2018年12月12日水曜日

2018年のアルバム その4:キー・オブ・ライフ

Michel Polnareff "Enfin!"
ミッシェル・ポルナレフ『やっと開いた南京錠』

を去ること42年前スティーヴィー・ワンダーが『人生の鍵の歌(Songs in the Key of Life)』(1976)という大名作アルバムを出したんですが、その中で最も知られた曲のひとつに「イズント・シー・ラヴリー(邦題:可愛いアイシャ。1997年にホンダ車ロゴのCM音楽として使われたのは、"可愛い愛車"とダジャレたものだったのだ)という6分34秒の歌があります。これはスティーヴィーの娘アイシャの誕生を祝って、可愛くてしかたのない赤ん坊アイシャの泣き声やら笑い声やらブーブーいう声やらをサンプルして曲にしていったら、あの声も入れようこの声も入れようで、出来上がりが6分半にもなってしまった親バカ曲です。ナレフの28年ぶりに発表した10枚目のスタジオアルバム『Enfin !』の4曲めにナレフの(ナレフが生物学上の父ではないが認知した)ひとり息子ルーカ(もうすぐ8歳)の声をたくさんフィーチャーしたディスコ調インストルメンタル曲「ルーカス・ソング」は、まさにこのわが子いとしや「イズント・シー・ラヴリー」の手法を踏襲したものです。赤子だったアイシャと違って今や8歳のルーカはものをしゃべる(一応英仏バイリンガル)わけで、吾子よ吾子よと溺愛しているうちに、気がついたら、え?こんな成長、え?こんな性徴、と老父(74歳)を狼狽させたりもするでしょう。
 ルーカにまつわる歌はこのアルバムに2曲。私は結局この2曲がアルバムの核心なのだろうと思っています。端的に言えば、坊主のためにわしはもう一働きせにゃいかん、というのがナレフのアーチスト再生の最大の契機だったと思うわけです。枯渇して久しいアーティスティック・インスピレーションをどうしても蘇生させにゃあいかん。子を持った人間ならば誰しも最初に重く実感することでしょうが、子育てにはお金がかかるのです。定年引退の年齢の頃に授かった子ですが、引退などしていられなくなるのです。これが閉じかけていたナレフの人生を再び開けさせる鍵となったということです。キー・オブ・ライフというわけです。おわかりかな?
 しかしこの鍵をもらってからも、時間はいたずらに過ぎていき、1990年の『カーマ・スートラ』 以来、出す、出来た、と何度も何度も狼が来た発表をしていた新スタジオアルバムも、2010年以降は「もはや絶対に出るわけのないもの」というのが音楽業界および黄表紙メディアの一致した認識となりました。インターネットの時代になって、自らを巨大宇宙船の「アミラル (L'Amiral = 提督)」と呼び、フランス+仏語圏世界+日本にまたがる親衛隊もどきの無条件ファン群を「ムサイヨン(moussaillons = 新兵水夫)」として、ヴァーチャルな絶対カルト小宇宙に君臨してきたが、そのムサイヨンたちだけは新アルバムの登場を信じて疑わないありがたい人々でありました。
 私はね、今度のアルバム制作の最大の動機は子供の養育費だと思うんですが、2007年のステージ復活(ゼ・ルトゥール Ze re tour ツアー)と、新アルバムお披露目ツアーのはずだった(が新アルバムは出なかった)2016年のツアーだけでは、ナレフとダニエラの台所も十分に潤わなかったのではないか、とも思ってます。Money's too tight to mention.
 そんなものはシングルヒットで解消できるさ、とアミラルは思っていたかもしれません。"Ophélie Fraglant Des Lits(ベッド現行犯のオフェリー)"(2007年1月)、"L'Homme en rouge(赤い服の男)"(2015年12月)、ナレフの思惑は見事に外れ、売上げは言うまでもなく、今のナレフのクリエイションクオリティーはこの程度なのか、とファンたちを大いに不安にさせもしました。このシングル2種の不発でナレフはいよいよ追い詰められたようです。
 仏語ウィキペディアの"Enfin !"の項の記述によると "Actuellement je suis en studio"(現在スタジオで録音中)という公言は2010年から始まっていて、2014年6月5日に公開された映画館上映のドキュメンタリー映画 "Polnareff, quand l'écran s'allume"では(私、これ地元映画館で観ました。やっぱり大筋のところでは吾子可愛いやばかりが目立つドキュメンタリー)では、加州のホームスタジオで録音中の4曲の断片がインストとハミングで紹介され、2014年11月リリース予定で進行中と発表。以来2015年にも2016年にも同種の「ついに完成、発売間近」の発表がありましたが。で、誰も狼が来たを信じなくなった2018年9月7日、オランピア劇場で開かれたレコード会社仏ユニバーサルの年次コンフェランスで、同社代表オリヴィエ・ニュッスの公式発表として「11月30日発売」がアナウンスされたのでした。そして10月3日、「Enfin !」(やっと、ついに、ようやく、という意味の、まあ、自虐的ユーモアみたいな、他人も自分もあきれきったような...)というアルバムタイトルと、"Enfin !"と彫り文字された南京錠に鍵が突っ込まれて、錠が開けられたという図の、わかりやすくも含蓄が薄くアーティのかけらもないジャケ写が発表になりました。ナレフ自身のアイディアでしょうね。ジャケットアートの価値の問題は置いといて、ここでも重要なのは鍵なのであります。
 本題に入っていきます。このアルバムには私のような非ムサイヨンでも、これは無条件に頭が下がる、という曲が1曲あります。3曲めの「坊や大きくならないで (Grandis Pas)」です(私の勝手な邦訳題は、1969年日本のフォークトリオ、マイケルズの歌で知られることになったヴェトナム人作反戦歌に敬意を表してのことですが、両曲の関連は皆無ですから気にしないで)。言うまでもなく吾子ルーカに捧げられた曲ですが、ナレフの伝家の宝刀と言うべき流れるようなピアノ弾き語りバラードで、極上のメロディーと必殺のハイトーンのファルセットの泣かせどころもある、それはそれはミッシェル・ポルナレフさまさまなのです。これは否定のしようがないじゃないですか。

