2017年8月18日金曜日

今朝のフランス語:雄牛自動車 (voiture-bélier)

今朝のフランス語 : Voiture-Bélier (ヴォワチュール=ベリエ)

訳すると「雄牛自動車」。これを google translationで日本語化すると「ラム襲撃」というよくわからない言葉が出てくる。たぶん英語の Ram-raiding をそのまま訳したのだと思う。
Wiki英語版を見ると「ラム・レイディングとは、バン、トラック、SUV、乗用車あるいは他の大型車両を突撃衝突させ、閉鎖された店舗(通常は百貨店や宝石店)の窓または扉を破って、略奪者が突入することを可能にする強盗の方法」と説明されている。
Wiki仏語版によるとこの突撃自動車による強盗犯罪は既に1930年代に始まっている。2010年12月、アメリカ合衆国国土安全保障省とFBIが、テログループが「ラム襲撃」による攻撃を扇動していると警告。この種の攻撃では多数の人間が集まる建物や場所(スポーツイヴェント、遊技場、商店街など)が標的にでき、テロリストは爆弾や銃砲を入手できなくても、最低の運転歴さえあれば攻撃を実行できる、としている。
2016年7月のニースを発端に “camion-bélier”(雄牛トラック)”voiture-bélier”(雄牛乗用車)によるテロが相次ぎ、そのほとんどに対してイスラム国が犯行声明を上げている。2017年8月12日、米国ヴァージニア州シャーロッツビルで、極右デモに抗議する反ナチ市民団体に乗用車が突進攻撃した事件でも、当地のメディアは”voiture-bélier”攻撃と言っている。
8月17日、バルセロナで起こった事件を報道していた仏ニュース専門局BFM-TVの解説者が「ローテク/ローコスト・テロ」という言葉を使った。日本では昔から「車は走る凶器」と言われていた。




2017年8月13日日曜日

I wanna djam it with you

『ヂャム』
"Djam"

