2021年5月16日日曜日

(Say you) say me

Aki Shimazaki "Sémi"
アキ・シマザキ『セミ』

ンレアル(カナダ)在住のフランス語で創作する作家アキ・シマザキの17作目の小説で、名前がまだ発表されていない第四パンタロジー(五連作)では『スズラン』(2019年)に続く第2話。前作『スズラン』の話者であった女性陶芸家アンズ、その姉でガンで死んだキョーコ、そして弟ノブキという3人の子供の父であるテツオが今回の作品『セミ』の話者である。
 時間軸的には前作『スズラン』の後になり、文中に「令和」という年号も現れる。前作でキョーコが死ぬ前に産み、アンズが養子として迎え育てているスズコも5歳になっていてこの小説の中で「昭和ナツメロ」を歌ったりしている。舞台は前作同様山陰地方鳥取県米子。山陰のもうひとつの中核都市、島根県松江も物語上重要な場所になっている。前作ですでに症状が現れていたテツオの妻フジコのアルツハイマー型認知症はいよいよ重くなり、テツオとフジコの夫婦は医療看護設備の整った高齢者施設に入居する。この施設は末っ子にして長男のノブキが探して見つけたものだが、テツオとフジコは今でこそこの環境に満足しているものの、以前は多くの古い頭の日本人がそうであるように親の老後は長男夫婦が見てくれるものだと思っていた。アキ・シマザキの小説の屋台骨となっている日本の「しきたり」がここでも大いにものを言う。ノブキがこのしきたりを拒否したのは”時代の変化”だけではない「わけあり」ということが小説が進行するにしたがってわかっていく。
 シマザキ小説に欠かせない”日本の事情”の説明であるが、昭和期の地方都市の平均的長男夫婦のステロタイプとしてテツオとフジコが描かれる。結婚は見合いである。なぜ見合いかと言うと、長男であるゆえにその未来の夫婦は夫の両親との同居が前提となっており、あらかじめその条件を提示して見合い相手を探すというのが非常にプラグマティックである。そして見合いではその両親とのフィーリングの合致も確認できる。家父長的社会である日本における長男の結婚を失敗させないために、見合いは優れたプロセスである。ー そこに愛はあるか、この問題はそこでは顔を出さないようになっている。
 そしてフジコはテツオと結婚して、同居する義父母の世話をしながら、生まれてきた3人の子を育て、時間ができれば主婦パートに出て家計を助け、忙しく、ただ忙しく40数年テツオと共に生きてきた。義父母が亡くなり、子たちが独立し、さあ、今度は自分が楽をする番だと思っていたに違いない。テツオはテツオで会社員として、昭和期のサラリーマンとして、"男”として、忙しく、ただ忙しく、家のことはフジコに任せっぱなしで、ただ働いていた。これがフツーだったのだから。この一生懸命汗流してきた二人は、(夫の)両親を満足させ、子供たちをりっぱに育て、雨の日も晴れの日も寄り添って生きてきたのだが、夫婦ってフツーこういうもんでしょう、というスタンダードで漠然とした満足感しかなかったであろう。ここがシマザキ流のバイリンガル的で両世界的な視点では異議があるわけで、これをフランス語で読んだフランス語系読者たちには、この夫婦に決定的に欠落しているのは愛だということが明白なのである。日本ではフツーでしょ、が通用しない人たちに向かってシマザキは書いているのだから。そしてテツオが何も知らない間にフジコが精神的に病んでいくに至った大きな過去の重荷が、この今になって、高齢者施設という境遇になって、ものの短い間に一挙にテツオに明らかになるのである。
 夫婦として施設の一つ部屋で生活していたテツオとフジコだったが、さまざまな過去の記憶が抜け落ちていったフジコに、今度はテツオとの夫婦生活との記憶が欠落してしまう。フジコの頭の中では今はまだテツオと結婚しておらず、見合いして知り合い結婚前の交際をしていた時期にある。フジコは結婚前だからとテツオとの同室での生活を拒むが、施設所属の心療ヘルパーのはからいで、フジコとテツオのふたつのベッドの間に衝立を入れ、それぞれの独立ゾーンをつくることで「独身者」二人の同居が可能になった。夫婦ではなく婚約者同士の「テツオさん」「フジコさん」に戻り、会話も親密ぞんざいな tutoiement から、丁寧表現の vouvoiement で話されるようになる。日本語にそんなものあるかい?と思われようが、シマザキのバイリンガル世界ではありなのだ。そしてこの時から、心療ヘルパーの強い要請でフジコの症状悪化を防ぐために家族身内親しい知人たちすべてがフジコを40数年前の独身女性「フジコさん」として応対する集団的演技(フランス語で"cinéma"と言いたいところ)をするのである。子も孫も、おかあさん、おばあちゃんと呼ぶのをやめ「フジコさん」と呼ぶ。この集団演技の甲斐あって独身者フジコの日常は波風立たず過ぎていくように見えたが...。
