2008年12月30日火曜日

ヴェロニク・サンソンを抱きしめて



 Véronique Sanson "L'Intégrale"
 ヴェロニク・サンソン『全集』


2008年はヴェロさんと話ができたことが、我が身では一番の出来事でした。その時もこの"L'intégrale"の話が出て、人の知らないサンソンというのは山ほどあるんだから、と言ってました。引出しには17歳頃までに書いた曲がまだたくさんある、とも。
 『全集』は12月3日にワーナー・フランスから発売されました。CDが22枚(420トラック+53未発表ヴァージョン)、DVDが4枚、バイオグラフィー本(116頁)、歌詞本(106頁)という構成です。テレラマ誌のヴァレリー・ルウーは[ffff]絶賛しながらも、多分全部は聞いていないような感じの評ですが、70年代後半("Hollywood", "7ème", "Laisse-la vivre")のソウル/ファンク/ラテンロック期の仕事に驚いておりました。発見するものが多いです。私もやはり70年代までで止まってしまいます。(というわけで私も全部聞いていません)。
 DVDの3本目、"BONUS TV"にはいろいろびっくりするような映像がありました。セルジュ・ゲンズブールとのデュエット「ラ・ジャヴァネーズ」は、ゲンズブールの方が緊張しているようで可笑しい。
 1990年発表のプラハ交響楽団との共演盤 "Symphonique Sanson"のリハーサルで89年秋にプラハを訪れたヴェロニクは、プラハの町で進行中だった「ビロード革命」に遭遇し、オケ団員やプラハ市民らに混じって革命のデモ行進に参加します。オケの譜面台にヴァーツラフ・ハヴェルの写真が張ってあったりするのも、歴史的瞬間だったことを思わせます。そしてそのコンサートでヴェロニクは客席に向かって「革命に連帯する人たちは、みんなライターを灯してちょうだい!」と訴えます。そうすると場内に無数の小さい炎が揺らめき、拍手と歓声とオケ団員の楽器を叩く音に包まれます。すごい絵だなあ。
 1994年ビヴァリーヒルズで撮影された、フランスのテレビ番組のための映像ですが、CSN(クロスビー、スティルス&ナッシュ)のレパートリー "Find the cost of Freedom"がスティーヴン・スティルス、クリストファー・スティルス、ヴェロニク・サンソンの3人のハーモニーで歌われます。いい絵だなあ。
 その時のインタヴューでスティーヴン・スティルスが、初めてヴェロニクに会った時の印象を話していて、「ピアノを聞いた時は、左手の力強さがすごいとびっくりしていて、俺はそのソウルフルな感じから、黒人の太っちょのおばさんを想像していた。歌を聞いたらハイトーンの可憐な声で、エディット・ピアフの娘かとも思った。太っちょのソウルピアノを弾くエディット・ピアフの娘は、実際に会ったら小さなブロンドのお嬢さんだった」なんて言ってました。ものすごい「戦争」をしていたヴェロニクとスティルスから十数年後に、スティルスが(フランスのテレビ向けの外交辞令みたいな部分もあるとは言え)「ヴェロニクはその時代にとって重要なアーチストである」と断言する時、まじに優しい良い顔しているのがとても印象的です。
 休み中ずっとこれ聞いていようと思います。気がついたことがあれば追記しましょう。

VERONIQUE SANSON "L'INTEGRALE" BOX SET
22CD + 4DVD + 2BOOKs WARNER FRANCE 2564696533
フランスでのリリース: 2008年12月3日


PS (1月28日)
今日ヴェロさんから,年賀状のお礼メール(たった2行ですが)が届きました。すごくうれしい。
2行目が "Mille soleils. Véro"で終わっています。千の太陽が輝きますように。

2008年12月29日月曜日

ダンソ!ダンソ! (オクシタン・ダンスの手ほどき)



DVD "PER PLAN LAS DANCAR - VOL.1"
DVD 『オクシタニアのダンス - VOL.1』

 ラ・タルヴェーロによる初のDVDは、ダニエル・ロッドーが解説し、セリーヌ・リカールがダンス指導する、オクシタニアのダンスのレッスンです。言語はオック語とフランス語のどちらかを選択できます。撮影は2008年の5月に、ラ・タルヴェーロの本拠地、コルド・シュル・シエル(タルン県)とその周辺で行われていて、コルドの美しい景色も見物です。
 ラ・ラルヴェーロの最新アルバム『ブラマディス』の中の曲、「ダンソ、ダンソ」の中で、怒りの叫びを発するためにダンスしよう、地球のいたるところでダンスしよう、幾万人もの人が一緒にダンスすれば、この古ぼけた世界は震えることだろう、と歌っています。このダンスは大地から生まれて、大地と人々を震わせることが本当にできそうです。
 このDVDは16種類のオクシタニア・フォークダンスを紹介していて、順番は簡単なものから複雑なものへ、で「ダンス・レッスン」の鉄則に従っています。まずレッスン1が、「ロ・ブランレ」という単純な2ステップものです。これは片足飛びの連続で、右足2回飛び、左足2回飛びを繰り返します。あれあれ?これは津軽のねぶたと同じですね。
 複雑な組みダンスから、大きな輪で交差しあうファランドールや、スコティッシュのオクシタニア版や、カップルとカップルがぶつかり合うちょっと乱暴なものもあります。それをダニエル・ロッドーとラ・タルヴェーロの演奏で伴奏し、コルドの町の広場で輪になって踊ったり、野にキャンプファイヤーを焚きながら、村の老若男女総出で踊ったり、本当に楽しい映像です。
 ボーナス映像がまたふるっていて、アルビジョワ、ケルシー、ルーエルグの各地方で同じように伝わっている「ふいごのダンス」で、顔にひょっとこのような化粧をして、白い寝着(スリーパー)を着た男女がふいごを持って行進列をつくり、前進と後退を繰返しながら、前の人のお尻にふいごで風を送るという、ケッタイな踊りです。これを村中の人たちがやるんですね。事情を知らない(中央から来た)地方行政官などがこれを見たら、集団発狂と思って逃げ出すでしょうね。ダンソ!ダンソ!

DVD "PER PLAN LAS DANCAR - VOL.1" (CORDAE/La Talvera DVTAL01)
フランスでのリリース:2009年1月

ラ・タルヴェーロDVD「オクシタン・ダンス」予告編

2008年12月28日日曜日

2008年よく聞いたアルバム・その2



 Dick Annegarn "Soleil du soir"
 ディック・アネガルン『夜の太陽』

 
2008年10月。Tot ou tard。爺が中学生の時分にポール・サイモン(当時はサイモン&ガーファンクル)のギターは少なくとも3人で弾いてると思ってました。90年に私が所属していた独立会社がディックのアルバムを制作して,その内輪お披露目に社員食堂ライヴをギター弾語りでやったのですが,どうしてこういうギター奏法が可能なのか,私は目を回して驚嘆したものです。そういう驚異のアコースティック(ブルース)・ギターが,このアルバムでも大活躍で,ギターは歌ほどに雄弁で,歌よりも数十倍早口なのでした。
 ディックは故国(オランダ)もその言語も捨てて,フランスで音楽アーチストとして生きるわけですが,それは暖かく迎えられているとは思いません。2曲め「ジャックJacques」は,故国フランドルもフランドル語も捨てたブレルのことを思っています。世界中で故国なく生きる人たちがどれくらいいると思いますか? "Nous sommes plusieurs millions"(数百万人いる)と7曲め「家族なく生きる人々 Sans famille」は歌います。私たちは特殊な人種でなく,こんなにたくさんいる人たちの一部ですが,こんなにたくさんいる人たちは同じようなブルースを心に鳴らしているのですね。「ロンドンのブルース,リールの憂愁,ロッテルダムのロック,ありとあらゆる都市のスモッグ」(8曲め"Blues de Londres")。ディックにはもう一度会えるだろうか,そう思いながら何度も聞いたアルバムです。
ディック・アネガルン「冬の太陽」クリップ(ミッシェル・ゴンドリー制作)





 Catherine Ringer "Chante Les Rita Mitsouko and more à la Cigale"
カトリーヌ・ランジェ『レ・リタ他を歌う』


 2008年11月。Because。CD+DVDという無駄な作り(環境にやさしくないぞ!)。DVDの方が8曲多いですし,そりゃあステージ映えのする女性ですから,DVDばかりでの鑑賞でした。カトリーヌ・ランジェはフレッド・シシャンが死んでしまうなどということは一瞬たりとも思ったことがなかったそうです。それは2007年11月に突然やってきたのですが,レ・リタ・ミツコはそれで終わってしまったのです。おしまい。続きはないのです。では何が残っているかというと,ノスタルジーだけなのです。
 このショー(2008年7月,パリ,ラ・シガール)は,ノスタルジーの大洪水です。それはカトリーヌの意志で,フレッドが好きだったレ・リタに最も近いショーをすることだったからです。30年近くレ・リタのカトリーヌをやってきた彼女には,この大洪水の水位はなかなかおさまらないものでしょう。ほんとにシロートっぽいバンドだったレ・リタは,目を見張るライヴバンドになってしまいましたし,イモっぽい姐さんだったカトリーヌはディーヴァそのものになってしまいましたし。終わっちゃったんですねえ。終わってないんですけど。
カトリーヌ・ランジェ「レ・ジストワール・ダ」2008年12月カナル・プリュス

2008年12月26日金曜日

2008年よく聞いたアルバム・その1



Thomas Fersen "Trois petits tours"
 トマ・フェルセン『三べん回ってタバコにしょ』


2008年9月 Tot ou tard。フェルセン7枚目のスタジオアルバム。カバン物語。ジェルメーヌという名前をもった旅行カバン、ウクレレ君、ギター君、巨大なきゅうりに乗っての大旅行。もう何をやったってトマ・フェルセンの世界ですから、面白いように出て来るシュールな演し物にあははは...と喜ぶしかないです。強烈な個性の上にあぐらをかいた芸、のような手厳しい批評をヴァレリー・ルウー(テレラマ誌)はしたのですが、森羅万象にふっと一息かけただけで、動物君も昆虫君も植物君もカバンちゃんもウクレレちゃんも全部フェルセンの言うことを聞いて、フェルセン音楽のワンダーランドが作れてしまうのだから、この個性はこのまま続けていってもらわないと困ると私は思うのです。
ジャン=バチスト・モンディーノ撮影のジャケットもすごい、としか言いようがありません。トマ・フェルセン "3 petits tours"CD'AUJOURD'HUI



MGMT "Oracular Spectacular"
 MGMT『オラキュラー・スペクタキュラー』


2008年6月 Columbia/Sony-BMG。もういろんなところで(英国NME、仏国レ・ザンロキュプティーブル...)2008年のベストアルバムに選ばれているから、爺からは何も付け足すことはないのだけれど、このアルバムを6月に手にした時、30-40年前にロックってすごいなあと思ったことが、この2008年にもう1回体験できたような気がしたのですよ。この子たちは世界中の年寄りたちを舞い上がらせたでしょうね。生意気で反抗的で違う方向のヴィジョンがあって美しい。それだけではなくて、この子たちの使う語彙(あ、メタファー的な意味ですよ)の多さは、年寄りたちが使っていたものですよ。若い人たちが熱狂するのは当り前。年寄りたちが頷くのも当り前。「音楽をやろう、金を稼ごう、トップモデルを妻にしよう」(Let's make some music, make some money, find some models for wives.I'll move to Paris, shoot some heroin, and fuck with the stars.アルバム第1曲"TIME TO PRETEND")。爺たちにはロックはそんなものだったのです。ル・パリジアン紙ヴィデオ「バタクランのMGMTの反応」



Christophe "Aimer ce que nous sommes"
 クリストフ『あるがままのわれらを愛すること』


2008年7月 AZ/Universal。63歳。ダニエル・ベヴィラッカ、アーチスト名クリストフはずいぶん前から老紳士の振るまいをしています。それは若い頃から(身に)厳しい創作活動をしてきたことを物語っているようです。1曲作るたびに顔の皺が増えていったような。身と心から絞り出すような作品ばかりです。作った本人はどんどん抜け殻に近くなっていく、そんな極端な創作態度のアーチストだと思います。
自ら強いて63歳のすべてから絞り出したようなアルバムです。第一声の「うぉ、うぉ、うぉ...」という呻きとも感嘆とも忘我とも聞こえるヴォカリーズから、命をすり減らすアートを思わせます。神々しいオラトリオのような曲「マル・コム」は、「時間が与えられたら、それ自体の恵みとして使おう、ありがたい恵み、それはあるがままのおまえを愛すること、あるがままの私を愛すること、すなわちあるがままのわれらを愛すること」と歌われます。こんな言葉を発したら磔刑に処されるでしょうに。
クリストフ『あるがままのわれらを愛すること』インタヴュー

2008年12月25日木曜日

ニコル・ルーヴィエ(1933-2003)



 Nicole Louvier "Et ses chansons 1953-1957"
 ニコル・ルーヴィエ『自作シャンソン集 1953-1957』


 ニコル・ルーヴィエ(1933-2003)の最初期の録音集です。ポーランド系ユダヤ人の家族に生まれ、15歳の頃から作詞作曲を始めた自作自演歌手です。もっぱらギターでメロディーを作るというのは、フランスの女性アーチストではおそらく初めてのケースかもしれません。爺たちの感覚ではこの頃のギターを持つ女性というのは、「修道女」というイメージが先入観としてあります。「サウンド・オブ・ミュージック」(ジュリー・アンドリュース)や「スール・スーリール」(ドミニク、ニック、ニック...)のせいかもしれません。このニコル・ルーヴィエの短い頭髪と清楚な服装(首のつまった白衿のシャツ)も、そのイメージから遠くありませんが、歌はそのイメージとは裏腹の、若い女性のアンニュイを歌っていたのです。フランソワーズ・アルデイの15年前、バルバラの10年前、そう思ってくれてもいいです。
ルーヴィエは20歳になる前に、モーリス・シュヴァリエにその驚くべきソングライティングの才能と確かな歌唱力を買われて、シュヴァリエの後押しでレコード・デビューします。1953年のことです。

Qui me délivrera
De ton corps de tes doigts
De ta bouche qui me délivrera
Qui me délivrera enfin de toi
誰が私を解き放ってくれるの?
 あなたの肉体から,あなたの指から
 あなたの唇から,誰が私を解き放ってくれるの?
 ねえ,誰があなたから私を解き放ってくれるというの?


 この"Qui me délivrera"という曲がノエル・ノルマンという歌手に歌われて1953年のドーヴィル・シャンソンコンクールの大賞を獲得します。多くの人に歌われたこの曲はマルレーネ・ディートリッヒによっても吹き込まれます。この歌詞など,はっきりとコレット〜サガン系列の性のアンニュイではないですか。またこのことから「シャンソン界の女ラディゲ」とも呼ばれました(ラディゲは『肉体の悪魔』を書いた少年作家)。禁忌を破って歌う20歳のニコル・ルーヴィエの歌詞には,同性愛者としての意思表示も暗号化されているのです。女性たちから大きな共感を獲得する一方,旧道徳を重んじる社会からは白眼視されたこの短髪の女性歌手は,それでも50年代末まではスター歌手として活躍し,1959年には来日公演も行っています。
 自作自演歌手,詩人,ラジオ番組プロデューサー,小説家でもあったルーヴィエは1959年に3作目の小説『商人たち Les Marchands』を発表します。この作品は若い女性歌手が芸能界の闇の部分に翻弄され,身も心もボロボロになってしまうという業界暴露的な内容で,その細部にわたる描写が実在するショービズ・ピープルの激怒を買ってしまうのです。クリスティーヌ・アンゴの先駆みたいですね。しかし,この結果,ニコル・ルーヴィエは徐々に芸能界から敬遠されるようになり,60年代後半にはもう録音もできなくなり,イスラエルに移住して細々と執筆活動を続けます。「商人たち」を敵に回したということに対する仕打ちであったわけですが,多くのファンたちの要望にも関わらず復刻CDもずっと出ないままでした。2003年3月8日,人知れずニコル・ルーヴィエはガンで亡くなり,現在はモンパルナス墓地に眠っています。
 ラジオ・プロデューサーでもあったルーヴィエは,その番組に出演した駆け出しのバルバラを激励し,バルバラはルーヴィエに自分の進むべき道を見ていました。またアンヌ・シルヴェストルもルーヴィエに感化されてシャンソンを書き始めたことを認めています。
 このCDは1953年から1957年にかけて,デッカ・レーベルにルーヴィエが録音した24曲に,未発表録音2曲を加えた,ニコル・ルーヴィエの初CD復刻です。
 
Quand j'ai faim il y a le pain
おなかが空いたらパンがある
Quand j'ai soif il y a le vin
 喉が渇いたらワインがある
Quand je suis seule il y ma guitare
 ひとりぼっちの時もギターがある
Quand j'ai le cafard il y a... les chemins
 気がふさいだら旅に出たらいい


 1954年の歌 "Quand j'ai faim"はこのCDで最も美しい曲のひとつです。ホーボー・ブルースのような歌詞ですが,若い女性の繊細な声で歌われるワルツです。波風を怖がらない女性だったのかもしれません。ひとりで行くことを怖がらなかった女性でしょう。ニコル・ルーヴィエ "Quand j'ai faim"

<<< トラックリスト >>>
1. Mon petit copain perdu (1953)
2. Tu es bien (1953)
3. Qui me délivrera? (1953)
4. Ce sera bien (1953)
5. Quand j'ai faim (1954)
6. A la vie comme à la guerre (1954)
7. C'est la loi (1953)
8. J'ai peur de l'amour (1953)
9. Dormez (1953)
10. Tu me dis que tu m'aimes (1953)
11. C'est le vent (1953)
12. Pour tout simplement (1953)
13. File la nuit (1955)
14. Monsieur Victor Hugo (1954)
15. Je ne suis plus parisienne (1955)
16. Si tu crains l'enfer (1954)
17. Nous n'avons pas changé (1956)
18. Toule d'araignée (1956)
19. Où te trouverai-je? (1956)
20. J'ai quitté Maman (1956)
21. Paris jardin (1957)
22. J'imagine que sur ta naissance (1957)
23. Soyons amis (1957)
24. Present compagnon (1957)
25. Amour je ne veux pas dormir (未発表)
26. Gentil roi Louis de Bavière (未発表)

CD ILD 642263
フランスでのリリース:2008年3月



PS 1
You Tubeに画像,映像が若干載っています。そのひとつニコル・ルーヴィエ "Mon petit copain perdu"

2008年12月23日火曜日

門戸開放モン・コテ・パンク



  (↑モン・コテ・パンク『IZGUBLJENI』。ロレーヌ・リトマニックがリードヴォーカル)

 12月22日(月)パリ13区のセーヌ河岸(国立フランソワ・ミッテラン図書館下)に停泊するペニッシュ・エル・アラマインで、ラ・リュー・ケタヌーのムーラド率いる寄り合いバンド、モン・コテ・パンクのコンサートでした。
 コンサートの前にムーラドと談笑しましたが、ムーラドは今度のラ・リュー・ケタヌーの新アルバム(2月リリース)の出来にとても満足していて、リリースが待ち遠しくてしかたがない、と言ってました。3人がこんなにいい状態でアルバムを作ったことはないんだ、と。確かに1枚めは公民館を借り切ってぶっつけの一発テイクだったし、3枚めは寄せ集めライヴだったし、2枚目が今日まで唯一のちゃんとしたスタジオ録音盤でしたから。自分たちのイニシアティヴで制作し(初めて自分たちのレーベルから出す)、十分に時間をかけて、おのおのが書き溜めたいい曲ばかりを持ち寄って出来たアルバムだそうです。「ゴールドディスク、間違いない」という自信でした。
 不特定集合体のバンド、モン・コテ・パンクは今夜は最少3人から最大7人までのフォーメーションで、欠席者がいるのは経済危機の直撃によるものである、とムーラドはMCで説明してました。
 それからムーラドのジョークのひとつでこんなのがありました。
 「ジョニー・アリデイとミッシェル・サルドゥーとバンジャマン・ビオレーとヴァンサン・ドレルムが同じ飛行機に乗り合わせて旅行していたが、運悪くエンジンのトラブルで墜落してしまった。救われたのは誰か? − (答)ラ・シャンソン・フランセーズ」
 (↑オルタナティヴなジョークです。気にせず笑ってすませましょう)

