2020年10月26日月曜日

傷だらけのトゥールーズ

Magyd Cherfi "La Part Du Sarrasin"
マジッド・シェルフィ『サラセンの領分』

元ゼブダのリーダー、マジッド・シェルフィの4冊めの著作であり、これまでで最も分厚く、430ページの大著である。前作『俺のゴール人的部分(Ma Part de Gaulois)』(2016年)は、生まれ育ったトゥールーズのシテ(低家賃社会住宅地区)始まって以来初めてバカロレア(大学入学資格試験)に合格するという快挙をめぐる自伝的小説で、その年のゴンクール賞の第一次選考作品のひとつに選ばれるほど高い評価を受け、ベストセラーにもなった。そのあと自主制作(クラウドファウンディング)でソロアルバム『Catégorie Reine (女王級)』(2017年)を発表して、ソロでコンサートツアーも行っている。ゼブダ時代ほどの派手さはないものの、ちゃんと活動を続けているし、何よりも昨今は「作家」の顔がメインのような印象である。
 2016 - 17年のことなのに、なぜ私はマジッドの小説もアルバムのこともどこにも記事を残していなかったのだろう?このブログにすら何の痕跡もない。これは(自分の)病気のせいにしたらいけないのだけど、たぶんそうなのだと思う。小説『俺のゴール人的部分』は、前2作に比べて非常に読みづらかった記憶がある。それは語彙にしても文体にしてもモーパッサン/バルザック/ユゴー文学からフランス語表現を身につけた少年マジッドがその生きた現場を疾走感持って書き綴るという”半古典的”と言える作品だったからだろう。ゼブダの歌詞とは違う世界なのだということは承知していても、このロマネスクな「文学寄り」(ゴンクール賞候補)はたいへん疲れた。それを覚悟で今度の作品に立ち向かったのだが、前作(260ページ)より170ページも多い大作である。何度かめげながら約1ヶ月もかけて読み終えた。
 マジッドはあるインタヴューで、自分は1962年にトゥールーズで生まれたが、フランスに入ったのは14歳、つまりリセの時からだ、と比喩的に語っている。その前までトゥールーズにいながら、彼が生まれ育ったシテの世界はまるでフランスではなかったのだ。音楽(ピストルズ、クラッシュ)を知り、(フランス)文学にどっぷり浸かり、少年はアルジェリア移民の父と母とぶつかり合いながら、徐々に「フランス人化」していく。シテという飛地したマグレブのような宗教的/家父長制的な重い圧力を当たり前の環境としてローティーン期までを過ごしたが、公立リセで一挙に"フランス”に視野を拡げられ、そのクライマックスとしてシテの子たちが誰一人としてパスしたことがなかったバカロレアに合格するのである。一体バカロレアなど何の役に立つのかと言っていたシテの大人たちが、この快挙にシテを上げての大祝宴を用意する。だがこのシテ的権威による手柄の横取りを拒否して、マジッドは大学に行かずに家出し、リセの”白人”ダチと始めたロックバンドに未来を賭ける。
 新小説は1983年、「ブールの大行進 (Marche des beurs)」 と呼ばれたマブレブ移民2世たちの人種差別抗議/平等権利要求をスローガンにした全国からパリに向かう徒歩の大行進(1983年10月15日から12月3日)という社会的事件から始まる。極右FNの勢力が台頭し、いわゆる”郊外”でリンチや警察暴力でマグレブ系と黒人系の若者たちが死傷する事件が相次いだことに対して立ち上がり、リヨン郊外の若者たちが始めたパリまでの抗議行進運動に全国の移民二世たちが合流していったもの。この小説ではそれに参加するトゥールーズのアソシアシオン(非営利市民団体)の有志たちの内部での論議が描かれていて、大規模で広範囲の若者たちに問題を共有してもらう大運動に、という者は少数派で、既成政党や左翼党派および他人種(すなわちユダヤ人や黒人)系運動との合流を避けて、ブール(beursすなわちアラブ系)だけでやりたいという排外的な主張をする者が多い。すでにアソシアシオンの中で重要な役割を果たしているマッジ(マジッドの愛称、この小説でずっとこの呼び名が使われているのは、前作で多くの名前を本名で表記した結果、リンチや脅迫が相次いだためだとテレビインタヴューで言っていた。本作では全部名前が変えてある)は、微妙な立場で半分"フランス人”の側にあり、アソシアシオンも”白人”ボランティア(女性)たちに支えられている部分がある。シテの子供/若者たちを学業補習やアート活動で支援しているアソシアシオンの仕事は、いわば"フランス同化”を目的としているところが大きい。シテからフランスへの架け橋のようなものだ。この子たちが"白人”の子たちに等しくこの社会で生きられる機会を得させるために働くこと、それはおのずと政治的であり、立ちはだかる障壁は多い。
 マッジは今や生まれ育ったシテを出て(家出して)、トゥールーズ市中のアパルトマンにアフリカ系黒人の青年アブドゥとルームシェアして生きている。これだけでシテの口の悪い連中はマッジを裏切り者と見たりする。マッジはそこから元リセ同級の(音楽を習い楽器が買えるほどの階級の)”白人”坊ちゃんたち4人と組んだロックバンドのヴォーカリストとして練習に行ったり、ライトバンに乗り込みツアーに出たりする。バンドの評判は悪くなく、あと少しでレコード会社と契約できるかな、というレベルであるが、マッジを当惑させるのはその観客たちのほとんどが"白人”少年少女たちであったということ。マッジが歌詞にこめたメッセージは"郊外”の子たちに向けられているのに、目の前にはロック好きのクールな子たちがいる。ロックは浮いている。ラップがどんどん郊外に定着していくのに、ロックはシテから疎まれている。マッジが悪戦苦闘して"郊外”のアイデンティティーを取り込んだロックを実現していくストーリーはこの小説の中にはない。加えてこの小説は忠実な「ゼブダ史」は全く描いておらず、ムースとハキムに相当する登場人物もない。ただ喰えない下積み時代のマッジとバンドのロックンロールなひたむきさはわかる。その音楽で固く結ばれた5人は、あるコンサートの演奏中、極右スキンヘッズの一団の攻撃を受け、その標的は”アラブ”たるマッジひとりであった。狙い撃ちがわかっているのに他のメンバーは演奏をやめなかった、とひとりボロボロになったマッジはこのバンドの固かった絆を疑うようになり、2年間にわたってバンド活動は中断する。
