2008年9月15日月曜日

パンクの祖と長時間話した



 9月15日と19日の2回にまたがって、マルク・ゼルマティに話を聞きました。
 ゼルマティの会社スカイドッグとはつきあいこそ長いけれど、そんなに大した仕事は一緒にしていませんでしたが、それでもよくうちの事務所に来てくれて、「俺はフランスに絶望した」とか「くだらない音楽を捨ててロックを聞け」とか、一方的にいろいろなヨタ話をトゲのある言葉をたくさん交えてひとしきりしゃべって帰っていく、という説教オヤジ的な訪問を毎回楽しみにしていました。最初はBrute(ブリュット。粗のまま、むき出し、乱暴)なロック中年と思っていましたが、身なりはいつもスタイリーだし、教養と繊細さも匂わせるもの言いが、そんじょそこらのロック業界人とは違うということがだんだんわかってきました。ゼルマティがこの世界で伝説の人物であり、特に70年代半ばにパリのレ・アールから(ロンドンに先駆けて)パンク・ロックをプロデュースしていた、言わば「パンクの父」であった、ということを私が知ったのはずいぶん最近のことで、特にこの2−3年、音楽もファッションも「ロック」が大復古してしまってから、メディア上でゼルマティの名前をたくさん見るようになったのがきっかけでした。お見それしやした、親分、という感じでした。
 マルクはアルジェリア、アルジェ生まれです。父親はユダヤ人医師、母親はフランス人でカトリック信者。マルク自身は無宗教者ですが、人からはユダヤ人と見られ、幼い頃から反ユダヤ感情(アンチ・セミティスム)の標的となっています。ピエ・ノワールの子ですから。しかしゼルマティ家はもともとはスペインの大富豪家で、1492年のユダヤ人追放で一族はヨーロッパに四散していて、そのうちのフランスに逃れた部分が、マルクの直系の先祖だそうで、誇り高い大ブルジョワ気質はマルクにまで引き継がれます。「俺は金には興味がない」と言う彼は、ゼニ勘定ばかりする輩を軽蔑し、たとえ自分が無一物になっても高慢であり続けることができると思っていて、それはこの血筋だから、と説明します。
 アルジェリア戦争のために62年にフランスに逃れますが、両親が離婚。父親はニースで開業医として人生をやり直します。マルクはパリ圏の母親の下で暮らすのですが、夜は「ドラッグストア族」(La bande du Drugstore)となって遊びまくります。このラ・バンド・デュ・ドラッグストアとは、シャンゼリゼに出来た当時としては画期的な24時間営業のマルチストア(薬、食品、本、レコード、カフェ...)だったドラッグストアという店にたむろする若者たちの一団で、主に高級住宅街16区から出て来る金持ちの子女たちが、ビシっと決めたファッションで不良遊びをし、盆百の若い衆がイエイエなんぞを聞いている時に、この連中はモッズなロックンロールとStax系のリズム&ブルースを輸入盤で聞いていたのです。そしてセックスですね。性の解放なんてまだまだ遠い先だったド・ゴール時代のフランスで、この若者男女は7区や16区や17区の高級アパルトマンで毎週末開かれるプライベートパーティーでご乱行の限りを尽くしていたのです。
 マルクは「フランス人金持ちの愚息たちはセックスを恐怖し、金持ちの娘たちはセックスに飢えていた」と言うんですね。13歳14歳で男になって当り前というアルジェリアで育ったゼルマティをはじめ、非「純系」フランス人の男たち(ボリス・ベルグマン、セネガル大統領の息子ギ・サンゴール...)がモテモテ性豪となっていったそうです。当時のドラッグストア族ではジャラール・マンセ、フランソワ・ジューファ、ジャン=ベルナール・エベイ、ブノワ・ジャコ、ロナルド・メウ(後のロニー・バード)などが後の有名人です。
 なお、2002年に映画"La Bande du Drugstore"(日本公開タイトルが『好きと言えるまでの恋愛猶予』。恥ずかしいなあ)というのがあって、60年代ドラッグストア族をファッション青春もので描いてましたが、実在したドラッグストア族とはかけ離れているので、参考にはなりません。
 さてゼルマティはその後麻薬で監獄に入り無一物になったのですが、知人から金を借りて72年にポンヌフの近くに「オープン・マーケット」という店を開きます。最初はただの広いスペースに蚤の市のような台を並べた複数の店子が、レコード(海賊盤)、インドものの衣類やアクセサリー、Tシャツ、ポスター、ファンジャン、地下出版物などを売っていたのですが、パリで唯一のアンダーグラウンド/カウンターカルチャーショップとして知られるようになり、他の店子を追い出して、マルクだけの店になります。74年に店はレ・アールに移り、約200平米の広さを持ち、1階がショップ、2階がゼルマティのレコード会社スカイドッグの事務所、地下が彼がプロデュースするバンドの練習スタジオとなったのでした。このレ・アールのオープン・マーケットが、事実上フランスと世界のパンク・ロック発祥の地となるのですが、ゼルマティは「いつが最初で誰が始めたとか、そんなことはどうでもいい、ただロンドンやニューヨークよりも先に俺たちはここでもうやっていたのだ、ということはレスター・バングスが証言している」と言います。72年に立ち上げたスカイドッグで、フレーミン・グルーヴィーズ、MC5、イギー&ザ・ストージーズ(『メタリックKO』)などを売り出し、最初の英パンクバンド(とマルクは断言した)ザ・ダムドをレコード・デビューさせます。
 オープン・マーケットの早くからの常連にイヴ・アドリアンがいて、ゼルマティはアドリアンの鋭い感性からほとばしる流星のような文章に「アントナン・アルトーの再来」を見ます。さらにリベラシオン紙で退廃ダンディー的なクロニクルを書くアラン・パカディスが加わります。ゼルマティ+アドリアン+パカディスのトリオは、「ゼルマティが発見し、アドリアンが理論化し、パカディスが俗化する」という三つの歯車として機能していました。アドリアンはフランスの音楽雑誌ROCK & FOLK1973年1月号に"Je chante le rock électrique" (俺はエレクトリック・ロックを歌う)というマニフェストを発表し、その中にこういう1行が出て来ます。