 さてステージはムーラドと,カリム・アラブ(元パダムのギタリスト。アコースティックもエレクトリックも。時々ガットギターがウードのような音になるのが面白いです)の二人が核になって,これまで2枚のアルバムで聞かれたような,アラビック,マヌーシュ,フラメンコ,バルカン寄りのミクスチャー音楽と,ムーラドの人情ヴォーカルで盛り上がっていく,場末キャバレー・ミュージックな展開です。今夜のステージではとりたてて「パンク的な面」(コテ・パンク)は強調されていませんでした。ロレーヌさんはミニスカートでしたし。
 レパートリーはモン・コテ・パンク,ラ・リュー・ケタヌーのものの他にアラン・ルプレスト,ブラッチ(そうか,彼らにとっても大先輩か),ロイック・ラントワーヌのものも出ました。立って踊るようなオーディエンスの動きはありませんでした(と言うのは,船上なので,踊ると揺れるのですよ。私は以前にそれをやって,しかもアルコールが入っていたので,ふがいなくも船酔いしてしまいました)が,熱心に聞き入るタイプの若者たちが多く,いいファン層を持っているなあ,と感心しました。
 ムーラドにはまたラ・リュー・ケタヌーのコンサートで再会するのがとても楽しみになりました。それよりも早くニューアルバムを送ってもらいたいものです。

2008年12月21日日曜日

今朝の爺の窓 (2008年冬至)



 毎年冬至は同じような曇天で。一年で夜が一番長い上に昼が曇天ということで,太陽渇望が極限に達する日であります。しかしこの日を過ぎれば,日照時間が増していくのがことの他うれしくなります。子供の頃から私にとってこの冬至から新年にかけての10日間というのは,マジカルな瞬間で,大恐慌だ大不況だと言ったって,この瞬間街々は一年で最も美しいし,食品売場には普段見ないものが山積みになっているし,人の家に行けばシャンパーニュの栓を抜くポーンという音が迎えてくれるし...。
 娘セシル・カストールは先週から冬休みですが,学校(コレージュ)の課題で「職業実習」を4日間しなければならず,実習先としてわが町ブーローニュにある私立の日本人保育園で「エデュカトリス/アニマトリス educatrice/animatrice」の研修をしています。要は子供たちと一緒に遊んだり,団体でゲームしたり,歌ったり,踊ったりができればいいのだと思いますが,これはたいへんな仕事ですよね。当たり前ですけど一人一人が違うのですから。簡単な子供というのはいるわけがないのですし。でも子供たちにいいお姉さんと慕われて,得意げになっているので,この道に進むかどうかはまだ結論を急がないにしても,良い選択肢ができたと思っています。娘の祖母(私の老いた母)は教育者ですから,私が継がなかったその道を,孫が継いでくれたらさぞうれしいでしょうし。
 私はと言うと,仕事の方が年末最終出荷を先週金曜日に出してしまったので,ちょっと時間が出来ました。娘のBrevet受験勉強の手伝いもしなければなりませんが,今週来週で見ていなかったエキスポ(まだピカソも見ていない)や映画を見たいと思ってますし,12月初めに入手したヴェロニク・サンソンの全録音集(CD22枚+DVD4枚)も封を開けて,身も心もヴェロさん漬けになってしまおうとも思ってます。
 今年たくさん聞いたCDというのは本当に少ないのです。悪い傾向です。年が変わる前にこのブログで紹介してみようかな,とも思っています。

 自分をほめてやりたい,と思うことが今年はひとつあります。3年半,毎晩欠かさず服用し続けた睡眠薬を,この秋やっと断つことができました。愛は勝つ,などという(私にとって)ありそうもないことを言うつもりはありませんが,何かが勝ったんだと思っています。
 次はアルコールだね,とタカコバー・ママは言うのですが,アルコールを断ったらタカコバーと縁がなくなるので,ね。

PS 1 (12月30日)

ちょっとだけ雪ですね。

2008年12月20日土曜日

BUDAはビュダですか? ブダですか?



 (←イランの笛/打楽器アンサンブル:サイード・シャンベエザデーの3人と、ジル・フリュショー、灰色上着の銀髪紳士は民俗音楽研究家アンリ・ルコント = 元テニス選手とは無関係、頭のヘッドフォンだけが見えるのが番組主フランソワーズ・ドジョルジュ。写真をクリックすると大きく見れます。)

 12月19日、ラジオ・フランスの中にあるシャルル・トレネ・スタジオで、国営FMフランス・ミュージックの番組「Couleurs du monde(世界いろいろ、とでも訳せましょうか)」の公開録音がありました。番組主はフランソワーズ・ドジョルジュというエレガントな女性で、世界音楽を紹介するプログラムです。当夜のメインゲストは、世界音楽の世界では世界的なレーベル(世界が3つ並んだなあ)Buda Musiqueのディレクター、ジル・フリュショーで、同レーベルの21周年を祝おうというものです。「21年」とは半端な数字と思われましょうが、フランスでは1974年まで成人は21歳でした。あの頃は21歳まで、あれもしてはいけない、これもしてはいけない、喫煙飲酒だけではなく、ご交際もご外泊もご休憩もしたら咎められる、そういう封建的な風潮があり、21歳になる、というのは大変なお祝いごとだったのです。その日には堂々とホテルを予約する、そういうものでした(どうも話題が違う方に行っているなあ)。
 というわけでBuda Musiqueの「元服」を祝おうという宴で、Buda Musiqueのオールスターズが集まって演奏を披露しました。箏と唄の千田悦子さん、ウード二重奏のロープイット親子、イランの笛/打楽器の三重奏アンサンブルのサイード・シャンベエザデー親子、オクシタン・ポリフォニーのルー・クワール・デ・ラ・プラーノ(ロ・コール・ド・ラ・プラナ)、そしてクレズマー・クラリネットの新王ヨムのクアルテットが出演しました。
 2〜3曲演奏したあとで、アーチストがフランソワーズ・ドジョルジュとジル・フリュショーのいるテーブルに合流して、自分とBuda Musiqueとの関わりみたいな話をして、ジルにヨイショするわけですね。ルー・クワール・デ・ラ・プラーノのマニュ・テロンは、その席で「ところで、これはビュダなのか、ブダなのか?」とジルに核心的な質問をしました。ジルは「それには諸説あるが、ハンガリーの首都の川を挟んだ半分という説と、パリ11区のチベットレストランの定食メニューの名であるという説がかなり有力である」とはぐらかしました。(★)
 テロンはプロデューサーとしてのフリュショーの徳は、とことんまでの相互信頼を許すパートナーであることだ、とも言いました。実はテロンは最新アルバム『Tant Deman 明日があるさ』の制作の前に、いろいろなレーベルを当たってパートナー探しをしていたのですが、その時をことを:「なんて言う名前だったっけ?ほら、シニックの反対語の会社、あそこはひどかったぜ」などと公然とNaiveの悪口を始めたりして...。まあ、その末にフリュショーという真に信頼できるパートナーを見つけるのですが、それは二人とも大変な飲ん兵衛であり、酒振る舞いの気前よさで意気投合したような内情を、私は知っています(秘密)。
 トリをつとめたヨム君は、例の王様扮装で登場してくれず、会場をがっかりさせたものですが、「ラジオだからいいじゃん!」という言い訳で。その1曲めの、超高速フレーズにジングルベルのメロディーを盛ったりして、サービス、サービス。そう言えば、この日の録音が国営フランス・ミュージックの電波でオンエアされるのは、12月24日午後8時から10時半。一体この日のこの時間帯に、この地味なラジオ放送局のこの番組を聞く人たちは、どれだけいるでしょうか?
 (↓)この日もちょっとだけディジカメでヴィデオ録りしました。Lo Cor de la Planaですが、この日は一人足りずに5人。欠席君は4日前にパパになったので、というめでたい話でした。

 



爺註(★)
Buda Musiqueの創始者は二人います。Dominique Buscail(ドミニク・ビュスカイユ = 故人)とFrançois Dacla(フランソワ・ダクラ = 現EPM社長)です。この二人の姓のあたま2文字ずつを取って、Bu Da → BUDA という社名になったのです。ですから「ビュダ」と読まれるのが妥当なわけですが、現代表のフリュショーやわたしなんぞはどっちだっていいじゃんという態度で、フツーに「ブダ・ミュージック」と言ってます。


PS 1 (12月23日)
 フリュショーさんに会っていろいろ話を聞きました。その恰幅の良さと,地方人風のたたずまいと,何でも知っている老教師みたいなわかりやすい語り口... そういう雰囲気が漢字で「古庄」と振るとぴったりでしょう。寒い日にお宅にうかがうと,おかみさんがすす〜っとお椀ものを出してきて,これ飲んだらあったまるけえのお,とすすめてくれる,熱い湯気をふうふう吹いて,お椀からずずず〜っと音を立てて飲み込む「古庄汁」(ブダ汁とも言う),そういう光景が目に浮かびませんか? ジル・フリュショーはそういう大地のヒューマンが香る音楽人です。机の上の仏陀の文鎮に注目あれ。

2008年12月17日水曜日

Ma plus belle histoire d'amour...



 BARBARA "UNE PASSION MAGNIFIQUE"

 フランスの独立レーベルNocturne(ノクチュルヌ)から2008年10月にリリースされた大変豪華なロングボックス(CD2枚+64頁ブック)です。テレラマ誌(ヴァレリー・ルウー)がffffで絶賛しただけでなく,同誌年末恒例の「理想のギフト選」にも入ってました。シャンソン愛好者ならギフトとしてもらったら感涙ものでしょうね。
 バルバラ(1930-1998)の世界的ファン組織「バルバラ・ペルランパンパン協会」の会長であるディディエ・ミヨーが監修&執筆した64頁の布張りハードカバー写真集&バイオグラフィーにまず圧倒されます。5歳のバルバラ(幼稚園の仮装会。赤ずきんちゃんのよう),20歳のベルギー(ブリュッセル)での下積み時代の写真やポスター,出演した劇や映画のポスター,外国盤のジャケット,ラジオ局の中で毛糸編みをするバルバラ,1988年の日本公演写真など,興味深い写真や図版が多数。これはフランス語がわからなくても十分堪能できるでしょう。
 CDの方は2枚ありますが,2枚目はラジオインタヴューが2編(1970年と1993年)で,これはフランス語のわからない人にはきついでしょうね。かなりの早口で,フランソワーズ・サガンみたいにつっかかるので,聞き取りはかなり疲れます。というわけで,日本の人たちには1枚目のCDに興味が集中するわけですが,これは1971年1月,スイス,ローザンヌでのコンサートの未発表ライヴ録音で,20曲(+MCが3トラック)入りです。
 71年と言いますと,劇「マダム」の失敗,シングル「黒いワシ」の大ヒットの直後になります。ここからバルバラのポピュラリティーは一般化していくわけですが,このスイスでのコンサートでは,フィナーレ3曲が「黒いワシ」,「ナント」,「生きる苦しみ Le mal de vivre」となっていて,「黒いワシ」がすでに多くのファンにとって「この曲を聞くまでは」の1曲になっていたのがわかります。
 バッキングはオーケストラではありません。バルバラのピアノとロラン・ロマネリのアコーディオン(非電気アコと電気アコ)だけです。アコーディオンに電気増幅装置を取り付けた最初の人がフランシス・レイである,という伝説があります。「男と女」「パリのめぐりあい」「白い恋人たち」,ずいぶん後年になってあの音がアコであると聞いて驚いたものですが,原理は電子オルガンと一緒なんですから驚くには当たらないのかしらん。このライヴでもロマネリの電気アコは,電子オルガンのペダルキーみたいな低音まで出たりするから,ほとんど「ヤマハ・エレクトーン」状態です。私はつい数年前まで「エレクトーン・アレルギー」みたいなのがありまして,あの安上がり結婚式みたいな音色に虫酸が走ったものです。セヴンティーズの音ですよね。なぜこのアレルギーから脱することができたかと言うと,多分90年代の一時期アコーディオンばかり聞いていたからなんだと思います。(つじつま合ってるかな,これ?)
 この時バルバラ40歳。私たちが多分一番レコードで慣れ親しんでいる声の頃だと思いますが,既に 「孤独(La Solitude)」の最も高い音は声が出ていなくて...。しかしそれにしても,死や孤独や生きる苦しみ系の歌ばかりなのに,なんという闊達無碍なパフォーマンスでしょうか。すべてではありませんが,のびのびと自作レパートリーを歌い上げている感じがすごいと思います。「いつ帰ってくるの?(Dis quand reviendras-tu?)」は,このライヴの歌が私にはベストのように思いました。逆にオーケストレーション抜きの「黒いワシ」はちょっと盛り上がらなくて...。
 CD2の1993年のインタヴューで「わが麗しき恋物語 Ma plus belle histoire d'amour」は,誰かれという特定人物のことではない,とすごい勢いで語っています。私の"public"のために書いたのだ,と。いいなあ!

 Je donnerais au public jusqu'à la dernière goutte de mon sang

とこのハードカバー本の表紙の裏に書いてあります。「私の血の最後の一滴まで,私は"public"に捧げるだろう」。この "public"という言葉をどう訳すか難しい場合があります。聴衆,観衆,お客さま,ファン...どれも違うような気がします。"public"は文字通り「すべての人々」(公衆,大衆)であるようなところもあります。この人はその歌を聞くすべての人たちのために,最後の血まで捧げた人なんでしょう。

<<< トラックリスト >>>
CD 1
1. Je t’aime
2. Parce que
3. Absynthe
4. Mon enfance
5. A mourir pour mourir
6. Au bois de Saint Amant
7. Une petite cantate
8. La solitude
9. (Intervention Barbara)
10. Joyeux Noel
11. Si la photo est bonne
12. Quand ceux qui vont
13. Dis, quand reviendras-tu?
14. (Intervention Barbara)
15. Drouot
16. Chaque fois
17. Le Soleil Noir
18. (Intervenstion Barbara)
19. Hop la
20. L’Aigle noir
21. Nantes
22. Le Mal de vivre

CD 2

1. 1970年8月放送の国営ラジオ「フランス・キュルチュール」での
エミール・ノエルによるインタヴュー。22分。
2. 1993年10月放送の国営ラジオ「フランス・キュルチュール」での
フランソワ・ドレトラのインタヴュー。22分。

LONGBOX 2CD (+64 pages Book) NOCTURNE ARCH576
フランスでのリリース:2008年10月20日

2008年12月9日火曜日

クレズマー・クラリネットの新王



 今夜はバスチーユ近くのカフェ・ド・ラ・ダンスで、クレズマー・クラリネットの新王ヨム君のクワルテットのコンサートでした。カフェ・ド・ラ・ダンス超満員で、私は袖口で立って見てました。ヨム君は28歳の若造クラリネット奏者ですが、1920年代ニューヨークのクレズマー・クラリネットの王と呼ばれたナフトゥール・ブランドワインに敬意を表して、ナフトゥールの曲ばかりを録音したアルバムを制作しました。ナフトゥールはクラリネットのヴィルツオーゾだっただけでなく、その派手なステージアクションや奇抜なステージ衣装でも知られていて、なおかつベースケで酒好きだったので「ナスティー・ドランク」の異名も取っていました。ヨム君はナフトゥールの後継者を自認して、みずから「新王」を僭称しますが、派手好き、ベースケ、酒好きなところは旧王に負けないと言いたい風です。件のアルバムのジャケ写に見えるような、サルコジ風のブリンブリン(Bling bling)なサングラス、ジャラジャラの金ピカアクセサリー、アフリカ独裁者のような衣装と王冠... このコンサートの第一曲めは本当にこのイデタチで演奏しました。
 クレズマーはもともと東欧ジューイッシュ(アシュケナージュ)の音楽で、15世紀くらいから東欧でユダヤ人の冠婚葬祭を彩る音楽として演奏されてきました。それが新大陸アメリカに渡ったアシュケナージュが伝え、ニューヨークなどの大都会のユダヤ人コミュニティーで演奏されていたんですね。"Klei"と"Zemer"の合成語で「歌の伴奏楽器」を意味するのですが、本来はインストルメンタル・ミュージックです。クレズマーの楽団または楽器のことをクレズモリムと言いますが、花形リード楽器は何と言ってもクラリネットです。
 ヨム君のクワルテットは、ピアノ(クレズマー・ピアノの第一人者ドニ・キュニオ)、チューバ&トロンボーン(ブノワ・ジファール)、パーカッション(アレクサンドル・ジファール)、そしてヨム君(クラリネット)の布陣で、今夜はゲストでトランペットのイブラヒム・マールーフが参加しました。
 ワンパターンと言えないこともないですが、ゆっくりと始まって、超高速で終わるクレッシェンド・トランスミュージックです。会場は踊る人こそいませんでしたが、かなりの陶酔度だったと思います。ヨム君はMCがうまい。ジューイッシュ・ジョークなんでしょうね。巧みな話術と笑わせどころにメリハリのある、達者な芸人です。楽しい1時間半でした。
 (↓またちょっとだけディジカメでヴィデオ撮影しました)

2008年12月7日日曜日

この本はサイテーである。



 マキシム・ヴァレット/ギヨーム・パッサグリア/ペネロープ・バジウ『糞忌々しき人生』
 Maxime Valette / Guillaume Passaglia / Pénélope Bagieu "VIE DE MERDE"


 爺は来年で在仏30年になります。この国は「おおむね」好きです。しかし生活者ですからさまざまな局面でこの国の人たちや制度や慣習などと衝突したり,理不尽に拒否されたり,リスペクトを欠く対応をされたりということがあります。それはしかたのないことだと思っています。この国に限ったことではないですし。
 また,この国の人たちがどうしようもなくアホであると思う時もないわけではありません。サルコジが大統領に当選した時には真剣にそう思いました。また,極々たまにですがフランス最大の民放TV局TF1の超高視聴率の娯楽番組など見てもそう思います。(まあ,日本のテレビ娯楽番組のことを考えたら,まだ救われているような気もします)。スカイロックやFUNラジオのような若者向けFMの早朝や夜の聴取者ダイヤルインの番組などでもそう思いますが,まあこれは若い衆の「程度の低さ」というものだからしかたがない部分もあります。
 イントロが長くなりました。この本は民放ラジオEUROPE 1のルーラン・ルーキエの番組で取り上げられたのを,たまたま車の中で聞いていて,面白そうだと思って帰宅後すぐにインターネット・オンライン・ショップに注文したのでした。しかし,結果は本当にアホな本でした。本というのは本屋店頭でペラペラと読んでみてから買う,という習慣を省いてしまった私が一番アホなんですが。
 "VIE DE MERDE"(クソ人生)は,もともとインターネット上のフォーラムボードでした。アドレスはwww.viedemerde.frです。泣きたくなるような,呆然と立ち尽くすような,場合によっては死にたくなるような失敗談や遭遇事件を,書込み告白して,それをみんなで笑い合うというのが,このサイトの始まりでした。糞忌々しい自分の運命を呪う書き手は,このサイトでみんなに笑われて,一種の厄払いをするわけです。書き方にはルールがあり,必ず "Aujourd'hui"(今日)で始まり,"VDM"(vie de merdeのイニシャル。クソ人生)で終わります。

