛は巡ってくるのかを占い師に問うという、何にでも癇に触るナーヴァス&インテリ女性にしてはありえなかった「神だのみ」なのですが、占い師はソフトにソフトにこの傷ついた女性を誘惑していくのです。名人芸。
 それにしてもクリスティーヌ・アンゴ小説に親しい人たちにしか楽しめないのではないか、と思わせる内輪受けシーン多し。仕方ないですね。
 私(女)が望んでるもの、私(女)が幸せになれるもの、そういうものの裏の裏まで読んでくれる男などこの世にはいないのに、金の心を求め続ける採掘者、and I am getting old...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"Un Beau Soleil Intérieur"予告編

 

2017年9月28日木曜日

線路の上じゃ賭け事ばかり

ラティライユ『偶然の取り分』
L'ATTIRAIL "LA PART DU HASARD"

1994年結成だから23年め。グザヴィエ・ドメルリアック率いるラティライユの13枚めのアルバム『偶然の取り分(LA PART DU HASARD)』。10月20日リリース。
勝手な想像上の共産主義東欧やアジア深部をロードムーヴィー風に音楽化したアルバムを6枚、その誤解された旧大陸感覚を大西部〜メキシコまでワープさせたアルバムを3枚、映画音楽アルバム3枚。こういう人たちの EAST meets WESTは時間的にも空間的にもズレがある。新作のテーマは「旅と賭博」。旧ヨーロッパから新世界へ移動する汽車の中で24時間止まらないトランプ賭博。偶然の取り分とイカサマの取り分、熱くなる博徒とキープクールな博徒、チューチューガタゴト…。
プロモーションビデオクリップの曲は「ポーカー・トリロジー part 1 : ポーカー・イン・ザ・マウンテン 241」。グザヴィエ・ドメルリアック作のインスト曲。得意な旧大陸ウェスタン展開で、モリコーネ趣味があちらにもこちらにも。「ザ・マウンテン241」とはフランス国鉄(SNCF)が1948年から1952年まで運行していた(フランス最後の)旅客用急行蒸気機関車(パリ⇄マルセイユの急行「ミストラル」で有名)。雰囲気わかるような気がする、それ風インスト。

L'ATTIRAIL "LA PART DU HASARD"
CD (16 tracks) CSB Productions AD4368C

フランスでのリリース:2017年10月20日

(↓)"Porker Triogie Partie 1 : Porker in the mountain 241"


