2019年5月17日金曜日

おかあさんは川へ洗濯に

"Dolor y Gloria"
『苦悩と栄光』

2019年スペイン映画
監督:ペドロ・アルモドバール
主演:アントニオ・バンデラス、アシエル・エツェアンディア、ペネロペ・クルス
2019年カンヌ映画祭(コンペティション)出品作
フランスでの公開:2019年5月17日

 映画のための映画。映画によって救われる映画人の映画。アルモドバールの自伝的要素を大きく含む作品で、自身の化身アントニオ・バンデラスが泣かせる「男」の映画。
 サルバドール(演アントニオ・バンデラス)は長い間映画から遠ざかっている監督で、インスピレーションの枯渇だけでなく、持病と自分では思っている脊髄障害で腰痛・背痛・頭痛・耳鳴り・不眠症に悩まされている。32年前に撮った映画 "Sabor"(味)がリストアされシネマテーク入りし、再評価の気運が高まっているが、当時サルバドール自身はひどく低く評価していたのに今見直すと良い作品だったことが改めてわかってきた。そのシネマテークでの再上映会に合わせて、サルバドールは主演男優だったアルベルト(演アシエル・エツェアンディア)と再会する。32年前はサルバドールはアルベルトの演技が気に入らず、ほとんど喧嘩別れとなっていた二人だったが、旧交はすぐに深まっていく。当時からアルベルトが常習的なジャンキーだったことを知っているサルバドールは、持病の緩和になればと、生まれて初めてアルベルトからヘロインを分けてもらい試してみる。その効果でサルバドールに蘇ってくるのは少年の日の思い出なのである。 
スペインの田舎の貧しくも幸せな母(ペネロペ・クルス)との日々。川で洗濯をする女たち、歌を歌いながら洗濯ものを川辺の灌木の上に干す女たち、このシーン、本当に美しい。この洗濯女ペネロペ・クロスは『戦場を駈ける女(Madame Sans Gêne)』(1961年)の洗濯女ソフィア・ローレンにそっくりだ。
 天才的に早熟で賢く読書好きで、美しい声で歌を歌える子供だったサルバドール(演アシエル・フロレス)は、家に学費の余裕がないので、推薦で入れて学費無料の神学校で学ばせたいという母に逆らい、死んでも神父になどなりたくないと言う。 ある日、聡明博学な少年サルバドールの前に、読み書きを知らない左官職人の(美しい)青年が現れ、手紙の代書をしてくれないか、と言う。少年は今の世の中に読み書きができないのは一生の損だと青年を諭し、マンツーマン授業で読み書きを教えてやろうと言う。年端もいかぬ小僧が大人相手に厳しい教師のような口調と教育法でスペイン語の読み書きを叩き込むのだが、これが少年の「性の目覚め」になるとは...。
 初老のサルバドールは沈痛のつもりで始めたヘロインにいよいよ依存症になっていき、幻覚の中で再会する過去が少しずつ彼を変えていく。創作から遠ざかっていたはずの彼には手をつけられずにいる過去の書きかけがいくつかある。サルバドールの幻覚トリップ中にアルベルトはサルバドールのパソコンの中身を盗み見、保存されていたファイルの中の「アディクシオン」と題されたテクストの美しさに心打たれる。かつては喧嘩別れしたものの、サルバドールの優れた才能には敬服していたアルベルトは、俳優として再起するためにこのテクストが欲しい(独り舞台演劇の台本に使いたい)とサルバドールに迫る。最初は頑なに拒否していたものの、ヘロイン欲しさか、少し上向きかけた創作意欲のゆえか、サルバドールはそのテクストを推敲して手を加え、「このテクストはまさしく俺の告白であり、この作者が俺であることは知られたくない、だから作者として俺の名前を出さないでくれ」という条件でアルベルトに差し出す。
 そしてマドリードの劇場で上演されたこの作者不詳のモノローグ劇「アディクシオン」は、アルベルトの会心の演技で大好評を博す。それは30年前の覆面作者(サルバドール)の創造の泉が溢れ出ていた頃、そのインスピレーションのすべてだった恋人(男)との激烈な愛と苦悩と中毒(アディクシオン)を(メロ)ドラマティックに表現したもので、エモーションは観客席を包み込んでしまう。その観客席の中に、なんと、数年ぶりにブエノスアイレスからたまたま一時帰国していたという30年前のサルバドールの恋人、フェデリコ(演レオナルド・スバラグリア)がいたのである。上演後アルベルトの楽屋に飛び込み、作者に会わせてくれ、と。その夜のうちに、フェデリコはサルバドールの住むマンションのドアを叩き...。↓写真サルバドール(アントニオ・バンデラス)とフェデリコ(レオナルド・スバラグリア)
この映画で間違いなく最も感動的なシーン。30年前に別れの言葉もなく別れた二人が、その後のいきさつ話に花を咲かせ、あっと言う間に夜は過ぎ、抑えていたエモーションは今にも爆発しそうなのにぐっとこらえ、「アルゼンチンに遊びに来いよ/ああ、絶対に行くよ」などとあり得ないとわかっていることを言い合い、30年前にできなかった真の別れのあいさつのように、唇と唇で激しく接吻するのですよ!

 50年前、少年サルバドールがスペイン語の読み書きを教えていた美しい左官職の青年は、夏の暑い日、その持って生まれた絵心で段ボール紙の上に少年の姿を描いていく。サルバドールの家の台所のタイル張りの仕事を終えた青年は、台所の中で大タライに水を入れて裸になって体を洗う。美しい逆三角形の上半身。青年は少年にタオルを持ってきてくれないかと呼び、タオルを持って台所に入っていくと、サルバドールはそのあまりに美しい裸身の衝撃に気を失ってしまう...。その50年前に左官青年が描いた少年サルバドールの肖像画が、マドリードのアマチュア画秀作展に出品されているのを初老サルバドールが見つけてしまう...。

 その他すべての偶然はこの映画の中で、生気を失っていたサルバドールを「生」の側に少しずつ回帰させていく。そしてヘロインを断ち、脊髄の手術を受け、生き返りを決意するのである。再びめぐってきた創造のインスピレーションの導くままに、再び映画を撮るために。映画に救われるために。

 お立ち会い、この映画にはいつものアルモドバールのような奇抜さやズレのある諧謔はありませんよ。自分に正直な自分のことを語っている映画だから。たぶん幾多の映画監督がやったであろう「私は映画だ」タイプの映画と言えるのだろうが、この強烈さはアルモドバールさ、と言っておきましょう。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『苦悩と栄光(仏題 Douleur et Gloire)』 のフランス版予告編。


2019年5月14日火曜日

ボワット(ノワール)生きてんじゃ...

