2018年9月19日水曜日

突然炎のごとく

Christine Angot "Un tournant de la vie"
クリスティーヌ・アンゴ『ある人生の転換期』

 「クリスティーヌ」という名前が一度も登場しないクリスティーヌ・アンゴの最新小説。2015年の前作『ある不可能な愛(Un amour impossible)』は、卑劣漢だった亡き父とその不実な男を愛し続けた母、そして十代(14歳から17歳)の時に父親から性暴行を受けていた娘の三角関係において、後年になってからの母と娘の一連の対話を通じて、ある不可能な愛が存在したと検証する深い作品だった。あれから事情は変わり、アンゴは今や国営テレビ土曜深夜の人気トークショーのレギュラー超辛口批評家として全国民に知られるパーソナリティーとなった。ノトンブなどと違って決して大多数の読者に評価される作品を出してきたわけではないアンゴが、2016年以前とは比べ物にならない知名度を獲得したわけだが、テレビレギュラー出演の前と後では小説も変わってしまうだろうな、という危惧はあった。テレビは怖い。その怖さとは、芸能誌・ピープル誌および黄表紙ウェブの晒し者となることを余儀なくされることで、文学作品もあのテレビ人の書いたことか、という見方をされることであった。
 アンゴはそんなものなにひとつも恐れはしない。3年ぶりの新作は、極私的オートフィクションのど真ん中の直球ラヴストーリーで、ピープル誌/黄表紙サイトがこの作中人物の実物は誰々でといったことを喧しく言おうが、そんなものはどうでもいい。長くアンゴ作品と付き合ってきた者たちには、これが今から10年前の小説『愛人市場(Le marché des amants)』の続編であることがすぐわかろう。ある種のプチブル/パリ左岸派的な文芸人であった「クリスティーヌ」(47歳)が、パリ18区/北郊外系ラップ・アーチストである「ブルーノ」(32歳)と、年齢/身分/環境/文化的温度差を越えた電撃的な恋に落ちるのだが、二人の間のさまざまな境界をすべて越えることがついに叶わず、「クリスティーヌ」はこちら側に残る。だが向こう側に開きかけた扉を閉めずに支えてくれたのが、「ブルーノ」の親友である「シャルリー」で、「クリスティーヌ」と「シャルリー」の恋仲になりかけるところでその作品は終わっている。知らなくてもいいことであるが、「ブルーノ」とはリアルな世界においてはドック・ジネコことブルーノ・ボーシールで、「シャルリー」とはマルチニック島出身のサウンドエンジニアであるシャルリー・クロヴィスである。クロヴィスの前妻との間にできた4人の子供は、2011年のアンゴの小説『子供たち(Les Petits)』で克明に描かれ、それがプライバシーの侵害として件の前妻に裁判で訴えられ、アンゴは敗訴している。これも知らなくてもいいことではあるが。
 さて『愛人市場』の10年後の続編『ある人生の転機』は、「ブルーノ」は「ヴァンサン」、「シャルリー」は「アレックス」と名が変わっていて、話者「クリスティーヌ」は名前が一度も登場しない「私 je」となっている。これまで何度となく訴訟沙汰になって敗訴し続けていることへの対策かもしれない。
 もうかれこれ9年も同棲関係を続け、安定した愛情関係を保っているアレックスと「私」だが、9年前に激しく短い狂熱的な恋愛関係にあったのに姿を消していたヴァンサンの姿を垣間みてしまう。「私」はそのあまりの衝撃に理性的思考と平衡感覚を失ってしまう。音信不通だった音楽アーチストのヴァンサンは、アレックスに連絡を取り、サウンドエンジニアの仕事があるから、もう一度俺の元で働いてくれ、と。つまり「公然と」現れてしまう。そして「私」との関係も修復したい、と。「私」は動転しているが、衝動はすでにこの誘いに抗うことができない。さあ、どうするのか。これは36通りも答えがあるわけではなく、アレックスと別れてヴァンサンと復縁する、ヴァンサンを諦めアレックスと添い遂ぐ、どちらも捨てる、どちらも取る、ぐらいしかチョイスはない。揺れる「私」には虫が良いとわかりきっていても「どちらも取る」が 最良なわけだが...。
 この三角関係において一番弱い立場にあるのがアレックスである。マルチニック島出身の褐色の肌+ドレッドロックのサウンドエンジニア(無名ではあるがミュージシャンでもある)で、アーチストとして成功している(グアドループ島の血をひく褐色のラップアーチスト)ヴァンサンと違い定職定収入がなく、著述業である程度高収入の「私」のヒモのように生きている。別れた妻との間に子供もあるが、会いに行くこともままならない。「私」との同棲はアレックス+「私」の娘(この小説ではほとんど登場しない)+「私」の3人暮らしであるが、これが9年間続いたのは、ひとえにアレックスの安定した抱擁的愛情のおかげであり、「私」はこれは何ものより代え難いと悟っている。たとえ文無しであろうとも。
 しかし「私」を全く寄せ付けないアレックスとヴァンサンの堅固な親友関係というのがあり、ワゴンバスで寝食を共にしてツアーするミュージシャン仲間、カリブ系褐色人同士のブラザーシップという「私」以前に存在していた一種の"兄弟仁義”である。われながら兄弟仁義とはうまく喩えたものだが、この場合兄貴分はヴァンサン、弟分はアレックスでありこの上下関係は崩せない。これはその前作と言える『愛人市場』で「クリスティーヌ」が越境しようとしてもたどり着けなかったあの向こう側であり、ヴァンサンとアレックスが自分には見えない裏の会話をしているような疎外感も「私」は抱いている。それは極端には「私」のことも二人で裏取引をしているのではないか、という疑いにまで至る。
 「私」はどちらも失いたくない。抗しがたい情動としてはヴァンサンに強烈に持っていかれそうになるのだが、それに正直になることはアレックスを失うこと。小説の前半は「私」のどうしようもない身勝手さを包み隠さず出してしまう。両者を天秤にかけてメリット/デメリットを比べたりもする。どうしようもない。キリキリと神経を逆立てて、何が真実なのかを探そうとする。それはこの愛は本物なのか、相手の愛は本物なのか、自分の愛は本物なのか、という問いである。問い詰めである。クリスティーヌ・アンゴはこの問い詰めにおいて容赦はしない。ダイアローグにおいて、相手が気に触れる何かを言えば、それを繰り返し引き出して何度でも問い詰めていく。この作家はそうやって言葉で真実を探していくのだ。ところがアレックスもヴァンサンも、そういう理詰めを超えて不透明になったり意固地になったり解釈不能になったりする、ということもこの作家は書けるのである。この判断停止を余儀なくされる壁に打ちのめされるのも「私」なのだ。
 アレックスはヴァンサン再登場という激変事に、初めからはじかれるのは自分だという予想があった。自分には勝ち目がない。そして下手に出て「自分に身を引いてほしいのなら、はっきり言ってほしい、俺はマルチニックに帰る」と「私」との口論の度に言うようになる。「私」はその度にアレックスを絶対に離さないと説得せざるをえない。しかしヴァンサンに強烈に惹かれていることを隠そうともしない「私」を前に、アレックスはどんどん不幸になる。その上アレックスにとってヴァンサンの兄貴分的優位もどんどん重くなっていく。
 この記事の標題につかったトリュフォー映画『突然炎のごとく(JULES ET JIM)』(
1962年)がこの小説の中に登場するのは、アレックスと「私」が同棲するアパルトマンにヴァンサンがひょっこり現れ、ヴァンサンの手料理でパスタを3人で食べ、緊張のない和やかなひと時を過ごしたあとである。男二人は外出すると言うので、その前に「私」がパソコンに映画をダウンロードするのをアレックスに手伝ってくれ、と頼む。

ー どの映画が欲しいんだ?
ー 『突然炎のごとく』、トリュフォーの映画よ。
彼は後ずさり、椅子が倒れてしまった。
ー なぜこれを観たいんだ?
ー アレックス、私がこれを観たいだけよ。何が問題なの?
ー それはひとりの女と二人の男の映画だろう?
ー 今度は私の観る映画を制限しようと言うの? 私を検閲するの? あなたどうしたいの? 少し行き過ぎじゃない?
口調が高ぶった。そこへヴァンサンが入ってきた。
ー 一体何を二人でまた口論してるんだ?
ー  アレックスが私が『突然炎のごとく』を観ることに賛成じゃないの!もう狂ってるわ!次は私が読むものまで制限するんじゃない?
ー アレックス、やってやれよ。トリュフォーはいい映画だ。だけど俺の意見ではね、きみはギャバンが出てる『猫』(註:1971年ピエール・グラニエ=ドフェール監督映画。シムノン原作。相手役にシモーヌ・シニョレ)を観た方がいいと思うよ。もう観たかい?いつも口論ばかりしている人たちの映画さ。
ー ヴァンサン、私はもうこの男についていけないわ!検閲官よ。私には私が観たいものを観る権利がある。もう狂ってるわ。彼にどうかしてるんじゃないのって言ってやって。
ー アレックス、トリュフォーの映画なんだから、いいだろう、もうやめろよ。
ー ほうら見たことか。言ってやってよ。彼はあなたの言うことしか聞かないのよ。あなたは彼のご主人さまなの?
ー そうイラつくなって。さあ映画をダウンロードしてやれよ。
ー 彼はあなたの言う通りのことをするわ。彼はあなたの言うことしか聞かない。ご主人さまと奴隷だわ。
ー さあ外に散歩に行くよ。きみも俺たちと一緒に来いよ。
ー 誰が行くもんですか。
(Christine Angot "Un tournant de la vie" p.99 - 100)

