2016年7月31日日曜日

私の秘密 (事実は小説より奇なりと申しまして...)

AKI SHIMAZAKI "Le Poids des secrets" (pentalogie)
アキ・シマザキ『秘密の重み』(五部作)

 拙ブログ2016年6月にアキ・シマザキの現時点での最新小説『ホオズキ』を 紹介しました。彼女の来歴についてはそちらで書いてますが、1954年岐阜県生れ、1981年にカナダ移住(91年からモンレアル定住)、1999年の「椿」を皮切りに、今日まで12篇の小説をフランス語で発表しています。
 この作家に特徴的なのは、5篇の作品をひとつのサイクル(五部作)として、主人公と時代の異なる独立した作品5篇が交錯・呼応して、最後にある種の大河小説的な全体像が見えて来る、というスケールの大きい構築・構成です。 最初の五部作が「椿」「蛤(はまぐり)」「燕」「忘れな草」「蛍」という1999年から2002年まで発表された5篇で、五部作の総題が『秘密の重み(Le Poids des secrets)』となっています。秘密(secrets)が複数形です。複数の秘密が交錯する大作です。 続いて、「みつば」「ざくろ」「とんぼ」「つくし」「やまぶき」という2006年から2013年にかけて発表された5篇で構成される五部作は『やまとの中心で(Au coeur de Yamato)』と総題されています。さらに、現在進行中の五部作は「アザミ」(2014年)、「ホオズキ」(2015年)と2篇まで発表されていますが、総題はまだついていません。
  さて、最初の五部作『秘密の重み』です。作者はヴァンクーヴァーで5年、次いでトロントで5年暮らしたのち、1991年に仏語圏のケベック州モンレアルに移住してきます。仏語版ウィキペディアの記述によると、シマザキがフランス語を習得し始めたのは1995年のことで、そのわずか4年後に、第1作めの「椿」は発表されています。おこがましさを恐れずに言えば、とても平易で明解なフランス語です。ポワン(終止符)までの距離が短い、ショートセンテンスです。私のような日本語が母語の人間が書くようなフランス語と言いましょうか。とにかくわかりやすい。そのわかりやすさは、あらかじめケベックやフランスといった仏語圏の人々に読まれることを前提として書かれているので、日本の歴史や時の状況および生活習慣などをかいつまんで説明しながら進行していく文体にも大きく関係しています。私には日本生まれながら日本で暮らしたことのない娘(21歳)がいますが、この作品群こそ娘に読まれるべき、と思いました。そしてその歴史や状況を論じる文章は教科書的なものでは全くなく、作者のはっきりとした視点があります。その視点に同意するだけでなく教えられるもの多いです。例えばその第1作の「椿」の冒頭で、長崎で被爆した死にゆく老女ユキコが孫の少年に、日本の全土をB29が焦土としたその後に、なお広島・長崎という2つの原爆が落とされたのか、特に二つめの長崎というのはアメリカのどういう意図だったのかを説明するのですが、日本を完敗させるという意図よりも、戦後の世界勢力を見越しての(新爆弾をまだ保有していなかった宿敵国)ソ連への威嚇デモンストレーションであったと言うのです。キリスト教徒の多かった長崎の市民は十字架をかざしていれば、キリスト教国アメリカは長崎に空爆をしないであろうと信じていたのに、ユキコの説はヨーロッパ白人国ではそれは通じても、非白人国たる日本ではそんなものはアメリカ人には何の影響力もないというリアリズム(つまりはレイシズムの現実)を看破します。「アメリカ帝国主義」へのヴィジョンです。それだけではなくその戦時や非常時における日本の狂信性にも作者は同じ矛先を向けて語っている(例えば、戦争末期に本土玉砕を全うするために、捕虜になる「恥辱」を避けよ、と自殺用の青酸カリが配布されたりすること)。私がこの作家を信頼するのはこの明確・明白な歴史観・状況分析によるところが大きいです。

 「椿」は 2002年に日本で和訳本が出版されました。おそらく和訳された唯一のシマザキ作品であろうと思われます。戦後50年経って、長崎で被爆したユキコが娘ナミコに長い手紙を残して息を引き取ります。手紙には生前ユキコが隠していた二つの秘密が綴られています。一つは自分にはユキオという名の腹違いの兄がいること、もう一つは長崎原爆で亡くなったとされているユキコの父親はユキコが殺害したということ。
 旧家の出身であり、一流製薬会社のエリート研究員であるホリベは、同じ階層のブルジョワ娘と結婚して一女ユキコをもうける。外見的にはパーフェクトな三人家族。戦争中ホリベは長崎支社に転勤になるが、そこには大学時代からの親友で同じ会社の研究員であるタカハシがいる。タカハシには再婚した妻マリコとマリコの連れ子のユキオがいて三人家族で暮している。タカハシも名門家の一人息子であるが、見合いで結婚した最初の妻との間に子供ができなかったために離婚(その後無精子であることがわかる)、マリコと出会い恋に落ち、マリコと結婚してユキオを養子として迎えることを両親に願い出るが、マリコの素性が怪しい(孤児、学問がない等)で両親が猛反対したため、彼は家と絶縁してマリコとユキオと一緒になる。戦況は悪化し、タカハシは長崎支社から満州(日本の植民地)の日本軍付きの薬事研究所に派遣される。6ヶ月の予定が何度も延長され、連絡が途絶え行方不明になる。ホリベ一家はタカハシ母子をいろいろと支援する。そして十代のユキコとユキオは恋に落ちる。しかし学校に行く代わりに軍需工場で勤労奉仕ばかりさせられて「男女交際」など不謹慎・非国民とされた時期、秘められながらも強い恋慕が二人を結びつけていく。
 カタストロフ。ユキコは自宅と続き棟になっているタカハシの家に父ホリベが忍び込み、マリコと強引に交情している現場を見てしまう。そこから聞こえてきた父の言葉から、十代の頃のマリコが結婚前のホリベの情婦であり、人知れず私生児として生まれたユキオはホリベの子であることを知ってしまう。つまり自分とユキオはホリベを父とする異母兄妹である、と。そしてタカハシを長崎に転勤させ、その後満州に送ったのも、既に社に権力を有していたホリベが、マリコを再び情婦にするための画策であった、と。ユキコは愛するユキオとの恋を失い、慕っていた父の実像を知り、やむにやまれぬ殺意に襲われ、あの1945年8月9日の朝、ホリベに青酸カリを飲ませて殺害します。その現場から離れた後で、午前11時2分、原爆が投下されたのです...。
 これが五部作『秘密の重み』のベースです。

