2018年4月19日木曜日

Ici c'est... Paris

『僕の田舎娘たち』
"Mes Provinciales"

2017年制作フランス映画
監督:ジャン=ポール・シヴェイラック
主演:アンドラニック・マネ、ゴンザーグ・ヴァン・ベルヴェセレス、コランタン・フィラ、ソフィー・ヴェルベーク
フランス公開:2018年4月18日

 書物がいっぱい出てきて、いっぱい名著名句引用もあります。この若者たちは愛情/友情の証しのように書物を贈呈し合うのです。映画冒頭、パリの大学で映画を学ぶためにリヨンを離れるエチエンヌ(演アンドラニック・マネ)が、恋人リュシー(演ディアーヌ・ルークセル)と駅での別れに手渡すのがエミリー・ブロンテの『嵐が丘』です。「この訳が一番いいから」などと知ったような口を叩きながら。この若者たちはやたらと本を読み、それを肥やしにして前に進もうとする昔ながらの文学・哲学青年青女のようなところがあります。口をついて引用されるのは、ブレーズ・パスカルジェラール・ド・ネルヴァルノヴァーリス...。この映画のポスターにも印刷され、映画中でも2度3度口にされるのが、ドイツロマン主義詩人ノヴァーリスの詩集『夜の讃歌』(1800年)のこの一節です。
 毎日私は信念と勇気をもって生き、毎夜 恍惚の炎のうちに死ぬ
瞬間瞬間を苛烈に燃焼させて生きること、これがロマン主義の思想です。ロマン主義の目指すもの、それは自己実現です。自分が自分になること。誰のものでもない自己の生を生きること。他者から強いられる生を拒み、お前自身になること。これは明治時代の文学青年の大いなる野望のように思われるかもしれませんが、システムの中に取り込まれまいともがく今日の若者たちにも雄弁な思想に変わりありまっせん。そしてこの映画は今日の映画なのです。マクロン時代のフランスが舞台なのです。
 主人公エチエンヌは映画監督を目指す学生で、地元リヨンにいてはどうしようもない、やはりパリで逸材たちと凌ぎを削って勉強しなければ「本物」になれない、という中央=頂点の幻想があります。私から見ればリヨンなんてフランスの古い大都市で、文化的基盤もしっかりしているように思うし、リヨンで勉強した映画人だって少なくないと思うんですが、「本物志向」からすれば「やっぱりパリでなきゃ」なのかもしれません。
 地方のパリコンプレックスは、このエチエンヌを演じるアンドラニック・モネの容姿にも見えます。床屋嫌いの長髪(70年代的)と甘くナイーヴそうなマスク、顔に釣り合わない長身+がっしり体型(きこりのような田舎っぽさ)と厚手のセーターと万年パーカー、時代と無関係な貧乏学生スタイル(都会人センスゼロ)。それが映画の最初の方で、パリに着いて、地下鉄の標識を感慨深げに見上げるシーンは「おら、東京さ来ただ」なのです。そして貧乏ですから、住居はアパルトマンのコ・ロカシオン(ルームシェア)で、映画の進行でシェアメイトは女→女→男と3人変わります。マットレスだけ、ソファベッドだけ、という空間ですが、ここが貧乏学生たちの溜まり場になって、古き良き青春学生映画のような酒と議論とセックスの舞台となるのです。
 さて、映画の名門「パリ第8大学」なんです。そこには映画創造への熱情に溢れた地方から来た若者たちがゴロゴロと。監督の卵たちですから、みんな曲者ばかりで、個性と感性は激しくぶつかり合っています。しかしその中で飛び抜けた学生というのはやっぱりいるわけで、言うことなすこと羊のような学生たちとはまるで違う。学友の発表作品やら教授の言うことに徹底的な批評を下す。だから敵も多いし、多くの学生たちはこいつとは関わるな、と敬遠するのですが、エチエンヌはこいつが圧倒的に正しいと畏怖敬愛の情を抱く。このマチアス(演コランタン・フィラ)も地方(ボルドー)から出てきた若者で、鋭い感性ときれいな顔立ち(カリブ系の褐色まじり)と計り知れない映画・文学・哲学的リファレンスを持ち、神出鬼没で誰もどこに住んでいるのかも知らない。エチエンヌはマチアスに惹かれ、マチアスと一晩中でも二晩中でも映画の話をしていたい、そして自分のやりたい映画をマチアスに認められたい。友情と言うよりは一方的な師弟願望。恐る恐る見てもらったエチエンヌの試作短編は、柔らかながらマチアスに弱点をズブズブつかれ、エチエンヌは失意のうちに敗北を認め、雪辱作品の制作を誓う。
 このエチエンヌとマチアスの間に入って、エチエンヌを支えようとするのがジャン=ノエル(演ゴンザーグ・ヴァン・ベルヴェセレス)で、ゲイでエチエンヌに一方的な恋慕の情を抱いているのですが、エチエンヌはそれを承知の上で最も近い友情関係を築いていきます。これがいい奴でして。人の良さと立ち回りのうまさで、田舎者エチエンヌをどんどん引っ張っていき、エチエンヌの映画試作にはなくてはならない「助監督」になっていきます。しかしこの友情はその頂点で瓦解します。なぜならいくらジャン=ノエルが尽くし、助言しようが、エチエンヌにとってマチアスのひと言の方が百倍も千倍も重要だということがわかってしまうからです。
 そしてエチエンヌの女性関係です。故郷リヨンに残された恋人リュシーは、可視距離にいないエチエンヌとの恋慕関係に当然不安を抱いてきますが、エチエンヌにはその思いに一点の曇りもないと政治的答弁を繰り返すしかない。曇りはあり、パリには誘惑もあり、その修行中映画人の観察眼視線は若い女を捉えてしまうこともあります。ゲームの時もあれば、知りたい欲のために一歩踏み出さなければならない時もある。
 ここの問題点は二つ。地方人エチエンヌはリヨンをリュシーと父母を包含した、いつでも帰れる母体のように思っているフシがある、ということ。大丈夫か?元気か?という問いによく考えもせずに「大丈夫だよ」と答えてしまうアプリオリな安全地帯のような。リュシーはそれは恋ではないとさっさと見抜いてしまう。第二点は、エチエンヌは自分は映画人となって自己を実現するという「大義」があると思っていること。自分のやりたいことで大成することこそ、父母やリュシーの満足であり、支えてくれる最親者たちへの恩返しである、と。これはフランス語で言うところの "nombrilsme"(ノンブリリスム=自分のへそこそ世界の中心だという考え方、自分のへそしか見ない自己中心主義)の典型なんです。見かけはそうでなくても。
 映画はそういう地方から出てきたロマン主義的な「大義」を夢見る若者が、そのためにいったいどれだけのものを捨て、逆に捨てられていくのか、という軌跡でもあります。
 映画の中でマチアスと同じほどに強烈な個性で異彩を放つのがアナベル(演ソフィー・ヴェルベーク)というポワチエから出てきた娘で、エチエンヌの第二のルームシェア人。アナベルは大学に登録しながら学校にはほとんど行かず、難民支援など現場の活動家として闘っている。地面に足をつけて現実の諸悪に対して行動している、憤激(indigniation)をバネに生きているような激しい娘です。だからこの腐れきった世界と闘うのに「映画なんて何の役に立つのさ」という極論を平気で言う。その極論に(その場に居あわせた)マチアスが激しく反論し、映画的効果による大衆的意識変革の可能性などを説いてみる。この赤々と燃える二つの個性は、この場では平行線の舌戦に終わるのですが、映画は後日談としてマチアスとアナベルが強烈に惹かれ合い、愛し合い、短期間で破局するという「やっぱりなぁ」なエピソードを挿入します。アナベルは誰とも妥協しない。彼女の目から見ればすべてが生ぬるい。この女性も苛烈なロマン主義者である、ということです。
 そう、この映画の中で彗星のような鋭い光を放つのは、マチアスとアナベルしかいないのです。エチエンヌはそれを傍で見ていて、憧れながら、結局そこまでに至らないのです。マチアスはある日、自分のアパルトマンの窓から飛び降り自殺で絶え、アナベルはノートル・ダム・デ・ランド空港反対闘争など、あらゆる闘争の現場に飛び込んでいき、闘士の生を全うする。エチエンヌは置いてけぼりなのです。パリでの大義達成の道程で、たくさんのものを失ったエチエンヌは、結末として映画修行も途中で断念し、テレビ連ドラの制作スタッフという安全パイを選び、聡明で理解ある新しい恋人と、パリの新しいアパルトマンで暮らすという新生活がやってきます。これでいいのかな、とは言わせない、静かなメクトゥーブのエンディングです。私にとってロマン主義とはこう終わるものであって全然構わないのですが、帰り来ぬ青春なのです。そしてそれら(創造や闘争やエゴや....)をすべて包み込んでパリは美しく、このモノクロ映像の区々は多くを若者たちに語っているのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『僕の田舎娘たち』予告編