2017年フランス・トルコ・ギリシャ映画
監督:トニー・ガトリフ
主演:ダフネ・パタキア、マリーヌ・ケイヨン
フランス公開:2017年8月9日

 語の始まりはギリシャのレスボス島です。エーゲ海に浮かぶ島ですが、位置的にはトルコの沿岸にあり、文化的にはギリシャとトルコの両方の影響を受けていますが、歴史的に戦争することが多かった両者に挟まれた、言わばオクシデントとオリエントの接点でもあります。映画の中で盛んに演奏される音楽レベティコは1930年代にトルコ領内にいたギリシャ人が強制送還されたことによって、住み慣れた土地を失われた人々の追放と望郷の哀歌として発祥し、それがやがてギリシャの大衆歌謡となったものです。映画の中で主人公ヂャム(演ダフネ・パタキア)は、フランス人娘アヴリル(演マリーヌ・ケイヨン)の「それはギリシャの音楽?」という問いに「ギリシャとトルコの混じり合いの音楽よ」と答えます。
 時代は2015年〜2016年です。前代未聞のギリシャの経済破綻は、銀行は支払い能力がなくなり、中小企業を根こそぎ倒産させ、物不足、賃金が払えないので国鉄など公営サービスはストライキが相次ぎ、観光客も激減しました。映画はそういう経済的状況を忠実に映し、企業倒産の絶望で自殺を試みる男や、ストで閉鎖される駅舎、従業員もなく給湯設備も使えないホテルなどが出てきます。また、レスボス島は2015年5月以来シリアからの何十万という難民が漂着した場所です。映画では後半にフランス娘アヴリルが、夥しい数の難民が漂着した浜辺に捨てられた救命具のゴミ山を見て絶句するというシーンがあります。
 ヂャムがトルコへの旅の途中で偶然出会った無一物のフランス娘アヴリルは謎の人物です。金もなく、着の身着のまま、ギリシャ語もトルコ語も英語も一切しゃべれない(唯一使える言語がフランス語)この少女がなぜこんなところにいるのかは最後まではっきりと説明されません。自分では「男友達に誘われて、トルコに難民支援のボランティア活動をするためにやってきたが、はぐれてしまった」と言ってますが、明らかにウソです。パリ南郊外のシャトネー・マラブリー(ヴァンサン・ドレルム作の歌があります)の「赤の丘(La butte rouge)」からやってきたと言います。観る者はここで漠然と、フランスの郊外からトルコ経由でシリアに渡航するイスラム・ジハード志願兵のことを想像してしまうでしょう。アヴリルのキャラクターというのは何も知らないのに目つきだけは反抗的というタイプ。壁にアラブ語で落書きされたジハード讃美のスローガンを「アラブ語は読めないけれど美しいと思う」とつぶやくアブリルのシーンが、この郊外/ジハードとアブリルの関係をほのめかしているように見えます。そして迷ってしまった少女。主人公ヂャムに着いていくアヴリルの旅は、自分探しの旅だったということが最後に述懐されます。
 しかしこの映画の魅力の99%はベルギー人女優ダフネ・パタキア演じるヂャムと名乗るギリシャ娘の野生的な自由さ、魔性的なアピール、歌、踊り、アクションにあります。この女優は歌も踊りも楽器も勉強したことがないのに、トニー・ガトリフは自分流でやれ、とほとんど即興でこの歌と踊りのパフォーマンスをさせたと言います。レベティコという移民の哀歌がこの少女に宿ってしまったような。それは一種の映画のマジックですが、ヂャムは何か困ったことがあると、その歌と踊りで解決してしまうパワーがあります。アヴリルのパスポートの問題を国境警察を相手に解決する時、閉まっているホテルの支配人に一夜の宿を請う時、ヂャムがレベティコを歌って舞うとすべてはうまく行くのです。そして道連れのアヴリルと気まずい関係になった時も、ヂャムの歌が救ってくれます。
 ガトリフの一連の作品同様、音楽の持つパワーというのもこの映画の大きなテーマです。映画の中の男たち女たちは音楽(この場合レベティコ)の宴の輪さえあれば、どんな試練にも立ち向かっていけそうな勇気を得られるのです。追放されても、越境してもついてくる音楽。ガトリフはそんな映画ばかり作っています。
 ヂャムの母親は稀代の名レベティコ歌手と評判だったが、(ファシストだったらしい)祖父が歌という芸能を嫌悪・否定し彼女の芸能活動を禁止したので、母はその兄カクールゴス(演シモン・アブカリアン)に身を寄せ、カクールゴスが開いたパリのギリシャ料理レストランで歌っていた。若くしてこの世を去った母からヂャムは歌と楽器を習い、パリでフランス語を覚えた。そのカクールゴスは今やレスボス島で、(観光客のいなくなった)観光レストランと(動かなくなった)観光船を抱えて、国の経済破綻のあおりでレストランを手放さなければならない事態になっています。
 映画の主軸のストーリーは、叔父のカクールゴスからヂャムがトルコ(イスタンブール)に行って古い船の部品(動力クランク)を探して買って来い、と頼まれて始まった、レスボス→イスタンブール→レスボスの往復の旅です。すなわちロードムーヴィーです。ヂャムはリュックサックを背負い、バグラマブズーキという2つの撥弦楽器も携行しています。土地を知り尽くしたヂャムは、アヴリルという得体の知れない少女を道連れにしながらも、ストや盗難や国境問題をなんとかクリアーして目的を達成します。災難、出会い、友情、音楽、逆境にあっても世の中捨てたもんじゃない、という展開です。国家や銀行資本がどんなに理不尽でも。音楽のシーンはどれも陶酔の喜びに満ちています。
 ヂャムの努力の甲斐あって、動力クランクを交換して船は再び海に出ることができます。レストランと財産のすべてを失ったカクールゴスは、ヂャムとアヴリルを含む音楽一座を連れて船出します。世界中の港で、自分たちの哀歌(レベティコ)を聞かせるために。エンドマーク。 
 レスボス島は言うまでもなく、女性愛を謳った紀元前6世紀の女性詩人サッポーで知られ、女性同性愛を意味する「レズビアン」という言葉の語源となったところです。 この映画の中でヂャムの同性愛を暗示させるシーンは数か所出てきます。その一つはお湯の出ないホテルで凍えるような冷水シャワーを浴び、アヴリルが裸で潜り込んだベッドの中で同じく全裸のヂャムが体を擦り付けていき、逃げるアヴリルを屋上の洗濯もの干し場に干されたたくさんの白いシーツの間をヂャムが追いかけていくという美しいシーンです。アヴリルはたまらず「あたしはレズじゃないよ!」と叫びますが、ヂャムは「あたしも違うわよ」と笑います。映画全体から見れば重要ではないテーマかもしれません。ただ、ヂャムの射るような視線は、その官能を隠さないのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ヂャム』 予告編。


(↓)テレラマ誌のインタヴューで最新作『ヂャム』について語るトニー・ガトリフ。


(↓)ブログ記事タイトルの出展はこれです。
 



2017年8月2日水曜日

ジャンヌ・モロー「インディア・ソング」(1975年)

ジャンヌ・モロー「インディア・ソング」(1975年)
詞:マルグリット・デュラス
曲:カルロス・ダレッシオ

 2017年7月31日、サン・クルーのキュリー研究所の病室の中でケモセラピー点滴を受けながら、ジャンヌ・モロー(1928-2017) の訃報を聞いた。
 ジャンヌ・モローと深い交友関係にあった作家マルグリット・デュラスの映画『インディア・ソング』(1975年。拙ブログのここで紹介しています)では、このジャンヌ・モローの歌のヴァージョンは登場しない。カルロス・ダレッシオ(1935-1992)作曲の美しいテーマ曲を含むオリジナル・サウンドトラックは、翌年セザール賞の音楽賞に輝くのだが、ジャンヌ・モローの歌ヴァージョンはその映画のイメージソングのような扱いでシングル盤で発売された。私の最も好きなジャンヌ・モローのレパートリーです。合掌。