 続く「蛤(はまぐり)」は 話者がユキオになります。貧しいマリコの私生児として外人神父のいるカトリック教会(兼孤児院)に預けられて育った幼少期。友だちが出来ず孤立していたユキオは、一人の紳士とその娘(ユキオと同じ年頃)と知り合う。紳士は優しくいろいろなことをユキオに教えてくれ、その娘も聡明で一番の遊び相手になってくれる。娘が教えてくれた遊びの一つに「貝合わせ」があり、複数のはまぐりの貝殻で、上と下がうまく合致するものを当てる遊戯。名前も名乗り合うことなく仲良く遊んでいた3歳の子供二人は、幼心に大人になって一緒になれればいいと思うようになります。既にひらがなを書ける少女ははまぐりの貝の内側に自分の名前を記すのですが、ユキオは読めません。
 教会にタカハシという男が現れ、神父にマリコと結婚してユキオを養子にしたいと申し入れます。話は決まり、タカハシの両親の猛反対を押し切ってタカハシとマリコとユキオは家族となり、タカハシの転勤先の長崎に移住する。ユキオの幼い日の恋はこうして忘れ去られるのだが、その貝合わせの貝殻は母マリコが死ぬまで大事にしまっているのです。
 その10年後にユキオは、東京から長崎にやってきた父親の同僚ホリベの娘ユキコと出会い、少年少女期の「初恋」をしてしまいます。ユキコはユキオに「小さい頃に将来を約束した人がいるの」と告げ、ユキオは嫉妬します。戦況は悪化し、勤労奉仕に駆り出される毎日にも関わらず、二人の恋慕は燃えあがります。が、突然ユキコはユキオと会うことを避けるようになり、1945年8月9日、長崎に原爆が投下され、ユキコの父ホリベは死に、ユキコとその母は東京に帰って行き、消息が途絶えます。
 この「蛤(はまぐり)」の中で、ユキオが3歳の時に貝合わせをして遊んだ幼女がユキコだったこと、その父親がホリベだったこと、少年の日にユキコが言っていた「小さい頃に将来を約束した人」が自分だったことなどを一挙に母マリコの死の床で知るのです。
 ここで「椿」と蛤(はまぐり)」はパラレルながら話者の違いだけでなく、視点の違いもあります。最も大きいのはホリベの描かれ方で、ユキオにとっては優しい紳士であり、教養人であり、不在(満州送り)の父に代わって戦時下ながら自分に違う世界観(マルクスの著作などを読ませた)をもたらしてくれた人生の先輩なのです。(おそらく実の息子として愛していた、ということが仄めかされます)。作品末尾で薄々と感じつつあるのですが、この作品ではホリベがユキオの生物学上の父であることはまだ知らされないのです。こういうパラレルのズレが全体像を大きくしていくのです。

 第三作「燕」はマリコの物語です。マリコは生まれた時「ヨンヒ」という名前だった。朝鮮人である母と叔父に育てられた。1910年から45年まで朝鮮半島は大日本帝国に併合されていました。叔父は文筆家だったが、独立運動に加担していたため論壇を追われ、一介の日雇い労働者として日本に移住してきたが、常に官憲に目をつけられている。母と叔父は東京下町、荒川の朝鮮人長屋に暮らしていた。1923年9月1日、関東大震災。東京は大壊滅。それだけではなく、かの「朝鮮人が略奪を働いている」→「朝鮮人が井戸に毒を流した」→「朝鮮人を皆殺しにしろ」という大虐殺事件が起こっている。叔父の行方はわからなくなった。母は幼いヨンヒを連れて逃げ惑うが、朝鮮人刈りをする武装した男たちに取り囲まれてしまう。(このシーン感動的です)。するとそこに居合わせた小さい男の子を連れた婦人が「あら、カナザワさん、ここにいらしたんですか!」と声を上げる。自警団の男の一人が「おまえ、この女を知っているのか?」と尋ねる。「知ってますとも、長年隣同士でしたもの。でも界隈全部が震災で焼けて無一物になってしまって...」。すると男の子が大声で泣きだす。自警団の男たちはこりゃ厄介だ、とその場を去っていく。見ず知らずの女性に救われたのです。
 逃げ続けなければならない母はヨンヒを旧知のカトリック教会の外国人(西洋人)神父に託すことにした。娘に宛てた朝鮮語の手紙と母の全財産を神父に渡し、今日からおまえは「カナザワ・マリコ」という名前の日本人よ、絶対に朝鮮人であることを明かしてはいけない、と言い残して去っていく。今生の別れ。「カナザワ」は救ってくれた婦人がとっさにつけてくれた苗字、「マリコ」は聖母マリアから頂いた。
 震災のあまりにも多い死者や不明者で役所の機能が雑になったのに乗じて、神父は孤児カナザワ・マリコの戸籍をつくることができた。マリコは学校に行かず、教会の手伝いをしながら大きくなっていった。十代になり、近くの大きな製薬会社に清掃婦として雇われ、自活して小さなアパートに住むようになった。十代なのに大人の女の美しさと魅惑的な肉体を持ったマリコに、会社のエリート研究員ホリベが夢中になる。名門家出身のエリートと清掃婦の世間には知られてはいけない関係。しかし噂は立ち、会社側はマリコの私生活の不謹慎を理由に解雇してしまい、同時にマリコはホリベの子を妊娠してしまう。ホリベはこの子を認知したり実家に報告することなどできない。そればかりか、この男は実家がお膳立てしたブルジョワ娘と結婚して家庭を持ってしまう...。
 この「燕」はとりわけアイデンティティーの問題が強調されています。この時代(朝鮮併合から今日まで)に日本において朝鮮人であるということがどれだけのハンディキャップであり、根の深いレイシズムゆえにそのアイデンティティーを隠さなければ生きていけなかったマリコの日々が描かれています。日本語の読み書きもあまり得意でないマリコ、まして朝鮮語など全く知らない。関東大震災から数十年後、朝鮮人虐殺の夥しい遺体が埋められたと言われる荒川河川敷でその発掘作業が行われるというニュースを聞き、マリコはいてもたっても居られなくなり、その発掘作業場に駆けつけます。母と叔父の遺体があるかもしれない。現場で怒りと悲しみの昂りに倒れそうになったマリコは、キムという老女に助けられます。キムの住む、マリコの幼い記憶にある朝鮮人長屋のような家に連れて行かれ、マリコは名状しがたい懐かしさに包まれます。二人は友人となり、マリコは長い間封印されていた母親の朝鮮語による手紙を、キムに初めて読んでもらうのです。そこには、ヨンヒ/マリコの父親の秘密が記されていました。ヨンヒの父は「ミスター・ツバメ」。これは長く黒い僧衣をまとったあのカトリック神父につけられたあだ名だったのです。マリコのアイデンティティーは更に複雑なものになってしまいました。

