2017年6月11日日曜日

T'as l'air con chez toi ? (エアコンある?)

ジュリ・ブランシャン・フジタ『ジェーム・ル・ナットー』
Julie Blanchin Fujita "J'aime le nattô"

 本にいるちょっとだけ日仏バイリンガルな日本人友人(女性)に誕生日プレゼントで送るつもりで買ったのですが、読み出したら止まらなくなりました。ジュリ・ブランシャン・フジタは1979年フランス西海岸シャラント・マリティーム県サント(ジ・アトラス・マウンテンズのフランソワと同じ出身地ですね)生まれのイラストレーター/BD作家です。この本の序章のような生い立ち紹介によると両親とも美術教師&絵描きで、お金はそんなになくても廃屋を買って改装して売りに出すような器用/ラヴ&ピース/自由気ままな家庭環境だったようで、ジュリさんも色々反抗しながらもリセから絵描き方面の学校に進みます。美術系のディプロマは取っても職にありつけない悪戦苦闘は「アマゾンでの生活よりも辛い」と、それよりも若干楽なアマゾンに滞在すること6ヶ月、その体験をBD作品化したところ出版社が見つかり、その作品が各方面で目に止まり、学術系のイラストレーターとしての道を歩むはずだったんですが...。日本の極地動物研究チームに同行して日本の南極観測船「しらせ」に乗って南極へというプロジェクトへのフランスの助成金が断ち切られ、明日をも知れぬ状態でジュリは日本にやってきてしまいます。これが2009年10月のこと。
 それ以来、東京(+近郊)で畳アパート暮らしで、東京&日本に溶け込んでいくのですが、住んだところが町田、鶴瀬(埼玉県)、目黒、碑文谷(学芸大学)、清澄白河... なんていう、私のような東京知らずにはエキゾチックなところばかりなのです。
 
230ページのバイリンガル(仏日語)イラストレイティッド生活体験記です。えらいのは、立派にバイリンガルなんですよ。多分に日本人夫の協力は得ていると思いますけど、(→)こんな感じで、手書きフランス語と手書き日本語が並んで乗ってます。ただ、本当にバイリンガルの人にはわかる、この仏文と日文の微妙な違いや意図的なはしょり方が実は非常に面白いのです。だからこれは絶対両方読まなければなりません。
 フランスとは大きさも黒光りも違う日本のゴキブリが飛ぶこともできるという驚愕の発見や、電車の中は深々と熟睡できる環境だったり、 歩道を傍若無人に暴走するママチャリへの恐怖、ゆるキャラやマスコットの氾濫(警察マスコットのピーポくんの「万引きはダメ、本は買いましょう」ーこんなん初めて知りましたよ)... などなどその観察眼はやや「不思議の国ニッポン」風ではありますが、ベースには日本の大衆生活の見事さを愛でるリスペクトがあります。
そして本のタイトル通り、日本の大衆食への偏愛があります。『ジェーム・ル・ナットー(私は納豆が好き)』はマニフェスト的です。よく言われることですが、これは非フランス人にとっての香りのきついフレンチ・ナチュラル・チーズ (fromage qui pue)と同じで、その国の人でなければ最初は一様に拒絶感をあらわにします。納豆に至っては頑なに拒絶する関西人たちも多いでしょう。本書のジュリさんも最初はダメなんですが、やがて大ファンになっていきます。日本食は何でも食べられるけど納豆だけはダメというガイジンとは「チョトチガイマス」という誇らしさが。
 この日本生活体験記の中に、2011年3月11日の東日本大震災も描かれています。18ページのスペースを使って、大地震体験から、日本人と滞日欧米人などに入る情報の違い、フランス国による退避勧告で沖縄に一時疎開といったことが描かれています。これはフランス人にも日本人にも一般にはあまり知られていなかった「あの時の在日フランス人」の貴重な証言だと思いますよ。
 そしてイッセイ(一世)君という秋田出身の若者と恋に落ちて、悪戦苦闘の挙句、フランスで二人で新生活を始めようと日本を去るというエピローグで終わる本ですが、日本を去る前に若者の郷里の秋田に行き、雪に埋もれた温泉宿「鶴の湯」に一泊します。そこで雪の露天風呂に二人で浸かっていると、イッセイ君の姿が見えなくなり、そこに一羽の鶴が舞い降りてきます。鶴はジュリさんの頭に乗った温泉手ぬぐいをくちばしでツンツンと突きます。あ、これはもしかして...。そうです、これはフランスではコウノトリ(シゴーニュ)が運んでくるもの...。
 こういう風に日本が見られたら、そりゃあ、日本だって捨てたもんじゃないですよ。西洋白人(女性)からの恵まれた日本観察という偏見を打破できるのは、まさにこのバイリンガル視線だと思いますよ。結局日本語をものにできなかったアメリー・ノトンブとの決定的な違いはこれです。多くのバイリンガル人にお勧めできる本です。

JULIE BLANCHIN FUJITA "J'AIME LE NATTO"
Hikari Editions刊 2017年5月、230ページ  18,90ユーロ

(↓)ジュリ・ブランシャン「納豆が好き」のプレゼン。

2017年6月9日金曜日

スナークちゃんだったのかぁ...!

オルヴァル・カルロス・シベリウス『秩序と進歩』
Orval Carlos Sibelius "Ordre et Progrès"
 
 ラジル国旗に書いてあるポルトガル語 "Ordem E Progresso"(秩序と進歩)は、社会学の祖と言われるフランスの学者オーギュスト・コント(1798-1858)の理念です。なぜ唐突にこんな大言壮語なお題目をアルバムタイトルにしたか、ということは日本の政党モットーみたいなもんで「未来への躍動」「前進と飛躍」の類の空疎感を醸し出すためではないか、と思います。
 オルヴァル・カルロス・シベリウスの音楽はそういうハッタリの強さに溢れています。高校生の頃に初めて『原子心母』 や『クリムゾンキングの宮殿』を聞いた時の「どうしてここまで大げさなんですか?」という賞賛半分・呆れ半分の印象を思い出させます。あるいはボストンの2枚のアルバムに針を落す度に訪れる「わぁっ!光り輝いちゃってるなぁ!」のワクワク感みたいなみたいなもんです。
 「秩序」という点においては、黄金時代のポップミュージックの掟(ビーチボーイズ、トッド・ラングレン...)をしっかり踏襲した見上げたサウンド構築ですし、無駄のない構成、ケレン味たっぷりのギター/シンセ/ドラムスの早変わり展開、これはオーダー通りの品揃えと言えましょう。淀みや混沌一切なし。「進歩」という点は、それそのまんまなんですが、 プログレなんですな。60-70年代からポジティヴに考えられた技術の進歩、西洋音楽の未来みたいな展望。

 とここまで書いて、レーベル資料を読み直したら、オルヴァル・カルロス・シベリウス、「本名アクセル・モノー 」というのを見て、はて、この名前はどこかで見たな、と。遠い記憶から、1999年にアルノー・フルーラン=ディディエに紹介されたスナーク君(当時23歳)だったことを思い出した。ブリコラージュ(DIY)手作り楽器やギターやナベカマを宅録多重録音で、不思議なポストロック系の音楽をクリエートしていた子。ノイジーな抒情系みたいなスタイルが好きで、早速日本に紹介したら結構反応があって、2枚目のCDアルバム『オングストローム』(2000年)は谷理佐によるライナーノーツ付きで日本配給されるという栄誉を得ました。その中で谷理佐は「一見して子供っぽいヘナチョコのスナークが実は、ロックの次に来るものの舵の一端を握っている可能性は大きい」なんて書いてました。そのヘナチョコのアクセル君が17年後、こんな「秩序と進歩」を掲げる真正面なプログレ・サイケ・ポップを展開することになろうとは。

 どことなくスナークの雰囲気が残っている6曲めのインスト曲 "Locus Solus"は、知らなければ誰もがフランソワ・ド・ルーベの映画音楽と思うでしょう。インスト曲ばかりだった1999年から、凝りようは昔と変わらないのだけど、歴史を学ぶ前と学んだ後のような時の流れ。ポストロックやっていた子がクラシックロックに飲み込まれてしまったような。ピンクフロイドの40年の時の流れみたいなものを、一人で背負っちゃったのかな。冗談っぽい立ち振る舞い(↓のクリップ)が、実はすべて本気じゃないんだよ、と言ってるようで。ところが、この音楽は本気で楽しめますよ、特に私たちの世代は。全曲フランス語。勇気ありますよ。

 Orval = ベルギーのトラピスト修道院産ビールの商標。
   Carlos = 1947 -   。ベネズエラ出身のテロリスト、またの名をジャッカル。
   Sibelius = 1865-1957。フィンランドの大作曲家。

<<< トラックリスト >>>
1. COUPURE GENERALE
2. LES OUBLIES
3. COEUR DE VERRE 
4. MEMOIRE DE FORME
5. A MA DECHARGE
6. LOCUS SOLUS
7. DOPAMINE
8. ANTIPODES
9. DESASTRES ET COMPAGNIE
10. ENTREFER (BONUS CD)
11. MONUMENT (BONUS CD)

LP / CD BORN BAD RECORDS BB093
フランスでのリリース : 2017年4月28日 

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"COUPURE GENERALE"(オフィシャル・クリップ)



 

2017年6月6日火曜日

デパント、デパントで半年暮らす

2017年5月24日にヴィルジニー・デパントの3部構成の大作『ヴェルノン・シュビュテックス』の第3巻が出版され、作品は完結を見ました。全3巻合わせた総ページ数は1200頁。この大小説に関しては、私は2015年に半年のインターヴァルで発表された第1巻と第2巻の時から問答無用の支持の声を大にしていて、同年の月刊ラティーナ10月号に絶賛の紹介記事を書きました。それから2年弱の間を置いての第3巻の刊行です。この2年に大きく変わってしまった世界を象徴するのがバタクラン乱射テロ事件です。デパントは書く予定でいたことを全面的に書き換えなければならなかったと言います。
 それも踏まえて、私はこの6月20日に発売されるラティーナ(2017年)7月号に『ヴェルノン・シュビュテックス3』に関するかなり説明的な紹介記事を寄稿しました。ぜひ読んでみてください。その執筆中に大変参考になったのが週刊レ・ザンロキュプティーブル誌(2017年5月24日号)で、その号の特別編集長がヴィルジニー・デパントでした。同号に掲載された『ヴェルノン・シュビュテックス3』をめぐるロングインタヴューの冒頭部分を、私のフェイスブック上で(無断)翻訳掲載したところ、かなりの反響をいただきました。特に先のフランス大統領選挙でのマリーヌ・ル・ペンとFNへの辛辣な分析の部分は、「よその国のこととは思えない」という意見をたくさんいただきました。以下にその部分だけ再録します。

(レ・ザンロック : この最終巻を書くのは大変だったでしょう?)
ヴィルジニー・デパント(以下 VD):自分で驚いたのは、第1巻第2巻もだいたい同じだったけど、莫大なページをかなり短い時間で書けたということ。私は最初から結末は知っていたけれど、2015年11月13日の事件(バタクラン・テロ)で私は長い間書けない状態に陥った。私はストーリーを変えたくなって、様々な他の筋を求めていったのだけど、結局何にもならず時間を失っただけ。『ヴェルノン・シュビュテックス・1』が出版された2015年1月7日(註:偶然にもシャルリー・エブド襲撃テロ事件の日と重なった)から今日まで2年間で、すべては変わってしまったのよ。この2年間の出来事をすべて文章の中に流し込むこと、それが最も複雑で難儀な仕事だった。

(レ・ザンロック:2年間にそれほどまで変わったことというのは何でしょう?)

VD:それはひとつの革命だったのよ、実際にフランスにおいてはね。既に終焉しかけていたテロリズムがその言葉を一挙に噴き出させた、しかも誰も想像できなかった凶暴さで。それから2008年の経済恐慌はヨーロッパのすべての国の不安定さを加速させ、ギリシャを転落させ、外国避難者たちの危機的状況は避けられないものになり、難民キャンプや地中海で膨大な数の死者が出たことを私たちは見ている。しかし私たちはこれらすべてのことに慣れてしまった。慣れることこそ最悪のことで、それはさらに重大な過ちを準備していた。例えば難民たちをトルコに送り返すことなど、その少し前までは考えられないことだった。それから最近の選挙もさらにひとつのカタストロフ(大惨事)をもたらした。マクロンに投票しなければならないことに私たちはみんな躊躇していた。来るべき事態への恐怖心から嫌々ながら投票することをもう私たちは続けて3度も4度もしてきた。それは気が滅入るなどというレベルをはるかに超えている。私たちの多くはサルコジを落選させるためにオランドに投票し、保守統治の長い年月の後に社会党というのはちょっとはマシなんじゃないかと思ったのだが、オランドの5年間には非常に失望した。その結果(今年の大統領選)第一次投票でマリーヌ・ル・ペンが得票首位となった地方の数々を見るや、私たちは悲嘆に声もなかった。助けの手を差し伸べることと、拳を振り上げること、それは全く違うことでしょう…。国民がその自身の国を崩壊させるために投票するのを見ることになるなんて、これはただごとではないでしょう。
(レ・ザンロック:あなたは人々がFNに投票するのは絶望感によるものだと思いますか、それともこの政党の真の姿を知らないことから来るものですか?)

