2021年5月31日月曜日

太陽はもう輝かない

Oxmo Puccino "Les Réveilleurs de Soleil"
オクスモ・プッチーノ『太陽を目覚めさせる者たち』

クスモ・プッチーノ(本名アブドゥーライエ・ディアラ)は1974年セグー(マリ)に生れ、翌75年に母と共にパリ19区に移住している。以来、このいわゆる”難しい地区”(暴力、犯罪、ドラッグ...)と呼ばれるプラス・デ・フェット(Place des Fêtes)界隈で育ち、11歳でラップ/ヒップホップと出会い、13歳で既に自らラッパーとなっている。1990年代後半、文法や韻を無視する"フリースタイル”/”ハードコア”派のラッパー連合タイム・ボム(Time Bomb)(ピット・バカルディ、X-メン、リュナティック...)に参加。1998年タイム・ボムの解散後、ソロ・デビューアルバム『オペラ・プッチーノ(Opéra Puccino)』を発表、アルバムはじわじわと売れ始め、8年後の2006年にゴールドディスク(売上10万枚)を認定される。2001年、オクスモはジャック・ブレルの最後の録音曲のひとつ"L'Amour est mort"(1977年録音、2003年に"未発表曲"として初CD化)にインスパイアされたセカンドアルバム"L'Amour est mort"を発表。以前からそのシャンソンに近い叙情性とディクシオン(発話法、明晰な語り口)で評価を得ていたラッパーが、ここにきて「黒いジャック・ブレル」と異名をとるようになる。まあ、「黒いブレル」と呼ばれた人はいろいろあって、アブダル・マリックストロマエもそう言われることがある。マリ出身でグリオの家系ではないが、その賢者(あるいは知識人)的な佇まいやストーリーテリングの妙でグリオ的な評価もされている。しかし私にしてみれば、オクスモの一番の魅力はその深々と響く声であり、この声から発せられる明晰で詩情に満ちた言葉が多くの人の心を掴んでいるのだと思う。他ジャンルのアーチストたちからも呼ばれることが多く、バンジャマン・ビオレー、ベルナール・ラヴィリエ、サルヴァトーレ・アダモ、イブラヒム・マールーフ、デーモン・アルバーン(ゴリラズ)などと共演している。ヴィクトワール賞2回(2010年と13年)、2019年にはフランス文化芸術勲章を授与されている。とまあ、大変な大物になってしまった人であるが、一応私の最も好きなオクスモの曲のクリップ動画を貼っておきます。↓"365 jours(365日)"(2009年)


 オクスモ・プッチーノはこれまで3冊の本を発表している。詩集"Mines de cristal(水晶鉱)"(2009年)、ツィート選集"140 piles"(2014年)、ツアー随想記"Au fil du chant"(2019年)。そしてこれが初の小説というわけである。長い間構想はあったものの、 小説として発表しようというきっかけを作ってくれたのが、(同業ラッパーである)ガエル・ファイユの『小さな国』(2016年)だったという。それまでプッチーノは歌詞(ライム、パロール)と小説の違いについて考えたことがなく、同じようなものだと思っていたのだが、この『小さな国』を読んでその相違がはっきりとわかり、そのおかげで初めて小説を書きたいという欲望が湧き出た、と。試作のように短編をいくつか書き、人に見せずにそのままにしておいたが、 COVID19の外出制限(ツアーの中止)となって、暇つぶしの整理作業のうちに出てきたその短編の一編、これを外出制限の間に加筆してふくらませたのがこの作品。
C'est l'histoire de la rencontre de l'aube et du crépuscule qui se réunissent chaque matin et chaque soir par amour pour agrémenter le lever et le coucher du soleil.
これは日の出と日の入りを愛によって飾り付けるために毎朝毎夕現れる二人、曙と黄昏の出会いの物語。

