2017年8月18日金曜日

今朝のフランス語:雄牛自動車 (voiture-bélier)

今朝のフランス語 : Voiture-Bélier (ヴォワチュール=ベリエ)

訳すると「雄牛自動車」。これを google translationで日本語化すると「ラム襲撃」というよくわからない言葉が出てくる。たぶん英語の Ram-raiding をそのまま訳したのだと思う。
Wiki英語版を見ると「ラム・レイディングとは、バン、トラック、SUV、乗用車あるいは他の大型車両を突撃衝突させ、閉鎖された店舗(通常は百貨店や宝石店)の窓または扉を破って、略奪者が突入することを可能にする強盗の方法」と説明されている。
Wiki仏語版によるとこの突撃自動車による強盗犯罪は既に1930年代に始まっている。2010年12月、アメリカ合衆国国土安全保障省とFBIが、テログループが「ラム襲撃」による攻撃を扇動していると警告。この種の攻撃では多数の人間が集まる建物や場所(スポーツイヴェント、遊技場、商店街など)が標的にでき、テロリストは爆弾や銃砲を入手できなくても、最低の運転歴さえあれば攻撃を実行できる、としている。
2016年7月のニースを発端に “camion-bélier”(雄牛トラック)”voiture-bélier”(雄牛乗用車)によるテロが相次ぎ、そのほとんどに対してイスラム国が犯行声明を上げている。2017年8月12日、米国ヴァージニア州シャーロッツビルで、極右デモに抗議する反ナチ市民団体に乗用車が突進攻撃した事件でも、当地のメディアは”voiture-bélier”攻撃と言っている。
8月17日、バルセロナで起こった事件を報道していた仏ニュース専門局BFM-TVの解説者が「ローテク/ローコスト・テロ」という言葉を使った。日本では昔から「車は走る凶器」と言われていた。




2017年8月13日日曜日

I wanna djam it with you

『ヂャム』
"Djam"

2017年フランス・トルコ・ギリシャ映画
監督:トニー・ガトリフ
主演:ダフネ・パタキア、マリーヌ・ケイヨン
フランス公開:2017年8月9日

 語の始まりはギリシャのレスボス島です。エーゲ海に浮かぶ島ですが、位置的にはトルコの沿岸にあり、文化的にはギリシャとトルコの両方の影響を受けていますが、歴史的に戦争することが多かった両者に挟まれた、言わばオクシデントとオリエントの接点でもあります。映画の中で盛んに演奏される音楽レベティコは1930年代にトルコ領内にいたギリシャ人が強制送還されたことによって、住み慣れた土地を失われた人々の追放と望郷の哀歌として発祥し、それがやがてギリシャの大衆歌謡となったものです。映画の中で主人公ヂャム(演ダフネ・パタキア)は、フランス人娘アヴリル(演マリーヌ・ケイヨン)の「それはギリシャの音楽?」という問いに「ギリシャとトルコの混じり合いの音楽よ」と答えます。
 時代は2015年〜2016年です。前代未聞のギリシャの経済破綻は、銀行は支払い能力がなくなり、中小企業を根こそぎ倒産させ、物不足、賃金が払えないので国鉄など公営サービスはストライキが相次ぎ、観光客も激減しました。映画はそういう経済的状況を忠実に映し、企業倒産の絶望で自殺を試みる男や、ストで閉鎖される駅舎、従業員もなく給湯設備も使えないホテルなどが出てきます。また、レスボス島は2015年5月以来シリアからの何十万という難民が漂着した場所です。映画では後半にフランス娘アヴリルが、夥しい数の難民が漂着した浜辺に捨てられた救命具のゴミ山を見て絶句するというシーンがあります。
 ヂャムがトルコへの旅の途中で偶然出会った無一物のフランス娘アヴリルは謎の人物です。金もなく、着の身着のまま、ギリシャ語もトルコ語も英語も一切しゃべれない(唯一使える言語がフランス語)この少女がなぜこんなところにいるのかは最後まではっきりと説明されません。自分では「男友達に誘われて、トルコに難民支援のボランティア活動をするためにやってきたが、はぐれてしまった」と言ってますが、明らかにウソです。パリ南郊外のシャトネー・マラブリー(ヴァンサン・ドレルム作の歌があります)の「赤の丘(La butte rouge)」からやってきたと言います。観る者はここで漠然と、フランスの郊外からトルコ経由でシリアに渡航するイスラム・ジハード志願兵のことを想像してしまうでしょう。アヴリルのキャラクターというのは何も知らないのに目つきだけは反抗的というタイプ。壁にアラブ語で落書きされたジハード讃美のスローガンを「アラブ語は読めないけれど美しいと思う」とつぶやくアブリルのシーンが、この郊外/ジハードとアブリルの関係をほのめかしているように見えます。そして迷ってしまった少女。主人公ヂャムに着いていくアヴリルの旅は、自分探しの旅だったということが最後に述懐されます。
 しかしこの映画の魅力の99%はベルギー人女優ダフネ・パタキア演じるヂャムと名乗るギリシャ娘の野生的な自由さ、魔性的なアピール、歌、踊り、アクションにあります。この女優は歌も踊りも楽器も勉強したことがないのに、トニー・ガトリフは自分流でやれ、とほとんど即興でこの歌と踊りのパフォーマンスをさせたと言います。レベティコという移民の哀歌がこの少女に宿ってしまったような。それは一種の映画のマジックですが、ヂャムは何か困ったことがあると、その歌と踊りで解決してしまうパワーがあります。アヴリルのパスポートの問題を国境警察を相手に解決する時、閉まっているホテルの支配人に一夜の宿を請う時、ヂャムがレベティコを歌って舞うとすべてはうまく行くのです。そして道連れのアヴリルと気まずい関係になった時も、ヂャムの歌が救ってくれます。
 ガトリフの一連の作品同様、音楽の持つパワーというのもこの映画の大きなテーマです。映画の中の男たち女たちは音楽(この場合レベティコ)の宴の輪さえあれば、どんな試練にも立ち向かっていけそうな勇気を得られるのです。追放されても、越境してもついてくる音楽。ガトリフはそんな映画ばかり作っています。
 ヂャムの母親は稀代の名レベティコ歌手と評判だったが、(ファシストだったらしい)祖父が歌という芸能を嫌悪・否定し彼女の芸能活動を禁止したので、母はその兄カクールゴス(演シモン・アブカリアン)に身を寄せ、カクールゴスが開いたパリのギリシャ料理レストランで歌っていた。若くしてこの世を去った母からヂャムは歌と楽器を習い、パリでフランス語を覚えた。そのカクールゴスは今やレスボス島で、(観光客のいなくなった)観光レストランと(動かなくなった)観光船を抱えて、国の経済破綻のあおりでレストランを手放さなければならない事態になっています。
 映画の主軸のストーリーは、叔父のカクールゴスからヂャムがトルコ(イスタンブール)に行って古い船の部品(動力クランク)を探して買って来い、と頼まれて始まった、レスボス→イスタンブール→レスボスの往復の旅です。すなわちロードムーヴィーです。ヂャムはリュックサックを背負い、バグラマブズーキという2つの撥弦楽器も携行しています。土地を知り尽くしたヂャムは、アヴリルという得体の知れない少女を道連れにしながらも、ストや盗難や国境問題をなんとかクリアーして目的を達成します。災難、出会い、友情、音楽、逆境にあっても世の中捨てたもんじゃない、という展開です。国家や銀行資本がどんなに理不尽でも。音楽のシーンはどれも陶酔の喜びに満ちています。
 ヂャムの努力の甲斐あって、動力クランクを交換して船は再び海に出ることができます。レストランと財産のすべてを失ったカクールゴスは、ヂャムとアヴリルを含む音楽一座を連れて船出します。世界中の港で、自分たちの哀歌(レベティコ)を聞かせるために。エンドマーク。 
 レスボス島は言うまでもなく、女性愛を謳った紀元前6世紀の女性詩人サッポーで知られ、女性同性愛を意味する「レズビアン」という言葉の語源となったところです。 この映画の中でヂャムの同性愛を暗示させるシーンは数か所出てきます。その一つはお湯の出ないホテルで凍えるような冷水シャワーを浴び、アヴリルが裸で潜り込んだベッドの中で同じく全裸のヂャムが体を擦り付けていき、逃げるアヴリルを屋上の洗濯もの干し場に干されたたくさんの白いシーツの間をヂャムが追いかけていくという美しいシーンです。アヴリルはたまらず「あたしはレズじゃないよ!」と叫びますが、ヂャムは「あたしも違うわよ」と笑います。映画全体から見れば重要ではないテーマかもしれません。ただ、ヂャムの射るような視線は、その官能を隠さないのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ヂャム』 予告編。


(↓)テレラマ誌のインタヴューで最新作『ヂャム』について語るトニー・ガトリフ。


(↓)ブログ記事タイトルの出展はこれです。
 



2017年8月2日水曜日

ジャンヌ・モロー「インディア・ソング」(1975年)

ジャンヌ・モロー「インディア・ソング」(1975年)
詞:マルグリット・デュラス
曲:カルロス・ダレッシオ

 2017年7月31日、サン・クルーのキュリー研究所の病室の中でケモセラピー点滴を受けながら、ジャンヌ・モロー(1928-2017) の訃報を聞いた。
 ジャンヌ・モローと深い交友関係にあった作家マルグリット・デュラスの映画『インディア・ソング』(1975年。拙ブログのここで紹介しています)では、このジャンヌ・モローの歌のヴァージョンは登場しない。カルロス・ダレッシオ(1935-1992)作曲の美しいテーマ曲を含むオリジナル・サウンドトラックは、翌年セザール賞の音楽賞に輝くのだが、ジャンヌ・モローの歌ヴァージョンはその映画のイメージソングのような扱いでシングル盤で発売された。私の最も好きなジャンヌ・モローのレパートリーです。合掌。

Chanson,
Toi qui ne veux rien dire
Toi qui me parles d'elle
Et toi qui me dis tout
Ô, toi,
Que nous dansions ensemble
Toi qui me parlais d'elle
D'elle qui te chantait
Toi qui me parlais d'elle
De son nom oublié
De son corps, de mon corps
De cet amour là
De cet amour mort
Chanson,
De ma terre lointaine
Toi qui parleras d'elle
Maintenant disparue
Toi qui me parles d'elle
De son corps effacé
De ses nuits, de nos nuits

歌よ
おまえは何も言いたくない
おまえはあの女のことを語ってくれる
おまえはすべてを語ってくれる
おお、おまえ
私たちは一緒に踊った
おまえはあの女のことを語ってくれた
あの女はおまえを歌わせ
おまえはあの女のことを語ってくれた
その名前も忘れてしまった女
その体、私の体
その恋を語ってくれた
その死んでしまった恋を
歌よ
私の遠い大地のことを
おまえはあの女のことを語ってくれるだろう
今や消えてしまった
おまえはあの女のことを語っている
その消された体を
その夜を、私たちの夜を

(↓ジャンヌ・モロー「インディア・ソング」)



(↓カルロス・ダレッシオ「インディア・ソング」)

2017年7月21日金曜日

1976年のジュリー・ラヴ

Kenji Sawada "Julie Love"
沢田研二「ジュリー・ラヴ」
詞:ミッシェル・ジューヴォー
曲:アレック・コンスタンティノス 
シングル盤 : 仏ポリドール 2121315
アルバム『ロックンロール・チャイルド』:仏ポリドール
2480447

1976年当時、フランスの家庭のテレビはほとんど白黒であり、チャンネルは国営放送3局(TF1, ANTENNE 2, FR3)しかなかった。ようやくテレビが大衆娯楽の中心的役割を果たすようになり、大衆音楽もテレビが最も影響力のある媒体手段となった。ミュージックホールとラジオでシャンソンを「聞く」時代から、テレビとシングル盤で流行り歌を「消費する」時代へ。テレビ映えするには、見た目が重要で、若年層にアピールする外見やリズムやダンスが「ヒット」を生む時代になった。クロード・フランソワ(1939-1978)はフランスのテレビ時代のチャンピオンだった。米英テレビの「バラエティー・ショー」に倣った、歌、コント、マジック、ダンスなどをセットにしたショー番組をフランスでは「ヴァリエテ」と呼び、いつしかそれはこの種の番組にメインで登場する大衆音楽のことを指すようになった。だから今でも硬派の人はシャンソンとヴァリエテは違う、ロックとヴァリエテは別物、と言うのだが。
 Chanteurs à minettes シャントゥール・ア・ミネットという70年代から使われた表現があり、子猫ちゃんたちに受ける男性歌手という意味だが、やや女性的に可愛い王子様タイプでティーンネイジャー女子たちに嬌声を浴びる男性アイドル歌手のこと。デイヴ、クリスチアン・ドラグランジュ、アラン・シャンフォール、フレデリック・フランソワ、パトリック・ジュヴェ...。その中で異彩を放っていたのがイスラエル出身のマイク・ブラント(1947-1975)で、エキゾティックで甘いマスク、トム・ジョーンズばりのダイナミックな歌唱で、69年から75年という短い(フランスでの)活動期間にミリオンヒットを次々に放ち、クロード・フランソワをしのぐ人気があった。75年4月に謎の死(自殺・他殺、諸説あり)。沢田研二がフランスにやってきたのはこの頃。
 1973年に沢田はマイク・ブラントの1970年のヒット曲 "Mais dans la lumière"をカヴァーして、安井かずみの訳詞による「魅せられた夜」というシングル盤をヒットさせている。既に接点はあったのである。74年にパリで録音した "Mon amour, je viens du bout du monde"(日本語タイトル「巴里にひとり」)は、フランスのヴァリエテ番組で受けが良く、75年にはフランス最大の民放ラジオRTLのチャート4位まで昇り、シングル盤20万枚を売ったと言われる(要確認)。
 テヘラン(イラン)のクラブで歌っていたところをシルヴィー・ヴァルタン(と付き人のカルロス)に見出され、69年にフランスにやってきたマイク・ブラントは全くフランス語を話せなかった。その才能に賭けた作曲家ジャン・ルナールはデビュー曲 "Laisse-moi t'aimer"を用意し、フランス語歌詞をヘブライ表音にして2ヶ月間ブラントを特訓して歌を完成させた。 デビューシングルは100万枚のヒット。以来ブラントはフランスのスーパースターに急上昇していく。フランスの芸能界から見れば沢田は明らかに「ポスト・マイク・ブラント」であった。エキゾティックで甘いマスク。フランス語ができなくても特訓すればいいのだ。たぶん沢田はカタカナ表記にしてもらって歌を特訓したのだろう。ヴァリエテ番組で目立ち、テレビ局の「出待ち」で女子リセ生たちが大挙して押し寄せた。ケンジー!ケンジー!ケンジー! ー Merci mesdoiselles, je vous aime !(これぐらいは言っただろう)。
1975年4月、マイク・ブラントは謎の死を遂げた。「ポスト・マイク・ブラント」候補では沢田の手強いライヴァルとして登場したのが、マレーシア出身のシェイク(本名:シェイク・アブドゥラー・アハマッド)であり、同じようにフランス語を全く話せなかった。ダリダの弟でダリダのジャーマネだったオルランドがスカウトしてきた美青年。1976年デビューヒット "You know I love you - Tu sais que je t'aime"で、パリの女子リセ生たちはケンジ派とシェイク派の真っ二つに分かれたという(まぁさかぁっ!)。それはさておき、70年代半ばのフランスは、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、高田賢三、「エマニエル夫人」(バンコクが舞台)、大島渚「愛のコリーダ」(1976年公開)などでアジア極東が大きく脚光を浴びていた時期ではあった。
 そんな1976年、沢田のフランスでの5枚目のシングルが「ジュリー・ラヴ」であった。作曲者のアレック・コンスタンティノスは、前述の強豪ライヴァル、シェイクの "You know I love you"を書いた人。フランス芸能界のとても狭い範囲で起こっていたことなのでしょう。 その安直な感じは歌詞にも。
Sur ta bicyclette 自転車に乗って
En sandales et chaussettes ソックスにサンダル姿で
Tu reviens de l’école きみは学校から戻って来る
Ma Julie doll 僕のジュリー人形