 トーンはわかるのではないだろうか。アレックスはどんどん立場を失っていく。小説はヴァンサンとの密会の機会を狙う「私」がどんどん露呈していき、ヴァンサンが「私」に仕事依頼と称してシナリオを書かせるために一緒に海浜ホテルに同宿するなど、後戻りができないほど情動は高揚してしまう。アレックスもまた夢中でヴァンサンとツアー仕事をするようになるが、「兄貴いい奴」感は屈折し、「俺さえ身を引けば」と「ヴァンサンに取られたくない」は交錯して自暴自棄傾向を増していく。それは激昂のあまり「私」を"pute(ピュット)"と罵ってしまう。ピュット驚くタメゴロ〜。生まれてこのかた誰からも言われたことのないこの言葉を言われたら「私」は絶対許すわけにはいかない。二人の9年間の愛の巣を出て行く「私」であったが...。
 大転換はその後でやってくる。長年のミュージシャンおよび裏方生活で身にたまったアルコールと煙草とドラッグ、そしてヴァンサン再登場以来の「私」との激しい確執と精神ストレスの末、アレックスは腎臓機能を完全に麻痺させて倒れてしまう。それはその後のアレックスの余命に関わる重大なもので、腎臓移植なしには人工透析で生き延びるしかない。この段階で「私」はアレックスに添い遂げる決意をするのである。そしてヴァンサンがどんどん偽物っぽくなり、彼女が求めていた愛の真実はそういう結論にしよう、という収拾に向かうのである...が....。
 いつものアンゴの小説のような勢いで読ませるリズムは前半にはなく、途中で読むのどうしようかなとためらったことあり。特に多く出てくるダイアローグは、どうしようもない痴話げんかレヴェルのものもあり、郊外ミュージシャンのインテリジェンスの欠如を揶揄しているようなニュアンスもあり。『愛人市場』で描かれた「向こう側」の二人の男の現実にやっとアンゴがリアルに実体験したかのような。しかし「私」の身勝手な愛はやはり結論に近いものを見つけて終わらせるのですよ。キリキリとした緊張感を最後まで保ちながら。そして "Un tournant de la vie(人生の転換期)"はボロボロでやってくる。これはクリスティーヌ・アンゴさ。

Christine Angot "Un tournant de la vie"
Flammarion刊 2018年9月8日  182ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)パリ4区レ・カイエ・ド・コレット書店で9月8日に開かれた『Un tournant de la vie』出版記念クリスティーヌ・アンゴを囲む会。



2018年9月15日土曜日

いつも心にホホマニを ー ラシッド・タハ頌

シッド・タハが9月11日の夜心不全で「眠りのうちに」亡くなりました。59歳でした。80年代から同時代で追ってました。支持してました。私も移民の端くれですから。Carte de Séjour(キャルト・ド・セジュール=滞在許可証)というバンド名に込められた「B級市民」の意思表示を私も共有しました。ラシッドはフランス国籍を取らなかった。アルジェリア国籍の外国人居住者だった。理由はともあれ、私もフランス国籍を取らない頑迷で誇り高い外国人だった。2度楽屋で会って二言三言言葉を交わしたことがあるが、アルコールがひどくて全然聞き取れなかった。この人には話してもホラ&大言壮語が返ってくるだけだと言われていたが、聞き取れなかったけどそういうことだったろう。ましてや面識のないアジア人である私とは。だけど支持してましたよ。

 私は多くは語れませんよ。だけど、84年「ホホマニ Rhorhomanie」の衝撃はストレートだったし、向風三郎の『ポップ・フランセーズ』本でも「ホホマニ」はかなり熱く書いた記憶がある。デビュー時からカンタベリー派英人スティーヴ・ヒレッジ(元ゴングのギタリスト)がなぜこれに惚れ込んでプロデュースを買って出たのかもなんとなくわかった。ずっと後年、アルコール+ドラッグ+女性関係がこのおセンチな万年少年を消耗させていったのもなんとなくわかった。多くは語れませんよ。悲しいけれど熱心なファンではなかったから。だが、テレラマ誌のワールド欄主筆のアンヌ・ベルトーが素晴らしい追悼記事を書いてくれた。よくわかります。ラシッド・タハ、お見それしました。今、本当にいたわしい気持ちになっています。以下アンヌ・ベルトーによるタハ追悼記事の全文訳です。

この歌手は心臓発作のため59歳で亡くなった。ライとシャービを今日の嗜好にアップデートさせた、トラッシュであると同時に気高い煽動者であった。
すでに数年前から彼が衰弱していたのは周知のことだった。しかし彼は毎回帰ってきた、時には虫の息だったけれど、常に大きな顔をして帰ってきた。だから彼は不死身なのだとみんな思うようにもなっていた。ラシッド・タハ、80年代の伝説的なバンド、キャルト・ド・セジュールのリーダー/ヴォーカリスト、私たちの贔屓のアラブ・ロックンローラーは2018年9月11日火曜日の夜、心臓発作で59歳(数日後の9月18日に60歳になるはずだった)という阿呆のような年齢で亡くなった。タバコを咥えながら、嘲るような眼差しで、帽子を目深におろして私たちに決別の挨拶をする姿が見えるようだ。それは「ブラック=ブラン=ブール」(註:90年代、特に98年W杯優勝の時に言われた、黒人=白人=アラブ人の調和的共同体)のフランスの殿堂の入り口に所在なく姿を見せ、バーのカウンターはどこかと問い、そこに肘をついたとたん威嚇的大声で「糞食らえってんだ!」と言い放つ姿のような。
ほぼ40年前、これと同じ激情でもって彼はリヨンでキャルト・ド・セジュールというロックバンドを結成した。移民排斥法であったストレル法(1977年)とボネ法(1980年)への反撃として。このバンドは尊大さあふれるアラブ語ロックを連発し、人々の意識を目覚めさせた。第二世代となったマグレブ出身者のフランス社会は火をつけられたように盛り上がった。バンドがマグレブの古いしきたりであるマリアージュ・アランジェ(親族同士で調停契約して決められる結婚)を告発した場合も含めて。マグレブ第二世代はそのスポークスマンを得たのだ。1986年パスクワ(内相)の移民法に反撃し、オラン(アルジェリア)生まれで10歳でフランスに上陸した少年は、コーラン教育学校から修道院系中学校への転校を経て、28歳の皮肉をこめてシャルル・トレネの「優しいフランス Douce France」(それは彼が成長した70年代のフランス:最初はアルザスで、父親がブーサック社繊維工場で工員の職を得た。ついでヴォージュ地方...)をカヴァーした。「彼は勇ましく闘士的で、運動における仲間意識を体現していた」とジャック・ラングは敬意を表して悼んだが、当時ラングはこのキャルト・ド・セジュールの「優しいフランス」のシングル盤を、ラシッド・タハとシャルル・トレネと一緒に国会前で議員たちに配ったのだった。

1989年のバンド解散のあと、このシンガーは90年代にソロアーチストとして飛翔する。よりロックで、よりエレクトロに。彼は冷やかし付きのライマン(ライの歌い手)で、アルジェリアの古典的楽曲を当時のパンク的嗜好で再生(アルバム "DIWAN"と"DIWAN 2")し、「ヤー・ラヤー」(アルジェリア人ダフマン・エル・ハラシのシャービ名曲)をダンスフロアーにも通用する世代を超えたヒット曲に変えてしまった。そして1998年その「1.2.3 ソレイユ」の仲間たるハレドとフォーデルと共に満杯のベルシー総合室内運動場を踊り狂わせたのだ。その後の10年、彼は「シャービのジョー・ストラマー」だった。テット・レッドのクリスチアン・オリヴィエと「テキトワ」(警察による人種差別的顔面判断への抗議)を、クラッシュのミック・ジョーンズと「ロック・エル・カスバ」を歌った。その他、ブライアン・イーノ、U2、コールドプレイとも共同作業した。
しかしその後、反逆児はその頂点から堕ちてしまう。ある者たちは彼は終わったと言い切った。飲酒、あらゆる種類の過剰摂取、そして彼が絶対語ることがなかった遺伝子系の病気、それらが彼の偉大さを失わせ、それはステージの上にまで露呈し、彼が最悪の状態を人前に晒しさえした。
2011年のある夜、私たちがリラ(パリ郊外)の彼の自宅アパルトマンで取材した時、彼がそのドアを開けたとき仰天した様子だった。みっともない出で立ちで、両脚はふるえていて、私たちとのアポを完全に忘れていたことは明らかだった。私たちをサロンに置き去りにして、外套をはおり、「ここを動かないでくれ、ちょっと買い物をしてすぐ帰るから!」と。30分後シャンパーニュの瓶2本を持って戻ってきた。シャンパーニュをグラスに2度注ぐ間に、彼が選曲するのに何度もいらいらしたあげくやっと見つけたバシュングの "Blue Eyes crying in the rain"をバックグラウンドで聴きながら、私たちの会話はあらゆる方向に拡散した。「プチ・ブーニュール petit bougnoule」(北アフリカの貧乏小僧)だった子供時代のことや、「窓と女を金網張りで閉ざす土地の愚かなアラブ人たち」のこと、ジダンのこと、作家アズーズ・ベガグ(シラク大統領期の機会均等推進担当大臣だった)にレジオン・ドヌール勲章候補に推薦されたが拒否した話などなど...。
彼は息子のアイレス(Eyles。職業マヌカン)のことも語った。「母親はフランス人?」という質問に、彼は「アルジェリア人と公言すべきだ!」と答えた。それから彼の失恋話も。かつてはするどく辛辣な言葉のプレイボーイとして鳴らしたタハだが、そんな彼にもブルースも優しい心もあったのだ。実はちょうどその夜も「ランデブー」の約束があったのだ。再び彼は姿を消し、5分後に再登場したときには、すみれ色のパンタロン、白革のバブーシュ靴で王子様のように変身していた。
私たちのインタヴューはタクシーの中まで続き、ヒット曲しかかけないFMラジオを聴きながら、話題はコーランにまで及んだり、脈絡もなく「カビリア人はみんな牡蠣を開けられるが、みんな牡蠣が大嫌いなんだ」と話が飛んだ。 行き先はシャングリ・ラ、5つ星高級ホテル、足をふらつかせながらもロックスター氏は大君のように入場し、うやうやしくドアボーイに案内されていった。夜も更け、彼の少数の取り巻くグループに向かって「さあ、みんなVIPラウンジに行こうぜ!」と呼びかけたところで、私たちはそのエネルギーに負けてしまい、そこでおいとますることにしたのだ。
これこそがラシッド・タハだった。トラッシュと気高さの混じり合い、お祭り騒ぎと厳しさの混じり合い、大仰なハッタリと単純さの混じり合い。メニルモンタン通りカフェ・デ・スポールとビュット・ショーモンの丘ローザ・ボヌールの常連、その気になればバブーシュ靴をはいてシャンゼリゼ大通りを行進することもできる。
その2年後(2013年)、アルバム "Zoom"(ブライアン・イーノ、ミック・ジョーンズ、ロドルフ・ビュルジェとのコラボレーション作)で再びシーンの前面に戻ってきた。ウーム・カルトゥーム、カート・コバイン、エルヴィス・プレスリーの幽霊に憑かれ、ゲンズブール風霊感に包まれた暗いアルバムであった。トリアノン劇場でのコンサートで、私たちは往年の大いなる宵のラシッド・タハの復活を見た。弱ってはいるが、才能あるマンドール奏者にして素晴らしいヴォーカリストでもあるハキム・ハマドゥーシュに支えられ、格の違いを見せつける未体験のロックンロールを展開した。ロドルフ・ビュルジェとミック・ジョーンズを従えて不朽の名曲「ヤー・ラヤー」を歌い出すときに、タハは「この歌はあんたたちも爺と婆なんだってことをわからせてくれるだろうよ、この間抜けども!」とわめいた。