(↓)Ici c'est...

2018年4月11日水曜日

68年5月のマリアンヌ

ランスの報道カメラマン、ジャン=ピエール・レイ(1936-1995)が1968年5月13日に撮った写真で、初掲載はそれから11日後の5月24日発行のアメリカのグラフ週刊誌「ライフ」。その登場以来、この写真は「パリ5月革命」を象徴するイメージとして、世界中のメディアが取り上げて知られるようになった。その旗を翻すポーズから、ウジェーヌ・ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」と比較され、いつしかレイのこの写真は「68年5月のマリアンヌ」と呼ばれるようになった。
 68年5月3日、ナンテール大学の「3月22日運動」(ダニエル・コーン=ベンディットをスポークスマンとするアナーキスト派+トロツキスト派+マオイスト派の共闘グループ142人)がソルボンヌ大学構内で集会を開こうとしていたが、大学側の要請で機動隊が出動し、学生たち十数人を逮捕の上、実力で学生たちを排除して校外に追放した。学生たちはおとなしく退散したと見せかけて、ソルボンヌ付近のカルチエラタン街区の道々にバリケードを築き上げる。バリケードの総数は60あったと言われる。支援の学生たち、高校生たち、市民たちがバリケードを支え、機動隊との激しい攻防戦は昼夜を通して繰り広げられ、367人(公式発表)の負傷者を出しながら、5月10日の夜、ついに落城する。この極めて暴力的な警官隊の実力行使はテレビとラジオで実況中継され、多くの市民たちの憤激を買うものとなり、各労組の中央委員会は労働者たちの学生への連帯を訴え、5月13日、ゼネストに突入するのである。
 この学生運動と労働運動が合体した、フランス史上最大のストライキ(スト参加者総数7百万人)の記念すべき初日たる5月13日、フランス全土で500ものデモ行進が組まれ、パリでは労組、未組織労働者、市民、学生、高校生ら数十万人が、レピュブリック広場を出発してダンフェール・ロシュロー広場に至るコースを行進した。件のジャン=ピエール・レイの写真はパリ6区リュクサンブール庭園に近いエドモン・ロスタン広場にさしかかるデモ隊を撮影したもの。
若い女性の名はキャロリーヌ・ド・べンデルン(英国貴族の血を引く23歳、ディオールのマヌカン)、彼女を肩車しているのが画家/造形家/著述家のジャン=ジャック・ルベル(1936 - )。女性が手に持って振っているのは当時の南ヴェトナム解放民族戦線の旗(→)。すなわち、彼女はヴェトナムでのアメリカ軍侵攻に反対する意志表示でこのデモに参加していたというわけである。
 この写真の世界的名声はキャロリーヌ・ド・ベンデルンの人生をおおいに狂わせ、まず、職業としていたオートクチュールのマヌカンができなくなった(「左翼活動家はお断り」)。
 なお、このキャロリーヌ・ド・べンデルンは写真家ジャン=ピエール・レイに対して1978年(10年後)に、肖像権の保護を求める訴訟を起こしているが、裁判では「この写真は歴史的事件の記録が主眼であるである」という理由で肖像権の侵害にあたらないという判断となった。1988年(20年後)と1998年(30年後)にも同様の訴訟を起こしているが、いずれも敗訴している。これが判例となって、歴史的事件の報道写真は中に含まれる人物の肖像権を侵害しない、ということが慣例となったそう。

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 キャロリーヌ・ド・ベンデルンのこと調べていたら、いろいろすごいことがわかってきたので、近々別記事として紹介します。

(↓)キャロリーヌ・ド・ベンデルンが出ている動画(1968年)

 

