2019年3月18日月曜日

Why don't you write me (手紙が欲しい)

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』
"The Death and Life of John F. Donovan"

2018年カナダ映画
監督:グザヴィエ・ドラン
主演;キット・ハリントン、ナタリー・ポートマン、ジェイコブ・トレンブレー、スーザン・サランドン
フランスでの公開:2019年3月13日

ベック出身の映画界のアンファン・テリブル(当年30歳)、グザヴィエ・ドラン初の「英語映画」。2018年9月10日、トロント映画祭で初上映されるも、アメリカとカナダのメディアの酷評によって、カナダとアメリカでは一般上映が期限なく延期になっている。その酷評とは、10年間に7本(!)長編映画を撮ってきたドランの、金太郎飴のような毎度の同じテーマ、母と息子の愛憎・確執、ホモセクシュアリティー、それに対する虐め・社会的疎外など、これしかこの監督にはないのか、といったことだと想像する。大予算+豪華キャストによる21世紀映画のアンファン・テリブルの新作の上映は北米で立ち往生しているが、映画出資国のひとつフランスがそれではということで封切に踏み切った。フランスは世界で最もドランの支持者が多い国だろう。かくしてこの3月13日のフランス封切りが世界初の一般上映。
 唐突に私事であるが、2019年1月に亡くなった母と約1年間続いた文通をきっかけに、私は他の人たちにも手紙や絵はがきを書くようになった。ボールペン字で書いて、切手を貼って投函する。手元に自分が書いたことが残らない。普通郵便であるから、着信されたのかどうかもわからない。こういう手作業で前時代的な手紙は、メールその他の電子コミュニケーションに慣れた者には不安なものだ。出ていった手紙は何を書いたんだっけ?着くのだろうか?返事は来るのだろうか?何日かかるのだろう? ー これが手紙だ。手書きで、書きしくじりをしながら、誤字脱字をしながら、自分の言葉を伝える。スリリングなものである。緊張感は返事を待つ日数に比例する。受け取った手紙の自筆筆跡に感じるものがある。すぐに返事を書きたくなる。これが手紙だ。
 この作品は21世紀を舞台にしているが、手紙がものを言う映画である。緑のインクで書いてある。そういうことがものを言う映画である。手書き文字がどんなものであるかがものを言う映画である。
 冒頭はアメリカの少し前までの大スター(テレビ連ドラ、スーパーヒーロー映画)俳優ジョン(演キット・ハリントン)がニューヨークの自宅で死体で発見される。自殺ともオーヴァードーズ死とも。その10年後、イギリス在の若い俳優ルパート(演ベン・シュネッツァー)がジョン・F ・ドノヴァンの死の真相を知っていると名乗り出、芸能ジャーナリストではない、政治・社会・国際問題に筆をふるう(フランス語では "grand reporteur"と言うのだが日本語では?)第一線記者であるオードリー(演タンディー・ニュートン)にコンタクトを取り、ワルシャワでインタヴューを受ける。映画はここからルパートのオードリーへの証言の再現フィルムとして展開され、そこに登場する少年ルパート(演ジェイコブ・トレンブレー。映画の主役という意味ではこの少年であろう。怪演)が、イギリスにいながらどのようにアメリカのスター俳優と交流していたかを映し出していく。まずルパートの家庭は母一人子一人であり、父は離婚別居していて、二人は母サム(演ナタリー・ポートマン)の事情でアメリカからイギリスに移住している。この時点で既にジョン・ドノヴァンの大ファンであり、子役俳優になってジョンと共演したいという夢を抱いていた少年には、この移住は大きな痛手であった。途中で転入したイギリスの学校では、アメリカ訛りをバカにされるだけでなく露骨な「ジェンダーいじめ」を受ける。このいじめは陰湿かつ暴力的である。クラスメイト誰一人庇ってくれない。友だちのいない孤独な子供だが、文章力はあり、その才能と想像力は教師が評価しているが、作文課題でクラス全員の前で発表した「米スター俳優との文通」は、教師は孤独ゆえの想像力の一人歩きと決めつける。少年ルパートは、母親にも言えぬ、唯一の心の支えがジョン・ドノヴァンであり、そのテレビ連ドラの全シーンを暗記し、これさえ見ればすべてを忘れることができるほどののめり込み方でスターを崇拝し、滾る想いをこめて手紙をしたためる。あろうことか、この少年の熱い手紙にスターは返事を出すのである。なぜなら、スターもまた同じように孤独であったのだから。
 めちゃくちゃなやり手の女ジャーマネのバーバラ(演キャシー・ベイツ。晩年のシモーヌ・シニョレを想わせる凄み)にスターダムの軌道に乗せられ、幼なじみの女優エイミーとヘテロ・カップルを偽装しているが、この男優スターの座を守るためにジョン・ドノヴァンがゲイであることは秘密にされている。ジョンもまた燃えるような恋をするのだが、スキャンダルを避けるために自らその恋を絶ってしまう。ここでジョンはなぜ自分らしく自分の思いのままに生きられないのか、という思いをこの声変わりもしていないような少年に手紙で吐露するのである。緑のインクで書かれた手紙の文通は5年間続く。
 映画のもうひとつの重要なテーマは母と息子の関係であり、2014年のドラン作品『マミー』 で展開された極端に親密で複雑な母子関係のヴァリエーションのような、ルパートとその母サラ、ジョンとその母グレース(演スーザン・サランドン。アル中で多弁で高圧的でわれこそ世界の中心のように振る舞う庶民女性像。素晴らしい!)の、それぞれの愛情と憎悪と下手な表現とが絡み合った関係がパラレルに進行する。最終的に母と子は和解するのだけれど、それまでの激しい応酬には、ドラン映画的既視感が否めないものだが、これがドランがうまいんだからしかたない。なぜわかりあえないのか、なぜ意志とは裏腹に会話は空虚にすれ違うのか、これが終盤にふ〜っと解消して涙するのはドラン映画のマジックではありませんか。
 イギリスにいる孤独な少年とアメリカにいる孤独なスター俳優は、その秘めた文通で結ばれているものの、一度も会うことなくジョンは死んでしまう。その死のきっかけは、イギリスで暴露されてしまったこの文通の事実を、アメリカでスター俳優が公の場所(テレビインタヴュー)で一笑のもとに否定して、スキャンダルを防ごうとしたこと。そこからジョンはこれまでの人生で最も大切だったものを否定したことにバランスを崩し、俳優業もできぬほど落ちていき、ショービジネスはこの男を捨てる...。そのことの次第のすべてを少年ルパートは知っていた、というわけである。
 ドランのカメラワークは毛穴が見えるほどの顔の大写しばかりで、顔がみなすごい。ものを言う表情はものを言うよりも雄弁である。特に母親役二人、ナタリー・ポートマンとスーザン・サランドンの顔に圧倒される。悪い母親が泣かせる母親に変わっていく移り変わりが大写しで見れるのである。
 最初に書いたように、この映画はたいへんな揉め事に絡まれている。ドラン最初の「英語映画」であり、米の大スターで俳優陣をかため、3年の撮影の末に、最初の編集で4時間になったものを最終的には2時間にまで縮めた。消されたのは(米スター女優)ジェシカ・チャステインが関わったすべてのシーン。これはジョン・F・ドノヴァンのスキャンダルを嗅ぎつけ執拗に追及していく女性(芸能)ジャーナリストの役だったのだそうだが、ジョンを自殺に追い詰める鍵となる人物だったはず。これをドランがばっさり(大スター出演シーンを)全部カットした、という裏側事情もアメリカのメディアのこの映画非難の材料になったと思われる。気にしなくていいと思う。完成されて私が観た2時間のヴァージョンはそれだけで十分に完成度が高い。
 問題ではないが、気にさわるのは、アイデンティティーのことであり、この映画の二人の中心人物、ルパート少年と俳優ドノヴァンの、母親と複雑な関係にあるゲイの子供、というドランが自己投影しているに違いないパーソナリティ。「これしか撮れないの?」という気がしないでもない。わかりやすい。ドランはそれでいいのだろう。
 EメールやSNSの時代に、手紙がものを言うストーリーは、古典回帰のような効果もある。クラシックな雰囲気はこの若い監督(30歳)の得意とするところかもしれないが、私たちが忘れかけているものでもある。手紙の人肌と情緒を体感する映画である。手紙を復権させよう。