最近録音を終え2019年にBelieveレーベルから発売されることになっているアルバムの曲 "Je suis africain(俺はアフリカ人)"もうすぐ聞けるのだろうか?もちろんだ。フランス国籍を申請したことなど一度もなかったラシッド・タハはアルジェリア人であり、マグレブ人であり、ロックの言語を話すことで彼はガリア人(フランス人)たちや海峡の向こう側のポップスターたちを結集させることができたのだ。
2016年、「ライの30周年」イヴェントで私たちは再び彼に会うことができた。メニルモンタンのカフェ・デ・スポールのテーブルにつき、周りにはハキム(ハマドゥーシュ)、プロデューサーのミッシェル・レヴィ(フランスの"ムッシュー・ライ")、そして近所の友人たちがいた。大口叩きで酔っ払い、だが決して一本の線を見失うことはない男、彼のことはそう記憶しよう。彼はハキムに隣の薬局に「歯の接着剤」を行かせたのだ。たった今落としてしまった切歯の端まできらめく男なのだ。一言で言えばユニーク。

アンヌ・ベルトー
(Web版テレラマ、2018年9月12日)

(↓)"Ya Rayah" 1997年オフィシャルクリップ


(↓)9月13日、フランスのニュース専門TV局FRANCE 24の16分追悼特番。




2018年9月1日土曜日

やめられないとまらないエピセーヌ

Amélie Nothomb "Les Prénoms Epicènes"
アメリー・ノトンブ『わが名はエピセーヌ』

 レノン・エピセーヌ(prénom épicène)とは、男名前でも女名前でも通用するファーストネームで、フランスではカミーユ(Camille)、フレデリック(Frédérique)、マクシム(Maxime)などがありますが、この小説で登場するのはドミニク(Dominique)とクロード(Claude)です。エピセーヌ名前の二人、ドミニクという女性とクロードという男性が出会って夫婦になり、娘が生まれます。 そこで娘につけた名前がエピセーヌというのです。エピセーヌの二人から生まれた子供がエピセーヌ。ここまで読んで、なんともはやくだらん、と思われたムキもありましょうね。
 ところがこのエピセーヌという名前は歴史的に由緒あるものなのです。英国17世紀、ウィリアム・シェイクスピアの同時代人の詩人・劇作家にベン・ジョンソンという御仁がおって、その代表作のひとつが『エピシーン、またの名を無口な女 (Epicoene, or the Silent Woman)』(初演1609年)です。音が何よりも嫌いで防音屋敷に住む偏屈老人モローズは、子がないために死んだら財産をすべて大嫌いな甥のドーフィンに取られてしまう。それを避けるためになんとか結婚相手を探して今から子作りをしようと。見つけてもらった嫁は1日に6語しかしゃべらないという寡黙なエピシーン。ところがいざ結婚すると豹変して立て板に水のように1日中しゃべりっぱなし。モローズはこれはたまらん、こんな地獄を味わうんだったら、甥に財産を譲った方がまし、と書類にサイン。しかしわかたのはこのエピシーンは、ドーフィンが育て上げ意のままに動くようになった女装の少年であることがわかる....。
 ジェンダーフリーな名前をしたジェンダーフリーな人物だったというわけです。このベン・ジョンソンの作中人物に魅せられたドミニクとクロードが、このエピシーンという名前をいただいて、フランス化してエピセーヌとして娘につけたのです。しかしこのノトンブ小説はジェンダーを主題にしたものではありまっせん。
 2017年の前作『己が心臓を叩きたまへ(Frappe-toi le coeur)』のテーマは「嫉妬」でした。2018年新作のテーマは「復讐」です。ここ数作に続いている寓話調の展開で、最初は荒唐無稽なストーリーの始まりのような印象さえあります。なにしろ「名前」の話ですから、こんな名前の人はその名前に縛られた運命で生きてしまうみたいな安直物語なんじゃないか、という危惧ですね。ノトンブを甘く見ないで。大丈夫大丈夫。
 物語の最初は1970年です。イントロは男女の別れです。ついさきほどまで燃えるような愛情交わりをしていた25歳の男女、男が求婚するが、女が大企業の御曹司にプロポーズされてパリで大ブルジョワの妻として暮らす、と告げ、男を捨てる。男は一生の女性に見限られ、極度の上にさらに極度の忿怒のあまり、復讐を心に誓う。
 本編に入って、ところはフランスの西の果てブルターニュのブレスト。土地の小さな貿易会社テラージュ社に勤める目立たない25歳の女ドミニクの前に忽然と現れ、シャンパーニュをおごる男クロード、一目惚れしたとその後もデートに誘う。男を知らぬおぼこではないが、"ravissante"(うっとりするほど美しい)とは言われたことがないドミニク、自分とは無縁のことのようにうっちゃっておこうとするがどこか気になる。3日後の2度めのデートで、男はパリに会社を設立するために奔走していると言い、近い将来そのトップとしてパリで暮らすことになる、と。田舎娘のドミニクには一度も足を踏み入れたことのないパリなど遠い世界だったが、特段憧れもあったわけではない。田舎の誘惑者によくあるホラっぽい「パリに連れていってやる」の類かと思いきや、その設立予定の会社が彼女が勤めるテラージュ社のパリ支社であると知り、信用していい話かも、と。これらすべてが壮大なるクロードの復讐計画の緻密に計算されたディテールであった、というのがわかるのは小説終盤のことだがそれはそれ。パリやら企業トップやら「本物の恋」やらが自分とは無縁のものと決めつけていたドミニクを少しずつ揺さぶっていくクロード。その決定打が、なんとシャンゼリゼの香水店で買ってきたお土産の「シャネルの5番」なんですぜ。どこの田舎でこんな古典&古典、俗悪ですらある女騙し道具にひっかかる女があるものか、と思うでしょうが、ノトンブの描写は違う。この香りの陶酔を一切の揶揄皮肉なく、見事に描くパッセージ、素晴らしい。このシャネル5の魔法は本物なのである。This magic is true.
 小説全体で現代ブルジョワ社会の象徴として(ブランドとしての)シャネルと、(実生活でノトンブが紅茶代わりに飲んでいるという)シャンパーニュのドーツ(Deutz)が随所に登場します。この辺のエレガンスを悪びれずに称賛的に書いてしまうノトンブですが、堂々としたものだなあと思いますよ。
 さてドミニクとクロードは結婚して、パリ右岸エチエンヌ・マルセル通りに居を構えます。庶民的なレ・アール地区なんですが、これをクロードは人に言う時は「ヴィクトワール広場近く」と言うようにドミニクに強調します。その方がシック(原文のまま chic)に聞こえるから。クロードは何かにつけてこのアッパークラスへのこだわりがあります。テラージュ・パリ支社は最初環状線の外のサン=トゥーアンに社屋を構えますが、商才に長けた若きビジネスマン、クロードの手腕でぐんぐん成長し、パリ市内バティニョール地区に移転して大社屋になります。とにかくパリのアッパークラスに食い込もうという上昇志向です。そして住居も庶民的パリ右岸から、シックなパリ左岸7区ブルゴーニュ通りに引っ越していく。この時はドミニクに「ブルゴーニュ通りに住んでいる」ということを強調するように言うのです。絵に描いたようなブルジョワ志向ですが、ブルターニュからパリ右岸そしてパリ左岸という道程にノトンブはスタンダール小説的な立身出世ストーリー性を重ねるわけですね。言うまでもなくノトンブはベルギーの人ですから、今のようなパリ左岸人になるまでにさまざまな道程を越えてきたという自身のストーリーもあるようです。
 ずっと子供を望んでいて(しかも3人も欲しかった)そのためには毎晩でも性交するクロードの願いはなかなか叶わず、やっと4年目の1974年9月、ドミニクが死ぬほど苦しんだ挙句に女児を出産。上で述べたように、名前はエピセーヌ。しかし待望かなったはずなのに、クロードは生まれたとたんにこの子を激しく憎悪してしまう。これも小説の終盤でクロードから述懐されることなんですが、一目見たとたん、この子は自分に似すぎていると悟ったからなのです。クロードの壮大で綿密な復讐計画の唯一の失敗がこのエピセーヌの誕生であった。そんなことも知らず、子供はドミニクの愛を一身に受けてすくすく育っていきます。物心つくと自分は父親から愛されていない、と言うよりははっきりと嫌われている、ということがわかってしまう。この嫌う父と嫌われる娘の間に立たされるドミニクは、娘をかばいながらも夫を咎めることができない、弱くて薄い存在なのです。なぜならどんなことがあっても1970年のシャネルの5番以来、クロードはドミニクの「生涯の男」であり続けていたのです。サイテーなのは(これも後年のクロードの述懐からですが)クロードは弱くて薄いゆえにドミニクをほぼ完璧に操作することができたということです。終盤の終盤では「存在すらしない女」と言ってしまいます。それはそれ。
 この小説のすごいところは、クロードという怪人物を父としてそれから徹底的に忌み嫌われる娘エピセーヌが、その憎悪において父を凌駕してしまう、つまり父が娘を嫌う数倍の憎悪でもって娘が父を嫌い、10歳のみそらでいつか父を殺してやると心に決めるのです。そのいつかは長い時の末であることはわかっている。この執念深さこそ、クロードとエピセーヌに共通するものであり、クロードからエピセーヌへのDNAであると言えるのですね。
 エチエンヌ・マルセル通りで幼い日々を過ごすエピセーヌにはたったひとりの親友サミアがいました。大家族で、兄弟姉妹がたくさんいて、いつも美味なミントティーを作ってくれる母親、エピセーヌを見ると頬ずりして抱きしめ「ここはおまえの家だから」と言ってくれる父親、エピセーヌの三人家族とは全く対照的な世界です。ノトンブには珍しく社会格差やレイシズムの問題が登場します。切っても切れない親友同士となってもバックボーンの違う二人は引き裂かれます。クリッシェではありますが、ある日、サミアからの電話をたまたま居合わせた父クロードが取ってしまい、こういう黒々とした悪意丸出しのセリフが飛び出します。
「アロー? きみがサミアだね、モロッコ人アラブよろず屋の娘だろう... なんだってきみの父親はアラブよろず屋じゃないって? フランスでアラブよろず屋じゃないモロッコ人なんて存在するのか? 待ちたまえ、娘が目の前にいるから代わるよ...」 
この直後、エピセーヌはサミアから絶交を言い渡されるのです。サイテーっしょ。この日エピセーヌは心の日記にこう記します「1985年11月19日はわたしが死んだ日。享年11歳。」
 この日からエピセーヌは深海魚と化すのです。より正確にはあの古代魚シーラカンスに。生態環境が種に適さなくなった時、次にその環境が再び適したものに戻ってくるまで、この魚は死のような眠りの潜伏期に入れる。エピセーヌは深々と仮死期に入り、寡黙な成績抜群優等生として、パリ左岸5区のブルジョワコレージュ(中学校)に進みます。
 小説はここからにわかにドミニクが前面に出てきます。あとで思えばクロードの仕掛けであったわけですが、娘と父の問題、会社の急成長、そんな中で外野に置かれていたような疎外感を持っていたドミニクに魔法をかけたのがまたシャネルでした。好きなだけシャネルのウェアを買ってやり、外食に連れ出し、それまで顔を出させなかったブルジョワ交流にも顔を出させ、華のある世界にドミニクの場を作ってやったのです。ドミニクは最愛のクロードの愛が帰ってきたと、15年前のシャネル5の陶酔を思い出すのです。こうして美しいブルジョワ夫人と変身したドミニクに、クロードは相談を持ちかけます。会社で絶対に取引を成功させたい相手がいるが、キーパーソンのクレリー氏がフランス第二の電機会社の重役かつ大富豪家御曹司ゆえ、なかなか近寄れない。その人物と同じゴルフクラブやジムなどに登録して近づこうとしたが顔を合わせることもできない。聞けば、その御仁は三人の娘がいて、うち二人はエピセーヌと同じコレージュに通っているそうだ...。ここでドミニクはひらめき、その夫人とコレージュのPTA会合の機会に接近してみる、と言うのです。愛の戻ったクロードからのミッションを与えられ、水を得た魚のように社交スパイと変身したドミニクは、その道に自分でも気づかなかった新能力を発揮します。しかし時間はかかりました。2年越しでそのクレリー夫人(その名をレンヌ Reine すなわち女王と言う)と知り合い、親しい交際が始まり、友情すら芽生えてしまいます。
クロードはもうひと押し欲しい。超セレクトなクレリー氏のサークルに入るために、クレリー家が時折開催するレセプションに招待されて、公式に対面して話ができるようにしてほしい。ドミニクはその最後の使命をまんまと成功させ、1986年1月26日、クレリー家夜会にドミニクとクロードは現れます。シャンパーニュ・ドーツ・キュヴェ・アムール(右写真)が皆に注がれます。「これこそ世界最高のシャンパーニュですわ!」と感嘆の言葉を、まるで自分の勝利宣言のように叫ぶドミニクでしたが...。
 愛するクロードのために使命を遂行できた喜びで最高に満たされたドミニクでしたが、その最高はサイテーに大転落します。夜会のサロンから、レンヌ・クレリーと夫クロードが忽然と姿を消した。ドミニクはクレリー邸の中を方々探し、奥の間で二人が話し込んでいるのを聞いてしまうのです。
 すべては小説のイントロに戻っていきます。すなわち16年前に破局した男女とはクロードとレンヌであったわけで、クロードは16年かけて、若いレンヌを自分から奪っていった富と権力とパリ・ブルジョワ生活を手に入れ、レンヌを奪い返すという壮大で綿密なリヴェンジを企てたのです。そのためにドミニクを手なずけ、自分の駒として動かしてきたのです。「クレリーと別れて俺と一緒になれ、16年前愛していた男とやり直そう、俺には今やすべてがある」とクロードはレンヌに迫りますが、レンヌは拒否し、リヴェンジは頓挫します。そればかりか、その話をすべてドミニクに聞かれてしまったのです...。