大きくならないで
きみが知っていることを
忘れないで

大きくならないで
きみはすでに
きみそのものなんだから

きみの伸びる1センチは
1キロメートルみたいだ
ひまも与えず
巨人の歩みを進むようだ

おもちゃを置いて
ここにいて
私のすぐそばに

王子のままでいて
この王国から
去って行かないで

きみの書く詩で
私たちのことが好きだと言っておくれ
私の手を取って
きみの描いた絵の中を一緒に歩こう

きみが見知らぬものを怖がって
私に身を寄せてきた頃
私はきみに大丈夫だよと安心させるのが好きだった
今や私の方がきみが私の手を導いてくれないと
迷ってしまう

大きくならないで
大人たちは大人たちだけの世界に
放っておいて

きみの子供時代を
ぱちんこで射たないで

夢が嘘に変わってしまうところに
行かないで
きみのベッドから出ないで
きみのベッドはなぜこんなに小さくなったの?

柔らかく軽い
雲に乗っている歳のままでいて

この顔と
この光景は
完全なものだよ

きみの中にいるこの男を
待たせておいて
この男は私ときみを離れ離れにしてしまうんだ
きみも、私たちも、私もそれを望まないのに

きみが見知らぬものを怖がって
私に身を寄せてきた頃
私はきみに大丈夫だよと安心させるのが好きだった
今や私の方がきみが私の手を導いてくれないと
迷ってしまう

そしてきみと私が似ていたら 
一緒に大きくなっていく
私の手を取って
きみの描いた絵の中を一緒に歩いて行こう

大きくならないで
大きくならないで
(詞:ポルナレフ&ドリアン/曲:ポルナレフ) 
この歌をナレフは「家族版の"行かないで(Ne me quitte pas)"」と称し、見苦しい父親のエゴイズムであることを認めています。自伝本などで知られているように、父レオ・ポルから殴られながらピアノを叩き込まれた子供時代を過ごしたナレフが、吾子にはそんな思いを絶対にさせたくないと思いながらも、物心ついたらやっぱり自分と同じように親離れをするということを74歳で狼狽している感じがよくわかるではありませんか。ルーカが20歳になった時、ナレフは(生きていれば)87歳ですよ。私はね、こういう本音から出てくるナレフの歌なんて知りませんよ。本当にこの歌がこのアルバムの(唯一)例外的な佳曲でありますよ。

