2011年10月31日月曜日

あとは E Volo あとは E Volo...

Frànçois & The Atlas Mountains "E VOLO LOVE"
フランソワ & ジ・アトラス・マウンテンズ『エ・ヴォロ・ラヴ』


 丘。顔と体に煤。腕には革バンドで巻いた羽毛の袖套。アンチークな卑金属のペンダント。MGMTのファーストアルバムや宮崎駿の『もののけ姫』を想わせる図ですが、そこにいるのはどこかの天体からひとりこの荒れ地に送られてきたような心細い顔をするフランソワ。このフランソワはあちらにあるこちらにもあるフランソワと違う,ということを示すために名前の3文字めの上に角をつけて[ à ]としています。宇宙人にも識別可能のような目印みたいに見えます。
 この若者の名はフランソワ・マリー。私は多くのフランス人たちと同じように,2009年のサードアルバム『PLAINE INONDABLE』(私はこれを『洪水に襲われやすい平原』と訳してます。拙ブログのここ→He's a rainbowレヴューしてます)でこの音楽に出会っています。特にその中の1曲 "Be water(Je suis de l'eau)"のクリップにこれまでに見たも聞いたこともない驚くべき才能を感じたのでした。超マイナー・レーベルから発表されていたフランソワの作品は一躍オーヴァーグラウンドで語られるようになり,2010年に英国の大手独立レーベルのドミノ(アークティック・モンキーズ,フランツ・フェルディナンド,ロバート・ワイアット...)がフランス人アーチストとしては初めてのケースとしてフランソワと契約して,この新アルバムを制作します。
 E VOLO LOVE これはパランドローム(回文)。左からも右からも同じ文字が並んでいます。スペイン語として解釈するなら「私は恋(ラヴ)を盗んだ」という意味になりましょうか。「エ・ヴォロ・ラヴ」こんなタイトル見つけたら,さぞうれしいでしょうが,そのナイーヴさも隠せません。そのナイーヴさは,恋を盗んだゆえにその罰として地球に落とされてしまった宇宙人のメランコリーのようなジャケットアートにも現われます。最初期のル・クレジオ小説みたいなところもありますね。そこはかとなく宇宙人ぽいメランコリー,これがこのアルバムのポイントでしょうか。
 フランソワのステージは2009年にパリ20区のマロキヌリーに続いて,2011年夏はわが川向こうのロック・フェスティヴァル,ROCK EN SEINEで見ました。 後者の野外大ステージはとても場違いでその繊細さが殺されてしまいましたが,もともとこの若者の真骨頂は密室スタジオワークにあると思っていたので,さもありなん,という印象でした。これはアルノー・フルーラン=ディディエも同じで,いくらCDで音の魔術師になれても,ステージではほとんど何も発揮出来ない,というのが私の見方でした。
 アルバムは ROCK EN SEINEの2ヶ月後に出ました。良いジャケ,良いタイトル,ということは上で既に述べました。 「音頭」のリズムだった"Be water"の延長のようなエキゾティックで浮遊感あふれる1曲め"LES PLUS BEAUX"が始まったとたん,フランソワの音のマジックはぐっと音数を増した,と思わせます。一回り大きくなったロム・オルケストル(l'homme orchestre)は、前作までメンバー不定だったジ・アトラス・マウンテンズを、アモーリー・ランジェ(ドゥヌンバ、カレバスなどのアフリカン・パーカッション)、ロバート・ハンター(ドラムス)、ジョー・ウィーン(エレクトリック・ギター)、ジェラード・ブラック(キーボード)で固めました。すなわち、ひとりオーケストラ的だった前作までとは違って、バンドの音が骨組みとなった上で、フランソワの宇宙人的なアイディアでの弦や金管やポリフォニー・コーラスやエレクトロニクスが大活躍する、というオーケストレーションです。巧みなアートです。
 それはこのアルバムで密室でのイマジネーションから抜け出て、旅する音楽に変わってしまいました。出会いのある音楽、とも言えましょう。アフリカ、トロピカルな島、北アメリカの砂漠、どことも名付けられるハイウェイ、ホテル/モーテル... その出会いに応じてトラヴェラーのように英語とフランス語をごっちゃにして使っているようです。
その英語はブリストルで6年間暮らしていたフランソワの英語で、そのフランス語は西海岸シャラント・マリティームでの少年時代にランボー、ボリス・ヴィアンを読み、ドミニク・アの歌を愛していたフランソワのフランス語です。あるインタヴューで彼のこよなく愛する作家/詩人のひとりにチェーザレ・パヴェーゼ がいることを知り、フランソワのメランコリアの源のひとつはイタリアにもあったのか、と天を仰ぎます。マンマ・ミーア!
 前に私は「アマンダ・リアーのような」と形容したフランソワの中性的な声質の官能性は、この英語とフランス語が混じる時のフランス語詞の部分に顕著で、倒錯キャバレー的ですらあります。セクシーだった頃のボウイーを想わせる、地球に堕ちてきた男なのです。
どこで目が覚めたのか?(英語)
この奇妙な場所は何なのか?(英語)
熱い空気が周りを包み (仏語)
僕は月日の経つのを忘れた (仏語)
僕の皿には何が乗っているのか?(英語)
また料理なのか?(英語)
世界は回転し、(仏語)
飛び上がって降りてみたら別の場所だった(仏語)
                                ("AZROU TUNE")