 ここからは14歳の少女エピセーヌがすべてイニシアティヴをとります。ドミニクからすべて事情を知らされ、母娘はドミニクの両親の住むブレストの家に逃げてきます。ほぼ生まれた時から父を憎んでいたエピセーヌはついにわが復讐の時は来た、といともてきぱきとドミニクとクロードの離婚訴訟を手配し、母娘の新生活の準備万端を整えます。動顚したドミニクは何もできないでいるのに、14歳の天才的に頭の良い娘がすべてをしてしまう。これは前述のシーラカンス理論で、11歳から14歳までの仮死状態の時に深海で種の古えの知恵などを学習しまくり、来たるべき再生の時を待つ、ということをエピセーヌもしていたということなのです。すべてに聡明で冷静で論理的であらゆるノウハウを知り尽くしたような14歳になっていたのです。この離婚は妻と夫の離婚だけではない、娘と父の離婚でもある。父の娘への憎しみを娘の父への憎しみが凌駕する。絶対に壊されなかった父と娘のパワー・オブ・バランスを遂に破壊して、娘は解放される。勝利。クロードはすべてを失い姿を消す...。
 その10年後、ガンに冒されほぼ死の床にあったクロードからエピセーヌに電話が来て、24歳の英語教授となったエピセーヌは呼び出しに従ってクロードの病室を訪問します。父の最後の意志の話に立ち会っても、娘が小さい頃に抱いた殺意は一向に消えないのです。執念深さだけが似てしまった父娘の、どちらの執念深さが勝つか...。

 ね?読ませる小説ではありませんか。世にも稀なストーカーであるクロードというキャラクターよりも、弱くて薄いと定められたドミニクという女の浮き沈みが本当によく描かれていると思います。そしてドミニクの一番の恨み言は、この一連のストーリーにおいて結局自分は「当事者」ではなく「第三者」であったということの悔しさなのです。これをエピセーヌは娘の分際で賢者のような言葉で、しかしあなたは彼を愛していたでしょう、愛する者は常になによりも強いのです、
La perssone qui aime est toujours la plus forte
なんて言ってしまうのですよ。 けっ、14歳の小娘に40歳の母親が諭される、これ「チコちゃんに叱られる」ですね。

Amélie Nothomb "Les Prénoms épicènes"
Albin Michel刊 2018年8月22日 160頁 17,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アルバン・ミッシェル社によるプレゼンPVで本作を語るアメリー・ノトンブ。
インタヴュー中、ぐびぐびシャンパーニュを飲んでおる。


(↓)国営TVフランス5の文学番組ラ・グランド・リブレーリー、2008年の放送開始から毎年9月1週目に登場するアメリー・ノトンブ。2018年9月5日放送分。


(↓)記事タイトルに援用した「やめられないとまらない」のCMテーマ(1969年)は『(ルイ・ド・フュネス)サントロペ大混戦』(1964年)の歌"Douliou-Douliou Saint-Tropez"(曲レイモン・ルフェーブル+ポール・モーリア)のパクリだと思う。

2018年8月28日火曜日

アンジェルの店でピエパケを

"Angèle"
「アンジェル」

曲:ルネ・サルヴィル
オリジナルは1932年、アリベールの歌(オペレット・ショー REVUE MARSEILLAISEの中の1曲)
ムッスー・テ&レイ・ジューヴェンの新アルバム "OPERETTE VOL.2"(2018年10月19日フランス発売)の中の1曲。

流れ星のレストラン
あの娘はみんなに好かれる
看板娘さ
あの娘があざやかに
ブイヤベースをさばいて皿に取り分けると
みんな夢中になってしまう
このアンジェルちゃんは宝物さ
旧港の真珠さ
あの娘の目と血の中には
きっと太陽があるのさ
そして心の中は
良い気分でいっぱい

アンジェル、アンジェル
あの娘が給仕すると、まるで羽根が生えているみたい
客たちの真ん中で笑顔で行ったり来たり
そのお国訛りはニンニクと唐辛子のブーケさ
アンジェル、アンジェル
あの娘は気が強くて、一番のべっぴんさ
ちょっとした機知の答えでジジイたちを巻いてしまう
はい、お待ちかねのラヴィオリよ、でもベッド行きはお断りよ

彼女の得意は貝料理
貝をこじ開けるのなんか
名人芸さ
そりゃそうとも、彼女はスタイルがよくて
開けるコツをよく知ってる
歌手たちには舌平目(音符のソ)をどうぞ
床屋にはエイ(髪の分け目)をどうぞ
わたしは陽気な水夫よ、とあの娘は言う
貝をいっぱい採ってくるのよ
でもその仕事は
あんまり自慢できないわね

アンジェル、アンジェル
毎日毎日俺たちは新しい冗談を思いつくよ
ある日イギリス人がピエパケ(マルセイユの名物料理)を彼女に注文して
あからさまに誘惑者のように甘い目で彼女を見つめたんだ
アンジェル、アンジェル
こいつの露骨な流し目に腹を立て、叫んだよ
あたしに旧港がどこにあるか聞くなんていい根性してるよ!
俺も言ったさ、豚よりも礼儀知らずな野郎、それがあんたさ!