 時は太陽がもう輝かなくなったポスト・アポカリプス記。主人公は13歳の少女ロジー、両親は既にこの世になく、祖父のエドモンと二人暮らし。野菜と薬草の元となる花や草を育てて暮らしていたが、太陽が出なくなってから植物の成長は止まり、エドモンの老体も不調となって咳き込んでばかり。世界一の大富豪ノエが太陽光を独り占めしたからに違いない、とエドモンは老体に鞭打って直談判を試みるが叶わず、体の不調をいよいよ深刻化していく。祖父の命を救わんとロジーは愛車(自転車)ハーレイにまたがり、ひとり敢然と太陽を再び昇らせるために旅に出る。その道程で出会うのは : 冷たい風を吹きまくる嫌われ者のクレピュスキュール(夕闇)、その心の恋人のオーブ(朝焼け)、世界一美しい女ヴェニュス、大ホラ吹きの有名人ファモス、魔術師の女イルラとその夫で猫のシンノ、幾多の星を漁網で釣り上げる漁師モモ、酔いどれギャンブラーで太陽の目覚まし番だったベラット....。
 『オズの魔法使い』、『不思議の国のアリス』、『星の王子さま』、一連のティム・バートン映画を想わせるファンタジーである。当ブログでもかなり高く評価していた(近作はそうでもない)マチアス・マルジウ(ディオニゾス)のファンタジー小説群と同じ傾向の"文学”と言えよう。絵本、BD、アニメになった方が本領を発揮しそうな"コント"(conte。日本で使われる"コント"とは異なる「物語」「架空の話」「お伽話」の意味)である。奇想天外な登場キャラ、魔術や超自然現象などがものを言う世界なのだ。言うまでもなくそこには絵空事ではない環境危機が寓意の中心となっているわけだが、物語で描かれる少女の旅路は求道的で哲学的である。ロジーは太陽を再び昇らせることができる(可能性のある)人を探して東奔西走するのだが、その出会いは多くのヒントを与えはするものの、その人は望みを叶えることはできない。次から次に消えていく望みの果てに、最後まで道連れとなったクレピュスキュールとオーブの友情に支えられて、最終的に「自分がやるしかない」、ロジー自身が太陽を探しあて連れ戻すしかない、と悟るのである。
 その道程は二十数年前19区のハードコア・ラッパー/機関銃 ライム射手だった男が、メタファーの魔術師と呼ばれ、暗黒叙情の語り部となり、黒いジャック・ブレルと異名をとり、ヴィクトワール賞、文化芸術勲章を授かるに至る道のりとパラレルなものであろう。環境危機に打ちのめされた世界にあって、こんなにもひとりの少女のポジティヴな行動に光を見出してしまっていいのか。これにはもっと説明と違うアクションが必要であろう。オクスモ・プッチーノは2020年のある日自分の拠り所であった音楽が消えてしまった時に"小説"を書き始めた。音楽とは違う表現を得たことで生き返ったと思っていて、この第一作のあとも書き続けたいと望んでいる。
 絵のないBD、画面が闇のアニメ映画のように読めるこの作品、決して読みやすい文体ではない。イマジナティヴなメタファーやユーモアはラップのように直感できるわけではない。私の読み方が下手なのか。もっとラップのような速度でぐんぐん読み進めばいいのか。日本語化たところで、その文体がどんなものかをわかっていただくわけにはいかないだろうが、少しだけためしてみよう。大ほら拭き(今の言葉ではインフルエンサーか)にして大スターであるファモスとの出会いが全く何の役にも立たなかったことに落胆し、消耗し、疲れ果て、眠りに落ちたロジーは、その落胆を慰めるようなカラフルな夢を見る:
(・・・・)彼女は大きく息を吸い、何も考えずに水に飛び込んだが、その入水はあまりにも優美で、海の青いシーツにまったく皺を寄せることはなかった。世界と空と夜から護られて、ロジーは呼吸する必要を全く感じることなく深みへと泳いでいき、四肢の動きは早まっていった。海底に近づき、まさに足をつけようとした時、海底の砂が渦巻き、もっと暗い海底の奥への入り口となって開き、彼女は降下を続け、肩の後方に見える海面は小さくおぼろげな発光点に変わっていった。彼女の前には金色のきらめきがクジラの歌声に合わせて踊っていた。
光に近づいていくにつれて、怖くも震えることもなくなり、ロジーは水が赤く染まっていくのを見ても驚かなかった。あたりは明るくなり、水は緑色に変わり、きらめきは遠ざかっていった。ロジーが腕と脚をバタバタさせると、水の色はまた変わった....。危険な跳躍をした時のように彼女の胃はキリキリ舞いをしたが、それでも彼女は水の底へと降り続け、海底にどんどん近づき、しまいに光の前で海底に足をつけた。その熱は猛烈で、まるでピザ焼きの窯の中のようで、魚たちは大急ぎで退散したが、ロジーは何も感じなかった。それは一種の歓迎の熱であり、彼女はその輝きと二人だけで対面し、その周りは漆黒の夜の闇だった。彼女は大きな水の流れの奥にあるのが祖父の姿だと思った。
ー おじいちゃん? ねえ、おじいちゃんなの? 私は太陽はただ休みが必要だっただけなんだと思うの。ママンみたいに眠ってしまうんじゃなくて、パパみたいにいなくなっちゃうんじゃなくて... 。パパは帰ってくるって、おじいちゃんもうずいぶん前から言わなくなったよね。
ロジーが祖父だと思って話しかけている光の球は何も答えない。
(p113〜115)

私は最後まで読んだが、この音楽アーチストの大ファンでこの本を買った人たちの多くは、最後まで読まずに脱落したのではないか、と思う。私にも『オズの魔法使い』やティム・バートン映画と比較して論じることなどかなり無理があるように思う。私にとってこれは"文学”ではない。音楽とライムの達人であっても万能ではないし、オクスモ・プッチーノは得意な領分でがんばってくれればいい、と思ってしまうのですよ。

Oxmo Puccino "Les Réveilleurs de Soleil"
JC Lattès刊 2021年5月19日  170ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆


(↓)2021年5月、初小説のプロモーションとして、読書体験、エクリチュールなどについて語るオクスモ・プッチーノ。


(↓)ウォーカー・ブラザース「太陽はもう輝かない」(1966年)

2021年5月20日木曜日

庭にワニ

Odessey & Oracle "Crocorama"
オデッセイ&オラクル『クロコラマ』

デッセイ&オラクルはリヨンのサイケデリック/バロック系の4人組バンドでこれがサードアルバム。バンド名は60年代UKのサイケデリック/バロック・ポップのバンド、ザ・ゾンビーズのセカンドアルバム『オデッセイ・アンド・オラクル(Odessey and Oracle)』(1968年)から拝借しているが、このアルバムタイトルはジャケットアート制作者がスペルミスで正しくは"Odyssey"のところを"Odessey"としていて、この誤りを訂正することなくそのまま発売したという曰く付きの綴りを踏襲している。
このゾンビーズのアルバムは「ふたりのシーズン(Time of the season)」(日本でも大ヒット、私は当時中学生でシングル盤を買った)というスマッシュヒットを含んでいただけでなく、サイケデリック/バロック・ポップの傑作アルバムとして後世まで高い評価を保って40周年盤も出ている。その盤は持っていないが、43年の時を経て今回初めて全曲をYouTubeで聴いた。チェンバロ、オルガン、メロトロン、(ビーチボーイズ流)コーラスハーモニー、音階起伏と音符が多めの対位法作編曲、エフェクト、なんとアーティーで格調高くカラフルな音楽であろうか。多くの後進たちに多大な影響を与えたであろう。そのひとつがこのリヨンの4人組であったというわけか。名前までいただいて。
  さてリヨンのオデッセイ&オラクルが40数年前の先達と大きく違うとすれば、女性2人+男性2人のバンドであり、バンドのフロントとなっているのはファニー・レリティエというブロンド女性である。バンドの好き嫌いは99%この女性のヴォーカルで決定されるだろう。メンバーと担当を記しておこう。
ファニー・レリティエ(Fanny L'Héritier):ヴォーカル、エレピ、アナログキーボード
アリス・ボードワン(Alice Baudoin) : チェンバロ、ポジティヴオルガン、リコーダー、バロック・オーボエ
ギヨーム・メドニ(Guillaume Médoni):ギター、バンジョー、ベース、アナログシンセサイザー
ロメオ・モンテロ(Roméo Monteiro) : パーカッション