2017年9月26日火曜日

好きな人と好きなことをしたいだけ

Leïla Slimani "Sexe et Mensonges"
レイラ・スリマニ『セックスと嘘』

 書の題は多分1989年カンヌ映画祭パルム・ドール賞作品『セックスと嘘とビデオテープ』(スティーヴン・ソダーバーグ監督)からインスパイアされたものかもしれないが、内容は全く関係がない。副題に「モロッコにおける性生活」とあり。2016年度ゴンクール賞作家レイラ・スリマニの新刊はフィクションではなく、副題の通りモロッコのセックス事情について自ら現地で取材した証言集ドキュメンタリーである。「現地で」と書くと外国ごとのようだが、スリマニは1981年モロッコ(ラバト)で生まれリセ卒業までモロッコにいて、家族を離れて1999年にパリに留学して以来フランスで生活しているモロッコ&フランス二重国籍者であり、モロッコは今も彼女の国である。
 ゴンクール賞受賞作『やさしい歌』(2016年)の2年前2014年に発表した第1作めの小説『鬼の庭で』は、セックス依存症の女性の二重生活を描き、前例を見なないコアな性表現のために「トラッシュ小説」と評されもした。同年のフロール賞候補にもなりメディアで(スキャンダラスな)話題にもなったこの作品は、ある方面からは「モロッコ出身の女性なのにどうしてここまで」という偏見の声も上がった。それはモロッコはムスリムの教義の伝統があり、女性たちはずっと控えめであるはず、という見方からの驚きであるが、それがいかに的外れであるかということをスリマニは反証していく。 Jeune Afrique誌の第一線ジャーナリストとして鳴らした取材力を生かして、小説『鬼の庭で』がらみのモロッコでのレクチャー会、女性問題シンポジウムなどで出会った女性識者、読者、運動家、SNSなどでコンタクトのとれた市井の女性たち(学生、娼婦、同性愛者...)の証言を2年がかりで収拾し、筆者の考察・解説を加えて一冊の本にしたのが本書である。
 モロッコは王国ながら議会制民主主義の体制は取られていて、政治的に安定している穏やかな近代国家で、観光産業で世界に開かれ、芸術フェスティヴァルやヴァカンスリゾートでヨーロッパからは好印象で見られているような気がする。特にマグレブ3国(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)の中では最も安定していて、最も欧州寄りのような印象がある。2011年にはモロッコにも「アラブの春」の嵐が吹き荒れ、国王権限の縮小という成果も得ている。近代化と民主化には意欲的であるかのようなポジティヴな外見。しかし「モデル=西欧」ではないというアイデンティティー的抵抗もあり、イスラム・アラブ伝統とオクシデント的文化スタンダードは拮抗・反発し、衝突もある。インターネットは「モロッコの春」の牽引車となっただけでなく、あらゆる情報をモロッコの若い世代にもたらしたが、その大きな「情報」の中にポルノグラフィーとイスラム原理主義ジハード派のプロパガンダもある。2017年3月の数字で全体の失業率は15.6%、失業者数130万人、そして都市部の15〜24歳の若年層の失業率は40%を上回る。インターネットはそんな若者たちに溢れるほどの情報をもたらすが、ほとんどが欲しくても手に入らないものであり、フラストレーションを煽るばかりである。モロッコにおける性の問題はその大きなファクターでもある。
 モロッコは法律で婚外の性交渉が禁止されている。性関係は結婚した夫と妻の間でのみ許されていて、不倫姦通、婚前の性行為、売春、同性愛、妊娠中絶も刑罰の対象となっている。すなわち結婚前の男女というのは童貞・処女でなければならない。結婚時に新郎側は新婦に医学的純潔証明書を求めることができる。新郎の童貞は証明しようがないので、その慣例はない。女にのみ不利な純潔第一主義である。今日でも超保守的で厳格な結婚の風習のある階級や地方では、少女は何が何でも処女性を守らなければならないし、問題がある場合は非合法の処女膜再生手術を受けてその問題を隠すことになる。この法律では婚前に処女でないことだけでも犯罪であり、たとえそれが暴行によるものであっても、なのである。
 こういう法律がずっと改正されないまま今日まで続いているのだが、モロッコの性風俗は周りの世界同様に時代と共に変化してきている。旧時代的な法律に抑えられながらも、それに隠れて(あるいは隠れず堂々と)自由恋愛は存在するし、売春もある。現実にセックスはどこにでもあるようにモロッコにもある。本来ならば許されないところだが、隠れてやっている分には目をつぶろうという欺瞞的体制なのである。だが自由恋愛はどこでできるのか?ホテルは男女が宿泊する際夫婦であることを証明しなければならない!車の中、公園の茂み、森の中? そういうところには時々パトロールの警官が巡回するのだが、警官は法を盾に取って「不良男女性犯罪」を取り締まるのではなく、法律違反も金次第と無罪放免のバクシーシをたかるのである。だから、この種の自由恋愛は自由に使えるアパルトマンを持っていたり、バクシーシを払える金の余裕のある階級には何の障害もないのであるが、大多数の「持たざる階級」は大変なリスクを冒して自由恋愛をすることになる。実際にそういう性犯罪者(婚外関係を持った者だけでなく、同性愛者や売春婦なども)が摘発され収容される監獄というのがあるが、捕まるのは貧しい人々だけということになる。