(↓)『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』予告編


(↓)仏プルミエール誌のインタヴューで『ジョン・F・ドノヴァン』を語るグザヴィエ・ドラン(2019年2月)


(↓)記事タイトルの出典はサイモンとガーファンクル「手紙が欲しい」(1969年)

2019年3月12日火曜日

姐ェよ銃をとれ

『江湖儿女』
仏語題 "LES ETERNELS"
英語題 "ASH IS PUREST WHITE"


2018年中国映画
(2018年カンヌ映画祭出品作)
監督:ジャ・ジャンクー(賈 樟柯)
主演:チャオ・タオ(趙濤)、リャオ・ファン(廖凡)
フランス公開:2019年3月6日
 
 舞台は中国内陸部の山西(シャンシー)省の大同(ダートン)、時は2001年から2017年まで。この時の移り変わりは携帯電話からスマホまで、オンボロ乗合バスからかの「高速鉄道」まで、ひなびた炭鉱の町に巨大なサッカースタジアムが建設されるまで、という背景映像でよくわかる。目まぐるしいまでの「発展」である。物語はこの地方都市で賭場や密売などでシマを張っている極道グループがあり、その若きカシラで義侠に厚いビン(演リャオ・ファン)とその愛人キャオ(演チャオ・タオ)の極道ラヴストーリーから始まります。カシラと姐御、その睨みの利かせ方や部下の統率もいい感じ、任侠の世界かくあるべし、という図。消えていく炭鉱で一生働いて社会主義建設を目指していたキャオの父親は、資本主義的変容に最後まで抵抗する老兵のように頑固だが、カタギでなくなったキャオの父への思いはせつない。カタギか極道かという身の置き方の前に、世の不条理・不道に痛めつけられ、それから自衛するために兄弟/一家を築いてきた、「惚れましたぜ、兄貴っ」というノリ。当然この映画にもヤクザ映画やマフィア映画のたくさんのエッセンスが詰まっているのだが、古典的というよりはタランティーノ/北野武寄り。ディスコで愛のダンスのようにYMCA(ヴィレッジ・ピープル)を踊るカシラと姐御。まじに美しい。
そして宴の終わりに、カシラ、姐御、腹心の舎弟たちが、持ち寄った様々な酒瓶を全部タライの中にぶちまけてごちゃごちゃに混ぜ、その濃〜い混じり酒をめいめいコップですくって、乾杯一気飲みをして「永遠の兄弟の誓い」を立てるのです。まじに美しい。
さらにカシラはその命を預けるように、姐御に自分の護身用の拳銃を渡す。それを手にしたらもう永遠に極道である。引導を渡されたようなもの。これをキャオは永遠の愛を誓い合ったことだと確信するのだが...。野の丘の上で拳銃を二人の手で撃つシーンがこの映画のポスターになっている。まじに美しい。
 しかしこの「永遠」があっけなく崩壊するのが、極道の世界でして。 夜、ダートンの繁華街を(運転手つき)黒塗り高級車で走行するビンとキャオの行く手を阻むチンピラ軍団、車を取り囲み、凶器(登山スコップ?)で攻撃を始める。運転手が応戦するが多勢に無勢、ついにビンも車を降り、鉄拳でチンピラたちを殴り倒していくが、これも多勢に無勢、集団のスコップの殴打に敗色濃厚、そこへ姐御キャオが拳銃を空に向けてバーン、ついで銃口をチンピラどもに向け、ものすごい形相で睨みつけ、さらにもう一度空に向けてバーンっ!
 その場の騒ぎはそれで治ったものの、キャオとビンは警察に捕らえられ、裁判にかけられる。裁判の最大の争点は一体この銃は誰のものかということで、キャオはビンをかばうために一貫して銃は自分のものだと証言する。その結果、キャオは4年の禁固刑をくらい、ビンは1年だけの刑で先に出所する。しかし4年の懲役刑を終えて、キャオが出所した時、刑務所の門にビンは迎えに来ていなかった...。
 ダートンに帰ってみれば、ビンの姿がないどころか、その極道グループは既に解散して昔のことは誰も語りたがらない。ここから映画はメロドラマ化し、キャオはビンの行方を方々探し回り、まるで隠れるように逃げ回るビンをついに探し出して、もう一度やり直そうと手を差し伸べるのだが...。すでに眼光も極道パワーも覇気も失っていたビンは、俺にはもう女がいる、とその手を払い、二人の永遠の誓いはご破算になるのだった。
 月日は流れ、キャオはダートンの町で再び賭場の姐御としていっぱしの極道として復帰し、高級ブランドの衣服で身を飾っていた。ダートンにも開通した「中国高速鉄道」、その駅に車椅子に乗った半身不随のビンが降ろされた。キャオはその障害のある中年男をその一家に「客人」として迎え入れる。その話では、長年の極端なアルコール摂取により神経を患い、下半身がまったく動かなくなったのだ、と。病院の診断ではもう手の施しようがないと言うのだが...。
 ダートンに十数年ぶりに姿を見せたビンであったが、かつてのギャングヒーローの落ちぶれた姿にかつての舎弟たちも冷たい。それをキャオはひとりで庇い、絶対に元どおりのビンに戻してみせる、二人でまたやり直すんだ、といじらしくも甲斐甲斐しい極道姐御ぶりを発揮します。ここが中国映画のマジック。ここで奇跡を起こすのだね。西洋医学では全く手が出せない分野で、中国三千年の叡智はこの神経疾患を針治療で治していくのです!下肢が少しずつ動くようになったビンを車椅子に乗せて、あの若い日に二人で拳銃を射った野の丘の上に連れていく。そこでキャオは車椅子から5メートルほど離れた位置に立ち、ビンに立ってここまで来い、と手招きするのです! ー これは『アルプスの少女ハイジ』の「クララが歩いたぁぁぁっ!!!」シーンの再現でなくて何であろうか。泣くよね。

 しかしこの任侠メロドラマはハッピーエンドではない。結末には触れないでおくが、この耐えて信じて命かけて「永遠」を通そうとしたキャオという女性の気高さを、この元ギャングヒーローは受け止めることができない。釣り合いが取れない。どうしていいのかわからない。ルーザーはやはり去るしかないのかもしれないが、映画の余韻は、また繰り返される永遠のメロドラマの方向性も。軽妙な任侠メロドラマのように始まるこの映画はどんどん女の顔と共に熟していく。このキャオを演じるチャオ・タオという女優(ジャ・ジャンクー監督の奥様だそう)の、姐御から菩薩に至る女性の凄さを体現する演技の素晴らしさに尽きると思うよ。

