2008年9月28日日曜日

コレージュ体に良いわきゃないよ



 『壁の中で』2008年フランス映画
  "Entre les murs" ローラン・カンテ監督
 主演/原作:フランソワ・ベゴドー
  2008年カンヌ映画祭パルム・ドール賞


 2006年のフランソワ・ベゴドーの小説『壁の中で』に関しては、今年6月の拙ブログ「壁の中で何が起こっているのか」で紹介してあるので読んでみてください。
 この小説を自由翻案して、2006-2007年の数ヶ月間、パリ20区に実在する公立中学校コレージュ・フランソワーズ・ドルトのキャトリエム(第4学年=日本の中学2年に相当)の有志たちに毎日曜日に出てきてもらって撮影された百数十時間の映像から編集して映画化された作品です。出演している生徒たちは「本物」です。この子たちに立ち向かうフランス語教師フランソワ・マランの役で、小説の作者フランソワ・ベゴドーが主演します。ベゴドーは元中学教師で、教師姿はたいへんサマになっていますが、その姿とは21世紀的に「荒れた教室」の中で、騒ぐ子/反抗する子に負けまいとして大声を上げ、神経をすり減らし、不眠症に陥るギリギリに生きる教師像です。小説では19区のコレージュでしたが、映画は20区のコレージュであり、いずれにしても地理用語的には「郊外」ではなくパリ市内なのです。この映画を紹介する時「郊外のコレージュ」と早とちりの間違いをするメディアは少なくありません。エキゾティックな名前と肌の色をした子たちが、ブランドもののスポーツウェアを着て、男も女もギラギラのネックレスや指輪やピアスで飾り、郊外ラップと同じ語彙とイントネーションで話します。これでは何ら郊外と変わりないではないか、と誰もが思います。
 パリの西郊外のわが町ブーローニュ・ビヤンクールの公立コレージュ・バルトルディに通っている娘は、この映画に現れたクラスを、まるで自分のクラスのようだと言い、授業中に荒れだして収拾がつかなくなったら、この映画よりも混乱してしまうことがあるとも言います。授業の妨害をする生徒のことを perturbateur ペルチュルバトゥール(日本語訳には撹乱因子とか妨害分子とかいうのもあります)と言い、これに煽動されて他の子たちが同調して騒ぎ出すと、授業は続けられません。この場合、教科教師、担任教師、校長からその子の親への警告、親を呼び出しての注意などの末、それでも改善の余地がない場合は、地区教育委員を含んだ懲罰委員会の議決によって、最悪の場合は放校処分となります。
 映画の中では、マリ出身で、父親不在(ここには暗に「一夫多妻制」への当て擦りがあるかもしれません)、フランス語を解さない母親を持つスーレイマンという名のペルチュルバトゥールの問題、教師への不服従と不敬(tutoiement つまり教師に向かって "tu"おまえ呼ばわりすること)、親呼び出し、再び問題、懲罰委員会、放校処分決定、というのが大きな流れのひとつになっています。他の教師たちにしてみれば全く手のつけようがないこの少年に、教師フランソワはなんとか解決の糸口はないものかと探します。なぜならこの子が母親思いの子であることを知っているからです。フランス語の授業の一環で、おのおのの生徒のセルフ・ポートレートを作らせます。パソコンを使って自己紹介文と画像などで自分自身を表出させます。ここでスーレイマンは「傑作」を作り、フランソワはそのセルフ・ポートレートを教室壁に模範として掲示し、スーレイマンは恥ずかしそうに微笑みながらもそれを誇りに思うわけです。フランソワはそういうスーレイマンを最終的に救ってやれず、放校処分が決定されます。
 教師の命令に服従しない例では、クーンバという少女がいます。授業中「アンネの日記」のテキストを読むようにとフランソワに言われたクーンバは「読みたくない」という理由で読むことを拒否します。「読みたくなから読まないという理屈は学校では通らない」とフランソワは、クーンバに対して教師への無礼への謝罪を要求します。謝罪をしたがらないクーンバにフランソワはそれを強要します。最終的に詫びの言葉を小声で言ったクーンバは、教室を出たとたん「そんなことこれっぽっちも思ってないわ!」と最後っ屁を放ちます。怒りのあまり、フランソワは机を蹴飛ばしてしまいます。