 第四作「忘れな草」 の話者はタカハシ・ケンジです。旧家に生まれた一人っ子長男ゆえ、家からは早く結婚して世継ぎをと強要され、最初の結婚で子供ができなかったので離婚。女の方が不妊症と思われていたのが、彼女が再婚後すぐに子供ができた。つまりケンジの方が無精子症だったということが判明。マリコと出会い、恋に落ち、結婚してマリコの子ユキオを養子にするが、反対する実家とは絶縁。この反対の理由の一つとして、実家両親は私立探偵を使ってマリコの身元調査をし、その出自が非常に疑わしい(戸籍も偽である)ということを突き止めるのです。(悲しむべき)ありふれたレイシズムと言いましょうか。
 戦争中ケンジは勤めていた製薬会社からの転勤命令で長崎支社から満州に飛ばされ、戦争末期にソ連軍に捕らえられ、シベリアに抑留され厳しい強制労働の日々を送りました。引き揚げ後マリコ、ユキオと再会し、シベリア体験のために体は弱ったものの、定年まで仕事を続け、今は鎌倉で隠居生活を送っている。孫たちもよく訪ねてきてくれる幸せな老後である。本を読み、友達と将棋を差し。その本にケンジが若い頃から欠かさず挟んでいたのが「ニエザブドカ(ロシア語で忘れな草)」と書かれた花模様の栞。ケンジの乳母だったソノが旅行先のハルピン(満州)から送ってくれたもの。 厳格な旧家にあって、幼いケンジが自由闊達な子に育てられたのはソノのおかげであり、少年期も青年期もソノはケンジにとって最も親身な相談役だった。父も母もソノの役割を評価していたものの、彼らにとって唯一の汚点は「出自が疑わしい」ということであった。偶然にも将棋友達と今になってこのケンジの幸せな日々を追っていったら、次々に意外な事実を発見していきます。まず、父親がケンジと同じ無精子症であったこと。そしてソノとは実は...。
 アイデンティティーが自らの死の直前に複雑化してしまうこと、これは第三作「燕」と第四作「忘れな草」に共通しています。しかし、主要人物たちが、ルーツが朝鮮半島、中国大陸、ヨーロッパ大陸にまたがってしまったということを知る時、それはアイデンティティーの危機となるのでしょうか?そうではないでしょう。それはまさしくわれわれ日本人のことではないのですか?と作者は訴えているように思えませんか。

 五部作を閉じる「蛍」は、マリコの孫娘のツバキが話者です。「椿」に始まった五部作の最後がツバキによって語られるというわけです。ツバキは今東京の大学生で、鎌倉に住む老いたマリコ のところに定期的にやってきて、マリコと話すことを大の楽しみにしている。マリコの夫タカハシ・ケンジは既に13年前に亡くなっていて、マリコも記憶が曖昧になって幻聴・幻視があるなど死期が近い事は明白。ツバキには意中の人がいて、年上の英語教師だが、ツバキが好意を持っていることを知って誘惑してくる。そして彼女に自分が結婚していて妻との生活がうまくいっていないことを告白する。ここでツバキは躊躇する。このことを聞いたマリコはその交際に猛反対する。「ほ、ほ、ほたる来い、こっちの水は甘いぞ」という童謡をマリコは歌う。甘い水に誘われていった哀れな螢は私だった、とマリコは孫のツバキに長い告白をするのである。この文中で話者はマリコに代わるのだが、16歳の何も知らなかったマリコが御曹司エリートのホリベの甘い誘いに乗って、全てを狂わせてしまうストーリーが語られる。そして長崎で起こったこと。ホリベの権謀術数によって夫ケンジが満州に送られ、再び妻子あるホリベが自分の肉体を求めてきたこと。その二度目の甘い罠にもマリコが引っかかってしまったこと、夫を裏切ったことへの誰にも言えぬ悔恨をマリコはツバキに懺悔告解のように言ってしまう。さらに亡き夫ケンジも、息子ユキオも知らぬこと、マリコがその目で見てしまったユキコによるホリベ殺害のことも。この五部作で明かされた数ある秘密の最も重い部分が、孫のツバキに継承された後、マリコは安らかに息を引き取るのです。