ITO Shiori "La Boîte Noire"
伊藤詩織 『ラ・ボワット・ノワール』
(原題『ブラックボックス』/日本語からの仏訳ジャン=クリストフ・エラリー&アリーヌ・コザ)

著『ブラックボックス』(2017年文藝春秋社)出版から2年後、2019年4月フランス語訳が出ました。著者よりやや若い世代に属するわが娘に読んでもらいたくて買ったのですが、薦める前にまず自分が読まなければ無責任と思い読みました。読み始めたら一気に読めますね。よく構成されているし、谷も山も谷も峡谷も丘もある流れも、ドキュメンタリー映画制作者のセンスを思わせるメリハリ+立体感です。原著は当然日本語読者を想定して書いたでしょうから、こういう(ノンフィクション)本の外国語翻訳だと、日本における付帯状況に関する脚注解説でページがうるさくなるものなのですが、なんとほとんど注釈がありません。これは仏語訳者のたいへんな手腕ではないかしらん。最初からフランス語で書かれたアキ・シマザキの小説群に見られるような文中の時に説明的にすぎる(歴史的状況的)日本背景の記述がありませんが、それがなくても、ここに見えてくるのは紛れもない日本です。
 シマザキの小説のようにその日本には重苦しい公的抑圧(パブリック・プレッシャー)があり、可視不可視にのしかかる性差別や、「普通に生きる」ために不文律のしきたりに従ったり、沈黙したり、逆らわないようにしたり、という古いモラルがあります。伊藤がこの事件を最初に告白する相手は家族(両親と妹)ではない。家族には心配をかけたくない、何事もなかったことにしておきたいというのが最初の反応で、実際に事件の翌日に会うことになっていた妹とは、何事のなかったように会い、お茶とショッピングをするのです。自分が強姦被害者であるのに、そのことで家族に迷惑がかかってはいけない、とまず最初に考えてしまう。「家族に迷惑」って何ですか? 確かに伊藤の生い立ちと経歴も記述されているので、小さい頃から勝気で闊達で、自分の好きなことをやり通すということにおいて、親にそのわがままを許してもらっていたというところはあるでしょう。自分の道を切り拓くために、十代からアメリカやヨーロッパで苦学生をしてきて、一人前になるまで親から学費生活費の援助はもらってきたわけですが、それは親の理解であって、親の迷惑や親への負債ではない。ひとたび成人して社会人になったなら、もう親に迷惑をかけてはいけないという、よく言えば独立心、悪く言えば負債返済心みたいなものが、この伊藤の手記ではとても気になった。この悲劇的事件に両親家族は抗いようもなく巻き込まれていくことになるのだけれど、伊藤の描写では娘の惨事におろおろと狼狽する優しく弱々しい両親と、娘のその後の行動を心底のところで理解できていない両親も登場する。それはしかたない。だがその「極力迷惑をかけたくない」という性向は、伊藤があの事件から闘っていくことになる旧態然とした日本のモラルの重要な一部なのではないのでしょうか。家族に社会に世の中に迷惑をかけたくないという理由で、性暴力被害に泣き寝入りする女性たちのケースのどれだけ多いことだろうか。自分が受けた幾多の言われのない攻撃は、家族にも及んでしまうのだけれど、それはしかたのないことであって迷惑ではない。自分の闘争を一緒に闘ってもらうのだから、両親家族にも。味方なんだから。
 それはそれ。事件は(みなさんご存知のように)2015年、東京、伊藤当時26歳、TBSワシントン支局長だった山口敬之によるレイプドラッグを使った意識のない状態での強姦行為の被害者である伊藤が警察に訴えた結果、山口が「準強姦」事件の容疑者として逮捕される寸前に「上からの支持で」逮捕されず、事件そのものも不起訴となった、というもの。本書はその全容を詳らかにし、被害者である伊藤が逆に追い詰められていくような、言わばカフカ的に不条理な警察捜査の連続、日本における「性犯罪」に関する法制度の前時代で封建的で性差別的な実態、そして国家の上層部からの指示があれば法律など通り越して不正が免罪される現政権の「ユビュ王的独裁国家」的圧力まで暴露している。性犯罪の女性被害者たちが、日本では告訴しても「勝てっこない」ということがシステムとして確立されているような分厚い壁もよく説明されているし、理不尽極まりないことに今年になって連続している「男親による実娘強姦事件」の無罪判決も、本書が解読する現行の(明治以来変わっていない)法制度では抗いようがないものに思えてきます。「抵抗の形跡がない」が「同意の上」に解釈されてしまうということです。
 本書を外国語翻訳で読む人たちはたぶん驚くに違いない「準強姦」なる日本の法規定語があります。フランス語では "quasi-viol(カジ=ヴィオル)"と訳されていて、そのまま仏訳の造語です。「おおよその性暴行」「ほとんどの強姦」という意味になるかと思いますが、それがどういう行為なのかというのは判断できません。また英語では "quasirape"となっていて、これはそのまま読まれれば "almostレイプ”、"semi レイプ"だと解釈されましょう。ご丁寧にも ネット辞書Wiktionary には "quairape"の項があり、こう説明されています。
Simulated rape for example as a type of roleplay.
(例えば役割演技の形式による見せかけの強姦)
つまり、これは強姦/性暴力ではない。演技や見せかけであって強姦とは別物と英語では思われてしまう。 日本語の字面を見ても"準”がつくことによって、本物ではないこと、擬似のこと、という印象を受けます。そこまで至っていないもののような印象です。ところが、これは強姦に変わりがないのです。日本の刑法規定で意味する「準強姦」とは、
女性の心神喪失や抵抗ができないことに乗じて、または暴行・脅迫によらずこれらの状態にして姦淫する罪 (デジタル大辞源)
 のことなのである。正真正銘のレイプ行為なのです。 暴力を伴えば強姦、暴力が介在しなければ準強姦、というこの名称の分け方は被害者が被る身体的精神的打撃に対してあまりにも無神経ではないですか。あなたが受けた強姦は「ソフト」でしたよ、と法律から規定されてしまったような。レイプにハードもソフトも正も準もない。レイプはレイプなのである。
 山口が使用したレイプドラッグによって(この部分は確定的な証拠がない)心神喪失状態にされた伊藤は、山口の宿泊するホテルの部屋に運ばれ、未明にレイプ被害のさなかに意識を取り戻すが、その前夜の寿司屋からそこに至る一部始終の記憶が全くなくなっている。警察はその強姦犯罪捜査において、ホテルなどの密室における事件の犯罪立証の難しさについて「ブラックボックス」という表現をつかったと本書は言っているが、当然その上の意味で、生存者ゼロの飛行機事故の事故原因の重要な手がかりとなる操縦士ヴォイスレコーダー(ブラックボックス)と同じような働きをなすはずのものが、伊藤の失われた記憶のほかにあるはずなのである。寿司屋、タクシー運転手、ホテル従業員、ホテル防犯カメラなど、伊藤の記憶の代わりになる断片を拾い集めてパズルを埋めていく作業は困難を極めるが伊藤は決してあきらめない。ブラックボックスは少しずつ開いていく。ここが本書の表現力の優れたところで、ミステリー的に読者は引き込まれよう。
 だがあえてこの伊藤の書の文学的な重さについて言えば、それは上でも一箇所で形容したように非常に「カフカ的」な日本社会が構造的に「女性」および「性犯罪被害者」を貶めていく、その力学を伊藤が苦悩して格闘して明晰に描写する筆力であり、カフカ的不条理の黒さに読者はきわめて文学的な体験を共有すると思いますよ。その文学的な重さに関しては、北フランスの田舎でゲイと貧困ゆえに虐めぬかれた少年時代を描いて21歳で作家デビューしたエドゥアール・ルイと共通する繊細でありながら自制のきいた(底知れぬ)パワーを思わせました。だから、いつか伊藤が(自伝的であってもいい)フィクションを書く日が来たら、その文学的昇華力は必ずやインパクトの強いものであろうことは間違いないと思いますよ。
 アメリカやヨーロッパの多様なリファレンスを提示できるし、ジャーナリストとして現場体験(コロンビア密林の反政府ゲリラ/麻薬密売地帯などの取材)で培われたのか、この若い女性はかなりのところまで自己防御できる鎧を身につけてはいます。しかし彼女を孤立させてはいけない。ひとりにしてはいけない。日本のカフカ的不条理な社会構造は伊藤ひとりではどうすることもできないものだから。私は娘ほかフランス人の友人たちにこの本を読んでもらうようすすめます。伊藤詩織を応援します。