 このようにマッジはフランス人社会とシテ流儀マグレブ社会の境を越えて両方を行き来できる自由な人間を目指していたのだが、"フランス性”と”シテ性”のいずれかが強くなると、どちらからもはじかれてしまう。バンドでなど到底喰えないからバイトするしかないのだが、ハンバーガー屋では店長の指示で本名を隠し「クリス」と源氏名を使うことを強要され、たまたま店に入ってきたシテの悪友たちにクリスと呼ばれているのを聞かれ嘲笑の的になる、というエピソードもある。バンドメンバーの誕生祝いにディスコクラブに入ろうとして、マッジとアブドゥだけがガードマンから入場を断られるという話も。
 この両世界の架け橋になろうとしているのはマッジだけではない。この小説の第二の主人公的に登場するのがマッジのリセ時代からの親友で、現役理系大学生で優男白人のピエリックである。数学を得意とする頭脳を生かして、アソシアシオンでシテの子たちの算数/数学の補習を担当している。その情熱と授業の分かりやすさで子供たちに信望が厚い。そのおかげで見る見る成績を伸ばしているクリモという子がいる。クリモにはムーラードという兄がいて、これがシテの不良番長格の男。兄が弟にアソシアシオンでやっていることや学業成績など何の役にも立たないと補習行きを禁止しようとするのを、優男ピエリックがおまえの弟の成績をトップクラスにしてやると挑戦的に豪語し、以来不良番長はピエリックに一目置くようになっている。こんなふうにピエリックは何ものも恐れない。トゥールーズ山の手育ちの優等生がシテというジャングルに降りてきて、この空間を第二の故郷のように愛し、子供たちに熱意を持ってその知を授ける。この美しい話はケチのつけようがないのであるが、往々にして"白人”が”シテ人”に向かっていくという方向と"シテ人”が”白人"に向かうことの難しさの度合いが違うのは言うまでもない。だがこの聖人のような優男はマッジとは真の"戦友”なのである。そしてこの二人は同じひとつの敵によって、瀕死の重傷を負わされ、病院に担ぎ込まれる。
 それは恋が原因なのである。このシテの世界のマグレブ伝統が色濃い部分では、女性たちが暴力的に服従させられる。ビージャという娘がいて、その兄ブラヒムはその世界のどうしようもない乱暴者にして地下経済の羽振りの良さで勢力を持っている大物でマッジが「宿敵」とみなしている男だが、その妹がアソシアシオンに近付いたり、見聞を広めようと本を読もうとするだけで兄は妹に顔が変形するまでの乱暴を加える。前作でマジッドは(密かに恋心を抱いていた)ビージャに自由になってほしいと本を与えるのだが、良い結末が訪れるわけがない。その数年後ピエリックとビージャが恋に落ちるのである。それがナイーヴなのか無鉄砲なのか、前述のように何ものも恐れないピエリックの本領なのだ。傷害事件で何度も牢屋に入ったことのあるブラヒムは、自ら手下を引き連れて(婚前の妹を手込めにした)ピエリック(とマッジ)を襲撃し、二人を半殺しの目に合わせ、自分は簡単に警察に捕まり平気で牢屋に入るのである。ここで重要なのは、ビージャとピエリックの関係をブラヒムに密告した卑劣漢がいる、ということ、それがなんとルームシェアメイトであるアフリカ系黒人のアブドゥだったのである。アブドゥはマッジの瀕死の重傷にいたたまれなくなってそれを告白したのだが、アブドゥが許せないほど堪えられなかったのはピエリックではなく、ムスリムの娘にあるまじきビージャの尻軽さであり、トゥールーズの中心街で堂々と(白人男女のように)イチャイチャする姿に激昂し...。これがこの小説のテーマ「サラセンの領分」なのである。"sarrasin"(サラザンと読む)とは辞書にこう定義されている。
Musulman d'Orient, d'Afrique ou d'Espagne, au Moyen Âge.
中世における東方、アフリカ、スペインのイスラム教徒
つまり中世から綿々と続き、頭にカビが生えたような頑迷なアラブ人たちのことである。
それは若くおしゃれなシティーボーイのアブドゥの頭にも道徳観として根を張っていた。
 そして主人公マッジにもである。童貞だったマッジは、ロックンロールバンドのコンサート打ち上げの乱痴気騒ぎの中でも(バンド仲間にからかわれながらも)どうしても一線を越えられない。そんなマッジがこの小説でカウタールと名乗る娘と運命的な出会いを果たすのだが、この花売りの娘もマグレブからやってきた厳格な家族の中にあり、父親は”しつけ”のためなら娘を叩きのめすことなど当たり前だと思っている。予め悲恋であるこの関係を断念するか、父親と対決して娘を奪い取ってどこかへ逃げるか...。ここでマッジにも「サラセンの領分」たる、あの忌々しい旧アラブ的道徳観がじわじわ侵食してきて、なんとプラトニックな関係を続け、1986年、彼のバンドがメジャーレコード会社ユニバーサルと契約した時、その父親に結婚の承諾を求めるのである...。なんと保守的な。