作詞作曲は全曲ファニーとギヨームの手になるもの。バロック楽器と60年代から80年代のヴィンテージ電子楽器を用いる。四の五の言わず、百聞は一聴に如かず、この新アルバム冒頭の曲を聴けば、どんなバンドかわかる。(↓)"Chercher maman(ママンを探しに)"

 
かなり高低の難度ある旋律を歌う可憐でフラットで非声楽系の少女声ヴォーカルと、バロック室内アンサンブルのようなインスト、そしてフーガ風なコーラスハーモニー、洒落っ気もあってよく構成された曲、と聞こえた方、まあそれだけじゃないんですよ。これは積年の恨みを晴らすべく、妻が夫を料理包丁で刺殺し、眠っている子供たちを起こして、パパがあの世に行ったからパーティーして祝おうとするのだけど、パトカーのサイレンが鳴って「ママンを探しに」憧れの王子様(警察)がやってくる、という歌詞。残酷なマザーグースを想わせる、優しいメロディーと歌詞のデカラージュ(ずれ)の妙。それはアルバムジャケットのシュールレアリスム風コラージュでも明らか。
で、この「ママンを探しに」という曲の(コロナ期の録画なので観客なし)ライヴ動画(↓)がYouTubeに載っていて、このバンドが実際に複数のヴィンテージシンセを駆使して、ギヨームのギター(いい味出てる)とコーラスを絡ませてバロックアンサンブルになっている様子がわかる。私はこの動画見て、絶対このバンド見てみたいと猛烈に思った。


 新作『クロコラマ』は11トラック41分のアルバムであるが、ファニーとギヨームのソングライティングの多彩さに驚かされる。(バロック)ソフトロック(5曲め"Le manège")、(バロック)サンバ(4曲め"Mascara")、(バロック)フォーク(7曲め"Antoine Rouge")、(バロック)ミュージカル映画風(8曲め"Les enfants")、(バロック)古楽ロック(10曲"Ferdinand L'Albigeois")...。それはファニーのヴォーカルの資質によるところだろうが、楽譜に忠実に難しい起伏の音階を歌い切るフラットな歌唱はある種童謡的でもアニメ的でもある。これは往年のNHK「みんなのうた」(60/70年代)に時々はさみこまれた(だいたいがアニメに彩られていた)「わかりやすい前衛」的なクリエイティヴな佳曲の数々に似ている。ちょっと難しめで高尚なことを、ソフトにユーモアを込めて、決してアグレッシヴになることなく、まる〜い音楽にしてしまう芸当。
 アルバムタイトル曲「クロコラマ」は、素晴らしいアニメのクリップと共に発表されたが、今日のウルトラリベラル資本主義の寡占階級をワニに喩えて、童謡のように子供たちにもわかるように世界を牛耳る超金持ちたちの悪行の数々を歌う歌であるが、数種のアナログシンセサイザーで表現されるワニたちの所業が聞きもの。

歌詞「クロコラマ」(↓)

クロコたちがまた悪巧みの箱を取り出したぞ
悪どい策謀の貯蔵庫だ
飽食経済に目をギラギラさせ
クロコたちが猛威をふるう


広告看板のうしろで待ち伏せし

クロコたちは易々と人々の頭脳と時間を盗み

それを大株主たちの利益のために転売する
クロコたちは億万長者


儲かる商売には頭をペコペコ下げ

オレンジの果肉を小分け鮮度包装で売り

労働者たちをまんまと騙してゼニ稼ぎ

満腹するドラゴンたち


ただの
湧水をプラスチック瓶につめて売り
その金を戦略的メディアに投資する

あらゆるニューステレビ局のおかげでクロコはメディア映え
実利に長けたクロコたちだ


クロコたちは海の底を傷つけるために歯をギラギラに研ぐ

その快挙に高笑いし、両顎を高く突き上げる

もっと富を増やすためにクロコたちは血生臭い計画を立てる
クロコたちは未来を先取り


クロコたちは子供たちを殺してワニ皮バッグを作る

税金を払わないための抜け穴もある

バハマ諸島でクルーズ遊び

クロコたちはマフィア野郎

クロコたちは身内の敵たちも見逃さないが
世の偉大な独裁者たちとは仲良しなんだ

大地はズタズタ、労働者たちはボロボロ
クロコは大虐殺者

このまま進めば近いうちにクロコの世は滅びる

人間たちは権利を取り戻す
古い世界を葬る屍衣を人民は縫い上げる
クロコよ、覚悟しておけ

 この曲の他にもう1曲ヴィデオクリップと共に発表されたのが3曲め「私はまどろみ(Je suis l'endormie)」。このモノクロで時代っぽく加工されたクリップはファニー・レリティエ自身がひとりヒロインとして出演している。シリアスな映像とストーリーであることはわかると思う。病院あるいは鉄条網で囲まれた収容所を裸足で脱走してきた女という図。私はミレーヌ・ファルメールのデビュー曲"Maman a tort"(1984年)の病院を想ったし、ミレーヌ・ファルメールという芸名のもととなったアメリカ女優フランシス・ファーマー(1913 - 1970)の受けた極端な精神病治療法のことを想った。