 さて他の曲をどう聞いていいのか、私は戸惑うものがありますよ。
 冒頭の11分のインスト曲「ファントム(Phantom)」と9分強の終曲(インスト)「お湯(Agua caliente)」はその大仰さを覚悟して聞かねばならないものです。私はこれは「花火音楽」だと聞きました。毎年9月、私のアパルトマンのセーヌ川対岸のサン・クルー公園で催される欧州最大規模の花火大会 "Le Grand Feu de Saint Cloud"が開かれるのですが、「ファントム」はその最終の"ブーケ・フィナル”(大トリの乱れ打ち)に向かう音楽として使われたら、どれだけ映えるだろうか、と想像できます。しかしそれは花火あってこその話です。ここでもキーワードは「鍵」なのですが、それは花火の時に風流江戸人が掛け声としてあげる「鍵屋!」ー っとこれはコジツケが過ぎました、ごめんなさい。
同様にオリンピック開会セレモニーのアトラクションの音楽のようなものも想像できますが、これも大仕掛けのアトラクションがあってこそ生きる音楽と言えます。多くの映画音楽が映画(それも心に残る映画)がなければ生きないように。ナレフのインスト曲は、1971年アルバム『ポルナレフス』に収められた3曲、 およびいくつかの映画音楽で評価が高かったのですが、新作アルバムにインスト3曲(トータル26分、アルバムの3分の1強)入れたのは『ポルナレフス』の評価の高さを意識してのことのようです。そりゃあ印象に残るメロディーでも随所にあればね。この長さとケレン&ハッタリの編曲だけでは無理があると思いますよ。4曲めで前述の「ルーカス・ソング」(5分21秒)はディスコですけど、全米制覇するつもりで1974年にアメリカ移住してアトランティックと契約したものの全米でナレフが評価されたのは唯一ディスコチャートを騒がせた映画音楽『リップスティック』(1976年)だけだったという過去が蘇ってきます。
 編曲(ご自分がほとんど)は、加州で40数年間ヒットFM聴いてるきたら、こういう感覚になるんだろうか、と思ってしまう百年一日のような西海岸FMのノリで、時代とのシンクロを全く感じさせません。ユニークだと思います。なぜみんな長めなのか、4分、5分、6分、7分サイズです。初めから意識して12インチシングルにしちゃっているような。既発シングルからまあまあ変身した5曲め「ベッド現行犯のオフェリー」と9曲め「赤い服の男」に至っては、ヒット狙いを放棄してこねくり回した90年代的マキシシングル型ヴァリエーションになってますが、これはどんなことをしても詞が災いしてます。後者は21世紀におけるサンタクロースの惨状を嘆く歌ですが、吾子ルーカを思っての寓意でありましょうけど、現代風刺の含蓄としてはいかにも貧弱じゃないですか。「地球人に告ぐ」という大上段に地球の危機を説くエコロジカルな歌「テール・ハッピー」(8曲め)も、こちらが決まり悪くなりそうな浅薄なメッセージです。お題目だけの愛と平和と環境保護はオリンピック開会セレモニーだけにしてくれと言いたくなります。長年宇宙船船長アミラル役をやっていると(その上その言うことを聞く何十万というムサイヨンがヴァーチャルに存在すると)、これほどまで現代社会とのズレが生じてしまうのでしょうか。
 日本に何万人いることか、日出る国のムサイヨンたちへのファンサービスのつもりでしょうが、2曲め「スミ」(福岡のゲイシャ・ガールとのきつ〜いアヴァンチュールの歌)は問題ありませんか? え? 日本のファンたちはメルシー!アミラル、と言うのでしょうかね? ナレフはある日 "Sumi m'a soumis"(スミ・マ・スミ スミは俺を服従させた)というダジャレを思いついたんでしょうね。 このオチのためにひょいひょい日本(的)単語のダジャレを並べて、90年代FMハードポップ化した、人呼んで「ゲイシャ・ロック」なのだそう。いったいどんな惑星にこの方は生まれたのでしょう?
  自らの「カーマ・スートラ」(1990年)のテーマ掘り返しなのかもしれない7曲め「体位(ポジシオン)」 も前述の「ベッド現行犯のオフェリー」も、世界の女性たちが"#MeToo"と叫んでいる時勢をなんら考慮していないでしょうし、いつまでも変わらない好色ナレフを新アルバムでもアピールしたい気持ちがあったんでしょうが...。

  南京錠は開けられて、28年の禁を破って蔵出しされた珠玉の11トラック、と私は思いませんでしたが、たぶんナレフの人生の鍵(キー・オブ・ライフ)は開けられて、かなりそのまんまの形(ナレフ等身大)で提出された作品であるでしょう。無理もいびつさも隠さずに。私には奇異(key)なアルバムですが、「坊や大きくならないで」だけは高く評価します。

<<< トラックリスト >>>
1. Phantom
2. Sumi
3. Grandis Pas
4. Louka's song
5. Ophélie Flagrant Des Lits
6. Longtime
7. Positions
8. Terre Happy
9. L'Homme En Rouge
10. Dans Ta Playlist (C'est Ta Chanson)
11. Agua Caliente

Michel Polnareff "Enfin !"
CD/2LP Universal/Barclay/Enough Records  002577137334
フランスでのリリース:2018年11月30日

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)国営テレビ FRANCE 3とタイアップの"ENFIN !"プロモーション・ヴィデオ



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