アキ・シマザキ『スズラン』
モンレアル(カナダ)在のフランス語作家アキ・シマザキの第16作めにして、新しい(4つめの)パンタロジー(五連作)の第一話。この作家については過去当ブログで6件の記事で作品紹介しているので、そちらも参照してください。
私はこれまで全作品つきあってきているが、第一パンタロジー『秘密の重み』で大きなスケールで戦争、原爆、朝鮮、キリスト教など20世紀日本が抱えて生きた(欧米の読者からは見えにくい)歴史に生身で関与した複数の主人公たちを描くことができていた、それがシマザキの本領ではないかと思っていた。第二、第三のパンタロジーに進むにつれて、それは現代日本に根強く残る旧時代の(家父長的)モラルだったり、会社組織のきまりごとだったり、女性たちのポジションだったり、男性原理の風俗だったり、日本に住む人々に重くのしかかる公的圧力だったり... そういう”個"対"社会”の軋轢が見えてくる作品になっていく。これらの要素は物語の土台であり、(欧米読者にとっての)日本という土壌の特異さそのものである。シマザキはこの日本というエキゾティスムを武器にしていて、欧米人がおそらく(翻訳の)日本文学では把握できないであろうことがらをガイド本のように解説しているところがある。この日本解題が欧米人には貴重であり、知られざる日本を見る思いがするのであろうが、彼女の作品群が(第1作『椿』を除いて)日本語化されていないのは、日本人にはその解題部分が不要であるというあらかじめの拒否感からなのではないだろうか。言われなくてもいい言わずもがなのことを言われているような不快感を呼び起こしてしまうかもしれない。こういうところまでおもんぱかってしまえるのが、われわれバイリンガル人の密かな愉しみであり、日本語だけの人たちはおおいに嫉妬してほしい(ふっふっふ...)。シマザキは仏語環境における初の日仏バイリンガル視点の文学を創造したのだよ、お立ち会い。
さて、小説はスマホが幅をきかせている21世紀的現代の日本が舞台であり、主要登場人物のひとりユージは東日本大震災の津波で両親を失っているという設定なので、2020年に近い現在と仮定できる。ところは山陰地方、鳥取、美しい大山(だいせん)を背景に海辺にはデートコースに最適な弓ヶ浜のある静かな地方都市米子(よなご)が舞台。主人公アンズ(漢字では”杏子”と綴る)は祖父から石窯を継いだ石窯焼きの陶芸家であり、主に生花用の花器を作っていて、陶芸展で多くの賞を得ていて、アトリエ/ブティック/陶芸教室も持つという、若くしてそこそこ名のある芸術家である。23歳で結婚して男の子(トール)をもうけるが、夫婦生活はうまく行かず、離婚して息子をひとりで育てている(毎週末に前夫が子供を預かるという日本では一般的ではないであろう離婚後共同親権のケース)。匠のわざに秀でたアーチストであるが、その芸の外に出ると性格は控えめで、容姿も"並”でしかないという自己評価。そのアンズに、東京で華々しい生活(外資系貿易会社のエリート職、英語堪能、海外出張多し)を謳歌している姉、キョーコ(漢字では"京子”)がいて、美貌を誇り、都会好き、派手好き、パーティー好き、男好きときている。幼い頃から成績も優秀で、美術以外点数のあまり良くない妹をよく助け、常に妹に対して指導的な態度をとっていたが、姉とは対照的に内気で控えめな妹は姉を頼り、姉を好いていた。小説はこの姉妹の関係のラジカルな変化が進行の軸である。
この姉妹にはノブキ(漢字で"信樹”)という弟がいるが、この小説では全く出る幕も存在感もない。おそらくシマザキのこの新パンタロジーの何作めかで主役を取るのかもしれない。老いた父と母は米子で暮らしているが、母親に認知症の傾向が始まっているため、それまで住んでいた家を借家にして(行く行くはアンズとトールに住まわせることにしている)二人は老後施設に入る引越しの準備中である。末のノブキは結婚して家庭を持ち子二人を得たが、その姉二人はいい歳なのに安定していない、というのがフツーの日本のお父さんお母さんの心配ごとのように書かれている。母親はとりわけキョーコのことが気がかりでしかたがない。東京に出て世界を股にかけて活躍する派手なキャリアウーマンではあるが、母の望みは良い人と結婚して幸せな家庭を、というステロタイプさである。姉を良く知るアンズは、選び放題に男をつくっては捨ててきたキョーコが(30代後半になったからと言って)ひとりの男に落ち着くことなど考えづらい。ところがびっくり仰天、キョーコは「合コン」(シマザキ小説なので、これがどんなものかは詳しく説明されている)でフィアンセを見つけたので、次のゴールデンウィーク(これもシマザキ注釈あり)に米子に連れて行き家族に紹介する、と言うのである。