 その後クーンバはフランソワに長い手紙を書きます。「リスペクトは双方向でなければならない、あなたが私をリスペクトしないのであれば、私もあなたをリスペクトしない。よって今日から私は授業であなたに対して口を利くことを拒否するし、あなたは私を無視しても構わない」という宣戦布告で、その日からクーンバはフランソワの授業中「貝」と化してしまうのです。
 そしてフランソワを最初から徹底的になめてかかる少女エスメラルダというのもいます。クラス代議員であるこの少女は、生徒の成績評価を決める教師会議にも代議員として出席する権利があり、あとであの先公がこの生徒の評価についてこんなことを言った、あんなことを言ったと、みんなに言いふらし、学校側と生徒側との敵愾心を煽っていくようなポリティカルな反抗少女です。この少女のあまりの口軽さに、フランソワは思いあまって「ペタスのような言い方をする」と言ってしまいます。これが大スキャンダルとなり、エスメラルダは「先生が私をペタスとののしった」というヴァージョンで言いふらし、学校側も目をつぶってはいられない事態になります。(「ペタス」とは小説紹介に説明した通り、フランソワの使った意味では扇情的な女、エスメラルダの理解した意味では淫売婦、ということです)。
 この映画は、ベゴドーの小説同様、今日の状況で教育はどうあるべきか、とか教師に何ができるか、とか子供たちは学校で何を学べるか、とかそういうことは一切問題にしていません。誰も何もできない、けれど何かできるかもしれない、しかし何もできない、というタイプのモノローグは、小説の中ではフランソワがぶつぶつ言っていますが、この映画にはそのフランソワの視点も取り払われています。それは教室内の声の大きさで、教師が勝ったり、生徒側が勝ったり、という容赦ない闘いで構成されている映画だからです。
 ローラン・カンテのカメラアイはむしろ子供たちの反抗に、教師ベゴドーを上回るパワーを強調して見せている部分があります。ただ反抗はこの映画のメインテーマでもサブテーマでもありません。
 フランソワと共に現れる教師たちは、決して無気力ではなく、自分たちの孤的な闘争(授業ということですが)を精一杯戦っているように見えます。しかし総じて自分たちはいかにして生き残っていくのか、という防御戦しか戦えないのです。フランソワ自身、生徒たちとなんとか触れ合って行こうとつとめる熱血教師では全くありません。望まれている教師、望まれている教育、というのは誰も知ることができないのです。
 学年の終わりの授業で「きみたちはこの1年間で何を学んだか、ひとりひとり言ってみなさい」とフランソワは聞きます。ピタゴラスの定理を教わった、地殻変動の力学を教わった、音楽でフルートができるようになった...。さまざまな答えが返ってきます。さあ、明日からヴァカンス、新学期にまた会おう、で授業時間終了のベルが鳴ります。みんなが勢い良く教室を出て行ったあと、ひとりの少女がフランソワに近づいてきます。「先生、私はこの1年で何一つ学んだものはありません」。もうこれは鉄槌のような言葉ですね。教師にとってこれほど衝撃的で非情な言葉がありましょうか...。

 映画はいい笑顔の生徒たち、いい笑顔の先生たちが、入り乱れて校庭サッカーをするシーンで終わります。Life goes on。素晴らしい映画です。娘も私も喝采しました。ぜひみんな見てください。


PS 1 (10月1日)
本日発表のフランス・ボックスオフィス(国内映画入場者ランキング)で,9月24-30日週の集計で『壁の中で』が1位でした(週入場者:356 494人。そのうちの2人が私と娘です)。

 PS 2 (2013年1月22日)
日本公開時のローラン・カンテ監督のインタヴュー+日本公開の予告編を(今さらですが)見つけました。字幕がほとんど通訳になっていないのがすごいです。

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