Cheveux ronds et verts ショートヘアーを緑に染めて
Tu vas voir Mick Jagger きみはミック・ジャガーを見に行く
A chacun son époque 誰にもそれぞれの時代が
Ma Julie Rock 僕のジュリーロック

Cachée sous les branches 白いフレームの
De tes lunettes blanches サングラスで顔を隠し
Tu fumes le cigare きみは葉巻を吸う
Ma Julie star 僕のジュリースター

Femme adolescente 女と少女の中間
Romantique et violente ロマンチックで荒々しく
Tu peins ma vie en mauve きみは僕の人生を薄紫色に描く
Ma julie love 僕のジュリーラヴ

Je ne sais plus laquelle aimer 僕はもうどのジュリーを好きなのかわからない
Je ne sais plus qui tu es 僕はきみが誰なのかもわからなくなっている
C'est peut-être mieux comme ça 多分こんな感じでいいんだね

Comme le soleil au milieu de l’eau 水の中の太陽のように
Tu fais de mon ciel un monde nouveau きみは僕の空に新しい世界をつくる
Julie Julie Julie Ju ジュリー、ジュリー、ジュリー、ジュ
Oh ma Julie Julie Julie Julie love おお僕のジュリー、ジュリー、ジュリー、ジュリーラヴ

Tendre ciré jaune 防水マントを羽織り
En Harley Davidson ハーレー・ダヴィッドソンにまたがり
Toi tu joues les cow-boy きみはカウボーイ気取り
Ma Julie boy 僕のジュリーボーイ

Gilet de flanelle フランネルのベスト
Chemise de dentelles レースのブラウス
Tu n'aimes que le pop-art きみはポップアートに夢中
Ma Julie smart 僕のジュリースマート

Loin de la planète 地球を遠く離れて
Tu t'en vas faire la fête きみはパーティーに飛んでいき
Et deviens Colombine 月のピエロになってしまう
Ma Julie dream 僕のジュリードリーム

この年1976年、世界では『ホテル・カリフォルニア』(イーグルス)、『カムズ・アライヴ』(ピーター・フランプトン)、『キー・オブ・ライフ』(スティーヴィー・ワンダー)、『ボストン』(ボストン)、『シルク・ディグリーズ』(ボズ・スキャッグス)、『ラスタマン・ヴァイブレーション』(ボブ・マーリー)....、フランスでも『オクシジェーヌ』(ジャン=ミッシェル・ジャール)、『ヴァンクーヴァー』(ヴェロニク・サンソン)が出た年だった。沢田は、こんなフランスの小さな芸能界にいたら、世界に取り残されると思っていたかもしれない。

(↓)沢田研二「ジュリー・ラヴ」(フランスのテレビ)(口パクではない。すごい努力。)


(↓)パリでの沢田の「社交」を伝える珍しい日本のテレビ映像。ヴァルタン、アリディ、サルドゥー、ダリダ、ジャック・ルヴォー、アダモなど。多分1975年と思われる。

2017年7月15日土曜日

ニースよ永遠に Nice pour l'éternité

Nissa la bella 
ニース麗し

 2016年7月14日、ニース、イギリス人の遊歩道(プロムナード・デ・ザングレ)、革命記念日の花火大会の見物客の中に、暴走トラックが突っ込み、86人の死者と百数十人の負傷者を出したジハード派テロ事件。1年後、2017年7月14日に大慰霊式典が催されました。その中で、ニースにゆかりのある8人のアーチストたち(ミッシェル・ラロック、パトリック・ティムシット、ミッシェル・ルグラン、パトリック・シェネ、ミッシェル・ブージュナ、エルザ・ジルベルスタイン、リーヌ・ルノー、フランソワ・ベルレアン)が、ニース出身のノーベル賞作家ル・クレジオのテクストを朗読しました。原文はニース・テロの翌日に書かれ、その数日後に出た週刊誌ル・ポワン(7月19日号)に掲載されたものです。
 テクスト全文を(無断)日本語訳し、朗読の動画を貼り付けます。
 「日本人が言うように、魂が海と空の間に浮かんでいる」という文末、 よく考えてみてください。

私はニースに生まれ、そこで育ち、おそらく世界のいかなるところよりもこの町のことをよく知っている。どの通りも、どの地区も、どの界隈も。私はそれがどこに位置するのか知っているし、すべて行ったことがあるし、その細部まで知っている。なんでもないちょっとした特徴まで。
イギリス人の遊歩道は私の好みの場所ではなかった。私はその地区の出ではないし、私の目には立派過ぎ、豪奢すぎて見えた。私は港の地区の出だ。子供の頃私は船が好きだった。漁船の舳先、地中海の向こう側から赤ワインや真っ赤なコルク栓を運んでいた古くて錆びた貨物船、もちろんコルシカへのフェリー船、旅行者たちとその自動車のほかに牛や馬までも積んで運んでいた。
ニース人が気取りと愛着を込めて呼ぶ「ラ・プロム」、それはむしろビーチであり、二人組でぶらぶら歩きをするショートパンツ姿の娘たちであり、ズック履きの少年たちであり、ペダルカーであり、地下にピンポン台がある出店ドリンクスタンドだった。

私が17歳だった時、何の気なしに目的もなくツーリストを装ってそこへ行ったものだ
しかし「ラ・プロム」には歴史がある。19世紀の半ばにかの名高いイギリス人たちが、サヴォワ公国領だった時代のニースの人々の貧しさに心を動かされ、人々を助けるために毎日籠一杯分の石ころを籠一杯分のパンと交換してやった。侮辱することなく慈善に徹したひとつのイギリス式の奇跡だ。この石ころを彼らは海沿いの道を建設するために使ったのだから。こうしてできたのがイギリス人の遊歩道だ。

ニースでは海の手前にそれが出来てからというもの、たくさんの悲惨なことが起こった。第一次世界大戦前、ロシアから移住してきたひとりの娘がこの地で初めて大人の情動を経験し、画家と文筆家になることを夢見、熱狂的で自由で光溢れる生涯を生きたいと望んでいたが、23歳の若さでこの地で結核で亡くなった。彼女の名前はマリー・バシュキルトセフ。遊歩道には今も松の木の陰に石碑があり、彼女がそこに来て海を前に読書したり夢想したりしていたことを偲ばせている。それとほとんど同じ時期にポール・ヴァレリーがニースに移り住み、モジリアーニは自動車のない美しい大通りを散歩していたが、二人とも若いマリーに出会ったことはなかった。

そこから少し東側に行くと、私の祖母の友人の一人で、シャルル・パテ映画会社の編集技師だった女性が城壁の中に建てられた小さな家々の一つに住んでいた。そこは映画会社社長が当時の制作スタッフたちを住まわせるために借りていたものだが、彼はここを新しいサンタ・モニカ(カリフォルニア州)にすることを構想していた。
その友人の名前はガブリエルと言って、毎朝その小さな部屋を出て、カモメたちに見守られながら、冷たい海に飛び込んだものだ。その時期はアメリカの大俳優たちがニースに来ていて、ロドルフ・ヴァレンティーノやイサドラ・ダンカンの時代だった。

私がラ・プロムに行き始めた頃は、もうこのような特異に風変わりな人たちは少なく、大金持ちの数もかなり減っていた。それはむしろ近代的な建物のベランダで日光を浴びて暖を取りながらカルナヴァルの行進や花合戦を待っているような裕福な退職者たちの集まりの場所になっていた。ある時にはそれは嵐の遊歩道となり、荒れ狂った海がカフェのウィンドーやパレ・ド・ラ・メディテラネ(カジノ)の正面壁に石を投げつけることもあった。

またある夏の夜毎に、フォンタンと名乗る反逆者が言語の違いによる世界の新しい境界について演説し、新しい世界地図を描いていた。彼がその場の厄介者になる度に、警察は国境の向こう側に彼を追放したが、彼はいつも戻ってきた。こんなことはみんな昔のことだが、私にとってはそれがこの町のこの部分の確かな特徴として記憶に残っている。エキゾチックさとナイーヴさの中間、尊大な若さと観念した成熟さの中間。

ニースで起こったこの描写しがたい極悪非道の犯罪は、祭りの日にこの場所を襲い、多くの罪のない散歩者と子供連れの家族の命を奪った。それは私に二重の衝撃をもたらした。私はそこにしょっちゅう行っていたし、かつては私の娘たちが群衆に押しつぶされることなく花火が見れるように私の両肩に担いで行ったこともあるのだ。そしてとりわけ殺人者はこれらの罪のない人々を殺すことによって、私たちを結びつけるものすなわち生命を破壊し、切断し、打ちのめしたということである。そしてその生命とは、邪推好きの人が想像するような虚飾に満ちた高級気取りの生命ではなく、ごく普通の生命なのだ。ささやかな楽しみがあり、守護聖人の祭りを祝い、砂利浜のビーチでの小さな恋物語、甲高い叫びをあげる子どもたちの遊び、ローラースケートの散歩者たち、サンデッキの上でうたた寝する小柄な老人たち、髪を風に乱すヒッチハイクの娘たち、日の入りの瞬間を撮ろうとする写真家たち...そんな生命なのだ。
悲劇はここに無分別に入り込み、多くの体と夢を打ち砕き、バラ色の雲に映えて連発される最後の花火の乱れ打ちの大きな火の輪の残像を目に留めている子どもたちを殺したのだ。
この町の中にこの大きな傷を広げた殺人者は呪われるべし。
トラックが群衆の中に突っ込み、親の腕に抱かれた子どもたちの体を轢き砕いた時、この男は何を考え、何を望んでいたのか?最後の静寂の前の子どもたちの叫びの中にこの男は何を聞いたのか?
世界が非業の最期を遂げること、この男はもうその世界で生きたくないのだから。それがこの男の望んだことだ。そのことこそ私たちが拒否しなければならないことだ。それは難しいことだし、不可能かもしれない。私たちがもう一度生命を取り戻すために、虚無のヴェールを払いのけるにはどうしたらいいのか?
私はもう一度マリーの松の木やガブリエルの青い早朝を見ることができるだろうか?この開いた傷の両縁をどうやって閉じることができるだろうか?
2016年7月14日のこの夜、ラ・プロムで轢き殺された罪のない人々の記憶が私たちを助けてくれることだろう。そう信じるために、私たちは、日本人が言うように、この人々の魂は素晴らしい蝶たちの飛翔のように、海にかぶさった空の中に永遠に浮かんでいると想像し続けなければならない。

ジャン=マリー=ギュスターヴ・ル・クレジオ 

(↓)2017年7月14日、8人のアーチストによるル・クレジオのテクスト朗読

 

2017年7月12日水曜日

こんな人たち

ブレない政党の党首は、ブレルなど聞いたことがないだろう。この現役首相が「こんな人たち」と民草を侮蔑する時、「こんな人たち」がどんなものか、この男は想像することもできないのだろう。
 ジャック・ブレル(1929 - 1978)、誇り高きベルギーびと。1966年の歌「こんな人たち
Ces gens-là」ー 現時点の流行語だから「こんな人たち」と訳したが、ニュアンスはもっともっと侮蔑的で自虐的な「こんな奴ら」であり、話者はこんなやつらの一員である。つまり、あなたや私のことである。「旦那 = monsieur 」は聞いてもくれない、あの人たちのことである。

 ジャック・ブレル「こんな人たち Ces gens là」

まず、最初に、この年寄りです
やつはメロンみたいに丸々していて
鼻がでかい
自分の名前も覚えていない
めちゃくちゃに飲むんですよ、旦那
あんまり飲み過ぎたんで
もう自分の10本の指で何もできない
やつはもう完璧におじゃんさ
安酒で毎晩毎晩泥酔して
王様のようにふるまっている
だけど朝になると
まだ眠っている教会の中にいるんです
建物のでっぱりのようにこわばって
復活祭の大ろうそくのように真っ白になって
そしてもごもご言ってるんです
目をうろうろ動かしながら
こう言えますかね、旦那、こんな人たちは
何も考えてないんです、旦那
何も考えてないけど、ただ祈っているんです

それから、その隣のやつ
髪の毛に人参を何本もぶら下げてるようなやつ
こいつは櫛なんか見たことないんです
こいつは蛾みたいに底意地が悪い
たとえこいつが貧乏な人たちに
一肌脱ぐことがあったとしても
こいつはかのドニーズと結婚したんです
町の娘でさ
いや隣町ですがね
それだけじゃない
ちょっとばかり商売をしたんですよ
帽子をかぶって
外套をはおって
自動車に乗って
そんなふうにしたかったんですがね
全くそんな柄じゃなかった
全然金なんか持ってないのに
金持ちの真似なんかしちゃあいけない
こう言えますかね、旦那、こんな人たちは
生きてなんかいないんです、旦那、
生きてないけど、ただごまかしているんです

あと、その他大勢
何も言わないか
何でもデタラメを口走るおっかあ
晩から朝まで
聖人のようなきれいな顔をして
木の額縁の中には
足を滑らせて死んだおっとうのヒゲ面
それは自分の家族が
冷えたスープをすするのを見ているんです
ズルズルっと大きな音を立ててすするんです
それからあの震えが止まらない
老いぼればばあがいる
あのばばあが金を持っているのを知ってるから
みんなばばあがくたばるのを待ってるんです
こんな貧乏人たちの言うことなど
聞こえもしないんです
こう言えますかね、旦那、こんな人たちは
話しなんかしないんです、旦那、
話しなんかしない、ただ数を勘定しているんです。

それから、それから、
それから、フリーダがいるんです
太陽のようにきれいな
僕がフリーダを愛しているように
フリーダも僕を愛している
二人でよく言うんです
家を持とうって
たくさんの窓はあるけれど
壁がほとんどないような家
そんな家の中で暮らしたいね
そうなったらいいねって
でもそれは確かじゃないにしても
ひょっとしたらできるんじゃないかって
でも他人たちはそうは思わない
他人たちはそう望まない
他人たちはこう言うんだ
あの娘はおまえにはきれいすぎるって
おまえは猫を殺すことしか取り柄のない男だって
僕は猫を殺したことなんかない
いやずっと前にはしたかもしれない
それとも僕は忘れてしまったのか
それはいやな臭いがしていたってことも
そんなことはどうでもいい、他人たちはそれを望まないんだ
時々二人で会っていると
わざとじゃないふりをして
涙をいっぱい目にためて
あの娘は言うんです、出て行こうって
あの娘は言うんです、あなたについて行くわって
だから、今のところは
だから、今のところだけは
僕はあの娘を信じているんですよ、旦那
今のところは
今のところだけは
と言うのはね、旦那、
こんな人たちの世界では
旦那、誰も旅立ったりしないんですよ
誰も出てったりしないんですよ、旦那
誰ひとり出て行かないんですよ
もうすっかり遅くなっちまった、旦那
僕は家に帰らなきゃ….
(↓)ジャック・ブレル「こんな人たち Ces Gens-là」

 
(↓)ジャック・ブレル「こんな人たち Ces Gens-là」(1966年ライヴ)