VD: 私はこの国においてはものを知らないということはあまりないと思う。FNに票を投じるのは異議申し立てのための投票であるとは信じられない。それはレイシズムに投票することであり、警察による弾圧や拷問を支持する投票なのです。すべてが秩序正しく行われるには強圧的な政治をするだけで十分だと信じている人たちの投票なのです。パパが威厳を持ち強権的であればすべてはうまく行くと信じている子供の投票なのです。私が思うに、FN支持者たちはこの強権政治は軽犯罪者たちやアラブ人たちにしか適用されないものだと想像しているのです。そしてFNが彼らに説いているように、今日のフランスの問題は、貧困や富の寡占化ではなく、まさにアラブ人だけなのです。それさえなくなればうまく行くと納得している。しかし彼らは思い違いをしているはず。なぜならばその強権政治は彼ら自身、彼らの子供たち、彼らの親族たちにまで及ぶものです。彼らの生活は改善されないし、彼らの払う家賃は安くはならない。その上、子供がいつもの時間に帰宅しないということがあるたびに、子供が学校に行かなかったのかそれとも警察に捕まったのか、とビクビクすることになる。強権国家とは法治国家ではなく、その官僚たちがやりたい政治を実行するのに何の障害もない国家のことです。その国家ではあなたはどうして自分の子供が拷問されたのかを警察に問い質しに行くことなどあなた自身がしなくなる。なぜならあなたはそのことで警察があなた自身に厄介ごとをふっかけてくると知っているから。すなわちその国家はあなたが恐怖しなければならない国家ということ。もしも独裁政権のもとで正直で善良な市民たちが丁重に扱われたなどということがあったなら、歴史的に多くの独裁制が大手を振っていた頃からそれははっきりしてだろうに…。けれどもFNの台頭はこの10年間にフランスのメディア上で非常に巧みにキャンペーンされたので、もはや誰も驚かないことになってしまった…。
(週刊レ・ザンロック誌 2016年5月24日号)

 ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス1.2.3』 は日本語訳刊行の予定があるという噂は全くありません。バルザック「人間喜劇」に匹敵すると称された、21
世紀テロの時代の人間群像とかすかに幻視できる救済の可能性を描く1200ページ。必ずやちゃんと日本に紹介されますように。

(↓)国営TVフランス5の文芸番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ヴェルノン・シュビュテックス3』 を語るヴィルジニー・デパント





2017年5月23日火曜日

ほうらアヤトラ・ホメイニ、見に見に見に来てね

マリヤム・マジディ『マルクスと人形』
Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Prix Goncourt du premier roman 2017

  2017年5月19日、イラン大統領選挙で現職のハッサン・ロハニが57%の得票率で再選されました。穏健派で融和路線の政策を取り諸外国のイラン経済封鎖を解いたロハニが国民の高評価を受けたということでしょうが、反米反欧・イスラム強硬派のエブラヒム・ライシを破った選挙というのは、どことなく当地のマリーヌ・ル・ペンを破ったエマニュエル・マクロンの当選と同じような、最悪よりは「まだマシ」を選んだ選挙のように見えたりします。特にイランの女性たちの今日の状況のことを考えると、まだまだ喜ぶことができないものだと思います。
 マリヤム・マジディは1980年、テヘラン(イラン)に生まれ、6歳の時に両親と共にパリに移住、大学を出てフランスのコレージュとリセのフランス語教師、さらに外国人のためのフランス語教師となって中国とトルコに数年ずつ滞在しています。現在はフランス赤十字に所属し、難民などを対象にフランス語教育に携わっています。
 この作品『マルクスと人形』はマリヤム・マジディの最初の小説であり、話者の名が「マリヤム」というほど自伝的な傾向が強いものですが、フィクションや詩や創作童話などを織り交ぜた自分史クロニクルです。始まりは妊娠中お母親のお腹の中にいるマリヤムが、反政府デモで官憲に追われ必死に逃げる母親をお腹の中から観察しています。
 イランの状況背景を説明しますと、1979年2月にイスラム革命が起こり、アヤトラ・ホメイニを最高指導者とする政教一致のイスラム(シーア派)共和国が成立しました。シャーの独裁を打倒したことによって、民主化が訪れることを期待していた革命推進派の一部は、革命後国家体制が一挙にイスラム化してしまったことに反対して反政府運動を展開しますが、悉く暴力的に弾圧されてしまいます。 マリヤムの両親はその反体制派の活動家であり、共産党員です。本書名『マルクスと人形』はこのことに由来します。両親は(いささか戯画的ですが)共産主義者だったので、子供にその思想を受け継がせようとします。その基本の基本として「私的所有権の否定」ということから始めます。具体的には自分が小さい時に遊んでいた人形を手放して隣近所の子供に差し出す、ということを両親はマリヤムに強いるのです。少女マリヤムはそれが絶対にいやなのです。小さくなって着れなくなった衣服や読んでしまった絵本を近所の貧しい子供たちに差し出す、しかし人形だけはいや。これは幼いマリヤムにとって大変な不条理ドラマだったわけです。
 反体制派への弾圧は激化し、いち早くフランスに亡命した父親を追って、1986年マリヤムと母親はパリに移住して来ます。なぜここではペルシャ語が通じないのか、なぜクロワッサンのような食べ物を食べなければいけないのか、6歳のマリヤムにはわからないことだらけですが、一番わからないのはこの「引越」がいつまで続くのか、いつイランに帰れるのか、ということです。
 6歳の少女は突然身を置くことになったフランスへの頑な拒絶反応を露にします。イスラム独裁で自由のないイランに比べれば、自由と民主主義の国フランスがどれほどいいか、という観点はないのです。食べ物、言葉、優しいおばあちゃん、マリヤムの好きなすべてのものがイランにあったのですから。パリの小学校で貝のように押し黙る日々が長く続きます。先生も級友も給食のおばさんもマリヤムのだんまりが理解できません。しかし長い長い沈黙の末、ある日突然マリヤムはフランス語を話し始めるのです。話し始めたらよどみなく言葉は出てくるのです。この子はこれほどおしゃべりだったのかと皆が驚くほど。長い間胎内にいた新生児のように急に世界に対して声を出した。まさにマリヤムにとって第二の誕生であったかのように。ここのパッセージは感動的です。
 そして少女はフランス語の魅力に取り憑かれていく。私は自分の娘がフランスの公立学校で教育を受けたので、マリヤムが受けたような「外国人」「外国系」の子弟への(決して差別ではない)ある種の特別扱いというのを知っています。私の娘も学校での自分の居場所の危うさに悩んだりしました。大人たちは「二つの文化を持てるなんてすばらしい」とか「自然にバイリンガルになれる」とか、楽観的にポジティヴな見方をしますが、フランスの教育の現場は違いますよ。完璧なフランス語習得のためには他言語が邪魔になる、日本語の学習を後回しにするように、と私は担任先生からはっきり言われましたよ。
 当然のことながらフランス語愛に浸れば浸るほど、マリヤムのペルシャ語とイラン的アイデンティティーは薄められていきます。故国にいるおばあちゃんから手紙が届いたり、電話が来たりしても、返す言葉がどんどん少なくなっていく。

Je ne suis pas un arbre.  私は木ではない。
Je n'ai pas de racines. 私には根がない。

  2003年、マリヤムは17年ぶりにテヘランの土を踏みます。イスラム法下の様々な制限や欧米の経済封鎖にもめげず、人々はしたたかに生きているし、マリヤムの一時帰国を祝うホームパーティーでは、ガラス窓を厳重にアルミホイルで目隠しして、アルコールとドラッグと禁じられた音楽でたいへんな大騒ぎになります。マリアムはそこで町一番のならず者の若者と電撃的な恋に落ちます。乱闘沙汰やオートバイ事故や投獄されての拷問や遊び半分の自殺未遂などで身体中傷だらけの若者。傷ついても傷ついてもなお不敵な顔で立っているその男に、マリヤムはおまえはイランの姿そのままだ、と。このイランをマリヤムは強烈に愛してしまい、二度とパリに帰りたくないと、人形を渡したくなかった少女と同じようにゴネるのです。
 自分から失われたイランをもう一度取り戻したい。2002年、ソルボンヌ大学の比較文学コースに進んだマリヤムは、担当教授にセルジュク朝ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム(1048-1131) と近代イラン文学作家サーデグ・ヘダーヤト(1903-1951)について研究したいと申し出て受け入れられ、その日からみっちりとペルシャ語を学習し直すのです。失われた母語(langue maternelle)のペルシャ語と、水林章流に言えば父語(langue paternelle)であるフランス語は、その日までマリヤムの中で敵対していたのに、ここでやっと和解ができたのです。マリヤムはフランスにやってきて長い長い沈黙の後にフランス語を初めて口にした日を「第二の誕生」と言い、ソルボンヌでペルシャ語を取り戻しフランス語とも和解できた日を「第三の誕生」と位置づけるのです。

 自分探しと言うよりは、言語が背負い込んだ文化を愛したり嫌ったり、それから愛されたり拒絶されたり、その果てに幸福な和解が得られるまでの自分史。フランスでフランス語教師となっても、心ない人から「フランス語教師というのはフランス人でなければなれないはずだろ」という声も平気で飛んで来るフランス。マリヤムはそういうフランスとも勇敢に闘っている。またマリヤムにとっては男を誘惑して楽しむということも大切な人生の一部なのです。前述のペルシャ古典詩人ウマル・ハイヤームの詩をマリヤムは男を引っ掛ける道具としても使っているのです。すなわち、一対一の食事が終わり、アルコールもほどよく回った頃に、マリヤムは気に入ったハイヤームの詩を朗読して聞かせる。ペルシャ語など何も知らぬ男もその音楽の調べのような言葉の連鎖にうっとり聞き惚れ、恍惚となってしまい、そのままマリヤムと一夜を過ごすことになる、という次第。したたかな「やり手」の女性であることが伺えるでしょう。
 政治状況もユーモアも詩的イメージも。マルジャン・サトラビのBD(2005年)とアニメ映画(2007年)『ペルセポリス』にも共通する、イラン女性の明晰なものの見方とストーリーテリングのセンスの良さに脱帽します。この女性たちは本当に強い。

 Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Le Nouvel Attila 刊 2017年1月、206頁 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)自著『マルクスと人形』を語るマリヤム・マジディ


2017年5月17日水曜日

さまよえるイスマエル

『イスマエルの幽霊たち』
"Les Fantômes d'Ismaël"

2017年フランス映画
監督:アルノー・デプレッシャン
主演:マチュー・アマルリック、マリオン・コティヤール、シャルロット・ゲンズブール、ルイ・ガレル
フランス公開:2017年5月17日
第70回カンヌ映画祭オープニング上映作品 

 I ain't afraid of no ghosts !
 ("Ghostbusters")
   ルノー・デプレッシャンの本作の主人公イスマエルは映画作家です。おそらく彼が映画監督を主人公にした最初の作品です。当然デプレッシャンのオルター・エゴと思っていいでしょう。演じるのは『そして僕は恋をする(Comment je me suis disputé  - ma vie sexsuelle)』(1996年)以来デプレッシャンの分身男優となっているマチュー・アアルリックです。 アマルリック自身映画監督として6本の作品を発表していて、この2017年カンヌ映画祭には、このデプレッシャン作品の主演俳優としてだけでなく、6本目の監督映画『バルバラ』(歌手バルバラのバイオピック)の監督としても参加しています。監督としての苦悩も身をもって知っている男。
 思えば映画というものは、ヒッチコックの例を出すまでもなく、監督の分身や幽霊をたくさん作ってしまう傾向があります。フィクションとは幽霊づくりの仕事であって、映画の時間が過ぎれば、その人物はこの世から消え去るのです。映画人はその人物たちを創っては殺しという作業を一生続けるわけですが、生の終わりにはその人物たちの亡霊に呪われるのではないでしょうか。
 映画作家イスマエル(演マチュー・アマルリック)には(実在するのか架空なのかわからない)弟のイヴァン(演ルイ・ガレル)がいて、イスマエルはその人物を使って国際スパイ映画を制作するため、日夜必死で脚本を仕上げようとしている。21年前、敬愛する映画作家であり師でもあるアンリ(演ラズロ・ザボ!ハンガリー出身映画作家)の娘カルロッタ(演マリオン・コティヤール)と結婚するが、カルロッタは結婚後まもなく忽然と姿を消してしまう。アンリとイスマエルの八方手を尽くしての捜索にも関わらず、手がかりはなく、年月は経ち、蒸発者は戸籍上死者同等の扱いになって除籍になる。その苦しみを共に味わったアンリとイスマエルはいつしか父と息子同然の関係となるが、20年経っても二人はカルロッタの「死」を受け入れることができない。そしてアンリとイスマエルは同じように悪夢につきまとわれる病癖がある。アンリの悪夢のもとはほとんどカルロッタであるが、イスマエルのそれはカルロッタだけでなく映画人的極度のストレスがある。悪夢に苛まされないためには眠らないことが一番。イスマエルはアルコールとニコチンと様々な薬物で覚醒・半覚醒を保っている。しかし一旦眠るやいなや悪夢は容赦なく襲って来る。
 2年前からイスマエルは天文学者シルヴィア(演シャルロット・ゲンズブール)と(同居することなく)交際中。海辺の別荘でシルヴィアは浜辺ヴァカンス、イスマエルは籠ってシナリオ執筆という穏やかな時間と空間の中に、20年前に蒸発したはずのカルロッタが闖入してくる。パニック。幽霊ではないのか?狂言ではないのか? 行くあても泊まるところもないカルロッタを別荘に迎え入れ、3人の奇妙な共同生活が始まる。
 なぜ蒸発したのか、どこにいたのか。父親に溺愛されたいたがゆえに不幸だった少女は、抗しがたい「沖からの呼び声」に従って無一物で旅に出て、放浪に身をまかせる。その果てにインドに辿り着き、ひとりの男と出会って家庭に入り幸せに暮らしていた。しかし3週間前に男が死に、その家を追い出されフランスに帰ってきたが、どこも行くところがなくイスマエルのもとに来た、と信じがたいストーリーを淡々と言う。そしてイスマエルという「夫」を取り戻したい、と。シンプルさと天真爛漫さと現実世界とのズレ、マリオン・コティヤールという猫目女優の不思議なパワーが大きくものを言ってます。
 なぜ今、ここなのか。20年間すべてをぶち壊しにした挙げ句に、今ここに出てくればもう一度イスマエルの「現在」もぶち壊しにしてしまう。そういう怒りを彼は元妻/不在の妻/死んだはずの妻/幽霊にぶつけますが、カルロッタは幽霊ではないのです。
 二人で海水浴をし(遊ぶ二頭のイルカのようなシーンです)、「私たちきっと似た者同士よね」とシルヴィアに語りかけるカルロッタ。この猫目の魅力にシルヴィアも一旦はカルロッタと打ち解けた関係になりかけるのですが、その魅力が強ければ強いほど、シルヴィアは「負ける」と感じ、それは黒々とした嫉妬となっていきます。かくして嫉妬は爆発し、シルヴィアはイスマエルとカルロッタを残して別荘から去って行く...。
 映画は飛んで、弟イヴァンを主人公とした国際スパイ映画の制作現場へ。フランス外務省に所属する諜報員という立場ながら何も知らずに国際政治舞台の裏側に送られ、タジキスタンの監獄に投獄されてイスラムテロリスト首領と談笑し、ポーランドの美術館で接触したロシアスパイを不本意に爆死させ、といった荒唐無稽なシナリオのまま撮影は続くのですが、監督イスマエルはシルヴィアとの破局のショックのため、撮影現場から逃げ出し、北フランス、ルーベ(註:ここはアルノー・デプレッシャンの出身地)の古い館に籠ってしまいます。この辺りから映画は混沌と狂気が支配的になり、アルコールと薬物と自己破壊衝動は血走る目のマチュー・アマルリックならではのトリップ加減です。キューブリック流のマッド・シネアストと申しましょうか。
 その狂気にも関わらず、映画をなんとかして完成させようと、映画のエグゼキュティヴ・プロデューサー(演イポリット・ジラルド。怪演!)がイスマエルの居場所を突き止め、シナリオの続きを書いて撮影現場に戻るように説得しようとします。イスマエルは俺がいなくても助手に撮影を任せればいい、と、その狂気のシナリオの続きをプロデューサーに開陳しますが、いよいよ混沌と不条理と荒唐無稽さは頂点に達し、思い余ってイスマエルはプロデューサーに発砲して負傷させてしまう...。
 絶対収拾のつきっこない映画になってしまった、と思った頃に、アルノー・デプレッシャンは唐突なハッピーエンドを持ってくるんです。まずカルロッタは父親アンリの前に姿を表し、その(幽霊)ショックでアンリは心臓発作で救急病院に担ぎ込まれ、 ほぼ死の床で父と娘は和解するのです。そしてシルヴィアとイスマエルは.... 詳しくは書きませんが、ハッピーエンドなのです。山ほど積まれた続くストーリーの数々を全部蹴散らして、「今のところはこんな感じで」という終わり方。デストロイな映画だと思いますよ。これを賞賛する人たちもいるんでしょうが。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『イスマエルの幽霊たち』予告編