そしてある晴れた日 コルニッシュ(海岸を行く絶壁道)のあたりで
恋が芽生えたのさ
岩場の間でね
瞳の色と同じほど青い波の近くで
俺はアンジェルに言った
きみと結婚したいんだ
あの娘は何も答えずに
俺の腕の中に飛び込んできた
そして春の花咲く頃
俺は店の看板に書いたんだ
本日、結婚式のため休業、ってね

アンジェル、アンジェル
天使か悪魔か、俺はあの娘だけを愛してる
ちょっと小馬鹿にしたような何とも言えない雰囲気があるんだ
そのお国訛りはニンニクと唐辛子のブーケさ
アンジェル、アンジェル
あの娘は気が強くて、一番のべっぴんさ
間違いなくあの娘は俺の幸福をその小さな両手の中に収めたのさ
その大きな笑う目であの娘は俺の心の中のすべてをつかまえたのさ


(↓)オリジナル1932年ヴァージョン 訛りがちょっと違う

2018年8月19日日曜日

Too much, Magic Bus

パウロ・コエーリョ『ヒッピー』
Paulo Coelho "Hippie" 

 1億5千万部を売った地球規模の超メガベストセラー『アルケミスト』 (1988年。仏語版1994年。日本語訳1997年)のブラジル人作家パウロ・コエーリョ(1947 - )の最新作です。原語(ポルトガル語)版は2018年3月発売、仏語訳版はその6月に出てフランスの書店ベストセラー1位、すなわちこの夏、フランスのビーチで寝っ転がって最も多く読まれた本ということになります。この種のエンターテインメント系桁違いベストセラー本はル・モンド紙やテレラマ誌などには書評が出ません。「エンタメですから」と切り捨てる硬派な高尚さを私は持ち合わせていないので、かなり夢中で読んでしまいましたけど。もう1回数字出しますが、『アルケミスト』だけでなくその全作品を合わせると世界で2億5千万部も読まれている作家の作品ですよ、普段映画館に行かない人が年に1度観る超ブロックバスター娯楽映画と同じように、年に一冊だけ本を読む人たち向けの超話題エンタメ本と思われたらば、通常の読書人は話題にすること避けますよ。
 ブラジルの良家のボンボンがグレてヒッピーになって、世界放浪、宗教的トリップも含めたさまざまな「ニューエイジ体験」ののちに、ブラジリアン・ロックの旗手的スター、ハウル・セイシャス(Raul Seixas 1945-1989)の作詞家に。その反体制言動でブラジル軍政によって何度か投獄されもしている。いろいろな聖地・秘境での求道体験の末、宗教的にはカトリシズムに限りなく接近していきます。こういうバックボーンで小説作品を書いているので、ヒッピーやニューエイジがリアルタイムで受けていた「異端視」が消えてエコロジー運動などと共にポジティヴな市民権を得て復活する90年代00年代に、優れたストーリーテリングに乗ったわかりやすい「心の旅」が旧ヒッピー世代、旧サイケデリックロック世代を超えたポピュラリティーを得たのだと思います。ああ、「心の旅」とは魅力的な言葉であるなぁ。
 この最新作はコエーリョの自伝的作品で、中心的人物も「パウロ」と名乗る23歳のブラジル出身の青年で三人称で書かれておりますが、作者自身と思っていいです。時代は1970年、ビートルズが解散した年です。つまりヒッピーの最盛期をやや過ぎた頃と言えます。それはビートルズの解散の頃、メンバーがほとんどヒッピーっぽくないな、ということでもわかるかと思います。ご丁寧にも小説のイントロ部分で、ビートルズとマハリシ・ヨギ大尊師との喧嘩別れというエピソード(この部分、向風三郎のフェイスブックのここで紹介しました)を挿入しています。
小説で重要な役を担っているのが、「マジック・バス」という非定期運行の超長距離バスで、始点がロンドンのピカディリー・サーカスとアムステルダムのダム広場で、数十日かけてインドやネパールなどに陸路で向かいます。旅費は安価ですがスクールバスを改造したボロバスです。この実在した超長距離バスにインスパイアされたのがザ・フーの「マジック・バス」(1968年)です。コール&レスポンスの合いの手は "Too much, Magic Bus"と歌ってます。

 このアムステルダム・ダム広場発ネパール・カトマンズ行きのマジック・バスに乗り込む予定の地元オランダの娘カルラは、同乗パートナーの現れるのを待っています。聡明で美しいこの娘は若い身空であらゆることに醒めていて、恋愛も長続きせず、さまざまなドラッグを試してものめりこめず、宗教にも懐疑的なのに、このネパール行きだけは運命的なものを感じている。そして胡散臭いカード占い師から同乗パートナーの出現を予言されるとそれを信じてしまう。Do you belieave in magic ? しかして予言通りに現れたのがブラジルから流れたきたパウロだったのです。
 パウロには前史があり、既にヒッピーとして東欧出身の年上の女性と共に南米の秘境巡りをしていて、とりわけインカ帝国遺跡マチュ・ピチュの太陽の神殿での神秘的な体験にいたく感動し、南米諸国の旅を続けようとしますが、言われのない嫌疑で国境警察に捕らえられ激しい拷問を受けます。ここでパウロの第一の旅は終わり、そのトラウマは警官恐怖症として残ります。合衆国がバックアップしていた南米の諸々の軍政国では、共産主義者とレッテルを貼れば誰でも投獄できた時代です。ヒッピーとは共産勢力による風俗撹乱工作であるという説も南米諸国権力によるヒッピー弾圧の立派な理由になっていました。ブラジルでパスポートを持つこと自体特権だった時代、パウロはそれをフルに使おうとしますが、どこの国境警察も易々とは通しません。しかしめげずにパウロは次なるデスティネーションをヨーロッパにしました。世界中のヒッピーの集結地はヨーロッパでは二つ:ロンドンのピカディリー・サーカスとアムステルダムのダム広場でした。私の認識ではパリのサン・ミッシェル広場も重要集結地だと思ってましたが、前二者の比ではないのかもしれません。ガイドブックはあの頃みんな持ってた『1日5ドルのヨーロッパ』(アーサー・フロンマー著、1963年)。
 カルラとパウロの出会いにおいて対照的なのは、パウロは軍政下で身動きが取れなくなっている南米を逃れてやっと自由のあるヨーロッパへやってきたと思っているのに、カルラはそのヨーロッパはもう終わっているという倦怠感が支配的なのです。アムステルダムは西欧の中でもその飾り窓やコーヒーショップで 風俗やライフスタイルにおいては「先端」で、ヒッピーによる元教会の建物の自主管理といった建設的なコミューンもある。カルラは着いたばかりのパウロをアムステルダムを案内しながら、パウロがどんな風に反応するかを注視している。ハレ・クリシュナ寺院の一団に合流して往来を踊り回るパウロ、麻薬中毒者たちのコミューンに潜り込みジャーナリストを装ってジャンキーにその体験をインタヴューするパウロ...。だが目の前にいる聡明な美少女が、それらに悲観的な見方をすることもなんとなくわかってくる。その彼女は新しい体験を求めてネパールに行くという。冷めているパッションの最後の灯火のような賭け方。ここでどうして彼女が道連れを必要としているのかは、小説の終盤にならないとわかってこない。そのおぼろげだった道連れ願望は、彼女が知ったつもりでいて知らなかった「恋」「愛」の髄の部分として旅の長い時間の中で獲得されていくものだから。
 ヒッピーについて言われるクリッシェあるいは典型的先入観のひとつに自由恋愛、もろな表現ではフリーセックスということがあるんですが、このパウロとカルラにおいては同じバスで旅をし、同じひとつ部屋で寝るようになっても、性関係はかなり旅が進んでからになります。カルラにしてもパウロにしても求道者のアチチュードがあり、特にカルラにはまったくスキなしという感じなのですね。硬派のヒッピーと言いましょうか。このマジックバスに乗り合わせた旅人たちは、麻薬目当てに乗車した未成年の家出少女ふたりを除いて、一様に硬派の人々ばかりです。
  (→)これはパウロ・コエーリョの(現在の)妻であるクリスティーナ・オイティシカが描いた小説の中のマジックバスの旅程マップです。オランダから西ドイツ、オーストリアを経て共産圏東欧に入りギリシャからトルコへ。そしてイラン、アフガニスタン、北インドからネパールに至る数週間の行程です。
 バラしてしまいますが、小説はイスタンブール止まりです。ここが自伝的小説の所以で、パウロはイスタンブールでこの旅で得られうる究極と出会ってしまい、パウロに究極の恋を見出してしまったカルラとも惜しげなく別れ、旅を続けるバスを見送りイスタンブールに居残るのです。女は恋を見つけ、男は精神を見つけた、みたいな構図です。これで結末とはあんまりじゃないか、と思う読者多いと思いますよ。
 しかし旅は魅力的なエピソードがあふれています。旅を共にした人たちも魅力的な硬派ヒッピーばかりです。まずマジック・バスの運転手マイケルは、スコットランド出身で医科大学卒、両親から医大卒業記念にもらったフォルクスワーゲンでアフリカに上陸、難民キャンプでボランティア医師として働きながら南下し、南アフリカに至る。人道活動の別の道を求めてマジック・バス運転手に転身した、困難な土地の道ばかりを経験してきた硬派のヒューマニスト。アイルランドの小さな町で中企業事業者の跡取りとしておさまるはずだったライアンは、世界のどこも知らないのに初めて行ってみたネパールに魅せられて人生が変わり、それを信じない新妻のミルテにネパールを一目見せようと夫婦で初めての大旅行にマジックバスを選んだ。ネパールには「パラレル・リアリティー」があるという論の持ち主。そしてフランスの有名化粧品会社の重役だったジャックは、その仕事熱心ゆえに妻に別れられるが、それでも仕事と十分な報酬とりっぱに育った娘マリーだけで満足だった。あと数年で定年という時に、仕事の接待で行った馴染みの高級レストランで牡蠣を食べながら突然発症したアレルギーでショック死しそうになる。より正確には死を垣間見た。そこで人間が変わってしまい、折しも68年5月(パリ5月革命)で活動家だったマリー(当然その時まで父は良い目で見ていなかった)に、世界を教えてくれと逆に乞うのである。そしてジャックは身分も外聞を捨てて、新しい世界と出会いに父娘で貧乏旅行に出たというわけなんです。マリーは密かに国際革命組織から命を受けネパールで反政府組織と合流することになっていたという話もあるのですが、これも旅の途中でどうでもよくなる、というぶっ飛びがあります。
 マジック・バスは中古スクールバスを改造したぼろバスで、快適な居住性など度外視していて、椅子はもちろん固いクッションでリクライニングなし、トランクがないため屋根にギャラリーをつけてそこに荷物や旅行鞄やリュックサックをしばりつけて走ります。ドライバーはマイケルとインド人のラフールの二人ですが、小型宇宙船の船長のようにすべてを決定して乗員に指示を出すのはマイケルです。乗客と運転手の関係ではありません。船長と乗組員のそれです。というのは、この時代、この種の移動は困難を極めるものがあったのです。東欧共産圏に様々な制限があったのは想像できると思いますが、この小説ではそのゾーンに入る前のオーストリアで、ヒッピーを徹底的に忌み嫌う住民たちとぶつかり、食事していたレストランを追い出され、警察から何十キロ離れた地点まで退去するよう命令されます。古いヨーロッパはこのカラフルな旅行者たちを新種のロマたちのように敵視していたのです。21世紀的今日にあっても移動する移民・難民を忌み嫌う古いヨーロッパがあることを見るにつけ、何も変わっていないのです。麻薬を所持しないこと、住民を挑発しないことなど、マイケルは細かく指示を出し、マジック・バスが目的地に着くまでの最善の舵取りをします。
 そしてイスタンブールに着く前にマイケルは、イスラエルによるヨルダン王暗殺未遂事件があり、中東で緊張が高まっているため、それが落ち着くまでイスタンブールに1週間ほど滞在した方がいいと判断します。予期していなかった数日間の滞在ですが、安全な陸路のためには必要だったのです。これを乗客たちはむしろ歓迎して、このヨーロッパとアジアの接点の町を奥深く探索することができたのです。この数日間がこの小説のクライマックスです。パウロはイスラム教神秘主義スーフィズムのセマー(旋回舞踏)に魅了され、旋回を繰り返すことで神と一体化する陶酔の奥義を知りたいと、その場に日参します。そんなものは一朝一夕にわかるものではない、何年もの学習と修行が必要だということはわかっています。だがどうしても知りたい。そこで出会ったフランスの田舎出身の老人、パウロの問いかけに賢者の答えをひとつ、ふたつ...。パウロは連日の老人との問答のすえ、「弟子にしてください」と。その問答の形而上的水準はどうあれ、この弟子入り願いはとても安直に思えますよ。
 同じ頃カルラはフランス娘マリーのLSD体験とつきあいながら、パウロへの恋を確信して「恋する女」となって舞い上げるのです...。