歌詞「私はまどろみ」(↓)

私はまどろみ
病室のベッドの上

午前の睡り


私の耳には静寂

私の目には風呂の水

私が飲み込むのは無意味

私はパンティーをはき
体には古代の膏薬が塗られる

一滴のシャンパーニュ ― なんて私はバカなの


エレベーターの音が聞こえる

看護師の腕 ― 怖いわ

停電 ― もう時間なのね


蔦のコルセットで

体を締めつけられ

私のまぶたを縫いつける

私を別人に変えるやり方を

あの人たちはよく知っている


光を奪われ

私の紐はほどけていき
私の体は軽くなる


光を奪われ

私を別人に変えるやり方を

あの人たちはよく知っている


サイケデリックにして病的な歌であるが、おそらくこのアルバムのベストトラックと思われる。しかしアルバムはこの曲だけではない。たくさんの人に発見していただきたいバンドである。かなり力をこめて応援している。

<<< トラックリスト >>>
1. Chercher Maman
2. Les Poupées Mécaniques
3. Je suis l'endormie
4. Mascara
5. Le Manège
6. Crocorama
7. Antoine Rouge
8. Les Enfants
9. Mélodie 1
10. Ferdinand l'Albigeois
11. Mélodie 2

Odessey & Oracle "Crocorama"
CD/LP/Digital Another Record & Dur et Doux
フランスでのリリース:2020年10月

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)2020年5月、フランスのコ禍ロックダウン中に、Radio Nova のために"遠隔録音/録画”したオデッセイ&オラクル「私はワニを見た(J'ai vu un croco)」