Chanson,
Toi qui ne veux rien dire
Toi qui me parles d'elle
Et toi qui me dis tout
Ô, toi,
Que nous dansions ensemble
Toi qui me parlais d'elle
D'elle qui te chantait
Toi qui me parlais d'elle
De son nom oublié
De son corps, de mon corps
De cet amour là
De cet amour mort
Chanson,
De ma terre lointaine
Toi qui parleras d'elle
Maintenant disparue
Toi qui me parles d'elle
De son corps effacé
De ses nuits, de nos nuits

歌よ
おまえは何も言いたくない
おまえはあの女のことを語ってくれる
おまえはすべてを語ってくれる
おお、おまえ
私たちは一緒に踊った
おまえはあの女のことを語ってくれた
あの女はおまえを歌わせ
おまえはあの女のことを語ってくれた
その名前も忘れてしまった女
その体、私の体
その恋を語ってくれた
その死んでしまった恋を
歌よ
私の遠い大地のことを
おまえはあの女のことを語ってくれるだろう
今や消えてしまった
おまえはあの女のことを語っている
その消された体を
その夜を、私たちの夜を

(↓ジャンヌ・モロー「インディア・ソング」)



(↓カルロス・ダレッシオ「インディア・ソング」)

2017年7月21日金曜日

1976年のジュリー・ラヴ

Kenji Sawada "Julie Love"
沢田研二「ジュリー・ラヴ」
詞:ミッシェル・ジューヴォー
曲:アレック・コンスタンティノス 
シングル盤 : 仏ポリドール 2121315
アルバム『ロックンロール・チャイルド』:仏ポリドール
2480447

1976年当時、フランスの家庭のテレビはほとんど白黒であり、チャンネルは国営放送3局(TF1, ANTENNE 2, FR3)しかなかった。ようやくテレビが大衆娯楽の中心的役割を果たすようになり、大衆音楽もテレビが最も影響力のある媒体手段となった。ミュージックホールとラジオでシャンソンを「聞く」時代から、テレビとシングル盤で流行り歌を「消費する」時代へ。テレビ映えするには、見た目が重要で、若年層にアピールする外見やリズムやダンスが「ヒット」を生む時代になった。クロード・フランソワ(1939-1978)はフランスのテレビ時代のチャンピオンだった。米英テレビの「バラエティー・ショー」に倣った、歌、コント、マジック、ダンスなどをセットにしたショー番組をフランスでは「ヴァリエテ」と呼び、いつしかそれはこの種の番組にメインで登場する大衆音楽のことを指すようになった。だから今でも硬派の人はシャンソンとヴァリエテは違う、ロックとヴァリエテは別物、と言うのだが。
 Chanteurs à minettes シャントゥール・ア・ミネットという70年代から使われた表現があり、子猫ちゃんたちに受ける男性歌手という意味だが、やや女性的に可愛い王子様タイプでティーンネイジャー女子たちに嬌声を浴びる男性アイドル歌手のこと。デイヴ、クリスチアン・ドラグランジュ、アラン・シャンフォール、フレデリック・フランソワ、パトリック・ジュヴェ...。その中で異彩を放っていたのがイスラエル出身のマイク・ブラント(1947-1975)で、エキゾティックで甘いマスク、トム・ジョーンズばりのダイナミックな歌唱で、69年から75年という短い(フランスでの)活動期間にミリオンヒットを次々に放ち、クロード・フランソワをしのぐ人気があった。75年4月に謎の死(自殺・他殺、諸説あり)。沢田研二がフランスにやってきたのはこの頃。
 1973年に沢田はマイク・ブラントの1970年のヒット曲 "Mais dans la lumière"をカヴァーして、安井かずみの訳詞による「魅せられた夜」というシングル盤をヒットさせている。既に接点はあったのである。74年にパリで録音した "Mon amour, je viens du bout du monde"(日本語タイトル「巴里にひとり」)は、フランスのヴァリエテ番組で受けが良く、75年にはフランス最大の民放ラジオRTLのチャート4位まで昇り、シングル盤20万枚を売ったと言われる(要確認)。
 テヘラン(イラン)のクラブで歌っていたところをシルヴィー・ヴァルタン(と付き人のカルロス)に見出され、69年にフランスにやってきたマイク・ブラントは全くフランス語を話せなかった。その才能に賭けた作曲家ジャン・ルナールはデビュー曲 "Laisse-moi t'aimer"を用意し、フランス語歌詞をヘブライ表音にして2ヶ月間ブラントを特訓して歌を完成させた。 デビューシングルは100万枚のヒット。以来ブラントはフランスのスーパースターに急上昇していく。フランスの芸能界から見れば沢田は明らかに「ポスト・マイク・ブラント」であった。エキゾティックで甘いマスク。フランス語ができなくても特訓すればいいのだ。たぶん沢田はカタカナ表記にしてもらって歌を特訓したのだろう。ヴァリエテ番組で目立ち、テレビ局の「出待ち」で女子リセ生たちが大挙して押し寄せた。ケンジー!ケンジー!ケンジー! ー Merci mesdoiselles, je vous aime !(これぐらいは言っただろう)。
1975年4月、マイク・ブラントは謎の死を遂げた。「ポスト・マイク・ブラント」候補では沢田の手強いライヴァルとして登場したのが、マレーシア出身のシェイク(本名:シェイク・アブドゥラー・アハマッド)であり、同じようにフランス語を全く話せなかった。ダリダの弟でダリダのジャーマネだったオルランドがスカウトしてきた美青年。1976年デビューヒット "You know I love you - Tu sais que je t'aime"で、パリの女子リセ生たちはケンジ派とシェイク派の真っ二つに分かれたという(まぁさかぁっ!)。それはさておき、70年代半ばのフランスは、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、高田賢三、「エマニエル夫人」(バンコクが舞台)、大島渚「愛のコリーダ」(1976年公開)などでアジア極東が大きく脚光を浴びていた時期ではあった。
 そんな1976年、沢田のフランスでの5枚目のシングルが「ジュリー・ラヴ」であった。作曲者のアレック・コンスタンティノスは、前述の強豪ライヴァル、シェイクの "You know I love you"を書いた人。フランス芸能界のとても狭い範囲で起こっていたことなのでしょう。 その安直な感じは歌詞にも。
Sur ta bicyclette 自転車に乗って
En sandales et chaussettes ソックスにサンダル姿で
Tu reviens de l’école きみは学校から戻って来る
Ma Julie doll 僕のジュリー人形