 敬愛する先達ドミニク・アのミューズだったフランソワーズ・ブルー(フランソワの"à"と同じように、あちらにもあるこちらにもあるフランソワーズとは違うという印に、彼女はその名を"Françoiz"と綴ります)とデュエットで歌われる越境願望の歌もあります。
僕らは橋を探している。越境手引き人を探している
魚釣り師たちは僕らにこう警告した
「この水流は急で底が深い、
巻き込まれたら二度と戻れなくなる、
だから岸にとどまっていなさい
もう日が落ちる」
そして夜も落ち、
僕らは彼らの収穫である魚を
ほんの少しだけもらって食べる
彼らは戦争のことや季節のことを良いもののように語る
それは僕らには地獄なのに
もういいことにしよう...
僕らは向こう側に行きたかったのだ...忘れよう
                           ("CHERCHANT DES PONTS")
象徴詩的なメランコリーです。それは少年の日の淡い恋の悲しみを忘れるためにプールで大はしゃぎする照れ隠しのメランコリーの歌で極まります。
明日プールに行こう
晴れるだろうし、悲しみも忘れさせてくれるだろう
プールに行く道は思い出せるから
明日会おう
彼らは10メートルの飛び込み台からジャンプするだろうが
僕はせいぜい3メートルだ
キッズたちははしゃぎ、悪ふざけをするだろう
きみは飛び込み台の影に坐り
筋肉質の男たちが飛び込むのを見るだろう
きみは僕ときみのことを思い
僕ときみを溺れさせてしまうだろう
          ("PISCINE")
この歌は、誰も聞いたことがないフランソワのファーストアルバムに入っていた曲の再録音だそうです。詞も曲もヴィデオ・クリップもトータルな「水と悲しみ」を私たちにつきつけます。私はこのような才能を持つフランソワを「トータルなアーチスト」であると断言できるのです。

<<< トラックリスト >>>
1. LES PLUS BEAUX
2. MUDDY HEART
3. EDGE OF TOWN
4. CITY KIDS
5. AZROU TUNE
6. BURIED TREASURES
7. CHERCHANT DES PONTS
8. SLOW LOVE
9. BAIL ETERNEL
10. PISCINE
11. DO YOU WANT TO DANCE

FRANCOIS & THE ATLAS MOUNTAINS "E VOLO LOVE"
CD DOMINO RECORD FRANCE  WIGCD280
フランスでのリリース:2011年10月

(↓ "PISCINE" オフィシャルヴィデオ・クリップ)