Aujourd'hui, en jetant ma cigarette par la fenêtre de la voiture, le vent l'a renvoyée à l'intérieur. Je me suis brûlé tout le pantalon. VDM
 今日,車の窓からタバコをポイ捨てしようとしたら,風に戻されて内側に落ちて,ズボンが全部燃えてしまった。クソ人生。

Aujourd'hui, j'ai fait un don de sperme à l'hôpital. L'infirmière qui était là pour m'aider était ma cousine. VDM
 今日,病院で精子バンクの提供者になった。俺を担当してくれた看護婦はなんと俺のいとこだった。クソ人生。


 こういう投稿による失敗談や事件談を約850編セレクトして本にしたものです。インターネットで大人気を博していたものなので,内容は総じて若いです。当然匿名投稿ですから,至って無責任な内容です。匿名だと何でも書けると思っている人たちは困りものですね。自分の名前で何もできなくなってしまいますよ。
 こういうサイトは最初は真剣に失敗談を書く人の方が多かったんでしょうが,だんだん書く側は面白おかしければそれでいい,になっていくんでしょう。サイト運営者がちゃんとした編集権を発揮して,「実話だけにしぼる」という努力をしないと,ただの笑い話サイトに堕してしまうと思います。笑い話だったら,プロが書くような笑い話の方がずっとずっと面白いのです。しかしそれが真にシロートの書く実体験失敗談ならば,それに増して面白いはずなのです。中には,本当にこれは困ったろうという話も載っています。

 今日,俺の車のドアが開かなくなった。俺はいらいらしてドアに差し込んだキーを力いっぱいひねった。そうしたらキーがカギ穴の中でパキンと折れてしまった。よく見たら俺の車ではなかった。VDM

今日,朝早くまだ仕事場に俺ひとりしかいなかったので,俺は辺りに気にすることなくおならをした。ところが,それはおならだけではない結果になった。俺は仕事場には替えのパンツなど持っていない。その上俺の家はここから45キロも離れている。一日が長くなりそうだ。VDM


 しかし,大半は本当に程度の低いことばかりなのです。重要な場面(就職面接)やお目当ての女性の前でゲップしたりオナラしたり,携帯メールの宛先を間違って悪口や別れ話や愛の告白をしたり,本人が近くにいるにも関わらず大声で悪口を言ったり,数時間の仕事の後「保存」の代わりに「終了」を押したり,パソコンのポルノサイトの履歴を子供や恋人に見られたり,自慰の現場を親や恋人に見られたり,自分で気づかない口臭や体臭を一番言われたくない人から指摘されたり...。これを何十万というフランス人が見て,人の不幸を笑っていると思うと,とても情けない気持ちになります。私がいや〜な感じを持つのは,この人たちは「ウケ狙い」を第一の目的にしているようなところなのですね。

 今日,病院での長い検査の結果,俺は自分の精子が生殖不能であることを宣告された。俺の妻は,今俺たちの二人目の子を妊娠している。俺は今夜妻にいろいろ質問するだろうな。VDM

 今日,会社で仲間たちを集めて,俺が遠隔で自宅のウェブカムを作動させることができることを自慢げに披露したのだ。その結果,その場の全員が俺がコキュであることを知ったのであった。VDM


 上の2つのエピソードはフランスのお家芸のような「コキュ話」でありますが,話としては良く出来ていても,これは実話であるわけはないのが一目瞭然ですよね。こういうところがこの本のいやらしいところだと思うのです。匿名の創作話だったら,笑ってナンボのもんでしょうに。実体験の恥を包み隠さず告白してこそ,それを共有できる笑いの輪が救済となるのでしょうに。
 世界に自分ひとりしかいなくなったような孤独の瞬間があります。誰もこんな思いはわかってくれるわけがない荒野の寂寥と言いましょうか。たぶんこのサイトは,そういう思いを持った人たちが書き始めたと思うのです。他人にわかるはずのない恥,失敗,苦しみをあえて露呈してみようか,と。しかし公開してしまうと,人は平凡なものよりも極端なものをもてはやしてしまうんですね。これはインターネットが持つ,極端なものへ,より極端なものへと人を駆り立てる傾向のせいで,当初の意図なんかとうの昔に消えてしまっているのでしょう。
 インターネット的孤独ということではこういう話も載っていました。買い物やサービスサイトで人は知らず知らずのうちに,あちこちに自分の誕生日というのをばらしているではないですか。自分の誕生日が来て,身内からも友人からも誰からもお祝いメールなど来ないのに,誕生日おめでとうの多数の商業メールばかりが届いている,という話。これはウルトラ・モダンな寂寥 (ultra-moderne solitude)ですよね。

Maxime Valette / Guillaume Passaglia / Pénélope Bagieu "VIE DE MERDE"
(Privé刊。2008年10月。280頁。13.90ユーロ)


 

2008年12月5日金曜日

ケタヌー国ではもう悲しみを暖炉で...



 (←オリヴィエ・レイト。11月29日。パリ)
 
 ラ・リュー・ケタヌーという3人組の記事を書くのにまる10日間費やしました。
 一風変わった演劇工房(大道芸からモリエールまで)テアトル・デュ・フィル(「綱渡り劇団」と訳せるだろうか)出身の3人が、生ギター(ガットギター)とアコーディオンをかついで旅をし、行く先々の町の通りやカフェテラスや辻公園で自作の歌と寸劇のダイレクトパフォーマンスで人々を喜ばせます。この人々とのダイレクトのコンタクトがやみつきになるんですね。受ける芸、受けない芸、地方での人の違い、そういうのがだんだんわかってきます。サルタンバンク(Saltimbanque =大道芸人)という単語には「バンク」という言葉が含まれますが、金には縁のない職業です。20歳そこそこでサルタンバンクの道を歩み始めた3人は、町から町へ、野宿も平気、道あるところ俺たちは行くのさ、ってな、とても90年代後半的ではない生き方をしていたのです。私の偏見かもしれませんが、私はこれは60年代/70年代的には可能だった、と言うか、やる気があれば普通に出来たような記憶があるのです。それは自分が若かっただけでしょうか。あの頃の「明日をも知れない」は、昨今の「明日をも知れない」とは過酷さにおいてかなりの開きがあるのではないか、つまりあの頃はまだ楽天性が優位にあったように思うのです。これは自分だ歳取っただけなのでしょうか。
 それはそれ。
 ムーラド・ミュッセ、オリヴィエ・レイト、フロラン・ヴァントリニェの3人は道祖神の招きのまま、風まかせの旅芸人となります。1998年、彼らはラ・ロッシェル(ジャン=ルイ・フルキエ「フランコフォリー」フェスティヴァルのお膝元です)と、その沖に浮かぶ保養地の島イル・ド・レ(レ島)の、通りとカフェテラスに登場し、フロランの書いた街頭音楽劇を披露します。そのテーマの歌がこんなリフレインでした。

 C'est pas nous qui sommes à la rue
 C'est la rue Kétanou[C’est la rue qui est à nous]
 セ・パ・ヌー・キ・ソム・ア・ラ・リュー
 俺たちは路頭に迷っているんじゃない
 セ・ラ・リュー・ケタヌー
 往来は俺たちのものなのさ


 これはスローガンであり、マニフェストであり、彼らの生きざまをわずか2行で端的に表現したものです。この歌が大受けに受け、3人は自然と人々から「ケタヌー、ケタヌー」と呼ばれるようになります。いつしか彼らはこれをバンド名として「ラ・リュー・ケタヌー」を名乗るようになります。
 1年間の大道/放浪芸人の末、出会いが出会いを呼び、ロイック・ラントワーヌやアラン・ルプレストなどとも交流するようになります。彼らのシャンソンはブレル、ブラッサンス、フェレ、ピアフ、フレール、ルプレストなどを師とする、旅と出会いと別れを歌うシャンソン・レアリストだったり、ジタン/ツィガーヌ寄りの情念の濁流のような泣きものだったり、祝祭的なジャンプ系だったり、ミニマルの楽器で音響なしの環境で、最後には聴衆の輪を陶酔までもっていくパワーを獲得していきます。
 ブルゴーニュのカフェテラスでその演奏を見ていたひとりのソーシャルワーカーが惚れ込み、彼が主催するコンサートの前座に出てくれないか、と頼みます。ケタヌーの3人がその会場に行ってみたら、その夜のメインはゼブダだったんですね。ゼブダのファンたちは、この全く無名の大道芸人3人を最初はいぶかしげに、しかし最後には熱烈な喝采とジャンプ&ダイブで歓迎することになります。この夜から、ラ・リュー・ケタヌーはストリート・アーチストからステージ・アーチストに転身し、その進撃は止められなくなってしまうんですね。次いでトリオ(Tryo。フランスのアコースティック・レゲエの人気グループ。名に関わらず4人組であるところはチャンバラ・トリオと同じですね)の前座として彼らの全国ツアーに同行し、パリのオランピアにも登場して、ラ・リュー・ケタヌーは全国的に知られることになります。
 トリオの後押しで2001年にファーストアルバム。配給がトリオと同じメジャー会社(SONY)であったこともあるんでしょうけど、たちまちに2万5千枚を売って、ラ・リュー・ケタヌーはレコード・アーチストとしても成功してしまうわけですね。
 まあ、その数々の成功のことは雑誌記事の方を読んでいただくとして、ラ・リュー・ケタヌーは2003年にその破竹の進撃の頂点で活動を休止します。ゼブダやマッシリア・サウンド・システムみたいなもんですが(こういう例は世界のどこの人気バンドでもあるありふれた話ですが)、3人はソロプロジェクトを始めるわけですね。ムーラドが中心になってモン・コテ・パンク(Mon coté Punk)という不定型集合バンド(ムーラド・ミュッセ、ディケス、ロイック・ラントワーヌ、パダム...)が一方にあって、もう一方にフロランの率いるマヌーシュ・スウィング系のトリオ(ギター、コントラバス、アコーディオン)のタンキエット・ラザール(T'inquiete Lazare)があります。オリヴィエは最初モン・コテ・パンクのプロジェクトに参加しますが、3人のうちで最も演劇寄りの彼は、スラム〜ポエトリー・リーディングの方向でソロを準備しています(ジャン・コルティのアコーディオンをバックに一人芝居のようなスペクタクルをしたのを見たことがあります)。
 こういう3人組が5年のブランクの後に再結成して、極上のシャンソン・アルバム『ア・コントルサンス(逆方向に)』を制作します(2009年2月リリース)。先週の土曜日(11月29日)にオリヴィエ・レイトに会ってインタヴューしたんですが、とても面白い話をするヤツだし、大道で鍛え上がられたコミュニケーション術みたいな、一言一言がとても分かりやすくて熱いエモーションが伝わってくる、ありがたい1時間でした。好きになりましたねえ。この伝導力が決め手ですねえ。握手しただけで暖かさが通じてくる人というのがいますが、私はオリヴィエからはなにかとてつもなく熱いものが伝わってきたように感じました。それを日本語で日本人にどう伝えるかが、私に課せられた問題なのですが... 1週間も10日もかかっても、それを日本語化できないのは、私が大道で鍛えられていないからかなあ、と愚考したりします。
 人に出会うことや、旅することを、いつから億劫になってしまったんでしょうか。オン・ザ・ロード・アゲイン。もう一回出ないといかんなあ、とオリヴィエに教えられたような気がします。

 ラ・リュー・ケタヌーのオフィシャル・サイトに, 活動再開後のライヴヴィデオ(2008年3月ル・アーヴルでのライヴ Les Maisons)が張ってあります。これを見たらだいたいの人はわかってくれるんじゃないでしょうか。


PS 1 (12月8日)
オリヴィエの着てるTシャツ良く見て下さい。「オリジンヌ・コンコトロレ」です。ラ・リュー・ケタヌーは11月(このインタヴューの1週間前)に,ブール・カン・ブレス(Bourg-en-Bresse)という町でオリジンヌ・コントロレ(ムース&ハキム)とジョイント・コンサートをしています。

2008年11月23日日曜日

ストーン、世界はストーン



 Atiq Rahimi "Syngué sabour - Pierre de patience"
 アティック・ラヒミ『シンゲ・サブール 忍耐の石』


 2008年度のゴンクール賞作品です。
 著者アティック・ラヒミは1962年カブール(アフガニスタン)生まれで、カブールのリセと大学でフランス語を学んでいます。79年から84年にかけてアフガン戦争を体験し、パキスタンを経てフランスに亡命しています。ソルボンヌで映画/視聴覚芸術の博士号を取得し、映画監督として自作の小説を映画化した『大地と灰 Terre et Cendres』(2004年)で、カンヌ映画祭「ある視線 un certain regard」部門で出品し入賞もしています。
 フランスで発表した小説は『大地と灰』(2000年)、『夢と恐怖の千の家』(2002年)、『夢想された帰還』(2005年)と3編あり、いずれも母国語であるペルシャ語で書かれたもののフランス語翻訳でしたが、この最新作『シンゲ・サブール』はアティック・ラヒミ自身が初めてフランス語で書いた作品です。
 この亡命アフガン作家がフランス語で書いて、フランスで最も権威ある文学賞であるゴンクール賞を取ったということから、フランス語で書くことの選択は自由なる表現の選択である、というようなフランス語礼賛をする論評も出たりしました(フィガロ紙11月10日付アティック・ラヒミ・インタヴュー"Le Francais, langue de la liberté")。私のレベルでの解釈では、これはフランス語だから自由に書けたということではなく「他国語」だから、ということにすぎないのではないか、と思っています。私などでも母国語では絶対に書けないことというのがあって、その母国語の呪縛というのは倫理/道徳的なことであったり廉恥であったりしますが、他国語を使う時それからある程度解放されている感じは、私の使うようなフランス語でも日常的に体験します。
 最初から話がそれました。
 『シンゲ・サブール』は「アフガニスタンあるいはどこか他所の地」(p11)を舞台にした小説で、戦争で銃弾を受け呼吸するだけの植物人間と化した夫の床に毎日やってきて、点滴液を補給し、目に目薬を与え、コーランを読謡し、数珠玉を回しながら祈祷する妻の独白の形で書かれています。目を見開いて寝たきりで呼吸するだけの夫に、女はモッラー(イスラム法者)から言われた通りの祈祷をし、その回復を待つ貞節な妻を装いますが、時間が経つにつれてその空しさに憤り、その独白は本音がどんどん出て来るようになります。独白と言っても、それは夫に向けられた言葉であり、返答をすることができない相手に向けられた一方通行のダイアローグです。女は夫に対して、夫が知るはずもないさまざまな女の秘密を告白していきます。
 この周囲はまだ内戦状態が続いていて、銃声が聞こえ、誰が敵で誰が味方なのかも、誰が誰を殺すのかもわからない混乱した情勢です。男たちはどちらの陣につくのかも理解せぬまま、聖戦(ジハード)の名によって銃を持たされ、闇雲に戦います。
 女がこの男と結婚した時、男はすでに戦場にいて、婚姻から3年後に初めて二人は生活を共にし、その後も戦況次第で戦場に戻っていきます。この男は不在の夫です。そしてこの二人は夫婦らしい愛情もなく、夫はそれが気に食わなければ妻を殴打することもありました。この男は多くのこの国の男と同じように何も知らない。コーランやモッラーの教えに従って戦場に行くことはできても、他のことは何も知らない。女をどうやって抱くのか、ということも知らない。例えば性的快楽というのは男の側のものであって、男が短時間でも性的絶頂を迎えてしまえば、それでいいわけです。男はそういうものだと思っているわけですね。ところが女はそれで留まっていろ、という男の理屈を軽々と越えてしまうのです。それを男は知らない。
 つまりこの夫となった男は世にもつまらない男なのですが、それでもこの世界の中で女はさまざまな秘密でその人生のバランスを保ちながら、男とこの世界とうまくやってきたわけです。しかしこの男が植物人間になった時、女はこの男をかけがえのない男として確認してしまうのです。そしてもの言わぬ夫にこれまでの秘密をすべて告白していくのです。
 その周囲は男も女も古い権威に従属する社会で、女姉妹7人で生まれたその女は、親に選ばれた嫁ぎ先に純潔の状態で引き取られるしかなかった。そういう社会の中で、二人の人物がその女を啓蒙していきます。ひとりは自分の叔母で、若くして嫁いだものの、不妊症のために嫁ぎ先から放逐され、娼婦として身を立てるしたたかな女性となってこの世にはばかります。もうひとりは夫の父、すなわち義父ですが、その並外れた教養ゆえに、あらゆる形而上的難問に答えを引き出せる、周りの世人にはわからない超越的な賢人として女を知的に支えます。つまりこの女はこの世界でも孤独ではなかったのです。
 女はその秘密の中にそういう知的な解放された女性の感性があり、ただの「従属するべき女性」として実生活で夫と対応していたものとは違う、彼女の素性が次から次へと暴露されていきます。
 題名になっている「シンゲ・サブール」とは、その義父が教えてくれたものです。それは聖地メッカの大モスクの中にあると言われている伝説の石で、字句通りの意味では「忍耐の石」です。この石は人間のあらゆる苦悩、苦労、艱難辛苦、悲嘆を聞き入れるためにあるもので、人はその石に対して苦しいこと悲しいことを隠さずに言い、石はそれをすべて吸収してしまうのです。石はその忍耐の限界までそれを吸い続け、その限界が来た時に石は破裂してしまいます。この石の破裂が人類の破滅、アポカリプスを招くことになるのです。
 女は植物人間の夫にさまざまな告白をしていくうちに、このもの言わぬ男は「忍耐の石」に違いないと信じるようになります。女はその告白に、祓いに似た解放感を覚え、「忍耐の石」と化した夫によって救われる思いを感じます。そのことで、この女にはこの不動の男がかけがえのない対話相手となり、精神分析カウンセリングのような効果を生んでいくのです。
 なんとも魅惑的で形而上的な挿話があります。おとぎ話です。おとぎ話だから幸福な結末がなければなりませんが、幸福な結末は自分で考えなければいけないのです。「昔々あるところにひとりの勇猛な王がおりました。その王は世継ぎは男でなければならないという妄信があり、そのお抱え占星術師も女児が生まれたら王国が滅びると予言しました。しかし妃は皮肉なことに女児ばかりを産み、王はその誕生の度に、刑務役人に新生児を殺してしまうように命じました。刑執行人は最初の女児を殺し、2番めの女児も殺しました。しかし3番めの女児の時、その新生児はなんとこんなことを言ったのです《私の母の女王に伝えてください、私の命を守ってくれたら、女王は自分の王国を持つでしょう、と》。刑執行人はその言葉に驚いて、秘密で女王にそれを伝えました。それを聞いた女王は、王には何も告げず、新生児と刑執行人を連れ立って、その夜のうちに遠い国に旅立っていきました。--- 年月は流れ、かの勇猛な王は征服戦争に勝ち続け、はるか遠方にさる女王が治める小さな王国までその手を伸ばしました。その臣民たちはこの王の侵入を嫌い、服従を拒否しました。そこで王は服従を拒否するのであれば、王国を焼き払うと脅迫しました。女王はその王との交渉を拒否し、王国が焼き払われることを覚悟しました。しかし女王の娘は、女王の反対を押し切って、私に交渉をさせてくださいと、ひとりで王に謁見しました。王は美貌の娘に一目惚れし、娘も王の魅力に屈して一夜を共にしました。そしておまえを妃に迎えることができたら、この王国を救ってやろう、と持ちかけました。その話を持って帰った娘に、元・刑執行人は、実は私はおまえの父親ではなく、おまえの本当の父親はあの王なのだ、と告白します...」
 このおとぎ話はここで終わりです。この話に幸福な解決という出口はあるのでしょうか。女王の国が焼き払われずに、女王の過去の不倫もとがめられず、かつ娘が王(父親)と近親婚をしなくてもすむ、幸福なエンディングというのは可能でしょうか?このことを主人公の女は何晩も何晩も考え続けます。知識人の義父はこれには犠牲者なくして解決の余地はない、と仮説します。この小説の読者もいろいろな仮説を考えるはずです。こういう謎解きに答えはありません。しかし寝ずに考えて自分なりの答えを探してみたくなるではありませんか。

 そしてこの「忍耐の石」は、次から次に暴露される女の秘密に最後には本当に破裂してしまうのです。

 ここにはタブーがありません。アフガニスタンで起こっていることや、男性原理社会や、宗教で問われていることや、何一つ恐いものはありません。ここに生きた女性は、弱々しく頭巾(ブブカ)をまとったふりをして、あらゆることを見抜いているのです。こんな強烈で射るようなユーモアは、今日毎日のように死傷者のニュースが聞こえてくる土地から出て来ていると思うと、かなり衝撃的です。ここが「フランス語で書いたことの効果」である可能性は疑いようがありません。またコーランの一節から、幻想に惑わされたムハンマッドをその妻ハディジャが迷いから覚めさせる部分をして、予言者は女でもあったという論に至る部分はまさにマニフェストです。この小説は21世紀的今日の世界にあって類い稀な、大いなる女性讃歌と言えましょう。

2008年度ゴンクール賞受賞作品
Atiq Rahimi "Syngué Sabour - Pierre de patience"
(Editions P.O.L刊 2008年10月。156頁。15ユーロ)


2008年11月19日水曜日

ジェリ=ムサは歌いすぎるなあ...