Cheveux ronds et verts ショートヘアーを緑に染めて
Tu vas voir Mick Jagger きみはミック・ジャガーを見に行く
A chacun son époque 誰にもそれぞれの時代が
Ma Julie Rock 僕のジュリーロック

Cachée sous les branches 白いフレームの
De tes lunettes blanches サングラスで顔を隠し
Tu fumes le cigare きみは葉巻を吸う
Ma Julie star 僕のジュリースター

Femme adolescente 女と少女の中間
Romantique et violente ロマンチックで荒々しく
Tu peins ma vie en mauve きみは僕の人生を薄紫色に描く
Ma julie love 僕のジュリーラヴ

Je ne sais plus laquelle aimer 僕はもうどのジュリーを好きなのかわからない
Je ne sais plus qui tu es 僕はきみが誰なのかもわからなくなっている
C'est peut-être mieux comme ça 多分こんな感じでいいんだね

Comme le soleil au milieu de l’eau 水の中の太陽のように
Tu fais de mon ciel un monde nouveau きみは僕の空に新しい世界をつくる
Julie Julie Julie Ju ジュリー、ジュリー、ジュリー、ジュ
Oh ma Julie Julie Julie Julie love おお僕のジュリー、ジュリー、ジュリー、ジュリーラヴ

Tendre ciré jaune 防水マントを羽織り
En Harley Davidson ハーレー・ダヴィッドソンにまたがり
Toi tu joues les cow-boy きみはカウボーイ気取り
Ma Julie boy 僕のジュリーボーイ

Gilet de flanelle フランネルのベスト
Chemise de dentelles レースのブラウス
Tu n'aimes que le pop-art きみはポップアートに夢中
Ma Julie smart 僕のジュリースマート

Loin de la planète 地球を遠く離れて
Tu t'en vas faire la fête きみはパーティーに飛んでいき
Et deviens Colombine 月のピエロになってしまう
Ma Julie dream 僕のジュリードリーム

この年1976年、世界では『ホテル・カリフォルニア』(イーグルス)、『カムズ・アライヴ』(ピーター・フランプトン)、『キー・オブ・ライフ』(スティーヴィー・ワンダー)、『ボストン』(ボストン)、『シルク・ディグリーズ』(ボズ・スキャッグス)、『ラスタマン・ヴァイブレーション』(ボブ・マーリー)....、フランスでも『オクシジェーヌ』(ジャン=ミッシェル・ジャール)、『ヴァンクーヴァー』(ヴェロニク・サンソン)が出た年だった。沢田は、こんなフランスの小さな芸能界にいたら、世界に取り残されると思っていたかもしれない。

(↓)沢田研二「ジュリー・ラヴ」(フランスのテレビ)(口パクではない。すごい努力。)