2018年3月30日金曜日

フランスという名の王国

ジャン=ミッシェル・キャラデック「68年5月」(1974年)
Jean-Michel Caradec "Mai 68"

詞曲:ジャン=ミッシェル・キャラデック
アルバム "Ma petite fille de rêve"(1974年)より

 1946年ブルターニュ生まれのシンガー・ソングライター、ジャン=ミッシェル・キャラデックは、1968年にパリに上り、マキシム・ル・フォレスティエ、カトリーヌ・ソヴァージュ、イーヴ・シモン等と共に左岸派フォーク・フーテナニーのフィールドで実力をつけ、ボビノ座でジョルジュ・ブラッサンスの前座歌手として世人に知られるところとなります。1981年に自動車事故で34歳の若さでこの世を去っていて、生前アルバムは8枚発表されました。1974年のセカンドアルバム "Ma peite fille de rêve"に収められたこの68年5月革命を歌った作品は、僚友マキシム・ル・フォレスティエに寄ってもカヴァーされていますが、74年という時期の「あれから6年後」の思いは苦々しく、敗北感すら匂わせています。運動は尻すぼみ、日常の倦怠は恒常化し、ジスカール=デスタン大統領期の経済安定消費文化時代/テレビ支配時代から振り返れば、近い過去である68年5月は一体何だったのだろうか、という無常感はあったでしょうね。しかし68年5月は10年経ち、20年経ち、今や50年経ち、その画期的な社会革命/意識革命としての評価をどんどん高いものにしていっている。そのノスタルジーは、本当にフランスの良き時代へのそれよりも大きなものになっている。どうしてなんでしょうか?
 それはこの歌の中でいみじくも繰り返される「フランスという名の王国」、つまり共和国とは名ばかりの権威主義的で封建的なフランス=旧時代のフランスが、74年のジャン=ミッシェル・キャラデックの視点から見れば「68年5月」の希望は挫かれ、ついに倒れることはなかった、という結論を持ってくるのだけれど、10年後、20年後、50年後の長いタームで振り返ってみると、やっぱりあの時にすべてが変わったのだ、と思えるようになった、ということなのでしょう。
 ではその「68年5月」の弔いのようなジャン=ミッシェル・キャラデックの歌を訳してみます。(訳註も入れてます)


La branche a cru dompter ses feuilles
Mais l'arbre
éclate de colère
Le soir que montent les clameurs,
Le vent a des souffles nouveaux
Au royaume de France

枝は葉の萌え出るのを抑えて我慢していたつもりが
その木は怒りで破裂してしまった
怒号が湧き上がる夜
風が新しい息吹を取り戻した
フランスという名の王国で

Le peintre est mont
é sur les pierres
On l'a jeté par la frontière
Je crois qu'il s'appelait Julio
Tout le monde ne peut pas s'appeler Pablo
Au royaume de France

画家が石で積んだ山に登ったのに
彼は国境で振り落とされた
彼の名前はたしかフリオ(※1
誰もがパブロという名前ではないんだ
フランスという名の王国では

(1 : Julio Le Parc : アルゼンチン人画家。闘争ポスターの制作に積極的に参加していたという理由で国外追放処分になる)

Et le sang des gars de Nanterre
A fait l'amour avec la terre
Et fait fleurir les oripeaux
Le sang est couleur du drapeau
Au royaume de France

ナンテールの若者たちが流した血が
大地と愛し合って
金メッキの花を地上に咲かせた
血は旗の色
フランスという名の王国では

Et plus on viole la Sorbonne
Plus Sochaux ressemble
à Charonne
Plus Beaujon ressemble à Dachau
Et moins nous courberons le dos
Au royaume de France

そしてソルボンヌ(※2)が強姦されるにつけ
ソショーがシャロンヌ(※3)に似通っていくにつけ
ボージョンがダショー(※4)に似通っていくにつけ
我々はもはや譲歩のしようがなくなっていく
このフランスという王国で

(2 : 1968
5月3日、学生たちが封鎖して立てこもったソルボンヌ校の警察による強制排除)
3: 1968年6月スト封鎖中のプジョー自動車ソショー工場の警察による強制排除、死者名。1962年2月、アルジェリア戦争反対デモ、地下鉄シャロンヌ駅出口付近で機動隊の襲撃で死者8名)
(4:ボージョンはパリ市内の警察機動隊駐屯施設。ダショーは
1933年に開設されたナチスの強制収容所の名)

Perché sur une barricade
L'oiseau chantait sous les grenades
Son chant de folie était beau
Et fous les enfants de Rimbaud
Au royaume de France

バリケードにとまり
催涙弾の雨にさらされながら鳥は歌っていた
その狂気の歌は美しかった
そしてランボーの子供たちは熱に浮かれていた
このフランスという王国で

La branche a cru dompter ses feuilles
Mais elle en portera le deuil
Et l'emportera au tombeau
L'automne fera pas de cadeau
Au royaume de France

枝は葉の萌え出るのを抑えて我慢していたつもりが
それはその死の悲しみに伏し
墓まで運んでいくだろう
この秋には実りの贈り物などありはしない
このフランスという名の王国では

私もあの古めかしい「王国」は 、1968年を転機にしてフランスから消えていったのだと思います。そういう原稿を今、準備しています。

(↓)ジャン=ミッシェル・キャラデック「68年5月」


(↓)マキシム・ル・フォレスティエによるカヴァー「68年5月」


2018年3月25日日曜日

Ton cul est rond

 "Mektoub My Love - Canto uno"
『メクトゥーブ・マイ・ラヴ』

2016年制作フランス映画
監督:アブデラティフ・ケシッシュ
主演:シャイン・ブーメディン、オフェリー・ボー、サリム・ケシウーシュ
フランス公開:2018年3月21日


     Ton cul est rond comme une horloge
             おまえの尻は時計のように丸い
                      (Allain Leprest  "Ton cul est rond")

