2008年11月23日日曜日

ストーン、世界はストーン



 Atiq Rahimi "Syngué sabour - Pierre de patience"
 アティック・ラヒミ『シンゲ・サブール 忍耐の石』


 2008年度のゴンクール賞作品です。
 著者アティック・ラヒミは1962年カブール(アフガニスタン)生まれで、カブールのリセと大学でフランス語を学んでいます。79年から84年にかけてアフガン戦争を体験し、パキスタンを経てフランスに亡命しています。ソルボンヌで映画/視聴覚芸術の博士号を取得し、映画監督として自作の小説を映画化した『大地と灰 Terre et Cendres』(2004年)で、カンヌ映画祭「ある視線 un certain regard」部門で出品し入賞もしています。
 フランスで発表した小説は『大地と灰』(2000年)、『夢と恐怖の千の家』(2002年)、『夢想された帰還』(2005年)と3編あり、いずれも母国語であるペルシャ語で書かれたもののフランス語翻訳でしたが、この最新作『シンゲ・サブール』はアティック・ラヒミ自身が初めてフランス語で書いた作品です。
 この亡命アフガン作家がフランス語で書いて、フランスで最も権威ある文学賞であるゴンクール賞を取ったということから、フランス語で書くことの選択は自由なる表現の選択である、というようなフランス語礼賛をする論評も出たりしました(フィガロ紙11月10日付アティック・ラヒミ・インタヴュー"Le Francais, langue de la liberté")。私のレベルでの解釈では、これはフランス語だから自由に書けたということではなく「他国語」だから、ということにすぎないのではないか、と思っています。私などでも母国語では絶対に書けないことというのがあって、その母国語の呪縛というのは倫理/道徳的なことであったり廉恥であったりしますが、他国語を使う時それからある程度解放されている感じは、私の使うようなフランス語でも日常的に体験します。
 最初から話がそれました。
 『シンゲ・サブール』は「アフガニスタンあるいはどこか他所の地」(p11)を舞台にした小説で、戦争で銃弾を受け呼吸するだけの植物人間と化した夫の床に毎日やってきて、点滴液を補給し、目に目薬を与え、コーランを読謡し、数珠玉を回しながら祈祷する妻の独白の形で書かれています。目を見開いて寝たきりで呼吸するだけの夫に、女はモッラー(イスラム法者)から言われた通りの祈祷をし、その回復を待つ貞節な妻を装いますが、時間が経つにつれてその空しさに憤り、その独白は本音がどんどん出て来るようになります。独白と言っても、それは夫に向けられた言葉であり、返答をすることができない相手に向けられた一方通行のダイアローグです。女は夫に対して、夫が知るはずもないさまざまな女の秘密を告白していきます。
 この周囲はまだ内戦状態が続いていて、銃声が聞こえ、誰が敵で誰が味方なのかも、誰が誰を殺すのかもわからない混乱した情勢です。男たちはどちらの陣につくのかも理解せぬまま、聖戦(ジハード)の名によって銃を持たされ、闇雲に戦います。
 女がこの男と結婚した時、男はすでに戦場にいて、婚姻から3年後に初めて二人は生活を共にし、その後も戦況次第で戦場に戻っていきます。この男は不在の夫です。そしてこの二人は夫婦らしい愛情もなく、夫はそれが気に食わなければ妻を殴打することもありました。この男は多くのこの国の男と同じように何も知らない。コーランやモッラーの教えに従って戦場に行くことはできても、他のことは何も知らない。女をどうやって抱くのか、ということも知らない。例えば性的快楽というのは男の側のものであって、男が短時間でも性的絶頂を迎えてしまえば、それでいいわけです。男はそういうものだと思っているわけですね。ところが女はそれで留まっていろ、という男の理屈を軽々と越えてしまうのです。それを男は知らない。
 つまりこの夫となった男は世にもつまらない男なのですが、それでもこの世界の中で女はさまざまな秘密でその人生のバランスを保ちながら、男とこの世界とうまくやってきたわけです。しかしこの男が植物人間になった時、女はこの男をかけがえのない男として確認してしまうのです。そしてもの言わぬ夫にこれまでの秘密をすべて告白していくのです。
 その周囲は男も女も古い権威に従属する社会で、女姉妹7人で生まれたその女は、親に選ばれた嫁ぎ先に純潔の状態で引き取られるしかなかった。そういう社会の中で、二人の人物がその女を啓蒙していきます。ひとりは自分の叔母で、若くして嫁いだものの、不妊症のために嫁ぎ先から放逐され、娼婦として身を立てるしたたかな女性となってこの世にはばかります。もうひとりは夫の父、すなわち義父ですが、その並外れた教養ゆえに、あらゆる形而上的難問に答えを引き出せる、周りの世人にはわからない超越的な賢人として女を知的に支えます。つまりこの女はこの世界でも孤独ではなかったのです。