 昨夜は10区ニュー・モーニングでコラ・ジャズ・トリオのコンサートでした。
 奇しくもその夜は,同じくコラの名手トゥーマニ・ジャバテのコンサートが11区のバタクランで催されていて,パリの熱心なコラ愛好者たちはどちらに行こうかと迷ったに違いありません。世紀のコラ対決パリの陣といった感じです。
 32弦コラのヴィルツオーゾ,ジェリ=ムサ・ジャワラはこの夜やたらハイでした。3作続いている「コラ・ジャズ・トリオ」のアルバムがいずれも大変なヒット(とは言っても数万の単位ですが)であるだけでなく,前日までのアフリカツアー(ダカール,コナクリ,バマコ...)を大成功させてきた(本人のMCでの弁ですが)こともあって,たいへんな自信が感じられるエネルギッシュなステージでした。歌うわ踊るわしゃべりまくるわ...。
 ニュー・モーニングはアーチストたちの身内/友人たちを除くと,95%が白人のオーディエンスです。これは国営FMラジオFIP(このコンサートの後援もしてます)のリスナーや,モンドミックス紙やリベラシオンやテレラマ誌の読者層と言える,いわゆるBOBO(ブルジョワ・ボエーム)にも近いような白人たちですね。
 ですから立って踊りまくる人たちは皆無で,ジャズ・コンサートのように座って足踏みしたり首振ったりが関の山で,熱の上がらない客席でした。にも関わらず,ジェリ=ムサはコラ弾くよりもマイク握りしめて歌ったり煽ったりする時間の方が長いんじゃないか,という感じのはしゃぎ方で,ちょっと浮いていましたね。ダカールのオーディエンスとパリのオーディエンスでは違うでしょうに。その辺をちょっと考えて欲しかったですね。
 しかしコラを弾かせりゃ世界一,二の実力,ジェリ=ムサのソロ弾きまくりが始まれば泣く子も黙ります。どちらも32弦のアコースティック・コラとエレクトリック・コラの2台を使いましたが,先日のダヴート・スタジオでのミニ・ライヴの時はさほど感じなかったのに,今夜はエレクトリック・コラの「キンキン」という鋭い響きが強烈で(共鳴胴がついていないので音の丸みはつかないですよね),観客の中には耳を抑える人もちらほらでした。高音部の超高速アルペジオというのがアドリブの見せ場ですが,まあ確かにすごいですね。舌を巻きます。
 昨夜もちょっとだけディジカメでヴィデオ撮影しました。
 ↓サードアルバムに入っているコンパイ・セグンドの「チャン・チャン」のカヴァーです。

2008年11月14日金曜日

テー氏の帰還(テー氏かんばく... 苦しい)



 テー氏とその若い衆『埴生の宿』
Moussu T e Lei Jovents "Home Sweet Home"


 昨夜13日は事務所から歩いて10分,メニルモンタンの坂の中腹にある小屋「ラ・ベルヴィロワーズ」で,ムースー・T & レイ・ジューヴェンの新アルバム『埴生の宿』のお披露目コンサートでした。ホリゾンはラ・シオタの造船所の写真で,もうこのバンドに関してはホーム・グラウンド(あるいはホーム・スウィート・ホーム)はラ・シオタであって,マルセイユではない!と宣言しているような感じ。MCもマルセイユのことはほとんど言わず,ラ・シオタのことばかりで,マッシリア・サウンドシステムの中のタトゥーではないことがよくわかります。そして,音楽がみんなユル〜い。ドラムスのゼルビノを真ん中に,バンジョー&ギターのブルが左側に椅子に座って陣取り,テー氏が右側でこれまた椅子に座ってヴォーカル(&カズー)という布陣。マッシリアのようにみんな踊りまくるわけではなく,ユル〜いスウィングに合わせて体を揺すっているだけという感じですが,これがまた南っぽくていいですね。
 考えてみれば2006年からの短期間にもうアルバムを3枚(ベスト盤入れると4枚)も発表しているんですね。この3枚の中から,やっぱり定番曲(スタンダード曲って言うのかしら,オーディエンスがご唱和できる歌)が結構あって,「マドモワゼル・マルセイユ」や「ボレガ・バンジョー」や「ア・ラ・シオタ」(part 1 & 2)みたいなのは会場が沸きますね。
 さあ,次はロックンロールだ! というMCで始まったのが「オプラティ・オプラタ」で,先達へのリスペクトなんですが,もちろんビートルズ,そしてそれをオクシタン・チャチュに変えたクロード・シクルとダニエル・ロッドーへのオマージュです。
 やっぱり南はよろしいですなあ。ちょっとだけディジカメでヴィデオを録りました。これはアルバム『マドモワゼル・マルセイユ』に入っていたもので "Lo Gabian"(ロ・ガビアン = カモメ)という曲です。ちょっとカモメには見えないですが,テー氏が鳥のパペットを操りながらの楽しいパフォーマンスです。ほとんど子供向けと言ってもいいでしょう。リフレインはこんな感じです。

 S'eri lo gabian, s'eri lo gabian
 S'eri lo gabian m'en anariau
 S'eri lo gabian, s'eri lo gabian
 Sus la testa deil mechants, cagariau
 もしも僕がカモメだったら,飛んで行ってしまえるのに。
 もしも僕がカモメだったら,悪いやつの頭に糞を落とせるのに。


 100%そうカモメ。

2008年11月13日木曜日

ノワール・デジールの新曲




11月12日からノワール・デジールのオフィシャル・サイトで,新曲"Gagnants/Perdants (勝者/敗者)"と,2002年のミラノでの未発表録音でパリ・コミューンのシャンソンとして知られる"Le temps des cerises(さくらんぼの実る頃)"のカヴァー,以上2トラックを無料ダウンロードすることができるようになりました。
 ものすごく混んでいるのか,私は3回ぐらいトライしていますが,時間がかかりすぎていつも中断されてしまいます。今晩しつこくやってみましょう。

 PS 1 (11月14日)
 私のように何度やってもダウンロードできない人たちへ。
 テレラマ誌のインターネット版のA-t-on encore du désir pour Noir Désir (人は今もなおノワール・デジールへのデジール=欲望があるのか)と題されたエマニュエル・テリエの記事のページで問題の2曲が試聴できるようになっています。

 PS 2 (11月15日)
 やっとダウンロードに成功しました。"Gagnants/Perdants"は、シンプルな3コードの純プロテスト・ソングで、強者(gagnants)をより増長し、弱者(perdants)をより隷属化させる世界傾向に、シンプルでダイレクトな言葉で抗議しています。ベルトラン・カンタの声はストレートで、抑制がきいていて、説くような歌いぶりです。サルコジ治世に正面切ってものを言う態度です。それはノワール・デジールの持っていたロックンロール的アイデンティティーなんですが、この再登場はさまざまな反響を呼んでいます。
 ↑でリンクしたテレラマ誌のサイト上での投稿フォーラムのやりとりは興味深いです。エマニュエル・テリエが長年ジャーナリスト(レ・ザンロキュプティーブル誌→テレラマ誌)としてノワール・デジールを密度濃く取材してきた経緯があり、その後でこの新録音を聞いて躊躇してしまった心情を吐露して、読者と共にみんなで議論しようではないか、と始めたフォーラムです。待っていたファンには、テリエに対してその躊躇を理解せず、ここにある音楽と声と詞は新生ノワール・デジールのものであると歓迎する者が多いです。躊躇する者はフランス最高のロックンロールバンドという過去と比べるものもあり、こういう「プロモーション」の臭いがする発表方法に疑問を持つものもあります。
 一般のラジオ/テレビ/新聞/雑誌ではやはり「芸能ネタ」扱いで、どうも感心しません。「殺人者がどうしてスター復帰できるのか」式の発言が目立ちます。
 一部のプレス(地方新聞SUD-OUEST紙)は「2010年7月アングーレームのフェスティヴァルで復帰ライヴ」を報道しているそうです。
 
 

2008年11月11日火曜日

今朝の爺の窓(2008年11月)



 昨夜から今朝未明にかけてたいへんな風雨でした。言わば台風一過のような今朝の青空です。この風雨のおかげで葉っぱがずいぶん落ちてしまいました。河岸のポプラは裸です。通り手前のプラタナスもずいぶんスケスケになりました。流れの早いセーヌ川が良く見えます。対岸のサン・クルーの森もごらんの通りの茶色状態で、これから2月まではもっと無彩色の冬景色になります。
 昨日の夕刻、娘の中学校(コレージュ・バルトルディ)に呼び出されました。第一学期の主要科目のテスト成績を見て、これでは「普通科高校」は難しいのではないか、という厳重注意を、担任教師と、同席した校長から、数分ずついただきました。オーディオ装置のスピーカーテストのようでした。右側からの悲観的な分析と、左側からの「将来は今決定される」式の説教と、ステレオ効果に挟まれて、私とタカコバー・ママとセシル・カストールは小さくなっていました。要は「外国人だから」という言い訳を完全に捨ててもらわなければ困ると言っているわけで、この子のフランス語力はあなた方が何人であろうがクラス平均点以下ではこの子の将来はないと思いなさい、というロジックでした。
 確かにときどき思ってました。この子は私のようなフランス語をしゃべっているな、と。私のフランス語を聞いて育っているのだから、当り前でしょうが、私のフランス語というのはお世辞にも模範になり得るようなフランス語ではないのです。確かに私よりも文法的な間違いのないフランス語ですし、私よりも語彙数も口数も多いフランス語です。ただ、本当に私に似ているんだわ。昨日は娘の中学校から、私のフランス語はダメなんだぞおおお、と断定されたようなショックがありました。
 私のフランス語問題はともかくとして、娘のフランス語改革を考えてやらねばならなくなりました。ややこしい言語ですが、奥が深いので、私もできるだけつきあってみようと思っています。数学、フランス語、英語、高校受験(ブルベ)まで必死でするしかないのだけれど...必死という言葉にリアリティーを持てないのは父親ゆずりなんだろうなあ....。
 
 

2008年11月9日日曜日

笑ってはいけないもの



 Jean-Louis Fournier "Où on va, papa?"
 ジャン=ルイ・フルニエ『どこに行くの、パパ?』


 「障害を持った子の死はさほど悲しいことではないなどと思い込んではいけない。それは普通の子の死と同じほどに悲しいものだ。生涯一度も幸せだったことのない子供の死、苦しむことだけのためにこの世に産み落とされた子供の死は残酷なものだ。その子の死は、その笑顔の思い出すら残すことができないのだ」(P.90)

 ジャン=ルイ・フルニエ(1938 - )はそれまでお笑い系の人でした。テレビ番組制作者、コメディー脚本家、コント作家などで、黒い笑い、黄色い笑いを含めたあらゆる笑いの提供者でした。またタブーを知らぬ黒いユーモアで知られた希代のボードヴィリアン、ピエール・デプロージュ(1938-1988)の演目の共同作家でもありました。どういう笑いかと言うと、例えば1998年の作品『神の履歴書』では、失業した神様が再就職探しに苦労する話です。その中で面接で人事部長がその履歴書を見て、どうしてあなたは「老い」をお創りになったのですか?と聞きます。すると神は「人間は醜くなったりリューマチが出て来たりした時に死ぬほうが、きれいで健康なままで死ぬよりもいいでしょう」とその創造を正当化します。フルニエによると、老いとはいつに始まるかと言うと、日焼けしていても醜くなったら、それは老いたということなのです。
 そういうふうに老人や、神や、宗教や、外国人や、一風変わった人たちを揶揄してユーモアで包んで笑わせるというのがフルニエのアートでした。ギ・ブドス、ハラキリ誌やシャルリー・エブド紙、カナル・プリュスの「ギニョール」などとも近い、あらゆるものを揶揄して笑いものにする側の人間です。笑いにタブーはないのか,本当に何を笑ってもいいのか,というのがこの人たちについて回る「笑いの限界」の問題です。非ユダヤ人がユダヤ人を笑うこと,非アラブ人がアラブ人を笑うこと,非黒人が黒人を笑うこと,健康人が病人を笑うこと...ここにリミットを設けようとするのが,「良識」であり,「道徳」であり,社会的秩序を壊してはならないとする権力の意志でもあります。
 この国には去年から,笑われることも揶揄されることも極端に嫌う大統領がいます。にも関わらず,大統領を笑いものにするお笑い芸はテレビやラジオに溢れていて,無法地帯であるインターネット上は言うまでもありません。それに対してこれまでも数件の訴訟を立てて大統領は自分への不敬を罰しようとしています。これがある日あらゆる大統領への不敬を禁止する法律となったらどうでしょう? 笑いの限界を「国」が決められることになったらどうでしょう? - ある種の笑いを作っている芸人やコント作者たちは,そういう限界を定められることを拒否して,命をかけて笑いを守ろうとする戦士でもあります。端的な例がコリューシュ(1944-1986)でした。
 さてフルニエの本です。フルニエですから条件反射的に読者は「今度はどうやって笑わせてもらえるのだろうか」という期待があります。70歳を迎えようとするフルニエは,これまで公にしていなかったことを初めて書きました。これは今まで書けなかったのです。まったく笑うことができない生々しい現実であったからです。

 愛するマチュー,
 愛するトマ,
 おまえたちが小さかった時,クリスマスに私は何度かおまえたちに本(例えば「タンタン」)を贈りたいという誘惑にかられた。そして読んだらおまえたちと一緒にその本について語り合いたいと。私は「タンタン」をとてもよく知っている。私はその全巻を何度も読んだんだから。
 私は一度もそうすることができなかった。それは無駄なことだから。おまえたちは読むことを知らなかったし,おまえたちは一生読むことができないのだから。


 二人の息子への手紙のかたちでこの本は始まります。150頁のこの書はフルニエが持った二人の重症障害児の息子への断章集です。これは「障害児と共に生きる」といった愛と感動のリポートの類いの書物ではありません。「彼らと共にある時,天使のような忍耐力が必要だが,私は天使ではない」とフルニエは書きます。また彼らのおかげで,フルニエは普通の子の親たちが持つ勉強・進学・将来の職業への心配苦労を味あわずに済んだ,というような苦し紛れで負け惜しみの苦いユーモアが随所に現れます。
 新生児に障害があることはすぐにはわかりません。ある日成長が遅れているのではないか,と気づき,その遅れは大したことではないのか,それとも重大なことなのかの判断にも時間がかかります。身体的に障害があるとわかっても,脳の方は大丈夫だから,と言われ,またしばらく時間が経って,いろいろな病院の検査の末,ある日勇気ある医師が「身体的な障害と精神的な障害」を最終的に宣告します。1962年に生まれた長男マチューでこのドラマを体験したフルニエは,妻が次に妊娠した時に,二度同じことがあるわけがない,と信じ込みますが,1964年に生まれたトマは同じように障害のある子だったのです。
 その極端に苦渋に満ちたユーモアは,それを「この世の終わり」のようなショックと言うのですが,フルニエの「この世」は二回も終末を迎えてしまったわけです。
 インタヴューの中でフルニエは「パトス(悲壮,感の極み)を避けること」を肝に銘じて書いたと言います。この二人の不幸な子を前に,親の溢れる愛情は毎日川のような涙を流す,というシーンはありません。しかし,そのやり場のない悲しみと憤怒は,一度だけ激情となって,二人の息子を車のバックシートに置いたまま,ウィスキー1本を飲み干して目を閉じてアクセル全開で突っ走りたい,という衝動があったことも吐露されます。
 ハンディキャップとは何か,障害とは何か。ノーマルであることとノーマルでないこと。フツーであることとフツーでないこと。フルニエは省察します。自分はガキの時分からフツーであることが大嫌いだった。人と違う目立ったことをし,人と違うということが自慢だった。そういう親の子として,人と全く違う子で生まれたわが息子たちを,どうして自分は祝福してやれないのか。
 フルニエの想像は,この地球の上で限りなく不幸なこの二人の子供は,もしかしたらどこか他の天体ではフツーに生きられるのではないか,と考えたりします。またこの子たちは羽をもがれた鳥であり,羽さえあれば空と調和して生きられるのではないか,とも。
 あまり良い父親の姿はありません。呼吸し,時々ぎゃあぎゃあわめくだけのこわれもの人形のように世間から見られている二人の息子の前で,何もできずに立ち尽くすしかない男です。親の気も知らないで,と舌打ちすることもあります。
 「どこへ行くの,パパ?」というたったひと言のフランス語しか言えない息子です。Où on va? 私たちはどこに行くのか? 僕たちはどこへ行くのか,教えてパパ。父親は家に行くと答えたり,海に行くと答えたり,障害者施設に行くと答えたりしますが,子供はその答なんか関心がないのです。この子たちにも父親にもこの問いの答はないのです。
 ヴァカンスで海へ行きます。トマは海が嫌いです。それを知りながら話者は無理矢理浜辺まで車いすを押して行きます。トマは困惑の極みで,こう叫びます「ウンチ!ウンチ!」,こう言えば父親は方向転換をしてくれるはずだと思ったのでしょう。フルニエはこのことに驚くべき発見をします。トマはうそをつくことを知っている,と。

 この150頁は不可能かもしれない父親と重障害児の息子二人の魂の交流です。斜に構え,皮肉っぽいポーズもありますが,揶揄はもっぱら「ノーマル」とされている世界の側に向けられます。そして「ノーマル」と思っていた自分自身への揶揄でもあります。泣笑いの本です。読む者がこの本で笑う部分も少なくありませんが,それはこの子たちと一緒に奇妙な「ノーマル社会」とその一員であるフルニエを笑うことです。
 もしもおまえたちがノーマルだったら - この仮定に託されたフルニエの蓄積された思いは,あれもできたかもしれない,これもできたかもしれないの末に,やっぱり不幸かもしれないと無理矢理に結語しようとするのです。おまえたちがノーマルだったら,障害児の親になるかもしれないじゃないか,と。
 結論はありません。この二つの魂と共に生きた父親の記録があるだけです。よく選ばれた言葉で,時おり詩的に,時おり散文的に,ノーマルと非ノーマル世界を行ったり来たりする旅行記のような趣きもあります。ノーマルな人間は深く揺さぶられてください。


 2008年度フェミナ賞受賞作品
 Jean-Louis Fournier "Où on va, papa?"
 (Stock刊 2008年9月。156頁。15ユーロ)



 