カストール爺の採点:★★★★★

ITO SHIORI "LA BOITE NOIRE"
Editions Picquier刊 2019年4月 230ページ 19.50ユーロ

( ↓)2019年4月19日、国営テレビFRANCE2の朝番組「テレマタン」で5分にわたって紹介された伊藤詩織の事件とその行動と日本の反響に関するルポルタージュ。たいへん良くできています。


(↓)その1年前、2018年4月、AFPによる1分間ルポルタージュで、日本における "#MeToo"の例として紹介される伊藤。

2019年4月27日土曜日

首尾は上々シュビュテックス

テレビ連ドラ『ヴェルノン・シュビュテックス(シーズン1)』
Série TV "Vernon Subutex - Saison 1"

制作:カナル・プリュス
監督 : カティー・ヴェルネー
主演: ロマン・デュリス、セリーヌ・サレット、フローラ・フィッシュバック
原作:ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス 1 & 2』
テレビ放映:2019年4月9日から35分 x 9回
DVD発売:2019年4月24日 

 ヴィルジニー・デパント作の大河小説『ヴェルノン・シュビュテックス』(2015 - 2017、3巻、総ページ数1200)の第1巻と第2巻を原作としたテレビ連続ドラマで、2019年4月にカナル・プリュスで放映された35分 x 9エピソード = 315分(5時間15分)を2本のDVDにまとめたもの。ワクワクものなので一気に見れます。
 デパントの小説に関しては爺ブログではなく、ラティーナ2015年10月号(1巻と2巻)と同2017年7月号(3巻)に熱い賞賛の紹介記事を書いてますが、一向に日本語版出版の動きはないようで残念なことです。90年代パリのレピュブリック広場近くにあったレコードショップ「リヴォルヴァー」の店主ヴェルノン・シュビュテックス(演ロマン・デュリス)は、21世紀に入ってレコード/CDが売れなくなり店が倒産し、自分のアパルトマンの家賃も払えなくなって、立ち退きを余儀なくされ、路頭に迷うようになる。その追い出された夜に、「リヴォルヴァー」時代の常連で、ヴェルノンから買ったレコードで音楽に開眼してロックアーチストとして成功し、兄弟のような親友関係になっているアレックス・ブリーチ(演アタヤ・モコンジ)のバタクランでのコンサートがあり、VIPインビテとして招待されたヴェルノンは、コンサート後ひとりブリーチ宅に招かれ、二人は旧交を深めながら多量のアルコールとドラッグを摂取する。翌朝ヴェルノンが気づくとブリーチはオーヴァードーズで息絶えている。おぼろげな記憶の中でその夜ブリーチが遺言と称して、携帯ヴィデオカメラとヴェルノンに向かって長々と何かを言っていたのを覚えているが、途中で眠ってしまっている。死亡現場からヴェルノンはブリーチが録画したミニヴィデオカセット3本を持ち出す。
 小説だとここから、この遺言ヴィデオをめぐって大人数による追跡と逃走の大狂騒サスペンスとなっていくわけですが、この(編集して)5時間の完成ドラマで、どこまでそのディテールが込められているかが興味深いところです。小説評で高く評価された「バルザック人間喜劇」的な、ひと時代を共有する多種多様な人間群像(ブルジョワ、貧乏人、ヘテロ、ホモ、トランス、凡人、芸術家、映画人、大学教授、ポルノ俳優、極左、極右、成金トレーダー、ホームレス、 ロックライター、刺青師、硬派イスラム教徒...)は、このテレビ映画ではだいぶ半径が狭まれた感じがします。
複雑な人間模様を単純化して、このテレビ化作品でははっきりした「悪人」はたったひとりです。それはローラン・ドパレ(演ローラン・リュカ)という映画制作会社社長であり、芸能界の大物プロデューサーとして自らの帝国を築き、逆らう者やライヴァルを「消せる」権力がある卑劣漢です。これがブリーチの遺言の中に自分に絶対的に不利な証言が含まれているという確信があり、何が何でもそのヴィデオカセットを奪って消滅させよ、と手を尽くします。その最尖兵として雇われたのが女産業スパイのコードネーム"イエーヌ"(↑写真。ハイエナの意。演セリーヌ・サレット。こっちの方が主役じゃないかと思えるほど重要な役どころ、かつこの事件の全容を知りうる唯ひとりの人物)で、ドパレに高報酬で雇われておきながら、いつでもドパレを裏切ることができそうな不透明さ。
 時は2010年代、シュビュテックスは47歳。「リヴォルヴァー」がロックレコードファンたちの溜まり場として毎夜大盛況だった頃から15〜20年が経過しています。無宿となったヴェルノンがその夜の居候先を探す時、この時代なのでSNS(フェイスブック)が大変重宝になります。ヴェルノンの書き込みに呼応してくれるかつての「リヴォルヴァー」常連がひとり、またひとりと現れてきますが、かつて若かったこの旧友たちも今現在はそれぞれの問題を抱えていて関係の再構築は簡単ではありません。こうしてSNSを頼りに一夜の宿を探していきますが、長続きすることなくヴェルノンは21世紀的パリでホームレスに転落していきます。そこでも新しい人間関係はできていくのですが。
 小説と違って映像ではこのSNSの介在というのが画面としてリアルである分、とても邪魔くさいですね。SNSさえあれば即席に過去関係が再生されるというロジックはないと思いますよ。後半部では逃走するシュビュテックスを追う多くの人物たちが、SNSでその「捜索網」を共有してコネクト数が飛躍的に増加し、シュビュテックス追跡が共有ゲームのような態になってしまいます。
 かの遺言ヴィデオカセットの件は真剣に追っている人の数はごく少ない(ドパレとイエーヌほか)はずなのに、いつの間にか多くの人々がヴェルノンを追いかけるようになるのはどうしてなのか。ヴェルノンはなぜ追われるのか。ここがもっと魔術的なものがあるはずなんですよ。小説ではもっとはっきりしていると思う。それは、みんなヴェルノンという人物に魅せられて、惹かれてしまう、ということなのですよ。この男には何かがあるという何かなのですよ。そこがこのロマン・デュリスという俳優に出せるのか、この作品のカギはここですよね。
 そして小説では見事に文章で表現されていた音楽の力。ヴェルノンが「リヴォルヴァー」の時代に人々を惹き寄せられたのは、彼が毎夜人に聞かせる「おすすめレコード」の魅力のおかげなんです。この店に来れば絶対に素敵な音楽と出会えると思わせるセレクト/選曲/発掘力があったということなんです。ここですよ、デパントが小説で強調していたのは。レコード屋は人に素敵な音楽を与えられるから、自分にだけ「こんな音楽があるんだぜ」と一枚出してくれるから、その音楽で人生が変わることもあるから。そういうレコード屋のマジカル・パワー、ここんところが、このテレビ映画ではすっぱり抜けちゃってるんですね。小説ではこのマジカル・パワーがホームレスとなったヴェルノンに再び宿ってきて、そのミックスする音楽で人々を「ドラッグなしで」究極のトランス状態まで導いていく、それがいわば宗教的な体験として語り継がれ、いつしかヴェルノンはグールーとして崇められていく、という展開になるのです(小説では第2巻終わりから第3巻はじめ。だからこのテレビ映画ではまだその段階ではありません)。
ですから、小説を読んだ人ならば、もっともっと音楽がものを言う映像作品であることを期待したと思うのです。で、入念にセレクトされたと言われる(ヴィルジニー・デパントにもチャックしてもらったと言われる)サントラ盤があります。ジョナサン・リッチマン、ソニック・ユース、ニュー・オーダー、ジーザス&メアリー・チェイン、ドッグス、ダニエル・ダルク、ジャニス・ジョプリン...。実際に映像の中に挿入されるのは、すべて断片ですし、音楽で泣くという映像作品ではありません。ただ「フンイキ」にしちゃってるのがちょっと残念ですし、小説の「音楽の力」は望むべくもないのです。
 アレックス・ブリーチの遺言ヴィデオで聞かれる無機的な発信音のリピートで構成された断片があります。これを死ぬ前にブリーチは最良/極上の繰り返し音であると断言するのですが、即座にヴェルノンはわかりません。ところがこの音を音楽に融合させると、聞く者は奇跡的な快感を感得できるのです。このマジックをヴェルノンは偶然手に入れるのです。これは小説では文章で描写できるでしょうが、実際の音楽(つまりこの映像作品のサントラ)で再現するのは... 不可能ですわね。このテレビ映画にここまでのマジックを要求するのは酷です。しかし、音楽の力はもっともっと丁寧に扱って欲しかったな、と思っています。
 ロマン・デュリス? 掛け値なしに素晴らしい演技です。
  "SAISON 2"(ヴェルノンが聖人となっていきます)おおいに期待しましょう。