(↓)パリでの沢田の「社交」を伝える珍しい日本のテレビ映像。ヴァルタン、アリディ、サルドゥー、ダリダ、ジャック・ルヴォー、アダモなど。多分1975年と思われる。

2017年7月15日土曜日

ニースよ永遠に Nice pour l'éternité

Nissa la bella 
ニース麗し

 2016年7月14日、ニース、イギリス人の遊歩道(プロムナード・デ・ザングレ)、革命記念日の花火大会の見物客の中に、暴走トラックが突っ込み、86人の死者と百数十人の負傷者を出したジハード派テロ事件。1年後、2017年7月14日に大慰霊式典が催されました。その中で、ニースにゆかりのある8人のアーチストたち(ミッシェル・ラロック、パトリック・ティムシット、ミッシェル・ルグラン、パトリック・シェネ、ミッシェル・ブージュナ、エルザ・ジルベルスタイン、リーヌ・ルノー、フランソワ・ベルレアン)が、ニース出身のノーベル賞作家ル・クレジオのテクストを朗読しました。原文はニース・テロの翌日に書かれ、その数日後に出た週刊誌ル・ポワン(7月19日号)に掲載されたものです。
 テクスト全文を(無断)日本語訳し、朗読の動画を貼り付けます。
 「日本人が言うように、魂が海と空の間に浮かんでいる」という文末、 よく考えてみてください。

私はニースに生まれ、そこで育ち、おそらく世界のいかなるところよりもこの町のことをよく知っている。どの通りも、どの地区も、どの界隈も。私はそれがどこに位置するのか知っているし、すべて行ったことがあるし、その細部まで知っている。なんでもないちょっとした特徴まで。
イギリス人の遊歩道は私の好みの場所ではなかった。私はその地区の出ではないし、私の目には立派過ぎ、豪奢すぎて見えた。私は港の地区の出だ。子供の頃私は船が好きだった。漁船の舳先、地中海の向こう側から赤ワインや真っ赤なコルク栓を運んでいた古くて錆びた貨物船、もちろんコルシカへのフェリー船、旅行者たちとその自動車のほかに牛や馬までも積んで運んでいた。
ニース人が気取りと愛着を込めて呼ぶ「ラ・プロム」、それはむしろビーチであり、二人組でぶらぶら歩きをするショートパンツ姿の娘たちであり、ズック履きの少年たちであり、ペダルカーであり、地下にピンポン台がある出店ドリンクスタンドだった。

私が17歳だった時、何の気なしに目的もなくツーリストを装ってそこへ行ったものだ
しかし「ラ・プロム」には歴史がある。19世紀の半ばにかの名高いイギリス人たちが、サヴォワ公国領だった時代のニースの人々の貧しさに心を動かされ、人々を助けるために毎日籠一杯分の石ころを籠一杯分のパンと交換してやった。侮辱することなく慈善に徹したひとつのイギリス式の奇跡だ。この石ころを彼らは海沿いの道を建設するために使ったのだから。こうしてできたのがイギリス人の遊歩道だ。

ニースでは海の手前にそれが出来てからというもの、たくさんの悲惨なことが起こった。第一次世界大戦前、ロシアから移住してきたひとりの娘がこの地で初めて大人の情動を経験し、画家と文筆家になることを夢見、熱狂的で自由で光溢れる生涯を生きたいと望んでいたが、23歳の若さでこの地で結核で亡くなった。彼女の名前はマリー・バシュキルトセフ。遊歩道には今も松の木の陰に石碑があり、彼女がそこに来て海を前に読書したり夢想したりしていたことを偲ばせている。それとほとんど同じ時期にポール・ヴァレリーがニースに移り住み、モジリアーニは自動車のない美しい大通りを散歩していたが、二人とも若いマリーに出会ったことはなかった。

そこから少し東側に行くと、私の祖母の友人の一人で、シャルル・パテ映画会社の編集技師だった女性が城壁の中に建てられた小さな家々の一つに住んでいた。そこは映画会社社長が当時の制作スタッフたちを住まわせるために借りていたものだが、彼はここを新しいサンタ・モニカ(カリフォルニア州)にすることを構想していた。
その友人の名前はガブリエルと言って、毎朝その小さな部屋を出て、カモメたちに見守られながら、冷たい海に飛び込んだものだ。その時期はアメリカの大俳優たちがニースに来ていて、ロドルフ・ヴァレンティーノやイサドラ・ダンカンの時代だった。

私がラ・プロムに行き始めた頃は、もうこのような特異に風変わりな人たちは少なく、大金持ちの数もかなり減っていた。それはむしろ近代的な建物のベランダで日光を浴びて暖を取りながらカルナヴァルの行進や花合戦を待っているような裕福な退職者たちの集まりの場所になっていた。ある時にはそれは嵐の遊歩道となり、荒れ狂った海がカフェのウィンドーやパレ・ド・ラ・メディテラネ(カジノ)の正面壁に石を投げつけることもあった。

またある夏の夜毎に、フォンタンと名乗る反逆者が言語の違いによる世界の新しい境界について演説し、新しい世界地図を描いていた。彼がその場の厄介者になる度に、警察は国境の向こう側に彼を追放したが、彼はいつも戻ってきた。こんなことはみんな昔のことだが、私にとってはそれがこの町のこの部分の確かな特徴として記憶に残っている。エキゾチックさとナイーヴさの中間、尊大な若さと観念した成熟さの中間。