アンズの側では高校同窓会があり、幹事が同期にアンズと同じような離婚者(女も男も)が増えていて、離婚者合コンのノリで来てみれば、と普段出席しないアンズを強引に誘う。そこにアンズの初恋の相手アキラ・Z(シマザキ小説にあっては、登場人物の名はファーストネームだったり、ファミリーネームだったり、イニシャルアルファベットひと文字だったり、同ふた文字だったり、どういう規則になっているのだか不明だが、このファーストネーム+イニシャル "アキラ・Z”のパターンはおそらく初めて。おそらくこのパンタロジーの重要人物かもしれない)がやはり離婚独身者として出席し、アンズの心が少し揺れる。この高校生の時の初恋は、眉目秀麗・スポーツ万能・成績優秀で女子たちのあこがれの的であったアキラ・Zが、文化祭に出品したアンズの陶芸作品を"詩的表現”で称賛したことがきっかけで(ひいてはそれがきっかけで将来陶芸家になってしまうのだが)、二人は弓ヶ浜でプルミエ・ベゼを交わすほど盛り上がるのだが、アキラ・Zに好きな女性ができたと告白され、あっけなく破局する。その20年後に、アンズはその時アキラ・Zがなびいていった女性というのがなんと姉キョーコであったということを知る。
さらに離婚した元夫のR(トールの父)の経営していた印刷会社が倒産する。このRはアンズと出会った頃はスポーツ好き好青年で堅実な公務員職についていたが、トールが3歳の時、その父親が死んで結構な額の遺産が入ったのを機に実業家に転身、滑り出し好調で羽振りがよくなり経営そっちのけで遊びまわるようになる。隠してはいたが遠距離にいる愛人と逢瀬を重ねていたのは明らか。トールが分別がつくようになり、自分も陶芸家としてなんとかやっていけるようになり、アンズは未練もなくこの愛情のない夫婦生活を終わらせ別居する。離婚から数年経った今になって、アンズはその時夫Rが会いに行っていた遠距離の愛人というのがなんと姉キョーコであったことを知る。すべてを告白し、お互いを知り尽くし、最高に頼りにしていたはずの姉キョーコが...。
さて、ここで本作のタイトルである「スズラン」について。これはアンズが次の陶芸個展用に焼いていた一連の花器のうち、最高の自信作で個展でも非売品にして自分のためにとっておこうと思っていた作品の題として、その作品のインスピレーション源であったすずらんの花にしたというわけ。これもシマザキならではのパッセージで、アンズがこの作品名を漢字("鈴蘭")にしようか、ひらがな("すずらん")にしようか、カタカナ("スズラン")にしようか、という非日本語人にはミステリアスな悩みを開陳し、やっぱりカタカナにしたわ、と。
j'ai finalement choisi le katakana, simple et vigoureux, parfait pour cette plante qui se multiple à une vitesse suprenante.カタカナにはシンプルさと力強さがある。なるほど。シマザキからは教わることが多い。そしてアンズはスズランを想いをはせて、こんな五行詩をしたためる。
(最終的に私はこの驚くべき早さで繁殖する植物に完璧に合っているシンプルさと力強さを兼ね合わせているということで"カタカナ”を選ぶことにした)(超訳:カストール爺)
Tu m'appelles sans voix あなたは音もなく私に呼びかけるJoli, non? (註:"ずっとずっと”という訳語は、荒井由実作「まちぶせ」からの援用 by カストール爺)ー しかしそんなスズランの別の面をアンズは自分の母親から知らされることになる。まず、姉キョーコの誕生日は5月1日であり、フランスではすずらん祭りの日、幸運をもたらすというこの花を愛する人に送る日、この花はこの日に生まれたキョーコの花。教養のある母はこの花が外国語で"lily of valley"、"muguet"、"amourette"などと呼ばれている、とウンチクを垂れる。ん?3番目の言葉を私は知らない、とアンズは辞書を引いて調べる。するとこの可憐なスズランを意味する"amourette"が、「浮気」、「不倫」、(複数形で)「動物の睾丸」などの意味もあるのを知り心を暗くする。睾丸はともかく、アヴァンチュール、フラート、火遊び、ハント、お戯れ... などと連鎖的に思い浮かべると、これは私のイメージするスズランとは違う、が、しかし、キョーコのイメージと合致すると驚くのである。
Comme une clochette sans battant 打ち棒のない小鐘のように
J'entends tout, Suzuran ! 私にはすべて聞こえている、スズランよ!