2011年10月15日土曜日

もうひとりのクランデスティーノ



AKLI D. "PARIS - HOLLYWOOD"
アクリ・デ. 『パリ - ハリウッド』


 (新ゼブダを待ちながら。)
 アクリ・デ.(Akli Dehlis)は旅する人です。ノマードと言っていいのでしょう。その旅の最初というのは、1980年の「ベルベルの春」(カビリアの言語であるタマジット語の公用語化などを求めるカビリア自由化運動)に対するアルジェリア政府の弾圧を逃れる亡命の旅でした。自由に旅する人たちというのは、いろいろなものと出会うことを糧として生きていますが、旅先で受け入れられなかったり、法律や人々の狭い心に道を閉ざされたりします。拒絶されるケースは年々増えています。マニュ・チャオがその自由な密航者(クランデスティーノ)の過酷な事情を歌ったのは1998年のことでした。アクリはその翌年1999年に『Anefas Trankil(彼を自由にしてやれ)』と題するデビューアルバムを発表しています。それから十年以上経った今日、事情はますます悪くなっています。フランスでは自由な旅人はもとより、自由を求めて地上の地獄から逃れる旅に出た人たちに、道は閉ざされてしまった感があります。
 アクリ・デ.は80年代にフランスに着いて3年間は不法滞在者(サン・パピエ = 「紙」のない者)でした。クランデスティーノだったわけです。警察の目を逃れながら、パリのボーブール(ポンピドゥー・センター前)で、ギター弾語りでカビリアの歌を歌っていました。ワールドミュージックなど影も形もなかったその当時、アルジェリアの歌などごく稀にしか聞けないフランスで、ボーブールでこんな歌手が歌っているというウワサ(これを「テレフォヌ・アラブ」と言う)を聞きつけて、アルジェリア系の人たちが家族連れで大勢集まってきます。アクリはレパートリーにジャメル・アラムやイディールの歌を加えて大人気を博します。そんなある日、ガールフレンドに連れられてニール・ヤングのコンサートに行き、大変なショックを受けます。アクリのフォーク・スピリットはここが原点なのかもしれません。次いでボブ・ディラン、フェラ・クティ、ボブ・マーリーなどに傾倒していき、アクリ独自のカビール・フォークが生まれていきます。つまりベルベルのアイデンティティーと、フォークの歌心と、抵抗のメッセージと、アフリカのリズムとグルーヴ。若い時は恐いもんなしですねえ。
 ストリートで歌い、メトロで歌い、バーに出演し、そんなホーボー・カビール・アーチストとして実力をつけ、1999年に(倉庫で録音したと言われる)ファーストアルバムを発表。2006年にはマニュ・チャオのプロデュースで(田舎の家でほとんどライヴで録音されたという)セカンドアルバム『マ・イエラ(できることなら)』。スペイン、アイルランド、米国西海岸(サン・フランシスコ)、サハラ砂漠... 旅するアクリはその多種多様な出会いの中で、「言語」を見つけていったのだと思います。ボブ・マーリーやフェラ・アニクラポ・クティの英語、マニュ・チャオの英語とスペイン語、そういう平易で明晰でパワフルでそのランゲージを知らぬ人にさえ心が伝わるだろう歌詞と声、それをフランス語で実現しているアーチストたちもいます。ゼブダ、アマドゥー&マリアム、ティケン・ジャー・ファコリ、そしてフランス語で歌う時のスアード・マッシもそうです。タマジット語(ベルベル語)とフランス語で歌われるアクリ・デ.の歌詞と声も、まさにそうなのです。
 ストリート出身ということで説明すれば、ラ・リュー・ケタヌーも同じことを言っていました。初対面の人たち(つまりストリートの通りすがりの観客)に、歌を気に入ってもらえるのは、分かりやすく憶えやすくキメの利いたリフレインがあること、この言葉選びこそ、ストリートで生き抜くための秘訣なのだ、と。マニュ・チャオやフランソワ・アジ=ラザロ(ピガール)も地下鉄から出発したという点で、同じ言葉選びをしていたはずです。

 アクリ・デ.の3枚目のアルバムが届きました。刺激的です。一言一言、そして一音一音が残ります。望郷("Wali")、クランデスティーノの嘆き("Yeliss n'tizi ouzou"。マニュ・チャオ"Je ne t'aime plus"への目配せあり)、平和こそが解決というメッセージ("La Seule Solution")、海を渡ってきた亡命者たちの道を閉ざすな("Tziri"。ゼブダのマジッド・シェルフィが共作詞とヴォーカルで参加)、暗殺されたカビール抵抗歌手マトゥーブ・ルーネスへのオマージュ("Luken-Lounes"。スティーヴ・ヒレッジのギター/編曲)、マグレブの癒しのブルース:グナワへの讃歌("Mister Gnawi")、シャンゼリゼで茶を飲もうとしたらノマドお断りと言われる("Thé à la menthe")、子供時代の故郷への郷愁("Arggu")、ブルキナ・ファソからスターを夢見てパリに出てきた少女がファーストフード店員で終わる歌("Paris - Hollywood")、流謫の身を月に吠える狼に喩える("Je gueulais à la lune")、90年代にアクリも関わったオルタナティヴ・バンド、ヤン&レ・ザベイユ(2001年にリーダーのヤンが病死)へのオマージュ("Yan et les Abeilles")、バルセロナのバーの歌姫への恋歌("Maria"。アンパロ・サンチェスの素晴らしいヴォーカル)、門戸を開放せよと迫る("Laissez-les passer")。1曲とて不可解な歌はありません。すべて明晰で、すべて膝を叩いて同意したくなり、すべて心を打ちます。こういうアルバムは、そうざらにあるものではないはずです。

シャンゼリゼ大通りにやってきて
カフェで一杯のミント・ティーを注文したら
それはできないと言われた
ここはノマードのやり方が通用しないんだ、と

セーヌに沿って歩みを進め
野外にテントを張っていたら
それはだめだと言われた
ここはノマードのやり方が通用しないんだ、と

(リフレイン)
俺は誰だ?
俺はアマジールだ
俺は誰だ?
俺はアフリカン・アマジールだ
アマジールというのは「自由人」という意味なんだぞ

俺は北アフリカの故郷にもどってきたら
死の脅迫を受けた
おまえはだめなんだ
ここでもノマードのやり方はもう通用しないんだ、と

(リフレイン)
                
             ("Thé à la menthe" 薄荷茶)


