2017年3月29日水曜日

いざ生きめやも

『エ・レ・ミストラル・ガニャン』
"ET LES MISTRALS GAGNANTS"

2016年フランス映画ドキュメンタリー
監督:アンヌ=ドーフィヌ・ジュリアン
フランス公開:2017年2月1日

 画のタイトルは言うまでもなく1985年発表のルノー代表曲「ミストラル・ガニャン」に因んでいます。紛れもない名曲ですが、この歌に関しては爺ブログ2015年7月27日の記事で詳しく解説しています。そこでも強調していますが、この歌の最大のポイントは歌詞の最終部に出てくる:
Te raconter enfin qu'il faut aimer la vie
Et l'aimer même si le temps est assassin
Et emporte avec lui les rires des enfants
Et les mistrals gagnants
そしてやっぱり人生を愛さなきゃだめだときみに言う
たとえ時がとても残酷なものであっても愛さなきゃだめだ
時は子供たちの笑い声と 

ミストラル・ガニャンを共に連れ去っていく 
という部分です。たとえ時がどんなに残忍な殺し屋であっても、人生を愛さなければいけない。このドキュメンタリー映画に登場する5人の子供たち(5歳から9歳)は残酷な時の中に生きています。アンブル、カミーユ、シャルル、イマード、チュデュアル(註:これはブルターニュ地方の男児ファーストネームだそう)、この5人は病名も社会背景も異なりますが、共通するのはみな難病と闘っていて、病院・家庭・学校を行き来しながら「その日」を生きているということです。この子たちはすべて(大人でも覚えられそうにない)自分が罹っている病気の複雑な病名をそらで覚えていて、その病気が現代医学では治癒が難しいということも知っています。つまり自分の命が短いということを自覚しているのです。
 このドキュメンタリー映画を撮ったのはアンヌ=ドーフィヌ・ジュリアンという当年43歳のジャーナリスト/エッセイストで、これが初の映画作品です。彼女は2011年に『濡れた砂の上の小さな足跡(DEUX PETITS PAS SUR LE SABLE MOUILLE)』と題する、難病(異染性白質ジストロフィー)を持って生まれた自分の長女と次女との日々を綴った手記本(日本語訳本が講談社から)を発表していて、これが26万部を売るベストセラーになりました。本を発表後、長女も次女も短い命を燃え尽きさせました。映画はその娘たちの生死の日々に立ち会っている時期に制作されています。
 
妖精の姿かたちをした9歳の少女、舞台で劇を演じることが何よりも好きなアンブルは「肺高血圧症」のため、いつも背中に肺と心臓の機能を調整するための機械の入ったバックパックを背負っていなければならない。彼女はそれをつけて劇を演じ、走ったり踊ったり...。「嫌なことは気にせずに、この病気と一緒に生きるのよ」と言う。
5歳半なのに哲学者然とした「悟った」ものの言い方をするカミーユは小児ガンの一種「神経芽細胞腫」で、このツルツル頭の可愛い子は
"Ma petite sœur a un an et demi, mon père 30 ans et demi, ma mère 35 ans et demi et moi 5 ans et demi. C'est la famille et demi".  
(僕の妹は1歳半、僕のパパは30歳半、僕のママは35歳半、そして僕は5歳半。だから僕の家族はひと家族半。)
なんていうあっけにとられるようなユーモアセンスの持ち主。(この子は撮影が終わった6ヶ月後に亡くなったそう)
 いたずら者のシャルルは「表皮水疱症」はその脆い皮膚が少しの衝撃でも崩れてしまうのを知っているのに、毎日「病友」のジェイソンと病院の廊下を走り回って遊んでいる。あらゆる危険を知りながら、ディズニー動画「ライオンキング」のヒーローたちのモットー「ハクナマタタ(どうにかなるさ)」と唱えながら、困難にぶつかっていく。
4歳の時にその難病の治療ためにアルジェリアから家族と共に移住してきたイマードは、「内臓逆位」と進行性の「腎不全」のために、腎臓移植しかその命を救う方法はない。学校に行けたり行けなかったりで友だちといつも一緒にいれないし勉強も遅れる。 故障したロボットのように、胸を開けて部品を取り替えれば良くなれる。「それは僕にはとても簡単なことなんだけど、大人の人たちには難しいことなんだね」と現状を分析する。
そしてチュデュアルも小児ガン「神経芽細胞腫」を患っていて、その楽しみはピアノを弾くことと家庭菜園で花や野菜を育てること。花の名前を全て暗記していて生き物に優しく、その幸せは誰にも邪魔することができない、と力強く言う。
"quand on est malade, ça n'empêche pas d'être heureux. Quand un ami meurt, on  est triste pendant longtemps, mais ça n'empêche pas d'être heureux"
(病気であっても、それは幸せになることを妨げない。友だちが死ぬと長い間悲しいものだけど、それは幸せになるのを邪魔することじゃない。)