2017年5月9日火曜日

ウーエルベックから見た大統領選2017

 2017年5月7日、フランス大統領選挙決選投票はエマニュエル・マクロンが65%の得票率でマリーヌ・ル・ペンを破り、新大統領に当選しました。この大差の原因の一つが、5月3日のテレビによる両候補対決討論だったと言われ、マリーヌ・ル・ペンの討論戦術の質の低さが「歴史的」なものだったと論評されました。このテレビ対決討論の翌日、5月4日(木)に、フランス国営テレビFRANCE 2の番組レミッシオン・ポリティークは、マクロン/ル・ペン両候補の支持者地盤のようにはっきりと分かれてしまったフランスの都市部と周辺地方を「ふたつのフランス」と題したテーマで展開し、そのゲスト出演者のひとりとして作家ミッシェル・ウーエルベックが発言しました。部分的に大意訳してみました。

 ー この選挙戦を注目していましたか?
ミッシェル・ウーエルベック(以下 MH)「興味深く見ていたが、徐々に不安が増大していき、それは自分の無知への恥に変わっていった。それはいわゆる "周辺のフランス (France périphérique)"のことを私が知らなかったということだ。私はこのフランスとのコンタクトを失ったのだ。この"2つ目のフランス”はマリーヌ・ル・ペンに投票するか、誰にも投票しないかの二つのチョイスしかない。これを知らなかったということは作家として"重大な職業的過失”である。」
ー どうしてあなたはそのフランスとのコンタクトを失ったのですか?
MH 「私にはもうそのフランスが見えなくなっているのだ。私は既に "グローバリゼーションのエリート階級”に属するようになってしまってる。わかりますか?私の本はドイツでも売られているのですよ、すごいことだ。」
ー でもあなたはフランスに帰ってきて、普段町で買い物をするでしょう?
MH「そのフランスは私の住んでいるところにはないのだ。パリにそれはない。パリではル・ペンは存在しないに等しい。それは地理学者クリストフ・ギリュイ(著書  "周辺のフランス (France périphérique)" 2014年)が明らかにしたように、人々によく知られていない周縁地域に存在する。」
ー この番組で紹介されているような周辺のフランスの人々の不安や怒りをあなたは理解できますか?
MH「それを十分に理解できないというのが、私の不快感の所以なのだ。私はそれについて書くことができない。それに私は苛立つのだ。」
ー あなたの政治的観点からも彼らの苦渋や不安が理解できないのですか?
MH「私は彼らと同じ状況にいないのですよ。私は思想による投票というのは信じていない。投票は階級によってなされるのだ。”階級”という言葉は古臭いと思うかもしれないが、ル・ペンに投票する階級、メランションに投票する階級、マクロンに投票する階級、フィヨンに投票する階級ははっきりと区別がついている。望む望まないに関わらず私はマクロンに投票する階級に属している。なぜなら私はル・ペンとメランションに投票するには金持ち過ぎていて、フィヨンに投票するほど財産持ちの子孫ではないのだから。」
(中略)
ー (選挙戦全体に関する感想)
MH「私はそれはエキサイティング(palpitant)だと見ていた。おそらくテレビ連ドラ『コペンハーゲン』(デンマーク制作の政治連ドラ 2010〜2013年)よりずっと面白いと思う。しかし結果は絶望的な方向に向かっている。私が記憶する限りそれはぞっと昔に保守・対・左派という二極対立から始まり、それが機能しなくなりFNが登場して三者対立になり、それも機能しなくなる。その後はたいへんな大混乱で、社会党は消え去り、保守だって生き延びれるかどうかわからない、そして残ったのがマクロン、メランション、ル・ペンの3人。保守が生き延びればそれに4番目として加わるかもしれない。フランスを"舵取り不能”にする新しい4者システムに陥る。まったく舵取り不能だ。」
(中略)
ー マクロンの急伸長についてはどう考えますか?
MH「彼の選挙運動の展開を見ていると、一種の "集団セラピー”のような印象を受ける。フランス人を楽観的に変身させるためのセラピー。大体においてフランス人は悲観的で、その悲観はヨーロッパの北の国々、とりわけドイツと自分たちを比較する傾向から来るものだ。フランス人は彼らと比べて自分たちを過小評価する。マクロンはその悲観傾向を一挙に楽観化しようとしている。」
(中略)
ー あなたの小説から見えてくる未来のフランスは産業も経済活動もなくなり文化遺産だらけになった博物館のような国ですが...。
MH「脱産業化の傾向は現実のものだ。その脱産業化傾向のグラフの曲線を延ばしていくと、未来には全く産業がなくなる。私の意見ではそれはカタストロフではない。もしもグローバリゼーションのルールを受容すれば、フランスにも出せるトランプ札はある。」
ー 希望があるということですね?
MH「グローバリゼーションの中で、われわれの強みを出せる分野もある。例えば手工業や美食関連業や観光業など。これは多くの職を生めるんですよ。おまけにこの職業はデロカリゼ(*安い賃金の外国への工場の移転のこと。産業移転)できないという利点がある。私は産業に対して深い不信感がある。特に最近あったワールプール(Whirlpool)アミアン工場の閉鎖移転は耐え難いほど酷いものだった。国が国民の税金を使って援助している工場で、しかも多くの利益が上がっているにも関わらず、産業のトップはこれを閉鎖移転してしまったのだ。だから私はデロカリゼできない職業を信用するべきだと思っている。」.....

 マクロンの選挙運動は一種の「集団セラピー」である、という分析、注目しましょう。何も怖くない39歳が、熱狂的な集団「躁」状態を作り出すような演説集会の動画 を見れば、ウーエルベックの指摘はど真ん中です。

(↓)2017年5月4日(大統領選第二回投票の3日前)、国営テレビFRANCE2「レミッシオン・ポリティーク」にゲスト出演したミッシェル・ウーエルベック





2017年4月26日水曜日

ガルディアン・ド・ラ・ペ(平和の番人)

2017年4月20日午後9時、パリ、シャンゼリゼ大通りで一人のテロリスト(ジハーディスト)が警備の警官隊に発砲、警官一人が死亡、二人が負傷し、発砲者は警官によって射殺された。殺された警官はグザヴィエ・ジュジュレ(37歳)。 憲兵隊(ジャンダルムリー)に入隊後、2010年から警察に配属。ギリシャに漂着する移民たちの救助保護活動のためにフランスから応援派遣された警官隊の一人。2015年11月13日のパリ・バタクラン劇場テロ事件勃発時に召集され、現場地域の警護の最前線を務めた。その1年後、バタクラン劇場再オープン記念のスティングのコンサートの場内に私人グザヴィエはいて、喝采していた。音楽ファン。ロックファン。ホモセクシュアル。4年前からパートナーとPACS (民事連帯契約)を結んで共同生活をしており、警察/憲兵隊内のLGBTアソシエーションのメンバーでもあった。
 ガルディアン・ド・ラ・ペ Gardien de la paix フランス語の警官という言葉は直訳すれば「平和の警護者」「平和の番人」である。この美しい名前を持った職業がテロの標的となり、37歳の 「平和の守り人」が命を失った。
4月25日、パリ・シテ島のパリ県警の中庭で開かれたグザヴィエ・ジュジュレの追悼式典には、共和国大統領オランド、首相カズヌーヴとその内閣閣僚、パリ市長イダルゴなどの他に、二日前の大統領選挙第一次投票で上位2位となり5月5日の決選投票に進出したエマニュエル・マクロンとマリーヌ・ル・ペンも参列した。ま、それはどうでもいい。2015年1月のシャルリー・エブド襲撃テロ以来、テロリストによって殺害された警官の数はグザヴィエで6人である。大統領オランドの弔辞はその毎回の追悼式典同様「国民的悲しみ」と「テロとの断固たる戦い」を強調するが、唇寒し。しかしその式典で私たちが最も深い感銘を受けるのは、グザヴィエのパートナー、エチエンヌ・カルディル(外務省勤務の外交官)によるエモーショナルな別れの言葉なのだった。WEB版リベラシオン紙に掲載されたその弔辞の大部分を、以下に(無断で)訳してみる。

 グザヴィエ、木曜日の朝、いつものように僕が仕事に出かけた時、君はまだ眠っていた。(中略)君は14時からの街頭保安任務につくために、念入りにこの警護服に身を包んだ。君はいつもその外見は完璧でなければならないと考えていたから。君と同僚たちはパリ8区警察署に赴くよう命令を受けた。(中略)君はその保安警護地点としてシャンゼリゼ大通り102番地、トルコ文化会館前と指定された。僕は君がこの種の任務が好きだったのを知っている。なぜならそこはシャンゼリゼ大通りであり、フランスを象徴する場所だったから。君たちはその文化も防衛していたのだから。
 そのまさにその時、その場所で君と君の同僚たちの身に最悪の事態がおとずれた。(中略)僕はその夜君なしで帰宅した(声が感極まって押し殺される)極めて深い苦しみと共に。その苦しみはいつの日にか鎮まるものなのか、僕は知らない。(中略)僕個人のことを言えば、僕は苦しんでいるが憎しみはない。"Vous n'aurez pas ma haine"(私はあなたたちに憎しみを抱かない)というアントワーヌ・レイリス(バタクラン・テロ事件で妻を失った男の手記本の題名) の言葉を僕は借用する。そこに込められた苦しみに立ち向かう計り知れない叡智を僕は称賛し、数ヶ月前にその本を読み直したものだった。その生きるための教訓は僕をかくも成長させ、今日僕を守ってくれている。
 シャンゼリゼ大通りで何か重大な事件が起こっていて、一人の警官が殺されたという最初のニュースがパリ市民たちの耳に届いた時、小さな声が僕に殺されたのは君だと告げた。そしてその声は僕にこの寛大さと癒しに満ちた"Vous n'aurez pas ma haine"( 私はあなたたちに憎しみを抱かない)という名言を思い起こさせた。
 グザヴィエ、憎しみを僕は抱かない、なぜなら憎しみは君に似つかわしいものではないから。憎しみは君の心を躍動させていたもの、君を憲兵隊員から警察官へと導いていったもののいかなるものにも呼応していないから。公共の利益、他者への奉仕、万人の保護といった君の受けた教育と君の信念、そして寛容と対話と節度が君の最良の武器だったのだから。なぜなら「警官」の殻の中には人間がいるものだから。そしてその人間は他者を助け、社会を保護し、不正と戦うという選択をすることなしには憲兵や警官にはなれないものだから。(中略)
 僕たちがこの職業について抱いている見方というこういうものだが、それは君という人間の一面に過ぎない。君という人間の他の面では君は文化と享楽の世界を持っていたし、映画と音楽はその多くの部分を占めていた。(中略)喜びにあふれた生活、いっぱいの微笑み、その世界には愛と寛容が絶対の指導者として君臨していた。まるでスターのような生き方、君はスターのように人生から去っていった。(中略)僕はこのような事件の発生を防ぐために戦っているすべての人たちに言いたい。皆さんがこの事件で罪責感や敗北感を抱いているのを僕は知っています。でも皆さんは平和のためにこの戦いを続けなければなりません。(中略)そして、グザヴィエ、君に言いたい。君は僕の心の中に永遠に残り続ける。Je t'aime. 君を愛している。君と僕は誇り高くあろう、平和に見守ってていよう、平和を守っていこう。

私はこれほど誇り高い Je t'aime という言葉を聞いたことがない。グザヴィエ、安らかに。

(↓)4月25日グザヴィエ・ジュジュレの追悼セレモニーでのエチエンヌ・カルディルによる弔辞。


2017年4月24日月曜日

お先マクロン?

の文章は2017年4月23日フランス大統領選挙第一次投票の開票速報を見ながら書き始めました。
 第二次投票(5月7日)に進出した上位2位はエマニュエル・マクロン(中道アン・マルシュ運動)得票率 23,86 %とマリーヌ・ル・ペン(極右フロン・ナシオナル党)得票率21,43%でした。より下位の結果には触れず、この二人に絞って書きたいと思います。まずこの二人が残るというのは数週間前からの世論アンケートの傾向で予測されていたことで、米大統領選挙や英Brexit国民投票の時のような世論調査や大メディアの分析を裏切るような結果ではありませんでした。第五共和制が始まってからずっと大統領政権のベースとなっていた「保守」と「左派」の大政党の候補者(共和フィヨンと社党アモン)が、今回第一次投票で共に敗退するということも予測されていました。これを(交替で)繰り返し政権を任されてきた既成保守・既成左派への幻滅・絶望による国民の拒否と解釈するのはいたしかたありません。既成政党によって繰り返された無策政治から脱却せよ、というディスクールはマリーヌ・ル・ペンの側のものです。極右FN党はこれを「システム」と呼び、われわれこそ「アンチ・システム」の政治を実践できるもの、と言ってきました。何も変えることなく誰か(FNの論法ではEU首脳部と外国系大金融資本)によって前もって決められたことを実行するだけの政治から抜け出すこと、その可能性を「EU離脱」「国境再建」「重保護貿易」「フランス第一主義」「移民ゼロ」といった政策でアピールしています。こういう考え方が普通に国民の20〜30%が支持されるようになっているわけです。それはもはや事件ではない。2002年の大統領選第一次選挙で当時のFN党首ジャン=マリー・ル・ペンが第二位(得票率16,86%)につけ、第二次投票に残った時は衝撃の「2002年4月21日事件」として後年まで記憶されることになりましたが、今回のマリーヌ・ル・ペンの第二位は全く事件ではなく誰もが予想していた事態です。それほどFN党はフランスの風景の中であたりまえなものになってしまったのです。
 エマニュエル・マクロンという人物は私はよくわかりません。はっきりしていないから「中道」なのでしょうけれど、はっきりしているのはリベラル経済擁護者であるということ。エリート官僚および大銀行要職者であった手腕を買われてオランド政権の経済相になった人。社会党に籍を置いたこともある。左派マインドを持ちながら、リベラル経済大丈夫、グローバリゼーション大丈夫、と言っている人。
 今日も「リベラル」という言葉はまだ人々を騙せるのでしょうか?これが一見ポジティヴに見えるのは、不自由より自由の方がいいに決まってるじゃないか、という生理的好き嫌いのレベルでしょう。しかしリベラルとは経済市場における自由競争原則であり、弱肉強食であり、しのぎを削る競争の末に勝者だけが潤うということですよ。国を挙げてその自由競争に打ち勝て、という政策が新自由主義ですよ。その国の全セクター、全産業、全企業が勝てるわけじゃない。負けたらどうするんですか? 養豚業で負けたら養鶏業に鞍替えすればいい、手工業が廃れたらデジタル業に転身したらいい、工場が労賃の安い外国に転地する理由で閉鎖されたら老人介護者に転業すればいい...。それは世界規模・欧州市場規模で日々変動していることで、そういうグローバリゼーションの中で強くなっていくしかない。負けて工場がなくなったり転職を余儀なくされてもその時は国が面倒見ますよ、と言っているのが左派リベラル。そうじゃないでしょ。世界経済のご都合に合わせているせいで、職を変えられたり、過剰労働を強いられたり、職や土地を失ったりという悲劇を私たちの21世紀はこれでもかというほど思い知らされてませんか?