 小説としてはどうなんだろうか。なにか大スター主演の高級エンターテインメント映画のシナリオを読んでいるような。ただ、カルラとパウロというパーソナリティーに厚さはあまりありません。求道の旅を二人でしていて、どちらも何か最重要のものを見たところで、それぞれの道に別れていく。ベストセラー的に美しいストーリーなのかな。チープだとは言いませんが。
 1960年代のある時、私たちが長い間信じていた人類の未来が、社会主義/共産主義ではなくなってしまったのですよ。代わりってそう簡単にないんですよ。戦争と経済利権競争と個人主義だけが新聞のトップだった時代、愛と平和と精神性(スピリチュアリティー)はどれだけありがたいものだったか。ヴァニラ・ファッジ、グレートフル・デッド、ピンク・フロイド、ドノヴァン、ビートルズ... 私たちはそんな音楽を聴きながら、「トリップ」の自由を味わった。そういう時代に、私たちのそれは「個的なトリップ」だったけれど、実際に群れとなって旅していた人たちがいたのである。それがヒッピーだった。この本はほとんどの人たちが忘れかけている、あの時代の記憶を呼び戻してくれます。小説のクオリティーに留保する点はあっても、ヒッピーとは何であったかを伝える点において、この本は十分に読まれる価値があるのだと思いますよ。

Paulo Coelho "Hippie"
Flammarion 刊 2018年6月 320頁 19ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)プロモーションヴィデオ


 

2018年8月9日木曜日

DNAの痛み

Tal "Juste un rêve"
タル『ただの夢』

ル(Tal)というファーストネームはヘブライ語で"朝露"を意味するのだそう。きれいですねぇ。したタル朝露、なあんて地口ったりしたくなるじゃないですか。タル・ベニエズリ(Tal Benyezri)は1989年12月12日、イスラエル生まれ、父と兄が作曲家、母親がセム・アザール(Sem Azar)というステージネームでちょっと知られたオフラ・ハザ系の”ワールドミュージック”歌手です。すなわち、音楽一家に生まれたわけで、生まれながらにしてタルの体には音楽家の血が流れていたということなんですな。これを本記事のテーマに即して21世紀的に表現すると、音楽家のDNAを受け継いだということです。また他のDNAということではイスラエル、ユダヤに加えてイエメン系とモロッコ系のルーツもあるのだそうです。こういうこと言うと「あのコブシ回しは R&B系じゃなくて砂漠系だよな」と知ったような口を叩く輩が出てきますよね。私、はっきり言いますが、歌唱はDNAで決定されるもんじゃないです。音楽の心もまた然り。
 さてタルが1歳の時、一家はイスラエルからフランスに移住してきます。歌唱のレッスンを受け、ピアノとギターを独学でマスターし、16歳で某シンガー・ソングライターと恋仲になり、そこからプロの芸能界に入るきっかけを掴みます。2009年 Sony Musicと契約できたんですが、ちゃんとしたデビューをさせてもらえません(この件、ずいぶんと根に持ってるようです)。2011年 Warnerに移籍して、そこからデビューシングル "On avance"(12万枚)、2012年3月リリースのファーストアルバム "Le Droit de rêver"(45万枚)と凄まじい成功でスターダムに昇りつめます。フランス語で歌い、本物っぽいR&B歌唱ができて、見栄えも良く、それなりに魅力的な声質の女性シンガーですから、成功は全然不思議はないですが、世界のどこにもあるローカル版ビヨンセ(あるいはリアーナ、アリシア・キーズ...)と言われても、まあ遠くはないんじゃないか。毎夏ラジオNRJで次から次に現れるような。純粋にヴァリエテ領域の。何を言おうとしてるのかと言うと、私たちが注目するのがはばかられる音楽の大変なスターであるということなんです。だからこれまで1枚もアルバム持ってませんし、そのヒット曲もほとんど知りませんでした。
 2018年7月のある日、サッカーW杯のレ・ブルー優勝の興奮で世の中が沸いていた頃、娘が車を運転する時しか聞くことのないラジオ、ヨーロッパ最大の音楽ラジオ網であるNRJから「私はDNAの痛みを感じている」という歌が流れてきたのです。タルの4枚目のアルバム "Just un rêve”(2018年6月8日リリース)の最初の強力シングルはモロにW杯効果をあてこんだ"Mondial"(ソプラノ君との共作)だったんですが、そこそこヒットしたものの、W杯が終わったとたんラジオのローテーションから消え、この「デオキシリボ核酸」(仏語で acide désoxyribonucléique、略称ADN)という曲が新シングルとしてガンガン鳴り始めたというわけです。
J'ai mal à l'âme, mal à l'ADN
私は心の芯が痛い、DNAが痛い
こういうリフレインなんです。 どういう歌かと言うと、タルのプライベートストーリーに基づくものなんです。上に書いたようにタルが1歳の時一家はイスラエルからフランスに移住してきます。しかししばらくして父親と母親はうまく行かず離婚し、父はタルの兄(長男)を連れてイスラエルに帰ってしまう。母親とタルは苦労に苦労を重ね女二人でそれぞれの音楽アーチストの道を全うするんですが、タルは父の不在というのがずっと心の傷になっている。私の心の中で父の遺伝子がチクチク痛む... まあ、そんな歌です。
あなたはもういない
うぶな歳頃に私は虚無を覚えた
ママンが出て行くのを見た朝
女だけでなんとかしなければならなかった
もう以前のようにはいかない
でも私は私の道を貫いた
私の夢に従って

私は心の奥でDNAの痛みを感じる
でもあなたが戻ってくるために
私はどうすればいいの?
時折私は苦しみを抑える
苦しみを抑える
私の心の奥でDNAが病んでいる
私はどうすればいいの?
私の心は隔離室の中
DNAが痛い

愛なんて行ったり来たりするもの、それは知ってるわ
人々の愛は長続きしない
でも父親の愛って
遺伝子の中にあるものなの?
そうなのね、きっと
あなたの不在が私にのしかかる
でも私は私の道を貫いた
私の夢に従って

私は心の奥でDNAの痛みを感じる
でもあなたが戻ってくるために
私はどうすればいいの?
時折私は苦しみを抑える
苦しみを抑える
私の心の奥でDNAが病んでいる
私はどうすればいいの?
私の心は隔離室の中
DNAが痛い

 昔はこれを「血」という言葉で表現していたと思うんですが。 蛙の子は蛙、みたいな血縁因果だったんですよ。それが今や何か科学的根拠であるかのように、突出した才能の親から生まれた子供の才能をDNAで説明するんですよ。これは金持ちの子供は金持ちになる、貧乏の子供は貧乏になる、労働者の子供は労働者になる、農民の子供は農民になる etc と同じほど、全く根拠のない因果論です。
 そしてDNAは壊れるものだ、ということを知っていますか? DNAはエラーを冒し異常をきたすことがあるんですよ。
 ここからは非常に個人的なことです。私がこの6月からパリのキュリー研究所(がん専門病院です)で受けている治療というのは、まさにこの壊れたDNAを修復し、拡散を防ごうという実験段階の治療なのです。「がん発症原因の大半はDNAの複製エラー」(詳しくはリンクをクリックしてみてください)です。もうかれこれ1ヶ月半、この新療法の臨床実験体となっていて、毎週このDNAに作用する治療液を点滴されています。この私の体の中で起こっているセンセーションがまさに「DNAが痛んでいる」「DNAが病んでいる」なのです。
J'ai mal à l'âme, mal à l'ADN
私は心の芯が痛い、DNAが痛い
私はタルという女性歌手には特別な思い入れは何もありませんし、この曲にしても格段優れた楽曲だとは思いません。しかし、このダイレクトなリフレインのおかげで、これは私の「2018年夏の歌」になってしまったのです。毎回泣きそうになりますよ。

 アルバム紹介のような記事にしようと思ったんですが、他の曲はどうでもいい感じなので、この辺で。

<<< トラックリスト >>>
1. Carpe Diem
2. ADN
3. Mondial
4. Madame Officiel
5. Jumbo
6. Juste un rêve
7. War (feat. Wyclef Jean)
8. Comme un samedi soir
9. L'amour me donne des ailes
10. Not so serious

TAL "JUSTE UN REVE"
Warner France CD 90295664022
フランスでのリリース:2018年6月8日 

(↓)"ADN" acoustic version

2018年7月20日金曜日

Merci les Bleus !