 病気だから不幸になるわけじゃない。この子たちは幸せになることを選んだのです。生きることをポジティヴに楽しんでいるのです。生とは生まれてから死ぬまでの瞬間のこと。この生を幸せに過ごすこと。たとえ短いとわかっていても。治療や痛みは辛くても(映画は辛くて泣きだす子供の姿も映します)。どうしてこの子たちはこんなに笑えるのだろう? ー と問うのではなく、この子たちは笑うからポジティヴになれるし、ある種のオプティミズムさえ獲得してしまっているのです。教えられましたよ。教えられましたとも。生きることを愛さなきゃダメだ。 この子たちを抱きしめましょう。

カストール爺の採点:★★★★★


(↓)『エ・レ・ミストラル・ガニャン』予告編

2017年3月12日日曜日

センチメンタル1000日

ラウディオ・バリオーニ「きみと僕の1000日」(1990年)
Claudio Baglioni "Mille Giorni Di Te E Di Me"(1990)

 バリオーニの1990年のアルバム『オルトレ(Oltre)』 のイタリア盤オリジナルはLP2枚組20曲入りで出たのですが、私はフランスにおりまして、当時のSony Musicがオランダ、イギリス、フランスなど向けに出したCDアルバム『オルトレ』は11曲入りで、ジャケットもイタ盤とは異なっておりました(→CDジャケ。↓2LPジャケ)。Discogsのデータによると、CD2枚組20曲(完全)盤は2011年にヨーロッパで発売になっているようですがフランスでは見かけません。
  1990年、ワールドミュージック現象が音楽シーンを賑わしていた頃で、このアルバムにもユッスー・ンドゥール、リシャール・ガリアノ、パコ・デ・ルシアといったゲストが参加しています。とは言っても、ちっともワールドっぽいところのないアルバムで、欧州の凄腕ミュージシャンたち(トニー・レヴィン、ピノ・パラディノ、マニュ・カッチェ...)
に支えられたいつものバリオーニ調メロディー&サウンドです。
ここで紹介する「きみと僕の1000日」は、オリジナル版2LPではC面の5曲め、欧州版CDでは10曲めに収められたバラード曲です。詞は "bellaitalia.free.fr"というアマチュアサイトが約650もイタリアの楽曲をフランス語に翻訳していて(Un grand merci au passage!)、その仏語訳詞から日本語詞にしてみました。そりゃあコンピュータソフトの訳ではなく人間訳なので、ずっとフランス語っぽい翻訳になってますけど、まだまだ難しい。要するに、3年足らず1000日を一緒に暮らして破局してしまった男女のことなんですが、「世界が二人を羨むほどの」という内容があるので、スター的私生活のことだったんじゃないでしょうか。つまりバリオーニのプライヴェートに大きく関係した歌詞のように思えます。結構弁解がましい。芸能界、おおいやだいやだ。
 詞よりもずっとずっと心惹かれるのは、曲頭のドラムスの切り出し。これは手持ちの欧州版CDのブックレットに書いてあるパースナルによると英国人ドラマー、スティーヴ・フェローニ(アヴェレージ・ホワイト・バンド)が叩いていることになってます。ところが Discogsの資料(1990年イタリア版2LP)によると、ドラマーはチャーリー・モーガン(エルトン・ジョン・バンド)となっている。さあ、どっちなんでしょう(わたし的にはどうでもいいことなんですが)。何はともあれ必殺のドラムスイントロデューシングで、それに続くピアノのイントロメロディーが極上の哀愁もので、歌が始まる前に世界幾万の哀愁音楽ファンは魅了されてしまったことでしょう。そういう曲です。以前紹介した「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」と同様に、超絶延音ヴォカリーズの聞かせどころもありますが、この曲に関しては「出だし24秒だけで十分」というのが私の極論です。
僕はきみの中に隠れ、そして僕はきみのすべてを隠した。誰も僕のことを見つけられないくらいに。そした今、きみと僕はそれぞれの場所に戻っていく。やっと自由になれる、でも何をしていいのかわからない。
僕はきみに弁解も咎めもしない。僕はきみを傷つけまいとして実際には傷つけてしまった。きみは苦しみを抱えながらもしっかり立っていた。僕は被告席に立つよ。