 激しくネタバレの罪を犯してしまいました。こういう五部作、総ページ数600ページを超える巨編です。私が夢中になって読んでいるのを見て興味を持ったらしい私の奥様が、つられて「椿」を読み始めたら、その仏語中級者程度の読解力ですらすら読める平易さ・シンプルさに感動しながらも、このストーリーテリングの質は日本の「大衆小説」であると、大変な悪口を言いました。Naaan!きみはnaaaaanもわかっていない! 
 20世紀日本史が体験した天災、戦争、原爆、封建的「家」制度、身分階級差別、植民地、レイシズム、社会運動、キリスト教... これらのことを何も知らない仏語人たちに適切に説明しながら、それぞれに交錯する運命を生きた男女たちを話者を替えて証言していく多面体小説。日本人だったら普通にわかるよ、という程度のものではない。私はこの視点は日本人にも教え、訴えるものがあるはずと思っています。これは私が引き合いに出すとすれば、オノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラです。
 この夏はシマザキの次の五部作『やまとの中心で』 を読みます。多分またここで紹介します。お楽しみに。

カストール爺の採点 :  ★★★★⭐️

Aki Shimazaki "COFFRET : LE POIDS DES SECRETS
("Tsubaki", "Hamaguri", "Tsubame", "Wasurenagusa", "Hotaru")
Actes Sud刊 2010年 33ユーロ  

2016年7月20日水曜日

リオに雨が降る

マリエル『ボサノヴァ』
Mary. L "Bossanova"


 2005年春、パリの独立プロダクション、NEOGENE MUSICという会社が制作し、メジャーの仏ユニバーサルが発売したアルバム。ファーストアルバムとは言え、一聴してすでに長いキャリアと豊富な音楽歴と「年齢」をもろに思わせるクロート芸。ミュージシャンもアレンジャーもスタジオも百戦錬磨の人たちがやっているようなスベスベ感。フレンチ・ボサノヴァですし。ある種の耳の快感を追求していけばこうなるという見本のような、楽器音たくさんのジャジー・ボッサの環境で、ささやき官能の女声ヴォーカルが縦横無尽の歌唱テクで歌います。フルートの音色と溶け合ってしまうような声です。私などは無条件でうっとりしてしまいます。
 そこまでなのです。そこまでなのは、どうしてなのか、ということは音楽の仕事を30年ほどしている私にもよくわからないものです。夏の南仏のレストランやバーのステージで、あるいは東京の無名クラブで、 「ええっ?どうしてこんなうまい人がこんなところで歌っているの?」って驚くことありませんか?
 90年代から00年代にかけて、まだ業界が大変な危機を迎える前、私も自分の琴線が震えてしまう新人アーチストに出会ったりすると、こういう音楽は多くの人たちに聴かれるべきだと奮起して、力いっぱい応援しました。配給・流通で応援するだけでなく、制作に出資することもありました。この場合、それが売れなければ、私の音楽感覚は当てにならない、私の耳は節穴だ、ということになるのです。デモ聴いたり、自主盤やライヴで発見したり、そういうところから始まって、ああでもないこうでもないと構想の議論したり、持って来る曲をほめたりケチをつけたり、ホームスタジオに差し入れに行ったり...。そうやって制作までつきあった作品は4作。そのうちちゃんとした録音スタジオで録音・ミックスしたのは1作だけ(つまりあとの3作はホームスタジオ制作)。プロデューサー(制作者)の真似ごとをしたのはこれだけ。結果として世の中に注目された作品は1つもありません。当然すべて赤字仕事で、そのうちに業界がそれどころではない危機状態になって、私は二度と冒険できなくなっただけではなく、社員ともお別れしなければならない急激な落ち込みを迎えたのでした。解雇された社員には「あの時、社長がプロデューサーを気取って道楽遊びをしていなかったら」と私の失策を非難する声もありました。自分が惚れて、自分で自信を持って制作に関わって、お金を費やして、ダメだったのだから、私の耳は節穴だったのに違いありません。
 話が逸れました。7月に自宅アパルトマンのちょっとした改装工事をして、そのためにレコードCD棚を別場所に移動するために整理していた途中で再会したマリエルのCDアルバムでした。あの頃好きでずいぶん聴いてたなぁ、悪くないのになぁ、なんで売れなかったんだろうなぁ...という思いが最初に。つまり今聴いても「悪くない」と思ってしまう。これが私の耳=節穴の動かぬ証拠でしょうかね。マリエル自身(作詞作曲、特に作曲)も一番いい曲ばかりここに詰めたはずだし、作詞陣もポロやネリー(二人ともオルタナティブ・ロック出身ですが、卒業してシャンソン畑の作詞家になった)といった才人だったし、エレナ・ノゲラ(リオの妹。この頃はカトリーヌの奥様だった)もデュエットで参加してるし。よく出来たアルバムだと思いますよ、今でも。しかし全く注目されなかったというのは、単に商業的な理由(例えばプロモーション予算が足りないとか、ラジオの後ろ盾がないとか...)だけではないのですよ。このアルバムに何が足りないのか?また逆に何が過剰であるのか?(後者については、私はこの過剰なスベスベ感なのだという気がする)。これがわからないとやっぱり「耳=節穴」のプロフェッショナルということでしょう。
 今さらながらに言い訳すると、私はこんな仕事をしながら、音楽の勉強を一切していない。まともに弾ける楽器もない。レコードCDの数は一般の人よりは多いが、コレクターではない。だから自慢のコレクションもない。いいオーディオ装置を持っていない。私の最高のリスニングルームはひとり運転中のカーステである。一番聴く音楽はシャンソン/ヴァリエテである。シャンソンというのが曲者ですかね。なぜならば、シャンソンはとりわけ詞・ことば・パロールでしょう。 私の音楽はそういう風に始まったのです。
 詩を書く少年でした。高校の時、ダチのバンドの作詞をしてました。大学はフランス文学科に入って、フランス近代詩を勉強してました。卒論はフランシス・ポンジュでした。70年代からレコードコレクションはもっぱらフランスものでした。今でもヴェロニク・サンソンの『アムールーズ』 (1972年)はアルバム全曲、ソラで歌えます。
 私はフランス語の音楽は詞に惚れます。メロディー・サウンド・歌唱なんか二の次にして聴いている場合が多いです。このことはフランスの新聞・雑誌のシャンソン批評がほとんど歌詞のことばかり論ずるということにも影響されています。私の聴き方ってこれでいいんだなあ、と安心してしまいますよ。だから私は音楽論はできないけれど、詞で音楽のことを語ることはできるのです。「音楽ライター」と呼ばれる人たちの仲間にはなれないですけれど。
 2016年7月現在、まだ準備工事が全然終っていないというリオ・デ・ジャネイロのオリンピックが8月5日から始まります。マリエルのこの2005年のアルバムは「リオに雨が降る」という歌が第一曲めです。詞はポロ(元レ・サテリット。シャンソン歌手。作詞家)が書いています。ポロにはこの春、ベルギーのSSWイヴァン・ティルシオー(オヴニー2016年3月15日号「しょっぱい音符」)のコンサートの時、初対面しました。やっぱりロッカーの面影が残る紳士でした。イヴァンにもいい詞を3曲書いています。このマリエルのアルバムにも5曲の詞を提供しています。ポロの詞による「リオに雨が降る」は、観光絵ハガキ的なクリシェを否定して、リオ・デ・ジャネイロの見せかけの華やかさが雨で溶けて流れてしまうイメージ、化粧や虚飾が流れ落ちて、本当の顔の祭りが始まるポジティヴなイメージが歌われています。