ニースで起こったこの描写しがたい極悪非道の犯罪は、祭りの日にこの場所を襲い、多くの罪のない散歩者と子供連れの家族の命を奪った。それは私に二重の衝撃をもたらした。私はそこにしょっちゅう行っていたし、かつては私の娘たちが群衆に押しつぶされることなく花火が見れるように私の両肩に担いで行ったこともあるのだ。そしてとりわけ殺人者はこれらの罪のない人々を殺すことによって、私たちを結びつけるものすなわち生命を破壊し、切断し、打ちのめしたということである。そしてその生命とは、邪推好きの人が想像するような虚飾に満ちた高級気取りの生命ではなく、ごく普通の生命なのだ。ささやかな楽しみがあり、守護聖人の祭りを祝い、砂利浜のビーチでの小さな恋物語、甲高い叫びをあげる子どもたちの遊び、ローラースケートの散歩者たち、サンデッキの上でうたた寝する小柄な老人たち、髪を風に乱すヒッチハイクの娘たち、日の入りの瞬間を撮ろうとする写真家たち...そんな生命なのだ。
悲劇はここに無分別に入り込み、多くの体と夢を打ち砕き、バラ色の雲に映えて連発される最後の花火の乱れ打ちの大きな火の輪の残像を目に留めている子どもたちを殺したのだ。
この町の中にこの大きな傷を広げた殺人者は呪われるべし。
トラックが群衆の中に突っ込み、親の腕に抱かれた子どもたちの体を轢き砕いた時、この男は何を考え、何を望んでいたのか?最後の静寂の前の子どもたちの叫びの中にこの男は何を聞いたのか?
世界が非業の最期を遂げること、この男はもうその世界で生きたくないのだから。それがこの男の望んだことだ。そのことこそ私たちが拒否しなければならないことだ。それは難しいことだし、不可能かもしれない。私たちがもう一度生命を取り戻すために、虚無のヴェールを払いのけるにはどうしたらいいのか?
私はもう一度マリーの松の木やガブリエルの青い早朝を見ることができるだろうか?この開いた傷の両縁をどうやって閉じることができるだろうか?
2016年7月14日のこの夜、ラ・プロムで轢き殺された罪のない人々の記憶が私たちを助けてくれることだろう。そう信じるために、私たちは、日本人が言うように、この人々の魂は素晴らしい蝶たちの飛翔のように、海にかぶさった空の中に永遠に浮かんでいると想像し続けなければならない。

ジャン=マリー=ギュスターヴ・ル・クレジオ 

(↓)2017年7月14日、8人のアーチストによるル・クレジオのテクスト朗読

 

2017年7月12日水曜日

こんな人たち

ブレない政党の党首は、ブレルなど聞いたことがないだろう。この現役首相が「こんな人たち」と民草を侮蔑する時、「こんな人たち」がどんなものか、この男は想像することもできないのだろう。
 ジャック・ブレル(1929 - 1978)、誇り高きベルギーびと。1966年の歌「こんな人たち
Ces gens-là」ー 現時点の流行語だから「こんな人たち」と訳したが、ニュアンスはもっともっと侮蔑的で自虐的な「こんな奴ら」であり、話者はこんなやつらの一員である。つまり、あなたや私のことである。「旦那 = monsieur 」は聞いてもくれない、あの人たちのことである。

 ジャック・ブレル「こんな人たち Ces gens là」

まず、最初に、この年寄りです
やつはメロンみたいに丸々していて
鼻がでかい
自分の名前も覚えていない
めちゃくちゃに飲むんですよ、旦那
あんまり飲み過ぎたんで
もう自分の10本の指で何もできない
やつはもう完璧におじゃんさ
安酒で毎晩毎晩泥酔して
王様のようにふるまっている
だけど朝になると
まだ眠っている教会の中にいるんです
建物のでっぱりのようにこわばって
復活祭の大ろうそくのように真っ白になって
そしてもごもご言ってるんです
目をうろうろ動かしながら
こう言えますかね、旦那、こんな人たちは
何も考えてないんです、旦那
何も考えてないけど、ただ祈っているんです

それから、その隣のやつ
髪の毛に人参を何本もぶら下げてるようなやつ
こいつは櫛なんか見たことないんです
こいつは蛾みたいに底意地が悪い
たとえこいつが貧乏な人たちに
一肌脱ぐことがあったとしても
こいつはかのドニーズと結婚したんです
町の娘でさ
いや隣町ですがね
それだけじゃない
ちょっとばかり商売をしたんですよ
帽子をかぶって
外套をはおって
自動車に乗って
そんなふうにしたかったんですがね
全くそんな柄じゃなかった
全然金なんか持ってないのに
金持ちの真似なんかしちゃあいけない
こう言えますかね、旦那、こんな人たちは
生きてなんかいないんです、旦那、
生きてないけど、ただごまかしているんです