SERIE TV "VERNON SUBUTEX  SAISON 1"
2DVD (35min x 9 Episodes)
STUDIOCANAL EDV1392/831848-5   19 EUROS

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)カナル・プリュス『ヴェルノン・シュビュテックス』ティーザー
彼には女も妻も家族もスマホもスタートアップ企業も貯蓄も家屋も別荘もスイス銀行口座も出会い系サイトも電動サイクルもない。だが彼にはこの髪と皮ジャンとロックがある。誰もが彼のとりこになる。世界は変わったが彼は変わらない。 - 俺が死んだら人類は滅亡だ。- 


(↓)カナル・プリュス『ヴェルノン・シュビュテックス』ティーザー (ロングヴァージョン)

2019年4月25日木曜日

ロマン・ノワールと人の言ふ

Philippe Djian "Les Inéquitables"
フィリップ・ジアン『レ・ジネキターブル(公正でない人々)』

quitable(エキターブル=公正な)"という形容詞は、1990年代からフランスでよく聞くようになった「フェアトレード (fair trade、公正取引、commerce équitable)」(途上国の産物が外国大資本の流通戦略によって不当に安価に売買されることを避けるために、生産者を守り尊重する適正価格売買を保証するラベル表示によって消費者に公正取引を知らせ、発展させていくオルタナティヴ商業運動)と関連して、非常にポジティヴなニュアンスで使われていたものです。仲介第三者の不当な利益や搾取を退けて、良心的な生産者と消費者が安全で良質のものを直接的に適正価格でやりとりする。良いことです。ジアン最新作がなぜこのようなタイトルになったのかはよくわからいところがありますが、「取引」とは関係しています。それは麻薬の密売に関することで、小説の中心人物マルクはある朝、海岸に打ち上げられた多量のコカインの包みを発見し、そのうち3キロを誰にも見られることなく持ち帰ります。積んでいた船が沈没したのか、取締捜査に追い詰められて海中に捨てられたものなのか、のちにこの大量麻薬発見のニュースはマスコミで報じられますが、そのうち3キロがなくなったのは誰も知りません。マルクはインターネット上でのギャンブル癖があり、いつも金欠状態なので、この天から降ってきた財宝を売って、大金を得ようとします。そのことを義理の兄のジョエルに相談するのですが、「やばい世界」は正直でジェントルマンな適正取引などあるわけがなく、そこからマルクとジョエルは "流血”も含むさまざまなトラブルに巻き込まれていきます。ここに登場する人物たちは「公正でない人々」と言うよりは「まっとうでない人々」と訳した方がいいかもしれません。
 舞台はフランスのバスク海岸の町ビアリッツで、漁港もヨットハーバーもある、魚介類を日常的に食べていそうな人たちが住んでいるところです。陽光さんさんのリゾート地というだけではなく、気候の厳しい日も多い「地方」であり、小説の中でふんだんに現れるように「麻薬」と「暴力」が環境の一部になっているようなグレーな海浜地区です。町がグレーに不安定な状態になったのは、1年前に死んだ(殺された)パトリックという男によって空いた「ヒーローの不在」現象のせいのようなことを小説は匂わせます。多くの町の人たちに人望があり、誰ひとりとしてこの男を悪く言う者はいない、みんなの「兄貴分」のような人物を想像できますが、小説は詳しいことを一切描写しません。この死のショックから立ち直れない第一の人物がその妻だったディアナ。撃たれたパトリックはそのディアナの腕の中で息を引き取っているのですから。町でその世代では一番の美貌の持ち主で男たちは誰もが憧れたディアナ、しかしそれ以上に完璧に「いい奴」だったパトリック、人々はこのカップルを完全無欠なものとみなしていたし、ディアナはすべての面で幸福であり、パトリックを熱愛していた。が、このヒーローが撃たれて死んだことによって、町の平衡バランスがガタガタに崩れるようなショックがあったのです。
 パトリックの実弟、つまりディアナの義弟のマルクはその日から心身共に弱ったディアナを護衛するためにディアナと同居を始めます。女ひとりで暮らすには不安材料の多すぎる町ということもあります。しかしそれよりももっと不安なのは、ディアナを襲う自殺衝動であり、彼女はこの小説の中で三度自殺未遂を起こしています。マルクの一番の役目はその自殺を未然に喰い止める監視役ということになります。年齢が20歳ほど離れたディアナとマルクの奇妙な同居生活は表面上はうまく機能していますが、マルクにとってもディアナはどこかで「憧れの女性」であることには変わりない。お互いに裸身の見える距離で暮らし、親密な話もし合う関係ながら、ディアナはマルクに「絶対にパトリックの代わりにはなり得ない」とクギを刺しています。マルクでなくても、ディアナにとってはヒーロー・パトリックの代わりになる者はこの世にいないのです。
 ディアナは開業歯科医であり、建物の地階を歯科医院として使い、階上を住居にして今はマルクと同居しています。定職もなく、家ではネット・ギャンブル、外ではひとりで小舟を沖に出して釣りをし、たまにレジャー船修理アトリエを営むジョエル(ディアナの実の兄)の手伝いをしているマルクは33歳のその歳まで性的体験がない。不器用で頑固な若い日々を送ってきたが、パトリックには可愛がられ保護されてきた。大人になれない未成熟なキャラクターだが、これが「ワル」として背伸びをしようとするところがあるんですね。ディアナには「ガキ」として見られたくない。
 そのマルクがひとりで初めて「おおごと」をするチャンスが、前述のコカイン3キロとして転がり込んで来たわけですが、これはひとりでは手に負えない厄介ごとに発展していきます。そしてディアナのボディーガードとして取り巻いていたつもりが、ディアナに横恋慕する町の有力者セルジュ(市長の息子) の気に障り、顔面を殴打され前歯を折ってKO負けしてしまいます。マルクとディアナの事情をあとで知ったセルジュは丁重に詫びを入れ、治療費全額の小切手を送り和解を求めてきます。マルクは心底の和解は絶対にしません。おまけにセルジュはディアナのセフレになった(ディアナは"純粋にセフレ”であり、パトリックの代わりではないとマルクに断言する)と知り、こいつのことは絶対許せんと思うのですが、例の事件でセルジュと協力関係を結ばざるをえなくなります。市長の息子であり、行く行くは次期市長となるべく政治的勢力も伸ばしつつあり、かつ警察とも通じていて情報も入手できるところにあり、若干の権力もあるからです。
 マルクが最も信頼を置いているジョエルは、実の妹であるディアナと険悪な関係にあり(実際はディアナがジョエルを憎悪している一方的嫌悪関係)、ディアナはマルクとジョエルの友好関係を良く思っていない。ジョエルは20歳も若い妻ブリジットと結婚したが、長続きせず離婚寸前の状態で、今は妻のいる自宅に戻らず、自社の事務所に寝泊まりしてアルコールにまみれて生きています。唯一信頼のおける男としてコカインの売り先探しをジョエルに相談したマルクでしたが、「ひとまず俺が預かっておく」がどこでどうバレたのか、ジョエルの自宅が襲撃され、ブリジットはパニックを起こし...。
 小説の不安なトーンはここで、町の全く無軌道で全くコントロール不能で名前のない破壊的な若者たちの存在をほのめかします。この超アナーキーでヴァイオレントな若い衆はどんな手を使ってでも欲するものを手に入れる。オールドスクールのワルには想像もつかないような武器も手段もある。そういうものを敵に回してしまった、というわけです。たまらずジョエルは(コカインのことはバラさずに)町の有力者セルジュに助けを求めます。ここでマルクも不本意ながらセルジュの庇護の下に入るわけです。
 ジョエル同様マルクも襲撃される可能性があるということは、当然ディアナも危険に遭う可能性があるということを察したセルジュは、ディアナのガードマン役のマルクに拳銃を授けます。得体の知れない敵との全面戦争が始まるようなピリピリした空気が町を包みます。