見せかけのそぶり、パレオ
偽りの喜び、ウソの電話番号
ニセの太鼓が立体音で聞こえてくる
リオに雨が降る時

偽物のジャングル、ドライフラワー
紙粘土細工の鳥
それらの絵の具がみんな水になって流れていく
リオに雨が降る時

私たちの子供じみた遊びを笑うのは雨
私のメイクを流し落としてしまうのは雨
それは水、夏の影
私の肌の上には、もう数滴の水玉しか残っていない
リオの町を包む鉛色の空の下で

ラララ....

それでも、とても暑い
それでも、空はとても青い
リオに雨が降る時
悲しみもまたひとつの贈り物
舗道は蛇のように曲がりくねり
銀色の影を映す鏡のよう
タクシーはみんな先に出ちゃった
リオに雨が降る時

私たちの子供じみた遊びを笑うのは雨
私のメイクを流し落としてしまうのは雨
それは水、夏の影
私の肌の上には、もう数滴の水玉しか残っていない
リオの町を包む鉛色の空の下で

ラララ....

(「リオに雨が降る」 詞:ポロ/曲:マリエル)

 ちょっとぐらいボロが見えてたっていいじゃないですか。施設の不備や進行のまずさ、そんなものを吹っ飛ばして、リオはオリンピックを本当の祭りにしてくれますよ。人々の上に雨が降れば、本当の顔が見えてくる。民の上に雨降りませ(Shower the people)。 私の耳は節穴であるかもしれないけれど、マリエルの「リオに雨が降る」は素晴らしい歌だという確信は消えません。

(↓)マリエル「リオに雨が降る」、2005年パリのクラブ・ル・レゼルヴォワールでのライヴ動画。


(↓)マリエル「リオに雨が降る」スタジオヴァージョン(オーディオ)


****追記(2019年2月14日)****

YouTubeに同じアルバム『ボサノヴァ』の中の大好きだったこの曲のオーディオも貼られていたので、訳詞してみました。

「恋人たちの浜辺」

バラの花とコーヒーの香り
あなたを起こしていいかしら?
聞こえるのは
あなたの体の上を流れる水のしずくの音
トランジスタラジオから私たちの好きだった歌

私たちが波打ち際をずっと踊っていったこと
唇を寄せ合ったこと、憶えてる?
恋人たちの浜辺には
私たち二人しかいなかったこと、憶えてる?


床に捨てられたあなたのタバコ
あなたはシャワーから出てヒゲを剃る
あなたのジーンズとあなたのシャツは
夜明けにはまだ眠っている
そんなあなたの匂いが好きだった


私たちが波打ち際をずっと踊っていったこと
唇を寄せ合ったこと、憶えてる?
恋人たちの浜辺には
私たち二人しかいなかったこと、憶えてる?


埃の中にハートを描くこと
あなたの眼差しを夢見ること、それが私の光だった


私たちが波打ち際をずっと踊っていったこと
唇を寄せ合ったこと、憶えてる?
恋人たちの浜辺には
私たち二人しかいなかったこと、憶えてる?


あなたが私の手を振り払ったこと、憶えてる?
でも私はあなたを忘れられなかった
恋人たちの浜辺で
私の目から流れた涙のこと、憶えてる?


(詞ルイ・ショワジー+イザベル・ヴィルゴ/曲マリエル)