 いお尻がひときわ目立つ映画であり、豊満な肉体の娘たちが勝ち誇ったようにその丸みを誇示しているように見える。映画中でも口にされる画家ルノワールの絵のような、光で輪郭が飛んでしまいそうな娘たち。時は1994年夏、場所は南仏オクシタニア地中海沿岸の町セート。エロティシズムの香り高いシャンソン詩人ジョルジュ・ブラッサンスを生んだ町でもある。それから宮崎駿映画で知られるようになった「風立ちぬいざ生きめやも」の詩人ポール・ヴァレリーもセート出身である。古くから良港として知られ、漁港、レジャー船マリーナ、地中海フェリー(モロッコ行き)の港湾部とリゾートビーチが広がる。
 きれいな顔立ちをした若者アミン(演シャイン・ブーメディン。21歳。初映画出演)はパリで映画シナリオの勉強をしていて、夏にセートに帰郷している。チュニジアの血を引く地中海ボーイ。結婚を嫌った母(演デリンダ・ケシッシュ。監督の妹。初映画出演。素晴らしい)がシングルマザーで育てた。 母はアミンのいとこのトニー(演サリム・ケシウーシュ)が経営するクスクス・レストランで働いていて、観光シーズンの夏は休みがない。親子のヴァカンスはないけれど、たまに帰ってきた息子だけは太陽の下で思いっ切りハメを外して遊べ、とけしかける。夏が好き、太陽が好き、お祭り騒ぎが好き、おしゃべりが好き、女同士の井戸端会議が好きな楽天的地中海おばさん。
 さて、どことなく内気なアミンは、かねてから町の娘で仔山羊酪農農家で働くオフェリー(演オフェリー・ボー)に想いを寄せていたが、アミンが知る限りでは憲兵隊員となったクレマンと恋仲だったはずなのに、パリから戻ってオフェリーの家を訪れてみると、窓から激しい喘ぎ声、真っ昼間から交情中、相手はというとなんといとこのトニーであった。これが映画の冒頭シーン。観る者は最初にこのオフェリーの素晴らしい肉体(完璧に丸いお尻、豊かに張り出した乳房)が興奮して波打つ数分間に圧倒されることになる。ふ〜っ。Chaud, non?
 終わるやトニーは間男のようにそそくさとバイクで去って行き、その終わりを見計らってアミンがオフェリーのドアの呼び鈴を押す。オフェリーにしてみれば不意の再会。あら、いつ、パリから戻ったの?ってなもんで。聞けばオフェリーはもうクレマンとは別れて、今はトニーとの結婚も考えている、と言う。アミンの心を知りながら。だが、アミンはそれでもいつかはオフェリーの心を惹こうという想いで、映画中、オフェリーへの接近の手を緩めない。これが一応アミンのウブで純愛っぽいキャラクター。
 いとこのトニーはセートだけでなくチュニジアとフランスで合わせて4軒のクスクス・レストランを持っているという若き実業家にして、口がうまく商売人で人当たりも良いが、南の人間っぽいお調子者で、おまけに性が強い(リファレンスとしてアルド・マッチョーネ)。ある午後、アミンとトニーの二人組がセートのビーチに海水浴に行くと、ニースからやってきたという若い娘二人シャルロット(褐色髪。演アレクシア・シャルダール)とセリーヌ(ブロンド髪。演ルー・リュティオー)と出会います。砂浜に寝転がりながらの数分間の会話で、トニーはあれよあれよと言う間にシャルロットを誘惑してしまう。早ワザ。最初はシャルロットに比べると大人しそうに見えたセリーヌだが、ダンスが得意(職業ダンサー)で誘惑ゲームではシャルロットよりも遥かに上手ということがだんだんわかってくる。その夜、この4人でセートの盛り場に繰り出すのだが、セートの深部まで知り尽くした土地っ子の案内なので、それはそれは南の夏の宵の最高に良い雰囲気と、それを徹底的にエンジョイする男女たちの美しい姿が映さていく。そこでダンス自慢のセリーヌは自然に華々しくなってしまい、その夜に完璧に調和した溶け込み方ができるのである。それにひきかえシャルロットは色を失いがち。
 トニーに誘惑されて、すっかりその気になってしまったシャルロットは、それを恋だと思いたいのに、恋にはならないということに悩みナーヴァスになっていく。そしてシャルロットと土地の娘オフェリーとの間に、トニーを取ったの取らないのという諍いも生じてしまう。トニーはと言えば、お調子者なので、みんな堅いこと言わずエンジョイしようぜ、ってなもんんで。オフェリーに対してもシャルロットに対しても真剣なものなど何もない。夏なのだから。傷ついたシャルロットのなだめに入るのがアミン。かと言ってシャルロットを誘惑しようというハラではない。その中途半端さに、シャルロットはますます孤立してしまう。一方のセリーヌは、男を次々に手玉に取るだけでなく、バイセクシュアル欲望もフルオープンで、誘惑した女の中になんと(肉体魅力の権化)オフェリーも。ヴァカンスの快楽至上主義を100%生きることができる稀に幸福な女。
 アミンはトニーを諦めようとしないオフェリーに、インテリでアーティスティックな(アミンは写真家でもある)アプローチを試みたりする(「きみのヌード写真が撮りたい」)のだが、オフェリーにとってアミンは幼馴染の良い友だちを超えることはない。男手の足りない酪農農家を切り盛りして働くオフェリーの姿は、大地に生きる女の逞しさがあり、そのお尻は丸くて重い。その生命への讃歌のように、映画はオフェリーの農場で仔山羊が出産するシーンをアミンが写真におさめるというエピソードを挿入する。これが本当に感動的。
 それと同じほど「絵」として美しいのが、浜辺で海に浸かりながら、集団で男が女を肩車して行われる騎馬戦のシーン。若い女たち、男たち、とりわけ女たちの肢体と笑顔がうっとりするほど美しい。眩しい。アミンの母親が言うように、夏、若者たちはこういう肉体と笑顔を取り戻さないといけないのだ。
 心の底からの笑い顔ができないのはアミンである。シャルロットのなだめ役を買って出たり、オフェリーの心をつかむことができないまま、夏の時間は過ぎていく。セリーヌやトニーのように享楽の夏に溶け込むことができない。
 この3時間近い長尺の映画の中で、ひときわ長いのが終盤のディスコでの場面。アルコールが回り、爆音環境の中で踊り、大声で話すが、ディスコでの会話とは往々にして誰も言葉を聞き取れないし、映画を観る者にもほとんど解読できない。こういう条件の場面が延々と10分以上続くのだが、言葉は聞こえずとも、観る者はそこにいる人たちの動作や目配せで何が起こっているのか(獲物を物色したり、 誘惑したり、気が合ったり、反目しあったり、ライバル意識むき出しにしたり...)すべてわかってしまう映画のマジック。夏の夜はこうやって更けていき、そしてこの夏も永遠ではなく、やがて終わってしまうのだ...。

