2023年4月28日金曜日

エリゼのために

 
Marc Dugain "Tsunami"
マルク・デュガン『津波』


3月末発売以来書店ベストセラー1位を続けている近未来”大統領”小説。折しもフランスは(国民の6割以上が反対する)年金法改正を強行採択(49-3)で可決させた政府と大統領に対する大規模な抗議活動は続行していて、大統領および政府首脳の地方訪問先では鍋釜食器を叩く大騒音で出迎えるという新戦術が登場している。過半数の国民が反対の意思を明らかにしている”改革”を断行しようとする大統領、この小説の主人公の近未来大統領も全く同じ姿勢なのだ。既成政界に属さなかったシンデレラボーイ(年齢40代)というところも現大統領マクロンと共通する。いわゆる”官僚”よりも”コンサル”が幅を利かすという取り巻き環境も。
  小説は一人称で書かれ、名前は一度も登場しないが「私」がフランス共和国大統領である。時代はロシアによるウクライナ侵攻がどういう形で収拾されたか(あるいはされていないか)わからないが生々しい記憶として残っている近未来。決選投票でポピュリスト候補を破って当選したが、続く国政選挙で大統領派が絶対多数議席を獲得していない(今のマクロンと同じ)。この男は「政治畑」の人間ではなかった。なぜ彼が大統領に当選できたのかは、投票棄権率の高さ、全年齢層での既成政党離れ、(ウクライナの教訓から)ポピュリストの掲げる欧州離反→欧州崩壊はやはり食い止めねばという(二者択一ならば欧州派をという)非積極的な選択票などが要因であった。そして彼が最優先としたのは、最緊急を要する地球温暖化対策すなわちCO2排出をいかに抑えるかという課題のラジカルな解決案であり、当選後緊急に法制化するという公約であった。それは、産業レベルでのドラスティックなCO2排出制限だけでは全く不十分であり、国民ひとりひとりの個人レベルでの排出制限努力が不可欠であるとして、個人の消費する電力、摂取する食料、日々の交通手段、電話パソコンなどの使用時間、体力消費カロリーなどのデータをすべて国が把握し、そこから算出してCO2排出制限に貢献している国民にはボーナスを、またその努力の足りない国民には指導(さらには罰金も)を、という法案なのである。

(↓)出版社アルバン・ミッシェル制作の本書プロモーションヴィデオ

 マクロン2期目当選(2022年)の時によく言われたことだが、第一次投票で得票率28%、第二次投票で58%ということは、第一次の時に72%の国民が信任していないということで、第二次の時にル・ペンよりましだという理由でマクロンを信任していない72%の人々から30%がしかたなく投票したという解釈ができる。58%全体がマクロンを待望したわけではない、という解釈。それが故に大統領選に続く国政選挙で絶対多数議席が取れなかった。この小説の大統領も同じ状況。そしてマクロンは1期目で実現できなかった(コロナ禍という要因もあるが、既に反対意見の多かった)年金法改革を2期目最優先の重要目標として上程したのだが、全労組共闘のゼネストと全国数百万人の反対デモで... というのが2023年春のフランスの現実。この小説でも同様にこのCO2個人排出量制限の法案は、来るべき大反対運動にひるむことなく大統領は断行するべきだという強気の姿勢なのだ。マクロンがたとえこの年金改革が”不人気”であってもフランスの未来に絶対不可欠なのであると繰り返しているように、この小説の大統領もこの法案は地球の未来に絶対不可欠なのだという確信があるのだ。
 国民と対決姿勢を取る大統領、それは民主主義の否定である。しかしそういうナイーヴな政治的デオントロジーだけ書かれた小説ではない。
 ガキの時分からダチだったユゴーは今で言うところのアスペルガー症候群の傾向があり、人とのコミュニケーションがやや難しいという特徴があったが、稀な知能の持ち主で世界的な遺伝学研究者となり、米大手製薬会社数社から桁外れの報酬を条件に独占研究契約をオファーされている。それを断りユゴーはガキの時分からコミュニケーション術に長じ商才もあった「私」にパートナーシップを依頼し、二人でスタートアップ企業を設立し、ユゴーの最先端バイオテク研究をタテに世界の巨大資本のバックアップを得て、巨万の富を気づいていく。その研究の成功の果てに約束されているのは人類の寿命の飛躍的延長である。だがその実用化するのはフランスおよび欧州のレベルでは不可能と踏んだ「私」は、米国のいわゆる”GAFAM"と手を組む。この世界支配力を有してしまっているビッグ・テクGAFAMの水面化工作力(インターネット上の世界的世論操作力など)にしてみれば、フランスでその息のかかった大統領を誕生させることなどいともたやすいことなのである....。
 「私」は最先端バイオテクノロジーで急激に世界的成功をおさめた企業トップとしてマスコミでの露出度も高くその優れたコミュニケーション術も手伝ってフランスでの大衆的イメージはすこぶる良く、その研究者サイドからの(つまり政治家のゴタクではない)環境問題提言や緊急な温暖化対策案は支持を拡げ、意図せずとも「次期大統領」という声が自然発生的に...。こうしてポッと出のゴールデンボーイはなるべくしてエリゼ宮の玉座につく。
 しかし就いてみるや、大統領の激務とは想像を絶するものがあり、当選後のごく短い”恩寵の時”に続いてやってくる国民の幻滅感/一挙に噴出する不満、内閣/政府という自分の手足としての”政治プロ”たちの頼りなさ....。ここ数代の大統領たちと同じ轍を踏んでしまう。
 そしてその大統領公約の骨子たる「個人CO2排出量制限法案」が浴びることになる急激な不人気という逆風に加えて、大なり小なり身から出た錆のような(まだ暴露されていないが遅からず暴露されるであろう)スキャンダルの種に怯え、及び腰になってしまうのである。まず睡眠時間などあるかないかわからないような激務とストレスに対抗するためにコカインを常習するようになる。まあ”よくある話”なのだが、フランスでは公になれば大統領のクビは飛ぶ。”サプライヤー”は大統領筆頭女性顧問マリオンの助手にして彼女の同性愛パートナーであり、その供給ルートはフランス税関の麻薬摘発差し押さえ倉庫からの”極上品”である。その娘が検問にひっかかり、取り調べにかなりの量の白い粉を”自分用”とシラを切っているが、時間が経てばどうなることやら... 。そして大統領のコカイン疑惑はすでに人の口に上りつつあった。
 次なる身から出た錆はジハード・テロ絡みである。ISの勢いがあった頃フランスからシリアに渡ったある女性ジハード(幹部)闘士はクルド人部隊に捕らえられ収容キャンプに投獄されたが、脱走に成功し、幾度も身分証明書と面相を変えてフランスに最近帰国したことが内務省機関によって探知された。目的は難病手術であり、変名でフランスの病院に入院し、今日手術を受けたところだ、と。手術は成功し現在麻酔から醒めるのを待っている。内務大臣は緊急に大統領に面会し、この最高度の危険人物の処遇について指示を仰ぐ。逮捕してフランスの監獄に入れても、獄中で囚人たちにジハード洗脳し、新たなテロを準備できる能力は十分にある。内務大臣は大統領にこの国家にとって極度の脅威となっている女性を”消す”決断を迫るのである。手術後の昏睡中に(検死にかけても検出不能な)ある薬品を点滴に混入すればそれは可能だ、と。現在麻酔から醒める前に決断を、と。大統領はこれにゴーサインを出す。国家による一個人の暗殺を大統領命令で。だが、事情を全く知らされていない病院と医師側はこれは手術の成功からは説明のつかない”変死”であると問題視し、そこから死んだ女性の正体が突き止められ、メディアとイスラミスト組織側は....。
 身から出た錆その3は、大統領夫人ヴァネッサとの複雑な関係に起因する。世界有数の頭脳であるユゴーとスタートアップを始める前、「私」はうだつの上がらないコミュニケーションエージェントであったが、ヴァネッサは一流雑誌の(フェミニスト系)トップジャーナリストとして活躍する花形だった。収入も知名度もまるで違う。このパワーバランスにおいて、「私」をいくらか見下すことで二人の愛情関係がうまく機能していたようなところがある。ところが、ユゴーとの事業が驚異的な成功を収め、それまでとは逆にヴァネッサと桁違いの収入と財産を手に入れるようになって、パワーバランスは崩れていき、お互いに居心地が悪くなる(+後述の”子供”の問題)。二人は結婚の際に深い考えもなしに「夫婦財産分与契約」(財産分与50/50)に署名していたが、「私」は今や離婚をも視野に入れた関係になったとき、あまりにも違う財産の違いゆえヴァネッサに半分持って行かれることに承服できない思いが持ち上がってきた。そこで、人を介して財産の相当な部分を抜き出し、某国某島オフショア口座に...。これが後日、「フランス大統領の隠し口座」という超極秘情報がロシアの機関に探知され、ロシア大統領プーチンが直々に「私」に二人だけで話をしたいので極秘でクレムリン宮殿まで来いと呼び出すことになる。ここがこの小説の白眉。プーチンがフランス大統領の首とフランス国の国際的信用を守りたければ、俺の言う通りにしろ、と「私」を直接恫喝するのである...。フランスはこれによってロシアの属国になりかけるのですよ。
 もうひとつ、妻ヴァネッサとの複雑な関係は、世のあまたの夫婦と同じように、この二人も何度も関係の修復を試みようとするのだが、その最後の願いのように「子供」という絆を希求するのである。しかし事故的に不妊の体になってしまったヴァネッサは、代理母(藍紙提供も)を使ってもいいから「私」の子を作り、「私」が父となりヴァネッサが母となり育てよう、と合意していたのである。ちなみにフランスでは"まだ"「代理妻出産」は非合法。そして大統領のプライベート携帯電話に地方の産院から「無事女児誕生」の知らせが。しかし、この時点でヴァネッサはひるんでしまい、この子を育てることはできない→離婚へ、という選択を「私」に告げる。出産後乳児を引き取るという代理母との契約は履行できなくなってしまう。「シングルファザー大統領」となるのか? ー 覆面公用車をつかって”代理妻”の住むフランス深部の農場近くまで行き、運転手に知られぬように車を降りてひとりで徒歩で農家に”娘”と初対面に行く大統領、このエピソードはなかなか美しい。