2021年5月16日日曜日

(Say you) say me

Aki Shimazaki "Sémi"
アキ・シマザキ『セミ』

ンレアル(カナダ)在住のフランス語で創作する作家アキ・シマザキの17作目の小説で、名前がまだ発表されていない第四パンタロジー(五連作)では『スズラン』(2019年)に続く第2話。前作『スズラン』の話者であった女性陶芸家アンズ、その姉でガンで死んだキョーコ、そして弟ノブキという3人の子供の父であるテツオが今回の作品『セミ』の話者である。
 時間軸的には前作『スズラン』の後になり、文中に「令和」という年号も現れる。前作でキョーコが死ぬ前に産み、アンズが養子として迎え育てているスズコも5歳になっていてこの小説の中で「昭和ナツメロ」を歌ったりしている。舞台は前作同様山陰地方鳥取県米子。山陰のもうひとつの中核都市、島根県松江も物語上重要な場所になっている。前作ですでに症状が現れていたテツオの妻フジコのアルツハイマー型認知症はいよいよ重くなり、テツオとフジコの夫婦は医療看護設備の整った高齢者施設に入居する。この施設は末っ子にして長男のノブキが探して見つけたものだが、テツオとフジコは今でこそこの環境に満足しているものの、以前は多くの古い頭の日本人がそうであるように親の老後は長男夫婦が見てくれるものだと思っていた。アキ・シマザキの小説の屋台骨となっている日本の「しきたり」がここでも大いにものを言う。ノブキがこのしきたりを拒否したのは”時代の変化”だけではない「わけあり」ということが小説が進行するにしたがってわかっていく。
 シマザキ小説に欠かせない”日本の事情”の説明であるが、昭和期の地方都市の平均的長男夫婦のステロタイプとしてテツオとフジコが描かれる。結婚は見合いである。なぜ見合いかと言うと、長男であるゆえにその未来の夫婦は夫の両親との同居が前提となっており、あらかじめその条件を提示して見合い相手を探すというのが非常にプラグマティックである。そして見合いではその両親とのフィーリングの合致も確認できる。家父長的社会である日本における長男の結婚を失敗させないために、見合いは優れたプロセスである。ー そこに愛はあるか、この問題はそこでは顔を出さないようになっている。
 そしてフジコはテツオと結婚して、同居する義父母の世話をしながら、生まれてきた3人の子を育て、時間ができれば主婦パートに出て家計を助け、忙しく、ただ忙しく40数年テツオと共に生きてきた。義父母が亡くなり、子たちが独立し、さあ、今度は自分が楽をする番だと思っていたに違いない。テツオはテツオで会社員として、昭和期のサラリーマンとして、"男”として、忙しく、ただ忙しく、家のことはフジコに任せっぱなしで、ただ働いていた。これがフツーだったのだから。この一生懸命汗流してきた二人は、(夫の)両親を満足させ、子供たちをりっぱに育て、雨の日も晴れの日も寄り添って生きてきたのだが、夫婦ってフツーこういうもんでしょう、というスタンダードで漠然とした満足感しかなかったであろう。ここがシマザキ流のバイリンガル的で両世界的な視点では異議があるわけで、これをフランス語で読んだフランス語系読者たちには、この夫婦に決定的に欠落しているのは愛だということが明白なのである。日本ではフツーでしょ、が通用しない人たちに向かってシマザキは書いているのだから。そしてテツオが何も知らない間にフジコが精神的に病んでいくに至った大きな過去の重荷が、この今になって、高齢者施設という境遇になって、ものの短い間に一挙にテツオに明らかになるのである。
 夫婦として施設の一つ部屋で生活していたテツオとフジコだったが、さまざまな過去の記憶が抜け落ちていったフジコに、今度はテツオとの夫婦生活との記憶が欠落してしまう。フジコの頭の中では今はまだテツオと結婚しておらず、見合いして知り合い結婚前の交際をしていた時期にある。フジコは結婚前だからとテツオとの同室での生活を拒むが、施設所属の心療ヘルパーのはからいで、フジコとテツオのふたつのベッドの間に衝立を入れ、それぞれの独立ゾーンをつくることで「独身者」二人の同居が可能になった。夫婦ではなく婚約者同士の「テツオさん」「フジコさん」に戻り、会話も親密ぞんざいな tutoiement から、丁寧表現の vouvoiement で話されるようになる。日本語にそんなものあるかい?と思われようが、シマザキのバイリンガル世界ではありなのだ。そしてこの時から、心療ヘルパーの強い要請でフジコの症状悪化を防ぐために家族身内親しい知人たちすべてがフジコを40数年前の独身女性「フジコさん」として応対する集団的演技(フランス語で"cinéma"と言いたいところ)をするのである。子も孫も、おかあさん、おばあちゃんと呼ぶのをやめ「フジコさん」と呼ぶ。この集団演技の甲斐あって独身者フジコの日常は波風立たず過ぎていくように見えたが...。
 フジコの記憶は限定的に非常に鮮明なものもある。それは小学校の時に教わったセミに関する知識であり、セミを鳴き声で聞き分けその種類と特性を詳しく言うことができる。クマゼミ、ニーニーゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ...。そして(あとでフジコが子供の頃作詞作曲したものとわかる)こんな童謡のような歌を口ずさむ。
Sémi, sémi, sémi, où te caches-tu? セミ、セミ、セミ、どこに隠れているの?
Après tant d'années sous terre 何年も土の中にいたあと
Tu n'as que quelques semaines à l'air 数週間しか地上で生きられない
As-tu de la nostalgie pour ton long passé 暗闇の中で
Dans le noir ? おまえの長かった過去を思い出すの?
日本のセミは十数年土の中で幼虫として生き、地上で成虫となりわずか2週間ほどで死ぬ。これをフジコは自分の一生のメタファーのように歌っているということをテツオはなかなか気づかない。自分を滅して家庭と夫に尽くしてきた長く暗い日々のあとでフジコは短くても地上に生きることができるか。
 この高齢者施設で開かれた慰問コンサートに、アンズの娘スズコが出て懐かしい昭和メロディー(「とんがり帽子」「りんごの歌」「朝はどこから来るかしら」)を歌うが、スズコが自分の孫という記憶がなくなったフジコはその歌声に何の反応も示さない。しかし次に出演したアマチュア音楽家老夫婦のヴァイオリンとピアノ二重奏によるショパン夜想曲第20番が始まるやフジコが感極まって涙を流すのを見て、テツオはこの曲がフジコの記憶を刺激しているのに違いないと直感する。ここがテツオが40数年間一緒に暮らしていながら実はフジコのことを何も知らずにいたと自覚する第一歩なのだ。なにしろフジコがクラシック音楽の愛好家であったことすら知らなかったのだから。
 その直後、テレビのクラシック音楽番組に国際的に有名な指揮者であるミワが出演しているのを見たフジコは突然錯乱したかのように「この人から預かったお金を返さなければならない!」と言い出す。預かった30万円を返さなければ ー この時からフジコはこの妄想で頭がいっぱいになる。今のフジコにとっては「優しいフィアンセ」であるテツオであり、すべてに対して協力的であろうとするのだが、それは知り合って40数年目にして初めてフジコのことを知り理解することであった。そこから知っていくのは40数年間いかにテツオが"盲目”であったかを自覚させる驚くべきことばかりなのだった。
 ミワという有名音楽家をフジコは知っているのか、どんな関係だったのか、預かった30万円とは何の金か、それをフジコは信頼のおけるフィアンセであるテツオにあっさり語ってしまう。ミワと一夜を共にし、フジコは妊娠し、ミワはその中絶のために30万円をフジコに渡したが、フジコは中絶せずにその子を産んだので、30万円をミワに返す、と言うのである。この言葉だけではテツオはそれが錯乱した妄想であると思うこともできただろう。しかし、小説は複数の証言者によって、それが事実であったとテツオに確信させるところまで進んでいくのである...。
 その証言者たちは、そのことだけでなく、(テツオが全く想像できなかった)フジコが抱いていたテツオへの不満と不信(テツオの不倫の事実も知っていた)をもテツオに明らかにする。夫婦はもう古くからテツオの知らないところで崩壊しかけていた。息子のノブキですらこの両親の関係の危機を母から告白されて知っていた。知らないのはテツオひとりだったのだ。そのノブキが今や自分の子ではなく有名音楽家の息子である可能性が高いとテツオは知ったわけだが、ノブキはそのことは知らず、自らアマチュア音楽家(ギタリスト)として有名指揮者に近づいていく(ロドリーゴ『アランフェス協奏曲』をミワ指揮のオーケストラ、ノブキのギターソロで演奏することになる...)。

 上辺だけとればフツーに穏便で平和な夫婦だったと思っていたテツオは、内側で壊れて腐りかけていたのだとやっと状況を把握する。最大の被害者たるフジコは心のバランスを失いアルツハイマーに陥ることでここで生き延びている。衝撃と自責に打ち負かされそうになるがテツオはやり直したいと思う。フジコが今いる(と思っている)ところ、すなわち結婚前の初々しい関係だった頃からもう一度再スタートしたい、と。そのためには、フジコの病んだ観念にとりつかれている「30万円をミワに返すこと」をフジコと共に実行し、終わらせなければならない。お立ち会い、この小説にはマジックがありますよ。シマザキはこれを見事に成し遂げてしまうのですよ。
 