   一応原作となっているのがフランソワ・ベゴドーの2010年発表の自伝的小説『本物の傷(La Blessure la vraie)』で、それをケシッシュがかなりの自由翻案でシナリオ化した。ベゴドー本は1986年夏の大西洋岸(サン・ジル・クロワ・ド・ヴィー)が舞台で、登場人物たちも15 - 16歳のアドレッセントで、この映画よりも青っぽくかつ生臭い童貞青春残酷コメディーで、バック音楽はボブ・マーリーやらマドンナやら...。
 このケシッシュ映画も音楽はとても重要で、クラシック、MPB、テクノ、ディスコなどさまざま挿入されるが(ここのリンクにトラックリスト)、クスクス・レストランの隣のバーでセリーヌたちが男女組みで踊りだす音楽がライナ・ライ「ジーナ」で、ああ、この歌もフランスの90年代で普通に聞かれていたのだなぁ、と感慨深いものがある。それからオフェリーの仔山羊牧場で、「仔山羊追い唄」のように流れる「オゼ・ジョゼフィーヌ」(バシュング1991年のナンバーワンヒット)も動物と共に動く女の美しさを際立たせる。上述の長いディスコのシーンで流れる各曲のうちシルヴェスター「You Make Me Feel」(この映画の予告編でも使われている)が飛び抜けて官能肉体乱舞の喜びをよく伝えている。ヴァカンス地の夜はこうでなくちゃ。
 さてこの狂騒の夏に今一つも今二つも溶け込めずに、やや醒めている二人の存在が映画の最後に浮き上がってくる。それがおそらくまだ恋に対して純でウブなセンシビリティーを持っているということなんだろうが、アミンとシャルロットなのだ。もうヴァカンスも終わり近く。暮れそうな寂しい砂浜で再会した二人は、シャルロットの「うちでなんか食べてく?」に軽々と乗って歩き始め、そこでスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」が流れて、暗転、エンドクレジットロールとなるのですよ。大拍手もの。
 なお、監督アブデラティフ・ケシッシュはこの新人男優シャイン・ブーメディンとの出会いが運命的(メクトゥーブ)なものと捉えていて、フランソワ・トリュフォーとジャン=ピエール・レオーの例(アントワーヌ・ドワネル連作)に倣って、アミン(シャイン・ブーメディン)を主人公とする連作を作っていく考えだそう。既に『メクトゥーブ・マイ・ラヴ』の第2話(Canto Due)は制作中。少なくともアミンが40歳代になるまで撮り続けたいという長〜い構想。おおいに期待しましょう。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『メクトゥーヴ・マイ・ラヴ:カント・ウノ』予告編

 