   Et soudain... PUNK, c'est l'orgasme électrique
  そして突然.... パンク、それは電気的オーガズムである


 賽は投げられた、という感じですね。72年から74年までイヴ・アドリアンはROCK & FOLKの記事署名を "Eve Sweet Punk Adrien"としています。パンクはこうやってゼルマティのオープン・マーケットから電気的に世界に伝導していったのです。
 76年、ゼルマティは南西フランス、モン・ド・マルソンで初の「パンク・フェスティヴァル」(Damned, Count Bishops, Nick Lowe, Gorillas, Sean Tyla, Eddie and the Hot Rods, Shakin Street, Bijou...)を開きます。77年、世間一般では「パンク元年」にあたる年、同じくモン・ド・マルソンで第2回の「パンク・フェスティヴァル」(Clash, Damned, Police,Doctor Feelgood, Bijou, Little Bob Story, Asphalt Jungle...)が開かれます。どうしてこんなことが可能だったのでしょうか。
 そして同じこの公式パンク元年に、レ・アールのオープン・マーケットは閉店します。なぜなんでしょうか? それは別原稿で開陳します。

 伝説のオープン・マーケットは写真が1枚も残っていないのです。それがまた伝説性を増大させていくのですが。

 

(←)なおゼルマティはこの12月4日から1ヶ月間、オープン・マーケット当時からコレクションしていたロックコンサート・ポスターのエキスポ(兼即売会)を開きます。成功すれば、ロンドンと東京でも開きたいと言ってます。Rock is our life。死ぬまでロック。






PS 1(9月19日)
爺とマルク・ゼルマティは Facebook友だちになったことから、縁が戻ってきました。


PS 2(9月29日)
雑誌用になにか面白い写真ちょうだいよ,とゼルマティに頼んだら,こんなのが2枚来ました。1枚めはなんとアニタ・パレンバーグです。これは珍しいですね。歳とってもキース・リチャーズとうり二つなんですねえ。
2枚めはシナロケのシーナさんです。


 
 

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