2016年7月17日日曜日

ニッサ・ラ・ベッラ、ニースうるわし

う、去年のこの日(これを書いている日)、私は腹腔内出血で病院に運ばれ、緊急手術されたのだった。あと2週間でヴァカンスだったのに。手術は成功して1週間後には退院できたものの、痛みは消えず、体力回復もままならず、去年の夏、私はコート・ダジュール行きを断念した。毎夏の楽しみはこうして途絶えた。ゴルフ・ジュアン、ヴィルヌーヴ・ルーべ、サン・ローラン・デュ・ヴァール、カーニュ・シュル・メール、ニース...この十数年、わが家のヴァカンスと言えば、このアルプ・マリティーム県の数十キロの海浜から出たことはなかった。ニースからアンティーブ岬まで続く緩やかな弧を描く湾は「天使たちの湾 Baie des Anges」と呼ばれる。その東側の端に7キロの長さで浜に接する散歩道が「イギリス人の遊歩道 Promenade des Anglais」だ。
毎夏当たり前のように、人生のリズムのように紺碧の地中海に身を浸しに行っていたのが、やむなく中止になった。病気だったのだから仕方ない。しかし、毎年の楽しみのように、あるいは日常の楽しみのようにできていた同じことが、ある日できなくなる。それはまさに2015年からの私たちフランスに住む者たちの皮膚感覚である。シャルリー・エブド、イペル・カシェール、10区11区のカフェテラス、バタクラン、スタッド・ド・フランス…。2015年1月から、ジハーディストたちはフランスを戦場にして戦争を始めた。テロの標的はジハードに敵対する者すべて、メクレアン(不信心者、異教徒)すべてであったが、それはバタクラン以来、もはや殺せる者はすべて殺せになってしまった。私たち市民はどんな信仰を持ち、どんな意見を持ち、どんな年齢で、どんな肌の色で、どんな性別で、どんな金持ちで、どんな貧乏で、どんな過去を持って、どんな現在を生きているかなど全くお構いなしにテロの標的にされるようになってしまった。
私たちは事件がある度にはかり知れない衝撃を受け、悲しみ、怒り、何が起こっているのか理解しようとした。通りや広場に出て行き、人たちと話し合い、恐れてはいけない、屈しないでいよう、と言い合った。いつも通りの地下鉄に乗ろう、いつも通りの生活をしよう、これが私たちのメッセージだった。カフェやレストランに行こう、人混みの商店街で買い物をしよう、そしてコンサートに行こう、音楽を鳴らそう、歌おう、踊ろう、私たちは怖くない、と言っていたのだ。
それでもパリとフランスは観光客や訪問者の数を随分と減らしてしまったし、2015年11月(バタクラン事件)に政府に宣言された「緊急事態」は延長に延長を重ね、私たちの「自由」にも大きく影響してきた。私たちの通信や言論は一体どこまでコントロールされているのだろうか、という不安もあった。私のブログの統計が、ある時期フランスからのアクセスが異常(普段の数十倍)に増えたりすると、ああ、何かが行われているのだな、と思わざるをえなかった。
そんな時期でも、私はこんな傾向の反権力な爺なので、エル・コムリ労働法への反対運動やレピュブリック広場の「ニュイ・ドブー」運動などに片足突っ込みに、通りや広場に何度か出かけて行った。「緊急事態」はこれらの運動に威圧的であろうと思われた。当然私のような外国籍の(怪しげな)市民にも。2016年春、異常な悪天候続きにも関わらず、これらの運動は大変な盛り上がりを見せた。ウルトラな破壊グループも現れ、市街戦もどきの機動隊との衝突シーンも報道された。私たちはシンボルが欲しかった。エル・コムリ法が廃案になれば、私たちは前に進めると思った。しかしオランド/ヴァルスの政府は労組の連続ストにも街頭デモにも全く耳を貸さずに、悪名高き「49.3」(国会における政府責任による無投票可決)で強行突破した。この国の民主主義も病んでいる。そう思いながらも、国がテロの脅威にさらされながらも、これほどまでの反対運動を「緊急事態」を理由に圧殺しなかったことに、ある種の懐の厚さを感じたりもした。
そして6月、サッカーヨーロッパ選手権 EURO 2016がやってきた。バタクラン/スタッド・ド・フランス同時テロがあった去年の11月には、EURO 2016など開催できっこない、フランス開催を返上しよう、という声が多かったのだ。チケットは売れないだろう、参加をボイコットするチームもあるだろう、各国応援団など来ないだろう。全国に散らばった会場スタジアムや「ファンゾーン」(入場無料の巨大スクリーンによる観戦会場)などテロの格好の標的ではないか。パリでもテロを恐れてのファンゾーン設置反対運動があった。直前まで本当に大丈夫なのかの声は多かった。何かが起こる。必ず何かが起こるという不安は多くの人たちが共有していたはずだ。
6月10日、参加国選手団と応援団はジハーディストたちを恐れることなくフランスにやってきた。それから1ヶ月、7月10日まで、私たちはすべて忘れてスポーツの祭典に酔った。なんて素晴らしい選手たち、なんて素晴らしいサポーターたち。そしてなんて素晴らしいフランスチーム。私たちは7月10日深夜まで、決勝の延長120分めまで、スポーツの興奮に酔いしれていた。フランスは負け、ポルトガルがヨーロッパチャンピオンになった。
翌日、大統領オランドをはじめ政府、EURO 2016主催者は、テロの脅威にめげず開催できたこと、閉幕までテロ攻撃が起こらなかったことを祝福し合った。私たちはひょっとしてテロを克服したのではないか、テロに勝利したのではないか。
7月14日、フランス革命記念日。それは去年よりもずっとオプティミスティックで、この国はやはり強い国ではないか、良い国ではないか、という雰囲気に満ちていた。前夜のわが町ブーローニュの花火大会もものすごい数の人たちが集まったし、拍手と歓声はひときわのものだった。14日夜テレビで見ていたエッフェル塔の花火もひときわアーティで、ひときわ自由・平等・友愛のメッセージが輝き、ひときわ豪華に美しいものだった。その中継の直後に字幕テロップが出たのだ「ニースでテロ事件発生…」。