2018年3月24日土曜日

ツリーとリゾーム

 Aki Shimazaki "Fuki-no-tô"
アキ・シマザキ『ふきのとう』

キ・シマザキの第三のパンタロジー(五連作)の第四作品です。前作(つまりこのパンタロジーの第三作)の『スイセン』の発表当時まで、このパンタロジーにはまだ名前がなかったのですが、昨年その総題は『アザミの影(L'Ombre du chaudron)』と発表されました。というわけで、現在までにパンタロジー『アザミの影』は :
1. 『アザミ』(2014年)
2. 『ホウズキ』(2015年)
3. 『スイセン』(2016年)
4, 『ふきのとう』 (2017年)
と4作発表されたことになり、残り1作で完結することになります。『アザミ』『ホウズキ』『スイセン』はそれぞれ拙ブログで作品紹介しているので、貼り付けたリンクで参照してください。この五連作の舞台は20世紀末から21世紀初頭(携帯電話はあるが、インターネットやスマホの一般的普及の前)の日本の中部地方(中心都市は名古屋)です。
 『ふきのとう』の話者は第一作品『アザミ』で主人公だった地方誌編集者のミツオの妻、アツコです。『アザミ』の中で、ミツオとアツコの夫婦は二児を授かった後「セックスレス」になり、ミツオは偶然再会した小学校時代の「初恋」の女ミツコ(セレクトバーで"アザミ”という源氏名で働いている)に激しい恋慕を燃やし「不倫」関係になり、それがアツコにも知られ夫婦&家族崩壊の危機となるのですが、ミツオが悔い改め元のサヤに戻ります。亡き父から引き継いだ田舎の農家と農地を今日的な有機野菜農園に変身させ、一人で切り盛りするアツコ、二人の子供はこの田舎が好きで母親と暮らしていますが、根っからの都市生活者で田舎が苦手だったミツオも独立して地方雑誌社を経営するようになってから会社を田舎の近くに移し、それまで週末だけ通っていたアツコの田舎家に同居して通勤するようになります。 一家四人が再び結束して暮らす平穏に支えられ、アツコの有機農園は軌道に乗り、助手が必要になってミツオの雑誌に求人広告を出します。その求職者のひとりとして現れたのが、20年間音信の途絶えていた高校時代の親友フキコ(漢字では"蕗子")でした。小さい頃から土いじりが好きで将来は農業の道に進みたいと考えていたフキコはその夢を捨てて高校を卒業してすぐ銀行マンと結婚して家庭に入り、アツコの前から姿を消します。銀行マンは地方都市の支店長に出世し夫婦は二児をもうけ、外側から見れば順風満帆で何不自由ない身分のフキコが低収入主婦パート求人に応募したのは、この夫婦は協議離婚を準備中だからなのです。フキコは結婚生活で中断された農業へのパッションを取り戻し、第三の人生を歩み始めようとしている...。
 さてこの最新作の重要な軸はジェンダーです。アキ・シマザキが大きくこのテーマを扱うのはこれが初めてです。回想される高校時代のフキコとアツコの出会いというのは、同じ町の別々の高校に通いながら、アツコに一目惚れしたフキコが「交換日記」(お立ち会い、この言葉を見ただけで甘酸っぱいセンセーションに襲われませんか?)を提案し、その日記交換は1年間続き二人は極私的なことまで告白する親友になります。少女同士の親友関係というのはあることじゃないですか。アツコはその時はそう思っていたのです。ところがフキコの側はそれは恋慕だったのです。それを明かすことなくフキコは高卒で突然結婚して姿を消します。アキ・シマザキはここでその当時の日本の地方部における同性愛者を取り巻く封建的な環境で、その蒸発を説明しようとします。挿入されるエピソードとして、フキコの叔父の娘で地方のテレビアナウンサーとして活躍していた女が、同棲していた女に関係の公開(カミングアウト)を迫られ、スキャンダルを恐れた花形アナウンサー嬢が自殺してしまう、というのがあります。フキコの家族はその秘密を漏らすまいという立場を取り、一家にこのような悲劇はあってはならない、「ノーマル」でなければならない、と。フキコはそこで自分のジェンダーに反して「ノーマル」の人生を歩まねばならない、という決断をし、「ノーマル」の証拠を家族と社会に見せつけるために18歳で結婚を選んだのです。
 アツコの助手として農園で働くことになったフキコは、会計事務処理能力も畑での農作業も優れていて申し分ないどころか、アツコとの友情復活で身も心も一新して活き活きとしています。しばらくしてフキコの離婚が成立して旧姓に戻ります。夫ミツオも家族も、すべてを任せられる頼もしい助っ人としてフキコは信頼を集めます。誰よりも嬉しいのはアツコでしたが、フキコの過去と現在を知っていくにつけ、その美しい同輩女性がそばにいるだけで、これまで味わったことのないエモーションの萌芽を感得するようになります。すなわち、アツコはその歳まで潜んでいたジェンダーが早春のふきのとうのようにむくむくと、という話なのです。
 「不倫」を悔い改め、家族の絆を第一に生き直そうとするミツオは、セックスレスをも解消するべく、ある日アツコと二人だけでの旅行(新婚旅行以来初めて)を提案します。アツコも諸手を挙げての賛成で、嬉々としてこの旅行プランを練ります。行く先は佐渡。子供たちは母に任せ、農園はフキコに任せ、夫婦二人水いらずの旅行になるはずだったのですが、旅行予約がすべて終わった頃、ミツオの書いた地方ルポルタージュが全国的なジャーナリズム賞をもらうことになり、その受賞セレモニー(於京都)の日と旅行日程が重なってしまいます。優先順位はミツオの授賞式。その場合旅行を後日に延期すれば済むことなのですが、小説だとそうはいかんのです。ミツオはせっかく予約したんだから、フキコと二人で行ってくれば?と提案します。この小説中の最大のターニングポイントなのですが、フキコの同行というのは唐突で無理矢理な筋の引っ張り方のように思えます。ま、それはそれ。
ここまで読んだら容易に予想できると思いますが、この佐渡旅行でアツコとフキコの関係は本物の恋になってしまうのです。旅館で一つのお風呂を使い、お互いの裸体を愛でて洗い合い、のっぴきならない仲になってしまいます。この佐渡旅行で作者はいろいろなディテールを挿入します。新潟から佐渡に渡るフェリー船に乗り合わせた夫婦といろいろな話を交わすのですが、その妻の方が、その後で二人が泊まる旅館の仲居であった。二人が旅館にチェックインする時に、アツコは同行者は私の妹なので一部屋でお願いします、というウソをつく(←こことても気になる。日本の旅館では夫婦家族や血縁者でなければ、普通ひとつ部屋で泊まれないものなのか? 女ふたり、男ふたり、婚姻していない男女ふたり、の旅館ひと部屋利用というのは人目をはばかるものなのか? 地方の旅館ではまだまだこういうタブーがありますよ、という含みなのか?)。そして部屋に通された後、紹介された仲居が、フェリー船で会話を交わした(その時アツコとフキコは友達旅行だと言っていた)女だったとわかり、二人は関係がバレるのではないかと不安になる。そしてこの旅行の最大のドジは、フキコが旅館にブレスレットを忘れてしまったことで、後日この忘れ物の件で旅館が宿帳に記帳されていたアツコの電話番号に連絡すると、その電話を取ったのはミツオで、ミツオはその電話でアツコとフキコが「姉妹」を名乗って一部屋に泊まっていたことを知ります...。
 こういう仔細をいろいろ差し挟むのは、ひとえにこのタブーの重さを強調するためでしょう。誰がどこで見ているかわからない。同性愛は今日の日本においてもなお「ノーマル」ではないし、夫婦、家庭、世間体を破壊してしまう契機があるもの、という重苦しさを非日本人読者にわからせようとしているのでしょう。 
 フキコの離婚後を私が「第三の人生」と書いたのは、すでに自分のジェンダーを把握していた18歳までの第一期、それを隠して結婚して家庭に入り「ノーマル」としての社会的責任を果たした第二期、そしてジェンダーを取り戻してそれに従って生きようとする第三期を意味しているのです。十代の時から恋い焦がれていたアツコは自分の胸に飛び込んできたのです。作者としては幸せにしてあげたいでしょうねぇ。
 そしてアツコはアツコで、自分はミツオを愛していて、かつての「不倫」の相手ミツコへの嫉妬は消えることがなく、今や「正常化」したミツオとの関係と家族の絆がより強くなったことにグローバルに満足しているものの、ミツオへの愛にパッションがないということを自覚していきます。形而下的には、フキコとのパッションを知った今となっては、もうミツオと二度とは性交ができない、ということを体は知っている、ということです。
 フキコがどんどん過去を清算して前へ進み、アツコと農業人として開花しようとするのに刺激され、アツコも新たに発見されたジェンダーと共に生き直すことを考えます。だがどのようにして? 小説はこのアツコの偽りのない思いを手紙にして、ミツオに手渡すところで章を閉じます。
 作者は象徴としてこのことをアツコの所有する土地の中にある竹林に例えています。竹林は長い間放っておいたので荒れていて、その生え放題の下枝を大々的に伐採しないと、売り物にできるようなタケノコが収穫できません。なんとかしなければとずっと思っていたのですが、その春、そこにふきのとうがたくさん生えたのです。フキの地下茎(リゾーム)として隠れていたものが、地表にポコッ、ポコッと。天ぷらにしても、茹でて三杯酢だけでも美味しい、と書いてあります。地下に見えずにいたリビドーかジェンダーのように、アツコの前に顔を出したのです。日本の花鳥風月的情緒とよくマッチしたメタファーであります。
 しかし、佐渡の観光スポット、「夫婦岩(めおといわ)」、二つの相似形のようなピラミッド状岩山、一つの方には割れ目があるでしょう、と説明するの、やっぱり非日本人系読者に分かってもらうためには必要なんでしょうねぇ。日本にはいたるところに性があるのに、どうしてタブーだらけなんでしょうか。