 フジコの記憶は限定的に非常に鮮明なものもある。それは小学校の時に教わったセミに関する知識であり、セミを鳴き声で聞き分けその種類と特性を詳しく言うことができる。クマゼミ、ニーニーゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ...。そして(あとでフジコが子供の頃作詞作曲したものとわかる)こんな童謡のような歌を口ずさむ。
Sémi, sémi, sémi, où te caches-tu? セミ、セミ、セミ、どこに隠れているの?
Après tant d'années sous terre 何年も土の中にいたあと
Tu n'as que quelques semaines à l'air 数週間しか地上で生きられない
As-tu de la nostalgie pour ton long passé 暗闇の中で
Dans le noir ? おまえの長かった過去を思い出すの?
日本のセミは十数年土の中で幼虫として生き、地上で成虫となりわずか2週間ほどで死ぬ。これをフジコは自分の一生のメタファーのように歌っているということをテツオはなかなか気づかない。自分を滅して家庭と夫に尽くしてきた長く暗い日々のあとでフジコは短くても地上に生きることができるか。
 この高齢者施設で開かれた慰問コンサートに、アンズの娘スズコが出て懐かしい昭和メロディー(「とんがり帽子」「りんごの歌」「朝はどこから来るかしら」)を歌うが、スズコが自分の孫という記憶がなくなったフジコはその歌声に何の反応も示さない。しかし次に出演したアマチュア音楽家老夫婦のヴァイオリンとピアノ二重奏によるショパン夜想曲第20番が始まるやフジコが感極まって涙を流すのを見て、テツオはこの曲がフジコの記憶を刺激しているのに違いないと直感する。ここがテツオが40数年間一緒に暮らしていながら実はフジコのことを何も知らずにいたと自覚する第一歩なのだ。なにしろフジコがクラシック音楽の愛好家であったことすら知らなかったのだから。
 その直後、テレビのクラシック音楽番組に国際的に有名な指揮者であるミワが出演しているのを見たフジコは突然錯乱したかのように「この人から預かったお金を返さなければならない!」と言い出す。預かった30万円を返さなければ ー この時からフジコはこの妄想で頭がいっぱいになる。今のフジコにとっては「優しいフィアンセ」であるテツオであり、すべてに対して協力的であろうとするのだが、それは知り合って40数年目にして初めてフジコのことを知り理解することであった。そこから知っていくのは40数年間いかにテツオが"盲目”であったかを自覚させる驚くべきことばかりなのだった。
 ミワという有名音楽家をフジコは知っているのか、どんな関係だったのか、預かった30万円とは何の金か、それをフジコは信頼のおけるフィアンセであるテツオにあっさり語ってしまう。ミワと一夜を共にし、フジコは妊娠し、ミワはその中絶のために30万円をフジコに渡したが、フジコは中絶せずにその子を産んだので、30万円をミワに返す、と言うのである。この言葉だけではテツオはそれが錯乱した妄想であると思うこともできただろう。しかし、小説は複数の証言者によって、それが事実であったとテツオに確信させるところまで進んでいくのである...。
 その証言者たちは、そのことだけでなく、(テツオが全く想像できなかった)フジコが抱いていたテツオへの不満と不信(テツオの不倫の事実も知っていた)をもテツオに明らかにする。夫婦はもう古くからテツオの知らないところで崩壊しかけていた。息子のノブキですらこの両親の関係の危機を母から告白されて知っていた。知らないのはテツオひとりだったのだ。そのノブキが今や自分の子ではなく有名音楽家の息子である可能性が高いとテツオは知ったわけだが、ノブキはそのことは知らず、自らアマチュア音楽家(ギタリスト)として有名指揮者に近づいていく(ロドリーゴ『アランフェス協奏曲』をミワ指揮のオーケストラ、ノブキのギターソロで演奏することになる...)。