 2023年春のフランスのように、前代未聞の街頭抗議運動が続く「私」のフランス。そして労組・野党・市民団体らが最大の抗議行動日と予告している日が近づいてくる。数百万人のデモ隊が街路を埋め尽くし、一部過激派は市街戦も辞さぬと準備している。大統領にこの時点での「廃案」はないのか?と念を押す閣僚たち。マクロンのようにこの「私」は法成立あるのみ、と強硬姿勢を崩さない。なぜなら、この法律は人類の未来(ユゴーの開発する新薬によって寿命が飛躍的に延びる人類の未来)を救うために必要不可欠なのだから。なぜなら、マクロンにとってこの年金改革はフランスの年金制度崩壊を阻止するために必要不可欠なのだから。なにかとヴァーチャルとリアルがシンクロする小説である。
 そしてまた内務大臣が緊急の重大情報として、一部過激派が治安維持機動隊に対して”実弾攻撃”を用意している、と。内務大臣は大統領に問う:デモ隊が機動隊に実弾攻撃をかけてきた場合、機動隊は報復発砲しても良いか?大統領は実弾発泡を許可するか? ー 大統領は苦渋の末、許可を出すのである。しかして、その反政府大行動日はやってきて、流血の事態は避けられず起こってしまうのだが、その弾丸は....。

 もうダントツのベストセラーになる理由がよ〜くわかりますよ。エリゼ宮の玉座についたがゆえに、いかなる有能優秀な人物であれ、大統領は壊れてしまう、というフィクション。この人物は強靭な欲・野心の持ち主ではない。誰がやっても大統領はこのように壊されていくだろう。大統領は未来を約束することなどできないということを誰もが知っているから。そもそも未来とはより良いものでは絶対にあり得ない。未来はより悪くしかなりようがない。私たちが地球の近未来を考えただけで、その姿はわかってしまう。毎夏毎冬の異常な寒暖、異常災害、大洪水大旱魃...。若い世代、子供たちはより悪い未来しか約束されていない。この絶望感を抱いて投票所に行けますか? ー 「寿命が長くなる」という朗報を持って大統領になった男、その朗報を現実化する前に人々から「果たして長生きすることは良いことなのか」と否定されてしまう話と読んだ。朗報ばかり告げるのはポピュリズム、悪報ばかり告げるのもポピュリズム。エリゼ宮の内側では誰もそんなこと考えないのだね、と教えてくれる一冊。超一級のエンターテインメントですから、手軽に読んでみてください。

Marc Dugain "Tsunami"
Albin Michel刊 2023年3月31日 260ページ 21,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)3月29日国営ラジオFrance Inter レティシア・ガイエのインタヴューで本書『津波』について語るマルク・デュガン。現実との類似性について予言的だがいつ執筆したのか、という質問に「1年前」に書いたと答えている。見えていた人なのですね。