Aki Shimazaki "Fuki-no-tô"
Actes Sud刊 2018年4月  150ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)今は昔、別の高校にいたフキコが、アツコのいる高校の放送部の昼休み音楽番組に、リクエストハガキを出して、アツコに名指しでプレゼントした曲。ビゼー作曲組曲「カルメン」よりインテルメッゾ。これが校内放送で流れた時、アツコの周りは「いったいどんなカレシが... ?」と囃し立てたのですが、アツコもまだ見ぬカレシに胸ときめかせていた。ああ青春。
 

2018年3月22日木曜日

68年3月22日ナンテール校バリ封から50年


「誰もリーダーなんか望んでいなかった」

 68年5月革命はいつから始まったのか、ということには諸説あるが、後に大学のみならず工場や公務員(学校、病院、公営交通、役所...)やメディアや一般企業を巻き込んだ社会革命になっていくこの運動、大学から火がついたとするなら、この3月22日夜のパリ大学ナンテール校のバリケード封鎖が大きな出発点と言えるだろう。この50年後の今日のリベラシオン紙は、この革命から生まれたと言われる日刊紙リベラシオンの歴史的創刊者の一人で、その後33年に渡って編集長を務めてきたセルジュ・ジュリー(2006年の経営陣交替を機に同紙を解任させられている。↓写真)に、ナンテールにいた68年闘士としてインタヴュー(4面)を掲載している。
  ジュリーは68年当時すでに学生ではなく、高校教師兼ジャーナリストとなっていたが、60年代初めにフランス共産党と対立していた共産主義学生同盟(UEC)のメンバーであり、ジュリーの妻がナンテール校の図書館に勤めていて、68年3月22日の大学本部占拠は妻(既にバリケードの中で学生たちと一緒だった)から連絡があり、ジャーナリストとして駆けつけている。 奥さんが建物の鍵束を持っていたと言うから、占拠に重要な役割を果たしたのだろう。
 
 同じ時期に諸外国でも同じような学生運動があったのに、フランスの68年闘争が他に類を見ない広範囲な市民連帯を得て、社会運動と文化運動の大きなうねりとなって長期化したのはなぜか。ジュリーはそれはまず「リーダーの不在」が功を奏したと言う。誰もリーダーを望んでいなかった。そして既成の政治グループの組織性/党派性を超えられたから、ノンポリ学生やノンポリ市民たちに共感されたのだ、と。スローガンの一つ一つが詩であり、落書きの一つ一つがアートである時、私は日本の当時の立て看の「断固粉砕」の文字とは違うものを感じてしまう。インタヴューの一部を訳してみる・

ー リベラシオン「学生運動が賃金労働者の運動に拡張していったことを、どのように説明できますか?」
SJ : 大学生の反抗はアメリカ、メキシコ、日本、ヨーロッパ諸国のいたるところで起こっていたし、それはベビーブーム、ヴェトナム戦争、じわじわと進行していた文化革命がもたらしたものだ。これらの異議申し立て運動が油のシミのように広がっていった唯一の国がフランスだ。そこには学生運動の5月、社会運動の5月、その総合の5月があった。これには様々な理由がある。警察による弾圧はある重要な役割を果たした。学生たちの親たちはこの弾圧を信じ難く恥ずべきものという見方をしたのだ。2番目の理由は、当時既に闘争の危機が時代の空気としてあったということ。67年から68年初めにかけてのすべての労働争議は、監禁や占拠や機動隊との激しい衝突といった労働者側の暴力的な実力行使が特徴的だった。その春のルノー公社ル・マン工場の争議の最中に、かの1947年のスローガン「CRS = SS(機動隊=ナチ親衛隊)」が68年に再登場したのだ。これらの闘争の苛烈さは、地方からの人口移動のもたらした結果でもある。多くの田舎の農家の子弟たちが農家を離れ工場に就職した。彼らはCGT(フランス労働総同盟)に牛耳られた伝統的な労働組合の影響を受けず、農民一揆(Jacquerie)の伝統を受け継ぎ、警官隊を攻撃することをためらわなかった。彼らは県警本部に攻撃をかけ、逮捕され、2時間後には釈放された。というのは政治権力は農民運動を恐れていたのだ。私が思うにこれらの農村出身の若い工場労働者たちが、5月13日の巨大デモ(註:パリで80万人を動員した反ド・ゴールのデモ行進。高校生+学生+労組+市民)の後、ストライキの全国波及の最重要の要素を担ったはずである( ー 後略 ー )。
ー リベラシオン「この拡大はどのような形態をとったのですか?」

SJ : 3月22日の運動(ナンテール校占拠)は非常に重要な役割を果たした。それはひとつの目標対象、ひとつのモデルとして機能した。それは様々な「革命的な」潮流と、全然革命的でなかった人々を合流させ、あらゆる閉鎖的党派性を超越させたことが重要だった。3月22日グループとアジ演説者ダニー(ダニエル・コーン=ベンディット)は68年革命の雛形となった。それはひとつの運動であり、政党でも政党になりかけているものでもなかった。それは平和主義的であり絶対自由主義的であった。そこには綱領も計画も幹部もなかった。この理由ゆえに「3月22日」運動は組織に属さない人々や政治傾向にとらわれない学生たちに浸透していったのだ。5月と続く6月に唯一必要とされた形態は、「行動委員会」であり、これは絶対的にいたるところに設置された。どの企業にもどの役所にもこれは設けられた。3月22日運動と企業、大学、病院、工場などに次々に生まれた行動委員会は強く連携していた。フランスには何千もの行動委員会が生まれた。この運動はフランス大革命に先立つ三部会陳情書に近い性格のものである。工場、事務所、病院などが占拠されるが、人々はみんな考えを出し合った。どうやったら別の方法がとれるか。これまでとは違うやり方で働き、生産し、組織化し、健康を守るにはどうしたらいいかを。これこそが68年の主たる現象である。ミッシェル・ド・セルトー(1925-1986 イエズス会司祭)が「1789年に人々がバスチーユ監獄をわがものとしたように、1968年5月に人々は言葉をわがものにした」と語ったのは極めて正当である。68年のスローガンの一つ「あなたの隣人に語りなさい」はこの精神的現象をよく象徴している。そして実際に人々は語り合うことを始めたのだ。これは例外的に共有的な瞬間であった。人々は個人的な仕方と同時に共有的な仕方で存在し始めたのだ。これはあらゆる国の歴史において希少な出来事だった。20世紀のフランスにおいてこの稀な出来事は、人民戦線、レジスタンス、抵抗戦と町々の解放、そして68年であった。これらは歴史を作った融合的な瞬間であった。フランス社会がこの事件で保ってきた奇妙な関係を説明するものは、その例外的な事件の性質であり、その強度であり、その全領土への拡がりとあらゆる職業とあらゆる社会階層の人々への拡がりであった。何百万という人々が68年5月に参加したのだ。この異議申し立てへの反対者たちが街頭に姿を表す(註:5月30日ド・ゴール支持派100万人デモ)には、ド・ゴールのバーデン=バーデンへの雲隠れ(註:5月29日)が必要だった。結論として、68年のゼネストは、フランスの20世紀史を通じて最大の社会事件として残るだろう。

