2018年12月8日土曜日

エドゥアール・ルイ:黄色いチョッキに加担して

『黄色いチョッキを侮辱することは僕の父を侮辱するに等しい』

ディー・ベルグールにケリをつける』(2014年。邦訳本は『エディに別れを告げて』 2015年)の作家エドゥアール・ルイ(現在25歳)が、2018年11月から始まった全国規模でのガソリン燃料税増税反対抗議運動「ジレ・ジョーヌ(Gilets Jaunes、黄色いチョッキ)」について、12月4日レ・ザンロキュプティーブル誌上で支援トリビューンを寄稿。「暴動」、「治安不安」の側面からしか取り上げることのない日本のメディアからでは、この運動をネガティヴにしか見れないであろう日本の同志たちへ、今起こっていることの意味を少しでもわかってもらいたく、速攻で全文訳しました。12月7日に向風三郎のFBタイムラインに載せたものと同じものです。レ・ザンロキュプティーブル誌およびエドゥアール・ルイに許可は得ておりません。緊急のこととご理解ください。

(翻訳始め)
もう幾日も前から僕は「黄色いチョッキ」についてそれを支持する文章を書こうと試みたがうまくいかなかった。この運動に降りかかる極度の暴力性と階級の侮蔑が僕を麻痺させる。それはある意味で僕を個人的に狙い撃ちしているように感じられるからだ。
黄色いチョッキの最初にイメージとして現れたのを見た時に僕が感じたショックをどう描写していいものか僕はわからなかった。僕は数々の記事に添えられた写真の上に、公のメディアスペースなどには一度も登場したこともない多くの姿を見ていた。苦しみ、仕事と疲労と空腹に焦燥しきった姿、支配される者たちへの支配する者たちによる絶えることのない辱めに痛めつけられた姿、社会的なあるいは地理的な理由によって排除された姿、僕はこれらの疲れきった体、疲れきった手、押しつぶされた背中、衰弱した目の数々を見ていた。
僕の動揺の理由、それは確かに僕の社会的世界の暴力と不平等性に対する嫌悪によるものであることは確かだが、それだけでなく、たぶんそれはまず第一に、僕がこれらの写真で見た人々の体は、僕の父、僕の兄、僕の叔母…の姿に似ているということなのだ。彼らは僕の家族、僕が子供時代を過ごした村の住民たち、貧しさと惨めさで健康を冒された人々の姿に似ているのだ。僕の子供時代、この人々はいつも毎日のようにこう繰り返していたのだ「俺たちは誰も信用しない、誰も俺たちのことなど知ったことではない」ー僕がこの運動について即座に降りかかったブルジョワ階級による侮蔑と暴力が僕個人に向けられたものだと感じた所以はここにある。なぜなら僕自身にとって、ひとりの黄色いチョッキを侮辱するおのおのの発言は、僕の父を侮辱するに等しいからなのだ。
この運動が生まれるやいなや、僕たちはメディア上で「専門家」たちや「政治家」たちが黄色いチョッキ集団と彼らが体現する抗議運動を矮小化し、糾弾し、揶揄するのを見た。SNS上で僕は「野蛮人」「バカ者」「田舎者」「無責任」といった言葉が飛び交うのを見た。メディアは黄色いチョッキ集団の「不平」についてこう論じた:庶民階級は反抗はしない、彼らは不平を言うのだ、動物のように。一台の自動車が焼かれ、一軒のショーウィンドウが壊され、ひとつの像が破損された時、僕は「この運動の暴力」という言葉を聞いた。暴力という言葉の認識の相違といういつもの現象だ。政界とメディア界の大部分は、暴力とは政治によって貧困に落とし込まれ破壊された何千もの命のことではなく、何台かの焼かれた自動車のことであるとわれわれに信じ込ませようとする。歴史的モニュメントに落書きされたことが、病気を治療すること/生活すること/食餌を摂取すること/家族を養うことの不可能さよりも重大であると考えることができるとは、これまで一度たりとも悲惨というものを知る体験がなかったに違いない。
黄色いチョッキ集団は飢えと生活不安定と生命と死を問題にしているのである。「政治家」たちと一部のジャーナリストたちはそれに対して「わが共和国の象徴に傷がつけられた」と答える。この人たちは一体何を言っているのだ? よくもそんなことが? この人たちはどこから来たのか? メディアは黄色いチョッキ集団のレイシズムと嫌同性愛傾向をも取り上げる。彼らは誰をバカにしているのか? 僕は僕の本について語りたいわけではないが、これは興味深いことなので強調しておくと、僕が小説を発表するたびに僕は貧しいフランスの田舎を貶めていると糾弾されることになるのだ。それはまさに僕が僕の子供時代の村にはレイシズムと嫌同性愛風潮があったと言及したからなのである。庶民階級に益する何事もしたことがなかったジャーナリストたちが、(僕の小説を糾弾することによって)おもむろに憤激し庶民階級の弁護者のふりをするのである。