2023年4月19日水曜日

シャンソン・フランセーズの現在

Albin de la Simone "Les cent prochaines années"
アルバン・ド・ラ・シモーヌ『この先100年』


1970年生れの52歳。一種の遅れてきた青年ではあるが、2003年のファースト以来これが7枚目のアルバムだそう。ジャズ・ピアニストとしてデビューしてから、ワールド(サリフ・ケイタ、アンジェリック・キジョ...)、90年代仏ポップ(-M-、マチュー・ボガート、アルチュール・H...)のピアニスト/アレンジャーとしての長い下積み期間がある。その頃イニアテュスの自宅パーティーで出会ったような記憶があるが、定かではない。いずれにせよ、”業界人”だった頃の私の記憶では、スタジオの人/縁の下の苦労人のような印象がある。仏ウィキペディアの記述ではソロ・アーチストとしての初コンサートが日本(2003年、マチュー・ボガートツアーのオープニングアクト)ということになっている。その後もこの人日本に縁があるらしく、自分名義のコンサートだけでなくバビックスやバスティアン・ラルマンのプロジェクト Les Siestes Acoustiquesと共になど、かなりの回数日本の土を踏んでいる。もう根強いファンたちがついているのでしょう。
 フランスではシンガー・ソングライターとしてヴィクトワール賞に何度かノミネートされるほど高く評価されている一方、職人肌のピアニスト/編曲家/プロデューサーとして90〜00年代のシーンの立役者たち(-M-、ジャンヌ・シェラル、ミオセック、ヴァンサン・ドレルム、オリヴィエ・リヴォー”ヌーヴェル・ヴァーグ”、ラファエル...)の協力者として確固たる地位を築いてきたが、2020年にカルラ・ブルーニ(→写真)のアルバム"Carla Bruni" をプロデュースするという....(嘆息)... これで少なくとも数千人のフォロワーを失ったのではないかと推測する。それのせいかどうかは明らかではないが、2021年、コロナ禍外出禁止令の年、詩的インスピレーションが枯渇してしまい、秋にリリース予定されていた新アルバムは、なんと歌詞なしのインストルメンタルアルバム、題して”Happy End"を発表することなる。
 2年後、このアルバム『この先100年』でアルバン・ド・ラ・シモーヌが”歌への帰還”を果たしたというわけである。この帰還はテレラマ、レ・ザンロキュティーブル、ル・モンド、ラジオFIPなどからおおいに祝福されていて、(ヴァリエテでない硬派の)シャンソン・フランセーズ界の2023年春の重要作品となっている。このシンガーソングライターはアラン・スーション、マクシム・ル・フォレスティエの真正な後継者であり、両先達にの流儀でその優れた感性が捉えるのはその”時”のアンビエントとしてあるメランコリアである、と私は思っている。2023年春のこの時期にアンビエントとしてわれわれにふさぎのタネとなっているのは、不安である。より端的には未来に対する不安である。地球規模での伝染病流行があり、ヨーロッパで戦争が始まり、温暖化が起因している巨大な自然災害や手のつけられない大火災が続発し、私たちは地球の明日に関して茫茫たる不安を抱いている。子供たち、孫たちはどんな地球に生きることになるのか。そんな中で数少ない希望のタネのひとつが、人間寿命の延びである。私たちは過去の人たちよりも長生きできる。人生100年。これは朗報である。ところが、この朗報をあたかも政治的社会的大問題のように、人間の寿命が延びれば年金制度が崩壊してしまうと脅迫する大統領と政府がフランスにはある。私たちの朗報が悪夢であると言うがごとく。寿命が延びた分だけもっと長く働けと言っているのだ。冗談じゃない。私たちがもっと長く人生を享受できるという希望を、彼らは挫き、延びた人生を労働奉仕に提供しろと言う。国民の6割が反対し、2023年1月から労組がストライキで国の機能をマヒさせるまで抵抗し、十回を越える統一行動日には毎回全国で何百万人という市民が街頭に出て新年金法廃案を訴えている。2023年春フランスの空気は緊張している。未来はこの上なく不透明である。このアンビエントにアルバン・ド・ラ・シモーヌのアルバムは呼応しているのだ。
Je suis père et fils et je fus mari
僕は父であり息子でもある
Années 70 avant Jésus-Christ
紀元前70年代には夫でもあった
Je reviens de loin à travers le temps
僕は時を越えてはるか昔から戻ってきた
J'ai fait le chemin à dos d'éléphant
象の背に乗って旅してきた
Mon cheveu farine et ma peau me ment
僕の髪は白い粉、僕の肌は偽物
C'est une patine, c'est un ornement
それは古く見せるためのただの飾りもの
J'ai bien aimé hier, bien aimé avant
昔は好きだった、かつては本当に好きだった
Mais j'ignore comment faire sans toi maintenant
だけど今、きみなしではどうしていいのかわからない
Qu'est-ce que tu fais
これから先100年
Les cent prochaines années?
きみは何をする?
Je te verrais bien
僕にはわかるかも
Qu'est-ce que tu fais
これから先100年
Les cent prochaines années?
きみは何をする?
Je te verrais bien
僕にはわかるかも
Les cent prochaines années
これから先100年
Et après on voit
その後のことはまた考えよう
J'ai lu dans nos mains l'avenir qui brille
僕らの手相には輝く未来が見えていた
De beaux lendemains, roulement à billes
美しい明日、よく回る車輪
Je tiens la calèche qu'il vente ou qu'il pleuve
風が吹こうが雨が降ろうが僕は馬車を走らせる
Une rose fraîche entre mes dents neuves
僕の初々しい歯で鮮やかなバラの花を挟んで
Plongeon saut de l'ange du haut d'un rocher
絶壁のてっぺんから天使の飛び込み
Dans le ciel orange, je t'ai vue m'aimer
オレンジ色の空で、きみが僕を愛してるのを見たんだ
Qu'est-ce que tu fais
これから先100年
Les cent prochaines années?
きみは何をする?
Je te verrais bien
僕にはわかるかも
Qu'est-ce que tu fais
これから先100年
Les cent prochaines années?
きみは何をする?
Je te verrais bien
僕にはわかるかも
Les cent prochaines années
これから先100年
Et après on voit
その後のことはまた考えよう

私たちひとりひとりの個体の中で、時間は「紀元前70年代」から流れているかもしれないし、父であったり子であったり夫であったりを経てきている。この50男が永劫かもしれない時間の流れの一部を100年未来のパースペクティヴで見ようとする時にかかってしまう軽い霞(かすみ)の歌なのだ。恋人との愛で未来は見えるのか。これは反語的メランコリアであり、たぶん私たちひとりひとりには軽い霞がかかってしか見えないものなのだ。この美しいアルペジオ旋律の哀愁は、避けられない不安を愛撫するようなヴォーカルに調和する。おそらく2023年春、最も美しいシャンソン。
 3曲めに「未来(Avenir)」という歌。本題をずばり、の歌なのだ。

Aujourd'hui déjà
今日ではもう
On ne parle pas trop
人は多くは語らない
On
évoque
ほのめかしはする
On tourne autour du pot
そのまわりをあてこするが
On
évite
避けて通る
On n'a pas les mots

言い当てる言葉がない

Aujourd'hui déjà
今日でもなお
On se joue du violon
芝居がかった振りをして
On dit oui
ノンと言いたくないために
Pour ne pas dire non
ウィと言い
On sourit
微笑むけれど
Mais l'
œil en dit long
目は違う方を向いている

Sera comment l'avenir
未来ってどんなもの?
Quoi sera mieux
何が良くなり
Quoi sera pire
何が悪くなる?
Sera comment l'avenir
私たちを惹きつける
Qui nous attire
未来ってどんなもの?

Aujourd'hui déjà
今日ではもう
On ne touche pas
それは触れてはならないもの
Ça casse
それは壊れる
On prend pas dans les bras
腕の中に抱きとめたりしない
On embrasse
接吻してもいいが
Les mains derri
ère le dos
両手は後ろ手に組んで

Aujourd'hui déjà
今日ではもう
On ne voit ni loin ni haut
それは高くにあったり遠くにあったりするものじゃない
Ni mal ni bien ni beau
悪くも良くもきれいにも見えるものじゃない
Alors on tend les mains
だから人は手を差し伸べ
On agite un drapeau
旗を振ったりする

Sera comment l'avenir
未来ってどんなもの?
Quoi sera mieux
何が良くなり
Quoi sera pire
何が悪くなる?
Sera comment l'avenir
未来ってどんなもの?
Qui saura dire
未来がどんなものか
Sera comment l'avenir
誰が言えるの?
Quoi sera mieux
何が良くなり
Quoi sera pire
何が悪くなる?
Sera comment l'avenir
私たちを惹きつける
Qui nous attire
未来ってどんなもの?