 この二人の候補を選んだフランスというのは、今夜から2週間の第二次選挙の選挙戦でまっぷたつに分かれるのではないでしょうか。テレラマ誌(web版4月24日)はその二つのフランスをこう分けます:一方は都市部のフランス、グローバリゼーションに不安がなく、未来についても楽観的。もう一方は地方(非都市)部のフランス、世界に対して不安があり、その世界に自分の位置を見出せなくなっている。
 39歳のマクロンはたぶん何も怖いものがない。そして世界には怖いものなど何もないのだ、とグローバリゼーションのスケールでフランスを引っ張って行こうとしています。そのダイナミズムに魅了されるフランス人は多いでしょう。アーバンでオプティミスティックでディジタルなフランス。
 マリーヌ・ル・ペンは世界は怖いものだらけで、まずフランスとフランス人を守らなければならないと説きます。経済的にも文化的にもフランスを防衛しなければならない。EUに奪われた主権を自国に取り戻し、フランスのことはフランスだけで決める。労働市場だけでなく宗教的思想的にも脅威となっている移民を追放する。失われたフランス的フランスを取り戻す。中央集権政治に逆らわずにいたために見捨てられてきた地方部の人々にとって、ル・ペンの論法はそれなりに説得力のあるものでしょう。わかりやすいですし。わかりやすい説法がポピュリズムのパワーですから。
 本当に奥深い地方まで来て、いろいろなことをわかりやすく説いてくれた候補者はどれだけいたでしょうか。少なくともマクロンとフィヨンはそういうことはしていなかった。しかしそういう地方で、マリーヌ・ル・ペンは失われたフランスを取り戻してくれるかもしれない、と思う人たちは多いはずです。

 この二つに分かれたフランスは、今現在から見える大きな可能性としては、2週間後にマクロンに制されます(60%強の得票率との予想)。深い亀裂を残したままフランスは若い新大統領を迎えます。舞台裏ではすでに2022年の大統領選挙の動きが始まっています。マクロンが(オランドのように)失政を繰り返すと、マリーヌ・ル・ペンは2022年に確実に当選します。女性の歳を言うのはエレガントなことではないけれど、まだ48歳ですから。そしてマクロンのリベラル経済擁護は、多くの社会的不公正・不平等を増長していくことは避けられないと思います。2週間後にエマニュエル・マクロンとマリーヌ・ル・ペンの二人から新しいフランスの可能性を探さなければならない投票者市民たちのおおいなる躊躇を私は理解します。

(↓)2017年4月23日20時、テレビ FRANCE 24 開票速報

2017年4月11日火曜日

ラスト産婆・イン・パリ

『サージュ・ファム(賢い女)』
"Sage Femme"


2017年フランス映画
監督:マルタン・プロヴォスト
主演:カトリーヌ・フロ、カトリーヌ・ドヌーヴ
フランス公開:2017年3月22日

 ランス語で助産婦・産婆を意味する "Sage-Femme"(サージュ・ファム)は、真ん中にトレ・デュニオン(ハイフン)" - " が入ります。この映画のタイトルはそれをわざわざ外して"Sage Femme"としていて、直訳すると「賢明な女」となります。主人公クレール(演カトリーヌ・フロ)の職業はこの「サージュ・ファム」です。当然映画題はダブル・ミーニングですが、形容詞の「サージュ」は賢い、という意味だけでなく、大人しく控えめ、従順で御しやすい、といったニュアンスが加わります。映画の進行は、この賢明ながら控えめ&堅気で、冒険を嫌い安全&堅実な人生を歩んできた50歳近いシングルマザーであるクレールが、ホラとハッタリと色気を武器に自由な人生を送ってきた老女ベアトリス(演カトリーヌ・ドヌーヴ)と再会することによって、「サージュ」さがひとつひとつ落ちていく、というストーリーです。
 大切なことなのでこの「サージュ・ファム」という職業についてもう少し説明すると、日本語の「取り上げ婆さん」「お産婆さん」に相当するこの職名ですが、この職名も今や使われることが少なくなっている。その理由のひとつは、職業の性差がなくなり、男性の助産師も増えていて、これを「男・産婆」のような言い方で「Sage-Femme homme(サージュ・ファム・オム)」と呼んだりしてましたが、いかにも滑稽&陳腐。それに代わる正式職業名として "Accoucheur アクーシュール(女性形 Accoucheuse アクーシューズ)”(出産師)、あるいは "Maïeutitien マイウーティシアン(女性形 Maïeutitienne マイウーティシエンヌ)”(出産術師)と呼ばれるようになってきました。つまり、「サージュ・ファム」というのは消えつつある職業名であり、主人公クレールはそれは同時に消えつつある職業と感じています。映画の最初で見えてくるのは、クレールが勤める郊外の公立総合病院が「産科」を閉鎖し、代わって広範囲の周辺町村をカバーする大きく近代的な産科センターができることになっていて、クレールは失業か、産科センター移籍かの選択を迫られています。クレールは長年の経験で伝統的な「産婆術」を身につけてきたベテランの「サージュ・ファム」の誇りがあり、その経験をないがしろにする「赤ん坊工場」のような産科センターには絶対に行きたくないと思っています。
 映画はそのクレールが、妊娠・出産のありとあらゆることを知り尽くした貫禄の顔表情と声で妊婦に語り、その名調子でこの世に赤ちゃんを導き出すという、まさに職人的プロ産婆術を披露するところから始まります。昼夜を問わず、お産があればその全身全霊をかけて「取り上げる」、そういう頑固で堅気でヒューマンなお産婆さんです。これは映画の後半でわかるのですが、これまで取り上げた子たちの名前、そしてお腹から出てきた時のどんな風だったか、どんなに手を焼かせたか、などを全部記憶しているのです!
 徹夜のお産仕事をして朝帰りしたクレールの留守番電話に、ベアトリスと名乗る女性からメッセージ。クレールの父親の愛人だった女。35年前に蒸発したきり何の音沙汰もなかった彼女が再び姿を現す。どうしてもクレールに会いたいと言う。クレールは不承不承に出かけていきますが、そこにいたのはシャンゼリゼ近くの豪華アパルトマンにスクワット(スコッター)している派手趣味でほぼアル中/モク中の老女でした。脳に腫瘍ができて余命いくばくもないと言う。死ぬ前に別れた恋人が気になって、と呆れるほど自分勝手なリクツを言う。「アントワーヌ(クレールの父親、ベアトリスが蒸発して捨てた恋人)は どうしてる?」という問いに、クレールは嫌悪と怒りで取り乱す。父親はベアトリスの蒸発後、ピストル自殺している。「それはウィキペディアにも公開されて、はっきり書かれているのよ!」(実際この人物がウィキペディアに載るような有名人だったことは映画後半でわかります)ー ベアトリスには晴天の霹靂だったこの知らせにうろたえて、とっさに老女はクレールに償いをせねばと手持ちの大きなエメラルドの指輪を差し出します。
 金と派手な生活と酒と肉食が好きなこの老女は、この身ひとつの自由人としてボヘミアン的に生きてきました。この姿が今や貫禄の巨漢となったカトリーヌ・ドヌーヴにドンピシャなのです。男と金には困らなかった人生。その金の出所は闇のトランプ賭博で、勝ったり負けたりを繰り返しながら、結局勝つ、という強運のついた女です。 ベアトリスはクレールに(そのあてもないのに)財産の贈与を申し出ますが、クレールは私は今のままの質素な生活が好きだし、それで十分だと拒否します。
 失業目前の助産婦クレールは、マント・ラ・ジョリーというパリ圏とノルマンディー地方の境の半・田舎の郊外に暮らし、アルコールと肉を口にせず、自転車通勤をし、小さな有機栽培の貸し農園で自分の野菜を育てています。父親なしに育てた息子シモンは優秀な成績で医学部に進み、親元を離れようとしています。実直・堅実・健康第一を絵に描いたような平凡な生活を送ってきたクレールも、ここに来てひとつの大きな転機の到来の予感があります。まず職業的な危機、次に息子シモンの変化(シモンの恋人が妊娠していて、二人は家庭を持とうとしている。そしてシモンは医学部進学をやめて母と同じ助産師になろうとしている...)、さらに貸し農園の隣人で長距離トラック運転手のポール(演オリヴィエ・グルメ)が(色恋と全く無縁だった)クレールに強引に思いを寄せて来る、そして大きな厄介者としてクレールの生活に土足で入ってきた老女ベアトリス。このすべての災難にクレールは最初はたじろぎ、拒絶的に反応するのですが、やがてそのすべてがクレールの人生をカラフルに彩っていく... という映画です。
 ベアトリスの人物像は極端です。貧しいコンシエルジュの娘として生れ、少女の頃から東欧貴族の子孫(それ風に”ボレフスキー”と偽名を語る)と自分を偽り、美貌を武器に金持ちの男たちに寵愛され派手に、かつ自由に生きてきた。その間に知り合ったアントワーヌ(クレールの父)も、当時は派手な花形スポーツ選手(水泳チャンピオン)で、世界中を遠征して周り、ピープル誌にも大きく登場していた。妻子ありながら、ベアトリスを激愛していたアントワーヌは恋人の蒸発に絶望しピストル自殺する。当時13歳だったクレールはこの死を受け入れることができなかったし、ベアトリスを一生恨み通すと思っていました。
 脳腫瘍で余命宣告を受けても、アルコールと煙草と肉食をやめないベアトリスの豪放さは、姿カタチや言動がどう変わろうともドヌーヴの「戦友」「心の友」であるに違いない ジェラール・ドパルデューの豪放さと少しも変わらないように見えます。
 映画も後半、クレールは息子シモンの決心(医者ではなく助産師になる)も自分が祖母になることも受け入れ、気の良いトラック野郎ポールとの情事も楽しむようになり、アルコールもたしなみ、ベアトリスの代わりに闇賭場の精算所に行ったりもします。マント・ラ・ジョリーの郊外集合住宅にあるクレールのアパルトマンに一時的に身を寄せることになったベアトリスに、クレールが父アントワーヌの若い時(水泳選手時代)のスライド写真を見せるシーンがあります。部屋を暗くして、クレールとベアトリスはベッドに横たわり、ワインを飲み交わしながら、スライド映写機で次々に大きく映し出されるアントワーヌの姿を見て二人ともおいおい泣いてしまうのです。ここがこの映画のマジック。そこに偶然息子シモンが入ってきます。壁に映し出されたアントワーヌとシモンは瓜二つなのです。ベアトリスは驚愕して言葉を失います。初対面のベアトリスとシモンに、クレールは「ママンの若い時の友だち、ベアトリスよ」と紹介します。シモンはベアトリスに「ビーズ」で挨拶しようとしますが、ベアトリスは抑えきれずシモンの唇に唇を重ねてしまうのです(事故のように描かれますけど)。うまい!なんてうまい!このシーンで幸せになれない人などおりましょうか。

カストール爺の採点:文句なし★★★★★

(↓)"SAGE FEMME"予告編
 

2017年3月29日水曜日

いざ生きめやも

『エ・レ・ミストラル・ガニャン』
"ET LES MISTRALS GAGNANTS"

2016年フランス映画ドキュメンタリー
監督:アンヌ=ドーフィヌ・ジュリアン
フランス公開:2017年2月1日

 画のタイトルは言うまでもなく1985年発表のルノー代表曲「ミストラル・ガニャン」に因んでいます。紛れもない名曲ですが、この歌に関しては爺ブログ2015年7月27日の記事で詳しく解説しています。そこでも強調していますが、この歌の最大のポイントは歌詞の最終部に出てくる:
Te raconter enfin qu'il faut aimer la vie
Et l'aimer même si le temps est assassin
Et emporte avec lui les rires des enfants
Et les mistrals gagnants
そしてやっぱり人生を愛さなきゃだめだときみに言う
たとえ時がとても残酷なものであっても愛さなきゃだめだ
時は子供たちの笑い声と 

ミストラル・ガニャンを共に連れ去っていく 
という部分です。たとえ時がどんなに残忍な殺し屋であっても、人生を愛さなければいけない。このドキュメンタリー映画に登場する5人の子供たち(5歳から9歳)は残酷な時の中に生きています。アンブル、カミーユ、シャルル、イマード、チュデュアル(註:これはブルターニュ地方の男児ファーストネームだそう)、この5人は病名も社会背景も異なりますが、共通するのはみな難病と闘っていて、病院・家庭・学校を行き来しながら「その日」を生きているということです。この子たちはすべて(大人でも覚えられそうにない)自分が罹っている病気の複雑な病名をそらで覚えていて、その病気が現代医学では治癒が難しいということも知っています。つまり自分の命が短いということを自覚しているのです。
 このドキュメンタリー映画を撮ったのはアンヌ=ドーフィヌ・ジュリアンという当年43歳のジャーナリスト/エッセイストで、これが初の映画作品です。彼女は2011年に『濡れた砂の上の小さな足跡(DEUX PETITS PAS SUR LE SABLE MOUILLE)』と題する、難病(異染性白質ジストロフィー)を持って生まれた自分の長女と次女との日々を綴った手記本(日本語訳本が講談社から)を発表していて、これが26万部を売るベストセラーになりました。本を発表後、長女も次女も短い命を燃え尽きさせました。映画はその娘たちの生死の日々に立ち会っている時期に制作されています。
 