フランス人になった娘へ、きみたちは美しい

23年前に日本で生まれた娘は、22歳でフランス人になった。申請書類を提出して約1年半待たされ、審査官の面接も2度受けた。オランド時代の末期だった。マリーヌ・ル・ペンが大統領になったらほとんど困難になるから、今のうちに、と急かしたのは私だった。この選択はごく自然なものだと思っている。娘はこの地で育ち、この地に溶け込んで、この地と喜怒哀楽を共有し、この先もこの地あるいはヨーロッパで生きていく。自然な流れだ。国籍がないことでぶつかる様々な壁のことは、移民で外国人の端くれである私も知っているが、社会に出つつあった娘には深刻なものがあった。官報(ジュルナル・オフィシエル)上で(国籍取得者として)娘の名が載った時、私たちの小さな3人家族は盛大に祝った。おめでとう、ノートル・プティット・フランセーズ。
そんな時期とぶつかって、2015年夏、私は発病して手術を受け、一旦落ち着いたものの、2016年11月に再発して長い(いつまでという期限はない。短い場合もあるらしい)闘病生活に入った。医師の厳命で21年続けた自営の会社を閉鎖し、満納前に(驚くほど低額の)年金受給者になった。それでもフランスの社会保険による医療制度は入院費も含めて全額無料、おまけに2018年6月から受けているキュリー研究所(パリ本部)の治療は世界最先端の遺伝子標的の実験治療であり(私が世界で37番目の臨床実験例だそう)、私のような貧乏な外国人の端くれにここまでしてくれるとは、と本当に頭の下がる思いである。
誰も好きこのんで病気になる者はいないが、00年代からの長い音楽業界危機を臥薪嘗胆でしのいで、アナログレコード復調でやっとトンネルを抜けだせるかと思っていた(実際2015-16年度は黒字転化)矢先に仕事をやめざるをえなくなったのはアンラッキーと悔やんでいる。低収入期(無収入期も含む)が10年ほど続いたので、「これから」だったのだが、長いつきあいの奥様は「あんたはお金と縁がない」とはじめからあきらめていたようだ。今、一番心残りなのは、娘に残してやれるものが何もない、ということ。「おとうさんは好きなことだけして生きてきたんだから、それでいいじゃない」と娘に言われると、おいおい、まだ殺すな、と言いたくなる。
好きなことだけして生きてきたわけではないが、「人に頭を下げて仕事したくない」というわがままだけはどうしようもなく、仕事はいろいろと転職したが、娘の誕生が引き金になって独立して自営業者になった。そして成功という字を見ることなく会社は閉じたが、仕事は好きだった。特にアーチストや制作者たちと一緒になって、クリエーションやムーヴメントに立ち会ってその証人となり、それが正当な評価を得られるよう手助けしてやる、それは往々にしてお金になることではないのだが。私はフランスの音楽が好きだったのではない。この地で生まれる音楽が好きだったのである。同じことではない。訛りがあったり、混じり気があったり。告発だったり嘆きだったりするのに、しっかりダンスに誘い込んでしまう音楽、民と共鳴し共有するもの、よく言われる言葉だけれど、グルーヴやヴァイブレーションというものを私はこの地でよく感じるようになったのだと思う。もともと文学系の人間なので、ダンスは全然ダメだったのに、だ。
大学を卒業して就職した小さな会社がパリに転勤させてやるというのでやってきた1979年夏、時の大統領はジスカール=デスタンだった。1年経ったら日本に帰るから、もう1年経ったら日本に帰るから、と両親を騙し続け、職を転々と移り、最初の奥様に愛想を尽かされ、給料の大半はレコード買いに消えていった。渡仏10年でレコード業界で仕事するようになり、そのままそのプロになっていった。ラジオ・ノヴァを聞き、アクチュエル誌とリベラシオン紙を下敷きにしてライターまがいの仕事もするようになった。「ワールド・ミュージック」なる非英米系大衆音楽の浮上は、ミッテラン時代(1981 - 1995)のポジティヴな遺産の一つである。私はそれにうまく乗ったのかもしれない。
私はミッテランが大統領だった14年間をよく知っている。私が26歳から40歳になる14年間だった。人生で最も音楽を聴いていた時期だったし、フランスで聴かれた音楽が最もポジティヴで楽観的だった時代かもしれない。そのことを最新の電子音楽誌「エリス」のフランス・ギャル記事で書いた。私の好きだったフランスがあるとすれば、まさにこの時期だったと言えよう。
フランスは激しいところだ。革命があった土地柄かもしれない。ある日を境に昨日と今日がまるっきり変わってしまうことがある。私の知る最初のその日が、81年5月8日のミッテラン大統領誕生の日だった。FM電波が解放され、同性愛が刑法条項から消え、死刑が廃止される。だが、昨日と違うフランスが始まったという希望の時期は長続きしない。フランス人はいつも不平は大声で言う。広場や通りは不平の声をマキシマムに増幅できる。通りに出よう、広場に集まろう、私は不平を言う人たちが好きだ。私はカフェのカウンターで大声で言い合う人たちが好きだ。
1998年7月12日、フランスで主催されたサッカーW杯でジネディン・ジダンのフランスチーム(レ・ブルー)が決勝でブラジルを破って初めて世界一の座についた。隣国であるイタリア、スペイン、イギリスに比べればその宗教的と言えるほどの熱狂度もなく、プロチームの天文学的数字の予算もなく、どこか欧州内のBクラス的な見方をされていたフランス・チームが、国内の十分な期待も得られていない状態(特にフランス最大手のスポーツ新聞 L’Equipe紙のエーメ・ジャケ監督批判)で大会に臨み、下馬評に反して一戦一戦劇的に勝ち進み、民衆の心を鷲掴みにしていった。ジダン、バルテス、アンリ、ブラン、ドサイ、デュガリ、チュラム…。このチームを構成する選手たちのルーツの多彩さから、フランス国旗三色旗 Bleu Blanc Rouge(ブルー・ブラン・ルージュ:青白赤)をもじって Black Blanc Beur(ブラック・ブラン・ブール:黒人・白人・アラブ人)と称されたが、これには揶揄的ニュアンスなどない。フランスの保守的で封建的な考えを持った人々が認めたくなかった複数民族・複数文化が共存して溶け合う社会が、スポーツの世界で実現し、それがチームとして世界チャンピオンとなったことを高らかに宣言する新しい三色なのだから。そのトップとして国民的ヒーローとなったのが、ジネディン・ジダンという名のアルジェリア系移民の子だったのだから。
このジダンの「ブラック・ブラン・ブール」フランスチームは2000年の欧州選手権も制した。郊外の子たちの熱狂を想像できるだろうか。この「勝つフランス」は郊外のフランスが作ったのだから。地方から出てきた労働者、アルジェリア戦争後のマグレブ引揚者、70年に人手不足解消政策で連れてこられた海外県出身者、南欧や東欧出身者、フランス語圏アフリカ出身者、インドシナ半島出身者…。これらの子供たちは、私の娘と同じように、フランス語を徹底的に叩き込まれ、フランス革命や民主主義や人権宣言の精神を学び、努力によって得られる機会均等の成功のチャンスを説かれた。ところがこの最後だけは全く当てにならないとすぐにわかってしまう郊外の現実が子供たちを挫いてきた。肌の色の違い、宗教の違い、出自の違いがあらゆる成功の道を閉ざしていた。ジダンのフランスチームはその壁に大きな風穴を開けてくれたのだ。世界一のチームはこの子たちの希望であり手本であり手が届く現実であった。

このマルチカラーなフランスの夢は長続きしない。第一の大きな影は2001年9月11日ワールド・トレード・センターのテロ事件だった。「イスラム脅威論」の台頭。2002年4月22日フランス大統領選挙第一次投票の結果、極右フロン・ナシオナル党のジャン=マリー・ル・ペンが得票2位で決選投票進出。移民排斥党が支持政党順位第2位へ。
2007年5月6日保守強硬派ニコラ・サルコジが新大統領になり、「移民・融和・国民資格・連帯開発省 Ministère de l’Immigration, de l’Intégration, de l’Identité nationale et du Développement solidaire」なる長い名前の省を開設、新たな移民の入国を締め付けるだけでなく、すでに国内にいる外国人及び国籍取得者に「フランス的フランス人」規範を強要する政策を開始。サルコジ治世の5年間(2007-2012)が、私の小さな家族には最も生活しづらい時期だった。サルコジの掲げる”Identité Nationale”(私はこれを”国民資格”と訳しているが、フランス人たる要件、あるべき国民像、国民アイデンティティー、この国に生きることができる資格というものを2007年にはっきりさせよう、という主張)の構想は、バゲットにベレー帽のフランス人と区別して、何世代前に帰化しようが近年に国籍を取得しようがルーツがどこであろうが「XXX系フランス人」をBクラス国民に格下げしようとした。それまで就職採用などで肌の色や宗教や家系オリジンによる偏見選別をやめさせようという法律や監視が強化されきたのに、逆にサルコジはまさにその区別を強調して「モデル」に遠いものを排除する、あるいは強制的に「モデル」に近づけることを画策した。同じ国民の中に(まさに日本語的な)「国民↔︎非国民」の断絶を恣意的に生じさせる。それは「ブラック・ブラン・ブール」のフランスの終焉であり、サルコジとその支持者たちは「ブラック」と「ブール」は「ブラン」ではない、と再定義したのだ。
サルコジの5年間でこの”L’Identité Nationale”構想は成就することはなかった。しかしサルコジ構想は人々を深く分断させ、相互憎悪を増長させていった。これを中途半端なままで終わらせてしまう保守政党の限界に幻滅した人々は極右ポピュリスト党に鞍替えし、その勢力は止まらない。郊外の可能性を封殺したフランス(と西欧)の欺瞞に激怒する人々にインターネットを通じてイスラム原理主義はジハードを説く…。
2012年5月6日夜、サルコジを破って新大統領となったフランソワ・オランドを祝福しに、娘と私はバスチーユ広場に行って人々と束の間の熱狂を共有した。サルコジを落とすための選挙だった。2002年5月のシラク対ル・ペンの決選投票がル・ペンを落とすために心ならずもシラクに投票せざるをえなかった時のように。サルコジよりも「まし」ではなく、サルコジほど悪いわけではないだろう、という消極性。いったん分断され相互憎悪するようになった郊外は一朝一夕に和解するわけはない。
2013年1月、イスラミスト武装勢力に国土を制圧されつつあったマリにオランドは3000人のフランス軍兵士を送り込み、オランドの戦争が始まった。2013年12月中央アフリカ共和国に1600人派兵。2014年9月、イラクにあるイスラム国ダーイッシュの軍事拠点にフランス空軍が初めて爆撃攻撃。以来オランドのフランス軍はイラクとシリアでダーイッシュを標的に計約1000回の空爆を行い、ジハード派戦士2500人を殺害したとル・モンド紙は報じている。だがそのオランドの戦争は、戦場をフランスに引き込んでしまった。
2015年1月7日シャルリー・エブド編集部襲撃(死者12人)、1月8日モンルージュ銃撃戦(死者1人)、1月9日ヴァンセンヌのユダヤ食品店イペル・カシェール籠城(死者4人)、4月19日ヴィルジュイフのカトリック教会襲撃(死者1人)、11月13日サン=ドニのスタッド・ド・フランスとパリ10区と11区の路上、そして11区バタクラン劇場(全部で死者130人うちテロリスト7人、負傷者413人)、そして2016年7月14日ニース、プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の遊歩道)の花火大会見物客めがけてトラックが暴走(死者86人、負傷者434人)....
フランスの人たちは不思議だ。Je suis Charlie、Je suis Bataclan、Je suis Nice…。攻撃されても攻撃されても、われわれは怖くはないと立ち上がり、広場や通りに出て人々と手をつなぎあう。「オランドの戦争のせいだ」と責任を追及する声もないわけではない。しかし恐怖に支配され、自由を失うことを何よりも嫌う。この共和国をつくっているのはわれわれ市民であり、この共和制の理念は市民たちが守る。怖くないと声を出すこと、それが自由が何よりも尊いと思う人たちへの連帯だ。だから私たちの小さな外国人居住者家族はレピュブリック広場に行き、この人たちと一緒に声を上げて歩いた。
戦争当事国であり、非常事態宣言の続いていたフランスはその年観光客の数を激減させた。音楽に携わる者として、「バタクラン」の前と後ではすべてが変わってしまった。バタクランの後ではもう同じように歌うことはできない。多くのアーチストたちがこのテーマで作品を発表した。そしてパリはあるのか?毎日が宴のようなパリの夜はまだあるのか? ー Evidemment, mais pas comme avant (もちろんあるわよ、でも以前のようじゃないわ)と歌ったのは1987年のフランス・ギャルだった(”Evidemment”)。
2016年6月から7月、厳戒態勢の中でフランスはサッカー欧州選手権大会(EURO2016)を挙行した。フランス国内10か所のスタジアムを使って1ヶ月間行われた競技で、ディディエ・デシャン監督率いるフランスチーム(当時FIFA世界ランキング17位)は決勝でクリスチアノ・ロナルドのポルトガルに敗れて2位になった。だが、テロの脅威にさらされた大会がすべて順調に運び。(予想外の)フランスチームの準優勝にフランスの人々はおおいに喜んだものだった。しかし、しかし、その準優勝の1週間後に、ニースのテロは起こり、86人が亡くなり、われわれは再び暗澹たる気持ちに落とし込まれるのである。
2002年にル・ペンを落とすために多くの人たちがしかたなくシラクに投票したように、2017年5月、マリーヌ・ル・ペンを落とすために、ノルマル・シュップ(高等師範校)出の大秀才にして、ロッチルド銀行→大統領府総秘書次官→経済産業大臣の若き(当時38歳)の超エリート、エマニュエル・マクロンに大挙して投票した。貴公子のように振る舞うこの新大統領は、郊外のことなど知ったことではないと言わんばかりに、地方公共団体への交付金を削減し、市町村の運営する各種スポーツクラブの存続を危うくしている。しかし、しかし、その1年後に事情は変わり、全国津々浦々の公営スポーツクラブの充実こそ、この国の未来を支える重要な事業であるとマクロンは気付いたらしい。なぜなら、サッカーフランスチームが世界チャンピオンになったのだから。