(↓)ノワール・デジール「こんな人たち Ces Gens-là」(1998年)


(↓)アンジュ「こんな人たち Ces Gens-là」(2005年ライヴ)


2017年6月30日金曜日

OK フレッド

フレッド・ヴァルガス『毒糸蜘蛛が出るとき』
Fred Vargas "Quand sort la recluse"

 フランスで2017年上半期ベストセラー1位の推理小説です。 私は推理小説はごく稀にしか読みませんので、この作家も初体験です。フレッド・ヴァルガスは1957年生まれの女流ミステリー作家・動物考古学者(中世)です。フレッドというファーストネームで多くの人は男性を想像するのですが、フランスでは男性にも女性にもつけられるファーストネーム Frédérique(フレデリック)の短縮愛称がフレッドです。他に男女に通じる名前には Claude(クロード)、Camille(カミーユ)があります。すでに日本でも数作翻訳されているようですが、世界的に 「アダムスベルグ警視」を主人公とする連作で大変な人気を博していて、映画化・テレビ化・BD化もされています。この『毒糸蜘蛛が出るとき』はアダムスベルグ・シリーズの第9作目になります。
 南仏ニームの周辺で、70歳すぎの老人男性3人が、次々に毒グモに刺されてその毒が原因で死んでしまいます。南米から渡ってきたとされる "Recluse"(ドクイトグモ)の毒がその死因とされていますが、この毒で死ぬという例はフランスでは非常にまれで、数年に1件ほどの件数だったのが、続けざまに3件。これをインターネット界のフォーラムが騒ぎ立てる。地球温暖化や農薬使用などの環境変化でドクイトグモが南仏に異常発生しているのではないか? また同様の環境変化で南仏のドクイトグモが突然変異して、毒性が数十倍数百倍強力なものになってしまったのではないか? こうして南仏に毒グモパニックが広がっていきます。と、ここまでは警察が出るような事件ではないはずで、医学・疫学・動物生態学の範疇の問題です。おまけに被害者がすべて高齢者であり、抵抗力の弱まった者には少々の毒でも命取りになることがあり、この3人の死はごく平凡な老人の事故的病死とみなされそうです。
 これをアダムスベルグ警視はクサイと睨むのです。立件されていないから捜査の段階に入れないものの、国立生物研究所のクモ研究の権威に会いに行き、南仏のドクイトグモが人を殺せるのか、南仏でクモの突然変異が起こっているのかを尋ねます。そこで偶然出会った南仏のクモ愛好家の女性イレーヌ。彼女はインターネットのフォーラム上で騒がれていることが気になって、アダムスベルグと同じ質問をしに国立研究所までやってきた。専門学者の答えはネガティヴ。ドクイトグモが人間に致死量の毒を盛るには200匹が束になって同時に人間を刺さない限りありえない。また南仏でのドクイトグモの突然変異現象は見られていない。ではなぜ3人の老人は死んだのか。
 会見後のカフェのショコラ一杯のおごりで打ち解けたアダムスベルグとイレーヌ。彼女から明かされる意外な事実。3人の老人はお互い知り合いだった。その縁は1940年代の南仏の慈善孤児院ラ・ミゼリコルドに遡り、収容された孤児だった3人は手のつけられないワルだった。ワルガキたちは総勢10人で徒党を組み、「ドクイトグモ団」と称していた。その名は彼らがドクイトグモを使ってイタズラをするからなのですが、これはイタズラの範疇をはるかに逸脱した「犯罪」領域のものでした。孤児院の同僚のベッドの中やズボンの中に猛毒を持ったドクイトグモを放つ。被害にあった少年たちは病院に収容されても、戦争中でペニシリンの入手が困難で、その猛毒は壊疽を起こし、片目や片足を失ったり、頰に穴が空いたり、睾丸を取られ一生不能になったり...。被害者の数は10人。この被害者たちが「目には目」論で、60年後にこのドクイトグモ団10人に復讐しようとしているのではないか。
 アダムスベルグは警察というタテ社会の中で上から捜査許可が下りないこの事件(なにしろ殺人事件という確たる証拠がない)に、組織に逆らってでも入り込むつもりです。えり抜きの優秀な捜査班だったのに組織フラストレーションで人心バラバラになっている部下たちをふたたびひとつにまとめ上げ(この辺、日本人が好みそうな企業小説っぽい)、頑迷な上司を出し抜いて捜査に乗り出します。
 「ドクイトグモ団」の10人のうち、既に4人は事故死(と見せかけた殺人事件である疑いが濃い)で亡くなっていて、今3人がドクイトグモの毒で死んだので、生き残りは3人。アダムスベルグはこの3人に必ずや次の殺人事件が起こると踏んで、万全な護衛体制を敷くのですが、3人は一人また一人と(科学的根拠では死ぬわけのない)ドクイトグモの猛毒で殺されていく。おまけに犯人グループと目星をつけていた孤児院の毒グモ被害者たちは全く動きがない。 そして「ドクイトグモ団」に恨みを持つのは孤児院の被害者だけではないという新事実。この極悪の不良少年団は、無数の集団強姦事件を少年の頃から成人した後まで連続的に起こしていて、被害者数は数知れない。(強姦事件は被害届けが少なく解決も少ないという何処も同じ事情。このことは女性作家ですからね、怒りを持って書いてますよ)。果たして犯人は毒グモ被害者か、強姦被害者か、それとも...?

  で、アダムスベルグと部下たちの必死の捜査にもかかわらず、「ドクイトグモ団」は10人全員殺されてしまいます。こんな奴らを生かせておいてはいけない、というような捜査陣内部の微妙な心の揺れも作家は挟み込むんですね。人情がある。この辺がうまい。
 そして中世から伝わる奇習で、このドクイトグモと同じ名前の「ラ・ルクルーズ」と呼ばれるものがあります。それは穢されて社会構成員として生きられなくなった女性(あえて例をあげれば、婚前に処女を失った、強姦された、密通したなどで社会的に追放された女性)が穢れを浄化するために、何ヶ月も鳩舎のような小さな小屋の汚辱の中で独房生活を送り、不憫に思う村人たちから小さな穴を通してもらう水や残飯などで生きのびるという苦行をするのです。多くはその業の途中で死んでしまうのですが、自らの糞尿などの汚辱の中で生きのびる者もいる。その奇習も中世的には穢れを浄める聖なる行為として村からはある種崇められていた。この風習は20世紀には地方条例で禁止されることになりますが、その「ラ・ルクルーズ」を少年の日のアダムスベルグが、聖地ルールドの近くの村で偶然見たことがあるのです。そしてその中にいた女の記憶も、小説の土壇場で蘇ってくるのです。完全犯罪の秘密はこの「ラ・ルクルーズ」にあった...。

  私は今病気治療のため、2週間に一度病院に半日入院して、4時間ほど横になって点滴を受けていますが、この480ページの厚い小説は2回の点滴で読み終えました。これは夢中になれますね。ベストセラー1位は合点がいきます。フレッド・ヴァルガス、ファンになりました。次作も必ずここで紹介します。

FRED VARGAS "QUAND SORT LA RECLUSE"
Flammarion刊 2017年5月、480ページ 21ユーロ

(↓)国営テレビ FRANCE 5の文学番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ドクイトグモが出る時』を語るフレッド・ヴァルガス。


(↓)エロール・ダンクリー「OK フレッド」(1979年)
 
  

2017年6月11日日曜日

T'as l'air con chez toi ? (エアコンある?)

ジュリ・ブランシャン・フジタ『ジェーム・ル・ナットー』
Julie Blanchin Fujita "J'aime le nattô"

 本にいるちょっとだけ日仏バイリンガルな日本人友人(女性)に誕生日プレゼントで送るつもりで買ったのですが、読み出したら止まらなくなりました。ジュリ・ブランシャン・フジタは1979年フランス西海岸シャラント・マリティーム県サント(ジ・アトラス・マウンテンズのフランソワと同じ出身地ですね)生まれのイラストレーター/BD作家です。この本の序章のような生い立ち紹介によると両親とも美術教師&絵描きで、お金はそんなになくても廃屋を買って改装して売りに出すような器用/ラヴ&ピース/自由気ままな家庭環境だったようで、ジュリさんも色々反抗しながらもリセから絵描き方面の学校に進みます。美術系のディプロマは取っても職にありつけない悪戦苦闘は「アマゾンでの生活よりも辛い」と、それよりも若干楽なアマゾンに滞在すること6ヶ月、その体験をBD作品化したところ出版社が見つかり、その作品が各方面で目に止まり、学術系のイラストレーターとしての道を歩むはずだったんですが...。日本の極地動物研究チームに同行して日本の南極観測船「しらせ」に乗って南極へというプロジェクトへのフランスの助成金が断ち切られ、明日をも知れぬ状態でジュリは日本にやってきてしまいます。これが2009年10月のこと。
 それ以来、東京(+近郊)で畳アパート暮らしで、東京&日本に溶け込んでいくのですが、住んだところが町田、鶴瀬(埼玉県)、目黒、碑文谷(学芸大学)、清澄白河... なんていう、私のような東京知らずにはエキゾチックなところばかりなのです。
 
230ページのバイリンガル(仏日語)イラストレイティッド生活体験記です。えらいのは、立派にバイリンガルなんですよ。多分に日本人夫の協力は得ていると思いますけど、(→)こんな感じで、手書きフランス語と手書き日本語が並んで乗ってます。ただ、本当にバイリンガルの人にはわかる、この仏文と日文の微妙な違いや意図的なはしょり方が実は非常に面白いのです。だからこれは絶対両方読まなければなりません。
 フランスとは大きさも黒光りも違う日本のゴキブリが飛ぶこともできるという驚愕の発見や、電車の中は深々と熟睡できる環境だったり、 歩道を傍若無人に暴走するママチャリへの恐怖、ゆるキャラやマスコットの氾濫(警察マスコットのピーポくんの「万引きはダメ、本は買いましょう」ーこんなん初めて知りましたよ)... などなどその観察眼はやや「不思議の国ニッポン」風ではありますが、ベースには日本の大衆生活の見事さを愛でるリスペクトがあります。
そして本のタイトル通り、日本の大衆食への偏愛があります。『ジェーム・ル・ナットー(私は納豆が好き)』はマニフェスト的です。よく言われることですが、これは非フランス人にとっての香りのきついフレンチ・ナチュラル・チーズ (fromage qui pue)と同じで、その国の人でなければ最初は一様に拒絶感をあらわにします。納豆に至っては頑なに拒絶する関西人たちも多いでしょう。本書のジュリさんも最初はダメなんですが、やがて大ファンになっていきます。日本食は何でも食べられるけど納豆だけはダメというガイジンとは「チョトチガイマス」という誇らしさが。
 この日本生活体験記の中に、2011年3月11日の東日本大震災も描かれています。18ページのスペースを使って、大地震体験から、日本人と滞日欧米人などに入る情報の違い、フランス国による退避勧告で沖縄に一時疎開といったことが描かれています。これはフランス人にも日本人にも一般にはあまり知られていなかった「あの時の在日フランス人」の貴重な証言だと思いますよ。
 そしてイッセイ(一世)君という秋田出身の若者と恋に落ちて、悪戦苦闘の挙句、フランスで二人で新生活を始めようと日本を去るというエピローグで終わる本ですが、日本を去る前に若者の郷里の秋田に行き、雪に埋もれた温泉宿「鶴の湯」に一泊します。そこで雪の露天風呂に二人で浸かっていると、イッセイ君の姿が見えなくなり、そこに一羽の鶴が舞い降りてきます。鶴はジュリさんの頭に乗った温泉手ぬぐいをくちばしでツンツンと突きます。あ、これはもしかして...。そうです、これはフランスではコウノトリ(シゴーニュ)が運んでくるもの...。
 こういう風に日本が見られたら、そりゃあ、日本だって捨てたもんじゃないですよ。西洋白人(女性)からの恵まれた日本観察という偏見を打破できるのは、まさにこのバイリンガル視線だと思いますよ。結局日本語をものにできなかったアメリー・ノトンブとの決定的な違いはこれです。多くのバイリンガル人にお勧めできる本です。

JULIE BLANCHIN FUJITA "J'AIME LE NATTO"
Hikari Editions刊 2017年5月、230ページ  18,90ユーロ

(↓)ジュリ・ブランシャン「納豆が好き」のプレゼン。

2017年6月9日金曜日

スナークちゃんだったのかぁ...!

オルヴァル・カルロス・シベリウス『秩序と進歩』
Orval Carlos Sibelius "Ordre et Progrès"
 
 ラジル国旗に書いてあるポルトガル語 "Ordem E Progresso"(秩序と進歩)は、社会学の祖と言われるフランスの学者オーギュスト・コント(1798-1858)の理念です。なぜ唐突にこんな大言壮語なお題目をアルバムタイトルにしたか、ということは日本の政党モットーみたいなもんで「未来への躍動」「前進と飛躍」の類の空疎感を醸し出すためではないか、と思います。
 オルヴァル・カルロス・シベリウスの音楽はそういうハッタリの強さに溢れています。高校生の頃に初めて『原子心母』 や『クリムゾンキングの宮殿』を聞いた時の「どうしてここまで大げさなんですか?」という賞賛半分・呆れ半分の印象を思い出させます。あるいはボストンの2枚のアルバムに針を落す度に訪れる「わぁっ!光り輝いちゃってるなぁ!」のワクワク感みたいなみたいなもんです。
 「秩序」という点においては、黄金時代のポップミュージックの掟(ビーチボーイズ、トッド・ラングレン...)をしっかり踏襲した見上げたサウンド構築ですし、無駄のない構成、ケレン味たっぷりのギター/シンセ/ドラムスの早変わり展開、これはオーダー通りの品揃えと言えましょう。淀みや混沌一切なし。「進歩」という点は、それそのまんまなんですが、 プログレなんですな。60-70年代からポジティヴに考えられた技術の進歩、西洋音楽の未来みたいな展望。

 とここまで書いて、レーベル資料を読み直したら、オルヴァル・カルロス・シベリウス、「本名アクセル・モノー 」というのを見て、はて、この名前はどこかで見たな、と。遠い記憶から、1999年にアルノー・フルーラン=ディディエに紹介されたスナーク君(当時23歳)だったことを思い出した。ブリコラージュ(DIY)手作り楽器やギターやナベカマを宅録多重録音で、不思議なポストロック系の音楽をクリエートしていた子。ノイジーな抒情系みたいなスタイルが好きで、早速日本に紹介したら結構反応があって、2枚目のCDアルバム『オングストローム』(2000年)は谷理佐によるライナーノーツ付きで日本配給されるという栄誉を得ました。その中で谷理佐は「一見して子供っぽいヘナチョコのスナークが実は、ロックの次に来るものの舵の一端を握っている可能性は大きい」なんて書いてました。そのヘナチョコのアクセル君が17年後、こんな「秩序と進歩」を掲げる真正面なプログレ・サイケ・ポップを展開することになろうとは。

 どことなくスナークの雰囲気が残っている6曲めのインスト曲 "Locus Solus"は、知らなければ誰もがフランソワ・ド・ルーベの映画音楽と思うでしょう。インスト曲ばかりだった1999年から、凝りようは昔と変わらないのだけど、歴史を学ぶ前と学んだ後のような時の流れ。ポストロックやっていた子がクラシックロックに飲み込まれてしまったような。ピンクフロイドの40年の時の流れみたいなものを、一人で背負っちゃったのかな。冗談っぽい立ち振る舞い(↓のクリップ)が、実はすべて本気じゃないんだよ、と言ってるようで。ところが、この音楽は本気で楽しめますよ、特に私たちの世代は。全曲フランス語。勇気ありますよ。