2008年11月8日土曜日

今朝のフランス語「クークー」



 くうくう【空空】
 (1)何もないさま。むなしいさま。(2)[仏]大乗仏教の根本真理である空の立場は固定的に実体現されてはならず、さらに空として超克していかなければならないということ。空のまた空。
 (広辞苑第4版)

 coucou[kuku]〈擬音〉n.m. 1.【鳥】かっこう。2. 鳩時計(=pendule à 〜)。3.【植】ラッパ水仙(=narcisse des bois)
 coucou[kuku]ーint. 1..C〜!(隠れんぼで)鬼さんこちら。2.C〜(me voilà) !(不意に現れて)ばあ!
 (新スタンダード仏和中辞典)

フランスの社会党(PS)は2002年大統領選第一次選挙でのジョスパン落選以来、万年野党の地位に低迷しています。それはその旧体質が原因していると言われ、イデオロギー政党の教条主義からなかなか抜け出せないために支持者を失っていきました。この社会党の頑固な古株は「マムート」(マンモス)と呼ばれ、ジョスパン、ロカール、エマニュエリ、ラング、モーロワ等々のミッテラン時代の化石遺産を排除しない限り、21世紀的現実に対応する政党として再生できないと言われていました。2005年に、セゴレーヌ・ロワイヤルが大統領選に出馬の意志を表明した時、社会党内では「じゃあ、家事は一体誰がするのかね?」という滅茶羅苦茶羅な女性差別の発言をするマムートがいて、社会党に巣食うアナクロ病の重さを感じさせたものでした。
 そういう社会党だから体質を刷新して、サルコジと一騎打ちできるような若手が出てくるかどうかが、2007年選挙の課題だったわけです。セゴレーヌ・ロワイヤルは徐々に陣地を拡げて、公認候補として正式に選出されたものの、党内には足をひっぱる輩がいっぱいいて、何か失言したりするたびに「ああ、やっぱり女だから」みたいなことを平気で言うやつがいて...。
 2007年5月大統領選、サルコジ54%、ロヤイヤル46%という「大差」で負けた時から、党内でロワイヤル降ろしが始まり、この女だから負けたのだ、というかなりローブローな非難が集中します。
 あれから1年半、社会党は派閥抗争を繰返し、リーダー不在のまま、フランソワ・オランド(結婚はしていなかったがセゴレーヌ・ロヤイヤルの元伴侶。大統領選挙前から既に破局。)が占めていた党第一書記の地位をめぐって、内部対立が顕著になっていましたが...。
11月14日にランスで開かれる党大会で、その第一書記が選出されることになっていますが、その立候補者4人の4つの党方針構想に対する党員の承認投票が11月5日に行われ、11月6日午前2時にその開票結果が発表され、大方の予想(パリ市長ベルトラン・ドラノエがトップになるであろう)を裏切って、セゴレーヌ・ロワイヤルが第一位となったのです。
 1年半吹き荒れたロヤイヤル降ろしの嵐にもめげず、傷だらけのセゴレーヌは帰ってきました。なんだかんだ言われても、サルコジと一騎打ちが出来る器の左翼人はセゴレーヌ・ロヤイヤルである、と党員は信頼を再び託したわけです。この1年半の臥薪嘗胆時代、セゴレーヌはよく耐えたし、何を言われようが、サルコジ政治への批判発言をやめようとしない、頑なな反サルコジ姿勢が、再び正当な評価を受けようとしているのだと思います。
 11月8日、リベラシオン紙の第一面は「クークー、セ・モワ!」と見出しされた、セゴレーヌ・ロヤイヤルのカムバック記事です。空のまた空。そうやって超克していってくれれば、この女性は大政治家になると思います。
 折りも折り、オバマ当選の興奮から醒めない多くのプレスは「フランス版オバマの登場はありうるか?」みたいな問いを出します。その時にセゴレーヌ・ロヤイヤルのカムバックが重なって、「えええ!? またあの女!?」のような侮蔑的な反応もあります。フランスは社会党内だけでなく、全国的に旧体質の考え方がまだまだ抜けないのです。

 ←社会党のマンモスたちは「死刑!」と言っているようなポーズ。

2008年11月7日金曜日

Abd Al Malik... casse la baraque!



 10月1日の『アブダ仏如来』の続きです。11月3日、アブダル・マリックのサードアルバム『ダンテ』がリリースされました。レコード会社の発表によると発売時で6万枚のセールスだそうです。これは今日の業界の状態を考えれば、異例のヒットと言えます。
 私はやや遅れて11月6日の午後に現物を手にしました。ダブルディジパックの重いパッケージの中に重い13曲のCDと、重いブックレット(ああ、すべてのライムが重いですよ!)と、12枚の表裏印刷の美麗ピクチャー・カードが入っていました。豪勢ですが、金ピカではないです。

 1曲1曲の印象は数時間後に書きます。

 11月6日午後9時、国営ラジオ France Inter(フランスアンテール)で新アルバム『ダンテ』のお披露目ショーケースが放送されました。ジェラール・ジュアネスト(ピアノ/指揮)の楽団と共に6曲演奏されました。
- C'est du lourd
- Gilles écoute un disque du rap et fond en larmes
- Lorsqu'ils essayèrent
- Roméo et Juliette (feat. ジュリエット・グレコ)
- Paris mais... (feat. ヴァレン)
- Noces à Grenelle

 4曲めのイントロダクションでこう言ってます「俺にとってアーチストであるということは、ジュリエット・グレコであるということなのだ」。
 このスタジオ・ライヴの映像がまるまるデイリー・モーションで公開されています。(↓をクリック)
 アブダル・マリック/フランスアンテール
 まあ、見てやってください。エモーションの連続で、フランスアンテールの小屋が壊れる、という感じ、お分かりになるでしょう。
 

 

 

2008年11月5日水曜日

今朝のフランス語「カセ・ラ・バラク」



Casser la baraque
casser [カセ]は壊す,割る,折る,破壊するという意味の動詞です。baraque[バラク]は,日本語になっている「バラック小屋」(物置小屋や建設現場の飯場,あばら屋,掘建て小屋...)という意味だけではなく,移動遊園地などにある見せ物小屋や露天屋台という意味でも使われます。文字通りの直訳では「小屋を壊す」ということになりますが,これは主に芸能界で使われる表現で,興行が大当たりする,歌手や芸人がショーで大成功する,という意味になります。つまりショーを打った小屋が観客の大喝采大熱狂で壊れてしまうような図を想像していただければいいでしょう。

 Il a cassé la Barack, Obama


今朝,フランスの某ブログでこんな見出しを見ました。あたりまえですが,「オバマは小屋を壊した」という意味ではありまっせん。

2008年11月4日火曜日

Less Worse Blues



 マリオ・カノンジュ『ライヴ - リゾーム・ツアー』
 Mario Canonge "LIVE - Rhizome Tour"


 盛岡の彼女,マリオ・カノンジュ(1960- )はマルチニック島出身のピアニストで,同島を代表するビギン・オーケストラのマラヴォワのリーダーだったポロ・ロジーヌが亡くなってからは,マラヴォワのピアニスト/編曲家の役もつとめています。80年代以降に出て来た島の新しい凄腕ミュージシャンたちのひとりで,最初ジャズフュージョンのバンド「ウルトラマリン」で注目され,その後はビギンやズークやサルサもすれば,ジャズやフュージョンもする,というオールラウンド型のピアニストです。マラヴォワからソロ・ヴォーカリストになったラルフ・タマールのピアニスト/作曲家/プロデューサーでもあり,前述のマラヴォワの他にラテン・ジャズのコンボ「サケショー」(熱い酒,熱燗)のリーダーでもあり,タマールやカノンジュのアルバムを出しているレコードレーベル Kann'Productionsのオーナーでもあります。
マルチニック島の伝統ということでは,マリウス・キュルチエ,アラン・ジャン=マリーの後継者として当代一のビギン・ピアニストと言えるでしょう。このCDのボーナスとしてエンヘンストされたクイックタイム映像で,ステリオ作のマズルカ曲「マニクー・ヴォラン(むささび)」のソロ演奏が見れますが,島のリズムでうきうきしてしまいます。
 小柄でちょっとずんぐり体型で,ステージでは大変ひょうきんだったりしますが,あだ名は「シューペル・マリオ(スーパー・マリオ)」で丸顔に口ひげがそういう雰囲気です。しかし,私はマリオを見るとどうしても,昭和時代のプロレスラーで,グレート東郷という人を思い出してしまうんですね。わかりますか?

 さてこのライヴは2004年に出した『リゾーム』(地下茎,根茎という意味ですが,ドゥルーズとガタリによる現代哲学用語でもあります)というアルバムの後のツアーでの録音です。ピアノ+ドラムス+ベースのトリオです。第一曲から白熱のビギン曲で始まる,それはそれはたいへんなライヴで,シューペル・マリオの面目躍如といったところですが,私はこのアルバムの見本CD-Rを10月にレーベルからもらった時から,ほとんど1曲ばかりを繰り返し聞いていました。
 それはスパイク・リー映画『モー・ベター・ブルース』のサントラ・テーマだった "Mo' Better Blues"のカヴァーなんですが,このCDでは6曲目(最終曲)で収録されています。私はあの映画も大変好きでした。カノンジュのアレンジはゆるめのゴスペル風で,主旋律をハミングでオーディエンスと唱和したりして,とても良い雰囲気で展開します。

 話はがらりと変わって,今日はステーツの大統領選挙投票日です。フランスのラジオ/テレビ/新聞,これほど興奮して報道されている米大統領選挙は前代未聞です。ブッシュ時代を終わらせる選挙だからなのか,カラードの大統領という歴史的選択のせいなのか,ラジオ/テレビは今夜は徹夜で特番を続ける構えです。
 私は昔からアメリカの大差ない保守2大政党での選挙戦というのに白けてしまう傾向がありました。今回もその考えに変わりはないですし,オバマの超巨額の選挙資金というは一体何なのかを考えると,この人は無名の民たちのことを真っ先に考える政治家では絶対にないことが確信できましょう。まあそんなこと言っても,あの人かこの人かというチョイスしかアメリカの人民たちに残されていないのなら,私は今度だけは,お願いだから,後生だから,バ ッ ド チ ョ イ ス だ け は 避 け て ね と言いたいわけです。ブッシュを2期も当選させてしまった国なんだから...。
 その意味でですね,この「モー・ベター・ブルース」が胸に響くのですよ。「モー・ベター」というチョイスは今度の選挙にはないかもしれないですが,「Less Worse レス・ワース」というチョイスだけはしてくださいよ,と。

<<< プレイヤーズ >>>
マリオ・カノンジュ Mario Canonge - piano
リンレイ・マルト Linley Marthe - bass
チャンダー・サージョー Chander Sardjoe - drums

<<< トラックリスト >>>
1. Manman- Dlo (Mario Canonge)
2. Madikera (Mario Canonge)
3. Where are you ? (J Mc Hugh)
4. Plein Sud (Mario Canonge)
5. Lueyr Eteinte (Mario Canonge)
6. Mo' Better Blues (Bill Lee)
+ Bonus video (Quick Time) "Manicou Volant"(A Stellio)

CD KANN' PRODUCTIONS 150971
フランスでのリリース : 2008年11月3日

 
 

2008年10月26日日曜日

ゲンズ、ゲンズ、ゲンズ・ワールド



 今日から冬時間でして。
 昨日シテ・ド・ラ・ミュージックで開かれているエキスポ『ゲンズブール2008』(10月21日〜3月1日)に行ってきました。午後2時半頃着いて、行列待ちが1時間ほどでした。土曜日、しかも子供たちの秋休み(ヴァカンス・ド・トゥーサン)期間中なので、ゲンズブールの熱心なファンと言うよりは、家族連れやらフツーっぽい人たちの方が多く、チケット買い待ちの行列の私たちの前と後ろは全然ゲンズブールっぽくないおじさん/おばさんばかりでした。
 チケットは買えても、その後でまた入場者数制限でまた20分ほど待たされました。会場の入り口への通り道がハルモニア・ムンディのショップで、ゲンズブール関係の書籍、CD、レコード(LPが多く復刻再発されてます)は豊富に置いてあって、みんなたくさん買っているので、ちょっとびっくりしました。ミュージアム・ショップというのはどこでも購買力をそそる何かがありますよね。世界恐慌とは縁のない世界かもしれません。
 さて会場に入りますと、メイン展示場はゲンズブールの年代別の変遷を、壁には写真+時事ドキュメント、柱には映像(ヴィデオ)と画像というやり方で展示されていました。リュシアン・ギンズブルグからセルジュ・ゲンズブールになり、ゲンズブールから影の分身ガンズバールがあって、画家、バー・ピアニスト、シャンソニエ、自作自演歌手、映画俳優、映画監督、性倒錯、ロリータ偏愛、詩人、作家、CM作家、魅惑のクルーナー、ロッカー、ラスタマン、美人歌手プロデューサー、テレビ挑発人、エレクトロ・ファンクマン、近親性愛者、病人...., まあまあマルチな位相を持った人物でしたが、それをこの小さなスペースで全部見せようというのは、どだい無理な話です。特に壁に張ってあった小さい図版のドキュメントの数々は、エキスポ用に拡大するような工夫がどうしてできなかったのか、とても不満です。見づらく判別しがたく、凝視するのにとても疲れました。これらのドキュメントは、詰まるところ、あまり珍しいものではなくて、たくさん出版された伝記本や写真集などで多くの人たちは既知(デジャ・ヴュ)のものばかりでしょう。
 「キャベツ頭の男 L'homme à la tête de chou」の彫刻や、パウル・クレーの「星からの悪い知らせ」の原画、それからフランス国家「ラ・マルセイエーズ」の作者ルージェ・ド・リールの直筆の歌詞原本など、ゲンズブールに大きなインスピレーションを与えたものも陳列されています。
 ヴェルヌイユ通りにあったゲンズブール邸のプライヴェート・コレクション(ワッペン、腕章、ピストル、弾薬...)も、娘シャルロットの許可で陳列されていましたが、私はこんなもんじゃないでしょうが、という印象があります。と言うのは、(こういう家族連れの入場者たちにはあまり見せられないもの、という主催者側の判断でしょうが)、ゲンズブールが蒐集していたエロティックなオブジェのコレクションが一切公開されていないんですね。それだけでなく、毒々しい趣味を持った倒錯のアーチストという部分がほとんど見えてこない展覧会で、私は少なからず失望しました。
 家族連れで見に行って、20世紀後半のフランスにはこんなにポップなアーチストがいたのだ、と再認識させるにはそれなりの意味を持ったエキスポかもしれません。しかし、このナルシスティックなアーチスト像は、こんな中途半端なエキスポでは、ダリにもコクトーにもウォーホルにもなれないような、テレビで良く見たヴァリエテ芸人ゲンズブール(+若干の延長)としてしか見れないような印象でした。残念です。

2008年10月21日火曜日

機関車は走るのです



Jean Echenoz "Courir"
 ジャン・エシュノーズ『走るなり』


 タイトルの出典は小坂忠の71年頃の歌です。「忘れ物はもうありませんねと機関車は走るのです」という歌い出しです。妙な歌です。
 遠い昔,北国の洟垂れガキだった時分,西津軽郡鰺ヶ沢町立西海小学校という古い学校に入学する時,どういうわけか学力テストのようなものがあって,先生が1枚の絵を見せて,それにどんなものが表されているかを言ってみてごらん,と言うのです。そこには一台の自動車が描かれていて,都会のような光景だったと記憶しています。私は見たままにこう答えました。「自動車が歩いています」。先生は笑って「自動車は歩くもんじゃないよ。自動車は何をしているかな?」と質問を変えました。- 私の家に自動車はなかったし,生まれてからそれまで自動車なんか数度しか乗ったことがなかった私には,自動車が何をするものなのか,私には答えることができなかったのです。答えに窮して,私はその場で大声で泣きました。
 このショックで私は小学校に入りたくないとかなりゴネたのですが,時はゆっくりとその痛手を解消してくれたものの,その後もずっと私には「自動車は歩くものではない」というロジックが理解できないでいたのです。「自動車は動く」「自動車は走る」は日本語として正しいが「自動車は歩く」は正しくない。人間や動物は「歩く」ことも「走る」こともできるのに,自動車や汽車は「走る」ことはできても「歩く」ことができないのです。 「歩く」と「走る」の違いは何でしょうか? 速度の問題ではないのです。歩くとは「足裏の一部が常に地面に接地している」一連の動作のことで,それに対して走るは「足裏のどの部分も地面についていない瞬間がある運動」なのだそうです。自動車や機関車には足裏があって,それが地面についていない時があるのか!
 まあ,それはそれ。
 機関車は走るものであり,歩くものではありません。「人間機関車」と呼ばれた人間も走ることだけが許され,人間並みに歩くことができなかったのです。

 小説とは関係のない長いイントロになりました。ジャン・エシュノーズの小説『Courir - 走るなり』は,前作の『ラヴェル』同様,実在した人物の自由翻案によるポートレイトで,モデルは人間機関車エミール・ザトペック(1922-2000)です。『ラヴェル』の時もそうでしたが,エシュノーズは史実に即した偉人伝を書く意図は全くありません。実像を暴露するという意図もありません。しかし,この人物について多くの人たちが伝え聞いて想像していたようなスポーツヒーローの姿はこの小説には登場しません。むしろヒーロー像とは無縁の「フツー」の人がそこにあります。たまたまその状況に居合わせた人という感じなのです。
 チェコ(当時はチェコ・スロヴァキア)のモラヴィア地方の職工の息子エミールは,スポーツ嫌いの子供ででした。学校で無理矢理させられる体育授業が嫌いで,特に団体競技が嫌いで,欧州の子ならば誰でも好きでやるはずのサッカーが大嫌いでした。それでも授業などで強制的にサッカーをやらされる時,エミールは球が自分にやってきたら,とにかく出来るだけ遠くに蹴り返すというのが彼のやり方で,ルールや敵味方の動勢などまったく頓着しないのでした。靴の工場で働きながら,教員資格のための学校にも通う,勤勉な青年でしたが,ナチス・ドイツがチェコを占領して運命は変わります。ナチの国家社会主義は体育教育を重要視し,靴工場でも学校でもスポーツと競技会が頻繁に行われるようになり,運動嫌いの青年も競技会に出場させられ,長距離走で,こんなめちゃくちゃな走り方では絶対に最後まで走り通せるわけがないという,後世に知られることになるザトペック走法で勝ってしまいます。
 野球でも,美しい投球フォームのピッチャーが必ずしもすごい球を投げるわけではありません。村山実はその全身投げのようなピッチングを「ザトペック投法」と呼んだのですが,それは美しくないだけではなく,体に大きな余分な負担をかけるのです。エミールは腕の振りにしろ,上体の傾きや揺れにしろ,足の蹴り出しにしろ,無駄が多く,不規則で,体の各部位への負荷も大きく,スポーツ力学の理論にことごとく反するわけです。だからエミールにはコーチがいないのです。自分のやり方でしか走れないから,自分にしか通用しないトレーニング方法(ザトペックの「インターバル練習法」)を自分で考案してしまいます。
 しかしこの自己流の長距離ランナーは,多くの識者/専門家の予想を裏切って,次々と勝ち進み,記録を更新して行きます。これは当時のチェコの指導者たちからすれば,必ずしも歓迎されたことではなかったのです。地方大会や国内大会で勝っているうちはまだしも,国際競技会で勝つということは,なにかと波風が立つのです。ナチス占領時代は,この選手がドイツ人選手を破って勝つというのは... まずい。ナチス時代が終わり,チェコの共産主義建設時代は,この選手が共産主義の偉大な先輩たるソ連の選手を破って勝つというのは...まずい。というふうにエミールの国の上層部は思うわけですね。にも関わらず,エミールはそんなことおかまいなしに勝ち進んで行きます。しかも,いくら勝っても,ゴールに入るまでのあの断末魔の苦悶の顔をしながら,体を傾けながらがむしゃらに走るのは変わらないのです。
 この小説の23頁めで,エミールは世界で最初に「ラストスパート splint final」を生み出したことになっています。それまで長距離走というのはできるだけ平均的に走行速度を保って最後まで走り抜けるのが常識だったのに,エミールは最後の直線まで十分な力を温存させておいて,そこで一気に全速力で走りきるということをしてしまったわけです。
 今と違って,長距離ランナーというのは「職業」になりえなかった時代です。ましてや共産主義の国チェコ・スロヴァキアではエミールはそればかりをしているわけにはいかず,職業的には軍人として体育教官となります。国際大会に勝つたびに軍人ザトペックの階級は昇進していきますが,国際的なスポーツヒーローとして派手な生活ができるわけはなく,同じく陸上選手(やり投げ。60年ローマオリンピックのゴールドメダリスト)の妻とたいへんつましい生活を送っています。エミール・ザトペックの頂点は52年ヘルシンキ・オリンピックでの,長距離3種目(5000メートル,10000メートル,マラソン)での金メダルです。こんなことは後にも先にも誰にもできるわけのないことでしょう。
 しかしいくら勝っても,共産主義チェコはこの国際チャンピオンをことさらに重要視しようとはしないのです。個人タイトルというのは共産主義の理想とは異なるものだからかもしれません。建設途中の貧しく小さな国は,エミールの遠征費をしぶり,むしろ早く落ち目になって勝たなくなってくれた方がいい,と願っていたかのようです。とりわけ当時の共産圏は西側世界との接触に神経質で,エミールが西側でスター化することを嫌い,エミールが西側からさまざまな影響を受けることを恐れていたのです。そのせいだけでなく,エミール自身も走ること以外にあまり興味がなく,西側のこともあまり知らないのです。
 そういう時に,パリ滞在中のエミールにチェコ・スロヴァキア共産党の指導下にある地方新聞がインタヴューします。「同志ザトペック,パリの印象について語ってくれたまえ」。エミールはあまりそんなことを考えたことがないので,しどろもどろの答をします。「いや,パリはあまり見るべきものがないね。そりゃあピガールは悪くない。女たちもきれいだ。新聞に出ている女たちでもとてもきれいだ。それからもちろん,ワインもいいね。それとこの国ではたくさん店があるんだ。こんなにたくさんの店,僕は見たことないね。どこまでも店だらけだ」と答えます。このインタヴューがどんなふうにチェコの新聞記事になったか : 「ザトペック,パリの幻滅を語る。パリには下品な新聞雑誌があふれ,売春婦とエロ写真に飾られた町がある。市民の心はその奥深くまで商業主義や販売競争で蝕まれている」!!!。 数日後,フランス外務省はコミュニケを発表し,この新聞での「ザトペック氏のパリとフランスを侮辱する発言により,フランス国は今後同氏のフランス入国を拒否する」ということになるんですね。