 女性たちはこの環境で「性的悲惨(misère sexuelle)」を二重にも三重にも負わされている。家父長制の伝統とムスリムの倫理教条を守る家庭の中で、娘たちはひたすら結婚前の処女性を守るという教育を受け、女の一生を「処女」→「母(子供を産む器官)」という二つのピリオドに凝縮することを要求される。恋愛や性快楽は禁忌であった。しかし、教育は少女たちの考えを解放してきたし、高等教育(女子の大学進学率の急伸)や職場への女性進出は状況を変えてきている。本書の中の女性たちは、リセや大学や職場では女同士でタブーのない性の話をする。法的に、伝統文化的に、それが抑圧されているということに耐えながら、隠れてでも自由に恋愛ができ、性的に解放された人生に向かおうとする。例えば作者がアガディールで出会ったこのヌールと名乗る30代の中産階級の女性の証言。彼女は家で父親から伝統的で厳格なムスリム道徳を教え込まれたが、頭部をベールで包んだことはなく、学生の頃から世に憚りながら性的自由を選択している。粗く訳してみます。
大学の階段教室ではおよそ100人の女子学生の中でベールを被らないのは4人しかいなかった。私が嫌悪するのはこの子たちは宗教的な理由でベールを被っているのではなくて、流行だからそうしているだけだということ。これは多くのことの障害になるし、人間関係を難しくする。仕事場では、ベールを被っていないのは私一人。私は男たちに囲まれて働いている。一度だけそこにスカートをはいて行ったことがあるけど、真っ裸にされたような印象で堪えられなかった。それ以来二度としていない。以前はよく女友だち同士で誰かの家に集まってパーティーしていたけれど、いつからかそれは宗教的な会合に変わってしまい、みんなベールを被っていて、私が行くとどうして私がベールを被らないのかとひっきりなしに問いただした。まるで彼女たちの間で誰が一番信仰深いかを激烈に競っているかのような。私はそんなこと強制されるのはまっぴら。私の母はベールを被っているけど、私には気にならない。私だっていつかベールを被ることになるかもしれないけれど、それは私自身が望んだらそうなるという話。
処女を頑なに守っている子たちは、自分自身の奥底にある欲望を押し込んだままにして、圧迫している。私はベールを被った娘たちでヒーメンを保持するためにソドミーを許している子たちがいることを知っている。でも私は純潔を守るという口実の下にそんなことをするよりも自分の快楽を深く感じることの方が千倍も良いことだと考える。彼女たちは快楽ということすら考えたことがないし、この問題に真剣に取り組むことなどありえない。
時々私は不安に駆られることがある。私は処女ではないから一生結婚できないのではないかって。私はかなり保守的な家庭の出身だから怖いのよ。私が住んでいる地区は隣近所みんな顔見知りで、住人の噂話や悪口を吹聴することに余念がない。私は処女ではないから、私のことを前もって知らない男とは絶対に結婚できない。だから私は両親にはよそからの縁談はすべて拒否するからと言ってある。
私は近所の噂話を断ち切ってしまいたい。ある男と寝たという話は、必ずその男の複数の友だちに自慢話として広がってしまう。するとその悪友たちは「あの娘がこいつとやったって?だったら俺とでもやれるんじゃないか?」と言い出すのよ。この男たちには、私は彼を選んだのであって、他の男など欲しくないということが理解できないのよ。
(彼女は今、それまで自分が処女だったということを信じさせることができた男と交際しているとやっと告白してくれた。彼女はそのことが彼女の尊厳をどれほど傷つけているかということをよく理解していないようだった。彼女は私の驚きの視線に気づいたが、いとも自然にこう付け加えた)
私は何も知らない娘のように振る舞ったの。私はひどく醜い態で彼とセックスした。その後私について様々な噂が立って、私はとても怖くなったの。
(初めて彼女は泣きそうな顔になった)
私はお金を貯めて処女膜再生手術をするべきではないか、としょっちゅう自問している。私は両親の手前とても苦しんでいるの。私は両親をがっかりさせたくないの。それは私をひどく苦しめる。結婚できないのではないか、そして何よりも子供をもうけられないのではないか、ということが怖い。自分を問い直すの、私は本当に良い選択をしたのか、って。神の下に戻っていきたいと思うことだってあるのよ。あなたにはわかる?私にはベールを被ることを選ぶ女たちのことが理解できるわ。私はそうしないわよ、だって私はオプティミストだもの。だけどね、先のことはわからない。
もしもそれを知ったら、父親は心臓発作を起こしてしまう。母親には多分言うことができるかもしれないけれど、私は彼女を傷つけたくない。その上、性生活を保つというのは非常に複雑なこと。誰かの家だったり、アパルトマンを借りたり。ホテルでは不可能。とても不幸よ。本当に単純なことのはずなのに、そのちょっとしたことと生きることができない!私は不可能なことなんか望んでいるんじゃない、好きな人と好きなことをしたいだけなのよ!
(p38 - 41部分訳) 