 Orval = ベルギーのトラピスト修道院産ビールの商標。
   Carlos = 1947 -   。ベネズエラ出身のテロリスト、またの名をジャッカル。
   Sibelius = 1865-1957。フィンランドの大作曲家。

<<< トラックリスト >>>
1. COUPURE GENERALE
2. LES OUBLIES
3. COEUR DE VERRE 
4. MEMOIRE DE FORME
5. A MA DECHARGE
6. LOCUS SOLUS
7. DOPAMINE
8. ANTIPODES
9. DESASTRES ET COMPAGNIE
10. ENTREFER (BONUS CD)
11. MONUMENT (BONUS CD)

LP / CD BORN BAD RECORDS BB093
フランスでのリリース : 2017年4月28日 

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"COUPURE GENERALE"(オフィシャル・クリップ)



 

2017年6月6日火曜日

デパント、デパントで半年暮らす

2017年5月24日にヴィルジニー・デパントの3部構成の大作『ヴェルノン・シュビュテックス』の第3巻が出版され、作品は完結を見ました。全3巻合わせた総ページ数は1200頁。この大小説に関しては、私は2015年に半年のインターヴァルで発表された第1巻と第2巻の時から問答無用の支持の声を大にしていて、同年の月刊ラティーナ10月号に絶賛の紹介記事を書きました。それから2年弱の間を置いての第3巻の刊行です。この2年に大きく変わってしまった世界を象徴するのがバタクラン乱射テロ事件です。デパントは書く予定でいたことを全面的に書き換えなければならなかったと言います。
 それも踏まえて、私はこの6月20日に発売されるラティーナ(2017年)7月号に『ヴェルノン・シュビュテックス3』に関するかなり説明的な紹介記事を寄稿しました。ぜひ読んでみてください。その執筆中に大変参考になったのが週刊レ・ザンロキュプティーブル誌(2017年5月24日号)で、その号の特別編集長がヴィルジニー・デパントでした。同号に掲載された『ヴェルノン・シュビュテックス3』をめぐるロングインタヴューの冒頭部分を、私のフェイスブック上で(無断)翻訳掲載したところ、かなりの反響をいただきました。特に先のフランス大統領選挙でのマリーヌ・ル・ペンとFNへの辛辣な分析の部分は、「よその国のこととは思えない」という意見をたくさんいただきました。以下にその部分だけ再録します。

(レ・ザンロック : この最終巻を書くのは大変だったでしょう?)
ヴィルジニー・デパント(以下 VD):自分で驚いたのは、第1巻第2巻もだいたい同じだったけど、莫大なページをかなり短い時間で書けたということ。私は最初から結末は知っていたけれど、2015年11月13日の事件(バタクラン・テロ)で私は長い間書けない状態に陥った。私はストーリーを変えたくなって、様々な他の筋を求めていったのだけど、結局何にもならず時間を失っただけ。『ヴェルノン・シュビュテックス・1』が出版された2015年1月7日(註:偶然にもシャルリー・エブド襲撃テロ事件の日と重なった)から今日まで2年間で、すべては変わってしまったのよ。この2年間の出来事をすべて文章の中に流し込むこと、それが最も複雑で難儀な仕事だった。

(レ・ザンロック:2年間にそれほどまで変わったことというのは何でしょう?)

VD:それはひとつの革命だったのよ、実際にフランスにおいてはね。既に終焉しかけていたテロリズムがその言葉を一挙に噴き出させた、しかも誰も想像できなかった凶暴さで。それから2008年の経済恐慌はヨーロッパのすべての国の不安定さを加速させ、ギリシャを転落させ、外国避難者たちの危機的状況は避けられないものになり、難民キャンプや地中海で膨大な数の死者が出たことを私たちは見ている。しかし私たちはこれらすべてのことに慣れてしまった。慣れることこそ最悪のことで、それはさらに重大な過ちを準備していた。例えば難民たちをトルコに送り返すことなど、その少し前までは考えられないことだった。それから最近の選挙もさらにひとつのカタストロフ(大惨事)をもたらした。マクロンに投票しなければならないことに私たちはみんな躊躇していた。来るべき事態への恐怖心から嫌々ながら投票することをもう私たちは続けて3度も4度もしてきた。それは気が滅入るなどというレベルをはるかに超えている。私たちの多くはサルコジを落選させるためにオランドに投票し、保守統治の長い年月の後に社会党というのはちょっとはマシなんじゃないかと思ったのだが、オランドの5年間には非常に失望した。その結果(今年の大統領選)第一次投票でマリーヌ・ル・ペンが得票首位となった地方の数々を見るや、私たちは悲嘆に声もなかった。助けの手を差し伸べることと、拳を振り上げること、それは全く違うことでしょう…。国民がその自身の国を崩壊させるために投票するのを見ることになるなんて、これはただごとではないでしょう。
(レ・ザンロック:あなたは人々がFNに投票するのは絶望感によるものだと思いますか、それともこの政党の真の姿を知らないことから来るものですか?)

VD: 私はこの国においてはものを知らないということはあまりないと思う。FNに票を投じるのは異議申し立てのための投票であるとは信じられない。それはレイシズムに投票することであり、警察による弾圧や拷問を支持する投票なのです。すべてが秩序正しく行われるには強圧的な政治をするだけで十分だと信じている人たちの投票なのです。パパが威厳を持ち強権的であればすべてはうまく行くと信じている子供の投票なのです。私が思うに、FN支持者たちはこの強権政治は軽犯罪者たちやアラブ人たちにしか適用されないものだと想像しているのです。そしてFNが彼らに説いているように、今日のフランスの問題は、貧困や富の寡占化ではなく、まさにアラブ人だけなのです。それさえなくなればうまく行くと納得している。しかし彼らは思い違いをしているはず。なぜならばその強権政治は彼ら自身、彼らの子供たち、彼らの親族たちにまで及ぶものです。彼らの生活は改善されないし、彼らの払う家賃は安くはならない。その上、子供がいつもの時間に帰宅しないということがあるたびに、子供が学校に行かなかったのかそれとも警察に捕まったのか、とビクビクすることになる。強権国家とは法治国家ではなく、その官僚たちがやりたい政治を実行するのに何の障害もない国家のことです。その国家ではあなたはどうして自分の子供が拷問されたのかを警察に問い質しに行くことなどあなた自身がしなくなる。なぜならあなたはそのことで警察があなた自身に厄介ごとをふっかけてくると知っているから。すなわちその国家はあなたが恐怖しなければならない国家ということ。もしも独裁政権のもとで正直で善良な市民たちが丁重に扱われたなどということがあったなら、歴史的に多くの独裁制が大手を振っていた頃からそれははっきりしてだろうに…。けれどもFNの台頭はこの10年間にフランスのメディア上で非常に巧みにキャンペーンされたので、もはや誰も驚かないことになってしまった…。
(週刊レ・ザンロック誌 2016年5月24日号)

 ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス1.2.3』 は日本語訳刊行の予定があるという噂は全くありません。バルザック「人間喜劇」に匹敵すると称された、21
世紀テロの時代の人間群像とかすかに幻視できる救済の可能性を描く1200ページ。必ずやちゃんと日本に紹介されますように。

(↓)国営TVフランス5の文芸番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ヴェルノン・シュビュテックス3』 を語るヴィルジニー・デパント





2017年5月23日火曜日

ほうらアヤトラ・ホメイニ、見に見に見に来てね

マリヤム・マジディ『マルクスと人形』
Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Prix Goncourt du premier roman 2017

  2017年5月19日、イラン大統領選挙で現職のハッサン・ロハニが57%の得票率で再選されました。穏健派で融和路線の政策を取り諸外国のイラン経済封鎖を解いたロハニが国民の高評価を受けたということでしょうが、反米反欧・イスラム強硬派のエブラヒム・ライシを破った選挙というのは、どことなく当地のマリーヌ・ル・ペンを破ったエマニュエル・マクロンの当選と同じような、最悪よりは「まだマシ」を選んだ選挙のように見えたりします。特にイランの女性たちの今日の状況のことを考えると、まだまだ喜ぶことができないものだと思います。
 マリヤム・マジディは1980年、テヘラン(イラン)に生まれ、6歳の時に両親と共にパリに移住、大学を出てフランスのコレージュとリセのフランス語教師、さらに外国人のためのフランス語教師となって中国とトルコに数年ずつ滞在しています。現在はフランス赤十字に所属し、難民などを対象にフランス語教育に携わっています。
 この作品『マルクスと人形』はマリヤム・マジディの最初の小説であり、話者の名が「マリヤム」というほど自伝的な傾向が強いものですが、フィクションや詩や創作童話などを織り交ぜた自分史クロニクルです。始まりは妊娠中お母親のお腹の中にいるマリヤムが、反政府デモで官憲に追われ必死に逃げる母親をお腹の中から観察しています。
 イランの状況背景を説明しますと、1979年2月にイスラム革命が起こり、アヤトラ・ホメイニを最高指導者とする政教一致のイスラム(シーア派)共和国が成立しました。シャーの独裁を打倒したことによって、民主化が訪れることを期待していた革命推進派の一部は、革命後国家体制が一挙にイスラム化してしまったことに反対して反政府運動を展開しますが、悉く暴力的に弾圧されてしまいます。 マリヤムの両親はその反体制派の活動家であり、共産党員です。本書名『マルクスと人形』はこのことに由来します。両親は(いささか戯画的ですが)共産主義者だったので、子供にその思想を受け継がせようとします。その基本の基本として「私的所有権の否定」ということから始めます。具体的には自分が小さい時に遊んでいた人形を手放して隣近所の子供に差し出す、ということを両親はマリヤムに強いるのです。少女マリヤムはそれが絶対にいやなのです。小さくなって着れなくなった衣服や読んでしまった絵本を近所の貧しい子供たちに差し出す、しかし人形だけはいや。これは幼いマリヤムにとって大変な不条理ドラマだったわけです。
 反体制派への弾圧は激化し、いち早くフランスに亡命した父親を追って、1986年マリヤムと母親はパリに移住して来ます。なぜここではペルシャ語が通じないのか、なぜクロワッサンのような食べ物を食べなければいけないのか、6歳のマリヤムにはわからないことだらけですが、一番わからないのはこの「引越」がいつまで続くのか、いつイランに帰れるのか、ということです。
 6歳の少女は突然身を置くことになったフランスへの頑な拒絶反応を露にします。イスラム独裁で自由のないイランに比べれば、自由と民主主義の国フランスがどれほどいいか、という観点はないのです。食べ物、言葉、優しいおばあちゃん、マリヤムの好きなすべてのものがイランにあったのですから。パリの小学校で貝のように押し黙る日々が長く続きます。先生も級友も給食のおばさんもマリヤムのだんまりが理解できません。しかし長い長い沈黙の末、ある日突然マリヤムはフランス語を話し始めるのです。話し始めたらよどみなく言葉は出てくるのです。この子はこれほどおしゃべりだったのかと皆が驚くほど。長い間胎内にいた新生児のように急に世界に対して声を出した。まさにマリヤムにとって第二の誕生であったかのように。ここのパッセージは感動的です。
 そして少女はフランス語の魅力に取り憑かれていく。私は自分の娘がフランスの公立学校で教育を受けたので、マリヤムが受けたような「外国人」「外国系」の子弟への(決して差別ではない)ある種の特別扱いというのを知っています。私の娘も学校での自分の居場所の危うさに悩んだりしました。大人たちは「二つの文化を持てるなんてすばらしい」とか「自然にバイリンガルになれる」とか、楽観的にポジティヴな見方をしますが、フランスの教育の現場は違いますよ。完璧なフランス語習得のためには他言語が邪魔になる、日本語の学習を後回しにするように、と私は担任先生からはっきり言われましたよ。
 当然のことながらフランス語愛に浸れば浸るほど、マリヤムのペルシャ語とイラン的アイデンティティーは薄められていきます。故国にいるおばあちゃんから手紙が届いたり、電話が来たりしても、返す言葉がどんどん少なくなっていく。

Je ne suis pas un arbre.  私は木ではない。
Je n'ai pas de racines. 私には根がない。

  2003年、マリヤムは17年ぶりにテヘランの土を踏みます。イスラム法下の様々な制限や欧米の経済封鎖にもめげず、人々はしたたかに生きているし、マリヤムの一時帰国を祝うホームパーティーでは、ガラス窓を厳重にアルミホイルで目隠しして、アルコールとドラッグと禁じられた音楽でたいへんな大騒ぎになります。マリアムはそこで町一番のならず者の若者と電撃的な恋に落ちます。乱闘沙汰やオートバイ事故や投獄されての拷問や遊び半分の自殺未遂などで身体中傷だらけの若者。傷ついても傷ついてもなお不敵な顔で立っているその男に、マリヤムはおまえはイランの姿そのままだ、と。このイランをマリヤムは強烈に愛してしまい、二度とパリに帰りたくないと、人形を渡したくなかった少女と同じようにゴネるのです。
 自分から失われたイランをもう一度取り戻したい。2002年、ソルボンヌ大学の比較文学コースに進んだマリヤムは、担当教授にセルジュク朝ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム(1048-1131) と近代イラン文学作家サーデグ・ヘダーヤト(1903-1951)について研究したいと申し出て受け入れられ、その日からみっちりとペルシャ語を学習し直すのです。失われた母語(langue maternelle)のペルシャ語と、水林章流に言えば父語(langue paternelle)であるフランス語は、その日までマリヤムの中で敵対していたのに、ここでやっと和解ができたのです。マリヤムはフランスにやってきて長い長い沈黙の後にフランス語を初めて口にした日を「第二の誕生」と言い、ソルボンヌでペルシャ語を取り戻しフランス語とも和解できた日を「第三の誕生」と位置づけるのです。

 自分探しと言うよりは、言語が背負い込んだ文化を愛したり嫌ったり、それから愛されたり拒絶されたり、その果てに幸福な和解が得られるまでの自分史。フランスでフランス語教師となっても、心ない人から「フランス語教師というのはフランス人でなければなれないはずだろ」という声も平気で飛んで来るフランス。マリヤムはそういうフランスとも勇敢に闘っている。またマリヤムにとっては男を誘惑して楽しむということも大切な人生の一部なのです。前述のペルシャ古典詩人ウマル・ハイヤームの詩をマリヤムは男を引っ掛ける道具としても使っているのです。すなわち、一対一の食事が終わり、アルコールもほどよく回った頃に、マリヤムは気に入ったハイヤームの詩を朗読して聞かせる。ペルシャ語など何も知らぬ男もその音楽の調べのような言葉の連鎖にうっとり聞き惚れ、恍惚となってしまい、そのままマリヤムと一夜を過ごすことになる、という次第。したたかな「やり手」の女性であることが伺えるでしょう。
 政治状況もユーモアも詩的イメージも。マルジャン・サトラビのBD(2005年)とアニメ映画(2007年)『ペルセポリス』にも共通する、イラン女性の明晰なものの見方とストーリーテリングのセンスの良さに脱帽します。この女性たちは本当に強い。

 Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Le Nouvel Attila 刊 2017年1月、206頁 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)自著『マルクスと人形』を語るマリヤム・マジディ


2017年5月17日水曜日

さまよえるイスマエル

『イスマエルの幽霊たち』
"Les Fantômes d'Ismaël"

2017年フランス映画
監督:アルノー・デプレッシャン
主演:マチュー・アマルリック、マリオン・コティヤール、シャルロット・ゲンズブール、ルイ・ガレル
フランス公開:2017年5月17日
第70回カンヌ映画祭オープニング上映作品 