Aujourd'hui déjà
もう今日になったら
Aujourd'hui je sais
今日なら僕は知っている
Je pr
édis
予言しよう
Rien n'est impossible
何ごとでも起こりうる
Je le sais
僕は知ってるんだ
M
ême le passé
過去ですら
Est impr
évisible
予測不可能なものなんだ


危機感の希薄な戯れ歌と思われるかもしれない。深刻なように聞こえないからと言って、深刻なことを歌っていないわけでない。私たちは今(Aujourd'hui déjà)未来を語ろうとしても語れないのだ。ライトなポップソングのように歌ってはいるが、しれっとシリアスなメッセージを含んでいる。これはアラン・スーションの得意技だと思うが、ド・ラ・シモーヌはまさにその芸の後継者と言えよう。結論部を見ましたか?「過去ですら予測不可能なものなのだ Même le passé est imprévisible」ー こういう名フレーズ、そう簡単に見つかりませんよ。

さてジャケ写になっている画像(←)は幼い頃のアルバン・ド・ラ・シモーヌが母親に抱き抱えられている図。この極私的な至福の瞬間を、大人になったアルバンは憶えていない。母親にこれはおまえだと言われなければわからなかった。この極私的な写真の情景をド・ラ・シモーヌは「ちっぽけなちっぽけな僕 Petit petit moi」(⒉曲目)という極上のシャンソンに仕上げた。

La photo que je vois
僕が見ているこの写真
Cet enfant dans tes bras
あなたの腕の中のこの子
Je ne le connais pas
僕はわからなかったが
Tu me dis que c'est moi
あなたはそれが僕だと言う

Je te reconnais toi
僕はこれがあなただというのはわかる
Ta beaut
é lumineuse
あなたの眩い美しさ
Hardie et valeureuse
大胆で勇ましい
Heureuse je ne sais pas
幸せかどうかは僕にはわからない

Il a bien de la chance
このちっぽけなちっぽけな僕は
Ce petit petit moi
ほんとうに幸運だね
Qui savoure en silence
あなたの腕の中の心地よい瞬間を
Un moment dans tes bras
静かに味わっている
Qu'un jour il oubliera
この瞬間だっていつかこの子は忘れてしまう

Au loin dans la nature
遠くの野原では
En libert
é l'aînée
自由そのものの姉さんが
Galope
à belle allure
ポニーにまたがって
Sur le dos d'un poney
速足で駆けている

Et cet homme endormi
そしてあの眠っている男は
C'est un p
ère un mari
父親、夫、
Est-il d
éjà parti
彼はもう出て行ったのかな?
Ou encore un peu l
à ?
それとももう少しそこにいたのかな?

Il a bien de la chance
このちっぽけなちっぽけな僕は
Ce petit petit moi
ほんとうに幸運だね
Qui savoure en silence
あなたの腕の中の心地よい瞬間を
Un moment dans tes bras
静かに味わっている
Il a bien de la chance
このちっぽけなちっぽけな僕は
Ce petit petit moi
ほんとうに幸運だね
Qui savoure en silence
あなたの腕の中の心地よい瞬間を
Un moment dans tes bras
静かに味わっている
Qu'un jour il oubliera
この瞬間だっていつかこの子は忘れてしまう

この2分24秒の曲には、ものすごい物語が濃縮されているではないか。母と子の微笑ましいツーショットというだけのものとしてこの写真を見ていた者たちは驚愕する。母親が幸福だったのかどうかを僕は知らない、というくだり。"パパ”と呼ばれず「この男」と呼ばれる人物、この写真の頃にまだ一緒にいたのか、それとももう出て行ってしまったのかわからない、というくだり。言葉少ないのに、極私的で複雑なさまざまな物語がくっきりと立ち昇ってくる - これがシャンソン・フランセーズだと私は思うのですよ、お立ち会い。この極私的情景の現代シャンソン名人は間違いなくヴァンサン・ドレルムであるが、ド・ラ・シモーヌはドレルムほど饒舌でない分、違う味わいがある名人芸と言っておきましょう。

<<< トラックリスト >>>
1. Les cent prochaines années
2. Petit petit moi
3. Avenir
4. A jamais
5. Merveille
6. Pour être belle
7. J'embrasse plus
8. Pars
9. Ta mère et moi
10. Mireille 1972
11. Lui dire

Albin de la Simone "Les Cent Prochaines Années"
LP/CD/Digital Tôt Ou Tard BLV8003
フランスでのリリース:2023年3月3日

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)アルバン・ド・ラ・シモーヌ「この先100年」ラジオFIPスタジオライヴ

2023年4月16日日曜日

シャンソン・フランセーズの過去

Juliette "Chansons de là où l'👁 se pose"
ジュリエット『👁の止まったところから出た歌』


ジュリエット・ヌーレディンヌの5年ぶりの新作アルバム。ジュリエット一流のオールド・スクール、オールド・ファッションドのおシャンソンアルバムであり、古来よりシャンソン・フランセーズが持っていた3分のドラマ(悲劇、喜劇、悲喜劇)性に圧倒される。もはやこの人にしかできないシャンソン芸なのかもしれない。『目の止まったところから出た歌』というタイトルも多くを語ってしまっている。日常目にするものから発生してしまう悲喜劇がシャンソンになるのである。どれもがそういう歌ではないが、どれもが素晴らしいので、深々と肘掛け椅子に座って聞けばいいと思う。3曲め「階段(Escaliers)」をその代表として以下に歌詞訳する。ただオチの言葉である「階段のエスプリ L'espirit de l'escalier」というフランス語表現を前もって解説しておく必要があると思うので。「階段のエスプリ」の仏ウィキペディアの定義はこうである:
L’esprit de l’escalier (ou esprit d’escalier) est une expression française signifiant que l’on pense souvent à ce que l’on aurait pu et dû dire de plus juste, après avoir quitté ses interlocuteurs (lorsqu'on se retrouve au bas de l'escalier de leur demeure).
「階段のエスプリ」とはフランス語表現のひとつで、往々にして対話相手と別れたあとで(相手の住まいを出て階段の下に降りてしまった時点で)あのことを言っておけばよかったと思ってしまうことを意味する。

ではジュリエットの素晴らしい1曲「階段(Escaliers)」
すべての階段はローマに通ず

人生とはあらゆる種類の階段で成り立っているものだできているものだ
地下倉から屋根裏まで行くのに あのドアからこのドアに向かうのに
まっすぐな階段もあれば曲がった階段もある
何段も降りたあとでまた昇るのは戦いだ

階段は心臓の鼓動を高鳴らせる
3段抜かしで飛び昇る人みたいに
だから数時間だけのボヘミアンの恋人たちは
エレベーターなしの6階を隠れ家にしている
でも所帯生活には1階に戻ってくる
どの階にも階段がある

上から下へ、下から上へ
死刑台のてっぺんまで
あるいは表彰台の最高位まで
導いてくれる
すべての階段はローマに通ず

人生とは人の行き来する階段で成り立っているものだ
踊り場ではほぼ誰とでもすれ違う
これじゃ駅通路や旅籠屋のよう
コンシエルジュが王様の王国のよう

ゆっくり時間かけて進む者もいれば、転がり落ちる者もいる
口笛吹いて追い越して行く者もいれば、文句を言う者もいる
どんなに試練であろうが勇敢に昇っていく人たちを称えよう
降りてくる時にまた同じ人たちに出会うかもしれないから

時には荷物を上げるのを手伝ってもらわなければならないこともある
いつだって階段はみんなで分かち合うものだ

上から下へ、下から上へ
荷物が軽かろうか重かろうが
ぐずぐずしようが、突進しようが、スラロームしようが
すべての階段はローマに通ず

人生とは急で険しい階段で成り立っているものだ
踏むと虫喰いでギシギシ音がなり、割れてしまうこともある
確かな一歩で離陸したと思っても
着地する靴の下には何もなく、転げ落ちてしまう

 

断崖絶壁に張り付いた小径をひとり進む
肝試しの階段で人はひどい目に遭う
照明タイマーが切れた時にわれらを待っているのは
終わりのない転落、とてつもない悲鳴、それが運命

鉄でできた蛇、檻に入った鋼の怪物
いつでも大殺戮を準備している階段がある

下から上へ、上から下へ
ヨーヨーの巻輪のように
気分の変わりやすいわれらには
すべての階段はローマに通ず

人生とは階段で成り立っているが、そのあとは?
こんなことは未来永劫続くのか?
終末の日には、私も最後の階段の手すりから手を離し
出発しなければならないのか?