 映画で挿入されるエピソードで、キャオがビンと再会し破局して、ひとりダートンに長距離電車で帰る途中、ひとりの男にナンパされかける話がある。この男は口がうまく弁が立ち、喋り出したら周りの人間をすべて巻き込んでその論を詳細展開して説得するタイプ。滅法押しがきく営業マン型。2019年的には世良商事型と言うべきか。つまり山師ということ。この男がキャオをその話に引き込んで、刑務所上がりで職を探しているというキャオに僕のところで働いていいから、と。そのホラ話は彼は観光エージェントであり、今、某地区にある壮大な観光プロジェクトを立てているのだ、と。その場にいた電車の乗客たちは、あそこは観光と言っても何もないところだよ、と否定的。実際何もないのだけれどね、その住民たちは他の地にはない奇妙な体験をしているのだ、それは多くの人たちがUFOと遭遇したと証言しているのだ、と。そのプロジェクトというのはその村に、UFO体験のできるテーマパークを作り、全世界に宣伝すれば、その数知れない数の愛好者たちは世界から集まって来る、と。なるほど、と一同納得してしまうんだね。で、キャオもその話を半信半疑ながら、この男、悪い感じがしない、とふらふらとついて行きそうになる。電車を乗り換え、その男と二人旅になり、夜汽車は行くのであったが、ちょっとボーっとしていたキャオはわれにかえり、ある停車駅で、深々と寝入っている男を車内に置き去りにして、ひとり下車する。降りてみたはいいが、そこは真っ暗で人気のない小さな駅、右も左もわからない。さあどうしようと呆然としていると、急に頭上が明るくなり、見たこともないような物体の気配が....。私、このエピソードはこの映画の宝石だと思いますよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『江湖儿女 - LES ETERNELS』 フランス語版予告編。


(↓)カシラと姐御と舎弟たちが同じたらいの混じり酒を飲み、永遠の兄弟仁義の誓いを立てるシーン。

 
 

2019年3月3日日曜日

レイラ・スリマニ、カール・ラガーフェルドを悼む

2019年2月19日、(推定)85歳で亡くなったファッションクリエーター、カール・ラガーフェルドを追悼特集した週刊レ・ザンロキュプティーブル誌2月27日号に、ゴンクール賞作家レイラ・スリマニの故人を惜しむ談話が掲載されている。古典文学への深い造詣で知られ、その蔵書30万部と言われる書庫とそれに隣接したラガーフェルド選書書店(Librairie 7L, 7 rue de Lille 75007 Paris)で交わされたラガーフェルドとスリマニの会話の思い出を語っている。(この圧倒的な書庫の空間は、2017年1月にフランス国営テレビFRANCE 2のレア・サラメの番組 "STUPEFIANT!”で映し出されているので、(↓)に動画を貼っておきます)
以下、レ・ザンロキュプティーブル誌およびレイラ・スリマニに無断で同談話を日本語訳してみます。

Leïla Slimani : "C'était quelqu'un d'une grande profondeur"
レイラ・スリマニ:「偉大な深みを持った人物」

の最初の小説『鬼の庭で(Dans le jardin de l'ogre)』(2014年)の刊行のあと、彼のファッションショーに招待された。ショーが終わり、彼が招待客たちを接待しているサロンに通された。私と彼は座につき、本について語り始めた。私と彼の会話はいつも文学が話題の中心だった。彼は驚くほど多くの現代文学を読んでいて、それらについてとてもはっきりした意見を持っていて、とても楽しかった。その意見がとても厳しいのは、彼がとても古典文学を愛していたからだと私は思っている。彼は自分たちの時代の最も偉大な文豪たちはすでに皆死んでしまったという印象を抱いていた。彼の意見はみな興味深く、私たちが日頃あちらこちらで聞く意見とは全く違っていた。私は彼の素晴らしい書庫に入るという幸運を得た、ユニヴェルシテ通りの彼の自宅のすぐとなりにあり、信じられないほど高い天井の一間で、何万という数の本が収められていた。そして彼は今しがたそれについて語った書物がどこに置いてあるかを言うことができた。あらゆる言語の本があり、彼は同じ書物をドイツ語と英語とフランス語で読んでいた。彼にはそれがごく自然のことで、どの言語で読んでいるのか全く意識されないほどだと語っていた。私に多く語っていたのは17世紀の文学、特にラ・ファイエット夫人についてだった。彼はそのエスプリを愛していた。総体的に彼は、エスプリ、才気、人間性といったことにとても敏感なところがあった。私は彼に、あなたはとても17世紀的なところがあって、気の利いた言葉を操るのがとても好きなので、当時での文芸サロンでは目立っていたでしょうね、と言った。また、彼はドイツ文学についても語った。彼は子供の頃ゲーテを読んでいて、そのパッセージを暗記していた。彼はトーマス・マンについてもたくさん語ってくれた。その上彼は「イリヤス」と「オデュッセイア」の叙事詩を正確に語ることでできる人でもあった。彼はとても古典的な「オネットム honnête homme」(註:17世紀社交界の範と考えられた紳士、節度を心得、婦人に丁寧で言動の洗練された貴族 ← スタンダード仏和辞典より)の教育を受けた人だった。
さらに彼はミッシェル・ウーエルベックを熱愛していて、天才的で世を覆す作家と評していた。彼が大いに気に入ったのはウーエルベックがポリティカル・コレクトネスに全く屈することがないということ。
カール・ラガーフェルドは非常に豊かなユーモアの持ち主で、実生活にはある程度距離を置いているけれど、とても奇妙なのは、彼は今日の資本主義と消費商業主義のアイコンであり、象徴であるのにも関わらず、それに対して非常に明晰な視点を持ち、この消費社会に飲み込まれないために脇道に進むということができた人物であったということ。それが彼の最も素晴らしい点であり、誰かが彼を何かの中に押し込めようとしたとたん、彼は即座に彼のいる場所についてはすべてお見通しだという言葉を発することができ、人がそれについてどう思おうが知ったことではないという態度をとること。
私は世の中には二つのタイプのアーチストたちがいると思っている。一つめは、今日の大多数であるが、過去の知識なしに創造することが可能だと思っている人たち。私たち文学の世界では、「私は一切本を読まずに作品が書ける」と言う作家たちで、私は信用しないが。もう一つは、過去において創られたものと共に創造して、その歴史の中に自らを刻もうとする人たち。カール・ラガーフェルドは後者である。彼は非常に多くの図と形と歴史を消化し、理解し、自分のものにしたが、それは彼にとって全く重荷ではなく、その考証学的博識が彼の創造を助けたのである。そしてまたその博識が彼を市場の原則から自らを防衛することの手助けとなったのだ。彼は偉大なる読者であり、彼は人間の条件とは何かを知る真の知識があったのだ。それは偉大な深みを持った人物だった。
彼の人間性に関する視点は? "空の空。伝道者は言う。空の空。一切は空。” 奥底のところで、彼は人間たちを断定していなかった。彼は人間たちに大きな優しさを持っていた、なぜなら彼はそれ自身の弱点である有限性ということを理解していたのだから。だからこそ言おう、空の空、一切は空、それは翼を与えることもできるし、あなたを地面に墜落させることもできる。そしてそれは彼に翼を与えたのだ。彼はその人生を一冊のロマンにし、ひとつの並外れた物語にしたのだ。
(聞き手/まとめ:ネリー・カプリエリアン)