妖精の姿かたちをした9歳の少女、舞台で劇を演じることが何よりも好きなアンブルは「肺高血圧症」のため、いつも背中に肺と心臓の機能を調整するための機械の入ったバックパックを背負っていなければならない。彼女はそれをつけて劇を演じ、走ったり踊ったり...。「嫌なことは気にせずに、この病気と一緒に生きるのよ」と言う。
5歳半なのに哲学者然とした「悟った」ものの言い方をするカミーユは小児ガンの一種「神経芽細胞腫」で、このツルツル頭の可愛い子は
"Ma petite sœur a un an et demi, mon père 30 ans et demi, ma mère 35 ans et demi et moi 5 ans et demi. C'est la famille et demi".  
(僕の妹は1歳半、僕のパパは30歳半、僕のママは35歳半、そして僕は5歳半。だから僕の家族はひと家族半。)
なんていうあっけにとられるようなユーモアセンスの持ち主。(この子は撮影が終わった6ヶ月後に亡くなったそう)
 いたずら者のシャルルは「表皮水疱症」はその脆い皮膚が少しの衝撃でも崩れてしまうのを知っているのに、毎日「病友」のジェイソンと病院の廊下を走り回って遊んでいる。あらゆる危険を知りながら、ディズニー動画「ライオンキング」のヒーローたちのモットー「ハクナマタタ(どうにかなるさ)」と唱えながら、困難にぶつかっていく。
4歳の時にその難病の治療ためにアルジェリアから家族と共に移住してきたイマードは、「内臓逆位」と進行性の「腎不全」のために、腎臓移植しかその命を救う方法はない。学校に行けたり行けなかったりで友だちといつも一緒にいれないし勉強も遅れる。 故障したロボットのように、胸を開けて部品を取り替えれば良くなれる。「それは僕にはとても簡単なことなんだけど、大人の人たちには難しいことなんだね」と現状を分析する。
そしてチュデュアルも小児ガン「神経芽細胞腫」を患っていて、その楽しみはピアノを弾くことと家庭菜園で花や野菜を育てること。花の名前を全て暗記していて生き物に優しく、その幸せは誰にも邪魔することができない、と力強く言う。
"quand on est malade, ça n'empêche pas d'être heureux. Quand un ami meurt, on  est triste pendant longtemps, mais ça n'empêche pas d'être heureux"
(病気であっても、それは幸せになることを妨げない。友だちが死ぬと長い間悲しいものだけど、それは幸せになるのを邪魔することじゃない。)

 病気だから不幸になるわけじゃない。この子たちは幸せになることを選んだのです。生きることをポジティヴに楽しんでいるのです。生とは生まれてから死ぬまでの瞬間のこと。この生を幸せに過ごすこと。たとえ短いとわかっていても。治療や痛みは辛くても(映画は辛くて泣きだす子供の姿も映します)。どうしてこの子たちはこんなに笑えるのだろう? ー と問うのではなく、この子たちは笑うからポジティヴになれるし、ある種のオプティミズムさえ獲得してしまっているのです。教えられましたよ。教えられましたとも。生きることを愛さなきゃダメだ。 この子たちを抱きしめましょう。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『エ・レ・ミストラル・ガニャン』予告編

(↓)『エ・レ・ミストラル・ガニャン』 カミーユ君

 
 

2017年3月12日日曜日

センチメンタル1000日

ラウディオ・バリオーニ「きみと僕の1000日」(1990年)
Claudio Baglioni "Mille Giorni Di Te E Di Me"(1990)

 バリオーニの1990年のアルバム『オルトレ(Oltre)』 のイタリア盤オリジナルはLP2枚組20曲入りで出たのですが、私はフランスにおりまして、当時のSony Musicがオランダ、イギリス、フランスなど向けに出したCDアルバム『オルトレ』は11曲入りで、ジャケットもイタ盤とは異なっておりました(→CDジャケ。↓2LPジャケ)。Discogsのデータによると、CD2枚組20曲(完全)盤は2011年にヨーロッパで発売になっているようですがフランスでは見かけません。
  1990年、ワールドミュージック現象が音楽シーンを賑わしていた頃で、このアルバムにもユッスー・ンドゥール、リシャール・ガリアノ、パコ・デ・ルシアといったゲストが参加しています。とは言っても、ちっともワールドっぽいところのないアルバムで、欧州の凄腕ミュージシャンたち(トニー・レヴィン、ピノ・パラディノ、マニュ・カッチェ...)
に支えられたいつものバリオーニ調メロディー&サウンドです。
ここで紹介する「きみと僕の1000日」は、オリジナル版2LPではC面の5曲め、欧州版CDでは10曲めに収められたバラード曲です。詞は "bellaitalia.free.fr"というアマチュアサイトが約650もイタリアの楽曲をフランス語に翻訳していて(Un grand merci au passage!)、その仏語訳詞から日本語詞にしてみました。そりゃあコンピュータソフトの訳ではなく人間訳なので、ずっとフランス語っぽい翻訳になってますけど、まだまだ難しい。要するに、3ヶ月足らず1000日を一緒に暮らして破局してしまった男女のことなんですが、「世界が二人を羨むほどの」という内容があるので、スター的私生活のことだったんじゃないでしょうか。つまりバリオーニのプライヴェートに大きく関係した歌詞のように思えます。結構弁解がましい。芸能界、おおいやだいやだ。
 詞よりもずっとずっと心惹かれるのは、曲頭のドラムスの切り出し。これは手持ちの欧州版CDのブックレットに書いてあるパースナルによると英国人ドラマー、スティーヴ・フェローニ(アヴェレージ・ホワイト・バンド)が叩いていることになってます。ところが Discogsの資料(1990年イタリア版2LP)によると、ドラマーはチャーリー・モーガン(エルトン・ジョン・バンド)となっている。さあ、どっちなんでしょう(わたし的にはどうでもいいことなんですが)。何はともあれ必殺のドラムスイントロデューシングで、それに続くピアノのイントロメロディーが極上の哀愁もので、歌が始まる前に世界幾万の哀愁音楽ファンは魅了されてしまったことでしょう。そういう曲です。以前紹介した「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」と同様に、超絶延音ヴォカリーズの聞かせどころもありますが、この曲に関しては「出だし24秒だけで十分」というのが私の極論です。
僕はきみの中に隠れ、そして僕はきみのすべてを隠した。誰も僕のことを見つけられないくらいに。そした今、きみと僕はそれぞれの場所に戻っていく。やっと自由になれる、でも何をしていいのかわからない。
僕はきみに弁解も咎めもしない。僕はきみを傷つけまいとして実際には傷つけてしまった。きみは苦しみを抱えながらもしっかり立っていた。僕は被告席に立つよ。

きみの次に恋人になる女は僕の匂いだと思ってきみの香りを嗅ぐだろう。きみと僕はありとあらゆる人たちから羨まれていたんだ。でもきみと僕は何十億の人々を敵に回して勝てっこなんてないのさ。そして恋物語は台無しになった。

きみと僕は何もせずに一緒になったように、何もせずに別れた。結局何もすることなどなかったのだけれど、何かする代わりにゆっくりととても遠くまで逃げていったんだ。何も考えなくてもいいような遠いところへ。

二人がぶち壊される前に僕たちはおしまいにした。きみと僕の愛には終わりがなく僕のためにとっておこうとしたけれど、それがうまくいったと思ったのは束の間、僕はきみを失いかけていることに気がついたんだ。

きみの次に恋人になる女はきみが残した家具を使うことになるだろう。きみが出て行きがけに乱雑に書類を飛び散らかしたままの状態で。僕ときみの最初のシーンのようだけど、モーションは逆だ。

僕たちが知らなければならないこととは逆に、僕たち二人が知ったこと、そして決して理解できないことは、もはや今はないあの永遠の瞬間は確実に存在したということ、それはきみと僕の1000日の日々。

きみに僕の古い友達を紹介しよう、それは永遠に残る僕の思い出、この別れの時の僕さ。僕はきっとまたきみと恋に落ちるだろう….
 (きみと僕の1000日)
きみと僕の1000日。これに「前」をつけて、「あなたとわたしの千日前」とすると、たちまち、ディープな大阪ローカルラヴソングに豹変してしまいます。

(↓)1990年アルバム『オルトレ』のスタジオ・ヴァージョン。


(↓)1991年 TVライヴ。この時バリオーニ40歳。美しい。しかし、途中でむりやり入る拍手の音(フロアディレクターの煽りか)、なんとかならんもんだろうか。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアムでのライヴ。終盤5分20秒頃から、1分半のアウトロ。


(↓)2003年、ローマ、オリンピック・スタジアムでのライヴ。デカいオブジェ装飾がゴロゴロ、フィリップ・デクーフレ舞踊団のような奇抜ダンサーたち、クレージーホースサルーン風な露出度高い女性ダンサーたち....。最後は乱舞ですね。「1000日」というより「千一夜」みたい。

(↓)2006年、マチェラータでのフェスティヴァル、ピアノ弾語りライヴ。



2017年3月11日土曜日

終わりなき世のめでたさ

ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」(1961年)
Gino Paoli "Senza Fine"(1961)

 イタリア語で陣羽織のこと(ウソです)。60年代イタリアを代表するカンタウトーレの一人、ジノ・パオリ(1934年生れ)はそのデビューの頃にこれまた女優・歌手としてデビューしたてのオルネラ・ヴァノーニ(1934年生れ)と熱烈な恋に落ちます。この実生活から生まれたようなラヴソングが「センツァ・フィーネ(恋に終わりなく)」で、1961年にオルネラ・ヴァノーニの初の大ヒット曲となり、パオリ自身の録音もヒットしています。しかし所詮歌なんて嘘っぱちで、恋に終わりは来て、1963年7月にジノ・パオリはその破局のショックにピストル自殺を図っています。死んだらダメだ。生きていかなきゃ。再生して5回のサン・レモ音楽祭出場を果たし、政治的にもアクティヴに活動し、共産党選出の国会議員(1987年〜92年)にもなっています。
 「センツァ・フィーネ」はなんと言っても美しい音階の上昇と下降のあるワルツ曲です。終わりのないくるくる旋回の円舞曲です。目が回り陶酔する男女ダンスです。陶酔しきったらそのまま男女はベッドに倒れこみ、終わりのない夜を過ごすのです。なあんてね。若いっていいですね。
 ディーン・マーチン、ペギー・リーなど国際的な歌手たちにカヴァーされて、「センツァ・フィーネ」は世界的なスタンダード曲になっていきます。また1965年アメリカ映画『飛べ!フェニックス』(ロバート・アルドリッチ監督、ジェームス・スチュアート主演)では、テーマ曲と挿入曲に使われ、コニー・フランシス歌う「センツァ・フィーネ」がこんなシーンで。


 さてオリジナルは、ジノ・パオリとオルネラ・ヴァノーニのエンドレス・ラヴを歌ったものです。歌詞はこんな感じです。
終わることなく
僕ときみの人生ををきみは導いていく
ひとときも息切れせずに
夢見ること
過去のことを
憶えていること
きみは終わりのない
今この瞬間
きみには昨日もなく
明日もない
すべてはきみの両手の中に
きみの大きな手の中に
際限もなく大きな手
月のことなんかどうでもいい
星たちのことなんかどうでもいい
きみこそが僕の月、僕の星
きみこそが僕の太陽、僕の空
きみことが僕が欲しいすべてのもの
それには終わりがない…

そろそろこの記事終わりにしましょう。

(↓)ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)ディーン・マーチン「センツァ・フィーネ」1963年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ&ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」ライヴ 2005年


(↓)クラウディオ・バリオーニ「センツァ・フィーネ」2006年


(↓)ボズ・スキャッグス「センツァ・フィーネ」2008年


(↓)ゴンタール「イノシシ」2016年


2017年3月8日水曜日

ラ・ノッテ、ラ・ノッテ

ラウディオ・バリオーニ「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」(1985年)
Claudio Baglioni "Notte di note, note di notte"(1985)

 題の出典はエチエンヌ・ダオ「ローマの週末 Weekend à Rome」(1984年)です。歌詞中に "variété mélo à la radio"(メロな流行歌がラジオに)と出てきますが、84年当時のローマのラジオでメロなヴァリエテと言えばバリオーニだったでしょう。
 伊ウィキペディアの数字によると、クラウディオ・バリオーニの最大のヒットアルバムで400万枚を売った1985年の『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ (La Vita è adesso。人生は今、と直訳せず『いざ生きめやも』 と訳したりして...)の最終トラック10曲め(当時はB面5曲め)に収められた曲です。アルバムはヴァージン・レコーズの創始者リチャード・ブランソンが1971年に英国オクスフォード州の城館を改造して作った伝説のザ・マナー・スタジオで録音されていて、ドラムスにスチュワート・エリオット(アラン・パースンズ・プロジェクト)、ギターにフィリ・パーマー、珍しいところでは後年映画音楽の巨匠となるハンス・ジマーがキーボードで参加しています。
 "Notte di note, note di notte"は notte (ノッテ=夜)とnote(ノッテ=ノート、音符、メロディー)の同音異義語を並べた「調べの夜、夜の調べ」(あんまり上手い訳ではなくてゴメンなさい)といった意味です。どうなんでしょうね。さっき伊語→仏語(google translation)経由で訳してみましたけど、星降る夜が音符降る夜みたいになって、人類の希望と共に安らかに恋人と眠れるというポジティヴな歌詞ですけど、バリオーニは歌詞的な面白みは少ないと思いますよ。歌詞の中で、「この夜のこの瞬間にカリフォルニアと日本の間で人類の未来が創造されている」というパッセージがありますが、1985年当時の感覚ではシリコンヴァレーと日本が未来の象徴だったわけです。今は昔。
 歌詞なんてどうでもよく、この歌の最大の聞かせどころは、Bメロからサビへのつなぎに挿入される5音階上昇息継ぎなしの超絶フェルマータ(延音)で、どれほどの小節を全音スラーでつないでいるか気が遠くなるほどのブレスレスのヴォカリーズです。どんな構造の肺を持っているのでしょう。ライヴ録音ではここに婦女子のみなさんのキャーキャー声やため息が集中しているのがよくわかります。ミラクル長息。バリオーニはこの一点でも歴史に残る大ヴォーカリストでありましょう。
調べの夜 夜の調べ
月が犬を惑わせる
通りに隠れている放浪者たちはすべてを知っている
僕たちは歩く
地球が回る音とリズムに従って
パン屋はもう明朝のパンを焼いている
バケツの水はベランダの植物たちを目覚めさせる
朝の太陽は
僕の顔にかかった蜘蛛の巣の糸を
焼き払う
僕を追ってくるひと吹きの風が
ズボンの裾を鳴らしていく
天から降ってきたたくさんの音符を
何本の指で受け止めたことだろう
鍵をかけられた扉の向こう側に
一日の始まりは近い
小さな痛みよ、おやすみ
遊び人たちみんな、おやすみ
墨色の雲の中に、おやすみ
僕たちの息子よ、おやすみ
ここ天国の一角では
すべての匂いが思い出
それははっきりとよみがえる
そして悪い日々の渇きを取り去ってくれ
疲れた心に
平穏の夜をもたらす
調べの夜、夜の調べ
太鼓の皮のように張りつめた夜
ヘッドライトは僕のことを
目で理解しようとしている
落書きで描かれたような世界で
落ち葉を踏んで通り過ぎる人たちのために
今この瞬間に
カリフォルニアと日本の間で
未来を発明しようとしている人たちがいる
今夜 星たちは自由で
夜明けは古い町並みを見間違え
つぎはぎだらけの若い空は
新しい潮風を呼吸する
波打つ砂漠の只中で
妙にかすれた声があなたに聞く
あなたは今まで一体何を浪費してきたのか、と
数々の領収書に おやすみ
風の中に飛んでいって おやすみ
金色の沈黙の中で おやすみ
僕のお宝、おやすみ
ここでは誰もそんなやり方で
きみたちの夢をだれかに盗ませたりしない
希望の光と
新しい歌が
空から降りてくる時
今夜ここに
その音符たちが降りて来て
開かれた手のひらに
人生を見つめてくれる
僕はずっと
いつまでもそれを信じている
僕は愛のまなざしに従って
恋人の傍らで
眠りに落ちて行く