きみの次に恋人になる女は僕の匂いだと思ってきみの香りを嗅ぐだろう。きみと僕はありとあらゆる人たちから羨まれていたんだ。でもきみと僕は何十億の人々を敵に回して勝てっこなんてないのさ。そして恋物語は台無しになった。

きみと僕は何もせずに一緒になったように、何もせずに別れた。結局何もすることなどなかったのだけれど、何かする代わりにゆっくりととても遠くまで逃げていったんだ。何も考えなくてもいいような遠いところへ。

二人がぶち壊される前に僕たちはおしまいにした。きみと僕の愛には終わりがなく僕のためにとっておこうとしたけれど、それがうまくいったと思ったのは束の間、僕はきみを失いかけていることに気がついたんだ。

きみの次に恋人になる女はきみが残した家具を使うことになるだろう。きみが出て行きがけに乱雑に書類を飛び散らかしたままの状態で。僕ときみの最初のシーンのようだけど、モーションは逆だ。

僕たちが知らなければならないこととは逆に、僕たち二人が知ったこと、そして決して理解できないことは、もはや今はないあの永遠の瞬間は確実に存在したということ、それはきみと僕の1000日の日々。

きみに僕の古い友達を紹介しよう、それは永遠に残る僕の思い出、この別れの時の僕さ。僕はきっとまたきみと恋に落ちるだろう….
 (きみと僕の1000日)
きみと僕の1000日。これに「前」をつけて、「あなたとわたしの千日前」とすると、たちまち、ディープな大阪ローカルラヴソングに豹変してしまいます。

(↓)1990年アルバム『オルトレ』のスタジオ・ヴァージョン。


(↓)1991年 TVライヴ。この時バリオーニ40歳。美しい。しかし、途中でむりやり入る拍手の音(フロアディレクターの煽りか)、なんとかならんもんだろうか。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアムでのライヴ。終盤5分20秒頃から、1分半のアウトロ。


(↓)2003年、ローマ、オリンピック・スタジアムでのライヴ。デカいオブジェ装飾がゴロゴロ、フィリップ・デクーフレ舞踊団のような奇抜ダンサーたち、クレージーホースサルーン風な露出度高い女性ダンサーたち....。最後は乱舞ですね。「1000日」というより「千一夜」みたい。

(↓)2006年、マチェラータでのフェスティヴァル、ピアノ弾語りライヴ。



2017年3月11日土曜日

終わりなき世のめでたさ

ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」(1961年)
Gino Paoli "Senza Fine"(1961)

 イタリア語で陣羽織のこと(ウソです)。60年代イタリアを代表するカンタウトーレの一人、ジノ・パオリ(1934年生れ)はそのデビューの頃にこれまた女優・歌手としてデビューしたてのオルネラ・ヴァノーニ(1934年生れ)と熱烈な恋に落ちます。この実生活から生まれたようなラヴソングが「センツァ・フィーネ(恋に終わりなく)」で、1961年にオルネラ・ヴァノーニの初の大ヒット曲となり、パオリ自身の録音もヒットしています。しかし所詮歌なんて嘘っぱちで、恋に終わりは来て、1963年7月にジノ・パオリはその破局のショックにピストル自殺を図っています。死んだらダメだ。生きていかなきゃ。再生して5回のサン・レモ音楽祭出場を果たし、政治的にもアクティヴに活動し、共産党選出の国会議員(1987年〜92年)にもなっています。
 「センツァ・フィーネ」はなんと言っても美しい音階の上昇と下降のあるワルツ曲です。終わりのないくるくる旋回の円舞曲です。目が回り陶酔する男女ダンスです。陶酔しきったらそのまま男女はベッドに倒れこみ、終わりのない夜を過ごすのです。なあんてね。若いっていいですね。
 ディーン・マーチン、ペギー・リーなど国際的な歌手たちにカヴァーされて、「センツァ・フィーネ」は世界的なスタンダード曲になっていきます。また1965年アメリカ映画『飛べ!フェニックス』(ロバート・アルドリッチ監督、ジェームス・スチュアート主演)では、テーマ曲と挿入曲に使われ、コニー・フランシス歌う「センツァ・フィーネ」がこんなシーンで。