(↓)カール・ラガーフェルドの書店と書庫で撮影が行われた国営FRANCE 2 レア・サラメの番組"Stupéfiant!"(2017年1月)

2019年3月1日金曜日

アバターもえくぼ

『あなたがそう信じている女』
"Celle que vous croyez"

2018年制作フランス映画
監督:サフィー・ネブー
原作:カミーユ・ローランス小説 "Celle que vous croyez" (Gallimard 2015年)
主演:ジュリエット・ビノッシュ、ニコル・ガルシア、フランソワ・シヴィル
音楽:イブラヒム・マールーフ
フランス公開:2019年2月27日 

21世紀環境(SNS、スマホ、ヴァーチャル・リアリティー...)がものを言う作品のようでありながら、根っこのテーマは古典的です。女は年老いたら(この場合50歳!)おしまいなのか。例えば50歳の男(この場合60歳でも70歳でも80歳でも)が24歳の女と恋仲になるというのはさほど不自然さを感じさせるものではない。ところが50歳の女が24歳の男と恋仲になるというのはそうではないでしょ?という世間様の目。主人公クレール(演ジュリエット・ビノッシュ)が恐れるのはその世間様の目ではなく、うまく行くわけがないでしょ、という自分自身への縛りなのです。それは老いであり、若々しくない容姿であり、人生(結婚、出産子育て、仕事、社会的ポジション)を知ってしまった若くないものの考え方であり...。このコンプレックスが根底にあるのが、ダリダ「18歳の彼」と変わらないものがあるわけですね。それは根強く残っているものでしょうけど、私としてはね、今日の50歳の女性たちはそこから脱して生きている人たちが多いと信じたいですね。最初からこの映画のちょっとひっかかったところを書きました。それはそれ。
 さて映画は大学のフランス文学教授であるクレール(50歳)が、若い愛人で建築家のリュドー(演ギヨーム・グイックス)との激しい情交のあった夜の翌朝、あっけなく振られるという始まりです。リュドーはかなりずけずけと二人の歳の差のことを言い、おばさんとは釣り合わないよね、という態度のサイテーの男なんですが、恋は(一方的に)盲目というやつで、女教授は大きなダメージを受けます。クレールは前夫ジル(演シャルル・ベルリング)と20年間共に生き、2人の男児をもうけるのですが、映画の後半で分かる理由で破局し、今は十代になった息子2人と3人暮らし。まだ手のかかる子供たちを抱え、このまま更年期となって年老いていく、という暗い展望と必死になって抵抗している風がありますが、この若いリュドーとの残酷な失恋に、もう女として恋愛することの最後であるかのような傷つき方をします。
 時期としてはその次にさらに激しい傷つき方をした時に、精神的な疾患をきたし、精神医であるボールマンス博士(演ニコル・ガルシア)にカウンセリングに行きます。映画はここからクレールの精神医ボールマンスへの告白の映像化という進行になります。つまり、クレールはリュドーの次にさらに激しい恋愛をして傷つくというわけです。
 リュドーにまだ未練のあったクレールはその動向を探ろうとSNS(この場合フェースブック)に潜入していくのですが、実名はリュドーにブロックされると知り、アバターIDを作ります。クララという名の24歳の女性です。写真はネットから勝手に拾ってきたとクレールはボールマンスに言いますが、実は意図ありだったというタネが映画の後半で明かされます。この若くセクシーでコケットな写真のアバターは、リュドーに行き当たらず、アレックス(演フランソワ・シヴィル)というリュドー周辺の若い男(実は親友であったということがあとで分かる)の気を大いに引いてしまうのです。クレールはヴァーチャルの世界でクララに変身し、アレックスはどんどんクララに引き寄せられていく。あたかも自分が24歳に若返ったようなウキウキした気分でどんどんウソが出て、アバター・クララは誘惑ゲームに勝利するが、それはリアルのクレールには激しい恋にまで昇華してしまうんですね。アレックスは実際のクララに会いたくてしかたがない。何度もリアルの接触を試みるが、クレールは逃げていく。なぜならアレックスが会いたくて愛しているのはクララであってクレールではないことを知っているから。実際にクレールがアレックスの目の前に立つのですが、アレックスの目にはまったくクレールが気がつかない、という映画魔術のシーンがあります(美しい)。
 このヴァーチャルの激しい恋には、ア・プリオリに悪い結末が待っているに違いないのですが、クレールはクララの正体、つまり24歳の若く美しい娘ではなく50歳のクーガーであることがバレたらすべては終わると思っています。そこでウソにウソを重ねて(例えば男と住んでいるとか、結婚して外国に行くとか、バレバレのことですけど)自ら姿を消すしかないと考え、それを実行に移して、自らの招いた破局で激しい激しい悲しみのどん底に落ちて精神科医に相談に行く、という.... 実はここまでがイントロみたいなもんなんです。
 ボールマンス医師は、クレールの話を聞きながら、これは虚偽をかなり含んでいるということに気がついていて、その度に真実を話すようにとクレールを糺します。すなわち、クレールのボールマンスへの告白は、ストーリーのクレールのヴァージョンでしかないのです。そのヴァージョンを続けます。クレールはアレックスのことがどうしても忘れられずに、うすうすとアレックスと交友関係があると知っていたリュドーにコンタクトを取ります。すると、リュドーは「親友」アレックスが、熱愛していた(一度も会ったことのない)女に去られたショックで自動車自殺をした、と告げるのです。
 実在しない女との失恋での自殺 ー このありえない悲劇にどう結末をつけるのか。クレールはここで小説を書くのです。アレックスが死ぬほどの悲しみを持つその前に、クレールその人がアレックスに近づき、クララを忘れるほどに愛し合い、しかしながら、アレックスが心底から愛しているのはクレールではなくクレールに現れるクララの幻であると知った日に、「クレール=クララ」という真実を明かし、その「クレール=クララ」に死を与える、という結末の小説です。映画ですから、この小説フィクションはすべて映像再現されます。「ドクター、この結末はどうですか?」とクレールはボールマンスに問います。
 その後は詳しく書きませんが、映画はさらに別ヴァージョンをボールマンス医師が見つけてしまうのですよ。

 某誌映画評で、これが黒澤明『羅生門』(1950年)のように、証人のひとりひとりが別々のことを言う構図の映画だというのを読んで、なるほどと思いましたよ。クレールの証言のヴァージョンは虚偽ではないけれど、そこからはそうにしか見えないという視点の狭さが悲しすぎ、このインテリでありながら余裕なく切羽詰まった感あふれる役どころを演じるジュリエット・ビノッシュの素晴らしさよ。
 重要なネタバレを追加しておくと、クレールがアバター・クララのポートレイトとして使った写真は、ネット上のまったく見ず知らずの人間ではなく、親族の不幸のためにクレールが面倒を見た従姉妹のカティア(ほとんど写真だけの出演だが、マヌカン/女優のマリー=アンジュ・カスタが演じている。レティシア・カスタの妹)のものだった。そして、この若いカティアが、クレールの夫ジルと恋仲になって、離婚に至ったという話。つまり、クレールはアバター・クララでカティアに復讐する意図もあった、ということですね。
まさにこういう映画を「心理ミステリー映画」と言うんです。からくりたくさんで本当に良く出来てます。おすすめします。