階段の最上の高みで私を待っているのは
恩情あふれる大主さまか?
あるいは目の眩む螺旋の最下の奥底で
火を掻き立てているサタンが待っているのか?

いやいや私はもう石棺のことを考えたりしない
あの世では階段も階もありはしない

上から下へ、下から上へ
虚無に至るまで、墓穴に至るまで
メトロノームが止まるまで
すべての階段はローマに通ず

このテーマに関して私はもっと言いたいことがあったんだ
でも私の至らないところで、最悪なことに
私には即座には良い考えというのが絶対に浮かばないの
これを称して「階段のエスプリ」と言うんだな


And Juliette is buying a stairway to heaven !

<<< トラックリスト >>>
1. La housse et la couette
2. Le Seigneur des mouches
3. Escaliers
4. La Perruque
5. Lames
6. La lueur dans l'oeil
7. Poivrons
8. Litanies du Diable
9. La Madone des clébards
10. Dans le marc de café
11. Deux Chevaux
12. Regarde bien, petit (Jacques Brel)

Juliette "Chansons de là où l'oeil se pose"
LP/CD/Digital Barclay/Universal 5500649
フランスでのリリース:2023年2月24日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)フランス国営テレビの音楽情報スポット Basique で新作をプロモーションするジュリエット

2023年4月11日火曜日

シャンソン・フランセーズの未来

Zaho de Sagazan "La Symphonie des Eclairs"
ザオ・ド・サガザン『稲妻交響曲』


2000年の3日前、1999年12月28日生れ、現在23歳。出身地はフランス最大の造船業の町サン・ナゼール(西海岸ロワール・アトランティック県)。現在も両親はサン・ナゼールに住んでいるが、ザオは同じロワール・アトランティック県の首邑ナントに住み、音楽活動の拠点としている。ナントと言えばバルバラゆかりの地、とピンと来る方もおられようが、バルバラ(とジャック・ブレル) がザオに与えた影響は多大なものがある。
 父親がその世界では高名な画家/彫刻家/ヴィジュアル・アーチスト/パフォーマーのオリヴィエ・ド・サガザンリンク閲覧注意)で、家の中や庭にかなりフリーキーな作品・試作品・蒐集品が陳列されていて、ザオが子供の頃は友だちが怖がって近付かなかったという。母親は教育者(日本で言うところの”特殊学級”の教師)だが、シャンソン・フランセーズの熱心な愛好者で、ザオのブレルとバルバラ (その他アズナヴール、モーリス・ファノンなど)偏愛はこの母親の影響らしい。五人姉妹(3人の姉とザオと双子の妹)。奇態な芸術の棲まう家で娘たちはそれぞれ自由勝手に育ったようだ。長い間家のサロンに放置されていたピアノの蓋を開けるや、少女ザオは独習だがそれに憑かれたように弾き始めたら止まらなくなり、やがて求める音は電子化していく。最もハマった音楽は60/70年代クラウトロックと80年代シンセウェイヴ。ベルリンをあこがれの町と公言しているが、こういう音楽的背景からなのかもしれない。

 15歳でインスタグラムに動画投稿開始。最初は曲ではなく友だちウケを狙った数秒から数十秒のキメ台詞、サビ、リフレインのショート動画だったそう。この基本スタイルが後年のシンガーソングライターとしてザオの土台となったようで、彼女の場合、ひとつの言葉やひとつのフレーズを見つけると、それを繰り返し使うことによって曲を膨らませていく。「私はたったひとつの言葉を40分でも50分でも繰り返すことができて、繰り返すことでその言葉の位相が微妙に変化していくことで曲ができていく」と言っている。デビューアルバム『稲妻交響曲』にも、言葉やフレーズの螺旋階段的繰り返しのパターンを使った曲が多くある。たとえばこの2曲めの「吸煙(Aspiration)」という歌。

Quelques aspirations 何度か吸い込むとEt la spirale commence 渦巻が始まるPour de l'inspiration 霊感を呼ぶためMadame caresse la démence マダムは狂気を愛撫するMais jamais ne s'arrête それはやめられないEt jamais ne s'arrêtera それは決してやめられないのよCette voix dans la tête 頭の中のこの声がQui toujours la ramènera 彼女をまた誘いこむ
À sa jolie cigarette 麗しいシガレットへSa jolie cigarette 麗しいシガレットへC'est sa dernière cigarette これが彼女の頭をかき回していたDe celles qui font tourner la tête 最後のシガレットよ
Quelques aspirations 何度か吸い込むとEt la spirale recommence 渦巻がまた始まるPour de l'inspiration 霊感を呼ぶためJe deviens bête, tout devient dense 私は狂い、すべては濃厚になるMais jamais ne s'arrête それは止められないEt jamais ne s'arrêtera それは決して止められないのよCette voix dans la tête 頭の中のこの声がQui toujours me ramènera 私をまた誘い込む
À ma jolie cigarette 私の麗しいシガレットにMa jolie cigarette 私の麗しいシガレットC'est ma dernière cigarette 私の頭をかき回すDe celles qui font tourner ma tête ごれが私の最後のシガレットよ
Tourner la tête 頭をかき回すTourner la tête 頭をかき回すTourner la tête 頭をかき回すTourner ma tête 私の頭をかき回す
Dernière cigarette 最後のシガレットDernière cigarette 最後のシガレットDernière cigarette 最後のシガレットCe sera ma dernière cigarette これが私の最後のシガレット
Je veux une dernière cigarette 最後にもう一本だけほしいシガレットDernière cigarette 最後のシガレットDernière cigarette 最後のシガレットCe sera ma dernière cigarette ごれが私の最後のシガレット
Je veux une dernière cigarette 最後にもう一本だけほしいシガレット
(くりかえし5回)

この曲を私は4月2日わが町のセーヌ・ミュージカル”フェスティヴァル・コリュス”のステージで見た(聴いた)のだけど、”derniere cigarette"と"tourner la tête"(韻踏んでますわな)の螺旋階段式の繰り返しはほぼ呪術トランスのレベルまで上昇していく。繰り返すたびに情動の変化がわかってくる。アズナヴール「イザベル」みたいなものか(←わ、例がよくないな)。この歌でニコチン(あるいは別のもののメタファー)依存症の禁断症状の表現と直接的に聞いてしまう人はいるかもしれないけれど、隠された別の情動のクレッシェンドでなにかギュっと心を掴まれるようなセンセーション。ザオの表現のすごさのひとつはこれだなと思った。
 ステージで見たらすごく小柄な人なのだが、その顔の持つなにかかな、すごく存在感あるし、ステージ狭しとアクションを展開するのは、レトロっぽい左岸派キャバレーを思わせる。エレクトロニクスの猛者のような二人の男(ピエール・シェギヨームとアレクシ・ドロン、このアルバムの共同プロデューサーでもある)が機械と共にステージ上にいるのだけど、音楽監督はワタシと言わんばかりのザオの目配りに驚く。で、この顔は多くを語っている。23歳の若さで、熟年を越したシャーロット・ランプリングと同じ目つきをして、シャーロット・ランプリングと同じ低く艶やかな響きの声をしている(そう言えば、シャーロット・ランプリングもこれまで3枚の”歌”アルバムを発表しているのだが、ザオに関連して参照できるしろものではない)。表現的存在感(大物感)はこの大女優と通じるものがある。(↓アルバム10曲め「悲しみ(Tristesse)」のクリップはこの人の女優的”顔”表現の良い例)