 この小説でマッジは何度も袋叩きにされ、傷だらけである。重傷を負った時、リハビリでマッジは育ったシテの実家に戻り、勘当された母親から厚い看護を受け和解する。父親も口では許していないが半ば和解したようなもの。イスラム的宗教心は一度も持ったことのないマッジはロックや文学を通して"フランス”に”解放”されたものの、サラセンの領分を持って生まれた人間であることを改めて自覚する。それがゼブダ的音楽世界として昇華して、全フランスの若者たちを熱狂させるのは次作の上での話かもしれないし、そうならないかもしれない。
 この作品の魅力は、マッジというひとりの魂の記録になることなく、いつも仲間がいて複数の人間たちが活き活きとしていること。アソシアシオンでの議論、味のあるシテの年寄りたちと女たち、子供たち、社会運動の中にいるモモとサリムという論客、旧知の不良たち、そしてマッジに最も近いバンドの面々...。しかしこの小説で最も魅力的な人物は秀才優男のピエリックであろう。この男のその後も気になるところである。

カストール爺の採点:★★★☆☆

Magyd Cherfi "La Part Du Sarrasin"
Actes Sud刊 2020年8月 430ページ 22ユーロ


(↓)マジッド・シェルフィ『サラセンの領分』について語るプロモ動画

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