 編曲プロデュースにフィリップ・エイデル(ハレド、加藤登紀子その他ワールド・ミュージック全盛期の名プロデューサー。ベース、ブーズキ、チャランゴ、キーボード等も)。1曲("Luken-Lounes")だけ例外で、編曲プロデュースがスティーヴ・ヒレッジ(元ゴング。キャルト・ド・セジュール、ラシッド・タハのプロデューサー)。ゼブダのマジッド・シェルフィ、レ・ゾグル・ド・バルバックのフレドも参加。
 アマジーグ・カテブ、ムース&ハキムなどのCDの横に並べるべき、必須の1枚です。

<<< トラックリスト >>>
1. WALI
2. YELISS N'TIZI OUZOU
3. LA SEULE SOLUTION (feat. FREDO from LES OGRES DE BARBACK)
4. TIZIRI (feat. MAGYD CHERFI from ZEBDA)
5. LUKEN-LOUNESS (feat. STEVE HILLAGE)
6. MISTER GNAWI
7. THE A LA MENTHE
8. ARGGU
9. PARIS - HOLLYWOOD
10. JE GUEULAIS A LA LUNE
11. YAN & LES ABEILLES
12. MARIA (feat. AMPARO SANCHEZ)
13. LAISSEZ-LES PASSER

AKLI D. "PARIS - HOLLYWOOD"
CD RUE BLEUE/L'AUTRE DISTRIBUTION AD1912C
フランスでのリリース:2011年10月10日


(↓)ヴィデオクリップ "Thé à la menthe"

2011年10月12日水曜日

世界はエチオ



COMPILATION "ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE - NOISE & CHILL OUT"
『エチオピアン・グルーヴ・ワールドワイド / ノイズ & チルアウト』


  まずはオマージュ。私たちのほとんどがこの音楽を知る源となったブダ・ミュージックのEthiopiques(エチオピック)」シリーズの監修者フランシス・ファルセトさんが、世界民族音楽界最大の年次見本市であるWOMEX(The World Music Expo)(2011年は10月26日〜30日、コペンハーゲンで開催)から、栄誉ある「プロフェッショナル・エクセレンス・アワード」賞を授けられることになりました。拍手。
  思えば「エチオピック」シリーズの第一巻が出たのは1998年のことです。それまでいわゆる西欧社会でエチオピアのポップ・ミュージックを聞くことができたのは、1986年ベルギーのクラムド・ディスクからリリースされたLP、マハムード・アハメド『エレ・メラ・メラ』と、1994年にフランシス・ファルセト自身が選曲監修してアスター・アウェケなど10組のアーチストを紹介した編集盤『エチオピアン・グルーヴ』(仏ブルー・シルヴァー/デクリック盤)だけだったのです。私たちはなぜこの音楽をその前に知ることができなかったのか、それはエチオピアという国の特殊な事情だったのです。誇り高いエチオピアは、植民地だったことがないのです。とは言ってもファシスト政権のムッソリーニのイタリアが、1936年から1941年までこの国を占領したことはありました。しかし概ねは(ハイレ・セラシエ皇帝の失脚まで)3000年の歴史を持つアビシニア王国の歴史なのです。
  ワールド・ミュージックが人々の口にのぼってきた80年代後半から90年代にかけて、その世界音楽の都は旧大英帝国の文化を吸収していたロンドンであり、旧ナポレオン・フランス帝国の文化を吸収していたパリであり、魅惑的なルンバ・コンゴレーズの旧宗主国ベルギーの首都ブリュッセルであり、カボ・ヴェルデ/アンゴラの葡語圏アフリカとブラジルの音楽文化を受容したリスボンでした。ところが旧植民地宗主国のないエチオピアは、誰にも見向きもされなかったのです。アメリカや欧州の片隅で、エチオピア移民たちが小規模で楽しむことを除いて、エチオピア音楽は誰の耳にも入ることができなかったのです。なぜなら、状況はさらに悪く、ファルセトが何度も強調するように、ハイレ・セラシエ皇帝の治世末期(60年代末期〜70年代前半)がこのエチオピアン・ポップ・ミュージックの短い最盛期だとすると、その後に軍事独裁政権がやってきて、「エチオ・ポップの春」は脆くも崩れさることになるのです。それを世界の誰も見ていなかったし、知るよしもなかったのです。
  フランシス・ファルセトの仕事は今さらながら脱帽ものです。こんな音楽を世界が知らないのはおかしい、という義憤の心の成せる業です。1998年「エチオピック」のシリーズが世に出るや、事情は一変します。多くの人が「何だこれは!」と興奮した驚きを示したのです。われわれの知らないブラス・サウンドのグルーヴ、われわれの知らないコブシ・ヴォーカルのソウル、われわれの知らない断腸のブルースである「テゼタ」、これらは世界音楽の地図で目立つことなどなかったエチオピアを一挙にキューバ並みの重要度で語らせることになるのです。
  世界中で興奮した人たちがいたのです。この音楽の虜になり、その表現を自分たちなりに取り込もうとしたバンドが世界の各所に現れたのです。ファルセトの最初の驚きは、アメリカのジャズビッグ・バンド、ジ・アイザー・オーケストラ(The Either Orchestra)の冒険でした。このビッグバンドはその音楽への心酔のあまり、エチオピアに音楽に出会う旅を挙行してしまいます。その記録は「エチオピック第20巻」としてCD化され、未体験の音楽的出会いは、多くの米・西欧・日のプレスで絶賛されました。2005年のことです。このようにアメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストラリアなどで、多くの若いバンドがエチオピア音楽にアプローチする試みが発生し、ゲタチェウ・メクリヤ、ムラトゥー・アスタツケ、マハムード・アハメド等エチオピアン・ポップの黄金時代のアーチストたちが世界中から声がかかり、共演へのラヴコールを受けるようになりました。
  恐ろしいものです。たった10年ちょっとで、世界がこんなにエチオピアの音楽に夢中になるとは、誰が予想したでしょうか。このアルバムは世界からのエチオピアン・ポップ・ミュージックへのラヴコールをまとめたようなコンピレーションです。選曲者フランシス・ファルセトはこの種のアンソロジー・アルバムは6枚は軽く作れると、そのライナーで述べていますが、それを2枚組28曲に厳選した、まさに「世界はエチオ」と言いたい世界に愛されたエチオピア音楽現象を証明する編集盤です。クロノス・カルテットから清水靖晃まで。スイスのビッグバンド、インペリアル・タイガー・オーケストラや、28歳のクラシック・クラリネット奏者グザヴィエ・シャルルなど。まさにレンジの広い選曲で、コピーではなくこの音楽を愛して自分のアートの中に取り込もうとしている人たちの様々な試みが見えてきます。いつのまにか、この音楽は奇妙ではなく、その縦横無尽に炸裂する金管楽器群の音も、私たちの音楽風景の一コマに落ち着きつつあるのでしょうね。