 私がザオの歌を初めてラジオFIPで耳にしたのは去年(2022年)の秋のこと、シンセテクノに乗ったマルレーネ・ディートリッヒのような印象だった。その時の歌は"Suffisamment"(「十分に」という意味、このアルバムでは11曲め)で、この歌も上で紹介した"Aspiration"と同じように、同じフレーズの繰り返しで展開される。
Je t'aime passionnément わたしは激烈にあなたを愛している
Tu m'aimes suffiamment あなたはわたしが離れずにいるに足る分だけ
Pour que je reste わたしを愛している

この3行で”相思相愛”の激しい温度差を表現したのである。この3行だけでどれほど微妙に悲しいシャンソン表現が可能なのか。以下歌詞全編訳。

Je t'aime
わたしはあなたを死ぬほど愛しているけど
Passionn
ément, tu m'aimes
あなたはわたしがとどまっていればいいという程度にしか
Suffisamment, pour que je reste
愛していない
Mais pourquoi je reste?
だったらなぜわたしはとどまっているの?
S
ûrement, parce que je t'aime
だってわたしはあなたを死ぬほど愛しているから
Passionn
ément, tu m'aimes
でもあなたはわたしがとどまっていればいいという程度にしか
Suffisamment, pour que je reste
愛していない
Mais pourquoi je reste?
だったらなぜわたしはとどまっているの?
L'amour est tel
恋とはそんなふうに
Que l'on pardonne tout
すべてを許すものだし
Personne de nous n'est fou
二人のどちらもバカじゃない
Si ce n'est d'amour
もしもそれが恋じゃなかったら
On entend, on voit
それはわかるし、それは見えるし
On ne veut pas
誰も望まないわ
Non, je ne suis pas aveugle
わたしはめくらじゃないけれど
Je n'veux juste pas voir
見たくないだけなのよ
Laissez-moi y croire
わたしを信じるままにしておいて
Laissez-moi pleurer
わたしの涙を流れるままにしておいて
Tout
ça parce que je t'aime
これもみんなわたしがあなたを死ぬほど愛しているからなの
Passionn
ément, tu m'aimes
でもあなたはわたしがとどまっていればいいという程度にしか
Suffisamment, pour que je reste
愛していない
Mais pourquoi je reste?
だったらなぜわたしはとどまっているの?
Mais parce que, moi, je t'aime
だってわたしは、わたしはあなたを死ぬほど愛しているの
Passionn
ément, tu m'aimes
でもあなたはわたしがとどまっていればいいという程度にしか
Suffisamment, pour que je reste
愛していない
Pourquoi je reste?
なぜわたしはとどまっているの?
Un jour peut-
être tu m'aimeras
いつの日かたぶんあなたもわたしのように
À la folie, comme je t'aime, toi
わたしを狂おしいまでに愛してくれるようになるかもしれない
Un jour peut-
être tu m'aimeras
いつの日かたぶんわたしを愛してくれるかもしれない
Un jour
いつの日か
Peut-
être
たぶん
Mais pour l'instant, moi, je t'aime
でも今のところ、わたしはあなたを死ぬほど愛しているけど
Passionn
ément, et toi, tu m'aimes
あなたは、あなたは
Suffisamment, pour que je reste
わたしがとどまっていればいいという程度にしか愛していない
Alors pour toi, je reste
だからあなたのために、わたしはとどまっている



幸福な愛などない。これはシャンソン・フランセーズだと私は思うのである。フェアーな恋愛などない(少なくとも私は知らない)。だからこれはシャンソンになるのである。愛の度合いの違いにどうしていいのかわからない時、この歌は薄い薄い希望にすがって”いつの日か”と想像してみる。私はこの歌を最初に聴いた時から、これはシャンソンの”古典”だと思った。そのシャンソンの古典性を感じさせる曲がこのほかにもアルバムには数曲ある。私はこのシンガーソングライターは、すごいシャンソンをたくさん生み出すだろうと確信している。
 エディー・ド・プレット、(3枚目”Multitude"以降の)ストロマエ、そしてザオ・ド・サガザン、この3人は同じ発語発音術(ディクション)を用いてフランス語歌詞を転がし、歌を劇的な情緒表現に 昇華できる、バルバラ/ブレル直系の後継者たちであり、シャンソン・フランセーズの未来なのだ、と言ってしまおう。

<<< トラックリスト >>>
1. La fontaine de sang
2. Aspiration
3. Les Dormantes
4. La symphonie des éclairs
5. Les garçons
6. Langage
7. Dis-moi que tu m'aimes
8. Mon inconnu
9. Je rêve
10. Tristesse
11. Suffisamment
12. Mon corps
13. Ne te regarde pas

Zaho de Sagazan "La Symphonie des Eclairs"
LP/CD/Digital Disparate/Virgin/Universal
フランスでのリリース:2023年3月31日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"Les Dormantes"オフィシャルクリップ


(↓)テレラマ誌3月31日号の表紙を飾ったザオ・ド・サガザン、同誌シャンソンジャーナリスト、オディル・ド・プラによるインタヴュー動画、題して”Dès que j'ai un crush, j'écris une chanson = (恋の)衝撃を受けるやいなや私は歌を書く”

2023年4月8日土曜日

Les Malheurs de Sohee

"About Kim Sohee"
다음 소희


2022年韓国映画
監督:チョン・ジュリ(July Jung)
主演:キム・シウン(Kim Si-eun)、ペ・ドゥナ(Bae Doo-na)
フランスでの公開:2023年4月5日