カストール爺の採点:★★★★☆ 

(↓)『あなたがそう信じている女』予告編


(↓)イブラヒム・マールーフ作曲の珠玉のオリジナルスコア。



2019年2月26日火曜日

見えた見えたよ松原ごしに

マチアス・マルジウ『マルジウの「人魚姫」』
Mathias Malzieu "Une Sirère à Paris"

にも何度か書きましたが、この人は「今コクトー」ですから。音楽、文学、BD、映画、今のところこういう分野でマルチな才能を派手に披露していますが、フィールドはますます拡がるでしょう。この新小説もすでに映画制作が始まっていて、今回はアニメではなく実写で、監督マルジウ、主演がレダ・カテブ(ガスパール)、クレマンス・ポエジー(ルラ)、ヴィルジニー・ルドワイヤン(ミレナ)、ロシー・デ・パルマ(ロジー)なのだそう。そしてディオニゾスによる音楽アルバムも用意されています。
 さてマチアス・マルジウ(1974 - )の最新小説『パリの人魚(Une Sirère à Paris)』です。タイトルからモロですが、人魚の物語です。擬人メタファーではなく本物の人魚です。このブログでも紹介しているマルジウの小説『時計じかけの心臓』(2007年)や『空の果てのメタモルフォーズ』(2011年)と同様の7歳から77歳までの子供のためのファンタジーです。しかし"人魚”という題材は、あまりにもアンデルセン作『人魚姫』 (1837年)のイメージが世界の人々に浸透しているため、それと縁のない人魚像を創り出すのはほぼ困難でありましょう。すでに舞台裏の史実として『人魚姫』は作者アンデルセンの大失恋から生まれたものですが、マルジウの本作も主人公ガスパールの大失恋が根底にあります。悲しみのどん底まで投げ落とされ、生きる力を失い、二度と恋などできるわけがないと思っていた男が、人魚と出会って...、という簡単に予測可能なストーリーです。
 時は2016年6月、記録的な雨続きでパリのセーヌ川が大増水した時です。小説の描写ではパリは浸水し、多くの死者、行方不明者が出ていたということになっています。シテ島向い左岸のモンテベロ河岸に接岸している帆船ファストフードレストラン/ショーボートの「フラワーバーガー」(スペシャリテ:季節の花バーガー)のオーナーの息子で、ショータイムにはウクレレ持って歌うショーマンであるガスパール・スノウ(Gaspard Snow、カウボーイハットを被り無精髭を生やした小柄&やせっぽちの若者)は、洪水のセーヌの橋の下から聞こえてくる、これまで一度も聞いたことがない美しい歌声に引き寄せられ、傷ついて弱っている青い血を流す不思議な生き物を発見し、助け出します。タミール人が運転するトゥクトゥク(三輪タクシー。パリ市内も2000年代から観光用で結構走るようになった。このトゥクトゥクはこの小説中よく働いてくれる)を捕まえ、全速力でサン・ルイ病院(パリ10区。17世紀からある古い病院で、建物は中世を思わせ、幽霊も多そう。2016年マチアス・マルジウが前作『パジャマを着た吸血鬼』で描いた自らの血液病入院闘病の舞台となったところ)まで連れていくのですが、救急受付で(実際よくある話ですが)「保険証(carte vitale)はお持ちですか?」という第一関門から前に進まなくなる。その間に病院地下の駐車場に置いておかれた謎の生物は、息絶え絶えながらも美しい歌声を上げ、それに引き寄せられて病院勤務の外科医ヴィクトールが飛んでくるのだが....。
 結局病院では全く埒があかないと判断したガスパールは、傷ついた人魚をパリ5区ラ・ブッシュリー通り(かのシェイクスピア&カンパニー書店の裏)の自宅アパルトマンに保護し、浴槽の中に入れて手厚く看護(四角いフィッシュフライを食べさせる)するのです。
 さて古今の人魚伝説でよく言われるように、人魚の歌声に魅せられ引き寄せられた男はみな死ぬことになるのです。今回の最初の犠牲者が外科医ヴィクトールです。しかし21世紀の一応超近代的な病院ですから、この血が青くなって息絶えたヴィクトールの謎の死はさまざまに分析され、ヴィクトールを愛していた女医ミレナ(制作中の映画ではこの役をヴィルジニー・ルドワイヤンが演じるようです。楽しみ)は現場の地下駐車場に残っていたウロコや青い血痕などから、そこにいてヴィクトールと接触したのが人魚であったと知るに至り、愛するヴィクトールへの復讐の心半分、これ以上犠牲者を出してはいけないという人道的理由半分で、血眼になって人魚の行方を捜すようになります。
 一方のガスパールは同じように人魚を歌声を聴いたのだから、体に変調をきたし、命を失ってしまうはずだったのだが、それはそうはいかないのです。
 ここでガスパールの個人事情を説明しますと、上に書いたように、彼は7年越しの大恋愛に破れて、そのショックのために生きる気力も失っていました。それから家族関係ですが、かの帆船レストラン「フラワーバーガー」は祖母シルヴィア・スノウが創業したもので、傑物であったこの女性は不思議なフード(フラワーバーガー)と幽霊や怪物を仲間につけたショー・スペクタクルで、人々を「驚かせる」ことで幸せにできる血筋を後世に残そうとしました。この「驚かせる人」という職業を彼女は "Suprisiers(シュープリジエ)"と名付けた。
Suprisiers : ceux dont l'imagination est si puissante qu'elle peut changer le monde.... du moins le leur, ce qui constitue un excellent début.
シュープリジエとは : 世界を変えてしまえるほどの強烈な想像力の持ち主のこと... とは言っても少なくとも彼ら自身の世界を変えられるということだが、それでもそれは優れた出発点である。
このシュープリジエになるための未完の手引き書"Le livre secret des Suprisiers(シュープリジエ秘伝書)"を亡くなったシルヴィアは孫のガスパールに託します。なぜなら息子(つまりガスパールの父)のカミーユは少々頼りなく、経営不振を理由に帆船レストラン「フラワーバーガー」を売りに出して、シルヴィアの遺志を継ごうとしない。そうは言ってもカミーユも悪い人物ではなく、大失恋で前途が見えなくなっているガスパールに、空気を変えて新しい道に進ませるにはこうでもしなくては、という親心でもあるのです。しかしガスパールは「フラワーバーガー」売却には真っ向から反対し、なんとかシュープリジエの道を進みたいと思っている。そんな中に巻き起こったこの人魚事件、その最中に船の売買契約は固まりつつある...。
 救われた人魚の名はルーラと言い、何千年の時を生きてきたのですが、セーヌ大洪水で受けた傷は大きく、このまま(青い)血が流れ続ければあと2-3日ももたない、火急的速やかに大海に戻してやらないといけない。そしてそれを救おうとしたガスパールも、人魚の必殺の美声のために死ぬはずだったのに死なないのは.... 見え見えのシナリオですが、恋が芽生えるからなんですな。(だんだん書いていくのがアホらしくなってきました...)
 ま、荒唐無稽などちらかと言えば20世紀アニメあるいはハリウッド喜劇流の想像力で成り立っているファンタジー読み物です。現役音楽家のマルジウですから、音楽リファレンスも多く登場し、最初のセーヌ大洪水でエディット・ピアフの"Non je ne regrette rien"のレコードが針飛びで繰り返されるところは、こいつその日本語題の「水に流して」というのを知ってて書いてるな、と思ったものでした。ガスパールの飼っている猫の名がジョニー・キャッシュ、外科医ヴィクトールはイヴ・モンタンの物真似が得意、その他レオナード・コーエン、ニック・ケイヴ、セルジュ・ゲンズブールなどネタはたくさん。マルジウの第一回監督映画(アニメ)『ジャックと時計じかけの心臓』(2013年)と同じように、これも最初からミュージカル仕立てで構想されていたような、音楽が聞こえてきそうな小説ではありますが...。
 で、小説はガスパールが人魚ルーラに出会ってから彼女を海に返してやるまでの3日間という短い時間の間に起こる波乱万丈が描かれるわけですが、一方でガスパールとルーラが彼の「シュープリジエ」的想像力の高揚によって恋が結晶化していくというストーリーと、もう一方で女医ミレナが亡くなった恋人ヴィクトールの仇討ちのために科学的に人魚を追い詰めていくというストーリーが、双方クレッシェンド的に最高に盛り上がったところで、え?という異変があって終わるという、起承転結のあるわかりやすい話です。
 小説として書いた、というよりも、映画という最終的な完成品のための第一段階の脚本案のようなものです。この種のファンタジー連作の最初の『時計じかけの心臓』(2007年)以来のティム・バートン映画的な趣味は変わりません。こうやって"ティム・バートン的"と書いてしまうと、この人の想像力というのはどうも限界があるように思えてきます。その想像力は作中の祖母シルヴィア・スノウによると「世界を変えられるほどに強力」でないと「シュープリジエ」にはなれないのです。そこが課題でしょう。映画化作品はそこんところ、その想像力の見せどころという映画にしてほしいものですが、商業性が先行しないことを切に願います。
 さて小説の最後は美しいです。「鶴の恩返し」的なところもありますが、人魚ルーラがガスパールのアパルトマンなどに落としていったたくさんのウロコ片は雲母化して凝固し、これまで発見されていない宝石として超高価で買われていきました。その金で帆船「フラワーバーガー」号は売却を免れたばかりではなく、大改造され、川船から大海の航行もできる船となります。ガスパールは「フラワーバーガー」一座のクルーを引き連れて、この船で、いつか人魚ルーラと再会することを夢見て、大海原に向かって帆を上げるのです。カモン、セイル・アウェイ! この時マチアス・マルジウは帆に家紋の「丸に十の字」を掲げるに決まってるじゃないですか。