 さてオリジナルは、ジノ・パオリとオルネラ・ヴァノーニのエンドレス・ラヴを歌ったものです。歌詞はこんな感じです。
終わることなく
僕ときみの人生をきみは導いていく
ひとときも息切れせずに
夢見ること
過去のことを
憶えていること
きみは終わりのない
今この瞬間
きみには昨日もなく
明日もない
すべてはきみの両手の中に
きみの大きな手の中に
際限もなく大きな手
月のことなんかどうでもいい
星たちのことなんかどうでもいい
きみこそが僕の月、僕の星
きみこそが僕の太陽、僕の空
きみこそが僕が欲しいすべてのもの
それには終わりがない…

そろそろこの記事終わりにしましょう。

(↓)ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)ディーン・マーチン「センツァ・フィーネ」1963年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ&ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」ライヴ 2005年


(↓)クラウディオ・バリオーニ「センツァ・フィーネ」2006年


(↓)ボズ・スキャッグス「センツァ・フィーネ」2008年


(↓)アンドレア・ボチェーリ「センツァ・フィーネ」2012年ライヴ

(↓)ルチアノ・ビオンディーニ(クロマティック・アコーディオン ソロ)「センツァ・フィーネ」2016年 エネンダ(スイス)ライヴ

(↓)サラ・ランクマン(vo) + ジョヴァンニ・ミラバシ (p) + オリヴィエ・ボジェ(as) 「センツァ・フィーネ」2019年


(↓)ゴンタール「イノシシ」2016年



2017年3月8日水曜日

ラ・ノッテ、ラ・ノッテ

ラウディオ・バリオーニ「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」(1985年)
Claudio Baglioni "Notte di note, note di notte"(1985)

 題の出典はエチエンヌ・ダオ「ローマの週末 Weekend à Rome」(1984年)です。歌詞中に "variété mélo à la radio"(メロな流行歌がラジオに)と出てきますが、84年当時のローマのラジオでメロなヴァリエテと言えばバリオーニだったでしょう。
 伊ウィキペディアの数字によると、クラウディオ・バリオーニの最大のヒットアルバムで400万枚を売った1985年の『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ (La Vita è adesso。人生は今、と直訳せず『いざ生きめやも』 と訳したりして...)の最終トラック10曲め(当時はB面5曲め)に収められた曲です。アルバムはヴァージン・レコーズの創始者リチャード・ブランソンが1971年に英国オクスフォード州の城館を改造して作った伝説のザ・マナー・スタジオで録音されていて、ドラムスにスチュワート・エリオット(アラン・パースンズ・プロジェクト)、ギターにフィリ・パーマー、珍しいところでは後年映画音楽の巨匠となるハンス・ジマーがキーボードで参加しています。
 "Notte di note, note di notte"は notte (ノッテ=夜)とnote(ノッテ=ノート、音符、メロディー)の同音異義語を並べた「調べの夜、夜の調べ」(あんまり上手い訳ではなくてゴメンなさい)といった意味です。どうなんでしょうね。さっき伊語→仏語(google translation)経由で訳してみましたけど、星降る夜が音符降る夜みたいになって、人類の希望と共に安らかに恋人と眠れるというポジティヴな歌詞ですけど、バリオーニは歌詞的な面白みは少ないと思いますよ。歌詞の中で、「この夜のこの瞬間にカリフォルニアと日本の間で人類の未来が創造されている」というパッセージがありますが、1985年当時の感覚ではシリコンヴァレーと日本が未来の象徴だったわけです。今は昔。
 歌詞なんてどうでもよく、この歌の最大の聞かせどころは、Bメロからサビへのつなぎに挿入される5音階上昇息継ぎなしの超絶フェルマータ(延音)で、どれほどの小節を全音スラーでつないでいるか気が遠くなるほどのブレスレスのヴォカリーズです。どんな構造の肺を持っているのでしょう。ライヴ録音ではここに婦女子のみなさんのキャーキャー声やため息が集中しているのがよくわかります。ミラクル長息。バリオーニはこの一点でも歴史に残る大ヴォーカリストでありましょう。
調べの夜 夜の調べ
月が犬を惑わせる
通りに隠れている放浪者たちはすべてを知っている
僕たちは歩く
地球が回る音とリズムに従って
パン屋はもう明朝のパンを焼いている
バケツの水はベランダの植物たちを目覚めさせる
朝の太陽は
僕の顔にかかった蜘蛛の巣の糸を
焼き払う
僕を追ってくるひと吹きの風が
ズボンの裾を鳴らしていく
天から降ってきたたくさんの音符を
何本の指で受け止めたことだろう
鍵をかけられた扉の向こう側に
一日の始まりは近い
小さな痛みよ、おやすみ
遊び人たちみんな、おやすみ
墨色の雲の中に、おやすみ
僕たちの息子よ、おやすみ
ここ天国の一角では
すべての匂いが思い出
それははっきりとよみがえる
そして悪い日々の渇きを取り去ってくれ
疲れた心に
平穏の夜をもたらす
調べの夜、夜の調べ
太鼓の皮のように張りつめた夜
ヘッドライトは僕のことを
目で理解しようとしている
落書きで描かれたような世界で
落ち葉を踏んで通り過ぎる人たちのために
今この瞬間に
カリフォルニアと日本の間で
未来を発明しようとしている人たちがいる
今夜 星たちは自由で
夜明けは古い町並みを見間違え
つぎはぎだらけの若い空は
新しい潮風を呼吸する
波打つ砂漠の只中で
妙にかすれた声があなたに聞く
あなたは今まで一体何を浪費してきたのか、と
数々の領収書に おやすみ
風の中に飛んでいって おやすみ
金色の沈黙の中で おやすみ
僕のお宝、おやすみ
ここでは誰もそんなやり方で
きみたちの夢をだれかに盗ませたりしない
希望の光と
新しい歌が
空から降りてくる時
今夜ここに
その音符たちが降りて来て
開かれた手のひらに
人生を見つめてくれる
僕はずっと
いつまでもそれを信じている
僕は愛のまなざしに従って
恋人の傍らで
眠りに落ちて行く