Je t'aime depuis toujours ずっとずっと私はあなたが好きだった
Depuis avant ma naissance 私が生まれる前からずっとずっと
さらに、初対面のキョーコのフィアンセで生物学専攻の製薬会社マンのユージから、スズランには猛毒があると初めて知らされ、この花は私ではない、キョーコである、といよいよ確信していくのだが...。
長い間複数の男たちとの悦楽的関係を興じてきたキョーコがその趣味から足を洗って、合コンで知り合ったというフィアンセのユージを連れて、ゴールデンウィークに米子に行き家族にそのフィアンセを紹介するという。5月1日はキョーコの誕生日であり、家族パーティーが用意されている。暴かれたキョーコの真の姿を知ったアンズはもはや元どおりの姉妹関係を保てないと思っている、が、そこに現れた(その時点での)未来の義兄たるユージは...。
このゴールデンウィーク滞在中(キョーコは急用ありで単身東京に帰ってしまう)、アンズの陶芸に魅せられ、全作品を観賞し、息子トールとも仲良く遊び、山中にある窯まで行ってくべる薪を割るなどアンズの窯入れの助手として汗を流す。ユージと同じ屋根の下で3夜を過ごしたアンズは、ユージの体から漂ってくる匂いに強烈に反応してしまう。今日びの日本語ではこれを「フェロモン」と称するのだろうが、シマザキ小説にはこんな言葉は出てこない。このフェロモンの魔力に、アンズはその夜ユージとの交情の夢を見てしまい、それまで一度も体感したことのなかった性的オーガズムに身をよじらせるのである。ここ重要。それまでの人生で知ることのなかった性的絶頂を夢で知るアンズ。一体いつの時代の文学なのさ!
案の定というか、見えすぎるシナリオ進行で、アンズはユージへの恋慕でどうしようもなくなり、ユージはアンズのアートに心動かされ(↑上紹介の)かの詩を目にするや、出会う前から知っていた運命的な出会いを直感してしまう。これはアンズにしてみれば、それまで愛した男たちを尽くキョーコに奪われていた(と後で知った)アンズが、初めてキョーコから恋人を奪うという復讐の構図になるわけだ。果たしてそれまで完璧に調和していた姉妹の関係はもろくも崩れて、ひとりの男ユージをめぐって戦争状態に入っていくのか? アンズとユージはお互いの愛を宣告しあい、ユージはキョーコにもはや結婚の意志はないと告げ、混沌の終盤、小説は全く違う(まあ読めないでもないが)カタストロフを用意する...。
スズランはキョーコではなくアンズであった。可憐な姿ながら強靭な植物としてのスズランであった。これがアンズの世界。イッツァ・アンズアンズアンズ・ワールド。わぉっ! ー だがこれでいいのか? シマザキの小説世界全体に言える弱点である薄っぺらい人物像、現代日本人のステロタイプな描かれ方(見合い/合コンでしか相手を探せない日本男女、家庭子孫の安泰を願う旧世代人、既得権のように当たり前にマッチョになる男たち、都会/派手が解放された女性たちの象徴、地方都市人ののどかさと保守性...)、フランス語圏人はそのエキゾティスムだけで読めてしまうのではないか。日本人にはこれは出来の悪いテレビドラマの脚本と思われてもしかたないのではないか。日本人の仏語学習者向き、これは中級者にはすらすら読めるし、言いたいことよく理解できてうれしいと思う。だが、文学ってそういうもんじゃないっしょ。第一パンタロジー『秘密の重み』で展開できた壮大さ、重厚さをシマザキは取り戻すことができるのだろうか。次作も読みますけどね、ほんと「頼むわぁ」と言いたいのが正直なところ。
カストール爺の採点:★☆☆☆☆
Aki Shimazaki "Suzuran"
Actes Sud 刊 2020年10月、170ページ、15ユーロ
(↓)小説とは関係ないが、ダニエル・ダリュー「すずらんの咲く頃 Le Temps du Muguet」(1957年)(元歌はロシア大衆歌謡「モスクワ郊外の夕べ」)
(↓)同じ曲。ザ・ピーナッツ「モスコーの夜はふけて」(1962年)
作詞音羽たかしで歌い出しが「スズランの花あわく 匂う街角に」と。
(”YouTubeで見る”をクリックしてください)
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