7月14日、ニースで何が起こったのか。その日は木曜日。革命記念日(祝日)。南仏は良い天気で暑かった。同じ地中海沿岸でも、ニースよりずっと東側にあるマルセイユやブーシュ・デュ・ローヌ県の各町はミストラル(南仏特有の北からの突風)が強く、予定されていた革命記念日の花火大会はすべて中止になった。コート・ダジュールの真珠、ニースは本格的なヴァカンスシーズンを迎え、ビーチとそのすぐ上の7キロの長さの遊歩道「プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の散歩道)」には例年通りのリゾート客たちで賑わっていた。とりわけ「ユーロ2016」がもたらしたオプティミズムは、いつも通りのニースでのヴァカンスを享受できる喜びを倍加していた。風も少なく予定通り開催される「天使の湾」花火大会にためらうことなく、ためらう必要もなく、家族連れで、仲間同士で、誰かれ構わず、誰もかれも、静かな湾に照り光りする美しい花火を堪能しにやってきた。その数3万人。花火は22時に始まり、22時30分に終わった。拍手喝采。ハッピー。人々は良い夏に酔いしれていた。その直後、プロムナード・デ・ザングレの花火行事のための西側の車両通行止め検問を破って、大型19トントラックが、黒山の花火見物客めがけて突進してくる。制止しようとする警官隊にトラック運転手は発泡し、人々を轢き倒し、はね倒し、トラックは突進を続ける。悲鳴、流血、パニック。トラックは車道から歩道に乗り上げ、最大限の数の人々をなぎ倒しながら、2キロの距離を突進し、警官隊の一斉射撃を受けてやっと止まり、テロリストは息絶えた。
私はその夜、14日夜から15日未明にかけて(朝5時まで)、ニュース専門テレビ局2局(BFM-TVとI-TELE)をしょっちゅうチェンジしながら、増えていく死者・負傷者の数に戦慄していた。幼い子供の死者の数、イスラム教徒の死者の数、外国人の死者の数、善良なすべての市民の死者の数。それが増えていく度に、私は自問した。私たちは間違っていたのか。私たちは甘すぎたのか。あのスタジアムやファンゾーンの興奮を分かち合っていた人々は間違っていたのか。
現時点で死者84人、負傷者約200人。今なお生死の境目にある重傷者たちが約20人いる。
テロリストは31歳のチュニジア人だといい、日が経つにつれてその人物の輪郭は明らかになっていき、単独のウルトラな異常者の凶行ではなく、複数のバックアップを得た組織的で計画的な殺戮テロであったことがわかってくる。そのテロリストはフランス公安のテロリスト・リストに載っていなかった。また周囲の人間たちの証言では、モスクに行くのを見たこともないし、ラマダンの最中もアルコールの匂いをプンプンさせていたし、イスラム過激派を匂わせるものはまるでなかった、と。
ある者たちはオランドの治安政策の失敗を糾弾し、またある者たちはそれ見たことかとイスラム亡国論の声を荒げ、鎖国・EU離脱を叫ぶ。私たちは間違っていたのか。
7月16日(土)、事件から2日後にDAESH(イスラム国)はテロ敢行の声明を発表した。

ジハード・テロを撲滅するための最前線でフランスは兵を出して戦っている。そのリスクは大きい。テロの現場がフランス国内になっている時、そのリスクを国民に負わせるフランスは間違っているのか。私たちは恐れないぞ、と市民たちが立ち上がる時、それは市民たちの自殺行為なのか。
ニースという町を考えてみよう。コート・ダジュールの真珠であり、富裕層を集める豪華なリゾート地であり、フェラーリ/ポルシェ/ロールスロイスが普通に走りまわり、資本主義リベラル経済の成功者たちがのし歩く町だ。だがそれだけではない。プロムナード・デ・ザングレのローラー/スケボー小僧たち、マセナ広場でヒップホップの妙技を展開する少年たち、古くてゴチャゴチャした小路が迷路のような旧市街でニース風ピザやソカ(鳩豆クレープ)を味わう人たち、花市場の露店で花やオリーブ細工や香水石鹸を買い求める人たち…。紺碧の海とバラ色の壁の古い建物が並ぶニースは本当に美しい町だ。私たち家族は毎夏のようにこの町にやってきて、この町の美しさに包まれた。ニッサ・ラ・ベッラ、ニースうるわし。

私たちは間違っていたのか。私たちはジハード派に対する憎悪・怨念をひたすら駆り立てるべきだったのか。フランスの「失政」(過去の植民地政策、移民政策、非宗教政策、対ジハード派戦争への参戦…)をもっと追求するべきだったのか。
あのテロリストは日常生活で「その素振り」を全く見せなかったという。普通の隣人。それが19トントラックを突進させ、銃を発砲し、あらゆる人々を轢き殺していった。幼子も老人も妊婦も外国人もイスラム教徒もみんな殺していった。なぜならここは虚飾に満ちた不信心者たちが邪悪な淫行に耽るニースという悪徳の町であり、フランスという悪徳の国だから。この隣人を私たちはもっともっと疑いの目で見るべきだったのか、隣人を徹底的に疑い、疑わしきを通報して、不信で分断されて暮らすべきだったのか。
イスラム者たちよ、もっと声を出してくれ。あなたがたのイスラムはこんなものではない、ともっともっと言ってくれ。私だって、局面局面においては、疑いたくなってしまう時があるよ。その疑いはあなたがたが晴らさなければダメだ。
中世にはもっともっと多くの人々が死んだ。神の名のもとに宗教は夥しい殺戮を冒した。中世の果てに地上の天国は実現したか。否。歴史はもっと私たちに人間の愚かさを語らなければダメだ。
2016年夏、ジハーディストたちは誰でもいいから私たちを殺そうとしている。兵士や政治家や役人や要人でなくても、町を散歩する人や海辺で日光浴する人たちが標的だ。テロリストはあなたの横にいる。私たちは恐怖し、私たちの隣人を片っ端から疑ってかかるべきか。

私は自問の果てに、もう一度数ヶ月前と同じメッセージを発することにした。
恐れずにいよう。通りに出よう。広場に集まろう。いつもと同じ地下鉄に乗ろう。普段と変わらない生活をしよう。盛り場で飲もう。コンサートに行こう。音楽を鳴らそう。もっともっと音楽を鳴らして陶酔しよう。踊ろう。集団で熱狂しよう。恐れてはいけない。パリは?フランスは?と聞かれたら、大丈夫と言おう。ヴァカンスに出よう。犠牲者たちのことを忘れずにいよう。
ニッサ・ラ・ベッラ、ニースうるわし。ニースのために祈ろう。