 166ページの比較的短いこの小説で、空気の重さで押しつぶされそうな海岸の町の、男も女も関係の糸をごちゃごちゃに絡ませながら、裏切りも雪解けも殺しも陰謀も...。ジアンの近作に多い、ときどき話者が誰なのかわからなくなる直接話法の文体で、罠も不可解もある緊張の連続の暗黒小説。ジョエルは若き日に、学生だったディアナの親友の女を極端にむごいやり方で強姦したがゆえに、ディアナはジョエルをずっと許せなかった。それを知ったマルクがジョエルと距離を置くようになると、いよいよジョエルは常軌を失い...。小説の中で死体は3つ、ジョエルが殺した女ふたりとマルクが殺したジョエル。
 どういうことと理解されるかと言うと、この悪天候と不穏な空気の町で、ディアナに青二才扱いされていた33歳童貞マルクが、犯罪と裏切りのドラマの数々に打ち勝って、ディアナを守り通すことができてヒーローの高みに昇華していく話なんですね。つまり遂に兄パトリックのレヴェルに達して、ディアナに身を捧げられる男になるっていう...。それにしても黒々とした小説で、フィリップ・ジアンさまさまです。

Philippe Djian "Les Inéquitables"
Gallimard刊 2019年4月 166ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ラジオインタヴューで映像なしですが、民放ラジオRTLのインタヴューで最新作『レ・ジネキターブル』を語るフィリップ・ジアン。


2019年4月24日水曜日

ヴェロ70歳

2019年4月24日、わが最愛のヴェロニク・サンソンが70歳になった。パリジアン紙ウェブ版の当日号に、『70歳まで生きられるなんて思ってなかった(Je ne pensais pas arriver à 70 ans)』と題する70歳インタヴューが。喉頭ガン手術で8ヶ月間の闘病後、この4月にステージ復帰してツアー中(パリ、パレ・デ・スポール他)のヴェロ。後年の満身創痍は若き日の無鉄砲のツケと悟っているよう。その「70年代」の突出した音楽性だけで、この人は多くの人たちの宝物だけれど、焼かれても傷ついてもノートル・ダム聖堂のように立ち続けるつもりらしい。おめでとうヴェロ。Je t'aime pour toujours。
以下パリジアン・インタヴューを無断で全文日本語訳します。

(パリジアン):この水曜日で70歳になりますが、どんなことを思いますか?

ヴェロ「ただごとではないわね。70歳よ! 少女だった頃には超年寄りのように思っていた。自分がここまで来るとは思ってなかったし、今だってどうやってここまで来れたのか自分でもわかっていない。私は心筋梗塞をやったし、頸動脈を切る手術もしたし、血が凝結しない遺伝子系の血液病も持っているし…。私は正真正銘のサバイバーよ。私は生命への感謝の念でいっぱい。人間をより高いところまで至らせてくれるある種の超越したパワーにも感謝しているわ。」

(パリジアン):今から16日前にあなたはステージ活動を再開し、それから既に3度のコンサートを行いましたが、どんな感じですか?

ヴェロ「思ってたよりいいわよ! ステージに立っていると、私には何も近づけないわ。ファンたちと再会できて本当にしあわせ、ステージは「わが家」って感じね。しあわせすぎて一晩に2回のショーやってもいいわ、って思ったほど。私にはそれができるって、みんなに見せたくてたまらないのよ。」

(パリジアン): そのために準備したのでしょう?

ヴェロ「全然! 私は恐ろしいほどの怠け者なのよ。みんな私にスポーツをするようにすすめたのだけど、ウッディー・アレンがうまいこと言ってるわ「スポーツをするくらいなら萎縮した方がまし」ってね。最初のコンサートのあと、筋肉痛なんか全然なかったわよ。」

(パリジアン): そしてあなたの声は元のままでした!

ヴェロ「私は手の指に関しては何の心配もしていないの。手はよく動いてるわ。でも声が言うことを聞かないんじゃないかってどれだけ心配したことか。私は二日間しかリハーサルをしなかったし、毎度のことで「あがり」もあった。でも幸運なことに私の声帯は傷ついていなかったし、私の声に障害はなかった。その上それはうまく手当されていて、私は高音部が出るようにもなったし、ちょっと違う響きも出るようになった。まるで別人の歌手になったような印象よ。」

(パリジアン): あなたの腫瘍は治ったということですか?