 いつしかエミールは人間機関車と呼ばれるようになります。この呼び名はエシュノーズによるとその名「ザトペック」に負うところが大きいのです。 Zatopek。Za - to - pek。これを小説の93頁めはこう解説します。

このザトペックという名前はただの名前だがとても奇妙な名前で,有無を言わさず3つの音節が動的で機械的な音を立て始め,それは過酷な3拍子であり,馬の駆け足の音,タービンの唸り音,連結棒やバルブのカチカチいう音,それは[k]という音で区切れるが,すぐさま[z]がまたやってくる。それは最初に[zzz]と音を立てるが,あたかもこの子音がスターターであるかのように,この後はすぐに速度が上がる。おまけにこの機械は流体のように響くファーストネーム(エミール)によって潤滑される。ザトペックというエンジンにはエミールという潤滑油がつきものなのだ。

 拙い訳でごめんなさいね。原文はとても面白いことを書いているのに。「ザ・ト・ペック」は耳にそのまま3拍子の機械音で,「エミール」はオイルのように聞こえるように潤滑油なのだ,という詩的で文学的な解釈です。わかってくださいな...。ずずず・・・ざっ・・・とっ・・・ぺっく・・・ざっ・・とっ・・ぺっく・・ざっ・とっ・ぺっく・ざっとっぺっく・ざとぺっ・ざとぺっ・ざとぺざとぺざとぺざとぺ......

 この小説の名調子は,国際陸上の偉大なチャンピオンなのに,どこにでもいそうな男に描かれ,あまり感情をあらわにしない朴訥な青年であるのに,ときどき「むっ」と来るところなのです。このことをル・モンド紙のパトリック・ケシシアンはこの小説の書評で "Idiosyncrasie"(イディオサンクラジー)という難しい言葉で説明していて,それは個体が持っている衝動的な反応で,それが意図せぬ結果となる場合があります。例えばエミールは,貧乏国チェコが予算がないために国際大会に参加するのでも,交通手段も最低,宿泊も最低(時には野宿もします)の状態で,疲労困憊の態で競技に出場し,それでも前を走る選手の態度に「むっ」と来て,勝ってしまうのです。それからもう落ち目でもう上位を望めない状態になった頃,パリのオルリー空港に着き,たくさんの記者団が待ち受けていると思ったら,自分のためではなく,同じ時間に別地から到着したエリザベス・テイラーのためであり,自分の前からひとりの新聞記者もいなくなってしまったのに「むっ」と来ます。翌日エミールは大方の予想を裏切って,見事1位になってしまうのです。

 競技から引退して,普通の人に戻ったエミールは,1968年「プラハの春」にドプチェクの自由化政策に賛同して,有名な「二千語宣言」に署名し,ソ連の戦車によるプラハ制圧の時に壇上に昇り即興で演説してソ連に「オリンピック停戦」を求めたりしています。その結果,何百万という自由化支持者たちと同じように逮捕され,身分を剥奪され,職を追われ,6年間に渡って「修正主義者矯正」の強制労働をさせられ,過疎地のウラン鉱山の鉱夫となります。伝説ではその後,プラハに移送され,プラハでゴミ清掃トラックに伴走するゴミ収集夫となります。この小説ではプラハ市民はかつての陸上ヒーロー,ザトペックの顔を忘れるはずがなく,毎朝プラハの通りをゴミトラックを追って走っていくザトペックに拍手の嵐が起こった,と書いています。

 もうあまりの名調子で,あっと言う間に読める140頁です。スポーツ伝記のような,どこの大会でどんな風にして誰を破ったとか,そういうのはあまり重視されていません。型破りの走り方と超人的な記録と金メダルを残した人物なのに,それを中心にしないで,まるでフツーっぽい朴訥人間の物語です。それだけでもすごいのです。そして,今日,人間はもう機関車のようには走らないのです。ロボットのように走るのです。


JEAN ECHENOZ "COURIR"
(EDITIONS DE MINUIT刊 2008年10月。142頁。13.50ユーロ)




PS 1 (10月24日)
1952年ヘルシンキ・オリンピックのザトペックの映像がYouTubeにありました。5000メートル,10000メートル,マラソンの3種目金メダルの映像です。すごいなあ...。

2008年10月15日水曜日

Everybody's got a hungry heart



 J.M.G. LE CLEZIO "RITOURNELLE DE LA FAIM"
 J.M.G. ル・クレジオ『飢餓のリトルネロ』


 リトルネロ(仏語では ritournelleリトゥルネル)はそのイタリア語が示すように音楽用語で「歌曲・舞曲の前後に反復される器楽部。リフレイン」という意味から,現代哲学用語にまでなっていて「折り返し,反復」としてフェリックス・ガタリ&ジル・ドゥルーズの重要概念となっています。
 この小説ではラヴェルの「ボレロ」が重要なカギとなっていて,その特徴も反復にあります。
 また冒頭のエピグラフにル・クレジオはアルチュール・ランボーの詩「飢餓の祭り Fêtes de la faim」を引用していて,土や石を喰らう飢餓のリフレインがあります。
 ル・クレジオは1940年生れです。第二次大戦時の子です。小説の序章で(たぶんル・クレジオ自身と解釈してもいい)話者の戦争終了時の飢えの体験が語られます。「私は飢えを知っている」とその文章は始まります。アメリカ進駐軍のトラックを追いかけて,夢中になってチューインガムや乾パンを拾った子供たちのひとりだったのです。オイル・サーディンの缶詰の油をなめて動物性タンパク質を補給したという育ち盛り(4-5歳)の子供でした。飢えの何たるかを体験して,それから抜け出した人間だからこの小説が書けたのだ,という重い前置きです。
 小説は1930年代から40年代のフランスが背景です。主人公の少女の名前はエテルと言い,モーリシャス島出身の裕福な父母(アレクサンドルとジュスティーヌ)のひとり娘で,パリ15区に住んでリセに通っています。問題は父母の夫婦仲はもうずいぶん前から壊れていて,公然と父の情人(モード)が家庭に入り込んでいて,父母の不仲と絶えない口論を目の当たりに見て育ったエテルは父母を疎み,大叔父のソリマン氏になついて育ちます。ソリマン氏は教養人にして世界文化に造詣が深く,エテルにその知識やコレクションをすべて伝授しようとします。そして彼の趣味を結晶させた建造物「ラ・メゾン・モーヴ」(薄紫の家)を設計し,完成したらエテルがこれを相続することになっていました。
 エテルはリセでゼニアという少女と親友になります。ロシア革命によって国を追われた旧貴族の娘で,父は逃げる途中で赤軍に殺され,母と姉妹と共にヨーロッパを転々とし,パリにたどり着き,極貧の状態で生きています。物乞いまがいのことまでしないと生きていけないゼニアは,素晴らしい美貌の持主で,人生を知り尽くしたような射るような目をしています。すべてに恵まれたエテルとすべてに困窮しているゼニアはそれでも厚い友情に結ばれていきます。二人がパリを散策する時に,その出発点の待ち合わせ場所にセーヌ川に浮かぶ中州「白鳥の遊歩道」が使われます。
 道楽金持ちのアレクサンドルは毎日曜日に親族やモーリシャス島出身の名士たちを集めてサロン昼食会を開きます。これをエテルはいたく嫌っているのですが家族として出席せざるをえない。真の教養人ソリマン氏はこの会に参加しません。ブルジョワの会話は世相や政治になると,共産主義の恐怖であるとか,イギリスの不干渉への嫌みとか,ヒトラーへのシンパシーやら反ユダヤ主義に傾いていくのが当たり前になってしまいます。その中でひとりの(モーリシャス島系)イギリス人の若者でユダヤ人のローランだけが,このサロンで果敢に反対意見を述べる人間で,エテルはやがてこの青年と恋に落ちます。
 ソリマン氏の夢の建造物の着工を待たず,氏は病いに倒れ,氏の遺志にも関わらず,未成年のエテルはその計画および遺産を相続することが出来ず,父のアレクサンドルが代理相続します。ここからエテル一家の不幸は始まり,アレクサンドルが建造物の工事計画の管理を任せた「日曜サロン」の常連二人(戦時に乗じて,権力に通じてユダヤ人財産などを没収管理できる地位になった)によって,ソリマン氏の遺産だけでなく,エテル一家の財産もすべて騙し取られることになります。
 戦争,ドイツによる占領,ユダヤ人狩り,財産没収,食糧難...。病気になってしまったアレクサンドルを連れて,ジュスティーヌとエテルはパリを捨てて,南仏ニースに移住します。そこで彼女たちは,パリよりももっと極端な食糧難を耐え忍ばなければならなかったのです。バラバラだった一家は極貧の中で三人家族の絆を強くしていきます。わがまま妻/母であったジュスティーヌはここで献身的な一家の柱として変身します。そしてニースで偶然その所在がわかった夫の元情人モードは,ボロボロになって建物の地下階に猫と共に生きていました。エテルとジュスティーヌは過去を捨てて,このモードにまで救いの手を差し伸べるのです。

 もうすべてのものが尽きるというところで,ドイツ軍は占領地を捨てて敗走して行きます。地中海から連合軍が上陸し,南仏は解放されます。アメリカ軍のトラックがチューインガムや乾パンやコーンドビーフやスパム(ランチョンミート)の缶詰を配給していきます。ル・クレジオに残っている鮮烈な飢えの記憶は,この時の真っ白な食パンなのでした。これは極端な飢えの味覚なのです。
 英軍と共にノルマンディー側から上陸してパリに入ったローランは,エテルを探して南仏まで降りてきます。二人は無事に再会し,パリで結婚し,カナダで新生活を始めることになっています。
 ハネムーンの代わりに解放されたパリを何日もかけて散策する二人は,かつてのゼニアとの待ち合わせ場所「白鳥の散歩道」にも行くのですが,ローランは強烈な生理的嫌悪感に襲われます。なぜならその中州のすぐ近くに「ヴェル・ディヴ」(屋内競輪場。パリのユダヤ人一斉検挙の収容所として使われ,そこからドランシー駅に移送されアウシュヴィッツ行きの貨車に乗せられた)があり,ローランの叔母もその被害者であったからです。小説の本筋には付帯的であるとは言え,ル・クレジオはこのユダヤ人一斉検挙にかなりの行数を割いています。すべては戦争という状況があらゆるものを極端でウルトラなものにしてしまうのですが,人間性の上方から下方の裏側までを表現するという理由でノーベル賞を獲得したル・クレジオが書くと,この極端がわなわなと震えているようです。ルイ・フェルディナン・セリーヌの名前を出して,時代のコラボ風潮を唾棄するパッセージもあります。
 そのパリでエテルはゼニアとも再会します。ゼニアは結婚して服飾デザイナーとして成功して,ニューヨークにも自分のブランドを進出させるプロジェクトがあると言います。極貧からその成功の地位まで昇っていったゼニアと,ブルジョワから飢餓の最果てまで落ちていったエテルは,正反対に交差する道を駆け足で進んでいたわけです。この再会で友情は復活しませんが,二人は同じように青春の日々に別れを告げるのです。
 この小説の奇妙なところは,エテルとゼニア,エテルとローラン,というふたつの重要な関係が,いずれも熱愛ではないのです。距離があります。それは最終的に和解することになる父母のアレクサンドルとジュスティーヌにも言えます。飢えから人間を救うものは熱愛ではない,というリアリズムのようにも読みました。その情動を絶対に極度にあらわにすることのないエテルの生き方こそ,飢えから私たちを救うものに思えるのです。

 ラヴェルの『ボレロ』は二つの旋律の繰り返しです。1928年の初演の時,速度をどんどん早めながらクレッシェンドの最高潮で終わるこの曲の混沌的な終わりは,一方で大喝采を呼び,一方でブーイングを巻き起こしました。どちらの側も総立ちです。「『ボレロ』はただの楽曲ではない。これはひとつの予言であった。これは怒りと飢えを物語っている。それが凶暴のうちに終わる時,それに続く静寂はあっけにとられた残存者には恐ろしいものとなる」(P206)。これで予言された戦争は,エテルの世代には『ボレロ』のテンポと旋律でやってきたのでしょう。それは繰り返し,反復,リトルネロであるのです。
 

J.M.G. LE CLEZIO "RITOURNELLE DE LA FAIM"
(GALLIMARD刊 2008年10月3日。206頁。18ユーロ)



PS 1 (10月16日)
タイトルの出典はブルース・スプリングスティーンなんですが,こういうことって説明しなければいけないでしょうか?
Hungry Heart, Paris 85このYou Tube 画像では,ボス自身がフランス語で "Fantastique !"と叫んでます。いい絵ですねえ。これは実はパリではなくて,北郊外ラ・クールヌーヴの野外公園(共産党のユマニテ祭が開かれるワーキングクラスゆかりの地です)での85年6月29日のライヴです。DVDが出ています。

2008年10月14日火曜日

セルロイドの30年



 10月13日,パリ20区にある高名な録音スタジオ「スチュディオ・ダヴート」(ローリング・ストーンズ,プリンス,マイルス・デイヴィス,カール=ハインツ・シュトックハウゼン...)で,『セルロイドの30周年』パーティーがあり,コラ・ジャズ・トリオ(写真),ホアン・カルロス・カサレスなどのライヴもあって,良いワイン,良いおつまみ,良い知人たちとの再会...たいへん楽しい一夜でした。この最後に挙げた「良い知人たちとの再会」というのが一番ジ〜ンと来るのですが,セルロイドというレコード・レーベルの母体だったMELODIEという配給会社が4年前に倒産して,働いていた人たちはみんな散り散りになっていたのに,この夜はほとんどの人が集まってきてくれたのですね。
 レコードCD会社の倒産なんかこの数年たくさん見てきましたし,倒産しなくても人減らしで消えて行った人たちもたくさんいます。私自身も同じ時期に4人もの社員を解雇してきた過去があります。したくてしたわけではないとは言っても,解雇された側はそうは思ってくれず,その後数ヶ月で連絡が途絶え,私は元スタッフの行く末を知らないのです。ところが昨夜のMELODIE の元社員たちは,同窓会のノリでみんな集まってきて,「おまえ何してる?」「俺3人目の子供ができた」みたいな会話なんですね。それを元社長は,良かった良かったと目を細めて見ている,なんていう美しい図でした。
 古い考えでしょうが,会社は大きな家族,みたいな中小企業が好きです。社長は親父さんで,社員ひとりひとりを良く知っているような会社ですね。昔はそんなに珍しくなかったはずなんですが,そういう会社って21世紀的現在に生きて行くのが難しいのでしょうか。
 音楽の仕事をする,というのは何も特権的なことではありません。この会社に集まってきた人たちは,営業にしろ事務にしろ倉庫の肉体労働組にしろ,みんな共通して「音楽の仕事をする」ということに何かを感じていたのだと思います。音楽が引き寄せる何かがあって,みんな仕事できたんだと思います。私は倒産前はこの会社にほとんど週1回顔を出しておりました。行く度に倉庫の若い衆が新手の冗談で迎えてくれるような会社でした。昨夜はそのたくさんの顔と再会できました。この夜は音楽があったからみんな集まってきたんだと,妙に納得したりして...。

2008年10月9日木曜日

永遠に旅するル・クレジ王



 きのう新刊の "Ritournelle de la faim"を買ったばかりでした。メトロの中で一気に40頁読めたので,この分ではこの週末に「新刊を読む」のエントリーができるのではないかな,と思っておりました。
 私より少し上の世代はカミュやサルトルがきっかけでフランス語始めた人たちがずいぶんいたと思います。私たちはその次世代で,そのヒーローのひとりが彼でした。ル・クレジオの小説の邦訳が出始めたのは私が高校生の頃でした。『調書』『大洪水』『砂漠』『物質的恍惚』...。高校2年くらいでこんなのにぶつかったら,そりゃあ,あんた,ショックですよ。豊崎光一はル・クレジオの訳者というだけで,一挙に仏文界のスター教授になってしまいましたし。70年代前半,日本の仏文科生はル・クレジオに夢中でした。異星から来たイメージはデヴィッド・ボウイーのようでもありました。するどい顔してましたし。『調書』は23歳の時の作品でした。
 中南米やアフリカやアジア...世界中に居場所を持っている人で,日本にもよく行ってます。フランスではインタヴューなどにほとんど出て来なくて,謎めいた作家になっていました。初期の頃のイメージから「難解」と言われていますが,80年代頃からわくわくするようなストーリーテラーに変身していて,「あのル・クレジオがこんなに物語していいのか」なんて思ったものです。
 エッセイを除いて,私はほとんどの小説を読んでいる,言わばファン読者です。私のように死ぬまでル・クレジオを読み続ける読者,世界にたくさんいるんですね。この10年くらい,もう万年ノーベル賞候補みたいにノミネートされていましたけど,10月9日,午後1時,「ジャン=マリー=ギュスタヴ・ル・クレジオ,ノーベル文学賞!」のニュースが,ストライキ中のラジオ局FIPから流れてきました。ストをも破る価値のあるニュースと判断したFIPの人,いいなあ,その感じ,世界大恐慌なんてこのニュースに比べたら何でもないさ。
 ノーベル賞選考委員会のコミュニケにはこうあります:

 «écrivain de la rupture, de l’aventure poétique et de l’extase sensuelle, l’explorateur d’une humanité au-delà et en-dessous de la civilisation régnante»

 「断絶と詩的冒険と官能的恍惚の作家にして,今日支配的な文明の向こう側および下方側に生きる人間世界の探検家」

 うまいこと言いますねえ。ル・クレジオ68歳。まだまだ書きますよ。とりあえずうれしいニュース。"Ritournelle de la faim"は近日中に当ブログで。ご期待ください。

(← 昨今はこんな柔和な表情にもなる)

2008年10月6日月曜日

今朝の爺の窓(2008年10月)



 去年の10月からの『今朝の爺の窓』,今回で一巡です。
 寒くなりました。昨日の日曜日はここから2キロほど下流のセーヌ右岸にあるロンシャン競馬場で「凱旋門賞」がありましたし,そこからさらに1キロほど下流のセーヌ左岸の町シュレーヌでは「ぶどう収穫祭」が開かれましたが,雨風が強くたいへんだったでしょう。
 ポプラの葉は黄色に,マロニエの葉は茶色に,毎年見慣れた秋の風景ですが,日本の秋の楓やもみじの赤い色があればなあ,と無いものねだりをしてみたり。これから11月に向かってさらに茶色になって葉がどんどん落ちていきます。
 今月はこれからこのブログで何をしようかな、と考えてます。読みかけのオリヴィエ・ロラン、読みたいジャン・エシュノーズ、多分読んでもしかたがないベルナール=アンリ・レヴィ+ミッシェル・ウーエルベックみたいなものが新刊紹介になると思います。映画は娘が「フォーブール36」(『レ・コリスト』の監督の新作です)をこの週末に見たいと言ってるので...。私は今見たい映画は『セラフィーヌ(Séraphine)』だけです。音楽はスーション新譜だけが気がかりですが、これは11月末になりそうです。今月のライヴは13日にコラ・ジャズ・トリオ、18日にレ・プリミティフ・デュ・フュチュールに行きます。
 というわけで、いろいろ書くことは出てきそうです。なによりです。


PS 1(10月11日)
今朝はこんな濃霧でした。世界経済の行方のようです。


PS 2(10月18日)
今朝はとても良い色だったのでもう1枚写真を追加しました。マロニエの葉は茶色にしかならないのですが,今年は例年よりも「赤み」が増している感じです。手前のポプラもずいぶん葉が落ちて,セーヌ川がだんだん見えるようになりました。ブログのテンプレートも昨日変えて,ちょっと秋らしくしてみました。落葉の上のドミノ師もいい感じです。

2008年10月3日金曜日

今朝のフランス語「ラ・レッセシオン」



 (←)ジャガイモしか食卓に出ないという図。これがフランスにおける「不景気」「困窮」のイメージなのでしょうか。ジャガイモっておいしいし、今ではそんなに安くもない。つい数週間前のオヴニー(パリの日本語新聞=フリー・ペーパーで、友人の佐藤真さんが編集長をしている)でもジャガイモ特集があって、世界各国風のジャガイモの食べ方をしたらものすごい数のヴァラエティーがあるように書いてました。フライド・ポテトやチップスにしてもずいぶん種類ありますよね。
 今から40数年前、青森という土地で私はまじめな小学校児童でした。算数の授業の時に先生(女性)が、この問題はものすご〜く難しいから、きみたちに解けるわけがない、という挑戦じみた問題を出しました。もしもこの問題が解けたら、できた子に先生は何万円もあげてもいい、とまで言われました。私は奮起して、この問題を解きました。黒板の前に行き、自信なさげではありましたが、計算を黒板にチョークで書き...これで正解ですか?と先生に問いました。先生はこの子たちには絶対できるわけがない、という自信ががくがくと崩れ、まさか、おまえにこれが解けるとは...という顔をして青ざめました。うううう...、それで正解だよ、と敗北を認める先生の小さな声に、教室はどおおっと沸き立ち、歓声が起こりました。私はその時クラスのヒーローでした。おおお、先生を負けさせることができる子だ、とみんな私を尊敬して見ました。そして約束の何万円ももらえるのだ、と。先生は負けを認め、明日約束のものは必ず渡すから...と。
 翌朝、先生はみんなの前で、私を呼びつけ、約束のものだから、と私に紙袋をひとつ。その紙袋には土のついたジャガイモがひとつ入っていました。「先生、これは一体何ですか?」と私は聞きました。先生は突然に津軽イントネーションになって、こう言いました。「生イモ」。先生はきのうきみに「ナンマインモ」あげると言ったでしょう。だから約束通り、ナンマインモ持ってきたのよ、と。
 この話は、私は子供心にとってもショックだったのです。何万円ももらえると思った私に、生のジャガイモが一個。思い返せば、私はこの時からまじめな小学生をやめたのです。

 この時からたしかに私の頭の中でもジャガイモというのは、ディズニーのシンデレラの動画みたいに、金銀財宝が真夜中12時に魔法が溶けて、何の価値もないものに戻ってしまうもの、というイメージになってしまいました。貧乏のイメージではなく、価値のないもの、という感じでした。生イモですから。

 フランス政府は今朝、この言葉は絶対に言わないでおこうね、という類いの避けたい言葉を言わなければならない状況になってしまいました。"La Récession"(ラ・レッセシオン)。これは国民を大パニックに陥られる可能性のある言葉だからです。重大で衝撃的な言葉です。ラジオでは"gros mot"(グロ・モ。本来は卑語や隠語の意味ですが、この場合は口にしたら公序良俗が紊乱される言葉、というニュアンスでしょうか)と評しているところもありました。

 récession (女性名詞)[経]景気後退
 (スタンダード仏和辞典)


 フランスは今朝から国が認めた「景気後退」状態になったわけです。それまではこういうダイレクトな単語は使わずに、やんわりソフトに「成長鈍化」とか「景気の足踏み状態」とか、悪くても「ゼロ成長」ぐらいの表現に留まっていたのに、今朝からフランスははっきりと「後退」つまり「低下」「不況」「マイナス」を認めるようになったのです。
 たぶんこの冬、一般市民はヴァカンスに出ないでしょう。食卓にはジャガイモしか出てこないでしょう。何万円稼いでも、この程度しか食べられないでしょう。
 この状態が続くと、何が起こるのでしょう? 革命です。冗談じゃなくてイモしか食べられない人たちが本当に多いのです、この国は。経済成長と購買力増大を約束して当選した大統領は、ジャガイモの値段を知っているでしょうか。何万円もする料理しか食べていない人たちには、「景気後退」という意味すらわからないことかもしれません。もういい。いいもう。

2008年10月1日水曜日

アブダ仏如来



 アブダル・マリック『ダンテ』
 Abd Al Malik "Dante"


 ダンテの「神曲」はオック語で書かれたということになっています。クロード・シクルが言っていました。ダンテの頃は欧州全土の知識人の間での共通語がオック語であったそうです。ちょっと関係ないイントロですみません。
 アブダル・マリックの3枚目のアルバムです。前作『ジブラルタル』は25万枚を売りまして,日本盤も出たので聞いた方も多いと思います。もうほとんどジャック・ブレルの歌を聞くような,シャンソンの最良にエモーショナルな部分を,言葉とバックトラックとアブダル・マリックの声の力で圧倒的に表現したスラム・アルバムでした。もうスラムというジャンルなんかどうでもいい,人間の器の大きさが勝ってました。
 前作もでかい顔(イースター島の巨石顔像のよう)でしたが,この『ダンテ』のジャケの顔もすごいですよね。頭部から額そして鼻梁へ,一筋の光がすっと降りてます。くっきりとした深い線の入ったまぶた,その下にある目をじっと見ると,なんでも言うことをきかなければならないような気になってきませんか。おまけに背後に鏡モザイクで光環ができてますし。なんて神々しい...。なんまんだぶ,なんまんだぶ...。
 前作に続いて,ブレルのピアニスト,ジェラール・ジュアネスト(ジュリエット・グレコの夫)がピアノ,作曲(一部),編曲でシャンソン的なるものをいっぱい運んできます。エレクトロでグルーヴな部分はビラル(作曲)がいっぱい運んできます。ジャズ的なるものはレジス・セカレリ(高名なドラマーの息子です)がもたらします。そしてアーリー・シクスティーズな雰囲気は,アラン・ゴラゲール(初期ゲンズブールの編曲者/バンドマスター)がもたらします。
 これらのメンツ(オケ)が録音スタジオに集まって,ジュアネストのピアノ,アブダル・マリックの声,全部まとめて一斉にダイレクト録音です。これがほとんどの曲が2テイク録らなくてもいいような,奇跡的な恩寵のパフォーマンスであったそうです。天使が降りてきたんでしょうね。
 なにか,とても神を感じさせる雰囲気です。
 11月3日リリースで,音サンプルが3曲("C'est du lourd", "Le faqir", "Paris Mais")しか届いていないのに,アルバム全体を評するのは危険でしょうが,3曲で膝ががくがく状態です。この声は人を動かしてしまわずにはおかない,ものすごい霊力があるのだと思います。
 リリース後全曲聞いてから,またこの項書き直しましょう。

<<< トラックリスト >>>
1. Roméo et Juliette featuring Juliette Gréco -
2. Gilles écoute un disque de rap et fond en larmes -
3. Paris Mais… featuring Wallen -
4. Circule petit, circule -
5. Lorsqu’ils éssayèrent -
6. Césaire (Brazzaville Oujda) -
7. C’est du lourd ! -
8. La marseillais -
9. Le faqir -
10. Conte alsacien -
11. Raconte-moi Madagh -
12. HLM Tango -
13. Noces à Grenelle

ABD AL MALIK "DANTE"
CD POLYDOR (Universal France) 5312795
フランスでのリリース:2008年11月3日




PS 1
アブダル・マリックのオフィシャル・サイトで,アルバムからのファーストシングル "C'est du lourd!"を聞くことができます。
アブダル・マリックのマイスペースでも"C'est du lourd!"だけが公開されています。
この抒情のストリングスとセンチメンタルな旋律に乗っかって,賢者の辻説教のような語り口で,善悪のこと,貧困の現実と理想のギャップ,サルコあてこすりの結論部までを一気に吟じてしまうのですね。すごいなあ...。

PS 2 (10月23日)
アブダル・マリック新シングル"C'est du lourd!"のヴィデオクリップがデイリーモーションで公開されています。

2008年9月28日日曜日

コレージュ体に良いわきゃないよ



 『壁の中で』2008年フランス映画
  "Entre les murs" ローラン・カンテ監督
 主演/原作:フランソワ・ベゴドー
  2008年カンヌ映画祭パルム・ドール賞


 2006年のフランソワ・ベゴドーの小説『壁の中で』に関しては、今年6月の拙ブログ「壁の中で何が起こっているのか」で紹介してあるので読んでみてください。
 この小説を自由翻案して、2006-2007年の数ヶ月間、パリ20区に実在する公立中学校コレージュ・フランソワーズ・ドルトのキャトリエム(第4学年=日本の中学2年に相当)の有志たちに毎日曜日に出てきてもらって撮影された百数十時間の映像から編集して映画化された作品です。出演している生徒たちは「本物」です。この子たちに立ち向かうフランス語教師フランソワ・マランの役で、小説の作者フランソワ・ベゴドーが主演します。ベゴドーは元中学教師で、教師姿はたいへんサマになっていますが、その姿とは21世紀的に「荒れた教室」の中で、騒ぐ子/反抗する子に負けまいとして大声を上げ、神経をすり減らし、不眠症に陥るギリギリに生きる教師像です。小説では19区のコレージュでしたが、映画は20区のコレージュであり、いずれにしても地理用語的には「郊外」ではなくパリ市内なのです。この映画を紹介する時「郊外のコレージュ」と早とちりの間違いをするメディアは少なくありません。エキゾティックな名前と肌の色をした子たちが、ブランドもののスポーツウェアを着て、男も女もギラギラのネックレスや指輪やピアスで飾り、郊外ラップと同じ語彙とイントネーションで話します。これでは何ら郊外と変わりないではないか、と誰もが思います。
 パリの西郊外のわが町ブーローニュ・ビヤンクールの公立コレージュ・バルトルディに通っている娘は、この映画に現れたクラスを、まるで自分のクラスのようだと言い、授業中に荒れだして収拾がつかなくなったら、この映画よりも混乱してしまうことがあるとも言います。授業の妨害をする生徒のことを perturbateur ペルチュルバトゥール(日本語訳には撹乱因子とか妨害分子とかいうのもあります)と言い、これに煽動されて他の子たちが同調して騒ぎ出すと、授業は続けられません。この場合、教科教師、担任教師、校長からその子の親への警告、親を呼び出しての注意などの末、それでも改善の余地がない場合は、地区教育委員を含んだ懲罰委員会の議決によって、最悪の場合は放校処分となります。
 映画の中では、マリ出身で、父親不在(ここには暗に「一夫多妻制」への当て擦りがあるかもしれません)、フランス語を解さない母親を持つスーレイマンという名のペルチュルバトゥールの問題、教師への不服従と不敬(tutoiement つまり教師に向かって "tu"おまえ呼ばわりすること)、親呼び出し、再び問題、懲罰委員会、放校処分決定、というのが大きな流れのひとつになっています。他の教師たちにしてみれば全く手のつけようがないこの少年に、教師フランソワはなんとか解決の糸口はないものかと探します。なぜならこの子が母親思いの子であることを知っているからです。フランス語の授業の一環で、おのおのの生徒のセルフ・ポートレートを作らせます。パソコンを使って自己紹介文と画像などで自分自身を表出させます。ここでスーレイマンは「傑作」を作り、フランソワはそのセルフ・ポートレートを教室壁に模範として掲示し、スーレイマンは恥ずかしそうに微笑みながらもそれを誇りに思うわけです。フランソワはそういうスーレイマンを最終的に救ってやれず、放校処分が決定されます。
 教師の命令に服従しない例では、クーンバという少女がいます。授業中「アンネの日記」のテキストを読むようにとフランソワに言われたクーンバは「読みたくない」という理由で読むことを拒否します。「読みたくなから読まないという理屈は学校では通らない」とフランソワは、クーンバに対して教師への無礼への謝罪を要求します。謝罪をしたがらないクーンバにフランソワはそれを強要します。最終的に詫びの言葉を小声で言ったクーンバは、教室を出たとたん「そんなことこれっぽっちも思ってないわ!」と最後っ屁を放ちます。怒りのあまり、フランソワは机を蹴飛ばしてしまいます。
 その後クーンバはフランソワに長い手紙を書きます。「リスペクトは双方向でなければならない、あなたが私をリスペクトしないのであれば、私もあなたをリスペクトしない。よって今日から私は授業であなたに対して口を利くことを拒否するし、あなたは私を無視しても構わない」という宣戦布告で、その日からクーンバはフランソワの授業中「貝」と化してしまうのです。
 そしてフランソワを最初から徹底的になめてかかる少女エスメラルダというのもいます。クラス代議員であるこの少女は、生徒の成績評価を決める教師会議にも代議員として出席する権利があり、あとであの先公がこの生徒の評価についてこんなことを言った、あんなことを言ったと、みんなに言いふらし、学校側と生徒側との敵愾心を煽っていくようなポリティカルな反抗少女です。この少女のあまりの口軽さに、フランソワは思いあまって「ペタスのような言い方をする」と言ってしまいます。これが大スキャンダルとなり、エスメラルダは「先生が私をペタスとののしった」というヴァージョンで言いふらし、学校側も目をつぶってはいられない事態になります。(「ペタス」とは小説紹介に説明した通り、フランソワの使った意味では扇情的な女、エスメラルダの理解した意味では淫売婦、ということです)。
 この映画は、ベゴドーの小説同様、今日の状況で教育はどうあるべきか、とか教師に何ができるか、とか子供たちは学校で何を学べるか、とかそういうことは一切問題にしていません。誰も何もできない、けれど何かできるかもしれない、しかし何もできない、というタイプのモノローグは、小説の中ではフランソワがぶつぶつ言っていますが、この映画にはそのフランソワの視点も取り払われています。それは教室内の声の大きさで、教師が勝ったり、生徒側が勝ったり、という容赦ない闘いで構成されている映画だからです。
 ローラン・カンテのカメラアイはむしろ子供たちの反抗に、教師ベゴドーを上回るパワーを強調して見せている部分があります。ただ反抗はこの映画のメインテーマでもサブテーマでもありません。
 フランソワと共に現れる教師たちは、決して無気力ではなく、自分たちの孤的な闘争(授業ということですが)を精一杯戦っているように見えます。しかし総じて自分たちはいかにして生き残っていくのか、という防御戦しか戦えないのです。フランソワ自身、生徒たちとなんとか触れ合って行こうとつとめる熱血教師では全くありません。望まれている教師、望まれている教育、というのは誰も知ることができないのです。
 学年の終わりの授業で「きみたちはこの1年間で何を学んだか、ひとりひとり言ってみなさい」とフランソワは聞きます。ピタゴラスの定理を教わった、地殻変動の力学を教わった、音楽でフルートができるようになった...。さまざまな答えが返ってきます。さあ、明日からヴァカンス、新学期にまた会おう、で授業時間終了のベルが鳴ります。みんなが勢い良く教室を出て行ったあと、ひとりの少女がフランソワに近づいてきます。「先生、私はこの1年で何一つ学んだものはありません」。もうこれは鉄槌のような言葉ですね。教師にとってこれほど衝撃的で非情な言葉がありましょうか...。

 映画はいい笑顔の生徒たち、いい笑顔の先生たちが、入り乱れて校庭サッカーをするシーンで終わります。Life goes on。素晴らしい映画です。娘も私も喝采しました。ぜひみんな見てください。


PS 1 (10月1日)
本日発表のフランス・ボックスオフィス(国内映画入場者ランキング)で,9月24-30日週の集計で『壁の中で』が1位でした(週入場者:356 494人。そのうちの2人が私と娘です)。

 PS 2 (2013年1月22日)
日本公開時のローラン・カンテ監督のインタヴュー+日本公開の予告編を(今さらですが)見つけました。字幕がほとんど通訳になっていないのがすごいです。