(↓)1985年アルバム『ラ・ヴィタ・エ・アデッソ』 のヴァージョン。 アルバム最終曲なのでアウトロがちと長い。


(↓)1985年ライヴ。アルバム『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ』発表年のライヴ。この時バリオーニ34歳。映像と音には細工がないでしょう。つまりあの超延音パートを細工なしで歌ってると思う。


(↓)1995年ライヴ。かなりスローになって、超絶フェルマータが際立つ。すっかりライヴの目玉ナンバーの一つ(大体はショーの最初に歌われると思う)になってる。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアム(すげえ)ライヴ。あの超延音部を走りながら歌ってる。超人的。新体操のおねえさんたち...(ちょっといただけない)。ブオナ・ノッテとベッドに寝てしまう。


(↓)2006年(アコースティック)ライヴ。55歳。さすがにこの頃は婦女子の皆さんのキャーキャー声がない。やっとどんなに美しい曲なのかというのがわかる。4分40秒めからバグパイプが登場。うっとり。


(↓)201X年ライヴ。4分10秒めまでピアノ弾き語り。60歳を過ぎて、さすがに音程がちょっとフラット気味。超絶延音パートもちょっとだけ苦しそうだけどお見事。


 

 

2017年3月5日日曜日

You don't know what love is

Aki Shimazaki "Suisen"
アキ・シマザキ『スイセン』


  年3月、パリの環状道路ペリフェリックの西側(オトイユ門からシャンペレ門)の外側土手はスイセンの花で真っ黄色になり、環境に優しくない自動車族に春の訪れを告げます。そんな時期3月1日にアキ・シマザキの最新作『スイセン』がフランスで刊行されました(ケベックで2016年9月に既刊)。シマザキの13作目の小説で、「アザミ」(2014年)、「ホオズキ」(2015年)に続く、第3の五連作(パンタロジー)(総題はまだついていない)の第3作目になります。
 本作の場所は現代の名古屋で、話者は男性です。『アザミ』の登場人物だったゴロウです。中部地方で大成功している酒造メーカー「酒屋キダ」の現社長で、豪放な人柄で派手な交遊好き+女好き、という絵に描いたような旧時代の日本型経営者タイプです。読み始めから、あ、まずいな、と思ってしまいます。こういう人物はおよそロマネスク(小説的)なキャラクターでないからです。シマザキはこの人物に日本的俗物の要素をどんどん詰め込んでいきます。金と名誉と女。ほとんど戯画化されています。二流大学商科の出、(自家よりも格の低い)良家の娘と見合い結婚、大学生の娘と高校生の息子の進路や交際相手をコントロールしようとする、有名人と一緒に写っている写真で壁を埋め尽くす、女性誘惑のガイドブックの教えを実践して女性が握手で差し伸べた手に接吻する、ゴルフやパーティーや高級バー通いをビジネスとして利用できる、絵が趣味の妻に山荘を買い与えその絵描き滞在の不在を利用して浮気をするがその不倫を妻が知らないと思っている、金と権力がある男にあらゆる女が服従するものだと思っている...。この俗物性のてんこ盛りで、シマザキは日本社会のある種の男性像を際立たせます。欧米人にはエキゾチックで滑稽でネガティヴなパーソナリティーです。アメリー・ノトンブが日本を舞台にした小説群に登場させるエキゾチックな日本人にも似ています。
 企業小説の部分もあります。破竹の勢いで伸びている「酒屋キダ」は同族会社で、ゴロウは社長だが、実権は義理の母(株の50%をホールド)が握っている。二代目社長である父の最初の妻はゴロウを生み、ゴロウが3歳の時に亡くなり、父は再婚して腹違いの妹アイが生まれる。異母兄妹のゴロウとアイは幼少の日から今日までずっと反目しあっている。義母は父を助け会社経営にも参画して「酒屋キダ」の総務責任者になる。ゴロウは勉学が苦手で二流大学の商科に入るのがやっとだったが、アイは一流大学で生物学を学ぶ。 やがてゴロウが30歳の頃に父が急死し、「酒屋キダ」は義母の総指揮のもとゴロウを社長に据え発展を続ける。その発展の最大の要因がウィスキー市場への参入で、ウィスキー開発部のチーフ(同じ生物学出身)とアイが恋愛結婚し、養子として「キダ」姓を名乗り一族入りする。月日が経ち、義母が80歳となって引退が近いと踏み、ゴロウはもうすぐ義母が持ち株分を自分に譲渡して、名実ともに「酒屋キダ」の社主になれると信じていた。
 本題はゴロウが女で身を滅ぼすという話です。まず目下の愛人第一号であるユリという美貌の人気女優です(あれあれ「ユリ」という花の名前です。次のシマザキの小説のタイトル&主人公になる可能性あります)。駆け出しの頃にゴロウが目をつけ、ゴロウの人脈を使って芸能プロダクションに顔つなぎをしたのがきっかけで、人気女優の座を手に入れた、とゴロウは思っています。つまり自分は愛人&恩人であり、俺の方に足を向けて眠れないはず、と。ところが主演映画発表のレセプション会場で、ユリは冷たく急用ありとゴロウを避けてその場を立ち去ります。