Mathias Malzieu "Une Sirène à Paris"
Albin Michel 刊 2019年2月7日 240ページ 18ユーロ


カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ディオニゾス「パリの人魚(Une Sirène à Paris)」(ヴォーカル:マチアス・マルジウ+バベット)


**** 2019年3月6日追記 ****

(↓)3月6日国営テレビFRANCE 5の番組「ラ・グランド・リブレーリー」に出演したマチアス・マルジウ。小説『パリの人魚』に登場する不思議な機械 "VOICE-O-PHONE"(スピード写真のように、瞬時にして自分の声のレコード盤ができるコイン式自動販売ボックス)や、四面ハーモニカ "コクリコフォン"などが実在することを証言。また聴く者に死をもたらしてしまう人魚の声のメロディーを実演したりしている。



 

2019年2月22日金曜日

モン・デュー、モン・デュー....

『幸運にして』
"Grâce à Dieu"

2018年制作フランス/ベルギー合作映画
監督:フランソワ・オゾン
主演:メルヴィル・プーポー、ドニ・メノシェ、スワン・アルロー
2019年ベルリン映画祭・銀熊賞
フランス公開:2019年2月20日

ず映画のタイトルとなっている "Grâce à Dieu"について。これはフランス語の慣用表現で、「さいわいなことに、幸運にして」という意味であるが、字句通りには「神のおかげで」と訳せる。これはカトリック教会リヨン司教区の最高責任者バルバラン枢機卿が、20-30年前の同教区内のプレナ司祭による百件を超えると言われるペドフィリア事件が告発によって世に公表された際に行った記者会見の中での表現である(実話。このシーンは映画の中で出てくる)。
Nous sommes confrontés à des faits anciens, et grâce à Dieu, tous ces faits sont prescrits.
私たちは古い過去の諸事件と向き合っているが、幸いにして(神のおかげで)これらのすべての事件は時効となっている。
映画では、この発言の直後にひとりのジャーナリストがこの枢機卿の「神のおかげで」という表現に噛みつき、「これが幸いなことなのですか?」と詰め寄る。言わば枢機卿の失言であったのだが、ここに「神 Dieu」が介在するため、ことは二重三重の重みを帯びてしまう。
 このフィクション映画は実際の事件に基づいていて、当事者たる聖職者たちの名前は実名で出され、列挙される事件はこれまで事実と認定されたものだけに限定されている。事件は裁判抗争中であり、結審するまで被告となっている聖職者たちの「推定無罪 présomption d'innocence」は尊重されなければならない。これは上映された映画でも最初と最後の字幕で強調されている。そしてこの「推定無罪」の尊重を主張する被告の弁護人は、この映画の公開延期を求める訴えを起こしていて、フランスの封切り日(2月20日)の前日まで予定通りの公開は危ぶまれていた。しかし直前の2月16日、ベルリン映画祭に出品されていたこの映画は同映画祭の審査員グランプリ・銀熊賞を受賞し、国際的映画人たちはこの映画公開のためにプレッシャーをかけた。2月19日午後、パリ地方裁判所は公開延期要求を退け、予定通り2月20日の公開を正式に許可した。
 1980-90年代、リヨン司教区の司祭ベルナール・プレナ(演ベルナール・ヴェルレー)がボーイスカウト活動などを通じて犯したペドフィリア(彼の場合幼い少年たちへの種々の性的行為)が、30年以上経った今日になって被害者たちが次々に告発し、ブレナ司祭のみならず、その上位聖職者で2002年からリヨン司教区の枢機卿となっているフィリップ・バルバラン(演フランソワ・マルトゥレ)をブレナの性犯罪を知りながら司祭の任を解かず犯罪隠蔽+助長していたとして「非告発 non-dénonciation」の責任を問う裁判抗争に発展した。映画はこの告発がどう始まり、フランスのカトリック教会を揺るがす大訴訟になっていったかを、史実に基づいて描いていく。
 最初の告発者アレクサンドル(演メルヴィル・プーポー)はリヨンのブルジョワ家庭の出で、敬虔なカトリック信者、エリート会社員、金持ち、カトリック系私立学校で5人の子供を教育し、理解ある良妻(夫が少年時に司祭に性的辱めを受けたことを知っている)を持つ。この映画の中の告発者たちの中で唯一、”事件”後もカトリックの神の教えを信じ、一家で教会のミサを欠かさず、子供たちすべてにカテキズムを義務付けている。その子供たちの宗教教育活動を通じて、アレクサンドルはとっくに教会から追放されていたものとばかり信じていたプレナがリヨンに戻ってきて司祭となっていることを知る。彼は怒りと同時に直感的に自分の子供たちがプレナの毒牙にかかってしまう恐怖も覚え、教会に自分が受けた性的辱めのことを含めてプレナを告発し、プレナの解任破門を要求する。訴えは教区の最高責任者バルバラン枢機卿とローマ法王庁にも及ぶのだが、バルバランはこのスキャンダルが外部に漏れることばかりを恐れ、穏便にことを収めようと手を尽くす。バルバラン使命の調停人(女性聖職者)を介して、アレクサンドルとプレナは40年ぶりに再会する。プレナは過去の過ちを性衝動という"病気”と言い訳し、何度もこの問題を教会上層部にも告白して自らも"治療”の努力をしてきたと言い、アレクサンドルに許しを乞う。
 一面的な告発映画ではないということが明らかなのは、このプレナの憐れさの描き方である。この時、キリスト教的意味での「許し」とはどこまでのことか、という問いもあらわれる。儀式的に調停役のマザーはアレクサンドルとプレナの手を結び一緒に祈りの言葉を唱えるのだが、憐れでさもしい男であるプレナの手に屈辱的にその手を合わせ悔し涙混じりに祈祷の言葉を漏らすアレクサンドルにとって、これは踏み絵に等しい。このシーンはこの映画で最も印象的なものだろう。
 しかし、再三の訴えにも関わらず、バルバランはプレナを解任しない。カトリック信者ゆえに、最初は教会に波風は立てまいと思っていたアレクサンドルも苦悶の果てに、ついに裁判に訴えることを決意する...。
 この告訴に端を発して、警察と検察の調査が始まり、別の被害者探しの過程で、フランソワ(演ドニ・メノシェ)のところに連絡がいく。穏やかなアレクサンドルとは対照的に激しやすい性格のフランソワは、その過去は犬に噛まれた傷のように忘れようとつとめていたのに、母親(演エレーヌ・ヴァンサン!)が保管しておいた当時の教会と両親の手紙(両親の告発と教会の返答)の交信記録を初めて目にするや、あの時のおぞましい記憶が蘇り、教会のあまりに誠意なき対応に激昂し、あらゆる手段を使ってプレナと教会を糾弾しようという考えに変わる。フランソワはメディアを味方につけ、他の被害者たちを次々に見つけ出し、被害者団体「解き放たれた言葉 La Parole Libérée」を組織して、このスキャンダルを大々的に喧伝する。この部分、かの『120BPM』(ロバン・カンピーヨ監督、2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)を思わせる糾弾運動の高揚がある。しかし、この運動に合流して大筋は同調している第一告発者のアレクサンドルは、その運動の苛烈さに少し身を引くところもある。
 そしてフランソワによって発見された被害者たちの中に、その性的辱めのトラウマによって精神的にも身体的にも変調(後天性てんかん症状)をきたし、父母の離婚、定職につけないという、様々に傷ついてしまったエマニュエル(演スワン・アルロー、素晴らしい!)という貧しい青年がいる。彼の医者への訴えでは、そのペニスはプレナの執拗な"いたずら"のために(勃起時に)曲がってしまっているが、医者はその因果関係を立証するのは難しいと言う。こういうディテールだけでなく、いろいろ傷ついたエマニュエルの半分人生を捨てたような痛々しさが、この事件の再浮上で一転する。同じ目にあった仲間たちがそこにいると知ったからだ。この男は再生できるかもしれない、という映画で描かれないストーリーが浮かび上がる。