 セミは十数年地下にいて、その後2週間地上で成虫として生き、オスはハネを摩擦させて音を出し(”鳴く”のではない)、メスに求愛するのだが、すべてのオスとメスがその2週間に結ばれ子孫を作るというわけではない。長い地下の年月がすべて報われるわけではない。フジコは長い間待ち続けていたのに報われず心を病んでその生を終わらんとしているが、テツオはようやく長い眠りから覚めたようにそれを救おうとしている。アキ・シマザキの最新作にはおおいなる救いがある。そして音楽がふんだんに聞こえる小説でもある。

Aki Shimazaki "Sémi"
Actes Sud刊 2021年5月5日  160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)セミの鳴き声いろいろ

(↓)ライオネル・リッチー「セイユー・セミ」 
("Everybody sings together right now, come on!" )「セミ!!!

2021年5月4日火曜日

羚羊はどこへ行った - リズィー・メルシエ・デクルー頌

(2021年5月4日記)

「2019年ノスタルジー」がとても強い私である。コロナ禍のなかった時代というのはついこの間のことではなく、遠いかなたのことに思える。そしてたぶんあの頃の世界には二度と戻れない。コロナ・パンデミックのなかった春というのは今から2年前を振り返るしかない。あの2019年5月、私の記録するところでは私は3本の雑誌原稿を書き、2件のブログ記事を上げ、4本の映画を観て、5本のCDを買い、病院に3回通い、娘の運転で遠出を2回(ドーヴィル、シャルトル)していて、ハードディスクには84枚の写真を残している。こんなにたくさんのことがたったひと月(美しい5月)でできていたのだ。夢のようではないか。リズィー・メルシエ・デクルーの原稿のことは(とても苦労したので)よく覚えている。1週間ほどで書いたが、参考にしたシモン・クレール著『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(2019年3月刊)のおかげで知り得たリズィーの生涯のほぼ全容はめまいがするほど衝撃の連続だった。その生きざまを詩人アルチュール・ランボーに重ねたのは私だ。この記事をここに再録しながら(はるか昔のような)当時の興奮を懐かしむ、これが私の「2019年ノスタルジー」である。

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年6月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ランボーのように生き果てた女
リズィー・メルシエ・デクルーの軌跡


(In ラティーナ誌2019年6月号)


 

  20151020日(バタクラン・テロ襲撃事件の3週間前)、パリ、オランピア劇場のステージでパティ・スミスは沈痛な面持ちで目を潤ませながら「エレジー」(1975年彼女のファーストアルバム『ホーセズ』の最終曲)を歌い、葬送曲のようなピアノコードに乗せて「私たちの友人たちが今日ここにいないことが本当に悲しい」と語り、ゆっくりとそれらの名を読み上げていき、観衆はそのひとつひとつにオマージュの拍手喝采を捧げていった : ジェームス・マーシャル・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、ジョー・ストラマー、カート・コバーン、リズィー・メルシエ・デクルー。この最後の名が告げられた時、喝采は止み、重い沈黙が流れた。
 

 これはシモン・クレールによる評伝『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(20193月プレイリスト・ソサイアティー刊)の序章(p17)に書かれた一部を抄訳したものである。その中にあるオランピアに流れた沈黙というのは、今やフランスでもリズィー・メルシエ・デクルーというフランス女性アーチストはほとんど記憶されていないということ、そしてこの彗星のように夭折したロックヒーローたちと同列とは誰も思っていないということ。だがパティ・シミスはこのフランスの親しかった友のことを忘れはしない。二人を結びつけたもの、それは19世紀の少年詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)であった。20173月、パティ・スミスはその倉の中で少年ランボーが詩作をしていたと言われる北フランス・アルデンヌ地方の農家を買い取るほどのランボー崇拝者として知られる。(↓写真:パティー・スミスとリズィー 1976年)
 1975
年暮れ、パリ・レアールのレコード&雑貨ショップ「ハリー・カヴァー」で成功した金を元手に、ミッシェル・エステバンとリズィー・メルシエ・デクルーのカップルはニューヨークに移住し、ラモーンズ、テレヴィジョン、スーサイドなどNY初期パンクシーンの牙城になりつつあったクラブCBGBにも近い、ラファイエット通りに320平米のロフトを借り、その保証人として名を貸したエステバンの友人パティ・スミスがこのロフトをシェアする。すぐさま19歳リズィーと29歳パティはランボー詩と錬金術について語り合い、惹かれ合い、魅せられ合った。

 少年の面影もあったこの英語の下手なフランス娘は、ぼうぼうで木の葉が絡んでいるかのような野生的な髪を銀色に染め、スリムな皮パンツにアイロン糊の効いた男もののシャツを着て、NYローワー・イーストサイドのアーチストたちのミューズになっていく。パティ、リディア・ランチら女友だちだけではない。多くの男たちもリズィーに惹かれていった。その中で激しく恋仲になったのが『ブランク・ジェネレーション』(1977)のロッカー、リチャード・ヘルだった。二人が一緒に仲睦まじく写っている映像はNY初期パンクのドキュメンタリー映画『ザ・ブランク・ジェネレーション』(1976年、エイモス・ポー監督)で見ることができる。ランボーとジャン・ジュネの信奉者だったヘルは詩集や小説も多く発表するのだが、1999年発表の自伝的フィクション小説『とかげの目』の中でリズィーをモデルとしたフランス女性クリッサとの関係はこう描かれる。