(↓)1985年アルバム『ラ・ヴィタ・エ・アデッソ』 のヴァージョン。 アルバム最終曲なのでアウトロがちと長い。


(↓)1985年ライヴ。アルバム『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ』発表年のライヴ。この時バリオーニ34歳。映像と音には細工がないでしょう。つまりあの超延音パートを細工なしで歌ってると思う。


(↓)1995年ライヴ。かなりスローになって、超絶フェルマータが際立つ。すっかりライヴの目玉ナンバーの一つ(大体はショーの最初に歌われると思う)になってる。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアム(すげえ)ライヴ。あの超延音部を走りながら歌ってる。超人的。新体操のおねえさんたち...(ちょっといただけない)。ブオナ・ノッテとベッドに寝てしまう。


(↓)2006年(アコースティック)ライヴ。55歳。さすがにこの頃は婦女子の皆さんのキャーキャー声がない。やっとどんなに美しい曲なのかというのがわかる。4分40秒めからバグパイプが登場。うっとり。


(↓)201X年ライヴ。4分10秒めまでピアノ弾き語り。60歳を過ぎて、さすがに音程がちょっとフラット気味。超絶延音パートもちょっとだけ苦しそうだけどお見事。


 

 

2017年3月5日日曜日

You don't know what love is

Aki Shimazaki "Suisen"
アキ・シマザキ『スイセン』


  年3月、パリの環状道路ペリフェリックの西側(オトイユ門からシャンペレ門)の外側土手はスイセンの花で真っ黄色になり、環境に優しくない自動車族に春の訪れを告げます。そんな時期3月1日にアキ・シマザキの最新作『スイセン』がフランスで刊行されました(ケベックで2016年9月に既刊)。シマザキの13作目の小説で、「アザミ」(2014年)、「ホオズキ」(2015年)に続く、第3の五連作(パンタロジー)(総題はまだついていない)の第3作目になります。
 本作の場所は現代の名古屋で、話者は男性です。『アザミ』の登場人物だったゴロウです。中部地方で大成功している酒造メーカー「酒屋キダ」の現社長で、豪放な人柄で派手な交遊好き+女好き、という絵に描いたような旧時代の日本型経営者タイプです。読み始めから、あ、まずいな、と思ってしまいます。こういう人物はおよそロマネスク(小説的)なキャラクターでないからです。シマザキはこの人物に日本的俗物の要素をどんどん詰め込んでいきます。金と名誉と女。ほとんど戯画化されています。二流大学商科の出、(自家よりも格の低い)良家の娘と見合い結婚、大学生の娘と高校生の息子の進路や交際相手をコントロールしようとする、有名人と一緒に写っている写真で壁を埋め尽くす、女性誘惑のガイドブックの教えを実践して女性が握手で差し伸べた手に接吻する、ゴルフやパーティーや高級バー通いをビジネスとして利用できる、絵が趣味の妻に山荘を買い与えその絵描き滞在の不在を利用して浮気をするがその不倫を妻が知らないと思っている、金と権力がある男にあらゆる女が服従するものだと思っている...。この俗物性のてんこ盛りで、シマザキは日本社会のある種の男性像を際立たせます。欧米人にはエキゾチックで滑稽でネガティヴなパーソナリティーです。アメリー・ノトンブが日本を舞台にした小説群に登場させるエキゾチックな日本人にも似ています。
 企業小説の部分もあります。破竹の勢いで伸びている「酒屋キダ」は同族会社で、ゴロウは社長だが、実権は義理の母(株の50%をホールド)が握っている。二代目社長である父の最初の妻はゴロウを生み、ゴロウが3歳の時に亡くなり、父は再婚して腹違いの妹アイが生まれる。異母兄妹のゴロウとアイは幼少の日から今日までずっと反目しあっている。義母は父を助け会社経営にも参画して「酒屋キダ」の総務責任者になる。ゴロウは勉学が苦手で二流大学の商科に入るのがやっとだったが、アイは一流大学で生物学を学ぶ。 やがてゴロウが30歳の頃に父が急死し、「酒屋キダ」は義母の総指揮のもとゴロウを社長に据え発展を続ける。その発展の最大の要因がウィスキー市場への参入で、ウィスキー開発部のチーフ(同じ生物学出身)とアイが恋愛結婚し、養子として「キダ」姓を名乗り一族入りする。月日が経ち、義母が80歳となって引退が近いと踏み、ゴロウはもうすぐ義母が持ち株分を自分に譲渡して、名実ともに「酒屋キダ」の社主になれると信じていた。
 本題はゴロウが女で身を滅ぼすという話です。まず目下の愛人第一号であるユリという美貌の人気女優です(あれあれ「ユリ」という花の名前です。次のシマザキの小説のタイトル&主人公になる可能性あります)。駆け出しの頃にゴロウが目をつけ、ゴロウの人脈を使って芸能プロダクションに顔つなぎをしたのがきっかけで、人気女優の座を手に入れた、とゴロウは思っています。つまり自分は愛人&恩人であり、俺の方に足を向けて眠れないはず、と。ところが主演映画発表のレセプション会場で、ユリは冷たく急用ありとゴロウを避けてその場を立ち去ります。
 続いて愛人第二号のO(オー)という未亡人。彼女の亡き夫は「酒屋キダ」の平社員だった男で、Oも当時は共働きで「酒屋キダ」で働いていました。社に大きく貢献した良き社員という表向きの理由で、ゴロウは大きな葬式を出してやり、特例の慰霊見舞金を捻出してOに近づいていきます。そして未亡人に住居まであてがってやるのですが、そこが妾宅となり、昼夜を問わず好きな時に行って愛人遊びをするようになります。
 この愛人第一号と第二号が、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ理由でゴロウを振ってしまいます。「新しい恋人ができたから」と言うのです。そいつはどこのどいつだっ!とゴロウは激昂して聞きます。人物はともかく、ゴロウが絶対に信じられないのは、その二人の新恋人の職業がいずれも勤め人(サラリーマン)であるということなのです。 社長とサラリーマンを比べて、サラリーマンを選ぶ女などどこにあるのか、という単細胞です。社長に比べてサラリーマンなど取るに足らない人間である、という身分差別です。ゴロウには自分よりも下層民を好きになることなど想像もできないのです。
 ここから誘導されてテーマは大上段に「愛するとは何か?」ということに移っていきます。日本の俗物男は愛するとはどういうことか知っているか?日本の男は愛することができるか? このことはちょっと上に引き合いに出したベルギー作家アメリー・ノトンブの日本男性観にも関係します。その2007年の小説『イヴでもアダムでもなく』の中で、ノトンブは日本人の恋は "amour"ではなく "goût"であるという論を展開します。つまり日本語の「あなたが好き」は「好き」つまり好みのレベルに留まっていて、命がけ・狂気がけに昇華した西欧的恋愛ではないというようなことを言うのです。私は読んだ当時はむっと来ましたけどね、あとで当たらずといえども遠からずと思うようになりましたよ。この小説のゴロウはこれまで一度も女性を愛したことも恋したこともない。自分が好きになった女をものにするということに愛も恋も必要ない。自分が女をものにできるのは金と名誉があるからである。ー というレベルのマテリアリスムがものを言う世界にゴロウは生きているのです。 You don't know what love is.
 この小説の物足りなさはまさにこの単純化です。なぜゴロウがそのように人を愛せない人間になってしまったのかをこの小説で説明するのは、幼くして母と死別したことなのです。愛を受けたことのない人間は愛を与えることができない ー ちょっとこの分析簡単すぎませんか? ゴロウが女性を誘惑したあとで、必ずゴロウはその女性に自分の幼少時の不幸を告白するのです。女性はそこで「金と権力」ではないゴロウを見て、ふ〜っと心惹かれるのですが、ゴロウはそれをかなぐり捨てて金と権力の男に戻ってしまう。作者はこのパターンを3人の女性を相手に三度繰り返すのです。愛の萌芽を潰してしまうのはゴロウの根に付いた俗物性に他なりません。幼児体験を重視すると許容性が勝ってしまうではないですか。しかし作者は後者を選びます。
 ストーリーは、ゴロウの思惑とは裏腹に度重なる不倫を全て見抜いていた妻と子供たちの離反、二人の愛人からの絶縁宣告、そして「酒屋キダ」内でのゴロウの失権という、あらゆる不幸でゴロウを打ちのめします。この連続の不幸をゴロウは俗物ゆえに最初なぜこうなるのか全く理解できないのです。
 ページ数的にはあまり登場場面の多くない人物ですが、非常に重要な第4の女性が居ます。それはゴロウが見合結婚する前に付き合っていた貧乏高校生のサヨコです。八百屋でバイトしながら一間アパートで自活生活をするサヨコは、大学に進学して心理学を学びたいという希望がある。サヨコは他の女たちと違ってゴロウに媚びることなく、ゴロウよりもはるかにインテリなことを言って、ゴロウを批判したりもする。ゴロウが大企業の次期社長だと知っても、それが何なの?という態度。サヨコはゴロウの不幸は幼少体験の不幸なのではなく、人を愛せない不幸なのだと見抜いている。そのサヨコが交際の1周年を記念して、ゴロウにスイセンの柄の付いたネクタイをプレゼントするのです。ゴロウはその翌日に見合い相手と結婚するということをサヨコに明かしません。しかしサヨコにはこの不幸な男はそうやって去っていくということを悟っていたような。
 ゴロウがサヨコと別れた理由?それは俗物ゴロウが、貧乏サヨコと次期社長の自分では身分が違いすぎると思ったからなんです。ここのところとっても弱いように思いますよ。身分の違いで泣く文学っていくら日本でも21世紀的じゃないです。
 
 四重五重の不幸と罰と辱めを受け、すべてを失ったゴロウは名古屋から金沢までベンツを飛ばして、サヨコのことを回想してみるのです。愛することを知らない人間はやり直しができるのか、ということも。
 終盤にきれいなパッセージがあります。犬や猫やあらゆる動物を毛嫌いしていたゴロウが、自宅物置で針金に足を絡めてケガをしていた猫を助け、獣医病院に連れていくのです。「迷い猫ですね、治療が終わったらが引き取りますか?」と聞かれ、妻子に出て行かれひとり身になったゴロウは「飼います」と答えるのです。「でしたら登録しますから名前をつけてください」と言われ、サヨコの回想でやり直しの手がかりを掴みつつあるゴロウは「スイセン」と命名するのです。

 ちょっとステロタイプな日本の「男性原理」は、このゴロウというキャラクターから人間的な厚みを削いでしまっているように思います。挿入される(人気女優ユリ主演の)映画「お母さん行かないで」のストーリーも、ゴロウの母子愛渇望の涙を流させるために使われるのですが、いかにもチープなお涙ものです。あまり説明的にならずに展開して欲しいです。幼少時のトラウマが頑迷な俗物を生むということ、日本男性の恋愛情緒の薄さはどこから来るのかも掘り下げなければならないでしょう。この男は愛することを知らない。これは私も含めた日本男性のパッションのありかの問題で、この小説には答えはありません。では、また次作でお会いしましょう。

Aki Shimazaki "Suisen"
Actes Sud刊 2017年3月 160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆


2017年3月2日木曜日

あとで肘鉄クラウディオ

クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ...」(1974年)
Claudio Baglioni "E Tu..." (1974)

 1951年ローマ生まれのカンタオトーレ、クラウディオ・バリオーニの5枚目のアルバム『エ・トゥ...』 (1974年)はパリ録音。軍政ギリシャを逃れて1968年にパリで結成されたギリシャのプログレッシヴ・ロックバンド、アフロダイティーズ・チャイルド(デミス・ルソス、ルカス・シデラス、エヴァンゲリス・パパタナシウ)は1970年に解散するが、その後も後年「ヴァンゲリス」として知られることになるエヴァンゲリス・パパタナシウ(72年頃「エ」が取れて、ヴァンゲリス・パパタナシウに)はパリで映画音楽やソロアルバム制作をしていました。1974年には英プログレ・バンド、イエスからリック・ウェイクマンが脱退し、その後釜キーボディストとして加入をオファーされてヴァンゲリスはその夏2週間に渡ってイエスとリハーサルしているが、加入には至っていません。そんな時期にこのクラウディオ・バリオーニとの仕事はやってきた。このアルバムでヴァンゲリスは全曲の編曲を担当している他、ドラムス、エレピ、ハモンド、各種パーカッション、ハープ、電子ハープシコード、クラヴィネット、フルート、マリンバ、ヴァイブラフォン.... まあまあ八面六臂のアシュラ様だったのです。
 アルバム表題曲でシングル盤となった「エ・トゥ...」はその年イタリアのチャートで11週間連続の1位、50万枚のセールスを記録する大ヒットとなりました。夕暮れの浜辺、いちゃつく男女のシルエットという、いかにも、のジャケに彩られた必殺のラヴ・スローバラードです。何の解説も必要としない。歌詞は訳すのもかったるい浜辺ラヴソング。この歌は後年もバリオーニのエヴァーグリーンとしてライヴのレパートリーに欠かせない曲になってますが、オリジナルにはなかった「アウトロ」がどんどん重要になっていく、という珍しい進化を遂げて40数年熟成の名曲になっています。
うずくまって海の音を聞いていた
息もせずに
どれほどの時間が流れたことだろう
指できみの横顔をなぞる
風がやさしくきみの服を撫でていく

そしてきみは
僕にまなざしを
僕に無邪気な微笑みを
裸足の僕は
きみの髪を撫でていた
蟻んこと遊ぶのをやめて
眼を閉じた
もう何も考えない
きみは寒くないのかい
きみは寒くないのかい

夜の闇に隠れていた星たちが現れ
突然きみの肌に震えが
そして息が切れるまで
二人で競争して走った
どちらが先にめげるか

そしてきみは
僕の様々な考えの一つ一つに 
ため息をつき
僕は押し黙った
すべてをぶち壊しにしないために
そして一本の草を
きみの唇に当てた
きみがもっときれいに見えるかもしれないと
髪の毛を持ち上げてみた
きみのことがますます好きになる
きみのことがますます好きになる
ひょっとしてきみは僕の恋人なの?