 続いて愛人第二号のO(オー)という未亡人。彼女の亡き夫は「酒屋キダ」の平社員だった男で、Oも当時は共働きで「酒屋キダ」で働いていました。社に大きく貢献した良き社員という表向きの理由で、ゴロウは大きな葬式を出してやり、特例の慰霊見舞金を捻出してOに近づいていきます。そして未亡人に住居まであてがってやるのですが、そこが妾宅となり、昼夜を問わず好きな時に行って愛人遊びをするようになります。
 この愛人第一号と第二号が、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ理由でゴロウを振ってしまいます。「新しい恋人ができたから」と言うのです。そいつはどこのどいつだっ!とゴロウは激昂して聞きます。人物はともかく、ゴロウが絶対に信じられないのは、その二人の新恋人の職業がいずれも勤め人(サラリーマン)であるということなのです。 社長とサラリーマンを比べて、サラリーマンを選ぶ女などどこにあるのか、という単細胞です。社長に比べてサラリーマンなど取るに足らない人間である、という身分差別です。ゴロウには自分よりも下層民を好きになることなど想像もできないのです。
 ここから誘導されてテーマは大上段に「愛するとは何か?」ということに移っていきます。日本の俗物男は愛するとはどういうことか知っているか?日本の男は愛することができるか? このことはちょっと上に引き合いに出したベルギー作家アメリー・ノトンブの日本男性観にも関係します。その2007年の小説『イヴでもアダムでもなく』の中で、ノトンブは日本人の恋は "amour"ではなく "goût"であるという論を展開します。つまり日本語の「あなたが好き」は「好き」つまり好みのレベルに留まっていて、命がけ・狂気がけに昇華した西欧的恋愛ではないというようなことを言うのです。私は読んだ当時はむっと来ましたけどね、あとで当たらずといえども遠からずと思うようになりましたよ。この小説のゴロウはこれまで一度も女性を愛したことも恋したこともない。自分が好きになった女をものにするということに愛も恋も必要ない。自分が女をものにできるのは金と名誉があるからである。ー というレベルのマテリアリスムがものを言う世界にゴロウは生きているのです。 You don't know what love is.
 この小説の物足りなさはまさにこの単純化です。なぜゴロウがそのように人を愛せない人間になってしまったのかをこの小説で説明するのは、幼くして母と死別したことなのです。愛を受けたことのない人間は愛を与えることができない ー ちょっとこの分析簡単すぎませんか? ゴロウが女性を誘惑したあとで、必ずゴロウはその女性に自分の幼少時の不幸を告白するのです。女性はそこで「金と権力」ではないゴロウを見て、ふ〜っと心惹かれるのですが、ゴロウはそれをかなぐり捨てて金と権力の男に戻ってしまう。作者はこのパターンを3人の女性を相手に三度繰り返すのです。愛の萌芽を潰してしまうのはゴロウの根に付いた俗物性に他なりません。幼児体験を重視すると許容性が勝ってしまうではないですか。しかし作者は後者を選びます。
 ストーリーは、ゴロウの思惑とは裏腹に度重なる不倫を全て見抜いていた妻と子供たちの離反、二人の愛人からの絶縁宣告、そして「酒屋キダ」内でのゴロウの失権という、あらゆる不幸でゴロウを打ちのめします。この連続の不幸をゴロウは俗物ゆえに最初なぜこうなるのか全く理解できないのです。
 ページ数的にはあまり登場場面の多くない人物ですが、非常に重要な第4の女性が居ます。それはゴロウが見合結婚する前に付き合っていた貧乏高校生のサヨコです。八百屋でバイトしながら一間アパートで自活生活をするサヨコは、大学に進学して心理学を学びたいという希望がある。サヨコは他の女たちと違ってゴロウに媚びることなく、ゴロウよりもはるかにインテリなことを言って、ゴロウを批判したりもする。ゴロウが大企業の次期社長だと知っても、それが何なの?という態度。サヨコはゴロウの不幸は幼少体験の不幸なのではなく、人を愛せない不幸なのだと見抜いている。そのサヨコが交際の1周年を記念して、ゴロウにスイセンの柄の付いたネクタイをプレゼントするのです。ゴロウはその翌日に見合い相手と結婚するということをサヨコに明かしません。しかしサヨコにはこの不幸な男はそうやって去っていくということを悟っていたような。
 ゴロウがサヨコと別れた理由?それは俗物ゴロウが、貧乏サヨコと次期社長の自分では身分が違いすぎると思ったからなんです。ここのところとっても弱いように思いますよ。身分の違いで泣く文学っていくら日本でも21世紀的じゃないです。
 