ヴェロ「それはわからない。ご存知のように私は極端なまでにさまざまな治療を受けてきたのよ。私はそれを治すために6週間の放射線治療など人がやれと言うことはすべてやった。私は「催眠治療師」にもお願いして、放射線治療の副作用(首に赤あざが残る)を取り除いてもらった。このことは強調しておくべきだと思うけど、パラ医学というのは科学的医学に補完的な役目をするもので、決してイカサマではない。」

(パリジアン): あなたは最近「若き日の放蕩のツケを払わされた」と述懐しましたね。

ヴェロ「そうよ、でもそれはそうなんだから。私は絶対的に制限や禁止やタブーや慣習といったものが全部嫌いだった。私は人がやれと言うことの反対のことばかりしてきた。自分の身を危険に晒してきたのよ、でも私は危険が大好きだった。ガンという病気もひとつの危険であって特別なものじゃない。あなたがたは私のことを狂ってると思うかもしれないけれど、私はそんなものまったく無頓着だったの。私はそれを治すように人から言われたことに従った、何ごともなかったようにね。」

(パリジアン): そうしたのは死への恐怖からですか?

ヴェロ「そうじゃないわ。私が怖いのは死に関わる苦痛や病苦だけなの。喉頭ガンと宣告された時、私の頭の一方では「それは順序通りのことね」と観念したけれど、もう一方ではこう言ってた「いつものように私を救ってくれるものが現れるわよ、アンリみたいな人がね」って。」

(パリジアン): 誰ですか、そのアンリとは?

ヴェロ「私の守護天使よ、彼は一度も私を見捨てたことがない。この守護天使を私は時々は私よりも彼を必要としている人たちに貸し出しもして、それがとってもうまくいくの。アンリは私がオルジュヴァルに住んでた頃に初めて出現した。彼はまったく言葉を離さないけど、私は彼が私と一緒にそこにいるって知っている。ロサンゼルスでは、彼は書棚を倒すことにも成功したのよ(註:ヴェロニク・サンソン史では有名なエピソード。離婚抗争で最悪の関係にあったステファン・スティルスが銃を持ってヴェロニクを追い詰めたが、書棚を倒してバリケードにしてその難を逃れたという実話)。みんなこの話をお笑い種にするし、「あの女完璧にイかれてる」って言う話になるんでしょうけど。でもね、幽霊って存在するものなのよ。」

(パリジアン):そんなことすべてが新しい歌のインスピレーションになるんですね?

ヴェロ「断片的なフレーズやリフレインや言葉の端っこね。興奮状態で書いたらだめね。3日前、私は1曲(詞と曲)書いたのよ。このツアーが終わったら、私はまたアルバムを作って、そしてまたツアー。 Si Dios quiere (神がお望みなら)ね。」

(パリジアン): あなたは神を信じているんですか?

ヴェロ「ええそうよ。でも私は "教会通い”じゃない。私は宗教は好きじゃない。でも仏教は例外かも。仏教はむしろ人生哲学だから。」

(パリジアン): ノートル=ダム大聖堂の火事には衝撃を受けましたか?

ヴェロ「当然でしょう。でもキリスト教徒としてではなく、この例外的な建造物の礼賛者としてね。屋根を組むだけでひとつの森全体の木が必要だなんて、気が遠くなるわ。この火事に心が痛むわ。私は息子クリストファーが小さかった頃よくそこに行ったものだった。それから私の孫娘たちや、外国から来た友人たちともよく行ったわ。もしも歌ってくれと言われてたら(註:4月20日アンヴァリッドでのノートル=ダム救済コンサート)喜んで歌ったでしょうに。」

(パリジアン):あなたの誕生日をステージで祝おうというのはどうして?

ヴェロ「実のところ、息子と姉を例外として、誰かの誕生日のことなんか私は全然覚えてないのよ。人がバースデーカードを送ってくれなかったら、私は自分の誕生日も忘れてると思うわ。でもね、今回のはやったらすごく素敵なんじゃないかって思ったの。私は40歳の時にそのお祝いをして、すごく良かったし、格別だった。今度は70歳よ、もっと格別のはず。私のこと年寄りだと思う?」

(↓)ラジオRMC、2019年4月23日のルポルタージュ。


2019年4月8日月曜日

Laïque a rolling stone

"La Lutte Des Classes"
『学級闘争』

2018年フランス映画
監督:ミッシェル・ルクレール
主演:レイラ・ベクティ、エドゥアール・ベール、ラムジー・ベディア
フランスでの公開:2019年4月3日

リの東隣でひっついている町がバニョレです。「ヌフ・トロワ(93)」と(ある種侮蔑的なニュアンスで)呼ばれるパリ北東郊外のセーヌ・サン・ドニ県に属しています。ヌフ・トロワは90年代頃から「荒れる郊外」の代名詞になっている失業・犯罪・ラップの渦巻く地帯ということで、歌にも映画にもよく描かれました。 そういうヌフ・トロワの中にあって、バニョレ(とその先のモントルイユ)は、ちょっと異種の「ボーダー地帯」のようなところがあり、移民系のエキゾティックなコミュニティーと、エコロでボボ(bourgeois-bohèmeブルジョワ=ボエーム、ちょっと裕福な”進歩的"ババクール)な(白人あるいはミックス)30〜40代夫婦ファミリーが共存して、フリマや異種合同カルナヴァルや共同有機農園で溶け合ったりしてる、そういう新しいソフトな郊外の顔が見えたりするところです。こういうちょっと「新しい快適」が話題になると、とたんに不動産が値上がりしていき、貧乏人たちは駆逐されて「劣悪な」郊外に放出されていくという現象も起こります。
 さてこの映画は、パリ20区のベルヴィル地区(やはり"ボボ”街となって不動産高騰の地になりました)から出て、予算内ギリギリでバニョレで小さな一軒家を購入した「結婚しない」カップルが主人公です。ポール(演エドゥアール・ベール)はかつてはちょっと名の知れたパンク・バンド「アマデウス 77」(実在のバンド Ludwig Von 88 のもじり)のドラマーで、現役で難民ホームレス支援のガード下コンサートなどしているユートピア系反抗中年ですが、基本的に良家のボンボンの風来坊で、前の伴侶との間にハイティーンの反抗的な娘がいます(同居してます)。ソフィア(演レイラ・ベクティ)はマグレブ系の血を引き、弁護士として社会的に成功している(かのように見えても、やはり問題ありというのが映画の途中でわかる)まぶしい女性です。二人の間にはコランタンという小学生の男児がいます。バニョレに引っ越してきて、ボボ的傾向の二人なので、やはりバニョレの中のボボ傾向の友だちが出来て、アペロや食事を共にする関係になりますが、みんな同じような年頃の子供たちがいます。で、みんな「ソフト郊外」的理想を夢見て、学校も人種も宗教も問題にしないライック(教育に宗教を持ち込むことを禁じる)な公立学校で育てようとします。ところが現実は公立だとどんどん学力が低下していき、上の良い学校へ行くのが難しくなるという懸念があり、ボボのようなある程度裕福な人たちには子供たちの将来のために私立学校へ入れるというのはごく自然な考え方です。しかしその辺のボボと一線を画すポールとソフィアの左翼的で反抗的な理想主義は、子供を共和国のライックの学校で育てて成功させる、と方針を変えません。
 映画はその共和国の(つまり公立の)学校の現場を映し出します。騒然とした学級、手に負えない子供たちになすすべを知らない教師...。ボボ親たちの子供たちがどんどん私立に移り、コランタンは孤立していきます。この映画の表現では、コランタンはクラスで最後の「ブラン(白人)」になってしまいます。ソフィアはポールのこの表現に憤慨します。「私の前で "ブラン"って言うの!?」ー ソフィアはマグレブ系の娘として(程度の問題とは言え)「ブランシュ」と見なされない少女時代を勉強で跳ね返して弁護士として晴れの舞台に出たと思われようが、パリの大きな弁護士事務所で回ってくる仕事と言えば、やはりマグレブ系クライアント案件専用なのです。「私は郊外では"ブランシュ"だけど、パリの仕事場では"アラブ”なのよ」という複雑さを、ポールは理解していない。まあ、それはそれ。
 バニョレの公立小学校のクラスで孤立して、移民系(と言うよりは、みんなフランス人なのだけど、肌の色が違ったり、給食でブタを食べなかったり、という程度の違いなのだけど)の子供たちにいじめられるコランタン。それをなんとか公立のやり方でまるく納めようとする気のいい小学校長ベンサラー(演ラムジー・ベディー。この人この頃とってもいい味)。おまけにコランタンは将来は男とカップルになると公然と宣言するような"自由"な子供で。しかしポールとソフィアの息子への心配はだんだんエスカレートしていき、ついには観念して私立学校に転校させるか、あるいは偽住所を作って隣町モントルイユの公立小学校に越境転校させるか、というレベルへ....。
 監督のミッシェル・ルクレールは現代(90年代以降という時代限定ですけど)の遅れてきた左翼闘士コメディーのような作品を撮る映画作家で、最も知られているのが『人々の名前(Le Nom des gens)』(2010年)、その次作の『テレ・ゴーショ』(2012年)はこのブログでも紹介してるので参照してください。トーンは心優しい左翼人がどんどん変わっていく時代と折り合いをつけるのがとても難しくなっている滑稽さなんです。この新作では元パンク(あ、現役パンクか)のポールが、どうやって自分たちが信じてきた理想をこの難しい時代に生き残らせるのか、というのに必死になっている滑稽さなのです。
 タイトルは La Lutte des Classes とそのままの文字では「階級闘争」 と訳さなければなりません。この "Classes(クラス) = 階級”を "Classes(クラス)=学級/教室"とかけているわけです。学校のクラスをめぐるこの若いカップルの必死の闘争ということです。
 映画は最後は、詳しくは言いませんが、共和国の学校が勝利するかたちで終わります。そうですとも、このライックの価値をどうにかして私たちは守らなければならないと私も思っています。それはバニョレのような町がやっているようなある種の新しい冒険を、やっぱり大事にして応援してやるようなオピニオンが増えていかないといけないんじゃないか。「ボボ」という揶揄された目で見られようと、境を取り払い共存しようというイニシアティヴを持ってやってるのは、この30-40歳代の有機野菜世代なのですから。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『La Lutte des Classes(学級闘争)』予告編