支配者たちにとって庶民階級は、ピエール・ブールデュー(仏社会学者)の表現を借りれば、Classe Objet(オブジェ階級、客体的階級)である。言説によって操作されうるオブジェ(客体)であり、ある日良き貧しき真正の庶民であったものが、翌日にはレイシストにも嫌同性愛者にもなれる。この二つの場合においても土台にある意図は同じものである:すなわち庶民階級による庶民階級に関する意見の噴出をさまたげること。前日と翌日で矛盾することになろうとも、庶民は黙らせておかねばならない。
たしかに黄色いチョッキ集団の中で嫌同性愛やレイシズムの言動はあった。だがメディアとこれらの「政治家」たちはいつからレイシズムと嫌同性愛を憂慮するようになったのか? 一体いつから? 彼らはレイシズムに反対して何かしたのか? 彼らが持ち合わせる権力でもって、アダマ・トラオレ(註:2016年7月マリ系移民の子アダマ・トラオレが警官の暴行で命を失った事件)とトラオレ支援委員会について語ったことがあるのか? フランスにおいて毎日起きている黒人とアラブ人に対する警察の暴力の事件について語ったことがあるのか? 同性結婚法(註:トービラ法 Mariage pour tous)の時、彼らはフリジッド・バルジョー(註:元コメディエンヌ、反トービラ法の論客)と某司祭に発言の場を大きく与えたではないか。そのことによって、テレビの席で嫌同性愛論が可能になり、まかり通るようになったのではなかったか?
支配者階級とある種のメディアが黄色いチョッキ運動の中における嫌同性愛とレイシズムについて語る時、彼らは嫌同性愛にもレイシズムにも言及しているのではない。彼らは「貧乏人は黙っていろ」と言っているのである。一方、黄色いチョッキ運動はいまだに形成途中の運動であり、その言語はまだ固まっていない。黄色いチョッキ集団の中に嫌同性愛やレイシズムが存在するならば、その言語を変えていくのがわれわれの責任である。
「私は苦しんでいる」と言うにはさまざまなやり方がある。ひとつの社会運動、それこそが、苦しんでいる人々が「私は移民流入と生活補償手当を受けている私の隣人のせいで苦しんでいる」と言うのをやめて、「私は国を治める人たちのせいで苦しんでいる。私は階級システムのせいで苦しんでいる、エマニュエル・マクロンとエドゥアール・フィリップのせいで苦しんでいる」と言うようになる可能性を開くものである。社会運動、それは言語の転換の契機であり、古い言語が衰退されうる契機である。それが今日起こっていることである。数日前から僕たちは黄色いチョッキ集団の使うボキャブラリーの言い直しに立ち会っている。最初の頃はガソリン燃料のことばかり聞こえてきたし、「保護受給者」のような聞きたくないような言葉も聞こえてきた。しかしその後は不公平、賃上げ、不正、といった言葉が聞かれるようになっている。
この運動は続かなければならない。なぜならこれは公正で、緊急で、根本的にラジカルなものであり、それまで不可視の領域に押し込められていたこれらの顔と声は、今や見られることも聞かれることもできるようになったのだから。闘争は容易ではない。黄色いチョッキ集団は大部分のブルジョワジーにとっては一種のロールシャッハテストのようなものであり、普段は婉曲的に侮蔑を表現しているブルジョワジーに直接的に階級的侮蔑と暴力を表すよう強要する。この侮蔑は僕の周りの非常にたくさんの生を破壊したし、今もその破壊を続けている。前よりもさらに多く。この侮蔑が僕を沈黙させ、僕の書きたかったことを書くのをやめさせ、表現したいことを表現させない寸前まで僕を麻痺させていたのだ。
僕たちは勝たねければならない。僕たちは多く、僕たちは言い合っている:さらにもう一回左派が敗北することなど、つまり苦しんでいる人々が敗北することなどもう堪えられないのだ、と。
エドゥアール・ルイ(2018年12月4日)
(翻訳終わり)

(↓)フランス深部アルプ・マリティーヌ県の山間の村で抗議デモを行う黄色いチョッキ集団(国営テレビFrance 3のニュース)


(↓)黄色いチョッキ集団、12月1日パリ。



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