 上辺だけとればフツーに穏便で平和な夫婦だったと思っていたテツオは、内側で壊れて腐りかけていたのだとやっと状況を把握する。最大の被害者たるフジコは心のバランスを失いアルツハイマーに陥ることでここで生き延びている。衝撃と自責に打ち負かされそうになるがテツオはやり直したいと思う。フジコが今いる(と思っている)ところ、すなわち結婚前の初々しい関係だった頃からもう一度再スタートしたい、と。そのためには、フジコの病んだ観念にとりつかれている「30万円をミワに返すこと」をフジコと共に実行し、終わらせなければならない。お立ち会い、この小説にはマジックがありますよ。シマザキはこれを見事に成し遂げてしまうのですよ。
 
 セミは十数年地下にいて、その後2週間地上で成虫として生き、オスはハネを摩擦させて音を出し(”鳴く”のではない)、メスに求愛するのだが、すべてのオスとメスがその2週間に結ばれ子孫を作るというわけではない。長い地下の年月がすべて報われるわけではない。フジコは長い間待ち続けていたのに報われず心を病んでその生を終わらんとしているが、テツオはようやく長い眠りから覚めたようにそれを救おうとしている。アキ・シマザキの最新作にはおおいなる救いがある。そして音楽がふんだんに聞こえる小説でもある。

Aki Shimazaki "Sémi"
Actes Sud刊 2021年5月5日  160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)セミの鳴き声いろいろ

(↓)ライオネル・リッチー「セイユー・セミ」 
("Everybody sings together right now, come on!" )「セミ!!!

4 件のコメント:

ruru さんのコメント...

カストール爺のアキ シマザキ 全記事 何度読んでも、ワクワクドキドキ おもしろい。カナダに移住して 数年足らずで 母国語の日本語より、まずフランス語で出版してるところも 興味深い。全シリーズ、日本語訳で出版か ドラマ化されて欲しいと思いました。

Pere Castor さんのコメント...

ruruさん、コメントありがとうございました。
コメントが極端に少ないブログなので、たいへん励みになります。
『セミ』はこの5月2週めにフランスの書籍ベストセラーの10位に入るという大変な快挙で、リベラシオン紙その他で取り上げられていました。ケベックでの評価はわかりませんが、フランスでは多くの読者が年1回のペースで出されるシマザキ新作を心待ちにしているようです。(かく言う私もですが)
”ショートセンテンスの達人”のように評されてますが、とにかく明晰で短く洗練されたフランス語です。私の伴侶(大阪人)はもう40年もフランス語初級者ですが、シマザキの本は3日で読破します。初級者でも言いたいことが(日本語で)わかるバイリンガル体験のようです。これ、日本語化したら説明的でくどすぎると思いますよ。非日本語人読者にこそ、シマザキ小説で日本人の心象に深入りしてしまったような興奮があるかもしれませんけど。
また来年新作出たら紹介しますので、お楽しみに。


ruru さんのコメント...

アキ シマザキフランス語版で 辞書を片手 挑戦してみたくなりました。来年の新作の紹介も 心待ちにしています。

Pere Castor さんのコメント...

フランス語がお出来でしたら(たとえ初級/中級であっても)とてもスムーズに読めるはずです。全作とも大体150ページの短さです。ぜひおためしください。