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなんて

戯れに二人は着たままで海に飛び込んだ
口づけ、もう一度、もう一度
何もきみに言えなくて

きみは透き通っていて
やさしく
きみはすでにすべてがあった
でも僕には
信じられなかった
僕はきみを固く抱きしめた
二人の衣服はびしょ濡れで
冗談だったねと笑い合った
急にやめてしまったけれど
僕はね、本当はね
きみが必要なんだ
きみが必要なんだ
僕に少しの愛をくれないか

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなん

(↓)クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」(1974年)


(↓)フランスも1976年までテレビは白黒だった。イタリアも事情は同じか。1974年テレビショーライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。時代はベルボトムだった。


(↓)1982年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがかっこよくなってる。


(↓)1991年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがますますかっこよくなってる。


(↓)2001年ピアノ弾語りライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。伸びすぎる声でアウトロいらず。


(↓)
2010年ロンドン、ロイヤルアルバートホール・ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロで立ち上がりギターに持ち替える。アウトロで客席にイタリア国旗が翻る。そういう歌なんだから、もうイタリア国歌になってもいいほど。





2017年2月25日土曜日

クメールのことよ

Banteay Ampil Band "Cambodian Liberation Songs"
バンテイ・アンピル・バンド『カンボジア解放の歌』


 利チエミのCDをフランスで復刻リリースしたファブリス・ジェリーの独立レーベルAKUPHONEの2017年2月新譜。1982年録音。十数年も前から続いているカンボジア内戦の真っ只中。カンボジア西部タイ国境付近に拠点を置く反ベトナム/反カンプチア人民共和国(親ソ連・親ベトナム派ヘン・サムリン政権)のレジスタンス機関(ソン・サン派)クメール人民民族解放戦線(FNLPK)の教宣活動音楽バンドがこのバンテイ・アンピル・バンド。
  その状況を理解するために、カンボジア現代史をおさらいすると、1953年にフランス保護領から完全独立し、ノロドム・シハヌークを国家元首とするカンボジア王国が成立。国王は映画と音楽を愛する文化人として知られ、映画監督、歌手としてもデビューしかけたことがある。またアコーディオンは名手トニー・ミュレナに 教わっている。国民に愛された国王であった。本CDの詳細なライナーノーツには、比較的平和が保たれた50/60年代のシハヌーク治世下で、首都プノンペンではジャズ、ラテン、ロックンロールが流行 し、多数のローカルバンドがラジオやクラブを席巻していたと記述されている。そのスウィンギング・プノンペンの黄金時代に王宮ダンスホールでは国王がバン ドマスターのジャズバンドが演奏していた。60年代後半、隣国でベトナム戦争が始まり、アメリカ軍の参戦/北爆に反対してアメリカと国交断絶もしている。しかし1970年に親米派のロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シハヌーク派は追放され、クメール共和国が成立した。
 ロン・ノルはベトナムでの共産主義勢力を攻撃する米軍と南ベトナム政府軍に協力し、カンボジア国内の(北勢力に協力的と見なされる)ベトナム移民を迫害し、カンボジア国内の共産勢力拠点も米軍に爆撃させた。このロン・ノルのクメール共和国に最も激しく抵抗したのが、マオイスト系共産主義革命組織クメール・ルージュであった。このグループは在パリのカンボジア人留学生たちによって1960年代に結成されたものだが、70年代の米軍のカンボジア爆撃とロン・ノルの弾圧政策によって急激に支持層を増やしていく。73年、ベトナムから米軍が撤退し、ロン・ノルは後ろ盾を失い、ポル・ポト率いるクメール・ルージュはカンボジア全土を掌握し、1975年にロン・ノルがアメリカに亡命、クメール・ルージュ政権が誕生し、国名を「民主カンプチア」とした。
 (とここまで書いて、資料を書き写すのに嫌気がさしてきた。カンボジア、ベトナム、アメリカの三つ巴戦争、中ソ対立による共産ベトナム対共産カンボジアの代理戦争、ポル・ポトの狂気のような原始共産制構想、大虐殺...。あの頃、私たちは何も知らずに一体何をしていたのだろうか。)
 1975年以前、ベトナム・米軍によるカンボジア人犠牲者の数は60万〜100万人、76年から79年のポル・ポト政権時代のカンボジア人犠牲者の数は100万〜300万人。カンボジア全土は廃墟と化した。
 1979年暮れ、廃墟同然のプノンペンに入城しポル・ポト政権を打倒したのはベトナム人民軍。元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命していたヘン・サムリンを擁立してベトナム傀儡政権である「カンプチア人民共和国」が誕生。
 このCDの音楽が作られた「現時点」はここなのである。
 ベトナム傀儡政権へのレジスタンス組織クメール人民民族解放戦線(FNLPK)は、シハヌーク治世時代(1967年)の元首相 ソン・サン(1911-2000)によって1979年に創設され、その拠点をタイ国境に近いバンテイメンチェイ州アンピルに置いた。ソン・サンは右派共和主義者で、FNLPKは「虐殺政治クメール・ルージュの復帰阻止」、「ベトナム軍による占領の廃止」、「カンボジア再建」を3つの目標として掲げ、アンピルの難民キャンプから反政府ゲリラ攻撃をかけていた。しかし1番目の目標にも関わらず、FNLPKはクメール・ルージュとも手を組み、「カンプチア人民共和国」を打倒するために、ポル・ポト派、シハヌーク派、サン・ソン派は「三派共闘」を展開することになる。

 サン・ソンが クメール人民民族解放戦線のプロパガンダ活動に音楽が必要と、アンピルの難民キャンプで結成させたのが、このバンテイ・アンピル・バンドなのである。
 女性シンガー2人、男性シンガー3人、インストルメンタリスト5人(ヴァイオリン、キーボード、ギター、ベース、ドラムス)の10人組。 右の写真を見る限りでは、リーダーのウーム・ダラ(Oum Dara。1940年生。ヴァイオリン、キーボード、作詞作曲)を除いてはみんな十代〜二十代の若者たちのようだ。
 ウーム・ダラは50年代にフランス人教師からヴァイオリンを学び、17歳で音楽で身を立てることを決意、ピアノなど他の楽器もマスターし、国立劇場つきの伴奏楽団やカンボジア国営ラジオで演奏するようになる。西洋音楽のコピーに飽き足らず、1960年25歳で作曲を始め、 その最初のヒット曲が人気女性歌手ロ・ソレイソティア(1948-1977。日本語版ウィキペディアには「(クメール・ルージュ)強制労働キャンプに閉じ込められている間に、死亡したと考えられている。」との記述あり)のためにウーム・ダラが作詞作曲した「Chas Chu Em」だった。その後数々のヒット曲を生むのだが、1975年クメール・ルージュが権力に就くや、抑留され、音楽活動を一切禁止されただけでなく、作曲した譜面は全て焼却された。音楽家たちの多くが「粛清」された中、ウーム・ダラは身分を隠し生き延びた。そして1979年、FNLPKを組織したソン・サンに招かれ、アンピルの難民キャンプに合流し、音楽監督としてキャンプの若者たちを養成して結成したのがバンテイ・アンピル・バンドである。
 バンドの楽器はベトナムのカンボジア侵攻に反対する国々(USA、タイ、マレーシア、マレーシア)で構成する機関(ライナーノーツには "ASEAN WORKING GROUP"と記述されている)から寄付されていてる。彼らはFNLPKのオフィシャルな行事の他、難民キャンプを回って演奏し、その歌は「ラジオ・クメール・ヴォイス」(またの名を「解放ラジオ」。シハヌーク派とソン・サン派の共同海賊放送で、タイから放送されていた)の電波で人々に知れ渡った。歌のテーマは、愛国、民族意識鼓舞、抵抗戦士賞賛、反ベトナム、反共産主義などで、もっぱらソン・サン派人民民族解放戦線のプロパガンダであった。
1982年、バンテイ・アンピル・バンドは "ASEAN WORKING GROUP"の支援で極秘のレコード録音を敢行する。バンドは陸路でタイのバンコクまで行き、次いで飛行機でシンガポールに至り、録音スタジオで一夜のうちに全曲を吹き込む。その際バンドは写真撮影禁止を厳命されていた。
 アルバム『CAMBODIAN LIBERATION SONGS(カンボジア解放の歌)』はバンテイ・アンピル・バンドが残した唯一の録音であり、1983年からLPとカセットで流通している。アジアで、アメリカで、フランスで、オフィシャルな配給経路を通さずに、口コミのみでアルバムは人の手に上り、幾多のカセットコピーが末端に広がっていった。
 英語とフランス語で書かれたライナーノーツは、このアルバム誕生の経緯に詳しいが、結論部にはこう書かれている:
このプロパガンダ・レコードはベトナム人(ベトナム系カンボジア政府軍)とクメール系反対勢力の内戦の時期に作られ、クメール民族が独立国としての主権と土地と文化を失ってしまうことの懸念を表現している。しかし1979年ベトナム軍侵攻以降のベトナム人移民の大流入の以前にも、ベトナム人は17世紀初頭からカンボジア国内に多く住んでいた。「複数の民族性」を認めようとしない傾向のあるこの国にあって、その先人たちの多くはカンボジアに骨を埋め、自分たちを「カンボジア人」とみなしていた。このベトナム人への恐怖が、歴史的に政治利用されたことはしばしばあり、このレコードは明白にレジスタンス運動への支持と「敵」に抗して団結するよう訴えている。

 ちょっと聞くと牧歌的でさえあるフォーク・ロックの数々。この解放と自由を希求するレジスタンスの歌は、一方ではその「敵」である特定の民族を攻撃・憎悪するメッセージを含んでいる、ということを無視してはいけない。いくら難しいと言われようが複数の民族性の同居は可能であり、実現させなければならないと思いますよ。

<<< トラックリスト >>> 
1. MY LAST WORDS
2. PLEASE TAKE CARE OF MY MOTHER
3. TUOL TNEUNG (THE HILLOCK OF THE VINE)
4. DON'T FORGET KHMER BLOOD
5. SEREKA ARMED FORCES
6. FOLLOW THE FRONT
7. I'M WAITING FOR YOU
8. PLEASE AVENGE MY BLOOD, DARLING
9. DESTROY THE COMMUNIST VIET !
10. LOOK AT THE SKY
11. VIETNAMESE SPARROWS
12. THE VIETNAMESES HAVE INVADED OUR COUNTRY

BANTEAY AMPIL BAND "CAMBODIAN LIBERATION SONG"
CD/LP AKUPHONE AKU1004
フランスでのリリース:2017年2月

(↓)BANTEAY AMPIL BAND "MY LAST WORDS"



(↓)BANTEAY AMPIL BAND "PLEASE AVENGE MY BLOOD, DARLING"



(↓)BANREAY AMPIL BAND "LOOK AT THE SKY"

2017年2月17日金曜日

おいしい水

Aquaserge "Laisse ça être"
アクアセルジュ『レス・サ・エトル』

 語わかる人なら、この一見奇妙なアルバムタイトルは英語『レット・イット・ビー(Let it be)』の仏語直訳のであると気づくでしょう。ビートルズへの目配せがそんなに重要なバンドではないような感じがしますが、世界のどこにビートルズに影響されていないバンドがありましょう? たぶん、リーダーのバンジャマン・グリベールが「タイトルをどうしようか?」と悩みに悩んでいた時に、聖母マリア様が顕現して、その叡智の言葉として「レット・イット・ビーなんかどう?」とのたもうたのでしょう。
 トゥールーズの人たちです。フランス語で歌うジャズ・ロックです。2010年代の仏語アンダーグラウンド・ムーヴメントを支援するメディア(ウェブジン)LA SOUTERRAINE の周辺では最も高い評価を受けているバンドの一つで、これが4枚目のアルバムになります。今回は世界配給がベルギーのCRAMMED DISCSですから、やっと世界的に知られるようになるかもしれません。
 バンド名アクアセルジュは「水」と「セルジュ」の合成とみなしていいのでしょうが、その後半の「セルジュ」というのは、誰が見てもゲンズブールあやかりと思われましょう。そのセルジュ・ゲンズブールが1978年にジェーン・バーキンに書いた曲で「アコワボニスト Aquoiboniste」というのがあります。アコワボニストとは何に対しても"A quoi bon ?"(ア・コワ・ボン?それが何なのさ?)と言う傾向のある、やる気も関心も情緒も欠落している人間のことで、この語を発明したのはボリズ・ヴィアンであるという説もあります。ア・コワ・ボン? しかしてゲンズブール流言葉遊びの流儀に従えば、このバンド名は
A quoi sers-je ? 
 (ア・コワ・セール・ジュ? 私は何の役に立つのか?)
と書き換え可能でしょう。
 しかしながら、このバンドが熱心なビートルズ・フォロワーでないのと同様に、ゲンズブール的要素もあまりないのです。あるとすれば、ゲンズブール『メロディー・ネルソン』時のジャン=クロード・ヴァニエの作編曲&サウンド環境作りには大いに影響されている風には聞こえるということでしょうか。
 女性二人(クラリネット奏者、ベーシスト)を含む5人組が基本フォーメーションで、豪州のサイケデリックバンド、テーム・インパラに出稼ぎ参加しているドラマーのジュリアン・バルバギャロがここに加わることもあり。これに4人ほどのホーン隊が加わったトランス・ジャズ楽団が「アクアセルジュ・オーケストラ」で、この名義で別行動もしています。またバンジャマン・グリベール(ギター。一応リーダーと呼んでいいのかな?)、ジュリアン・ガスク(キーボード)、前述のジュリアン・バルバギャロ(ドラムス)はそれぞれソロアルバムも出していて、2000年代からフレンチ・サイケデリック・アンダーグラウンドの顔役(アクア役)として暗躍しています。
 この4枚目のアルバムはアクアセルジュ・ファミリー総出演のビッグバンドっぽい音です。言い訳程度に歌詞(歌)が入ってますが、アクアセルジュは基本的にインストバンドだと思っていいでしょう。詞と言ったって、ダダでナンセンスでシュールなものでして...。
きみ自身の足で歩くっていうことは
きみは世界一周をしたってことだよ
鏡に映ってるのがきみの顔だっていうことは
きみはモナリザではないってことだよ
       ( 世界一周 Le tour du monde)

Vis ta vie de bete en enfer(ヴィ・タ・ヴィ・ド・ベート・アン・アンフェール)
fer à cheval dans le soda (フェール・ア・シュヴァル・ダン・ル・ソーダ)
seau d'armes à feux dans la cité (ソー・ダルム・ア・フー・ダン・ラ・シテ)
Si t'es coco c'est pas facile(シ・テ・ココ・セ・パ・ファシル)
Fa si la sol fa mi ré do(ファ・シ・ラ・ソル・ファ・ミ・レ・ド)
domination colonialiste (ドミナシオン・コロニアリスト)
       (Tintin on est bien mon loulou)

