2017年10月27日金曜日

She don't lie she don't lie she don't lie..

70歳になったばかり、芸歴50年、24枚目のアルバム『われらが愛に(A nos amours)』のプロモーション中のジュリアン・クレールが、週刊誌パリ・マッチ(2017年10月26日)のインタヴューで、80年代の「若き日のあやまち」を告白。どうってこたぁねえっすよ。みんな若かったんだから。

パリ・マッチ「回顧的に見てみれば、ロダ=ジルとの決別は良い決定だったのではないですか? 1978年に始まる10年間は、あなたにとって最大の商業的成功をもたらした時期だったのですから…」

JC「僕はいつでも善良な一兵卒さ。ベルトラン・ド・レベー(註:ジャーマネ。現在は欧州最大のアーチストエージェント会社代表)の役目というのはこういう決定を下すことだった。僕の芸歴においてこの方面に関しては僕は彼に全面の信頼を置いていた。でもそれは僕がナイーヴな若者だったからかもしれない。何れにしてもこの時期に一つの大きな前進があったことは確かさ、とりわけヴァージンと契約したことはね。でも僕はこの時期もデビュー当時と同じように物事に無自覚に過ごしていた。」
パリ・マッチ「でも、あなたはそうやって “FEMMES… JE VOUS AIME”を歌って、フランスでも最もセクシーな男になったのじゃないですか…」
JC「人が言うには僕はその頃気難しかったんだそうだ。ありうるね。でも僕はその成功というのは僕の努力の結実だと思っていた。そして当時僕を取り巻くスタッフに僕は固くガードされていた。例えばその”FEMMES… JE VOUS AIME"という歌だけど、最初僕には歌うのが難しかった。初めてミウミウに歌って聞かせた時、彼女は「ノン!それは “FEMME JE T’AIME”じゃないとおかしい」と言った(註:複数の女性FEMMES をVOUSとして愛するのではなく、単数の女性FEMMEをTUとして愛するのでなければおかしい、と言ったのだよ)。人々の受け止め方は、僕に関しては50年間すべて良好という印象があるだろう。ところがね、客が良く入らなかったツアーというのもままあったんだよ。奇妙なことにそのことは誰も知らないんだね。
パリ・マッチ「80年代半ば、あなたは声の状態をキープするためという理由でコカインにまで手を延ばしました…」
JC「そしてそれは全く良くなかった! それは喉の奥のところで溶けてしまって、僕の耳鼻咽喉系のトラブルには全く効き目がなかった。その頃僕はあまりトレーニングをしない天才スポーツ選手のようだった。だからコカインなしには歌うことができなかった。だけどそこには快楽など全然なくて、早々にコカインからは卒業したよ。」
(↓)「ファ〜ム、ジュヴゼ〜〜ム」


(↓)2017年アルバム(カロジェロのプロデュース)"A NOS AMOURS"から 「ジュ・テーム・エトセテラ」



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2017年10月28日追記


リジアン紙10月25日の第一面。ハーヴェイ・ワインスタイン事件を皮切りに、フランスでも一挙に噴出してきたあらゆる分野でのセクハラ・性暴力告発の大ムーヴメント。これに男性たちも支援・コミットする、という有名人男性16人の声明。
写真最上段・左から二人目にジュリアン・クレール。JC様の声明を以下に訳します。

ジュリアン・クレール、歌手、70歳

われわれすべてに責任がある。

不幸にしてセクハラ加害者はどの社会環境にも、どこにでもいる。しかし幸いにして僕はこれまでその場に居合わせたことは一度もなかった。僕が気がかりなのは、それに対して自分を防御することができない女性たちのことである。仕事場で好色な上司にセクハラ被害に遭う女性たちは自分の職を失うことを恐れている。われわれはみんなその各々の立場において責任があるが、それは極めてデリケートな問題であり、僕は知りもしないのに教訓を垂れたり、断罪したりするつもりもない。”FEMMES JE VOUS AIME”の歌詞を書いたジャン=ルー・ダバディーと共に、僕たちは女性たちを尊重する男たちである。僕は常にフェミニストの男であることを自認しているし、僕は常にフェミニストたちと共に生きてきた。ミウミウと共に僕は、婦女暴行犯罪の裁判を多く闘いその関連法を改善してきた弁護士ジゼル・アリミと密接な関係にあったし、そのことが僕に深い影響を与えた。愛は分かち合うものでなければならないし、このことに議論の余地がないのだ。
 L’amour doit être partagé, ça ne se discute pas. 「愛は分かち合うものでなければならないし、このことに議論の余地はないのだ。」
ありがたいお言葉です。


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