あと、その他大勢
何も言わないか
何でもデタラメを口走るおっかあ
晩から朝まで
聖人のようなきれいな顔をして
木の額縁の中には
足を滑らせて死んだおっとうのヒゲ面
それは自分の家族が
冷えたスープをすするのを見ているんです
ズルズルっと大きな音を立ててすするんです
それからあの震えが止まらない
老いぼればばあがいる
あのばばあが金を持っているのを知ってるから
みんなばばあがくたばるのを待ってるんです
こんな貧乏人たちの言うことなど
聞こえもしないんです
こう言えますかね、旦那、こんな人たちは
話しなんかしないんです、旦那、
話しなんかしない、ただ数を勘定しているんです。

それから、それから、
それから、フリーダがいるんです
太陽のようにきれいな
僕がフリーダを愛しているように
フリーダも僕を愛している
二人でよく言うんです
家を持とうって
たくさんの窓はあるけれど
壁がほとんどないような家
そんな家の中で暮らしたいね
そうなったらいいねって
でもそれは確かじゃないにしても
ひょっとしたらできるんじゃないかって
でも他人たちはそうは思わない
他人たちはそう望まない
他人たちはこう言うんだ
あの娘はおまえにはきれいすぎるって
おまえは猫を殺すことしか取り柄のない男だって
僕は猫を殺したことなんかない
いやずっと前にはしたかもしれない
それとも僕は忘れてしまったのか
それはいやな臭いがしていたってことも
そんなことはどうでもいい、他人たちはそれを望まないんだ
時々二人で会っていると
わざとじゃないふりをして
涙をいっぱい目にためて
あの娘は言うんです、出て行こうって
あの娘は言うんです、あなたについて行くわって
だから、今のところは
だから、今のところだけは
僕はあの娘を信じているんですよ、旦那
今のところは
今のところだけは
と言うのはね、旦那、
こんな人たちの世界では
旦那、誰も旅立ったりしないんですよ
誰も出てったりしないんですよ、旦那
誰ひとり出て行かないんですよ
もうすっかり遅くなっちまった、旦那
僕は家に帰らなきゃ….
(↓)ジャック・ブレル「こんな人たち Ces Gens-là」

 
(↓)ジャック・ブレル「こんな人たち Ces Gens-là」(1966年ライヴ)


(↓)ノワール・デジール「こんな人たち Ces Gens-là」(1998年)


(↓)アンジュ「こんな人たち Ces Gens-là」(2005年ライヴ)


2017年6月30日金曜日

OK フレッド

フレッド・ヴァルガス『毒糸蜘蛛が出るとき』
Fred Vargas "Quand sort la recluse"