<<< トラックリスト >>>
CD 1 NOISE
1. DUB COLOSSUS (UK-ETHIOPIA) "GURAGIGNA
2. ETENESH WASSIE & MATHIEU SOURISSEAU (ETHIOPIA-FRANCE) "GONDER C'EST BON"
3. RATTLEMOUTH (USA) "CHIK CHIKKA"
4. UKANDANZ (FRANCE-ETHIOPIA) "SEMA"
5. ALEXO (FRANCE-ETHIOPIA) "TECHAWETU!"
6. TEZETA BAND (USA) "AYNOTCHE TERABU"
7. DEREB THE AMBASSADOR (AUSTRALIA-ETHIOPIA) "ETU GELA"
8. MAN BITES DOG & DE AMSTERDAM KLEZMER BAND (HOLLAND-FRANCE-ETHIPIA)"BALAGUE"
9. IMPERIAL TIGER ORCHESTRA (SWITZERLAND) "EMNETE"
10. NUBIAN ARK (ETHIOPIA)"DIMINISHED HEAVEN"
11. DEBO BAND (USA-ETHIOPIA)"ADERETCH ARADA"
12. LE TIGRE DES PLANATES(FRANCE) "YEZEMED YEBAED"
13. ARAT KILO(FRANCE) "ADDIS POLIS"
14. JAZZMARIS (ETHIOPIA-GERMANY) "LANTCHI BIYE"
15. GETACHEW MEKURYA & THE EX (ETHIOPIA-HOLLAND) "ETHIOPIA AGERE"

CD2 CHILL OUT
1. XAVIER CHARLES (FRANCE) "MUZIQUWI SILT"
2. ETH (FRANCE-ETHIOPIA) "HEYWET ENDIET NEW"
3. TSEDENIA GEBREMARKOS (ETHIOPIA) "HEMEMEN BEEQEFU"
4. KRONOS QUARTET (USA) "AHA GEDAWO"
5. EITHER/ORCHESTRA & BAHTA GEBRE-HEIWET (USA-ETHIOPIA) "ANTCHIM ENDELELA"
6. DANIEL TECHANE (ETHIOPIA-AUSTRALIA) "GELLETE"
7. SNOW FLAKE (CANADA) "LES CATACOMBES + INTRO : SUMMER DRINKING"
8. CHARLES SUTTON & JEFF FULLER (USA) "OO-OOTA SYASKEFFAM"
9. ZERITU (ETHIOPIA) "ATHIDEBEGN"
10. SAMUEL YIRGA (ETHIOPIA) "FIRMA ENNA WEREKET"
11. YASUAKI SHIMIZU & SAXOPHONETTES (JAPAN) "TEW SEMAGN HAGERE"
12. ABEGAZ & JORG (ETHIOPIA-GERMANY) "AHUNEM"
13. AKALE WUBE (FRANCE) "METCHE NEW"

COMPILATION "ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE - NOISE & CHILL OUT"
2CD BUDA MUSIQUE 860215
フランスでのリリース:2011年11月