 50年前の今日、3月22日、その大きなプレリュードがナンテールで奏でられた。今夜民放ラジオEUROPE 1で、音声ドキュメントによる「3・22」特番あり。「68年5月」に関しては、私も雑誌原稿を準備中です。

(↓)セルジュ・ジュリーはリーダーとして認めたくないのだが、これは「ナンテール校3月22日運動」の顔・スポークスマン・アジテーターだった赤毛のダニーことダニエル・コーン・ベンディット。

(↓)これも68年の歌。メアリー・ホプキン "THOSE WERE THE DAYS"
  We'd live the life we choose 私たちは自分が選んだ人生を生きていた
  We'd fight and never lose 私たちは戦ったし、負けたことなどなかった
    Those were the days, oh yes those were the days そんな日々だった

 

2018年3月12日月曜日

通りすがりの女たち 2018

ジョルジュ・ブラッサンス「通りすがりの女たち」
Georges Brassens "Les Passantes"

詩:アントワーヌ・ポル
曲:ジョルジュ・ブラッサンス

 ョルジュ・ブラッサンス(1921-1981)の1972年のアルバム『フェルナンド』(♫フェルナンドを思っただけで、勃っちまう、勃っちまう...)の中の1曲。詩人アントワーヌ・ポル(1888-1971)が1911年に書いた詩が原作。ポルの死の1年前1970年、ブラッサンスが詩人から許諾を得て、9連からなる詩のうち、ブラッサンスは7連を取って曲をつけ、1972年12月ボビノ座で初めて公に歌われた。
 ブラッサンスが歌った7連を対訳してみた。
Je veux dédier ce poème
A toutes les femmes qu'on aime
Pendant quelques instants secrets
A celles qu'on connaît à peine
Qu'un destin différent entraîne
Et qu'on ne retrouve jamais

ほんの短い秘密の時間に愛した
すべての女たちに
知り合ったばかりなのに
運命がわざわいして
二度と会うことができなくなった
女たちに
私はこの詩を捧げたい


A celle qu'on voit apparaître
Une seconde à sa fenêtre
Et qui, preste, s'évanouit
Mais dont la svelte silhouette
Est si gracieuse et fluette
Qu'on en demeure épanoui

窓辺にほんの一瞬現れ
そしてすぐに消えてしまう女
だけどその細いシルエットが
いともすらりと優雅で
見るものがほれぼれしてしまうような

A la compagne de voyage
Dont les yeux, charmant paysage
Font paraître court le chemin
Qu'on est seul, peut-être, à comprendre
Et qu'on laisse pourtant descendre
Sans avoir effleuré sa main

旅の道連れの女
その両目に魅力的な景色が映り
旅の時間は短くなる
一人旅だとたぶんわかる
だけどその手に軽く触れることもせず
降りるのをただ見送ってしまう


A celles qui sont déjà prises
Et qui, vivant des heures grises
Près d'un être trop différent
Vous ont, inutile folie,
Laissé voir la mélancolie
D'un avenir désespérant

あまりに異なる男の傍にいて
灰色の日々を生きる
とらわれの女たち
無用な狂気だが
絶望的な未来への
憂鬱しかあなたの目には映らない

Chères images aperçues
Espérances d'un jour déçues
Vous serez dans l'oubli demain
Pour peu que le bonheur survienne
Il est rare qu'on se souvienne
Des épisodes du chemin

映り出された親愛なる女性像たち
挫かれた未来への希望の数々
あなたたちは明日には忘れ去られるだろう
ほんのすこしでも幸福が生き延びれば
その経過でのいきさつなど
稀にしか記憶されることはない


Mais si l'on a manqué sa vie
on songe avec un peu d'envie
A tous ces bonheurs entrevus
Aux baisers qu'on n'osa pas prendre
Aux cœurs qui doivent vous attendre
Aux yeux qu'on n'a jamais revus

人生に失敗したら
人はすこしだけ羨望を持って夢見るもの
垣間見られた幸福のすべてを
あえてできなかった接吻を
あなたを待っていたに違いない恋人たちを
二度とまみえることのなかったその瞳を


Alors, aux soirs de lassitude
Tout en peuplant sa solitude
Des fantômes du souvenir
On pleure les lèvres absentes
De toutes ces belles passantes
Que l'on n'a pas su retenir

それゆえ 焦燥の夜に
思い出の亡霊たちの
孤独で胸をいっぱいにして
人は声もなく泣くのだ
とどめておくことができなかった
このすべての通りすがりの女たちを思って 

 男が人生で出会う幾多の女性たちへのオード。こういう普遍的なテーマですからね、フランス国内だけでなく世界的に愛され、イタリアのファブリツィオ・デ・アンドレ、米国のイギー・ポップのカヴァーもある。

 2018年3月8日、国際女性権利の日、ベルギー出身の24歳の写真家/映像作家シャルロット・アブラモウの制作によるヴィデオクリップが公開された。2017年秋からの素晴らしい女性たちの性暴力・性差別弾劾運動の盛り上がりを象徴するマニフェスト的な映像作品。ブラーヴァ。ベリッシマ。私はこういう女性たちを愛してやまない。

(↓)"Les Passantes" (Georges Brassens) video clip : Charlotte Abramow