 フランスで2017年上半期ベストセラー1位の推理小説です。 私は推理小説はごく稀にしか読みませんので、この作家も初体験です。フレッド・ヴァルガスは1957年生まれの女流ミステリー作家・動物考古学者(中世)です。フレッドというファーストネームで多くの人は男性を想像するのですが、フランスでは男性にも女性にもつけられるファーストネーム Frédérique(フレデリック)の短縮愛称がフレッドです。他に男女に通じる名前には Claude(クロード)、Camille(カミーユ)があります。すでに日本でも数作翻訳されているようですが、世界的に 「アダムスベルグ警視」を主人公とする連作で大変な人気を博していて、映画化・テレビ化・BD化もされています。この『毒糸蜘蛛が出るとき』はアダムスベルグ・シリーズの第9作目になります。
 南仏ニームの周辺で、70歳すぎの老人男性3人が、次々に毒グモに刺されてその毒が原因で死んでしまいます。南米から渡ってきたとされる "Recluse"(ドクイトグモ)の毒がその死因とされていますが、この毒で死ぬという例はフランスでは非常にまれで、数年に1件ほどの件数だったのが、続けざまに3件。これをインターネット界のフォーラムが騒ぎ立てる。地球温暖化や農薬使用などの環境変化でドクイトグモが南仏に異常発生しているのではないか? また同様の環境変化で南仏のドクイトグモが突然変異して、毒性が数十倍数百倍強力なものになってしまったのではないか? こうして南仏に毒グモパニックが広がっていきます。と、ここまでは警察が出るような事件ではないはずで、医学・疫学・動物生態学の範疇の問題です。おまけに被害者がすべて高齢者であり、抵抗力の弱まった者には少々の毒でも命取りになることがあり、この3人の死はごく平凡な老人の事故的病死とみなされそうです。
 これをアダムスベルグ警視はクサイと睨むのです。立件されていないから捜査の段階に入れないものの、国立生物研究所のクモ研究の権威に会いに行き、南仏のドクイトグモが人を殺せるのか、南仏でクモの突然変異が起こっているのかを尋ねます。そこで偶然出会った南仏のクモ愛好家の女性イレーヌ。彼女はインターネットのフォーラム上で騒がれていることが気になって、アダムスベルグと同じ質問をしに国立研究所までやってきた。専門学者の答えはネガティヴ。ドクイトグモが人間に致死量の毒を盛るには200匹が束になって同時に人間を刺さない限りありえない。また南仏でのドクイトグモの突然変異現象は見られていない。ではなぜ3人の老人は死んだのか。
 会見後のカフェのショコラ一杯のおごりで打ち解けたアダムスベルグとイレーヌ。彼女から明かされる意外な事実。3人の老人はお互い知り合いだった。その縁は1940年代の南仏の慈善孤児院ラ・ミゼリコルドに遡り、収容された孤児だった3人は手のつけられないワルだった。ワルガキたちは総勢10人で徒党を組み、「ドクイトグモ団」と称していた。その名は彼らがドクイトグモを使ってイタズラをするからなのですが、これはイタズラの範疇をはるかに逸脱した「犯罪」領域のものでした。孤児院の同僚のベッドの中やズボンの中に猛毒を持ったドクイトグモを放つ。被害にあった少年たちは病院に収容されても、戦争中でペニシリンの入手が困難で、その猛毒は壊疽を起こし、片目や片足を失ったり、頰に穴が空いたり、睾丸を取られ一生不能になったり...。被害者の数は10人。この被害者たちが「目には目」論で、60年後にこのドクイトグモ団10人に復讐しようとしているのではないか。
 アダムスベルグは警察というタテ社会の中で上から捜査許可が下りないこの事件(なにしろ殺人事件という確たる証拠がない)に、組織に逆らってでも入り込むつもりです。えり抜きの優秀な捜査班だったのに組織フラストレーションで人心バラバラになっている部下たちをふたたびひとつにまとめ上げ(この辺、日本人が好みそうな企業小説っぽい)、頑迷な上司を出し抜いて捜査に乗り出します。
 「ドクイトグモ団」の10人のうち、既に4人は事故死(と見せかけた殺人事件である疑いが濃い)で亡くなっていて、今3人がドクイトグモの毒で死んだので、生き残りは3人。アダムスベルグはこの3人に必ずや次の殺人事件が起こると踏んで、万全な護衛体制を敷くのですが、3人は一人また一人と(科学的根拠では死ぬわけのない)ドクイトグモの猛毒で殺されていく。おまけに犯人グループと目星をつけていた孤児院の毒グモ被害者たちは全く動きがない。 そして「ドクイトグモ団」に恨みを持つのは孤児院の被害者だけではないという新事実。この極悪の不良少年団は、無数の集団強姦事件を少年の頃から成人した後まで連続的に起こしていて、被害者数は数知れない。(強姦事件は被害届けが少なく解決も少ないという何処も同じ事情。このことは女性作家ですからね、怒りを持って書いてますよ)。果たして犯人は毒グモ被害者か、強姦被害者か、それとも...?

  で、アダムスベルグと部下たちの必死の捜査にもかかわらず、「ドクイトグモ団」は10人全員殺されてしまいます。こんな奴らを生かせておいてはいけない、というような捜査陣内部の微妙な心の揺れも作家は挟み込むんですね。人情がある。この辺がうまい。
 そして中世から伝わる奇習で、このドクイトグモと同じ名前の「ラ・ルクルーズ」と呼ばれるものがあります。それは穢されて社会構成員として生きられなくなった女性(あえて例をあげれば、婚前に処女を失った、強姦された、密通したなどで社会的に追放された女性)が穢れを浄化するために、何ヶ月も鳩舎のような小さな小屋の汚辱の中で独房生活を送り、不憫に思う村人たちから小さな穴を通してもらう水や残飯などで生きのびるという苦行をするのです。多くはその業の途中で死んでしまうのですが、自らの糞尿などの汚辱の中で生きのびる者もいる。その奇習も中世的には穢れを浄める聖なる行為として村からはある種崇められていた。この風習は20世紀には地方条例で禁止されることになりますが、その「ラ・ルクルーズ」を少年の日のアダムスベルグが、聖地ルールドの近くの村で偶然見たことがあるのです。そしてその中にいた女の記憶も、小説の土壇場で蘇ってくるのです。完全犯罪の秘密はこの「ラ・ルクルーズ」にあった...。

  私は今病気治療のため、2週間に一度病院に半日入院して、4時間ほど横になって点滴を受けていますが、この480ページの厚い小説は2回の点滴で読み終えました。これは夢中になれますね。ベストセラー1位は合点がいきます。フレッド・ヴァルガス、ファンになりました。次作も必ずここで紹介します。

FRED VARGAS "QUAND SORT LA RECLUSE"
Flammarion刊 2017年5月、480ページ 21ユーロ

(↓)国営テレビ FRANCE 5の文学番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ドクイトグモが出る時』を語るフレッド・ヴァルガス。


(↓)エロール・ダンクリー「OK フレッド」(1979年)