 I ain't afraid of no ghosts !
 ("Ghostbusters")
   ルノー・デプレッシャンの本作の主人公イスマエルは映画作家です。おそらく彼が映画監督を主人公にした最初の作品です。当然デプレッシャンのオルター・エゴと思っていいでしょう。演じるのは『そして僕は恋をする(Comment je me suis disputé  - ma vie sexsuelle)』(1996年)以来デプレッシャンの分身男優となっているマチュー・アアルリックです。 アマルリック自身映画監督として6本の作品を発表していて、この2017年カンヌ映画祭には、このデプレッシャン作品の主演俳優としてだけでなく、6本目の監督映画『バルバラ』(歌手バルバラのバイオピック)の監督としても参加しています。監督としての苦悩も身をもって知っている男。
 思えば映画というものは、ヒッチコックの例を出すまでもなく、監督の分身や幽霊をたくさん作ってしまう傾向があります。フィクションとは幽霊づくりの仕事であって、映画の時間が過ぎれば、その人物はこの世から消え去るのです。映画人はその人物たちを創っては殺しという作業を一生続けるわけですが、生の終わりにはその人物たちの亡霊に呪われるのではないでしょうか。
 映画作家イスマエル(演マチュー・アマルリック)には(実在するのか架空なのかわからない)弟のイヴァン(演ルイ・ガレル)がいて、イスマエルはその人物を使って国際スパイ映画を制作するため、日夜必死で脚本を仕上げようとしている。21年前、敬愛する映画作家であり師でもあるアンリ(演ラズロ・ザボ!ハンガリー出身映画作家)の娘カルロッタ(演マリオン・コティヤール)と結婚するが、カルロッタは結婚後まもなく忽然と姿を消してしまう。アンリとイスマエルの八方手を尽くしての捜索にも関わらず、手がかりはなく、年月は経ち、蒸発者は戸籍上死者同等の扱いになって除籍になる。その苦しみを共に味わったアンリとイスマエルはいつしか父と息子同然の関係となるが、20年経っても二人はカルロッタの「死」を受け入れることができない。そしてアンリとイスマエルは同じように悪夢につきまとわれる病癖がある。アンリの悪夢のもとはほとんどカルロッタであるが、イスマエルのそれはカルロッタだけでなく映画人的極度のストレスがある。悪夢に苛まされないためには眠らないことが一番。イスマエルはアルコールとニコチンと様々な薬物で覚醒・半覚醒を保っている。しかし一旦眠るやいなや悪夢は容赦なく襲って来る。
 2年前からイスマエルは天文学者シルヴィア(演シャルロット・ゲンズブール)と(同居することなく)交際中。海辺の別荘でシルヴィアは浜辺ヴァカンス、イスマエルは籠ってシナリオ執筆という穏やかな時間と空間の中に、20年前に蒸発したはずのカルロッタが闖入してくる。パニック。幽霊ではないのか?狂言ではないのか? 行くあても泊まるところもないカルロッタを別荘に迎え入れ、3人の奇妙な共同生活が始まる。
 なぜ蒸発したのか、どこにいたのか。父親に溺愛されたいたがゆえに不幸だった少女は、抗しがたい「沖からの呼び声」に従って無一物で旅に出て、放浪に身をまかせる。その果てにインドに辿り着き、ひとりの男と出会って家庭に入り幸せに暮らしていた。しかし3週間前に男が死に、その家を追い出されフランスに帰ってきたが、どこも行くところがなくイスマエルのもとに来た、と信じがたいストーリーを淡々と言う。そしてイスマエルという「夫」を取り戻したい、と。シンプルさと天真爛漫さと現実世界とのズレ、マリオン・コティヤールという猫目女優の不思議なパワーが大きくものを言ってます。
 なぜ今、ここなのか。20年間すべてをぶち壊しにした挙げ句に、今ここに出てくればもう一度イスマエルの「現在」もぶち壊しにしてしまう。そういう怒りを彼は元妻/不在の妻/死んだはずの妻/幽霊にぶつけますが、カルロッタは幽霊ではないのです。
 二人で海水浴をし(遊ぶ二頭のイルカのようなシーンです)、「私たちきっと似た者同士よね」とシルヴィアに語りかけるカルロッタ。この猫目の魅力にシルヴィアも一旦はカルロッタと打ち解けた関係になりかけるのですが、その魅力が強ければ強いほど、シルヴィアは「負ける」と感じ、それは黒々とした嫉妬となっていきます。かくして嫉妬は爆発し、シルヴィアはイスマエルとカルロッタを残して別荘から去って行く...。
 映画は飛んで、弟イヴァンを主人公とした国際スパイ映画の制作現場へ。フランス外務省に所属する諜報員という立場ながら何も知らずに国際政治舞台の裏側に送られ、タジキスタンの監獄に投獄されてイスラムテロリスト首領と談笑し、ポーランドの美術館で接触したロシアスパイを不本意に爆死させ、といった荒唐無稽なシナリオのまま撮影は続くのですが、監督イスマエルはシルヴィアとの破局のショックのため、撮影現場から逃げ出し、北フランス、ルーベ(註:ここはアルノー・デプレッシャンの出身地)の古い館に籠ってしまいます。この辺りから映画は混沌と狂気が支配的になり、アルコールと薬物と自己破壊衝動は血走る目のマチュー・アマルリックならではのトリップ加減です。キューブリック流のマッド・シネアストと申しましょうか。
 その狂気にも関わらず、映画をなんとかして完成させようと、映画のエグゼキュティヴ・プロデューサー(演イポリット・ジラルド。怪演!)がイスマエルの居場所を突き止め、シナリオの続きを書いて撮影現場に戻るように説得しようとします。イスマエルは俺がいなくても助手に撮影を任せればいい、と、その狂気のシナリオの続きをプロデューサーに開陳しますが、いよいよ混沌と不条理と荒唐無稽さは頂点に達し、思い余ってイスマエルはプロデューサーに発砲して負傷させてしまう...。
 絶対収拾のつきっこない映画になってしまった、と思った頃に、アルノー・デプレッシャンは唐突なハッピーエンドを持ってくるんです。まずカルロッタは父親アンリの前に姿を表し、その(幽霊)ショックでアンリは心臓発作で救急病院に担ぎ込まれ、 ほぼ死の床で父と娘は和解するのです。そしてシルヴィアとイスマエルは.... 詳しくは書きませんが、ハッピーエンドなのです。山ほど積まれた続くストーリーの数々を全部蹴散らして、「今のところはこんな感じで」という終わり方。デストロイな映画だと思いますよ。これを賞賛する人たちもいるんでしょうが。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『イスマエルの幽霊たち』予告編


2017年5月9日火曜日

ウーエルベックから見た大統領選2017

 2017年5月7日、フランス大統領選挙決選投票はエマニュエル・マクロンが65%の得票率でマリーヌ・ル・ペンを破り、新大統領に当選しました。この大差の原因の一つが、5月3日のテレビによる両候補対決討論だったと言われ、マリーヌ・ル・ペンの討論戦術の質の低さが「歴史的」なものだったと論評されました。このテレビ対決討論の翌日、5月4日(木)に、フランス国営テレビFRANCE 2の番組レミッシオン・ポリティークは、マクロン/ル・ペン両候補の支持者地盤のようにはっきりと分かれてしまったフランスの都市部と周辺地方を「ふたつのフランス」と題したテーマで展開し、そのゲスト出演者のひとりとして作家ミッシェル・ウーエルベックが発言しました。部分的に大意訳してみました。

 ー この選挙戦を注目していましたか?
ミッシェル・ウーエルベック(以下 MH)「興味深く見ていたが、徐々に不安が増大していき、それは自分の無知への恥に変わっていった。それはいわゆる "周辺のフランス (France périphérique)"のことを私が知らなかったということだ。私はこのフランスとのコンタクトを失ったのだ。この"2つ目のフランス”はマリーヌ・ル・ペンに投票するか、誰にも投票しないかの二つのチョイスしかない。これを知らなかったということは作家として"重大な職業的過失”である。」
ー どうしてあなたはそのフランスとのコンタクトを失ったのですか?
MH 「私にはもうそのフランスが見えなくなっているのだ。私は既に "グローバリゼーションのエリート階級”に属するようになってしまってる。わかりますか?私の本はドイツでも売られているのですよ、すごいことだ。」
ー でもあなたはフランスに帰ってきて、普段町で買い物をするでしょう?
MH「そのフランスは私の住んでいるところにはないのだ。パリにそれはない。パリではル・ペンは存在しないに等しい。それは地理学者クリストフ・ギリュイ(著書  "周辺のフランス (France périphérique)" 2014年)が明らかにしたように、人々によく知られていない周縁地域に存在する。」
ー この番組で紹介されているような周辺のフランスの人々の不安や怒りをあなたは理解できますか?
MH「それを十分に理解できないというのが、私の不快感の所以なのだ。私はそれについて書くことができない。それに私は苛立つのだ。」
ー あなたの政治的観点からも彼らの苦渋や不安が理解できないのですか?
MH「私は彼らと同じ状況にいないのですよ。私は思想による投票というのは信じていない。投票は階級によってなされるのだ。”階級”という言葉は古臭いと思うかもしれないが、ル・ペンに投票する階級、メランションに投票する階級、マクロンに投票する階級、フィヨンに投票する階級ははっきりと区別がついている。望む望まないに関わらず私はマクロンに投票する階級に属している。なぜなら私はル・ペンとメランションに投票するには金持ち過ぎていて、フィヨンに投票するほど財産持ちの子孫ではないのだから。」
(中略)
ー (選挙戦全体に関する感想)
MH「私はそれはエキサイティング(palpitant)だと見ていた。おそらくテレビ連ドラ『コペンハーゲン』(デンマーク制作の政治連ドラ 2010〜2013年)よりずっと面白いと思う。しかし結果は絶望的な方向に向かっている。私が記憶する限りそれはぞっと昔に保守・対・左派という二極対立から始まり、それが機能しなくなりFNが登場して三者対立になり、それも機能しなくなる。その後はたいへんな大混乱で、社会党は消え去り、保守だって生き延びれるかどうかわからない、そして残ったのがマクロン、メランション、ル・ペンの3人。保守が生き延びればそれに4番目として加わるかもしれない。フランスを"舵取り不能”にする新しい4者システムに陥る。まったく舵取り不能だ。」
(中略)
ー マクロンの急伸長についてはどう考えますか?
MH「彼の選挙運動の展開を見ていると、一種の "集団セラピー”のような印象を受ける。フランス人を楽観的に変身させるためのセラピー。大体においてフランス人は悲観的で、その悲観はヨーロッパの北の国々、とりわけドイツと自分たちを比較する傾向から来るものだ。フランス人は彼らと比べて自分たちを過小評価する。マクロンはその悲観傾向を一挙に楽観化しようとしている。」
(中略)
ー あなたの小説から見えてくる未来のフランスは産業も経済活動もなくなり文化遺産だらけになった博物館のような国ですが...。
MH「脱産業化の傾向は現実のものだ。その脱産業化傾向のグラフの曲線を延ばしていくと、未来には全く産業がなくなる。私の意見ではそれはカタストロフではない。もしもグローバリゼーションのルールを受容すれば、フランスにも出せるトランプ札はある。」
ー 希望があるということですね?
MH「グローバリゼーションの中で、われわれの強みを出せる分野もある。例えば手工業や美食関連業や観光業など。これは多くの職を生めるんですよ。おまけにこの職業はデロカリゼ(*安い賃金の外国への工場の移転のこと。産業移転)できないという利点がある。私は産業に対して深い不信感がある。特に最近あったワールプール(Whirlpool)アミアン工場の閉鎖移転は耐え難いほど酷いものだった。国が国民の税金を使って援助している工場で、しかも多くの利益が上がっているにも関わらず、産業のトップはこれを閉鎖移転してしまったのだ。だから私はデロカリゼできない職業を信用するべきだと思っている。」.....

 マクロンの選挙運動は一種の「集団セラピー」である、という分析、注目しましょう。何も怖くない39歳が、熱狂的な集団「躁」状態を作り出すような演説集会の動画 を見れば、ウーエルベックの指摘はど真ん中です。

(↓)2017年5月4日(大統領選第二回投票の3日前)、国営テレビFRANCE2「レミッシオン・ポリティーク」にゲスト出演したミッシェル・ウーエルベック





2017年4月26日水曜日

ガルディアン・ド・ラ・ペ(平和の番人)

2017年4月20日午後9時、パリ、シャンゼリゼ大通りで一人のテロリスト(ジハーディスト)が警備の警官隊に発砲、警官一人が死亡、二人が負傷し、発砲者は警官によって射殺された。殺された警官はグザヴィエ・ジュジュレ(37歳)。 憲兵隊(ジャンダルムリー)に入隊後、2010年から警察に配属。ギリシャに漂着する移民たちの救助保護活動のためにフランスから応援派遣された警官隊の一人。2015年11月13日のパリ・バタクラン劇場テロ事件勃発時に召集され、現場地域の警護の最前線を務めた。その1年後、バタクラン劇場再オープン記念のスティングのコンサートの場内に私人グザヴィエはいて、喝采していた。音楽ファン。ロックファン。ホモセクシュアル。4年前からパートナーとPACS (民事連帯契約)を結んで共同生活をしており、警察/憲兵隊内のLGBTアソシエーションのメンバーでもあった。
 ガルディアン・ド・ラ・ペ Gardien de la paix フランス語の警官という言葉は直訳すれば「平和の警護者」「平和の番人」である。この美しい名前を持った職業がテロの標的となり、37歳の 「平和の守り人」が命を失った。
4月25日、パリ・シテ島のパリ県警の中庭で開かれたグザヴィエ・ジュジュレの追悼式典には、共和国大統領オランド、首相カズヌーヴとその内閣閣僚、パリ市長イダルゴなどの他に、二日前の大統領選挙第一次投票で上位2位となり5月5日の決選投票に進出したエマニュエル・マクロンとマリーヌ・ル・ペンも参列した。ま、それはどうでもいい。2015年1月のシャルリー・エブド襲撃テロ以来、テロリストによって殺害された警官の数はグザヴィエで6人である。大統領オランドの弔辞はその毎回の追悼式典同様「国民的悲しみ」と「テロとの断固たる戦い」を強調するが、唇寒し。しかしその式典で私たちが最も深い感銘を受けるのは、グザヴィエのパートナー、エチエンヌ・カルディル(外務省勤務の外交官)によるエモーショナルな別れの言葉なのだった。WEB版リベラシオン紙に掲載されたその弔辞の大部分を、以下に(無断で)訳してみる。