2018年6月から7月、私の娘と同じ年頃の若者たち(19歳のキリアン・ンバペに至っては98年W杯優勝時まだ生まれていない)で構成されたフランスチーム(当時FIFA世界ランキング7位)がよく戦ってくれた。それは少し98年チームの勝ち進み方と似ていて、最初は危なげで実力を出し切れていないようなかたさがあり、簡単にボールを取られハラハラするシーンが多かったが、一戦ごとにチームは強くなっていった。不平不満がお家芸のフランス人たちは緒戦の段階では、デシャンの采配がどうのとか、1ゴールも取れないジルーは何しているのかとか、要所要所でミスるグリエズマンは大丈夫なのかとか色々言っていたのだ。だが、大型画面を店に備えつけた街々のカフェは満杯になり、大都市に設けられたファンゾーン(テロ対策のために予約制、厳重な身体&所持品検査、アルコール飲料禁止)はどこも超満員、試合中もさることながら、その勝利の後は長〜い祝宴が続く。歓声とクラクション。私はその期間中に病院に通って治療を受けていて、場合によって1泊から3泊の入院もしていて、病院のどこに行ってもその話ばかり。韓国がドイツを破っては「よくやった!」(?)と褒められ、日本がベルギーに土壇場で逆転負けしては「実に惜しい!」と同情されたり。誰もがコミュニカティヴ。世界はフット。そして何よりもコミュニカティヴなのはフランスの人々の誇らしげな喜び。町々の窓と車のアンテナに飾られる三色旗の数が増えていき、通勤通学にフランスチームのユニフォームを着ていく若者たち(娘も背番号14ブレーズ・マテュイディのユニフォームで職場に行った)、98年勝利の歌グロリア・ゲイナー「恋のサバイバル」がFMや店内放送でヘビロテになり…。準々決勝(対ウルグアイ)、準決勝(対ベルギー)、決勝(対クロアチア)、人々のコミュニカティヴな興奮はクレッションド的に上昇していく。
2018年7月15日モスクワ20時(現地時間、フランスは19時)、わが家のテレビ受像機に向かって家族3人は歓声を上げたし、わがアパルトマンの建物の中庭は叫びと物音が反響したし、通りはあらゆる車のクラクションでものすごいデシベルとなった。ああ、良い瞬間だ。最高だ。絶対に忘れまい。
私はこのすぐ後に向風三郎のフェイスブックのタイムラインにこう書いた。
98年決勝の勝利の瞬間、実況のティエリー・ロラン(1937-2012)がこう言ったのね:
Je crois qu'après avoir vu ça, on peut mourir tranquille.
「これを見た後では、もう安らかに死ねますよ」
Enfin, le plus tard possible, mais on peut.
「できるだけ長生きした後でね、でも安らかに死ねますよ」

ティエリー・ロランはこれを2度見ることなく亡くなったのだけど、わしは今日2度目を見た。
誰にもわからないかもしれないけれど、生きててよかった、と思っている、本当に。これで本当に安らかに死ねると思う。もうちょっと長生きしてからね。
Merci les Bleus !!!!

Merci les Bleus ! この一言に尽きる。テロに打ちのめされたフランスをレ・ブルーが解放してくれた。分断され憎みあっていた人々をレ・ブルーが和解させてくれた。シャルリー・エブドの後、バタクランの後、私がレピュブリック広場で会ったたくさんの顔と、2018年7月15日の夜、私がシャンゼリゼ大通りで会ったたくさんの顔は、たぶん同じ人たちなのだ。だが表情はまるでまるで違う。狂喜し、乱舞し、抱き合い、「チェック」し合い、On est les champions!と連呼し、We are the champions, Seven Nation Army(po po lo po po po po)、そしてラ・マルセイエーズをがなりたてる。誰が呼びかけたわけでもなく、シャンゼリゼが民衆の歓喜に占拠され、凱旋門とエッフェル塔は勝利の色にライトアップされる。酔い痴れて良いのだ。この陶酔は町中に国中に伝染する。
そして98年「ブラック・ブラン・ブール」のように、このレ・ブルーは再び郊外の夢を蘇らせる。とても若い選手たちで構成された2018年レ・ブルー、私たちはこの子たちがどこから出てきたのか知っている。ごく小さい時から地方や郊外の小さなフットボールクラブで練習を重ねていたのだ。私の家から50メートル川上にある公営の小さなスタジアムに練習に来ている子供たちと何ら変わらないのだ。チームに溶け合い才能が引き出されれば、肌の色がどうだろうが、宗教がどうだろうが、貧乏人の子だろうが活躍の場は与えられる。嘘だと思ったっていい。だが現に世界チャンピオンたちは私たちの近いところから出たのだ。93県(パリ北郊外セーヌ・サン・ドニ県。90年代からフランスの「荒れる郊外」の代名詞のように言われる)の小さな町、ボンディーの町営フットボールクラブのコーチだった父親によって同クラブで徹底的に鍛えられたのが少年キリアン・ンバペ。

W杯のレ・ブルー優勝後、日本やアメリカやその他の国で、「フランスらしからぬ」名前の選手の起源ルーツをいちいち調べ上げ、これはフランスチームとは呼べないなどとしたり顔で論じる輩がたくさん出てきた。アフリカの旧フランス植民地から強い選手を金で釣り上げて帰化させて作ったチームであり、フランス帝国主義の植民地収奪の今日的延長である、と。はっきり言う。これらの輩はレイシストである。サルコジと同じほどにレイシストである。なぜならこの輩たちはサルコジと同じように「フランス人たる資格」を肌の色や宗教やルーツによって決定しようとしているのだから。私たちが住んでいるのはそういうところではない。市民たちがテロや恐怖に屈することなく、子供たちが肌の色や宗教やルーツに関係なく自分で自分の道を決定できる共和国成員になるように、ことがあれば広場や通りに出て集まって話し合い連帯する、理想の国でなど全くなく欠点は幾多もあるところだけれど、良い時は激しく良い(例えばW杯優勝時のように)、コミュニカティヴな喜怒哀楽を持ったところだ。若いレ・ブルーの選手たちのように、ンバペ、ポグバ、ウンティティ、マテュイディ、カンテ、ンゾンジ、キンペンベ、グリエズマン、エルナンデスなど「フランスらしからぬ」名前であろうが、フランスを世界チャンピオンに導くパワーになり得る。何しろこの若い人たちがテロに打ちのめされたフランスを解放してくれたのだよ。
私の娘は「フランス人らしからぬ」姓名のまま、「フランス人らしからぬ」アジア人の顔をしてフランス国籍者になった。だが誰にも「おまえはフランス人らしくない」などとは言わせない。娘はこの地で自分の選んだ道を進み、この地の歩みに関わり、この地の嵐にもまれたりもする。レ・ブルーの若者たちと同じように、この地の未来を築いていく者のひとりだ。
私はと言えば、フランス国籍者とならず誇り高い外国人のままだが、この地の音楽と歴史に関わってきた「関係者」のひとりであり、ここにいる市民の端くれである。2018年7月15日、私はここにいることがどれほど幸せかと思った。私は国家や国歌や国旗を愛したことはない。断じて。だが私はこの日、ここにいる人たちの歓喜の震えをもらい、この素晴らしい人たちと共にいることを誇りに思った。レ・ブルーが私をも解放してくれたのだ。私はたぶん少し娘に嫉妬している。

Merci les Bleus, encore et encore !

                                2018年7月19日、パリ、キュリー研究所の病室にて / 對馬敏彦

(↓Huff Post フランスがYouTubeに貼った2018年7月15日夜のシャンゼリゼ光景)


(↓ Vegedream "Ramenez La Coupe")