2019年4月5日金曜日

Carry that weight a long time

Aki Shimazaki "Maïmaï"
アキ・シマザキ『マイマイ』

阜県出身ケベック在のフランス語作家アキ・シマザキの15作目の小説にして、第三のパンタロジー(五連作)《アザミの影 L'Ombre du Chardon 》のサイクルを閉じる第5作め『マイマイ』です。このパンタロジーの前4作:『アザミ』(2014年)、『ホオズキ』(2015年)、『スイセン』(2016年)、『ふきのとう』(2017年)については、全作爺ブログで紹介されているので、それぞれのリンクから入って参照してください。さて本作『マイマイ』の話者は『アザミ』の時に4歳、『ホオズキ』の時に7歳だったタロウで、現在は26歳になっています。連作《アザミの影 L'Ombre du Chardon 》で中心的な存在だったミツコ(教養人たちのセレクトバー「アザミ」の人気ママ → 学術書専門の古書店「キトウ」の店主)の息子で、聾唖者でスペイン人との混血という「ハンディキャップ」を背負っています。耳と口が不自由なことはハンディキャップというのは了解できるけれど、父を見ることなく混血児として生まれ育ったことも、アキ・シマザキ描く日本の現代社会ではハンディキャップとなるのですね。しかし青年は画家を目指して専門校を卒業し、その日欧ハーフの容貌は美しくなり、名古屋というメディアやファッションという点では中心にない都市にありながらマヌカンとして収入を得ています。その同じマヌカン・エージェンシーに所属するミナという24歳のマヌカンと現在「交際中」です。
 小説冒頭で母ミツコがアルコール依存症に誘発された心臓発作で58歳の波乱の一生を閉じます。タロウに残された身内はミツコの母、つまり祖母である「ばあちゃん」と呼ばれる老女のみ。ミツコは死を予期していたかのように、タロウにさまざまな遺産を残します。まず学術書古書店「キトウ」を畳み、店舗を画廊に改装し、タロウの絵を陳列販売する。階上のミツコの住居に「ばあちゃん」とタロウが同居する。こうしてタロウは画家として独立する基盤を得ます。しかしミツコは自分の死後の段取りは組んであっても、タロウに隠されていたたくさんの謎は「ばあちゃん」も知らない迷宮のまま。その最も大きな謎はタロウの出生に関したことで、ミツコの弁では彼女がヨーロッパ(スペイン)で知り合い結婚の約束もしていたフェリペ・サントスと名乗る男(画家?)と出来た子供で、男は子供を一度も見ることなくマドリードで自動車事故で死亡、ミツコはその後金沢の産院でタロウを出産してミツコ(片親)の子として届けを出した、ということになっています。しかし死後発見されたミツコのパスポートの記録では、該当する年月にミツコは一度も日本を出国していない、というのがわかります。
 さて娘に先立たれた「ばあちゃん」はもう余生も短いのだから、タロウに早くいい女性を見つけて身を固めて子供を作り、「ばあちゃん」を早く安心させておくれ、なんていう封建的課題をタロウに課します。タロウはあらゆるハンディキャップを乗り越えて、「ばあちゃん」の願いを叶えようとする健気な孫であります。ちょっとちょっと、こんなので文学になるんですか?と不安になりますが、それはそれ。
 このアキ・シマザキ新作で、本当に気になるのが、重い大気のように日本人にのしかかる「フツーにたどるべき幸せのあるべきかたち」の圧力です。YMO風に言えば「公的抑圧 Public Pressure」となりましょうか。ユダヤ、イスラム、カトリック的な戒めのない多くの日本人の不文律の規範のようなもので、結婚して家庭を築くという「フツー」が「つとめ」であり「幸せ」であり「生きる理由・目的」でもあったりする。それをしないと「まっとう」ではない。一連のシマザキ小説はこの重圧をフランス語で非日本人にわからせようとしているところがあります。仮にこの一連の作品が日本語化されたとしたら、日本人読者はこのことになぜこんなにくどいのだろうと驚くかもしれません。そして21世紀的日本では、この重圧はこんなに極端なものではない、という反論も出るでしょう。この点は私はシマザキに同意するものがあり、この日本を包む空気はシマザキや私のように遠い外部から見る者たちによりはっきり見えるものなのだと思います。
 ちなみにこの日本的結婚のイメージはミッシェル・ウーエルベックの最新作『セロトニン』の中にも現れ、小説の序盤で現れるどうしようもない日本女性ユズも日本の良家の出身であり、日本に帰れば両親が決めた良家の許婚がいて自動的にその鞘に収まる義務がある、という主人公はユズの状況を解釈しています。この家柄による結びつき結婚という日本の封建的なイメージは欧米人に根強く残っているものかもしれませんが、それは全くの虚像ではないでしょう。
 さて「結婚」という「目的」を具体的に考えられるようになった(すなわち結婚相手候補が見えてきた)タロウは大きな壁にぶち当たります。自明のことながら結婚とは当事者の問題であるよりも、家と家との問題であるからです。目下のガールフレンドである美しい24歳のマヌカン(文面では雑誌写真モデルでハワイでの水着撮影もあるので、"グラドル"のようなものでしょうか)のミナは、フィアンセとして両親に引き合わせたいと言います。聾唖者+混血という2つのハンディキャップに加えて、独り立ちしているとは言え画家という経済的不安定も両親にはマイナス要素となりましょう。「身元のしっかりした人なんでしょうねぇ? 」この辺も怪しいものがある(なにしろ父親を知らない)。「フツー」水準に達していないおそれという公的抑圧にタロウは両親に会う前から打ちのめされそうになります。
 ミナとの関係に終止符が打たれるのは、ミナの数倍も波長が合ってしまう女性ハナコの(再)出現によるものですが、ほとんど時を同じくしてタロウは残されたただ一人の身内である「ばあちゃん」が前科者であり牢獄を体験したということを知り、結婚がはるか彼方に遠のいたと感じてしまうのです。いいですか?このシマザキ描く日本の公的抑圧の下では、タロウは聾唖、混血、不安定アーチスト、水商売女の息子、前科者の孫であり、これらの重荷を一身に背負ったタロウは、結婚という人生の目標地点に達することはもとより、生きていくこと自体数知れぬ障壁とぶち当たっていくことを運命づけられているということなのです。この巨大な重荷を背負ってのろのろ進むしかないカタツムリ(まいまい)、それがタロウなんですね、お立会い。