 グザヴィエ、木曜日の朝、いつものように僕が仕事に出かけた時、君はまだ眠っていた。(中略)君は14時からの街頭保安任務につくために、念入りにこの警護服に身を包んだ。君はいつもその外見は完璧でなければならないと考えていたから。君と同僚たちはパリ8区警察署に赴くよう命令を受けた。(中略)君はその保安警護地点としてシャンゼリゼ大通り102番地、トルコ文化会館前と指定された。僕は君がこの種の任務が好きだったのを知っている。なぜならそこはシャンゼリゼ大通りであり、フランスを象徴する場所だったから。君たちはその文化も防衛していたのだから。
 そのまさにその時、その場所で君と君の同僚たちの身に最悪の事態がおとずれた。(中略)僕はその夜君なしで帰宅した(声が感極まって押し殺される)極めて深い苦しみと共に。その苦しみはいつの日にか鎮まるものなのか、僕は知らない。(中略)僕個人のことを言えば、僕は苦しんでいるが憎しみはない。"Vous n'aurez pas ma haine"(私はあなたたちに憎しみを抱かない)というアントワーヌ・レイリス(バタクラン・テロ事件で妻を失った男の手記本の題名) の言葉を僕は借用する。そこに込められた苦しみに立ち向かう計り知れない叡智を僕は称賛し、数ヶ月前にその本を読み直したものだった。その生きるための教訓は僕をかくも成長させ、今日僕を守ってくれている。
 シャンゼリゼ大通りで何か重大な事件が起こっていて、一人の警官が殺されたという最初のニュースがパリ市民たちの耳に届いた時、小さな声が僕に殺されたのは君だと告げた。そしてその声は僕にこの寛大さと癒しに満ちた"Vous n'aurez pas ma haine"( 私はあなたたちに憎しみを抱かない)という名言を思い起こさせた。
 グザヴィエ、憎しみを僕は抱かない、なぜなら憎しみは君に似つかわしいものではないから。憎しみは君の心を躍動させていたもの、君を憲兵隊員から警察官へと導いていったもののいかなるものにも呼応していないから。公共の利益、他者への奉仕、万人の保護といった君の受けた教育と君の信念、そして寛容と対話と節度が君の最良の武器だったのだから。なぜなら「警官」の殻の中には人間がいるものだから。そしてその人間は他者を助け、社会を保護し、不正と戦うという選択をすることなしには憲兵や警官にはなれないものだから。(中略)
 僕たちがこの職業について抱いている見方というこういうものだが、それは君という人間の一面に過ぎない。君という人間の他の面では君は文化と享楽の世界を持っていたし、映画と音楽はその多くの部分を占めていた。(中略)喜びにあふれた生活、いっぱいの微笑み、その世界には愛と寛容が絶対の指導者として君臨していた。まるでスターのような生き方、君はスターのように人生から去っていった。(中略)僕はこのような事件の発生を防ぐために戦っているすべての人たちに言いたい。皆さんがこの事件で罪責感や敗北感を抱いているのを僕は知っています。でも皆さんは平和のためにこの戦いを続けなければなりません。(中略)そして、グザヴィエ、君に言いたい。君は僕の心の中に永遠に残り続ける。Je t'aime. 君を愛している。君と僕は誇り高くあろう、平和に見守ってていよう、平和を守っていこう。

私はこれほど誇り高い Je t'aime という言葉を聞いたことがない。グザヴィエ、安らかに。

(↓)4月25日グザヴィエ・ジュジュレの追悼セレモニーでのエチエンヌ・カルディルによる弔辞。


2017年4月24日月曜日

お先マクロン?

の文章は2017年4月23日フランス大統領選挙第一次投票の開票速報を見ながら書き始めました。
 第二次投票(5月7日)に進出した上位2位はエマニュエル・マクロン(中道アン・マルシュ運動)得票率 23,86 %とマリーヌ・ル・ペン(極右フロン・ナシオナル党)得票率21,43%でした。より下位の結果には触れず、この二人に絞って書きたいと思います。まずこの二人が残るというのは数週間前からの世論アンケートの傾向で予測されていたことで、米大統領選挙や英Brexit国民投票の時のような世論調査や大メディアの分析を裏切るような結果ではありませんでした。第五共和制が始まってからずっと大統領政権のベースとなっていた「保守」と「左派」の大政党の候補者(共和フィヨンと社党アモン)が、今回第一次投票で共に敗退するということも予測されていました。これを(交替で)繰り返し政権を任されてきた既成保守・既成左派への幻滅・絶望による国民の拒否と解釈するのはいたしかたありません。既成政党によって繰り返された無策政治から脱却せよ、というディスクールはマリーヌ・ル・ペンの側のものです。極右FN党はこれを「システム」と呼び、われわれこそ「アンチ・システム」の政治を実践できるもの、と言ってきました。何も変えることなく誰か(FNの論法ではEU首脳部と外国系大金融資本)によって前もって決められたことを実行するだけの政治から抜け出すこと、その可能性を「EU離脱」「国境再建」「重保護貿易」「フランス第一主義」「移民ゼロ」といった政策でアピールしています。こういう考え方が普通に国民の20〜30%が支持されるようになっているわけです。それはもはや事件ではない。2002年の大統領選第一次選挙で当時のFN党首ジャン=マリー・ル・ペンが第二位(得票率16,86%)につけ、第二次投票に残った時は衝撃の「2002年4月21日事件」として後年まで記憶されることになりましたが、今回のマリーヌ・ル・ペンの第二位は全く事件ではなく誰もが予想していた事態です。それほどFN党はフランスの風景の中であたりまえなものになってしまったのです。
 エマニュエル・マクロンという人物は私はよくわかりません。はっきりしていないから「中道」なのでしょうけれど、はっきりしているのはリベラル経済擁護者であるということ。エリート官僚および大銀行要職者であった手腕を買われてオランド政権の経済相になった人。社会党に籍を置いたこともある。左派マインドを持ちながら、リベラル経済大丈夫、グローバリゼーション大丈夫、と言っている人。
 今日も「リベラル」という言葉はまだ人々を騙せるのでしょうか?これが一見ポジティヴに見えるのは、不自由より自由の方がいいに決まってるじゃないか、という生理的好き嫌いのレベルでしょう。しかしリベラルとは経済市場における自由競争原則であり、弱肉強食であり、しのぎを削る競争の末に勝者だけが潤うということですよ。国を挙げてその自由競争に打ち勝て、という政策が新自由主義ですよ。その国の全セクター、全産業、全企業が勝てるわけじゃない。負けたらどうするんですか? 養豚業で負けたら養鶏業に鞍替えすればいい、手工業が廃れたらデジタル業に転身したらいい、工場が労賃の安い外国に転地する理由で閉鎖されたら老人介護者に転業すればいい...。それは世界規模・欧州市場規模で日々変動していることで、そういうグローバリゼーションの中で強くなっていくしかない。負けて工場がなくなったり転職を余儀なくされてもその時は国が面倒見ますよ、と言っているのが左派リベラル。そうじゃないでしょ。世界経済のご都合に合わせているせいで、職を変えられたり、過剰労働を強いられたり、職や土地を失ったりという悲劇を私たちの21世紀はこれでもかというほど思い知らされてませんか?

 この二人の候補を選んだフランスというのは、今夜から2週間の第二次選挙の選挙戦でまっぷたつに分かれるのではないでしょうか。テレラマ誌(web版4月24日)はその二つのフランスをこう分けます:一方は都市部のフランス、グローバリゼーションに不安がなく、未来についても楽観的。もう一方は地方(非都市)部のフランス、世界に対して不安があり、その世界に自分の位置を見出せなくなっている。
 39歳のマクロンはたぶん何も怖いものがない。そして世界には怖いものなど何もないのだ、とグローバリゼーションのスケールでフランスを引っ張って行こうとしています。そのダイナミズムに魅了されるフランス人は多いでしょう。アーバンでオプティミスティックでディジタルなフランス。
 マリーヌ・ル・ペンは世界は怖いものだらけで、まずフランスとフランス人を守らなければならないと説きます。経済的にも文化的にもフランスを防衛しなければならない。EUに奪われた主権を自国に取り戻し、フランスのことはフランスだけで決める。労働市場だけでなく宗教的思想的にも脅威となっている移民を追放する。失われたフランス的フランスを取り戻す。中央集権政治に逆らわずにいたために見捨てられてきた地方部の人々にとって、ル・ペンの論法はそれなりに説得力のあるものでしょう。わかりやすいですし。わかりやすい説法がポピュリズムのパワーですから。
 本当に奥深い地方まで来て、いろいろなことをわかりやすく説いてくれた候補者はどれだけいたでしょうか。少なくともマクロンとフィヨンはそういうことはしていなかった。しかしそういう地方で、マリーヌ・ル・ペンは失われたフランスを取り戻してくれるかもしれない、と思う人たちは多いはずです。

 この二つに分かれたフランスは、今現在から見える大きな可能性としては、2週間後にマクロンに制されます(60%強の得票率との予想)。深い亀裂を残したままフランスは若い新大統領を迎えます。舞台裏ではすでに2022年の大統領選挙の動きが始まっています。マクロンが(オランドのように)失政を繰り返すと、マリーヌ・ル・ペンは2022年に確実に当選します。女性の歳を言うのはエレガントなことではないけれど、まだ48歳ですから。そしてマクロンのリベラル経済擁護は、多くの社会的不公正・不平等を増長していくことは避けられないと思います。2週間後にエマニュエル・マクロンとマリーヌ・ル・ペンの二人から新しいフランスの可能性を探さなければならない投票者市民たちのおおいなる躊躇を私は理解します。

(↓)2017年4月23日20時、テレビ FRANCE 24 開票速報

2017年4月11日火曜日

ラスト産婆・イン・パリ

『サージュ・ファム(賢い女)』
"Sage Femme"


2017年フランス映画
監督:マルタン・プロヴォスト
主演:カトリーヌ・フロ、カトリーヌ・ドヌーヴ
フランス公開:2017年3月22日

 ランス語で助産婦・産婆を意味する "Sage-Femme"(サージュ・ファム)は、真ん中にトレ・デュニオン(ハイフン)" - " が入ります。この映画のタイトルはそれをわざわざ外して"Sage Femme"としていて、直訳すると「賢明な女」となります。主人公クレール(演カトリーヌ・フロ)の職業はこの「サージュ・ファム」です。当然映画題はダブル・ミーニングですが、形容詞の「サージュ」は賢い、という意味だけでなく、大人しく控えめ、従順で御しやすい、といったニュアンスが加わります。映画の進行は、この賢明ながら控えめ&堅気で、冒険を嫌い安全&堅実な人生を歩んできた50歳近いシングルマザーであるクレールが、ホラとハッタリと色気を武器に自由な人生を送ってきた老女ベアトリス(演カトリーヌ・ドヌーヴ)と再会することによって、「サージュ」さがひとつひとつ落ちていく、というストーリーです。
 大切なことなのでこの「サージュ・ファム」という職業についてもう少し説明すると、日本語の「取り上げ婆さん」「お産婆さん」に相当するこの職名ですが、この職名も今や使われることが少なくなっている。その理由のひとつは、職業の性差がなくなり、男性の助産師も増えていて、これを「男・産婆」のような言い方で「Sage-Femme homme(サージュ・ファム・オム)」と呼んだりしてましたが、いかにも滑稽&陳腐。それに代わる正式職業名として "Accoucheur アクーシュール(女性形 Accoucheuse アクーシューズ)”(出産師)、あるいは "Maïeutitien マイウーティシアン(女性形 Maïeutitienne マイウーティシエンヌ)”(出産術師)と呼ばれるようになってきました。つまり、「サージュ・ファム」というのは消えつつある職業名であり、主人公クレールはそれは同時に消えつつある職業と感じています。映画の最初で見えてくるのは、クレールが勤める郊外の公立総合病院が「産科」を閉鎖し、代わって広範囲の周辺町村をカバーする大きく近代的な産科センターができることになっていて、クレールは失業か、産科センター移籍かの選択を迫られています。クレールは長年の経験で伝統的な「産婆術」を身につけてきたベテランの「サージュ・ファム」の誇りがあり、その経験をないがしろにする「赤ん坊工場」のような産科センターには絶対に行きたくないと思っています。
 映画はそのクレールが、妊娠・出産のありとあらゆることを知り尽くした貫禄の顔表情と声で妊婦に語り、その名調子でこの世に赤ちゃんを導き出すという、まさに職人的プロ産婆術を披露するところから始まります。昼夜を問わず、お産があればその全身全霊をかけて「取り上げる」、そういう頑固で堅気でヒューマンなお産婆さんです。これは映画の後半でわかるのですが、これまで取り上げた子たちの名前、そしてお腹から出てきた時のどんな風だったか、どんなに手を焼かせたか、などを全部記憶しているのです!
 徹夜のお産仕事をして朝帰りしたクレールの留守番電話に、ベアトリスと名乗る女性からメッセージ。クレールの父親の愛人だった女。35年前に蒸発したきり何の音沙汰もなかった彼女が再び姿を現す。どうしてもクレールに会いたいと言う。クレールは不承不承に出かけていきますが、そこにいたのはシャンゼリゼ近くの豪華アパルトマンにスクワット(スコッター)している派手趣味でほぼアル中/モク中の老女でした。脳に腫瘍ができて余命いくばくもないと言う。死ぬ前に別れた恋人が気になって、と呆れるほど自分勝手なリクツを言う。「アントワーヌ(クレールの父親、ベアトリスが蒸発して捨てた恋人)は どうしてる?」という問いに、クレールは嫌悪と怒りで取り乱す。父親はベアトリスの蒸発後、ピストル自殺している。「それはウィキペディアにも公開されて、はっきり書かれているのよ!」(実際この人物がウィキペディアに載るような有名人だったことは映画後半でわかります)ー ベアトリスには晴天の霹靂だったこの知らせにうろたえて、とっさに老女はクレールに償いをせねばと手持ちの大きなエメラルドの指輪を差し出します。
 金と派手な生活と酒と肉食が好きなこの老女は、この身ひとつの自由人としてボヘミアン的に生きてきました。この姿が今や貫禄の巨漢となったカトリーヌ・ドヌーヴにドンピシャなのです。男と金には困らなかった人生。その金の出所は闇のトランプ賭博で、勝ったり負けたりを繰り返しながら、結局勝つ、という強運のついた女です。 ベアトリスはクレールに(そのあてもないのに)財産の贈与を申し出ますが、クレールは私は今のままの質素な生活が好きだし、それで十分だと拒否します。
 失業目前の助産婦クレールは、マント・ラ・ジョリーというパリ圏とノルマンディー地方の境の半・田舎の郊外に暮らし、アルコールと肉を口にせず、自転車通勤をし、小さな有機栽培の貸し農園で自分の野菜を育てています。父親なしに育てた息子シモンは優秀な成績で医学部に進み、親元を離れようとしています。実直・堅実・健康第一を絵に描いたような平凡な生活を送ってきたクレールも、ここに来てひとつの大きな転機の到来の予感があります。まず職業的な危機、次に息子シモンの変化(シモンの恋人が妊娠していて、二人は家庭を持とうとしている。そしてシモンは医学部進学をやめて母と同じ助産師になろうとしている...)、さらに貸し農園の隣人で長距離トラック運転手のポール(演オリヴィエ・グルメ)が(色恋と全く無縁だった)クレールに強引に思いを寄せて来る、そして大きな厄介者としてクレールの生活に土足で入ってきた老女ベアトリス。このすべての災難にクレールは最初はたじろぎ、拒絶的に反応するのですが、やがてそのすべてがクレールの人生をカラフルに彩っていく... という映画です。
 ベアトリスの人物像は極端です。貧しいコンシエルジュの娘として生れ、少女の頃から東欧貴族の子孫(それ風に”ボレフスキー”と偽名を語る)と自分を偽り、美貌を武器に金持ちの男たちに寵愛され派手に、かつ自由に生きてきた。その間に知り合ったアントワーヌ(クレールの父)も、当時は派手な花形スポーツ選手(水泳チャンピオン)で、世界中を遠征して周り、ピープル誌にも大きく登場していた。妻子ありながら、ベアトリスを激愛していたアントワーヌは恋人の蒸発に絶望しピストル自殺する。当時13歳だったクレールはこの死を受け入れることができなかったし、ベアトリスを一生恨み通すと思っていました。
 脳腫瘍で余命宣告を受けても、アルコールと煙草と肉食をやめないベアトリスの豪放さは、姿カタチや言動がどう変わろうともドヌーヴの「戦友」「心の友」であるに違いない ジェラール・ドパルデューの豪放さと少しも変わらないように見えます。
 映画も後半、クレールは息子シモンの決心(医者ではなく助産師になる)も自分が祖母になることも受け入れ、気の良いトラック野郎ポールとの情事も楽しむようになり、アルコールもたしなみ、ベアトリスの代わりに闇賭場の精算所に行ったりもします。マント・ラ・ジョリーの郊外集合住宅にあるクレールのアパルトマンに一時的に身を寄せることになったベアトリスに、クレールが父アントワーヌの若い時(水泳選手時代)のスライド写真を見せるシーンがあります。部屋を暗くして、クレールとベアトリスはベッドに横たわり、ワインを飲み交わしながら、スライド映写機で次々に大きく映し出されるアントワーヌの姿を見て二人ともおいおい泣いてしまうのです。ここがこの映画のマジック。そこに偶然息子シモンが入ってきます。壁に映し出されたアントワーヌとシモンは瓜二つなのです。ベアトリスは驚愕して言葉を失います。初対面のベアトリスとシモンに、クレールは「ママンの若い時の友だち、ベアトリスよ」と紹介します。シモンはベアトリスに「ビーズ」で挨拶しようとしますが、ベアトリスは抑えきれずシモンの唇に唇を重ねてしまうのです(事故のように描かれますけど)。うまい!なんてうまい!このシーンで幸せになれない人などおりましょうか。