 映画はこの3人のパーソナルストーリーを軸に、それぞれが20-30年前に受けた傷と、その元の悪を追求していく戦いが、最初は個的なものだったのに徐々にコレクティヴ(集団的)になっていく闘争記録でもある。ここ数年、フランスだけでなく、世界のキリスト教の教会内における聖職者によるペドフィリー事件がおおきく問題にされている。カトリック聖職者になるための戒律として極端に抑圧され禁止される性欲のせい、と説明されることが多いが、この映画でプレナ司祭が自ら言ってるようにペドフィリアは「病気」であり、医学的疾患と解釈されるべきだろうし、その性衝動に起因される性的暴行は犯罪である。おそらく教会が成立した頃からこの問題はあったであろうし、それは教会という「聖域」の中でタブーとなっていた。歴史的に文献の中にはカトリック教会のみならず、世界の宗教の常軌を逸した裏事情が多く残されている。しかしその裏のさまざまなことが、神という権威の後ろ盾のもとに行われている場合がある。そこが重要なところで、この映画でも、再現シーン(行為は映されないが)としてボーイスカウトのたくさんの少年たちの中から指導者(聖職者)がひとりの少年を選び出して、キャンプテントの中に連れていくという場面が出てくる。後年の被害者たちの証言が同じように「あの時、最初は自分は"選ばれたのだ”とうれしく誇りに思った」と言うのである。年端のいかない子供たちで、日頃神の教えをリーダー(聖職者)から復唱させられている子供たちにあって、ある日ひとり "選ばれ”たら、それは神のメッセージが介在していると思ってしまわないか。そして、この再現シーンで、"選ばれなかった”子供たちは、嫉妬しているような顔になるのだ。被害者の証言はみな同じように、聖職者は「これは私ときみだけの秘密だ」と言ったというのである。
 フランスでカトリック教会の勢力/影響力は20世紀後半からだいぶ落ちていると言われている。その中でも古都リヨンは、まだまだ信者は多く、この映画でも告発を決意した被害者たちは「リヨン中を敵に回している」ような圧力を感じている。その圧力というのは、たとえ事実はどうであってもカトリック教会に醜聞を起こすべきではない、というものだ。神と教会は違うものなのだが、何世紀もの間、人はそう思っていないようなのだ。
 映画の終盤で、すでにキリスト教の信心を失っていたフランソワは、幼い頃に受けた洗礼を無効にして正式に離教の手続きを取ったと宣言し、被害者団体「解き放たれた言葉」は全員俺と同じように離教しようと訴えた。しかしこの裁判抗争がどんなに進行しても敬虔なカトリック信者であり続けるアレクサンドルはそれを承諾しない。さらにもっと終わりの頃に、アレクサンドルの子供のひとりが「パパはまだ神様を信じているの?」と問うシーンあり。モン・デュー、モン・デュー...。

(プレナ司祭とバルバラン枢機卿を被告とする裁判の判決は2019年3月7日に下される予定である)

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランソワ・オゾン『幸運にして(神のおかげで)』予告編


(↓)「空はいま 屋根の上に」ポール・ヴェルレーヌ(1881年)
Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là,
Simple et tranquille.
Cette paisible rumeur-là
Vient de la ville.

– Qu’as-tu fait, ô toi que voilà
Pleurant sans cesse,
Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà,
De ta jeunesse ?


 
 

2019年2月18日月曜日

太鼓よ轟け、ラッパよ響け

ステファン・エシェール&トラクトルケスタール『ウ〜!』
Stephan Eicher & Traktorkestar "Hüh!"