「二人は一緒に本を読み、詩を作り、デッサンを描いた。ある夜二人はお互いに小便をかけあった。すべてのシーンは固定カメラショットのスローモーションのようだった。それはまさに画面に雨の降る白黒映画だった。この世の欲せられうるすべてのものは僕たち二人を結びつけたごく細密な繊維の中に凝縮していたし、二人はそれをボロボロになるまで使い切った。」
 この激しく短かったヘルの恋の残り火は、実はリズィーの最晩年まで燃え続けていたということは後で述べる。

 1956
12月、リズィー・メルシエ・デクルーは、身元不詳の父親(リズィーの晩年に関係を回復する)と愛情の乏しい母親の間にパリで生まれ、レ・アール地区に住む叔母の夫婦に預けられた。ルノー工場で働く夫ロジェと叔母モーリセットの間に子供がなかったので、実の子のように育てられるが、40平米しかないそのアパルトマンには浴室がなく台所で体を洗うような暮らしぶりだった。1960年フランス政府は「パリの胃袋」と言われたレ・アール市場を9年計画で南郊ランジスに移動する大工事を開始し、レ・アールは巨大なクレーター状の空洞と化していく。工事の騒音と行き交うトラックの間で少女時代を過ごしたリズィーは、詩と絵(ボザール校の夜学でデッサンを学んでいた)と音楽に夢中でリセには退屈しきっていた。レ・アールのティーンネイジャーたちはロックの流行に敏感で、町には古着屋やストリート・ファッションの店も軒を並べていた。1972年、マルク・ゼルマティ200811月号本連載「パンクの祖マルク・ゼルマティに聞く」参照)がレコードショップ「オープン・マーケット」開店、英米のインディー輸入盤でパリ中のロックフリークたちで賑わうようになる。それと競うように1973年、ミッシェル・エステバンが「ハリー・カヴァー」を開店、こちらはレコードもさることながらグッズ(Tシャツ、バッジ、アクセサリー
)で若者たちの人気をさらった。このレ・アールの2つのショップは互いに反目し合いながら、パリの初期パンク/ニュー・ウェイブ・シーンの温床となって、どちらの地下倉庫もロックバンドの練習場となって近所の苦情は絶えなかった。そんな町の中でリズィーは風変わりなファッションの野生的な少女として目立っていた。リズィーの住むアパルトマンの向かいに住んでいたエステバンは、長い期間この少女を観察していたが、ついに74年のある日少女に「うちの店で働いてみないか」と声をかける。二人の長年の共同作業はここから始まるのだが、美大出のショップ店主エステバンは既にその界隈のドンのような25歳、一方リズィーは17歳。ここから彼女は「ハリー・カヴァー」の運営(特にファッショングッズ)に関わり、店の発行するロックファンジンの編集者/ライターとしてアメリカのパンクシーンの紹介したりして、しだいに彼女自身もレ・アールの「顔」になっていった。

 何度も渡米してアメリカのシーンに詳しかったエステバンは、ニューヨーク特集のためにひとりで現地長期滞在を計画していたが、出発2ヶ月前にリズィーの妊娠が発覚。18歳だった彼女は中絶を決意。エステバンはその状態で若い愛人をパリに残すのはしのびないと、手術後に二人で渡米するよう計画を変更した。時は1975年暮れ。

 ここからリズィーはニューヨークでパティ・スミス、リディア・ランチ、リチャード・ヘル、ジャン=ミッシェル・バスキア等との出会いを通じて、いわゆる「ノー・ウェイヴ」と呼ばれるアンダーグラウンド・シーンのど真ん中に位置するようになる。音楽的にはフリー/ノイジー/アヴァンなDNA(アート・リンゼイ)、ジェームス・チャンス、リディア・ランチなどのポストパンクを括る呼称だが、商業的な「ニュー・ウェイヴ」に対するアンチとして全くもって非商業的な性格を称して「ノー・ウェイヴ」と呼ばれたと言われる。リズィーはまずパティ・スミスとリチャード・ヘルの後押しを得て、詩+写真+デッサンで構成された本『デジデラタ』(1977)を発表するが、それに飽き足らず勢いで買ってしまったギター(フェンダー・ジャズマスターモデル)の虜になり自己流で弾いていくうちに斬新なアイデアが音になっていった。遅れてニューヨーク入りしたディディエ・エステバン(ミッシェルの弟、ギタリスト)とデュオを組み、絡み合う二台のノイジーギター、プリミティヴなパーカッション、そしてリズィーの呪文・擬音・短詩・呻きのヴォカリーズが介入するアヴァンな音楽が生まれ、1978年アート・ギャラリー「ザ・キッチン」で初ギグが行われた。同年7月このカオス的バンドはスタジオ入りし、1分程度の曲を6曲録音し、EP化した。このバンドは虐殺された女性革命家ローザ・ルクセンブルクと、詩人ランボーゆかりのアフリカの地イエメンを合わせて「ローザ・イエメン」と名乗った。この誰も買うわけのないEPレコードをレーベル創立第一作としてリリースしたのがZEレコーズだったのである。

  イラク系英人富豪実業家のマイケル・ズィカ(Zikha)とミッシェル・エステバン(Esteban)の二人によってニューヨークで設立され、二人の頭文字
ZEを合わせてZEレコーズと名付けられたこの独立レーベルは、非商業生を標榜しながらもスーサイド(アラン・ヴェガ)、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ、ジェームス・チャンス、ウォズ(ノット・ウォズ)などで成功し、当時のインディーシーンで最も注目されるレーベルとなっていく。誰も気を止めなかった第一作ローザ・イエメンに続いて、1979年リズィー・メルシエ・デクルー名義のファーストアルバム『プレス・カラー』が制作され、ミュータント・ディスコ(ZE周辺のノーウェイヴ寄りディスコ作品群)の典型例とされる「ファイアー」(アーサー・ブラウン68年ヒット曲のカヴァー)を含み、今日までリズィーで最も評価の高いアルバムとなっているが、当時はほとんど売れていない。その印象的なアルバムジャケットの横顔は、エステバンの発案で長かった髪をハサミで野生的に切り落とし、ランボーを思わせる散切り頭の少年風貌(ヌード)を、ホテルの部屋の白壁にスライド映写機の明かりで照らして陰影を強調した白黒写真。23歳。リズィーの最も世に知られたポートレイトである。