カストール爺の採点:文句なし★★★★★

(↓)"SAGE FEMME"予告編
 

2017年3月29日水曜日

いざ生きめやも

『エ・レ・ミストラル・ガニャン』
"ET LES MISTRALS GAGNANTS"

2016年フランス映画ドキュメンタリー
監督:アンヌ=ドーフィヌ・ジュリアン
フランス公開:2017年2月1日

 画のタイトルは言うまでもなく1985年発表のルノー代表曲「ミストラル・ガニャン」に因んでいます。紛れもない名曲ですが、この歌に関しては爺ブログ2015年7月27日の記事で詳しく解説しています。そこでも強調していますが、この歌の最大のポイントは歌詞の最終部に出てくる:
Te raconter enfin qu'il faut aimer la vie
Et l'aimer même si le temps est assassin
Et emporte avec lui les rires des enfants
Et les mistrals gagnants
そしてやっぱり人生を愛さなきゃだめだときみに言う
たとえ時がとても残酷なものであっても愛さなきゃだめだ
時は子供たちの笑い声と 

ミストラル・ガニャンを共に連れ去っていく 
という部分です。たとえ時がどんなに残忍な殺し屋であっても、人生を愛さなければいけない。このドキュメンタリー映画に登場する5人の子供たち(5歳から9歳)は残酷な時の中に生きています。アンブル、カミーユ、シャルル、イマード、チュデュアル(註:これはブルターニュ地方の男児ファーストネームだそう)、この5人は病名も社会背景も異なりますが、共通するのはみな難病と闘っていて、病院・家庭・学校を行き来しながら「その日」を生きているということです。この子たちはすべて(大人でも覚えられそうにない)自分が罹っている病気の複雑な病名をそらで覚えていて、その病気が現代医学では治癒が難しいということも知っています。つまり自分の命が短いということを自覚しているのです。
 このドキュメンタリー映画を撮ったのはアンヌ=ドーフィヌ・ジュリアンという当年43歳のジャーナリスト/エッセイストで、これが初の映画作品です。彼女は2011年に『濡れた砂の上の小さな足跡(DEUX PETITS PAS SUR LE SABLE MOUILLE)』と題する、難病(異染性白質ジストロフィー)を持って生まれた自分の長女と次女との日々を綴った手記本(日本語訳本が講談社から)を発表していて、これが26万部を売るベストセラーになりました。本を発表後、長女も次女も短い命を燃え尽きさせました。映画はその娘たちの生死の日々に立ち会っている時期に制作されています。
 
妖精の姿かたちをした9歳の少女、舞台で劇を演じることが何よりも好きなアンブルは「肺高血圧症」のため、いつも背中に肺と心臓の機能を調整するための機械の入ったバックパックを背負っていなければならない。彼女はそれをつけて劇を演じ、走ったり踊ったり...。「嫌なことは気にせずに、この病気と一緒に生きるのよ」と言う。
5歳半なのに哲学者然とした「悟った」ものの言い方をするカミーユは小児ガンの一種「神経芽細胞腫」で、このツルツル頭の可愛い子は
"Ma petite sœur a un an et demi, mon père 30 ans et demi, ma mère 35 ans et demi et moi 5 ans et demi. C'est la famille et demi".  
(僕の妹は1歳半、僕のパパは30歳半、僕のママは35歳半、そして僕は5歳半。だから僕の家族はひと家族半。)
なんていうあっけにとられるようなユーモアセンスの持ち主。(この子は撮影が終わった6ヶ月後に亡くなったそう)
 いたずら者のシャルルは「表皮水疱症」はその脆い皮膚が少しの衝撃でも崩れてしまうのを知っているのに、毎日「病友」のジェイソンと病院の廊下を走り回って遊んでいる。あらゆる危険を知りながら、ディズニー動画「ライオンキング」のヒーローたちのモットー「ハクナマタタ(どうにかなるさ)」と唱えながら、困難にぶつかっていく。
4歳の時にその難病の治療ためにアルジェリアから家族と共に移住してきたイマードは、「内臓逆位」と進行性の「腎不全」のために、腎臓移植しかその命を救う方法はない。学校に行けたり行けなかったりで友だちといつも一緒にいれないし勉強も遅れる。 故障したロボットのように、胸を開けて部品を取り替えれば良くなれる。「それは僕にはとても簡単なことなんだけど、大人の人たちには難しいことなんだね」と現状を分析する。
そしてチュデュアルも小児ガン「神経芽細胞腫」を患っていて、その楽しみはピアノを弾くことと家庭菜園で花や野菜を育てること。花の名前を全て暗記していて生き物に優しく、その幸せは誰にも邪魔することができない、と力強く言う。
"quand on est malade, ça n'empêche pas d'être heureux. Quand un ami meurt, on  est triste pendant longtemps, mais ça n'empêche pas d'être heureux"
(病気であっても、それは幸せになることを妨げない。友だちが死ぬと長い間悲しいものだけど、それは幸せになるのを邪魔することじゃない。)

 病気だから不幸になるわけじゃない。この子たちは幸せになることを選んだのです。生きることをポジティヴに楽しんでいるのです。生とは生まれてから死ぬまでの瞬間のこと。この生を幸せに過ごすこと。たとえ短いとわかっていても。治療や痛みは辛くても(映画は辛くて泣きだす子供の姿も映します)。どうしてこの子たちはこんなに笑えるのだろう? ー と問うのではなく、この子たちは笑うからポジティヴになれるし、ある種のオプティミズムさえ獲得してしまっているのです。教えられましたよ。教えられましたとも。生きることを愛さなきゃダメだ。 この子たちを抱きしめましょう。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『エ・レ・ミストラル・ガニャン』予告編

(↓)『エ・レ・ミストラル・ガニャン』 カミーユ君

 
 

2017年3月12日日曜日

センチメンタル1000日

ラウディオ・バリオーニ「きみと僕の1000日」(1990年)
Claudio Baglioni "Mille Giorni Di Te E Di Me"(1990)

 バリオーニの1990年のアルバム『オルトレ(Oltre)』 のイタリア盤オリジナルはLP2枚組20曲入りで出たのですが、私はフランスにおりまして、当時のSony Musicがオランダ、イギリス、フランスなど向けに出したCDアルバム『オルトレ』は11曲入りで、ジャケットもイタ盤とは異なっておりました(→CDジャケ。↓2LPジャケ)。Discogsのデータによると、CD2枚組20曲(完全)盤は2011年にヨーロッパで発売になっているようですがフランスでは見かけません。
  1990年、ワールドミュージック現象が音楽シーンを賑わしていた頃で、このアルバムにもユッスー・ンドゥール、リシャール・ガリアノ、パコ・デ・ルシアといったゲストが参加しています。とは言っても、ちっともワールドっぽいところのないアルバムで、欧州の凄腕ミュージシャンたち(トニー・レヴィン、ピノ・パラディノ、マニュ・カッチェ...)
に支えられたいつものバリオーニ調メロディー&サウンドです。
ここで紹介する「きみと僕の1000日」は、オリジナル版2LPではC面の5曲め、欧州版CDでは10曲めに収められたバラード曲です。詞は "bellaitalia.free.fr"というアマチュアサイトが約650もイタリアの楽曲をフランス語に翻訳していて(Un grand merci au passage!)、その仏語訳詞から日本語詞にしてみました。そりゃあコンピュータソフトの訳ではなく人間訳なので、ずっとフランス語っぽい翻訳になってますけど、まだまだ難しい。要するに、3ヶ月足らず1000日を一緒に暮らして破局してしまった男女のことなんですが、「世界が二人を羨むほどの」という内容があるので、スター的私生活のことだったんじゃないでしょうか。つまりバリオーニのプライヴェートに大きく関係した歌詞のように思えます。結構弁解がましい。芸能界、おおいやだいやだ。
 詞よりもずっとずっと心惹かれるのは、曲頭のドラムスの切り出し。これは手持ちの欧州版CDのブックレットに書いてあるパースナルによると英国人ドラマー、スティーヴ・フェローニ(アヴェレージ・ホワイト・バンド)が叩いていることになってます。ところが Discogsの資料(1990年イタリア版2LP)によると、ドラマーはチャーリー・モーガン(エルトン・ジョン・バンド)となっている。さあ、どっちなんでしょう(わたし的にはどうでもいいことなんですが)。何はともあれ必殺のドラムスイントロデューシングで、それに続くピアノのイントロメロディーが極上の哀愁もので、歌が始まる前に世界幾万の哀愁音楽ファンは魅了されてしまったことでしょう。そういう曲です。以前紹介した「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」と同様に、超絶延音ヴォカリーズの聞かせどころもありますが、この曲に関しては「出だし24秒だけで十分」というのが私の極論です。
僕はきみの中に隠れ、そして僕はきみのすべてを隠した。誰も僕のことを見つけられないくらいに。そした今、きみと僕はそれぞれの場所に戻っていく。やっと自由になれる、でも何をしていいのかわからない。
僕はきみに弁解も咎めもしない。僕はきみを傷つけまいとして実際には傷つけてしまった。きみは苦しみを抱えながらもしっかり立っていた。僕は被告席に立つよ。

きみの次に恋人になる女は僕の匂いだと思ってきみの香りを嗅ぐだろう。きみと僕はありとあらゆる人たちから羨まれていたんだ。でもきみと僕は何十億の人々を敵に回して勝てっこなんてないのさ。そして恋物語は台無しになった。

きみと僕は何もせずに一緒になったように、何もせずに別れた。結局何もすることなどなかったのだけれど、何かする代わりにゆっくりととても遠くまで逃げていったんだ。何も考えなくてもいいような遠いところへ。

二人がぶち壊される前に僕たちはおしまいにした。きみと僕の愛には終わりがなく僕のためにとっておこうとしたけれど、それがうまくいったと思ったのは束の間、僕はきみを失いかけていることに気がついたんだ。

きみの次に恋人になる女はきみが残した家具を使うことになるだろう。きみが出て行きがけに乱雑に書類を飛び散らかしたままの状態で。僕ときみの最初のシーンのようだけど、モーションは逆だ。

僕たちが知らなければならないこととは逆に、僕たち二人が知ったこと、そして決して理解できないことは、もはや今はないあの永遠の瞬間は確実に存在したということ、それはきみと僕の1000日の日々。

きみに僕の古い友達を紹介しよう、それは永遠に残る僕の思い出、この別れの時の僕さ。僕はきっとまたきみと恋に落ちるだろう….
 (きみと僕の1000日)
きみと僕の1000日。これに「前」をつけて、「あなたとわたしの千日前」とすると、たちまち、ディープな大阪ローカルラヴソングに豹変してしまいます。

(↓)1990年アルバム『オルトレ』のスタジオ・ヴァージョン。


(↓)1991年 TVライヴ。この時バリオーニ40歳。美しい。しかし、途中でむりやり入る拍手の音(フロアディレクターの煽りか)、なんとかならんもんだろうか。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアムでのライヴ。終盤5分20秒頃から、1分半のアウトロ。


(↓)2003年、ローマ、オリンピック・スタジアムでのライヴ。デカいオブジェ装飾がゴロゴロ、フィリップ・デクーフレ舞踊団のような奇抜ダンサーたち、クレージーホースサルーン風な露出度高い女性ダンサーたち....。最後は乱舞ですね。「1000日」というより「千一夜」みたい。

(↓)2006年、マチェラータでのフェスティヴァル、ピアノ弾語りライヴ。



2017年3月11日土曜日

終わりなき世のめでたさ

ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」(1961年)
Gino Paoli "Senza Fine"(1961)

 イタリア語で陣羽織のこと(ウソです)。60年代イタリアを代表するカンタウトーレの一人、ジノ・パオリ(1934年生れ)はそのデビューの頃にこれまた女優・歌手としてデビューしたてのオルネラ・ヴァノーニ(1934年生れ)と熱烈な恋に落ちます。この実生活から生まれたようなラヴソングが「センツァ・フィーネ(恋に終わりなく)」で、1961年にオルネラ・ヴァノーニの初の大ヒット曲となり、パオリ自身の録音もヒットしています。しかし所詮歌なんて嘘っぱちで、恋に終わりは来て、1963年7月にジノ・パオリはその破局のショックにピストル自殺を図っています。死んだらダメだ。生きていかなきゃ。再生して5回のサン・レモ音楽祭出場を果たし、政治的にもアクティヴに活動し、共産党選出の国会議員(1987年〜92年)にもなっています。
 「センツァ・フィーネ」はなんと言っても美しい音階の上昇と下降のあるワルツ曲です。終わりのないくるくる旋回の円舞曲です。目が回り陶酔する男女ダンスです。陶酔しきったらそのまま男女はベッドに倒れこみ、終わりのない夜を過ごすのです。なあんてね。若いっていいですね。
 ディーン・マーチン、ペギー・リーなど国際的な歌手たちにカヴァーされて、「センツァ・フィーネ」は世界的なスタンダード曲になっていきます。また1965年アメリカ映画『飛べ!フェニックス』(ロバート・アルドリッチ監督、ジェームス・スチュアート主演)では、テーマ曲と挿入曲に使われ、コニー・フランシス歌う「センツァ・フィーネ」がこんなシーンで。


 さてオリジナルは、ジノ・パオリとオルネラ・ヴァノーニのエンドレス・ラヴを歌ったものです。歌詞はこんな感じです。
終わることなく
僕ときみの人生ををきみは導いていく
ひとときも息切れせずに
夢見ること
過去のことを
憶えていること
きみは終わりのない
今この瞬間
きみには昨日もなく
明日もない
すべてはきみの両手の中に
きみの大きな手の中に
際限もなく大きな手
月のことなんかどうでもいい
星たちのことなんかどうでもいい
きみこそが僕の月、僕の星
きみこそが僕の太陽、僕の空
きみことが僕が欲しいすべてのもの
それには終わりがない…

そろそろこの記事終わりにしましょう。

(↓)ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)ディーン・マーチン「センツァ・フィーネ」1963年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ&ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」ライヴ 2005年


(↓)クラウディオ・バリオーニ「センツァ・フィーネ」2006年


(↓)ボズ・スキャッグス「センツァ・フィーネ」2008年


(↓)ゴンタール「イノシシ」2016年


2017年3月8日水曜日

ラ・ノッテ、ラ・ノッテ

ラウディオ・バリオーニ「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」(1985年)
Claudio Baglioni "Notte di note, note di notte"(1985)