(↑)の2番目はナンセンスなしりとり歌なので訳さずにカタカナ表音転写だけしましたが、アホらしい楽しさがわかってくれればいいです。歌詞は全然重要じゃないんです。それでいいんです。このバンドの本領はインスト・アンサンブルの妙です。この音楽の旅はクラウトロックカンタベリー派、プログレ、サイケデリック、ノイズ... フリー・ジャズ、コズミック・ジャズ、シャンソン・ダダ... など1曲の中で様々な停車場に立ち寄るパノラマ列車のよう。早くなったり遅くなったり、ダンスを拒む変拍子になったり。リファレンスとして見え隠れする名前は、カン、ムーンドッグ、フォンテーヌ/アレスキー、アルベール・マルクール、ジャン=クロード・ヴァニエ、ロバート・ワイアット、キング・クリムゾン、ジョン・コルトレーン...。
  注目:7曲め "CHARME D'ORIENT"で、アシッド・マザーズ・テンプルKawabata Makoto(河端 一)がギターで参加してます。
 こんな名前が並ぶと「高踏派なんだな」と身構えるかもしれませんが、全くその必要なし。そりゃあムードイド(2013年デビューの仏サイケデリックのメジャーバンド。2015年に来日もした)のような大掛かりなポップさはありませんが、名前の通り流れる水のようなフレッシュさが身上。これをブラジルの先人は Agua de beber (飲み水ですよ)と歌い、その歌を故ピエール・バルーは Ce n'est que de l'eau, camarade (ただの水だよ、同志)と仏語訳して歌ったのでした。 けだし、アクアセルジュはただの水だよ、同志たち。

<<< トラックリスト >>>
1. TOUR DU MONDE
2. VIRAGE SUD
3. TINTIN ON EST BIEN MON LOULOU
4. SI LOIN, SI PROCHE
5. C'EST PAS TOUT MAIS
6. L'IRE EST AU RENDEZ-VOUS
7. CHARME D'ORIENT
8. LES YEUX FERMES

AQUASERGE "LAISSE ÇA ETRE"
CD/LP ALMOST MUSIQUE
フランスでのリリース:2017年2月3日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アクアセルジュ「世界一周 LE TOUR DU MONDE」フランス国営ラジオFRANCE INTERスタジオ・ライヴ


(↓)アクアセルジュ「南カーブ VIRAGE SUD」ヴィデオクリップ


 

2017年2月12日日曜日

バルバラ色の人生

ジェラール・ドパルデュー『バルバラを歌う』
Gérard Depardieu "Depardieu chante Barbara"

 本では知る人も少ないであろうが、フランスには2006年から「ジェラール賞」という年次セレモニーがある。その年度の演劇界最優秀俳優に与えられる由緒ある「ジェラール・フィリップ賞」とは全く別のもの。「ジェラール賞」はフランスの映画とテレビにおけるワースト(映画、番組、俳優、司会者...)に与えられる賞で、セレモニーに受賞者が現れるのはごく稀である。ワーストに冠される賞に、なぜこの「ジェラール」という名前か、という理由は公然とは言われていないが、誰もがあの男優のことを思い浮かべてしまう。
 かつて映画・演劇界の若き大名優として国際的スターにまで昇りつめたジェラール・ドパルデュー(1948年生れ。現在68歳)のこの10数年の巨体化、奇行蛮行、暴言、スキャンダルの数々(サルコジ支援、ロシア国籍取得、イスラム改宗...)は、この大俳優のイメージをずいぶん変えた。哀れな滑稽ささえ漂う。メディアの嘲笑的傾向の報道に腹を立て、ドパルデューは昨今のドナルド・トランプのようにジャーナリストたちに吠えつき、取材をシャットアウトする。外聞など全く気にしなくなった偏屈な誇大妄想者というイメージで見られているのが今日のジェラール・ドパルデューである。
 さて2017年はバルバラ(1930-1997) の20周忌に当たり、さまざまなトリビュート・コンサート、トリビュート・アルバムが予定されているほか、映画監督としてマチュー・アマルリックが撮った長編バイオピック映画(主演バルバラ役にアマルリックの元妻ジャンヌ・バリバール)があり、さらに秋にはフィラルモニー・ド・パリでバルバラの大エキスポが開かれることになっている。その一連のイヴェントの皮切りのように、ジェラール・ドバルデューがこの『バルバラを歌う』と題するアルバムを2月10日に発表し、2月9日から18日までパリのビュッフ・デュ・ノール劇場で連続コンサート(連日ソールドアウト)を行っている。
18歳年の離れたドパルデューとバルバラは親密な友情関係にあったが、公に最も知られているのは1986年1月初演のバルバラ作の音楽劇『リリー・パシオン』での共演であった。私はその1月のパリ・ゼニットでこのスペクタクルを見ることができた。殺し屋(ドパルデュー)と女歌手(バルバラ)の二人舞台の物語。女歌手が行く先々の興行地で、そのコンサートの夜に必ず殺人事件が起こる。殺し屋が女歌手を誘い出す手段のように。神話的な恋物語は、二人が刺し違える結末となるのだが、これが一体何の寓意であるのか、私も含めて多くの人たちはよく理解できなかったと思う。このスペクタクルはパリ・ゼニットの後、約1年間フランス全土を公演して回る。つまりこの1年間バルバラとドパルデューは衣食&苦楽を共にしたわけである。
 『リリー・パシオン』 は難産の音楽劇であり、発案から初演まで4年の月日がかかっていて、その間にウィリアム・シェレールが編曲してスタジオ録音したアルバムをボツにしたり(最新の情報では2017年に蔵出しされる可能性あり)、20年間バルバラのアコーディオン奏者(つまりメインの伴奏者)だったロラン・ロマネリと(ドパルデューとの諍いが原因で)決別することになったり...。公演が始まっても、興行的には大成功というわけではなかったようだ。しかし死後になっても、完全収録ではないライヴ盤しか出ておらず、当時スペクタクルを見た人たちを除いては全容が見えていないこの一種の「呪われた」音楽劇に、再評価の機運が高まっている。そして死後刊行された自伝『一台の黒いピアノ』(1998年)で自ら明かした父親との近親相姦のことにより、バルバラの歌の「読まれ方」は随分と変わってしまったし、「黒いワシ」と同じように、『リリー・パシオン』の殺し屋をそのイメージで解読することもできる。
ジェラール・ドパルデューは最も近い距離にいた生き証人であり、そのことについて死後20年に渡って沈黙してきたが、2017年2月1日号のテレラマ誌巻頭インタヴューで初めて証言を公にしている。以下、無断で部分訳。
テレラマ(インタヴュアー:ヴァレリー・ルウー)「バルバラが亡くなってからあなたは彼女について一度も語ったことがありませんでした。なぜですか?」
ドパルデュー:彼女自身が語ることが大嫌いだったんだ。どうして私が彼女の代わりにそれをできる! 第一、私は私と彼女の秘密についてはこれからも一切言わないよ。二人の笑い声、二人の傷、それはほとんど同じものだったし、これからもそれは私たち二人のものだ。
(……)
テレラマ「上演された当時、リリー・パシオンが彼女の内面の深い部分の何を隠していたのか、誰も良く理解できませんでした」
ドパルデュー:私がそれは何かを言うわけにはいかないんだ。リリー・パシオンは素朴なおとぎ話で、バルバラは自分自身の多くの部分をその中に詰め込んだ。多くの象徴もね。例えばリリーが殺し屋に「ナイフで刺して、ダヴィッド、ナイフで」と言う時、それは「黒いワシ」と同じように近親相姦のしるしかもしれない。その歌の中で、「私の手の中にその首を滑り込ませた Dans ma main, il a glissé son cou」と歌っているが、その首というのはイチモツのことだと容易に想像出来る。「黒いワシ」は近親相姦のことを歌っている。

テレラマ「彼女はそのことを一生苦しんでいたのですか?」
ドパルデュー;そんなことはない。彼女が歌を歌い始めた時から近親相姦は影を潜めた。彼女はそうやってそこから逃れることができたんだ。彼女が自分の体型を嫌っていたことも歌うことで気にならなくなった。私は彼女が近親相姦について苦悩していると感じさせた場面に一度も出会ったことがない。一度も。私と彼女がナントで一緒に歌った時、その歌「ナントに雨が降る」へのオマージュでナント市長がある道をその歌に因んだ「ラ・グランジュ・オ・ルー通り」と命名した時も全く動じなかった。私はその話をずっと後になってから知ったのだ。彼女が自伝(IL ETAIT UN PIANO NOIR)を書き始めた時にね。性的暴力を蒙った人たちはたくさんいるし、中にはそこから回復できない人(パトリック・ドヴェールのようにね)もいるが、それを乗り越えて生きられる人たちもいる。バルバラは単にとても陽気だったのではなく、彼女にはとても強い生きる力があるんだ。彼女は人の言葉を聞けて、人々の不幸も受け入れることができるが、彼女自身の生きてきたことに関しては決して嘆いたりすることななかった。「ナントに雨が降る」で、彼女はそれを赦したということを示したのだ。

テレラマ「彼女は父親をその罪から解放したかった。自伝の中で彼女は “あなたは安らかに眠れるのよ、私は歌うことによってそこから抜け出せたのだから”と書いています」
ドパルデュー:彼女はすべての人間たちと同じようにこの男も解放したかったんだ。「ゲッチンゲン」を歌うことによってドイツの人々を解放したようにね。しかも「ナントに雨が降る」の中に近親相姦に関した歌詞がないように、「ゲッチンゲン」にもガス室に連れて行かれる子供たちに関する歌詞はない。「死のエイズ愛(Sid’amour à mort)」を歌うことによって、彼女は当時の偏見に晒されたエイズ患者たちをも解放しようとした。
テレラマ「エイズに関しては彼女はこの歌だけではなく、大変な尽力をしていました」
ドパルデュー:私は彼女と一緒に多くの病院を訪問したが、彼女は家族に見放された患者たちに会いに行ったんだ。今から30年前のことだけど、あの当時私が見たのは魔女狩りか中世のらい病者放逐のような場面だった。エイズは愚かな宗教者たちから恥ずべき病気で天罰のようにみなされて、多くの人たちは孤独のうちに死んでいった。バルバラはそういう人たちのためにそこに行ったんだ。彼女は人間たちの狂気に由来する苦しみに我慢がならなかった。アメリカで最近起こったようなトランペット(小さなトランプ)による人々の狂気に由来する不幸にね。あるいはそれはもうすぐこの死にかけているヨーロッパにも起こるかもしれないが。
そしてジェラール・ドパルデューはこの『バルバラを歌う』 をつくった。もうひとりのジェラール、15年間に渡ってバルバラのピアニストをつとめたジェラール・ダゲールがピアノと編曲を担当して、1973年からバルバラが住処としていたプレシー・シュル・マルヌのバルバラ邸のサロンに機材を持ち込んで録音している。もちろんピアノはバルバラが持っていたものをダゲールが弾いている。楽器はピアノの他に、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、アコーディオン(マルセル・アゾラの名があり)、パーカッションも入っているが、おそらく別吹き込みと思われる。14曲入り。最終トラックの"Précy Prélude"は、ジェラール・ダゲール作曲のピアノソロインストで、その他13曲はバルバラ詞曲で、ジェラール・ドパルデューが歌っている。
 ドパルデューは歌ったことがないわけではない。1980年には歌手としてRCAからLPアルバム "Ils ont dit Moteur... Coupez!”(作詞作曲がエリザベート・ドパルデュー)を発表しているし、2006年の映画 "Quand j'étais chanteur"(グザヴィエ・ジャノリ監督)では、地方のダンスホール歌手役でゲンズブール「アナムール」などを堂々と歌っていた。
 バルバラとの『リリー・パシオン』ではセリフのみで1曲も歌ったものはないということになっていたが、実は前述のオクラ入りになったウィリアム・シェレール編曲のスタジオ録音ではドパルデューもバルバラと一緒に歌っていた(と、2月9日のテレラマWeb版でヴァレリー・ルウーが興奮して報じている)。
 『ドパルデュー、バルバラを歌う』はその音楽劇『リリー・パシオン』の中の曲「ミモザの島 (L'ile aux mimosas)」から始まる。オリジナルではバルバラ(女歌手)が歌い、ドパルデュー(殺し屋)がセリフで応えていたこの曲を、ドパルデューは女歌手役と殺し屋役の両方を歌っている。私はこの歌声に驚き、震えた。演劇人の優れたディクションかもしれない。バルバラのヴァージョンよりも、どれほど言葉がはっきり聞こえるか。その言葉の伝えるものを伝えられる技というのだろうか、そこに引き込まれていく感じ。歌うたいの表現力とは違うものであろう。
 「小さなカンタータ」、「黒い太陽」、「サン・タマンの森」、「孤独」、「黒いワシ」、「ナントに雨が降る」、「いつ帰ってくるの?」、「ゲッチンゲン」...。バルバラの歌で暗記するほど聞いたこれらの歌は、68歳の老男優が大事にする言葉の発し方/転がし方でエモーションが純化されたように聴こえてくる。重く、軽く、硬く、柔らかく、味わいは変わる。ゲンズブールやバシュングのような声とマイクロフォンの特性の調和によるマジックかもしれない、ドパルデューの声のプレゼンス。
  10曲め "A force de"は、オリジナルはバルバラ最後のアルバム『バルバラ』(1996年)の2曲め(アルバム2曲めは常にアルバム最重要曲)に収められていて、作詞はギヨーム・ドパルデュー(1971-2008)。一般にはそれほど知られた曲ではないと思う。しかしどうしてもこの曲は入れたかったのだろう。亡きバルバラと亡き息子の共作曲、どれほどの思いで歌ったことだろうか。
 Que d'émotions...

<<< トラックリスト >>>
1. L'ILE AUX MIMOSAS
2. UNE PETITE CANTATE
3. MEMOIRE, MEMOIRE
4. DROUOT
5. LE SOLEIL NOIR
6. AU BOIS DE SAINT-AMAND
7. LA SOLITUDE
8. L'AIGLE NOIR
9. NANTES
10. A FORCE DE
11. MA PLUS BELLE HISTOIRE D'AMOUR
12. DIS, QUAND REVIENDRAS-TU ?
13. GOTTINGEN
14. PRECY PRELUDE

GERARD DEPARDIEU "DEPARDIEU CHANTE BARBARA"
BECAUSE MUSIC CD/LP
フランスでのリリース:2017年2月10日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ドパルデュー、バルバラを歌う』 ティーザー


(↓)CDアルバム『バルバラを歌う』を手にするドパルデュー