(↓)USAのテゼタ・バンド、Tezeta Band "Aynoteche Terabu"(CD1 - 6曲め)

2011年10月10日月曜日

ジュークボックスで指を鳴らす男



"INTEGRALE SERGE GAINSBOURG ET SES INTERPRETES 1957-1960"

『セルジュ・ゲンズブールとその演奏者たち全録音集 1957-1960』

 セルジュ・ゲンズブール(1928-1991)の歌手デビュー期の音源が,発表から50年を過ぎてパブリック・ドメインに落ちたために,所属レコード会社(Philips/Universal Music)でなくてもこの音源を使ってCD製品が作れるようになりました。既に数社がゲンズブール初期作品集を出していますが,このフレモオ&アソシエ社から11月に出る3CDセットは「Intégrale(アンテグラル)」をタイトルにしています。つまり完全録音集をうたっているわけですね。ミソはゲンズブールだけでなく「Ses Interprètes(その歌手/演奏家たち)」を含むという点で,ゲンズブールが曲を提供した歌手たちや楽団のトラックも入っているのです。3CD66トラック中,ゲンズブール自身の歌およびゲンズブールが録音に関与している曲は46トラックで,20トラックは他の歌手/演奏家/楽団の録音です。水増しと言うなかれ。これが示しているのは、ゲンズブールの作詞作曲家としての評価の高さはかなり早い時期からあったということです。この3CDセットで「リラの門の切符きり Le poinconneur des Lilas」が、8つのヴァージョンで収録され、そのうち5つが他のアーチストたち(ユーグ・オーグレイ、ジャン=クロード・パスカル、レ・フレール・ジャック...)による録音であることを知る時、それは大衆的なヒットとならなかったにしても、もうプロの間でなかばスタンダード化していたのだ、と了解できます。
 とかく私たちが思いがちなのは、この時期のゲンズブールというのは売れない下積み時代ということになりましょう。エリザベート・レヴィツキーと住まいを転々と変えながら、ボヘミアンのような生活をしていたとされていますが、レヴィツキー自伝から読み取れるのは絵はほとんど描かず、ピアノバーで日銭を稼ぐ男の姿です。初めてシャンソンを書いたのは20歳頃とされ,それがJulien Grix(ジュリアン・グリックス)という変名でSACEM(著作権協会)に登録されたのは1954年のことです。
 同じ1954年にゲンズブールがギタリスト兼ピアニストとして雇われた右岸のキャバレー「ミロール・ラルスイユ」の看板女性歌手ミッシェル・アルノーが、その運命を変えたのかもしれません。ゲンズブールが一方的に恋慕していたようですが、最初冷淡だったアルノーがこの若いギタリスト(そうです、まだ26歳だったんです)が作詞作曲をしていると聞き、急に興味を持ち始めます。そしてゲンズブールにたくさん曲を作って自分のレパートリーを作り,それを自分で歌うように進言します。自分で作詞することに自信のなかった彼は,1956年にセルジュ・バルトレミーという大蔵省役人と出会い,その詩編のいくつかを見て,1編だけ気に入って曲をつけたのが「ロンサール58 (Ronsard 58)」でした。バルトレミーの詩のもう1編に「急げよメトロ (Metro au trot)」というのがあり,それが「リラの門の切符きり」のインスピレーションの源となったと言われています。しかし他のバルトレミーの詩に面白みを感じないゲンズブールは,自分ひとりで作詞作曲することを選びます。
 曲が溜まり,ミッシェル・アルノーの後押しで,「ミロール・ラルスイユ」のオーナーはゲンズブールを前座新人歌手として舞台に立たせます。その初めての夜,ゲンズブールは「俺の可愛い女奴隷たち(Mes petites odalisques)」と「リラの門の切符きり」の2曲をガチガチの直立不動で歌ったことになっています。この3枚組CDのフレデリック・レジャンによるライナー・ノーツによると,その夜,キャバレーの中に駆け出しの歌手だったユーグ・オーフレイがいて,「リラの門の切符きり」の歌詞とコード進行を夢中で書き写し,次の夜,自分が出演したキャバレーで歌った,と記されています。
 その才能を確信したミッシェル・アルノーはゲンズブール曲を2曲("Douze belles dans la peau"と"La recette de l'amour fou")を1958年1月に録音し,その2曲の入った4曲入りシングル盤は1958年3月に発売されます。これがゲンズブール曲の初レコード化です。それと前後して「ミロール・ラルスイユ」にレコード会社フィリップスのスカウトマンが訪れ,1958年2月に同社ディレクターのジャック・カネティを前にオーディションが行われ,その結果ゲンズブールはフィリップスと契約します。9曲入りの10インチアルバム『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』は1958年の6月と7月に録音され,9月に発売されます。これがゲンズブール自身の初のレコードです。
 その発売を待たず,ミッシェル・アルノーの歌などによってゲンズブールの噂はシャンソン界に広まり,ジャン=クロード・パスカル,イヴ・モンタン,フィリップ・クレイなどがゲンズブールの歌を歌いたいと申し出ます(しかし,モンタンとクレイは実際には録音しません)。ジャック・カネティはレ・フレール・ジャックとゲンズブールを引き合わせ,レ・フレール・ジャックは「リラの門の切符きり」をシングルで録音し,58年9月に発売しています。
 この時期の重要な出会いは編曲者/楽団指揮者のアラン・ゴラゲールです。ボリズ・ヴィアンとの仲から,ヴィアンの編曲/伴奏をしていたゴラゲールのことは知っていましたが,このフィリップスとの契約で本格的なゲンズブール/ゴラゲールのコラボレーションが始まります。このCD3枚組には最初のアルバム『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』の編曲/伴奏に始まり,アラン・ゴラゲール楽団としてゲンズブール曲4曲を(主にダンスホール用に作られるインストルメンタル・レコードとして)ビッグバンド・ジャズ化した4曲シングル盤『Du Jazz à la une(一面トップのジャズ)』,そしてゲンズブールと共同で担当した映画音楽『山小屋の狼(Les loups dans la bergerie)』(1960年)と『唇によだれ(L'eau à la bouche)』(1960年),また珍品としてゴラゲール楽団のラテン風変名,ロス・ゴラゲロス(Los Goragueros)名義の録音によるゲンズブール曲「マンボ・ミャム・ミャム」なども収められています。
 ゲンズブール自身の録音では9曲入り10インチLP『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』(1958年),8曲入り10インチLP『NO.2』(1959年),LP未収録のシングル曲『La jambe de bois - Friedland (木の義足-フリードランド)』(1959年),そして4曲入りシングル盤『Romantique 60 (ロマンティック60)』(1960年)がフィリップス正規盤の録音として収録されています。その他にラジオ公開録音のテープとして,1957年12月に「ミロール・ラルスイユ」でライブ録音され,58年1月にラジオParis-Inter(現在の国営France Inter)で放送された「俺の可愛い女奴隷たち(Mes petites odalisques)」,同じく1958年5月にアリアンス・フランセーズで公開録音され,同年6月にラジオParis-Interで放送された「リラの門の切符きり」他2曲(この時のピアノ伴奏がセルジュの父親であるジョゼフ・ギンズブルグ)という貴重でレアな録音が収められています。
 またジャック・カネティが経営していた小ホール「トロワ・ボーデ」での1959年のゲンズブールのライヴ録音「リラの門の切符きり」(CD2の1曲め)を聞くと,1年間でずいぶんとこの歌への肉付けがしっかりしたもんだ,と感心します。すでにスタンダードの貫禄があります。そのシャンソンの肉付けやニュアンスや色彩の盛りつけということで言えば,CD2に5曲収められたジュリエット・グレコによる録音が格別です。グレコが歌うことによって,これほど膨らみが出るのか,と驚かずにはいられません。
 ですから,他人の録音が入っているということは,このCD3枚組には大変有効なのです。早くもゲンズブール世界の広がりがこの時期にあったことの証言なのですから。
フレデリック・レジャン筆のライナー・ノーツは詳細を極めていて,その周辺の録音についても詳しく言及しています。これをこのまま訳せば,ゲンズブール研究者には大変貴重な資料になるはずです。ぜひ日本で紹介されることを希望します。
 おしまいに,1959年録音の『NO.2』の第1曲め『フィンガースナップの男(Le claqueur de doigts)』(CD3の1曲め)は,この3枚組CDのジャケットにも使われている,ジューク・ボックスの前で指を鳴らす男です。1956年にリトル・ウィリー・ジョンが歌い,1958年にペギー・リーの歌で世界的なヒットとなった『フィーヴァー(Fever)』のパクリとよく言われたりもしました。この指を鳴らす男,当時30歳。人はゲンズブールを「遅く来た男」と思いがちですが,今日的感覚の30歳では「早くから才能が開花した男」と思っていいのではないでしょうか。半世紀の時間差で,30歳は同じ価値ではないのでしょう。