 四重五重の不幸と罰と辱めを受け、すべてを失ったゴロウは名古屋から金沢までベンツを飛ばして、サヨコのことを回想してみるのです。愛することを知らない人間はやり直しができるのか、ということも。
 終盤にきれいなパッセージがあります。犬や猫やあらゆる動物を毛嫌いしていたゴロウが、自宅物置で針金に足を絡めてケガをしていた猫を助け、獣医病院に連れていくのです。「迷い猫ですね、治療が終わったらが引き取りますか?」と聞かれ、妻子に出て行かれひとり身になったゴロウは「飼います」と答えるのです。「でしたら登録しますから名前をつけてください」と言われ、サヨコの回想でやり直しの手がかりを掴みつつあるゴロウは「スイセン」と命名するのです。

 ちょっとステロタイプな日本の「男性原理」は、このゴロウというキャラクターから人間的な厚みを削いでしまっているように思います。挿入される(人気女優ユリ主演の)映画「お母さん行かないで」のストーリーも、ゴロウの母子愛渇望の涙を流させるために使われるのですが、いかにもチープなお涙ものです。あまり説明的にならずに展開して欲しいです。幼少時のトラウマが頑迷な俗物を生むということ、日本男性の恋愛情緒の薄さはどこから来るのかも掘り下げなければならないでしょう。この男は愛することを知らない。これは私も含めた日本男性のパッションのありかの問題で、この小説には答えはありません。では、また次作でお会いしましょう。