2016年7月11日月曜日

今朝のフランス語:Comme des bleus

 Bleu
- 男性名詞
1. 青、青色 le 〜 du ciel 空の青さ、青空。〜 ciel 空色、スカイブルー。〜 horizon あさぎ色《第一次大戦中のフランス陸軍の軍服の色》。〜 marine ネービーブルー。porter une cravate 〜clair (foncé) 明るい(濃い)ブルーのネクタイを締める。 gros 〜(黒味がかった)濃紺。
2.〔文〕青空。 être(nager) dans le 〜上の空である、空想にふける。n'y voir que du 〜 〔話〕(雲があっても青空しか目に入らない→)何も目に入らない、何も目に入らない、うかうかと騙される。
3. 青色塗料(染料、顔料)。passer une couche de 〜 sur un mur 壁面に青ペンキを塗る。 〜 de Prusse 紺青、プルシアンブルー。〜(d') outremer 群青、ウルトラマリン。〜 (de lessive) 蛍光洗剤。 passer le linge au 〜 下着類を蛍光洗剤で白くする。♦《比喩的》passer au 〜 (職務などを)ごまかす、(物を)くすねる;(金などが)消え失せる。faire passer au 〜 une grosse somme 大金をごまかす。
4. (打身による)青あざ。 se faire un 〜 à la jambe 脚に青あざを作る
5. (上下つなぎの)作業服 (= 〜 de travail)《一般に青い布地》。mettre ses 〜s 菜っ葉服を着る。 être en 〜 青い服を着ている;作業服を着ている;ブルーカラーである。
6. 新兵《青い服を着ていた》;(リセの)新入生;新米 【史】(大革命期の)共和派兵士;(カナダの)保守党員〔rouge 「共産党員」の対〕
                     ー 大修館新スタンダード仏和辞典 ー

 胃薬をいくら飲んだって消えない胃の痛さ。2016年7月10日深夜から11日朝にかけて、多くのフランス人が味わっていた気分。EURO 2016決勝、対ポルトガル戦。負けるわけのない試合。勝負は常に強いものが勝つわけではない、とはわかっていても、その3日前の木曜日にワールドカップの覇者ドイツを破っていたこのチームが。
 7月11日月曜日朝、フランス全国の街角のカフェ、通勤前に立ち寄るいつものカフェのカウンターでは、したってしかたのない話なのだけれど、議論せずにはいられない、あの議論の余地ある試合の話になってしまうのですよ。ああ、これがフランスだもの。
 フランスのほとんどすべてのスポーツでのナショナルカラー、チームカラーは青である。だからフランス選手、フランスチームを応援する時は「青、がんばれ Allez les Bleus」になる。国旗(トリコール、青白赤)のうち、スポーツではどうして青だけが強調されるようになったのかは知りません。
 俗に大革命以来のフランス国標の「自由・平等・博愛」を象徴する色として自由=青、平等=白、博愛=赤が三色旗の意味とされるが、これは正しくない。既にあったパリ市のエンブレムに使われていた青と赤を旗印にパリ市民軍が王党派と戦い、白地に百合の花のブルボン王家の旗印(つまり白)を、両側からはさみ込んだ、つまり白の身動きを止め、王位を失墜させた、というシンボルが青・白・赤の三色旗の由来という話。その青と赤は、パリ由来の二人の聖人、サン・マルタンとサン・ドニの色で、前者サン・マルタンが貧しき者をいたわるためにかけてやった自身のマントの色が青だったという説。赤は殉教者サン・ドニ(キリスト教を禁止したローマ兵にモンマルトルで斬首刑に処されたが、その首を自ら持って北に歩きだしたという話)の血の色。青は慈愛のマントの色、赤は殉教の血の色。並びは青が左、赤が右。
 政治的なカラーとして、青が保守共和派、赤が左派・左翼の意味を持つのはあとになってからのことである。青は保守の色であり、戦後のフランスの保守本道はシャルル・ド・ゴール(1890-1970)が築き上げ、後継者ジャック・シラク(1932 - )1976年に結党したRPR(共和国連合)に発する(何度か名前を変えて継承する)政党が保守第一党のポジションを保っていて、現在はLR(共和党)という名で党首はニコラ・サルコジ(1955 - )である。その何度か名前を変える途中で、2002年、アラン・ジュペ(1945 - )(2016年7月現在、2017年大統領候補の一番人気とされる)が初代総裁となった保守+中道諸政党連合体の大政党の名前を「ラ・メゾン・ブルー(青い家)」としようとする声があったが、実現していない。(アイディアのもとは、青い家が歌われたマキシム・ル・フォレスティエの1972年のヒット曲「サン・フランシスコ」)。
 しかし政局は時と共に変化し、大統領選挙や国政選挙や地方選挙を報道する新聞・テレビで、フランス地図が青色が多くなったり、少なくなったり。わかりやすくてよいけれど、フランスの大部分が青になる時には、私の顔も真っ青になりましたよ。
 という理由もあって、青はあまり好きな色ではない。特にサルコジが大統領だった時代(2007年〜2012年)のフランスの青は...。そして極右FN党で2011年に党首になったマリーヌ・ル・ペンが、自分の名前にかけて、党カラーを bleu marine(ブルー・マリーヌ。ネイビー・ブルー)とした時には、自分の洋服ダンスから濃紺の衣類全部捨てたろか、と思いましたね。

 さて昨夜の延長後110分めに1ゴール取られて敗北したフランス・チーム(レ・ブルー)のことを報じる、7月11日、リベラシオン紙フロントページの見出しです。
Comme des Bleus(コム・デ・ブルー)
なんともふがいないというニュアンスわかりますか、お立ち会い?
成語表現では se faire avoir comme des bleus が元だと思われます。「ブルーのように扱われる(あしらわれる)」という意味になります。この表現は、例えば、犯罪捜査をしている警察が、目前で犯人に犯行を許したり、まんまと逃げられるような時に使われます。この場合のブルーは日本語と同じで、青二才、青臭い未熟者、という意味なのです。上に引用した新スタンダード仏和辞典では(6)の意味です。

 「おまえら、まだまだ青いんだよ!! 」 ー そんなふうな言い方しなくてもいいんじゃないですか? いい試合たくさん見せてくれてありがとう Merci les Bleus !