<<< トラックリスト >>>
CD1   Serge Gainsbourg(1957) “MES PETITES ODALISQUES” - . Serge Gaomsbpirg (1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU – “FRIEDLAND(LA JAMBE DE BOIS) - “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Serge Gainsbourg/Du Chant à la Une(1958) “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “CE MORTEL ENNUI” – “RONSARD 58” – “LA FAMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “L’ALCOOL” – “DU JAZZ DANS LE RAVIN” – “LE CHARLESTON DES DEMENAGEURS DE PIANO” – Michele Arnaud(1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Jean-Claude Pascal(1958)”DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Hugues Aufray(1958)”LE POINCONNEUR DES LILAS” – “MES PETITES ODALISQUES” – (BONUS) Hugues Aufray(1958) “LE POINCONNEUR DES LILAS” en concert
CD2   Serge Gainsbourg/Opus 109 aux Trois Baudets(1959)”LE POINCONNEUR DES LILAS” - Serge Gainsbourg(1959) “LA JAMBE DE BOIS(FRIEDLAND)” – Les Freres Jacques(1959) “LE POINCONNEUR DES LILAS” – Alain Goraguer/Du Jazz a la Une “CE MORTEL ENNUI” – “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA FEMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “DU JAZZ DANS LE RAVIN” – Michele Arnaud(1958)”LA FEMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “JEUNES FEMMES ET VIEUX MESSIEURS” – Simone Bartel(1959) “ DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – Juliette Greco/Greco Chante Gainsbourg(1959) “IL ETAIT UNE OIE” – “LES AMOURS PERDUES” – “L’AMOUR A LA PAPA” – “LA JAMBE DE BOIS(FRIEDLAND)” - “ LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Jean-Claude Pascal(1959) “LE POINCONNEUR DES LILAS” - Pia Colombo(1959)’DESENSE D’ENTRER” – Lucien Attard(1958) “LE CHARLESTON DES DEMENAGEURS DE PIANO” – Jacques Larsy et René Gary(1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – Trumpet Boy(1959)”LE CLAQUEUR DE DOIGTS” – Los Goragueros(vo: Humberto Canto)(1959)”MAMBO MIAM MIAM”
CD3   Serge Gainsbourg/NO.2(1959)”LE CLAQUEUR DES DOIGTS” – “LA NUIT D’OCTOBRE” – “ADIEU CREATURE” – “L’ANTHRACITE” – “MAMBO MIAM MIAM” – “INFIFFERENTE” – “JEUNE FEMME ET VIEUX MESSIEURS” – “L’AMOUR A LA PAPA” – Michele Arnaud(1958) “IL ETAIT UNE OIE” – “RONSARD 58” – Serge Gainsbourg avec Alain Goraguer Orch(1960)/Bande originale du film LES LOUPS DANS LA BERGERE “GENERIQUE” – “FUGUE” – “LES LOUPS DANS LA BERGERE” –“CHA CHA CHA DU LOUP” – “LES LOUPS DANS LA BERGERE(fin)” – Serge Gainsbourg Avec Alain Goraguer Orch(1960)/Bande originale du film L’EAU A LA BOUCHE “BLACK MARCH” – “ANGOISSE” – “JUDITH” – Serge Gainsbourg/Romantique 60(1960) “CHA CHA CHA DU LOUP” – “SOIT BELLE ET TAIS-TOI” – “JUDITH” – “LAISSEZ-MOI TRANQUILLE - (BONUS) Francis Lemarque + Serge Gainsbourg(b.vo)(1959) “ELLE N’AVAIT QUE DIX-SEPT ANS”