 題の出典はエチエンヌ・ダオ「ローマの週末 Weekend à Rome」(1984年)です。歌詞中に "variété mélo à la radio"(メロな流行歌がラジオに)と出てきますが、84年当時のローマのラジオでメロなヴァリエテと言えばバリオーニだったでしょう。
 伊ウィキペディアの数字によると、クラウディオ・バリオーニの最大のヒットアルバムで400万枚を売った1985年の『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ (La Vita è adesso。人生は今、と直訳せず『いざ生きめやも』 と訳したりして...)の最終トラック10曲め(当時はB面5曲め)に収められた曲です。アルバムはヴァージン・レコーズの創始者リチャード・ブランソンが1971年に英国オクスフォード州の城館を改造して作った伝説のザ・マナー・スタジオで録音されていて、ドラムスにスチュワート・エリオット(アラン・パースンズ・プロジェクト)、ギターにフィリ・パーマー、珍しいところでは後年映画音楽の巨匠となるハンス・ジマーがキーボードで参加しています。
 "Notte di note, note di notte"は notte (ノッテ=夜)とnote(ノッテ=ノート、音符、メロディー)の同音異義語を並べた「調べの夜、夜の調べ」(あんまり上手い訳ではなくてゴメンなさい)といった意味です。どうなんでしょうね。さっき伊語→仏語(google translation)経由で訳してみましたけど、星降る夜が音符降る夜みたいになって、人類の希望と共に安らかに恋人と眠れるというポジティヴな歌詞ですけど、バリオーニは歌詞的な面白みは少ないと思いますよ。歌詞の中で、「この夜のこの瞬間にカリフォルニアと日本の間で人類の未来が創造されている」というパッセージがありますが、1985年当時の感覚ではシリコンヴァレーと日本が未来の象徴だったわけです。今は昔。
 歌詞なんてどうでもよく、この歌の最大の聞かせどころは、Bメロからサビへのつなぎに挿入される5音階上昇息継ぎなしの超絶フェルマータ(延音)で、どれほどの小節を全音スラーでつないでいるか気が遠くなるほどのブレスレスのヴォカリーズです。どんな構造の肺を持っているのでしょう。ライヴ録音ではここに婦女子のみなさんのキャーキャー声やため息が集中しているのがよくわかります。ミラクル長息。バリオーニはこの一点でも歴史に残る大ヴォーカリストでありましょう。
調べの夜 夜の調べ
月が犬を惑わせる
通りに隠れている放浪者たちはすべてを知っている
僕たちは歩く
地球が回る音とリズムに従って
パン屋はもう明朝のパンを焼いている
バケツの水はベランダの植物たちを目覚めさせる
朝の太陽は
僕の顔にかかった蜘蛛の巣の糸を
焼き払う
僕を追ってくるひと吹きの風が
ズボンの裾を鳴らしていく
天から降ってきたたくさんの音符を
何本の指で受け止めたことだろう
鍵をかけられた扉の向こう側に
一日の始まりは近い
小さな痛みよ、おやすみ
遊び人たちみんな、おやすみ
墨色の雲の中に、おやすみ
僕たちの息子よ、おやすみ
ここ天国の一角では
すべての匂いが思い出
それははっきりとよみがえる
そして悪い日々の渇きを取り去ってくれ
疲れた心に
平穏の夜をもたらす
調べの夜、夜の調べ
太鼓の皮のように張りつめた夜
ヘッドライトは僕のことを
目で理解しようとしている
落書きで描かれたような世界で
落ち葉を踏んで通り過ぎる人たちのために
今この瞬間に
カリフォルニアと日本の間で
未来を発明しようとしている人たちがいる
今夜 星たちは自由で
夜明けは古い町並みを見間違え
つぎはぎだらけの若い空は
新しい潮風を呼吸する
波打つ砂漠の只中で
妙にかすれた声があなたに聞く
あなたは今まで一体何を浪費してきたのか、と
数々の領収書に おやすみ
風の中に飛んでいって おやすみ
金色の沈黙の中で おやすみ
僕のお宝、おやすみ
ここでは誰もそんなやり方で
きみたちの夢をだれかに盗ませたりしない
希望の光と
新しい歌が
空から降りてくる時
今夜ここに
その音符たちが降りて来て
開かれた手のひらに
人生を見つめてくれる
僕はずっと
いつまでもそれを信じている
僕は愛のまなざしに従って
恋人の傍らで
眠りに落ちて行く

(↓)1985年アルバム『ラ・ヴィタ・エ・アデッソ』 のヴァージョン。 アルバム最終曲なのでアウトロがちと長い。


(↓)1985年ライヴ。アルバム『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ』発表年のライヴ。この時バリオーニ34歳。映像と音には細工がないでしょう。つまりあの超延音パートを細工なしで歌ってると思う。


(↓)1995年ライヴ。かなりスローになって、超絶フェルマータが際立つ。すっかりライヴの目玉ナンバーの一つ(大体はショーの最初に歌われると思う)になってる。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアム(すげえ)ライヴ。あの超延音部を走りながら歌ってる。超人的。新体操のおねえさんたち...(ちょっといただけない)。ブオナ・ノッテとベッドに寝てしまう。


(↓)2006年(アコースティック)ライヴ。55歳。さすがにこの頃は婦女子の皆さんのキャーキャー声がない。やっとどんなに美しい曲なのかというのがわかる。4分40秒めからバグパイプが登場。うっとり。


(↓)201X年ライヴ。4分10秒めまでピアノ弾き語り。60歳を過ぎて、さすがに音程がちょっとフラット気味。超絶延音パートもちょっとだけ苦しそうだけどお見事。


 

 

2017年3月5日日曜日

You don't know what love is

Aki Shimazaki "Suisen"
アキ・シマザキ『スイセン』


  年3月、パリの環状道路ペリフェリックの西側(オトイユ門からシャンペレ門)の外側土手はスイセンの花で真っ黄色になり、環境に優しくない自動車族に春の訪れを告げます。そんな時期3月1日にアキ・シマザキの最新作『スイセン』がフランスで刊行されました(ケベックで2016年9月に既刊)。シマザキの13作目の小説で、「アザミ」(2014年)、「ホオズキ」(2015年)に続く、第3の五連作(パンタロジー)(総題はまだついていない)の第3作目になります。
 本作の場所は現代の名古屋で、話者は男性です。『アザミ』の登場人物だったゴロウです。中部地方で大成功している酒造メーカー「酒屋キダ」の現社長で、豪放な人柄で派手な交遊好き+女好き、という絵に描いたような旧時代の日本型経営者タイプです。読み始めから、あ、まずいな、と思ってしまいます。こういう人物はおよそロマネスク(小説的)なキャラクターでないからです。シマザキはこの人物に日本的俗物の要素をどんどん詰め込んでいきます。金と名誉と女。ほとんど戯画化されています。二流大学商科の出、(自家よりも格の低い)良家の娘と見合い結婚、大学生の娘と高校生の息子の進路や交際相手をコントロールしようとする、有名人と一緒に写っている写真で壁を埋め尽くす、女性誘惑のガイドブックの教えを実践して女性が握手で差し伸べた手に接吻する、ゴルフやパーティーや高級バー通いをビジネスとして利用できる、絵が趣味の妻に山荘を買い与えその絵描き滞在の不在を利用して浮気をするがその不倫を妻が知らないと思っている、金と権力がある男にあらゆる女が服従するものだと思っている...。この俗物性のてんこ盛りで、シマザキは日本社会のある種の男性像を際立たせます。欧米人にはエキゾチックで滑稽でネガティヴなパーソナリティーです。アメリー・ノトンブが日本を舞台にした小説群に登場させるエキゾチックな日本人にも似ています。
 企業小説の部分もあります。破竹の勢いで伸びている「酒屋キダ」は同族会社で、ゴロウは社長だが、実権は義理の母(株の50%をホールド)が握っている。二代目社長である父の最初の妻はゴロウを生み、ゴロウが3歳の時に亡くなり、父は再婚して腹違いの妹アイが生まれる。異母兄妹のゴロウとアイは幼少の日から今日までずっと反目しあっている。義母は父を助け会社経営にも参画して「酒屋キダ」の総務責任者になる。ゴロウは勉学が苦手で二流大学の商科に入るのがやっとだったが、アイは一流大学で生物学を学ぶ。 やがてゴロウが30歳の頃に父が急死し、「酒屋キダ」は義母の総指揮のもとゴロウを社長に据え発展を続ける。その発展の最大の要因がウィスキー市場への参入で、ウィスキー開発部のチーフ(同じ生物学出身)とアイが恋愛結婚し、養子として「キダ」姓を名乗り一族入りする。月日が経ち、義母が80歳となって引退が近いと踏み、ゴロウはもうすぐ義母が持ち株分を自分に譲渡して、名実ともに「酒屋キダ」の社主になれると信じていた。
 本題はゴロウが女で身を滅ぼすという話です。まず目下の愛人第一号であるユリという美貌の人気女優です(あれあれ「ユリ」という花の名前です。次のシマザキの小説のタイトル&主人公になる可能性あります)。駆け出しの頃にゴロウが目をつけ、ゴロウの人脈を使って芸能プロダクションに顔つなぎをしたのがきっかけで、人気女優の座を手に入れた、とゴロウは思っています。つまり自分は愛人&恩人であり、俺の方に足を向けて眠れないはず、と。ところが主演映画発表のレセプション会場で、ユリは冷たく急用ありとゴロウを避けてその場を立ち去ります。
 続いて愛人第二号のO(オー)という未亡人。彼女の亡き夫は「酒屋キダ」の平社員だった男で、Oも当時は共働きで「酒屋キダ」で働いていました。社に大きく貢献した良き社員という表向きの理由で、ゴロウは大きな葬式を出してやり、特例の慰霊見舞金を捻出してOに近づいていきます。そして未亡人に住居まであてがってやるのですが、そこが妾宅となり、昼夜を問わず好きな時に行って愛人遊びをするようになります。
 この愛人第一号と第二号が、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ理由でゴロウを振ってしまいます。「新しい恋人ができたから」と言うのです。そいつはどこのどいつだっ!とゴロウは激昂して聞きます。人物はともかく、ゴロウが絶対に信じられないのは、その二人の新恋人の職業がいずれも勤め人(サラリーマン)であるということなのです。 社長とサラリーマンを比べて、サラリーマンを選ぶ女などどこにあるのか、という単細胞です。社長に比べてサラリーマンなど取るに足らない人間である、という身分差別です。ゴロウには自分よりも下層民を好きになることなど想像もできないのです。
 ここから誘導されてテーマは大上段に「愛するとは何か?」ということに移っていきます。日本の俗物男は愛するとはどういうことか知っているか?日本の男は愛することができるか? このことはちょっと上に引き合いに出したベルギー作家アメリー・ノトンブの日本男性観にも関係します。その2007年の小説『イヴでもアダムでもなく』の中で、ノトンブは日本人の恋は "amour"ではなく "goût"であるという論を展開します。つまり日本語の「あなたが好き」は「好き」つまり好みのレベルに留まっていて、命がけ・狂気がけに昇華した西欧的恋愛ではないというようなことを言うのです。私は読んだ当時はむっと来ましたけどね、あとで当たらずといえども遠からずと思うようになりましたよ。この小説のゴロウはこれまで一度も女性を愛したことも恋したこともない。自分が好きになった女をものにするということに愛も恋も必要ない。自分が女をものにできるのは金と名誉があるからである。ー というレベルのマテリアリスムがものを言う世界にゴロウは生きているのです。 You don't know what love is.
 この小説の物足りなさはまさにこの単純化です。なぜゴロウがそのように人を愛せない人間になってしまったのかをこの小説で説明するのは、幼くして母と死別したことなのです。愛を受けたことのない人間は愛を与えることができない ー ちょっとこの分析簡単すぎませんか? ゴロウが女性を誘惑したあとで、必ずゴロウはその女性に自分の幼少時の不幸を告白するのです。女性はそこで「金と権力」ではないゴロウを見て、ふ〜っと心惹かれるのですが、ゴロウはそれをかなぐり捨てて金と権力の男に戻ってしまう。作者はこのパターンを3人の女性を相手に三度繰り返すのです。愛の萌芽を潰してしまうのはゴロウの根に付いた俗物性に他なりません。幼児体験を重視すると許容性が勝ってしまうではないですか。しかし作者は後者を選びます。
 ストーリーは、ゴロウの思惑とは裏腹に度重なる不倫を全て見抜いていた妻と子供たちの離反、二人の愛人からの絶縁宣告、そして「酒屋キダ」内でのゴロウの失権という、あらゆる不幸でゴロウを打ちのめします。この連続の不幸をゴロウは俗物ゆえに最初なぜこうなるのか全く理解できないのです。
 ページ数的にはあまり登場場面の多くない人物ですが、非常に重要な第4の女性が居ます。それはゴロウが見合結婚する前に付き合っていた貧乏高校生のサヨコです。八百屋でバイトしながら一間アパートで自活生活をするサヨコは、大学に進学して心理学を学びたいという希望がある。サヨコは他の女たちと違ってゴロウに媚びることなく、ゴロウよりもはるかにインテリなことを言って、ゴロウを批判したりもする。ゴロウが大企業の次期社長だと知っても、それが何なの?という態度。サヨコはゴロウの不幸は幼少体験の不幸なのではなく、人を愛せない不幸なのだと見抜いている。そのサヨコが交際の1周年を記念して、ゴロウにスイセンの柄の付いたネクタイをプレゼントするのです。ゴロウはその翌日に見合い相手と結婚するということをサヨコに明かしません。しかしサヨコにはこの不幸な男はそうやって去っていくということを悟っていたような。
 ゴロウがサヨコと別れた理由?それは俗物ゴロウが、貧乏サヨコと次期社長の自分では身分が違いすぎると思ったからなんです。ここのところとっても弱いように思いますよ。身分の違いで泣く文学っていくら日本でも21世紀的じゃないです。
 
 四重五重の不幸と罰と辱めを受け、すべてを失ったゴロウは名古屋から金沢までベンツを飛ばして、サヨコのことを回想してみるのです。愛することを知らない人間はやり直しができるのか、ということも。
 終盤にきれいなパッセージがあります。犬や猫やあらゆる動物を毛嫌いしていたゴロウが、自宅物置で針金に足を絡めてケガをしていた猫を助け、獣医病院に連れていくのです。「迷い猫ですね、治療が終わったらが引き取りますか?」と聞かれ、妻子に出て行かれひとり身になったゴロウは「飼います」と答えるのです。「でしたら登録しますから名前をつけてください」と言われ、サヨコの回想でやり直しの手がかりを掴みつつあるゴロウは「スイセン」と命名するのです。

 ちょっとステロタイプな日本の「男性原理」は、このゴロウというキャラクターから人間的な厚みを削いでしまっているように思います。挿入される(人気女優ユリ主演の)映画「お母さん行かないで」のストーリーも、ゴロウの母子愛渇望の涙を流させるために使われるのですが、いかにもチープなお涙ものです。あまり説明的にならずに展開して欲しいです。幼少時のトラウマが頑迷な俗物を生むということ、日本男性の恋愛情緒の薄さはどこから来るのかも掘り下げなければならないでしょう。この男は愛することを知らない。これは私も含めた日本男性のパッションのありかの問題で、この小説には答えはありません。では、また次作でお会いしましょう。

Aki Shimazaki "Suisen"
Actes Sud刊 2017年3月 160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