 余談ですが、平成の皇后美智子が幼少時に出会った童話としてよく紹介され、美智子自身が背負った悲しみのメタファーとしても引き合いに出される『でんでんむしのかなしみ』(新美南吉作、1935年)というのがあります。でんでんむしの殻の中には悲しみしか詰まっていない。その嘆きを別のでんでんむしにすると「私の殻も悲しみだけ」と言う。また他のでんでんむしも同じことを言う。そうかぁ、みんな同じか。みんな自分の悲しみを背負っている。この自分の悲しみの重さに耐えて生きていくしかないんだ、Boy, you're gonna carry that weight, carry that weight a long time... と悟るという童話です。
 この童話の寓意のように、タロウと同じほどの極端に重い悲しみを背負った人間がもうひとりいて小説の最後にその悲しみに耐えきれず殻を爆発させてしまうのですが、それはまた後ほど。
 タロウが7歳の時、突然現れた4歳の少女ハナコ、手話も知らないのに聾唖のタロウと自然にコミュニケーションが取れてしまう不思議。このいきさつはこのパンタロジーの第2作『ホオズキ』で展開されています。本作『マイマイ』の最大の弱点は、この『ホオズキ』を読んでいればすべてがお見通しなのです。『マイマイ』のなりゆきと結末はすでに『ホオズキ』の中に書かれているに等しいのです。熱心なシマザキ読者はこれに耐えられるかな?
 幼い日に一緒にお絵描きをしたり、名古屋の東山動物園で一緒に遊んだタロウとハナコ(ちょっとなあ、この名前二つ並べただけで童話的なのだが、このニュアンスをシマザキは説明する必要があるのではなかろうか)が約20年後に再会するにはミツコの死という事件がなければならなかった。ごく身内だけで葬儀を済ませ、多くの人はミツコの死を知らないはずなのに、ハナコは知っていた。それは古書店「キトウ」の顧客教養人サークル、そしてかつての教養人セレクトバー「アザミ」の常連サークル、というこのパンタロジー5作の中で出てきた人脈に限られたことであった。第1作『アザミ』でミツコの愛人となる地方雑誌編集者ミツオ(ちょっとなあ、この名前二つ並べただけで... )が、今も発行している地方文化雑誌「アザミ」にその死亡と古書店「キトウ」閉業の記事は載った。ハナコの父サトは外交官であり、現在は在ベルギー日本大使、20年前に古書店「キトウ」から哲学書を買っていた客(とは言っても来店はせずに、サト夫人が代理で買いに行っていた)で、雑誌「アザミ」の定期購読者。ハナコはそれを読んで、家族にお悔みを告げに現れたという次第。驚いたことにハナコは大学で社会福祉学も学び、完璧な手話者になっていた。
 第2作『ホオズキ』で展開されるミツコとサト夫人の短くも激烈なやりとりを、幼いタロウもハナコも知らない。しかしミツコはその時の思い出の品々(タロウがもらった浦島太郎の絵本、ハナコが描いた絵...)を机の引き出しに大事にしまっていたのをタロウは発見する。 ミナと破局した直後だったタロウは、幼い日のセンセーション(誰よりも一番気が合う相手)だけでなく、世界で最も大切なものを再び見出したような高揚を覚えてしまうんですね。二人は燃えるような恋に落ち、ハナコは人生最初の性的体験をタロウと交わすという劇的な展開となるのですが...。
 タロウの知らなかったミツコの別の顔、つまり濃い化粧とセクシーなドレスを纏ったセレクトバーのマダムを想像して、タロウはそのポートレートを連作で描き、その絵はかつての「アザミ」常連客に高価な値段で売れていき、タロウの画廊は軌道に乗ります。そして本格的に「ばあちゃん」とタロウとハナコの3人で家族として暮らそうという話になります。そこで再び現れるのが「結婚」という大きな壁です。駐ベルギー日本大使のサト夫妻が出張で一時帰国し、名古屋にも滞在する。ハナコとタロウの交際を知らない夫妻に、ハナコは結婚したい相手がいるので会って欲しい、と。タロウは再び日本の公的圧力の重さと直面しなければならないと緊張します。相手は外交官で名門の家、それにひきかえこちらは何重ものハンディキャップを抱えた問題多い素性。しかし幼い日の記憶では優しさあふれていたサト夫人...。
 その日がやってきて、ハナコのフィアンセ候補をそれと知らぬままその場に現れたサト夫人は、タロウの姿を見ただけで固まり、倒れ、やがて容態は悪化し、精神病院に収容されるのでした...。

 どうなんでしょうか。全体が難しいパズルではないので、いろいろ小さなトリック(元「アザミ」の客の婦人科医がミツコが妊娠不可能の体だったと証言する、「ばあちゃん」の監獄時代の友達は息子の罪を被って有罪になった、外交官サトは大変なプレイボーイで夫人と離婚の話があった...)は本当にこじつけっぽくて弱い。私はもっとざっくりと、タロウという何重の重荷もある美しい若者が、かたつむりのように触覚を出したり引っ込めたりいろいろな方向に突き出したりして、日本的重圧とぶつかっていく姿が見たかったのでしょう。たくさんのストーリーを詰め込むよりも、これまでのシマザキの切開してきた秘密やタブーや掟や性のありかなどを、ひとりの人間(この場合タロウ)がもっともっと問い詰めていくものであって欲しかったと思っていますが。
 最後は精神病院の病室で精神の不安定なカコ(サト夫人)がタロウに一対一で(手話で)告白&懺悔をします。何重の重荷(悲しみ)の殻がはじけたかたつむりというわけですが、悲しみは全く消えないのです。なにはともあれ完結しました。

Aki SHIMAZAKI "Maïmaï"
Actes Sud刊 2019年4月3日  175ページ 15ユーロ
 
カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)The Beatles "Carry that weight" (1969年)これも今から50年前の曲。