Aki Shimazaki "Suisen"
Actes Sud刊 2017年3月 160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆


2017年3月2日木曜日

あとで肘鉄クラウディオ

クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ...」(1974年)
Claudio Baglioni "E Tu..." (1974)

 1951年ローマ生まれのカンタオトーレ、クラウディオ・バリオーニの5枚目のアルバム『エ・トゥ...』 (1974年)はパリ録音。軍政ギリシャを逃れて1968年にパリで結成されたギリシャのプログレッシヴ・ロックバンド、アフロダイティーズ・チャイルド(デミス・ルソス、ルカス・シデラス、エヴァンゲリス・パパタナシウ)は1970年に解散するが、その後も後年「ヴァンゲリス」として知られることになるエヴァンゲリス・パパタナシウ(72年頃「エ」が取れて、ヴァンゲリス・パパタナシウに)はパリで映画音楽やソロアルバム制作をしていました。1974年には英プログレ・バンド、イエスからリック・ウェイクマンが脱退し、その後釜キーボディストとして加入をオファーされてヴァンゲリスはその夏2週間に渡ってイエスとリハーサルしているが、加入には至っていません。そんな時期にこのクラウディオ・バリオーニとの仕事はやってきた。このアルバムでヴァンゲリスは全曲の編曲を担当している他、ドラムス、エレピ、ハモンド、各種パーカッション、ハープ、電子ハープシコード、クラヴィネット、フルート、マリンバ、ヴァイブラフォン.... まあまあ八面六臂のアシュラ様だったのです。
 アルバム表題曲でシングル盤となった「エ・トゥ...」はその年イタリアのチャートで11週間連続の1位、50万枚のセールスを記録する大ヒットとなりました。夕暮れの浜辺、いちゃつく男女のシルエットという、いかにも、のジャケに彩られた必殺のラヴ・スローバラードです。何の解説も必要としない。歌詞は訳すのもかったるい浜辺ラヴソング。この歌は後年もバリオーニのエヴァーグリーンとしてライヴのレパートリーに欠かせない曲になってますが、オリジナルにはなかった「アウトロ」がどんどん重要になっていく、という珍しい進化を遂げて40数年熟成の名曲になっています。
うずくまって海の音を聞いていた
息もせずに
どれほどの時間が流れたことだろう
指できみの横顔をなぞる
風がやさしくきみの服を撫でていく

そしてきみは
僕にまなざしを
僕に無邪気な微笑みを
裸足の僕は
きみの髪を撫でていた
蟻んこと遊ぶのをやめて
眼を閉じた
もう何も考えない
きみは寒くないのかい
きみは寒くないのかい

夜の闇に隠れていた星たちが現れ
突然きみの肌に震えが
そして息が切れるまで
二人で競争して走った
どちらが先にめげるか

そしてきみは
僕の様々な考えの一つ一つに 
ため息をつき
僕は押し黙った
すべてをぶち壊しにしないために
そして一本の草を
きみの唇に当てた
きみがもっときれいに見えるかもしれないと
髪の毛を持ち上げてみた
きみのことがますます好きになる
きみのことがますます好きになる
ひょっとしてきみは僕の恋人なの?

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなんて

戯れに二人は着たままで海に飛び込んだ
口づけ、もう一度、もう一度
何もきみに言えなくて

きみは透き通っていて
やさしく
きみはすでにすべてがあった
でも僕には
信じられなかった
僕はきみを固く抱きしめた
二人の衣服はびしょ濡れで
冗談だったねと笑い合った
急にやめてしまったけれど
僕はね、本当はね
きみが必要なんだ
きみが必要なんだ
僕に少しの愛をくれないか

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなん

(↓)クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」(1974年)


(↓)フランスも1976年までテレビは白黒だった。イタリアも事情は同じか。1974年テレビショーライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。時代はベルボトムだった。


(↓)1982年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがかっこよくなってる。


(↓)1991年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがますますかっこよくなってる。


(↓)2001年ピアノ弾語りライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。伸びすぎる声でアウトロいらず。


(↓)
2010年ロンドン、ロイヤルアルバートホール・ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロで立ち上がりギターに持ち替える。アウトロで客席にイタリア国旗が翻る。そういう歌なんだから、もうイタリア国歌になってもいいほど。