 この証言は本書中、最もソフトなものかもしれない。女たちは一人ずつ分断されているわけではないし、声を出す人たちはネットワークを持つし、インターネットフォーラム、ラジオのフリーダイヤルイン、人権団体の無料相談などの広がりを持って、この不条理な「性の悲惨」と闘っている。本書の証言者は娼婦を含む市井の女性たちばかりではなく、女性医師、女性宗教(イスラム)学者、女権運動者たちにも及んでいて、モロッコにおけるこの性抑圧は、種々の性犯罪取締法+家父長制男性原理社会+伝統ムスリム倫理+性教育の不在+インターネット情報氾濫...といった複雑な複数要素の上に成り立っていることがわかってくる。「性の悲惨」の被害者は(女性の何倍も小さいものであるにせよ)男性も同じなのである。恋愛や快楽を知らず、何の知識もなく、ポルノグラフィーで得た情報だけで性の現場に放り出されるのだから。証言者の一人は端的な例として「モロッコの男たちは"前戯"というものを知らない」と発言している。You don't know what love is.
  重く暗い影はベールを被る女性たちの増加ではない。イスラム原理主義は「法よりも上」の戒律で人々を洗脳しようとする。だから、これにはイスラム者たちがちゃんとした答えを出さなければならない。原理主義だからダメなんだ、という答えではないものを。それは「イスラムの教えは女性の快楽を禁止するものか」という問いであり、「コーランに明言されている」という確かな証拠があるのか、ということである。その答えは本書のp109〜p122、その肯定論と否定論の紹介の後に載っている、ラバトのラビタ・アル=モハマディア・イスラム女性研究センターの理論学者アスマ・ラムラベットの証言を読んでいただきたい。ムスリムの女性たちは胸を撫で下ろすかもしれない。
 「モロッコにはモロッコの伝統があり、西欧モデルに追従する必要はない」、「性の解放は道徳の堕落と退廃を招く」ー こういうことは議論したらいい。幸いなことにモロッコはこのことで自由で活発な議論ができるのである。この点でレイラ・スリマニはこの国の性の問題は全く悲観的ではないと考えている。
 そして私が最もスリマニの本書に頭が下がるのは、自由に恋愛をする権利、性的に幸福になる権利は、普遍的に人間の最重要な権利である、という大前提でものを言っているということなのだ。自由な恋愛と性的オーガスムは絶対に権力や宗教に抑圧されてはならないものだ、ということ。上に訳出したヌールという女性の証言の結びでいみじくも言っていること「好きな人と好きなことをしたいだけ」、この権利は絶対に守られなければいけないのだ。レイラ、よくぞここまで。レイラ、You've got me on my knees

Leïla Slimani "Sexe et Mensonges"
Les Arènes刊 2017年9月6日  190ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:🎩🎩🎩🎩🎩 

(↓)2016年テレビのカナル・プリュスに造反したジャーナリストたちで立ち上げた新しいニュース・メディア BRUT.FR による、レイラ・スリマニ『セックスと嘘』の紹介(2017年9月25日アップロード)。