ステファン・エシェール(1960 - )はドイツ語圏スイスに生まれ、ロマの流れを汲む移動民族イエニシュ人であることを公言している。80年代からベルン/チューリッヒを基盤としたテクノ(シンセポップ)/ニューウエイヴ系のアーチストとしてスイスとドイツでそこそこその名を知られていたのだが、1985年にそれを強引にフランスに引っ張ってきたのが、"タンタン"とあだ名された(イジュラン、テレフォヌ、キャルト・ド・セジュール、レ・リタ・ミツコ、エチエンヌ・ダオを発掘した)名ディレクター、フィリップ・コンスタンタン(1944-1996)であった。当時仏ポリグラム(現ユニバーサル)社長アラン・レヴィの命を受けて、50年代フランスのレコード王エディー・バークレイ(1921-2005)設立の伝説的古参レーベル"バークレイ"(エディー引退後、83年からポリグラム管理下)を大胆に最先端のポップ・レーベルに変身させ、アラン・バシュング、ノワール・デジール、モリ・カンテ、キャルト・ド・セジュールなどを配するようになるのだが、そのコンスタンタンの初期"新バークレイ”の一番バッターがステファン・エシェールだった。軌道に乗るまで少々時間はかかったけれど、1989年『マイ・プレイス』(シングル "Déjeuner en paix")、1991年『エンゲルベルク』、1993年『カルカッソンヌ』と大傑作が続き、コンスタンタン・バークレイの看板スターになっている。で、1996年にコンスタンタンが52歳の若さでエイズで亡くなった時、エシェールはその年のアルバム『千の命(Mille vie)』をコンスタンタンに捧げ、オマージュ曲「世界の果て(Der Rand der Welt)」をセネガル人歌手イスマエル・ローと共に歌っている(↓)。

ま、こんな感じで、エシェールはバークレイにとって歴史的なアーチストだったはずなんだが...。これまでステファン・エシェールとバークレイは二度もめている。コンスタンタン亡き後のバークレイに魅力を感じられなくなったエシェールは、1998年から2005年まで7年間仏ヴァージンと契約していて2枚のアルバム(これがまた2枚ともいいんだ! "LOUANGES"と"TAXI EUROPA")を発表している。目立ちたがりながらミュージシャンたちからは信望の厚い経営マンだった当時の仏ユニバーサル社長パスカル・ネーグルは(ベルトラン・カンタの事件によってノワール・デジールの未来が見込めなくなった頃)エシェールに三顧の礼を尽くしてバークレイ復帰を願い出た。2005年、仏ユニバーサル(ネーグル)とエシェールはバークレイ再契約の一連の書類に署名を交わすのだが、その条件には新アルバム3枚制作とエシェールの全音楽作品の仏ユニバーサルによる音源管理(フィジック+ディジタル)が含まれていた。
 契約の新アルバム3枚のうち2枚(2007年『エルドラード』、2012年『飛翔』) は出たのだが、3枚めの『ホームレス・ソングス』は録音が終わっているのに出る予定はない。2017年9月のウェブ版BFM-TVの記事によると、バークレイ(仏ユニバーサル)は2012年アルバム『飛翔』の制作費の一部、および次作『ホームレス・ソングス』の制作費とアドバンス報酬もエシェールに払っていない。『飛翔』のプロモーション費とコンサート企画費も払っていない。この状態に業を煮やしたエシェールは2017年にバークレイを相手取って訴訟を起こしている(現在も訴訟続行中で、上に挙げた記事によるとエシェールは百万ユーロ近い損害賠償金額を請求している)。その間に何があったか、と言うと、2016年にかのパスカル・ネーグルが仏ユニバーサル社長を解任されていて、事情はがらりと変わってしまった、ということのようだ。

だから(たとえ音楽業界事情通じゃなくても)ステファン・エシェールの近々の現役復帰は難しいというのが一般の見方だったのだ。だから(と同じ接続詞で続けるが)この新アルバムは、誰も待っていなかった突然の1枚である。まず、ジャケット写真は誰がどう見ても、アラン・バシュング(1947-2009)のアルバム『ファンテジー・ミリテール(軍隊幻想曲)』 (1998年)のパロディーであろう。沼に浮く水藻の中から顔を出すバシュングに対して、祝祭の紙吹雪(コンフェティー。このCDとLPのパッケージの中にしっかり紙吹雪が混じっている)に埋もれるエシェール。20世紀末、バークレイが世に出した歴史的名盤にしてプラチナ・ディスクともなった(おそらくバシュングの最高傑作アルバム)『ファンテジー・ミリテール』へのオマージュ30%、バークレイへの皮肉70%といったところだろう。
 アーチスト名義は「ステファン・エシェール&トラクトルケスタール」となっていて、このトラクトルケスタールは金管9本+ドラムス3台のタラフ風ブラスバンドで、全員ベルン(スイス)出身の27歳から33歳までの若者たちだそう。この子たちは「母ちゃんが"ロッカー”ステファン・エシェールのファンだった」という世代。この祝祭的バルカン・ブラスバンドのインスピレーションは、ゴラン・ブレゴヴィッチとの交流からもらったものだそう。この大所帯でブンチャ・ブンチャとブローする楽隊とは、2018年1月からスイスとフランスをはじめヨーロッパ各地をトレーラーで回ってツアーしている。ステファン・エシェールの新旧のレパートリーをタラフのスタイルでスウィングさせるサーカス一座の態と想像できる。だから興が乗り、投げ銭が止まなければ夜を徹して演奏し続けられそうな。なにしろ御大は60歳近いが、楽隊は若い衆ばかりなのだから。
 アルバムに収録された12曲のうち、8曲はエシェールの旧レパートリーの新ブラスバンド編曲。YouTubeにアマチュア投稿されている去年からのコンサートの動画を見ると、ライヴではもっと様々な旧レパートリーが演奏されているようだが、このアルバムはその精選8曲ということだろう。新曲は4曲:"Etrange"(4曲め、詞フィリップ・ジアン)、"Chenilles"(10曲め、インスト)、"Papillons"(11曲め、詞フィリップ・ジアン)、そして "Nocturne"(12曲め、詞マルティン・ズーター)。
 このブラスバンドに加えて、アルバムのブックレットにクレジットされているのが、(数えてないので適当に言ってしまうが)約1500人のコーラス隊(その名前をAからZまでの順で8ページにわたって全部記載している)で、たぶん8曲めの(エシェールのヒット曲のひとつ) "Pas d'ami comme toi"(←のYouTubeの59分45秒め)のリフレインで「ノン!ノン!ノン!」と叫んでる人たちであろう。

すごく良い雰囲気。レコード会社との揉め事などどこ吹く風。旧譜の若返り方がすがすがしい。大人数での再創造というのがいい。改めてこの人は良い曲を多く作ってきたのだと納得しよう。
それにしても、この新アルバム、上に述べたように現在エシェールと裁判抗争中の仏ユニバーサル社の傘下レーベル、ポリドールからリリースされた、というのはどうなってるんでしょうねぇ。よくわかりませんが。

<<< トラックリスト >>>
1. Ce peu d'amour
2. Louanges
3. Envolées
4. Etrange
5. Cendrillon après minuit
6. La chanson bleue
7. Les filles du Limmatquai
8. Pas d'ami comme toi
9. Combien de temps
10. Chenilles
11. Papillons
12. Nocturne

STEPHAN EICHER & TRAKTORKESTAR "Hüh!"
CD/LP Polydor 6791316
フランスでのリリース:2019年2月15日

(↓)ステファン・エシェール&トラクトルケスタール "Combien de temps"、オフィシャル・クリップ


(↓)このアルバムに収められた新曲のひとつ "Etrange"(オーディオ)


(↓)記事タイトルの出典はヨハン・セバスチアン・バッハのカンタータ「太鼓よ轟け、ラッパよ響け」(BWV214)でした。