 最初の恋人だったミッシェル・エステバンが目の前で次から次へ恋人を変えていくリズィーを見ながらも、彼女の制作のバックアップを惜しまなかったのは、出会った時から少女の潜在的才能を確信していたからであり、遅かれ早かれ世界的に認知されるアーチストになると疑わなかったからだ。順風満帆だったZEレコーズは、1980年、カリブ海ナッソー(バハマ)のコンパス・ポイント・スタジオ(アイランド・レコーズ社主クリス・ブラックウェルが77年に建設した当時最もハイプな録音スタジオ)にリズィーを送り込み、アフリカとカリブのビート音楽を取り込んだ前衛的ワールド・ファンキーなアルバム『マンボ・ナッソー』(ベナン出身のウォーリー・バダルーがプロデュース)を制作させた。
 後年「すべてにおいて早すぎた」と評される彼女の音楽であるが、ほとんど無視されたリズィーの2枚のアルバムの後、ZEレコーズはズィカとエステバンの分裂により活動休止を余儀なくされる。1983年エステバンは(数少ないリズィーの音楽の理解者)仏CBS社長アラン・レヴィに助けを求め、南アフリカのミュージシャンたちと共同でアルバムを作りたいというリズィーの企画を通させる。歴史的にはポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』(1986)の3年前、アパルトヘイト撤廃(1994年)の9年前、ガチガチの人種差別政策下のヨハネスブルグの象徴的黒人居住区ソウェトで西欧白人女性ミュージシャンが現地黒人ミュージシャンたちと一緒に録音スタジオに入ることなど全く考えられなかった時代である。そのアフリカ行きを、リズィーは崇拝する詩人ランボーと同じルート(エジプトからナイル川に沿い、アスワン、スーダン、エチオピアに至る)を経由して20日かけて南下するという冒険の資金までCBSレコードに負担させたのである。その投資の甲斐あり、ズールー・ジャイヴとムバカンガとリズィーの歌唱(初めて彼女がメロディーを歌った!)の見事なミクスチャーアルバム『リズィー・メルシエ・デクルー』(別称『ズールー・ロック』)は、リズィー初のヒットアルバムとなり、シングル
Mais où sont passées les gazelles?”(羚羊はどこへ行った?)チャート上位に昇った。

 悲劇はここからで、このCBSのアルバムの曲目作者クレジットがかなり曖昧であり、南アフリカ既存楽曲にリズィーが詞をつけたものも彼女が作者ととられる表記だったため、音楽メディアはこれを「盗作」や「第三世界音楽の文化収奪」であると一斉に攻撃したのである。当時のワールドミュージックの中心的推進者だったラジオ・ノヴァは、かのヒットシングルはマハラティーニとマホテラ・クイーンズの歌「Kazet(カゼット)」とそっくりである(元歌が同じなので当然なのだが)とリズィー盗作キャンペーンを張った。リズィーの一時的な栄光はたちまちにして「盗作者」「文化収奪者」汚名に転落し、これはその後もずっとついて回るのである。

 早すぎたワールドビートのパイオニア、リズィー・メルシエ・デクルーは1986年ブラジル録音の『ワン・フォー・ザ・ソウル』(ほとんど演奏になっていないチェット・ベイカーと共演)、1988年にロンドン録音の『サスペンス』(NY時代の友人マーズのマーク・カニンガム制作)と2枚のアルバムを発表するが、途中で長年の盟友ミッシェル・エステバンにもサジを投げられ、音楽シーンから姿を消していく。(↓リズィーとチェット・ベイカー「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」1986年)
 
  一般に知られることのなかったその後の隠遁生活に関しては前掲のシモン・クレール著の評伝本によって明らかにされ、自動車も免許もない状態で中央フランスの人里離れた寒村に籠り、無一文で絵画制作と庭園造りにいそしんでいたことや、グアドループ島で妻子ある男の隠れ愛人としてロビンソン・クルーソーのような生活をしていたことがわかった。

 2003
年、パリで直腸ガンと診断されながらあらゆる治療を拒み衰弱していき、パリ14区の病室で夢を見ていた。その夢とは終生の場所としてコルシカ島の海辺の町サン・フロランで生き絶えること。この最晩年のリズィーの前に最初期のNYの恋人リチャード・ヘルが現れ、私財を売った金5000ドルをリズィーに差し出し、コルシカ行きの夢を叶えてやるのである。47歳、2004420日午前5時、サン・フロランでリズィーは息絶える。故人の遺志で、その遺体は113年前にランボーが灰にされたのと同じマルセイユの火葬場で焼かれ、遺灰はコルシカの海に撒かれた。私はこう思う:19世紀の彗星詩人アルチュール・ランボーは20世紀に女に生まれ変わり、同じように夢破れ、人知れず21
世紀の夜明けに死んでいった、その名はリズィー・メルシエ・デクルー。

(ラティーナ誌2019年6月号 - 向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓リズィー・メルシエ・デクルー「ハード・ボイルド・ベイブ」from アルバム『プレス・カラー』1979年)