冒頭シーンが強烈に印象的。少女がひとりダンス練習場の大鏡の前で激しいK-POP風コレグラフィーを練習していて、それをスマホで撮影している。これが最後のスピンのところで、うまく行かず転んでしまう。難しい。あとでわかるのだが、この振り付けは”女子K-POP”ではなく” 男子K-POP”の振りなのだそう。何度やっても最後に転んでしまう。これをテレラマ4月5日号の批評記事では、”日本のことわざの「七転び八起き」のようだ”なんて気の利いたことを書いている。
 この死ぬほどダンス大好き少女の名はキム・ソヒ(演キム・シウン、演技もダンスも素晴らしい!)、職業高校の最終学年で、最終課題の企業研修が残っている。K-POPのダンサーとなって華やかな未来を夢見ていたかもしれないし、ダンス仲間からはその道も十分に可能と思われていたソヒではあるが、世の圧力は「フツーに就職すること」を半ば強制的に選択させる。おお、この慎ましい家庭に育った娘が通らなければならない「職業への道」は私たちは何十年も前から見てきた同じ道であるが、夢を捨てよと迫るその道は以前よりどんどん悪くなっているし、特に2000年以降(超リベラル資本主義、非正規使い捨て、バーンアウト、過労死...)は... 。高校が対外的な第一の評価基準である「就職内定率」を上げるために、各企業にへこへこ頭を下げて取ってきた「企業研修」先へ、最終学年生を送り込む。就職担当教師は絶対に途中でやめるな、途中でやめたら次から研修を取ってくれなくなる、学校に迷惑をかけるな、俺の顔に泥を塗るな、という恫喝的プレッシャーをかける。
 「迷惑」と「恥」を避けよ、という呪縛は、アキ・シマザキ小説の重要なテーマとなっている日本的パブリック・プレッシャー環境であるが、この映画で見えてくる韓国の精神風土も共通したものがある。教師がソヒに見つけてきた企業研修は、教師が自慢げに韓国トップのテレコム会社の傘下、と紹介するが、下請けのクレーム処理を専門とする電話オペレーターセンター。仕事はテレコム会社のスマホやボックスの契約を解約したいという消費者の電話を受け取り、さまざまな理由や条件を捲し立てて解約の心変わりを誘導し、新条件での再契約に持ち込むというもの。オープンスペースに狭くパーテーションで仕切られた数十のデスクに(全員女性)電話応対オペレーターが座り、ひっきりなしにかかってくる解約クレーマーたちの電話に受け答えしている。解約希望を取り消させてナンボの仕事。その解約取り消し達成件数でオペレーターたちの評価が決まり、”達成目標”に至らなければペナルティーを喰らう。電話の向こうはクレーマーたちであり、人格そのものまで否定される暴言を吐かれるのはしょっちゅうのこと。タフな精神力を必要とされるが、キレて当たり前の状況であり、バーンアウト、心身障害で消えていく人たちも少なくない。
 そんな職場で「研修生」とは名ばかりの前線兵士となって傷ついていくソヒだった。同僚(とは名ばかりの”評価点”ライバルたち)も家族(父と母)もルームシェアする親友も、誰も傷つくソヒに感知しない。そんなソヒにもボーイフレンドはいて、かつてK-POPのボーイズバンドのコレグラフィーを一緒にマスターした若者、だが、彼も工場の研修生として虐められ、おたがい不規則な時間の労働が多くて会いたくてもすれ違いになったり。ネオリベラル資本主義の被害者はこの二人だけではなく、周りがすべてそうなのだが、新座の被害者にはそれに理解や同情をかけるのではなく「現実の社会とはこういうものだ」という世間様ロジックでさらに圧力をかける。映画はネオリベラル経済下の”労働”の隷属化現実のディテールをさまざまに曝け出し、ソヒが署名させられた同意書にある給与条件の二重性(正規採用者とは全く異なる「研修生」給与体系など)や、社内の不正醜聞への黙秘誓約書や、パワハラ、モラハラその他...。「そんなことこの世界ではフツーでしょ」と目をつぶることに慣れすぎてませんか、お立ち会い?
 傷つき、疲れ、度を越した悪意に満ち満ちた(電話)客の執拗な嫌がらせに逆上して、休職処分を受け、担当教師に「母校の恥」となじられ、会うはずだったボーイフレンドにも会えず、ソヒは真冬の貯水ダムに入水自殺する...。
 映画後半は、この事件の捜査を担当することになった女刑事ヨジン(演ペ・ドゥナ、驚きの素晴らしさ!)が、「たかが娘っ子ひとりの自殺案件ではないか」と略式処理を命じる(絵に描いたようにマッチョな)警察上層部を振り切って、事件の深いところにどんどん入り込んでいく。ソヒの自殺に関して社員に箝口令を敷くテレコム下請け会社に乗り込み、労基法無視のノルマ、二重三重の劣悪給与条件、パワハラなどの事実を知る。ソヒの高校へ行き、学校順位の決め手となる就職内定率のために生徒を恫喝していることを知る。その企業研修制度を監視する立場にある行政の労働監督署に行き、企業に不利益になる事実には目をつぶるとしゃあしゃあと証言する女性副署長に出会う。この社会はすべてがグルになって、奴隷のようにロボットのように働く人間たちが死ぬのを公然と認めている。これは「目標数字」の達成のためならば、何をしてもいい、人間が犠牲になってもかまわない、という世界が起こしている殺人犯罪である。ヨジンの怒りは、われわれの怒りであるが、その怒りもまた壁にぶつかってしまうのである....。
 悲しいのはソヒの父母がほぼソヒがどうなっているのか、何も知らず、生前会話も稀な乾燥した関係の家族だったということ。母親はソヒがダンス好きだったことなど全く知らなかった。自分の夢を語ることがタブーだった家庭。死んでからおいおい泣く父と母なのだが、これ「親はなくても子は育つ」と放っておいてる現代ありがちな家族像の典型だと思う。ダンスで救われ、ダンスによって陽気で勝気な性向を培っていた娘を見ようとしなかっt親。私は憤りを感じましたね。 
 40歳過ぎの女刑事ヨジンは、稀にではあるがダンススタジオで汗を流すダンス好きであり、その事件の前に、おたがいに誰とは知らず、ダンススタジオでソヒとすれ違っていたことをあとで知る。ダンスが”命”だったかもしれない娘ソヒは、自殺の前に自分のスマホのデータをすべて消去してあったのだが、たったひとつ、ヴィデオ動画を残している。それは映画冒頭に出てくる難しいコレグラフィーで何度も失敗していたダンスの自撮りヴィデオで、ついに最後に転ばずに完成したダンスと、それを撮り終えて満面の笑顔で自撮りスマホの撮影ストップボタンを押すソヒの姿だった。

 世界の映画作家たちはもっともっとこのような映画を撮らなければだめだ。ウルトラリベラル資本主義は、韓国でも日本でもヨーロッパでも世界のどこでも人の命を何とも思わない”数字”の経済を推し進めている。”平均株価”が上がれば人々の幸せが来るというマジックを信じ込ませて。数字のマジックを売り物に大統領になったマクロンは、そのマネージメント理論を政治のあらゆる分野に適用して、「年金改革法」を国民の大反対に背を向けてゴリ押しした。労働者を2年長く働かせることが、どれほど多くの病人/死者を出すことか、なんとも思っていないのだ。人間の2年の時間を奪うことがどういうことなのか、理解しようともしないのだ。私はノンと言い続けますよ。その新リベラル資本主義の非人間性を暴くこのような映画に本当にありがとうと言いたい。女流監督チョン・ジュリの素晴らしい勇気を賞賛したい。この映画監督、これからも要注目。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)”About Kim Sohee"予告編


2023年4月4日火曜日

ここ、よそ、いたるところ(2015 - 2022)