"INTEGRALE SERGE GAINSBOUR ET SES INTERPRETES 1957-1960"
3CD FREMEAUX & ASSOCIES FA5335
フランスでのリリース:2011年11月

(↓)ジュークボックスで指を鳴らす男



追記(2011年10月12日) :

この3CDは「初CD化13トラック」とCD上のスティッカーと,裏ジャケのパトリック・フレモオの短文解説でうたわれています。しかしこれはCDの解説ではどの曲なのかが,明記されていません(少々不親切ですね)。そこでフレモオ社に問い合わせたところ,これまでCD未発表だった13トラックの詳細が送られてきましたので,以下に列記します。

SERGE GAINSBOURG
Concert à l'Alliance Française (1958)
CD1 - 2. Présentation par Roger Bouillot 〜
Douze belles dans la peau
CD1 - 3. Friedland (La Jambe de bois)
CD1 - 4. Le poinçonneur des Lilas
CD1 - 5. La recette de l'amour fou

HUGUES AUFRAY (1958)
CD1 - 21. Le poinçonneur des Lilas en concert

ALAIN GORAGUER ET SON ORCHESTRE - Du Jazz à la Une !
CD2 - 5. Le poinçonneur des Lilas
CD2 - 6. La femme des uns sous le corps des autres

SIMONE BARTEL (1959)
CD2 - 10. Douze belles dans la peau

JEAN-CLAUDE PASCAL (1959)
CD2 - 16. Le poinçonneur des Lilas

LUCIEN ATTARD ET SON ENSEMBLE (1958)
CD2 - 18. Le charleston des déménageurs de piano

JACQUES LASRY,SON ENSEMBLE ET RENE GARY (1958)
CD 2 - 19. Douze belles dans la peau

TRUMPET BOY (1959)
CD2 - 20. Le claqueur de doigts

LOS GORAGUEROS (chant : Humberto Canto) (1959)
CD2 - 21. Mambo Miam Miam