2008年9月22日月曜日

爺は愛サイケ



 Compilation "Wizzz! Vol.2"
コンピレーション『ウィヅ! Vol.2』


 朝市に美味しそうなキノコがたくさん並ぶ季節になりました。
 キノコを美味しくいただくには,ファズ・ギターとか歪んだハモンドオルガンとか電気シタールがあればバッチリですよね。お香焚いて,7色の照明ライトをぐるぐる回したりして。
 ジャン=バチスト・ギヨー(Born Bad Records)が,またまたやってくれました。60年代フレンチ・サイケの珠玉のコンピレーション『ウィヅ!』(2001年発表)から7年後,その第2集が出てしまいました。第1集のジャケ・アートがギ・ペラールだったのが印象的でしたが,2集のジャケも雰囲気ばっちりですよね。単車はジターヌ・テスティ!ハーレイでもヴェスパでもないのは,おフランスだからなんですね。
 この種のシングル盤コレクターによるフレンチ・シクスティーズ・コンピレーションでは,女性ばかりを集めた"Swinging Mademoiselles"(2集まで出ました)と,バンド系が多い"Ils sont fous ces gaulois"(3集まで出ました)と,この『ウィヅ!』が,他の追随を許さない御三家でしたが,この3つの監修者3人はお互いに友だち同士で,連絡を取り合っていて,3つのコレクションに曲の重複はないのです。
 7年目の『ウィヅ』第2集は,ジャン=バチスト・ギヨーによると準備に4年かかったと言います。こういう人目につかずに消えてしまったシングル盤は,今日誰が権利を持っているのか探すのに大変な時間がかかります。よくぞここまで,という感じです。
 駅キオスク小説の王者サン・アントニオ(フレデリック・ダール)のありがたいお言葉から幕を開けるこの新コンピレーションは,15曲,私は知っている名前と言えば,ブリジット・フォンテーヌしかありませんでした。マグマの前身バンドだったゾルゴンヌの,ウィルヘルム・ライヒ(性の絶頂の元,オルゴン・エネルギーを発見した人です)へのサイケなオマージュ(8曲め)も,初めて聞きました。宇宙オペラ系のサウンドをウィリアム・シェレールなんかと作った後でヒット作曲家になってしまうギ・スコルニックの,ワイルドで幻覚的な歌(4曲め)もすごいです。「クー・クラックス・クラン」結社を弾劾する歌でその黒人差別を強調するために鉄鎖を床に叩きつけながら歌うセルジュ・フランクラン(12曲め),ビートルズ・コピーバンド(Peatlesと名乗っていた)から様々な変名バンド(Papyvore, Jelly Roll...)を経て70年代のスターバンド:イレテ・チュヌ・フォワに至る中間課程のセルジュ・クーレンのバンド,バン・ディドン(10曲め)...
 30頁にわたるジャン=バチスト・ギヨーのライナーが素晴らしいです。よい書き手。音楽界の暗がりに生きていた狂気のアーチストたちへの愛情がいっぱいです。
 このコンピレーションは日本でも比較的容易に入手できると思います。サイケデリック&グルーヴィーにしてちょっとエッチものもあり。キノコの美味しい季節にばっちりの1枚なので,ぜひお試しください。

<<< トラックリスト >>>
1. SAN ANTONIO "J'aime ou j'emm..."
2. JEAN ET JANET "Je t'aime normal"
3. BRUNO LEYS "Maintenant je suis un voyou"
4. GUY SKORNIK "Des arbres de fer"
5. CHORUS REVERENDUS "Dans son euphorie"
6. BRIGITTE FONTAINE "Je suis inadaptée"
7. PHILIPPE NICAUD "Bonne nuit Chuck"
8. ZORGONES "Herr Doktor Reich"
9. JESUS "L'électrocuté"
10. BAINC DIDONC "4 Cheveaux dans le vent"
11. ALAIN BOISSANGER "Crazy girl Crazy world"
12. SERGE FRANKLIN "KKK"
13. ISABELLE "Am stram gram"
14. BRUNO LEYS "Hallucinations"
15. NELLY PERRIER "Un soir d'été"

Compilation "WIZZZ! VOL.2"
CD/LP BORN BAD RECORDS BB0013
フランスでのリリース:2008年10月6日



PS 1(10月4日)
ジャン=バチスト・ギヨーのマイスペースで『Wizzz! Vol.2』の5曲を聞くことができます。まっさきにGUY SKORNIK "Des arbres de fer"を聞いてみてください。


PS 2 (10月6日)
 『ウィヅ VOl.2』のリリース記念パーティーが10月25日にパリ8区シャンゼリゼ裏のレジーヌで深夜から朝Mで。面白そうだけど爺は体力がついていかないので行きまっせん。

2008年9月17日水曜日

キース・リチャーズは私だ



 Amanda Sthers "Keith Me"(Dans ma vie de Keith Richards)
アマンダ・ステルス『キース・ミー』(わが内なるキース・リチャーズ)


 また「ピポル」と思われましょう。既に3編の小説と2編の戯曲を発表している若い女流作家アマンダ・ステルス(1978年パリ生れ)は,作家としてよりもフランスの大人気男性歌手パトリック・ブリュエル(1959年アルジェリア,トレムセン生れ)の夫人として有名でした。この二人は2004年に結婚し,男児二人をもうけ,2007年にブリュエルに新しい恋人が出来たために別離します。この辺はパリ・マッチ誌などをまめに読んでいないとついていけない部分で,こういう「ピポル」世界にいる人たちに対して,私は一様にネガティヴなイメージを持っています。アマンダ・ステルスはもともとテレビ脚本やテレビ芸人(アルチュールのことです)のコントを書いていた経歴があり,今日テレビを全然怖がっていない顔でテレビに出てきます。才能ある人なのでしょう。小説,児童書,戯曲(ジャック・ヴェベールみたいな一流どころが演出してます),そして2009年公開予定で映画監督としてデビューします。音楽アーチストとしても俳優としても私にはあまり才能があるとは見えないパトリック・ブリュエルには,不釣り合いな才媛だったのかもしれません。凡庸な男から見れば可愛くない女です。この本でも「私の悲しみはキース・リチャーズの悲しみ」と等価する時,多くのストーンズ・ファンは「自分を何様だと思ってるんだ」と思うに違いありません。
 さて,この本は小説です。ローリング・ストーンズ読本やキース・リチャーズ評伝ではありません。果てしない悲しみを背負った男キース・リチャーズ(1943年ケント州ダートフォード生れ)を,その内側で共有しようとする話者=作家(アンドレア・スタイン)によるキース・リチャーズ乗移りトリップのようなフィクションです。文中の一人称「Je = 私」はアンドレアであったりキースであったりを行ったり来たりするのですが,やがてどちらともわからないキース=アンドレアになったりもします。一度ならずアンドレアは「キース・リチャーズは私だ」と宣言もします。
アンドレアにとってキース・リチャーズとは悲しみそのものです。この男は世界一のロックバンド,ローリング・ストーンズのナンバー2です。絶対にミック・ジャガーを越えることができない二番手です。そのミック・ジャガーとの関係においても,仲の良い幼なじみや,長年の腐れ縁的ななれ合いの関係ではありません。二人は顔を合わせれば大声で口論するしかないし,この口論において常にリチャーズはジャガーに負けるしかないのです。それはこの小説の描写では,バイセクシュアルのジャガーがキースを肉体的にものにしてしまった時から勝負が決まっているのです。しかしローリング・ストーンズはこの二人の結合がなければ無に等しいのです。ジャガーもリチャーズもソロ活動を試しますが結局失敗します。この二人はジャガー+リチャーズとしてローリング・ストーンズを続けるしかないのです。だが二人は対等ではない。ジャガーが上でリチャーズは下なのです。これをリチャーズは引き受けてしまったわけです。この大いなる悲しみがブルースとなってキースのギター,キースの作曲となっていき,この大いなる悲しみを耐え忍ぶためにあらゆるドラッグが必要だったのです。
 イングランド,ケント州ダートフォードという何もない町で生れ,キースは暴力的な父親に虐待されて育ちます。この父への怨みは,後年,父の遺骨の灰をコカインに混ぜて吸い込んだという伝説的エピソードとなります。母親方の祖父オーガスタス・デュプリー(通称ガス)はジャズマンで,キースは彼から音楽の手ほどきを受けます。やがて両親が離婚し,キースはサイドカップ・アートカレッジに送られ,その日から20年彼は父親と一度も会わないことになります。生きている間に和解することがなかった父子の関係をこの小説もキースの大いなる悲しみのひとつとして描きます。ジャガーの父親はまだバンドが有名になる前からミックに「スター」の姿を見ていて,労働者階級ではたいへんな贅沢である自動車をミックに貸し与えます。これをキースは猛烈に嫉妬するというくだりもあります。小説の終わりに近いところで,キースは父への怨恨を祓うために,その火葬した骨灰をコカインと一緒に鼻から吸入するのですが,作者はここでひとつの悲しみからキースを解き放つような文章になります。どうでしょうか。これをクライマックスに持ってくるというのは,ちょっと安直なのでは。
 ブライアン・ジョーンズから奪い取った恋人アニタ・パレンバーグとは,この小説では3人目の子供タラが生後2ヶ月で窒息死したことが引き金になって破局を迎えています。アニタとキースの関係は長々とは描写されません。その代わり,アンドレアが3年間生活を共にし,二人の子供をもうけた夫との別離のこと(つまりアマンダ・ステルスの私生活)がもうひとつの大いなる悲しみとしてこの小説に溶け込んでいきます。
 この小説で私が最も気に入ったパッセージは83頁から86頁にあり,それは鼻高々のロックスターとなったキースがコンサートのあとでひっかけたイギリスの田舎の純朴な少女(名前はウェンディー)が,性交のあとで相手がキース・リチャーズだと知り,一晩一緒にいたいとせがみます。それをキースはセキュリティーの人間を使って無理矢理外に放り出します。翌朝ウェンディーはキースのホテルの前で死んでいます。その時からキースは,呪いで自分の両手がウェンディーの両手に変わってしまったという妄想を持つようになります。この両手は愛されることなく捨てられた少女のものが乗り移ってしまった。人の目を避けて,小さくか細に見えるその両手でこわごわギターを弾いてみると,それはたしかに弾けているのですが,なんと以前よりもうまく弾けるようになっているです。ここでキースはおいおいと泣いてしまいます。いい話ですね。ただし話でしょうけど。
 こういう悲しみがある度にコカインやヘロインの量は増えていきます。映画『ギミー・シェルター』にもなった69年アルタモントで,目の前で黒人が殺された時,ステージの上でキースは何を思っていたのか。作者が書くように,この時にロックは愛と平和の幻想を失ったのでしょうか。ミック・ジャガーはスーパースターになりたがったが,俺はミュージシャンになりたかったのだ,と作者はキースに言わせています。ローリング・ストーン=転がる石は,苔のむさない石のことではなく,シーシュポスが何度山の上に押し上げても必ず転がり落ちてくる岩のことなのでしょう。キースとミックはその岩を一生押し上げ続けなければならないのでしょう。通常の神経ではそれはやってられないことだから,悲しみだけが増していくことだから,キース・リチャーズの顔面の皺は,ヘロインの注射針の数ほどに増えていくのです。
 極端な生を生きるこの男はなぜ死なないのでしょう?これだけの悲しみを背負い込んで人間はなぜ死なないのでしょう? 端的に言えば作者の問いはそういうところです。自分を傷つける勇気がないという理由で麻薬に手を出さないアンドレアは,キースが自分の分まで注射針を打込んでくれている,と思っています。
 この気分的な大いなる悲しさだけは,たいへん良くわかる小説なのですが,キース・リチャーズという実在する著名人を自分の都合で限りなく自分に近づけようとするのは,どうにも感心できない部分があります。アンドレアも血を流すのですが,キース・リチャーズの血の流し方はそんなもんじゃないでしょう。「私はキース・リチャーズそのものである」とアンドレアが書く時,それは音楽になっていないのです。第一,こんなに音楽が聞こえてこないキース・リチャーズ小説というのは,やっぱり違うんじゃないの,と思わざるをえません。
 英語に詳しい人のご意見を伺いたいのですが,タイトルの『キース・ミー』というのは,英語を知らない私から見てもとてもチープなセンスの地口だと思うのです。なんか日本人の考えそうな...。


Amanda Sthers "Keith Me"
(Stock刊 2008年8月24日。142頁。14.50ユーロ)



PS 1 (9月22日)
きのうおととい(9月20-21日)とフランスでは2日間「第25回文化遺産の日」(Journées du patrimoine)で,議事堂,大統領府,首相府,各省庁,博物館や歴史的建造物が無料で一般開放されて,ガイドつきで見学ができるという催しがありました。ロワール川の古城巡りの白眉のひとつ,シャンボール城では,この日に合わせて,庭園の緑芝を刈り込んで,こんな形にしてしまいました。赤ではないのでよくわからないかしら,ローリング・ストーンズのロゴマークです。別にこの城がローリング・ストーンズゆかりの地というわけではありません。


PS 2 (9月28日)
今年の8月に出版されたフランスの女流作家の作品でこんなのがあります。『ミック・ジャガーと朝食を』(ナタリー・キュペルマン著)。アマンダ・ステルスと同じで,ストーンズ本でもジャガー伝でもない,フィクションです。読んでみましょうか。

2008年9月15日月曜日

パンクの祖と長時間話した



 9月15日と19日の2回にまたがって、マルク・ゼルマティに話を聞きました。
 ゼルマティの会社スカイドッグとはつきあいこそ長いけれど、そんなに大した仕事は一緒にしていませんでしたが、それでもよくうちの事務所に来てくれて、「俺はフランスに絶望した」とか「くだらない音楽を捨ててロックを聞け」とか、一方的にいろいろなヨタ話をトゲのある言葉をたくさん交えてひとしきりしゃべって帰っていく、という説教オヤジ的な訪問を毎回楽しみにしていました。最初はBrute(ブリュット。粗のまま、むき出し、乱暴)なロック中年と思っていましたが、身なりはいつもスタイリーだし、教養と繊細さも匂わせるもの言いが、そんじょそこらのロック業界人とは違うということがだんだんわかってきました。ゼルマティがこの世界で伝説の人物であり、特に70年代半ばにパリのレ・アールから(ロンドンに先駆けて)パンク・ロックをプロデュースしていた、言わば「パンクの父」であった、ということを私が知ったのはずいぶん最近のことで、特にこの2−3年、音楽もファッションも「ロック」が大復古してしまってから、メディア上でゼルマティの名前をたくさん見るようになったのがきっかけでした。お見それしやした、親分、という感じでした。
 マルクはアルジェリア、アルジェ生まれです。父親はユダヤ人医師、母親はフランス人でカトリック信者。マルク自身は無宗教者ですが、人からはユダヤ人と見られ、幼い頃から反ユダヤ感情(アンチ・セミティスム)の標的となっています。ピエ・ノワールの子ですから。しかしゼルマティ家はもともとはスペインの大富豪家で、1492年のユダヤ人追放で一族はヨーロッパに四散していて、そのうちのフランスに逃れた部分が、マルクの直系の先祖だそうで、誇り高い大ブルジョワ気質はマルクにまで引き継がれます。「俺は金には興味がない」と言う彼は、ゼニ勘定ばかりする輩を軽蔑し、たとえ自分が無一物になっても高慢であり続けることができると思っていて、それはこの血筋だから、と説明します。
 アルジェリア戦争のために62年にフランスに逃れますが、両親が離婚。父親はニースで開業医として人生をやり直します。マルクはパリ圏の母親の下で暮らすのですが、夜は「ドラッグストア族」(La bande du Drugstore)となって遊びまくります。このラ・バンド・デュ・ドラッグストアとは、シャンゼリゼに出来た当時としては画期的な24時間営業のマルチストア(薬、食品、本、レコード、カフェ...)だったドラッグストアという店にたむろする若者たちの一団で、主に高級住宅街16区から出て来る金持ちの子女たちが、ビシっと決めたファッションで不良遊びをし、盆百の若い衆がイエイエなんぞを聞いている時に、この連中はモッズなロックンロールとStax系のリズム&ブルースを輸入盤で聞いていたのです。そしてセックスですね。性の解放なんてまだまだ遠い先だったド・ゴール時代のフランスで、この若者男女は7区や16区や17区の高級アパルトマンで毎週末開かれるプライベートパーティーでご乱行の限りを尽くしていたのです。
 マルクは「フランス人金持ちの愚息たちはセックスを恐怖し、金持ちの娘たちはセックスに飢えていた」と言うんですね。13歳14歳で男になって当り前というアルジェリアで育ったゼルマティをはじめ、非「純系」フランス人の男たち(ボリス・ベルグマン、セネガル大統領の息子ギ・サンゴール...)がモテモテ性豪となっていったそうです。当時のドラッグストア族ではジャラール・マンセ、フランソワ・ジューファ、ジャン=ベルナール・エベイ、ブノワ・ジャコ、ロナルド・メウ(後のロニー・バード)などが後の有名人です。
 なお、2002年に映画"La Bande du Drugstore"(日本公開タイトルが『好きと言えるまでの恋愛猶予』。恥ずかしいなあ)というのがあって、60年代ドラッグストア族をファッション青春もので描いてましたが、実在したドラッグストア族とはかけ離れているので、参考にはなりません。
 さてゼルマティはその後麻薬で監獄に入り無一物になったのですが、知人から金を借りて72年にポンヌフの近くに「オープン・マーケット」という店を開きます。最初はただの広いスペースに蚤の市のような台を並べた複数の店子が、レコード(海賊盤)、インドものの衣類やアクセサリー、Tシャツ、ポスター、ファンジャン、地下出版物などを売っていたのですが、パリで唯一のアンダーグラウンド/カウンターカルチャーショップとして知られるようになり、他の店子を追い出して、マルクだけの店になります。74年に店はレ・アールに移り、約200平米の広さを持ち、1階がショップ、2階がゼルマティのレコード会社スカイドッグの事務所、地下が彼がプロデュースするバンドの練習スタジオとなったのでした。このレ・アールのオープン・マーケットが、事実上フランスと世界のパンク・ロック発祥の地となるのですが、ゼルマティは「いつが最初で誰が始めたとか、そんなことはどうでもいい、ただロンドンやニューヨークよりも先に俺たちはここでもうやっていたのだ、ということはレスター・バングスが証言している」と言います。72年に立ち上げたスカイドッグで、フレーミン・グルーヴィーズ、MC5、イギー&ザ・ストージーズ(『メタリックKO』)などを売り出し、最初の英パンクバンド(とマルクは断言した)ザ・ダムドをレコード・デビューさせます。
 オープン・マーケットの早くからの常連にイヴ・アドリアンがいて、ゼルマティはアドリアンの鋭い感性からほとばしる流星のような文章に「アントナン・アルトーの再来」を見ます。さらにリベラシオン紙で退廃ダンディー的なクロニクルを書くアラン・パカディスが加わります。ゼルマティ+アドリアン+パカディスのトリオは、「ゼルマティが発見し、アドリアンが理論化し、パカディスが俗化する」という三つの歯車として機能していました。アドリアンはフランスの音楽雑誌ROCK & FOLK1973年1月号に"Je chante le rock électrique" (俺はエレクトリック・ロックを歌う)というマニフェストを発表し、その中にこういう1行が出て来ます。

   Et soudain... PUNK, c'est l'orgasme électrique
  そして突然.... パンク、それは電気的オーガズムである


 賽は投げられた、という感じですね。72年から74年までイヴ・アドリアンはROCK & FOLKの記事署名を "Eve Sweet Punk Adrien"としています。パンクはこうやってゼルマティのオープン・マーケットから電気的に世界に伝導していったのです。
 76年、ゼルマティは南西フランス、モン・ド・マルソンで初の「パンク・フェスティヴァル」(Damned, Count Bishops, Nick Lowe, Gorillas, Sean Tyla, Eddie and the Hot Rods, Shakin Street, Bijou...)を開きます。77年、世間一般では「パンク元年」にあたる年、同じくモン・ド・マルソンで第2回の「パンク・フェスティヴァル」(Clash, Damned, Police,Doctor Feelgood, Bijou, Little Bob Story, Asphalt Jungle...)が開かれます。どうしてこんなことが可能だったのでしょうか。
 そして同じこの公式パンク元年に、レ・アールのオープン・マーケットは閉店します。なぜなんでしょうか? それは別原稿で開陳します。

 伝説のオープン・マーケットは写真が1枚も残っていないのです。それがまた伝説性を増大させていくのですが。

 

(←)なおゼルマティはこの12月4日から1ヶ月間、オープン・マーケット当時からコレクションしていたロックコンサート・ポスターのエキスポ(兼即売会)を開きます。成功すれば、ロンドンと東京でも開きたいと言ってます。Rock is our life。死ぬまでロック。






PS 1(9月19日)
爺とマルク・ゼルマティは Facebook友だちになったことから、縁が戻ってきました。


PS 2(9月29日)
雑誌用になにか面白い写真ちょうだいよ,とゼルマティに頼んだら,こんなのが2枚来ました。1枚めはなんとアニタ・パレンバーグです。これは珍しいですね。歳とってもキース・リチャーズとうり二つなんですねえ。
2枚めはシナロケのシーナさんです。