 女はその秘密の中にそういう知的な解放された女性の感性があり、ただの「従属するべき女性」として実生活で夫と対応していたものとは違う、彼女の素性が次から次へと暴露されていきます。
 題名になっている「シンゲ・サブール」とは、その義父が教えてくれたものです。それは聖地メッカの大モスクの中にあると言われている伝説の石で、字句通りの意味では「忍耐の石」です。この石は人間のあらゆる苦悩、苦労、艱難辛苦、悲嘆を聞き入れるためにあるもので、人はその石に対して苦しいこと悲しいことを隠さずに言い、石はそれをすべて吸収してしまうのです。石はその忍耐の限界までそれを吸い続け、その限界が来た時に石は破裂してしまいます。この石の破裂が人類の破滅、アポカリプスを招くことになるのです。
 女は植物人間の夫にさまざまな告白をしていくうちに、このもの言わぬ男は「忍耐の石」に違いないと信じるようになります。女はその告白に、祓いに似た解放感を覚え、「忍耐の石」と化した夫によって救われる思いを感じます。そのことで、この女にはこの不動の男がかけがえのない対話相手となり、精神分析カウンセリングのような効果を生んでいくのです。
 なんとも魅惑的で形而上的な挿話があります。おとぎ話です。おとぎ話だから幸福な結末がなければなりませんが、幸福な結末は自分で考えなければいけないのです。「昔々あるところにひとりの勇猛な王がおりました。その王は世継ぎは男でなければならないという妄信があり、そのお抱え占星術師も女児が生まれたら王国が滅びると予言しました。しかし妃は皮肉なことに女児ばかりを産み、王はその誕生の度に、刑務役人に新生児を殺してしまうように命じました。刑執行人は最初の女児を殺し、2番めの女児も殺しました。しかし3番めの女児の時、その新生児はなんとこんなことを言ったのです《私の母の女王に伝えてください、私の命を守ってくれたら、女王は自分の王国を持つでしょう、と》。刑執行人はその言葉に驚いて、秘密で女王にそれを伝えました。それを聞いた女王は、王には何も告げず、新生児と刑執行人を連れ立って、その夜のうちに遠い国に旅立っていきました。--- 年月は流れ、かの勇猛な王は征服戦争に勝ち続け、はるか遠方にさる女王が治める小さな王国までその手を伸ばしました。その臣民たちはこの王の侵入を嫌い、服従を拒否しました。そこで王は服従を拒否するのであれば、王国を焼き払うと脅迫しました。女王はその王との交渉を拒否し、王国が焼き払われることを覚悟しました。しかし女王の娘は、女王の反対を押し切って、私に交渉をさせてくださいと、ひとりで王に謁見しました。王は美貌の娘に一目惚れし、娘も王の魅力に屈して一夜を共にしました。そしておまえを妃に迎えることができたら、この王国を救ってやろう、と持ちかけました。その話を持って帰った娘に、元・刑執行人は、実は私はおまえの父親ではなく、おまえの本当の父親はあの王なのだ、と告白します...」
 このおとぎ話はここで終わりです。この話に幸福な解決という出口はあるのでしょうか。女王の国が焼き払われずに、女王の過去の不倫もとがめられず、かつ娘が王(父親)と近親婚をしなくてもすむ、幸福なエンディングというのは可能でしょうか?このことを主人公の女は何晩も何晩も考え続けます。知識人の義父はこれには犠牲者なくして解決の余地はない、と仮説します。この小説の読者もいろいろな仮説を考えるはずです。こういう謎解きに答えはありません。しかし寝ずに考えて自分なりの答えを探してみたくなるではありませんか。

 そしてこの「忍耐の石」は、次から次に暴露される女の秘密に最後には本当に破裂してしまうのです。

 ここにはタブーがありません。アフガニスタンで起こっていることや、男性原理社会や、宗教で問われていることや、何一つ恐いものはありません。ここに生きた女性は、弱々しく頭巾(ブブカ)をまとったふりをして、あらゆることを見抜いているのです。こんな強烈で射るようなユーモアは、今日毎日のように死傷者のニュースが聞こえてくる土地から出て来ていると思うと、かなり衝撃的です。ここが「フランス語で書いたことの効果」である可能性は疑いようがありません。またコーランの一節から、幻想に惑わされたムハンマッドをその妻ハディジャが迷いから覚めさせる部分をして、予言者は女でもあったという論に至る部分はまさにマニフェストです。この小説は21世紀的今日の世界にあって類い稀な、大いなる女性讃歌と言えましょう。

2008年度ゴンクール賞受賞作品
Atiq Rahimi "Syngué Sabour - Pierre de patience"
(Editions P.O.L刊 2008年10月。156頁。15ユーロ)


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