Florence Aubenas "Ici et ailleurs"
フローランス・オブナ『こことよそ』


私はこの人はフランスで最も信頼できるジャーナリストだと思っている。そして最も”読ませる”ノンフィクションライターでもある、と。フローランス・オブナは当ブログでも代表的な著作である『ウィストレアム埠頭(Le Quai de Ouistreham)』(2010年)と『郵便局の不審者(L'Inconnu de la poste)』(2021年)を紹介しているので、未読の方はぜひ参照して、どんなにすごい書き手であるか確認してください。
 オブナはリベラシオン紙(1986-2006)、ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌(2006-2012)を経て2012年からはル・モンド紙の特派リポーターとなっている。本書『こことよそ (Ici et ailleurs)』は書き下ろしではなく、2015年から2022年までオブナがル・モンド紙に書いた記事をセレクトして、加筆編集して再録したものである。記事数にして47項あるが、2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まるや3月から現地に飛び、ル・モンド紙に前線からの記事を書き送っており、重要度/鮮度においてという判断か、ウクライナ記事に多くを割いていて18記事が再録されている。
 2015年から2022年までの8年間、と言われても、私たちの大雑把な記憶ではウクライナの戦争とコロナ禍が大きすぎて、その前の「フツーだった時代」が遠いノスタルジーになってしまった感がある。オブナの筆はそういうマクロな事件を直接追いかけるのではなく、その大きな現象に大きな影響を受けながら生きる周辺の市井の人々のありさまを描くものである。2015年と言えば、1月7日のシャルリー・エブド襲撃事件に始まり、11月13日のバタグラン劇場/スタッド・ド・フランス他の同時テロ事件という大惨事に象徴されるジハーディスト・テロの年だった。オブナの2015年記事セレクト4項は、最後にバタクランテロの直後のパリが描かれているものの、テロの戦場となるフランスとヨーロッパで何が変わってしまったのかという人々の証言を求めて、フランスに期待することをやめて小金がたまるとタイに飛んで享楽を謳歌する郊外の若者たちを追い、選挙のたびに棄権率を増大させているフランス深部の”忘れられ””棄てられ”感にうちひしがれる人々の声を聞き、ヨーロッパ連合に属しながら未曾有の経済危機に陥ったとされるギリシャでどうにかこうにかの”やりくり”で凌いでいる人々の日常を直視する...。このジャーナリストは例えば「ジハードテロ」「マクロン登場」「コロナ禍」「ウクライナの戦争」という大きな時代の流れの中に身を置きながらも、大きな流れを報道するのは他の同業者(ジャーナリスト)たちにまかせておいて、自分はその周辺の細部を凝視してクローズアップする。
 ジハード戦士としてシリアに旅立った若者たちを出した南仏カマルグ地方の町、ブリュッセルの地区住民の多くがテロリストたちと親しくしていたモレンベック街、パリの北郊外サルセルの住民たちとコミュニケーションを取ることが極端に難しい警察官たちの日常... オブナはそういう人たちの中へ数日間から数週間飛び込んで証言を記録していく。
 2017年、保守も左派も既成政党が総崩れとなり、極右とマクロンしか残らなかった大統領選挙、そのマネージメントの天才の若造大統領はその数字のマジックで富裕層を満足させるのだが、フランス全国津々浦々にいた毎日の生活に困っている人々は中央政府と与野党既成政党の政治家たちはもはや誰もわれわれの窮状に耳を貸さないと、地方の幹線道路のロータリーを占拠してジレ・ジョーヌ運動を開始した。政党、労組、学生の関与しない、一度もデモになど参加したことのない地方の困窮してやけくそになった民衆たちの蜂起であった。時は2018年12月、オブナはさまざななロータリーに赴き、声なき民が声を獲得した瞬間を捉えている。2019年、ジレ・ジョーヌたちの占拠が続くロータリーの先にある地方の巨大ハイパーマーケット、オブナは地方の人々の「誰もが集まる交流場所」が大衆的伝統と思われていた露天市から巨大ハイパーマーケットに変わったと看破し、人間味のない機械的な買物の場という旧いイメージを完全に脱して、ジレ・ジョーヌを含むさまざまな人間たちの触れ合う場となったこの空間を観察している。2020年、コロナ・パンデミック、外出禁止令、多くの死者を出しながら八方塞がりの老人施設、倒産する工場、オブナは現場にいる....。
 それに続いて、本書で最もページを割かれている2022年のウクライナの現地報告に移る前、2021年の項が最も異彩を放っている。2021年の6章は『野生の人生』と総題されて、二人の人物を追っている。5章(全部で40ページほど)をかけて詳細に事件(代々続く大牧場を継いだ聡明で野心も理想もある青年が、最初は現行の農業の市場システムに反抗して様々な改革案を同業者の寄り合いで提案し、オルタナティヴ農業組合運動の支部長ともなって人望も厚かったのだが、新生牛の頭数を農事管理所に登録し忘れるなどのミスで行政監督が入ったりペナルティーが課せられたりが続き、牧場は荒れ、本人も荒れるようになり、持ち牛全頭を没収されかねない事態にまで悪化し、取り調べにやってきた憲兵隊に抵抗し、射殺される)をなぞっていくのだが、ウーエルベックの小説『セロトニン』(2019年)にも描かれたように、近年自殺者数を急増させている農業経営者たちの窮状と『セロトニン』に現れるような農民たちの武装蜂起まで思い起こさせる渾身のレポートである。
 そしてその5章に先行してたった1章12ページの分量だが、フランス中央山塊の南側にあるセヴェンヌ山脈の高地の寒村に出没する”訪問者(La Visiteuse)"を追跡する「森の女の足跡を追って」と題する章、これが非常に興味深く、読み物としての魅力にも溢れていて、これだけで一冊の本を書いてくれたら、と願ってしまう。まずこのセヴェンヌ山脈の小さな村の成り立ちとして、68年5月革命の頃に都市部からドロップアウトしてきたヒッピーその他の若者たちが住み着いてコミューンのような生活をしていた経緯があり、それから多くは脱落するもののその後も住み着いて牧畜、農業、工芸などで生活を営んでいる人たちがいる。そういう人たちなので、家の戸締りなどせず、誰が入ってきてもウェルカムのような精神がまだ残っている土地柄なのだ。この”訪問者”とオブナが名を伏せてそう呼んでいる30代の女性も、母親がそのヒッピー世代のひとりであり、自由人でありこの土地から何度か離れるのだけれど、やはり気心知れた人々がいるここに戻ってきて3人の私生児を育てた。村の学校ではヒッピー世代の子供たちは概ね成績が良いばかりではなく、芸術面でその才を発揮したり、自分たちが率先して創作演劇を立ち上げたり...。その”訪問者”も学校では文学好きで感受性の強い子だった。森の中へ逃亡し、野生の生活を始めた時も、家からボードレールの詩集は持って行った、と。親友の自殺が引き金になったようだが、高山の森という過酷な環境に飛び込んだきり、帰ってこない。狩猟(川魚を手で掴む)もできず、植物が摂食可能かどうかの見分けもできない。そんな状態で森に入り、野宿して生き延びてきた。野生化もした。そして、時々人目を避けて人里に降りてきて、農園や人家に入り、食べ物や衣類を盗み、家具調度を壊したり乱雑に散らかしたり....。上に書いたような土地柄なので、理解する人たちも少なくなく、留守の家に「好きなもの取ってって」と置き手紙を残すところさえある。ただ、68年はもう遠い昔で、その後の入居者や近年どんどん増加している「ネオリュロー néoruraux」と呼ばれる新種の脱都市人種たちは、これを単純に"空き巣犯罪"としてしか捉えず、警察に被害届を出して告訴する。告訴件数が多くなり目をつぶっておけなくなった村は、村長の音頭で有志の住民会議を開く。この娘をよく知っている人たちばかり。フランソワ・トリュフォー映画『野生の少年』(1969年)のように、この娘を”文明の世界”に引き戻すことが肝要という意見に落ち着くのであるが、『野生の少年』は文明を知らずに育ったケースであるの対して、この”訪問者”は自ら文明を拒否して野生化したのである。言語を解し、盗む食べ物や衣類にも”好み”がある。ごく稀にフィーリングが合えば言葉を交わす人もいるし、お世話になったと農作業を手伝ったりすることもあるという。この不可視の「森の女」にオブナは魅了されたような、ヒューマンで生きる悲しみも喚起する素晴らしいルポルタージュなのだ、これが。(この12ページの部分だけでもいいから、日本語訳本が出てくれたら、と切に願うよ!)
 オブナはどこにでも行き、どこででも胸に迫るエピソードを見つけてくれる。ここでもよそでも、いたるところで。ジャーナリズムとはこういうものであって欲しい。これからもフローランス・オブナについていくぞ。

Florence Aubenas "Ici et ailleurs"
Editions de l'Olivier 刊 2023年2月 360ページ 21.50ユーロ

カストール爺の採点 : ★★★★☆

(↓)2023年2月17日、国営ラジオFrance Inter、レベッカ・マンゾーニ(この人も素晴らしいラジオジャーナリスト)の番組「トテミック」に出演し、新著『こことよそ』を語るフローランス・オブナ